錢形平次捕物控

青葉の寮

野村胡堂





「親分、この世の中といふものは――」
 愛稱ガラツ八の八五郎が、お先煙草を五匁ほどくんじて、鐵瓶てつびんを一パイからつぽにして、さてこんな事を言ひ出すのです。
「止せやい、道話の枕ぢやあるめえし、『この世の中』が聞いてあきれるぜ」
 錢形平次は相手にもしませんでした。江戸開府以來と言はれた捕物の名人ですが、無精で貧乏で、人を縛らないのを建前にしてゐる世にも不思議な御用聞の平次は、戀女房のお靜と一緒に、神田明神下の路地の奧に住んで、三文植木の世話を燒きながら、市井しせいの哲人のやうに暮してゐるのです。
「へツ、あつしも呆れましたよ。※(「米+參」、第3水準1-89-88)しんこでこせえて紅を差したやうな滅法界可愛らしい娘が三人、何時殺されるかわからないと聞いちや、ヂツとしてゐられないぢやありませんかね、親分」
 江戸一番のフエミニストの八五郎は、若くて可愛らしい娘のこととなると、眼の色が變ります。
「待ちなよ、八。三人の娘の命にかゝはることと言ふと、そいつは向島の越後屋の寮の話ぢやないのか」
「どうして親分はそんな事を?」
「手紙が來たのさ。こいつはお前でも讀めるぜ」
 平次は煙草入の中から、小さく疊んだ手紙を取出して、隙間すきまだらけな縁側の上に煙管きせるをおもりにして擴げるのでした。
あつしが辨慶讀みにしてゐちや、け合ひ晝時分になりますよ。ちよいと讀んで下さいな親分」
 見榮みえのない八五郎は、恐ろしく下手な文字を持て餘して親分の平次の方へ手紙を押しやるのです。
「何んでもありやしないよ、『向島の水神の、越後屋の寮にゐる三人娘が、不思議なことから命をねらはれてゐる、間違ひの起らぬうちに、一度見廻つてやつて、惡人の惡企わるだくみを封じて下さるやうに――』といふことが書いてあるんだが、お前の方にも心當りがあるのか」
「大ありですよ、親分」
「この手紙は昨夜ゆふべ宵のうちに格子の中へ投り込まれたらしいが、見付けたのは今朝掃除さうぢのときだ、お前の方は――」
あつしの方は手紙ぢやありません。人間の小汚こぎたなくヒネたのが、叔母をたよりにやつて來ましてね」
「言ふことが嫌だな。お前は人が好いくせに、どうも口が惡い」
「どなた樣もさう仰しやいます。これで人が惡かつた日にや、全く取柄とりえがないつて――」
「心得てゐるから厄介だよ」
「まだ五十そこ/\でせう、ひどく尾羽をは打枯らした中婆さんが、昨夜遲くなつてからやつて來て、水神の越後屋の寮にゐる三人娘は仔細しさいあつて命を狙はれてゐる。今夜にも危ないから、行つて見張つて下さるやうに――と、土間に坐り込むやうにしてのお願ひだ。あつしだけ行く分にはわけもないが、その女のヒネたのが、錢形の親分を連れ出さなきや不足らしい事を言ふから、少ししやくがさはつて放つて置きましたがね」
 錢形平次を前に置いて、こんな事を言ふ八五郎です。
「妙なものを持つてゐるんだな。お前といふ人間は」
「へえ?」
「癪だの意地だのてえものは、犢鼻褌ふんどしつにでもくるんで人樣の前へは出さねえ方が無事だぜ」
「相濟みません。尤も今朝になつてから思ひ直してやつて來ると、親分は恐ろしくむづかしい顏をしてゐるでせう」
「むづかしい顏は大笑ひだ、盆栽ぼんさいに毛虫が湧いたんだよ。少し機嫌が惡かつただけのことさ、――あの毛の生えたのを見ると、鳥肌とりはだが立つんでね」
あつしは又そんな事と知らないから、昨夜あの中婆さんをつかまへて『あつしで不足なら止すがよい。錢形の親分は無精で氣むづかしいから、それくらゐの事で御輿をあげるものか』つて言つたのが、親分の耳へ入つたんぢやあるまいかと、ビクビクしましたよ」
「それでお先煙草を五匁フイにして、鐵瓶一パイの茶を呑んだといふわけか、あきれた野郎だ」
 平次と八五郎は、相變らずこんな調子で話が進みました。
「とも角、向島へ行つて見ませうよ」
「よからう」
 平次もその氣になりました。手紙だけなら惡戯とも被害妄想まうさうとも見られないことはありませんが、八五郎を訪ねた老女といふのが妙に氣になります。


 世間は五月になつたばかり、町々は青葉につゞられて、その頃の江戸はさながらの田園都市でした。
 かつをも裏長屋まで行渡つて、時鳥ほとゝぎすも珍らしくはなく、兩國橋を渡つて、大川の上手へ出ると、閑古鳥かんこどり行々子よしきりも鳴いてゐた時代です。
「飛んだ葉櫻見物ですね、親分」
 八五郎は引つ込み思案の平次を誘ひ出して、初夏の太陽の下に、胸一杯の大氣を吸はせただけでも、嬉しくてたまらない樣子です。
 その頃はまだ後の吾妻橋の大川橋はかゝつて居らず、兩國橋を渡つて、川岸つぷちを上手へ駒形から上流は殺生禁斷で、水戸の下屋敷あたりから上流は、全くの別天地でした。
 水神に辿たどりついたのは、晝を大分廻つた時分。
「あれですよ、親分」
 橋場の渡しの上手、田圃たんぼ道を行くと、大川を背にした堂々たる一と構へ、町人の寮といふよりは、小大名の下屋敷ほどのを八五郎は指さします。
 黒板塀をめぐらして、忍び返しを植ゑ連ねた門構へ、小砂利こじやりを踏んで入ると、さすがに、玄關はありませんが、磨き拔かれた格子戸にも、並々ならぬぜいしのばれるのです。
「あ、錢形の親分」
 その格子戸の前に、十手などを光らせて物々しく見張つてゐるのは、平次を一敵國にしてゐる老巧な御用聞、三輪の萬七の片腕といはれた、お神樂の清吉だつたのです。
 八五郎とは同年輩ですが、顏を合せると競爭意識が燃え上がるらしく、番毎犬と猿のやうにいがみ合ひますが、平次が側にゐるとさすがに端たなくも振舞へません。
「矢つ張り間違ひがあつたのか」
「へエ、變なことがありましたよ」
 お神樂の清吉は、平次の問ひに素直に答へます。
「三人娘のどれがやられたんだ」
 八五郎は若くて可愛らしいと聽いた、三人姉妹のことばかり考へてゐる樣子でした。
「八五郎兄哥あにい、安心しねえ。三人の娘は無事さ」
「すると?」
「殺されたのは、今戸の志賀屋しがやの伜伊三郎だよ」
「へエ?」
「姉娘お里の許婚さ」
「三輪の親分は?」
 平次はその問答を引取りました。
「奧にゐますよ」
 清吉に案内されて、平次と八五郎は奧へ通りました。
 庭一パイの青葉は、初夏の陽をしてグルリと廻り縁を辿るのが、丁度水の底を行くやうな感じです。土地の人がそれを『青葉の寮』と呼び慣してゐるのも無理のないことです。
 建物は思ひの外廣く、木口も見事で、一介の町人の寮としては、誠に堂々たるものです。尤もこの寮の持主の越後屋といふのは、大川をへだてた向う側の、橋場の半分は持つてゐるといふ大地主で、將軍樣御鷹おたか狩りや遠乘りの時は、座敷を開け渡して、中食の場所に提供するといふ家柄でした。
 當主金兵衞は五十八歳、隨分鳴らした大町人ですが、近年中風にかゝつて、餘命幾ばくもあるまいといはれ、世帶は全部後添へのおとりといふ、三十二三の達者な内儀おかみが切廻し、先妻お艶の遺した三人娘、お里、お勢、お露といふのが、二十歳、十八、十六の美しい盛りで世間の口をはゞかつて、繼母とは別に、川向うのこの寮に暮してゐるのでした。
 縁側が盡きて、廊下へ入ると、奧から急ぎ足に出て來たのは、パツと咲いたやうな娘です。
「三番目のお露さんだ」
 清吉が紹介した時は、娘はもうバタバタと少し端たない足取りで、何處かの部屋へ飛び込んでしまひました。三人の男に道をふさがれて、娘心をおびやかされたのでせう。
 十六といふにしてはよく成熟した、健康さうで明るい娘、大して美しくなくとも、誰にでも好感を持たれさうです。
「良い娘ですね、親分」
 八五郎は振り返つて居ります。
「娘の鑑定は大したものだが、よだれだけは拭いておくれよ、八」
 平次はその肩のあたりをどやしつけました。


