「親分、世の中には變な野郎があるもんですね」
八五郎は彌造を二つ拵へたまゝ、フラリと庭へ入つて來ました。
朝のうちから眞珠色の
「
平次は相變らず貧乏臭い植木の世話を燒き乍ら、氣のない顏を擧げるのでした。
「顎で木戸は開きませんよ」
狹い庭一杯の春の陽の中に、八五郎はキヨトンと立ち
「でつかい彌造を二つ拵へて、顎でも使はなきや、木戸の
「膝と肩を使つて開きますよ。錢形の親分の城廓と來た日にや、
「氣味の惡い野郎だな、――尤も何が入つて來たところで、盜られる物は何んにもないから安心さ」
「相變らず清々した話で」
「ところで、變な野郎が何處に居るんだ」
八五郎はどうやら妙なものを嗅ぎ出して來たらしいので、平次は手洗鉢でザツと手を洗つて、縁側に八五郎と押し並んだまゝ、煙草盆を引寄せました。
「へツ、その、滅法女の子に惚れた話なんですがね」
八五郎は
「お前が?」
「あつしぢやありませんよ。あつしなら朝のうちに惚れても、夕方は
「薄情な野郎だな」
「その代り命にも身上にも別状はありませんよ」
「お前が別状のあるほどの身上を持つたことがあるのか」
「まア、物の
「知つてゐるとも、三軒井筒屋の一軒だらう」
「主人は三郎兵衞と言つて五十そこ/\。内儀が二三年前に亡くなつて、一人娘のお喜代といふのは十八。こいつは滅法可愛らしい」
「お前に言はせると、十七八の娘は皆んな可愛らしいから妙さ」
「お喜代ばかりは、その中でもピカピカしてゐますよ。色白で
「變な聲を出すなよ、八」
「町内だけでも、
「お前もその六七人のうちの一人ぢやないのか」
「あつしは通ひきれませんよ、向柳原から呉服町ぢや、――それにこの節は
「罰の當つた野郎だ」
「兎も角も、その六七人の深草の少將のうちでも、取わけ
「お前の言ふことは一々變だな」
「何んだつて頭なんか丸めたのか、色戀沙汰に
「深い仔細と來たね、お前の學も追々磨きが掛つて、この節は
「へツ、それほどでもないが、――兎も角、井筒屋といふのは三軒ありましたよ。南傳馬町の大井筒屋は本家で、呉服町の井筒屋はその弟分、左内町の孫井筒屋は一番の末、昔は三人兄弟だつたといふことです。三軒共呉服太物が本業、尤も大井筒屋の先代は山氣があつて、廻船問屋をやつたり、
「それが深草の少將になつたといふわけだらう」
平次は先を潜りました。
「大井筒屋の若旦那の宗次郎と、井筒屋の娘のお喜代は生れない前から許婚だつたさうですよ。ところが大井筒屋が沒落して、主人の宗右衞門が死ぬと、井筒屋の三郎兵衞は、昔の義理なんかけろりと忘れて、本家の若旦那の宗次郎を寄せつけないばかりでなく、孫井筒屋の息子の浪太郎といふのを養子に入れ、浪人者の用心棒まで
八五郎は委細構はず語り續けました。
「薄情もそれくらゐキビキビして居ると、相手に未練を殘させなくて宜からう」
「ところが、宗次郎は、一度は何も彼も諦めたつもりで、寺へ飛び込んで頭を丸めてしまつたが、お經を
「下手な戀文の文句見たいだよ」
「到頭寺を飛び出して、墨染の
「成る程ね」
「撲つたり叩いたり、水を打つ掛けたり、犬を
「恐ろしく思ひ込んだものだな」
「井筒屋でもすつ心り手を燒いてしまつた。第一日本橋の呉服町の、店の居廻りを、朝から晩まで、小汚ない坊主がウロウロして居ちや商賣にさはります。そこで、いろ/\考へた末、根岸の寮――と言つても、小大名の下屋敷ほどの立派なものですが、其處へ娘のお喜代と下女のお竹をやることにしたが、宗次郎の幽澤は何處までも跟いて行つて、清玄の亡靈のやうに娘を惱ますんで」
