錢形平次捕物控

蹄の跡

野村胡堂





「親分、あつしはもうしやくにさはつて――」
 ガラツ八の八五郎は、拳骨げんこつで獅子ツ鼻の頭を撫で乍ら、明神下の平次の家へ飛び込んで來ました。
 江戸の町が青葉でつゞられて、薫風くんぷう五月さつきの陽光が長屋の隅々まで行き渡るある朝のこと、
「八の野郎がまた朝つぱらから癪の種なんか持込んで來やがつたぜ。落着いて飯も食へやしねえ」
 平次は大きな箸箱はしばこへ、ガチヤガチヤと自分の箸をしまひ込んで、お靜の方へ膳を押しやると、心得たお靜は、それを持つてスーツとお勝手へ立ちました。まご/\すると、八五郎に蹴飛ばされさうだつたのです。
「親分、聽いて下さいよ。あつしはもう、癪にさはつて――」
「わかつたよ、又角の酒屋の親爺に先月のはらひのことでも當てこすられたんだらう」
「酒屋に借りなんかこさへるものですか、米屋の拂ひなら半歳も溜めるが」
「あんな罰の當つた野郎だ」
「癪にさはつたのはりやんこですよ」
 八五郎は大きな指を二本、腰のあたりに當てて見せました。
「惡い癖だ、武家りやんこと野良犬はからかはない方が良いと言つてるのに」
「それがその、放つちや置けなかつたんで――これを見て下さいよ、親分」
 八五郎は懷ろ深く探つて、しわくちやな紙片かみきれを取り出すと平次の膝の前へ、煙管を風鎭ふうちんに押し伸ばすのでした。
「恐しく下手へたな字ぢやないか。まさかお前が書いたんぢやあるまいな」
「これでも、あつしの字よりは少し筋が良い」
「字のことになると、自慢がないから、八も可愛らしいよ、――それにしても、こいつは鹿尾菜ひじきをバラいたやうぢやないか、お前讀んで見な」
 半紙一枚へ、馬糞墨まぐそずみで書いた、下手な字が一パイ。
「こいつは讀むのにコツがありますよ。お弓町の多良井藏人くらんど樣のお腰元お玉が死んだ。自害といふことになつてゐるが、人に殺されたに違ひない。親分のお力で下手人を擧げて、お玉のうらみを晴らして下さい、頼む――とね」
 八五郎が辨慶讀みにした手紙の文句から、事件の重大さと、この手紙を書いた者の、燒きつやうな熱意を感じないわけに行きません。
「それでお前は行つたのか」
「今朝此手紙を投り込まれた時、あつしはまだ寢て居たが、宜いあんべえに雨戸は隙間だらけだ。枕元へ紙片が舞ひ込んだから、夢心地で拾ひ上げると――あのの附け文と思ひきや――」
「思ひきや――と來たね」
「學があるとツイ斯んな言葉が出て來ますよ、――惡い癖でね」
「無駄が多いな、先を急げよ」
「殺されるのは良い女にきまつて居るから、兎も角お弓町へ飛びましたよ。相手は八百五十石取の旗本屋敷だ、誤摩化ごまかして死骸を取片付けられちや後の祭りだ」
「で?」
「裏から入つて、御用人を呼出して、お女中の死骸を見せて貰ひ度いと言ふと、味噌摺用人の山岸作内、大眼玉を剥いて人斬庖丁をひねくり廻した、――其方は何者だ此處を何んと心得る――とね」
「――」
「町方の御用をうけたまはるもの。明神下の平次親分ところの八五郎と名乘ると、――馬鹿野郎、旗本屋敷へ不淨ふじやうな十手などを持込む奴は、叩き斬つても仔細しさいはないが、命だけは助けてやる。友吉、此兵祿玉ひやうろくだまつまみ出せと來た。すると何處からともなく、二十五六の威勢の良い若黨が飛び出して來て、あつしの首筋を掴んで裏門からお弓町の往來へ投り出してしまひましたよ。その野郎はまた、恐しく腕つ節の強い男で――」
「それでお前は尻尾を卷いて歸つて來たのか」
