心中でもしようといふ者にとつて、その晩はまことに申分のない美しい夜でした。
青葉の風が
神田鍋町の雜穀問屋、三芳屋彦兵衞の
死ぬ約束で同じ店に居る二人が、手に手を取つて脱け出して來るのは容易でなく、萬一人に見とがめられて、引戻されでもすると恥の上塗りですから、音次郎は本所から深川へかけて、お得意先を廻るといふのが口實。最後に
「まア、よかつた」
お互にさう言つたのも無理のないことです。
「誰にも見付かりはしなかつたかえ」
音次郎は少し離れて、月の光に惚々とお京の顏を透しながら訊くと、
「え、皆んなはもう私が寢たことと思つてゐるでせう。いつものやうにお仕舞をして、叔父樣の肩を揉んで、戸締りを見廻つて、自分のお部屋へ入つて――、それからそつと脱け出して來たんですもの」
この
「大層綺麗だよ、今夜は」
そんな中でも
「でも」
お京は身を揉んで、極り惡さうに、男の
「私は本所のお得意先から預かつて來たお金が三十兩、これをお店へ屆けずに死んでは氣になるけれど――」
音次郎は内懷中深く忍ばせた財布の中の、三十兩の小判に氣が
やがて二人は、元柳橋の橋の下に
「お京さん、淋しくはないかえ」
櫓の手を止めた音次郎は、滅入るやうな淋しさと、燒きつくやうな
夜の上げ潮が靜かに兩國橋の方へ、二人を乘せたまゝの小舟を流して行きますが、たま/\山谷堀へ通ふ
「いえ、――私は嬉しいの、音次郎さん」
「死ぬ前に、もう一度顏が見たいな、お京さん」
「でも」
「こゝに幸ひ、本所の叔母さんのところから借りて來た提灯がある。お互の顏の見納めに灯を入れて見ようぢやないか」
さう言ひながら音次郎は、
「音さん」
「お京さん」
提灯を舟縁に掛けて、手を取り合つた二人の顏を、灯は下からほの/″\と照し出します。
面長で色白で、久松型の弱々しさはありますが、音次郎の男振りは全く大したものでした。それに比べるとお京の方は、美人といふほどのきりやうではなく、眼鼻立ちの素直なだけ、さして取柄はありませんが、娘盛りの
歳は二十五と十九、どちらも
それは兎も角、時を過して居るうちに、川の中の二人の姿は、次第に人目について來る樣子です。小舟が兩國橋に近づくと、橋の上の夜の人通りもあり、それに吉原へ急ぐお
「それぢや、お京さん」
「音さん、私は、私は」
聲は
「人に見られると面倒だ。宜いかえ、お京さん」
「音さん」
「南無」
お二人の身體はもつれ合つたまゝ、夜の眞黒な水の中へ、音も立てずに
その反動でユラリとなつた小舟の中には、
「まア斯んなわけで――」
その翌る日の朝、錢形平次の家へ飛び込んで來た八五郎は、身振り手振りで、音次郎お京心中の一
「それで二人は?」
無分別な若い命の浪費者は、平次の心持を暗くしてしまひました。
「安心して下さいよ、親分。二人は助かつたんで」
「水心でもあつたのか」
「いえ、夜釣に行つた歸り、客を兩國の橋詰に上げた船頭の傳三といふのが、この一と幕を、灯を消したまゝ、鼻の先で見て居たんですつて」
「人の惡い野郎だな」
「あたけの傳三と言つて、
「で?」
「音次郎は少しくらゐ泳ぎも知つて居たのと、直ぐ助けられたので、これは水も呑んぢや居ません。お京の方は岸へ上げて水を吐かせて、橋番小屋で少し温めただけで、これも元氣を取戻しました。そのまゝ突つ放しても宜いわけですが、――親分の前だが、相對死を危ないところで助けられたものは、不思議に二度と死ぬ氣になれないんですつてね。橋番なんざ心得たものでしたが、――あたけの傳三にして見れば、お禮の飮代くらゐは欲しかつたんでせう。二人を送つて鍋町の三芳屋へ行つたのは彼れこれ
