「親分、近頃江戸にも、變なお
ガラツ八の八五郎、何を嗅ぎ出したか、小鼻を
五月の末のある朝、明神樣の森も申分なく繁り合つて、平次の
「頼むから足許に氣をつけてくれ。この間もお前に朝顏の鉢を
平次は氣のない腰を伸ばしました。外に道樂はないにしても、三文植木や、草花の鉢に夢中になる親分の趣味が、八五郎にはどうしても呑み込めません。
尤も、
「何んと言つてもお宗旨ですね。信心でもなきや、この不景氣に二千五百兩といふ金は寄りませんや。ね、さうぢやありませんか親分」
「お宗旨がどうしたんだ。俺のところは、死んだお袋の遺言で、
平次はそんな事を言ひながら、まだ朝顏の鉢から眼も離しません。
「へツ、誰も宗旨替なんか勸めに來たわけぢやありませんよ。近頃は妙に新しい宗旨が多くなつて、お上でも取締りに困つて居ることは、親分も御存じでせう」
「聽いたよ」
「その中でも、寶山講なんてえのは、
八五郎はペロリと舌を出して、自分の
「ワツ、止せよ、鼻の頭なんか
などと、掛け合ひ
八五郎の持つて來たニユースといふのは、今度相州小田原に寶山講の本社が建つに就て、江戸中の信徒から
「ところで、その二千五百兩の見張りですがね。大口の寄附をした旦那衆は嫌がつて駄目、若い奉公人では猫に鰹節で安心がならねえから、あつしに來て見張つてくれないかと――斯ういふ頼みなんです」
「お前それを引受けたのか」
「まだ引受けたわけぢやありませんがね。お禮がたんまり出るから、結構な内職になることだし、――と坂田屋の
「馬鹿野郎」
「矢つ張りいけませんかね」
「金の番をしろと、お上からお手當を頂いてるわけぢやあるめえ。どうしても内職をやり度かつたら、十手捕繩を返上してからにしろ」
「へエ」
八五郎はまさに一言もありません。
用事はそれで濟んだのか、
「あれ八さん、お晝の支度をしましたよ」
などと引留めるお靜の聲をぼんのくぼのあたりに聽いて、トボトボと歸つて行くのです。
お上のお手當、それがどんなに心細いものか、何も彼も知り拔いてゐる平次は、八五郎の後ろ姿の貧乏臭いのを見て、妙に身につまされるのでした。
「可哀想に、ろくな
さう言ふ平次も、女房のお靜も、ろくな袷などといふものは、もう三年越しお目に掛つてはゐないのでした。
「親分、到頭大變なことになりましたよ」
翌る日の朝――と言つても
「今日は大層穩やかぢやないか、――赤坂田町の坂田屋で、二千五百兩の金が盜まれたとでも言ふのか」
「その上、人間が一人殺されましたよ」
「何?」
「用心棒の喧嘩の
「成程それは大變なことだ」
「あつしは昨夜の見張りを斷つたいきさつもあり、今朝起き拔けに覗いて見ると、この騷ぎぢやありませんか、――うつかり坂田屋の
八五郎腐るわけでした。
「そいつは氣の毒だ。行つて見ようか」
妙な行掛りになつて、明神下から溜池へ、平次は八五郎に案内させます。
溜池の坂田屋といふのは
「八五郎親分、ひどいぢやありませんか。あんなに私がお願ひしたのに」
坂田屋の店を入ると、十五六人の講中の人達を掻きわけるやうに、三十二三の良い年増が、八五郎へ飛び付きさうにするのです。
まだ若いのに、白粉氣のない
「濟まねえが、内儀さん、十手には十手の意地があるんだ。たんまり禮を出すと聽かされちや金の番人は勤まらないよ」
「まア」
八五郎、よくぞ斯うまで言ひきりました。
「それでも、今朝は
「まア、錢形の親分さん? 濟みません、飛んだところをお目にかけて」
内儀のお紋は鼻白んで急に小さくなりました。雌豹の凄美が隱れて、それはもう唯の穩當らしい年増女でした。
でも、この感情の激しい動きの中から、平次はこの女の並々ならぬ魅力を見て取つてしまつたのです。尋常な目鼻立、少し淺黒い顏色、眉を落して
「どうぞ、親分さん方」
奧から飛んで出て、講中の人達の間に道を作つてくれたのは、手代の巳之吉といふ、二十四五の
坂田屋の構へは、しもたや風ではあるにしても、さすがに堂々たるもので、廣々と取廻した庭の奧まで廊下が伸びて、其處に二千五百兩の小判を置いた、二た間の離屋があります。
二た間のうちの一と間は、神佛混淆の怪し氣な
平次が行くまで、朗々と聽えてゐた、お經とも
「誰ぢや」
振り返つてクワツと眼を剥いたのは、五十近い
「
八五郎はそれを迎へて恐れ氣もなく長んがい顎をしやくります。
「何、錢形の親分? 近頃高名な岡つ引だな」
「岡つ引には違げえねえが、お前さんは?」
「寶山講の教主代理、
「何んだ、代理か、番頭のやうなものだな」
八五郎の舌の長さ、廊下からぞろ/\と續いて來た、講中をハラハラさせます。
「代理であらうと、
「その法力で、左吉松を殺して、二千五百兩を盜んだ曲者を縛つて貰はうか」
八五郎は遠慮もなく
「應う。言ふ迄もないことぢや。九天の上に照覽遊ばす、我が
斯う言ひきつて寶雲齋坊は、怪しくも飾り立てた祭壇の前に大見榮をきるのです。
「そいつは面白いや。一つその御本尊の利益と、御坊の法力で、下手人を搜し出して貰はうか」
「わけもないことだ」
「萬一岡つ引のこちとらの方が一足お先に曲者を縛つたら何んとする」
「おツ、數珠をきつて、岡つ引の子分にならうか、――若し又、
「十手捕繩返上と言ひ度えところだが、この
「言つたな、岡つ引奴」
この爭ひは何處までも續きさうです。
「八、もう宜い。修驗者なんかにからかつて居ると、不動の
平次はあまりの馬鹿々々しさに口を容れました。
「へツ、金と聞くと、金縛りでも有難くなりますよ。この節は
そんな事を言ふ八五郎です。阿彌陀樣の罰は當らなくとも、寶雲齋が本尊だといふ、
縁側を戻つて、手前の六疊へ入ると、其處には昨夜のまゝの、喧嘩の
馬吉は三十七八の、薄汚ない
「親分、これは大變なことですね」
左吉松の死骸を見ると、八五郎はさすがにその不自然に眼を剥きます。
「お前も氣が付いたか。細引で縛つた上、喉笛を掻きつて居る。刄物は?」
平次は
「左吉松の持物ださうで、死骸の側にありました」
萬屋治郎兵衞は、懷ろ紙の上に置いた、凄い
「これ程達者な男が、默つて縛られた上、素直に自分の喉笛を刺されたのかな」
離屋と言つても、
死骸になつて居る左吉松は、『喧嘩』といふ
それにその野性的な顏に
「こいつは餘つ程仔細がありさうだな、八」
平次も、ことの容易ならぬ樣相に、スタートを踏み直す心持になりました。
「あの山師坊主に負けちや大變ですよ、親分」
八五郎はそんな氣樂なことを考へて居るのです。
「
「へツ」
「間違つても坊主にされるのはお前だ。八五郎の入道姿などは
「脅かさないで下さいよ、親分」
「あの
平次がこんな馬鹿なことを言つて居る時、その時は、平次の神經が八方に觸覺を出して、何にか素晴らしいヒントを掴みかけて居る時でした。
「何んか、手掛りを見付けたんですか、親分」
「手掛りといふ程のことではないが、死骸の手足を縛つた、細引の結び目にお前は氣がつかないか」
死骸の手足を縛つた細引は、死骸の世話をした人達が必要な程度に切りほどいてありますが、切つた者に心得があつたらしく、
「男結びとか、女結びとか、
「そんなまともな結び方なら、少しも不思議はないが、これはお前、
「?」
「わざ/\細引に罠を拵へて人を縛る者はないよ。
「――」
「これは、左吉松が、自分で自分を縛つたのさ。細引で最初に自分の脚を縛り、それから罠をこさへて、後ろ手に兩手を突つ込み、口を使つて締めたのだ」
平次は死骸に殘る繩の結び目を指し乍ら、こと
「親分、それは本當でせうか」
眼の色を變へて詰め寄つたのは、先達の萬屋治郎兵衞でした。
「繩の結び目を見るが宜い。こんな馬鹿なことで縛られる人間はないよ」
「すると?」
「泥棒に二千五百兩の金を盜られたといふことにして、左吉松がそれを隱したに違ひあるまい、――いや、どうかしたら、相棒にそれを運び出させ、自分で自分を縛つて、人眼を誤魔化す氣だつたかも知れない」
「――」
四人は思はず
「ところが、その合棒は急に氣が變つた。左吉松と組んで、二千五百兩の小判を山別けにする筈だつたが、
「――」
「相棒は氣が變つた。左吉松の匕首を取上げると、後ろから馴々しく近寄つて、自分で自分を縛つて居る左吉松の
平次の論理は、依然として、容易に異を挾む餘地もありません。
「あツ、この野郎だツ」
萬屋治郎兵衞は、矢庭に一つ木の馬吉に飛かゝると、その胸倉を、
「あツ、何を、何をしやがるんだ」
一つ木の馬吉は、その
「畜生ツ、二千五百兩を返せ」
もだ/\と掴みかゝる萬屋治郎兵衞に、
「何を面喰つてやがるんだ。俺は左吉松の兄弟分には違げえねえが、二千五百兩を盜つた覺えはねえ。現に俺は
馬吉は治郎兵衞を突き飛ばして、その
「畜生、泥棒奴ツ」
治郎兵衞は湯氣の立つほど怒りましたが、これは喧嘩になる筈もなく、眼を剥いたり、齒を鳴らしたりするのが精一杯です。
「
平次は不意に、凡そかけ離れた事を手代の巳之吉に訊ねました。
「母屋は何んの變りもございませんでした。
「其處から皆んな飛び出したことだらうな」
平次は口を
「一人殘らず外へ飛び出しました。ところが、不思議なことに、裏も表も、木戸は嚴重に内から締つて居りますし、忍び返しがあの通りで、
「?」
「でも、曲者が二千五百兩を持逃げしたことは確かですから、飛び出した人數の半分は、家の廻りを見ることにし、あとの半分は、木戸の外に飛び出して、
手代巳之吉の説明は、まことに行屆きます。
「矢つ張り曲者はこの野郎ですよ。親分、早く縛つて下さい。逃げられでもすると、あの二千五百兩が――」
萬屋治郎兵衞は馬吉を指さし乍ら泣き出しさうになるのでした。
「いや、それだけ嚴重に、内から締つて居る木戸を、どうして拔け出したんだ」
平次にはまだ
「塀を乘越える
「忍び返しはあの通り無事だ。それに曲者は、二千五百兩の小判、千兩箱が三つ、どう積つても、十貫目以上の荷物を持つて居る筈だ」
「それくらゐの荷物は持ちますよ、あの身體ですもの」
萬屋治郎兵衞は、凄い顏して睨んでゐる一つ木の馬吉の
「が、待つてくれよ。左吉松が相棒を使つて仕事をしたのなら、何も、細引の
平次の言葉は、あまりにも常識的ですが、殆んど決定的な強さを持つて居ります。左吉松ほどの
「すると親分」
八五郎は氣が氣でない樣子です。あらゆる假定を御破算にしてしまつた平次は、一體何を依りどころに、この後の調べを續けるのでせう。
隣りの部屋の寶雲齋は、
「昨夜のことを、もつと
錢形平次は旗色が惡くなると、かへつて落着き拂ひます。
「宵のうちは、萬屋さんと私と、左吉松親分と、三人で二千五百兩の金箱を見張つて居りました。でも、萬屋さんは恐ろしい眠がりやで、最初から居眠りをして居りますし、私も疲れきつて居りましたから、ツイ居眠りくらゐはしたことでせう。一番達者なのは左吉松で――尤も夜と晝と取違へたやうな身持のよくない男ですから、眠くないのも無理はありませんが、『そんなに眠いなら、向うへ行つて床の中に入つて、存分に眠るが宜い。此處の見張りは俺一人で澤山だ。御本尊の寶山樣も守つて居ることだから』と申します」
「左吉松も信徒だつたのか」
「それはもう、恐ろしいほどの凝りやうで、二千五百兩の金だつて、
「で、それから」
「さう言はれると、左吉松に任せても差支へはあるまいと思ひ、萬屋さんを誘つて私と二人は母家の方へ引取りました。その時、私はもう一度庭へおりて念のために表裏の木戸を調べましたが、よく締つて居て、何んの間違ひもなく、家中の締りも變りのないことを見定めて、暫らくして縁側から内儀さんの部屋に聲を掛け、萬屋さんと一緒に自分の部屋に引取つて休んでも構はないでせうか、左吉松親分は斯う言ふが――と申しますと、構はないだらうとも、朝までゆつくり休むが宜い。これが昔日本橋で繁昌して居た頃の坂田屋なら、二千兩や三千兩の金に心配もしないだらうが、お前も隨分氣が小さくなつたネ――と笑はれました」
「――」
平次は默つてその先を
「私も妙な心持になつて、暫らく縁側に立つたまゝお話をして居りましたが、障子の中ではお内儀さんが寢卷とお着換へをして居る樣子なので、開けて入るわけにも行かず」
「時刻は?」
「丁度三縁山増上寺の
「それから」
「九つの鐘が鳴り終つた時、――内儀さんが大きな聲で、左吉松は飮んで居るから火の用心が惡い、今夜はことの外暖かいから、あの火鉢を縁側へ出しておくれ――と御自分の部屋から聲をかけましたので、着換へが濟んで、床の中へ潜り込んだばかりの私が、飛び起きて長い廊下の、先の離屋へ入つて見ると、あの有樣で」
「――」
巳之吉はその時の驚きと恐れを思ひ出したらしく、暫らく絶句して、あと先の記憶を整へます。
「左吉松は首筋に匕首を突つ立てて死んで居り、部屋の中の手習机の上に載せて置いた、二千五百兩の金は、煙のやうに消えてなくなつてしまひました」
「金はどんなものに入つて居た」
「本式の千兩箱を拵へたわけではございません。坂田屋に昔からあつた小形の錢箱を三つ持出して、六七百兩づつ入れておきました」
「ところで、坂田屋の
平次の問ひは唐突で、無禮なものでした。
「――」
巳之吉の顏には一瞬、激しい怒が湧き上がりましたが、精一杯押し鎭めて、
「昔のやうには參りません、――正直に申上げると、苦しいやりくりでございますが、まさか、神佛のものにまで目をつけるやうなことはございません」
と少し突つかゝり氣味に言ひ放ちます。
「氣を惡くしないでくれ、念のために訊いたのだから」
「――」
「萬屋は始終お前と一緒に居たことだらうな」
「あの人は年にも
巳之吉から訊くことは、これで全部になりました。
「内儀さんに會つて見ようか。八、お前は近所の噂を集めてくれ」
「へエ」
張りきつて飛んで行く八五郎の後ろ姿を眺め乍ら、平次は長い廊下を、靜かに母家へ入つて行きます。
廊下の盡きたところ、即ち母家の取つ付きは内儀のお紋の部屋でした。
「ま、錢形の親分さん、さつきは飛んだところをお目にかけました。私としたことが、すつかり取亂してしまつて――」
と、お紋は極り惡さうに平次を迎へるのです。小綺麗に調つた六疊、たしなみの鏡臺が一つ、目に
こう相對してゐると、
「あの寶雲齋といふ修驗者は、どんな人ですかえ、内儀さん」
平次の問ひは妙なところから始まります。
「サア」
「遠慮なく言つて貰ひ度いんだが」
「私の口からは申上げ兼ねますが、――でも昨夜も金の見張りをしながら、あの離屋へ泊ると仰しやつて聽きませんでしたが、一度
恐らくあの修驗者は、内儀の美色に引寄せられて、灯に迷つて來る
「娘さんといふと」
「お新と言つて十六になります。
それは母親としてはまことに賢明な處置らしく見えます。寶雲齋は撃退しても、喧嘩の
「ところで昨夜のことを、もう一度繰り返して訊き度いのだが――」
「私は
「――」
お紋は
平次はお紋の部屋を出ると、次から次へと部屋を覗きました。娘のお新は母親と同じ部屋に寢て居るらしく、次の四疊半には、箪笥や手廻りの品があるだけ。
廊下を
間もなく八五郎が歸つて來た樣子です。離屋を覗いて、親分の平次が居ないと見ると、寶雲齋坊と、何にかひどくやり合つて居るらしく、
「サア、その
それは寶雲齋の祈祷で
「何をツ、山師坊主奴。その祭壇の下に、法力とやらで引摺り寄せられると言つた下手人は何所に居るんだ」
「おう、左吉松を刺した當の相手の名、聽いて驚くな」
「誰が驚くものか、うぬが殺したと吐かしても驚く俺ぢやねえ」
八五郎は精一杯虚勢を張りますが、頼むところのない悲しさで、兎もすれば寶雲齋坊に押され氣味です。
「なア、岡つ引奴、左吉松は二千五百兩の大金、――幾百千人の信徒から集めた、清淨な寄附金を盜まうとして、立ちどころに寶山樣は本尊の利劍に刺され、その
寶雲齋は一
「寶山樣が下手人とは、言つたな山師坊主、――それが本當なら木像に繩打つてやらうか」
「何を、無禮」
「ところで、その二千五百兩が何處へ行つたのだ」
「それがわからなくて何うする――水に縁があつて土に縁がある場所、左吉松と
「何ツ、溜池?」
八五郎もそれには驚きました。この離屋から持出した二千五百兩、箱ごとでは十貫目に餘る荷物は、夜半過ぎに運び去るのは大變な仕事に違ひなく、恐らく手近の溜池に沈めたといふのが、誰が考へても一致しさうな隱し場所です。
「それツ」
かくと聽いた萬屋治郎兵衞は、それを
萬一のおとがめを恐れて、それ/″\の係りに屆出ると、一方町役人の助けをえて、十二三人の人數を狩り集め、あつと言ふ間に、溜池の底に
それから夕景まで、この探索は
その間に平次は、八五郎を二度三度と走らせて、日本橋から赤坂へ、いろ/\の情報を掻き集めました。それに依ると、
「坂田屋の主人敬三郎といふのは、山師坊主の祈祷で鼻風邪か何んか癒つてから、すつかりあのお宗旨に凝つてしまひ、三年前亡くなつた時は、日本橋の店も人手に渡り、その上の大變な借金で、赤坂田町のこの家も、少しばかり殘つた土地家作も、いづれはなくなるだらうといふことですよ。――それだけの身上を、皆んな寶山樣に入れあげたわけで、吉原のお
「お前の言ふことは、一々變だな、花魁なんか引合ひに出さなくても宜からう」
「物の
「それ又、變な聲が出る」
「あの内儀も評判者ですよ、悧巧で
「寶雲齋もその一人だらう」
「あの山師坊主と來たら熊坂の
「せめて八五郎にでも口説かれたら――と言ひ度いところだ」
「へツ、當つて見ませうか」
「馬鹿、あゝ見えても、お前より歳上で、人間も
そんな話がいつでも二人の結論になります。
「おや、到頭溜池からは小判が出ないと極つた樣ですね」
「そろ/\俺が乘出さなきやなるまいよ。八、皆んなを呼んで來てくれ。平次が二千五百兩の小判を搜し出したと觸れるんだ」
「大丈夫ですか、親分」
「俺の法力を疑ふ氣か」
それからが大變でした。八五郎が胴間聲を張り上げると、
「何處だ、何處だ」
「それ行けツ」
人足を
「親分、溜飮が下がりましたぜ。あの二千五百兩といふ大金を入れた錢箱が三つ、
平次と八五郎は、赤坂田町の坂田屋を引揚げて、虎の門の方へ、殘る
「左吉松が金を隱したことは間違ひもない――縁側を開けて、自分で自分を縛つて、泥棒に盜られたと見せかけたつもりだらうが、――あの繩の結び目で、死んでから惡事が露見するとは氣が付かなかつた」
「淺ましい野郎で」
「でも、ほんの四
「成程ね。――そこで死骸の下の爐の中とわかつた」
「祭壇は下が見通しだし、押入や縁の下も智慧がないから、俺は爐の中と見當をつけたのさ」
「あの錢箱が三つ床下から出た時の、山師坊主の顏といふものはありませんでしたよ」
八五郎は
「さすがに數珠をきる氣にもなれなかつたか、いづれ金は沼津まで送るやうにとか何んとか誤魔化して、ソコソコに逃げ出したぢやないか」
「あつしは追つ驅けてさう言つてやりましたよ。『どうでえ、錢形の親分の法力は――』てね」
「でもあんまり威張れないよ。
平次はそれが心外でたまらない樣子でした。
「親分にも本當にわからないんですか」
「大變な相手だ、どうしても尻尾を掴ませないよ」
「馬吉は?」
「
「巳之吉は?」
「萬屋と一緒に居た、――最初のうちは縁側で
平次にはこの下手人に負かされたことが、何んとしても諦らめきれない屈辱だつたのです。
「おや、増上寺の暮六つの鐘が鳴りますね」
八五郎も平次も、雀色になりかけて居る、夏の夕空を仰ぎました。遠浪のやうに打寄せる江戸の街の騷音の上を渡つて、澄みきつた増上寺の鐘の音が、ボーンと靜かに寂しい
「八、鐘の音と音の間が、思つたより遠いぢやないか」
「さう言へばさうですね。
「お前は自分の
「――」
八五郎は默つて、左の手首を右手の三本の指で抑へました。やゝ、暫らく、鐘は又美しい餘韻を引いて鳴ります。
「五十六」
「俺の脈は六十二だ、――お前といふ人間は、矢つ張り血の
この期に臨んでも平次は冗談を言ふのでした。
「これはどういふわけです、親分」
八五郎はこの變てこな遊戯の意味を
「寺の鐘の音は、思ひの外間が長いといふことさ。夜中の九つ(十二時)の鐘は、三つの捨鐘を入れると十二も打つんだらう。鐘
「へエ?」
平次は大變なことに氣が付いたのです。鐘と鐘の間が人間の脈で六十幾つといふと、ざつと今の時間にして一分近くかゝり、十二の鐘を打ち了へるには、少くとも十分はかゝることになります。
「大變なことになつたよ八」
「何です、親分?」
「あの内儀のお紋が、増上寺のことばかり言つて居たが――」
「?」
「鐘を打ち始めてから、十二の鐘の打ち了へるまでには、離屋へ忍んで行つて、左吉松の
「?」
「左吉松の死顏は穩かで笑つて居るやうだつた。後ろにあの良い年増が立つて居たのだよ。自今が、蟲のやうに殺されるとも知らずに見上げて思はずにつこりしたことだらう」
「さう聽くと可哀想でもありますね」
「お前だつてそんな氣になるだらう。――ところで
平次は何んの思ひ入れもなく、神田の方へ道を急ぐのです。
「下手人を縛らないんですか、親分」
八五郎はキナ臭い顏をして立停りました。
「誰を?」
「左吉松殺しの下手人、あの綺麗な内儀ですよ」
「證據があるかえ」
「?」
「鐘の音と鐘の音の間が、八五郎の脈は五十六
「?」
「それとも、あの綺麗な年増に、お前は石でも抱かせる氣か」
「驚いたね、親分は」
「俺だつて驚くよ。――寶山樣の罰で、
二人は默々として、明神下へ、お靜がヤキモキしながら、
「でもね、親分。あの綺麗な年増が、何だつて人まで殺す氣になつたんでせう。金が欲しかつたでせうか、それとも」
「寶山講の事で
「それとも」
「あの山師坊主の寶雲齋が憎かつたのかな」
「――」
「矢つ張り二千五百兩の金が欲しかつたか。兎も角も左吉松と共謀でないことだけは確かだ。最初左吉松が相棒に殺されたと言つたのは俺の間違ひさ」
「――」
「あの年頃の女の考へることは、俺にはどうも解らないよ」
平次は襟を掻き合せて、一段と急ぎ足になるのでした。八五郎はまた、親分の平次が、あの凄い年増のお紋を許して、大きい手柄をフイにしてしまつたことに、ひそやかな滿足と
× × ×
寶山講のために、左吉松が無理に集めた二千五百兩は、お上の指圖――實は平次の意見で、大方もとの寄附主に
寶山講はそれつきり人氣を失つて、ウヤムヤのうちに潰れ、新しく魅力的な、
そして坂田屋の娘お新は、手代の巳之吉を婿にして、