錢形平次捕物控

死人の手紙

野村胡堂





「親分、死んだ人間が手紙を書くものでせうか」
 あわて者のガラツ八は、今日もまた變梃へんてこなネタを嗅ぎ出して來た樣子です。
 町庇まちびさしの影がようやく深くなつて、江戸の秋色も一段とこまやかな菊月のある日、
「何を言ふんだ。生きてゐる人間だつて、書けねえのがうんとあるぜ」
 平次は月代さかやきあたつて貰ひ乍ら、振り向いて見ようともしません。尤も剃刀かみそりを持つて居るのは、片襷かただすきを掛けた戀女房のお靜。月代は漸く濟んだが、あごのあたりへ刄物が來て居るので、危なくて身體も動かせなかつたのです。
「だから、死人の書いた手紙は變でせう」
「變だとわかつたら、俺のところへきに來る迄もあるめえ、――今日は滅法忙しいんだ。お前なんかをからかつちや居られねえよ」
「へエ、それにしても大層なおめかしぢやありませんか、新情婦いろでも出來たんで?」
「馬鹿だなア、四方あたりを見てから物を言ふが宜い。後ろに立つて居るのは俺の女房だぜ」
「へツ、違げえねえ」
「その女房の手には刄物を持つてゐるんだ。冗談にも浮氣の話をされると、俺はヒヤヒヤするぢやないか」
「まア」
 戀女房のお靜、――内氣で忠實で、まだ若々しくさへあるのが、夫の平次と八五郎の度を過した冗談に、剃刀のやり場に困つて一瞬立ちすくんだ形になつたのも無理のないことでした。
「相濟みません。そんなつもりで言つたんぢやありませんよ。姐さんの前だが、親分と來た日にや、不粹ぶすゐで野暮で、女嫌ひで――」
「――けちで剛情で唐變木で――と、來るだらう」
 掛合噺かけあひばなしのうちに、お靜はざつと剃つて、いとしき夫の顎のあたりを、れ手拭で丁寧に拭いてやりました。二人の惡洒落には、相手になつてやらない覺悟をきめた樣子です。
「ところで、その死人の手紙ですがね、親分」
 八五郎はでつかい煙草入の中から、何やら小さく疊んだ紙を出して、自分の膝の上で念入りにのばして居ります。
「まだ、その死人の手紙がたゝつて居るのかえ。一體何處でそんな縁起の惡いものを拾つて來たんだ」
 平次は縁側に煙草盆を持出すと、八五郎の話をぼんのくぼに聽く恰好になつて、晝下がりの陽の中に、丹精甲斐の無い狹い庭を眺めて居ります。
「凄い年増ですよ、親分。ちよいと行つて見ませんか、――死んだ亭主から手紙を貰つてふるへ上がつて居るから、親分が顏を出しや、どんなに喜ぶか知れやしませんよ」
「年増でも新造でも、凄からうが當り前の人間だらうが、亡者まうじやから手紙を貰ふやうな女は嫌ひだよ」
「でも、ちよいと良い筆跡ぢやありませんか、こいつは何んとか流と言ふんだつてね」
 八五郎がそんな事を言ひ乍ら、膝の上で皺を伸ばしてゐる上へ、平次はフト好奇の眼を走らせました。
「なるほど見事な手だな。そいつは大師流たいしりうとか何んとか言ふんだらう、――どれ/\」
 平次の探求本能は、たうとう八五郎の期待に落ち込んで來たのです。
 手に取つて見ると、薄手の半紙に、美しい筆跡で書いたのが一枚。冷たいほどに取澄した文字に似ず、その文句は激越で深刻で、まこと鬼氣を帶びたうらみの數々が、綿々として綴つてあつたのです。

お前と矢並やなみ行方の不貞不信は許し難いが、夫の死後の行跡には冥府めいふの怨みもむくゆる由はない。谷口金五郎に至つては、莫逆ばくぎやくの誓を破つて毒計をめぐらし、この小倉嘉門を殺害せる罪、千萬供養を重ぬるといへども忘るゝ由はない。近く閻魔王ゑんまわううて彼の身邊に現じ、生き乍ら焦熱地獄に投げ入れて、阿鼻の苦患くげんめさせるであらうぞ。其方も前非を改めて、矢並行方を追ひ退け、身を愼んで罪を待つがよからう。
冥府にて、幽鬼 小倉嘉門
 こんな意味のことが、少したど/\しい文章で、板木はんぎで印刷された物の本のやうな、行儀の良い克明さで書かれて居るのです。
「どうです、親分。あつしにはよく讀めねえが、この手紙を貰つた凄い年増――小倉嘉門の後家のみさをさんと言ふのが、顫へ乍ら節をつけて讀んでくれましたよ」