「――」
それから先の騷ぎは、平次も一應は聞いて居る樣子でしたが、默つて八五郎の話を
「三芳屋は蜂の巣を叩き割つたやうな騷ぎだ――主人彦兵衞が、自分の床の中で、絞め殺されて居たといふんだから」
「誰が見付けたのだ」
「娘のお萩ですよ。小用に起きて父親の部屋の前を通ると、何時も
「時刻は?」
「
「それからどうした」
「お萩が膽をつぶして、鍋町中に聞える程張り上げると、家中の者が飛んで來た。主人の身體がまだいくらか温かだつたので、いろ/\介抱して見たが、到頭息を吹返さなかつたのは氣の毒で」
「それで?」
「縁側の雨戸に締りがなかつたので、不思議に思つて調べて見ると、甥の音次郎と遠縁の
「――」
「騷ぎに輪をかけて、家中轉手古舞をして居るところへ、音次郎とお京が濡れ鼠になつたまゝ、船頭の傳三に送られて歸つて來たといふわけです」
「外に變つたことはないのか」
「主人彦兵衞が、用心のため手箱に入れて身近に置いてある金――小判で三百兩が、今朝になつて氣がつくと、盜られて居たんださうです。それに音次郎が掛けを集めて來た金が三十兩、これは川の中へ落してしまつたさうで、無くなつた金は〆めて三百三十兩だが、働き者の主人の命は金ぢや積れませんよ」
「當り前のことを言へ」
「ちよいと行つて三芳屋を覗いて見て下さいな、親分」
「行つて見よう。お前には少し荷が勝過ぎるやうだ」
平次はやをら腰をあげました。
神田鍋町の家持で、雜穀問屋をしてゐる三芳屋は、その朝店の大戸をおろしたまゝ、中は沸り返るやうな波瀾を押し包んで、息苦しいまでに沈まり返つて居りました。
八五郎の案内で平次が乘込んだ時は、鎌倉町の河太郎といふ、中年者の御用聞が、土地者だけの顏をきかせて、かなりこね廻した後。
「おや、錢形の親分。こいつは飛んだ無駄骨折かも知れないぜ」
などと四角な顏を益々四角にして、ひどく呑込んで居りました。
「下手人の見當でも付いたのか」
「他愛もない話さ。――
鎌倉町の河太郎は斯う手輕に片付けて居るのです。
「鎌倉町の親分の前だが、その泥棒が細引まで用意して忍び込んだといふわけかえ」
八五郎が背後から口を出しました。
「默つて居ろ。――人の物を盜らうといふ太い量見の野郎だ。
平次はそれを取なしたりして居ります。
「でもね、親分。お京といふ娘が脱出したところへ、うまい具合に泥棒が
八五郎はまだ引かうとしません。これは飽までも下手人を家の中の者と信じきつて居る樣子です。
「兎も角も家の中へ入つて調べて見るとしよう」
平次は二人の爭ひを聞き流して、三芳屋の潜りから暗い店の中へ入つて行きました。
「あ、錢形の親分さん、大變なことになりました。どうぞまア」
迎へてくれたのは番頭の佐吉で、今まで平次と八五郎と河太郎の話を、それとはなしに店の中から聽いて居た樣子です。五十前後の
「主人の部屋へ案内してくれ」
「へエ」
佐吉が案内したのは、薄暗い廊下を幾
主人彦兵衞の死骸は、檢屍前でまだそのまゝにしてありました。一應床の上に戻して、首に
五十を越した主人は、老熟した江戸の大町人らしくもなく、皺だらけの一塊の中老人で、丈夫な繩が一本あれば、隨分女子供にも絞められさうです。
「主人は酒はいけるか」
平次は佐吉を振り返りました。
「ほんの少々ですが、毎晩一合づつ寢酒を召し上がります。よく寢付けると申しまして」
「昨夜休んだのは?」
「
「戸締りは?」
「この上もなく念入りでございます。主人の外にお京さんと私が見廻ります。輪鍵と、
「それは又大層なことだな」
