錢形平次捕物控

鬼の面

野村胡堂





「親分、良い新造しんざうが來たでせう。かう小股こまたのきれ上がつた、色白で、ポチヤポチヤした」
「馬鹿野郎」
 錢形平次は思はず一かつを食はせました。上がりかまちから這ひ込むやうに、まだ朝の膳も片付かない茶の間を覗きながら八五郎は途方もないことを訊くのです。
「でも、あんな可愛らしいのはちよいと神田中にもありませんよ、あつしが知らないくらゐだから。餘つ程遠くから來たに違げえねえと思ふんだが――」
あきれた野郎だ。いきなり人の家へ飛び込んで來やがつて、お早うとも言はずに――尤も凄いか可愛いか知らないが、女が一人來るのは來たがね」
「それで路地を飛び出した樣子が、ひどくあわててゐたから、親分のところへ來て、うんとおどかされたこととは思つたが――」
「待つてくれ。脅かしもどうもしないよ、姫糊ひめのりを三文ほど買つただけなんだが――ありやお前、七八年前に還暦くわんれきが過ぎた筈だぜ」
「誰です、それは」
「この邊をちよい/\歩く糊賣の婆アだよ」
「嫌になるなア、あつしの言ふのは、十八九の、ポチヤポチヤした」
「わかつたよ、色白で小股こまたのきれ上がつた――といふんだらう」
 親分、子分の話は、何處まで行つても果てしがありません。
「その人なら、お勝口へ[#「お勝口へ」はママ]來ましたよ」
 隣りの部屋からこたへたのは、平次の女房のお靜でした。
「何んだ、お前が承知してゐたのか。それならそれと早く言へばよいのに」
「でも、何んにも言はずに歸つてしまつたんですもの。私はびつくりして追つ掛けて見ましたが、八五郎さんが向うから路地へ入つて來るのが見えたんで、あわてて戻つてしまひました。私まだ、變な恰好かつかうをしてゐるでせう」
 朝の支度がおくれて、お靜はまだ髮も直さず、帶もよくは締めてはゐなかつたのです。
「仕樣がねえなア――本當に何んにも言はなかつたのか」
 平次は大きな舌打ちをしましたが、帶ひろどいて、若い娘を追つ掛けなかつたお靜のたしなみまでは小言も言へません。
「人の影が射したんで、覗いて見ると、戸袋のかげにしよんぼり立つてゐるんです。八さんの言ふ通り、それは可愛い娘でした。何んか御用? と訊くと、アノー、アノーとくり返して言ふだけ」
「で?」
「水下駄を突つかけて側へ行かうとするといきなり逃げ出すんですもの、私はもう」
 お靜はやるせなく胸を抱くのです。
「八の岡惚をかぼれの人別帳になくたつて、それだけのきりやうなら、又めぐり逢はないものでもあるまいよ」
 平次も苦笑ひをする外はありません。
 困り拔いたことがあつて、若い娘が江戸一番の御用聞、錢形平次の智慧を借りに來たが、いざとなると言ひそびれるか脅えるかして、あわてて逃げ出してしまつた例は、今までの經驗でも、二度や三度ではありません。
 それを自分の手落ちにして、ひどくしをれてゐるお靜や、岡惚れ帳に書き入れ損ねて、がつかりしてゐる八五郎の顏を見ると、平次は齒痒はがゆく馬鹿々々しく、そして腹立たしくさへ感ずるのでした。


 この小事件は、やがて思ひも寄らぬ大事件に結びつき、八五郎の形容したアノー姫が平次の前へ、大きくクローズアツプされる日が來ました。それから四、五日。
 五月二十八日は兩國の川開き、この日から始まつて八月二十八日まで、兩國橋を中心に、大川の水の上が、江戸の歡樂の中心になるのです。
 わけても五月二十八日の夜は、涼み船は川を埋め、兩岸には涼みの棧敷さじきつらね、歌と酒と、男と女と、歡呼と鳴物との渦卷く頭上に、江戸中の船宿茶店その他盛り場の寄進による大花火が、夜半近くまでも、ひつきりなしにうるしの夜空に炸裂さくれつして、江戸の闇に豪華極まる火の藝術をちりばめるのでした。
 橋の上を行くのは貧しい人、上見て通れといましめた橋間はしま船の贅澤ぜいたくさは、眼を驚かすものがあつたのは當然として、それにおとらず兩岸の棧敷、涼みやぐらは、水面を壓する舷歌げんかと、嬌聲と、酒池肉林の狂態をきそひました。
 わけても平右衞門町の佐渡屋――金のる木を植ゑたと言はれる兩替屋の裏座敷には、二階から塀を越して、高々と水に張出した櫓をけ、女主人お兼を中心に、店の者一統、出入りの衆、町内の誰彼れ、山の手の親類まで、ざつと四十人あまり、鬼灯提灯ほゝづきちやうちんをかけ連ねた下に、この世の終る日までも續きさうな、底拔けの狂態が展開されて居りました。
 水の上の使用は、今も昔も、やかましく取締られたのですが、でも、川面かはもを通る船に支障がなければ、大概たいがいのことは大眼に見られ、佐渡屋の裏の水面に乘出した危ないやぐらもこの夜の興を添へる、一つの企畫きくわくとして、面白がられ、はやされ、うらやましがられて居たのです。
 戌刻半いつつはん(九時)過ぎになると、興はまさにたけなはでした。土地の藝子が三人、恐ろしくブロークンな調子で三味線を掻き鳴らしながら、酒のために旋律を失つた歌をわめくと、それに合せて、大入道の太鼓持たいこもちが滅茶々々に踊りまくつてゐる眞最中、
「わーツ」
 この人數を載せたまゝ、涼み櫓の半分が夜の眞黒な水の中へ、グワラグワラグワラと崩れ落ちたのです。
 川一パイの涼み船は、この恐ろしい事實を眺めながら、それも仕掛け花火の一とこまのやうな錯覺さくかくを起して、暫らくは茫然として居りました。おびたゞしい提灯と燭臺が、人雪崩なだれと一緒に二十尺も下の水に落ちる有樣は、まことに壯觀と言つてもよい程だつたのです。
「それツ」
「助けてやれ」
 近くの船は、一瞬の後には、佐渡屋の櫓の下に集まります。
 錢形平次と八五郎は、この晩、町方の警邏けいらの船に乘つて、兩國の橋間を縫つて居りましたが、佐渡屋の涼み櫓が、水の中へ落ちると見るや、群がる涼み船を掻きわけて、からくも現場にぎ寄せ、遲れ馳せながらも二三人は水の中から引きあげてやりました。
 暫らくは恐ろしい混亂が續き、花火の打揚げも中止されましたが、佐渡屋の裏木戸を開けて、狹い庭へ濡れたの、濡れないの、半死半生の、いろ/\掻き集めて勘定して見ると、櫓の上から水に落ちたのは、端つこの方にゐた女主人のお兼を始めとして十三人、あとの三十人あまりは、崩れ殘つた櫓の部分にゐたのと、柱や横木につかまつて難をまぬかれ、落ちた十三人のうち、ひどく水を呑んだのは六人、そのうち半死半生の目にあつたのは三人、そして行方不明ゆくへふめいになつたのが二人もあります。
 行方不明になつたのは、先づ死んだものと思はなければならず、それは佐渡屋の家の者では、小僧の倉松がたゞ一人、外に若い藝子が一人、この死骸は翌る日になつて永代近くからあがりました。
 半死半生なのは、佐渡屋の妹娘のおのぶといふ十四になるのと、手代の直次郎とおひの與之助の三人、女主人のお兼は、すぐ助けられて大したこともなく、娘のお絹はくひか何んかで肩を打ちましたが、これも先づ怪我といふ程ではありません。
「錢形の親分さん、あつしはこの涼みやぐらを拵へた藤次郎といふものですが、三十人や五十人の人間が乘つたくらゐのことぢや、ビクともする筈はありません。念のために落ちた櫓を見ると、腑に落ちないことばかりです。明日になつて、樣子が變つちやいけません。今のうちに、親分の眼で見て置いて下さいませんか」
 五十男――正直で頑固ぐわんこらしいのが、平次の袖を引くのです。
「それは良いことに氣がついた。八、提灯を持つて來てくれ」
 平次はこの藤次郎と名乘る男に案内させて半分くづれ殘る足場に、危ふく昇つて行きました。
「こいつが獨りで落ちたとなると、こしらへたあつしがお店への申譯に、腹でもきらなきやなりません。ところが、やぐらの床や手摺てすりを止めてある大事な繩が、間違ひもなく刄物できられてあるぢやありませんか。ね、親分、この通り」
 藤次郎は八五郎の手から提灯を借りて、急所々々を照して見せるのです。
 半分落ち殘つた棧敷さじきを渡つて、柱や棟木に殘る、繩の切口を見るのは、高いところに馴れない平次や八五郎に取つて、それは容易ならぬ仕事でしたが、それでも鳶頭かしらの藤次郎の説明で、十數ヶ所の繩に、少しづつでも、刄物を入れてあつたことだけは確かにわかりました。
「最初からこの繩をきつて置いたのかな」
 平次は訊きました。
「最初から繩をきつちや、十人と登らないうちに落ちてしまひます。多分最初は急所々々の結び目十ヶ所くらゐへ、チヨイチヨイ刄物を入れて置き、潮時を見て、川へ乘出した一番端つこの、大事な繩を二三ヶ所きつたのでせう――四十何人と乘つてゐるんだから、これは一とたまりもありませんや」
 藤次郎は、そのやり方のずるさに、齒ぎしりするほど腹が立つ樣子です。
「憎い野郎ですね、親分。そんな惡戯わるさをして、若い者を二人まで殺しやがつて――」
 八五郎は義憤にあふられて危ない足場の上で身體をゆさぶります。
「危ないよ、八。俺達まで川へ落ちたところで、物笑ひになるだけだ――尤も、俺も地圖太ぢだんだ踏みたいほど腹を立ててゐるよ。誰が死ぬかわからないやうな恐ろしい仕掛けをして、四十何人の人間を水の中へ落さうといふのは鬼のやうな量見だ」
 平次もひどく興奮して居りました。誰が犧牲者になるかわからないやうな殺人計畫は、その目的は何んであらうと、全く許し難いやうな氣がするのです。


