名曲決定盤

野村長一




巻頭言
 この書の成るまで




 音楽を愛するが故に、私はレコードを集めた。それは、見栄でも道楽でも、思惑でも競争でもなかった。未知の音楽を一つ一つ聴くことが、私に取っては、新しい世界の一つ一つの発見であった。
 その頃、日本においては、ワーグナーもベートーヴェンも聴く方法はなかった。劇詩としての『白鳥の騎士ローヘングリン』を読み、文献によって『第九シンフォニー』の壮麗さは知っても、それを音楽として聴くことの出来なかった時代に、我らは少青年時代を送ったのである。
 今から二十幾年前、パデレフスキーやイザイエの名演奏が、レコードとして渡来した時、どんな感激を以てそれに接したか、それは大方の想像に任せよう。続いて入って来た、怪しげなる『未完成シンフォニー』『第五シンフォニー』は、当時の我らに取っては、相対性原理の発見よりも重大な問題であった。
 私をレコード道の底無し沼に引き込んでしまったのは、パデレフスキーのいたショパンの『ワルツ』や、イザイエの弾いたメンデルスゾーンの『コンチェルト』や、その後ビクターに入って来た、黒盤の『第五シンフォニー』であったかも知れない。僅かばかりの蒐集しゅうしゅうを、朝聴いて晩聴いて、また寝しなに聴くほど熱中したが、貧乏で臆病な私は、たった一枚のレコードを求めるために、しばしば幾日も幾日も考えなければならなかった。富裕な知人の某氏は、私がレコードをげているのを見ると「またかい、それだから君は貧乏するんだよ」――そんなことを言って冷たい笑いを浴びせたりした。
 だが、その頃、レコード以外では、メンデルスゾーンの『コンチェルト』も、ベートーヴェンの『第五シンフォニー』も聴く工夫はなかった。やがて、ゲルハルトの歌ったドイツのリードや、フロンザリーの弦楽四重奏曲に食いつく頃、私のレコード熱は全く膏肓こうこうに入っていた。

 関東大震災の翌年、ベートーヴェンの『第九シンフォニー』が初めてレコードされたと聴いた時、私は喜びの余り、「ベートーヴェンの九つのシンフォニーはいかにレコードされているか」という意味の文章を二日にわたって『報知新聞』に連載した。それが、レコード関係の原稿に、私の別号あらえびすを署名した最初である。
 その後、英国のレコード雑誌『サウンド・ウェーヴ』や『グラモフォン』や、仏蘭西フランスの『音楽と楽器』誌や、米国の『フォノグラフ月評』誌などを参考にして、『報知新聞』にレコード紹介の「ユモレスク」なる記事を掲げ、毎週一回ずつ書いて、十六年後の今日に及んでいる。
 私のレコード紹介は、お点が甘いという評判もあった。お世辞が良いとも言われた。が、しかし、ベートーヴェンやワーグナーさえ、滅多に実演を聴くことの出来なかった当時の日本で、レコード以上の実演に接することの出来なかった私たちが、外国の一流演奏家のレコードを驚歎し、讃美し、崇拝したのも無理のないことである。音楽の処女地であった日本に、陳、呉の役目を果すためには、単にレコードの悪口を言っていさぎよしとしているわけには行かなかった。
 お蔭様で、――会社とファンたちの努力で、――日本のレコード界は今日の盛大を見ることが出来た。今ではもう、大概の悪口を言っても構わないだろう。レコードはどこにでも汎濫している。我らはその中から、最も良きもの、最も美しきものを採ればいいのだ。
 私はもう遠慮をかなぐり捨てなければならぬ。三十年近い道楽の総決算として、良いものは良い、悪いものは悪いと言い切って、紹介主義から、厳選主義に入らなければならぬ。たった一組しかない時は、旧ビクター黒盤の『第五シンフォニー』も珠玉であった。それはめられ尊敬されなければならなかった。日本において『第五シンフォニー』の実演というものはまだなかったからである。しかし、今日では『第五シンフォニー』のレコードは、私のコレクションにだけでも十種類以上に上っている。ワインガルトナーがよいか、フルトヴェングラーがよいか、シャルクが優れているか、それともメンゲルベルクを採るべきか、はっきり言わなければならない時だ。非常に忙しい私が一年の歳月を費して、この書を綴ったのは、この総決算をしたいためであった。

 いつでも言うことであるが、私は音楽家でも音楽批評家でもない。新聞記者であり、小説家である。しかし、新聞記者になったのは三十歳を越してからのことで、小説を書き始めたのは四十六歳の時である。音楽愛は少年時代からのことであり、それは道楽に過ぎないと言っても、音楽と私との関係は本職の新聞よりも、副業の小説よりも遙かに遙かに古い。
 私は三十年近い間に、一万枚以上のレコードを集めた。私の聴き知っているレコードの数は恐らくその倍にも上ることであろう。私は、この文字通りはりつる一万枚のレコードを、くり返しくり返し聴いて来た。レコードされている限り、いろいろの曲は聴き尽し、いろいろの演奏家の癖はそらんじてしまった。どんなレコード屋の小僧さんよりも、レコードに関することだけは知っているつもりだ。
 この経験、――素人しろうとの覚束ない経験ではあるが、とにかく、長い間の経験を土台に、私は世界の名演奏家と、そのレコードのことを語ってみようと思い立ったのである。三十年間数万枚のレコードを聴いた経験と、厖大な蒐集のほかには拠るところもないが、とにかく、かつて私と同じように、一週間考えて一枚求め、三カ月貯えて一組求める人のために、買物の無駄をさせないように、そして、良き曲、よき演奏、よき録音のレコードを選ぶ参考になることが出来れば、一年を費してこの本を書いた私の満足はこの上もない。

 私は努めて音楽愛を語り、レコード愛を語る。議論や理屈は極力避けたつもりだ。それは私の柄でもないからである。私は経験を土台にして書き進んだ。従って、一、二回聴いて飽きるレコードをしりぞけて、十回百回聴いて飽くことを知らないレコードを挙げるようにした。演奏者の個性、特色、逸話は出来るだけ書いたが、あまり長尺になるのをおそれて、最初の計画の半ばにも至らなかった項目があったかも知れない。
 音楽史的のレコード蒐集に関しては、私に別の著書がある。この書は演奏者が主になっているが、例えばある特定の曲のどのレコードが良いかということを知りたい場合は、巻末の索引によってその曲名をしらべ、本文の演奏者の項を一見すれば、おのずから採るべきレコードが判明することと思う。

 電気吹込み以前の骨董レコードについては、いろいろの考えようがあるが、骨董レコードに溺れるのが間違いであると同じように、濫りに骨董レコードを排斥して、新しい吹込みのレコードに大騒ぎするのも、いささか軽佻ではないかと私は考えている。レコードは畢竟、音の記録と保存を使命にしている。古い大芸術家たちののこしたレコードは、吹込みの良否にかかわらず尊いものであり、後世に遺された大きな賜物であること、剥落褪色たいしょくしても、ミケランジェロや雪舟の絵の尊いのと同じことだ。
 そんな建前から、私は私一個の記録として、骨董レコードに言及した。骨董レコードの再検討が、近頃世界的風潮の一つでもあることは、まことに興味の深いことであると思う。

 本書の稿を続けるうち、私はレコードに関するいろいろの著書を参考にした。が、そのうちで、畏友野村光一氏の『レコード音楽読本』が最も優れたものであり、私の著書に影響するところ甚だ多く、蒙をひらかれることの少くなかったことを明記し、同氏に感謝の意を捧げる。

 後半管弦楽の部は、時日に迫られて、かつての『レコード音楽』編輯者、竹野俊男君を煩わし、私の談話を筆記して貰い、原稿になった上で私が眼を通した。
 校正、編輯、装幀、索引等は、藤田圭雄氏の努力と工夫に俟ったものだ。竹野君と併せて、この機会に深甚の謝意を表する。

昭和十四年五月
あらえびす
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よき曲

よき演奏

よき録音


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蒐集道の法三章


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レコード音楽の功績


 日本の音楽界とは言わないが、少くとも、日本における一般人の洋楽趣味を向上させた点において、ラジオと共に、レコードの功績を没することは出来ない。
 三十年前、日本は西洋音楽にとって、ほとんど処女地も同様であった。少数の専門家と、先覚者とはあったにしても、一般大衆に、小学校の唱歌以上の洋楽を味わわせる機会もなく、欧米文化の滔々とうとうたる大輸入のなかに、音楽の一部門だけは、全く取り残されたる観を呈したのは、まことに、むを得ない事情であったのである。
 文学には翻訳というものがあり、絵画彫刻には写真や複製というものがあるが、音楽における限りは、「音」を介するほかに、大衆の趣味に訴えて、その鑑賞の対象となる方法は全くなかった。楽譜や音楽書が山のごとく輸入され、文部省は直轄音楽学校をはじめ、全国の小学校女学校は、唱歌を正課としたにもかかわらず、国民の間に植えつけられて行く音楽趣味は、まことに遅々たる牛の歩みに過ぎなかったのである。
 西洋音楽が国民の趣味生活に織り込まれたのは、海陸軍軍楽隊の民間演奏に次いで、私は蓄音機とレコード録音法の発達のお蔭であったと信じて疑わない。かつてはヒズ・マスタース・ヴォイスの商標が物語る通り、「人語を発する不思議な機械」に過ぎなかった蓄音機が、いつの間にやら異常なる進歩を遂げ、十九世紀末にはすでに、平円盤の発明と共に、芸術的な音楽を記録し、欧州大戦前に早くも、名曲大曲を、何らかの形で録音する試みに成功しつつあったのである。
 かくて我らは、居ながらにして、世界第一流のアーティストの演奏を聴くことが出来た。クライスラー、パデレフスキー、カルーソーが、我らの好むがままに聴かれるようになったのは一九一〇年前後、大正の初期のことであったと思う。
 続いて、音に聞くベートーヴェンの『第五シンフォニー』、シューベルトの『未完成シンフォニー』などが、曲りなりながら、レコードを通して聴かれるようになって来た。当時洋楽に興味と情熱とを持った日本のファンたちの喜びは、今日から想像されるような生優なまやさしいものではない。

褒めらるる日本の好楽家


 日本人の音楽趣味は、俄然として高められた。それは一部少数の学生階級の青年であったにしろ、とにもかくにも、小学校唱歌と、少しばかりの軍歌以外に、ほとんど音楽らしきものを耳にする機会にすら恵まれなかったものが、曲りなりではあったにしても、ベートーヴェンを、ワーグナーを、モーツァルトを、バッハを聴く機会に逢着したのである。
 日本の洋楽鑑賞界が、レコードによって基礎付けられたことは、やがて、日本の好楽家たちを極めて純なものにした原因でもあった。日本の洋楽趣味は、酒席や、ナイトクラブや、キャバレーから広まったものではない。ただ径十インチ乃至十二インチの、真黒なシェラック盤であったことが、日本の好楽者たちを永久に救い、日本の洋楽趣味の純粋性を今日あるがごとく保たしめたのである。
 その後、欧州大戦後の悪い音楽の世界的汎濫の影響を受けて、日本の音楽鑑賞界も、甚だしく毒されたことは事実であったが、我らの顰蹙ひんしゅくと慨歎もさまで久しきにわたる必要はなかった。日支事変という大事実が、不真面目な、不謹慎な、不体裁な、不快な、そして淫靡猥雑な悪音楽を一掃して、日本には再び、良き音楽、美しき音楽が、朗々として響きわたっているからである。
 それはともかく、日本人の音楽に対する宗教的情熱と、その理解の深さは、レコードによって音楽趣味を開発したためではあるまいかと私は考えている。ステージも照明もない音楽、社交も、気取りもない音楽が、我らの白紙の心に、レコードを通して劉喨りゅうりょうと響いたのである。我らの心はなんの不純な夾雑物なしに、直ちに音楽に面し、その底の底、奥の奥に潜むものを把握せんとしたのも、また当然のことと言わなければならない。
 今から十五、六年前、日本を訪問して、帝劇で五日の演奏会を開いたクライスラーが、日本を去ってから、日本の知人たちに漏らした言葉は、「日本の音楽会の聴衆ほど恐ろしいものはない」ということであったと聞いている。
 シゲティーも同じようなことを言っていた。そして、モイセィウィッチも、――恐らく日本のコンサートにおいて、演奏家の直面する異常な緊迫感が「油断のならざるもの」を感じさせるのであろう。ある人はこの空気を以て、日本人の音楽に対する野暮ったさと解した。即ち日本の聴衆には、心から音楽を楽しむ余裕がないのではあるまいかと解したのである。
 それはさもあるべきことである。日本人の音楽に対する心持には、全く遊びというものはない。三千年の伝統と、幾百千の名作曲家によって築きあげられた洋楽のうちから、あらゆる「精神的なもの」、「役に立つもの」をことごとく吸収せずんばまざらんとするひるのような貪婪どんらんさがあることは事実であろう。しかしながら、それは即ち日本人の真剣さで、ステージを無視し、演奏者のジェスチュアを無視し、会場内の空気を無視して、ひたすら、真の音楽的なものを求めんとする欣求ごんぐの姿であると言っても差支えのないものであろう。
 この点、世界いずれの国に、日本人ほど真剣なものがあろうか。科学に対して、芸術に対して、僅々七十年間に、七百年間の歩みにもまさる長大なる進歩を遂げたのは、やがてこの日本人の「野暮ったさ」と「生真面目さ」のためではなかったであろうか。この間、音楽に対してのみ、独り日本人は享楽的であり、不真面目である筈はないにしても、この真剣さを助け、俗楽を一蹴して、良き音楽、正しき音楽の趣味に邁進せしめたのは、一部若き音楽求道者たちの、レコードによる教養のお蔭であったと断じても大した間違いはあるまいと思う。
 レコードがなかったならば、日本人の音楽趣味と、音楽に対する教養は、決して今日のごときものではあり得ないだろう。ラジオや、実演があったにしても、レコードという競争者刺戟者がなかったならば、日本のラジオやコンサートは、決して今日のごとき曲目ではあり得なかったであろう。

 世界のレコード会社は、少くとも日支事変以前までは、日本の市場を勘定することなしに、高級レコードの吹込みを企てることが出来なかった。世界のどこにも、日本ほど、芸術的な高級レコードの消化される国はないからである。ベートーヴェンの『荘厳ミサ』十一枚のレコードが、千組も二千組も売れるのは、恐らく日本以外にはあるまい。同じベートーヴェンの『第五』『第六』『第七』『第九』のシンフォニーは、世界のあらゆる楽団で吹き込まれたレコードが、ほとんど例外なしに日本でプレスされ、いずれも数千組、乃至数万組を消化している。
 かつて、英国レコード界の長老マッケンジーが提唱して、フーゴー・ヴォルフ協会のレコードが吹き込まれたとき、英本国は勿論、仏、伊、瑞、独その他全欧州と米国をすぐって、会員数予定の三百に満たず、この計画がほとんど流産におわろうとする間際に、日本の会員約二百名が参加したために、たちまち計画は成就じょうじゅし、マッケンジー始め、英国のナショナル・グラモフォン協会ソサイエティの同人を驚倒せしめたことがある。フーゴー・ヴォルフは、ドイツ歌曲リード中でも気むずかしいもので、素人が慰み半分に聴くようなものではない。その上一輯のレコードは七枚で、当時十割関税を加算すると、どんなに上手に輸入しても五十円以下では手に入らなかったものである。幾輯出るとも見当のつかないヴォルフのレコード、しかもこの上もなく高価なものを、日本から二百組も註文されたマッケンジーの驚きは思いやられるではないか。
 今日ではもはやレコードは輸入禁止されている。今さら外国から取り寄せようという不心得者は一人もあるまいが、昔はこうであったという洋楽レコード勃興時代のファンたちの情熱を私は例示したまでである。
 当時日本において、高級な音楽芸術に接するためには、レコードによるのほかはなく、日本プレスはまだ創始時代で、協会レコードや、市場価値のないレコードにまでは及ばなかったためでもある。

レコード音楽の良さ楽しさ


 レコード音楽の特色は、ここで語るまでもあるまい。よき吹込みのレコードを手に入れることが出来さえすれば、我らは、居ながらにして、好むがままの曲を、好むところのアーティストの演奏で、好む時間に聴くことが出来るのである。ラジオも結構には相違ないが、時間と曲目と演奏者を選ぶことは許されない。レコード音楽の方面においては、世界の名曲と称せらるるものは、ほとんどことごとく吹き込まれ、少きは二、三種、多きは二、三十種の異なったレコードを用意することもさして困難ではない。
 興に乗ずれば即ち聴き、興が醒めてはなんの遠慮もなくよす、これがレコード音楽の大なる魅力だ。
 次に、実演の音楽は、宣伝や、場内の空気や、演奏者の態度や、いろいろの条件に煩わされて、一般の素人には、正しい鑑賞批判は非常にむずかしいものである。音楽に関心と知識を有する者でさえも、しばしば、拙劣な演奏をゆるし、巧妙な演奏を聴き流すことがあり得るものである。
 ところが、レコードされた音楽は、なんのカモフラージュなしに、幾度でも繰り返して聴かれ、自由な大胆な批判の前にさらされなければならない。上手じょうずはますます上手に、下手へたはますます下手に、なんの覆うところもなく検討され尽されるのである。故人伊庭孝いばたかし氏は「レコードはかなわないよ、ちょっと音がずれても、そいつを執念深くくり返されるからね」と言っていた。全くレコードされた演奏は、一小瑕疵かしといえども許されない。
 従って、いかなる音楽の素人でも、レコードされた音楽を反覆聴いていさえすれば、一番上等の耳と理解とを持った、音楽批評家以上の批判が下されるわけである。どんなに我慢強い人間でも、下手な演奏は決してくり返して聴く気になれるものではない。
 もう一つレコードの重大な特色は、時局下に代用品としての役目を果していることである。
 実演の音楽は良いには相違ないが、かつてクライスラーやエルマンは帝劇の特等席十八円という驚くべき入場料を取った。その頃は第二流人でさえも、外国人でありさえすれば、十円より安いのは滅多になかった。我々貧しき勤め人は、一流アーティストを聴くためには、想像以上の犠牲を払わなければならず、昔はなまの音楽を聴くということは一般人に取って、なかなか容易の業ではなかったのである。
 幸い経済上の問題は解決するとしても、日本のごとき、一般家庭に夜分外出の習慣のないところでは、季節シーズンの音楽会を、ことごとく聴くことなどは、全く思いも寄らない贅沢である。
 レコードはここに登場する。日本におけるレコードは、諸種の物価と比較して、決して安いものではないが、それでも、代用品としての役目は充分に果し得るであろう。コルトー、レナー四重奏団、モイーズ、ラフマニノフ等、来朝の噂ばかりで取り消された人たちは、幸いにしておびただしいレコードを吹き込んでいる。それを聴くだけでも、代用品としてのレコードの役目は尊い。