「内から開けさへしなければ、外からは滅多なことでは泥棒も入れません」
佐吉の調子は、暗に内から開けて出たお京を非難してゐるのでした。
「その開けて出た場所は?」
「此處でございます」
住吉は戸袋に近い縁側のあたりを指さすのでした。
「あれは誰だ」
平次はフト
「へエ、手代の新六でございます」
あわててお辭儀をしたのは、二十七八の陰氣な男でした。ノツポで骨張つて、そんなに不景氣な人間ではありませんが、人間の顏をまともに見ない、妙にキヨトキヨトしたところがあつて、決して人に好感を與へる
「親分、ちよいと」
「何んだ、八」
平次は庭下駄を突つかけて、庭木戸のところから長い
「大變な家ですよ。この三芳屋といふのは」
「何が大變なんだ」
「殺された主人は
「そんな事は少しも大變ではあるまい」
「それからが大變なんで、番頭の佐吉は喰はせ者で、帳尻を誤魔化すことばかり考へて居るし、手代の新六は一國者で、一度は養子にといふ話もあつたが、娘のお萩に嫌はれ拔いて居る上、主人と喧嘩ばかりして見るから、それも沙汰止みになり、甥の音次郎は二三年前店へ轉げ込んださうですが、男つ振りが良いので身持が
「それつきりか」
「それで澤山ぢやありませんか。この家の中だけでも、主人の殺し手が三人くらゐあるのは驚いたでせう」
「店の者はそれで宜いとして、外の者で怨んでる筋はないのか」
「世間附き合ひは惡くないやうで、
「何んだ、早く總仕舞にしてくれ。俺はまだ忙しいんだ」
「主人の彦兵衞は五十を越してから急に若返つて、近頃隣町の小唄の師匠と
「そいつはうるさい事がありさうだな」
「お加奈といつて、三十二三の大年増ですが、ちよいと良い女ですよ」
「よし/\、そんな事でよからう。お前一人で手が廻らなかつたら、下つ引を二三人狩り出して、三芳屋の評判から、奉公人の身許を念入りに洗つて見てくれ。お加奈に
「親分は?」
「お萩とお京に會つていろ/\聽いて見るよ」
「へエ、それぢやあつしも聽きませう」
八五郎は相手が若くて綺麗な娘達とわかると、臆面もなく平次に附いて來るのです。
三芳屋の娘のお萩は、手代の新六に呼出されて、泣き脹らした眼を、
「氣の毒だつたな、お孃さん」
「ハイ」
平次に聲を掛けられて、泣きじやくるやうに顏を擧げましたが、それがまた痛々しくも涙に蒸されて、處女の血潮が匂ふのです。
「氣の付いたことはないかな、お孃さん」
「これは誰にも言はないことにして居りましたが――」
「父親が殺されたといふのに、何事も隱し立てをしてはいけない、――下手人を逃がすやうな事があつては、
平次は妙な年寄り染みたことを言つて、フト口を
「これを、昨夜、あの縁側で見付けました――父の部屋を覗く前、フト足に障る物があつたので、拾ひ上げて置きましたが」
お萩はさう言つて、袂の下から懷中煙草入を取出すのでした。
「持主は?」
「さア」
お萩は言ひ淀みました。矢張り直接自分の口からは言ひ
「そこで、その時縁側に誰も居なかつたのかな」
「人影を見たやうな氣がしますが、確かなことはわかりません――灯の屆いた時は、何處かの部屋へ滑り込んでしまひました。でも男の姿のやうに思ひましたが」
これは重大な發見です。が、昨夜の
「ところでお孃さんは、番頭の佐吉をどう思ひます」
平次は問ひを變へました。
「怖い人ですわ」
處女心を
「新六は」
「良い人ですけれど」
お萩の言葉には、但し書がありさうです。
「音次郎は」
「――」
お萩は默り込んでしまひました。言ひ度くないのか、極りが惡いのか、それはわかりませんが、當然自分の許婚であるべき男が、昨夜他の女と心中をしかけたといふ複雜な事情がお萩の心を極度に混亂させて居る樣子です。
