錢形平次捕物控

雛の別れ

野村胡堂





「こいつは可哀想だ」
 錢形平次も思はず顏を反けました。ツイ通りすがりに、本郷五丁目の岡崎屋の娘が――一度は若旦那の許嫁と噂されたお萬といふ美しいのが、怪我で死んだと聽いて顏を出しますと、手代の榮吉がつかまへて、死にやうに不審があるから、一應見てくれと、厭應言はさず、平次を現場へ案内したのです。
 それは三月の四日、雛祭ひなまつりもいよ/\昨日で濟んで、女の子にはこの上もなくうら淋しいが、はなやかな日でした。桃は少し遲れましたが、櫻はチラリホラリと咲き始めて、昔ながらの廣い屋敷を構へた大地主――岡崎屋の其處からはお茶の水の前景をこめて富士の紫まで匂ふ美しい日、この情景とはおよそ相應はしくない、陰慘なことが起つたのでした。
「これはひどい」
 平次はもう一度うなりました。二十一といふと、その頃の相場では少したうが立ちましたが、兎にも角にも、美しい娘盛りのお萬が、土藏の中、――丁度階子段の下のあたりで巨大な唐櫃からびつの下敷になつて、石に打たれた花のやうに、見るも無殘な最期を遂げてゐたのです。
「あ、親分」
 平次の顏を見ると、必死の力を出して、娘の死骸の上から唐櫃を取除けた父親の半九郎――岡崎屋の支配人――は氣狂ひ染みた顏を擧げて、平次に訴へるのでした。その絶望的な瞳には、形容しやうもない狂暴な復讐心が燃えるやうでもあり、運命にしひたげられて、反抗することのできない檻の中の猛獸の諦めがあるやうでもあります。
「親分さん、あんまりぢやありませんか。お萬の仇を討つて下さい」
 手代の榮吉はそつと袖を引きました。
 唐櫃は骨董こつとうやガラクタ道具を入れたもので、舊家にこんな物のあることはなんの不思議もありませんが、その唐櫃の中に、骨董品に交つて、巨大な漬物石が二つ――二三十貫もあらうと思はれるのが入つてゐたのは奇怪で、その上二階の階子段から少し離れて、安全な場所にある筈の二つ重ねの唐櫃が、何時の間にやら手摺てすりの側に寄つて、上のが一つ、欄干らんかんを越して轉がり落ちたのは尋常ではありません。
 見ると、唐櫃と一緒に二間餘りの長い綱で連絡した棒が一本と薄い板が庭に落ちてをり、その綱は有合せの短かいなはを三本も結び合せたもので、結び目が一寸見ると男結びに似たはた結びだつたことなどが、咄嗟とつさの間に平次の注意をひきます。
 お萬の死骸は全く見るも無殘でした。百貫近い唐櫃にひしがれて聲も立てずに死んだことでせう。
「親分さん、これが唯の怪我や過ちでせうか」
 手代の榮吉の言ふのも全く無理のないことです。
 兎も角も、お萬の死骸を家の中に移さして、これからひと調べといふ時、
「親分、大變なことがあつたんですつてね。何んだつてあつしを呼んで下さらなかつたんで」
 甚だふくれて飛び込んできたのは、ガラツ八の八五郎でした。
「八か、さう言つてやるひまがなかつたのさ。まア、手を貸してくれ。いゝ鹽梅だ」
「何をやらかしやいゝんで?」
「近所の噂を集めてくれ、いつもの通り」
「それだけですか」
「後は後だ。先づそれだけでいゝ」
 平次は八五郎を追つ拂ふやうにして、死んだお萬にひどく同情を寄せてゐる手代の榮吉から調べ始めました。


 この男はもう三十を越したかもわかりません。典型的なお店者たなもので、物柔かな調子や、蒼白い顏や、物を正視することのできない臆病な態度など、岡つ引に取つては、くみし易い方ではありません。
「先代の旦那樣は、安兵衞樣と仰しやつて、一と月程前に亡くなりました。病氣は卒中といふ見立てでございました。若旦那の安之助樣は、二年前から勘當され、潮來いたこの遠い親類に預けつ放しで、親旦那樣の御とむらひにもお呼びになりません」