十枚の蒐集にて可


 そのレコードをいかにして選ぶべきか。
 私はいよいよ本題に到達した。
 金に飽かして数千万枚のレコードを求めるのも蒐集の一つであるが、金はあるにしても、よくよくの暇人でなければ、それだけのレコードを聴く時間を持たないのが普通である。
 私は、財力と、知恵と、時間との処置に困る人のためにこの書を編んでいるのではない。たった二枚のレコードを求める人のために、あるいは、十枚、五十枚、百枚程度のレコードを集める人のために、幸いにして、日本でプレスされたレコードのほとんど全部と、過去三十年間外国で発売されたレコードの大部分を聴く機会を得た私の経験を語って、蒐集道の参考になれば即ち満足しようと思う。
 たった二枚のレコードを求める人があったとしたら、
ピアノならコルトーから一枚、
ヴァイオリンならクライスラーを一枚、
チェロならカサルスの何かを、
室内楽ならカペエのうちから、
そして管弦楽なら、フルトヴェングラーか、ワルターか、メンゲルベルクか、トスカニーニの一枚を薦めるだろう。
 私はこの程度の小蒐集から、約千枚、二千枚の大蒐集にまで、この書を役立てようとしている。
 蒐集は決して多きを望んではいけない。よき選択は、たった十枚でも、悪き選択の百枚にも匹敵するだろう。
 少しも気取らない素直な心持で、本当に良きもの、長く楽しめるもの、正統的な価値のあるものをと心掛けたならば、レコードの蒐集は必ずしも多きを必要としないわけである。
 私は二十何年間の蒐集一万枚に上るかも知れない。日本の市場にあるものもないものも「良いもの」でさえあれば、大抵は持っているつもりだが、常に座右に置いて聴くレコードというものは、決して百枚よりは多くない。いたずらに蒐集の数を誇るものは、蒐集に個性のない喫茶店式蒐集に堕するだろう。無用のレコードは叩き潰して、アスファルトの代用品にでもするがいい。真に良きものを集める気になれば、十枚の蒐集にてもまた可なりだ。

法三章=よき曲、よき演奏、よき録音


 レコード蒐集道の法三章は、「よき曲」、「よきアーティスト」、「よき録音」と言われている。三拍子揃ったレコードとして、ファンたちの渇仰を集めるためには、少くとも、これだけの条件は備えなければならない。
「よき曲」と言ったところで、人によって好悪があり、趣味と、知識と、境遇とによって、いろいろに解釈される。ある人はバッハの『カンタータ』をよき曲と解し、ある人はワーグナーの『楽劇』をよき曲と信じ、ある人はドビュッシーの『ペレア』をよき曲とするかも知れない。
 しかし、結局はそれも程度問題で、大衆の叡知と興味には、北斗を指す磁石のごときものがあることは疑うべくもない。少くとも本書において私は、その北斗のごとく明らかなる「よき曲」以外のものは扱わないように注意したつもりである。
 よきアーティストも、銘々の興味によってかなりの変化がある。ヴァイオリニストだけで言っても、クライスラー以外に興味のない人もあり、ティボーに心酔する人もあり、フーベルマン一点張りの人もあり、シゲティーに法外の興味を持つ人もある。が、しかし、それも程度問題で、第三流以下のヴァイオリニストに興味を感じて、第一流人を無視する人があったとすれば、それは好んで常規を逸する奇矯の態度で、決して万人を共鳴させる道ではない。
 世の中には、おのずから定まる声価がある。作曲者の中には、生前極めて薄倖で、死後巨名を博するシューベルトのごとき天才はないではないが、演奏家に至っては、生前全く知られずして、死後有名になったという例は、――蓄音機発達の絶頂においても――まずあり得ないことである。
 アーティストの評価は、奇をてらうことを避けて、有識者、具眼者の説に聴従しても大した間違いはあるまいと思う。贔屓ひいき贔屓は別だ。が、第一流人はおのずから第一流人の貫禄があり、場末の小屋の芸人には、歌舞伎の大舞台は踏ませるわけに行かない。
 私はこの書において、第一流人のレコードを紹介するに止めようと思った。しかし、それではあまりに偏狭になる惧れがあったので、かりに範囲を第二流のアーティストまで引き下げ、芸術家として存在価値の高い人は、なるべく網羅することに努めた。しかし、読者の迷いを防ぐために第三流人は採ることを中止した。厳格な意味から言えば、少しでも下手な人のレコードは聴く必要はない。妥協も遠慮も、レコードの上では全く無用なことだ。なるべくは第一流のアーティストの演奏に限り、第一流人にない曲目だけを、第二流人のレコードで補う程度でありたい。
 録音は、会社によって、それぞれの自慢がある。ハイ・フィデリティのビクター、ヴィヴァ・トーナルのコロムビア、ポリファのポリドール、それぞれの特色はあろう。
 ビクターのハイ・フィデリティ録音は、分離の美しさと、立体感においては、驚くべき域に達している。恐らく感度の鋭敏なマイクを、演奏者からかなり離して、聴衆と同じ距離から録音するためであろう。この録音は清澄で柔かい。欠点は、音量が弱小で、電気拡大装置の完備した高級蓄音機でなければ、最上の再現がむずかしいことである。
 コロムビアは、強大明確な録音だ。この音の鮮麗さにおいては、どの会社の録音も及ばないが、強大な音を溝に盛り過ぎるために、針とボックスがその音量をうけ切れないことがある。近頃はその弊が少くなったが、かつてのコロムビアに、時々音の割れるレコードのあったのはそのためである。
 ポリドールは柔かくて大きい。わけてもピアノの音に特色があり、人によっては、この素朴な録音を好きな向きもあるが、ホール・トーンを入れ過ぎて、無用に濁った響きを響かせる癖がないとは言えない。
 テレフンケンは、かつて固過ぎる嫌いがあったが、近頃その欠点を解消して非常に良くなったようだ。まだ幾分の柔かさを欠くのは、コロムビアの強さ、ビクターの弱さと共に特色的でもあるだろう。
 しかし、吹込み技術は日進月歩だ。昨日の吹込みは今日の吹込みに比べるともう悪い。よきが上にもよき吹込みを望む人には、最新の、より最新のレコードを薦めるのほかはない。もっとも、歌やヴァイオリンの場合には、さして古さが目立たない。わけても歌のレコードのごときは、電気以前の吹込みで、今日なお骨董的価値の高いもののあるのは、人の肉声の音域に関することで、ピアノや管弦楽伴奏の不満足を我慢すれば、骨董レコード必ずしも排斥すべきではないと私は信じている。下手は新しい録音ほど下手さが目立つわけで、歌における限り、電気以前の上手のレコードは認められていい。
 が、室内楽、ピアノ、管弦楽などは話が違う。ピアノや室内楽はまだ我慢するとしても、管弦楽は断じて我慢が出来ない。三年、五年と経った管弦楽のレコードは、口惜しいことではあるが、その価値を甚だしく損じる。

 やかましくせんさくをすると、三拍子揃ったレコードというものは、案外に少いものである。幾千枚のレコードのうちから、真に三拍子揃ったレコードを、三十枚なり五十枚なり選択して、それを蒐集の目標とし、日常の慰安にするのは、素人の好楽者に取って決して悪くないことだと思う。(研究者はこの限りでない)
 レコード音楽はこうして限りもなく進歩する。そして、我らの教養となり、娯楽となり、慰安となり、明日の精力の源泉ともなるだろう。
 フルトヴェングラーが言ったように、「演劇を保護するために、映画を亡ぼしてはいけない。――同じように、コンサート音楽を保護するために、レコード音楽を亡ぼしてはいけない」
 書斎にも、農村にも、商店にも、レコード音楽は汎濫する。それは決して悪いことではない。要は、そのレコードの選択だ。酒席の興を添える音楽を農村へ持って行ってはいけない。紅燈緑酒の間の音楽を、家庭に持ち込んではいけない。
 国民の教養のために、よき音楽が、もう少し尊敬されなければならぬ。よき演奏家、よき録音、その三拍子揃ったもの、誰が聴いても恥かしくないものを私は掲げて行く。
 が、我らの日常生活をうるおすプログラムは、でたらめになってはいけないと同時に、あまり頑固かたくなになり過ぎても嬉しいことではない。私はこの書の記述を、一般レコード書の方式を逆にして、大曲名曲を後にし、まず親しみ深き小曲から説いて行こうとするのはそのためである。
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ヴァイオリン


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クライスラー Fritz Kreisler





 いかなる芸術でも、その最後の値打を決定するためには、創作者、演奏者の人格にまで戻らなければならない。不良少年型のいわゆる天才は、一時ジャーナリズムの波に乗って、天下の人気を背負って立つことがあろうとも、それは全く稲妻のようにはかない一閃光で、永遠に人の心を高め得るものではない。
 こう言う私の言葉が、道学先生らしいかたくなさを持っていると思う人があったならば、しばらくこれを実例について見るがいい。天才というものに縁の遠い、凡人畑の人は論外として、少しく天分があり、幸運に恵まれ、その上努力を惜しまなければ、技巧の点だけである程度に達することは必ずしも困難なものではない。現にヴァイオリンだけで言っても、故人イザイエは別として、現存大家たちをかぞえ来って、クライスラー以上に、あるいはクライスラーと同様の「腕前」を持った人は、決して少くはなかったのである。
 クーベリック、フーベルマンなどは、少くとも十年あるいは十五年前までは決してクライスラー以下ではなかった筈である。それが今ではどうだろう。この一人をクライスラーと並べるのが、なんとなく非常識にさえ思われるではないか。
 フリッツ・クライスラーを偉大ならしめたのは恐らく欧州大戦であろう。オーストリー軍に参加し、傷ついて帰ったクライスラーの著書『塹壕ざんごうの四週間』は当時既に世界に喧伝され、日本にも翻訳が出た筈であるが、それにもましてクライスラーを有名にしたのは、その銃後の活動であった。
 戦線から退いたクライスラーは、一挺のヴァイオリンをひっさげて、その財と力とを傾けて傷病兵と遺孤のために働いた。その点ピアノのパデレフスキーと同様であるが、パデレフスキーは祖国ポーランド新興劈頭へきとうの大統領になったのに対して、負け戦のオーストリーのために働いたクライスラーは、物質的にはなんの酬いられるところもなかったのである。
 しかし、世界大戦は終り、平和条約が締結された後、――まだ仏国の独墺どくおうに対する敵愾心が熾烈を極めている時、たまたま昨日の敵国、フランスを訪問したクライスラーが、想像も及ばぬ大歓迎を受け、条約上の平和に、人間同士の心の平和をもたらしたということは、なんという嬉しい光景であったことだろう。折も折、独逸ドイツの方では、戦後の救恤きゅうじゅつに対する大功労者として、提琴家クライスラーのために、国民的大感謝祭が行われている最中であった。
 これが即ちクライスラーの良さであり、クライスラーの偉大さである。大芸術家といえども人間であり、国民であるのだ。現代の有名な提琴家で、恩師の夫人と夜逃げした人さえある中に、入っては国民感謝の的となり、出でては敵国に平和の使として、国境を超えて親しまれるということは、人生の会心事でなくてなんであろう。クライスラーは、ヴァイオリンを捨てても、人間として、褒められたたえられていい人である。
 クライスラーの弾く小曲に、くめども尽きぬ人間味の溢れるのは、この人間クライスラーの心の中から流れ出る情味のためではなかろうか。クライスラー老いたりと言われながらも、この人のヴァイオリンの音には、聴く者の胸に食い入る「何物かが」あることは否む由もあるまい。
小曲はクライスラー」私はいつでも原則的にこう言っている。大震災の年日本を訪ね、帝劇で五日間独奏会を開いた当時のクライスラーは、四十幾歳の脂の乗り切った時で、あの時弾いた小曲の美しさは、全く筆舌の尽すべきではなかった。魂の底から揺り上げるような感激にひたって、幾千の聴衆は恍惚こうこつとして夢のような陶酔を追ったものだ。あれは実に不思議なげんの魔術であった。
 私の場合で言っても、ヴァイオリン・レコードのコレクションのうち、電気以後の吹込みを全部集めたのは、クライスラー一人だけで、電気以前の旧吹込みでさえ、私は三、四十枚は持っているつもりだ。「小曲に示した」クライスラーのうまさというものは、全く比類のないものである。この甘さ、柔かさ、温かさ、そして人間らしさは、何にたとえることが出来るだろう。
 残念ながらしかし、電気以前のクライスラーの全盛時代は蓄音機が幼稚な上、吹込技術が悪く、蓄音機が発達し、吹込技術が完成した今日では、惜しいことにクライスラーが、往昔むかしの若さとつやの大部分を失ってしまった。――私の言葉の意味を間違えてはいけない。クライスラーは一部の人の言うごとく、決してまずくなったのではなく、老来枯淡の境地を開いて、大曲にはなかなかに良いものを聴かせてくれるが、甘さと美しさを生命とした小曲には、さすがに昔ほどの良さはなくなったという意味である。
 それでもまだ「小曲はクライスラー」という言葉は、昔のまま通用させることが出来るだろう。少くとも、
支那の鼓』『カプリス・ヴィノア』(洋楽愛好家協会レコード
ルイ十三世の歌とパヴァーヌ』(一五〇三
ロンディーノ(ベートーヴェンの主題による)』(一三八六
ロザムンデ舞蹈楽』(一五〇五
愛の歓び』『愛の悲しみ』(六六〇八
タイース瞑想曲』(JD一三
スラブ舞蹈曲第三番』『インディアン・ラメント』(七二二五
メヌエット』(バッハ)『ガヴォット』(ベートーヴェン)(一一三六
スーヴニール』(一三二五
(クライスラーのレコードは全部ビクター)

 以上八枚のレコードは、クライスラーの小曲中の、最も親しめるものと言うことが出来るだろう。曲と演奏の厳密な意味における傑作はまた別にある。しかし、私はそんなやかましいことを抜きにして、クライスラーを楽しみ、ヴァイオリン・レコードの美しいものを望む人に、以上八枚をすすめることを躊躇ちゅうちょしない。その中から一、二枚となれば、また話は別である。
 クライスラーは好んでウィンの古民謡並びに忘られた昔の作曲家の小曲を捜し出し、それを編曲して、ヴァイオリン曲としての新しい生命を吹き込んだと言われている。『愛の歓び』『愛の悲しみ』『ウィン狂想曲』『思い出の歌』等その代表的なもので、その数は恐らく十曲に上るであろう。しかし最近それらのものが、ほとんどことごとくクライスラー自身の創作で、全然「種」のないものであったことが明らかにされ、世間は二度吃驚びっくりしたのは、かなり有名な、そして愉快な逸話である。人の物を自分の物のように発表する人こそあれ、自分の手柄の半分を、かつて存在したこともない故人に帰するのは、なんという皮肉な詭計きけいであろう。もとよりその方が無名の一提琴家の作曲と言うよりは、遙かに世間への通りが良かったかも知れない、その代り、作曲の手柄の半分は全く無償で、自分から割り引いてきたのだ。

 クライスラーには、特別の甘さがあり、比類のない情味がある。それをレコードで満喫するためには、クライスラーの作曲または編曲を選ばなければならない。『スーヴニール』や『セレナーデ』も悪くはないが、本当のクライスラー、クライスラーらしいクライスラーを味わう人のために、私は、前掲八枚のレコードのうち、『支那の鼓タンブラン・シノア』『カプリス・ヴィノア』『愛の歓び』『愛の悲しみ』から始めるようにお勧めしたい。
支那の鼓タンブラン・シノア』はクライスラーが支那に遊んだ時、支那の寄席よせ小屋の中で叩いていた、小型の太鼓の面白いリズムに興を催し、それから暗示を得て書いたものだと言われている。支那の鼓や小太鼓は、非常に技巧的なもので、音楽としては末梢的な邪道に入ったものであるが、その異国的な面白さがクライスラーの感興をそそったのであろう。この曲はいろいろの人がレコードしているが、クライスラーは、私の知る限りでは前後三回吹き込み、三枚それぞれの面白さを出していると思う。
カプリス・ヴィノア』は、題名の示すがごとく、維納ウィンの民謡に取材した一種の幻想曲で、極めて味の深い、美しい曲である。クライスラーの作品中第一の傑作であるばかりでなく、恐らくヴァイオリン小曲中の、古今の傑作の一つであろう。この田園詩的な和やかさと、燿灼的ようしゃくてきな輝きは、ほとんど類のないもので、故名提琴家イザイエが、作曲家クライスラー自身と並んで、古いレコードだが面白い演奏を聴かせているに過ぎない。しかし、イザイエのレコードはもはや骨董で、一般のファンの蒐集には、対象とするに不適当なものである。

 よく話したことであるが、大正十二年の春クライスラーが日本を訪ねた時、その帝劇五日間の演奏会を全部聴くために、私は危く命を棒にふるところであった。その頃高熱を発して、医者に外出を禁じられていたにもかかわらず、私は苦悩を忍んで毎夜帝劇に通い、とうとうその後四カ月の静養を要するほどの大患になってしまったものである。
 私はしかし少しも後悔はしていない。あの時医者の言葉を守って、病床に引き籠っていたなら一週間か十日の風邪で済んだかも知れないが、その代り私は、一生クライスラーの芸術に触れる機会を失ったかも知れない。「危いことであった」と思うのは、私自身の病気のことではなく、クライスラーを聞き損ねたかも知れないという心配であった。
 クライスラーの演奏会は、全く命がけで聴く値打のあったものである。私はあの時のバッハの『シャコンヌ』を記憶している。ブルッフの『コンチェルト』を記憶している。『クロイツェル・ソナタ』を記憶している。しかし、それにもして私は、『支那の鼓タンブラン・シノア』や『ロザムンデの舞曲』や、『愛の悲しみ』などに示したクライスラーの美しさを忘れることは出来ない。
 アンコールで弾いた名もなき小曲(実は曲名を記憶していないので)の珠玉的な輝きと魅力は、何にたとえることが出来るだろう。その頃もう半白になったクライスラーの、やや魁偉かいいな風貌も限りなく親しめるものであり、楽屋で夫君の演奏の終るのを待ち構えて、抱き付くように迎える夫人の愛情の籠った態度までが、私には昨日のことのように思い出されてならない。
 私は乏しい財嚢ざいのうを傾け尽して、当時ビクターのカタログに六、七十枚あったクライスラーのレコードを、全部かき集めようとしたのになんの不思議があろう。クライスラー演奏会皆勤のお蔭で、病床に倒れてしまった私は、当時まだ小学校にいたせがれと、高工の生徒だったおいを使に出して、銀座のレコード屋から専らクライスラーを集めさした。『タイスの瞑想曲メディテイション』『インドの悲歌ラメント』『ユモレスク』『ルイ十三世の歌とパヴァーヌ』はその頃の私の病床をどれだけ慰めてくれたか判らない。
 四カ月の後、病床から起き上ると、あの関東の大震災だ。私の家は幸い災厄を免れたが、東京のレコード屋は、新宿の出羽屋と神楽坂かぐらざかみどり屋を残して、洋楽物を扱うほどの店はほとんど全部焼けた。私のクライスラー・コレクションはそのために中絶して、焼け跡にコークスのように焼けただれたまま積まれたレコードの山を、私は涙ぐましい心持で見て歩いた。
 話は甚だしく余談にわたるが、クライスラーの良さを語るためには、ここまで恥を打ちあけなければなるまいと思う。

