錢形平次捕物控

屠蘇の杯

野村胡堂





「親分、大變ツ」
 日本一の淺黄空あざぎぞら、江戸の町々は漸く活氣づいて、晴がましい初日の光の中に動き出した時、八五郎はあわてふためいて、明神下の平次の家へ飛び込んで來たのです。
「何んて騷々しい野郎だ。今日は何んだと思ふ」
 これから屠蘇とそを祝つて、心靜かに雜煮のはしをとらうといふ平次、あまりの事にツイ聲が大きくなりました。
「相濟みません。元日も承知で飛び込んで來ましたよ――お目出度う御座います。昨年中はいろいろ」
 八五郎はあわてて彌造を拔くと、氣を入れ換へたやうに世間並の挨拶になるのでした。
「――本年も相變らず、――ところで何が大變なんだ。まだ雜煮も祝つちや居めえ、よかつたら屠蘇を流し込んで、腹を拵へながら聽かうぢやないか」
 平次は八五郎を呼び入れると、大急ぎで膳を一つこさへさせ、長火鉢を押しやつて相對しました。
「さア、一つ――八さんが此家こゝでお屠蘇を祝つて下さるのは、何年目でせう」
 お靜は片襷かただすきを外して、そつと徳利を取上げました。夜店物の松竹梅の三つ重ねが、一つはふちけて、
「お、とゝ、と」
 八五郎が號令をかける迄もなく、半分しか酒が注げません。
「お前も此方へ膳を持つて來るが宜い。元日早々立ち身のまゝで、お勝手で殘り物をあさるなんざ、結構なたしなみぢやないぜ」
 客があるとツイ、お勝手で食事をすませるお靜の癖が、平次には氣になつてならなかつたのです。
「成程、そいつは氣が付かなかつた。あつしは縁側の方へ退きませう。日向ひなたぼつこをしながらお雜煮を祝ふのも、飛んだ榮耀ええうですぜ」
「あら、八さん、そんなにして下さらなくとも」
 お靜も漸く一座に加はりました。半分開けた障子は、手細工の切張りだらけですが、例の淺黄色の空が覗いて、盆栽ぼんさいの梅のつぼみのふくらみが、八五郎の膝に這つて居るのです。
「ところで、何んだつけ、八五郎が持込んで來た大變の正體は?」
「まだ話しませんよ」
「さうだらう、聽いたやうな氣がしねえ。御用初めに聽いて置かうか、どうせ目出度い話ぢやあるめえ」
「ところが、目出度いやうな、馬鹿々々しいやうな、氣の毒なやうな、可笑しな話なんで」
「何處かの三河萬歳で聽いて來た口上だらう、それは」
「殺しですよ、親分。元日早々縁起でもないが、あつしが見たところぢや、豊島町の大黒屋徳右衞門、確かに殺されかけたに間違ひありません。何しろ杉なりに積んだ千兩箱が頭の上から崩れて來て、屠蘇とそさかづきを持つた、大黒屋徳右衞門を下敷きにしたんだから怖いでせう」
「待つてくれよ、八。元日早々だから、話はでつかい方が目出度くて宜いが、千兩箱は一體幾つあれば杉なりに積めるんだ」
「百とはなかつたやうで」
「千兩箱が百で、中味は十萬兩だ。大黒屋徳右衞門いかに金持でも、それ程は持つて居る筈はない」
「すると、三十もありましたかな」
「心細い算盤そろばんぢやないか――杉なりに積んだ一番下は一體幾つあつたんだ」
「確かとをでしたよ。十疊の廣間の床の間一パイに積んでましたよ」
塵功記ぢんこうきといふ本に、杉なりに積んだ米俵や千兩箱の勘定のことが書いてある。それによると、一番下がとをで次が九つ八つ、一番上の一つまで勘定すると、丁度五十五になる勘定だ」
 平次は暗算でざつと千兩箱の數を出しました。
「へエ、五萬五千兩ですか。ふてえ野郎で」
「何が太え野郎だ」
「そんなに溜め込む奴があるから、こちとらには、正月だといふのに、一貫とまとまつた小遣ひが入らない」
やつかむなよ。ところで、千兩箱の下敷になつて、大黒屋は怪我でもしたといふのか」
 平次は改めて話をもとの出發點に引戻しました。
「大黒屋徳右衞門取つて五十五だ。大町人らしくでつぷり肥つて、貫祿も充分だが、それが大黒頭巾づきんかぶつて、杉なりに積んだ千兩箱の前にどつかと坐り、元日の朝家中の者を呼び集めて、屠蘇の盃をやる」
「大したことだ」
「一代に身上しんしやうを拵へると、人間はちよいと、そんな事をして見たくなるんですね」
「それからどうした」
「家中一とうのお祝を受けて、屠蘇の杯を口に持つて行つたところへ、グワラグワラと來た――床の間に積んだ五十五の千兩箱が一ぺんに崩れたからたまりませんや。大黒屋徳右衞門グウ――と來た」
「危ないな」
「尤も千兩箱の下敷で、少々くらゐの怪我で濟むならあつしも一度はそんな目に會つて見たいと思ひますがね」
「怪我はひどかつたのか」
「肩と腰をやられましたよ。眞つ直ぐに崩れると、間違ひもなく腦天をやられて、一ペンにギユウとくるところ――」
「だが不思議なことがあるものだな、八」
「へエ?」
「千兩箱の重さは、一つはどうしても五貫目はあるぜ。それを杉なりに積み上げると、ケチな石垣よりは餘つ程堅固な筈だ。大きな地震でもあれば兎も角、ちよつとやそつとでは崩れるわけはないぜ」
 平次の疑問はもつともでした。普通千兩箱といふのは、幅五寸前後、長さ一尺二、三寸、深さ二、三寸の堅木で造つて、嚴重に金具を打つたもので、それに入る小判金は一枚四匁の千枚で四貫目、箱の重さを加へてザツと五貫目になるのですから、床板が落ちでもしない限り、これを四五十も積むと、全く磐石ばんじやくのやうなもので、少々くらゐは突つついて搖つても、崩れるなどといふことは、想像も出來なかつたのです。


あつしは大黒屋の番頭に叩き起されて、兎も角も飛んで行きましたよ。叔母さんが餅くらゐは工面してくれますが、こちとらは盆も正月もありやしませんよ。御用始めに千兩箱の山の崩れたのを見るのも、ちよいと溜飮の下がる景色ぢやありませんか」
 八五郎は呑氣なことを言つて居るのです。大黒屋で千兩箱の山を眺めて、明神下の平次のところで屠蘇とそにありつき、向柳原の叔母さんの家へ歸つて、心盡しの雜煮を祝へば、八五郎の正月はまさに滿點的になるわけです。
「話はそれつきりかえ」
 平次は屠蘇の杯を置いて、雜煮の出來るのを待ちました。
 辰刻いつゝ(八時)過ぎになると、江戸の下町ではもう、羽子の遠音も、紙鳶たこの唸りも聞えます。
「それだけなら、唯大笑ひに笑つて歸つて來ますよ。金持が千兩箱に押し潰されて怪我をしたなんてえ圖は、滅多に見られる茶番狂言ぢやありませんよ」
「お前は飛んだ惡い口だな」
「それにたくらんだ殺しは確かですよ。杉なりに積んだ千兩箱の中程のところに二本の棒が噛ませてあつて、ちよいと押せば、上が崩れるやうに仕掛けがしてありましたよ」
「そんなことで五十五の千兩箱が崩れるかな」
「床の間の後ろには、赤ん坊の頭が潜るほどの穴があいて、外から丸太か何んかで、わけもなく千兩箱を突き崩せるとしたらどんなものです」
「誰もそれに氣が付かなかつたのか」
「千兩箱は大晦日おほみそかの晩から積んであつて、松のうちはその儘にして置くさうです。床の前はふさがつて居るから誰も氣が付きやしません。外へ廻ると、なるほどのみか何んかで掘つたらしい、大穴が開いて、その上を古い板で隱してありましたがね」