「養子の浪太郎は一緒に行かないのか」
「まだ祝言前で、一緒に置くわけにも行かなかつたんでせう。その上何んの
「よく/\嫌はれたものだな」
「浪太郎は、その癖ちよいと好い男で、少し狐顏ではあるが、
「で?」
「根岸の寮へやつたものの、化けさうな幽澤坊主が附き纒つちや、放つても置けません。養子の浪太郎をやつて、用心棒の浪人者寺本金之丞をやつて、それでも叶はなくなつて、近頃では主人の三郎兵衞までが根岸泊りだ」
「店は?」
「孫井筒屋の駒吉――養子の浪太郎の親父ですがね、――それが入つて來て、番頭の周吉と一緒に見て居る筈です。尤も孫井筒屋は自分の店もあるから、呉服町と左内町を掛け持ちでせう」
「それつきりか」
「それきりですがね、井筒屋の主人の三郎兵衞は、錢形の親分のやうな、物のわかつた方にお願ひして、娘にダニのやうに喰ひ下がつて居る宗次郎の幽澤坊主を、追つ拂つて貰ふわけには行かないものかと――」
「もう澤山だよ」
「物の道理を言ひ聞かせるなり、繩を打つなり、平次親分ならワケもなく
「お前そんな事を引受けて來たんぢやあるまいな」
「あつしはイヤだと言ひましたよ。でも井筒屋の主人が、散々御馳走した上、折入つての話で――」
「馬鹿野郎」
「へエ?」
平次の聲は激しく八五郎の話の腰を折りました。
「言ひ聽せてやり度えのは、井筒屋の主人の方だよ。本家が
「――」
「そんな不人情野郎の御馳走になつた上、俺まで引張り出さうとは、お前も少し不料簡だぞ、八」
「へエ」
「娘が嫌がつて居るなら別だが、養子の浪太郎とやらを嫌つて居るやうぢや、宗次郎坊主にうんと未練があるんだらう。墨染の
「でも、一度坊主になつた宗次郎ですよ」
「坊主頭が何んだえ、三年も經てば附け
「驚いたね、どうも」
八五郎はまことに
それから三日經たないうちに、事件は思ひも寄らぬ發展を遂げました。
「親分、八五郎親分の手紙ですが――」
お山の熊吉といふ、ノツソリした下つ引が、
「八の手紙を
平次はこの假名で書いた
「根岸の井筒屋の寮に殺しがあつたんです」
「誰が殺されたんだ」
「主人の三郎兵衞が、縁側で絞め殺されて居りました」
「そいつは」
錢形平次も驚きました。ツイこの間八五郎が、妙な匂ひを嗅ぎ出して來た井筒屋に、早くも殺しがあらうとは思ひも寄らなかつたのです。
平次は熊吉を案内に、根岸に向ひました。御隱殿裏の百姓地で、この上もなく閑靜なところですが、寮はなか/\の構へで、町人の住居にしては、少し
「親分、あつしの手紙を讀みましたか」
縁側から顏を出したのは八五郎でした。
「お前の手紙は苦手だよ。明神下から此處まで來る間、どうにか斯うにか辨慶讀みにしたが、不思議なことに少しも解らねえ」
「驚いたね」
「俺の方が驚くよ。幸ひ熊吉が來てくれたから、此處まで
「あ、親分、その足跡を踏んぢやいけません。畑を眞つ直ぐに突つきつて逃げたんだ、そいつは曲者の足跡ですぜ」
八五郎は縁側から、南縁の下まで掘り起した畑の上を指さして居るのでした。
何やら物の
「こいつが、何うして曲者の足跡とわかつたんだ」
平次は念入りに足跡を調べて、
「曲者は多分宵のうちから忍び込んで軒下に身をひそめ、主人が
八五郎の説明はまことに行き屆きます。
「其處まで判れば、俺が來るまでもないぢやないか。何が不足で明神下まで