八五郎に呼留められて、物蔭につれ込まれた音次郎は、其處に錢形平次が凝つと此方を見て居るのを意識すると、急に崩折れるやうに腰を折つてしまひました。
「飛んだお手數をかけます。錢形の親分さん」
好い男の顏が、苦惱と
「音次郎さんだね、――お前に見せ度いものがあるんだが」
「?」
「この煙草入が、昨夜主人の殺された部屋の外に落ちてゐたさうだよ、――見覺えはあるだらうな」
「それは私の煙草入ですが――」
音次郎の青白い顏は、恐怖に引き
「どうして奧の縁側に落ちてゐたか、氣が付くことと思ふが――」
「でも、私は、昨夜は――あの時分大川の上に居りましたが」
「よし/\心中する道行に
「その通りで、親分」
「すると」
「誰か私の煙草入と知つて、そんなところへ持出して捨てたのぢやございませんか」
音次郎は追ひ詰められた窮地から、僅かに逃げ道を發見したのです。
「そんな事もあるだらうが、お前を怨んで人殺しの罪に落とさうといふのは誰だ」
「さア」
お萩が遠目に見たといふ縁側の人影、それは主人彦兵衞が殺されて、半刻も經つて居ることですから、或は下手人ではあり得ないとしても、音次郎を陷れるために、煙草人を
「ところで、お前は何んだつて心中なんかする氣になつたんだ」
平次はそれが訊き度かつたのです。
「面目次第もございません――正直に申上げますと、お京さんにせがまれて、斷りきれなかつたのでございます」
「斷りきれなくて、附き合ひに心中する氣になつたのか」
「附き合ひといふわけではございませんが」
「お京とは何時から親しくなつて居るんだ」
「一昨年の秋ごろからで」
その頃お京は十七、よく脂が乘つて、もう娘になりきつて居たのに、お萩の方は年弱の
「お前が此處へ來たのは」
「その少し前でございました」
「養子の話の始まつたのは何時だ」
「ツイ二た月ほど前でございます」
「お前はそれを承知したのか」
「叔父の申し付けで、承知も不承知もありません。それに叔父と申しても私と血の
「叔父はお前とお京の仲を知らなかつたのか」
「薄々は氣が付いて居たかも知れませんが」
音次郎の
「幸ひ助けられた今となつては、昨夜のことを思ひ出して、どんな心持だ」
「全くぞつといたします」
「もう一度やり直す氣はないのか」
「飛んでもない親分」
音次郎は尻ごみするのです。お萩の聟といふことになつた爲に、激情家のお京に引摺られて、あの世の門口を覗いた音次郎は、それを思ひ出してもゾツとするのでせう。
平次は音次郎を宜い加減にして、お京に會つて見る氣になりました。これは昨夜
「錢形の親分だよ」
八五郎が前觸れをすると、お京は床の上に起き直つて、
「私、まア、どうしませう」
あわてて髮を撫でたり、前
「その儘で宜いよ、――氣分はどうだ」
「起きなきや惡いと思ひますが」
枕許に片膝突いた平次の顏を見上げて、お京の眼は訴へます。成熱した丸ぽちやで、美しくはないにしても、全く拔群の可愛らしさですが、兩國橋の下の水に揉み拔かれて、さすがに今日は元氣がありません。
「まア、靜かに養生するが宜からう――ところで少し訊き度いことがあるが」
「?」
「何んだつてお前達は、あんな無分別なことをする氣になつたんだ」
「――」
お京はそれに應へる代りに、シクシクと泣き出しました。
「言ひ
「音さんと堅い/\約束したんですもの。それなのに音さんが」
「
「――」
お京は默つて袂の中に顏を埋めました。
「心中はお前が言ひ出したのだらう」
「――」
