錢形平次捕物控

心中崩れ

野村胡堂





 心中でもしようといふ者にとつて、その晩はまことに申分のない美しい夜でした。
 青葉の風が衣袂いべいくんじて、十三夜の月も泣いてゐるやうな大川端、道がこのまゝあの世とやらに通じてゐるものなら、思ひ合つた二人は、何んのためらひもなく、水の中へでも火の中へでも飛び込み度くなることでせう。
 神田鍋町の雜穀問屋、三芳屋彦兵衞のをひの音次郎と、同じ店に奉公人のやうに働いて居る、遠縁の娘お京は、晝の内に打合せて置いた通り、その晩の亥刻半よつはん(十一時)に、元柳橋の橋のたもとで落ち合ひました。
 死ぬ約束で同じ店に居る二人が、手に手を取つて脱け出して來るのは容易でなく、萬一人に見とがめられて、引戻されでもすると恥の上塗りですから、音次郎は本所から深川へかけて、お得意先を廻るといふのが口實。最後に相生あひおひ町の叔母さんの家で宵を過して、元柳橋へ駈けつけた時は、もう相手のお京が、橋の袂の柳にもたれて、苛々いら/\しながら待つて居るのでした。
 朧月おぼろづきに透して見るまでもなく、磁石じしやくと鐵片のやうに、兩方から駈け寄つた二人が、往來の人足のまばらなのを幸ひ、ひしと抱き合つた時、
「まア、よかつた」
 お互にさう言つたのも無理のないことです。
「誰にも見付かりはしなかつたかえ」
 音次郎は少し離れて、月の光に惚々とお京の顏を透しながら訊くと、
「え、皆んなはもう私が寢たことと思つてゐるでせう。いつものやうにお仕舞をして、叔父樣の肩を揉んで、戸締りを見廻つて、自分のお部屋へ入つて――、それからそつと脱け出して來たんですもの」
 こののぞんでもさすがに若い娘は行屆きます。
「大層綺麗だよ、今夜は」
 そんな中でもたしなみの化粧をして、晴れ着の銘仙のあはせ、死出の旅は、嫁入りするやうな晴れがましさでせう。
「でも」
 お京は身を揉んで、極り惡さうに、男の懷中ふところに顏を埋めます。夜風の匂ふのは、娘の體温に薫蒸された、掛香らしい匂ひ。
「私は本所のお得意先から預かつて來たお金が三十兩、これをお店へ屆けずに死んでは氣になるけれど――」
 音次郎は内懷中深く忍ばせた財布の中の、三十兩の小判に氣がのこる樣子でしたが、今更それはどうすることも出來ません。
 やがて二人は、元柳橋の橋の下につながれた小舟を一隻、ともづなを解いて川の中流に漕ぎ出しました。音次郎は少しばかりがいけるのと、岸から川へ飛び込んで、うつかり人に騷がれでもしては、とんだ恥をさらすことになるので、大川の中流を二人の死場所と定めたのです。
「お京さん、淋しくはないかえ」
 櫓の手を止めた音次郎は、滅入るやうな淋しさと、燒きつくやうな焦燥せうさうと、全く違つた二つの感情にさいなまれて、舟縁ふなべりに危ふくすがりついてゐる、お京の側へ膝を突きました。
 夜の上げ潮が靜かに兩國橋の方へ、二人を乘せたまゝの小舟を流して行きますが、たま/\山谷堀へ通ふ猪牙舟ちよきぶねが、心も空の嫖客を乘せて、矢のやうに漕ぎ拔ける外には、二人の注意を捕へるものもありません。
「いえ、――私は嬉しいの、音次郎さん」
 膝行ゐざり寄つたお京は、赤ん坊のやうな素直な心持で、音次郎の首つ玉に、犇々ひし/\とすがりつくのです。どつと留めどのない涙が、死に化粧の白粉を流して、男の襟へ首筋へとそゝぎます。
「死ぬ前に、もう一度顏が見たいな、お京さん」
「でも」
「こゝに幸ひ、本所の叔母さんのところから借りて來た提灯がある。お互の顏の見納めに灯を入れて見ようぢやないか」
 さう言ひながら音次郎は、懷中ふところ提灯を取出すと、火打鎌を器用に鳴らして、二人の袖を風除けに、どうやらあかりを入れました。
「音さん」
「お京さん」
 提灯を舟縁に掛けて、手を取り合つた二人の顏を、灯は下からほの/″\と照し出します。
 面長で色白で、久松型の弱々しさはありますが、音次郎の男振りは全く大したものでした。それに比べるとお京の方は、美人といふほどのきりやうではなく、眼鼻立ちの素直なだけ、さして取柄はありませんが、娘盛りのあぶらが乘きつてゐるのと、性格の純良さが沁み出して、いかにも可愛らしい娘です。
 歳は二十五と十九、どちらもやくで、『死』へのひたむきな道行を選んだのは、三芳屋の主人彦兵衞が、一人娘お萩の聟に、甥の音次郎を選んだために、音次郎と一昨年をととしの秋ごろから戀仲になつて居たお京が、ひたむきな熱情で此處まで引摺つて來たやうなものでした。
 それは兎も角、時を過して居るうちに、川の中の二人の姿は、次第に人目について來る樣子です。小舟が兩國橋に近づくと、橋の上の夜の人通りもあり、それに吉原へ急ぐおたな者などが、猪牙ちよきを急がせて、引つきりなしに水の上を通るのです。
「それぢや、お京さん」
「音さん、私は、私は」
 聲は嗚咽をえつに途ぎれて、二つの若い肉體は、避け難い死への本能的な反抗に絡みつくのです。
「人に見られると面倒だ。宜いかえ、お京さん」
「音さん」
「南無」