「三輪の萬七親分が、宗次郎の
「恐ろしく早手廻しだね」
「すると――あんな汚ない坊主の何處が良いか知らないが、お孃さんのお喜代さんが、泣きの涙で錢形の親分を呼んでくれといふんです。あつしぢやどうも不足らしいんで――」
「お前の方が不足らしいぢやないか」
「お孃さんを呼んで來ませうか」
「いや、一と通り見てからのことだ」
平次は縁側から入りました。
「主人の死骸は此處にあつたんださうです。雨戸一枚は開いたまゝで」
八五郎は戸袋の側、よく
「
「縁側に投ふつてあつたさうで」
「
「十三夜ですよ」
「その月の良い晩に、前から曲者が飛び付いて首を絞めるのを待つてゐる筈はないな、八」
「さうでせうね」
「すると曲者は、主人の後ろから飛び付いて絞めたか、でなければ――」
「?」
「外の場所で絞め殺して、縁側へ持つて來たことになるわけだが」
平次は腕を
「へエ、錢形の親分さんで、飛んだ御手數をかけます」
丁寧なやうな、その癖横柄なやうな調子で、孫井筒屋の駒吉が顏を出しました。その後に續いたのは、番頭の周吉。駒吉の頑丈で色が黒くて、眼鼻立ちの立派なのと對照して、周吉は
「飛んだことだね。ところで、佛樣は?」
「こちらでございますが」
案内されたのは、直ぐ障子の中、まだ入棺の運びにもいたらず、床の上に寢かして、
死骸になつた主人の三郎兵衞は、これも五十前後の見事な恰幅でした。少し因業らしくはあるが、顏の道具なども立派で、先づは
むくんだ顏や、首のあたりの繩の跡、喉佛の皮下出血など、これは一と眼で絞殺とわかり、しかも荒々しい細引が、首に卷き付いて居たさうで、その細引を後で見せて貰ひましたが、何處から持出されたか見當もつきません。
「これを見付けたのは?」
平次は顏を擧げて、二人の中老人を見ました。
「私でございます」
「
「孫井筒屋さんが、急の御用があると仰しやつて、番頭さんと御一緒に入らつしやいましたので、旦那樣を起しに參りますと――」
「時刻は?」
「
お竹はその時の恐ろしい有樣を思ひ出したらしく、大きく
「それから」
「多分私は大きい聲を出したことでせう、皆んな一緒に飛んで來ました」
「誰と誰だ、順序を知つてるだらう」
「寺本樣と、若旦那樣と、それから孫井筒屋さんと、番頭さんと、お孃さんも見えたやうです」
「主人の身體に
「私と孫井筒屋さんと二人で、抱き上げてお部屋へ入れましたが、その時はもう、少し冷たくなりかけて居たやうで」
「冷たくなりかけて?――主人はそんなに早く休むのか」
「晩酌を二本くらゐやると、直ぐお休みになりますが、小用の近い方で、宵に一度は必ず手洗に起きます」
番頭の周吉は説明してくれます。
「昨夜休んだのは?」
「
お竹が代りました。
「
平次の胸には、又新しい疑ひが芽を出しました。
「ところで、昨夜そんなに遲くなつてから、日本橋の店から根岸まで來たのはよく/\急ぎの用事でもあつたのか」
平次は重ねて問ひました。
「左樣でございます。井筒屋一家で出した船が、三年前に難破いたしましたが、それが
孫井筒の駒吉は、斯う筋を通して説明してくれるのでした。
「すると主人はその知らせを聽かなかつたのだな」
「折角の吉報ですが、――殘念なことに私共二人が參り、表戸を叩いて開けさせ、下女のお竹に取次がせますと、――あの有樣で――」
駒吉の聲は