「念入りだな」
「兎も角も、そこまでは見て來ましたがね。元日早々の御用初めは、親分に氣の毒ですが、ちよいと覗いて見て下さいな。此處から豊島町一丁目までは、丁度良い雜煮腹の腹ごなしですよ」
「イヤに恩に着せるぢやないか。豊島町の大黒屋徳右衞門は、評判のよくねえ男だ。町内の顏利きではあるだらうが、ケチで勝手で弱いものいぢめで――」
「でも逢つて見ると世辭の良い、人ざはりの惡くねえ男ですよ」
「一杯呑まされたわけぢやあるめえな、八」
「冗談言つちやいけません。まだあつしなんか大晦日のうちだと思つて居たくらゐで」
 平次は、でも手早く支度をして、八五郎と一緒に飛び出しました。元日早々の御用は、全く有難くなかつたにしても、五十五の千兩箱を引つくり返した曲者くせものの企らみは、放つても置けない重大な暗示をはらんで居たのです。
 豊島町の一丁目、雜穀問屋の大黒屋徳右衞門といふのは、評判のあまりよくない、『町人ボス』の一人であつたにしても、その金力と勢力は大したもので、先づ神田から日本橋へかけて齒向ふ者もないほどの、恐ろしい潜勢力を持つた男でした。
 物柔かで戰鬪的で、押しが強くて金があつて、その上執拗しつあう無比な働きもので、大黒屋徳右衞門は、敵に取つては全く恐ろしい男だつたかも知れません。その虚勢と年中行事を心得たものが、大晦日の晩一と晩がかりで床の間のあたりに穴を開け、外から丸太で千兩箱を突き崩すといふのは、皮肉で馬鹿々々しいうちにも、一種の悲愴味と、諧謔味かいぎやくみを帶びたくはだてとも言へるでせう。
 何は兎もあれ平次が、現場を見ようと決心したには、相當以上の理由のあることだつたのです。
 大黒屋へ着くと、何んにも知らぬ年始の客が、素つ氣なくあしらはれて、不思議さうに歸つて來るのが頻々ひんぴんとありました。その頃は言ふ迄もなく、幕府の規綱も民間風俗も、型にはまるだけはまりきつた時代で、麻裃あさがみしもに威儀を正して、腰に一本きめ込んだ年始廻り。紺の香の眞新らしいお仕着の供の者を連れて、町人ながらも折目正しいのが、出入りの職人と立ち交つて、町の權勢家の大黒屋の前は、まことに織るが如き賑はひです。
 それを除けて、いきなり庭口へ廻つた錢形平次と八五郎は諸人の注視のうちを隱れるやうにいきなり奧庭の縁側に立つて居りました。
「これは親分さん方、主人が先程から待ち兼ねて居ります」
 番頭の忠兵衞、月代さかやき光澤つやの良くなりかけた、四十七八の男に迎へられました。
「どうだえ、元氣は」
 八五郎は心得顏でした。
「もう大丈夫で、床の上へ起き直つて居ります。元日早々こんな手の混んだ惡戲いたづらをされちや縁起が惡いから、とことんまで調べて頂いて、仕掛けた人をギユーギユー言はさなきア――と、大變な元氣でございますよ」
 番頭はやゝ苦々しさうでもあります。千兩箱の下敷になつたくらゐのことは、内聞にしてしまひ度いのが、事勿れ主義の忠兵衞の本心のやうです。
 廊下へ入つて二つ三つ目、思ひの外深々としたかまへで、主人徳右衞門は、その又奧の六疊に休んでゐるのでした。
「錢形の親分さんと、八五郎親分ですが」
 番頭が取次ぐのももどかしさうに
「それは有難い。元日早々だから、錢形の親分も良い顏はしてくれないだらうと、今も女房と噂をして居たところでしたよ」
 見ると成程床の上に起き直つて、頭から肩へ繃帶ほうたいだらけになつて居るのは、五十五といふにしては、ひどく若々しく元氣な男。よく肥つた丸顏、血色があざやかで、眉が太くて、眼の大きいところは、いかにも大黒頭巾づきんの似合ひさうな人柄です。
「災難だつたさうですね――尤も千兩箱に押し潰されるなら本望だと、この野郎は言つて居ますが――」
 平次は八五郎を振り返りました。充分皮肉な調子です。
「何んに潰されたつて、怪我をしちやつまらない。この通り命は助かつたが、もう左へ五寸寄つてゐると、間違ひもなく腦天をやられるところだつた」
 徳右衞門は、太鼓たいこ腹を搖すぶつて、怪我人らしくもない大きい聲で笑ふのです。
「ところで御主人を怨んでゐる者も、澤山あることでせうな」
 平次は齒にきぬ着せず言ひきりました。大黒屋徳右衞門が人に憎まれてゐることは、界隈で誰知らぬ者もありません。
「こんな仕事をしてゐると、何處に敵が居るかわかつたものぢやありませんよ。味方と見せて敵であり、敵と見せて敵であり、ハツ、ハツ、ハツ、ハツ」
 さう言ふと世間の人がこと/″\く徳右衞門の敵になります。
「その中でも一番仲の惡いのは?」
「龜井町の甲子きね屋六兵衞かな。同業で、隣り町で、お互ひに意地つ張りだから」
 大黒屋徳右衞門はんな事を平氣で言ひきれる程徹底てつていした男でした。
「家の中には?」
「それはない。自慢ではないが、女房子を始め、奉公人にはよくしてある筈だ。嫌だと思ふ者は、勝手に出て行くが宜い。何時でも暇をやると――日頃さう言つて居るくらゐだ。家中の者は、私を怨むなどといふことは先づあるまいと思ふ」
 強大なる自信です。
「外には?」
 平次は押して訊ねました。
「もう一つある。これは言ひ憎いことだが――」
「?」
 徳右衞門は暫らく口をつぐみましたが、思ひきつた樣子で、
「耻を打あけるやうだが、私の女房には、前に配偶つれあひがあつた。お藏前の名ある商人あきんどだつたが、勝負事に身を持ち崩し、一人の女房にまで別れて、氣の毒なことにやくざ仲間に入つて居る。右馬吉うまきちと言つてな――錢形の親分も御存じだらう。その右馬吉の女房が、里方の親達に戻されて離縁になり、私のところに再縁したのが、今の女房のお種だ」
「――」
 平次もこれは始めて聽きました。隨分古い話で、まだ少年時代の平次には、そのいきさつがはつきり判らぬまゝに年を經たことでせう。
「表面は他人で、右馬吉もこの邊へ姿を見せないが、人の噂によると、いまだに二十年前の怨みを忘れず、何んか愚痴ぐちらしい事を洩らして居るといふことだ。――思ひ當るのは先づそんな事だだらう」
「ところで、千兩箱の山が崩れた時、家中の者が、御主人の前に揃つてゐたことでせうな」
「それは間違ひもなく揃つて居た筈だ。女房のお種に、娘のお吉、伜の彌三郎、嫁のお村、番頭の忠兵衞に、手代の米松、小僧の友吉、皆んな居流れて屠蘇とそを祝ひ、下女のお民はお勝手と座敷の間を、道具を運んだり、屠蘇を運んだり、雜煮の支度をしたり、一寸のひまもなく驅けて歩いて居た筈だ」
 徳右衞門は指を折つて數へて居るのです。これだけの人數が主人の眼の前に居流れて、吉例の屠蘇を祝つて居たとすると、千兩箱突き崩しの曲者は、間違ひもなく外に居てワザをしたことになります。
 最後に主人の怪我の程度を見せてもらひましたが、首から肩へ腰へかけて、數ヶ所の打撲傷うちきずを拵へただけで、一時驚きもし痛みもしたことでせうが、先ず生命に別條もなく血を流す程でもないといふことがわかりました。