「世間並の道樂でもしたといふのか」
「へエー、まアそんなことでございます――お萬さんと一緒になるのが嫌だと仰しやつてツイ家を外になさいましたので、番頭さんへの義理で勘當なすつたやうに世間では申してをります」
 榮吉はこれだけの事を言ふのが精一杯でした。
「岡崎屋の身上しんしやうは?」
「私にはよく判りませんが、貸地家作、貸金が大層な額で先づざつと二萬兩――」
「それは大したことだな。跡取りはどういふことになるのだ」
「大旦那樣が大層お腹立で、若旦那樣の勘當を許すと仰しやらずに亡くなつてしまひましたので、矢つ張りお孃樣のお琴さんに御養子をなさることになりませう」
「一番馬鹿を見たのは、番頭の半九郎だな。娘のお萬が岡崎屋の嫁になり損ねた上、こんなにむごたらしく殺されては」
「へエー」
「お萬を怨む者はないのか」
「あるわけは御座いません、――陽氣で話好きで、皆んなに好かれてをりました。嫌ひだつたのは若旦那だけで」
「若旦那の安之助は、そんなにお萬が嫌ひだつたのか」
「へエー」
 それがかうじて勘當されることになつたのでせう。
「口を利く親類は?」
「舊いおたなですが、江戸には遠縁の御親類が二三軒。あとは木更津や、潮來いたこにあるだけで」
支配人ばんとうの半九郎は、唯の奉公人か」
「いえ、遠い親類だと申すことでございます」
「ところで、この家に、田舍で育つた者があると思ふが――」
 平次の問ひは妙な方へ飛びます。
「下女のお文と、飯炊きのお今は田舍で育ちました。お文は房州で、お今は相模さがみで、そんなものですね」
「男では」
「男は皆んな江戸生れです。支配人も、私も、與七さんも」
「その與七さんといふのは?」
「先代が亡くなつた大旦那と懇意こんいだつたさうで、奉公人とも客とも付かず、三年前からをります」
「その男に逢つて見よう」
 平次はひどく好奇心を動かした樣です。
 が、逢つて見て驚きました。暗がりから牛を曳出したやうな男といふのは、この與七のためにできた形容詞けいようしでせう。一々噛みしめてから物を言ふやうな、言葉も動きも、恐ろしくテムポの遲い人間で、二こと三言話してゐると、ヂリヂリ腹が立つて來るのです。
「お前さんは與七さんだね」
「へエ、――世間では――さう申します」
 二十五六の良い若い者が、すべてこの調子で受け答へをするのでした。
「世間でさう言ふから、與七見たいな氣がするといふのかえ」
「へエ」
 平次はツイ、ポンポンやりました。ニヤリニヤリと薄笑ひしながら、恐ろしくねばつた調子で、こんな齒切れの惡いことを言ふ人間を、平次は見たこともありません。
「今朝お前は何をしてゐたんだ」
「いつもの通り、帳面をして居りました。家賃や地代の拂はない分をまとめて、五日には一と廻りしなきやなりません」
 これだけのことを言ふのに、ざつと四半刻(三十分)もかゝりさうです。この調子で地代家賃の居催促ざいそくをされたら相手はさぞ參るだらうと思ふと、ポンポン言ひながらも平次はツイ可笑しくなります。
「お萬は人に殺されたんだぜ。お前さんに下手人の心當りはないのか」
 露骨に直截に言ふ平次。
「へエ、――殺されましたかな。――あの女ばかりは人に殺されさうもない女でしたが」
「何故だい」
「ガラガラして、薄つぺらで、氣輕で、尻輕で、人間が面白くて、浮氣つぽくて」
「大層惡く言ふんだね。――お前も怨みのある方かい」
「御冗談で、――私はあんなのは蟲が好きません――死んだ者を惡く言つちや濟まないが、――もつとも、若旦那と來た日にや、顏を見るのもイヤだと言つてゐましたよ」