クライスラーの大曲――三つの協奏曲の思い出

 クライスラーの小曲が楽しくも嬉しいと言っても、レコード片面のアンコール向きの小曲を以て大クライスラーを論ずるのは、あたかも、髯を撫して竜を論ずるごときものである。老いたりといえどもクライスラーが、当代提琴界の王座に、儼然たる儀容を保つ所以ゆえんは、その大曲名曲に示す、気魄と滋味と、技巧と品位とに由来することは言うまでもない。
 クライスラーのレコードに入れた最初の大曲というものは、電気以前のHMV及びビクターに入ったモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲第四番』四枚であった。管弦楽団は英国のもので、指揮は先頃物故したランドン・ロナルドであったが、平明枯淡なうちに、津々たる滋味を湛えた演奏で、その後誰がこの曲を弾いて、どんなすぐれた録音でレコードしても、これほどのものがなかったように記憶している。もっとも、電気以前の大古おおぶるレコードで、今は問題になるようなものではなく、単に老ファンの語り草の好題目に過ぎないが、神田あたりの中古レコード屋の相場が、ティボーのひいたバッハの『ヴァイオリン協奏曲=ホ短調[#「ホ短調」はママ]』と共に両大関的な存在であるという噂だけは聞いている。これはしかし、ヴァイオリン・レコードをあさりつくした玄人蒐集家筋の贅沢で、単に音楽を愛するファンたちのあずかるべき道楽ではない。

 電気吹込みになってから入った最初の大曲レコードは、一九二七年頃に吹き込んだ、
ヴァイオリン協奏曲』(ベートーヴェン)(八〇七四
ヴァイオリン協奏曲』(メンデルスゾーン)(八〇八〇
の二曲で、この出現はレコード界の驚異であり、劃時代的な出来事であった。ヴァイオリンの演奏がクライスラーであるということが、当時にあっては既に煽情的で、その上、管弦楽は伯林ベルリン国立歌劇場の楽団であり、指揮は老巧レオ・ブレッヒ、使用のホールは、ジングアカデミーと、申し分のない条件を備えたものであった。
 このレコードについては、私は旧著の中で極力支持し讃美している。が、もう一度当時の感激をここにくり返さなければならない。レコード音楽というものが、筋立った曲を聴かせるようになってからもはや十何年になるが、私の経験の範囲内において、ベートーヴェンの『第九』の最初のレコード以外に、これほど世界のファンたちの感激を齎したものはなかったと思う。

 第一番にクライスラーの音の美しさが、この大曲を本質的に瑰麗かいれいなものにした。クライスラーの音の豊潤な美しさは、実演でバッハの『シャコンヌ』を聴いて、私は驚歎したことを記憶しているが、この人のボーイングの言うに言われぬ柔かさは、フーベルマンの名刀で鉄を切るような、じいんと刃鳴りのある凄まじさとちょうど対蹠的たいせきてきなもので、いずれを良しとし、いずれをしとするかは、銘々の好みに任せるとして、ともかくも、世にも得難きものであったことは、実演を聴いた人のことごとく一致するところであろう。
 レコードではその音の美しさが全部そのまま記録されているとは言い難いが、少くとも眼をつぶって三分の一面だけ聴いても、――いや、ほんの二、三小節を聴いただけでも、クライスラーの音は、少しく馴れた人には言い当てることが出来るだろう。クライスラーのヴァイオリンの音というものは、それほど美しく、それほど特色的なものである。
 第二に、クライスラーの演奏を価値付けるものは、その曲に対する愛情と、クライスラー自身の人間味である。クライスラーのごとき大家にして、クライスラーのごとく謙虚に見える人は少く、クライスラーのごとく、曲に打ち込んだ愛情を示す人も少い。クライスラーの演奏を聴いていると、業師わざしめかしい、聴いてくれよがしの、ヴァーチュオーソたちに共通の高慢さは少しもなく、極めて落ち着いた平凡な態度で、――叔父さんが得意の一曲を、おいたちにひいて聴かせでもするように――、心ゆくばかり演奏してくれるような気がするのであった。
 メンデルスゾーンとベートーヴェンの二つの協奏曲は、当時鎌倉に御滞在の、さる高貴の御方の有難い思し召しで私のコレクションに加わり、第一回の演奏は、主婦の友社で行われた。もう十二、三年前――昭和の初め頃のことである。このレコードを番外に持ち出すと、折角プログラムを飾った珍品レコードなどは、全くそっちのけであった。私は演壇に飛び上って、紹介の挨拶を始め、恐ろしい興奮と期待のうちに、演奏されたことを記憶している。その後私はレコード・コンサートというものに、幾度か引き出され、解説やら感想やらを述べさせられる機会が多くなったが、その皮切りは恐らく、自分で買って出た、この時のクライスラーの協奏曲の紹介であったように思う。
 その後間もなく、
ヴァイオリン協奏曲』(ブラームス)(JD五三八四二名曲集五七〇
がHMVに入った。この曲は吹込みのやや新しい関係もあるだろうが、恐らくクライスラーの大物レコードとしては、最上の条件を具えたもので、その後吹込み直しのレコードがあるにかかわらず、ビクター会社が依然としてそのカタログからカットせずにあるのは誠に当然のことと言わなければならない。
 三大ヴァイオリン協奏曲は、こうしてレコードされた。その後、シゲティーのもの、フーベルマンのもの、ギーゼキングのもの、クーレンカンプのもの、等々、かぞえ切れないほどレコードされたが、吹込みの古さを我慢するならば、十二、三年前に吹き込まれたクライスラーの三大協奏曲は、依然として三大コンチェルトのレコードに、げんとして王座を占むることは、何人なんぴとも疑わないところだろう。
 ところで、その後十年の歳月は流れ、さしもの珠玉盤も、吹込みの古さは蔽うべくもない有様になった。HMV会社が、老クライスラーを再びたしめ、この三大協奏曲の再吹込みを敢行したのは、まことに一九三五、六年頃のことである。
 そのレコードが日本ビクターにも相踵あいついでプレスされ、旧吹込盤と比較して、是非の論はしばらくの間レコード界を賑わしたことも、大方の記憶に新たなるものがあるだろう。並び掲げて、参考に供することにしよう。

ヴァイオリン協奏曲ホ短調』(メンデルスゾーン・作品六四)
(ヴァイオリン) クライスラー
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45)   ベルリン国立歌劇場管弦団 ブレッヒ指揮
八〇八〇名曲集一六
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45)   ロンドン・フィルハーモニック管弦団 ロナルド指揮
JD五九三名曲集五七七

ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(ベートーヴェン・作品六一)
(ヴァイオリン) クライスラー
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45)   ベルリン国立歌劇場管弦団 ブレッヒ指揮
八〇七四名曲集一三
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45)   ロンドン・フィルハーモニック管弦団 バルビロリ指揮
JD八四二名曲集六二五

ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(ブラームス・作品七七)
(ヴァイオリン) クライスラー
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45)   ベルリン国立歌劇場管弦団 ブレッヒ指揮
JD五三八名曲集五七〇
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45)   ロンドン・フィルハーモニック管弦団 バルビロリ指揮
JD九三七四一名曲集六四一
 この新旧レコードの対照は、この後長く論議されることであろう。が、結局は、この二つのレコードの演奏に十年の年齢の距たりがあることと、同時に十年の吹込技術の進歩のあることが、論議の中心点となるべきものであると思う。
 クライスラーといえども、十年の歳月は決して短くない。腕に歳を取らせないと言っても、六十歳を超したクライスラーに、五十歳前後の輝きと若さがあろう筈はないのである。クライスラーは新吹込みのコンチェルトにおいて、往年の甘さと若さを失ったことは当然であるが、甘さと若さに代るに、枯淡な滋味を加えたことも、また勘定外に置くわけには行かない。クライスラーは確かに歳を取った。その演奏において失うところの美しさと魅力は、おそらく三十パーセントを下らないだろう。その代り老来とみに加わった滋味と平明さは、クライスラーの演奏の良さを増すところ、その半ばに過ぎないかも知れない。これを要するに、クライスラーが年齢によって失うところは、正直に言えば、決して少くはなかったのである。
 だがしかし、録音法の進歩において加えたところの美しさは甚だ少くない。先の三大協奏曲は、電気吹込みの極めて初期のものであり、後の三大協奏曲は、進歩発達の絶頂にあるかに思われたこの一両年来のものである。その音の柔かさと、ふくらみと、輝きとにおいて、管弦楽の各楽器との分離において、先の吹込みのものとは、まったく同日を以て語ることの出来ないものがあるだろう。
 もう一つ、管弦楽団の比較と指揮者の比較が、新旧レコードの甲乙に、大きな問題を遺している。ドイツの管弦団、わけても伯林ベルリンフィルハーモニーと伯林ベルリン国立歌劇場のそれは、ドイツ系の音楽の演奏においては、世界における最高最優の管弦楽団で、ウィン・フィルハーモニーと、アメリカの金に飽かして編制された一、二のものを除いて、全く匹儔ひっちゅうを見ないことは、常識的に知られたことである。
 英国の管弦団は、近来著しく質を向上したと言っても、独逸ドイツ系の音楽の演奏において、伯林ベルリン国立歌劇場管弦団に及ばないことは、あまりにも明らかなことだ。
 指揮者ロナルドは老巧練達の士であるが、バルビロリは第二流の人で、さして優れた指揮者とは言いがたい。ブレッヒ博士はかつて伯林ベルリン国立歌劇場の主席指揮者として令名があり、その行き届いた常識的な態度と、劇的な雰囲気をかもし出す手腕と、長身と、聡明さと、いろいろの点において知られた人である。
 この新旧三大コンチェルトが、管弦楽及び指揮の点においては、ブレッヒ指揮の古い方が優っていることは、百人が百人異論のないところだ。
 トータル・サムは銘々の考えようで決するであろう。私自身は新旧共に座右に備え、その時の気分に応じて聴くのを楽しみとしている。さながら、これは新旧六聯の曼陀羅まんだらにも比ぶべき豪華優麗なもので、レコード音楽ある限り、亡びない傑作であろう。

 クライスラーのレコード界における大業績として、ベートーヴェンのヴァイオリン・ピアノ・ソナタ十曲の吹込みは逸することの出来ないものであった。このレコードは『ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ協会』の名において売り出された(第一、二輯は七枚ずつ、第三、四輯は六枚ずつ)二十六枚の大物で、予約形式で売り出されたために、カタログには掲載されていない。
その第一輯は、『ソナタ第一=ニ長調(作品一二の一)』『ソナタ第二=イ長調(作品一二の二)』『ソナタ第三=変ホ長調(作品一二の三)
第二輯には『ソナタ第四=イ短調(作品二三)』『ソナタ第五=ヘ長調(スプリング)(作品二四)』『ソナタ第八=ト長調(作品三〇の三)
第三輯には、『クロイツェル・ソナタ(作品四七)』『ソナタ第七=ハ短調(作品三〇の二)
第四輯には『ソナタ第六=イ長調(作品三〇の一)』『ソナタ第十=ト長調(作品九六)
 以上の組合せで吹き込まれている。
 ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはほとんどことごとくが華麗であり、ドイツあたりでは、十曲の連続演奏を聴くことも決して珍しくないと言われているが、日本では実演に接する機会の極めて稀な曲もあり、十曲全部の録音は、いろいろの意味で興味の深いことである。
 この中で、『クロイツェル・ソナタ』と『スプリング・ソナタ』の有名なことは、ここにぜいするまでもない。『クロイツェル・ソナタ』が、トルストイの小説にその題名を借りられたが故に、あるいは実質以上に艶麗妖美な曲とされ、およそ官能的な音楽のゆうなるもののように思われがちであるが、実際の音楽は、雄大瑰麗を極めているにしても、決して後世のある種の音楽のごとく、官能的に流れ過ぎるようなことはない。『スプリング・ソナタ』は『クロイツェル』よりさらに甘美で、トルストイはこの曲をこそ小説の題名とすべきであったと思う。
 とにもかくにも、この二曲は極めて代表的なもので、これを以てベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは尽きるように思う人もあるが、それは大変な早計である。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを論ずる場合には、むしろ第十番目のト長調のソナタの雄渾壮麗さを逸するわけには行かない。
 以上十曲のソナタに示したクライスラーの演奏は、若かりし日のクライスラーに比べて、やや枯淡の趣はあるにしても、依然としてこの曲のスタンダードを示すもので、老境甘美さは失ったにしても、欝然うつぜんたる風格は、後生子弟に最上の範を垂れるものであることは疑いをれない。

 クライスラーのレコードを蒐集する人は、クライスラー作曲または編曲の小曲二、三に、三つの協奏曲、それにヴァイオリン・ソナタ協会レコードを加えてまず満足すべきである。それ以上のレコードは、特殊の興味または必要によって、適当に追加すべきであると思う。電気吹込み以前の骨董レコードについては、別の項に説く機会があるだろう。

小伝

 フリッツ・クライスラーは、一八七五年二月二日墺太利オーストリーのウィンに生れた。父の指導を受けて、早くから楽才を現わし、七歳にして音楽院に入り、一八八五年十歳にして金賞牌を得、次いでパリ音楽院に入学、名匠マッサールについて提琴を、ドリーブに作曲を学び、一八八七年十二歳で羅馬ローマ大賞を得た。
 一八八九年名ピアニスト、ローゼンタールと共に米国に楽旅がくりょを試み、後故郷ウィンに帰って音楽と絶ち、医学及び絵画を学び、続いて墺国の軍隊に入り、十年沈黙の後一八九九年ベルリンに現われて一世を驚かした。二十世紀に入って、再び米国に遊び、新進提琴家として盛名をせたが、欧州大戦に従軍して負傷除隊となり、戦後楽壇に返り咲いて、遂に一流中の一流人となったのである。
 従軍の体験を描いた『塹壕中の四週間』はクライスラーの文筆の士としての地位を確保するもので、その他趣味人として、温厚の長者として、一世の尊崇を受けていることは人の知るところだ。作曲はヴァイオリン用の小曲のほか、『弦楽四重奏曲』が幾度かレコードされている。イザイエ歿後、名実共に提琴王として、斯界に君臨していることは大方の知るところである。因みに、日本来遊は一九二三年、即ち大正十二年の四月で、クライスラー四十八歳の最も脂の乗った時であった。
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エルマン Mischa Elman





 クライスラー以前に、日本人に親しまれたのは、ミッシャ・エルマンである。クライスラーが日本を訪ねた前々年(大正十年二月)、「楽聖」という触れ込みで日本へ来たエルマンの武者振りは全く我々世間見ずの度胆を抜くに充分であった。その頃のエルマンはまだ二十八、九歳の青年であったが、アウアー門下の逸足として、世界的に大名を馳せ、日本を訪ねるのは、何がなし、有難いことのように思えたものであった。
 エルマンのヴァイオリンを特色づける、いわゆるエルマン・トーンは、その頃最も脂の乗り切った時で、その後十幾年、昭和十二年に日本を訪ねたときは、もはや昨日のエルマン・トーンはおもかげしか残っていなかった。
 若い頃のエルマンというものが、全く魅力満点であったことは誰でも認めている。エルマンの音の豊麗な美しさは、クライスラーとは全く違ったもので、さらに脂の強く、生々なまなましいものでさえあった。電気以前の『G線上ゲーせんじょうのアリア』やシューベルトの『アヴェ・マリア』、ショパンの『ノクターン』などが、どれほど持てはやされ、心酔され、尊敬されたか、今日のファンの想像の及ぶところではない。
 エルマンの演奏はクライスラーとは正反対で、ステージの上を、極めて活発に歩き廻り、目につくほど猛烈に身体を動かした。それはしかしなんでもないことだ。エルマンは芸術家であり、そして充分過ぎるほど、我らを陶酔境に導いてくれたのである。ステージで動くくらいのことになんの不思議があろう。
 世界的なヴァイオリニストに接したことのない、その頃の聴衆は、ただ随喜し渇仰かつごうした。その時帝劇の特等は十五円、一等は十二円、二等でさえ八円であった(三等四円、四等二円)。それだけの前代未聞の入場料を取って、帝劇を満員にしたエルマンと、エルマンを売り込んだ興行政策は驚嘆していい。

(因みに、翌々年来朝したクライスラーは、十五円、十三円、十円、四円、二円で、同じ年のゴドウスキーは十円、七円、二円、一円であった。エルマンと同じ年に来たシューマン・ハインクは十二円五十銭、十円五十銭、七円五十銭、三円六十銭、二円と刻み、大正十二年のハイフェッツ、その後のガリクルチ、マッコオマックなどは皆十円組であった)

 余談が長くなり過ぎるが、エルマンは電気になって、遙かに尾鰭を添えたが、幾分さくの魅力を失ったことはいながたい。それでもなお、『ゲー線上のアリア』と『アヴェ・マリア七一〇三再プレス盤はJD一二八三の美しさは依然たるもので、いやしくもヴァイオリンのレコードに関心を有する者は、この一枚をコレクションに欠くことは許されないだろう。続いて『ツィゴイネルワイゼンJD一〇一八(これはハイフェッツも面白いが)、『トロイメライ一四八二といった程度のものが挙げられるだろう。さらにエルマンに興味を感ずる人のために、ドルドラのスーヴニール一三五四ベートーヴェンのメヌエット第二番一四三四ドリゴのセレナード一五三八トーメの飾らぬ打明けJD四一六を掲げておこう。(エルマンのレコードは全部ビクターに入っている)