 大黒屋徳右衞門が、千兩箱の下敷になつたといふ部屋は、それから又奧の、大黒屋で一番奧の、十疊の客間でした。この邊はもう長押なげしを打ち、床の間をしつらへて、町人ながらはゞかるものもない武家風の造りです。
 今朝の騷ぎに面喰つたものか、崩れた千兩箱はそのまゝ、内儀のお種と、番頭の忠兵衞が時々見に來るくらゐのことで、手のつけやうもなく放つてあります。一箱五貫目もある千兩箱が、五十五も崩れては、女房のお種や、華奢きやしやな半老人の忠兵衞では手がつけられず、さうかと言つてモノがモノだけに、奉公人任せで、土藏へ運ぶこともならなかつたのでせう。
「此處へ斯う大黒頭巾か何んか冠つて後ろに千兩箱を杉なりに積んだ圖は惡くありませんね、親分」
 などと八五郎は散亂した千兩箱の中に袖を突つ張つて坐つて見たりするのです。
「お前ぢや似合はないよ。貧乏神が世帶仕舞ひをする恰好ぢやないか」
「へツ、親分も口が惡い」
「ところで、千兩箱の間に棒を喰はせてあつたと言つたが、そんなものはないぢやないか」
 平次は千兩箱の間を搜しましたが、そんなものは落ちては居ません。
「變だね、確かに此處に、麺棒が轉がつて居たんだが」
「すると麺棒は千兩箱の一番下ではなくて、途中に噛ませてあつたわけだね。現に下の三段くらゐは少しも動いちやゐないやうだ」
「さうかも知れませんね。壁の穴は丁度千兩箱の山の六、七合目あたりだ、――尤も一番下を突いたんでは、千兩箱が重くて動かなかつたかも知れない」
 見ると床の間の中程より大分下の方に、膝つ小僧が潜りさうな穴があいて、その邊一面に、壁土が散亂して居るのです。穴から覗くと、外は寒々とした庭の景色で、五六間先にあるのは、中庭をへだてた建物、同じ大黒屋のお勝手に當るでせう。
「外へ出て見たか、八」
「念入りに見ましたが、生憎天氣續きで、ろくな足跡もありませんよ」
 平次はそれを聽きながら、座下駄を突つかけて中庭の方へ廻つて見ました。八五郎が言つたやうに、其處は西側のよく踏み固めた中庭で、ろくな植込みも燈籠とうろうもなく、下女のお民が、陽を追つて干物ほしものを持ち廻るらしく、三又さんまたと物干竿ざをとが轉がり、物干の柱が突つ立つて居るだけの殺風景さです。
「あれは?」
「下女のお民で、ちよいと良い娘でせう」
 八五郎が娘の鑑定めきゝにかけてはまさに本阿彌です。十七八のポチヤポチヤした娘、健康さうで、紅も白粉も知らぬ肌は、少しは激しい勞働に荒れてるにしても、羽二重餅に銀の粉を振りかけて、ほんのり紅を差したやうで、見やうによつては、申分のない健康美です。身體は大きい方ではないが、小づくりでよく肥つて、本人が氣にするほど丈夫さうですが、その代り誰の顏でも眞つ正面から見る單純さと、少しのことでも頬を染める、清純なよさが溢れて居ります。
「ちよいと――今朝、裏口は開いて居なかつたのか」
 平次は聲を掛けました。
「何時でも――晝は開いて居ります」
「誰か入つて來たのに氣がつかないのか」
「忙しかつたものですから」
「お勝手に居れば裏口から入つて來て中庭を床の間の裏へ廻る人間の姿が見える筈だが」
「私はお勝手とお座敷の間を歩いてばかり居りました。いつも御新造さんかお孃さんが手傳つて下さるんですけれど、今日は元日ですから」
「お屠蘇とそを祝ふので、皆んな奧の部屋に列んで居たわけだな」
「さうなんです」
「ところで此家こゝの住み心地はどうだ」
「皆さんよくして下さいます」
「給料は?」
「年一兩のお約束ですが――」
「それより多いのか、少いのか」
「澤山のお心づけを頂きます」
 並はづれのよさと、言葉によどみのない賢こさが、この娘を一段と良く見せます。
「お前は遠方から來たものぢやあるまい。生れは何處だ」
「江戸でございます」
「兩親は?」
 お民は默つて襟に顏を埋めました。正月元日の晴れ着でせう、木綿物ですが清潔で可愛らしくて、赤い帶も素朴そぼくな魅力です。
「亡くなりました」
「そいつは氣の毒な――元日早々つまらねえことを訊いて惡かつたな、――ところでお前は桂庵けいあんの手を通つて來た娘とも思へないが、此家こゝと何にか引つかゝりでもあるのか」
「遠い親類ださうです」
「もう一つ、此家の人達はどうだ。一人々々の事を聽き度いが」
 下女のお民の賢こさうなのと、その調子の明けつ放しなのが、すつかり錢形平次の氣に入つたらしいのです。
「でも、私は」
「いや、お前がどう言つたから、すぐ縛るといふわけではないよ」
「でも――」
「第一に、家の者は皆んな主人の徳右衞門を良く思つて居るのか」
「惡く思ふ者も、惡く言ふ者もありやしません。誰にでもよくしてくれます」
「お内儀さんのお種さんは」
「氣の弱い、やさしい方」
「お孃さんは」
「そりや良い方」
 この調子では、何を訊いても、この利口な娘からは、人の惡口などは引出せさうもありません。
 平次は裏庭から、無收獲のまゝ、もとの座敷に引上げる外はなかつたのです。


「八、千兩箱といふものを抱いたことがあるか」
 平次は床の間から座敷の三分の一ほどに散らばつた、二十餘りの千兩箱を指しました。
「へツ、はゞかりながら親分の前だが、そんなエテ物を抱くと、あのが泣きますよ」
 相變らず太平樂を言ふ八五郎です。
あきれた野郎だ――抱くと言つて惡きや、ちよいとかついで見るが宜い。そいつを二三十動かすにはどんな力が要るか」
「擔ぐ分には、もつこも千兩箱も擔ぎますよ。何んのこれしき」
 八五郎は手當り次第に一つ、双手を掛けて擔ぎ上げました。一つが五貫目づつとなると、箱は小さいが相當の重さを覺悟しなければなりません。
 が、八五郎はどうしたことか、ヨロリとして、漸く踏み堪へました。千兩箱は輕々と肩の上に。
しやんとしろ、腰の切りやうが惡いんだよ」
「冗談ぢやない。輕過ぎるんですよ、親分」
「輕過ぎる?」
「一つ擔いで見て下さい。これなら二つ三つ持つても、大したことはありませんね」
「どれ/\」
 平次は一つ持ち上げて見ました。中味は五貫目と思つたせゐか、千兩箱を持つた平次も、力負けがしてヨロリとしたのです。
「ね、親分」
「成程、精一杯が一貫目そこ/\かな」
「中は玩具おもちやの小判ぢやありませんか。おとり樣の熊手にブラ下げる」
「馬鹿なことを言へ」
 平次は一應八五郎をたしなめましたが、念の爲、其處に轉がつてゐる千兩箱を、一つ/\貫々かん/\を引いて見ると、どれもこれも、一貫目から二貫目そこ/\で振つて見たところで、チヤリンと言つた音のするのはなく、ゴトリゴトリと異樣な音を立てるだけです。
「ね、親分」
「成程こいつは考へ直さなきやなるまい。もう一度主人に會つて見ようか」
 平次も狐につまゝれたやうな心持でした。千兩箱が精々一貫目や一貫五百目そこ/\では、鐚錢びたせんか、石つころを詰めたくらゐの重さもなく、これが大黒屋の身上しんしやうとはどうしても受取れません。
 部屋を見ると、廊下に立つてオドオドしてゐるのは三十七八の良い女でした。眉の跡も青さを失つて、やゝ縮緬皺ちりめんじわの目につく年輩ですが、顏の道具はまことに端正で、細つそりした後ろ姿などは、病的に見えるほど弱々しいものがあります。