 家の中は、大變な騷ぎでしたが、どうにかかうにか、歸す人は歸し、休ませるものは休ませ、一段落になつたところで、平次は番頭の彌八に引逢はされました。
 四十前後の平凡そのものと言つた男、少し青瓢箪あをべうたんで、口が重くて、一向に話のらちはあきませんが、さすがに大家を支配してゐるだけに、何處かに確りしたところはありさうです。
「大變なことだつたな、番頭さん」
「へエ、飛んだことになりまして、誠に相濟みません。災難には違ひありませんが、何んとお詫びを申上げてよいやら」
 などとモゾモゾしてゐる人間です。尤もこの騷ぎの中に處して、たくみに手順をつけて行くのは養子の品吉でした。
 名前は妙に優しく聞えますが、背が低くて、横幅が廣くて、顏は? ――平次も八五郎もこの男の人相には壓倒されました。先刻から奉公人達や近所の衆が『鬼のめん』『鬼の面』と言つてゐたのは、間違ひもなくこの男のあだ名だつたのです。
 お能の面に『※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)べしみ』といふのがあります。眼をクワツと見開いて、鼻も口も大きく、眉は釣り、顎は張つて、精力と野性と、暴虐ばうぎやくとを象徴しやうちようしたやうな、それは恐るべきマスクですが、養子の品吉の顏は、まさにこの『※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)べしみ』の面そつくりだつたのです。
「あれは?」
 平次はその後ろ姿を指さしました。
「養子の品吉さんでございます」
「縁邊の者とか、當家に義理のあるあひだとか?」
 あまりに怪奇な養子の顏に、平次もフトそんな引つ掛りでも――と考へたのです。
「いえ、先代の主人が見込んで、養子に迎へましたが、お孃さんが若いので、まだ婚禮はして居りません」
「年は?」
「二十四になります」
「大層働き者らしいな」
「へエ、それはもう」
 番頭の口邊には、ほのかに微笑が浮んだふうでした。
「ところで、番頭さんはあの騷ぎの時何處にゐたんだ」
「家の中に居りました」
「あの時家の中にゐたのは番頭さんだけか」
「いえ、下女のお六も居りましたやうで」
 これ以上は、この鈍重どんちような男の口から、手掛りを引出せさうもありません。
「親分、あれを」
 不意に八五郎は平次の袖を引きました。
「何んだえ」
「あの娘ですよ。この間明神下の親分のお勝手口から姿を隱したのは」
 娘は噂されてゐるのを知つてか、知らいでか、お茶と煙草盆たばこぼんを二三度に運んで來てチヨロチヨロとお勝手の方へ姿を隱すのです。八五郎が形容したやうに、色白でポチヤポチヤして、立居振舞の美しい、如何にもあざやかな感じのする娘ですが、いつぞや明神下までわざ/\平次を訪ねたにもかゝはらず冷たい程に取りすまして、顏も擧げず、表情もほぐさず、用事だけを足すと、あとはもう出て來る樣子もありません。
「番頭さん、あの娘は?」
「親類から預つて居ります。お夏と申しますが、年は十九のやくで」
「大層なきりやうぢやないか」
「へ、世間ではよくさう仰しやいますが」
「ちよいと、あの娘に訊きたいことがある。呼んでくれないか」
「へえ」
 番頭の彌八が立去ると、間もなく先刻の娘は唐紙をそつと開けて、滑るやうにフハリと入つて來ました。八五郎がどんなにでつかい鼻をクンクンさせたところで、裾風すそかぜ一つ立てるやうな不たしなみな立居はしません。
「お前は先刻何處にゐたんだ」
 平次の問ひは殘酷なほど露骨でした。
「後ろの方に居りました。棧敷さじきが落ちた時も、少し前へのめつただけで」
 娘はさう言つて靜かに顏をあげます。ニコリともしませんが、いかにも非凡な可愛らしさです。
「お前は四五日前、明神下の俺の家へ來たさうだな」
「――」
「お勝手から歸つたのは、あれはどういふわけだ」
「――」
「どんな用事があつたのだ」
 平次は少し疊みかけました。が、
「私は、あの私は、參りません」
 お夏は眞直に顏を擧げて、かうキツパリと言ひきるのです。


 女主人のお兼は、少し水を呑んで胸が惡いといふだけ、元氣よく怒鳴り散らして居ります。四十二三の立派な内儀おかみですが、夫に死なれてからは、奉公人を引廻して佐渡屋の身上しんしやうまもり通してゐるので、何んとなく氣性は男性化して、近づき難いものを感じさせるのでした。
「親分、御苦勞樣。小僧の倉松と藝子が一人見つからないさうですが――でもこれだけで濟んだのは、皆さんのお蔭でした」
 さう言つて、さすがに眼を伏せるのです。
「飛んだ災難――と言ひたいが、實は内儀さん、あのやぐらは落ちるやうに、繩をきつて置いたものがあると聽いたら、驚くだらう」
「親分、おどかさないで下さいよ。そんな馬鹿なことが――」
 氣丈らしい内儀も、あまりのことに固唾かたづを呑むのです。
鳶頭かしらの藤次郎にさう言はれて、この眼できられた繩を見て來たが――」
「まア、そんなことが」
「誰が一體、佐渡屋の者を皆殺しにしようとたくらんだのでせう。ね、内儀おかみさん」
 平次はグイグイと突つ込むのです。
「そんな者があるわけはないぢやありませんか。人を怨むにしても、程があるのに」
「その通り、人を怨むにも程がある。四十人も水の中へ落して、誰が死ぬかわからないやうな細工をするのは、あんまり無法で勘辨ならないぢやありませんか」
「親分、是非それを見付けて、磔刑はりつけなり火焙ひあぶりなり、思ひ知らせてやつて下さい」
 お兼は意氣込みます。が、その話は大した參考にはなりません。佐渡屋は兩替淺草組世話役で、身上しんしやうはざつと五萬兩。地所や家作も相當で、それに眼をつける惡者があれば隨分大袈裟げさなこともたくまないとは限りません。
「奉公人達は?」
「皆、信用がおけます。をひの與之助は少し偏屈へんくつですが、無類の正直者で、手代の直次郎は男が好いので、少し浮氣つぽいところがありますが――あ、この二人は川へ落ちて、半死半生の目に逢つた方でした」
「養子の品吉は?」
「私の配偶つれあひのめがねで、養子にはしましたが、あの通りの顏立ちですから」
 お兼は年を取つてもさすがに女でした。みにくい男に對しては、人柄や腕はどうあらうと、一應は反感を持つ樣子です。
「お夏とか言つた、あの娘は」
「あれは良い娘ですが、少し氣の知れないところがあつて」
 これもまた、全面的には、女主人に好まれてゐない樣子でした。
「親分、大變なものを見つけましたよ」
 八五郎でした。暫らく姿を見せないと思ふうちに、何處で何をしてゐたか、縁側から怒鳴るのです。
「何んだえ、相變らず騷々しいな」
棧敷さじきの下で剃刀かみそりを見つけたんですよ。松の枝か何んかに引つ掛つてゐた樣子で、裏木戸を開けると、頭の上からバタリと落ちたんです」
「どれ/\」
 手に取つて見ると、とうを卷いた古い剃刀で、みねが殆んどなくなるほどらしてありますが、その代り使ひ込んだ品で、きれ味は非凡らしく見えます。
「これは、誰の道具でせう」
 平次は改めてその剃刀を女主人に見せました。
「品吉の剃刀ですよ。あの人はひげこはいから、外の剃刀ではいけないんだと言つてゐましたが」
「――」
「呼びませうか?」
「いや、あつしが參ります」
 平次は起つて、店の方へ――。
 廊下の暗がりで、ハタと逢つたのは、十七八のこれもまた美しい娘でした。後で佐渡屋の總領娘で、品吉と娶合めあはせることになつてゐるお絹とわかりましたが、平次と母親の話を、何にか氣になる節があつて、娘だてらに盜み聽きしてゐた樣子でした。
 平次の顏を見ると、ハツと立ちすくみましたが、やがて女でなければ用意しない、不思議なさり氣ない態度で、摺り拔けるやうにバタバタと母親の部屋へ驅け込んでしまひました。
「八、もう一人岡惚れの人別帳に書き入れが増えたらう」
「驚いたね、どうも。色は淺黒いがキリリとした良い娘ですね、あんなに綺麗なのが揃つてゐちや、涼みやぐらぐらゐが落ちても不思議はなくなりますよ。もう二三人死ななきやよいが――」
 八五郎の不作法な冗談が、不思議なしんをなして、佐渡屋にかゝるのろひは、これがほんの發端だつたのです。