「お前さんとこの家は、どういふ引つ掛りになるんだ」
「私の親父と、亡くなつた大旦那は無二の仲でしたよ。――たつたそれだけのことで」
 噛みしめながら物を言ふくせに、この男には恐ろしく遠慮のないところのあるのを見て取ると、平次はもう少し突つ込んで訊く氣になつたのです。
「今朝、倉の扉を開けたのは誰だえ」
「榮吉どんの役目です。今朝に限つたことぢやありません。毎朝顏を洗ふと、帳場から鍵を持つて行つて土藏の大戸を開け、それから中へ入つて、二階の窓を開けるんです」
「それから誰も倉へ入つた者はあるまいな」
「そいつは判りません」
 與七はキナ臭い顏をするのでした。
「ところで、外にかはつたことはないのか」
「かはつたことといふと、この間から變なものが無くなりますよ」
「變なもの?」
「役にも立たないものが無くなるんで」
「例へば?」
火箸ひばしが無くなつたり、鐵瓶てつびんふたが無くなつたり、足袋が片つぽ無くなつたり、貝杓子びしやくが無くなつたり、支配人の煙草入が無くなつたり、私の紙入が無くなつたり」
「フーム」
「まだ澤山無くなりましたよ。筆、墨、矢立、徳利、お孃さんの手箱の鍵、用箪笥ようだんすの鍵、お今どんの腰紐、お萬さんのかんざし、お文どんのくし、――」
「それは大變なことぢやないか」
「尤も、大概出て來ました。翌る日か、遲くて三日目くらゐには、誰かが見付けます。簪が火鉢の灰の中に突つ立つてゐたり、擂粉木すりこぎが佛壇の中にあつたり、徳利が水甕みづがめの中に沈んでゐたり」
「みんな出て來るのか」
「中には二つ三つ出て來ないものもありますが、大概はつまらないもので、出なくたつて大した不自由はしません」
「何時頃からそんなことが始まつたんだ」
「大旦那が亡くなつて間もなくでしたよ」
「フーム」
「大旦那が亡くなつた後で、支配人の半九郎さんが、有金や證文を調べると仰しやつて、家中から倉の中まで調べました。その後間もなく變な泥棒が始まつたんです」
「誰かの惡戯いたづらかな」
「惡戯にしては念が入り過ぎます。――尤も最初は鼠かと思ひましたが、鼠は鐵瓶の蓋を抽斗ひきだしの中へなんか入れません」
「フーム、面白いな」
「ちつとも面白くはありませんよ」
 この惡戯者には、與七も、ひどく腹を立ててゐる樣子です。
「で、その中でたうとう出なかつたのは何と何だ」
 平次の注意は細かく動きます。
「お文さんのくしと、用箪笥の小抽斗の鍵が一つと、お今さんの足袋が片つぽと、――尤もこれはお文さんから新しいのを貰つたやうですから諦めが付くが、私の紙入は出て來ません」
「いくら入つてゐたんだ」
「大したことぢやございませんが、それでも小粒で二兩ばかり」
 與七が怨み骨髓こつずゐてつするのはそのためだつたのです。


 平次はもう一度榮吉に逢つて見ました。これは與七をあまりよくは思つてゐない樣子ですが、それでも與七の言つたことは大體承認し、倉の戸を開けに行つたのも、二階の窓を開けたのも自分だが、朝は倉の中に何んの變りもなかつたと言ひ、その後では誰が入つたか知らないと言ひ張ります。
 暮から小さい物の盜まれるのは、榮吉も苦々しく思つてゐるらしく、これは誰の仕業しわざにしろ、ついでに平次に搜し出して貰つて、うんとこらして頂きたいといふ意見です。
 その時、
「親分、みんな判りました」
 飛んで來たのはガラツ八の八五郎でした。
「何が判つたんだ」
 平次は眼顏で誘つて、倉の蔭の方に歩き出しながら、ガラツ八の集めた材料を訊きました。
「變な家ですぜ、この家は」
「變な家といふと?」