二人の中老人と下女のお竹を退けて、少し經つたら來るやうにと、娘のお喜代を呼びにやりましたが、その間に平次は、忙しく
部屋の中は少しの取亂した樣子もなく、雨戸も
縁の下も軒の下も何んの異状もなく、踏み固められたその邊には、もとより足跡もありません。其處から表に廻るためには、
庭下駄を
「八、この足跡は柔かい畑の土へ、判こで
足跡を覗き乍ら八五郎に聲を掛けます。
「あつしもそれに氣がついて居ましたよ」
「ところでお前は、今朝幽澤とか言ふ坊主の縛られるところを見て居たのか」
「見ましたとも、竹垣の外でウロウロして居るのを、萬七親分が飛び付くやうに襟首を取つて引つ立てましたよ」
「何を穿いて居た」
「素足にひどく
「その幽澤は何處に居るんだ」
「金杉新田の庵室に居ますよ、まるで浮世清玄で」
家をグルリと一と廻りして、平次はもとの縁側から入ると、娘のお喜代は、しよんぼりと其處に待つて居りました。
少し眼を泣き
「俺は平次だが――、お孃さんは何にか八五郎に頼んださうだな」
平次は側へ寄つて、その肩を叩いてやり度い心持でしたが、丸く肉付いた
「錢形の親分。私は、私は」
お喜代は飛び付きさうにして、これも立ち
「遠慮をせずに言ふが宜い、何が一體」
「私は、父さんを殺した人を知つてゐるやうな氣がするんです」
「それは誰だ」
「でも、でも言へない。證據は一つもないんですもの」
「この場限りに聞棄てるとして、そつとあつしに教へてくれないかお孃さん」
「私は言へない、どうしても――でもあの人ぢやありません。宗次郎さんはそんな人ぢやない、可哀想に」
お喜代はまたせぐり上げました。處女の
「ところで、
「――」
お喜代は袂に顏を埋めたまゝ、默つて頭を振りました。
「
「何んにも」
「お孃さんは、宗次郎と内々で約束でもあつたのか」
お喜代は激しく首を振りました。忍び泣く聲が痛々しく袂を
これ以上何を訊いても、恐らく滿足な
養子の浪太郎は、父親の駒吉に似ぬ
「昨夜のことを
と言ふと、
「晩飯は
「勝負は?」
「二た
浪太郎は子供つぽく笑つて、ポリポリと
「主人が死んでしまへば、井筒屋の跡は、お前が繼ぐことになるわけだね」
平次はズバリと言ひました。まさに大きな伏兵と言つた感じです。
「と、飛んでもない。養子と言つても名前ばかりで、私はまだお喜代さんと祝言したわけでもなし」
浪太郎はひどくヘドモドするのでした。
寺本金之丞といふのは、三十五六の浪人者で、大町人などがよく飼つて置く、用人棒にしては、あまり強さうにも見えません。
「錢形の親分、――宗次郎の
肉の薄い顏に皮肉な微笑を浮べて、斯んな事を言ひきる男です。
背の高い、
「寺本さんは何時頃から井筒屋に居らつしやいます」
「丁度一年前からだ、――あの宗次郎がうるさいし、何を仕出來すかわからないといふので、主人にたつて頼まれたのだよ。用人棒などといふものは、あまり武士のほまれにはならぬが、これも世過ぎの爲だ」
「寺本さんはやつとうの方はお強いでせうな」
「いやもう、カラだらしがないよ。強いのは
こんな事を言つてニヤリニヤリとする男です。
「ところで、宗次郎の外に、主人を怨む者の心當りはありませんか」
平次は押して訊ねました。
「ないよ、――宗次郎は大井筒屋を
「ですがね、寺本さん。主人を殺したのは、その幽澤坊主の宗次郎ぢやありませんよ」
平次はツイ言はいでものことを言つてしまひました。寺本金之丞の面があまりにも憎かつたのです。