 八五郎は首を伸ばしたり、額を叩いたり、長んがい顎を撫でたり、平次の感動を強調する作業に夢中です。
「變なことがあるよ、八」
「何が變なんです、親分」
「その紙を嗅いで見な、――馬糞臭まぐそくさいのはお前の煙草だが、その他に、プーンと斯う麝香ぢやかうの匂ひがするだらう」
「へエ?」
 八五郎は拳骨がモロに入りさうな、でつかい鼻の穴をひろげて、クンクンやつて居ります。
「それが本物の唐墨たうぼくの匂ひだよ、――地獄で亡者が、唐墨を使つて居るとは知らなかつたよ」
「へエ?」
 八五郎はまだ腑に落ちない樣子です。
「その亡者の手紙は、誰かの惡戯いたづらに違ひないよ。色つぽい後家と、その矢並とか言ふ武家の仲をねたんで、そんな手紙を書いた、二本足の亡者があるんだらう。あんまり騷ぐと笑はれるぜ」
「でも、この手紙の筆跡は、間違ひもなく死んだ夫――小倉嘉門の書いたものだと、後家のみさをさんが言ひますよ」
 八五郎は尚ほもねばりましたが、
「まア/\もう少し待つて、亡者がわざをするのを見ることだ」
 平次は御輿をあげようともしません。


 ところが、亡者のわざは思ひの外早く、その上、想像以上にあざやかなものでした。
「さア、親分。亡者がたうとうわざをしましたよ」
 八五郎が飛び込んで來たのは、それから三日目の朝でした。
「何んだ、相變らず騷々しいぢやないか」
「でもあの死人の手紙の通り、谷口金五郎といふ浪人者が殺されて居るんですぜ」
 平次はそれを聽くと、起ち上がつて手早く支度を始めました。八五郎をからかひ過ぎて、うつかり出動を遲らせた爲に、亡者に先手を取られた、淡いくいを感じて居るのでせう。
「さア行かう、何處だ」
 十手を腰に、麻裏を突つかけると、背後うしろに女房お靜の切火が鳴ります。
「少し遠いんですがね」
「まさか地獄の一丁目ぢやあるめえ」
「なに、麹町の二丁目で」
 二人は洒落しやれのめし乍ら、神田明神下から、麹町二丁目へと飛びます。
 八五郎が案内したのは、二丁目の裏通り、御用空地に面した三軒建の長屋で、場所柄でもあり、木口も建具も調度も、浪宅とは思へぬ洒落れたものでした。
 三丁目寄りの一番端つこは殺された谷口五郎の浪宅で、その隣りの眞ん中の家は、小倉嘉門の後家みさをの住家、そして最後の一軒には、亡者の手紙でのろはれた、矢並行方といふ若い浪人者が住んで居ります。
 問題の家、谷口金五郎の浪宅へ入つて行くと、六丁目の銀六といふ顏の良い御用聞が、手下の若い者と共に、物々しくも堅めて居ります。
「お、錢形の親分。遠いところを、よく聽き込んだね」
 六丁目の銀六は、ねたましいやうな、小腹の立つやうなその癖心からホツとした樣子でした。
「なに、八の野郎が聽き込んでね」
 平次はさり氣なく應へます。
「兎も角、見てくれ。大變な殺しだよ」
 銀六はそれでも、打ち解けた樣子で家の中へ平次を誘ひ入れました。
 入口は二疊で次が六疊二た間、手前は茶の間で、奧は主人の部屋になつて居ります。
 血の海の中にしよんぼり坐つて、死體を自分の身體で隱すやうにして居るのは、十九か二十歳はたちの美しい娘でした。武家風の匂ひもない、色白のつゝましやかな娘、平次の影が射すと、僅かに擧げた顏が、涙に蒸されて上氣のぼせて居るのさへ、言ひやうもなく物哀れです。
「お孃さんのお百合ゆりさんだ」
 銀六はさう言つて、平次のために道を開きました。
「お氣の毒な――」
 平次は獨り言を言つて死體に近づくと、娘の横からそつと差し覗くのです。
 谷口金五郎は五十そこ/\、脂ぎつた身體には、まだ若さが殘つて居りますが、手足は思ひの外華奢きやしやで、血を失つた顏は蒼くさへ見えます。
 傷口は喉笛のどぶえから右耳の下へなゝめに割いた凄まじいもので、得物は匕首あひくちか脇差か、肉のハゼて居るところを見ると、相當刄の厚いものらしく、老巧練達な五十年輩の武家を蟲のやうに殺した手際は容易ではありません。
 部屋の中は取亂した樣子もなく、小机が一つ、手文庫が一つ、燭臺の蝋燭らふそくは燃え盡きて、血潮の中に浸つた座布團の上に、谷口金五郎の死體は、晝の身扮みなりのまゝ横仆よこだふしになつて居るのでした。