 エルマン・トーンというものは、全く特色的なトーン・カラーで、かつての神童エルマンが、一躍世界楽壇の寵児になったのも、一にあの幻妙不可思議な美しい音色ねいろを持っていたためにほかならない。
 今から十五、六年前、エルマンの最も華やかなりし頃のヴァイオリンの音色は、全く形容を絶するものがあった。それは妖艶無比なこびと、甘さと、そして、悪魔的な魅惑力さえ持ったものであった。このエルマン・トーンの不思議な美しさを伝えるためには、当時のレコードの録音法はあまりにも幼稚で、レコード技術の進歩した今日では、無慙むざんにもエルマンは、昔のエルマン・トーンを失ってしまっていた。
 エルマン・トーンは、妖艶極まるものであったが、当然の結果としては多少の下品さを持つこともまた免れなかった。潔癖なディレッタントたちは、その頃からエルマン・トーンを排し、ひいては、アウアー門下に累を及ぼしたのも無理のないことである。
 話は岐路に入るが、先年、アメリカで物故したレオポルド・アウアーは、近代ヴァイオリンの巨匠であるばかりでなく、名ヴァイオリニストの生みの親として、極めて巨大な存在であった。十九世紀の末葉から、二十世紀の初頭にかけてのヴァイオリン教授としての巨大な存在は、ヨアヒム、マッサール、セヴシック、フバイ等、甚だ少くはないが、なかんずく帝政ロシア時代のセント・ペテルスブルグに門戸を張ったレオポルド・アウアーほど、多くの名提琴手を生んだ人はない。
 エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツ、パーローを始め、最近欧州の楽壇に頭角を現わしたミルシュタインに至るまで、レコードで知られているのだけでも恐らく十人を下るまい。そのアウアー門下のヴァイオリニストに共通の特色は、いずれも、すぐれた技巧家であることと、それから、華麗で外面的で、食い付きの良いことである。アウアー門下生にもいろいろの色彩と個性があるにしても、ミッシャ・エルマンの華やかさと、その外面的な技巧が、恐らくアウアー門下生に共通のものを、最も強調したかに見えるのは、筆者の偏見ばかりではあるまいと思う。
 大田黒元雄おおたぐろもとお氏の雑文などを通して見るエルマンは、かなり素朴な朴訥漢ぼくとつかんであるらしい。ほとんど世界的大提琴家とは思えぬほどの、鄙びた一面を持っていることも、我々はくり返して聴かされている。エルマンの演奏に、一種の野趣を持つのはそのためであろうと思う。即ち善意に解釈すれば、エルマンには「上品ぶる」ところも、「思想的に深そうな顔をする」野心もないのだ。あるがままのロシア人エルマン、土の中から生れて来た天才エルマンには、欧州の大宮殿や大貴族のホールよりは、アメリカの平民的な大演奏場が似つかわしく、民衆の持つ、無邪気さと下品さを、そして限りなき貪婪どんらんな美の欲求に応ずるものを持っているのであろう。
 関東大震災の報がアメリカに伝わった時、第一番に起って、義捐金ぎえんきん募集の演奏をしたのはエルマンであった。それより二年前に日本を訪ねて、予想以上の歓迎と厚遇を受けたことを好漢エルマンは忘れなかったのである。
 エルマンの良さはそこにあると思う。彼の直情径行的な性格は、あらゆる場合に「上品ぶり」も「気取り」もせず、あるがままの野趣と魅力とを発散させる。彼は食卓上のバタさえ知らなかった――と大田黒氏は書いている。それは恐らくエルマンの冗談であったかも知れないが、とにかく、バタを知らないことを冗談にするほど、エルマンは野蛮さと稚気とを持っているのだ。
 エルマンの小曲に現われた驚くべき魅力は、この天賦の無邪気さと、野蛮的な美しさに原因する。電気以前のエルマン・レコードが、クライスラーの何倍も売れた事実は、恐らく今日の常識では想像も及ばないことであろう。かつてのエルマンというものは、それほど偉大なる存在であったのである。

 エルマンのヴァイオリンの大曲は、決して多くはない。

ヴァイオリン協奏曲第二番ホ長調』(バッハ)
(ヴァイオリン) エルマン
管弦団 バルビロリ指揮
JD一六八七〇
ヴァイオリン協奏曲ト短調』(ヴィヴァルディ)
(ヴァイオリン) エルマン
ニュー・シンフォニー管弦団 コリングウッド指揮
DB一五九五
ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(チャイコフスキー)
(ヴァイオリン) エルマン
ロンドン交響管弦団 バルビロリ指揮
八一八六名曲集七九

 以上三曲しか入っていない。右のうち、バッハのコンチェルトは古典の名曲ではあるが、エルマンの演奏は艶麗を極めて、知的な少年メニューインの演奏以上とは思われない。(日本のレコード批評家はむしろエルマンに左袒したが、私は発売当時からメニューインを支持し続けている)
 チャイコフスキーの協奏曲は、当然エルマンのものであるべき筈だが、不思議なことにこれもフーベルマンの豪宕ごうとうさに及ばず、最近売り出されたハイフェッツのレコードに対しても、吹込みその他に遜色がある。この難曲を征服する技巧と、チャイコフスキーの歌を聴かせる点では、申し分のない筈であるが、全曲を支配する有機的な生命力と美しさにおいて、なんとなく腑に落ちないものを感じさせるのである。
 ヴィヴァルディの協奏曲は、エルマンの大曲レコードとして、唯一の傑作であろうと思う。これは安心して薦められるものであり、何人も楽しめるものである。

 これを要するに、エルマンのレコードは、二、三、小曲に傑出したものがあり、一般のファンたちは、『アヴェ・マリア』『G線上のアリア』『メヌエット』の程度に満足するか、でなければ『ヴィヴァルディの協奏曲』を一曲備えて充分とすべきである。変った曲を好む人のために、私は『飾らぬ打明け』をあげておくだけだ。

小伝

 ミッシャ・エルマンは一八九二年、ロシアのタルノイエに生れた。父はロシア系の猶太ユダヤ人、小学校教師でヴァイオリンをよくし、エルマンに手ほどきをしてやることが出来た。
 一九〇二年、十歳のエルマンの演奏を聴いた巨匠アウアーは、驚喜してペテルスブルグ音楽院に入学させ(猶太人の音楽院入学は破格的なことであった)、後二年アウアー門下の俊秀としてデビューし、一九〇八年米国を訪ね、天才少年として世界的一流人に伍するに至った。
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ティボー Jacques Thibaud





 ティボーは日本人には親しみの深いヴァイオリニストである。前後二回の来朝もその親しみをかもした原因の一つであろうが、この人のフランス風な典雅な風格や、たしなみの深い物静かな演奏などが、日本の好楽者たちから、大きな支持を受けたためであろうと思う。
 ティボーの楽壇出現は極めて立志伝的で、カフェーの楽団でヴァイオリンをひいていたのを名指揮者コロンヌに見出され、その楽団に席を与えられて、二年後にはコンセール・コロンヌの独奏者として立ったと言われている。カフェーのヴァイオリン弾きからフランス一流の管弦団へ――、この過程は映画『オーケストラの少女』が教えるごとく、いかに困難なものであるか言うまでもあるまい。
 ティボーはしかし、単なる街のヴァイオリン弾きではない。その前既に巴里パリの音楽院を卒業し、競技コンクールに応じて、第一等の栄冠を占めたことさえある。ティボーの出現を伝奇小説的にするために、その素養を貧しいものと思ったならば、それは大変な間違いであることは言うまでもない。
 今日のティボーの演奏は、老大家中では最も新鮮な趣味と、近代的な純粋性を持ったものである。ティボーの思想には、十九世紀の誇張されたセンチメンタリズムの殻は見出されない。ティボーは、若い現実主義者、即物主義者たちにくらべると、夢も詩もある人だ。が、その演奏には、もう旧思想の残滓ざんしなるアルコール的な陶酔は見るべき由もなく、その芸術境はラテン人的で、ドイツ系ヴァイオリニストのごとき野性を欠くが、極めて純粋であり、その技巧は、やや脆弱であるにしても、申し分なく美しく正しいものである。
 ティボーの演奏において感ずるものは、美しさと弱さである。気高さと頼りなさである。これはしかし、押し切ったモダニストたちに比べて、拳闘的な圧迫を感じさせないだけでも嬉しいものである。従ってティボーは、伊太利イタリー古典の純粋性の表現によく、フランス近代楽の聡明な解釈に最もよきものを持っている。ティボーのレパートリーには、ドイツのものを豊富に持っている。現に、そのバッハの『コンチェルト』や、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』や、モーツァルトのある物は、絶品的な美しさを持ち、品位においてはクライスラー以上でさえあるが、ティボー自身は必ずしもこれに矜持きょうじを有することなく、バッハの『協奏曲=ホ長調』のごときは、日本におけるプログラムに載せながら、途中で変更して演奏しなかったほど――ティボーは神経質だったのである。
 ティボーの実演及びレコードを通して、最も美しかったものは、伊太利イタリー古典と、モーツァルトと、フランスの近代楽である。わけてもそのコルトーとのコンビで吹き込んだフランクの『ソナタ=イ長調』、ショーソンの『協奏曲=ニ長調』など、レコード界の至宝的なものであり、続いて『クロイツェル・ソナタ』、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』などが挙げられるだろう。一枚物の手軽なレコードを挙ぐるとしたならば――
『ビクター名演奏家秘曲集』に採ったエックレスの『ソナタ』、最近HMVに入ったというモーツァルトの『ロンド』などを採るべきであろう。
 バッハの『ヴァイオリン・ソナタ第六番』の前奏曲とロンド風のガヴォット(ビクター・JE九六)を入れた十吋盤インチばんも愛されていいだろう。これはしかし、我らの好みでもう少し一般的に考えてティボーの得意のレコードを挙げたならば、グラナドスの『スペイン舞曲』(JD六五二)とドビュッシーの『亜麻色あまいろの髪の娘』(DA六六)、フォーレの『揺籃歌ようらんか(DB一六五三)を採るのが本道かも知れない。ただし、ドビュッシーのヴァイオリン曲は、甚だ通俗ではない。
 組物のティボーは、コルトーやカサルスとのコンビによって、その真価を発揮する。電気の初期に入ったモーツァルトの『協奏曲=変ホ長調』は当時名盤とされたが、録音が悪いので、今ではレコード史の背後に葬られた。ティボーを合奏者としたレコードのうち、最もすぐれたものは、

協奏曲ニ長調』(ショーソン・作品二一)
(ヴァイオリン)ティボー
(ピアノ)コルトー
弦楽四重奏団
DB一六四九五三名曲集五〇一
クロイツェル・ソナタ』(ベートーヴェン・作品四七)
(ヴァイオリン)ティボー
(ピアノ)コルトー
JD一三四九五二名曲集七〇八
ヴァイオリン・ソナタ』(ドビュッシー)
(ヴァイオリン)ティボー
(ピアノ)コルトー
JD五九六〇
ヴァイオリン・ソナタイ長調』(フランク)
(ヴァイオリン)ティボー
(ピアノ)コルトー
八一七五名曲集八一

 以上四曲、ことごとく傑出したレコードであるが、強いて等級を付したならば、フランクのソナタを以て第一とし、ショーソンのコンチェルトを以て第二とし、クロイツェル・ソナタと、ドビュッシーのソナタは、第三位に置かるべきものであろう。
 フランクのソナタは、古今のヴァイオリン・ピアノ・ソナタ中でも屈指の名作で、この曲に匹敵するものを、私は幾つも知らない。極言することを許してもらえるならば、あらゆるヴァイオリン・ピアノ・ソナタ中、最高、至純、至美のものであると言いたいくらいである。ベートーヴェンのソナタのうち、僅かに一、二のものが、これと美しさを争うであろう。ブラームスのソナタのうち、これもほんの一つか二つが、辛くも、このフランクのソナタの深さと高さに追従するであろう。しかし、美しさと深さと、高さと浄らかさを兼ね備える点においては、ベートーヴェンもブラームスも、――時代と環境のハンディキャップはあるにしても、フランクの名品の敵ではなかったのである。
 フランクはこの曲において、その全生涯の思想と信仰の過程を描いたとも見られている。この曲には、フランクの人格が反映し、その信仰の奥義が鏤刻るこくされている。その楽曲としての解剖は極めて平凡であるが、思想的には、全曲にみなぎる人間性の悩みと、それを宗教的な試煉と浄化によって、感激と歓喜に導く径路が、聴く者の胸を打たずにかない。
 バッハのある曲を除いて、フランクのソナタほど気高く、フランクのソナタほど精神内容を有する曲が幾つあったであろう。この曲から味覚する、浄らかな悩みと、気高い歓びは、我らの生活に、常に新しきものを寄与してまない。
 フランクの有名なシンフォニーと弦楽四重奏曲は、古今の傑作としてかぞえらるるものであるが、難解苦渋で、素人の耳には理解し難いものである。が、ヴァイオリンとピアノで描いたこのソナタの一曲だけは、どんなに西洋音楽に縁の遠い人でも、直ちに肺腑に食い入る何物かを感ずることが出来るだろう。それは単なる美しさではない。人を説破しようとする気むずかしさでもない。信仰によって輝きを添えた最高至純の芸術品の美しさである。
 この曲のレコードは、電気以後のだけでも七、八種類を算するだろう。が、吹込みはやや古くとも、ティボー、コルトーの組合せに及ぶものは、ただの一つもなかった筈である。恐らく、ティボーのラテン人らしい潔癖さと、コルトーの精練された技巧と、それから、二人を包むフランクの空気が、この完成美を示してくれるのであろう。
 ティボーのヴァイオリンは、典雅な趣を有することにおいては当代の第一人者である。それは、しばしば弱々しく、たよりない。が、デリケートな美しさ、技巧を超越した風格、霊感を心から心へ伝える境地に至っては、クライスラーにもない高いものがあるだろう。若くて芸術的な人たちはたくさんあるが、ある者は人間としての成熟さがティボーに及ばず、ある者は年少気を負うていても、技巧において破綻を示すことがしばしばある。
 ティボーには技巧があり、人間としての円熟さがある。クライスラーほどにも聴かせようとはせず、フーベルマンのような露骨な征服欲を見せることもしない。敬虔けいけんなフランクをひいて、これほどの適材のなかったのも当然である。その組合せにコルトーを得るに至って、渾然天衣無縫的な至芸となったのは、まことに故あることであった。

 ショーソンは近代フランスの彗星的作曲家で、その伝記の数奇すうききわむるがごとく、その作物も変っている。この人の曲はレコードには甚だ少いが、『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』は代表的傑作で、ショーソンの新鮮さと、ショーソンの人間味と、ショーソンの愛を最もよく現わしたものと言えるだろう。ティボーとコルトーの演奏は、巧みにこの曲の香気を伝え、そのやるせなき憂愁と、快活な歓びとを撒き散らす、まことに得難き芸術的境地である。

クロイツェル・ソナタ』は、風格の高さと、趣味の純粋さにおいて一頭地をくもので、ある人はこのティボー、コルトーの組合せを以て第一の出来とするだろう。しかし、それは風格であり趣味である。『クロイツェル・ソナタ』の要求する情熱や、迫力や、気魄は、ラテン人コルトー、ティボーの柄にないことはあまりにも明らかだ。若かりし日のベートーヴェンが、渾身の熱情奔騰するに任せた豪華壮麗な『クロイツェル・ソナタ』は、他に演奏の適材があって然るべきである。即ち、よく歌うクライスラーや、快刀乱麻を断つのフーベルマンや、冷美幽婉ゆうえんのゴールドベルクに委ねるのになんの不思議があろう。
 深夜、竹針をって、心静かに享楽するには、私といえどもコルトー、ティボー盤を選ぶであろう。しかし『クロイツェル・ソナタ』の本格的な演奏として、開き直って等級を定めることになれば、やはりクライスラー、ルップ、フーベルマン、フリートマンを挙ぐるの妥当なるを感ぜざるを得ない。
 ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ』は近代ヴァイオリン・ソナタ中の名篇だ。その趣味の新鮮さと、知的な美しさは比類の少いものである。ティボーとコルトーの演奏は、最高の表現で、共通せる国民性の安らかさと、純乎たる理解の輝かしさがある。だが、ドビュッシーのヴァイオリン曲においては、もはや素人好きのする甘美な旋律などは見出されない。この曲に対して興味を有するためには、少しく知的な訓練を必要とするだろう。

 ティボーのレコードを求むる人に、私は一枚物の中からグラナドスのスペイン舞曲JD六五二エックレスのソナタ』をすすめておこう。さらにもう一、二枚を加えるなら、ドビュッシーの亜麻色の髪の娘』とバッハのヴァイオリン・ソナタ第六番』を挙げるほかはあるまい。組物はフランクのソナタ』とショーソンの協奏曲』の二つだ。この二曲には――吹込み直しのない限り、絶対に後悔はあるまい。続いて『クロイツェル・ソナタ』も、充分自信を以て薦められるレコードであろう。

小伝

 ジャック・ティボーは一八八〇年、仏国のボルドーに生れた。巴里パリ音楽院に学んで十六歳の時、ヴァイオリンで一等賞を得たが、生活の資を得るためにカフェーの管弦団で提琴をひき、名指揮者コロンヌに発見されたことは前にも書いた。その後巴里パリの人気の中心となり、一楽季シーズンに五十四回の演奏会を開いたことさえあるということだ。一九〇三年米国に遊び、爾来順調な楽壇生活を続けて今日に及んでいる。
 ティボーはヴァイオリン独奏者として当代の第一流であるが、ピアノのコルトーと組み合わせられることによって、その魅力は倍加する。これほどのよきコンビは世界の楽壇にも比類のないところだろう。さらにカサルスを加えて、カサルス・トリオとしての芸術的価値は、恐らく世紀的なものと言っても差支えあるまい。カサルス・トリオについては後に室内楽の項に詳説する。
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フーベルマン Bronislau Huberman





 新聞紙は一時ブロニスラウ・フーベルマンの自動車事故による負傷と、再起不可能を伝えて世界の好楽家を落胆せしめたが、一九三八年に入ってから、幸いにして快癒の見込みが立ち、一部には既に再起をさえ伝えて、再びこの快刀乱麻を断つごとき一代の快演奏に接し得る望みを我らに与えた。
 フーベルマンは一八八二年の生れで、僅かに五十六歳、ティボーより二歳、クライスラーより七歳の弟だ。自動車事故などのために葬るのはあまりに惜しい。精力と覇気とを特色とするフーベルマンが、枯淡平明な老境に入って、別の「味」を出すのは、恐らく今後の健康に期待しなければならないと思う。
 少しく私は、フーベルマンについてファンの常識程度のことを語ろう。
 ブロニスラウ・フーベルマンは、パデレフスキー、ゴドフスキーらと共に、波蘭ポーランドの生んだ大芸術家の一人だ。かつて青年時代に一代の名ソプラノ歌手パッティに見出されて、その助奏を勤めながら楽旅を重ねたことがあり、弱冠二十七歳の時、伊太利イタリーの地震罹災者救恤演奏に、歴史的名匠パガニーニの遺した名品を使用する特権と栄誉を担ったことがあり、欧州大戦後は、威名隆々として、ともすればクライスラーをさえ凌がんとしたことがあった。