「音次郎がよくそれを承知したことだな」
「すぐ死なうと言つてくれました」
そればかりが、お京には嬉しい思ひ出になつてしまつた樣子です。
「この
「私はもう諦めてしまひました。今朝からあの人は一度も顏を見せないんですもの――忙しいには違ひないし、極りも惡いことでせうが、私がこんなに、こんなに――」
お京は大泣きに泣くのでした。
「泣かなくたつて宜い、――で、諦らめてどうするのだ」
「私が居ると、あの人も寢覺めが惡いでせうし、あの人の出世の
お京はさう言ひながらや諦めきれない諦めに
「錢形の親分、死骸の首に卷きついてゐた細引は、誰も見覺えがないと言ふぜ」
鎌倉町の河太郎は、鬼の首でも取つたやうに、一つの手掛りに
「それはどういふわけだえ、鎌倉町の」
平次は靜かに應へました。
「こいつは船具だよ。
「――」
「それからもう一つ、昨夜
「――」
「
鎌倉町の河太郎は、平次の眼の屆かぬ證據を掴んで、すつかり良い心持になつて居る樣子です。
「そんな事かも知れない、――が、鎌倉町の親分。曲者が外から來たものとばかりも言ひきれない證據もあるんだよ」
「へン」
「第一、その縁の下だ、――八、其處を掘つて見てくれ。縁の下のよく乾いた土が、其處だけ一箇所
「この處ですか」
平次に指さゝれると、八五郎は縁の下に潜つて、少し小高くなつた土を掻きました。
「あ、小判」
その掻く手に從つて土に交つて出て來たのは山吹色の小判が二枚、五枚、十枚、五十枚――と土の上に抛り出されて、燦然と晝近い陽に輝くのでした。
「もうそんなとこだらう。丁度三百枚ある筈だ」
平次はそれを集めて、
「どうして斯んなところに親分」
「曲者は、その小判を後で取出すつもりだつたかも知れない。どうかすると、小判には未練がなくて、主人殺しを泥棒の
「すると何ういふことになります、親分」
八五郎の鼻はふくらみます。
「外から入つた泥棒なら、必ずその小判を持つて行く筈だ――といふだけのことさ」
そこまではわかつても、下手人は誰といふことは、錢形平次にも見當はつきません。
念のため最後に下女のお角に會つて見ましたが、これは平凡な四十女で、亭主に死別れて住み込んでからもう十年にもなるといふのに、お勝手の用事以外のことにはあまり興味がなく、
「お孃さんはどうだ」
「良い方ですよ」
「お京は」
「これも良い人で」
と言つた調子です。斯うまで批判力が
それから五日經ちました。三芳屋の主人彦兵衞を殺した下手人は、相變らず見當もつかず、三芳屋の店は大戸をおろし、奉公人達は妙に睨み合つたまゝ、滅入るやうに日を送つて居りました。
鎌倉町の河太郎はあせりきつて、番頭佐吉、甥の音次郎、手代の新六を交る/″\調べましたが、主人が殺されたと思はれる
それはあの晩の
この
「親分、あのあたけの傳三の野郎、ひどく金費ひが荒くなりましたよ」
八五郎は妙なニユースを持つて來ました。
「どんな費ひつ振りだ」
平次も少し乘出します。
「恐ろしく負け續けの癖に、――金の
「三芳屋の音次郎が川の中で落した三十兩の小判を拾つたのだらう」
「夜の水の中で、そんなものが拾へるでせうか、親分」
「船へ助けてあげる時、音次郎の懷中から拔く
平次はあつさり片付けてしまひます。
併し事件はそれから急轉直下に展開して、恐ろしい
「親分、た、大變ツ」
格子はハネ飛ばして上
「サア、來やがつた。八の大變
「あたけ河岸であの傳三の野郎が、小屋ごとこんがり燒かれて居ますぜ、親分」
「何んだと、八」
「醉つ拂つて昨夜遲く歸つて來て、火を
「この生暖けえのにか」