「盜られたものは?」
 平次は娘の方に向き直りました。
「何んにもございません」
「このお姿を見付けたのは?」
「今朝、私が二階から降りて、お食事の仕事を濟ませ、いつものやうに雨戸を開けて、縁側から聲を掛けましたが返事がないので障子を開けますと、――」
 お百合は固唾かたづを呑むのです。その時の驚きを思ひ出したのでせう。
「戸締りは?」
「變りはございませんでした。縁側の雨戸のさんも落ちて居りましたし、お勝手も、入口も何んの異状もなかつたと存じます」
「――」
 平次はうなづいて起ち上がると、八五郎に手傳はせて、縁側の四枚の雨戸を閉めて見ましたが、其處で意外なことを發見したのです。
「棧はひとりでりるんですね、――これぢや下手人は内の者と限らないわけで」
 フエミニストの八五郎は、若くて美しいお百合が下手人でなくてホツとした樣子です。
「御父上、御武藝の方は?」
 もとの座にかへつて平次は訊くのです。
「讀み書き算盤そろばんが得手で若い時から御藏方の役目を仰せ付けられ、武藝に勵むいとまもなかつたと、そればかりを苦にいたして居りました」
 お百合はさすがに首を垂れるのです。
昨夜ゆうべ、お客は?」
「ございませんでした。昨夜ばかりでなく、父は附き合ひ嫌ひで、滅多に客も參りません」
「日頃父上を怨む者などは」
「さア」
 お百合は首をかしげるのです、若い娘には思ひ當らない樣子です。
「お孃さんの御縁談などは?」
「――」
 娘は默つて首を振るばかりでした。


「錢形の親分。どうだい、見込みは?」
 庭へ降りて、乾ききつた軒の下に、ありさうもない足跡などを搜して居ると、六丁目の銀六は、うさんの鼻をうごめかし乍ら近づいて來ました。
「まだ何んにも」
 平次は素直に頭を振ります。
「お孃さんのお百合さんをしつこく追ひ廻して居た男のことを聽いたことだらうな」
「いや」
「それは又錢形にも似氣ない、――お孃さんがあんなに綺麗だから、町内にも氣のある者は三人や五人ぢやなかつたが、その中でも飛んだ清玄せいげんが一人あつたのだよ」
「フム」
「もと谷口家に奉公して居た、喜三太といふ若黨だよ。ちよいと小意氣な三十男だが、あらう事か、主人のお孃さんに逆上のぼせて、手籠めにしたとかしないとか、一時は大變な騷ぎもやつたが、親御の、――谷口金五郎さんに見付けられて、手ひどくたしなめられた上に追ひ出され、四谷の親類に身を寄せて、相變らずウロウロして居たのだ」
「――」
「現に昨夜も宵から家を飛び出して、夜半近くなつてからぼんやり歸つたと聽いた。若い者をやつて有無を言はせず繩を打たせ、見付の番所に預けてあるが、念のために行つて見ちやどうだ。いや、飛んだおうまやの喜三太さ」
 六丁目の銀六は如何にも得意さうでした。わざ/\神田から來た錢形平次の鼻を明かして、あごの下から下手人をさらつたのが、この中年男の自尊心を、すつかり滿足させたのです。
「それは宜い鹽梅だ。が、その喜三太とかを見る前に、俺は二三人逢つて置き度い人間があるよ。六丁目の親分は先へ行つてくれまいか」
「あ、宜いとも。それぢや錢形の親分が來る迄に、口書くちがきの用意でもして置かう」
 六丁目の銀六が、宜い心持さうに立ち去つた後、平次の背後うしろからそつと囁く者があるのです。
「喜三太はそんな惡い人ぢやありません。助けてやつて下さい、親分」
 振り返ると娘お百合の、それは突き詰めた顏でした。自分を追ひ廻して、手籠にまでしようとした下僕しもべに對して、斯んな眞劍な同情を持つのは何んとしたことでせう。よく伸びきつた美しい姿、健康さうではあるが、申分なく優しい人柄などを、平次はどんなに好もしいものに見たことでせう。
「お孃さん、心配なさることはありませんよ」
「?」
 平次は妙に引受けたやうな事を言つて庭續きの第二の長屋、小倉嘉門の後家みさをの家へ行くのです。
 小倉嘉門の後家の家は、谷口金五郎の家とよく似ては居りますが、それよりは更に贅澤で、いくらか女世帶らしい色彩しきさいがあります。