 お二人の身體はもつれ合つたまゝ、夜の眞黒な水の中へ、音も立てずにち込んでしまひました。
 その反動でユラリとなつた小舟の中には、ふなべりにかけた提灯が一つ、淋しくまたゝいて、空つぽになつた船の中を照して居ります。


「まア斯んなわけで――」
 その翌る日の朝、錢形平次の家へ飛び込んで來た八五郎は、身振り手振りで、音次郎お京心中の一こまを報告するのです。
「それで二人は?」
 無分別な若い命の浪費者は、平次の心持を暗くしてしまひました。
「安心して下さいよ、親分。二人は助かつたんで」
「水心でもあつたのか」
「いえ、夜釣に行つた歸り、客を兩國の橋詰に上げた船頭の傳三といふのが、この一と幕を、灯を消したまゝ、鼻の先で見て居たんですつて」
「人の惡い野郎だな」
あたけの傳三と言つて、小博奕こばくちうちゆすりかたりくらゐはやり兼ねない男ですよ、――面白がつて見てゐるうちに、二人は水へ飛び込んでしまつたんで、クルクルと袢纒はんてんをかなぐり捨てて、水の中へ飛び込むと、鼻の先に浮いてゐるお京を放つて置いて、先づ音次郎を船の中へ引摺り上げ、――女の子も殺しちや勿體ないぜ、良いきりやうだ――とか何んとか言ひながら、もう一度飛び込んでお京を搜したが、夜の水の中ぢや容易にわからねえ。暫らく經つてようやく引上げた時は、娘の方は半死半生だつたさうですよ」
「で?」
「音次郎は少しくらゐ泳ぎも知つて居たのと、直ぐ助けられたので、これは水も呑んぢや居ません。お京の方は岸へ上げて水を吐かせて、橋番小屋で少し温めただけで、これも元氣を取戻しました。そのまゝ突つ放しても宜いわけですが、――親分の前だが、相對死を危ないところで助けられたものは、不思議に二度と死ぬ氣になれないんですつてね。橋番なんざ心得たものでしたが、――あたけの傳三にして見れば、お禮の飮代くらゐは欲しかつたんでせう。二人を送つて鍋町の三芳屋へ行つたのは彼れこれ子刻半こゝのつはん(一時)近かつたと言ひますよ。するとどうでせう」
「――」
 それから先の騷ぎは、平次も一應は聞いて居る樣子でしたが、默つて八五郎の話をうながしながら、靜かに前後の微妙なつながりを考へてゐる樣子です。
「三芳屋は蜂の巣を叩き割つたやうな騷ぎだ――主人彦兵衞が、自分の床の中で、絞め殺されて居たといふんだから」
「誰が見付けたのだ」
「娘のお萩ですよ。小用に起きて父親の部屋の前を通ると、何時も有明ありあけの二本燈心の行燈を枕許に置いて、決して消したことのない父親の部屋が眞つ暗で、縁側に向いた障子が開いて居るので、念のために手燭の灯りを差出して覗くと、どうも樣子が變だ。いつも行儀の良いのを自慢の父親が、床から三尺もはみ出して寢てゐるから娘の眼に變に映つたのも無理はありません。側へ寄つてよく見ると、首に細引を卷いてこときれて居たと言ふぢやありませんか」
「時刻は?」
子刻こゝのつ(十二時)の鐘が鳴つたばかり、丁度音次郎とお京が水へ飛び込んだ刻限ですね」
「それからどうした」
「お萩が膽をつぶして、鍋町中に聞える程張り上げると、家中の者が飛んで來た。主人の身體がまだいくらか温かだつたので、いろ/\介抱して見たが、到頭息を吹返さなかつたのは氣の毒で」
「それで?」
「縁側の雨戸に締りがなかつたので、不思議に思つて調べて見ると、甥の音次郎と遠縁のかゝうどお京の姿が見えないばかりでなく、お京の部屋から書き置きが出て來た」
「――」
「騷ぎに輪をかけて、家中轉手古舞をして居るところへ、音次郎とお京が濡れ鼠になつたまゝ、船頭の傳三に送られて歸つて來たといふわけです」
「外に變つたことはないのか」
「主人彦兵衞が、用心のため手箱に入れて身近に置いてある金――小判で三百兩が、今朝になつて氣がつくと、盜られて居たんださうです。それに音次郎が掛けを集めて來た金が三十兩、これは川の中へ落してしまつたさうで、無くなつた金は〆めて三百三十兩だが、働き者の主人の命は金ぢや積れませんよ」
「當り前のことを言へ」
「ちよいと行つて三芳屋を覗いて見て下さいな、親分」
「行つて見よう。お前には少し荷が勝過ぎるやうだ」
 平次はやをら腰をあげました。


 神田鍋町の家持で、雜穀問屋をしてゐる三芳屋は、その朝店の大戸をおろしたまゝ、中は沸り返るやうな波瀾を押し包んで、息苦しいまでに沈まり返つて居りました。
 八五郎の案内で平次が乘込んだ時は、鎌倉町の河太郎といふ、中年者の御用聞が、土地者だけの顏をきかせて、かなりこね廻した後。
「おや、錢形の親分。こいつは飛んだ無駄骨折かも知れないぜ」
 などと四角な顏を益々四角にして、ひどく呑込んで居りました。
「下手人の見當でも付いたのか」
「他愛もない話さ。――をひの音次郎と心中をする約束で、掛り人のお京といふ娘が出た後、しまりのない縁側から、流しの忍込のびが入り込んで、主人の枕許の手文庫から、三百兩の金を掴み出したところを、主人に眼を覺されて、あわてて絞め殺したといふだけのことさ」