 四十何人の者を、無差別に大川の水に陷ち込ませようとした、恐ろしい曲者、その思ひやりのない、鬼畜の殘虐性ざんぎやくせいが、ひどく平次の怒りをかき立てたのです。
「死んだのは小僧一人に藝子一人だ。曲者がねらつたのは、まさかそんな相手ぢやあるめえ。此處でその手を封じて置かなきや、この先何をやり出すかわからない畜生だ」
 平次が日頃になく躍起やくきとなつたのは、この先また、無差別な犧牲者を出すことを恐れたのです。
「で、見當でもついたんですか、親分」
 八五郎はたもとの中の捕繩をまさぐりながら、聲を掛けさへすれば、眞つすぐに飛び込みさうにして居ります。
「一向見當がつかないからしやくぢやないか、恐ろしい相手だ」
「どんなことをやらかしやいゝんで?」
「お前はあの時棧敷さじきの上にゐた人間に逢つて、一人々々、自分の隣りに誰が坐つてゐたか、それを聽いてくれ。前と後ろと、右と左と念入りに訊ねて、ざつと繪圖を揃へて見るんだ。一人で手が廻らなかつたら、手傳ひに來てゐる下つ引を二、三人狩り出すがよい」
「それをどうするんです」
 平次の企畫の馬鹿々々しさに、八五郎は眼を丸くしました。
なはを誰がきつたか、そんなことでもやつて見たらわかるだらうといふ思ひつきさ」
「やつて見ませう」
「ちよいと待つてくれ、八。この剃刀かみそりは松の枝に引掛つてゐたと言つたな」
 平次はほつ立て尻になる八五郎を呼び留めました。
「へえ、驚きましたよ。そいつが頭の上に落ちた時は、もう少しで鼻の頭をがれるところでしたよ」
「水際から何間くらゐ離れてゐた」
「一間そこ/\でせうね。潜戸くゞりどの内だから」
「すると、落ちた櫓の尖端とつさきからは、二三間は離れてゐたわけだな」
「そんなことになるでせうね」
 繩をきつて水に落したのは、剃刀の引つ掛つてゐた松の枝から、二間も離れてゐるといふことに、何やら重大ななぞが潜んでゐさうです。
 八五郎と別れた平次は、店にゐる養子の品吉を、隣りの小部屋にさそひ入れ、近々とひざを突き合せて、折入つた調子で始めました。
「さて、これだけの騷ぎは、はずみやあやまちで起つたわけぢやない」
「――」
 品吉は少しばかりけゞんな顏になつて、ヂツと平次の口許を見つめます。『鬼の面』とはまことによく言つた形容で、このたくましい惡相と言つてもよいほどの、大きな道具から發散する、精力的なものを浴びせられると、平次ほどの者も、いさゝかたじろがないわけには行きません。
 あぶらぎつたセピア色の皮膚、大きいギラギラする眼、どつしりと胡坐あぐらをかいた鼻、への字に結んだ唇、それはまさに繪に描いた怪物の相好です。
「ところが、よく調べて見ると、あの水の上に突き出した棧敷さじき尖端とつさきの方の繩が、十ヶ所ばかりきつてあつたのだ」
「矢張りさうでしたか、私もそんなことではないかと思ひましたよ。鳶頭かしらの藤次郎は念入りな男で、ヤハな仕事をする人間ぢやございません」
 品吉の表情は一しゆん激しく動きましたが、やがてもとの靜けさに還つて、かう言ひきるのでした。
「その繩をきつたのは、この剃刀かみそりだが――」
 平次は懷ろ紙の間に狹んであつた剃刀を、品吉の前に突き出しました。
「それは私の剃刀ですが、何處にありました?」
 品吉はさすがにギヨツとした樣子です。
「庭の松の枝に引掛つてゐたといふよ。八五郎の頭の上へ落ちて來て、危なくあの長いあごがれるところさ」
 平次はこんな緊張時にも、つまらぬ作を入れて、一人ニヤリとするのです。
「危ないことで」
 品吉は世間並に挨拶をしましたが、餘程驚いてゐる樣子は隱せません。
「この剃刀がお前のだとなると、厄介なことになるが」
 平次は氣を引いて見ます。
「飛んでもない、私がそんなことをするわけはございません。若し私がやつたものなら、自分の剃刀を使ふ筈もなく、その大事な證據を、その場へ捨てて來るやうな馬鹿なことはしないと思ひますが」
「物事には表と裏とあり、逆手ぎやくてといふこともあるぜ」
 平次の調子は意地惡くさへ聽えますが、それは品吉のしたゝかさと、その行屆き過ぎる智慧に對する反撥でもあつたのです。
「でも、親分。私はこの通りのひどい髯武者ひげむしやで、毎日のやうに當つて置かないと、大變な顏になります。その上恐ろしくこはい毛で、並大抵の剃刀ぢや痛くてかなひません。その剃刀はわざ/\打たせた品で、私に取つては、お武家の腰の物と同樣、掛け替のない大事な品でございます。それを持ち出して繩などをきつて、そのまゝ棄ててよいものでせうか」
 品吉は一生懸命の智慧を振り絞るのでした。


 平次は刷毛序はけついでに家中の者皆んなに、一とわたり會つて置く氣になりました。
 二番目娘のお信は散々水を呑んだらしく、町内の本道(内科醫)と母親と、姉のお絹の介抱を受けて、まだ起き上がる力もなく、床の上でうなつて居ります。
 子供らしさの拔けきれない十四の娘には、恩も怨みもある筈はなく、
「この娘は手摺てすりにもたれて、死んだ倉松と一緒に、ふざけながら花火を見てゐたさうです。するとあの騷ぎで、一たん水の中に沈んだのを、近所の涼み船の船頭衆が助けてくれたさうで」
 と母親が代つて説明するのを、うなづきながら聽いてゐるだけでした。
「その時、棧敷さじきの上を、人を掻きわけて、あちこちと歩いてゐた者はなかつたのか」
 平次は問ひました。十數ヶ所の繩をきるためには、一ヶ所に留まつては居られないわけです。
「お夏は、おしやくをしながら、あちこちと歩いてゐました。それから、直次郎と品吉は、お茶やお菓子やお料理を配つて、最初から坐るひまもなかつたやうです」
「與之助は?」
「あれは變りもので、旦那衆のやうな心持でゐたんです。酒の酌や、御馳走の世話や、お客樣への愛想あいその出來る人ではございません」
「内儀さんは?」
「私はお信の後ろに居りました。その少し後ろにお絹がゐたやうで大きな花火が揚がつて、皆んな夢中になつて上を見あげた時、やぐらはメリ込むやうに水の中へ落ちました」
「お孃さんの怪我は?」
「怪我といふほどのことではなかつたやうで、あつと思つた時はもう手摺てすりにつかまつてゐて、水には落ちなかつたさうです。肩を何んかのはずみに打つただけで――親分に見て頂くがよい。少し黒血が溜つてゐましたが」
 母親にこんなことを言はれると、お絹は驚いてその後ろに姿を隱しました。この名ある御用聞から、はだを脱いで見せろ――とでも言はれたらどうしよう、と言つた處女らしい恐怖に、思はず尻ごみをしたのです。
 お絹は始終うつ向いて、默り込んで居りますが、それは町娘らしい、おきやんと柔順さと、賢こさと無智と、矛盾した性格をたくみにあしらつた、まことに愛すべき存在らしく見えました。色の少し淺黒いのも、この娘に取つては清潔らしく、第一眼鼻立ちの不揃ひな魅力みりよくは、江戸の下町でなければ、日本中何處へ行つても見られない型です。
 平次はそこをよい加減にきりあげて、店の二階の奉公人達の部屋に寢てゐる、をひの與之助と手代の直次郎を見舞ひました。
「あ、錢形の親分さん、相濟みません。こんなところへ、私はもう大丈夫なんで――」
 さう言つて起き上がつたのは、手代の直次郎でした。それは二十七八の好い男で、出ししやくれた生白い顏も、男にしてはニヤケ過ぎますが、その代りお世辭がよくて、商賣上手で、佐渡屋の先代から重寶ちようはうがられた存在です。
「水をひどく呑んだやうに聞いたが」
「呑みましたよ。大川の水なんてものは、あまり結構なもんぢやありませんね、――徳利とつくりを持つて、お酒を注ぎ廻つてゐると、急にグワラグワラと來たでせう。私は又、大地震が始まつたのかと思ひましたよ」
「ところで、與之助は?」
「御免下さい。まだ變な心持で」
 これは横になつたまゝ、少しあをい顏を振り向けます。モーシヨンがにぶくて、おつくふさうで、誰にでも、敵意と反感を持つてゐるやうな三十男ですが、こんなのが案外正直者かもわかりません。
 錢形平次も、これが精一杯の調べでした。これ以上の細かいことは、少し息を拔いて、八方から情報を集める外はなかつたのです。