「お内儀かみさんですよ」
 八五郎は囁きました。
「飛んだ御苦勞樣で」
「災難でしたね。ところでお内儀さん、あの千兩箱の中味を、一應調べて見たいんだが」
 平次は切り出しました。
「その千兩箱は、崩れたまゝにして、誰も手をつけないことになつて居ります。この騷ぎの中でも、番頭の忠兵衞さんと私が、此處から眼を離さないのはそのためでございますが――」
「それは誰がきめたのだ」
「主人の固い申付けでございます」
「よし、では一つ御主人と話して見ようか。八、お前は御苦勞だが――」
 平次は内儀の顏を見ながら、何やら囁きました。お内儀は遠慮して遠のきましたが、その耳には、内儀のもとの夫、お藏前の右馬吉うまきちや、龜井町の甲子きね屋六兵衞の名が敏感に響きます。
「それぢや親分」
 八五郎はつるを離れた矢のやうに飛んで行きました。それを見送つて平次はもとの主人の部屋――あの薄暗い六疊に引返したことは言ふ迄もありません。
「親分、又何にか?」
 主人は顏を擧げました。平次が出て行つてからは、又暫らく横になつて居た樣子です。
「妙なことに氣がつきましたよ」
「妙なことと言ふと?」
「御主人が飛んだ生命拾ひをしたわけが、よくわかつたので」
「?」
「つまり、あの千兩箱が、皆んな本當の小判が千枚づつ入つて居れば、御主人は首筋や肩の負傷けがくらゐでは濟まず、今頃はとむらひの支度でもしたかも知れないといふことですよ」
「――」
「御主人、五十五の千兩箱の中味が、五萬五千兩でないとは直ぐわかつたが、あの中には一體何が入つて居るのです」
「さすがは親分。よく見破りなすつたな――恐れ入りましたよ、錢形の親分」
「貫々を引きさへすれば、誰にでもにせの千兩箱とわかりますよ」
「それですよ――だから私は、あの千兩箱には誰にも手を掛けさせ度くなかつたんです――あれは親分、正直に申し上げると、小判なんか一枚も入つちや居ません。あの中に詰めてあるのは皆んな、砂利ですよ――中には風袋ふうたいだけの空つぽのもある筈で」
「砂利?」
「土藏から出すのも私一人の仕事、床の間に積むのも私一人の仕事、誰にも手を掛けさせないのは、その爲めで、盜まれる心配のためぢやありません。實を言ふとあの砂利詰の千兩箱を盜ませて大笑ひに笑つてやりたかつたのです」
 大黒屋徳右衞門の太々ふて/″\しさ、盜賊を一杯かつぐ氣で、砂利詰の千兩箱を並べ、その上で屠蘇とその杯をあげるなどは、いかにも人を喰つたやり方です。
「すると御主人――」
「錢形の親分――砂利詰の千兩箱を積んだ私は、眞物ほんものの小判がない苦しさに、人前の見榮であんな事をすると思ふでせうが、飛んでもない。小判は五十五の千兩箱にも餘る程持つて居ますが、近頃フトした事から、盜賊につけ狙はれてゐると感付いて、その裏を掻くつもりで、あんな惡戲をして見ました。小判と砂利を入れ換へたのは私一人の細工さいくで、誰にも相談したわけぢやありません。山吹色の小判は、別のところに、五色の虹を吐いて、ほか/\と冬籠ふゆごもりして居りますよ。ハツ、ハツ、ハツ」
 大黒屋徳右衞門は、又面白さうに笑ふのです。


 平次は大黒屋徳右衞門の氣焔にてられて、這々はふ/\の體でもう一度庭へ出て見ました。この家を取卷く秘密は、なか/\容易ならぬ深いものがあると見て取つたのです。
「お前は?」
 平次はフト、中庭にウロウロしてゐる、小僧の後ろ姿を見とがめました。
「へ、へエ、友吉と申します」
「何をしてゐたんだ」
掃除さうぢをして置く樣に、人が來ると見つともないからと、米松どんに言ひつけられました」
「床の間へあけた穴をふさいだやうだが」
「見つともないから、穴だけでも隱せと、若旦那樣に言ひ付かりました」
 平次は床の間まで突き拔けた、羽目板の穴を、もう一度調べて見る氣になりました。小僧の友吉が塞いだのは、簡單な古い板で、それはすぐ外されましたが、羽目の穴はそのまゝで、その穴の中、棒か何にかで、外から壁土を突き落したのも、その儘になつて居ります。
「此處にあつた物干竿ざをは、お前が洗つたのか」
 平次は掛け捨てた二本の物干竿の濡れて居るのに氣がつきました。
「お民さんが、物干竿が汚れて居ちや困るから、よく拭いて置くやうにといふんです」
「一本の物干竿の元の方に、ひどく土がついて居たが――」
「それも洗ひ落してしまひました」
「――」
 平次は默つてこの『やり過ぎ』の小僧の顏を見る外はありません。見たところ十五六くらゐには踏めますが、柄が大きい割に年は若いらしく、何んとなく愚鈍ぐどんらしさが、ひどく相手を苛立いらだたせます。
「お前は此處に何時から奉公して居るんだ」
「二年前からですよ」
「親許は?」
「小梅の百姓で」
「住み心地はどうだ」
「?」
 友吉は白い眼をするだけです。
 平次は何んとなくからかはれてゐるやうな心持でした。朝からもう一刻以上も經つて居るのに、千兩箱の中味が砂利であつたといふ外には何んにも掴んだものはありません。
 その時。
「まだ掃除をしないのか、友吉」
 廊下から顏を出したのは、二十四五のヒヨロヒヨロした若い男でした。神經質で口やかましくて、主人には適當に御機嫌を取結ぶと言つたはだの男――と、これは後で女共から噂をきいたことです。
「お前は?」
 平次はその前に立つて見上げました。
「お邪魔をいたしました。相濟みません、私は米松と申すもので」
 手代の米松は相手が惡いと思つた樣子で、ピヨコリとお辭儀をしました。
「小僧に庭の掃除を言ひつけたのは、お前に相違あるまいな」
「へエ、友吉がやらないと、私がやらされることになりますので」
「今日は元日だぜ」
「へエ」
「商人の家では、今日一日はうきを使はないと言ふぢやないか」
「へ、成る程。そいつは氣がつきませんでした」
 平次は一つやり込めて置いて、靜かにこの男を觀察したのです。が、ヒヨロヒヨロのペコペコで、一向まとまりが付きさうもなく、主人の命を狙つたり、五萬五千兩に眼をつける、大伴黒主おほとものくろぬしとも見られません。
 家へ入ると平次は、次に養子の彌三郎に會つて見ました。元日早々店に頑張つて居るやうな男で、體格も立派、口上も筋が通り、決して好い男ではありませんが、何んとなくしたゝかさを感じさせる男でした。
「親分さん飛んだ御苦勞樣でございます」
 丁寧に挨拶しながら、眼の隅では絶えず平次の樣子を見て居ると言つた、容易ならぬものを感じさせるのです。
「早速訊きたいが、あの床の間の裏へあいた穴を、小僧に言ひつけてふさがせたさうだな」
「へエ、小僧に言ひつけたわけぢやございません。何時までもあのまゝにしては置けないし、錢形の親分さんが調べて下すつた後だから、誰か塞いでくれると宜いが――と斯う申しました。友吉の奴が、不斷ボンヤリして居る癖に、妙なところへ氣が付いたもので、へエ」
 若旦那の彌三郎は頭を掻いて居るのです。若旦那と言つても嫁のお村と共に夫婦養子で、徳右衞門夫婦としつくり行かないところのあるのを、後になつて平次は聞きました。
