不動明王の木像が、その右手に持つた
八百八町には、その日のうちに呼び賣の
「こいつは驚くでせう。誰が何んと言つたつて、
「待つてくれよ、八。俺は御存じの通り岡つ引だが、女房には十手捕繩を持たせた覺えはねエぜ。錢形平次が夫婦づれで――なんてえのは氣になるぜ」
平次は白い額を擧げて苦笑しました。
「物の
八五郎は一生懸命にまくし立てるのでした。事件の怪奇性を強調して、兎角出不精な親分の平次を動かさうと言ふのでせう。
「それほどよく分つてゐるなら、お前の手で不動樣を縛つて來るがいゝ。あわてて歸つて來て、どうしようてんだ」
平次はせめてこんな事件でも、八五郎の手柄にさしてやりたいと思ふ樣子です。
「ところが、そんなわけには行きませんよ。叶屋重三郎が慾に目が
八五郎の仕方
「面白さうだな。もう少し順序を立てて、
「筋が通り過ぎて困つてゐるんで」
「へエ?」
「叶屋重三郎は、谷中三崎町で、寺方と御家人を相手に
「そんなことは端折つてもいゝよ」
「だん/\慾の皮が突つ張つて、谷中の不動堂の堂守、海念坊に三十兩の金を貸したのが、三年經たないうちに利に利が積つて百兩になつた。海念坊は不動堂を
「フーム」
「そのうち、不動堂の本尊が運慶とか
「ひどいことをする野郎だな」
平次も何んとなくカツと血の湧くのを感じました。
「不動堂の堂守の海念坊は講中へ申し譯が立たないと言つて、翌る朝堂の中で首を
「身寄りはないのか」
「ありやしません。――たつた一人の
「變な廻り合せぢやないか」
「千代松は一番先に怪しいと思はれたが、こいつは女の子のやうな優しい男で、人間などを殺せさうもない――その上
「それからどうした」
平次はいよ/\本腰になりました。
叶屋重三郎は不動樣を持込んで、廊下續きの離屋に寢た三日目の朝、いつもの早起に似ず、
それから家中の騷ぎになつて、女房のお徳、娘のお
中はまさに血の海です。
手前の八疊に床を敷いて寢てゐた主人の重三郎は、
驚いて死骸を抱き起したお徳とお雛。
その間に番頭の孫六と下女のお仲は、雨戸と窓を開けました。孫六は雨戸を、お仲は二つの窓を――。後でガラツ八が訊いたことですが、雨戸は
四人の聲を聽いて、店からも多勢の人が驅けつけました。何よりも人々を驚かしたのは、離屋の二つの部屋が嚴重に締められてゐるのに、叶屋重三郎は明かに人手に掛つて殺されてをり、隣室との境の唐紙は開けられて、不動明王の劍が、もつたいなくも
木で彫つて
時を移さず御用聞千駄木の菊松は飛んで來ました。が、この有樣では手の下しやうもなく、その間にガラツ八の八五郎が小耳に挾んで檢屍前に驅けつけましたが、これとても不動明王に睨みすくめられて、
「成程そいつは變つてゐるが、ちよいと當つて見た具合でこいつは臭いな――と思つたことはないのか」
平次はガラツ八の[#「ガラツ八の」は底本では「ガツラ八の」]長談義が終るのを待つて、かう訊ねました。
「臭い奴だらけですよ。臭くないのは娘のお
「その三人だけが若くて綺麗だらう」
「冗談でせう。お三なんと來た日にや、
「人三化七の間違ひぢやあるまいね」
「へツ、お三はまだ人間らしいところが多い方で――ニツと笑ふと飛んだ可愛らしいところもあるが、娘のお雛と來た日にや――」
「お雛はどうしたんだ」
「あれが本當の人三化七でさ――親の
「片輪かい」
「親は代々獵人なら、鳥娘か
「そんなに見つともないのか」
「それから下女のお仲は大變ですぜ」
「それは青鬼かい」
「飛んでもない。山下にも湯島にも、岡場所なんかには、あんな玉はありませんぜ。ピカピカするやうな年増で」
「それほどの
「重三郎が金づくで手に入れて、別に圍ふつもりだつたが、恐ろしく固い女で、身を切り刻んでも父親の借りた金は返すから、唯の奉公人で使つてくれといふ望みで、本宅へ入つて下女代りに働いてゐたんださうですよ」
ガラツ八はすつかりお仲
「ところで怪しいのは誰と誰だ」
平次はガラツ八を試驗するといふよりは、自分の燃え立つ興味に引摺られるやうに、かう水を向けました。
「先づ第一番に女房のお徳」
「フム」
「こいつは三十八九の
「何んの信心だ」