 取次ぎに出たのは六十年輩の下女、お倉といふのださうですが、少し耄碌まうろくしてゐる上に耳が遠く、何を言つても要領を得ず、さすがの平次も持て餘して居るところへ、聞き兼ねた樣子で、奧から女主人のみさをが出て來ました。
 それはパツと咲き誇つた牡丹ぼたんのやうな女でした。少し御守殿風な野暮つたさはありますが、あぶらののりきつた三十二三の女盛りで、まさに非凡の魅力です。
あつしは神田の平次といふものですが」
 と名乘るのを、
「存じて居ります。こちらからこそお願ひ申上げ度いと思つて居りました。さア、どうぞ」
 まことに手を取らぬばかりの丁寧な應待です。
 通されたのは奧の六疊で、丁度隣りの谷口金五郎の部屋――あの死體を置いてあるところと壁一枚をへだてて居る樣子。
「ところで早速ですが。御内儀、昨夜のお隣りの騷ぎに氣が付きませんでしたか」
 平次は座も定まらぬうちに第一問を出しました。
「いえ、――私は飛んだ寢坊で」
 操は極り惡さうに笑ふのです。
「でも、お隣りへ人が來れば、わかる筈だと思ひますが」
 平次はさう言ひながら壁隣りへヂツと耳をすますのです。
亥刻よつ(十時)過ぎに人の話聲が聽えたやうですが――あまり氣にもせず眠つてしまひました」
 操は言ひかけて口をつぐみました。
「お隣りとのお近付きは」
「七年前まで、谷口樣と私の配偶つれあひの小倉嘉門と、右隣の矢並樣御先代伊織いおり樣とは、御同藩でございました」
「いづれの御藩で?」
「申上げにくいことですが、いづれは知れずに濟まないことと存じます。加州の支藩、とだけ申しませう。私の配偶つれあひは江戸御留守居、谷口樣と矢並樣御先代は御倉屋敷の係りで」
「――」
 平次は默つて先を促します。
「七年前の秋、國許から差送られた御用金一萬兩、築地の倉屋敷に押入つた賊のために奪はれ、係りの谷口樣矢並樣は切腹仰せ付けられる筈のところ、私の配偶小倉嘉門の取なしで長のいとまに相成り、なまじ口をきいた私の配偶も、讒者ざんしやのために君前を遠ざけられて、身を退いて三名此處の三軒長屋に落着いて、歸參の時節を待つて居りました」
「――」
「三年目に矢並樣先代伊織樣は病死、續いてこの春私の配偶つれあひ小倉嘉門も、お隣りの谷口樣のところに招かれて、したゝかに酩酊して歸り、その夜のうちに相果てました。殘るは谷口金五郎樣お一人だけ、御歸參のかなふやう、百方手を廻してゐらつしやいましたが、それも昨夜、非業の最期を遊ばしました」
 みさをは大して物を隱す樣子もなく、うスラスラと打ちあけてくれるのでした。


「御内儀、これはどうしたわけで」
 平次は紙入の中から、亡者の手紙を出して、操の前に押しやりました。
「ハイ」
 操はハツとした樣子で、思はず居住ひを直すと、片手を疊に落しました。今までの打ちとけた艶容えんようが改まつて翳つた青い眉、激情にそよぐ睫毛まつげ、――有髮うはつの尼と言つた愼しみ深い姿になるのでした。
「こんな手紙は、そつと燒き捨てるのが、女のたしなみのやうに思ふが、それを八五郎風情に見せたお心持は、あつしには呑込み兼ねますが――」
 平次は遠慮なく突つ込んで行きました。
「御尤もなお言葉、私の淺薄あさはかさ、今更面目次第もございません。――でも矢並樣とのことは、世上の噂の方が大變で、どんなに隱しても、いつかは親分方のお耳に入りませう。それに橋渡しをする人があつて、矢並樣もまだお獨身ひとりみのことでもあり、年上の私を承知で、晴れて一緒になるやうにと、勤められて居る折でもございます」
「――」
 操は靜かに、そして至極當り前の事の樣に言ふのです。
「それに、夫嘉門が死んだのは、胃の病の吐血とけつのためといふことにされてしまひましたが、日頃そのやうな氣振けぶりもなかつたので、谷口金五郎樣のところに招ばれて、したゝかに呑んだ御酒に、何やら仕掛があつたのではあるまいかと、私の疑念は今でも晴れません。あの恥かしい手紙を八五郎親分にお眼にかけたのは、私の不面目を忍んでも、夫の怨みが晴らしたい爲でございました。八五郎親分にお目に掛けさへすれば、いづれは錢形の親分のお目にもとまりませう」