 丁度店暖簾のれんを覗いて、夫のことを心配したらしい、嫁のお村は顏を出しました。嫁と言つても、取つて十九になつたばかり、下女のお民ほどのきりやうではありませんが、厚化粧で、笹紅さゝべにまで含んで、正月化粧ではあるにしても、此處を先途と言つためかしやうです。
 一つ二つ平次は當らずさはらずのことを訊きましたが、大黒屋の嫁といふ身分に滿足しきつて他のことは少しも興味も關心も持たない、おぼこ嫁と言つた感じです。
 もう一人の養女お吉といふのは、嫁のお村よりは二つ三つ年上らしく、これはなか/\のきりやうですが、養ひ親達の氣に入らなくて一緒になる筈だつた養子の彌三郎に嫁を貰はれ、甚だ面白くもない日を送つて居る樣子でした。尤も俄儘で浮氣で、町内でも惡い評判が立つやうになり、強氣一點張りの養父徳右衞門の怒りに觸れて、居候並に格下げになり、彌三郎には他から嫁を貰はれたのだといふことを、これも後になつて人の噂に聽いたことです。
 これが大黒屋の家族の全部でした。平次は尚ほ歸りがけにお勝手を覗いて、下女のお民に、本當に小僧の友吉に物干竿を洗ふやうに頼んだかどうか訊きましたが、お民の答へは豫想外で、
「元日からお洗濯でもありません。でも物干竿がひどく汚れて居たので、友吉どんに小言を言ひました。あの人はよく犬を追つかけたり、屋根に引つ掛つたたこを取つたり、物干竿汚しの名人ですから」
 そんな事を言ふのです。


 これが若し、人の生命をどうかしたとか、大金が失はれでもして居たら、平次はもう少し突つ込んでしらべたかも知れませんが、眞物ほんものの五萬五千兩の隱し場所は、どんなに謎をかけたところで、主人の徳右衞門は打ち明けてくれさうもなく、さうかと言つて元日に庭をかせようとした手代の米松や、床の間の後ろの穴を塞がせた、若旦那の彌三郎を縛る氣にもなれず、足ついでに八丁堀の組屋敷を一とまはり、年始を濟ませ、その日の晝過ぎにはもう、明神下の自分の家へ歸つてしまひました。
 それから日の暮れるまで、
「元日といふものは、どうしてう日が長げえだらうな、馬鹿々々しい」
 などと罰の當つたことを言つて居るうちに、どうやら夜になります。
「あ、くたびれた。冷たいのでもかまひませんから一杯」
 八五郎は相變らず、喉を乾かして歸つて來るのです。
「酒も飯も間違ひなく出してやるが、それより、甲子きね屋六兵衞はどうしたんだ」
「――昨夜ゆふべを何んだと思ふ――馬鹿々々しいといふ、以ての外の挨拶ですよ。成程さう言へばその通りで、一と晩店から一と足も動かねえ。夜が明けてから、トロトロやつただけだ――と斯うです」
 八五郎の報告は聲色こわいろ入りです。
「成程そんな事かも知れない――ところでお藏前の右馬吉は?」
「大晦日の賭場とばで、毛だらけなすねまで張つて居ましたよ。この野郎を搜すのに、骨を折つたの折らねえの」
「何處に居たんだ」
千住せんじゆですよ。ふんどし一つになつて、元日の天道樣に照されてゐるんだから、諦らめた野郎で」
「話して見たか」
「一杯呑ませて訊くと、べラべラとやつてしまひましたよ。お種の阿魔はたうが立つたから、今更毛程も未練がねえ。こつから千住へかけて、年が明けたらお前さんのところへ轉げ込むといふのが七人くらゐはありますぜ――と斯うだ。博奕ばくちは下手だが、全く好い男でしたよ」
「大黒屋を怨みに思つて居ないのか」
「相手は大問屋の大金持だ。身上洗ひざらひくれるなら話もわかるが、三兩や五兩の小遣ひ欲しさに、あの暖簾のれんは潜れねえ――と斯うですよ」
「すると大黒屋の中庭であんな細工をしたのが、お藏前の右馬吉でもないわけだな」
「こればかりは間違ひありません」
 大黒屋の一らつは、それつきり忘れてしまひました。五日の御用始めから、無暗に御用繁多で、平次も八五郎もそれに追ひ捲られ、砂利詰の千兩箱や、その下敷になつた徳右衞門のことなどは思ひ出す折もなかつたのです。
「親分、變なことがあるんだが――」
 八五郎は氣のない顏をして入つて來ました。
「何んだえ。松が取れるともう、借金取に追ひ廻されてゐるのか」
「そんな話ぢやありませんよ」
「妙に思はせ振りぢやないか」
「どうにも見當のつかない話があるんですよ」
「はて、お前が見當が付かなきや、俺にだつて見當がつくものか」
昨夜ゆふべは節分の豆撒まめまきでせう」
「もう立春りつしゆんだよ。それがどうした?」
 八五郎は首をひねりながら、話は少しづつほぐれて行きます。
「豊島町一丁目の大黒屋徳右衞門、あの傷も大方癒つて、昨夜は威勢よく豆撒きをやつたんで」
「フーム、豆に滑つて轉んだ――と言ふ話ぢやないのか、どうかするとあれは危ないことがあるが」
「先を潜つちやいけません。――一體その鬼といふものは、本當にあるものでせうか」
「むづかしくなつたぞ畜生。お前のがくでもそいつはわからねえのか」
「大黒屋徳右衞門、豆を撒いてゐると――」
「其處まではわかつたよ。それからどうした」
「昨夜は、妙にポカポカしたでせう。内の中を一とわたり鬼を追ひ出して、さて障子を開けて、闇の中へ顏を突き出し、『鬼は外』と一と掴み撒くと、庭から一本の眞矢ほんやが、恐ろしい勢ひで飛んで來て、大黒屋徳右衞門の喉笛をカスめ、危ふいところで殘して、矢は後ろの唐紙へブスリと突つ立つた。たかの羽は少し蟲喰ひになつて居るが、こいつは間違ひもなく眞矢ですぜ。まともに喉笛に突つ立つと、大の男が手もなく成佛じやうぶつだ」
「それから?」
 平次もツイ乘氣になります。
「主人の聲に驚いて、兎も角も、家中の者が皆んな外へ飛び出した」
「間違ひもなく、家中の者が皆んな居たことだらうな」
「間違ひありませんよ。この前の千兩箱でりて居るから、主人の徳右衞門は、直ぐ樣チュウチュウタコカイと勘定したんださうです」
「飛び出すところを勘定したのか」
「内儀さんと娘と嫁は出やしません。その代り下女のお民も飛び出し、遲れ馳せながら、手代の米松も小僧の友吉も飛び出したさうです」
「庭には人が居なかつたのか」
「南向きの狹い庭だから、人間が隱れてゐれば直ぐわかります。植込みはまばらだし、人間の姿はおろか、弓らしいものもなかつたには驚きましたね。鷹の羽をいだ眞矢が、弓がなくて射られるわけがありません」
「隣りから射る手もあるぜ」
「隣りは意地惡く二階建の羽目板だ。蝸牛かたつむりでもなきや止つて居られやしません。それに裏の木戸は中から閉つて居たし、店には多勢の人が居る。曲者に神變不可思議の術があつたところで、あの庭からは弓を射込む工夫がありませんよ」
「その矢は何處から持出したんだ」
「駒形樣の奉納の額から引つ剥がして來たんで」
「ちやんと獻立こんだては出來てゐるね。行つて見よう、八」
 事件が怪奇になると、平次も鬪爭心をあふられます。


 大黒屋徳右衞門は、二度目の襲撃に、きもをつぶして居りました。