「おや、錢形の、もう嗅ぎ出したのかえ。良い鼻ぢやないか」
 暗がりからヌツと出たのは、三輪の萬七の苦虫を噛み潰したやうな顏でした。四十五六の練達な御用聞ですが、押しが強くて顏が古いので、ともすれば、若くて評判の良い錢形平次にのしかかつて來るのです。
「何んにも嗅ぎ出したわけぢやないよ。不思議な手紙にさそはれて來たんだが――現に此處に何が起つたかも知らずに來て、お神樂かぐら兄哥あにいに、志賀屋の伜伊三郎とやらがどうかしたと始めて聽いた始末さ」
「さうか、俺は又、相變らず鼻の良い八五郎兄哥に嗅ぎ出されて、錢形の親分に手柄をさらはれることかと思つたよ」
 三輪の萬七もいくらか打ち解けました。
「で? どんな事があつたんだ」
「兎も角、見當もつかないやうな不思議な殺しだよ。こいつを見てくれ」
 三輪の萬七が案内して、二た間、三間先へ行くと、建物の一番奧、西向きの一と間は座敷牢かかこひのやうに、恐ろしく頑丈な格子をはめ、かしの一枚戸――これは一パイに開けてありますが、その中は半分板敷の十二疊間で、疊の上には、一人の若い男が、ボロきれのやうに轉がつてゐるのです。
「これは?」
「見るがよい、志賀屋の伜伊三郎だ。絞め殺されてゐるよ」
 それは二十三四の、華奢立きやしやだちの好い男でした。身扮みなりはひどく亂れて居りますが、懷中の紙入――小判が二枚と小粒で三兩ばかり入つてゐたのは無事だつたさうで、びんの毛の亂れと衣紋えもんの崩れの淺ましさが、この好い男の若旦那を、一層痛々しいものに見せます。
「この死體が何處にあつたのだ」
「この部屋に轉がつてゐるのを、下女のお今が見付けたといふことだよ。――その時このかしの一枚戸には、ぢやうがおりてゐたさうだ。鍵は姉娘のお里が持つてゐるだけといふから變ぢやないか」
「フーム」
「大騷ぎになつて、お里の持つてゐる鍵で開けたが、その時はもう伊三郎は冷たくなつてゐて、醫者も藥も及ばない。それに首筋にはこの赤いひもが卷いてあつたといふが――」
「その紐は誰のだえ」
「お里の腰紐だよ」
 疑ひはお里へお里へと向いてゐるのです。
「お里とは許婚だつたといふぢやないか」
「この春はむこ養子になる筈だつたが、越後屋の主人の病氣で遲れてゐたといふことだよ」
「若い女が許婚の男を引入れて、絞め殺すといふことはあるのかな」
 口を出したのは八五郎でした。
「この座敷牢の錠は、昨夜も、一昨日の晩も、間違ひもなくおりてゐたといふぜ」
 三輪の萬七はそれをはじき返すやうに言ひ込めます。
「これは矢張り座敷牢に拵へたものか」
 と平次でした。十二疊の一と間は、納戸なんどと座敷を打つこ拔いて、牢格子をはめたものですが、外に使ひやうがあらうとも思はれなかつたのです。
「越後屋の總領の金之助は、恐ろしい不身持で、一年あまりも此處へ押し込められてゐたが、可哀想に首をつて死んでしまつたといふことだよ。それはもう二年も前の話だが、――そんな事があつたので、世間では繼母のことをあまり良く言はないよ。尤も越後屋の主人の金兵衞が、今から五年前讃岐さぬき金毘羅こんぴら樣へお詣りに行つた時、志度しどの浦の海女あまだつたのを見染めて、江戸へ連れて來て磨き拔いた女だといふことだがね」
 土地者の萬七も、この越後屋の後添へにはあまり好感を持つてゐない樣子です。
 讃州さんしう志度の海女は、藤原淡海たんかい公のために龍王から面向不背めんかうふはいの珠を奪ひ還したといふ傳説のあるところ。それにしても海女を江戸につれて來て、自分の女房にしたといふ、越後屋の物好きは相當のものです。


 隣りの部屋には、越後屋の内儀のおとりと、伊三郎の父親――志賀屋の主人の伊左衞門と、お里、お勢、お露の三人姉妹がおびえきつた顏を揃へて居りました。
 お酉といふのは海女だつたといふにしては、色も白く、きりやうも並々でなく三十二三の立派な年増です。越後屋の主人金兵衞は、恐らくこの潮のにほひのするやうな健康と大空のやうな寛達さに打ち込んで、江戸へ連れて來る氣になつたものでせう。
「御苦勞樣でございます」
 丁寧ではあるが、言葉少なに挨拶するお酉の背後から、三人娘は申譯だけのお辭儀をするのでした。
 お里は二十歳といふにしては、少しふけて居りますが、これが一番美しく、やゝ淋しい感じのするのは、顏立ちのとゝのひ過ぎてゐるせゐかもわかりません。骨細で背が高くて、一寸見たところ、許婚の若い男を絞め殺せる柄とは思はれないのです。
 二番目のお勢は、氣性者らしい色の黒い娘で、これは三人のうちでは、一番見劣りがします。三番目のお露は先刻さつき廊下で逢つたばかり、極り惡さうに俯向うつむいて、豊かな頬と白い額を見せてゐるなゝめのポーズに、たまらなく可愛らしいところがあります。
「錢形の親分、伜があんな事にされては、あんまりでございます。何んとか、早く下手人を搜し出して、御處刑を願ひます」
 志賀屋はあまりの事に顛倒てんたうして、少ししどろもどろです。
「いろ/\聽きたいこともあるが――志賀屋さんの外の方は暫らく遠慮して貰はうか」
 平次の言葉が終らぬうちに四人の女は滑るやうに部屋の外へ出てしまひました。
「親分さん方、私にはもう下手人はわかつてゐるやうな氣がいたしますが」
 振りあげた志賀屋の顏、その眼の中には、メラメラと忿怒ふんぬが燃えます。
「誰を疑つてるのだえ、志賀屋さん」
 平次はそれを靜かに抑へました。
「あの座敷牢の鍵を持つてゐるのは、一人しかありません。それに、あの赤いひもは?」
 志賀屋伊左衞門は父親らしい執念しふねんで嫁になる筈だつたお里の上に、大きな疑ひを冠せてゐるのでした。
「その鍵を持つてゐたお里と、伊三郎は許婚の間柄ではなかつたのか」
「へエ、それはその通りですが、痴話ちわ喧嘩といふこともないぢやございません」
「二人は仲でも惡いとか、何方かが嫌つてゐるといつた樣子でもあつたのか」
「そんな事はございません」
 志賀屋伊左衞門は頑固ぐわんこらしく頭を振るのです。
「それどころか、祝言前の二人は、一緒になるのが待ちきれなくて、時々逢引でもしてゐた樣子はなかつたのか」
「そんな事もございました。越後屋さんの御病氣で、祝言が延々になつて居りますので、伜は時々飛び出して來ては、水神のあたりをウロウロしてゐると世間では申して居りました」
昨夜ゆふべは?」
「宵のうちに飛び出したやうで」
「二人の仲を邪魔する者はなかつたのか」
「あるわけはございません。天下晴れての許婚ですもの、ことに越後屋の御新造(おとり)は大層な肩のいれやうで、何んとかして二人を一緒にしてやりたいと、そればかり申して居りました。伜もまたお里さんには繼母に當りますが、年が若くて思ひやりのある御新造のお酉さんを頼りにして、時々は橋場へも行つて居りましたやうで」
「それぢや、お里を疑ふのは變ぢやないのか」
「でも、あの鍵と、赤い紐が」
「それぢや、もう一度、死骸を見るがよい」
 平次は何を考へたか、志賀屋伊左衞門を誘つて、もう一度隣りの部屋へ戻りました。その後から、三輪の萬七と八五郎が、つまゝれたやうに從いて行つたことは言ふ迄もありません。
 伜の死骸の側へ行くと、伊左衞門はガツクリ膝を折つて愛撫するやうにその顏を隱したきれを取りました。
「――」
 苦惱を刻んだ若い顏を見ると、父親の伊左衞門は、ツイ涙がさしぐむ樣子です。
「よいかえ、志賀屋さん。この首筋に卷いてあつたのは、娘の赤い腰紐で、ヨリも何んにもないが、首筋には繩の跡が殘つてゐるのだよ。明るいところで、氣をつけて見なきやわからないが、三つぐりの細引の跡だ。細引で締め殺してから、赤い紐を卷いて置いたものだらうと思ふが――」
「鍵は?」
 志賀屋伊左衞門はまだこだはります。
昨日きのふうつかりこの座敷らうを開けて置いたのかも知れない」
「飛んでもない、そんな事はありませんよ。掃除さうぢは月に三度だけで」
 廊下から口を容れたのは、下女のお今でした。四十過ぎの達者さうな女で、その後ろから庭男の久六と、越後屋の内儀おかみと一緒に橋場の店からやつて來た、中年者の文治といふ手代が覗いて居ります。
「錢形の、もう一つ言ふのを忘れてゐたが、昨夜大きな追ひ込みがあつて、兩國から向島まで、すつかり網を張つてゐたよ。夜つぴて見張つた者に聽いたが、怪しい人間一人も通らなかつたといふことだ」
 三輪の萬七は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「有難う、少し庭から外廻りを見よう。誰か案内してくれないか」
「へエ、へエ、私が御案内いたします」
 平次の前に立つたのは、照れ隱しらしい庭男の久六と、越後屋の手代の文治でした。
 一人は五十二三の御粗末な老爺で、朴訥ぼくとつらしくは見えますが、案外こんなのには、飛んだ喰はせものがないとは限りません。手代の文治は三十前後の好い男で、越後屋の遠縁に當るといふことですが、顏の道具の細々とした、眼の涼しい口もとの可愛らしいところが特色です。
 忍び返しを打つた板塀に圍まれて鐵桶てつとうのやうな嚴重な庭に、大川の水が取入れられて、その小さい堀割に小船が一艘、ユラユラと浮んでゐるのが平次の眼につきました。