「癪にさはるが仕樣がありませんよ。相手は八百五十石の武家屋敷だ、切り込んだところで勝目はないし」
「間拔けだなア」
あつしはどうせ間拔けですがね、親分」
「まア、腹を立てるなよ八。お前は手順を間違へたんだ」
「ぢや、どんな手順があるんです」
 八五郎はまだ紛々ぷん/\として居ります。
「お前は、そのお玉といふ腰元の親元を聽かなかつたか。請人うけにんでも宜いが」
「いゝえ」
「それが手順だよ。その腰元の親があるなら親、遠國のものなら請人が、死骸を引取りに行くだらう」
「成程ね」
「いや、お前には少し荷が重過ぎるだらう。俺が行つて見るとしようか」
「有難てえ、親分が乘り出して下されば」
 八五郎はすつかり有頂天になりました。錢形平次が一緒に行きさへすれば、まさかあの味噌摺用人に怒鳴られたり、若黨風情に手籠にされるやうな間拔けなことはあり得ません。


 腰元お玉の實家、駒込追分のささやかな絲屋を訪ね當てたのは、やがて晝近い頃でした。平次が行つた時、丁度お弓町の多良井家から『お玉の死骸を引取るやうに』といふ使が來たといふことで、お玉の兄の清三郎が、これから出かけようといふところでした。
 平次はそれを引留めて、お玉の父親清吉に逢つて見ました。これは五十五六の中老人ですが、輕い中風ちゆうふうで足腰が不自由な上、娘の不慮の死に打ちひしがれて、まことに正體もありません。平次の問ひに對して、それでも涙の隙から、んなことを語りました。
「娘が死んだといふ知らせは、今朝早く、お屋敷の若黨の友吉さんが飛んで來て教へてくれましたが、支度や手續きがあるので、佛を引取るのは追つての沙汰さたを待つやうにとのお言葉で、親類の者が三四人顏を寄せ乍らも、今まで待つて居りました。――娘を武家奉公に出すなんて、私共には氣の進まないことで、小商人の娘に行儀見習は餘計なことのやうに思ひましたが、多良井樣からたつてと望まれて、斷わるに斷わられず、一年前に差上げました。――親の愚痴ぐちでお聽苦しいことでせうが、娘のお玉は評判のきりやう良しで、駒込小町とか何んとか言はれて居りましたので、多良井樣ではそれを噂に聞いてのお望みだつたことと存じます。――最初は娘もお屋敷奉公を嫌がつて、宿下がりの度毎にお暇を頂いてくれるやうにと、我儘を申して居りましたが、近頃はどうしたことかそれも言はなくなつて、喜んで御奉公して居る樣子でございました。何んと申しても十九そこ/\の娘のことですから、氣の變るのも早かつたわけでございませう」
 父親清吉の話は、愚痴まじりに際限もなく續きましたが、平次はそれを宜い加減にきり上げて、これから出かけようといふ、伜の清三郎に言ふのでした。
「これには深い仔細がありさうだ。遠い親類といふことにして、あつしも一緒に多良井の屋敷まで行つて見よう」
「さうでせうか、お屋敷で嫌な顏をしませんかね」
 清三郎は二の足を踏みます。妹の死骸を引取りに行くのに、岡つ引をつれて行くのは、相手に濟まないと言つた、町人らしい卑屈ひくつな考へからでせう。それにこの界隈かいわいでは、錢形平次の顏はあまりによく知られて居りました。
 それに構はず、平次は清三郎と一緒に、空駕籠を釣らせて、お弓町へ行つたことは言ふ迄もありません。
 清三郎を迎へた用人の山岸作内は、
「これは/\お玉の兄さんか、いや飛んだことでな」
 まことにお世辭たら/\です。五十年輩の羊羹やうかん色の羽織と共に、世にも人にも摺れた男で、一筋繩では行きさうもありません。が、いて行つた平次の顏を見ると、さすがにギヨツとした樣子で、
「お前は?」
 などとまぶしい顏をして居ります。