「第一、先代の主人安兵衞は、卒中で死んだことになり、寺方で無事に葬式を受けたが、どうも尋常の死にやうぢやないといふ者がありますよ」
「誰だえ、そんなことを言ふのは?」
「横町の小唄の師匠で」
「横町の小唄の師匠は、何んだつてそんなことを知つてゐるんだ」
「與七が毎晩のやうに絞め殺されさうな聲を出しに行くさうですよ」
「へエ――、あの男がね。人は見かけによらないといふが、こいつはよらなさ過ぎるぜ」
 暗がりから曳出された牛のやうな、生活のテムポの恐ろしく遲い男が、黄なる聲を出して小唄を唄つたら、一體どんなことになるだらうと思ふと、平次もツイ吹出しさうになります。
支配人ばんとうの半九郎は、先代の主人が死ぬとすつかり羽を伸ばして、今ぢや店中を切り廻してゐるが、親類中には半九郎の仕打が氣に入らないものもあるから、いづれ一と騷ぎ始まるだらうといふことですよ」
「フーム」
「現に、この十日には親類が顏を寄せて岡崎屋の跡取りを決めることになつてゐるさうで――」
「跡取りは勘當されて潮來いたこに居る伜の安之助でなきや、娘のお琴だらう」
「先代の主人は、生きてゐるうちに、安之助の勘當を許す氣があつたと言ひますよ。卒中で不意に死んで、それを運び兼ねたが、遺言ゆゐごんをするとか、遺言状を書く力があつたらきつと若旦那の勘當を許したに違ひないと――」
「そいつは誰の言葉だ」
「近所の衆は若旦那贔屓びいきで、みんなさう言ひますよ。許嫁のお萬を嫌つて、どうしても祝言しないばかりでなく、ツイ家を外にすることが多くなつたから、亡くなつた主人も支配人の半九郎(お萬の父)への義理で、若旦那を勘當したに違ひない。あのお喋舌しやべりで浮氣つぽくて容貌きりやう自慢で、若旦那とはまるつきりそりの合はないお萬と一緒にされるが嫌で、ツイ自棄やけなことがあつたかも知れないが、それくらゐのことで勘當されちや若旦那の方が可哀想だ――とそれは御近所衆の噂で――」
「亡くなつた主人は、支配人の半九郎に、それほど義理があつたのかい」
「主人の弱い尻を掴んでゐるのだらうとか、主人の命の恩人だとか言ひますが、眞當のことは解りませんよ」
 八五郎の持つて來た材料たねはそれだけ。しかし思ひの外役に立ちさうな種だつたことは、平次の會心の笑みにも見えるのでした。


 平次は檢屍に立會つた上、一と通り家の中を見せて貰ひました。本郷きつての大地主で、幾百軒とも知れぬ家作持と言はれるにしては、思ひの外質素な生活くらしですが、何うしたことか店も奧も滅茶々々の荒しやうで、壁が落ちたり、戸棚が引つくり返されたり、何にか大風の吹いた跡のやうな淺ましさを感じさせられるのです。
「何を探したんだ。――先代の隱した寶でも見付からなかつたのかい」
 平次は誰へともなく言ひました。主人が死んで何千、何萬といふ身上の隱し場所が判らなくて、天井も床も剥いだ淺ましい家を、平次は稼業柄幾度も見てゐるのです。
「飛んでもない。――先代大旦那の亡くなつたのは急で御座いましたが、支配人の私が帳面も金も預つてをりましたので、びた一文も不審な金はございません」
 どこで聽いてゐたか、支配人の半九郎は平次の不審に應へるやうに顏を出しました。娘のお萬が非業に死んで、その打撃の重大さに押しのめされながら、それでも大家の支配人としての責任に目覺めて、辛くも事務的な心持に立還たちかへつたと言つた世にも痛々しい姿です。
「支配人さん、飛んだことだつたね。娘さんの敵はきつと討つてやるが、――私の訊くことに、何事も隱さずに話して貰ひたいが、どうだらう」
「それはもう。親分さん、どんなことでも」
 半九郎は、蒼い顏を擧げました。五十前後の柔和にうわな男です。