「恐しく調法にできた女で、
「主人は默つて見てゐるのか」
「默つてゐないから喧嘩になるんでせう。重三郎から見ると信心は物入りだから、何べんも止させようとしたが、どうしても聽かねエ。尤もお徳は家付きで、重三郎の方が入婿だから、ひどく叱ると、お前の方が出て行け――と亭主へ喰つてかゝるんださうですよ」
「それから」
「隣に住んでゐる浪人者の大垣村右衞門、こいつは五十を越した
「少し物騷だな」
「三番目は番頭の孫六、これも五十近いくせに、道樂がひどいから借金だらけ、帳面だつてどう
「それつきりか」
「まだありますよ、――手代の千代松、――こいつは一番怪しい。不動堂の堂守――二日前に首を
「フーム」
「こいつが名乘つて、敵を討つたとしたら、どうなります? 親分、――叔父の敵はとりも直さず主人だ。敵討で褒められるか、主殺しで
「とりも直さずと來たか、馬鹿だなア、――それから何うした」
「それつき[#「それつき」はママ]ですよ。不動樣を縛つたものか、千代松に褒美をやつたものか。それとも――」
ガラツ八の話は相變らず調子が外れます。
「止さないか、馬鹿々々しい。兎に角恐ろしく變つた殺しだ。ちよつと覗いて見ようか」
「有難てえ、親分が乘出しや千人力だ。千駄木の菊松なんかに指圖がましい顏をされないだけでも助かる」
「指圖されたつて不足はあるめえ。菊松は顏の古い御用聞だ」
錢形の平次も到頭
谷中三崎町へ着いたのは、もう薄暗くなつてからでした。町内附合ひもろくにない
「人間が死んでも、これくらゐ人樣に何んとも思はれないのはキビキビしてゐるぢやありませんか。ね、親分」
愁歎とは凡そ縁の遠い、空々しい空氣を見ると、ガラツ八は遠慮のない調子でやります。
「默つてゐろ」
平次はそれをたしなめながら、遠慮してお勝手口へ顏を出しました。
「まあ」
中腰になつて何にか仕事をしながら、
「親分さん方ぢやないの。お通しするものよ、お三さん」
さう言つて後ろから覗いたのは、二十四五の年増、これはまた拔群の美しさで、
女房のお徳はガラツ八が言つた
「この始末ですよ。親分。――貸した金の代りにもつたいない不動樣を取るなんて、そんな非道なことをしないやうにつて、あれほど言つたのに聽かなかつたものですから」
さう言ひながらお徳は、さすがに線香を
「お前さんは、矢つ張り不動樣の罰だと思ひ込んでゐるんだね」
平次は靜かに問ひました。
「不斷が不斷ですから、さうでも思はなきや――」
女房は白い眼で平次を見上げながら續けました。
「――あの人は信心といふものを大嫌ひで、念佛一つ、お題目一つ稱へたこともない人でした。その上、私の信心への當てつけもあつたでせうが、あらたかな佛樣まで抵當に取つて、無理にさらつて來るやうな人ですもの――」
「外に主人を殺すやうな者はないといふのかえ」
「いえ、主人は多勢の人に
女房は世にも痛々しい表情をするのです。
「夜中にそつと忍んで來て、主人を殺した上、何にかうまい工夫で障子を締め、外から
平次はそんなことを考へてゐたのです。
「障子の棧は外からおろす工夫はありませんよ。それに廊下の向うは私の部屋で、その前を通らなければ、こゝへ來る道はありません。私は自分でも困るほど目ざとい上、昨夜は
さう言へば、このヒステリツクな中年女の寢室の前を、如何なる忍術使ひも、無事に通れさうもないことは、平次にもよく呑込めます。
「すると?」
「やはり佛樣の罰ですよ。あの通り」
女房は隣の部屋との境の唐紙を開けました。そこには不動尊像は昨晩のまゝ、前に臺を置き、
朝からの講中の人達の騷ぎや女房の凝りやうなどが一と目で判るやうで、平次と八五郎は思はず顏を見合せたものです。
「お、寶劍の血はそのまゝにしてあるのかい」
平次はさすがにギヨツとした樣子です。尊い佛像の劍に
「こいつは又良い賣物になりますぜ親分、――不動樣が佛敵を刺し殺したとなると、
「止さないか、八」
平次はその口を塞ぎました。
「でも、親分、ひどく血のついてゐるのは、劍の途中からで、
「それに氣がつきや確かだ。不動樣に罪をなすつた野郎は今頃はニヤニヤしてゐるかも知れないが。飛んだお笑ひ
