「親分、この世の中といふものは――」
愛稱ガラツ八の八五郎が、お先煙草を五匁ほど
「止せやい、道話の枕ぢやあるめえし、『この世の中』が聞いて
錢形平次は相手にもしませんでした。江戸開府以來と言はれた捕物の名人ですが、無精で貧乏で、人を縛らないのを建前にしてゐる世にも不思議な御用聞の平次は、戀女房のお靜と一緒に、神田明神下の路地の奧に住んで、三文植木の世話を燒きながら、
「へツ、あつしも呆れましたよ。

江戸一番のフエミニストの八五郎は、若くて可愛らしい娘のこととなると、眼の色が變ります。
「待ちなよ、八。三人の娘の命に
「どうして親分はそんな事を?」
「手紙が來たのさ。こいつはお前でも讀めるぜ」
平次は煙草入の中から、小さく疊んだ手紙を取出して、
「あつしが辨慶讀みにしてゐちや、
「何んでもありやしないよ、『向島の水神の、越後屋の寮にゐる三人娘が、不思議なことから命を
「大ありですよ、親分」
「この手紙は
「あつしの方は手紙ぢやありません。人間の
「言ふことが嫌だな。お前は人が好いくせに、どうも口が惡い」
「どなた樣もさう仰しやいます。これで人が惡かつた日にや、全く
「心得てゐるから厄介だよ」
「まだ五十そこ/\でせう、ひどく
錢形平次を前に置いて、こんな事を言ふ八五郎です。
「妙なものを持つてゐるんだな。お前といふ人間は」
「へえ?」
「癪だの意地だのてえものは、
「相濟みません。尤も今朝になつてから思ひ直してやつて來ると、親分は恐ろしくむづかしい顏をしてゐるでせう」
「むづかしい顏は大笑ひだ、
「あつしは又そんな事と知らないから、昨夜あの中婆さんをつかまへて『あつしで不足なら止すがよい。錢形の親分は無精で氣むづかしいから、それくらゐの事で御輿をあげるものか』つて言つたのが、親分の耳へ入つたんぢやあるまいかと、ビクビクしましたよ」
「それでお先煙草を五匁フイにして、鐵瓶一パイの茶を呑んだといふわけか、
平次と八五郎は、相變らずこんな調子で話が進みました。
「とも角、向島へ行つて見ませうよ」
「よからう」
平次もその氣になりました。手紙だけなら惡戯とも被害
世間は五月になつたばかり、町々は青葉に
「飛んだ葉櫻見物ですね、親分」
八五郎は引つ込み思案の平次を誘ひ出して、初夏の太陽の下に、胸一杯の大氣を吸はせただけでも、嬉しくてたまらない樣子です。
その頃はまだ後の吾妻橋の大川橋は
水神に
「あれですよ、親分」
橋場の渡しの上手、
黒板塀を
「あ、錢形の親分」
その格子戸の前に、十手などを光らせて物々しく見張つてゐるのは、平次を一敵國にしてゐる老巧な御用聞、三輪の萬七の片腕といはれた、お神樂の清吉だつたのです。
八五郎とは同年輩ですが、顏を合せると競爭意識が燃え上がるらしく、番毎犬と猿のやうに
「矢つ張り間違ひがあつたのか」
「へエ、變なことがありましたよ」
お神樂の清吉は、平次の問ひに素直に答へます。
「三人娘のどれがやられたんだ」
八五郎は若くて可愛らしいと聽いた、三人姉妹のことばかり考へてゐる樣子でした。
「八五郎
「すると?」
「殺されたのは、今戸の
「へエ?」
「姉娘お里の許婚さ」
「三輪の親分は?」
平次はその問答を引取りました。
「奧にゐますよ」
清吉に案内されて、平次と八五郎は奧へ通りました。
庭一パイの青葉は、初夏の陽を
建物は思ひの外廣く、木口も見事で、一介の町人の寮としては、誠に堂々たるものです。尤もこの寮の持主の越後屋といふのは、大川を
當主金兵衞は五十八歳、隨分鳴らした大町人ですが、近年中風に
縁側が盡きて、廊下へ入ると、奧から急ぎ足に出て來たのは、パツと咲いたやうな娘です。
「三番目のお露さんだ」
清吉が紹介した時は、娘はもうバタバタと少し端たない足取りで、何處かの部屋へ飛び込んでしまひました。三人の男に道を
十六といふにしてはよく成熟した、健康さうで明るい娘、大して美しくなくとも、誰にでも好感を持たれさうです。
「良い娘ですね、親分」
八五郎は振り返つて居ります。
「娘の鑑定は大したものだが、
平次はその肩のあたりをどやしつけました。
「おや、錢形の、もう嗅ぎ出したのかえ。良い鼻ぢやないか」
暗がりからヌツと出たのは、三輪の萬七の苦虫を噛み潰したやうな顏でした。四十五六の練達な御用聞ですが、押しが強くて顏が古いので、ともすれば、若くて評判の良い錢形平次にのしかかつて來るのです。
「何んにも嗅ぎ出したわけぢやないよ。不思議な手紙に
「さうか、俺は又、相變らず鼻の良い八五郎兄哥に嗅ぎ出されて、錢形の親分に手柄をさらはれることかと思つたよ」
三輪の萬七もいくらか打ち解けました。
「で? どんな事があつたんだ」
「兎も角、見當もつかないやうな不思議な殺しだよ。こいつを見てくれ」
三輪の萬七が案内して、二た間、三間先へ行くと、建物の一番奧、西向きの一と間は座敷牢か
「これは?」
「見るがよい、志賀屋の伜伊三郎だ。絞め殺されてゐるよ」
それは二十三四の、
「この死體が何處にあつたのだ」
「この部屋に轉がつてゐるのを、下女のお今が見付けたといふことだよ。――その時この
「フーム」
「大騷ぎになつて、お里の持つてゐる鍵で開けたが、その時はもう伊三郎は冷たくなつてゐて、醫者も藥も及ばない。それに首筋にはこの赤い
「その紐は誰のだえ」
「お里の腰紐だよ」
疑ひはお里へお里へと向いてゐるのです。
「お里とは許婚だつたといふぢやないか」
「この春は
「若い女が許婚の男を引入れて、絞め殺すといふことはあるのかな」
口を出したのは八五郎でした。
「この座敷牢の錠は、昨夜も、一昨日の晩も、間違ひもなくおりてゐたといふぜ」
三輪の萬七はそれを
「これは矢張り座敷牢に拵へたものか」
と平次でした。十二疊の一と間は、
「越後屋の總領の金之助は、恐ろしい不身持で、一年あまりも此處へ押し込められてゐたが、可哀想に首を
土地者の萬七も、この越後屋の後添へにはあまり好感を持つてゐない樣子です。
隣りの部屋には、越後屋の内儀のお
お酉といふのは海女だつたといふにしては、色も白く、きりやうも並々でなく三十二三の立派な年増です。越後屋の主人金兵衞は、恐らくこの潮の
「御苦勞樣でございます」
丁寧ではあるが、言葉少なに挨拶するお酉の背後から、三人娘は申譯だけのお辭儀をするのでした。
お里は二十歳といふにしては、少しふけて居りますが、これが一番美しく、やゝ淋しい感じのするのは、顏立ちの
二番目のお勢は、氣性者らしい色の黒い娘で、これは三人のうちでは、一番見劣りがします。三番目のお露は
「錢形の親分、伜があんな事にされては、あんまりでございます。何んとか、早く下手人を搜し出して、御處刑を願ひます」
志賀屋はあまりの事に
「いろ/\聽きたいこともあるが――志賀屋さんの外の方は暫らく遠慮して貰はうか」
平次の言葉が終らぬうちに四人の女は滑るやうに部屋の外へ出てしまひました。
「親分さん方、私にはもう下手人はわかつてゐるやうな氣がいたしますが」
振りあげた志賀屋の顏、その眼の中には、メラメラと
「誰を疑つてるのだえ、志賀屋さん」
平次はそれを靜かに抑へました。
「あの座敷牢の鍵を持つてゐるのは、一人しかありません。それに、あの赤い
志賀屋伊左衞門は父親らしい
「その鍵を持つてゐたお里と、伊三郎は許婚の間柄ではなかつたのか」
「へエ、それはその通りですが、
「二人は仲でも惡いとか、何方かが嫌つてゐるといつた樣子でもあつたのか」
「そんな事はございません」
志賀屋伊左衞門は
「それどころか、祝言前の二人は、一緒になるのが待ちきれなくて、時々逢引でもしてゐた樣子はなかつたのか」
「そんな事もございました。越後屋さんの御病氣で、祝言が延々になつて居りますので、伜は時々飛び出して來ては、水神のあたりをウロウロしてゐると世間では申して居りました」
「
「宵のうちに飛び出したやうで」
「二人の仲を邪魔する者はなかつたのか」
「あるわけはございません。天下晴れての許婚ですもの、ことに越後屋の御新造(お
「それぢや、お里を疑ふのは變ぢやないのか」
「でも、あの鍵と、赤い紐が」
「それぢや、もう一度、死骸を見るがよい」
平次は何を考へたか、志賀屋伊左衞門を誘つて、もう一度隣りの部屋へ戻りました。その後から、三輪の萬七と八五郎が、つまゝれたやうに從いて行つたことは言ふ迄もありません。
伜の死骸の側へ行くと、伊左衞門はガツクリ膝を折つて愛撫するやうにその顏を隱した
「――」
苦惱を刻んだ若い顏を見ると、父親の伊左衞門は、ツイ涙がさしぐむ樣子です。
「よいかえ、志賀屋さん。この首筋に卷いてあつたのは、娘の赤い腰紐で、ヨリも何んにもないが、首筋には繩の跡が殘つてゐるのだよ。明るいところで、氣をつけて見なきやわからないが、三つぐりの細引の跡だ。細引で締め殺してから、赤い紐を卷いて置いたものだらうと思ふが――」
「鍵は?」
志賀屋伊左衞門はまだこだはります。
「
「飛んでもない、そんな事はありませんよ。
廊下から口を容れたのは、下女のお今でした。四十過ぎの達者さうな女で、その後ろから庭男の久六と、越後屋の
「錢形の、もう一つ言ふのを忘れてゐたが、昨夜大きな追ひ込みがあつて、兩國から向島まで、すつかり網を張つてゐたよ。夜つぴて見張つた者に聽いたが、怪しい人間一人も通らなかつたといふことだ」
三輪の萬七は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「有難う、少し庭から外廻りを見よう。誰か案内してくれないか」
「へエ、へエ、私が御案内いたします」
平次の前に立つたのは、照れ隱しらしい庭男の久六と、越後屋の手代の文治でした。
一人は五十二三の御粗末な老爺で、
忍び返しを打つた板塀に圍まれて
この邊の寮にはよく見かけた潮入の池、細長く相當の深さを持つた一種の堀割は、水門一つで隅田川の水面に
寮は板塀と忍び返しと、嚴重な門とに護られて、野良犬の入る隙間もありませんが、何んかの方法で外から水門を開く祕密さへ解けば、一隻の小船で水の上からスルスルと水鳥のやうに滑り込めるでせう。
「この船は?」
平次は庭男の久六を顧みました。
「一向見かけたことのない船ですが」
久六は頑固らしく
「釣船のやうだが――」
駒形から上流
「おや、細引がありますぜ」
眞つ先に船に飛び込んだ八五郎は、船具らしい澁引の細引を見付けて、思はず張り上げました。
「其處に煙草入か
平次は謎のやうなことを言ひながら、岸の上から氣のない顏で船を覗いて居ります。
「あ、天眼通だ」
「何んだえ騷々しい」
「あかに
八五郎は飴色の大振りな櫛を一つ、水あかをきつて陽にすかしてゐるのです。
「そいつは直ぐ持主がわかるだらう」
平次がさう言ふのも尤もでした。鼈甲の貴さは黄金に匹敵した時代で、釣船の中などに輕々しく落すべき性質のものではありません。
「ところで、水門はどうして開けるのだ」
平次は
「外から入る時は、手を突つ込んで
久六はさう言ひながら、水門の上の方にある隙間を指さすのです。
「そんな事を知つてゐるのは、誰と誰だ」
「家中の者は皆んな知つて居りますが」
「橋場の店の者もか」
「へエ」
その時、何にかモヂモヂしてゐた手代の文治は、我慢がなり兼ねた樣子で口を
「こんな事を申すと、差し出がましいやうですが、その船は志賀屋さんの持船ぢやございませんか――志賀屋さんの大旦那は釣がお好きで、釣船を
「すると伊三郎は、この船を自分で
戀するものの、底の知れない情熱と、その努力の恐ろしさに、平次は妙にしんみりとしてしまひました。隅田川を船で横斷することは、大したむづかしい事ではないにしても、
「へツ、たまらねえな。船で女の子のところへ通ふなんて圖は」
八五郎は船を漕ぐ眞似なんかして、
「馬鹿だなア、お前もそんな事をして、絞め殺されてえのか」
「殺されるのは御免だが、ちよいとあやかりものぢやありませんか――おや、三輪の親分は見えないやうですが」
「
「誰です。あの櫛の主といふのは」
「越後屋の内儀のお
「番太の株を買はう――といふんでせう。あつしの口眞似をしちやいけません」
「先を言つちやなほいけねえ、――飴色の
「成程ね」
「細引で殺して置いて、死骸の首に赤い紐を卷きつけたり、船の中に鼈甲の櫛を落しておいたり、これはどういふ謎だ」
平次の調子は、誰ともわからぬ相手に小言を言つてゐるやうです。
「あつしのせゐぢやありませんよ」
「お前などは足許にも寄りつけないほど恐ろしく悧巧な人間の仕業だよ」
平次は妙に考へ込んでしまひました。
「お今さんと言つたね。お前神妙な顏をしてゐるが、内々好い人があるんぢやないのか」
「御冗談でせう、親分、私はもう四十五ですよ。亭主が呑む打つの道樂で手のつけやうがないから、子供のないのを幸ひ、自分からおん出て來て、若い時分にお世話になつた越後屋さんに、一生奉公のつもりで轉げ込んだ私ですもの。男なんてものは、我儘で高慢で、助平で横着で、なまけ者で、呑兵衞で、虫見たいなものだと思つてゐますよ。飛んでもない」
恐ろしい勢ひでまくし立てます。四角な
「でも、この寮へ、時々忍んで來る男があるといふぢやないか。隅田川を船で渡つて、水門から入るのは、
「そんな馬鹿なことが――」
「お前の外には、若い娘が三人ゐるだけぢやないか、大家の
「親分、私はもう、私は」
「どうだ一句もあるまい、四十を越しても女は女だ。それにお前は身體も丈夫だし、きりやうだつて滿更ぢやねエ」
「止して下さいよ、親分。そんなに馬鹿にされるなら、私はもう言つてしまひます」
「白状する氣になつたか、――お前の男といふのは誰だ」
「私の男ぢやありませんよ、お孃さんの所へ忍んで來る男ですよ。堅く口留めはされてゐるけれど、もう死んでしまつたから、言つたつて構はないでせう。志賀屋の伊三郎さんが、月に二度か三度、船で逢ひに來るんです、大きいお孃さんのところへ――」
「本當か、嘘ぢやあるまいな」
「外から合圖の戸を叩くと、私が開けてやることになつてゐるんですもの、――でも若い人達の逢引で、
「何處から入るんだ」
「私の部屋の前の縁側から」
「合圖は?」
「小さい石を拾つて、三つづつ二つ叩くことになつてゐました」
「お前は顏を見ないのか」
「見ないことにしてゐます。でも――」
「どうしてそれが志賀屋の伊三郎とわかるんだ」
「見ない事にしてゐたつて、長い間にはねエ」
「
「――」
四十五の達者な女には、それくらゐな好奇心が燃え殘つてもよい筈です。
「よく言つてくれたよ。隱してゐると、お前が不しだらをしてゐることにされるぜ」
「まさか、ね、親分」
「二人はさぞ仲が好かつたことだらうな」
「それやもう、見ちやゐられませんでしたよ」
「語るに落ちたぜ。矢張り覗いてゐたんだらう」
「まア」
「そんな事は宜いとして、二人は一と晩逢つてゐるわけぢやあるまい」
「ほんの
「ひどくせつかちな逢引だな、柳原の
それは八五郎でした。
「餘計な口を出すな、八」
「へエ」
「ところでお今さん、伊三郎は
「來ましたよ。
「樣子に變つたことはなかつたのか」
「私はわざとそツぽを向いて、なるべく相手の顏も見ないことにしてゐるし、時々の事で珍らしくないから、戸を開けてやると直ぐ自分の部屋へもぐり込んでしまひました。何んにも見たわけぢやありません」
「歸つたのは?」
「それが變なんです、ほんの煙草二三服もすると、歸つたのか戻つて來たのか、
「?」
平次は默つてしまひました。話はひどく奇つ怪です。
平次は下女のお今の部屋を借りて、其處へ姉娘のお里を呼んでもらひました。
地味な銘仙の
「ね、お孃さん。志賀屋の若旦那が殺されたが、これは容易ならぬ
平次の言葉は法外に丁寧です。若い娘の心持をほぐすには、外に工夫のないことを平次はよく知つてゐるのです。
「――」
お里は顏を擧げました。今更伊三郎の死といふ、取りかへしのつかぬ大きな事實に直面したことを思ひ出したのでせう。聲のない
今朝からの激動と恐怖で、この娘は多分泣くことさへも忘れてゐたのでせう。錢形平次の前に引出されて、その
「伊三郎との縁談は、どんなきつかけで始まつたのだ」
「伊三郎さんが人を頼んで、私の親達へお話させました、――もう半歳も前のことで」
相惚れの仲人實は廻し者――と言つた、
「伊三郎が、時々船で逢ひに來たさうだが、――隱しちやいけないよ、お孃さん。昨夜も來たことだらうな」
「いえ、昨夜は到頭來ませんでした」
これは實に重大な言葉です。
「ところで、二人の仲を割かうとした者はありやしないか」
「伊三郎さんの親御さん達の外には」
「すると志賀屋さんは不承知だつたんだね」
「――」
お里はうなづきます。それは後でわかつたことですが、志賀屋の主人伊左衞門には、伊太郎といふ跡取りがあるので、この縁談に積極的には反對でなかつたのですが、總領の伊太郎の不愛嬌で
「もう一つ、お孃さんには外に縁談の口もあつたことだらうな」
「――」
お里はうなづいた樣子です。
「お孃さんに言ひ寄つた者は?」
「――」
お里はパツと顏を染めましたが、さすがに明らさまには言ひ兼ねるのでした。
二番目娘のお勢は、色の淺黒い、少し男顏の
「姉さんが伊三郎さんを引入れてゐるのを私も薄々は知つてゐました。でも、許婚同士ですもの、妹の私がかれこれ言ふ節はないでせう。――それや姉さんはあのきりやうですもの、町内の若い男の人で姉さんのことを何んとか思はない者はなかつたと言つてもよいくらゐですよ」
「その中でも一番うるさく言ひ寄つたのは?」
「金物屋の銀さん、竹屋の
「文治は?」
「あの人は別ですよ。遠い
「?」
「あの人は商賣の事と金儲けの事しか考へない變人ですよ――でも、それや良い人」
十八娘のお勢は、
「昨夜伊三郎が忍んで來たのを知つてるだらうな、お孃さん」
「いえ、ちつとも。私は何んにも知らずに、よく寢てゐた樣子です」
それは恐らく掛引のない言葉でせう。
三番目娘のお露は、まだ十六の可愛らしさで、何を訊いてもハキハキとは
いきなり奧の方から、三輪の萬七のわめき立てる聲が聞えて來ました。
「
「だから、その櫛はたしかに私の物に違ひないと申して居ります」
越後屋の後添へのお
「三輪の親分の前ですが、内儀さんは昨夜橋場の店にゐたことは確かで、何處へも出かけませんよ」
飛んだ助け船を出したのは、手代の文治でした。
「何んだと、それは本當か」
萬七は
「主人が宵から氣むづかしくて、夜半過ぎまで店中の者も落付けない騷ぎでした。中氣には違ひありませんが、
これは上等過ぎるほどの
「親分、ちよいとお顏を」
お神樂の清吉はこの
「何んだ、うるさいぢやないか」
などと言ひながらも、萬七は庭の方へ出て行きます。
それと入れ違ひに入つて來たのは、錢形平次と八五郎でした。
「志賀屋さん。伊三郎さんが、今戸から船を
平次の問ひは平凡でした。
「飛んでもない、錢形の親分。伊三郎は船が大嫌ひで、私が釣に
これは思ひも寄らぬ言葉でした。平次の築き上げた假説は、これで殆んど完全に
「それぢや釣に出る時はどうするんで?」
「眞崎の船頭權七親子は長年の出入りで、ことに伜の權次は良い腕ですよ」
平次は默つて八五郎に
八五郎の歸りは思ひの外手間取りました。橋場の渡しの
明神下の家へ歸つて來て、ホツとしてゐるところへ、相變らず
「サア、大變、親分」
「よく、さう大變の
平次は悠然として晩飯の膳を押しやります。
「でも、船頭の權七の伜の權次は
「それがどうしたんだ」
「――志賀屋の若旦那を、船で水神の寮に送つて、逢引さしてゐたのは俺に違げえねえが、此處で勝續けてゐたんだから、俺の知つたこつちやねえ――と小判を二三十兩膝の下に掻き集めて、大名にでもなつた氣でゐますよ」
「?」
「證人が十人もあるんだから、昨夜伊三郎を船で寮へ送り込んだのは、權次ぢやありません。それにもう一つ、こいつの方が大變なんで」
「
「これを聽いたら、親分だつて驚きますよ、――昨日あつしの家へ來た五十女、――青葉の寮の三人娘の命が危ないから助けてくれと言つて來た
「何?」
平次もさすがに驚きました。事件は又容易ならぬ一つの面を見せて、平次に挑むのです。
「八、お前はくたびれてゐるやうだぜ」
平次は自分の前を駈けて行く八五郎のヒヨロヒヨロした足取りを
「大丈夫ですよ親分。この通り」
事件が緊迫すると疲れといふ事を知らない八五郎です。
「わかつたよ、八。いきなり駈け出されちや、俺の方が
そんな事を言ひながらも、言外に
「おゝ、錢形の親分」
この邊を持場にしてゐる石原の利助の子分達に挨拶されながら、平次と八五郎は、死骸を引場げてある、
「八、これはたしかに、お前のところへ訪ねて行つた人に違ひあるまいな」
差し出した二つの
「間違ひありませんとも、少し若くなつてはゐますがね」
「四十二、三かな、――五十過ぎの薄汚い婆さん――とお前は言つたやうだが、大變な違ひだぜ」
「でも、左の頬の下の方に、かなり大きな
「身許はわからないのかな、石原の若い衆」
平次は後ろを振り向きました。其處には石原の利助が身體をいけなくした後、その娘の女捕物師と言はれたお品に引廻されてゐる、若い手先が二三人ゐるのでした。
「この邊でよく見かけた女ですよ――
「が、顏へ何にか塗つて、姿を變へてゐたことは確かだな。見るがよい、相好は變らないだらうが、小鼻のわき、耳の後ろ、
平次は念入りに死顏を眺めて居ります。
「親分、何を見てゐるんです」
「この顏をお前、何度かで見たことがあると思はないか」
「さう言へば、見たことのある顏ですが――」
八五郎も尤もらしく首を
「錢形の親分、妙なことを聞き込みましたが」
それは石原の子分の一人でした。
「何んだえ?」
「この水死人が、
「フーム」
「それも唯の話ぢやなくて、女同士のつかみ合ひでも始めさうな、大變な
「八、もう一度青葉の
平次は疲れも眠氣も乘り越えて、この事件を一氣に解決する情熱に燃えたのです。
水神の越後屋の寮へ行くと、何も彼もが今日の晝頃の通りでした。
伊三郎の死骸は、檢屍が遲れて夕方になつて
幸ひにこの騷ぎが片付かなかつたので、内儀のお
平次は兎も角も、奧の二間で内儀のお酉と相對しました。もとは讃州
「内儀さん、今日の晝過ぎ、この寮の裏で、立話をしてゐた四十過ぎの女は、あれは誰です」
平次は最初から本題に飛び込みました。
「それを言はなきやならないでせうか、錢形の親分」
お酉はひどく言ひ惱んで居ります。
「あの女が、死骸になつて、百本
「まア、お氣の毒な、――主人には
「それはどういふわけで?」
平次が不思議に思つたのも無理はありません。さう言つて首を垂れたお酉の眼には、横から灯を受けて、明らかに涙さへ浮んでゐるのです。
「申上げませう、錢形の親分さん、あの人は越後屋の先の内儀さん――お里、お勢、お露三人姉妹には、血をわけた本當の母親でございます」
「え?」
これには平次も驚かないわけに行きません。
「驚くでせう、私だつて本當にびつくりしたんですもの。下男の久六が教へてくれなかつたら、物貰ひと間違へて、追つ拂つたかも知れません」
かう言ふ内儀には、何んの作爲も
平次と八五郎が、先刻死骸を見たとき、何處かで見たことのある顏と思つたのは、恐らく、三人の娘達に共通した面影があつたためでせう。
「――」
平次は默つて先を
「越後屋の先の内儀のお
その女の存在を
「ところで、その時どんな話をしたのか、見た人の話では、何でも二人ともひどく怒つて、
「でも、あの方が、――お里、お勢、お露の三人姉妹は、私が生んだ娘に違ひないから、今直ぐ引渡せと――それは無理なことを言ふんですもの」
「それはどういふわけだ」
「繼母の私の仕打が惡いんですつて。そして、三人姉妹は殺されるかも知れない、――と飛んでもないことを言ふぢやありませんか」
「――」
「私と三人の娘は、年も近いし、
強い性格と健康の持主らしいお酉も、女同士のいきさつになると、さすがに
「ところで、こいつは是非聽かなきやならないが、先妻のお艶は、どんなわけで、越後屋から追ひ出されたのだ。世間ぢや隨分、いろんな事を言つてるやうだが、不思議なことに、はつきりしたことは一つもわからない」
これは恐らく事件を解く、一番重大な鍵になるかもわかりません。平次は日頃にもない熱心さで喰ひ下がりました。
「申しませう、錢形の親分。隨分イヤな事ですが、人の命にまで
「その通りだ」
「驚いてはいけませんよ、親分。先の内儀さんには、不義の相手があつたんです」
「?」
「道ならぬ
「それは?」
「不思議なことに、その不義の相手の男は正體も名前もわかりません。越後屋ののれんがなかつたら重ねて置いて四つにするところだが――と、主人は散々に言ひ
「その不義の相手の名を、今聽き出す工夫はないものかな」
「主人は自分の名前さへ忘れてしまひました、――ましてそんな事を」
お
「外には?」
「それつきりでございます。お艶さんは
それは哀れ深い話ですが、後添へのお酉から見ると隨分苦々しいことだつたに違ひありません。
「ところで、話は別だが――」
平次の問ひは第二段に入ります。
「どんなことでも、申上げてしまひます」
内儀のお酉は、先妻のお艶が死んだと聽いて、妙に自責を感じてゐる樣子です。
「内儀さんは
平次の問ひは露骨で無遠慮です。
「もとの稼業ですから、一と通りはいたします」
荒海で
「ところでもう一つ二つ」
「どうぞ、親分さん」
「昨夜、御主人が惡かつたさうだが、今日は
「良いあんばいに、ケロリとしてゐるさうで、先刻も橋場の店から使ひの者が參りました、――でも私はもう歸らなきやなりません。此處は文治どんに任せて」
「渡船はもうない筈だが――」
「幸ひ近所に船がありますから、文治どんか、久六に漕がせて歸ります」
「二人とも船は漕げるんだね」
「文治は三浦三崎の生れで、泳ぎも船も私に
「その文治は信用の出來る男だらうな、内儀さん」
「それはもう、無類の正直者で」
「昨夜は、醫者へ二度も行つたといふことだが――」
「主人は急に樣子が變になつて、とてもいけないかと思ひました。中氣で二年越し寢たつきりですから」
「その文治は醫者からの歸りに、變つたことはなかつたらうか、ひどく手間取ると言つたやうな」
「二度目はお醫者が
平次の
「庭男の久六といふ男は?」
「あれは忠義者でございます――もう十年以上もこの家に奉公して居りますが、珍らしい
「
「あの歳まで獨り者で、口の惡い人達から片輪者だらうなどと冷かされて居りますが、つひぞ惡遊び一つしない不思議な男でございます。尤もあんなに年寄り染みては居りますが、年は思ひの外若いさうで、まだ四十臺だといふことで――」
お
「仕事の方は?」
「働きのある方でございませんが、この上もなくまめな男で、昨日も主人が惡いと聽いて、橋場の店へ手傳ひに來て居りましたが、うつかりして
お酉の話は次第にいろ/\のことに
「親分」
暗い廊下を暗み鳴らして、飛び込んで來たのは八五郎です。
「どうした、八。大層あわててゐるやうだが?」
「又やられましたよ。三輪の萬七親分がやつて來て、錢形の親分が此處にゐるのを承知の上、手代の文治を擧げて行きましたよ」
「文治を?」
「それね、親分だつて驚くでせう。あつしもあんまり馬鹿々々しいから、一應
「待つてくれ、八。志賀屋の船は、この寮の堀割の中に乘り棄ててあつたんだぜ。伊三郎を送つて來た文治は、どうして橋場へ歸つたんだ――兩國を廻つて歩いて歸れば、
平次は頭からこの考へには乘りません。
「文治は三崎育ちで泳ぎの名人だ。着物を頭の上に載せて隅田川を泳いで歸つたに違ひない――とかう三輪の萬七親分は言ひますがね」
「それは出來ないことではないにしても、少しむづかしいな。ね内儀さん、文治が醫者へ行つた時刻を覺えちやゐませんか」
平次は側に默つて聽いてゐるお酉に問ひかけました。
「
内儀の言葉は疑ひやうもありまん。
「八、念のために、昨夜伊三郎がお勝手の雨戸を叩いて、下女のお今に開けて貰つた時刻を聽いてくれ」
「へエ」
八五郎は飛んで行きましたが、やがて、
「お今は、
「それ見ろ、文治は此處へ來るひまがなかつた筈だ。それに、こいつは大事なことだが、文治は伊三郎とお孃さんの逢引の合圖を知つちやゐまい。あの三つづつ二つ小石で戸を叩く合圖は、女のお今しか知らなかつた筈だ」
「有難い、あつしは早速飛んで行つて文治の繩を解いてやりますよ」
八五郎は平次の止めるのも聽かずに飛び出してしまひました。文治を助けるといふよりは、三輪の萬七の苦笑する顏を見て、腹の中で『ザマア見やがれ』と言つてやりたかつたのです。
内儀のお酉は、橋場へは使ひの者をやつて、水神の寮に泊ることになりました。主人の金兵衞は幸ひ容態に變りはなく、老番頭の喜助が留守をしてゐるので、お酉は兎も角三人の
平次と八五郎は、一應引揚げることにしました。念のため三人の娘に順々に逢つて見ると、元氣の良いのは中のお勢だけで、姉娘のお里は、
「死にたい、死にたい」
などと、感傷にひたりきつて、繼母のお
外へ出ると、何處からか歸つて來た庭男の久六と、鉢合せするほど近々と逢ひました。
「物騷で
「それは念の入つたことだな、――ところでお前は、この家に何年奉公してゐるんだ」
「あの寮へ來たのは、ツイ一年前ですが、橋場の店には十年も奉公しましたよ」
「生れは?」
「房州で」
「大層身持ちが良いといふことだが、
「飛んでもない、親分」
「女房といふものを持つたことはないのか」
「持ちそびれましたよ、今更女房になり手なんかありやしません」
「お前だつて若い時分もあつたことだらう」
「へエ、若い時分に道樂が過ぎましてね――女の子とは縁がなくなりましたよ」
平次も二の句が
「話は違ふが、内儀のお酉さんはどんな人だえ」
「立派な
褒めてゐるのかくさしてゐるのか、これは一寸わかりません。
「先の内儀――あの死んだお
「綺麗な人でしたが、それが
「お前が、不義を
「旦那が可哀想でした。大きいお孃さんは兎も角、二番目三番目のお孃さん達は、誰の子だかわかりやしません、――他人の子を亭主に育てさせる女ほど惡い者はありませんね、――餘計なことでしたが、私は到頭見兼ねて、逢引してゐる場所を旦那に教へただけなんです」
久六の言葉には、淡い
「ところで、昨夜お前が橋場から歸つたのは
「
「橋から向島へかけて追ひ込みがあつて、往來の人を一々調べた筈だが」
「土地の者にはお目こぼしがあります。私共は犬つころくらゐにしか思はれてゐません。それに竹屋の渡しから此方は、
久六は事もなげです。
無駄話をしてゐるところへ、八五郎が文治を連れて歸つて來ました。
「親分、到頭萬七親分を
八五郎の得意らしさ――だが、この後にこそ、本當の恐ろしい
「親分、親分。まだ寢てゐるんですか」
庭へ廻つて障子の外から、八五郎は張り上げました。翌日の朝の
「馬鹿野郎、十手の先で障子の穴を大きくして、
「相濟みません。でもこんな生暖けえのに、障子を閉めきつてゐると、ツイ
「
「冗談ぢやありませんよ」
「障子を閉めきつてゐたのは、足が妙に重いから、三里に
平次は身を開くと、線香を持つた女房のお靜は、途方にくれた姿でモヂモヂしてゐるのです。
「道理で線香の匂ひがしましたよ」
「カンの惡い野郎だ――ところで、何にか用事でもあつたのか」
「大ありですよ。水神の青葉の寮で、二番目娘のお勢が、――命だけは助かりましたがね――あの潮入の池に突き落されて、上から大きな石を叩きつけられ、ひどく左肩をやられましたよ」
「フーム」
「あの娘は氣丈で
「よし、行つて見よう。湯屋覗きをやるやうな調べぢや、むづかしからう」
「へツ、もう覗くのは止しましたよ」
平次と八五郎は、かうして三度水神まで行くことになつたのです。
越後屋の寮は、水の底に沈んだやうに、物音一つ立てない無氣味な靜けさに支配されて居りました。
「あ、錢形の親分さん」
その中から、飛びつくやうに迎へたのは遠縁の
「どうした」
「三輪の萬七親分が、
「證據?」
「へエ、お孃さんが落ちたところに、内儀さんの
「
「平打の
「兎も角も現場を見ようか」
平次は庭から廻つて裏へ行くと、池のほとりの木蔭に、庭男の久六がぼんやり立つて居ります。
「お早うございます、親分さん。飛んだお騷がせいたしますが」
お世辭は一と通りですが、顏は眞劍に突き詰めて、にんがりともしません。一應
「何を見てゐるんだ」
平次は近々と寄つてその肩を叩きました。
「
「
「月の出は夜半近くなりましたが、お孃さんが池へ落ちたのは、まだ宵のうちでございましたよ」
老實さうな久六は、池を覗いて感慨に
「庭石を起した跡がありますね、親分」
八五路はツイ五六歩手前に、手頃の穴があるのを指さしました。
「こいつは重さうだな、八。餘つ程の力がなきや、持ち運びは出來ないぜ」
平次はその隣りの庭石と、石を起した跡の穴とを
「轉がして行く手があるでせう」
「萬七親分もさう考へたことだらうな。でも、草がよく
平次と八五郎のこの物語の中へ、久六は物言ひたげな顏を出して居りましたが、我慢が出來なかつたものか、
「私もそれを三輪の親分に申しましたが、三輪の親分は、相手は讃州志度の
「?」
「百本
久六は愚直らしく、額を撫でたり、兩手を
傷ついた二番目娘のお勢は、姉のお里の介抱で、どうやら元氣を取戻し、平次を迎へたときは、もう
「どうだえ、元氣は?」
平次が差しのぞくと、
「もう大丈夫、起き出して、飛んで歩きたいくらゐ」
さう言ひながら、半分身體を起しかけるお勢です。十八の娘盛りにしては、
「どつこい、まだ起き出しちや惡からう」
「でも、骨は何んともないんですつて」
「ひどい
「肩が水の中に入つてゐたので、それほどでもなかつたやうです」
掻卷を脱ぐと、
「ところで、突き飛ばしたのは、男か、女か」
「三輪の親分は女だらう――つて言ひましたが、私は男だつたと思ひます」
「見たのか」
「いえ、
「?」
不思議な答へに眼を見張ると、お勢はクツクツと
「だつて、男つて皆んなよく匂ふぢやありませんか」
「煙草の?」
「いえ、男の匂ひ」
十八娘の鼻の微妙さは、錢形平次でも想像は出來ません。
「突き飛ばされて水に落ちてから、肩へ石が落ちて來るまでひどく手間取つたとは思はないか」
「直ぐでしたよ。もう少しで
この娘の賢こさに、もう一度平次は兩手を擧げて褒めてやりたい氣になりました。
「何んだつて眞暗になつてから危ぶない池の
それは平次には取つて置きの重大な問題だつたのです。
「でも、私は、見て置きたかつたんです」
「?」
「あの池に何にか沈めてあるに違ひないと思つたんです。晝は人目について、うつかり側へも行けないから」
「それは何んだ」
「糸をつけて水の中に沈めたもの、――場所は水へ降りる段の右側、三番目の
平次は默つてそれを聽きながら、後ろにぼんやり突つ立つてゐる八五郎を振り返ると、心得た八五郎は、庭へ降りて飛んで行きました。
「それから?」
「
お勢はさすがに危ぶなかつたその時のことを思ひ出したか、全身に
「親分、これですよ」
八五郎は勝誇つて飛び歸りました。
「何んだえ、頓狂な」
「杭から細い糸で水の中にこの
八五郎の取出したのは、大振りな鍵で、これは誰が見ても、二日前に伊三郎の死骸のあつた、あの座敷
「矢つ張りこんな事だつたのか、――ところでお孃さん、昨夜この寮で泊つた男は?」
「文治どんだけでした――それから庭男の久六」
「文治は泳ぎはうまいと言つたね」
「――」
お勢は默つてしまひました。文治に對して好意を持ち過ぎてゐるので『三崎に育つた漁師の子』とは
平次は
確信的な心持で、座敷牢の錠前にその鍵を差し、靜かに廻すと、錠は何んの苦もなく開いて、
「八、お里さんを呼んで來てくれ。鍵を
「へエ」
八五郎が飛び出すまでもなく、隣りの部屋にゐたらしい姉娘のお里は、唐紙を開けて、靜かに出て來ました。
いかにも落着き拂つた、靜かな姿ですが、
「これでせうか、親分」
お里は用意したらしい鐵の鍵を出して、平次の
比べて見ると、輪の大きさ、足の長さは違ひますが、先は全く同じ寸法で、お里の持つてゐる鍵を見本にして、
「お孃さん、この鍵を人に貸すか、一寸でもなくしたことがありますかえ」
「いえ」
お里は輕く首を振ります。
「うつかり置き忘れたことは」
「その錠前に差し込んだまゝにして、外の用事を足したことはあります。でも半日と放つて置いたことはありません」
「それだ、――その一寸の間に見本の寸法を取られたのだ。穴の大きさと、二本の足の型さへ取れば、合鍵を拵へることは何んでもない」
「
八五郎はたまり兼ねて長い
「いづれ遠くの錺屋に頼んだことだらう。金さへ出せば、何處でも拵へてくれるよ、――だが江戸中の錺屋を調べるのは容易なことぢやないぜ」
「――」
「もう一つ、お孃さん。使はなくなつた座敷牢へ、一々錠をおろすのはどういふわけです。全く無駄なことのやうに思ふが」
「兄が死んだ部屋で、皆んな氣味わるがるんです。それに時々夜中に變な音がしたりして、――隣りの部屋に休んでゐる私もそのうちに部屋を變へる筈でした」
お里は全く
座敷牢の中は
部屋の中には何んにもありませんが、たつた三尺の押入を開けると、何時持込んだか
「八、それに乘つて、隣りの部屋との境の
「よし來た」
八五郎は氣輕に踏臺を持出すと、頑丈な板仕切の上のこれも
「どうだ、よく見えるだらう」
「へツ、隣りの部屋が隅から隅まで見えますよ。始終
「お前見たいに、覗くのが好きな奴がゐたに違げえねえのさ」
「へツ、お前見たいにと來ましたね」
「腹を立てるなよ、今朝十手で障子の穴を大きくした
無駄を言ひながらも平次は、この事件の眞相が次第にわかつて來た樣子です。
「その覗いた野郎は誰です、親分」
「待ちなよ、まだ
平次は八五郎の耳に囁くと、八五郎は
その姿が見えなくなつた頃、平次はお勝手で下女のお今をつかまへて居りました。
「お今さん、相變らず精が出るね」
「外に能はありませんよ、私なんか」
「さうでもなからう。庭男の久六は時々變な
「飛んでもない、――あの人は大きいお孃さんに夢中ですよ、――尤もお孃さん達の母親の、越後屋のもとの内儀のお
下女のお今の舌は、なか/\に
「でも、久六は無類の堅造だといふ評判ぢやないか」
「
「何、蝋燭?」
「ひどい
平次は唇を噛みました。男でなくなつた男、そして四十八歳の健康で、多情で、良心を
平次は橋場の渡場に飛んで行くと、もう一度越後屋へ行つて、一昨日の晩の久六の樣子を訊かうとしました。
渡し船は意地惡く手間取つて、中流へ出たのは座敷
「あツ」
フト振り返つた平次が、思はず聲を出したのも無理はありません。つい
「船を返してくれ」
「飛んでもない。岸を離れた船は返さないのが定法だ」
さう言ふうちにも、西陽の射し入る青葉の寮の座敷牢のあたりに、揉み合ふ男女の影が、渦卷く煙を
「あれ、見ろ、人の命に
平次は何時になく、懷中の十手を拔いて、
船頭の一人は幸ひ錢形平次の顏を見知つて居りました。乘合ひの衆に一と言
「親分、鍵は、鍵は?」
「中には?」
「久六の野郎が、
さう言ふうちにも、八方からは焔のハゼる音、頬を撫でて渦卷く煙。
「助けて、た、助けてツ」
お里の悲鳴が、座敷牢の中から絹を
「八、この錠はとてもネヂきれない。隣りの部屋の
それは實に天來の妙案でした。
「よしツ」
お里の部屋に飛び込んで、小机を踏臺に欄間を
× × ×
事件は一應落着しました。平次は八五郎のせがむまゝこの不思議な事件の祕密を語るのでした。
「久六は不身持から片輪者になり、それが中年過ぎになつてから、身を燒くほどの不思議な惱みになつたことだらう。十年前、先妻のお
「――」
「姉娘のお里が年頃になると、母親そつくりの美しい娘になつた。さすがに言ひ寄ることは出來なかつたが、座敷牢の合鍵を拵へ、
「――」
「あの晩久六は越後屋へ手傳ひに行つて、宵のうちに歸つたことになつてゐるが、兩國の橋番所も竹屋の渡しの番所の前も通つてゐない。多分今戸か眞崎で伊三郎に逢ひ言葉
「隨分
「
「お艶を殺したのは?」
「昔のことをよく知つてゐるお艶が、ウロウロ戻つて來たのが氣になつてならなかつたのだ。それにお艶も久六の惡黨ぶりをよく知つてゐるから、三人の娘の身の上を案じたのも無理はないよ。で、何處かで久六はお艶に逢つて、散々
「いやな野郎ですね」
「お酉は一應疑はれたが、お酉と文治は伊三郎の逢引の合圖を知る筈もなく、座敷牢の鍵を持つてゐる筈もない、――それから久六が越後屋へ奉公したのは十一年前だから、――お勢とお露は誰の子だかわかつたものぢやない――などと言ふのは變ぢやないか、お勢は十八でお露は十六だ。――それから最初堀割の船を見たとき何處の船だか知らないと言つたのも
「――」
「たつた一つ、久六が橋場の越後屋を出たのは宵のうちだ。そして水神の寮へ歸つたのもそんなに遲くない。――夜中にもう一度出て、船の中から伊三郎の死體を引き出し、家の中へ投り込んだといふ、恐ろしく悧巧な細工が讀めなかつたので、危ふくお里を殺すところさ」
「あつしも飛んだ骨を折りましたよ」
八五郎はあの火中の大亂鬪を思ひ出してゾツとする樣子です。
「その代り、三人の可愛らしい娘は皆んな助かつて、お前へ念入りにお禮を言つたぢやないか」
「口先のお禮だけぢやね、親分」
「不足らしい事を言ふな。相手は大
「あ、あ、男の
「馬鹿野郎」
二人は顏を見合せて