 鎌倉町の河太郎は斯う手輕に片付けて居るのです。
「鎌倉町の親分の前だが、その泥棒が細引まで用意して忍び込んだといふわけかえ」
 八五郎が背後から口を出しました。
「默つて居ろ。――人の物を盜らうといふ太い量見の野郎だ。薙刀なぎなただつて鐵砲だつて、次第によつては持込むかも知れないぢやないか」
 平次はそれを取なしたりして居ります。
「でもね、親分。お京といふ娘が脱出したところへ、うまい具合に泥棒が出逢でつくはしたものぢやありませんか」
 八五郎はまだ引かうとしません。これは飽までも下手人を家の中の者と信じきつて居る樣子です。
「兎も角も家の中へ入つて調べて見るとしよう」
 平次は二人の爭ひを聞き流して、三芳屋の潜りから暗い店の中へ入つて行きました。
「あ、錢形の親分さん、大變なことになりました。どうぞまア」
 迎へてくれたのは番頭の佐吉で、今まで平次と八五郎と河太郎の話を、それとはなしに店の中から聽いて居た樣子です。五十前後の月代さかやきのよく光る、一と掴みほどの男ですが、がらが小さい癖に、妙に精悍らしいところがあります。
「主人の部屋へ案内してくれ」
「へエ」
 佐吉が案内したのは、薄暗い廊下を幾まがりもした、奧の/\一と間でした。窓の小さい六疊で陰氣なことはこの上もなしですが、木口が立派で、調度もなか/\凝つて居り、分限者三芳屋の暮し向きの豪勢さも思ひやられます。
 主人彦兵衞の死骸は、檢屍前でまだそのまゝにしてありました。一應床の上に戻して、首にからんだ三尺ほどの澁を引いた細引は、物々しく布團の側にとぐろを卷かせてありますが、先づ昨夜死骸になつて見付けられた時の樣子が想像されないことはありません。
 五十を越した主人は、老熟した江戸の大町人らしくもなく、皺だらけの一塊の中老人で、丈夫な繩が一本あれば、隨分女子供にも絞められさうです。
「主人は酒はいけるか」
 平次は佐吉を振り返りました。
「ほんの少々ですが、毎晩一合づつ寢酒を召し上がります。よく寢付けると申しまして」
「昨夜休んだのは?」
戌刻半いつゝはん(九時)には床にお入りになります。早寢の早起きが御自慢で、商賣柄夜は暗くなると店を仕舞ひます」
「戸締りは?」
「この上もなく念入りでございます。主人の外にお京さんと私が見廻ります。輪鍵と、小棧こざると心張棒の外に、場所に依つてはかんぬきまで用意してあります」
「それは又大層なことだな」
「内から開けさへしなければ、外からは滅多なことでは泥棒も入れません」
 佐吉の調子は、暗に内から開けて出たお京を非難してゐるのでした。
「その開けて出た場所は?」
「此處でございます」
 住吉は戸袋に近い縁側のあたりを指さすのでした。
「あれは誰だ」
 平次はフト背後うしろに物の氣はひを感じたのです。
「へエ、手代の新六でございます」
 あわててお辭儀をしたのは、二十七八の陰氣な男でした。ノツポで骨張つて、そんなに不景氣な人間ではありませんが、人間の顏をまともに見ない、妙にキヨトキヨトしたところがあつて、決して人に好感を與へるたちの男ではありません。


「親分、ちよいと」
「何んだ、八」
 平次は庭下駄を突つかけて、庭木戸のところから長いあごを動かしてゐる八五郎の側に歩み寄りました。
「大變な家ですよ。この三芳屋といふのは」
「何が大變なんだ」
「殺された主人は因業いんごふで、娘のお萩は綺麗で、甥の音次郎は美男で――」
「そんな事は少しも大變ではあるまい」
「それからが大變なんで、番頭の佐吉は喰はせ者で、帳尻を誤魔化すことばかり考へて居るし、手代の新六は一國者で、一度は養子にといふ話もあつたが、娘のお萩に嫌はれ拔いて居る上、主人と喧嘩ばかりして見るから、それも沙汰止みになり、甥の音次郎は二三年前店へ轉げ込んださうですが、男つ振りが良いので身持がをさまらず、娘のお萩と掛り人のお京と二人へちよつかいを出して一と騷動を起し、出るの引くのとこの間から悶着中といふことですよ」
「それつきりか」
「それで澤山ぢやありませんか。この家の中だけでも、主人の殺し手が三人くらゐあるのは驚いたでせう」
「店の者はそれで宜いとして、外の者で怨んでる筋はないのか」
「世間附き合ひは惡くないやうで、店子たなこも御得意樣も御近所の衆も褒めて居ますよ。少し意地つ張りで因業ではあるが、物の道理のよくわかつた主人だつたさうで、――あ、もう一つ大事なことがありますよ」
「何んだ、早く總仕舞にしてくれ。俺はまだ忙しいんだ」
「主人の彦兵衞は五十を越してから急に若返つて、近頃隣町の小唄の師匠とねんごろになり、近いうちに改めて仲人を立てて、後添にして家へ引入れることになつて居たさうですよ」
「そいつはうるさい事がありさうだな」
「お加奈といつて、三十二三の大年増ですが、ちよいと良い女ですよ」
「よし/\、そんな事でよからう。お前一人で手が廻らなかつたら、下つ引を二三人狩り出して、三芳屋の評判から、奉公人の身許を念入りに洗つて見てくれ。お加奈に情夫をとこがあればそれも洗つて置きたい」