 フーベルマンの栄誉は、クライスラーにおけると同様、全く国境と民族の差別を超え、一時は、クライスラーをさえ圧して、イザイエ亡き後の第一人者を以て擬せられたことさえある。世界をまたにかけて旅興行の空宣伝に乗って歩く、おびただしい売名のヴァイオリニストたちは、もとよりその靴の紐を解くほどの値打ちもなかったのである。
 写真で見るフーベルマンは、拳闘選手のごとく逞しい風貌を持っている。その印象は力と野性のみなぎりであり、そのヴァイオリンの演奏も、雄渾、豪宕ごうとうを極め、あるいは細部の彫琢を無視して、全曲の魂と力とを把握せんとするかに見えることがある。これを情緒主義者のクライスラーや、ラテン人特有の神経質な美しさにひたるティボー、または華麗妖艶なアウアー門下たちに比べると、なんという違った存在であろう。
 実演を聴いた人の話によると、フーベルマンのヴァイオリンの「音」は、予想を全く裏切って、甚だ小さいものだそうである。小さくはあるが、非常に緻密な、美しいものだということである。あの風貌と、レコードに録音された音の強大さから考えて、フーベルマンの音が甚だ小さいということは、全く想像を絶したことであるが、それは近代電気吹込みのトリックで、さもあるべきことであり、かつ甚だ愉快なことでもあると思う。
 フーベルマンのレパートリーは甚だ広汎で、好んで古典ヴァイオリン曲、並びにベートーヴェン以後のロマン派の名曲をマスターする一方には、クライスラーやティボーやシゲティーが振り向いても見ないような、近代ヴァイオリニストたちの、技巧のために書かれた曲、例えばサラサーテのものなどを好んで演奏する傾きがある。一部神経質な清教徒的好楽者たちには、まことに我慢のならぬことであろうが、同時に、ヴァイオリン音楽を無条件に愛するものにとっては、これはまた有難きことである。この人の技巧的な小曲、例えば、サラサーテのホタ・ナヴァラ』や『ロマンツァ・アンダルーツァ』のごときは、アウアー門下の技巧家たちには、企て及ばない精練と、美しさがあるからである。
 一枚物の傑作は、ブランスウィック時代から甚だ少くない。ブランスウィックの電気に入った唯一のレコード『ホタ・ナヴァラ』などもその一つであろうが、これは今手に入れる見込みはほとんどない。日本パルロフォンは幸いにして全部コロムビアにプレスされ、約七枚の(組物を除き)レコードを持っているが、そのうちで代表的なものを選ぶとなれば、
 バッハのゲー線上の歌調アリア』(C・J七七七九
 シューベルトのアヴェ・マリア』(C・J七九〇一
などを採るのが蒐集の本道であろう。この『アヴェ・マリア』の裏には、ブルッフの『コール・ニドライ』が片面ながら入っているのが頼もしいことである。
 組物は、繰り返して言うがチャイコフスキーの『協奏曲』を傑作中の傑作とし、次いで、好む人のためにはベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』(コロムビア傑作集一一二)をすすむべきであろう。それについては、別に書くことにする。

 フーベルマンの傑作は、なんと言っても、チャイコフスキーの『ヴァイオリン・コンチェルト』ほか二、三の大曲にある。(フーベルマンのレコードはすべてコロムビア)

ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(チャイコフスキー・作品三五)
(ヴァイオリン)フーベルマン
伯林国立歌劇場管弦団 シュタインベルヒ指揮
J七五五〇傑作集八六
ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(ベートーヴェン・作品六一)
(ヴァイオリン)フーベルマン
維納フィルハーモニック管弦団 セール指揮
J八四九一傑作集二二一
西班牙交響曲』(ラロ)
演奏 同上
J八三二〇傑作集一九五
協奏曲第二番ホ長調』(バッハ)
維納フィルハーモニック管弦団 ドブロウェン指揮
協奏曲第一番イ短調』(バッハ)
維納フィルハーモニック管弦団 ドブロウェン指揮
J八三四六
協奏曲第三番ト長調』(モーツァルト・K二一六)
演奏 同上
J八五五四傑作集二三七
クロイツェル・ソナタ』(ベートーヴェン・作品四七)
(ヴァイオリン)フーベルマン
(ピアノ)フリイトマン
J七七六七七〇傑作集一一二

 以上六曲、とりどりに優れているが、私はチャイコフスキーの『協奏曲』と、ラロの『西班牙スペイン交響曲』と、ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』と、バッハの『協奏曲第二番』を代表作として掲げようと思う。
 わけてもチャイコフスキーの協奏曲』は傑出したレコードだ。多くの人の知るごとく、この曲は最初、チャイコフスキーがアウアーにひかせるつもりで、デジケートまでしたのであるが、技巧上演奏不可能という理由でアウアーがその初演を拒絶し、久しく顧みる者もなかったのを数年後、ブロドスキーが楽譜を一見して、驚くべき魅力を発見し、進んで初演を引き受けて有名になった曲である。
 この協奏曲の第一楽章が、いかに演奏困難であるかは、この逸話に尽きるだろう。現に日本における実演も、十年前までは第二楽章のカンツォネッタに止まり、全曲の演奏を聴くことが、我らの待望久しきものであったが、モギレフスキー氏が来朝当時、帝劇で演奏したのが、全曲の日本における初演だったように記憶している。
 従ってこの第一楽章アレグロ・モデラートは、およそヴァイオリンの難技巧を傾け尽せるかの観があり、難曲征服のゴールとされているが、チャイコフスキーはあくまで芸術家で、一介のヴァイオリンの技巧家でなかった証拠に、この難技巧のうちに盛られた美しさは、真にオーロラのごとき見事なもので、古今の協奏曲中、飛躍的な華麗さにおいては全く比類のないものである。
 この協奏曲の全曲のレコードは甚だ遅れて世に現われたが、その最初のレコードの演奏者として、フーベルマンを得たことは、この曲に対する我らの標準確立のために、ファンの冗費を省くために、まことに仕合せなことであった。この曲を演奏して、当代フーベルマン以上の人があろうとは思われないからである。
 フーベルマンの快刀乱麻を断つがごとき演奏は、ほとんど痛快と言っていい程度にまで、この難曲をマスターしている。ただに征服したばかりではない。これを組み敷いて生捕いけどって、自分のものにしきっているのである。エルマン、ハイフェッツらは、当代の技巧家であるが、この曲の征服における限りは、到底フーベルマンの敵ではない。
 第一楽章から抽き出した、雄大な気魄、瑰麗かいれいな風趣、摩天の大殿堂を見るごとき荘重雄渾さ、それらは吹込み後七、八年を経る古レコードであるにかかわらず、昨今の進歩した録音のレコードを瞠若どうじゃくたらしめるのは、演奏の優秀さは、物理的条件をまで超ゆるものであることを我らに覚らしめる。
 第二楽章のカンツォネッタは、フーベルマンを俟つまでもない曲だが、この場合においても、歌に充ちた優婉な情緒は、フーベルマンを以て第一とする。エルマンといえども、このやや詠歎と哀愁の美しさに及ばない。第三楽章には重大なカットがあるが、それはさしてとがむべき筋のものではないだろう。フーベルマンのカット癖は、極めて有名なものである。

 ラロの西班牙スペイン交響曲』は、やや通俗さを持った技巧の面白い曲で、ヴァイオリンの大曲としては、誰のレパートリーにも欠くことの出来ないものの一つだ。レコードには三種の全曲が入っている。ビクターのメニューイン、メルケルがそれだ。
 少年天才メニューインも老巧メルケルも悪くないが、この曲を征服し切った、フーベルマンの綽々しゃくしゃくたる態度には、なんとなく余人に見られぬ安らかさがある。ティボーが全曲を入れない限り、なおしばらくはフーベルマンに王座を許すであろう。
クロイツェル・ソナタ』は十数組のレコードが入っている。その中で、古くはティボー、コルトー、新しくはクライスラー、ルップ、並びにゴールドベルク、クラウスなどは定評のある優秀盤であるが、『クロイツェル・ソナタ』から、宏大な気魄と壮麗な美しさを求める人のためには、私は、フーベルマン、フリートマンの組合せで入れたレコードを薦めることを躊躇しない。かつてフーベルマンは、アメリカのブランスウィックに、三枚六面の『クロイツェル・ソナタ』を入れているが、それは電気の直後のもので、演奏は見事なものであったが、カットが多いために、もはや問題にならない。
 フーベルマンの演奏は、快刀を揮って、立ちどころに千仭せんじんの渓谷を切り開く、鬼神の業にも似ている。紫電一閃、満天の雲の峰を寸断する趣だ。少しの遅疑も渋滞も許さない気魄と精力に至っては、当代いかなるヴァイオリニストも及ぶところでない。チャイコフスキーの協奏曲において、この味が最もよく活かされているが、続いて私は、『クロイツェル・ソナタ』に、フーベルマンの本領的な良さを見出すものである。
 バッハのヴァイオリン協奏曲第二番』は、極めて最近の吹込みで、クロイツェルにつづいて見事なものである。この曲はバッハのヴァイオリン協奏曲中の傑作で、高貴な美しさに充ち満ちているが、フーベルマンの演奏は、少年メニューインの素直な演奏とならんで、その気魄と技巧の冴えを特色とする。
 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲』も決して悪いものではないが、ロマンティックな味は、クライスラーの最初のレコードに及ばない。フーベルマンは実によく演奏しているが、あまりにも精力的で、この曲の美しさを損なわないとは言い難かったのである。むしろ私はこの曲における限り、正直なシゲティーや、新人ゴールドベルクの生真面目さにくみしたい。しかし颯爽として、水もたまらぬ演奏の爽快味は、フーベルマン・ファンを堪能せしむるには充分なものであるだろう。
 モーツァルトの協奏曲とバッハの協奏曲に至っては、見事は即ち見事だが、フーベルマンの力技に処置されると、なんとなく余技的な感じで、この曲の繊麗な、あるいは古朴な趣を再現し尽したものとは言い難い。フーベルマンは技巧家として第一等の人ではあるが、クライスラーやシゲティーの情緒には、及びもつかないものがあるようである。
 これを要するに、フーベルマンのレコードを座右に備える人のために、録音はやや古いが、小曲では『ゲー線上のアリア』『ロマンツァ・アンダルーツァ』、それに『コール・ニドライ』と『アヴェ・マリア』くらいで充分であると思う。大曲は特別な研究者やフーベルマン・ファンでない限り、チャイコフスキーの協奏曲』と『西班牙スペイン交響曲』と『クロイツェル・ソナタ』の三組を以てまず満足すべきである。一枚一組の人には、『ロマンツァ・アンダルーツァ』とチャイコフスキーの『協奏曲』をすすめることを躊躇しない。

小伝

 ブロニスラウ・フーベルマンは一八八二年波蘭ポーランドのワルシャワ近郊に生れた。幼少の時から提琴家としての天才を現わし、巴里パリでロットに学び、十歳の時伯林ベルリンでヨアヒムに師事した。パッティと学旅に出たのは十二歳の時で、翌年ブラームスの協奏曲をブラームス自身の前で演奏して賞讃を得たこともある。最初の渡米は一八九六年、名声は年と共に上り、二十七、八歳にして世界第一流のヴァイオリニストに算えられ、以て今日に及んだ。その吹込みのレコードは、電気以前のブランスウィック、電気以後のオデオン、パルロフォン、コロムビア等に数十枚入っている。
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シゲティー Josef Szigeti





 真に芸術的な感じのするヴァイオリニストとして、若くて新鮮で、最も将来を嘱目しょくもくされるのは、ビクターのメニューインとコロムビアのシゲティーと、テレフンケンのクーレンカンプであろう。わけてもシゲティーは、日本を再三訪ね、その芸術的な所論も我らの耳に親しく、その演奏もまた我らの感銘に生々なまなましい。新進提琴家として、我々日本人に取って、最も親しく、かつ興味の深い人である。
 この人は名実共に決して老大家ではない。しかし、その心構えにおいては、最もよく新時代を代表したヴァイオリニストである。その演奏は華やかでもなく、その音は、必ずしも繊麗ではない。が、最も芸術的な気品を有し、将来への暗示に富んだ提琴家としては、いかなる場合にも我らはシゲティーを挙ぐるに躊躇ちゅうちょしなかったであろう。
 シゲティーは単にヴァイオリンの技巧のために作った曲をかないと放言し、「他の楽器に編曲して、著しく芸術的価値を損ずるごとき曲」を軽蔑したことは、かつてクライスラーの項において書いた筈である。あの純粋な心構えと、みだりにヴァイオリン曲を文学的にまたは劇的に表現しようとした旧式のアーティストたち、わけてもセンチメンタルな、脂粉の香の強烈な演奏に対して、シゲティーは、極端に嫌悪をさえ示したのである。
 我らの若かりし頃、ヴァイオリンなる楽器は、想像以上に余韻嫋々じょうじょうとひかれたことを記憶している。無用に表情の誇示された、十九世紀のセンチメンタリストたちの演奏が、いかに悩ましきものであったか。――これは日本の音楽界の創始時代のことであるが――欧羅巴ヨーロッパでは、ワーグナーをして、「おれに取って一挺のヴァイオリンは無意味だ。(ヴァイオリンは複数でなければ無用だ)」と放言せしめたのと、ほぼ同時代であることを思う。
 ヴァイオリンをすすり泣かせた多くのヴァイオリニストたち、それにまた鼻持ちのならぬセンチメンタルな曲を提供した多くの作曲者たち、それを喝采した多くの好楽者たち、――それが十九世紀の末からリアリズムの再検討が、あらゆる芸術界に、冷たく、きびしく吹きすさんだ。ヴァイオリン音楽界においても、作曲の方ではまず第一番に甘美な旋律を失い、今日あるがごとき近代ヴァイオリン曲となり、演奏家の方面で言っても、アウアー門下が凋落し、マサリック門下が退却し、続いて、シゲティーや、メニューインや、クーレンカンプやが、近代人の魂と技巧とをひっさげて、冷たいリアリズムの検討の照明下に立ったのである。
 シゲティーは決して無用に歌わせない。それは冷たくて素気そっけない感じさえすることがある。しかし、この人ほど原作に忠実で、純粋な気持の芸術家は当代滅多にない。
 シゲティーは技巧家畑の人でないとともに、その音色も決して美しいとは言えない。エルマン、クライスラーはしばらくいて、おそらくプシホダのつやも、クーレンカンプの清らかさも欠けているだろう。シゲティーは、サラサーテや、バッツィーニのものを決してひかないが、同時に、ドルドラのものも、ドリゴのものもひかない。そのレパートリーは極めて狭少偏狭であるべき筈だが、決してそんなことはない。
 シゲティーは好んでブラームスをひき、ベートーヴェンをひき、バッハとヘンデルをひく。が、同時に、ドビュッシーを、ミロオを、シマノフスキーを、ブロッホを、プロコフィエフを、ストラヴィンスキーをひくのである。当代の提琴家に、これほど近代楽に好尚と愛着と、趣味と理解とを持った人があろうか。
 もっとも、シゲティー以外にも、好んで近代楽をひく人は決してないとは言えない。しかし、それは、多くの場合、物好きであり、こけおどかしであり、衒気げんきである。シゲティーの場合におけるがごとく、理解と愛情とを持って、むずかしい近代ヴァイオリン曲をひく人を私はかつて知らない。ほとんど旋律らしい旋律をさえ持たない、素人には面白くもなんともないヴァイオリン曲を、シゲティーは平然としてそのプログラムに並べるのである。
 シゲティーはその時、新時代への音楽の行者のごとくさえ見えるのであった。ヴァイオリンの奏する奇怪なレシタティヴォにつれて、伴奏のピアニストが、ピアノの胴を平手でたたくのさえ私は聴いたことがある。シゲティーはその奇怪な近代楽曲を、心から享楽しているかに見えるのはなんのためであろう。同じく近代楽をプログラムに載せても、シゲティーとハイフェッツの間には、愛着と誇示と、理解と衒気げんきとの違いがある。
 シゲティーのヴァイオリンの特色は、その芸術的気稟きひんと、知的な良さである。古典の大曲に対する解釈の高雅さと、近代楽の小曲に対する理解と愛情とである。従ってシゲティーの一枚物から、代表作をき出すことは甚だむずかしい。
 その師フバイの曲『ツァルダの光景コロムビア・J五一七五、古い吹込みではあるが、この一枚は加えなければなるまい。シューベルトのロンド』も最上等の演奏ではないが、捨てがたいレコードである。
 シゲティーの特色を現わしたものとしては、シマノフスキーのアルチューズの泉』や、ミロオの』であろうと思うが、前者は難解で、後者は吹込みが古い。