「絲屋の親類でございますよ、へエ」
 と言ふ平次の空とぼけた顏も、狐と狸の應待です。
 お玉の死骸は、お勝手に近い女中部屋に置いてありました。薄汚く古びた布團に寢かして、晒木綿さらしもめんで顏を隱し、形ばかりの香花を供へてありますが、四方あたりが落莫として何んとなく淺ましさを感じさせました。
「さ、清三郎さん。お玉さんがどんな死に顏をして居るかお前さんの眼でよく見て置かなきやなりませんよ」
 平次は死骸の側に脚行ゐざり寄ると、顏から胸へ掛けた晒木綿を取つてハツと息を呑みました。髮はひどく亂れて血を失つた娘の顏はらふのやうに青白くなつて居るのに、駒込小町と言はれた優れたきりやうは『死』もまた奪ふ由はなく人形づくつた非凡の端麗さは、半眼に開いた眼に、無限の恨を含んで、一種のなまめかしさを感じさせるのです。
「傷は?」
 平次は側に突つ立つて居る用人に訊ねました。
「胸だよ」
「清三郎さん、お玉さんの胸を開けて見て下さい」
 平次が遠慮して手を引くと、代つて兄の清三郎は、強い意志に引ずられるやうに、妹の胸をはだけてやりました。
 白蝋のやうに、圓い胸、美しい陰影を描いた處女をとめの乳房の下に凄まじい傷口がパクリと開いて居ります。恐らく心の臟を一と突き、背につらぬくほどやられたのでせう。それにしても、綺麗に洗つて、着物までへてやつたのは何んの爲、――平次はその眼を用人の山岸作内に移しました。
「可哀想だと思つてな、よく清めて着換へさしてやつたよ」
 山岸作内は辯解らしく言ふのです。


「お玉は自害したと仰しやいましたな」
 平次は、さり氣ない調子で訊ねました。
「何にか、死ななきやならないワケでもあつたのでせうか」
 平次は訊き返しました。
「ワケといふほどのこともあるまい。奧で何にかお小言でも言はれたのを、娘心に突き詰めたものであらうか」
「何にか、不首尾でもあつて?」
「いや、不首尾も間違ひもある筈はない。大層可愛がられて居たのだから」
「自害と申すと、刄物があつた筈と思ひますが」
「お玉の荷物の中に、たしなみの短刀があつた筈ぢや」
 作内がしたのは、部屋の隅に丸めてあるお玉のさゝやかな荷物でした。兄の清三郎が平次の目配せにこたへてそれを解くと、女物の華奢な短刀が一とふり、何んの仔細もなく轉げ出します。
 拔いて見ると、よく拭き込まれて、一點の曇もない刄金が、薄寒く人の顏を映すのです。
「この短刀には血曇りがありませんね」
「――」
 用人作内はギヨツとした樣子です。
「それに傷口にくらべて、刄があんまり狹い、――刄物が違やしませんか、御用人」
 平次は少し開き直りました。
「いや、それは私が惡かつた。お玉が自害したのはその短刀ではなかつた。待つてくれ」
 用人の山岸作内は、ソハソハと部屋を出て行くと、やがて奧の方で、何やらゴトゴトやつて居る樣子でしたが、暫らく經つと、細身の刀を一とふり、怖いもののやうに持つて來ました。
「これぢや、――お玉は此刀でやつたのだ」
 平次は受取つて打ち返し打ち返し眺めました。細身の蝋塗鞘ろふぬりざや赤銅しやくどうと金で牡丹ぼたん目貫めぬきつか絲に少し血がにじんで居りますが、すべて華奢で贅澤で、三所物も好みがなか/\に厭味です。
 拔いて見るとベツトリ血脂ちあぶらが浮いて、切つ尖に少しばかり新しい齒こぼれのあるのは、一種の凄味をさへ加へるのでした。
「こんな長い物で自害をしたと仰しやるので?」
 平次は作内のとぼけた顏を見上げました。
「左樣」
「十九や二十歳はたちの若い娘が、こんな寸延すんのびの得物を背中へ突きけるほど自分の胸に突つ立てられるものでせうか」