「何んだか知らないが、小屋一つポーツと燒いて、火事はそれつきりで止つたが、今朝見ると燒跡から男の死骸が出て來たといふ騷ぎでさ」
「そいつは大變だ、――あの男が何にか知つてゐさうだと思ひながら、ツイ手が伸びなかつたのは此方の手落さ。行つて見よう、八」
平次は早速飛んで行きましたが、燒跡からは大した得るところもなく、燒死體の傍に小判がたつた一枚あつたといふのが、せめてもの收獲でした。
「絞め殺して火をつけたんぢやありませんか」
八五郎は妙なところへ氣が廻ります。
「いや、そんな樣子はないよ。尤もあの恰幅ぢや力もありさうだから、醉つてゐても手輕には締められまい――歸るとしようか、八」
「これつきり歸るんですか、親分」
「歸る前に、――場所が場所だし、傳三は船頭だから船の道具を少しは持つて居たことだらう。
平次の感がよく當りました。駄菓子屋の女房は、
「傳三さんは昔は良い船頭だつたつてね、自慢でしたよ。小さい小屋の中には、いろ/\の船の道具がありました。澁を塗つた細引なんかも見たことがあるやうですよ――でも町内の油蟲でしたが、燒け死んだとなると可哀想ですね」
こんな調子でまくし立てるのです。
「八、
平次は突然斯んな事を訊きます。
「知つてますよ。ちよいとした
「行つて見よう」
二人は相生町へ。平次の張りきりやうといふものはありません。
音次郎の叔母といふのは、四十五六の元氣な女房でしたが、平次の問ひに應へて、
「十三日の晩、音次郎は來ましたよ。ゆつくり話し込んで、歸つたのは
「――」
「その時音次郎は、『
こんなことまで思ひ出してくれたのです。
「八、愈々面白くなつたよ。お前は傳三が立ち廻つた
平次は八五郎に別れると、鍋町の三芳屋へ飛びました。三芳屋は殺された主人彦兵衞の初七日で、打ち
番頭の佐吉にだけ挨拶した平次は、そつと縁側から滑り込んで、掛り人のお京の部屋を覗いて見ました。
「氣分はどうだ」
「あ、錢形の親分さん」
起き上がるのを手で留めて、
「そのまゝで宜いよ、もう身體は大丈夫か」
床の側へ近々と寄ります。
「お蔭樣で、――明日あたりはいよ/\川越へ歸らうと思つて居ります」
恐らくお京の受けた打撃は、大川の水を呑んだ以上に、精神的なものが大きかつたのでせう。
「ところで、あの晩のことを
「さう言へば、あの晩も隨分變なことがありました」
「と言ふと?」
お京の
「私は川越で育つて、家は水に近いので少しは
「――」
平次は默つてしまひました。これは非常に重大なことになりさうです。
「音さんが助けられたので、私も一人死んではつまらないやうな氣がして、二度も三度も傳三さんの船の方へ泳いで行くと――着物を着たまゝ泳ぐんで、そりや大變でしたが、兎も角も船へ手が屆きさうになると、傳三さんは櫂で突きのけて、私を寄せつけないんです。あんまり
お京はどうしてそんな事になつたか、最初は意味がわからなかつたが、後になつて漸く三芳屋の甥の音次郎と違つて、奉公人のやうな自分を助けたところで、大したお禮も出ないだらうと思つて、傳三は薄情なことをしたに違ひない――と覺つたといふのです。
「よし/\、それで皆んなわかつたよ。音次郎はお前が考へたやうな心中男ぢやない。早く諦らめて川越へ歸るが宜い」
平次はそんな事を言つて、お京を慰めながら、お勝手へ足を延ばしました。
そこで忙しさうに働いて居るのは、下女のお角がたつた一人。血の
「お角さん、精が出るね」
「おや、錢形の親分さん」
「昨夜は忙しいことだつたらうな」
「そりや
「家中の者は誰も外へ出なかつた事だらうな」