「宗次郎ぢやない、――では誰だ、聽かうぢやないか。宗次郎の外に、主人を殺す者があるわけはない、――第一あの畑の中の足跡が證據ぢやないか」
寺本金之丞は畑の中に點々として殘る足跡を指さしました。
「ところが、あの足跡は足袋を
「足袋は穿いても脱げるぜ。草鞋だつて自由に穿き換へられるぢやないか」
「御尤もですがね、寺本さん。あの畑の中の足跡は、逃げて行つたのぢやなくて、後ろ向きになつて入つて來た足跡ですよ」
「何んだと?」
寺本金之丞はきつとなりました。
「逃げ出した足跡なら、
「――」
「それから、主人はあの通り恰幅もよく力もありさうだし、宗次郎はヒヨロヒヨロの腹の
「――」
「まだ足りなきや、主人の夜具の裏を見て下さい。町人には贅澤な絹夜具の裾裏が、何を引つかけたか
「――」
「まだありますよ。
平次はフト口を
が、これだけでも寺本金之丞の毒舌を封ずるには充分でした。
「家の者といふと、拙者と浪太郎殿と、下女のお竹の外には居なかつたのだぞ」
などと言ふのが精一杯です。
「いづれ、その三人のうちでせうよ」
平次も負けては居ません。
「拙者と浪太郎殿は碁を打つて居たのだ――お竹もそれを見て居る」
「相談づくなら
「何? 拙者と浪太郎殿が怪しいといふのか、もう一度言つて見ろ」
寺本金之丞は我慢のなり兼ねた樣子で、一刀を引寄せるのです。
「さうは申しませんが、――兎も角下手人が宗次郎でないとわかれば結構で――おい、八」
「へエ」
八五郎は拔からぬ顏で、平次の後ろへノソリと立ちました。
「俺は少し外を調べ度い――お前は此處へ殘つて見張つてくれ。それから昨夜番頭さんと孫井筒屋さんの廻つた先と落合つた場所を訊くのだ、――それぢや、寺本さん。まア御立腹なさらずに、よく見て置いて下さい。あつしは決して、寺本さんを疑つて居るわけぢやございません」
さう言ひ捨てて、平次は立上がりました。後ろの方からそつと、手を合せて居る娘のあることを、眼の早い平次は知らない筈もありませんが、それには眼もくれず、縁側から滑るやうに、外へ出てしまひました。
その晩の
「サア大變。親分、直ぐ根岸まで行つて下さい」
「何んだえ、八。大變
「宗次郎の幽澤坊主が刺されましたよ。井筒屋の寮の後ろで、家の中を覗いて居るところを――」
「成程、そいつは厄介だ、――三輪の萬七親分は?」
「幽澤坊主が、昨夜
「あんな色坊主でも托鉢に出るのか」
「一
「面の皮だけは餘計だよ」
そんな事を言ひ乍ら、夜更けの街を根岸へ飛びました。
井筒屋の寮では、主人が死んでしまへば今は
「驚いて氣を
外科は一應の手當をして歸つたところへ、平次と八五郎が驅けつけたのです。
幽澤の宗次郎といふのは二十五六の、汚なづくりではあるが好い男でした。細面の陽に焦けた顏は、五分
枕許にはお喜代の外に、番頭の周吉と孫井筒屋の駒吉がついて、なか/\によく世話をして居りますが、傷ついた宗次郎は、薄汚ない身に恥ぢたか、さすがに居心地が惡さうです。
「どうしたことだ、
平次の問ひに、
「井筒屋の主人が殺されたと聽いて、三輪の親分に繩を解かれると、直ぐ此處へ驅けつけました。お喜代さんの身の上が心配だつたんです。惡者はどうかすると、お喜代さんを狙はないとも限らないと思つたからです」
「?」
平次は默つて先を