「錢形の親分、何んとかしてやつて下さい。この曲者の正體がわからなきや何時寢首を掻かれるかわからないから、落着いて夢も見られやしません」
 剛腹な徳右衞門が、斯う言ふのは、さてよく/\の事でせう。
 平次はそれを宜い加減にあしらつて、昨夜の現場へ兎も角も通りました。想像して居た通り、主人夫婦と養子夫婦、それに娘を加へて五人が、食事などをする六疊ほどの茶の間で、狹い南向きの温かさうな部屋、と言つても、町家のことで四方あたりがすつかり建て込んで居り、庭にヒヨロヒヨロの桃や梅をあしらひ春の風情ふぜいを匂はせる程度の、さゝやかな植込みがあるだけ、人間の隱れる隅も、弓を引く場所もあらうとは思はれません。
「親分、矢はそのまゝにしてある筈ですが」
 八五郎が指したのは、六疊の向側の唐紙で、下から二尺ほどのところに、少し古くはなつて居るが、矢尻やじりのついた眞矢が、ズブリと突つ立つて居るのも無氣味です。
「豆は立つて撒いたことでせうな、御主人」
 平次は主人をかへりみました。
「鬼は外――と思ひきり怒鳴つたんで、まさか坐つて居ちや出來ませんが――」
「それにしちや、唐紙に突つ立つた矢が低過ぎるやうだが」
 平次はもう第一の手掛りを掴んだ樣子です。
「上の方から射たのぢやありませんか」
 主人も一かどの考へを持つて居りました。
「いや、お隣りの羽目まで、庭の一番深いところで五間そこ/\。羽目には手掛りも足掛りもないし、屋根の上から弓を射たのでは拳下こぶしさがりに狙つても、茶の間の奧の唐紙へは來ませんよ」
 平次は矢の突き當つたところから、庭の方――お隣りの屋根をすかして居るのです。
「すると?」
「御主人、少し訊き度いことがあるが」
 平次は四方あたりを見廻しました。
「では、どうぞ、此方へ――」
 主人が案内してくれたのは、主人の部屋、いつぞや怪我をして寢てゐた六疊でした。
あつしがさう言つちや變ですが、いろ/\噂を聽き集めると、御主人は隨分人に怨みを買つて居ますな」
 座が定まると平次は、最初から思ひきつた調子でした。
「さう言はれると面目次第もないが、隨分勝手なことをしたかも知れません。だが、まさか、私の命を狙ふ者があらうとは――」
「本人はさう思つても、怨む者になると、せゝら笑つたり、鼻であしらつただけでも、隨分忘れられないことがあるかも知れません。世間の人樣は兎も角として、この家の者――奉公人や養子嫁などに怨まれる覺えはありませんか」
「そんなことがある筈はない。世間の人――と言つても私の商賣敵や、齒向つて來る者には、隨分手きびしい事をしましたが、家中の者だけは、私に恩を受けて居る筈で――」
たとへば、若旦那の許婚だつた、養ひ娘のお吉さんは怨んで居るやうなことはありやしませんか」
「あれは、自分の不身持に耻ぢて、自分で身を引き、彌三郎には別の嫁を貰つたほどで、私を怨む筋などがありません」
「奉公人達は」
「皆んな世間並よりは手當をよくして居ります」
 すべての奉公人は、金さへ出せばと思つて居る樣子です。
「手代の米松――あの男は人柄がよくないやうですが」
「大違ひで、あれは馴れた犬のやうな男で、主人にはこの上もない忠義な男ですよ」
「番頭の忠兵衞は?」
「この家に三十年も居ります」
「小僧の友吉は」
「身許はたしかな子で、間違ひもありません」
「下女のお民は?」
「あれは親類の娘ですよ。十年も前に家が沒落し、三年前に父親が死んで私が引取つたのですが――尤も父親といふのは偏屈へんくつ者で、身上しんしやうを潰した時、店も家藏も、皆んな私が引取つてやつたのを、私が買ひつぶしでもしたやうに思つて、ひどく怨んで死んだといふことですが、私が放つて置けば、死んだ後まで、大變な不義理を殘したのを、妙にひがんで私のせゐで沒落したやうに思ひ込んだ樣子です」
「その娘のお民はどう思つて居るでせう」
「あれは飛んだ良い娘で、私を怨んで居る樣子もありません。尤も放つて置けば、父親の死んだ後で、借金の代りに叩き賣られるところを、私は見るに見兼ねて少しばかりの金を出して引取り、下女代りに使つて居りますが、そのうちに何んとかしようとは思つて居ります」
「それでわかりました。あの五十五の千兩箱も、お民の家から引繼いだものでせう」
「その通りで、空つぽの千兩箱が五十もあつたのを、物好きに私が引取つて來て、縁起物だから元日に飾つて、あんなことをして居ります。いやもうお笑ひ草で」
「ところが御主人、あのお民といふ娘を、暫らく何處かへやつて置き度いと思ふのですが、良い場所はありませんか」
「え、あのお民が、あの、曲者くせものだつたといふんで?」
「いや、さう言ふわけではない。お民が曲者とわかれば、直ぐ樣縛つて行くが――この家には、お民をだしに使つて、いろ/\細工をする者があるやうな氣がしてならない。お民さへ居なければ――」
「それぢや、あの娘を暫らくの間、本所の私の妹のところに預けて置きませう。お民には身内も親類もあるわけはないので」
 徳右衞門もようやく承知しました。平次にお民の父親のことを言はれた時は、何にか心に思ひ當るらしく、一度はギクリとした樣子ですが、平次さへ縛る氣のない娘を、今更どうするわけにも行きません。
「ところでもう一つ、家中に弓をやる者はありませんか」
「弓は知らないが、楊弓やうきゆうなら養子の彌三郎が自慢のやうですよ」
「楊弓をね」
「あれが、まさか、そんな事を」
「早合點をしちやいけません。若旦那が眞矢ほんやを飛ばしたといふわけぢやないんで」
 平次の問ひはそれでお仕舞でした。
 それから八五郎と一緒に、庭を一と廻り。
「南に二階家があるから、植木が皆んなヒヨロヒヨロですね」
 八五郎がその邊中を撫で廻すのを相手にもせずに、平次は縁の下や、物置などを念入りに見て居りましたが、
「庭の手入れでもするのかな、棕梠繩しゆろなはがうんと用意してあるが」
 妙なことを言つて居ります。


 それから十日、節分から十一日目は、丁度二十日正月で、大黒屋の徳右衞門は、晩酌を少し早目に切上げて、二度目の風呂へ入る氣になりました。
 その頃はまだ町家の風呂は珍らしい頃で、まことに形ばかりのさゝやかなものであつたにしても、大黒屋はこれが自慢で、朝から大騷ぎで立てた風呂に、氣が向けば二度入るのはよくあることで、良い心持になつて風呂をけの中でうと/\して居りました。
「わツ」
 それは實に恐ろしい衝撃でした。いきなり窓から突つ込んだ脇差が、徳右衞門の背中へしたゝかに突つ立つたのです。
「わ、誰か、早く」
 徳右衞門が必死にわめくと、二三人一とかたまりに飛び込んで來ました。内儀のお種と、嫁のお村と、そして番頭の忠兵衞です。
 風呂は狹い上に、恐ろしい湯氣で、中の樣子もわかりませんが、風呂から這ひ上がつた主人徳右衞門の背中が、眞つ紅に血に染んでゐることだけは疑ひもありません。
 内儀は日頃の内氣さに似ず、甲斐々々しく働いて、兎も角も濡れた主人の徳右衞門に浴衣を羽織らせ、部屋に擔ぎ込ませて傷の手當てをすると、小僧の友吉を走らせて町内の外科を呼ばせました。