「第一に訊きたいのは、亡くなつた主人とお前さんの關係だ」
「へエ――」
「遠縁のつながりがあるとは聞いたが、その他に何にか深いわけがあると思ふがどうだらう」
「ひどい強請ゆすりに逢つてお困りのところを、少しばかりお助けしたことがありますが、外に何んにも御座いません。唯よく判つた御主人でございました」
「お前さんがこゝへ來てから何年になるんだ」
「三年で御座います」
「もとは?」
「柳橋の船宿にをりました」
「その前は」
「いろ/\のことをいたしました」
 平次はチラリと八五郎の方を振り向くと、心得た八五郎は、スルリと外へ拔け出してしまひました。半九郎の身許前身を、得意の順風耳で聽出して來るつもりでせう。
「ところで、隱した寶を探したんでなきア、何んだつてこんなに家を荒したんだ」
「そのことでございます、親分さん」
 半九郎の言ふのは尤も至極でした。それは先代の安兵衞が一度は自分達父娘おやこへの義理で若旦那の安之助を勘當したが、もと/\憎くて勘當した伜ではなく、いづれ許す氣で時節を待つてゐるうち、その機會きくわいはなくて、不意に死んだに違ひない。
「――卒中で死んで遺言はありませんが、用心の良い御主人のことですから、遺言状くらゐは置いて、どこかに隱して置いたかもわかりません。若旦那樣を許すと書いた遺言状さへあれば、五日後に迫つた親類會議も無事に濟んで、若旦那を潮來いたこから呼戻されます。――私が家中を探したのは、遺言状を見付けたかつたためで御座います」
「――」
「岡崎屋の身上は、土地も家作も貸金も、世間で考へた倍もある上、現金だけでも三千兩はございます。支配人の私がそんなものを探すわけがあるでせうか」
 半九郎は昂然かうぜんとして頭を擧げるのです。
「成程さう聽けば立派なことだ。が、遺言状は?」
「困つたことに、ありませんよ。矢つ張り若旦那は運がなかつたんですね。たつた一言許すと書いた遺言状がなければ、御親類方の手前、若旦那を跡取りに立てることもなりません」


 娘のお琴は、病身らしい弱さうな體と、それにもまして弱い心の持主でした。十七といふにしては智慧も遲く、何を訊いてもらちがあかず、唯今朝は自分で雛壇ひなだんを疊んで雛の道具を土藏へ運ぶ筈だつたが、氣分が惡かつたので止してしまつて、下女のお文に頼んだところ、お萬が手傳つてくれて飛んだことになつたといふことを、おろ/\した調子で話すだけです。
「ところでお孃さん、若旦那が潮來いたこから歸らなきや、岡崎屋の血續の者といふとお前さんたつた一人だ。――この家に住んで淋しいやうなことはありませんか」
 薄暗い家の中の空氣と、ひと癖あり氣な奉公人達の中にたつた一人取殘されたやうなお琴の存在は、他から見ても何んとなく淋しくたよりないものだつたのです。
「淋しいと思つても仕方がありません。それに、出代りで、今日はお文が歸ることになつてゐます。あんなに私へよくしてくれたのに――」
 お琴は本當に淋しさうでした。が、平次もなぐさめやうはありません。
 飯炊きのお今は四十がらみの相模さがみ女で、これは何んの技巧も上手もない女。
「今朝榮吉が土藏の戸を開けてから、誰か入つたものはなかつたのか」
 平次の問ひに對して、
「あつたかも知れないが、こゝからは見えませんよ」
「お前ははたを織つたことがあるかい」
「ありますよ。田舍で育つたものは、一と通り嫁入支度に稽古しますだ。私は木綿機しか知らないが、お文さんは絹機も上手に織つたさうですよ」
 お今の答へから、唐櫃からびつを落した仕掛けの綱の結び目のことを、平次は考へてゐたのです。