「表から入るわけにも行かず、裏の竹垣の外から覗いて居ると、いきなり誰やらが來て、逃げようとするところを、後ろから脇腹を刺されました。私は大きな聲を出したかも知れませんが、氣が遠くなつて暫くは何が何んだかわかりませんでした、――氣がつくと多勢の人達が、私を抱き上げて此處へ入れてくれましたが――」
「
「月は雲に隱れて居りました。ハツとしたときはもう刺されて居たんです」
「何にか氣の付いたことがあるだらう」
平次にさう言はれて、宗次郎の幽澤は、便りない首を動かしましたが、
「さう言へば、プーンと煙草の匂ひがしたやうで」
さう言ふのが精一杯のところです。
「この中で煙草の好きなのは?」
平次は
「拙者と駒吉殿だ」
寺本金之丞が應じます。
「申兼ねますが、寺本さん、お腰の物を拜見出來ませんか」
「何? 拙者の腰の物?」
寺本金之丞はサツと顏色を變へましたが、思ひ直した樣子で、
「サア、よく見てくれ」
引寄せた一刀を、
「拜見いたします」
平次は一應その鞘を調べ上げた上、
「あツ」
中味は
「寺本さん、驚きなすつたでせうが、これで疑ひが晴れましたよ」
「一體これはどうしたといふことだ」
「柄絲に血が着いて居るので、お腰の物を拜見しましたが、刀に着いた血は、人を刺した爲でなくて寺本さんに罪を
まさに平次の言ふ通りでした。刀の上に着いた血は、刀身にベタベタと塗つたもので、
「さすがに錢形の親分だ、お禮を言ふぞ」
血刀に拭ひをかけて鞘に納めた上、寺本金之丞は心持頭を下げました。この皮肉で剛情な浪人者も、平次の叡智に舌を捲いたのでせう。
「おだてちやいけません、――
平次の言葉に、一座は思はずシーンとしました。
八五郎に後を任せて、根岸の寮を飛び出した平次は、それが何處をどう廻つたか、翌る日の晝頃にはヘトヘトになりながら、威勢よく根岸に歸つて來て、井筒屋に關係した男女全部を主人の
「八、お前は其處で見張つて、一人でも逃げ出す者があつたら縛るんだ。宜いか」
「大丈夫、暴れ馬だつて逃しやしませんよ」
八五郎は縁側に頑張つて
「では、佛の前で話さう、――大井筒屋が三年前に沒落したのは、船が何杯も難破した爲と言はれて居るが、そのうちの一艘が、
「野郎ツ」
そつと座敷から滑り出さうとした曲者は、縁側に網を張つて居た八五郎に、ガツキと組付かれました。どちらもなか/\の腕前で、組んだまゝ庭へ轉がり落ちたのを、縛り上げる迄には、平次も手を貸さなければならなかつたのは大したことです。
「骨を折らせやがる――お前が下手人だつたのか」
襟首を取つて上げられた無念の顏は、それは孫井筒屋の主人、浪太郎の父親の駒吉だつたのです。
× × ×
事件は落着しました。駒吉は獄門になり、それを手引して、雨戸を開けてやつた伜の浪太郎は、薄々事情を知つて居たにも
清水港から江戸へ入つた大井筒屋の船には南蠻物の
八五郎にせがまれた錢形平次は、
「あとで考へるとつまらない事さ。番頭の周吉と一緒に出た駒吉は、濱町の荷主のところへ廻つて一と足先に根岸へ着き、
「何んだつて又後ろ向きに歩いたのでせう」
「家の中に居る伜に疑ひをきせ度くなかつたのと、一つは宗次郎を罪に
「隨分惡い野郎ですね」
「宗次郎を刺した刀は、隱す隙がなかつたと見えて、田圃の泥の中に突つ込んであつたよ、――泥足袋を捨て兼ねたケチな根性が、身の破滅になつたわけだ」
「でも宗次郎とお喜代は幸せさうで良いあんべえですね――あつしは世の中にあれ程惚れ合つた人間を見たことはありませんよ」
さう言ふ八五郎は少しばかり