「親分は?」
「お萩とお京に會つていろ/\聽いて見るよ」
「へエ、それぢやあつしも聽きませう」
 八五郎は相手が若くて綺麗な娘達とわかると、臆面もなく平次に附いて來るのです。
 三芳屋の娘のお萩は、手代の新六に呼出されて、泣き脹らした眼を、まぶしさうに縁側に持つて來ました。お京より一つ歳下の十八、まだ幼々しさの拔けきれない、未完成な娘振りですが、瓜實うりざね顏で眉の長い、唇の切り込みの深い、非凡の上品さです。
「氣の毒だつたな、お孃さん」
「ハイ」
 平次に聲を掛けられて、泣きじやくるやうに顏を擧げましたが、それがまた痛々しくも涙に蒸されて、處女の血潮が匂ふのです。
「氣の付いたことはないかな、お孃さん」
「これは誰にも言はないことにして居りましたが――」
「父親が殺されたといふのに、何事も隱し立てをしてはいけない、――下手人を逃がすやうな事があつては、冥土めいどさはりにもならう」
 平次は妙な年寄り染みたことを言つて、フト口をつぐみました。
「これを、昨夜、あの縁側で見付けました――父の部屋を覗く前、フト足に障る物があつたので、拾ひ上げて置きましたが」
 お萩はさう言つて、袂の下から懷中煙草入を取出すのでした。紺呉絽こんごろの男物で、かなり洒落れたものですから、持主はたつた一と目でわかる筈です。
「持主は?」
「さア」
 お萩は言ひ淀みました。矢張り直接自分の口からは言ひにくかつたのでせう。
「そこで、その時縁側に誰も居なかつたのかな」
「人影を見たやうな氣がしますが、確かなことはわかりません――灯の屆いた時は、何處かの部屋へ滑り込んでしまひました。でも男の姿のやうに思ひましたが」
 これは重大な發見です。が、昨夜の亥刻半よつはん(十一時)や子刻こゝのつ(十二時)では、その時兩國の下に居た、甥の音次郎でないことだけは確かです。
「ところでお孃さんは、番頭の佐吉をどう思ひます」
 平次は問ひを變へました。
「怖い人ですわ」
 處女心をおびやかす、何にかを持つて居るのでせう。
「新六は」
「良い人ですけれど」
 お萩の言葉には、但し書がありさうです。
「音次郎は」
「――」
 お萩は默り込んでしまひました。言ひ度くないのか、極りが惡いのか、それはわかりませんが、當然自分の許婚であるべき男が、昨夜他の女と心中をしかけたといふ複雜な事情がお萩の心を極度に混亂させて居る樣子です。


 をひの音次郎はソワソワと動いて居りました。さすがに人に顏を見られるのが照れ臭いことでせうが、この騷ぎの中で、自分の感傷に許りもひたつても居られなかつたのでせう。
 八五郎に呼留められて、物蔭につれ込まれた音次郎は、其處に錢形平次が凝つと此方を見て居るのを意識すると、急に崩折れるやうに腰を折つてしまひました。
「飛んだお手數をかけます。錢形の親分さん」
 好い男の顏が、苦惱と焦燥せうさうにさいなまれて、濃い影を作つて居りますが、態度はさすがに客馴れた調子で、少しも惡びれません。
「音次郎さんだね、――お前に見せ度いものがあるんだが」
「?」
「この煙草入が、昨夜主人の殺された部屋の外に落ちてゐたさうだよ、――見覺えはあるだらうな」
「それは私の煙草入ですが――」
 音次郎の青白い顏は、恐怖に引きゆがみます。
「どうして奧の縁側に落ちてゐたか、氣が付くことと思ふが――」
「でも、私は、昨夜は――あの時分大川の上に居りましたが」
「よし/\心中する道行に他所行よそゆきの煙草入を持つて行く筈はないと言ふつもりだらう」
「その通りで、親分」
「すると」
「誰か私の煙草入と知つて、そんなところへ持出して捨てたのぢやございませんか」
 音次郎は追ひ詰められた窮地から、僅かに逃げ道を發見したのです。
「そんな事もあるだらうが、お前を怨んで人殺しの罪に落とさうといふのは誰だ」
「さア」
 お萩が遠目に見たといふ縁側の人影、それは主人彦兵衞が殺されて、半刻も經つて居ることですから、或は下手人ではあり得ないとしても、音次郎を陷れるために、煙草人をはふり込みに來た人間でないとは言ひきれません。
「ところで、お前は何んだつて心中なんかする氣になつたんだ」
 平次はそれが訊き度かつたのです。
「面目次第もございません――正直に申上げますと、お京さんにせがまれて、斷りきれなかつたのでございます」
「斷りきれなくて、附き合ひに心中する氣になつたのか」
「附き合ひといふわけではございませんが」
「お京とは何時から親しくなつて居るんだ」
「一昨年の秋ごろからで」
 その頃お京は十七、よく脂が乘つて、もう娘になりきつて居たのに、お萩の方は年弱の晩稻おくてで、まだお手玉の方が嬉しい小娘だつたのです。
「お前が此處へ來たのは」
「その少し前でございました」
「養子の話の始まつたのは何時だ」
「ツイ二た月ほど前でございます」
「お前はそれを承知したのか」
「叔父の申し付けで、承知も不承知もありません。それに叔父と申しても私と血のつながつて居るのは亡くなつた叔母の方で、私とは義理のある仲でございます」