女房がゐなくなると、平次はガラツ八の耳にかう囁くのでした。
「さうでせう、ね、親分。不動樣や觀音樣が人殺しをした日にや、うつかり信心詣りもできない」
「戸締りの樣子を聽きたい。番頭を呼んで來てくれ」
「へエ――」
ガラツ八が飛んで行くと、間もなく少し
「お前は番頭さんだね」
と平次。
「へエ、孫六と申します」
「何年くらゐ奉公してゐるんだ」
「十二年になります」
「その前は」
「いろ/\のことをいたしました。へエ」
「かなり借金があるといふぢやないか」
「へエ」
「店の金をどれくらゐ費ひ込んでゐるんだ」
平次の問ひは恐ろしく無遠慮で露骨でした。
「恐れ入ります」
孫六は三つ四つ續けざまにお辭儀をしました。耻を知らない人間に特色的な
「主人はその不始末を知つてゐたのか」
「薄々は御存じでしたよ。へエ」
さう言ひながら、よく光る額を逆手で撫で上げるのでした。こんな商賣では腕のある冷酷な番頭は少々くらゐの不都合があつても掛け替へがなかつたのでせう。
「この
平次は質問の題目をグイと替へます。
「主人の自慢でございました。――こんな商賣をしてゐると、戸締りより外に頼るものはございません」
「戸締りは誰がするんだ」
「主人が自分でやりました。人にまかせるやうな主人ではございません。昨夜はお孃さんが雨戸と窓を閉めるのを確かに見屆けてゐなすつたさうです」
「フーム」
平次は空耳に聽きながら、自分の手で戸を一枚々々
その中でも平次を驚かしたのは、廊下からの入口の障子二枚に、いち/\棧のあつたことです。
「こいつは大名屋敷の女部屋にあるといふ話は聽いたが、
「するとやはり不動樣の仕業でせうか、親分」
番頭の孫六はキナ臭い顏をするのでした。
「馬鹿なことを言へ」
「でも――」
「中から閉めきつた部屋へ、どうして下手人が入つたか不思議だといふんだらう」
「さうですよ」
「窓から入つたのさ、教へてやらう。――その丸窓だ」
「隙間からもぐつて入つたんで?」
今度はガラツ八の方が仰天しました。
「風ぢやあるめえし、――主人の重三郎に開けさせて入つたのさ」
「誰ですその野郎は?」
ガラツ八はキツとなりました。その邊にマゴマゴしてゐたら、いきなり十手を振り冠つて飛びかゝるつもりだつたでせう。
「主人が自分で丸窓を開けて下手人を入れたと判らなきア――番頭さん、お前さんが一番怪しかつたんだぜ」
「へエ――」
孫六は額に浮いた冷汗をツルリと
「窓の外に足跡くらゐは殘つてゐるかも知れない。明日の朝でも明るいところでよく見るがいい。――あの寢つきの惡さうな、ピリピリしてゐるお内儀さんの部屋の前を通つて、廊下の方から
平次は何んの
「へエ――」
「その丸窓は宵に一度締めてゐる。娘が見てゐたさうだから間違ひはあるまい。――ところで番頭さん、今朝こゝを開けたのは誰だい」
「お仲でございます。私は雨戸の方を開けました」
「その時確かに閉つてゐたんだね」
「
「いや。それにも及ぶまいよ。――それより、そこに立てゐるお孃さんに入つて貰はうか。番頭さんはもういゝ」
「へエ」
ホツとした樣子で立去る番頭を見送つて、
「あの野郎ぢやありませんか、親分」
ガラツ八は囁くのでした。
「いや違ふ。番頭はよくない人間だが、その性根を主人はよく見定めてゐる。夜中にそつと呼入れる筈はない。――ね、お孃さん」
「――」
立聽きしたのを指摘されて、如何にも間が惡さうに、娘のお雛が入つて來ました。
十八の娘盛りを、これはまた氣の毒な
「お孃さんのためには親の仇だ、知つてることはみんな言つて貰はなきやならねエ。一體誰があんなことをしたと思ひます」
平次は打ち解けた態度で膝を進めました。
「判つてるぢやありませんか、父さんを一番怨んでゐる者――」
「一番怨んでゐる者といふと」
「――」
お雛は默つてしまひました。これ以上問ひ詰めたら、何を言ひ出すかわかりませんが、それは言ひたくない樣子でもあります。
「八、手代の千代松を呼んで來てくれ」
「へエ」
ガラツ八は間もなく二十三四の青白い男をつれて來ました。恐怖と
「お前は昨夜どこにゐたんだ」