 それから三日目。
 八五郎が持つて來た、その晩の棧敷さじきの上の人間配置圖は、平次に取つてはなか/\面白いものでした。
「人間といふものは、不思議なものですね」
 そのお團子を並べたやうに四十餘りの丸を書いて、それに八五郎一流のまづい假名文字で、克明こくめいに名前を書き入れたのを見せながら、大して極り惡がりもせずに、八五郎はかういふのです。
「道話の先生のやうなことを言ふぢやないか、何が一體不思議なんだ、――鼻の下に口のあるのが不思議でならねえなんて無駄は御免だよ」
 平次は落着き拂つて、その丸々の配置を研究して居ります。
「あの騷ぎの後で自分の傍にすわつてゐた人間の名前を思ひ出せねえといふのは、隨分間拔けな話ぢやありませんか。四十何人は皆んな親類縁者と町内の衆で、顏を知らないのは一人もゐなかつた筈ですよ」
「そんなものかも知れないよ。でも、それだけわかつて居れば結構さ。棧敷の前の兩端は、與之助に死んだ小僧の倉松か、その間はお信と近所の若い者、後ろは母親とお絹、それに藝子が二人、品吉と直次郎とお夏は席がなくて、あちこち泳いでゐる――」
「その後ろは」
「その後ろは知らない人間ばかりだ。近所の衆などは先づ詮索せんさくするまでもないとして――」
「すると、下手人げしゆにんはその内にあるわけですね」
「此處には顏を出してゐないが、番頭の彌八だつて、怪しくないとは言へないよ。繩は前からきつて置いたかも知れず、あの番頭はヌラリ、クラリとして喰へないところがあるから、何を狙つてゐるか、一寸氣の知れないところがあるだらう」
「それぢや、これから飛んで行つて」
「擧げて來ようといふのか、そいつは止してくれ。怪しいのを一々縛つちや際限もないことだ。それより番頭の彌八と、養子の品吉と、をひの與之助と、手代の直次郎の金の費ひツ振りでも調べて見るんだな」
「それならわかつてますよ」
「どうわかつてゐるんだ」
「彌八は少しくらゐは溜めてゐるし、手代直次郎は、男つ振りが好いから、あちこちでチヤホヤされて借金だらけ。與之助は一番正直さうな顏をしてゐるが、全く氣の知れない人間で、品吉と來たら、日本一の堅造ですよ」
「お前は片付けるのが早い、物事はさう手取早くキメつけちやいけないよ。一番太い奴は、一番正直さうな頭をするものだ」
「へエ」
「オヤ、誰か來た樣子ぢやないか、路地の中へ驅け込んで格子かうしにつかまつて、フウフウ言つてゐるが――」
「――」
 目配せ一つで、八五郎はバネ仕掛けのやうに飛び上がりました。障子をサツと開けると、
「お助け――私、私は、もう」
 上がりかまちに奧へのめるやうに轉げ込んだのは、馥郁ふくいくたる若い娘。それは佐渡屋のかゝうど、色白で可愛らしい――その癖、先の日、平次の周到な調べに逢つても、少しも冷たさを緩和しなかつた、あのお夏の取亂した姿だつたのです。
「どうした、佐渡屋に變つたことでもあつたのか」
 平次も思はず腰を浮かせました。お夏の樣子は、それほど突き詰めた、物々しいものだつたのです。
「皆んな殺されるかも知れません」
「何?」
今朝けさの味噌汁に、毒が入つてゐました」
「やられたのは?」
「私とお六さんは、お勝手をしてゐたので、助かりました。直次郎さんは帳場が忙しくて、朝飯がおくれたので助かりましたが――」
「あとは――」
内儀おかみさんとお絹さんが一番ひどく、今頃は死んだかも知れません。男達は早く氣のついたせゐか、みんな大したこともなかつた樣子です」
「他に使ひの者もあつたことだらうが、お前が此處へ來たのは?」
 平次はそれが不思議でならなかつたのです。十九の娘が、髮を振り亂し、すねもあらはに、紅のもすそを踏みしだいて、江戸の町を驅けて來るといふのは物好きや芝居氣では出來ないことです。
「私は縛られさうだつたんです。石原の利助親分のところの子分衆が多勢乘り込んで來て、毒を呑まない私と直次郎さんが怪しいと、蔭でさゝやき合つてるのを聽いて、驚いて飛び出しました。親分さん、お助けを願ひます」
 お夏は日頃の冷たさをかなぐり棄てて、平次の膝にすがりつきさうにするのです。恐らくお靜がお勝手から氣を揉んで顏を出さなかつたら、お夏はさうしたかもわからない程夢中になつて居りました。
 平次の女房のお靜は、この綺麗な娘の顏を、遠くの方から覗いて居りましたが、思はず、
「あ、この人ですよ。この間お勝手口まで來て、逃げてしまつたのは」
 と平次の後ろから囁くのでした。
「よし/\、解つてゐる。お前は彼方あつちへ行け、女が來ると話がこんがらかる」
「――」
 お靜は自分のはしたない態度にハツと氣がついた樣子で、逃げるやうに隣りの部屋に姿を隱してしまひました。


「お夏さん、佐渡屋へ乘り込んで行つて、次第に寄つてはお前を助けてやらないものでもないが、その前に一つ、この間此處のお勝手口をのぞいて、逃げて行つたのはどういふわけか、それを聽かしてくれないか」
「――」
 お夏は顏を擧げました。根のゆるんだ髮が首筋に冠さつて、びんのほつれが、白い頬を惱ましくなぶるのです。
「それを、お前に訊くと――私は行つた覺えはないと言つた筈だ」
「濟みません、親分。私は怖かつたんです」
「怖いだけか」
「え、――私は二人の人が、相談してゐるのを聽きました。納戸なんどの側の暗がりで、佐渡屋の血筋を絶やさなきや、腹の虫がえない――と言つた恐ろしい話を」
「誰がそんなことを言つたのだ」
「誰が言つたか、少しもわかりません」
「男か、女か」
「それも解らなかつたんです、――顏だけでも見て置けばよいのを、私はあんまり怖くなつて、逃げてしまひました。萬一見つけられでもしたら、私が第一番に殺されるやうな氣がしたんです」
「それで?」
「私は此處まで飛んで來ました。でもいざとなると、親分に會つて、夢のやうな話をしたばかりに、後でどんなたゝりが來るか。それが怖くなつて、お内儀さんの姿が見えなくなると、直ぐ逃げ出してしまひました」
 お夏は惱ましさうでした。が、その言葉には妙に眞劍味がこもります。
「後で知らないと言つたのは?」
「あの家は、何處の壁にも耳があります。うつかりしたことを言ふと、それを聽かれて、どんな目に逢はされるかもわかりません」
 さう言ひながらも、あの冷靜そのもののやうなお夏が、恐怖やら緊張やらにふるへてゐるのでした。
「さア、出かけよう――と言つたところで、そのなりぢや町は歩けまい。お靜」
 平次は女房を呼んで、お夏の髮形から、身扮みなりまで、ザツと直させながら、何やら深々と考へてゐました。
 明神下から平右衞門町まで、女の足では急いで四半刻はかゝります。その間平次と八五郎は、お夏を中に挾んで、何くれとなく話を手繰り出しました。
「いろ/\訊きたいが、今度は隱さずに話してくれるだらうな」
「えゝ」
「例へば、お前の身許だ。佐渡屋とはどんな係り合ひになつてゐるんだ」
「私は先々代のめひの子になります」
「大分遠いな」
十歳とをの時孤兒みなしごになつて引取られ、掛り人とも、奉公人ともなく育てられて居ります」
 そんな遠い血のつながりでは、先づお夏には佐渡屋の身上しんしやうを狙ふ野心はあり得ないと思つても差支へないでせう。
「與之助は?」
「あの人は内儀おかみさんの遠縁の者で」
「直次郎と品吉は血のつながりはないと言つたな――ところで、娘のお絹さんは、養子の品吉と一緒になるのを、嫌がつてゐるやうなことはないのか」
「あんまり氣が進まない樣子です。でも」
「でも?」
「品吉さんは良い人です」
「それぢや、お絹さんに言ひ寄る者でもあるんだらう」
「え、與之助さんも、直次郎どんも」
 お夏はかう言つてほのかに顏を染めました。
「お前にも縁談の口はあることだらうと思ふが――」
「私なんかに、――た親も、家もないやうな」
 お夏は眼を伏せました。長い睫毛まつげが濡れて、粗末な身扮みなりも妙に物哀れです。
「でも、お前のきりやうなら、隨分うるさく言ふ者もあるだらう」
 お夏は默つてしまひました。後ろにいて來る八五郎は、耳を掘つたり、鼻をかんだりこたへを待ちましたが、それも失望に終りさうです。
「あれ、もう參りました」
 お夏は救はれたやうに顏を擧げました。其處はもうのろはれた佐渡屋の入口で、中では恐ろしい事件が展開してゐたのです。


 佐渡屋は無氣味に鎭まり返つて奉公人達は彼方此方あつちこつちにひと塊りになり、半分は眼顏で話して居りました。
 一歩踏み込んだ平次は、ハツとしたのも無理もありません。線香の匂ひがプーンと、風にはらんで店口に流れるのです。
「あ、錢形の親分」
 飛んで出たのは、石原の利助の子分達でした。由良松ゆらまつ、喜三郎などといふ中でも良い顏です。
「矢張りいけなかつたのか」
「内儀さんが、半ときほど前に息を引取りましたよ、――親分はどうしてそれを?」
 由良松に取つては、内儀が死んだことよりも、明神下の錢形平次が早くも嗅ぎつけて、此處へ現はれたのが不思議でたまらなかつたのです。
「お夏さんが馳けつけてくれて、此處まで引つ張り出されたよ」
「そのお夏は何處にゐます」
「俺と一緒に戻つた筈だが」
「あの阿魔あまだ」
 由良松と喜三郎は、飛び出しさうにするのです。
「待つてくれ。お夏がどうしたといふのだ」
 平次は兎も角もそれを引留めて、話の筋を通させようとするのです。
「今朝の味噌汁に、馬が五六匹殺せる程の石見いはみ銀山が入つてゐましたよ。お勝手をしたのは下女のお六と、あのお夏の二人だが、お六は飯を炊いたり香の物を出したり、味噌汁は覗いても見なかつたさうで――」
「たつたそれだけのことか」
「たつたそれだけで澤山ぢやありませんか。ね、親分」
 氣の早さうな喜三郎は少しおくれるのです。親分の石原の利助の昔の競爭相手で、利助が中風で動けなくなつてから、利助の娘の、出戻りのお品を助けて、ツイ錢形平次が蔭に日向ひなたに力になつてやり、何時とはなしに、石原の子分衆を、自分の子分達のやうに考へるくせがついて居りましたが、由良松や喜三郎にして見れば、それが又幾分の苦々しさでないこともなかつたのです。
「自分の拵へた味噌汁に毒を仕込んで、自分だけめても見ずに、外の者を皆んな殺すといふのは、たくらみが太過ぎてかへつて變ぢやないか。その上、自分の身に疑ひがかゝりさうになつて、あわてて俺のところへ飛び込んで來たのはどういふわけだらう、――俺は餘つ程若い女に甘いとでも思はれるのかな」
 平次は眞劍にそんなことを考へてゐるのでせう。頬を押へた十手の白磨きが、窓から入る青葉の陽に反映して、温かさうに光るのも、妙に惱ましいシーンでした。
「若い女にあめえのはあつしで」
 八五郎は助け舟見たいに、長んがい顎を突き出すのでした。
「それにしても、あの娘には、佐渡屋の家中の者を皆殺しにするわけはないぢやないか」
 先々代のめひの子で、十歳とを孤兒みなしごになつたお夏に、佐渡屋の女主人や娘達、奉公人達まで殺す動機があらうとも思はれません。
「それがあるとしたらどうです。錢形の親分」
 由良松は低い鼻をうごめかします。色白の、柔和な感じの男ですが、石原の子分衆のうちでは、一番よく智慧のまはる三十男です。
「わけがある? あの娘に?」
「あの娘――お夏といふのは、佐渡屋とどんな引つ掛りになつてゐるか、親分は知つてゐなさるでせうね」
「先々代の姪の子で十歳の時この家へ引取られたとか言つたが――」
「十歳の時引取られたのは本當ですが、お夏は先々代の姪の子なんかぢやなくて、あれは三年前に亡くなつた佐渡屋の主人源左衞門のかくだつたと聞いたら、親分はどう思ひます」
 由良松の低い鼻が又うごめきます。
「本當かえ、それは?」
「十年前に佐渡屋源左衞門のめかけだつた母親に死なれたのを、父親の源左衞門は可哀想に思ひ、先々代の姪の子といふことにして自分の家に引取り、内儀おかみのお兼さんにもさう思ひ込ませて十年もの長い間、親類の掛り人で育てたとしたらどうです。お夏は間違ひもなくこの家の娘で、お絹やお信の姉に當るわけぢやありませんか」
 それは思ひも寄らぬ事實でした。平次もまさに、開いた口がふさがらないほどの驚きです。
「それを、誰が話したのだ」
「番頭の彌八ですよ。店中でこの内證事ないしよごとを知つてゐるのは、番頭の彌八と當人のお夏だけ、あとは死んだ内儀を始め誰も知りやしません」
「それをどうして彌八が、今更、打明ける氣になつたのだ」
 平次は彌八に問ひかけるやうな調子で、由良松に問ひ寄るのです。
「そいつを教へてはならない内儀が先刻さつきたうとう息を引取つたからですよ。内儀さんさへ死んでしまへば、隱して置く張合ひもないない[#「張合ひもないない」はママ]やうなわけで――」
「張合ひがない?」
「彌八はそれをネタに、亡くなつた先代の主人源左衞門から、しこたま貰つてゐた樣子です」
 かう聽くと、お夏は妾腹ながら、三人娘の一番の姉で、運よく行けば佐渡屋の跡取りにもなれるわけで、内儀のお兼を始め、二人の異腹の妹を殺す動機は充分にあるわけです。
「でもあの娘は」
 八五郎は長んがいあごを突き出しました。あの色白でポチヤポチヤして、小股こまたの切上がつた娘――その癖妙に冷たいところのある娘が、大量の人殺しなどをくはだてようとは八五郎にはどうしても信じられなかつたのです。