「叔父はお前とお京の仲を知らなかつたのか」
「薄々は氣が付いて居たかも知れませんが」
 音次郎の口吻くちぶりから察すると、叔父の彦兵衞は、音次郎とお京の仲を、心中するほどの深い間とは氣が付かなかつたのでせう。
「幸ひ助けられた今となつては、昨夜のことを思ひ出して、どんな心持だ」
「全くぞつといたします」
「もう一度やり直す氣はないのか」
「飛んでもない親分」
 音次郎は尻ごみするのです。お萩の聟といふことになつた爲に、激情家のお京に引摺られて、あの世の門口を覗いた音次郎は、それを思ひ出してもゾツとするのでせう。
 平次は音次郎を宜い加減にして、お京に會つて見る氣になりました。これは昨夜したゝかに水を呑んだために、まだ半病人の有樣で、お勝手に近い自分の部屋に休んで居りました。
「錢形の親分だよ」
 八五郎が前觸れをすると、お京は床の上に起き直つて、
「私、まア、どうしませう」
 あわてて髮を撫でたり、前づまをかき合せたりするのです。
「その儘で宜いよ、――氣分はどうだ」
「起きなきや惡いと思ひますが」
 枕許に片膝突いた平次の顏を見上げて、お京の眼は訴へます。成熱した丸ぽちやで、美しくはないにしても、全く拔群の可愛らしさですが、兩國橋の下の水に揉み拔かれて、さすがに今日は元氣がありません。
「まア、靜かに養生するが宜からう――ところで少し訊き度いことがあるが」
「?」
「何んだつてお前達は、あんな無分別なことをする氣になつたんだ」
「――」
 お京はそれに應へる代りに、シクシクと泣き出しました。
「言ひにくいことだらうが、お前の心持を正直に話してくれ」
「音さんと堅い/\約束したんですもの。それなのに音さんが」
此家こゝの養子になつて、お萩と一緒になるといふのが口惜くやしかつたのだらう」
「――」
 お京は默つて袂の中に顏を埋めました。
 四方あたりの調度の貧しさや、夜の物の粗末なのに引立てられて、お京の若さといぢらしさが妙に平次を動かすのでした。
「心中はお前が言ひ出したのだらう」
「――」
「音次郎がよくそれを承知したことだな」
「すぐ死なうと言つてくれました」
 そればかりが、お京には嬉しい思ひ出になつてしまつた樣子です。
「このさきお前はどうするつもりだ」
「私はもう諦めてしまひました。今朝からあの人は一度も顏を見せないんですもの――忙しいには違ひないし、極りも惡いことでせうが、私がこんなに、こんなに――」
 お京は大泣きに泣くのでした。
「泣かなくたつて宜い、――で、諦らめてどうするのだ」
「私が居ると、あの人も寢覺めが惡いでせうし、あの人の出世のさまたげにもなりますから、私は諦めて、身體さへ治つたら、川越の兄のところへ歸ります」
 お京はさう言ひながらや諦めきれない諦めにむせび泣くのです。夜の潮に汚れた生乾きの髮が崩れて、豊かな頤を埋めた襟のくれなゐを拭ひ敢へぬ涙がひたすのでした。


「錢形の親分、死骸の首に卷きついてゐた細引は、誰も見覺えがないと言ふぜ」
 鎌倉町の河太郎は、鬼の首でも取つたやうに、一つの手掛りに獅噛しがみつくのです。
「それはどういふわけだえ、鎌倉町の」
 平次は靜かに應へました。
「こいつは船具だよ。しぶを引いた三つ繰りで雜穀屋などにある品物ぢやねえ」
「――」
「それからもう一つ、昨夜亥刻よつ(十時)少し過ぎに、此家こゝの裏木戸を押しあけて、そつと入つた者があるといふことだぜ――町内の若い衆が、夜遊びの通りすがりにチラと見ただけで、それつきり通つてしまつたといふことだが」
「――」
う證據が揃ふと、曲者は矢張り外から來た者で、お京が出かけた後、そつと忍び込んで主人を殺したのぢやないかな」
 鎌倉町の河太郎は、平次の眼の屆かぬ證據を掴んで、すつかり良い心持になつて居る樣子です。
「そんな事かも知れない、――が、鎌倉町の親分。曲者が外から來たものとばかりも言ひきれない證據もあるんだよ」
「へン」
「第一、その縁の下だ、――八、其處を掘つて見てくれ。縁の下のよく乾いた土が、其處だけ一箇所しめつて居る上に、手で押したやうな型が殘つて居るだらう」
「この處ですか」
 平次に指さゝれると、八五郎は縁の下に潜つて、少し小高くなつた土を掻きました。
「あ、小判」
 その掻く手に從つて土に交つて出て來たのは山吹色の小判が二枚、五枚、十枚、五十枚――と土の上に抛り出されて、燦然と晝近い陽に輝くのでした。
「もうそんなとこだらう。丁度三百枚ある筈だ」
 平次はそれを集めて、沓脱くつぬぎの上に並べます。
「どうして斯んなところに親分」
「曲者は、その小判を後で取出すつもりだつたかも知れない。どうかすると、小判には未練がなくて、主人殺しを泥棒の仕業しわざと見せかけるために、三百兩の小判は盜んだが、持出す暇もなく、隱して置く場所もないので、その縁の下に埋めて置いたのかも知れないのだよ」
「すると何ういふことになります、親分」
 八五郎の鼻はふくらみます。