 それから又家中の者を訊き廻りましたが、朝の一と刻は忙しいので、誰が倉へ入つたか見定めた者もなく、平次の骨折も何んの收獲もありません。多分唐櫃は前々から移して置いて、今朝一寸ばかり仕掛をして落したのでせう。
 最後に逢つたのは下女のお文、十九といふにしてはがらも大きく、色の淺黒い、聰明さうな娘で、目鼻立もキリリとして、美しいといふ程ではなくとも、何んとなく人に明るさと頼母たのもしさを感じさせます。
「お前は今日歸るさうぢやないか」
「ハ、ハイ」
「奉公人の出代りは今日だらうが、この騷ぎの中から出られちや困るだらう。一應片付くまで歸るのを延ばしちやどうだ」
「でも、あの、支配人さんが」
「支配人の半九郎が歸れといふのか」
「――」
「ところで、今朝雛壇の片付けを手傳つたのは、お前のでき心か、それとも誰かに頼まれたのか」
「お雛樣の始末だけは、いつでもお孃樣がなさいます。でも今日はひどくお氣分が惡さうでしたから、私が手傳つて上げると、お萬さんも來て、一緒に片付けてくれました」
「倉へ行つたのは、お前が先だつたといふぢやないか」
「え、――私のは箱が大きくて入れなかつたので、倉の入口でお萬さんが先になりました」
 その時のことを思ひ出したか、お文はさすがにふるへてゐる樣子です。
「お前はこの家に何年奉公してゐるんだ」
「今日で丁度三年になります」
「家へ歸りたいのか」
「いえ、――でも」
 平次を見上げた賢こい眼には、涙をふくんでをります。粗末な木綿物を着て、白粉つ氣もないこの平凡な娘に、不思議に清らかな魅力を見出して、平次はいろ/\のことを考へさせられました。
 その日の調べは、それで切り上げる外はありません。最後に念のために、もう一度土藏の中を見ましたが、二階の唐櫃の落ちたのは矢張り曲者のたくみにたくらんだ仕掛けで、大きな雛の道具を入れた箱を持つて、足元を見ずに登つたとすると、必ず第一段目で仕掛けの板を踏み、綱に加はつた力が上に傳はつて、危ふく手摺てすりから乘出させた唐櫃が、百貫近い重さで、丁度下にゐる人間の頭の上に落ちるやうになつてゐたのです。
 お今に訊くと、漬物つけもの石はよく洗つて、階下の漬物倉に置いたもの。一つの目方が十貫近く、これを樂々と持ち運べるのは家中に幾人もありません。
 歸る時支配人の半九郎に、下女のお文を宿へ歸さないやうに頼みましたが、どうしたことか半九郎はあまり好い返事をしてくれないばかりでなく、
「あの娘は惡い癖がありますから」
 と露骨に嫌な顏を見せるのでした。


 その晩、平次に代つて、ガラツ八の八五郎が岡崎屋を見張りました。
 支配人半九郎、かゝうど與七、手代榮吉、下女お文、お今――などの身許調べは下つ引五六人を狩り出して、手一杯に働かせたことは言ふまでもありません。
「八、若い女二人に氣を付けろ」
 平次が注意したのはたつたそれだけ。八五郎はその意味が判らないながらも、下女のお文をお琴の部屋に一緒に寢かした上、自分はその隣りの部屋に頑張つて、たうとう夜を明かして了ひました。ガラツ八の玉蛇をろちのやうな鼾聲いびきごえが、完全に若い女二人を護り通したのでせう。
 翌る朝、平次がやつて行くと、八五郎は凡そ酸つぱい顏をして、何やら考へてをります。
「どうした八」
「あ、親分、お早やう。――たうとうひ出されてしまひましたよ」
「何が出されたんだ」
「あの娘が約束通り暇を出されて、ツイ先刻宿元へ下つた許りですよ」
「下女のお文か」
「歸る時、そつと私に渡して行つたものがあるんで」
「何んだい、それは?」
「尤も、物を言ふ隙も、手紙を書く折もなかつたが、これぢやまるで見當が付かねエ。ね、親分」
「娘が何を渡したんだ」