「それがどうしたといふのだ」
 山岸作内も氣色ばみました。それほど平次の調子には妥協的なものがなくなつて居たのです。
「お手打ならお手討で、何んの爲の御成敗と仰しやつて頂けば、親兄弟もあきらめやうがありますが、二尺五六寸もある刀で胸を突き貫かれて、自害にされてしまつちや、當人が浮ばれません。ね、御用人、そんなものぢやありませんか」
 平次は眼の前に突つ立つて居る用人を見上げ乍ら、急所々々を押へて、ヒタヒタと改めて行くのです。
「無禮だらう、此處を何んと心得る」
 作内は日頃の調子を取戻してかさにかゝりました。
「無禮が聞いてあきれますよ。可愛い盛りの娘一人を殺された親なり兄弟なりの心持になつて御覽なさい」
「え、もう我慢のならぬ奴だ」
「我慢がならなきや、何んとでもして貰ひませうか。はゞかり乍らあつしが大きな聲を出せば御門前に待たして置いた、あのあごの長んがい野郎が、龍の口まで飛びますぜ」
「何んだと?」
「此處へ來てこんな口を利くからには、調べるだけの事は調べてあります。御係りの御目付へ申上げて、――」
 平次は立ち上りかけたのです。このまゝ龍の口評定所に驅け込み、多良井家の内幕の紊亂びんらんを訴へれば、平次も無事で濟まない代り、多良井八百五十石も木葉微塵に吹き飛ばされないとも限らないでせう。
 美しいお腰元を手討にするやうな、大旗本の内輪を洗へば、ボロが出て來るに決つて居ります。その頃大小名から大旗本まで、取潰し政策に夢中になつて居た幕府は、何にか知ら因縁いんねんをつけるだけの材料を握つて、家事不取締とか何んとか、うまい名目をつけ、八百石でも千石でも、幕府のポツポに取り上げるに相違なかつたのです。
 徳川幕府も天下を取つた當時などは、權力を確立することに急で、創業早々大小名を取り立て過ぎ、秩祿ちつろくをやり過ぎました。二代、三代と代を重ねて、一應天下靜謐せいひつとなると、一度やつた祿が惜しくなり、難癖をつけてはそれを取り上げるのが、隱密裡の一つの政策になつて居たことは歴史を引合ひに出す迄もなくあまりに明かなことでした。


「ま、お玉の身寄の方ださうで、飛んだ氣の毒なことをしました。いづれ使の者を差し遣はす筈でしたがついでと言つては何んだけれど、少しばかりのこゝろざし、――これを納めては下さるまいか」
 品の良い四十二三歳の内儀でした。靜かに入つて來ると、尊大な――がひどく慇懃いんぎんな調子で、持ち重りのする奉書包を一つ、清三郎の前にピタリと置くのです。少なくとも小判で二十兩くらゐは入つて居たことでせう。
「飛んでもねえ、強請ゆすりに來たわけぢやありません」
 平次はツイう言つてしまひました。その金包を取上げて、取澄ました内儀の顏に叩き付けてやり度い衝動に驅られて居たのです。
「強請――ホ、ホ、そんなつもりで差上げるのではない。これはお玉の兄さんに差上げる世間並の手當と香奠かうでん――お前に上げるわけではありません」
 お内儀の顏は冷たくて、空笑ひさへこほり付いて居りますが、その言葉は驕慢けうまんで戰鬪的で容赦を知らぬものでした。
「親分、もう宜いぢやありませんか。こんなことで歸りませう。お玉の入棺にふくわんの支度もしなきやなりません」
 卑屈ひくつらしい清三郎は、平次の袖を引くのです。長いものに卷かれつけて居る江戸の町人達は、どんなことがあつても、武家のしかも大身とは爭ふことは出來なかつたのです。