「不動堂でお通夜をしてゐました。――それはみんな知つてをります」
「外へは出なかつたのか」
「どこへも出ませんよ」
千代松の答へを聽くまでもなく、ガラツ八はもう外へ飛び出してをりました。お通夜の席からそつと拔け出して、人を殺した例を知つてゐるので、早くも親分の目配せを讀んだのです。
「叔父さんが死んで、
「それはもう。でも、私にはどうすることもできません」
「お前は唯の奉公人か」
「?」
「給料は貰つてゐるだらうな」
「いえ、この店で給料を貰つてゐるのは、番頭さんだけです。私も、お仲どんも、お三も、親の借金のために、給金なしで働いてをります」
千代松の眼には痛々しくも
「あの娘の
平次はその後ろ姿を見送りながら訊ねます。
「いえ」
千代松は妙に
「隣の御浪人が、大層殺された主人を怨んでゐたといふではないか」
「え、昔は二本差した人ですから、今は手内職をしてゐても氣の荒い人です。――でもあの人が下手人ぢやありません。昨夜はやはり不動堂から一と足も出なかつたんです」
さう言はれると、千代松と大垣村右衞門は疑ひの外へ逸脱してしまひます。
間もなく歸つて來た八五郎も、この
「さア判らない」
錢形平次も、この時初めて腕を
「やはり不動樣で? 親分」
「いや、不動樣でないことは確かだ。あの木劍で人を殺せるわけはない。――が、入つた場所が判つても、曲者が出た場所の判らないのは驚いたよ」
「?」
「――重三郎が丸窓を開けて下手人を離屋の中へ入れた。――曲者は重三郎を殺して外へ出た。――後を誰が閉めたんだ」
「不動樣でなきや、殺された重三郎でせう」
ガラツ八はまた飛んでもないことを言ひ出しました。
「八、相手は容易ならぬ人間だ。下つ引を五六人集めて、
平次もよく/\手に餘つた樣子です。
「そんなことはわけありません」
「まて/\、お前はこゝにゐた方がいゝ。奉公人の身許洗ひは、千駄木の菊松親分に頼むんだ。それから叶屋を怨んでゐる者をみんな當つて見るんだ」
「あつしは? 親分」
「奉公人達の荷物を見せて貰へ。それから重三郎を殺した刄物がなきやならない。奉公人のうちで刄物を持つてゐた奴はなかつたか。お勝手の出刄庖丁でもなくなつちやゐないか。よく訊いてくれ。――下手人はこの家の者だ。
平次の命令は隅から隅まで行屆きました。丁度來合せた千駄木の菊松に頼んで、八方に下つ引を走らせ、平次はガラツ八と菊松に手傳はせて、奉公人の荷物から、縁の下、物置の隅、下水の中までも搜したのです。
が、
「親分、ありましたぜ」
ガラツ八は頭の上に何にか振り冠りながら飛んで來ました。
「何んだ八、騷々しいぢやないか」
「
「
大方は燒け盡した匕首の鞘を八五郎は鬼の首でも取つたやうに振り廻すのです。
「鞘があるくらゐなら、その邊に中身だつてあるだらう」
平次がお勝手へ飛んで行くと、ほんの煙草二三服の間に血染めの匕首を搜し出してしまひました。それは同じ
「さア、大變、いよ/\下手人は人間に決つたぞ」
少しばかりはしやぐガラツ八。
「こいつは誰の品だか店中の者に訊いてくれ」
それは菊松が受持ちました。家中の者を
「あ、やはりあの女だ」
平次が何やら思ひ當つた樣子で振り仰ぐと、氣の早いガラツ八は、お勝手へ飛んで行つて、その邊でまご/\してゐる美しい下女の、お仲の腕を掴んで引つ立てて來ました。
「えツ太てえ女だ、來やがれ」
引据ゑられて、離屋の縁側に少し灯に
「八、手荒なことをするな」
平次は八五郎をたしなめて、お仲の俯向いた顏を差しのぞきました。
「だつて親分」
「短刀はこの女の持物でも、主人を殺したのはこの女とは限るまい。なア、お仲」
「え、その通りです。――短刀は私の品に相違ございません。――父親の形見ですもの。でも、旦那樣を殺したのは私ではありません」
お仲は靜かに顏を擧げました。
「それぢや、今朝何んだつて丸窓を締めた」
平次の問ひは爆撃的でした。
「えツ」
「隱すな、お仲。今朝四人で離屋へ飛び込んだ時、丸窓だけは開いてゐた筈だ。――いや閉つてはゐたが、
「――」
「締つてもない丸窓を、いかにも締つてゐるやうに見せかけながら開けた。――あれはどういふわけだ」