「これですよ、菱餅ひしもちが三つ」
「そいつは飛んだ判じ物だね。あわびツ貝か何かなら戀と判ずるが――」
「冗談でせう」
「菱餅ぢや古歌にもないとよ」
「本當に何とか判じて下さいな、親分」
「どれ、見せな、――おや、おや、草色の餅と白い餅の間に、鍵の型が附いてゐるぢやないか」
「へエ――」
「鍵の型があつて鍵が無い――と」
 平次の頭腦は忙しく働きました。昨日掛り人の與七から聽いた話の中に、この間から店中でいろ/\の物が無くなり、大概は變なところから現はれて來たが、用箪笥の小袖斗こひきだしの鍵と、お文のくしと、與七の紙入だけは出なかつたといふことが、この菱餅の中に隱された鍵と暗合するのではなかつたでせうか。
 小粒で二兩入つてゐたといふ與七の紙入は、往來か錢湯か、横町の師匠のところで紛失なくし、お今の足袋は犬でもくはへて行つたとすると、この家で無くなつた品で本當に發見されないのは、用箪笥の鍵と、お文の櫛と、たつた二つだけになります。
 お文の櫛は、お文自身が隱したものとして、もしその惡戯者がお文だつたら、用箪笥の鍵の紛失の意味を隱すために、いろ/\の愚にもつかぬ品を隱して、家中の注意を外らしたとも見られないことはありません。
 かう考へると、急に暇を出されたお文が、鍵のもつ重大な意味と、昨日までその鍵を隱して置いた場所を暗示するために、鍵の型の附いた菱餅を、ガラツ八に渡して行つたのではないでせうか。
「八、お前はその菱餅をどう思ふ」
「あの娘は親切者ですよ。節角貰つた菱餅を食ふ隙がなかつたんで、あつしにくれて行つたんでせう」
「馬鹿だなア。――その菱餅に大事な鍵が隱してあつたんだ。――菱餅に隱した鍵は、節句せつく過ぎには見付けられる。――その時、お前ならその鍵をどこへ隱す?」
「懷中か、たもとの中へ入れますよ」
「支配人に身體を調べられるかも知れない――今までもそんなことが時々あつたとしたら」
「さア」
「三日の夜か、四日の朝だ。雛を片付けながらの思案だから、――俺なら雛箪笥ひなだんすへ入れる」
「成程ね」
「來い八」
 二人はそつと倉の中に入りました。昨日仕舞ひ込んだ雛の道具の中から、高蒔繪たかまきゑの可愛らしい雛箪笥を見付けて、念のために振つて見ると、中でカラカラと鍵が鳴つてゐるではありませんか。
「八、この通りだ。――俺はこの鍵で少し細工さいくをして見る。お前はこの倉の中で大きな聲を出して人を集めてくれ。お萬殺しの證據が見付かつたとか、何んとか言やあいゝ、家中の者が來たら、その唐櫃からびつを落した仕掛けの綱を見せて、馬鹿なことでも喋舌しやべつてゐてくれ」
「馬鹿なことですか、親分」
 八五郎は少し不服さうでした。


 その日、平次は雛箪笥の中から見付けた鍵を、何んにも言はずに手代の榮吉に渡して歸りました。
 それから五日目岡崎屋の親類會議が開かれ、先代安兵衞の遺言状も何んにもなかつたために、勘當された若旦那の安之助は、矢張り潮來いたこから歸れないことになり、岡崎屋の家督は娘のお琴に婿を取つて繼がせることにし、半九郎はそのまゝ支配人として留ることに決定しかけた時でした。
「暫らく待つておくんなさい」
 錢形平次は、八五郎と下つ引二人をつれてようやくその席へ驅け付けたのです。
「錢形の親分、――この親類の話合ひに、何にか不足でもあると言はれるのか」
 支配人の半九郎はきつとなりました。
「大不服だ」
「何?」
「用箪笥の奧の隱し抽斗にあつた、先代の遺言状――伜安之助の勘當を許し、岡崎屋の家督、相違なく相嗣あひつぐべきもの也――といふ直筆に判をしたのを破つて捨てたのは誰だ」
「えツ」