 お玉――殺されたに違ひない、あの美しいお玉の兄の清三郎が斯んな氣になつては、武家の『斬捨御免』を、とつちめる氣で來た平次も、陣の立て直しやうはありません。旗本は若年寄の支配で、一たびその門を潜ると、町方の役人も岡つ引も何んの權力もなく、もとより十手捕繩などは物の役にも立たなかつたのです。
「山岸、何時まで手間取るのだ、――奧も宜い加減にせい。町人共をのさ張らせるのも程があるぞ」
 ノツシノツシと廊下を鳴らして來て、開けてある障子から、ヌツと顏を出したのは、八百五十石の當主多良井藏人でせう。四十五六の酒肥りのしたみにくい中年者で、平次をハタと睨んだ眼には容易ならぬ忿怒が燃えます。
 此處で開き直るを、平次は知らないではなかつたのですが、後のたゝりを怖れて、必死に停める清三郎の顏を見ると、旗本相手の自分の態度も醉狂らしくなります。
 平次は怨みを呑んで引揚げました。せめて、お玉の死骸を駕籠へ乘せてやる手傳ひをしたのを心やりに。
「あれは?」
 駕籠が上がるのを、縁側から見送つて居る若い男が、平次の注意をひきました。
「若樣――有馬之助樣で」
 清三郎はさゝやきます。二十二、三の若い侍、にきびだらけの大馬面で、うら淋しくお玉の死骸を見送つて居るのは、平次にいろ/\のことを考へさせます。
「野郎、氣をつけやがれ」
 裏門のところで、危ふく駕籠の棒鼻に突つかゝりさうになつて、ポンポン言つたのは、二十五六のたくましい男でした。今朝八五郎を門から投り出したといふ、強い若黨の友吉といふのでせう。
 色の淺黒い、眼鼻立ちのキリリとした、なか/\良い男ですが、妙に押へきれない忿怒をたぎらせて居るのは、主人の威光を笠にきての虚勢でせう。
「へ、相濟みません」
 清三郎は素直に謝まりました。
 門を出ると平次は、其處に突つ立つて居る八五郎を呼びました。
「お前はこの屋敷の中のことを洗ひざらひ探つて見てくれ。出入り商人は、飛んだ突つ込んだことを知つて居るものだ」
「へエ、――ところで、お腰元はやつぱり」
「立派な殺しよ、――お前の言ひ草ぢやねえが、殺しとわかつても手が出せねえ。しやくぢやないか」
「ね、矢つ張り親分だつて癪にさはるでせう」
 八五郎は鼻の下を長くして居ります。
「宜いてことよ――ところで清三郎さん」
「へエ、へエ」
「あのにきびの化物が、お玉さんにうるさくはしなかつたのかな」
「そんな樣子でございました。妹がお暇を頂き度いと言つたのは、若樣がうるさいからだつたさうで」
「それが――」
「今年になつてから、ふつゝりそんな事を言はなくなりました。こればかりは私にもわかりませんが――」
「娘心はなぞだな」
 平次はそんな心得たことを言ふのです。


 それから二た月あまり、無事な――が鬱陶うつたうしい日が續きました。旗本多良井家の腰元の死は、それつきり大した騷ぎにもならず、闇から闇に葬られてしまつたのです。
 多良井家から絲屋清三郎にやつた金は二十兩、清三郎はそれを商賣に廻して、いくらかの利潤まうけを見たことだらうし、八五郎を動かして、一應多良井家の内輪を探らせた平次も、それを言ひ立てて、多良井家に目に物見せるわけには行かなかつたものか、何も彼も無事にそして平凡に日がつて行くのでした。面白くないのは平次でした。あきらかな殺しを眼の前に見せられ乍ら、身分のへだてに妨げられて、それをどうすることも出來なかつたのは、思ひ出すごとに、平次の心がかげります。
 神田祭が過ぎて、兩國の川開きも遠い噂になつた或日。
「御免」
 平次の家に思ひも寄らぬ人が訪ねて來ました。五十年輩の四角な顏、表情といふものを持たない眼鼻。
「これは、山岸樣ぢやありませんか」