「――」
「隱すな、――俺にはよく判つてゐる。不動樣が人を殺すわけはない。主人を殺した曲者はどこからか出たに違ひないが、障子も窓も閉つてゐた――そのうちどこか一箇所だけは開いてゐた筈だ。障子ではない、雨戸でもない、あいつはガラガラ恐ろしい音を立てるから、曲者はあんなところから入る筈も出る筈もない。――すると丸窓の他には出入口はないことになる。現に丸窓の外は足跡を掻き消した樣子で、土が新しくなつてゐる」
「――」
「今朝その丸窓を開けたのはお前だ。こいつは金輪際間違ひはない。昨夜主人が自分で丸窓を開けて中へ入れてやつた人間も、お前の他にはない筈だ」
平次の論旨は
「いえ、いえ違ひます」
お仲は必死の顏を擧げました。美しくも香ばしい顏です。
「いや違はない。曲者の出入口は丸窓の他にない。その丸窓へ今朝最初に手を掛けたのはお前だ。――その上血染の匕首もある」
「いえ/\違ひます。――今朝開いてゐた丸窓を一度締めて又開けたのは、それは私です。惡いことをいたしましたが、さうするより
「それでは誰だ」
「それは判りません」
「そんな筈はない。昨夜
平次は容赦しませんでした。が、お仲も
「旦那樣は――昨夜、夜中に丸窓を開けて置くから來いと言ひました。一人で忍んで來たら、父親の入れた證文を返してやるとも言ひました。――でも私は、そんなことを聽く筈もありません。そんな目に逢ふくらゐなら、
「それを誰も聽いてはゐなかつたか」
「――」
事件は次第に光明を點じて行きますが、まだ奧の奧がありさうです。
その時歸つて來た菊松の下つ引は、重三郎に怨みを持つ者の名前や、奉公人達の身許を一々報告しました。中で一寸注意をひいたのは、
でも、あんなに
「お仲、お前は誰かを
「いえ」
平次は改めてお仲に訊ねました。
「お前と主人の話を立聽きして、開けて置いた丸窓から、そつと入つて主人を殺したのは、手代の千代松かも知れないと、お前は思つてゐるだらう。――それなら安心するがいゝ。千代松は昨夜不動堂から一と足も出なかつたし、丸窓から男が入つて來たのを重三郎が默つてゐる筈はない。――それに千代松なら、お前の持物の
「本當ですか、親分」
さう言つて振り仰いだお仲の顏は、初めて明るくなりました。千代松に疑ひのかゝるのを、一生懸命で
「親分。た、大變ですぜ」
ガラツ八が飛んで來ました。
「何んだ、八」
「逃げ出しましたよ、あの女が」
「お三が逃出したといふんだらう。放つて置け、放つて置け。俺は先刻から氣がついてゐたんだ。お仲が口を割つたら逃げ出すつもりで、仕度をしてゐるのを知らずにゐるものか」
平次は驚く樣子もありません。
「すると?」
「重三郎を殺したのは、あのお三だよ。親の敵を討つ氣だつたんだ。主人とお仲の話を聽いて、お仲が離屋へ行かないことを百も承知のお三は、お仲の着物を着て、手拭か何んかで顏を隱して行つたんだ。匕首までお仲のを持つて行つたのさ。丸窓から入ると、主人はお仲が來たと思ひ込んで
「へエ――」
「翌る朝お仲は、主人の死骸を見ると、てつきり千代松の仕業と思つた。それに丸窓が開いてゐると、自分の恥にもなるやうな氣がして、丸窓が閉つてゐるやうに見せかけながら開けた。薄々お三の仕業かも知れないとも思つたが、お三の可哀想な身の上も知つてゐるから、できることなら
平次の説明を默つて聽いてゐるお仲は、陶醉にも似た歎賞の眼をあげて、この明智の御用聞に感謝するのでした。
「追つ掛けて見ようか。まだ遠くは行くまい」
立ち上がる千駄木の菊松。
「放つて置かうよ、千駄木の親分。あれでも親の敵を討つたに違ひないんだ。五兩か三兩の借金で親が身を投げて死んだ上、自分は一生奉公させられちや
「――」
「さア引揚げようか」
何んの未練もなく立上がる平次。菊松とガラツ八もそれに從ふ他はありません。
「幸ひ誰も聽いてゐなかつたやうだ。お仲は今夜のうちに宿元へ歸つた方がいゝよ。行末の身の振り方は千代松と相談するんだ」
「親分樣、有難う御座います」
大きな感激に身を
「不動樣は洗ひきよめてもとの堂へ
平次は淋しい笑ひを殘して神田の家へ引揚げました。