 結局、シゲティーのレコードは、そのおびただしい組物から採るのほかはあるまい。シゲティー自身もまた、それをどんなに喜ぶか知れないのである。ベートーヴェンや、メンデルスゾーンやブラームスの『協奏曲』は、曲そのものがあまりにも正統派的で、音の貧しいシゲティーを採るのは少しく物好きのようにも考えるが、芝居気のない、一本の表現として、その芸術的気稟を高く買う人は決して少くない。
 ブラームスの協奏曲J七四四六五〇傑作集七四ベートーヴェンの協奏曲J八〇〇五傑作集一四八メンデルスゾーンの協奏曲J八二三五傑作集一八一、以上レコード番号を掲げて参考に資する。(すべてコロムビア・レコード)
 シゲティーの特色的なレコードとしては、
協奏曲ニ長調』(プロコフィエフ・作品一九)
(ヴァイオリン)シゲティー
倫敦フィルハーモニック管弦団 ビーチャム指揮
J八六〇七傑作集二四六
奏鳴曲第四番ニ長調』(ヘンデル)
(ヴァイオリン)シゲティー
(ピアノ)マガロフ
J五五六六
協奏曲第四番ニ長調』(モーツァルト・K二一八)
(ヴァイオリン)シゲティー
倫敦フィルハーモニック管弦団 ビーチャム指揮
J八四四五傑作集二一五
 以上三曲が挙げられるだろう。モーツァルトの第四番の協奏曲』は、第五番、第六番と並んで美しいものであり、シゲティーの演奏は素直で好感の持てるものだが、惜しむらくは少しく滋味に欠くるものがある。シゲティーの音の貧しさから来る欠点だ。ヘンデルの第四番のソナタ』は、ヘンデルのソナタ中の絶品で、もう一と息と思わせるものがあるにしても、愛すべきレコードの中に算えられるだろう。
 プロコフィエフの協奏曲』に至っては、その覇気、その新鮮さ、その力強さ、シゲティー以上に適当な演奏者を考えられないほどだ。曲は決して通俗なものでないが、シゲティーの代表作レコードとしては、これを挙ぐるほかはあるまいと思う。
 ほかに、バッハの無伴奏ソナタ』が二曲入っている。シゲティーらしい気品の高いものであるが、一般蒐集家にとっては、より甘美さを持つメニューインや、ブッシュのを採るのが穏当であろう。
 ここで蒐集家が二つの種類に区別せられなければならない。シマノフスキーやミロオの一枚物とプロコフィエフの協奏曲』を揃える知識的な高級ファンと、もう一つは、フバイのツァルダの光景』やシューベルトのロンド』と、組物としてヘンデルのソナタ第四番』、ほかにメンデルスゾーンやベートーヴェンの協奏曲』を添える一般の好楽者たちだ。シゲティーの特色はむしろ前者のレコードにあるが、近代楽の晦渋かいじゅうさに恐れる人はしばらく後者を座右に備えて、シゲティーの芸術境を味わうのも良かろう。

小伝

 ヨーゼフ・シゲティーは、一八九二年ハンガリーのブダペストに生れた。父からヴァイオリンの手ほどきを受け、後、ハンガリーの国宝的巨匠フバイに就いて学び、英国からデビューして、最も潔癖にして、最も芸術的気品の高いヴァイオリニストとして知られている。
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ブッシュ(アドルフ)Adolf Busch





 ブッシュに三人ある。兄のフリッツ・ブッシュ(Fritz Busch)は新進の指揮者として知られ、次弟のアドルフ・ブッシュ(Adolf Busch)は、提琴家として、ブッシュ弦楽四重奏団の統率者として、そしてまた別に指揮者として有名である。ブッシュ四重奏団の一員並びに指揮者としてアドルフ・ブッシュのことについては、それぞれの項において詳説するとして、ここには単にヴァイオリニストとしてのアドルフ・ブッシュについて説くに止めようと思う。

 ブッシュのレコード界出現は、極めて近年のことのように思う人があるかも知れないが、電気以前のドイツ・グラモフォン並びにポリドールに、ブッシュのレコードは幾枚か入っていたことは、古い蒐集家たちの常識で、当時ブッシュのレコードは、一部の間にはかなり珍重され、わけても一九二〇年頃、ブッシュ弦楽四重奏団組織当時の吹込みになるハイドンの『セレナード』、片面四枚のグラモフォン・レコードは、一時中古レコードの人気の焦点であったことさえあったのである。
 ヴァイオリン独奏は、ドイツ・ポリドールの黒レーベル盤で、その手堅い演奏と、重厚な美しさは、電気以前の心細い録音にかかわらず、ヴァイオリン・レコード蒐集家を夢中にさした。ドイツ派のヴァイオリニストとして当代の最高峰に立つブッシュは、その頃既に、我らの興味の的となっていたのである。
 電気以後、――しかもこの五、六年以来、ブッシュのレコードは、盛んにビクターから売り出された。もはや、電気以前の朦朧もうろうたる録音に耳を澄ますまでもなく、我らは名匠アドルフ・ブッシュの敦厚とんこう荘重な魂と、堅実無比な技巧に接し、名残なく瑰麗かいれいな美しさを味わうことが出来るようになった。
 ブッシュは世のいわゆる神童畑の才人ではないが、その楽壇経歴は急ピッチであった。十一、二歳、既に世の注目をひき、十六歳でマックス・レガーに招聘され、二十一歳でウィン演奏会聯盟の管弦楽団の団長になっている。その飛躍は、決してハイフェッツ、メニューインに劣るとは言えない。
 ブッシュの師はウィリー・ヘッスで、ドイツ派の巨匠だ。ブッシュが師の衣鉢を継ぎ、ブルメスター、クライスラーらの後を承けて、独墺楽壇のエヴェレストに立つのは、決して謂われのないことではない。
 アウアー門下やマサリック門下生たちの、華麗絢爛なヴァイオリン奏法に慊焉けんえんたる若きリアリストたちが、若さと情熱とを、その堅実無比な手法に封じて、真のヴァイオリン音楽の真髄を把握せんとするかに思われるブッシュの演奏に傾倒するようになったのも無理のないことである。技巧の末に溺れた浮華軽佻なヴァイオリニストたちが、あまりに久しい間のさばりかえっていた。
 ブッシュの潔癖は、シゲティーに輪をかけたものだ。ブッシュはサラサーテは愚か、パガニーニさえも[#「パガニーニさえも」は底本では「バガニーニさえも」]ひかない。ウィニアウスキーも、クライスラーの小曲さえも顧みようともしない。そのレパートリーは、バッハにあらずんばベートーヴェンだ。シューベルトに非ずんばブラームスだ。この一事だけを以てしても、華やかなヴァーチュオーソたちの多い世の中に、ブッシュの存在は、まことに溜飲の下るような気がしてならないのである。
 驚くべきはブッシュの矜持きょうじだ。古典の傑作、古今の巨匠たちの最も芸術的な作品でなければ、ブッシュは――卑俗な言葉を使うことを許して貰えるならば、本当に鼻汁はなも引っかけないのだ。『ツィゴイネルワイゼン』はこうひくもの、『ロンド・デ・ルタン』のピチカットはこんな具合に――などと、技巧の末に神経を使うやからは、まさに愧死きししてもいいくらいのものだ。
 その頑固一徹に見ゆるブッシュが、なんという美しい境地を持ったことであろう。
大幻想曲ハ長調』(シューベルト・作品一五九)
(ピアノ)ゼルキン
ビクターDB一五二一
に示した、幽幻不可思議な美しさはどうだろう。少しく大袈裟に言ったならば、あらゆるヴァイオリン曲中、この曲ほど人の心にしみじみと食い入る美しさと、何人の心も浄化せずんばまざるゆかしさを持つ曲が幾つあったであろう。
 単にブッシュのレコードとは言わない、あらゆるヴァイオリン、ピアノ二重奏曲中、この曲こそは、私の最も好きな曲の一つだと言ってもいい。
 その上ブッシュのヴァイオリンと、ゼルキンのピアノは、人間離れのした幽玄な美しさを醸し出して、我らをこの世とも覚えぬ陶酔境に導くだろう。良いかなブッシュ、このレコード三枚あっただけで、私はブッシュを、クライスラーの次に座を設けたくなるくらいだ。
 この三枚物に続いて、やや吹込みは古いが、
 バッハのヴァイオリン・ソナタト長調ビクターDB一四三四を私は挙げたい。たった一枚物ではあるが、バッハの神々しさと美しさを、これほど満喫させるレコードは少い。高雅、優麗、およそ俗塵と縁の遠い美しさだ。
 ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第二番イ長調作品一〇〇の渋さ、これも私の好きなレコードの一つだ。この曲のレコードはほかにもあるが、断じてブッシュ、ゼルキンの足下にも及ばない。ブラームスの良さは、甘美に堕してはもとよりいけないが、気むずかしく演奏し過ぎるのも、決して褒めたことではない。ブラームスの音楽で、私はバッカウスのピアノとブッシュのソナタ並びに四重奏曲に、全幅の敬意を捧げている。それは美しいうちにも渋く、内面的な良さが充実して、しかも少しの鬱陶しさもない。
 ベートーヴェンのスプリング・ソナタJD二二一も、この曲にしては極めて地味なものだが、美しさは申し分のないものだ。『スプリング・ソナタ』を、こうまで素朴に、端正に演奏して、その美しさを損ねないのはえらい。
 ほかに、ベートーヴェンのソナタ』はハ短調作品三〇ノ二)(JD二七八八〇名曲集五二〇変ホ長調作品一二の三)(DB一五一九二〇があり、どちらも名レコードとして算えられるものだ。クライスラー、ルップのベートーヴェンのソナタよりは、一段の纏まりと、心安さを感じさせるものがあるだろう。
 バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタニ短調DB一四二二はブッシュのレコードとしては極めて古いものに属するが、その演奏の見事さは、この曲のあらゆるレコードを圧するだろう。フレッシュのクリストシャル盤も、メニューインの同じビクター盤も、それぞれ名レコードには相違ないが、ブッシュに比べて多少の遜色のあるのは致し方もないことである。この曲の演奏において、ブッシュのバッハに対する理解と同情は非凡なもので、凡庸アーティストの企て及ぶところではない。
 この曲は、無伴奏ヴァイオリン曲だが、ピアノを伴う場合、ブッシュと常によきコンビとなるピアニストのルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin[#「Rudolf Serkin」は底本では「Rudolf Serkjn」])も褒めなければなるまい。ゼルキンは、ウィン生れの若いピアニストであるが、ブッシュの伴奏者として、非凡の天分と才能を示している。その清澄無比な音色と、豊かな情緒と、水もたまらぬ鮮かな技巧は、歌の伴奏者ボスと共に、当代の至宝のうちに算えらるべきであると思う。

 ブッシュの良さの半分は、ブッシュ弦楽四重奏団を統率して、室内楽の名篇に示した芸術境であるが、前にも断った通り、それは、ここでは預っておかなければならぬ。
 ブッシュのレコードを求める人に、その真の代表的なものを抜いて示すのはむずかしい。私の好みに偏するかも知れないが、古い吹込みを構わず列挙するならば、シューベルトの大幻想曲』、バッハの無伴奏ソナタ』、それからブラームスのソナタ第二番イ長調』を挙げようと思う。それにたった一枚物のバッハのソナタト長調』を添えるのも悪くない好みだ。さらにベートーヴェンのスプリング・ソナタ』を入れると完璧だが、それでは少し多くなるかも知れない。しかし、群小低俗なヴァイオリニストのレコードを多く集めるより、なるべく無用のアーティストを整理して、ブッシュを一と組加える方が、蒐集としては輝きを増すことになるだろう。

小伝

 ブッシュはウエストファリアのヴァイオリン工の子として一八九一年に生れた。指揮者フリッツは彼の兄、チェリストのヘルマンは彼の弟である。(日本の鈴木鎮一氏兄弟に似ているのも面白い)
 ヴァイオリンの手ほどきを父に受け、フィドル及びヘッスに学び、楽壇にデビューして後の経歴は先に書いた。有名なブッシュ弦楽四重奏団を組織したのは、ベルリン宮廷音楽院のヴァイオリン科主任となった頃、ブッシュが僅かに二十八、九歳の時であった。
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ハイフェッツ Jascha Heifetz





 ハイフェッツはいろいろの問題を提供する。十幾歳の少年ハイフェッツが、ロシア革命の戦禍を避けて、米国に赴く途中、横浜に上陸したのは、大正六、七年の頃であったかも[#「あったかも」は底本では「あつたかも」]知れない。その時は日本において遂に一回の演奏会も開く機会がなく、天才少年ハイフェッツを逸した我が楽壇の不明は、長く語り伝えて口惜しがられたものだ。
 米国におけるハイフェッツの成功は、全く駭目がいもく的であった。二十歳に満たぬハイフェッツは、あらゆる地方から引張りだこになったばかりでなく、その磨き抜かれたヴァイオリン音楽は、ビクターの赤盤に吹き込まれて、驚異と讃歎とを日本にまで舶載したことは、二十年前のファンたちのよく知っていることであろう。
 同じアウアー門下にも、エルマンとハイフェッツは、対蹠たいせき的な二大異彩と見られていた。エルマンの甘美さと、ハイフェッツの冷美さは、一見全く違ったものである。が、その違いは個性的な音色の違いで、本質的なものでなかったことも事実である。二人の技巧と解釈のうちには、アウアー風の豪華な――やや誇張された技巧の裏付けがあったからである。
 それはともかく、当時、エルマンの『ゲー線上のアリア』や『アヴェ・マリア』と並んで、ハイフェッツの『ツィゴイネルワイゼン』や『ロンド・デ・ルタン』が、どんなに騒がれ愛されたことか。現に電気以前の『ツィゴイネルワイゼン六一五三が、今日までビクターのカタログに傲然として載っているのを見ても、這般しゃはんの消息の一部が解るだろう。

 大正十二年関東の大震災は、音楽界の事情までもすっかり変えてしまった。予定されていたバリトン歌手のシュワルツとピアニストのホフマンは日本来遊を取り消して、好楽者たちを落胆させたが、幸いにして、ハイフェッツは、焦土もまだろくにめないその年の十一月には東京を訪ねていた。
 帝国ホテルの演奏会は、環境や空気のせいで、宗教的な情熱のあるものであった。紅顔の美少年ハイフェッツは、申し分なく好楽家を満足させ、その超人的な技巧は、誰にでも愛される性質のものであった。決して、レコードで想像したような、つめたい素気ないものではなかった。
 帝国ホテル五日の演奏会が済んでから、焦土の中に復興の努力を続けている市民のために、ハイフェッツは――一流アーティストにはかつて前例のない野外演奏会を開くことになった。場所は日比谷の新音楽堂(そこでは菊五郎も踊った)、入場料は一円均一であったが、会場は文字通りの満員で、収入の四千何百円かは、直ちに罹災民に寄付された。
 それは、薄寒い曇り日であった。おびただしい曲目を弾き進むにつれて、美少年ハイフェッツの頬の美しく紅潮したのを私は記憶している。『ツィゴイネルワイゼン』も弾いた、『ロンド・デ・ルタン』も弾いた、『イントロダクションとタランテラ』も弾いた。アンコールを加えて、十三曲までひくと、ハイフェッツは自分からステージに出て来て、第十四曲目を弾いたのを見て、私はハイフェッツのほほえましき迷信を面白がっていたことを記憶している。
 その頃ハイフェッツは、申し分のない技巧と、驚くべき気魄きはくの持主であった。あの端麗な顔から、私はナポレオン型の圧力をさえ感じたものである。ヴァイオリンは巨大な金属性の楽器のごとく、驚くべき正確さと、やや冷たさで鳴り響いた。柔か味には欠けていたが、情緒においては、考えていたよりは大人であり、充分過ぎるほどの美しさに恵まれていた。
 それから、年を距てて、三度までもハイフェッツは日本を訪ねた筈である。エルマンやジンバリストが、一回ごとに衰えを見せて行くのと反対に、ハイフェッツは一回ごとに成長し、一回ごとに尾鰭を添えて行った。
 冷たい技巧的な曲の演奏だけでは、大人になり切ったハイフェッツを満足させる筈はない。有名な映画女優と結婚して、全アメリカを驚かした頃から、ハイフェッツのレパートリーには、野心的な近代楽と、むずかしい古典が交えられた。そればかりではない。ハイフェッツは、シマノフスキーを弾き、バルトックを弾く傍ら、自分の手で、フランスの近代楽、わけてもドビュッシーを中心に、いろいろの曲を編曲演奏した。
 これらの新編曲を土産に、欧羅巴ヨーロッパに演奏旅行をした時は、とかく反感と嘲笑とに葬られがちであったが、それはパリの小インテリの好みに逆らったのが大きな原因でもあり、ハイフェッツの野心が、無検束なせいでもあったかも知れない。
 とにもかくにも、古今の傑作を編曲して、自分のレパートリーを飾った点において、当代のヴァイオリニストではクライスラーを第一とし、故人ではあるが、ブルメスターを第二とするだろう。クライスラーの編曲の手際はかつて説いたが、ブルメスターもその点はクライスラーに大きな遜色のあるものではなかった。
 ハイフェッツも決してまずくはないが、近代楽に狙いを置いたのは、野心的ではあったが、賢い方法ではなかった。ハイフェッツはやはり、十九世紀の技巧家たちの曲を、すばらしい才能で征服して行くところに、独特の良さと面白味がある。
 古典の大曲を弾いては、巧妙ではあるが、アウアー門下に共通の浮華さがある。バッハ、モーツァルトが予想ほどでなかったのはそのためであろう。その代り、パガニーニ、サラサーテ、バッツィーニをひいては当代ハイフェッツ以上の人はあり得ない。『ツィゴイネルワイゼン』や『妖精の踊り』は電気以前の骨董だが、電気以後の小曲で代表的なものは、やや古いが、
 シューベルトのアヴェ・マリアロンド六六九一ウィニアウスキーのスケルツォ・タランテラJD四一七アクロンのヘブライの旋律六六九五
などが美しくもあり、優れている。サンサーンスの序奏部と狂想的回旋曲』も充分推賞されていい。(言うまでもなく、ハイフェッツは全部ビクターに入っている)
 極めて新しいレコードでは、八月(昭和十三年)のビクターで発売されたサンサーンスのハバネラJD一二九二、ビクター愛好家協会レコードの、第四輯の劈頭を飾った、電気入れ直しの『ツィゴイネルワイゼンRL三七などは、一枚物としては、ハイフェッツの双璧そうへき的レコードであろう。『ハバネラ』の良さは曲の面白さよりは、むしろ技巧の美しさにある。この種、外面的技巧に重点を置いた曲を演奏しては、ハイフェッツに及ぶ人があろうとは想像も出来ない。
 サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』は電気以前のレコードさえ、今に生命のあることは前に書いた。大震災後のビクター片面時代に、このレコードの珍重されたことは、今日のファンたちの想像も及ばぬものがあるだろう。その曲が新しく電気で入った、しかも伴奏は管弦楽である。昔と今と事情が違っているにしても、多少のセンセイションは、期待しても差支えあるまい。
 電気以前の『ツィゴイネルワイゼン』と比較して、冷たさの代りに滋味を加え、鋭さの代りに柔か味を加えた。が、それはハイフェッツに取っては進歩であるにしても、一般のファンにとっては、多少の物足らなさでもあるだろう。ハイフェッツから要求した鋭さ、――かつての少年ハイフェッツが世界に売り込んだ冷美、凄涼の趣は、もはや今日のハイフェッツからは求むべくもない。ただハイフェッツの良さは、ジンバリストと違って、若さと共に美しさを失わないことであった。ジンバリストはこの十年来甚だしく分別臭くなったが、ハイフェッツは老熟しつつもなお、その魅力を失わなかった。