 女房は留守、自分で客を迎へた平次も、さすがに驚きました。旗本多良井家の用人、山岸作内が其處に立つて居るのです。
「錢形の親分、いつぞやは飛んだ無禮をいたしたな。いや、實を申すと奧樣がお氣が付かれないのでな、もつと早く出すものを出せば宜いのに――」
 この味噌摺用人は、二十兩の小判の餘徳に預りでもして平次はこと/″\く滿足して居るものと思ひ込んで居る樣子です。
「いや、飛んでもない。ところで御用は?」
 平次は早くこの用人に歸つて貰ひ度さで一ぱいでした。
「火急の用事ぢや。實は多良井家の若樣が、飛んだ間違ひでくなられたので」
「えツ」
 あのにきびだらけの大馬づらが、フト平次の眼に浮びました。
「昨日若黨の友吉をつれて、雜司ヶ谷へ遠乘りに行かれたが、鬼母神きしも[#「鬼母神きしも樣」はママ]の森の蔭で、友吉が茶店へ中食の茶を貰ひに參つた後で、馬にられて御落命ぢや」
 山岸作内は、さすがに眼をしばたゝきます。
「それは、それは」
 平次もまさに二の句が繼げません。
「旦那樣がに落ちないところがある、友吉は無類の忠義者で、嘘を言ふ筈はないが、馬は手馴れの青で、猫の子よりもおとなしい、――場所は鬼子母神裏の、百姓家の物置であつたといふが、どうも近くに人氣のないのを幸ひ、誰かが若樣をあやめたのではあるまいか――と」
 山岸作内は額の脂汗を拭くのです。
 平次は丁度來合せた八五郎と一緒に、即刻お弓町に向つたことは言ふ迄もありません。
 平次の氣持も知つてか知らないでか、多良井家の待遇は慇懃いんぎんを極めました。
 奧へ通されると、入棺するばかりになつて居る、有馬之助の死骸を挾んで、主人の藏人くらんどと、奧方のお由良は、かつつての日の虚勢もなく唯さめ/″\と泣いて居ります。
「平次殿か、伜は此有樣だ。見てくれ」
 藏人は有馬之肋の死骸を指さして、平次に席を讓ります。
「御免下さい」
 死骸の側に進んだ平次は、その慘憺さんたんたる有樣に先づ息を呑みました。若樣有馬之助は、左の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみを割られ、顏が曲つたやうになつて死んで居るのです。
 割られたこめかみには明らかに徑二寸五分ほどの圓い跡がありました。馬のひづめでもなければ、これほど強く打つ筈もなく、骨も碎け肉も飛び散つたのは、何んとしても恐しい力です。
「どうであらう、平次殿」
 主人の多良井藏人は、緊張した顏をのぞかせます。
「何んとも申上げられません。おうまやを拜見して、次第に依つては、若黨を案内に、雜司ヶ谷まで行つて見るといたしませう」
 平次は用意周到でした。其處から直ぐ裏の厩へ行つて見ると、無愛想な若黨の友吉は、一生懸命馬の手入れをして居ります。
「お、錢形の親分」
 友吉の眼にも、いつぞやとは違つたものがありました。
「若主人を蹴殺した馬を、そんなに丁寧に世話するのか」
 平次の言葉は妙に皮肉でした。
「畜生は何んにも知りやしない」
 友吉は相變らずブツ切ら棒です。
「その馬は人をる癖があるのか」
「飛んでもない、猫の子よりおとなしいぜ。それよりもう十二歳だ、遠乘りには無理さ」
「昨日間違ひのあつた時、馬の氣が立つて居る樣子がなかつたのか」
「そんな事があるものか、若い馬ぢやあるまいし」
 友吉の答へには何んのわだかまりもありません。


 八五郎に何やら言ひふくめて、多良井家に殘したまゝ、平次と友吉は、つれ立つて雜司ヶ谷に向ひました。