 奧の一と間には、線香の匂ひを棚引たなびかせて、番頭の彌八が妹娘のお信や下女のお六に指圖をしながら、女主人のお兼の新佛姿を調へて居りました。
「飛んだことだな、番頭さん」
 平次が入つて行くと、
「いやもう、お話にもなりません。誰の仕業しわざか知りませんが」
 經机の上を飾りながら、彌八の聲は少し濡れます。
「一體どうしてこんなことになつたんだ」
 平次は佛樣へお線香をあげて、彌八の方に向き直りました。味噌汁に仕込んだ、石見いはみ銀山鼠捕りで死んだ死體を調べるより、くはしく、前後の事情を訊く方が大事だつたのです。
「三度の食事は皆んな一緒に頂くのが佐渡屋の家風で、お勝手の隣りの板の間に、内儀さん始め奉公人まで並んで頂戴いたします。尤も内儀さんやお孃さん方は座布團を敷きますが、私どもは板の間に坐つたまゝで」
「――」
「煙草が過ぎるので、味噌汁のお好きな内儀さんは、二杯も代へて召上がつたやうで、――それがいけなかつたのでございませう。お孃樣のお絹樣も半分くらゐは召上がりましたが、お信樣はお嫌ひで、親御さんにしかられながらも、味噌汁を滅多に召上がらず、私と品吉さんは少し遲れて膳について、ほんの一と口すゝつただけ、それも内儀さんが苦しみ出したので、止してしまひました。與之助どんは少し頂いたやうで、大變な苦しみでしたが、お醫者の手當が間に合つて、これは命拾ひをいたしました。お六はお勝手にゐて無事、お夏さんはお給仕をして居りましたし、直次郎どんは帳場に殘つて何んか仕事をしてゐたさうで、この二人は何んともございません」
 彌八は事細かに報告しますが、これだけでは毒が何處から入つたのか見當もつきません。
「味噌汁はお夏がこさへたといふことだが、拵へてお勝手から運ぶまで、お夏は側を離れなかつたのか」
 平次は下女のお六に訊ねました。
「お勝手は私と二人つきりですから、よく知つて居ります。あの人は味噌汁を拵へて自分で運んで皆さんに上げました。その間一寸も眼を離さなかつた筈ですし、お勝手へ入つて來た人は一人もありません」
 下女のお六の言葉は恐ろしく嚴重で、少しの妥協だけふも許さないものでした。恐らくお六から見れば、お夏は自分同樣の奉公人であるべき筈なのに、遠縁の掛り人といふので、何彼と大事にされるのが、日頃不服だつたことでせう。
 三十二三の、一度や二度は縁づきもしたことのある女、奉公れのしてゐるだけに言ふことは、しつかりしてゐて、決して人に尻尾を掴ませるやうな女ではありません。
「では、念のために、お勝手を見せてくれないか」
「へエ、どうぞ」
 お六は先に立つて、平次と八五郎を案内しました。少し薄暗い造りですが、大きな流しや、荒い格子や、磨き拔かれた釜や鍋や、よくきれさうな庖丁はうちやうなど、典型的な大町人のお勝手で、女主人のやかましさと、下女の働き者らしさがよくわかります。
「此處でかう――」
 とお六は味噌汁を作る手順まで説明してくれました。なべへ水を入れたのも、鰹節かつぶしをかいたのも、汁の實を入れたのも、そして戸棚の味噌の小出しがめから、杓子しやもじで味噌出して、鍋の中に入れたのも、こと/″\くお夏のやつたことに間違ひもなく、毒が本當に味噌汁の中にあつたとすればお夏の手を一度經たことは疑ひもありません。
「その味噌汁の殘りは何處にあるんだ」
 平次に取つてはそれは唯一の手掛りでした。
「石原の子分衆もそれを訊きましたが、皆んなてられたのがお味噌汁とわかると、氣味が惡くてその邊へ置けないぢやありませんか、直ぐどぶへ捨ててしまひましたよ」
「鍋は?」
「ざつと洗つてしまひましたが」
「何んといふことをするのだ」
 平次は地團太を踏みたい心持でしたが、この確り者らしいくせに、そんなことになると、全く想像力を持たない下女を相手に、今更腹を立てたところでどうにもなりません。
「味噌の小出しのかめといふのは」
封印ふういんをして、石原の子分衆が持つて行きましたが、町内のお醫者のところへでも持つて行くやうな話でした」
「それは良かつた」
 平次はせめてもホツとした樣子です。

十一


「親分、大變なことが」
 石原の由良松ゆらまつが顏の色を變へて飛んで來ました。
「どうした、由良松兄哥あにい
「お夏は親分と一緒に此處へ歸つたと言ひましたね」
「一緒に戻つたよ。明神下から、八五郎と三人で話をしながら」
「それが見えないんです」
「何?」
「店先でチラと見たやうですが、それつきり、何處へ行つたか、姿を隱してしまひました」
「姿を隱した?」
「さうとでも思はなきや、表にも裏にも、自分の部屋にもゐませんよ」
「フーム」
 平次はうなりました。それは實に容易ならぬことです。
「あの娘が自分から姿を隱す筈はねえ。誰かに誘拐かどはかされたんぢやないかな」
 八五郎は口を容れました。お夏の――少し冷たくはあるが、あの透き通るやうな綺麗さにせられて、八五郎の眼には江戸の海で取れる白魚ほどのにごりもないやうに思へるのでせう。
「そいつは八方に手を廻して搜さなきや。八、お前も手傳つて、この界隈かいわいの下つ引を精一杯集めるがよい。まだ晝には間があるだらう、この明るい中で、十九の娘がとびにもたかにもさらはれる筈はないぢやないか」
 平次も少し焦立いらだつて居りました。
「それぢや――」
 飛んで行く八五郎の後ろ姿を見送りながら平次は、
「戸棚の味噌のかめを持つて行つたさうだが、あの中に毒があつたのかな」
 さり氣なく由良松に訊ねました。
「味噌の小出しの瓶には、毒はなかつたといひますよ」
 由良松は『それ見たことか』と言ひさうです。瓶の味噌に毒がなければ、矢張りお夏か手から鍋へ入れられたことになるのです。
「有難う、――いよ/\むづかしくなつたが、お夏を搜すのが第一だ。頼むぜ」
 平次は妙に身内の引緊まるやうな心持でした。この無慈悲な大量殺戮さつりく者は、放つて置けば何を仕出かすかわからず、それにあの透き通つた感じのお夏を縛るのは、八五郎の眞似をするわけではないが、平次にも忍びないものがあつたのです。
 お六に訊くと、姉娘のお絹は、今しがたスヤスヤと寢てゐるといふことだし、店二階に休んでゐる與之助もまだ元氣が恢復せず、直次郎は寺へ使ひに行つて、とむらひの打合せをしてゐる處で、まだ歸つて來ず、差當り平次が當つて見るのは、養子の品吉の外にはありません。
「飛んだお手數をかけまして」
 淋しさうに、店番をしてゐる品吉は、平次の姿を見ると、丁寧に挨拶しました。
 二十四とか聞きましたが、それにしてはまた、なんといふ變つた男でせう。※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)べしみめんに似た、荒々しい道具を見ると、この男は熊坂長範ちやうはんの生れ代りで、大量殺人の下手人と聽かされても、誰でもそのまゝ受け容れるでせうが、一度よりは二度、二度よりは三度と接觸してゐるうちに、この惡相と言つてもよい男から、得も言はれない温かさと、爽やかさと、そして氣の置けない心安さを感じさせるのです。『鬼の面』から來るユーモラスな味と、氣の置けない親しさと言つてもよいでせう。平次はもう一度、この男を見直して、新しいスタートから、この事件の探索をやり直す氣になつたのは、決して氣紛きまぐれではなかつたのです。
「お氣の毒だね、――ところで、誰が一體、佐渡屋を皆殺しにする氣になるだらう」
「わかりませんよ、親分」
 平次が帳場格子の前にしやがむと、品吉はうづみ火の煙草盆を押しやつて、自分も眞鍮しんちうの煙管を取上げました。※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)べしみの面の巨大な鼻の穴から、豊かに煙の出るたくましさは、八五郎の偉大なる上向きの煙突よりも、更に一倍の雄大さで、思はず平次をほゝ笑ませます。
「お夏が見えなくなつたさうだが、何處か心當りはないだらうか」
「あの人には身寄みよりも何んにもございません、――何處へ行く當てもない筈です」
「――」
「それに、この間から變な眼で見られたり、今朝なんかは、縛られかけたりして、本當に氣の毒でした。お夏さんはそんな人ぢやございませんよ。可哀想に」
 品吉はつく/″\さう言ふのでした。
「ところで、佐渡屋の後はどうなることだらうな」
 平次は脈を引きます。
「私は養子といふことになつて居りますが、まだ家督を相續したわけでなく、亡くなつた内儀おかみさんにも氣に入られてゐたとも思へず、お絹さんも若いことだし、いづれ親類方に寄つて頂いて、何彼と御相談を願ひたいと思ひますが――」
 品吉は立派なことを言ふのでした。亡くなつた内儀が、品吉の人柄を褒めながら、決して氣に入つてゐなかつたのは、それは顏や形のせゐであつたにしても、平次もよく知つて居ります。しかし、かう立派なことを言ふのが、品吉の本心かどうか、其處までは平次の眼も屆きません。