 ハイフェッツの組物というものは甚だ少くない。ビクターの十三年度のカタログに載っているのだけでも、
ヴァイオリン・ソナタ』(R・シュトラウス)
JI二二名曲集五二三
ヴァイオリン協奏曲イ長調』(モーツァルト・K二一九)
JD三七八八一名曲集五三七
ヴァイオリン協奏曲イ短調』(グラズーノフ)
JD四二七名曲集五四七
ヴァイオリン協奏曲第四番ニ短調』(ヴィユータン)
JD六二四名曲集五八四
ヴァイオリン協奏曲第二番ニ短調』(ウィニアウスキー)
JD七一七名曲集六〇四
ヴァイオリン奏鳴曲第一番ト短調』(バッハ)
JD七六九七〇
ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(チャイコフスキー)
JD一〇六七七〇名曲集六六四
ヴァイオリン・ソナタ』(フランク)
JD一二三八四〇名曲集六八三
==協奏曲の場合、管弦楽はロンドン・フィルハーモニー、指揮者はバルビロリ。
 以上八曲に上るが、この中から優劣を定め、等級を付するのは甚だ困難だ。それはハイフェッツは非常な技巧家で、技術上の破綻や出来不出来はほとんどないために、等級を付けても、結局は選者のそれらの曲に対する好悪こうおの表示以外の何ものでもないからである。
 ハイフェッツの演奏には、ほとんどむらがない。バッハのソナタもフランクのソナタも、技巧的にはまことに上乗の出来だ。若い頃の鋭さは失ったと言っても、芸術的価値の高い大曲を演奏する場合、それはかえって役にこそ立て、少しの妨げともならないのである。
 強いて私の好むものを挙げるならば、
ヴァイオリン協奏曲第二番ニ短調』(ウィニアウスキー・作品二二)
JD七一七名曲集六〇四
ヴァイオリン協奏曲第四番ニ短調』(ヴィユータン・作品三一)
JD六二四名曲集五八四
などであろうと思う。もとよりバッハもチャイコフスキーも良いには違いないが、バッハはメニューインやブッシュにさらに良さが見出せるだろうし、チャイコフスキーはやはり私はフーベルマンに左袒さたんしたい。しかしフーベルマンの録音の古さに慊焉けんえんたる人は、言うまでもなく、このハイフェッツを採るべきである。もう一つ、モーツァルトの協奏曲は、甘美さにおいてどうかと思うが、曲も演奏も見事なもので、ハイフェッツのレコードとしては特色的なものである。
 他に、R・シュトラウスの『ソナタ』、グラズーノフの『協奏曲』など、素人の音楽鑑賞には向かないが、その道の人には極めて重要なレコードであり、ヴァイオリンの技巧から言っては満点的なものであろう。

 要するにハイフェッツのレコードから、一般蒐集家鑑賞家が選ぶとしたら、サンサーンスのハバネラ』、サラサーテのツィゴイネルワイゼンの愛好会レコード。さらに加えればサンサーンスの序奏部と狂想的回旋曲』、バッツィーニの妖精の踊り』という技巧的なものであろう。変ったものを好む人には、シマノフスキーのロクサーヌの唄JD八七〇コーンゴルトのいぬ梨とりんぼく酒JF六四も面白かろう。
 組物ではウィニアウスキーの協奏曲を第一に、続いて[#「続いて」は底本では「総いて」]ヴィユータンの協奏曲モーツァルトの協奏曲チャイコフスキーの協奏曲の順序で挙げられるだろう。

小伝

 ヤシャ・ハイフェッツは一八九九年波蘭ポーランドのヴィルナに生れた。三歳の時父からヴァイオリンを学び、四歳の時にはルナの帝室音楽学校に入学を許され、五歳の時は演奏会に現われ、六歳の時はメンデルスゾーンの協奏曲を一千人の聴衆の前で演奏したと言われる。
 一九〇七年八歳にしてアウアーの門に入り、一九一二年名指揮者ニキシュの指揮で独奏した。一九一七年日本を経て米国に遊び、一九二三年改めて日本を訪ねた。ハイフェッツの早熟は極めて珍しい例にされている。
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メニューイン Yehudi Menuhin





 メニューイン少年の出現は、ハイフェッツ以来の驚異であった。ロシアの富裕な宝石商の子として生れ、その境遇に恵まれて、すくすくと伸びて行ったのは、他の場合の天才少年が、ややもすれば、未成品のうちから、売物としてさらされがちなのに比べて、非常な幸福であったと言っていい。
 現に一昨年も、修業のため一カ年間の沈黙を発表し、その間、公式演奏を全部謝絶し、専ら芸術の完成にいそしんだごときは、後見する人の頭の良さもあるだろうが、芸術家として、まことに見上げた態度と言うべきである。
 メニューインも二十一歳になり、最近は愛人と結婚の式を挙げたと伝えられ、もはや天才少年というにふさわしくない大人であるが、さらに芸術の方面では、鬱然として一家の風をなし、堂々中年以上の大家と比べて、なんの子供臭さもないばかりでなく、その芸術的精神年齢においては壮年期以上の円熟さを見せている。
 メニューインは子供でない――ということは、早くから言われたことである。古典の大曲をマスターして、それを再現する天稟の才能に至っては、十五、六歳のメニューインは既に堂々大家であった。
 メニューインを今日あらしめたのは、その先生が良かったためでもあると思う。最初の師はアドルフ・ブッシュであり、次の師はエネスコであった。手堅いブッシュと、いきなエネスコと、その両様の感化を受けて、アウアー門下の天才たちが、多く二十歳の凡人となったのに対して、年とともに精神的内容を豊富にしてますます大成の一路を邁進してまないのは、まことに驚嘆すべきことである。

 メニューインは技巧家としては、十一、二歳で既に申し分のない域に達したと言われる。が、決してそればかりではない。古典の気魄と、魂とを伝うる点においても、決して少年ではなかった。今から四、五年前に吹き込んだバッハの『ヴァイオリン協奏曲=ホ長調』は、いろいろ議論があったにしても、私はエルマンのそれよりもバッハの魂を伝えるものだと信じている。しかし、メニューインを、その故に怪奇な侏儒しゅじゅと思ってはいけない。メニューインには充分少年の若さがあり、その風格と気魄において、有髯ゆうぜん男子に一歩も譲るものではないが、芸術的完成においては、なお充分の若さを残し、将来の巨大な進歩を暗示していることは言うまでもない。
 メニューインを以て、ただちに、クライスラーやフーベルマンに比較してはいけない。それは、比較するものの無理解だ。メニューインには若さと弾力があり、老いを感じさせる完成感がないだけでも、老大家たちとの間には質において大きな隔たりがある。
 メニューインを一度聴いた人たちは、その重厚な気品と、高邁な気魄に敬服せざるはない。メニューインこそは恐らく、クライスラーに次いで、世界の提琴家の王座を継ぐべき唯一の人であろう。それは二十年三十年後まで待って実現さるべき問題ではなく、三年、五年、あるいは十年の後、我らは嫌応いやおうなしに、提琴王メニューインの威風を仰ぐことであろうと思う。
 メニューインの演奏には、少しのひねこびたところがない――多くの天才少年と称する精神的侏儒しゅじゅの芸術と、根本的に違う所以ゆえんだ。メニューインには楽曲に対する驚くべき理解がある。多くの技巧家たちのように、バッハとサラサーテとを同じ心構えで演奏するようなことは、かつて少年時のメニューインにもなかったことである。メニューインの進歩の径路は、レコードで聴いたところだけでも、技巧を尽して精神的なものに入って行った。メニューインにおいては、技巧の行詰りが芸の行詰りではない。

 メニューインのレコードは非常に多い。ちょうど十数年前のエルマンやハイフェッツのレコードに匹敵する数だろう。その中から特色的なものを選ぶのは容易だが、万人向きの良いレコードを抜くことはなかなかにむずかしい。
 メニューインの技巧を楽しむ人には、パガニーニの『カプリース第二十四番』(JE八)や、フランクールの『シシリアンヌとリガウドン』(JE四八)も良いだろうが、もう少しメニューインを高く評価して、メニューインから本当の良きものをつかもうとする人は、ラヴェルの『ツィガーヌ』(JD三四二)やショーソンの『詩曲ポエム(JD二三九―四〇)を聴くがよかろう。近代楽に対し興味を持てない人は、コレリの『ラ・フォリア』(JD二〇八)なども面白かろう。(因みにメニューインのレコードは、全部ビクターに入っている)
 メニューインの組物は非常にたくさんある。
ヴァイオリン協奏曲第七番ニ長調』(モーツァルト)
JD四四名曲集五〇三
スペイン交響曲』(ラロ)
JD二六〇名曲集五一八
ヴァイオリン協奏曲ホ長調』(バッハ)
JD四一三名曲集五四六
ヴァイオリン協奏曲アデライデ)』(モーツァルト)
JD四四八五〇名曲集五五四
ヴァイオリン協奏曲第一番』(パガニーニ)
JD五〇三名曲集五六五
無伴奏パルティタ第二番』(バッハ)
JD七四〇四三名曲集六〇六
ヴァイオリン協奏曲イ短調』(ドヴォルザーク)
JD九六六名曲集六四八
ヴァイオリン協奏曲第一番』(ブルッフ)
七五〇九一一名曲集一二四
複協奏曲ニ短調』(バッハ)
(第二ヴァイオリン)エネスコ
JD二三
ヴァイオリン・ソナタ第五番』(バッハ)
JD一八八九〇
ヴァイオリン・ソナタニ長調』(ベートーヴェン・作品一二の一)
(ピアノ)ギーゼン
JD三六三名曲集五三四
クロイツェル・ソナタ』(ベートーヴェン)
(ピアノ)ヘフツィバー・メニューイン
JD四九一名曲集五六二
ピアノ三重奏曲ニ長調(幽霊)』(ベートーヴェン)
(ピアノ)ヘフツィバー・メニューイン
(チェロ)アイゼンベルク
JD八九八九〇〇名曲集六三四
ヴァイオリン・ソナタイ長調』(モーツァルト・K五二六)
(ピアノ)ヘフツィバー・メニューイン
JD二八五
三重奏曲イ短調』(チャイコフスキー)
(ピアノ)ヘフツィバー・メニューイン
(チェロ)アイゼンベルク
JD一一七八八三名曲集六七六
ヴァイオリン協奏曲第三番ト長調』(モーツァルト・K二一六)
JD一〇六四名曲集六六六
無伴奏ソナタ第一番ト短調』(バッハ)
JD一二四七

 以上十七曲を算えることが出来るが、このほかにも、まだ私の見落したのがあるかも知れない。
 この十七曲を一々紹介することは、実際不可能事であるが、その中から、すぐれたもの興味の深いものを選って行くと、第一番に、やや吹込みは古いがバッハの『ヴァイオリン協奏曲=ホ長調』を挙げなければなるまい。この曲は古曲ヴァイオリン曲中の名曲で、高朗典雅なものであるが、メニューインの古典に対する理解と同情は、華麗に過ぎるエルマンのレコードに優るであろう。電気以前この曲のレコードに、ティボーの名盤があり、骨董価値半百金に上ることは、一部の人の知るところだ。それはともかく、メニューインのバッハに対する理解――その神性の把握は、この協奏曲と『無伴奏パルティタ第二番』において充分に示されるだろう。(最近フーベルマンもこの曲をレコードした)
 バッハの無伴奏曲に対するメニューインの演奏は、師ブッシュの手堅さと、その豪宕ごうとうな魂をけ継ぐもので、『無伴奏ソナタ第一番』も、名曲レコードとして数えられるであろう。ただし、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲は、あまりにも専門的な興味で、一般の音楽愛好者向きでないことは注意しなければならぬ。
 同じバッハの『複協奏曲』を、師エネスコが第二ヴァイオリンに廻って吹き込んだレコードは、この二人の師弟愛の結晶として、ほほ笑ましきレコードである。この曲のレコードは、二、三、著名なものがあるが、電気以前のクライスラーとジンバリスト以外には、さして優れたものがなく、メニューイン、エネスコの組合せがレコードされて、ファンたちは十数年来の渇望が満たされたわけであった。この曲の雄渾壮麗な美しさは言うまでもない。これこそバッハの神品中の一つで、メニューイン、エネスコの演奏は、技巧的に申し分のないものであり、気魄において多少物足らなさはあるにしても、この曲のレコードとしては代表的なものと言っていい。
 モーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲(アデライデ)』も推賞されていいものだ。同じモーツァルトの第七番の『協奏曲』は、師エネスコが管弦団を指揮した最初のレコードで、その意味において問題になったものである。ラロの『スペイン交響曲』もエネスコ指揮、フーベルマンとは違った良さを愛される。
 ドヴォルザークの『協奏曲=イ短調』は近来一段円熟の境に入ったメニューインを語るレコードとしては、逸することの出来ない傑作である。あるいはこれを以てメニューインの代表作レコードとする人があるかも知れない。管弦楽の指揮者はやはり師エネスコだ。今は青年期に入ったメニューインの技巧と感情の美しさが盛りこぼれる。
 妹ヘフツィバー・メニューインはピアノをよくし天才少女として名がある。しかし残念なことに、兄エフディ・メニューインも、この妹と組合せになったレコードには良いものがない。
『クロイツェル・ソナタ』のごときは、その例の一つだ。取り立ててどこが悪いというわけではないが、なんとなく頼りなく心細く、そして学芸会じみる。『幽霊トリオ』なども、この曲から期待される灰色の憂愁さなどは少しもない。
 その中でチャイコフスキーの『三重奏曲=イ短調』だけは推賞されてよかろう。この曲はチャイコフスキーが師事して畏友なりし、ルービンシュタインの死を悼んで、その思い出に作った曲で、変奏曲の美しさは――ややセンチメンタルではあるが、比類を絶するものである。レコードには、昔のコロムビアに、マードック、サモンズ、スクワイヤーのがあるほか、久しく吹込みのなかったもので、メニューイン兄妹とチェロのアイゼンベルクのレコードは、その渇望を満たしたという意味で高く買われたのかも知れない。このレコードだけは、妹のヘフツィバーの名誉のために推薦しておきたい。誰にでも愛されるものであることは、牡丹餅判ぼたもちばんして保証する。メニューイン兄妹と組んでトリオを演奏するチェロのアイゼンベルクは、近頃非常に評判の良い青年チェリストで、その将来は嘱目しょくもくされているが、これは、事情が許せば別の項に書きたい。

 以上、メニューインのレコードは大体語り尽した。二、三枚または二、三組の蒐集は、その人の趣味によって決定すべきであるが、古典好きにはコレリのラ・フォリア』、パガニーニのカプリース第二十四近代楽に興味を持つものにはラヴェルのツィガーヌとショーソンの詩曲ポエム』がすすめられる。
 組物はバッハの協奏曲ホ長調』、ドヴォルザークの協奏曲イ短調』、それにチャイコフスキーの三重奏曲』を挙げられる。モーツァルトの協奏曲アデライデ)』、バッハの複協奏曲』がそれに次ぐだろう。ラロのスペイン交響曲』も逸するわけに行かない。

小伝

 メニューインは一九一七年ニューヨークに生れた。富裕な宝石商の子として、行き届かざるなき教育を受け、その天稟の才能を培ったのは、独りメニューインの幸せのみではない。八歳の時、桑港サンフランシスコシンフォニー管弦団の独奏家としてデビューし、その後イザイエの晩年に就いて学び、十一歳の時、晴れの舞台のカーネギー・ホールで、ベートーヴェンの協奏曲を演奏した。その後ブッシュ及びエネスコに師事し、若きヴァイオリニスト中、最も大なる将来を嘱望されている。
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クーレンカンプ Georg Kulemkampff[#「Georg Kulemkampff」はママ]





 シューマンの『ヴァイオリン協奏曲=ニ短調』が、シューマンの死後八十三年、偶然のことから図書館のほこりの中で発見され、各国の提琴家たちが争ってその初演を希望し、米国においては既に人気の中心にある天才メニューインが、その演奏の準備まで成ったと伝えられた時、ドイツの政府は、総統ヒトラーの名によってドイツ国以外の初演を禁止し、一九三七年十一月二十六日、ゲオルク・クーレンカンプをして初演せしめ、ラジオを通じて、全世界に放送したことは日本の好楽家たちも、ことごとく承知しているところだ。
 その初演の国際放送は、空電に妨げられて、甚だ悪い条件のもとに聴かれたが、シューマン遺作の驚くべき価値を認識せしむるに充分であり、また、若き一介のヴァイオリニストに過ぎないクーレンカンプが、ナチス独逸ドイツの至宝的芸術家であることを、世界に向って確認せしむるには充分であった。
 かつてのクーレンカンプは、ポリドール及びテレフンケンに、幾つかの小曲、並びに幾つかの組物をレコードし、ドイツにおいて、重要な芸術家として認められていることは、多くの人に知られていたが、猶太ユダヤ系音楽家をほとんど根こそぎ駆逐した今日のドイツで、それは鳥無き里の蝙蝠こうもりではなかったかという疑惧は充分にあったのである。加うるに、シュポーア、メンデルスゾーン、及びベートーヴェンの『協奏曲』を吹き込む以前のクーレンカンプは、まことに気のきかない存在で、その僅かばかりのレコードも、ほとんど取り立てて言うほどのものはなく、たまたまあるものは、極めて平凡無特色の小曲に過ぎなかった。クーレンカンプが、猶太ユダヤ系ヴァイオリニストの逐われた後の独逸ドイツに、新進の巨匠として、ほとんど独擅場どくせんじょうの地位に置かれたことは、いろいろの情報で知ったのであるが、レコードで想像したクーレンカンプは、どう考えてもそれほどの芸術家とは思われず、久しい間一脈の疑問が這間しゃかんに残されたのも無理のないことであった。
 クーレンカンプの小曲で、テレフンケンに入った『支那の太鼓』(一二六〇二)と『人形のワルツ』(一二六〇八)は決して悪いものではなく、むしろ可憐な出来栄えであるが、これを取ってクーレンカンプの全豹ぜんぴょうそうするのは少しく早計であり、その後、