「幸ひ傷は淺い。ほんのかすり傷だが、酒を呑んで居たのと、湯につかつて逆上のぼせて居たので、ひどく血が出たのだ。四五日もすれば癒るだらう」
 外科は一應の手當てをすると、んな氣樂なことを言つて歸つてしまひます。
 傷の深い淺いは兎も角、三度目の襲撃に、剛腹の大黒屋徳右衞門も腐りきつてしまひ、手代の米松を走らせて、夜中ながら錢形平次を呼びにやつたことは言ふまでもありません。
 しかしこの十日の間に、錢形平次もまた、大黒屋のことを徹底的に調べたことは、徳右衞門といへども氣が付かなかつたでせう。
「八、大變だ。早く來い」
 大黒屋の使ひ――米松が主人が返事を待つて居るからと言ふので、一と足先に返した平次は向柳原に八五郎を驚かし、あべこべに『大變』をけしかけたのでした。
「待つて下さいよ。まだ寢て居るんで」
 二階から顏を出した八五郎です。
「まだ宵だぜ」
「人間がどれくらゐ寢られるものか、昨日から通して寢てゐるんで」
あきれた野郎だ。叔母さんが心配するぜ、――物も食はずに寢て居るから、八の野郎多分戀患ひだらう――つて」
「そんな相手がありや、胸倉をつかんで口説くどきますよ」
 無駄を言ひながらも、八五郎は支度もそこ/\に出て來ました。
「お前はそんな氣でゐるだらうが、世間には、本當に戀患ひをやる人間が居るんだぜ」
「どこの國の話です。それは?」
「お前の住んでゐる國の話ぢやないよ。――女のためにはどんな事でもするといふ無分別は、無分別のうちでも一番恐ろしい」
「な、何んの話です。それは、親分」
 豊島町一丁目へは一と走りですが、平次は大して急ぐ樣子もなく閑々かん/\として戀愛論を始めるのです。
「大黒屋徳右衞門が、又やられたよ――ツイ今しがた、手代の米松が飛んで來たんだ」
「へエツ」
「今度は風呂場だ、――風呂につかつてうと/\して居るところを、外から脇差でやられたさうだ、――あの風呂場は俺もよく知つて居るが、狹いと言つても一と坪はあるだらう。どんな手長島の手長猿が來たつて、荒い格子の外から、風呂につかつてゐる人間を、脇差なんかでは殺せないよ」
「脇差は?」
「捨てて行つたよ、格子の外に、――その脇差は大黒屋の箪笥たんすにしまつて置いた品だ」
「するとどういふことになるでせう」
おどかしでなきや、外に何にかたくらみのある細工だ。――この前の庭から射込んだ矢だつて、射られた徳右衞門は、五人張りの強弓で射られたやうに思つたことだらうが、あれもヒヨロヒヨロ矢で、主人の首をかすつて、一間先の唐紙へ、二尺も下がつて突つ立つたくらゐだから、脅かしと思ふ外はあるまい。あんなことで人は殺せないよ」
「へエ?」
「本當に力一杯絞つて射た矢なら、狹い庭から射込んだ矢だつて、五間と離れてゐない唐紙を突き拔けない筈はない」
「すると、どういふことになるでせう、親分」
「もう大黒屋へ來たやうだ。この眼で現場を見てからとしよう」
 平次は店から入りました。
「何んか大變奧が騷々しいぢやありませんか、店は空つぽですぜ」
「變なことがあるものだな」
 二人は無人の境を行くやうに、奧の主人の部屋に入つて行きました。
「あ、錢形の親分さん。たうとう斯んなことになつてしまひました」
 家中の者が集まつた中から、内儀ないぎのお種が飛んで出ると、平次のたもとにすがりつくのです。
「どうしたんです、お内儀さん」
「主人が到頭」
 見ると、外科の坊主頭が、手を引いて溜息をつくのです。
「心の臟をやられてゐる。もういけない、お氣の毒だが――」
 先刻風呂場で、背中へ淺傷あさでを負つたと聽いた主人が、同じ脇差で背中から突き刺され、一と太刀に心の臟をやられて床の上で死んで居るのです。
「私が歸つて來ると、丁度この騷ぎでした。よく/\運のない御主人で」
 多勢の中から顏を出したのは、先刻明神下へ平次を迎へに來た手代の米松だつたのです。
「見付けたのは」
「私でございました。――主人の怪我で遲くなつた晩の食事の指圖をして、この部屋へ戻つてくると、この有樣で。向うへ向いたまゝ、脇差が背中へ突つ立つて――」
 内儀のお種は、その時のことを思ひ出したらしく、たど/\しい説明をするのです。
「この部屋へ入つた者は?」
「一人もなかつた筈です。皆んな膳について居りましたし、お民が居なくなつて、嫁とお吉がお勝手に居りました」
「友吉は?」
「此處に居ります、――私も若旦那や番頭さんと一緒に、お茶の間に居りました」
 友吉は顏を擧げました。自分へ妙な疑ひがかゝつて來はしないかと心配して居る樣子です。
「お村は?」
「私はお勝手で支度をして居りました。お吉さんと一緒に」
 不在證明アリバイは完全です。


「八、少しお前の智慧を借り度いが――」
 平次はそつと八五郎を物蔭に誘ひ入れました。この時はもう土地の御用聞が驅けつけて、大黒屋の裏表を、ありの這ひ出る隙間もなく見張つて居りました。
あつしの智慧も親分の役に立ちますか」
「遠慮するなよ、――お前の智慧も近頃は大したものだ」
「それ程でもねえが――」
あごなんかで廻す圖は全く大したものだ――ところで、お前はこの下手人を誰だと思ふ」
「さつぱり見當もつきませんよ。殺された大黒屋徳右衞門でないことだけは確かで」
「お前も世上の噂はかき集めたことだらうが、徳右衞門を一番怨んで居るのは誰だ」
「あの可愛らしい下女のお民と、養女のお吉ですよ」
「主人が生きて居て困るのは?」
「養子夫婦は何時までも身代が自由にならないし、手代の米松は、店の金をごま化して、遊びに費つて居るから、尻が割れさうでハラハラして居ることでせうね」
「ところで、千兩箱を突き崩して、主人に怪我をさしたのは誰だと思ふ」
「それが解れば、すぐ擧げてしまひますが、あの時縛つて置けば、大黒屋徳右衞門は殺されずに濟んだかも知れません」
「お前がさう言ふだらうと思つて、打ちあけなかつたんだ。實はあの時直ぐ、砂利詰の千兩箱を突き崩した相手がわかつて居たのだよ」
「誰です、それは?」
 八五郎ははたし眼になるのです。名前を打ちあけたら、獵犬のやうに飛び出すつもりでせう。
「早合點しちやいけない。千兩箱を突き崩したのは主人殺しの下手人ぢやないよ」
「へエ」
「あの時、屠蘇とそを祝ふために、主人の前に家中の者が皆んな揃つた筈だ」
「へエ」
「たつた一人、その座敷に居ない人間があつた――下女のお民だよ」
「あ、あのが」
「お勝手から奧は遠い。いろ/\の物を運んできたが、少しくらゐの隙はあつた。お勝手口から忍んで出て、物干竿ざをの元の方で、前の晩拵へて置いた壁の穴から、床の間の千兩箱の山くらゐは突き崩せた筈だ。寒いから北窓は皆んなふさがつて居るし、誰も見て居る者はない」
「すると」
「お民の父親は良い商人だつた。大黒屋徳右衞門は遠縁だが、うまくだまし込んで身上しんしやうを潰させ、お民の父親が死んだ跡では、――これだけは殘して置いた、千兩箱を五十と取り込んでしまつた。五十の千兩箱は、大概空つぽだつたが、幾つかは死に金に取つて置いた中味があつたに違ひない」
「?」
「その上恩に着せてお民を引取り、年一兩の給金で下女代りにコキ使つた。お民は口惜くやしかつたが、千兩箱を取戻す折もあることと思つて、我慢をして居た。が、千兩箱を杉なりに積んで、屠蘇とそを祝ふ、主人の増長した姿を見ると、口惜しさ一パイで、前の晩一と晩がかりであんな細工をし、千兩箱の山を崩して主人に思ひ知らせようとした。もとより主人を殺さうなどといふ腹はなかつたことだらう、――千兩箱は杉なりに積んであるから、後ろの壁や羽目の細工は誰にも氣が付かなかつた」
「へエ、そんな事ですかね」
「それだけなら、俺も自分一人で呑込んで知らん顏をする氣で居たが、續いて豆撒まめまきの晩庭の闇から眞矢を射込んだものがある」
「あれもお民ですか」
「いや、お民はお勝手に居たし、女の子が弓で惡戲をしようとは思ひつかない」
「すると誰です」
「お民をかばつた人間があるのだよ。千兩箱の翌る日裏庭でマゴマゴしたり、穴を塞いだり、物干竿に附いた壁土を洗つたりした人間」
「あの小僧ですか」
「小僧と言つても、友吉はもう十五だ。いや十六かも知れないが、若さと一生懸命さで、お民を神樣のやうに思つて居る。――二人は仲が好いやうだから、お民に何にか聽かされて、主人を怨んで居たのかも知れない。千兩箱の山を崩したのをお民と知つて、それをかばつてやつた上、日頃、口やかましくて、不人情で人使ひの荒い上にケチな主人を思ひ知らせる氣で、あの眞矢ほんやの仕掛をした」
「弓を何處から持出したんです」
「弓なんかありやしない。小梅の百姓家で育つて、鳥をどしの弓を拵へたことがあるから、庭に植ゑてある、ヒヨロヒヨロの桃の枝を、立ち木のまゝためて弓を作り、駒形堂から盜んで來た眞矢を射たのだ」
「そんな事が出來るでせうか」
「出來るとも、立樹の桃の枝は、思ひの外柔かいものだ。それを棕梠繩しゆろなはで張ると、弱くはあるが手頃の弓になる。その上棕梠繩は桃の幹や枝にまぎれて、夜ではとても見えない」
「でもあの庭は見通しで、隱れて居る場所もありませんが」
「もう一本、長い棕梠繩で、木戸の方から引いたのだよ。多分木戸の柱に縛つて、桃の枝をためた弓弦ゆみづるを留め、主人が顏を出した時繩を切つて矢を飛ばしたのだらう――その證據には、矢がヒヨロヒヨロで、主人の首をかすめて、二間先の唐紙のすそへ立つたほどだ。あれでは人間は殺せない」
 平次の説明は明快でした。あとで物置から棕梠繩を發見したことや、桃の枝の皮の剥げたの、木戸の柱の繩のあとと、改めて説明する迄もありません。
「すると、風呂場で主人を刺したのは?」
「あれも友吉だ――お民が叔母さんのところに預けられて、それつきり主人が安泰では、曲者は、お民ときまつたやうなものぢやないか。そこで、お民には罪がないと知らせるために、風呂場の窓から脇差を突つ込んだのさ。風呂に入つて居るものを、三尺以上も離れた窓の外から、短かい脇差で刺し殺せるわけはない。肩先をチヨイとかすつて、血が出たのが精一杯だ」
「それで、誰も氣が付かないから、ついでに主人を殺したといふわけでせう」
「いや違ふ、主人を殺したのは全く違つた奴だ」
「誰です、それは?」
「ツイ今しがたまで、俺とお前の話を立ち聽きしてゐた人間だよ。それ、あわてて逃げ出したらう」
「何處です、親分、追つ驅けませうか」
「いや、もう裏口のあたりで、言ひふくめて置いた湯島の吉がつかまへたやうだ」
「親分、誰です」
「あれだよ、吉が縛つて來るぢやないか」
 その時庭木戸を押しあけて、裏から廻つて來た人間の顏を、一と眼。
「あ、あの野郎ですか」
 それは、手代の米松の、臆病さうな僞裝ぎさうをかなぐり捨てた、猛惡無殘な顏だつたのです。
        ×      ×      ×
 平次と八五郎は、下手人の米松を湯島の吉に送らせて、夜更けの街を明神下へ辿たどつて居りました。
「下手人が米松とは驚きましたね。あの野郎がまさか?」
「考へて見るが宜い。あの時――主人が殺された時だよ、家の中に姿を見せないのは、米松たつた一人だつたぜ」
「へエ?」
 平次は相變らず八五郎のために繪解きをしてやるのでした。
「俺を迎ひに來た米松は、主人が俺の返事を待つてゐるからと、一と足先に歸つた筈だ。それから俺は支度をして出て、お前を誘つて散々手間取つた上、無駄を言ひながら豊島町へ行つたらう」
「へエ?」
「その間どうしても四半刻は經つて居る。つまり米松は俺達より四半刻は早く大黒屋に歸つて居る筈だ――それが俺達の一と足先、騷ぎの最つ最中に歸つたといふのは變ぢやないか」
「成程ね」
「米松は、主人に知られて惡いことを澤山やつて居る――俺達より四半刻も早く歸つた米松は、店から入らずに、いきなり庭木戸を開けて、主人の部屋を縁側から覗いたことだらう。主人は俺の返事を待つて居たのだ」
「――」
「見ると主人は向うを向いたまゝうと/\して居たかも知れない――騷ぎの最中で、閉め忘れた縁側から膝行ゐざり込んだ米松は、側にある血染の脇差を見ると、フト魔がさした。此處で主人を殺してしまへば。誰も皆んな、主人を殺したのは、千兩箱を崩したり、矢を射かけたり、風呂場で肩を刺した人間と思ひ込むに違ひない」
「何千兩かの費ひ込みを誤魔化すのは、この時より外にはないと思ひ込んだことだらう。幸ひ側にあつた血染の脇差、それをスヤスヤ眠つてゐる主人の背中、心の臟の急所へ屆くほど打ち込んで逃げ出したことだらう」
「惡い奴ですね」
「それから外へ飛び出して心をしづめ、家の中が騷ぎ始めて、醫者の驅けつるのを見極め、主人が間違ひもなく死んだと判つた頃、もう大丈夫と素知らぬ顏で歸つて來たに違ひあるまい」
「驚きましたね。惡い野郎もあつたもので」
「主人を殺した米松は磔刑はりつけだらうが、殺された主人も結構な人間ではないよ。金の力と押しの強さで、人を人臭いとも思はぬ人間は、いづれ大きな受取りを突きつけられることがあるのだよ」
「お民は? 友吉は?」
「洗ひ立てると罪になるだらうが、二人とも主人を殺す氣はなかつたのだ。俺は默つて居ることにきめたよ――養子の彌三郎は良い男だ。よく話してやつて、お民の身の立つやうにしてやらう。友吉は――」
 平次は苦い顏をしました。十五の少年の感傷は、どう始末したものでせう。年と共に、それは少年の心から消え去るかも知れず、生涯忘れられない記憶になるかも知れないのです。
「妙な氣分ですね、親分」
「小格子を冷かして歩くお前から見ると、十五の友吉の心持はわからないよ」
「――」
 二十日月が出たやうです。江戸の往來は二人の影法師を呑んで、靜かに更けます。





底本:「錢形平次捕物全集第二十八卷 遠眼鏡の殿樣」同光社
   1954(昭和29)年6月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年6月28日作成
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