十二


「あツ、大變ツ。皆んな來て下さい。お孃樣が、お孃樣が――」
 それは下女のお六の聲でした。家中の者が咄嗟とつさの間に聲のする方へ飛んで行つたことは言ふ迄もありません。
 それは姉娘のお絹の部屋でした。見ると縁側へ四つん這ひになつたお六は、精一杯の聲を張り上げて、川向うへ聽えるほどわめいてゐるではありませんか。
「どうした、どうした」
 彌八は一つ置いて手前の部屋――佛樣のところから飛んで來ました。それに續いて品吉と、平次。
「お孃樣が、あれ」
 見ると味噌汁の毒にやられたお絹、――それは一應手當が濟んで、靜かに眠つてゐる筈のお絹は、床から拔け出し加減に、あけに染んで苦しんでゐるのです。
 人々があまりのことに躊躇ちゆうちよする間を縫つて、物馴れた平次は、飛び込みざま靜かに抱き起しました。
「早く醫者を、早く」
 それを聽くと品吉は、跣足はだしのまゝ庭に飛び降り、木戸をハネ飛ばすやうに外へ驅け出してしまひました。
「どうしました、お孃さん」
「首筋をやられた。急所ははづれたが、血はひどい」
 平次は側にあつた手拭を取つて傷口を押へ自分の膝を枕にさせて、血潮ちのりの汚れもいとはず、精一杯の手當をして居ります。
「誰が、一體誰が、そんなことをしました。お孃さん」
 番頭の彌八は横から覗きました。が、今朝の毒にやられた上、この重傷を受けて、お絹は口をきく氣力もなく、この美しい娘の命が油の盡きた行燈あんどんのやうに、せんすべもなく、消えて行くのです。
 不思議な美しを持つた娘――おきやんで柔順で、賢こくて無智で、顏の道具の揃はないのが、かへつて一種の魅力になつてゐた矛盾だらけな江戸娘は、自分をあやめた者の名も言はずに、一刻々々、いや一瞬々々、命を燃やし盡して、母親の後を追ふのでした。
「お孃さん、相手は、相手は?」
 平次もたまりかねて、自分の膝の上に死んで行く娘の耳に張り上げました。
「――をんな――」
 僅に答へたお絹、それは本當に精一杯の努力だつたでせう。やがてもう一度眼を開くと、
「――みづ、――水を――」
 かすかに口を動かして、そのまゝ息は絶えてしまつたのです。
 見ると枕から二尺ほど離れて、この娘の首筋を刺したらしい、拔身ぬきみの脇差が轉がつて居りますが、それは後になつて、この佐渡屋の先代の脇差で、使ひ手もないまゝ、納戸なんど用箪笥ようだんすの中に入れてあつたものと解つただけの事でした。
「どうしたんです。お孃さんは」
 梯子段はしごだん倒樣さかさまに這ひ落ちるやうにして、店二階に寢てゐた與之助が、眞つ蒼な顏を出しました。
「何んかあつたんですか、お孃さんに」
 裏から飛び込んで來たのは、寺へ使ひに行つた筈の手代の直次郎です。

十三


「親分、憎いぢやありませんか。どんな野郎が、これほどのむごたらしいことをしやがるんでせう。あつしはもう、腹が立つて、腹が立つて」
 八五郎は唇を噛んだり、腕を叩いたり、眼をしばたゝいたりするのです。若くて美しい娘の死骸を見ると、何時でも義憤に燃える八五郎ですが、今度の事件――佐渡屋におほひ冠さるのろひの手は、あまりにも殘酷で、執拗しつえうで、加減も容赦もないのを見せつけられると、八五郎はもう姿を見せぬ曲者と四つに組んで、喉笛のどぶえに噛みついてやりたいほどの怒りをかき立てられるのでした。
「相手はあせり出したよ。あせると一つづつ縮尻しくじりを重ねて證據をき散らして行くから、見てゐるがよい。もう尻尾を掴むばかりだ」
 平次は、八五郎へと言ふよりは、お絹の痛々しい死顏と、それをめぐる、品吉、彌八、與之助、直次郎などに、言ひ聽かせるやうに呟くのでした。
「證據? 何處にそんなものが撒いてあるんです」
「あわてるな八。その邊をキヨロキヨロ見廻したところで、證據が轉がつてゐるわけぢやない、――ところで、その窓だ。曲者はその窓から入つて、うと/\してゐるお孃さんの首筋を刺し、もとの窓から逃け出した[#「逃け出した」はママ]に違ひあるまい。隣りの部屋には多勢の人がゐたし、縁側は行止りだ、――お前はその窓から外へ出て、ざつと見渡してくれないか」
「親分は?」
「お醫者が見えたやうだ。俺はその話を聽きたい」
 平次の説明をぼんのくぼに聽いて、八五郎は、窓からヒラリと飛び降りました。言ふまでもなく跣足はだしのまゝ、こけさびた庭の土が、足の裏にヒヤリとした感觸です。
 それと入れ違ひに入つて來たのは、町内の本道(内科醫)で、順庵といふ坊主顏でした。
「何んといふことだ。半日のうちに、二人目が殺されるといふのは?」
 佐渡屋と懇意こんいの仲らしく、口小言などを言つて、血潮の中のお絹の死骸に近づきましたが、傷口と眼瞼まぶたを見ただけで、
「これはいけない、外科げくわの手に掛けるまでもあるまいよ、――可哀想にこの若さで、――まア、三人目を出さない用心が大事ぢや」
 藥箱にも及ばず、風の如く引揚げて行くのです。
「ちよいと先生」
 平次はそれを追つて、廊下らうかで呼び留めました。
「錢形の親分か、厄介なことだな」
 坊主頭は振り返つて物々しい顏になります。
「まるで眼鼻がつきません。先生がお氣づきのことがあつたら――」
「氣の毒だが何んにもない、あのお絹さんといふ娘御は良い娘だつたが、惜しいことをしたよ。傷は首筋を一と突き。心得のある手口だが、一分か五厘の違ひでも急所をはづれる。曲者はその時の用意もしたことだらう」
 順庵はさすがに良いことに氣がついて居ります。頸動脈を刺して、聲を立てさせないためには、容易ならぬ計畫があるべき筈です。
「有難うございました。良いことを伺ひました。ところでもう一つ、今朝の味噌汁には石見いはみ銀山鼠捕りが入つてゐたと聽きましたが、中毒したものの樣子はどうでございました」
「石見銀山といふのは砒石ひせきだ。砒石の中毒はひどいのになると目舞ひがして引きつけるやうになり、ふるへが來て一ぺんに死ぬ。この家のお内儀がそれだ。呑んだ量が少なくて輕いのは、胸が燒けるやうになつて、胃のが痛んで、いて下して、長い間苦しむが、死ぬのもあり、助かるのもある。お孃さんのお絹さんと與之助がそれだ。番頭の彌八と、養子の品吉は、たつた一と口すゝつただけで助かつた」
「お孃さんは放つて置いても助からなかつたでせうか」
「いや、お孃さんと與之助は至つて輕かつた。與之助などは、ひどく吐いた後はケロリとしてゐる、青くなつて寢てゐるのは、氣臆きおくれのせゐだ。あれだけ吐くと、大抵の毒も腹には溜るまい。運が良かつたのだ」
 それだけのことを言ひ殘して、順庵はせか/\と歸つて行くのです。
 平次はそのまゝ庭下駄を突つかけて、家の外廻りを半分裏庭の方へ出ました。
「親分、大變なものを見つけましたよ」
 お勝手口の方から八五郎が、何やら赤い着物を持つて飛んで來るのです。
「何んだえ、それは?」
「女の寢卷ですよ、――裏の縁側の手摺てすりに掛けてありましたが、下女のお六に訊くと、あのお夏といふ娘の物なんださうで」
「フーム」
「この寢卷の背中から後ろえりへかけて、血飛沫ちしぶきを浴びてゐるんです。――矢つ張りあのお夏といふ娘が怪しいんぢやありませんか。あんな可愛らしい娘の癖に、證據が揃ひ過ぎますよ」
 八五郎は少しばかり忌々いま/\しさうでした。
「どれ/\」
 平次はその寢卷を受取つて、一應調べました。長襦袢ながじゆばんを寢卷にしたもので、少し色せた鹿の子絞りも哀れですが、晝近い陽の中に處女の移り香がほんのりたゞよつて、血飛沫のあとを超えてなまめきます。
「ね、親分、その通り」
「すると、お夏は、俺達と一緒に此處へ歸つて來てから、あわてて寢卷と着換へて、お絹の部屋に忍び込み、後ろ向になつてお絹を刺したといふのか」
「何んです? 親分」
「あわてるなよ、八。又一つ曲者は證據を殘して行つてくれたよ、――それは、この下手人は、お夏ではないといふことだ」
「へエ、それであつしも安心しましたよ。あの娘をお處刑しおき臺に上げるくらゐなら、あつしこの寢卷を持ち逃げして、還俗げんぞくしようかと思つた程で――」
「還俗?」
「十手捕繩返上といふ文句が長過ぎて威勢が惡いから、あつしの思ひつきですよ」
あきれた野郎だ」
 さう言ひながらも平次は、この血染の寢卷を隱すことの出來ない、八五郎の正直さをよく知つてゐるのでした。