「ところが皆んな一度づつは出ましたよ。新六さんはお寺へ、番頭さんは後々のことの御相談があるとやらで、三河町の御親類を送つて出るし、音次郎さんはひどくくたびれたからと、
「皆んな忙しいことだな」
平次は宜い加減に
納戸の前、晝過ぎの陽が一パイに射した中で、平次はお萩と相對しました。この間からの過勞と心配で、少しはやつれて見えますが、陽の中に立つた十八娘の美しさは、さすがの平次も眼を見張ります。
「お孃さん、お父さんを殺した下手人が分るか分らないかといふ、大事な瀬戸際だから、何事も隱さずに、本當の事を言つてくださいよ」
平次の言葉は力が籠ります。
「え、どんな事でも」
「では訊きますが、――あの煙草入を拾つたとき、すぐ音次郎の持物と分つたでせうな」
「――」
「それを翌る日まで隱して置いたのは、音次郎に詰らない疑ひを
「――」
お萩は
「ところでお孃さんは、あの時縁側で、男の人の姿をチラと見たといひましたが、――あれはお孃さんの思ひ違ひぢやありませんか」
「――」
お萩は又うなづきました。
「音次郎に疑ひがかゝるのが怖くなつて、あんな拵へ事を言つたのでせう。あの時誰も縁側に居た筈はない。音次郎は大川の上に居たし、佐吉と新六は同じ部屋に休んで居たし」
「――」
「お孃さんは、一度は腹立ち
「濟みません、親分さん」
お萩は長い袂を持ち扱ひながら、そつと涙を拭くのです。
「親分」
八五郎が泥棒猫のやうに庭木戸から入つて來ると、遠くの方から平次の姿を見付けて呼ぶのです。
「八、傳三の言つた金の實る木は?」
「お
「昨夜傳三を誘ひ出したのは?」
「傳三を
「わかつた、來い。八、あの男だ」
この時、二人の密談を立ち聽きして居たらしい男が、飛鳥の如く飛び出すのを、二三町追つかけて八五郎が手捕りにしたことは言ふ迄もありません。それは何んと、あの良い男の
× × ×
三芳屋の主人彦兵衞を殺した下手人は、甥の音次郎とわかると、一番驚いたのは心中の相手のお京と、音次郎を取つて押へた當の八五郎でした。
「嫌な野郎だとは思ひましたが、まさかあの男が叔父殺しとは?」
八五郎は斯んな調子に、平次の繪解きをせがむのです。
「あれは心の底からの惡人さ。最初お京と
「で?」
「音次郎は
「
「心中でもしようといふ奴は、日本橋の
「成程ね」
「ところで、もう一つ、相生町の
「?」
「音次郎は、相生町から鍋町まで驅けつけ、打ち合せの通りお京が三芳屋から脱け出すと、入れ換つてそつと忍び込み、晩酌をやつて、ぐつすり寢込んで居る叔父の彦兵衞を、傳三の小屋から持つて來た
「なアーる」
「三百兩は欲しいわけぢやないが、泥棒の仕業と思はせる爲に盜つて、邪魔になるから縁の下に埋め、お京の後を追つて大川端へ飛んだ。女の足だから、大して遲れずに追ひ付いたことだらう」
「惡い野郎ですね」
「心中でもしようといふ間際に、叔父殺しをやらうとは誰だつて思はない――相對死の一方が助かると、生き殘つた方は重いおとがめを受けることになつて居るが、これは表面だけのことで、三芳屋の力でどうにでもなるだらう――例へばお京が一人で身を投げて死んだといふ屆けでも濟むことだ。三芳屋の主人――自分の叔父の彦兵衞が死んでしまへば、心中の片割れでも何んでも、お萩は自分の思ふやうになり、三芳屋の身代が間違ひもなく自分に轉げ込むと思つたのは色男がつた音次郎の大間違ひさ。娘の心持なんてものは、そんな他愛もないものぢやない」
「成程ね」
「感心したね、八。お前が娘達に人氣のあるのは、腹の綺麗なせゐだとさ」
「どんなもんだ――と言ひてえくらゐのもので、へツ/\」
長んがい