「――」
「でも、敵は矢張り誰かが討つてくれました。生きて居る人間か、夫の亡靈か、それは私にもわかり兼ねますが」
 言ひ了つて操は膝の上に手を重ねるのでした。青い眉を垂れると。鼻筋が美しく通つて、紅のないくちびるには、ほのかに歔欷なきじやくりが顫へます。
「いかにも尤も。で、この筆跡は、たしかに亡くなつた方のもので?」
「間違ひはございません。夫小倉嘉門は大師流たいしりうをよくいたし、若殿樣御手習ひの御手直しなどをいたしました」
「御内儀は?」
「ほんの假名書きを少しばかり、――夫の眞似などは思ひも寄りません」
「もう一つ伺ひますが、御内儀と矢並樣との橋渡しを申出たのは」
「家主の五郎兵衞殿でございました。若い二人が隣り合せにさうして居るのは、決して良いことではない。氣心も知つた仲であり、嫌ひでなかつたら、私が仲人なかうどにならう――と」
 さすがにはぢらう風情で操は首を垂れます。
「ところで、この箪笥は近頃動かした樣に見えますが」
 平次は、隣りとの境の壁際に置いた箪笥の側に、一尺あまり疊の色の新らしい部分があり、箪笥もまたひどく横の方に寄つて居ることに氣が付いたのです。
「鼠が穴をあけましたので、それをふさいだまでのことでございます」
「一寸見せて貰ひますよ」
 八五郎を眼で呼んで、箪笥を動かして見ましたが、それが思ひの外輕く、大した苦勞もなしに動かした後ろ、丁度背の高さほどの壁に、柱に添つて、子供のこぶしほどの穴が開いて居るではありませんか。
 覗くとお隣りの谷口金五郎の家の、あの死體のある部屋の、半分ほどはよく見えます。
「この通り、ひどいことをする惡戯者いたづらものでございます」
 箪笥は昨今動かしたものらしく、中から出したらしい着物などが、部屋の隅に高々と積んで、その上に風呂敷などを掛けてあります。
「迷惑でなかつたら二階を」
 平次はもう梯子段を踏んで居りました。
「取り散らかして居りますが」
 女主人操の言葉を下に聽いて、平次と八五郎はこの『さながらの紅けい』に踏込んで居りました。
 たつた六疊ですが快よく整頓して、窓の下に置いた小机、文具の清潔、金地の二枚屏風に土佐派の繪がやゝ剥げたのもゆかしく、押入を開けると、夜具は絹物のぜいを盡して、床の間に置いた帙入ちついりの千字文と庭訓往來ていきんわうらいは、多分亡くなつた主人、小倉嘉門の筆によるものでせう。肉筆の文字の所々ににじみのあるのは、手習子が透き寫した心なき惡戯とも見られるのでした。
 表の方は張出し窓で、三軒一樣の造り、戀猫の通ひ路らしくひさしがゆるんで、手摺に傷などのあるのが、淺ましく目立ちます。
 平次は丁寧に兩隣りへ眼を配つて、女主人の操に挨拶すると、そのまゝ外へ出ました。
「親分、凄い年増でせう、――かう色つぽくて上品で、紅白粉で化粧をしたら、どんなことになると思ひます。え、親分」
 後ろから追ひすがる八五郎。
「御守殿崩しは、俺は嫌ひだよ」
「へエ」
「それにあの鼠の穴は、隣りの谷口金五郎の方から無理にあけたものだし、二階の手摺の具合ぢや、矢並行方といふ戀猫は、夜な/\ひさしを渡つて、あの手摺の下から覗いて居た樣子だ。飛んだ耻つ掻きな二本差共だよ」
「へエ」
「俺はもう嫌になつたよ。お前は番所へ行つて六丁目の銀六親分に逢ひ、若黨の喜三太は谷口金五郎殺しの下手人ぢやないと教へて來るが宜い」
「へエ?」
「谷口金五郎はあの喜三太を追ひ出した主人だ。娘を手籠にしようとした下郎を、蟲ケラのやうに憎んで居たに違ひない。その下郎の喜三太が、もとの主人の部屋へ、ノコノコ入れるわけはないし、物も言はさずに、正面から喉笛のどぶえをきれる筈もないぢやないか」
「成程ね」
「それにあの娘が喜三太をかばつて居るところを見ると、二人は思つたより敵同士のやうな氣になつて居ないのかも知れない」
「へエ?」
「お前は喜三太の繩を解いてやつた上、いろ/\の事を聽出して見るが宜い」