「外から入つた泥棒なら、必ずその小判を持つて行く筈だ――といふだけのことさ」
 そこまではわかつても、下手人は誰といふことは、錢形平次にも見當はつきません。
 念のため最後に下女のお角に會つて見ましたが、これは平凡な四十女で、亭主に死別れて住み込んでからもう十年にもなるといふのに、お勝手の用事以外のことにはあまり興味がなく、
「お孃さんはどうだ」
「良い方ですよ」
「お京は」
「これも良い人で」
 と言つた調子です。斯うまで批判力がけて居ては、平次でも調べやうはありません。尤も、音次郎の評判が馬鹿によく、佐吉と新六に好感を持つて居ないのは、音次郎の男振りのせゐと見るべきでせう。


 それから五日經ちました。三芳屋の主人彦兵衞を殺した下手人は、相變らず見當もつかず、三芳屋の店は大戸をおろし、奉公人達は妙に睨み合つたまゝ、滅入るやうに日を送つて居りました。
 鎌倉町の河太郎はあせりきつて、番頭佐吉、甥の音次郎、手代の新六を交る/″\調べましたが、主人が殺されたと思はれる亥刻半よつはん(十一時)頃には、三人共明らかすぎる程明らかな不在證明アリバイがあり、わけても新六などは誰の眼にも怪しく映りながら、河太郎の無法さでもこれを縛る口實はなかつたのです。
 それはあの晩の亥刻半よつはん(十一時)には、音次郎は大川端でお京に會つて居り、佐吉と新六は店の隣りの部屋に、枕を並べて寢て居り、子刻こゝのつ(十二時)前は二人共小用にも起きなかつたのです。
 この鬱陶うつたうしい空氣の中に、六日目の晝頃。
「親分、あのあたけの傳三の野郎、ひどく金費ひが荒くなりましたよ」
 八五郎は妙なニユースを持つて來ました。
「どんな費ひつ振りだ」
 平次も少し乘出します。
「恐ろしく負け續けの癖に、――金のる木を植ゑたんだ。五兩や十兩の金に驚くけえ――なんて小判をバラいて居るさうで」
「三芳屋の音次郎が川の中で落した三十兩の小判を拾つたのだらう」
「夜の水の中で、そんなものが拾へるでせうか、親分」
「船へ助けてあげる時、音次郎の懷中から拔くもあるだらうな」
 平次はあつさり片付けてしまひます。
 併し事件はそれから急轉直下に展開して、恐ろしい破局カタストローフ驀地まつしぐらに陷込んで行きました。そのまた翌る日の朝、明神下の平次の家へ飛び込んで來た、八五郎のあわて加減といふものは――。
「親分、た、大變ツ」
 格子はハネ飛ばして上かまちに四つん這ひになる騷ぎです。
「サア、來やがつた。八の大變癲癇てんかんが來さうな空合だと思つたよ」
あたけ河岸であの傳三の野郎が、小屋ごとこんがり燒かれて居ますぜ、親分」
「何んだと、八」
「醉つ拂つて昨夜遲く歸つて來て、火をいて温まりながら眠つてしまつたんでせう」
「この生暖けえのにか」
「何んだか知らないが、小屋一つポーツと燒いて、火事はそれつきりで止つたが、今朝見ると燒跡から男の死骸が出て來たといふ騷ぎでさ」
「そいつは大變だ、――あの男が何にか知つてゐさうだと思ひながら、ツイ手が伸びなかつたのは此方の手落さ。行つて見よう、八」
 平次は早速飛んで行きましたが、燒跡からは大した得るところもなく、燒死體の傍に小判がたつた一枚あつたといふのが、せめてもの收獲でした。
「絞め殺して火をつけたんぢやありませんか」
 八五郎は妙なところへ氣が廻ります。
「いや、そんな樣子はないよ。尤もあの恰幅ぢや力もありさうだから、醉つてゐても手輕には締められまい――歸るとしようか、八」
「これつきり歸るんですか、親分」
「歸る前に、――場所が場所だし、傳三は船頭だから船の道具を少しは持つて居たことだらう。しぶを塗つた細引なんかなかつたか、隣りの駄菓子屋で訊いて見よう」
 平次の感がよく當りました。駄菓子屋の女房は、
「傳三さんは昔は良い船頭だつたつてね、自慢でしたよ。小さい小屋の中には、いろ/\の船の道具がありました。澁を塗つた細引なんかも見たことがあるやうですよ――でも町内の油蟲でしたが、燒け死んだとなると可哀想ですね」
 こんな調子でまくし立てるのです。


「八、相生あひおひ町の音次郎の叔母さんの家を知つて居るか」
 平次は突然斯んな事を訊きます。
「知つてますよ。ちよいとした煎餅せんべい屋で」
「行つて見よう」
 二人は相生町へ。平次の張りきりやうといふものはありません。
 音次郎の叔母といふのは、四十五六の元氣な女房でしたが、平次の問ひに應へて、
「十三日の晩、音次郎は來ましたよ。ゆつくり話し込んで、歸つたのは亥刻よつ少し前だつたと思ひますが」
「――」
「その時音次郎は、『先刻さつき打つた鐘はたしかに亥刻よつ(十時)ですね叔母さん』――と繰り返し繰り返し言つて歸りましたが、不思議なことに音次郎が歸つて暫く經つてから四つを打つたことを覺えて居ます」
 こんなことまで思ひ出してくれたのです。
「八、愈々面白くなつたよ。お前は傳三が立ち廻つた賭場とばを覗いて、傳三が言つた金の實る木とは誰のことか、それから昨夜誰かに誘ひ出されなかつたか、念入りに訊いてくれ」