 無口で無愛想な友吉は、平次がどんな水を向けても打ち解けませんが、斯う一緒に歩いて居ると、人と人との接觸から、平次は異樣なものを感じて居たのです。
 それは、この友吉といふ若黨は、ブツ切ら棒で無愛想な癖に、何んとも言へない良いところのある男で、若黨れがして居ないばかりでなく、傍に居る者に、五月の薫風くんぷうのやうに爽やかさを感じさせるのです。多分それはこの男の性格の一本さ、純情で正直なところから來る良さだつたかも知れません。
「此處だよ、――俺がお茶を貰ひに來た茶店は」
 友吉は鬼子母きしも神樣の茶店の一軒を指さしました。茶店の小娘は、友吉の顏を知つて居たらしく、遠くの方から會釋をして居ります。
 平次はその茶店に立ち寄る氣もないらしく、友吉をうながして、社の裏の森の中に、昨日馬をつないだ場所を搜させました。いや、搜す迄もなく、其處には近所の百姓家の物置が、何も彼も昨日のまゝに、二人を待つて居たのです。
「馬を繋いだのは此處で、若樣がられて倒れて居たのは此邊だが――」
 一本の柱、その側の草にこぼれた血潮。平次はそれも見ようとせずに、物置の中に入つて何やら熱心に搜して居りましたが、やがて、
「これだ、――これが見付けたかつたのだ」
 さう言ひ乍ら、お百姓が、まきや炭や野菜などを量るために使つて居るらしい、恐しく、大きな棒秤ぼうばかりと、でつかい分銅ふんどうを持つて來たのです。
「――」
 友吉はけゞんさうにそれを眺めて居りましたが、一言も口をきかうとはしません。
「あのこめかみの傷跡は、馬のひづめにしては小さ過ぎると思つたよ。棒の先に分銅を縛つて後ろから、喰はせると丁度あんな傷になるのだが」
 平次は棒秤のかぎの先に分銅を縛り付けて、力任せに振つて見せました。
「この通り」
 恐しい勢ひで風をつた分銅が、物置の柱へ、狙ひ違はず叩き付けられると、凄じい音がして、荒削あらけづりの松の柱が、お椀型に二分ほど凹みます。
「若樣のこめかみは、松の柱よりはヤハだ。これを喰つちや一とたまりもあるまいよ」
「――」
「ところで、――お弓町では八五郎が、お前の荷物を搜して居る筈だ。女の物――お玉の形見が一つや二つはあるだらうし、あのお玉の殺された時、八五郎の家へ投り込んだ手紙と同じ筆跡で書いたものも、必ず見付かるに違ひない」
「――」
 平次の論告は峻烈しゆんれつで容赦ないものでした。が、友吉はそれにこたへようともせず、何處ともなく茫然と見詰めて居ります。その眼のうちには、深刻な感情が雲のやうに動いて居りますが、それがどんなものか、平次にも讀みきれません。
「お玉が殺された時、八五郎のところへあの手紙を投り込んだお前が、有馬之助を殺したのは仔細があらう。――言ひ度くなきや、俺が言つてやつても宜い。お玉は最初若樣の有馬之助に附きまとはれて、あのお屋敷に居るのを嫌がつて居たが、――今年になつてから、それを言はなくなつたのは、お前と言ふものが出來たからだらう」
「――」
「お前とお玉の仲がよくなると、若樣の有馬之助がお玉を殺す氣になつた。あの刀は華奢きやしやで、贅澤で大旗本の馬鹿息子でもなきや差さない代物しろものだ」
「あの野郎がお玉を手籠にしたのだよ。二度や三度ぢやない、あの晩も言ひ寄つて手ひどくはじかれ、カツとのぼせてお玉を殺してしまつたのだ」
 友吉は始めて口をきりました。思ひなしかその健康な頬はせて、大きな眼には一パイの涙があふれさうです。
「それから?」
 平次は靜かに誘ひました。
「お玉が可哀想だ。あのにきび野郎に手籠にされた上、芋刺いもざしにされちや浮ばれねえ」
「――」
「お玉は俺の女房だ。忘れもしない暮の二十八日に二人は夫婦約束をしたんだ――それを蟲けらのやうに殺されて默つて居なきやならないと言ふのか。八五郎親分のところへ手紙を投り込んだのは、間違ひもなくこの俺さ、――駒込のお玉の親許へ行く時、向柳原まで一と足伸したんだ」
「――」
折角せつかく錢形の親分が來ても、あの通りだ。武家の馬鹿息子が、十九の可愛い娘を殺しても町方の御用聞には縛る繩はなかつたんだ」
「――」
 平次も眼を伏せました。まさに一言もありません。
「二た月俺は辛棒したぜ。ヨボヨボの年寄馬に乘つて、一かど遠乘りのつもりで來たこの物置で手頃の棒秤ぼうばかり分銅ふんどうを見付けたのが、あの馬鹿息子の運の盡きさ」
「――」
「さあ、縛つて貰はうか、錢形の親分。故郷の佐倉へ飛んで行つて、たつた三日でも、年を取つた母親に孝行をしてから、立派に名乘つて出ようと思つたのが、俺の未練だ」
 若黨の友吉はさう言ふと、青草の上にドツカと腰をおろして、自分の手を後ろに廻すのです。
「よし、解つた。そんな氣でゐるのなら、俺は詮索せんさくをするんぢやなかつたよ」
「――」
 友吉はパツチリ眼を開いて平次の顏を見上げました。
「若樣有馬之助は、ヨボヨボの年寄馬にられて死んだのさ。そして若黨友吉は一期半期の奉公人だが若樣が死んださびしさに默つて故郷の佐倉へ歸つたのだ」
「――」
「俺は町方の岡つ引さ、旗本屋敷の奧に何んな事があらうと知るものか。それぢや友吉さん、達者で暮すが宜い」
 平次はクルリと背を向けると、何んのこだはりもなく歸つて行くのです。
「親分、有難い」
 その後ろ姿を伏し拜む友吉は、平手で拂ひきれぬ涙を拂ひ乍ら、この恩人の後ろ姿を、自分の眼に燒付けて居るのでした。
        ×      ×      ×
「おや、親分」
 目白坂で逢つたのは、汗みどろになつて驅けて來た八五郎でした。
「何處へ行くんだ、八」
「心細いな、親分。あの若黨友吉の行李かうりの中から、お玉のかんざし半襟はんえりが出て來ましたよ。それから、あの下手つくそな手紙は、友吉の筆跡に違ひないこともわかつたんだが――」
 八五郎の鼻はうごめきます。
「そんな物はもう要らないよ、――有馬之助は矢つ張り馬に蹴られて死んだんだ」
「へエ?」
「だが、一つ頼みがある。お前の早い足で行つて見るが宜い、鬼子母きしも神樣の裏の木立にまだあの男がウロウロして居るかも知れない。お玉の形見のかんざしと半襟を渡してやつたらさぞ喜ぶことだらう」
「――へエ――」
「それから歸りは明神下の俺の家へ寄つて見るが宜い、――今日は嬉しい事があつたんだ。一本つけて待つて居るぜ」
 平次はさう言ひ捨ててスタスタと目白坂を降りて、戀女房のお靜の待つて居る明神下の長屋へ急ぐのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十五卷 火の呪ひ」同光社
   1954(昭和29)年5月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1949(昭和24)年6月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「蝋」に対するルビの「らふ」と「ろふ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月20日作成
2017年3月4日修正
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