 平次はこれだけの事を言ひつけて、隣りの矢並行方を訪ねて見ましたが、此處は戸が締つて、昨日から留守、この上手の下しやうもなかつたものか、あきらめた樣子で明神下へ歸つてしまひました。


「親分、天眼通だね」
 八五郎が歸つて來たのはその晩遲くなつてからでした。
「大層なことを言ふなよ、――あのお百合といふ娘が、若黨の喜三太と良い仲だつてことだらう」
 平次は女房のお靜に眼配せして、一度しまひ込んだ晩酌の膳をもう一度出させて、新しく一本つけさせるのでした。
手籠てごめなんか飛んでもねえ話で、現に昨夜も、喜三太とお百合が逢引して居た樣子ですよ、二階に寢て居る娘が階下したで父親の殺されるのも知らずに居る筈はないと思つたら、御用空地あきちの隅の捨石の上か何んかで、夜半まで泣いたり口説いたりして居たんですね」
「それから」
「殺された谷口金五郎は、年甲斐もなくお隣りの後家に氣があつたさうですよ」
「それはわかつて居るが」
「侍だつてこちとらだつてあれ程の後家の隣りに住んで居ると壁に穴をあけ度くなる人情に變りはありませんね」
「それつきりか」
「それつきりなら、木戸は返してえくらゐのもので、これからが大變ですよ、親分」
「早くブチまけてしまひな」
「あの色後家の亭主――小倉嘉門が、吐血とけつで死んだのは隣りの谷口金五郎に招ばれて、散々呑まされた晩ぢやなくて、それから三日も經つてからのことですよ。喜三太の野郎を助けて貰つた禮に、あの可愛らしいお孃さんが教へてくれたんだから、間違ひはありません」
「?」
「矢並行方とあの小倉嘉門の後家との仲は、どうも昨日や今日ではないやうですよ」
ひさしがあれだけゆるむには、深草ふかくさの少將ほど通はなきやなるまいな」
「ところが近頃、その深草の少將ぢやない矢並行方といふ浮氣侍が、味噌濃い色後家に厭氣がさして、若くて可愛らしいお百合さんの方にちよつかいを出して居るといふ評判がありますが、こいつは飛んだ女鞘當をんなさやあてになりやしませんか」
「フム、そいつは初耳だ」
「でせう、親分、――だから親父の谷口金五郎を殺したのは、矢並行方のやうでもあるし、さうでもないやうでもある」
「その矢並行方といふ浪人は、昨夜何處に居たんだ」
「昨日の朝からまだ歸つて來ませんよ。金はあるし、男は好いし」
「お前見てえだな」
「仲町へ繰り込むと三日も來ない事が時々あるさうですよ」
 八五郎の報告はそれで全部でした。
「御苦勞々々々そんなことで宜い、――ところで明日は家主の五郎兵衞と近所の衆の噂を出來るだけ掻き集めてくれ」
「親分は?」
「この一件は因縁いんねんが深いよ。俺は三人浪人のもとの主人を搜し當てて、その用人にでも逢ひ、昔のことを洗ひざらひ訊いて見るとしよう」
 平次は事態のむづかしさと、その奧行の深さをて取つたのです。
 その晩はそれつきりになりました。
 翌る日の夜持つて來た八五郎の報告も、大して變つたことがなく、三軒長屋の浪人は、いづれおとらず裕福なことと、今年の春死んだといふみさをの夫の小倉嘉門は、醜男ぶをとこでケチで、卑下慢ひげまんでお節介で、町内中の鼻つまみであつたといふこと、それにもかゝはらず、谷口金五郎と矢並行方は、家來か何にかのやうに扱はれて居たといふことなどが重要なものでした。


「さア、大變つ、親分」
 八五郎が例の調子で大變を持込んで來たのは、それから又五日ほど經つた頃でした。
「どうしたといふのだ、八」
「二丁目の三軒長屋で、また殺しがあつたんですよ」
「今度は誰だ」
「色男の矢並行方といふ浪人者で」
「俺もそんな事にならなきや宜いがと思つて居たよ。直ぐ行かう」
 八五郎の手配がよかつたので、この知らせを聽いたのは朝のうち、麹町二丁目へ着いた時は、まだ檢屍前の、町役人と六丁目の銀六が、死骸を外に置いたまゝ、むしろを被せて彌次馬を追い散らして居るところでした。
「錢形の親分、又やられたよ」
 銀六も繩張内から二度目の殺しを出して、さすがに面目ない樣子です。
「さうだつてね」
 側へ寄つた平次は、筵をいで一と眼、慘憺たる死體を見てうなりました。