 この邊の寮にはよく見かけた潮入の池、細長く相當の深さを持つた一種の堀割は、水門一つで隅田川の水面につながつて居り、此處に小舟など用意するのが、贅澤な町人衆の、たしなみの一つでもあつたのです。
 寮は板塀と忍び返しと、嚴重な門とに護られて、野良犬の入る隙間もありませんが、何んかの方法で外から水門を開く祕密さへ解けば、一隻の小船で水の上からスルスルと水鳥のやうに滑り込めるでせう。
「この船は?」
 平次は庭男の久六を顧みました。
「一向見かけたことのない船ですが」
 久六は頑固らしく胡麻鹽ごましほ頭を振るのです。
「釣船のやうだが――」
 駒形から上流すなはち宮戸川の區域は、昔から殺生禁斷で、釣船、網船は滅多に見かけず、寮の中の潮入の池に繋いであつても、殺生を目的の船は妙に眼につきます。
「おや、細引がありますぜ」
 眞つ先に船に飛び込んだ八五郎は、船具らしい澁引の細引を見付けて、思はず張り上げました。
「其處に煙草入かくしが落ちてゐると申分ないんだが」
 平次は謎のやうなことを言ひながら、岸の上から氣のない顏で船を覗いて居ります。
「あ、天眼通だ」
「何んだえ騷々しい」
あかつかつて、櫛が一つ――こいつは鼈甲べつかふですよ」
 八五郎は飴色の大振りな櫛を一つ、水あかをきつて陽にすかしてゐるのです。
「そいつは直ぐ持主がわかるだらう」
 平次がさう言ふのも尤もでした。鼈甲の貴さは黄金に匹敵した時代で、釣船の中などに輕々しく落すべき性質のものではありません。
「ところで、水門はどうして開けるのだ」
 平次は鼈甲べつかふのことを忘れたやうに、庭男の久六に訊ねました。
「外から入る時は、手を突つ込んでかんぬきを外すだけですから、わけはありませんが、れないと呼吸がわからないから、ちよいと面倒ですよ」
 久六はさう言ひながら、水門の上の方にある隙間を指さすのです。
「そんな事を知つてゐるのは、誰と誰だ」
「家中の者は皆んな知つて居りますが」
「橋場の店の者もか」
「へエ」
 その時、何にかモヂモヂしてゐた手代の文治は、我慢がなり兼ねた樣子で口をれました。
「こんな事を申すと、差し出がましいやうですが、その船は志賀屋さんの持船ぢやございませんか――志賀屋さんの大旦那は釣がお好きで、釣船をこしらへて眞崎の船頭衆に預けてある筈ですが」
「すると伊三郎は、この船を自分でいで、眞崎から此處まで通つたといふのか――」
 戀するものの、底の知れない情熱と、その努力の恐ろしさに、平次は妙にしんみりとしてしまひました。隅田川を船で横斷することは、大したむづかしい事ではないにしても、算盤そろばんより重いものを持つたことのない、華奢きやしやな若旦那の素人藝としては、この戀の通ひ路は容易ならぬものがあります。
「へツ、たまらねえな。船で女の子のところへ通ふなんて圖は」
 八五郎は船を漕ぐ眞似なんかして、剽輕へうきんな聲を張り上げました。
「馬鹿だなア、お前もそんな事をして、絞め殺されてえのか」
「殺されるのは御免だが、ちよいとあやかりものぢやありませんか――おや、三輪の親分は見えないやうですが」
くしを持つて飛んで行つたよ。今頃はあの櫛の持ち主を見付けて、締め上げてゐるだらう」
「誰です。あの櫛の主といふのは」
「越後屋の内儀のおとりさんさ。この八卦はつけが違つたら、俺は十手捕繩を返上して――」
「番太の株を買はう――といふんでせう。あつしの口眞似をしちやいけません」
「先を言つちやなほいけねえ、――飴色の無疵むきず龜甲べつかふの櫛、少し大振りなところを見ると、金のありあまる年増か女房の持ち物だ。――馬の爪で拵へたまがひ物と違つて、あれは安い代物しろものぢやねえ」
「成程ね」
「細引で殺して置いて、死骸の首に赤い紐を卷きつけたり、船の中に鼈甲の櫛を落しておいたり、これはどういふ謎だ」
 平次の調子は、誰ともわからぬ相手に小言を言つてゐるやうです。
あつしのせゐぢやありませんよ」
「お前などは足許にも寄りつけないほど恐ろしく悧巧な人間の仕業だよ」
 平次は妙に考へ込んでしまひました。


 母家おもやに引返すと、お勝手口で、もう下女のお今をつかまへて、輕い調子で話込んでゐる平次です。
「お今さんと言つたね。お前神妙な顏をしてゐるが、内々好い人があるんぢやないのか」
「御冗談でせう、親分、私はもう四十五ですよ。亭主が呑む打つの道樂で手のつけやうがないから、子供のないのを幸ひ、自分からおん出て來て、若い時分にお世話になつた越後屋さんに、一生奉公のつもりで轉げ込んだ私ですもの。男なんてものは、我儘で高慢で、助平で横着で、なまけ者で、呑兵衞で、虫見たいなものだと思つてゐますよ。飛んでもない」
 恐ろしい勢ひでまくし立てます。四角なあご、少しくぼんだ眼、頬骨が高くて額が狹くてみにくいといふ程ではないにしても、申分なく達者な女です。
「でも、この寮へ、時々忍んで來る男があるといふぢやないか。隅田川を船で渡つて、水門から入るのは、洒落しやれれたものだね。いづれ船頭衆か何んかを情夫いろに持つてゐるんだらう」
「そんな馬鹿なことが――」
「お前の外には、若い娘が三人ゐるだけぢやないか、大家の祕藏娘ひざうつこが、船頭や馬方とそんな大それた逢引なんかするものか」
「親分、私はもう、私は」
「どうだ一句もあるまい、四十を越しても女は女だ。それにお前は身體も丈夫だし、きりやうだつて滿更ぢやねエ」
「止して下さいよ、親分。そんなに馬鹿にされるなら、私はもう言つてしまひます」
「白状する氣になつたか、――お前の男といふのは誰だ」
「私の男ぢやありませんよ、お孃さんの所へ忍んで來る男ですよ。堅く口留めはされてゐるけれど、もう死んでしまつたから、言つたつて構はないでせう。志賀屋の伊三郎さんが、月に二度か三度、船で逢ひに來るんです、大きいお孃さんのところへ――」
「本當か、嘘ぢやあるまいな」
「外から合圖の戸を叩くと、私が開けてやることになつてゐるんですもの、――でも若い人達の逢引で、きまりを惡がるから、戸を開けるとすぐ引つ込んで、あとは寢ることにしてゐます。若旦那が歸る時は、お孃さんが送つて出て、名殘りを惜みながら、あとを締めて下さることになつてゐるんです」
「何處から入るんだ」
「私の部屋の前の縁側から」
「合圖は?」
「小さい石を拾つて、三つづつ二つ叩くことになつてゐました」
「お前は顏を見ないのか」
「見ないことにしてゐます。でも――」
「どうしてそれが志賀屋の伊三郎とわかるんだ」
「見ない事にしてゐたつて、長い間にはねエ」
のぞいても見たくなるといふのか」
「――」
 四十五の達者な女には、それくらゐな好奇心が燃え殘つてもよい筈です。
「よく言つてくれたよ。隱してゐると、お前が不しだらをしてゐることにされるぜ」
「まさか、ね、親分」
「二人はさぞ仲が好かつたことだらうな」
「それやもう、見ちやゐられませんでしたよ」
「語るに落ちたぜ。矢張り覗いてゐたんだらう」
「まア」
「そんな事は宜いとして、二人は一と晩逢つてゐるわけぢやあるまい」
「ほんの半刻はんときも經つと、殘り惜しさうに別れて、若旦那は歸つて行きましたよ」
「ひどくせつかちな逢引だな、柳原の惣嫁そうかにからかつてももう少し情があるぜ」
 それは八五郎でした。
「餘計な口を出すな、八」
「へエ」
「ところでお今さん、伊三郎は昨夜ゆふべも忍んで來たことだらうな」
「來ましたよ。子刻ねのこく(十二時)少し前でしたか知ら」
「樣子に變つたことはなかつたのか」
「私はわざとそツぽを向いて、なるべく相手の顏も見ないことにしてゐるし、時々の事で珍らしくないから、戸を開けてやると直ぐ自分の部屋へもぐり込んでしまひました。何んにも見たわけぢやありません」
「歸つたのは?」
「それが變なんです、ほんの煙草二三服もすると、歸つたのか戻つて來たのか、縁側えんがはで足音がしたやうですが、それつきり靜かになつて、歸つた樣子もありません。私もいつの間にやら寢込んでしまつて、今朝明るくなつてから氣がつくと、昨夜開けてやつた雨戸が、そのまゝ開いてるぢやありませんか」
「?」
 平次は默つてしまひました。話はひどく奇つ怪です。