十四


「外に變つたことはないのか」
「庭がジメジメしてゐるので、足跡は澤山ありますがね、あつし跣足はだしの外は、皆んな庭下駄の跡で、何んの證據にもなりませんよ――足跡なんてものは、少ないに限りますね」
 又こんなことを言ふ八五郎です。
「おや、あれは鳶頭かしらぢやないか、――ちよいと此處へ呼んで來てくれ。人に見られないやうに」
 平次が指さすと、八五郎は默つてお勝手口へ飛んで行き、五十男の練達な感じのする鳶頭の藤次郎をつれて來ました。
「おや、錢形の親分さん。御苦勞樣で、佐渡屋さんも大變なことでしたね」
 藤次郎はお店の袢纒はんてんを着て、新しい麻裏をき、紺の匂ひをプンプンさせて居りました。おくやみかた/″\手傳ひに來たのでせう。
「これで、花火見物の棧敷さじきの落ちたのは、鳶頭かしらの手落ちでもなんでもないと解つたわけだよ」
「へエ」
 藤次郎は禮を言つたものか、どうか、返事に戸惑つた姿です。
「少し訊きたいことがあるが――外でもない、佐渡屋を皆殺しにしたいほど怨んでゐる者があるだらうか」
「飛んでもない、そんな大外だいそれた者があるわけはございません。皆んな良い方々ばかりで」
「もう一つ、佐渡屋の跡取りは誰になるだらう。親類方や店の者は、依怙えこがあつていけない。鳶頭かしらは毎日のやうに出入りしてゐる樣子だから、その邊の匂ひがわかると思ふが――」
「そんな立ち入つたことは、あつしにわかる道理はございませんが、はたから見たところでは、御養子の品吉さんか、二番目のお孃さんの、お信さんあたりが相續することになりませう。尤も――」
「?」
「あの掛り人のお夏さんが、先代の旦那の隱し子で、お絹さんお信さんの姉さんに當るといふことも、御當人のお夏さんの外に、二三人知つてゐる方もありますが」
「鳶頭もそれを知つてゐたのか」
「へ、へ、内證事ないしよごとといふものは、何處からともなく知れるもので、それを知らなかつたのは、今朝亡くなつた内儀さんと、お絹さんお信さんくらゐのものでせうよ」
「それは驚いたな」
「尤も、いざとなると、お夏さんが跡取りでは、親類方が承知しないかもわかりません」
「養子の品吉の評判はどうだ」
「亡くなつた大旦那は、日本一の目きゝでしたよ、あんな結構な養子は江戸中にも二人とはありますまい」
「大層肩を入れるんだね」
「あの顏では、喰ひつきは惡うございます、『鬼の面』とはよくつけた綽名あだなで、りが深くて、道具が大きくて、熊坂長範ちやうはんみたいですが、親切で思ひやりが深くて、涙もろくて几帳面で、申分のない男ですよ」
「女には、受けが良い方かな」
「女に持てる顏ぢやございませんよ。現に内儀などは、品吉さんの人柄をほめながらも、好きにはなれなかつたやうで――大きい聲では申上げられませんが、中年の女の方は、思ひの外きりやう好みですね」
 藤次郎はかう言つてニヤリとするのです。
「お絹さんは?」
「お孃さんはまだ十八で、たいした考へもなかつたでせう。お信さんとお夏さんは品吉さん贔屓びいきで、若いお孃さんには氣が置けなくてよいお相手だつたし、お夏さんには頼もしがられてゐた樣子です」
「奉公人達は」
「直次郎どんは、馬鹿にしてゐました。男つ振りの好い人間から見ると醜男ぶをとこくづみたいに見えることでせう。與之助どんはよく折合つてゐましたが、血のつながりのある自分を差しおいて、他人の品吉さんがあの可愛らしいお絹さんのむこになるのは、腹の中では面白くなかつたかも知れません。番頭の彌八さんは、――まア、煙たい相手だつたと思ひます――これは内證で申上げることで、その邊をどうぞ」
 などと藤次郎は手を揉みます。
「有難う。飛んだ役に立つたよ、鳶頭かしら
 平次は藤次郎と別れて、もう一度曲者が忍び込んだと思ふ窓のあたりへ引返しました。
「どうだ、八。お孃さんを刺した曲者は、この窓から忍び込んだには違ひないが、此處へ來るには、皆んな見張つてゐる座敷の前を通つて、庭からグルリと廻るか、でなければ、裏木戸を入つて、明けつ放しのお勝手口の前を通ることになるが、お前は何方だと思ふ」
 平次は新しい問ひを投げかけました。
「何方も出來さうもありませんね。お勝手には下女のお六が頑張つてゐるが、あの女は野良猫一匹だつて見遁みのがしやしませんよ」
「すると?」
「曲者は大地から湧いたか、空から降つたか、ひさしを渡つて、窓からバアと入つたかといふことになりますね」
「庇は渡れないよ。上の部屋と言つても、少し方角は違つてゐるが、兎も角、五六間先の二階の部屋には、與之助がウンウンうなつてゐたことになるぜ――それに氣のつかないやうに、ミシミシ庇を傳はるのはむづかしからう」
「すれと矢つ張り、大地から湧いたか、天から降つたか――」
「止さないか、馬鹿々々しい」
「親分には下手人の見當がついてゐるんでせう」
「まだわからないよ、――ところでお夏には親類とか友達とか、平常ふだん親しい間柄の人とか、いつも褒めてゐる人がなかつたか、それを念入りに調べてくれ」
「へエ、そんなことなら」
 八五郎は大呑込みで飛んで行きましたが、その報告も、凡そ掴みどころのないものでした。
「あの娘の母親は名古屋者だつたさうで、江戸には親類も何んにもありませんね。それにあのお夏といふ娘はまた變り者で、友達らしい友達もこさへなかつたさうですよ。口癖に褒めてゐたのは『鬼の面』の品吉だけで――さう/\この二、三日、親分のところの姐さんを褒めてゐたさうですよ。綺麗でおだやかで、人柄が親切らしいつてね。そして、萬一の時はあの人が頼みになりさうだ――つてね」
 それを聽きながら平次は默つて考へ込んでしまひました。

十五


 此處まで行詰まると、平次も一應は投げ出す外はなかつたのです。
「八、後を頼むぜ。俺は家へ歸つて一と休みして考へるから」
「心細いなア、親分」
 そんなことを言つたところで、思ひ留らせるわけにも行きません。
「直次郎に氣をつけろ」
「あの男が怪しいんですか。大川へ落ちてもたいして水を呑まなかつたり、味噌汁の時は帳場にゐたり、お孃さんが殺された時は、お寺へ行つて居り、妙に運が良いくせに、ソハソハしてゐますが」
「そんなことぢやないよ。兎も角、見張つてゐさへすりやよい」
 平次はなぞのやうなことを言つて、明神下へ歸つてしまひました。
 其處には平次の戀女房のお靜が、いつものやうに、若さと美しさを發散させながら、更衣時の仕事に忙しく立ち働いてゐるのでした。
「お靜」
「ハイ」
「ちよいと來てくれ」
 平次は默つて家の中へ入ると、火のない長火鉢の向うに坐つて、煙管きせるを取上げました。
「まア、お前さん、どうなすつたの」
 たすきを外して、その前へお靜は覺束おぼつかなく膝を揃へたのです。
「お前は、俺に隱してゐることがある筈だな」
「えツ」
へそくりを拵へたくらゐのことで、文句を言ふ俺ぢやねえが、お上の御用のことに、餘計なちよかいを出すと、俺一人の手落ちでは濟まねえことになるよ」
「まア、お前さん、そんなに腹を立てて」
 お靜はきもをつぶしました。好いて好かれて一緒になつてから、もう幾度も門松を潜つた仲なのに、まだ一度も、こんな嚴重な顏をする夫を、見たことも想像したこともなかつたのです。
 お靜の華奢きやしやな――でも健康さうな五躰から汐の引くやうに、血が引いたやうに思ひました。大きい眼を不安と疑惧ぎぐに見開いたまゝ、可愛らしいもののたとへにまでされた、『お靜さんの弓なりの唇』からは紅の色まですツとせてしまつたのです。
「腹を立てるわけぢやない。本當のことを言つて貰ひたいのだよ。お前はまさか、この俺を困らせるつもりで、餘計な細工をする筈はない」
「あの人は、――私は殺されるかも知れない、たつた二日でも三日でもよいからかくまつて下さいつて、泣きながら戻つて來たんです。そして親分は平右衞門町の佐渡屋にゐなさるが、佐渡屋に又間違ひがあつたやうだから、今日も遲くまでは歸りがないでせう――つて」
「それを何處へお前はやつたんだ」
「いづれお前さんが戻つたら打ち開けてお話するつもりでした。あの人は濱町の私の母さんの家にゐる筈です」
「よし/\泣かなくたつて宜い。お前が引受けてくれなきや、あの娘は何處へ飛んだかわからない。かへつてお前の親切が、怪我けがの功名になるかも知れない」
「まア」
 お靜は大急ぎで涙を拭いて、ホツとする下から、持前の微笑が湧くのです。
「ホイ、今いた烏が笑ふのか。ところで久し振りでお前も濱町へ行つて見ないか、おつ母さんが喜ぶぜ。留守番はお隣りの小母さんに頼むがよい、――十手を突つ張らかした俺と一緒に歩くのが變だと思ふなら、一町ほど後から來るがよい」
 さう言はれるうちに、お靜は手早く支度を整へるのでした。年に一度も夫と表に外へ出ることのないお靜には、こんな機會きくわいさへ、嬉しくてたまらない樣子です。