 矢並行方といふのは二十七八、髯の跡の青々とした、背の高い好い男でした。傷は谷口金五郎と全く同樣、喉笛から右の耳の下へかけてのなゝめ一文字で、頸動脈を切つた血潮は八方に飛び散り、側にある植木の葉まで飛沫しぶいて居るのは物凄いことでした。
「死骸は自分の家の前――ひさしの下にあつたんだ。外から歸つて來て、戸を開けようとしたところを、後ろからやられたんだらう」
 六丁目の銀六は説明して居ります。
「刄物はなんでせう。ひどく肉がハゼて居るが」
 八五郎がそんな事に氣が付いたのはさすがでした。
「この前の谷口といふ浪人の傷とそつくりだらう。切つた跡がんなになる刄物をお前は何んだと思ふ」
「解りませんね」
「六丁目の親分、――死骸を見付けたのは誰だえ」
「變な物音がしたので、向うの家の――家主の五郎兵衞さんが、あかりを持つて來て見たさうだよ。亥刻半よつはん(十一時)過ぎだつたといふが――」
「――」
「それから近所の衆が騷ぎ出したが、何しろお隣りは二軒共女ばかり、叩き起したところで、使ひ走りの役にも立たねえ」
「矢並といふ人の家の戸は」
「締つてゐたよ、――内から念入りに締つて居たが、鍵も何んにも持つて居ないところを見ると、何うして自分の家へ入るつもりか、見當もつかないよ。尤も、こじ開けて家へ入つて見ると、二階の雨戸にはしまりがなかつた、――お武家でも獨り者は用心が惡いね」
「死骸をよく見せてくれ、――肩と腰のあたりに打撲傷うちみがあるやうだ」
「掴み合ひでもやつた揚句、斬られたんぢやないのか」
 銀六は事もなげですが、平次は尚も八方に飛び散つた血潮の跡などを念入りに搜して居ります。
「それにしても、こんな高いところまで血が飛沫しぶく筈はないよ」
「さぞ暴れたことだらうな」
 銀六の片付けた話を後ろに聽いて、平次は矢並行方の浪宅の中へ入りました。
 此處もなか/\の贅澤な調度ですが、そんなものには眼もくれず、二階に登ると、雨戸を開けて、ひさしの上へ降りて見ます。
「八、この通りだ。お前は大急ぎで下へ降りて、三軒長屋から飛び出す者があつたら、誰でも宜い。その場で取つて押へろ」
 平次は庇の上に散つた、小豆粒あづきつぶほどの血の飛沫を見ると、八五郎を下へ追ひやつて、庇傳ひに――かつて矢並行方がお隣りの二階に通つたとほりを、小倉嘉門の二階の手摺に辿たどり着き、障子を開けて音もなく飛ひ[#「飛ひ」はママ]込んだのです。
「あツ、親分、――誰に許されて」
 其處に居たのは、女主人のみさを、――この春死んだ小倉嘉門の美しい後家でした。一度はハツと驚いて逃げ身になりましたが、次の瞬間にはかまへを直して、眞正面から嬌瞋けうしんの眼を平次に向けたのです。
「御内儀、飛んだ所から入つて來てすみませんが、二梃の剃刀かみそりを何處へ隱すか、それを知りたかつたのですよ」
「――」
「あの肉のハゼ具合ぢや二梃刄を合せた剃刀に違げえねえ――剃刀といふ奴は厄介な道具で、山があるから一梃ぢや人殺し道具にならねえ」
「無禮だらう平次」
「庇の上に血があつちやのがれやうはありませんよ御内儀。別れが惜しいとか何んとか、庇の上で男に抱き付いて、男の後ろから廻した手で、喉笛を掻き切り乍ら、左の手で突き落し、飛び散る血を除けた手際はあざやかだね」
「――」
「八日前に、谷口金五郎を殺したのも同じ方法だ。あのお孃さんと若黨が、御用空地で逢引して居る隙を狙つて、壁の穴で打ち合せて此方から出向き、年寄の相手が夢中になつて抱き付いて來るのを、合せ剃刀で一と思ひにやつたことだらう」
「違ふ、違ふ。あれはくなつた夫の亡靈――」
 操は飛び退いて、きつと身構へるのです。蒼ざめては居るが、凄まじくも美しい年増振り、八五郎が凄いと形容したのをフト平次は思ひ出したりしました。
「冗談でせう、怪談ばなしなどはこちとらには通用しねえ、――精一杯證據を隱したつもりでも、その床の間の千字文と庭訓往來を、その儘にして置いたのは大手ぬかりだ」
「えツ」