 平次は八五郎に別れると、鍋町の三芳屋へ飛びました。三芳屋は殺された主人彦兵衞の初七日で、打ちしめつたうちにも、何んとなく賑やかに、近所の衆や親類達の顏も見えて居ります。
 番頭の佐吉にだけ挨拶した平次は、そつと縁側から滑り込んで、掛り人のお京の部屋を覗いて見ました。
「氣分はどうだ」
「あ、錢形の親分さん」
 起き上がるのを手で留めて、
「そのまゝで宜いよ、もう身體は大丈夫か」
 床の側へ近々と寄ります。
「お蔭樣で、――明日あたりはいよ/\川越へ歸らうと思つて居ります」
 恐らくお京の受けた打撃は、大川の水を呑んだ以上に、精神的なものが大きかつたのでせう。
「ところで、あの晩のことをくはしく話してくれ。お前達を助けた船頭の傳三は、昨夜醉つ拂つて自火を出して燒け死んでしまつたが、生前數々の惡事も重ねて居るやうだし、ちよいと調べて置き度いのだ」
「さう言へば、あの晩も隨分變なことがありました」
「と言ふと?」
 お京のくちびるようやくほぐれました。
「私は川越で育つて、家は水に近いので少しはおよぎも知つて居りますが、音次郎さんと抱き合ふやうにして水へ入ると、あの船頭の傳三さんの船がすぐ鼻の先に居て、私の身體がふなばたの近くへ行くと、いきなりかいで私の身體を遠くの方へ突き流し、それから川へ飛び込んで、遠くの方に居る音さんの身體を引寄せて自分の船へ助け上げるんですもの」
「――」
 平次は默つてしまひました。これは非常に重大なことになりさうです。
「音さんが助けられたので、私も一人死んではつまらないやうな氣がして、二度も三度も傳三さんの船の方へ泳いで行くと――着物を着たまゝ泳ぐんで、そりや大變でしたが、兎も角も船へ手が屆きさうになると、傳三さんは櫂で突きのけて、私を寄せつけないんです。あんまり口惜くやしいから、水を呑みながらも大きな聲を出すと、――こいつは可哀想だ。新造が溺れるのを見ちや居られねえ、おまけにお前も助けてやるよ――つて、散々水を呑んだ上で手を取つて引上げられました」
 お京はどうしてそんな事になつたか、最初は意味がわからなかつたが、後になつて漸く三芳屋の甥の音次郎と違つて、奉公人のやうな自分を助けたところで、大したお禮も出ないだらうと思つて、傳三は薄情なことをしたに違ひない――と覺つたといふのです。
「よし/\、それで皆んなわかつたよ。音次郎はお前が考へたやうな心中男ぢやない。早く諦らめて川越へ歸るが宜い」
 平次はそんな事を言つて、お京を慰めながら、お勝手へ足を延ばしました。
 そこで忙しさうに働いて居るのは、下女のお角がたつた一人。血のめぐりはあまり良くないにしても、こんなのは掛引がなくて、平次に取つて飛んだ役に立つのかも知れません。
「お角さん、精が出るね」
「おや、錢形の親分さん」
「昨夜は忙しいことだつたらうな」
「そりや逮夜たいやの法事ですもの、坊さんだけでも五人も呼びましたよ」
「家中の者は誰も外へ出なかつた事だらうな」
「ところが皆んな一度づつは出ましたよ。新六さんはお寺へ、番頭さんは後々のことの御相談があるとやらで、三河町の御親類を送つて出るし、音次郎さんはひどくくたびれたからと、亥刻よつ(十時)過ぎの仕舞湯へ――」
「皆んな忙しいことだな」
 平次は宜い加減に合槌あひづちを打つて、奧から娘のお萩を呼出してもらひました。
 納戸の前、晝過ぎの陽が一パイに射した中で、平次はお萩と相對しました。この間からの過勞と心配で、少しはやつれて見えますが、陽の中に立つた十八娘の美しさは、さすがの平次も眼を見張ります。
「お孃さん、お父さんを殺した下手人が分るか分らないかといふ、大事な瀬戸際だから、何事も隱さずに、本當の事を言つてくださいよ」
 平次の言葉は力が籠ります。
「え、どんな事でも」
「では訊きますが、――あの煙草入を拾つたとき、すぐ音次郎の持物と分つたでせうな」
「――」
「それを翌る日まで隱して置いたのは、音次郎に詰らない疑ひをせたくないからでせう」
「――」
 お萩はうなづきました。それを翌る日になつて平次に見せたのは、音次郎がその晩自分を裏切つてお京と心中をやり損ねたことに對する非難の現はれだつた事は疑ひもありません。
「ところでお孃さんは、あの時縁側で、男の人の姿をチラと見たといひましたが、――あれはお孃さんの思ひ違ひぢやありませんか」
「――」
 お萩は又うなづきました。
「音次郎に疑ひがかゝるのが怖くなつて、あんな拵へ事を言つたのでせう。あの時誰も縁側に居た筈はない。音次郎は大川の上に居たし、佐吉と新六は同じ部屋に休んで居たし」
「――」
「お孃さんは、一度は腹立ちまぎれに煙草入を見せたが、又思ひ直して、誰か外の人が、音次郎の煙草入を縁側へ抛り出して音次郎に疑ひを被せる細工をしたと思はせ度かつたんでせう」
「濟みません、親分さん」
 お萩は長い袂を持ち扱ひながら、そつと涙を拭くのです。


「親分」