 平次は下女のお今の部屋を借りて、其處へ姉娘のお里を呼んでもらひました。
 地味な銘仙のあはせ、赤いものは、襟と八つ口に僅かに匂ふだけ、いかにも淋しい姿ですが、顏形はよく整つて、如何にも上品な娘でした。さすがに許婚いひなづけで戀人でさへあつた伊三郎の死は、この娘にも容易ならぬ打撃であつたらしく、愼ましくはあるが、深々と悲しみに閉され、物を責め問ふさへ痛々しい感じです。
「ね、お孃さん。志賀屋の若旦那が殺されたが、これは容易ならぬたくらみがありさうだ。何事も隱さずに、打ち開けてくれるだらうな」
 平次の言葉は法外に丁寧です。若い娘の心持をほぐすには、外に工夫のないことを平次はよく知つてゐるのです。
「――」
 お里は顏を擧げました。今更伊三郎の死といふ、取りかへしのつかぬ大きな事實に直面したことを思ひ出したのでせう。聲のない嗚咽をえつが喉にからんで、長い睫毛まつげの底から、油然と涙が湧き上ります。
 今朝からの激動と恐怖で、この娘は多分泣くことさへも忘れてゐたのでせう。錢形平次の前に引出されて、そのおだやかな人柄と、思ひやりの深い言葉を聽くと、性も他愛もなく、娘心の弱々しさに返るのです。
「伊三郎との縁談は、どんなきつかけで始まつたのだ」
「伊三郎さんが人を頼んで、私の親達へお話させました、――もう半歳も前のことで」
 相惚れの仲人實は廻し者――と言つた、古川柳こせんりうをそのまゝ行つた仲でせう。
「伊三郎が、時々船で逢ひに來たさうだが、――隱しちやいけないよ、お孃さん。昨夜も來たことだらうな」
「いえ、昨夜は到頭來ませんでした」
 これは實に重大な言葉です。
「ところで、二人の仲を割かうとした者はありやしないか」
「伊三郎さんの親御さん達の外には」
「すると志賀屋さんは不承知だつたんだね」
「――」
 お里はうなづきます。それは後でわかつたことですが、志賀屋の主人伊左衞門には、伊太郎といふ跡取りがあるので、この縁談に積極的には反對でなかつたのですが、總領の伊太郎の不愛嬌でみにくくて、親達への當りもよくなかつたのと比べて、次男の伊三郎の、人付きの良さと、男振りの拔群なのを溺愛できあいし、越後屋へ養子にやるのを惜しがつてゐたといふに過ぎなかつたのでした。
「もう一つ、お孃さんには外に縁談の口もあつたことだらうな」
「――」
 お里はうなづいた樣子です。
「お孃さんに言ひ寄つた者は?」
「――」
 お里はパツと顏を染めましたが、さすがに明らさまには言ひ兼ねるのでした。
 二番目娘のお勢は、色の淺黒い、少し男顏のみにくい娘ですが、姉にくらべると氣が強いらしく、平次の問ひに對しても、ハキハキと答へてくれます。
「姉さんが伊三郎さんを引入れてゐるのを私も薄々は知つてゐました。でも、許婚同士ですもの、妹の私がかれこれ言ふ節はないでせう。――それや姉さんはあのきりやうですもの、町内の若い男の人で姉さんのことを何んとか思はない者はなかつたと言つてもよいくらゐですよ」
「その中でも一番うるさく言ひ寄つたのは?」
「金物屋の銀さん、竹屋のとらさん、米屋の元さん――それに店の者だつて、皆んな姉さんを追ひ廻してゐましたよ。店には若い者がいつでも五六人はゴロゴロしてゐますからね。私達がれうへ來ることになつたのは、そのせゐだつたかも知れません」
「文治は?」
「あの人は別ですよ。遠い從兄妹いとこ同士だし、無類の堅造かたざうだから、女のゐない國へ行きたいやうな顏をしてゐるでせう。五年前三浦三崎から來た時は、潮焦しほやけのした漁師れふしの伜でしたが、江戸の水で磨いて、何時の間にやらあんなに好い男になつたけれど」
 道化だうけた調子ながら、この娘は文治に少しばかりの好意を寄せてゐる樣子です。
「?」
「あの人は商賣の事と金儲けの事しか考へない變人ですよ――でも、それや良い人」
 十八娘のお勢は、醜女しこめの娘らしくもなく言ひきるのでした。
「昨夜伊三郎が忍んで來たのを知つてるだらうな、お孃さん」
「いえ、ちつとも。私は何んにも知らずに、よく寢てゐた樣子です」
 それは恐らく掛引のない言葉でせう。
 三番目娘のお露は、まだ十六の可愛らしさで、何を訊いてもハキハキとはこたへません。それにまだ、姉のお里と伊三郎の關係も、外面的なことしか知らず、戀のいききつなどは、お人形の國の出來事ほども關心を持つてゐない樣子です。


 いきなり奧の方から、三輪の萬七のわめき立てる聲が聞えて來ました。
内儀おかみ、そいつは言ひ譯が暗いぜ。伊三郎が乘つて來た船の中には、現にこのくしが落ちてゐたんだ、こんな見事な鼈甲べつかふの櫛は、滅多にある品ぢやねえ」
「だから、その櫛はたしかに私の物に違ひないと申して居ります」
 越後屋の後添へのおとりは、それに對して一歩も退かうとはしません。もとの素姓はどうあらうと、この女の性根のたくましさは、三輪の萬七のやうな、強引な御用聞と噛み合せると、一番手つ取り早くわかります。
「三輪の親分の前ですが、内儀さんは昨夜橋場の店にゐたことは確かで、何處へも出かけませんよ」
 飛んだ助け船を出したのは、手代の文治でした。
「何んだと、それは本當か」
 萬七はきつと文治の方を向き直りました。變なことを言ひ出したら、有無を言はせずに、此奴こいつも一緒に縛りさうな氣組です。
「主人が宵から氣むづかしくて、夜半過ぎまで店中の者も落付けない騷ぎでした。中氣には違ひありませんが、かんが昂ぶると、よくあんなことがあります。私は馬道の杏庵きようあん先生のところへ、二度も使ひに行つたくらゐで」
 これは上等過ぎるほどの不在證明アリバイです。
「親分、ちよいとお顏を」
 お神樂の清吉はこのの惡さを救つて、三輪の萬七を呼出しました。
「何んだ、うるさいぢやないか」
 などと言ひながらも、萬七は庭の方へ出て行きます。
 それと入れ違ひに入つて來たのは、錢形平次と八五郎でした。
「志賀屋さん。伊三郎さんが、今戸から船をいで、時々此處まで忍んで來たことは氣付いてゐたでせうな」
 平次の問ひは平凡でした。
「飛んでもない、錢形の親分。伊三郎は船が大嫌ひで、私が釣にさそつても、滅多に出かけたこともありません。船を漕げなかつたことは、親の私が一番よく知つてますよ。釣竿つりざをの方が忙がしくて、たまにかいを任せると、水すましのやうに、船をグルグル廻してばかりゐましたよ」
 これは思ひも寄らぬ言葉でした。平次の築き上げた假説は、これで殆んど完全にくつがへされたことになります
「それぢや釣に出る時はどうするんで?」
「眞崎の船頭權七親子は長年の出入りで、ことに伜の權次は良い腕ですよ」
 平次は默つて八五郎に限配めくばせすると、八五郎は早くも飛んで行つてしまひました。船頭權七親子に聽けば、面白いことがわかりさうです。
 八五郎の歸りは思ひの外手間取りました。橋場の渡しの悠長いうちやうさのせゐもあるにしても、一つは船頭權七の伜の權次が、安賭場やすとばを廻つて歩いて、もう四日も家へ歸つて來ないために、その行先をつきとめるのに手間取つたのです。
 あきらめて平次が引揚げたのは、もう日が暮れてからでした。早急に下手人が擧りさうもなく、手掛りもこと/″\くあさり盡してしまつて、この上は土地を繩張りにしてゐる、石原の利助の子分達に任せる外はありません。
 明神下の家へ歸つて來て、ホツとしてゐるところへ、相變らず疾風しつぷうのやうに飛び込んで來たのは、はずみきつた八五郎でした。
「サア、大變、親分」
「よく、さう大變の憑物つきものが落ちないんだね。三日に一度くらゐづつは、そいつにおびやかされるぜ」
 平次は悠然として晩飯の膳を押しやります。
「でも、船頭の權七の伜の權次は安賭場やすとばにはまり込んで、四日も天道樣を拜みませんよ、――ようやく搜し出しましたがね」
「それがどうしたんだ」
「――志賀屋の若旦那を、船で水神の寮に送つて、逢引さしてゐたのは俺に違げえねえが、此處で勝續けてゐたんだから、俺の知つたこつちやねえ――と小判を二三十兩膝の下に掻き集めて、大名にでもなつた氣でゐますよ」
「?」
「證人が十人もあるんだから、昨夜伊三郎を船で寮へ送り込んだのは、權次ぢやありません。それにもう一つ、こいつの方が大變なんで」
おどかすなよ、八、俺は虫が起きてゐるんだ、――『大變』の中毒でね」
「これを聽いたら、親分だつて驚きますよ、――昨日あつしの家へ來た五十女、――青葉の寮の三人娘の命が危ないから助けてくれと言つて來たきたな作りの女ですがね、そいつが土左衞門になつて百本ぐひに引つ掛つてゐたとしたらどんなものです、――それもまぎれもなく殺しだ」
「何?」
 平次もさすがに驚きました。事件は又容易ならぬ一つの面を見せて、平次に挑むのです。