「幽靈の手紙には薄葉うすえふは念が入り過ぎたよ。死んだ御主人の字を一つ/\克明に寫したのは大した骨折だが、字並びに無理があつて、本當の名筆が書いたものとは、どうしても思へなかつたのだ。その上千字文と庭訓往來に、ところ/″\にじみがあつたので、種はすつかりわかつてしまつたのさ」
 平次の論告は水も漏らさぬ整然たるものがあります。
「え、口惜しいツ」
「どつこい、その剃刀かみそりは血を洗ひ落したばかりで、まだ濡れて居る筈だ」
 平次の手から投げた久し振りの錢は、操の自害を一瞬前に留めて、白い首筋くびすぢに持つて行つた剃刀を叩き落しました。
 續いて二階から飛ぶやうに降りた操、女だてらに入口の格子に猛然と體當りをくれて、サツと表に飛び出したところを、
「待つてました」
 八五郎が無手むずと組み付いたのです。
 谷口金五郎と矢並行方を殺した、女怪操を、平次は何んの未練もなく、繩付のまゝ六丁目の銀六に引渡しました。得々としてそれを引いて行く銀六の後ろ姿を見て、
「親分、何んだつてこんな大手柄を銀六親分なんかに呉れてやるんですか」
 八五郎は甚だ不服さうです。
「安心しろ、もつと大きい手柄があるんだ。來て見るが宜い」
 平次は操の家の中をいろ/\物色して居りましたが、最後に居間の疊、あの色の變つて居るところに眼をつけ、箪笥を動かして疊を上げると、床板は蝶番てふつがひになつて、簡單な地下道に通じて居ることを發見しました。
 その奧に、七年の濕氣しつけちて、ボロボロになつた千兩箱が、十も積んであるのを發見したことは言ふ迄もありません。差出した灯の中で、これを見た八五郎と町役人達が、どんなにきもをつぶしたことか。
        ×      ×      ×
「三人の侍が、相談づくで主家の一萬兩を盜み出し、ほとぼりのさめるのを待つて山分けにする氣で居たに違ひない。あの三軒が三軒共、七年前に祿を離れた浪人の住居にしては、恐ろしく贅澤だとは思はなかつたか」
 事件落着の後、平次は八五郎の爲にかう話してやるのでした。
「――三人のうち、矢並伊織は死んで伜の行方が跡を繼いだが、その行方と小倉嘉門の内儀のみさをが好い仲になつたのを、夫の嘉門が嗅ぎ出したことだらう、――嘉門を殺したのは、谷口金五郎ではなくて、女房の操だよ」
「へエ?」
「あれは恐ろしい女だ、――その弱い尻を谷口金五郎につかまり、強引がういんに口説かれて到頭これも殺してしまつた。が、その上矢並行方を亡きものにすれば、一萬兩の金は自分一人のものになると氣が付いたのだらう。丁度矢並行方の心は谷口金五郎の娘のお百合に移つて行くのを見ると、一と思ひにやる氣になつたのは恐ろしい事だ」
「大變な女ぢやありませんか」
「死人の手紙などは恐ろしい細工さいくだ。どんな女でも、自分の恥を自分でブチまけようとは誰も思はないよ。矢並行方と自分の不義を臆面もなくあばき立てて、谷口金五郎殺しの下手人を、幽靈でないまでも、外の者と思はせた細工はうま過ぎて恐ろしいくらゐだ」
「親分、あつしは薄寒くなりましたよ。世の中にはあんな恐ろしい女があると思ふと――」
「安心しろよ、あんな恐ろしい女はザラにあるわけはねえ――現に親は惡人だが、あの娘のお百合は飛んだ良いぢやないか、今度こそは誰はゞかるものもなく若黨の喜三太と一緒になるだらう」
 この救ひのない事件にも、平次に取つてはたつた一つの救ひはあつたのです。





底本:「錢形平次捕物全集第二十六卷 お長屋碁會」同光社
   1954(昭和29)年6月1日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1949(昭和24)年10月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「谷口金五郎」と「谷口五郎」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月12日作成
2017年3月4日修正
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