 八五郎が泥棒猫のやうに庭木戸から入つて來ると、遠くの方から平次の姿を見付けて呼ぶのです。
「八、傳三の言つた金の實る木は?」
「おたな者だと――言つたさうで、名前はわかりませんよ」
「昨夜傳三を誘ひ出したのは?」
「傳三を賭場とばから誘ひ出したのも、頬冠りをしたお店者で、その時傳三はひどく醉つて居たさうですが」
「わかつた、來い。八、あの男だ」
 この時、二人の密談を立ち聽きして居たらしい男が、飛鳥の如く飛び出すのを、二三町追つかけて八五郎が手捕りにしたことは言ふ迄もありません。それは何んと、あの良い男のをひ、音次郎の取亂した姿だつたのです。
        ×      ×      ×
 三芳屋の主人彦兵衞を殺した下手人は、甥の音次郎とわかると、一番驚いたのは心中の相手のお京と、音次郎を取つて押へた當の八五郎でした。
「嫌な野郎だとは思ひましたが、まさかあの男が叔父殺しとは?」
 八五郎は斯んな調子に、平次の繪解きをせがむのです。
「あれは心の底からの惡人さ。最初お京とねんごろになつたが、一昨年をととし頃までは子供だと思つて居たお萩が近頃滅法綺麗になつたので、それに乘換へて三芳屋を乘取らうと考へたのだ。ところがお京は必死とからみついてどうしても離れない。叔父の彦兵衞もそれに氣がついて、近頃では又氣持が變つて、新六を養子にしようかなどと考へて居る樣子だ。新六は無愛想で人付きは惡いが、ありや飛んだ良い男さ。臆病者で人の顏を眞つ直ぐに見ないのがイヤな癖だがね」
「で?」
「音次郎はうるさいお京と、近頃自分のことをよく思はない叔父の彦兵衞を一緒に殺すことを考へたのだよ、――お京を心中に誘つて舟の中から川へ飛び込んだが、前から船頭の傳三を仲間に引入れ、自分だけ助けて貰つてお京を溺らせるつもりだつたが、傳三が佛心を出してお京を救つてしまつたので、少し許り手違ひが起つたのだ――三十兩の金は川へ落したことにして、最初から傳三にやるつもりだつたのさ」
ふてえ野郎ですね」
「心中でもしようといふ奴は、日本橋のさらし場で毎々お前も見てゐるだらうが、大概男に女ときまつたものだ。美男美女の心中といふものを、俺はまだ見たこともないよ。世間からチヤホヤされる美男美女は、容易に死ぬ氣になんかなるものぢやない――ところが、音次郎はあの通り美男だし、お京だつて可愛らしい娘だ。――それに心中しようといふ人間が、船の中で提灯をつけるのは變ぢやないか。あれは傳三へきつかけを知らせる合圖だつたのさ――月が良いのに相生あひおひ町の叔母の所から提灯を借りて來たのはその用意だ」
「成程ね」
「ところで、もう一つ、相生町の煎餅せんべい屋の家を音次郎が飛び出したのは、亥刻よつ(十時)少し前だ――本人はそれを亥刻よつ(十時)過ぎのやうに叔母さんに呑込ませようとしたのは、少し臭いぢやないか」
「?」
「音次郎は、相生町から鍋町まで驅けつけ、打ち合せの通りお京が三芳屋から脱け出すと、入れ換つてそつと忍び込み、晩酌をやつて、ぐつすり寢込んで居る叔父の彦兵衞を、傳三の小屋から持つて來た澁引しぶひきの細引で掛めた――こんな細引を使つたのは、下手人は外から入つたと思はせる爲で、三芳屋などにはない物を選つたわけだ」
「なアーる」
「三百兩は欲しいわけぢやないが、泥棒の仕業と思はせる爲に盜つて、邪魔になるから縁の下に埋め、お京の後を追つて大川端へ飛んだ。女の足だから、大して遲れずに追ひ付いたことだらう」
「惡い野郎ですね」
「心中でもしようといふ間際に、叔父殺しをやらうとは誰だつて思はない――相對死の一方が助かると、生き殘つた方は重いおとがめを受けることになつて居るが、これは表面だけのことで、三芳屋の力でどうにでもなるだらう――例へばお京が一人で身を投げて死んだといふ屆けでも濟むことだ。三芳屋の主人――自分の叔父の彦兵衞が死んでしまへば、心中の片割れでも何んでも、お萩は自分の思ふやうになり、三芳屋の身代が間違ひもなく自分に轉げ込むと思つたのは色男がつた音次郎の大間違ひさ。娘の心持なんてものは、そんな他愛もないものぢやない」
「成程ね」
「感心したね、八。お前が娘達に人氣のあるのは、腹の綺麗なせゐだとさ」
「どんなもんだ――と言ひてえくらゐのもので、へツ/\」
 長んがいあごをツルリと撫でる八五郎です。





底本:「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」同光社
   1954(昭和29)年6月10日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年6月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年4月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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