「俺はそれを察して、鍵を手代の榮吉に渡し、榮吉から支配人に渡すやうに仕向けた。尤も眞物ほんものの遺言状を拔いて、用箪笥には寫しの僞物にせものを入れて置いたとは氣が付くまい。お前が破つて捨てたのはその僞物の遺言状だつたんだ」
「――」
「眞物はこの通り、こゝにあるぞ。御親類方、この半九郎にだまされて、罪のない若旦那の安之助さんを日蔭物にしちやいけません」
「――」
「まだあるぞ、半九郎――たつた一人殘つた岡崎屋の血統――お孃さんのお琴さんを殺すつもりで土藏に仕掛けた唐櫃からびつ、お琴さんが氣分が惡くて、お前の娘のお萬が行つたばかりに、あのむごたらしい死にやうをしたのを忘れはしまい」
「嘘だ、嘘だツ――何を證據に」
「死んだ娘の死骸の前で、もう一度それを言つて見ろ。可哀想にお萬は、親の惡心のために、罪もなくて死んで了つたのだぞ」
「嘘だツ」
 半九郎は立上がつて、自分ののどを掻きむしりながら皺枯聲しわがれごゑで叫ぶのです。狂暴な眼玉が、今にも脱出しさうにギラギラと光ります。
「お孃さんを殺し、若旦那を日蔭者にして了へば、岡崎屋の身上は、お前達父娘のものになると思つたらうが、さうは行かないぞ。見ろ、この綱の結び目、巧みにたくらんではた結びにしたのは、萬一露見した時、下女のお文にお孃さん殺しの罪を背負せる氣だつたが、お文にはあの十貫目以上もある漬物石は運べない」
「――」
「お前は柳橋へ來る前、上州の機屋に長い間奉公してゐたことを、下つ引が五日がかりで調べ上げて來てゐるぞ」
「嘘だ」
「嘘か、嘘でないか、お前の娘お萬を殺したこの仕掛の綱に訊けツ」
 平次の叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)の前に、一度は崩折れた半九郎は、目の前に投げ出された綱を見ると、何を感じたかガバと飛び上がりました。
「お萬、――勘辨しろ、――お萬」
 バタバタと庭に飛び降り樣、生垣いけがきを越し、往來を突つ切つて、お茶の水のがけの上から、數十尺下の水へ――。それは實に一瞬のできごとで、平次もガラツ八も、留めやうもない凄まじい破局だつたのです。
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 それから一と月餘り經ちました。
「八、嫌な捕物だつたな。――でも、岡崎屋の若旦那が潮來いたこから歸つて來て、房州からお文を呼寄せ、嫁にする氣になつたのは嬉しいことだよ。亡くなつた主人の遺言状を見付けて、それを支配人に氣取られないやうにいろんな物を隱して用箪笥の鍵を守り通したのは、一寸細工過ぎたが、俺は近頃あんな良い娘を見たことはないよ」
 平次は岡島屋の後の始末を噂に聽いて、つく/″\八五郎にかう言ふのでした。
「八の嫁にも、あんな娘を欲しいなア。どうだお靜、お前の方に心當りはないか」
 お勝手で働いてゐる、まだ若くも美しくもある女房に、かう聲を掛ける時は、平次の心持が一番なごやかで暇な時だつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第二十五卷 火の呪ひ」同光社
   1954(昭和29)年5月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1942(昭和17)年4月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2016年9月9日作成
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