「八、お前はくたびれてゐるやうだぜ」
 平次は自分の前を駈けて行く八五郎のヒヨロヒヨロした足取りを覺束おぼつかなく見やりました。
「大丈夫ですよ親分。この通り」
 事件が緊迫すると疲れといふ事を知らない八五郎です。
「わかつたよ、八。いきなり駈け出されちや、俺の方がかなはねえ」
 そんな事を言ひながらも、言外にはげまし合つて、二人が百本杭へ行き着いたのは、やがて酉刻半むつはん(七時)近い時分でした。
「おゝ、錢形の親分」
 この邊を持場にしてゐる石原の利助の子分達に挨拶されながら、平次と八五郎は、死骸を引場げてある、河岸かしの石疊の上にしやがみ込んで、わびしくも上へ掛けた、荒筵あらむしろを剥ぎました。
「八、これはたしかに、お前のところへ訪ねて行つた人に違ひあるまいな」
 差し出した二つの提灯ちやうちんの光りの下に、淺ましく照し出された死骸の顏は、豫想して來たよりは遙かに若く、そして死もまた奪ふことの出來ない端麗な美しさが殘つてゐるのです。
「間違ひありませんとも、少し若くなつてはゐますがね」
「四十二、三かな、――五十過ぎの薄汚い婆さん――とお前は言つたやうだが、大變な違ひだぜ」
「でも、左の頬の下の方に、かなり大きな黒子ほくろがありますよ」
「身許はわからないのかな、石原の若い衆」
 平次は後ろを振り向きました。其處には石原の利助が身體をいけなくした後、その娘の女捕物師と言はれたお品に引廻されてゐる、若い手先が二三人ゐるのでした。
「この邊でよく見かけた女ですよ――身扮みなりは變ですが、金を持つてゐたといふことで決して乞食ぢやありません」
「が、顏へ何にか塗つて、姿を變へてゐたことは確かだな。見るがよい、相好は變らないだらうが、小鼻のわき、耳の後ろ、あごの下などに、繪具かすゝか知らないが變なものが殘つてゐるだらう」
 平次は念入りに死顏を眺めて居ります。
「親分、何を見てゐるんです」
「この顏をお前、何度かで見たことがあると思はないか」
「さう言へば、見たことのある顏ですが――」
 八五郎も尤もらしく首をひねりますが、誰に似てゐるとも一向見當もつきません。
「錢形の親分、妙なことを聞き込みましたが」
 それは石原の子分の一人でした。
「何んだえ?」
「この水死人が、先刻さつき――と言つてもまだ陽のあるうちですが、水神の近所で、越後屋の内儀おかみと話をしてゐたさうですよ」
「フーム」
「それも唯の話ぢやなくて、女同士のつかみ合ひでも始めさうな、大變ないがみ合ひだつたさうで」
「八、もう一度青葉のれうへ行つて見ようか。いろ/\厄介なことの起るのは、矢つ張りあの邊が火元らしいぜ」
 平次は疲れも眠氣も乘り越えて、この事件を一氣に解決する情熱に燃えたのです。


 水神の越後屋の寮へ行くと、何も彼もが今日の晝頃の通りでした。
 伊三郎の死骸は、檢屍が遲れて夕方になつてようやく志賀屋が引取り、船を仕立てて哀れ深く歸つて行きましたが、その時、姉娘のお里が『死の船』の後を追つかけ、潮入の堀割の岸で、芝居でも見られぬ大愁嘆場だいしうたんばをやつたさうで、下男の久六などは、生れつきの神經の太さで、それを面白いもののやうに話してゐるのでした。
 幸ひにこの騷ぎが片付かなかつたので、内儀のおとりも、手代の文治も、店へは歸らずにこの寮に止まり、内々はお里の悲歎を見張つて居ります。若い者の一本さで、取詰めて後追ひ心中でもされては、第一越後屋の暖簾のれんにもかゝはります。
 平次は兎も角も、奧の二間で内儀のお酉と相對しました。もとは讃州志度しど海女あまだつたにしても、よい血を引いてゐたらしくお酉といふ内儀には、何んとなく非凡なところがあるのです。色白の立派な恰幅かつぷくや、聰明らしい明るい眼、魅力と利かん氣をたゝへた、複雜な表情を持つた唇など、物馴れた平次でさへ、この年増女に對しては、何んとなく敵し難いものを感ずるのです。
 身扮みなりは一向に地味ですが、その健康さうな皮膚で、いひ知れぬ匂ひ――曾てこの内儀が潜つた大洋の香氣を傳へてゐるやうで何とも言へない爽快なものを感じさせるのです。
「内儀さん、今日の晝過ぎ、この寮の裏で、立話をしてゐた四十過ぎの女は、あれは誰です」
 平次は最初から本題に飛び込みました。
「それを言はなきやならないでせうか、錢形の親分」
 お酉はひどく言ひ惱んで居ります。
「あの女が、死骸になつて、百本ぐひに浮いてゐたんで、それも間違ひもなく殺されたんですぜ――身許がわからなきや、はうむることも出來ない」
「まア、お氣の毒な、――主人には内證ないしよで私が引受けませう。越後屋の菩提寺ぼだいじに葬られなくても無縁佛にされちや可哀想です」
「それはどういふわけで?」
 平次が不思議に思つたのも無理はありません。さう言つて首を垂れたお酉の眼には、横から灯を受けて、明らかに涙さへ浮んでゐるのです。
「申上げませう、錢形の親分さん、あの人は越後屋の先の内儀さん――お里、お勢、お露三人姉妹には、血をわけた本當の母親でございます」
「え?」
 これには平次も驚かないわけに行きません。
「驚くでせう、私だつて本當にびつくりしたんですもの。下男の久六が教へてくれなかつたら、物貰ひと間違へて、追つ拂つたかも知れません」
 かう言ふ内儀には、何んの作爲も技巧ぎかうもなく、本當に久六に教へられて、始めて越後屋の先妻と知つた樣子です。
 平次と八五郎が、先刻死骸を見たとき、何處かで見たことのある顏と思つたのは、恐らく、三人の娘達に共通した面影があつたためでせう。
「――」
 平次は默つて先をうながしました。
「越後屋の先の内儀のおつやさんは、それは綺麗な人で、お里とお露とつきまぜたやうだといふ話を聽くと、後添への私は良い心持がしませんでしたが、亡くなつたと聽くと、私はもう」
 その女の存在をのろつたお酉は、當人が死んだと聽くと、人の見る眼もはゞからずに、さめ/″\と泣くのです。
「ところで、その時どんな話をしたのか、見た人の話では、何でも二人ともひどく怒つて、つかみ合ひくらゐは始めさうだつたといふことだが」
「でも、あの方が、――お里、お勢、お露の三人姉妹は、私が生んだ娘に違ひないから、今直ぐ引渡せと――それは無理なことを言ふんですもの」
「それはどういふわけだ」
「繼母の私の仕打が惡いんですつて。そして、三人姉妹は殺されるかも知れない、――と飛んでもないことを言ふぢやありませんか」
「――」
「私と三人の娘は、年も近いし、さぬ仲でもあり、側へ置くと世間の噂がうるさいから、わざわざこの寮に置いて仕たい放題の、我儘一パイの暮しをさせてゐるのに、いくら生みの母親だと言つても、何んといふ無法な言ひ掛りでせう」
 強い性格と健康の持主らしいお酉も、女同士のいきさつになると、さすがにに返ります。
「ところで、こいつは是非聽かなきやならないが、先妻のお艶は、どんなわけで、越後屋から追ひ出されたのだ。世間ぢや隨分、いろんな事を言つてるやうだが、不思議なことに、はつきりしたことは一つもわからない」
 これは恐らく事件を解く、一番重大な鍵になるかもわかりません。平次は日頃にもない熱心さで喰ひ下がりました。
「申しませう、錢形の親分。隨分イヤな事ですが、人の命にまでかゝはるやうでは」
「その通りだ」
「驚いてはいけませんよ、親分。先の内儀さんには、不義の相手があつたんです」
「?」
「道ならぬちぎりを重ねた隱し男」
「それは?」
「不思議なことに、その不義の相手の男は正體も名前もわかりません。越後屋ののれんがなかつたら重ねて置いて四つにするところだが――と、主人は散々に言ひこらして顏も見ずに逃してやつたと申します」
「その不義の相手の名を、今聽き出す工夫はないものかな」
「主人は自分の名前さへ忘れてしまひました、――ましてそんな事を」
 おとりは以ての外の顏をするのです。先妻のお艶が死んでしまひ、越後屋の主人金兵衞が癈人はいじんとなつてしまつた今となつては、この厄介な事件の、奧の奧をさぐる工夫もありません。
「外には?」
「それつきりでございます。お艶さんは上方かみがたへ流れて行つて、再縁したといふ噂は聽きましたが、その配偶つれあひにも死に別れたとやらで、十年も經つてから、生んだ娘の顏が見たさに、此處まで戻つて來たのでせう」
 それは哀れ深い話ですが、後添へのお酉から見ると隨分苦々しいことだつたに違ひありません。
「ところで、話は別だが――」
 平次の問ひは第二段に入ります。

十一


「どんなことでも、申上げてしまひます」
 内儀のお酉は、先妻のお艶が死んだと聽いて、妙に自責を感じてゐる樣子です。
「内儀さんは讃州さんしう志度しどの生れだと聽いたが、泳ぎやぐことは出來るだらうな」
 平次の問ひは露骨で無遠慮です。
「もとの稼業ですから、一と通りはいたします」
 荒海で鮑捕あはびとりをしてゐた昔のことが、お酉の胸になつかしく浮んだ樣子です。
「ところでもう一つ二つ」
「どうぞ、親分さん」
「昨夜、御主人が惡かつたさうだが、今日はなほつたので?」
「良いあんばいに、ケロリとしてゐるさうで、先刻も橋場の店から使ひの者が參りました、――でも私はもう歸らなきやなりません。此處は文治どんに任せて」
「渡船はもうない筈だが――」
「幸ひ近所に船がありますから、文治どんか、久六に漕がせて歸ります」
「二人とも船は漕げるんだね」
「文治は三浦三崎の生れで、泳ぎも船も私におとらぬ達者でございます」
「その文治は信用の出來る男だらうな、内儀さん」
「それはもう、無類の正直者で」
「昨夜は、醫者へ二度も行つたといふことだが――」
「主人は急に樣子が變になつて、とてもいけないかと思ひました。中氣で二年越し寢たつきりですから」
「その文治は醫者からの歸りに、變つたことはなかつたらうか、ひどく手間取ると言つたやうな」
「二度目はお醫者が晩酌ばんしやくを過して休んでゐたさうで、少しばかり手間取りましたが」
 平次の觸手しよくしゆは、内儀を通して文治の動きにまで及びましたが、大した暗示も掴めません。
「庭男の久六といふ男は?」
「あれは忠義者でございます――もう十年以上もこの家に奉公して居りますが、珍らしい律儀りちぎもので」
配偶つれあひは?」
「あの歳まで獨り者で、口の惡い人達から片輪者だらうなどと冷かされて居りますが、つひぞ惡遊び一つしない不思議な男でございます。尤もあんなに年寄り染みては居りますが、年は思ひの外若いさうで、まだ四十臺だといふことで――」
 おとりはあの愚直らしい庭男に、ひどく同情してゐる樣子です。
「仕事の方は?」
「働きのある方でございませんが、この上もなくまめな男で、昨日も主人が惡いと聽いて、橋場の店へ手傳ひに來て居りましたが、うつかりして渡船わたしぶねの仕舞ひ船に遲れてしまひ、ひどく驚いて、橋を廻つて歸ると申して、暗くなつてから飛び出しましたが」
 お酉の話は次第にいろ/\のことにれて行きますが、思はぬことにそれも中斷されてしまひました。
「親分」
 暗い廊下を暗み鳴らして、飛び込んで來たのは八五郎です。
「どうした、八。大層あわててゐるやうだが?」
「又やられましたよ。三輪の萬七親分がやつて來て、錢形の親分が此處にゐるのを承知の上、手代の文治を擧げて行きましたよ」
「文治を?」
「それね、親分だつて驚くでせう。あつしもあんまり馬鹿々々しいから、一應門口かどぐちで訊いて見ると――三輪の親分の言ふには、『伊三郎はお里と逢引の約束があつたが、權次がゐなくて船は出せず、折惡をりあしく橋から向島へかけては、泥棒の追ひ込みで滅多な人を通さないから、河岸つぷちで困り拔いてゐるところを醫者の迎ひに行つた文治が通りかゝつて、眞崎につないである志賀屋の船で、水神まで伊三郎を渡してやり、船の中で絞め殺して、寮の座敷牢に投り込んだに違ひない』――とかうで」
「待つてくれ、八。志賀屋の船は、この寮の堀割の中に乘り棄ててあつたんだぜ。伊三郎を送つて來た文治は、どうして橋場へ歸つたんだ――兩國を廻つて歩いて歸れば、半刻はんときもかゝるぜ」
 平次は頭からこの考へには乘りません。
「文治は三崎育ちで泳ぎの名人だ。着物を頭の上に載せて隅田川を泳いで歸つたに違ひない――とかう三輪の萬七親分は言ひますがね」
「それは出來ないことではないにしても、少しむづかしいな。ね内儀さん、文治が醫者へ行つた時刻を覺えちやゐませんか」
 平次は側に默つて聽いてゐるお酉に問ひかけました。
酉刻半むつはん(七時)頃一度、それから戌刻半いつゝはん(九時)過ぎに一度、――その時は歸るのに四半刻(三十分)ほどかゝりましたが、船で水神へ來て、泳いで歸るひまはなかつた筈です」
 内儀の言葉は疑ひやうもありまん。
「八、念のために、昨夜伊三郎がお勝手の雨戸を叩いて、下女のお今に開けて貰つた時刻を聽いてくれ」
「へエ」
 八五郎は飛んで行きましたが、やがて、
「お今は、昨夜ゆふべ合圖を聽いて戸を開けてやつたのは、子刻こゝのつ(十二時)近かつたと言ひますよ。自分の床へ歸つたら、間もなく淺草の九つが鳴つてゐたと」
「それ見ろ、文治は此處へ來るひまがなかつた筈だ。それに、こいつは大事なことだが、文治は伊三郎とお孃さんの逢引の合圖を知つちやゐまい。あの三つづつ二つ小石で戸を叩く合圖は、女のお今しか知らなかつた筈だ」
「有難い、あつしは早速飛んで行つて文治の繩を解いてやりますよ」
 八五郎は平次の止めるのも聽かずに飛び出してしまひました。文治を助けるといふよりは、三輪の萬七の苦笑する顏を見て、腹の中で『ザマア見やがれ』と言つてやりたかつたのです。

十二


 内儀のお酉は、橋場へは使ひの者をやつて、水神の寮に泊ることになりました。主人の金兵衞は幸ひ容態に變りはなく、老番頭の喜助が留守をしてゐるので、お酉は兎も角三人の繼娘まゝむすめを見てやらなければなりません。伊三郎をうしなつたお里の悲歎には、眼を離せないところがあるのです。
 平次と八五郎は、一應引揚げることにしました。念のため三人の娘に順々に逢つて見ると、元氣の良いのは中のお勢だけで、姉娘のお里は、
「死にたい、死にたい」
 などと、感傷にひたりきつて、繼母のおとりと下女のお今を手古てこずらせ、末娘のお露は、打ち續く怪奇な事件と、それにともなふ人の出入りにおびえて、たゞおど/\するばかりです。
 外へ出ると、何處からか歸つて來た庭男の久六と、鉢合せするほど近々と逢ひました。
「物騷でかなはねえから、家の外廻りを見廻つて來ましたよ」
「それは念の入つたことだな、――ところでお前は、この家に何年奉公してゐるんだ」
「あの寮へ來たのは、ツイ一年前ですが、橋場の店には十年も奉公しましたよ」
「生れは?」
「房州で」
「大層身持ちが良いといふことだが、しつかめてでもゐるのか」
「飛んでもない、親分」
「女房といふものを持つたことはないのか」
「持ちそびれましたよ、今更女房になり手なんかありやしません」
「お前だつて若い時分もあつたことだらう」
「へエ、若い時分に道樂が過ぎましてね――女の子とは縁がなくなりましたよ」
 平次も二の句がげません。この愚直ぐちよくらしい下男は、實に自分の恥を隱さうともしない程の男だつたのです。
「話は違ふが、内儀のお酉さんはどんな人だえ」
「立派な大店おほだなの内儀さんですよ。押しも押されもしませんや。三人の繼娘さへなきや、あんな仕合せな人は江戸中にもないでせう。讃州志度であはびを捕つてゐた人ですもの」
 褒めてゐるのかくさしてゐるのか、これは一寸わかりません。
「先の内儀――あの死んだおつやさんは」
「綺麗な人でしたが、それがわざはひのもとで飛んだことをしてしまひました」
「お前が、不義を訴人そにんしたといふぢやないか」
「旦那が可哀想でした。大きいお孃さんは兎も角、二番目三番目のお孃さん達は、誰の子だかわかりやしません、――他人の子を亭主に育てさせる女ほど惡い者はありませんね、――餘計なことでしたが、私は到頭見兼ねて、逢引してゐる場所を旦那に教へただけなんです」
 久六の言葉には、淡い悔恨くわいこんらしい響きがあります。
「ところで、昨夜お前が橋場から歸つたのは何刻いつだ」
亥刻よつ(十時)前でした。兩國を廻つたんで、飛んだ手間取りましたよ」
「橋から向島へかけて追ひ込みがあつて、往來の人を一々調べた筈だが」
「土地の者にはお目こぼしがあります。私共は犬つころくらゐにしか思はれてゐません。それに竹屋の渡しから此方は、田圃たんぼ道を來るといふ手もありますから」
 久六は事もなげです。
 無駄話をしてゐるところへ、八五郎が文治を連れて歸つて來ました。
「親分、到頭萬七親分を口説くどき落しましたよ。船が停つたので、土手を追つかけると、よい鹽梅あんばいにすぐ追ひつきましてね」
 八五郎の得意らしさ――だが、この後にこそ、本當の恐ろしい破局カタストローフが、『死のあご』を開けて待つてゐたのです。

十三


「親分、親分。まだ寢てゐるんですか」
 庭へ廻つて障子の外から、八五郎は張り上げました。翌日の朝の辰刻いつゝ(八時)少し前、薄赤い陽が射し込んで、明神樣の森からをあさりに來る、小鳥の聲などが賑やかに聽えて居ります。
「馬鹿野郎、十手の先で障子の穴を大きくして、のぞいて見たりしやがつて、氣味のよくねえ野郎だ」
「相濟みません。でもこんな生暖けえのに、障子を閉めきつてゐると、ツイのぞきたくなるぢやありませんか。人間といふものは妙なものですね、この家には親分と姐さんと二人きりしかゐないんだから、閉めきつてシーンとしてゐるとツイかう――」
あきれた野郎だ。この界隈かいわいで湯屋覗きが流行はやつて困つてゐるが、曲者はお前だらう」
「冗談ぢやありませんよ」
「障子を閉めきつてゐたのは、足が妙に重いから、三里にきゆうゑさしてゐたからだ。今日はまた朝つから風が強いから、障子を開けて置くと、もぐさが燃えてかなはねえ」
 平次は身を開くと、線香を持つた女房のお靜は、途方にくれた姿でモヂモヂしてゐるのです。
「道理で線香の匂ひがしましたよ」
「カンの惡い野郎だ――ところで、何にか用事でもあつたのか」
「大ありですよ。水神の青葉の寮で、二番目娘のお勢が、――命だけは助かりましたがね――あの潮入の池に突き落されて、上から大きな石を叩きつけられ、ひどく左肩をやられましたよ」
「フーム」
「あの娘は氣丈で利發りはつだから、死んだ振りをして石垣の下に隱れ、曲者がゐなくなつてから、大きな聲で人を呼ぶと、庭男の久六が飛んで來て引揚げてくれたさうで、――あつし昨夜ゆふべのことが氣になつてならないから、今朝起き拔けに行つて見ると、その騷ぎでせう」
「よし、行つて見よう。湯屋覗きをやるやうな調べぢや、むづかしからう」
「へツ、もう覗くのは止しましたよ」
 平次と八五郎は、かうして三度水神まで行くことになつたのです。
 越後屋の寮は、水の底に沈んだやうに、物音一つ立てない無氣味な靜けさに支配されて居りました。
「あ、錢形の親分さん」
 その中から、飛びつくやうに迎へたのは遠縁のをひ文治でした。
「どうした」
「三輪の萬七親分が、内儀おかみさんを縛つて行きました、――どんな證據があらうと、あの人は、そんな事をする人ではございません」
「證據?」
「へエ、お孃さんが落ちたところに、内儀さんのかんざしが落ちて居りました」
くしの次は簪か」
「平打の銀簪ぎんかんざしで、間違ひやうのない品ですが、内儀さんは昨夜そんなものをさしてはゐなかつたと言ふのも聽かずに、三輪の親分は引つ立てて行きましたよ」
「兎も角も現場を見ようか」
 平次は庭から廻つて裏へ行くと、池のほとりの木蔭に、庭男の久六がぼんやり立つて居ります。
「お早うございます、親分さん。飛んだお騷がせいたしますが」
 お世辭は一と通りですが、顏は眞劍に突き詰めて、にんがりともしません。一應びんの霜や、眼尻の深い皺などから五十二三には見えますが、四十八といふ本當のとしを聽いて見直すと、血色の良い、皮下脂肪の豊かな、昔は相當の美男でもあつたらうと思はせる、不思議な水々しさがあり、若さといと、青春と頽廢たいはいとの一種の交錯が、屈從と諦らめとに慣れた態度の下に、何にかのはずみで隱見するのでした。
「何を見てゐるんだ」
 平次は近々と寄つてその肩を叩きました。
こはいぢやありませんか、親分さん。お孃さんは此處から突き落されたんですね、這ひ上がるところを、上から石を落されちや――」
昨夜ゆふべは月がなかつた筈だな」
「月の出は夜半近くなりましたが、お孃さんが池へ落ちたのは、まだ宵のうちでございましたよ」
 老實さうな久六は、池を覗いて感慨にふけつてゐたのでせう。
「庭石を起した跡がありますね、親分」
 八五路はツイ五六歩手前に、手頃の穴があるのを指さしました。
「こいつは重さうだな、八。餘つ程の力がなきや、持ち運びは出來ないぜ」
 平次はその隣りの庭石と、石を起した跡の穴とを見比みくらべてをります。
「轉がして行く手があるでせう」
「萬七親分もさう考へたことだらうな。でも、草がよくえてゐるのに、石などを轉がした跡はないぢやないか」
 平次と八五郎のこの物語の中へ、久六は物言ひたげな顏を出して居りましたが、我慢が出來なかつたものか、
「私もそれを三輪の親分に申しましたが、三輪の親分は、相手は讃州志度の海女あまだ、大概たいがいの男ほどの力はあるよ――とかう申しました。それに」
「?」
「百本ぐひにあがつた、先の内儀さんのお艶さんの死骸の傷も、大きい石か何んかで打つたものとわかつたさうで。お艶さんと爭ひをしてゐた内儀さんは、益々疑ひを重ねたわけで」
 久六は愚直らしく、額を撫でたり、兩手をんだり、平次の聰明さにすがつて、女主人を何んとか助けてやりたい樣子でした。

十四


 傷ついた二番目娘のお勢は、姉のお里の介抱で、どうやら元氣を取戻し、平次を迎へたときは、もう痩我慢やせがまんらしい微笑さへ浮べて居りました。
「どうだえ、元氣は?」
 平次が差しのぞくと、
「もう大丈夫、起き出して、飛んで歩きたいくらゐ」
 さう言ひながら、半分身體を起しかけるお勢です。十八の娘盛りにしては、みにくくさへあるお勢ですが、どつかピチピチした彈力を感じさせるせゐか、傷ついたり、ひどい目に逢つたりすると、妙に魅力的なものを發散するたちの娘でした。
「どつこい、まだ起き出しちや惡からう」
「でも、骨は何んともないんですつて」
「ひどい打撲傷うちみぢやないか」
「肩が水の中に入つてゐたので、それほどでもなかつたやうです」
 掻卷を脱ぐと、繃帶ほうたいで包まれた丸い肩、寢卷の襟がくつろげて、紅色眞珠の首筋から胸へ、さすがに處女らしい美しさです。
「ところで、突き飛ばしたのは、男か、女か」
「三輪の親分は女だらう――つて言ひましたが、私は男だつたと思ひます」
「見たのか」
「いえ、いだだけ、眞つ暗なんですもの」
「?」
 不思議な答へに眼を見張ると、お勢はクツクツとふくみ笑ひをしながら續けるのです。
「だつて、男つて皆んなよく匂ふぢやありませんか」
「煙草の?」
「いえ、男の匂ひ」
 十八娘の鼻の微妙さは、錢形平次でも想像は出來ません。
「突き飛ばされて水に落ちてから、肩へ石が落ちて來るまでひどく手間取つたとは思はないか」
「直ぐでしたよ。もう少しでもぐりそこねて、頭をやられるところ」
 この娘の賢こさに、もう一度平次は兩手を擧げて褒めてやりたい氣になりました。
「何んだつて眞暗になつてから危ぶない池のそばへ行く氣になつたんだ」
 それは平次には取つて置きの重大な問題だつたのです。
「でも、私は、見て置きたかつたんです」
「?」
「あの池に何にか沈めてあるに違ひないと思つたんです。晝は人目について、うつかり側へも行けないから」
「それは何んだ」
「糸をつけて水の中に沈めたもの、――場所は水へ降りる段の右側、三番目のくひから、下へ長く引いた糸がある筈です」
 平次は默つてそれを聽きながら、後ろにぼんやり突つ立つてゐる八五郎を振り返ると、心得た八五郎は、庭へ降りて飛んで行きました。
「それから?」
手搜てさぐりでその糸を引上げようとすると、いきなり後ろから突き飛ばされました。幸ひの引汐ひきしほだつたのと、頭の上に石垣が突き出してゐるので、首まで水につかつてその下に這ひ寄ると、頭の上からいきなりあの石が――」
 お勢はさすがに危ぶなかつたその時のことを思ひ出したか、全身に戰慄せんりつが走ります。
「親分、これですよ」
 八五郎は勝誇つて飛び歸りました。
「何んだえ、頓狂な」
「杭から細い糸で水の中にこのかぎが沈めてありましたよ」
 八五郎の取出したのは、大振りな鍵で、これは誰が見ても、二日前に伊三郎の死骸のあつた、あの座敷らうの鍵といふことがわかります。
「矢つ張りこんな事だつたのか、――ところでお孃さん、昨夜この寮で泊つた男は?」
「文治どんだけでした――それから庭男の久六」
「文治は泳ぎはうまいと言つたね」
「――」
 お勢は默つてしまひました。文治に對して好意を持ち過ぎてゐるので『三崎に育つた漁師の子』とは素破拔すつぱぬき兼ねた樣子です。
 平次はれた鍵を持つて、その隣りのお里の部屋の前を通り、座敷牢の前に立ちました。
 確信的な心持で、座敷牢の錠前にその鍵を差し、靜かに廻すと、錠は何んの苦もなく開いて、かしの大戸は手に從つて音もなく開くのです。
「八、お里さんを呼んで來てくれ。鍵をくらべて見たい」
「へエ」
 八五郎が飛び出すまでもなく、隣りの部屋にゐたらしい姉娘のお里は、唐紙を開けて、靜かに出て來ました。
 いかにも落着き拂つた、靜かな姿ですが、一昨日をとゝひ一と晩伊三郎の後を追つて死なうとして、繼母のおとりを手古摺らせたくらゐですから、その靜かで上品な外貌は、思ひの外なる熱烈な性格を包んでゐることは疑ひもありません。
「これでせうか、親分」
 お里は用意したらしい鐵の鍵を出して、平次のてのひらに乘せるのです。
 比べて見ると、輪の大きさ、足の長さは違ひますが、先は全く同じ寸法で、お里の持つてゐる鍵を見本にして、錺屋かざりやに造らせたものに違ひありません。
「お孃さん、この鍵を人に貸すか、一寸でもなくしたことがありますかえ」
「いえ」
 お里は輕く首を振ります。
「うつかり置き忘れたことは」
「その錠前に差し込んだまゝにして、外の用事を足したことはあります。でも半日と放つて置いたことはありません」
「それだ、――その一寸の間に見本の寸法を取られたのだ。穴の大きさと、二本の足の型さへ取れば、合鍵を拵へることは何んでもない」
錺屋かざりやを當つて見ませうか」
 八五郎はたまり兼ねて長いあごを突つ込みます。
「いづれ遠くの錺屋に頼んだことだらう。金さへ出せば、何處でも拵へてくれるよ、――だが江戸中の錺屋を調べるのは容易なことぢやないぜ」
「――」
「もう一つ、お孃さん。使はなくなつた座敷牢へ、一々錠をおろすのはどういふわけです。全く無駄なことのやうに思ふが」
「兄が死んだ部屋で、皆んな氣味わるがるんです。それに時々夜中に變な音がしたりして、――隣りの部屋に休んでゐる私もそのうちに部屋を變へる筈でした」
 お里は全くおびえきつてゐる樣子です。

十五


 座敷牢の中は掃除さうぢが屆かないものか、いくらかほこりつぽくなつて居り、雨戸を開けると、頑丈な格子を通して、青葉にされた光線が、無氣味な青さを漂はせます。
 部屋の中には何んにもありませんが、たつた三尺の押入を開けると、何時持込んだか踏臺ふみだいが一つ。
「八、それに乘つて、隣りの部屋との境の欄間らんまを見てくれ。何にか變つたことがあるだらうと思ふ」
「よし來た」
 八五郎は氣輕に踏臺を持出すと、頑丈な板仕切の上のこれもけやきの一枚板に、松竹梅をすかぼりにした欄間を覗きました。その一枚板は萬一の事をおそれて、隣りの部屋から釘付けにした上、念入りに向うから眼隱しの紙まで貼つてありますが、長い間にその目張りの紙が破れて、すみの方に一ヶ所、覗けば隣りの部屋が全部見られる場所があつたのです。
「どうだ、よく見えるだらう」
「へツ、隣りの部屋が隅から隅まで見えますよ。始終のぞいた野郎があると見えて、此處だけ欄間に埃がないのは面白いでせう」
「お前見たいに、覗くのが好きな奴がゐたに違げえねえのさ」
「へツ、お前見たいにと來ましたね」
「腹を立てるなよ、今朝十手で障子の穴を大きくしたむくいだ」
 無駄を言ひながらも平次は、この事件の眞相が次第にわかつて來た樣子です。
「その覗いた野郎は誰です、親分」
「待ちなよ、まだしばるは早い。お前兩國の橋番所と、竹屋の番所へ行つて、あの晩淺草から歸つて來る久六を見かけなかつたか、――これだけの事を訊いてくれ、宜いか」
 平次は八五郎の耳に囁くと、八五郎は奔馬ほんばのやうに飛び出してしまひました。
 その姿が見えなくなつた頃、平次はお勝手で下女のお今をつかまへて居りました。
「お今さん、相變らず精が出るね」
「外に能はありませんよ、私なんか」
「さうでもなからう。庭男の久六は時々變な素振そぶりを見せるといふぢやないか」
「飛んでもない、――あの人は大きいお孃さんに夢中ですよ、――尤もお孃さん達の母親の、越後屋のもとの内儀のおつやさんをつけ廻して、小つぴどい目に逢はされたことがあるさうですがね、――もう十年も前の事ですが」
 下女のお今の舌は、なか/\に辛辣しんらつです。
「でも、久六は無類の堅造だといふ評判ぢやないか」
蝋燭らふそくで、男の役に立たない癖に」
「何、蝋燭?」
「ひどい蝋燭瘡らふそくかさだと、――自分でも言つて居ますよ。そんなのはかへつて惡く執念深いんですね。さとりすましたやうな事は言つてゐますが」
 平次は唇を噛みました。男でなくなつた男、そして四十八歳の健康で、多情で、良心をうしなつた男が、どんな事を仕出かすかは、平次の若さでも想像がつかないことはありません。
 平次は橋場の渡場に飛んで行くと、もう一度越後屋へ行つて、一昨日の晩の久六の樣子を訊かうとしました。
 渡し船は意地惡く手間取つて、中流へ出たのは座敷らうを出て小半刻も經つてからの事。
「あツ」
 フト振り返つた平次が、思はず聲を出したのも無理はありません。つい先刻さつき出て來たばかりの青葉の寮から、凄まじい黒煙が吹き出して、人々の叫ぶ聲、ほのほはぜる音が手に取るやう。
「船を返してくれ」
「飛んでもない。岸を離れた船は返さないのが定法だ」
 さう言ふうちにも、西陽の射し入る青葉の寮の座敷牢のあたりに、揉み合ふ男女の影が、渦卷く煙をすかして、凄慘せいさんに展開してゐるではありませんか。
「あれ、見ろ、人の命にかゝはることだ。頼むぜ、若い衆」
 平次は何時になく、懷中の十手を拔いて、ふなばたを叩いて居るのでした。
 船頭の一人は幸ひ錢形平次の顏を見知つて居りました。乘合ひの衆に一と言わびを言つて、渡船は中流から戻しましたが、この時はもう青葉の寮は八方から焔に包まれて煙をかきわけて、座敷牢の前に辿たどるのが精一杯。
「親分、鍵は、鍵は?」
 大海老おほえび錠にかじりついて、必死と揉んでゐるのは八五郎でした。
「中には?」
「久六の野郎が、わらを積んで三方から火をつけ、お里を抱いて座敷牢に飛び込んでしまひましたよ。入口の小窓から手を出して、錠をおろしてしまつたんで、手のつけやうがない」
 さう言ふうちにも、八方からは焔のハゼる音、頬を撫でて渦卷く煙。
「助けて、た、助けてツ」
 お里の悲鳴が、座敷牢の中から絹をきます。
「八、この錠はとてもネヂきれない。隣りの部屋の欄間らんまから飛び込めツ」
 それは實に天來の妙案でした。
「よしツ」
 お里の部屋に飛び込んで、小机を踏臺に欄間を引剥ひきはがし其處から飛び込んだ八五郎、久六とどんな激しい爭ひを續けたか、それは想像に任せる外はありません。兎も角、情慾に眼のくらんだ、この醜怪な淫獸いんじうと、死に物狂ひの揉み合ひで、二人共ヘトヘトに疲れた頃、平次は庭から鍵を拾つて來て、ようやく半死半生のお里と八五郎を引出したのです。素より久六も見殺しにする意志はなかつたのですが、柱に獅噛みついててこでも離れず、その間に火が廻つて唯一の逃げ路を失ひさうになつたので、これは火の中に見捨てる外はなかつたのです。鍵を座敷牢の格子から、庭に捨てたに相違ないと見た平次の聰明さに助けられたわけでした。
        ×      ×      ×
 事件は一應落着しました。平次は八五郎のせがむまゝこの不思議な事件の祕密を語るのでした。
「久六は不身持から片輪者になり、それが中年過ぎになつてから、身を燒くほどの不思議な惱みになつたことだらう。十年前、先妻のおつやに夢中になり、手ひどくはじかれると、それを根に持つてお艶のアラを搜し、主人の金兵衞に告げ口して追ひ出させてしまつた」
「――」
「姉娘のお里が年頃になると、母親そつくりの美しい娘になつた。さすがに言ひ寄ることは出來なかつたが、座敷牢の合鍵を拵へ、欄間らんまから覗いて、燃えつくやうなおもひをまぎらせてゐたことだらう。そのお里が近頃になつて伊三郎と逢引するやうになり、欄間越しとは言つても、久六の眼の前で親し過ぎる有樣を見せつけられ、到頭伊三郎を殺す氣になつたのだらう」
「――」
「あの晩久六は越後屋へ手傳ひに行つて、宵のうちに歸つたことになつてゐるが、兩國の橋番所も竹屋の渡しの番所の前も通つてゐない。多分今戸か眞崎で伊三郎に逢ひ言葉たくみに誘つて船に乘せ、お里に逢はせると言つて、つれ込んだものだらう。そして船の中で絞め殺したのは、まだ宵のうちだつたに違ひない。表から廻つて下女を叩き起して自分だけ家へ入り、子刻こゝのつ(十二時)近くなつてからそつと脱け出して、船から伊三郎の死體を引揚げ、かねて覺えた合圖で、下女のお今に雨戸を開けさせ、座敷牢へ投り込んでそのまゝ知らん顏をしたものだらう」
「隨分ふてえ野郎ですね」
鼈甲べつかふくしや赤い紐は、忘れて行つたのを取込み、あわよくば後添へのおとりか、お里に疑ひをせるつもりだつたに違ひない。尤もお里に疑ひがかゝれば、それを言ひ解いて恩に被せる術があつたことだらう」
「お艶を殺したのは?」
「昔のことをよく知つてゐるお艶が、ウロウロ戻つて來たのが氣になつてならなかつたのだ。それにお艶も久六の惡黨ぶりをよく知つてゐるから、三人の娘の身の上を案じたのも無理はないよ。で、何處かで久六はお艶に逢つて、散々取締とつちめられて、ツイ殺す氣になつたことだらう。――二番目娘のお勢もいろ/\の事を知つてゐた。あの娘は賢いから、久六には邪魔になつて仕樣がなかつたのだ」
「いやな野郎ですね」
「お酉は一應疑はれたが、お酉と文治は伊三郎の逢引の合圖を知る筈もなく、座敷牢の鍵を持つてゐる筈もない、――それから久六が越後屋へ奉公したのは十一年前だから、――お勢とお露は誰の子だかわかつたものぢやない――などと言ふのは變ぢやないか、お勢は十八でお露は十六だ。――それから最初堀割の船を見たとき何處の船だか知らないと言つたのも細工さいくが過ぎて變だし、向島に追ひ込みのあつた晩誰にも見られずに、兩國橋を渡つて向島へ來たといふのも變ぢやないか」
「――」
「たつた一つ、久六が橋場の越後屋を出たのは宵のうちだ。そして水神の寮へ歸つたのもそんなに遲くない。――夜中にもう一度出て、船の中から伊三郎の死體を引き出し、家の中へ投り込んだといふ、恐ろしく悧巧な細工が讀めなかつたので、危ふくお里を殺すところさ」
あつしも飛んだ骨を折りましたよ」
 八五郎はあの火中の大亂鬪を思ひ出してゾツとする樣子です。
「その代り、三人の可愛らしい娘は皆んな助かつて、お前へ念入りにお禮を言つたぢやないか」
「口先のお禮だけぢやね、親分」
「不足らしい事を言ふな。相手は大分限ぶげんの越後屋の祕藏娘だ」
「あ、あ、男の海女あまになりてえ」
「馬鹿野郎」
 二人は顏を見合せてわだかまりもなく笑ふのです。





底本:「錢形平次捕物全集第三十卷 色若衆」同光社
   1954(昭和29)年8月5日発行
初出:「サンデー毎日」
   1950(昭和25)年5月7日号〜28日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年5月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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