十六


「お夏さん、飛んだ人騷がせぢやないか。此處にゐると氣がつかなきや、江戸中を搜し廻るところさ」
 濱町の路地の裏、仕立物などをして、細々と暮してゐるお靜の母親の家の一と間に、平次はかう佐渡屋の掛り人のお夏に相對しました。
「濟みません。あの家へ入ると、私は本當に殺されるやうな氣がしたんです。殺されないまでも、石原の子分衆に、繩を打たれて恥かしいおもひをしたことでせう」
「誰が一體お夏さんの命を狙つてゐるのだ」
「それがわからないから逃げたんです」
「では訊くが、お前が、佐渡屋の先代の隱し子だといふことは、誰と誰が知つてゐるんだ」
「皆んな薄々は知つて居ります。亡くなつた内儀さんと、お絹さん、お信さんの外は」
「すると、佐渡屋の家督を狙ふ者の仕業しわざといふことになるが――」
「?」
「品吉をどう思ふ――あの男に怪しい素振りはないか」
「飛んでもない親分。廣い江戸中にも、あんな良い人はありません」
 お夏は敢然として頭を振りあげるのでした。言葉數は多くありませんが、その抗議には宗教的な熱心さがあつたのです。
 平次は『娘の新しい角度』を見せられたような氣がして、フト身内の引緊ひきしまるのを感じました。娘をこれだけひきつける男には、何にか知ら容易ならぬものがあるのでせう。
「でも、殺されたお孃さんのお絹さんは、品吉を嫌つてゐたといふではないか」
「それは、若い女の心を見通せない人の言ふことです。お孃さんは、よそ/\しく見せてゐて、心の中では品吉が好きで/\ならなかつたのです」
 それもまた平次に取つては、若い女の心の不思議な角度でした。
「今朝、味噌汁を拵へるとき、お夏さんは小出しのかめから、杓子しやもじで味噌を取つて鍋へ入れたことだらうな」
 平次は妙な方へ問ひを持つて行きました。
「いえ、――戸棚の中の小出しの瓶の上に、杓子に一とかたまりのお味噌を取りわけたのが載せてありました。多分お六さんが氣をきかして、朝のお味噌を入用なだけ、前の晩のうちに取りわけて置いたことと思ひ、そのまゝ鍋に落して煮てしまひました」
「あ、それだ」
 平次は飛び上がるほど驚きました。朝の味噌汁の中に、猛毒を仕込むためには、それが一番手輕で間違ひのない方法で、それをお六の親切と解し、杓子しやもじに入れてあつただけの味噌で汁を作つたに間違ひはないでせう。
 かうわかつて見ると、お夏の手を經ず味噌汁の中に易々やす/\と毒を入れられるわけで、曲者は朝になつてからお勝手に入る必要もなく、大量毒殺が出來ることになるのです。

十七


 醫者の順庵のところに立寄つて、何やら訊いた平次は、一氣に佐渡屋の店に飛び込みました。もう家の中は薄暗くなりかけて、二つのおとむらひの支度にゴツタ返して居ります。
「お、親分、よい鹽梅あんばいでした。直次郎の野郎が逃げ出さうとするので、大骨折で縛つて送つたところですが」
「誰が直次郎を縛れと言つたんだ」
「へエ、ありや下手人げしゆにんぢやなかつたんですか」
「當り前だ。今度は直次郎が殺される番だつたのさ。まア宜い、直次郎も許せない奴だ、――ところでお六をつれて來い」
「あの女が、まさか」
「人を見ると、一々下手人にするのはよくねえ道樂だ。お六に搜して貰ひたいものがあるんだよ」
「へエ」
 やがて八五郎に引摺ひきずられるやうに、お六は恐る/\やつて來ました。
洗濯物せんたくものは何處にあるんだ」
「へエ?」
「奉公人達の洗濯はお前が洗つてやるんだらう。何處へ溜めて置くんだ」
「それなら梯子段はしごだんの下ですよ」
 お六は平次と八五郎を案内して行つて、梯子段の下から、大きな籠を引つ張り出しました。暫らくその中をあさつてゐた平次、間もなく味噌汁臭いしまの前掛けを見つけると、
「こいつは誰の前掛けだ」
「與之助どんので」
「しめた、八、お前は裏庭へ廻れ。大急ぎだ、鳥が飛ぶぞ」
 八五郎が庭へ飛び降りると同時に、平次は梯子段から二階に飛び上がりました。が、其處にうなつてゐる筈の與之助の姿はなく、床だけは生温かく敷きつ放しになつて居ります。
「野郎ツ、神妙にしやがれツ」
 庭の方から八五郎の聲でした。窓から見下ろすと、薄暗くなつた裏庭の眞ん中で、與之助と八五郎は組んづほぐれつみ合つて居ります。
        ×      ×      ×
「あの與之助の野郎が下手人とは驚きましたね。何んだつて、あんなことをしたんでせう」
 歸る途々、八五郎はまた平次に繪解きをせがみます。
「佐渡屋を乘つ取る氣でやつたのさ。その上お絹が心の中では『鬼の面』の品吉にれきつてゐるし、他人の品吉が佐渡屋の婿むこになつちや、血のつながりのある與之助は、我慢が出來なかつたのだらう」
「一人でやつた仕事ですか、あの棧敷さじきを落したのも」
「直次郎に手傳はせたのだよ、――お夏が聽いたといふ『佐渡屋の者を根絶やしにする』と言つた相談は、あの二人さ。棧敷を落して自分達も水に入り、お絹だけを助けるつもりでやつた仕事だらう。二人とも泳ぎは達者だが、お絹は水へ落ちなかつたし、小僧と藝子を殺しただけで、お仕舞ひになつてしまつた――憎い奴等ぢやないか」
「味噌汁は?」
「前の晩、與之助がお勝手へ忍び込んで、味噌をいゝ加減杓子しやもじに取りわけて、その中に毒を仕込んだのだよ。疑ひはお夏へ行くにきまつてゐるぢやないか」
「いよ/\以てふてえ奴で」
「與之助は味噌汁なんか呑みやしないのさ。呑んだと見せて前掛けに吸はせ、何にかイヤなものでも喰べて、いただけなんだ。順庵さんも、そんなこともあるだらう、與之助の容態はに落ちないところがあると言つてゐたよ」
「それから」
「自分の寢てゐる二階から庇傳ひさしづたひにおりて、窓から入つてお絹を殺したのさ。どうせ自分のものにならない娘なら、殺した方がよいと思つたのだらう。手摺てすりに干してあるお夏の寢卷をかぶつて、女に化けたのはいかにも細工過ぎたよ」
「どうして親分は、與之助とわかつたんです」
棧敷さじきを落したのは、水へ落ちた者――二人の仕業しわざだ。前から少しは繩を切つて置いても、端つこの二ヶ所は水へ落ちる覺悟でなきや切れない。その繩を切つた剃刀かみそりは、品吉の物で、これで切りましたと言はぬばかりに、庭の松に引つ掛つてゐたらう」
「なる程ね」
「味噌汁に毒を入れたのも、あの味噌汁にあてられた一人に違ひないと俺は思つたよ。お絹を殺せるのは、どう細工をしても、二階から庇傳ひさしづたひに來た與之助の外にはない」
「へエ?」
「直次郎はお絹に小當りに當つたが、ひどく嫌はれた腹立ちまぎれ、與之助に誘はれて棧敷の一方の繩を切つただけさ。あとで恐ろしくなつて、逃げ出さうとしたことだらう。與之助は人間が太いから、直次郎が口をすべらす前に、きつと殺すに違ひあるまいと思つたから、お前に氣をつけろと言つたのだよ」
「へエ、驚きましたね。それで品吉は?」
「あれは江戸一番の良い男さ。いづれお夏と一緒になつて佐渡屋を繼ぐことだらう。顏を見ると『鬼の面』だが、心持は佛樣だ。お夏のやうな賢こい娘が、夢中になるわけだよ、――八ももう少し男が惡いと、女の子が夢中になるんだが、生憎男が好過ぎた」
 平次女は又話を八五郎へ持つて行きます。
「へツ、生憎、お夏のやうな綺麗で利口な娘がゐませんよ。へツ」
 八五郎は何んとも形容のしやうのないくすぐつたい顏をして、長んがいあごをツルリと撫でるのです。





底本:「錢形平次捕物全集第三十卷 色若衆」同光社
   1954(昭和29)年8月5日発行
初出:「サンデー毎日」
   1950(昭和25)年6月4日号〜25日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード