「親分、向島の藤屋の寮で、今日生き
ガラツ八の八五郎は、相變らず鼻をヒクヒクさせながらやつて來ました。
「俺はこれから、その生き葬ひへ出かけるところよ。お前も一緒に行つて見ないか」
錢形平次は
「御免
「いやな笑ひやうだな。どうせどつちにも縁はあるめえ」
「へツ、仰せの通りで。あつしは江戸中の奴がびつくりするほど借金を殘して死にてえ」
「その八五郎にビツクリするほど金を貸す奴がありや宜いが」
「違げえねエ」
相變らず無駄ばかり言ふ二人でした。
「金があつて暇があつて死に度くない奴が考へ出したことだらうが、生きてるうちに葬ひを出すといふのは考へて見ると妙なもんだね、――近頃は矢鱈に
平次はつく/″\さう言ふのです。江戸の文化も
「親分はまた何んだつてそんなものへ出かけるんです」
八五郎にはそれが不思議でならなかつたのです。御藏前の札差で何人衆の一人と言はれた藤屋の彌太郎が、道樂や贅澤にも飽きた末、自分の葬式を出してアツと言はせようといふ、アクの強い
「御馳走があるんだよ。
「冗談でせう、そんな事で親分が――」
八五郎は
「では、これを見るが宜い」
平次は煙草入を拔くと、かますの中から取り出したのは、小さく疊んだ紙片が一枚。粉煙草を拂つて、八五郎の鼻の先に突き付けるのでした。
「へエ、これならあつしにも讀めさうだ。皆んな日本の字で
「日本の字だつてやがる。それは
「――何々(藤屋の生き葬ひに大變なことがある、親分はこいつを見のがしちやなるめえ)――成る程ね」
「どうだ、それを讀んだらお前も向島へ行く氣になるだらう」
「からかつてゐるんぢやありませんか」
「さうかも知れない――が葉櫻の向島土手を、ホロ醉ひ機嫌で歩くのは惡くないぜ」
「行きませう親分」
八五郎も到頭そんな氣になりました。
「御馳走に引かれて行くのでなきや、向うへ行つても
「へツ、有難い仕合せで」
「十手を内懷中に突つ張らかして、ガツガツ食ひあさるのは恥だよ」
「
「馬鹿」
神田から向島へ、無駄話は際限もなく續きます。
向島の
集まつたのはざつと三百人、これでも嚴選に嚴選をした、一粒選のを呼んだといふのが、藤屋彌太郎の味噌で、その生き葬ひの催しもまた、
客といふのは、藤屋の札旦那から、御藏前の札差仲間、金持、通人、
寮の建物は數寄を
晝を少し廻ると、式は先づ多勢の僧侶の讀經に始まりました。その大合唱が、鐘と太鼓とあらゆる
それは兎も角として、
儀式が濟むまで、三百人の客に、マジマジと顏を見られるのがさすがに照れ臭かつたのでせう。
藤屋彌太郎はこの時丁度五十歳、札差の株を買つての一代
棺の目隱しが下りると、讀經の波は又一としきり揉み上げます。莊嚴な齊唱が初夏の空に響き渡つて、三百の會衆も、何んか遊び事でもないやうな、嚴肅な心持に引入れられます。
棺の中の主人は
サツと一陣の晝の風が吹くと、棺の後ろの
「――」
三百の會衆はゾーツと總毛立ちました。
もう一度恐ろしい呻き――苦悶に押し潰された聲と共に、
「――」
壇に吸ひ付けられた六百の眼は、暫らくは氷の如く凝つと靜まりましたが、次の一
「何うした」
「何うした」
縁側に居た身近の五六人は、群僧を掻きわけて壇に近づきました。
と、その中から潜るやうに飛び付いて、眞つ先に棺の前に出たのは藤屋と無二の間と言はれて居る、黒船町の利三郎でした。引きむしるやうに棺の白絹を剥ぐと、中から轉げ出したのは、何んと
「旦那樣」
「藤屋さん、どうなすつた」
五六人の手が、血潮の汚れも厭はず藤屋彌太郎を引き起しました。
見ると今まで藤屋彌太郎の入つて居た棺には、
「曲者は幕の後ろだ」
利三郎の聲を待つ迄もありません。ドツと幕の後ろに殺到した五六人、相手が何んであらうと、
驚き騷ぐ僧俗の三百人、寮から庭へかけて、さながら煮えくり返るやうですが、
その時でした。
「お
縁側に立つて際限もなく混亂を續ける群衆に呼びかけた者があるのです。
多勢の眼は、焦點を求めて燒き付くやうに、その顏を仰ぎました。
「あツ、藤屋さん」
「御無事で、まア、まア、まア」
驚き呆れるのも無理はありませんでした。それはまさに、藤屋彌太郎の先刻のまゝの紋服姿で、少し取り逆上ては居りますが、如才なささうな微笑をさへ浮べた顏ではありませんか。
「では棺の中の人は?」
三百人の疑問の眼は、もう一度壇上の血だらけの棺に向けられました。
「
死骸を抱き起した黒船町の利三郎が言ひました。
「これは一體どうしたわけだ」
あまりの事に、非難らしい囁きが八方から湧き起ります。
「お騷がせして何んとも相濟みません。が、これには深い
藤屋彌太郎は縁側に立つたまゝ、一應の辯解をしなければならぬ地位に置かれました。わざわざ一日の暇をつぶして、生き葬ひに參列した三百人を、その儘歸すわけには行かなかつたのです。
「兎も角御無事で結構だが、どうしてそんな事になつたか。一應承りませう、藤屋さん」
庭の多勢の中から、さう言つた要望が三人五人の口で述べられました。
「申上げませう。私のつまらぬ物好きから、人一人の命をなくして、何んとも相濟まぬことですが、それは
「――」
聽衆は
「今日の生き葬ひで、申すまでもなくこの私が棺の中に入るつもりでしたが、此處に居られる黒船町の利三郎さんが、どうも
「――」
「それを側で聽いて居た幇間の善八が、それでは私が代つて棺へ入りませう。身體も年恰好も似て居るし、顏もいくらか似ないことはないから、顏のところへ巾でも垂らしてもらへば、壇の上の供物や灯に
主人、藤屋彌太郎の辯明はそれで終りました。續いて立つた黒船町の利三郎は、主人の彌太郎よりは二つ三つ若く、四十七八にもなるでせうか、彌太郎の脂ぎつた丈夫さうなのに比べて、それは青白く骨高に痩せて、無二の仲といふだけに、面白い對照を見せて居りました。
「私が御主人の棺へ入るのを止めさせたのは、少しばかりわけが御座います。――實は
「――」
群衆は
「その上、誰からともなく私は、今日何にか變つたことがあるかも知れないといふ噂を聽いて居りました。檜の一寸板が、さう手輕に割れ目をこさへる筈もなく、妙な噂も
黒船町の利三郎の話はこれで終りました。
斯うなるともう、三百人のお客樣達も、御馳走どころの騷ぎではありません。空き腹を抱へて酒池肉林を後に、愚圖々々小言を言ひながら、ゾロゾロと歸つてしまつたのです。
「八、何うだ。あの手紙は
あの群衆の中に交つて、錢形平次もまた、
「大變なことになりましたね、親分」
「來い、八。今の内に見て置かう」
二人は大方客の歸り盡したのを見定めて、縁側に上がりました。
「
「さうだよ」
が、
「主人の彌太郎は此處から出て來たやうだな」
「さうですよ。主人の後ろから、伜や番頭が一緒に出て來たぢやありませんか」
「すると善八を鯨幕越しに刺した曲者は何處へ消えたんだ」
「わかりませんよ」
「鯨幕の蔭からあの騷ぎの中へ出て來た者はなかつたか」
「氣が付きませんね。何しろあの騷ぎでせう」
「此方へ出なければ、天井へもぐるか、床下へ入るより外に逃げ路はない筈だ」
「天井も床下も、あれだけ多勢で見張つて居ちや潜る工夫はありませんよ」
「――」
錢形平次もハタと當惑した樣子です。曲者が
「主人に逢つて見ようか、八」
「それが宜いでせう」
二人は其處へ通りかゝつた手代を案内させて、奧の一と間に入りました。
「これは錢形の親分、飛んだ宜いところへ」
主人の彌太郎よりも黒船町の利三郎が乘出します。
「飛んだことだつたね。お前さんが居てくれて、いろ/\訊くのに都合が宜いよ」
「へエへエ、どんな事でもお訊き下さい」
それも黒船町の利三郎でした。
「第一番に、藤屋さんが、ひどく人に
平次の第一の問ひはあまりにも定石通りでした。
「こんな商賣をして居りますので、隨分思ひも寄らぬ怨みも買ひますが、差し當つて私の命を狙ふ者などの心當りは御座いません」
「藤屋さんが死んで得をするものは?」
「損をする者ばかりですよ、――私などもその一人で」
黒船町の利三郎は苦笑ひをして居ります。隨分藤屋には厄介をかけて居るのでせう。
「
「いえ、善八の娘――お吉さんが、藤屋さんのお世話になつて居ります。此處に居りますが」
利三郎が指さしたのは、二十七八の美しい年頃、泣き濡れては居りますが、
「御主人とお前と善八と三人で、棺へ入る入らないの騷ぎをやつたのは何處だえ」
「此處で御座いますが」
今度は主人の彌太郎が答へました。
「その押し問答を聽いて居た者は?」
「一人も御座いません、――誰にも聽かせ度くなかつたのでございます」
「その時、家の者は何處に居たんだ」
「皆んなお勝手で料理の指圖やら、いろ/\の世話をやいて居りました」
「それから」
「
「それから此處へ來た者はないのだな」
「鯨幕の後ろからは誰も參りません」
主人の證言には疑ひを
「ところで今度はお前に訊き度いが」
「へエ」
利三郎は氣輕に膝を前へ進めました。
「棺を三日前に見た時は傷はなかつたと言つたが――今日傷のあるのに氣の付いたのは、何時の事だ」
「
「三日前から今日まで、棺は何處に置いてあつたのだ」
「自分が入るつもりでは拵へましたが、モノがモノですから、家の中へも入れられず、物置に入れておきましたが」
平次は默つてうなづくと、今度は煙草入の中から、例の粉煙草だらけになつた、怪しい手紙を取り出しました。
「この筆跡に見覺えはないだらうか」
「へエ、一寸拜見いたします」
主人は手に取りましたが、見覺えがないらしく、一寸小首を
「どうも見覺えは御座いませんが」
誰一人この
「
平次はもう一度利三郎に訊ねました。
「この手紙と同じやうなことを言ひ
「生き
「へエ」
これだけでは何んの手掛りにもなりません。
平次はその儘外へ出ると、
「八、番頭を呼んで來てくれ。物置を一度見て置き度い」
八五郎は驅け出して行くと、やがて番頭の佐兵衞をつれて來ました。
「物置の戸を開けてくれ」
「
「成程、不用心なことだな」
平次は物置の戸に手を掛けて、無造作にガラリと開けます。
「この邊は田舍も同樣で、物置へ入るやうな世智辛い泥棒もございませんので、へエ」
「でも、此處で曲者は棺の後ろへ穴を開けたんだぜ――それ見るが宜い、
「へエ」
番頭佐兵衞の顏は見ものでした。
「
「誰でせう。そんな
ガラツ八の質問の氣樂さ。
「それがわかれば苦勞をしないよ。眼の前で人一人殺されたのを、この平次がわからなかつたんだ――どうかしたら、あれを俺達に見せびらかすために、あの手紙を書いたんだらう」
平次は苦笑ひをします。ひどく自尊心を傷つけられた樣子です。
番頭の佐兵衞といふのは五十前後の穩かな男で、商賣の事以外はあまり關心を持つて居さうもなく、藤屋に取つては大事な人間であるにしても、平次に取つては大した役に立ちさうもありません。
その番頭を歸してブラブラ庭を歩いて居た平次は、
「さうだ、見落したことがあるやうな氣がする。もう一度あの棺を見て置かう」
いきなり座敷に入ると、正面から默つて壇を見詰めて居りました。騷ぎに
「此處に坊さん達が二た並び居て――一番先に飛び付いたのは誰と誰だつたか、お前は知つて居るか」
「覺えちや居ませんよ。いづれ内輪のものでせう、――棺から轉げ出した善八を一番先に抱き上げたのは利三郎でしたが」
「それは俺も見た、――おや/\、妙なものがあるよ」
「何んです、親分」
「棺の穴へ、ちやんと
「へエ」
平次が、壇の上から拾ひ上げたのは、丁度脇差を突つ込むまで棺の穴を
「物置から壇の上まで棺を運ぶ時、あれだけの穴があつちや、氣が付かない筈はない。どうも不思議だと思つたが、矢つ張り穴は塞いであつたんだ」
「恐ろしく氣のまはる野郎ですね」
「それだけ氣のまはる奴が、主人と善八と入れ替つたことを知らずに居るだらうか」
「?」
「兎も角、この木片で穴を塞いで見よう」
平次は血だらけの棺の中へ手を入れて、木片を穴に差し込むと、丁度ピツタリとはまつて、一寸見ただけでは、そんな仕掛けがあらうとは思はれません。
「驚きましたね、親分」
「驚くひまに、幕の蔭へ廻つて、指でその穴のあたりを押して見てくれ」
「へエ」
八五郎は
「見當は付くかい、八」
「この邊でせう」
手で撫でて見當をつけて、指の先で輕く押すと、木片はコトリと落ちて、その跡に脇差を突つ込んだ穴が開くのでした。
幕を潜つて、平次の前へ戻つた八五郎は、
「親分、あつしは考へる事があるんですが」
ひどく思ひ込んだ樣子です。
「何んだ言つて見ろ」
「笑つちやいけませんよ」
「笑はないとも。お前が
「へエ、つまらねエ事を覺えて居るんですね」
「だから氣の付いた事があるなら言つて見るが宜い」
「ぢや言ひますよ、――鯨幕の蔭から、棺へ脇差を突つ込めるのは主人の彌太郎の外にはないぢやありませんか」
「エライツ」
「あ、びつくりするぢやありませんか」
「すると主人は自分の背中へ、脇差を突つ立てる爲に、棺の
「でも、善八が代つて棺へ入つたぢやありませんか」
「善八が代らなかつたらどうするんだ」
「棺へ息拔きの穴を拵へたといふことにして
「だらしがないなア、お前の考へることは」
八五郎折角の知慧も、平次に斯う言はれるとローズ物になつてしまひます。
それからもう一度
伜の彌吉は二十七八の典型的な若旦那で、一番下手人の可能性は濃厚ですが、棺へ穴を開けてまでもいろ/\な細工をして親を殺す筈がなく、あとは下女二人、雇女五六人、男達七八人、いづれもお勝手や庭に居て、
「八、お前は黒船町へ廻つて、利三郎の樣子を
「それから、藤屋の主人彌太郎のことは」
「それは言ふ迄もない事だ。
殘るところなく手を廻して、平次はその日は引揚げました。
「親分、いろ/\の事がわかりましたよ」
「どんな事が?」
ガラツ八の八五郎が、平次の家へ來たのはその翌る日の朝でした。
「第一番にあの番頭の佐兵衞が喰はせものですよ」
「フーム」
「十年の間に確かり取り込んで、鳥越に素晴らしい妾宅を持つて居るなんざ、太てえものでせう」
「それから」
「伜の彌吉は養子で、本當の子ぢやありません。それが又大變な道樂者で、親の知らない借金で首も廻らない有樣で」
「――」
「妾のお吉はあんな顏をして居るが、恐ろしく喰へない女ですよ。彌太郎に喰ひ下がつて、しつかり取り込んでゐますが、いづれ
「女の手際ぢや五六寸も脇差を打ち込めないよ」
「さうですかねエ。それから黒船町の利三郎、これも宜い加減な野郎で――もとは
「それから」
「まア、そんな事ですね。これだけ調べて、善八殺しの下手人はわかるでせうか」
「わからないよ、益々わからなくなつたよ」
平次はそんな事を言ひながら、相變らずの粉煙草をせゝりながち、若い
「それから藤屋のお蔭で食つて居る人間なら、隨分澤山ありますよ」
「例へば」
「第一が殺された善八、――尤もあの娘のお吉はあの通り綺麗なくせに
「それから」
「次は黒船町の利三郎で、あれは十年前店の株を一萬兩といふ大金で藤屋に賣つて居ますが、大方は借金の穴埋になつて、近頃では藤屋から五十兩、三十兩と借り出して、かれこれ屋の損を埋めて居るやうで」
「フーム」
「それに女房のお徳は藤屋の奉公人上がりですから、今でも時々は行つて手傳つて居ますよ。この間もお勝手に良い年増が居たでせう」
「氣が付かないなア――良い年増となると、お前は馬鹿に眼が早いから」
「手代や番頭にも、信用の置けないのが二三人居るやうで、下手人には事を
八五郎の報告はそんな事で了りました。が、この報告の中からも、何んのヒントも得られません。
それから十日ばかり經つたある晩のこと、騷ぎも一段落になつて、
利三郎の方が一二
「お風呂がわきましたが――」
お吉が言つて來たのは
「それぢや一と風呂浴びて來るが、――その間によく考へて置くが宜い。その
すつかり考へ込んで居る利三郎を奧に殘して、彌太郎はそのまゝ風呂場へ行つたのです。
さつと温まつて流しに降りようとした彌太郎、生温かい晩で、戸を開けたまゝの窓格子に背が向くと、
「あツ」
いきなり後ろからサツと突いて出た長いの。
「泥棒ツ、――人、人殺しツ」
豪氣な彌太郎ですが、不意の襲撃に顛倒して、流しの下に轉げ落ちると傷口を押へて叫び續けます。
「旦那樣、どうなさいました」
一番先に飛び込んで來たのは
「何うしたのです御主人?」
「あの窓からやられた。見てくれ、彌吉」
が、伜の彌吉は
「どれ」
さすがに利三郎は皆んなをリードして行きます。風呂場の廻し戸をあけて、いきなり
がそれも無駄でした。格子の外に捨てて逃げた、長目の脇差を一つ手に入れただけ。
「逃げ足の早い野郎で、――姿も見えません」
ぼんやり歸つて來る外はなかつたのです。
主人彌太郎は早速傷の手當てをして、近所の外科を呼びましたが、幸ひ急所を
「又やつたさうだね」
其處へ思ひも寄らぬ錢形平次と八五郎がやつて來たのです。
「おや、錢形の親分、どうして斯んなに早く」
驚きながらもイソイソと迎へたのは利三郎でした。
「一度あることは二度あると見て、手代の源七に頼んで置いたのだ。
さう言ひながら、平次は八五郎と共に、風呂場からお勝手へ、居間へ奧座敷へと念入りに調べて行きます。
風呂場の外で見付けたのは、利三郎が見付けた脇差の
「何時でも使へるやうに用意してあつたんですね、親分」
「その通りだよ――おや、おや、この足跡は?」
平次は奧座敷から風呂場に續く泥足の跡を指摘しました。
「私でございます。曲者を追つかけて、風呂場から出て、血だらけな脇差を拾つて入つた時、ツイ
利三郎は恐る/\顏を出しました。
「この足跡で見ると、爪先は奧から風呂場の方へ向いて居るが」
「あわてて、あつちへ行つたり、此方へ來たりしましたので、へエ」
「そんな事もあるだらうな。念のため足の裏を見せてくれ――おや、大變綺麗ぢやないか。何? 風呂場で拭いた、――拭いた足からあんな泥の跡がつくのか」
「八」
これだけで充分でした。
× × ×
善八を殺し、彌太郎を刺した曲者は、黒船町の利三郎でした。
「少しもわかりませんよ。利三郎は、一度藤屋の主人を助けて置きながら、何んだつて殺す氣になつたんでせう」
事件が落着してから、八五郎は
「最初から利三郎は藤屋の主人を殺す氣だつたのさ。夜な/\物置に忍び込んで棺に穴をあけ、その穴を
「へエ」
「で、一度はわざと彌太郎を助けて命の恩人になつた。さうして置けばこの次に、本當に彌太郎を殺しても、自分へは疑ひは來ないと見たのだよ」
「
「その通りだ。幇間の善八は飛んだ貧乏
「
「あれはうまい手品だつたよ、――棺の中からうめき聲が聞えて、サツと壇の白絹に血が流れた、三百人の眼が其處に吸ひ付いて居る時、利三郎は鯨幕の下を潜つて、棺に飛び付く人達の中に交つたのだ。幕の後ろに居た筈の利三郎が、眞つ先に居たのも變だと思つたが、それより殺されたのが善八と知つて居る利三郎が、あんまり眞劍に善八を介抱したのが後で考へると變ではなかつたか」
「さう言へばさうですね」
「それは幕の下をくゞる時、壇から流れる血を浴びたので、それを誤魔化すにも、善八を介抱するのが大事な仕事だつたのさ」
「ぢや親分は、何時から利三郎が怪しいと思つたんで?」
「利三郎が最初――棺の後ろから、チラリと壇の
「え、え」
「ところが、その穴のことを、主人の彌太郎も善八も知らなかつたらしいのだ。穴は埋木で
「成程ね」
「下手人は主人の彌太郎と伜の彌吉と、お吉と、番頭と、それから利三郎の外にはない。二度目に主人を
「へエ、行屆いた野郎ですね」
「それから彌太郎を狙ふのに、一々刄物を持つて歩くわけに行かないから、風呂場の窓の上に脇差を隱し、中味だけ引つこ拔いて窓から突いたのだらう」
「ところで、何んだつて利三郎は藤屋の主人を殺す氣になつたんでせう」
八五郎の問ひは
「十年前に自分の店の株を買つた藤屋の、近頃の繁昌が
「ケチな野郎ですね」
「外にもあるよ。あんまり藤屋から恩を
「へエ」
「戀の怨みは怖いな。八、お前も氣をつけろ」
「へツ、冗談で――ところでもう一つ、親分へ變な手紙をよこしたのは誰です」
「利三郎だよ」
「へエ?」
「惡智慧に
「驚いた野郎ですね」
「棺の中でうめき聲がして、敷いた白い布がサツと赤くなつて、皆んなそれに氣を取られて居る時、そつと
「へエ」
「だが、
平次はそんな事を言つて相變らず貧乏臭い粉煙草をせゝるのでした。