ヴァイオリン協奏曲第八番』(シュポーア)
日本テレフンケン一三六〇五
ヴァイオリン協奏曲』(メンデルスゾーン)
同上一三六四一
ヴァイオリン協奏曲』(ベートーヴェン)
同上二三六二二
 以上三曲がレコードされ、日本テレフンケンとして市場に現われるに及んで、我らのクーレンカンプに対する認識は根本から改めなければならなかったのである。
 クーレンカンプには、猶太ユダヤ系提琴家たちの持つ旋律の甘美さはない。それは素朴で、生真面目きまじめで、甚だしく気がきかないようにさえ聞えるが、くり返して聴いているうちに、言うに言われぬ滋味と、高雅な内容的な美しさを感じさせるのである。
 クーレンカンプの気のきかなさは、その特質的なもので、決して欠点として挙げるべきものではない。反対にクーレンカンプの演奏は、一応耳で聴いたような、馬鹿正直なものでなく、相当以上に手の混んだ技巧と独特の解釈を持ったものだ。クーレンカンプ自身の弾き勝手のために、換言すれば、演奏家として許される範囲内において、自身の柄と特質に相応し、最も美しく、最も良くその曲を表現するために、かなり大胆な解釈演奏をすることもあることを記憶しなければならない。
 それにもかかわらず、正直に生真面目に、そして、気がきかないようにさえ聴えるのは、まさにクーレンカンプの思う壺で、ドイツ派の正統を守るクーレンカンプとしては、楽曲の真精神とその本当の美しさを活かすために、こう演奏するのを以て、最上の方法と考えたにほかならないであろう。現に、
ヴァイオリン協奏曲ニ短調』(シューマン)
日本テレフンケン二三六五三
に示した、クーレンカンプの良さはその代表的なものである。恐らくメニューインが、米国の一流管弦団と共に演奏しても、これと趣の異なったものは出来るだろうが、これ以上のものが出来ようとは想像も許されない。クーレンカンプの演奏には、それほど必然性があり、それほど質朴な生命が宿っていたのである。
 日本にはまだクーレンカンプの真価に疑いをさしはさむ人も少くないようであるが、試みにベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』を取って、クライスラーなり、シゲティーなり、フーベルマンなりに比べて見たならば、恐らく思い半ばに過ぎるものがあるだろう。クーレンカンプは素朴らしく、生真面目らしくはあるが、これら先輩大家たちに比べて、決して解釈にも表現にも遜色のあるものではない。かえって、我々は一種も言われない朴訥ぼくとつな美しさをさえ感ずるであろう。
 しかし、クーレンカンプの代表レコードを備えるとしたならば、私はやはりシューマンの協奏曲』をすすめたい。この曲はシューマンの作品中でも傑出したもので、ヴァイオリン協奏曲としても、恐らくブラームスのそれに匹敵するものであろう。
 続いて私はシュポーアの協奏曲』に興味を持つ。それはこの曲のレコードがほかにないからでもあるが――。
 ポリドールには、ピアノのケンプとの組合せで、ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタ四五一九六が入っている。録音に非難はあったが、演奏はなかなか良く、人によっては『クロイツェル・ソナタ』のレコード中、第二、三位に算えるほどである。ドイツの至宝ケンプとクーレンカンプの組合せは、ただそれだけでも興味の深いことである。
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フレッシュ Karl Flesch





 カール・フレッシュは、演奏家としてよりは、むしろプロフェッサーとしての令名が偉大であった。
 そのため、その芸術をレコードする機会が、甚だしく遅れ、幸いにしてHMV及びポリドールに吹き込んだ時は、フレッシュ自身、やや年を取り過ぎたうらみがないとは言えなかったのである。
 フレッシュのプロフェッサーとしての業績は甚だ小さくない。古典楽譜の編纂者として、モーツァルトの研究者として、ヴァイオリンの教科書の著者として、――それだけでもフレッシュの仕事は充分過ぎるほどだったのである。
 演奏者フレッシュは、年を取り過ぎたと言っても、幸いにしてレコードには、驚くべき名品がある。
 ヘンデルの行進曲ビクターEW六七がそれだ。
 この曲の可憐な魅力については、私は旧著に詳述している。「ヘンデルさんのマーチ」と私の戯れに書いた言葉が、今日でもあちこちで、好意と親しみとの調子でくり返されるを聞くことがある。
 この曲の原曲オリジナルはなんであるか私は知らない。私の知人は楽譜を発見したと言っていたが、それはなんの行進曲であったか、確かめる機会がなかった。そんなことはともかく、この曲の可憐な魅力は、ヘンデルのせいと言うよりは、編曲者にして演奏者なるフレッシュの手柄に帰すべきものであると思う。
 この曲を聴いて踊り出さなかったら、少しばかり神経が鈍いと思っても差支えはない。

 フォーレの揺籃歌ようらんかJE一八はなんの変哲もない演奏だが捨て難い。

 ほかにポリドールから『カール・フレッシュのソナタ・アルバム』が出ている。予約売出しレコードでカタログにはないが、ヘンデルとモーツァルトのソナタを一曲ずつ入れたもので、録音はさまでよくないが、レコードの少いフレッシュでは、最も重要なものと思われている。演奏は冴えない嫌いはあるが、充分老巧である。
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プシホダ Vasa Prihoda





 プシホダのレコードが、初めて日本へ入って来たのは、震災の直後であった。ドイツ・グラモフォンの、かき餅のような片面レコードに入った、『ラ・フォリア』や、パガニーニの『コンチェルト』や、『ツィゴイネルワイゼン』に、我らが驚異の眼を見張ったのも無理ではなかった。
 マルシャーク門下の逸材、その当時パガニーニの再来と言われたプシホダの技巧の冴えと、それにもまして、普通のヴァイオリンから出る音とは、どうしても想像することの出来ない妖艶極まる音色トーンカラーが、エルマンやクライスラーをレコードで聴き馴れた我々にとっては、全く一つの驚きにほかならなかったのである。
 その頃私などは、極力プシホダを求めて、その不思議な音の魅力に陶酔した。それは妖気をさえ感じさせる不思議な音であった。異教的ヘレティックな音と言ってもいい。タンノイザーが、ヴィナスの洞窟で聴いた音に似ていたかも知れない。
 そのうちに、我らのプリホダと呼び慣れているのは、発音の誤りで、ボヘミア語であれは、プシホダと読むのだと、――亡くなった九大のさかき博士に教わったりした。榊博士は若返り法の手術と共に、音楽通として、九大管弦団の指揮者として有名な人であった。
 何年か後、プシホダのレコードは電気になって入って来た。その技巧のすばらしさは、録音のよさとともに倍加したが、同時に、濃艶、妖冶ようやな音も昔に倍加した。プシホダはこの上もなく美しいが、枯淡質朴な芸術を愛する日本人にとっては、少し派手過ぎ、華やか過ぎ、そして官能的過ぎるかも知れなかった。間もなく、プシホダの私生活に対するゴシップが、世界的に飛んだ。
 プシホダはその頃から少しずつ飽かれ、公然とプシホダを排撃するレコード批評家さえ見るようになった。しかし、それは限られた一部で、プシホダの魅力は、歳と共にかわり、その妖婉ようえん華麗なヴァイオリンは、大衆からの支持を受けることに、なんの変りもない。
 凝脂ぎょうし粉黛ふんたい、――そう言った言葉を私はプシホダの演奏から連想する。それは楊貴妃や姐妃だっき[#「姐妃の」はママ]美しさだ。粉飾と技巧の限りを尽して、外から美しさを盛り上げる方法だ。楚々そそたる趣や内側から滲み出す美しさなどは、プシホダには想像もされない。
 が、しかし、プシホダが一代の大提琴家であることにはなんの変りもない。最近フランスに遊んで、フランクの『ソナタ』を演奏し、その技巧のすばらしさに驚かるると共に、その解釈に異論を持たれたという噂は聴いたが、まことに、プシホダらしいことだと、苦笑を禁じ得ない。プシホダにはパガニーニをひかせておくべきである、それこそ当代の第一人者と言っていい。プシホダに、セザール・フランクをひかせたのが、そもそもの間違いである。
 プシホダのレコードは、ポリドールに数十枚入っている筈である。カタログに現存するのは僅かに十五、六枚、その中から代表的なものとして、
 サラサーテのホタ・ナヴァラ四五〇五二、『ツィゴイネルワイゼン五五〇〇一バッハウィルヘルミーのG線上のアリア』などを採るべきであろう。私一個の好みではあるが、プシホダにパガニーニの『コンチェルト』の全曲をレコードさしたら、さぞ見事なものであろうと思う。

 一九〇一年プラーグに生れ、マルシャックに就いてヴァイオリンを学んだプシホダが、世界的の声名を[#「声名を」は底本では「声明を」]せたのは、一九二〇年後のことである。ポリドールの至宝だが、電気以後大物レコードのないのは惜しい。
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シュメー Ren※(アキュートアクセント付きE小文字)e Chemet





 女流のピアニストは多きに過ぎるほどだが、女流のヴァイオリニストというものは案外少いものである。震災前日本を訪ねたパーローは、いつの間にやらレコード界から姿を消し、ハンセンもまた近頃は消息を聴かない。
 HMVの系統には、モリニ、メンゲス、ヘイワードなど達者なのが少くないが、モリニ以外はまず大したことはないようである。
 この間において、ルネ・シュメーの存在は、とにもかくにも、女流芸術家のために気を吐くものであった。先年日本を訪ねたとき、その実演に接した人たちは、男まさりの体格と気力と、強引の演奏と、そして存分過ぎるほどの女らしい魅惑(?)とをこの人から聴いたことであろう。
 シュメーのヴァイオリンは、そのフランス人らしい豊満な美貌と同じほどに妖艶なものであった。媚態という言葉は不穏当だが、少くともシュメーの演奏に接するものは、なんかしら、むずむずするような、極めて官能的な感銘を受けたものである。その豊潤妖艶な印象も、日と共に、月と共に薄れて、今では記憶に再現する由もないが、その当時の興奮は、ハンセンのような稀薄なものでなかったことは事実である。
 シュメーのレコードは一枚物の小曲ばかりで、取り立てて言うほどのものはないが、強いて一、二枚を蒐集に加えようとする人は、
メヌエット』(ハイドン)
ビクター六六〇九
序奏部と狂想的回旋曲』(サンサーンス)
JD三
の二枚で充分であろうと思う。さらに一、二枚を望む人のために、電気の初期の吹込みで、極めて悪い録音ではあるが、メンデルスゾーンの春の歌一二四二を挙げておこう。
 宮城道雄の琴と合奏した『春の海』は宣伝ほどは面白いものでない。この曲はむしろ、宮城道雄の琴に、吉田晴風の尺八で合奏したレコードの方が遙かに面白い。
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ゴールドベルク Simon Goldberg





 シモン・ゴールドベルクは、ベルリン・フィルハーモニック管弦団のコンサート・マスターとして、若さに不相応の名声を馳せたが、その猶太ユダヤ人の血の故にわれて、先年は日本までも演奏逃避旅行にやって来たほどである。ゴールドベルクを失うことは、ベルリン・フィルハーモニーにとってはかなりの痛手であった。指揮者フルトヴェングラーはそれを惜しむのあまり、一時職をして争おうとしたとさえ伝えられている。
 しかしそのフルトヴェングラーの望みも遂に容れられなかったらしく、若き天才ゴールドベルクは、よき合奏者なるクラウス夫人と共に、今は米国あたりに楽旅を続けていることであろう。
 ゴールドベルクの特色は、その若さと聡明さである。あくまでも冷たく鋭い美しさが、ゴールドベルクの演奏を、埃もとどめぬ玲瓏れいろうたるものにしている。死んだ塩入亀輔しおいりかめすけ君が、これを形容して「冷美」と言ったのはまことにふさわしい。
 ゴールドベルクのこの冷美とも言うべき演奏の探究は、技巧の冴えもさることであるが、さらに深く思想的な出発点にまでさかのぼって考えなければなるまいと思う。一言にして尽せば、前時代――即ちロマン派末期の誇張された感情と、そして過度のセンチメンタリズムから解放された若いゴールドベルクは、その聡明さを極度に発揮して、突き進むところまで突き進み、近代リアリズムの洗礼を受けた思想と技巧で、古典のうちからでさえ、新しい美を掴み出そうとし、かつそれに成功したものであると見るべきである。
 ゴールドベルクのこの意図を援けるものに、ピアニストのリリー・クラウス夫人の聡明さがある。レコードはテレフンケンに入っている、ドヴォルザークのスラブ舞曲第一番二二六一七モーツァルトのアダジオホ長調二三六一八以外は全部コロムビアにある組物で、そのうちから優秀な代表レコードとして、左の三、四曲を挙げることが出来るだろう。
クロイツェル・ソナタ』(ベートーヴェン)
コロムビアJW一〇〇傑作集二八八
ソナタハ調』(モーツァルト・K四二四[#「モーツァルト・K四二四」はママ]
J八五八一傑作集二四二
ソナタト調』(モーツァルト・K三七九)
J八五二三傑作集二二九
ソナタ変ホ調』(モーツァルト・K四八一)
J八五二〇傑作集二二八
『クロイツェル・ソナタ』は、端麗平明で、我々が従来聴き馴れたクロイツェル・ソナタとはおよそ見当の違ったものである。少しの浮華な誇張も、嫌味な惑溺もない。玲瓏としたリアリスティックな演奏を楽しむ人には、クライスラー、フーベルマン以上に愛されるだろう。その代り、通俗な面白さや、この曲にこびり付いている法外な甘美さというものはほとんどない。
 モーツァルトのソナタ三曲は、いずれ劣らず面白いものである。そのうちの一曲を選ぶもよし、全部を座右に備えても決して腹の立つようなことはあるまい。十八世紀の驕児きょうじモーツァルト――全身全霊美に溺れて飽くことを知らなかったモーツァルトを、こう冷たく美しく演奏することはまた一つの考え方である。
 ほかにベートーヴェンの十番のヴァイオリン・ソナタが入っている。悪くないものだが、さまではと、これは預かる。
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モリニ Erica Morini





 伊太利イタリー人の血統を引いたウィン生れの少女モリニが、名指揮者ニキシュの指揮の下に、モーツァルトのヴァイオリン・コンチェルトをひいたのは十一歳の時であった。それから春秋をけみすること十幾回、モリニというとまだ天才少女のように思っているが、実はもはや三十歳の婦人であるべき筈である。
 モリニはシュメーのように精力的でなく、シュメーの宏大な艶容に比べて、遙かに女らしい感傷と、そして内輪な美しさを持っている。ヴァイオリニストとして、男子の第一流人には比ぶべくもないが、その素直さと、優しさにおいては、過去十年間の女流に、この人以上の人はなかったであろう。
 モリニのレコードは、ビクターとポリドールに入っている。ビクターには一枚物の小曲にすぐれたものがなく、ポリドールのカタログには『オールド・フォークス・アト・ホーム』(六〇一六〇)とシューベルトの『子守唄』(五〇〇二一)を残すのみだが、大した印象の深いレコードではない。
 モリニのよさは、むしろ、ビクターに残るベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタヘ長調スプリングE四九九五〇一の十インチ三枚と、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ変ロ長調K四五四)(DB一四二九三一の二組であろうと思う。『スプリング・ソナタ』には、これ以上の演奏がたくさんある。ブッシュもクライスラーも、モリニとは比較にならぬほど老巧だが、モリニのよさは、その女らしいたどたどしさで、わけてもモーツァルトのソナタは、原曲の良さに恵まれて、第三楽章の燿奕ようやく的な美しさは忘れがたいものである。
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その他の人々





メンゲス Isolde Menges

 以上のほか、ビクターには女流メンゲスがある。堅実なひき手だが、一枚物にはブラームスのハンガリアン・ダンスイ長調JA九三一一枚ぐらいを挙げられるだろう。老ピアニストのデグリーフと組合せで入れた『クロイツェル・ソナタ』はなかなか良いものであったが、今ではカタログから削られた。シューベルトの小奏鳴曲ト短調JD一一四一は一度カタログから消えて、最近また再プレスされた。吹込みは悪いが、曲が可愛らしい。


スポールディング Albert Spalding

 スポールディングは近頃ビクターの宣伝の波に乗っているが、アメリカ風の演奏家で、技巧は達者だが、感情が粗雑だ。どうしても一枚ほしい人には、自作の『エッチングJE一九二一を挙げよう、ただし、大して面白いものではない。


フバイ Jeno Hubay

 フバイ博士が一枚あるが、これはシゲティーの先生で、骨董的興味に近い。自作『クレモナのヴァイオリン製作者ビクター九六四二は『ツァルダの風景』と共に面白い曲だ。


ミルシタイン Nathan Milstein

 コロムビアには、新人ミルシタインがある。アウアーの最後の弟子の一人で、非常に嘱目されているが、レコードにはまだ良いのがない。ヴィタリーのシャコンヌJ八六五一が注目される。


デュボア Alfred Dubois

 デュボアは白耳義ベルギーの至宝で、諏訪根自子ねじこの先生だ。有名な人だが、レコードはあまりよくない。こんな筈はないがと思うが、どうも粗雑な演奏が気になる。録音のせいかも知れない。一枚物はなく、ことごとく組物だが、バッハの『ヴァイオリン・ソナタ』六曲のうち、四番、五番、六番の三曲と二番のアンダンテを入れているのは嬉しい。この原曲はチェンバロとヴァイオリンのソナタで、ピアノに編曲してマルセル・マースが付き合っている。四曲ことごとく珠玉的だが、第五番目の『ソナタヘ短調コロムビア八二二四傑作集一八〇と第六番の『ソナタト長調J八一五〇五一が美しい。


ジンバリスト Efrem Zimbalist

 ジンバリストは大震災後、最初の日本訪問当時の人気は大したものであった。「楽聖ジンバリスト」などいうポスターが、一部の人の非難はあったにしても、ともかく、帝都の真中に貼られ、大して不思議がりもしなかったものだ。その後二回、三回、重ねて日本を訪問するに従ってジンバリストが昔の魅力を失ったのは、日本人のきやすいためばかりとは言えない。若さと弾力とを失ったジンバリストには、もはや昔の情熱を求むべくもない。それは欠点のない見事な演奏であったにしろ、人の心を掴むことが出来なければ、アーティストとしての値打を半分は失ったものと言っていい。ジンバリストのレコードでは、電気以前のビクター以外に、飛びつくようなものはまずない。わけても電気以前のビクターで、夫人グルックの歌に助奏したものは、骨董的に喜ばれている。


ヴォルフシュタール Joseph Wolfsthal

 ヴォルフシュタールは優れたヴァイオリニストであった。ポリドールとコロムビアに僅か十枚そこそこのレコードを残して死んでしまったが、その遺作レコードのうち、コロムビアに入っているモーツァルトの提琴協奏曲第五番イ長調(K二一九)』J三九一〇はすぐれている。この曲はモーツァルトの燃え立つような若さを味わわせる名品で、ビクターにはハイフェッツのも入っているが、電気の初期の極めて悪い録音にもかかわらず、私はヴォルフシュタールの匠気のない素直な美しさを愛する。ポリドールにはベートーヴェンの協奏曲ニ長調四五〇五五が入っている。


ベネデッティ Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) B※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)detti

 音楽の名門の出で、技巧家としては当代第一流の人であるが、技巧に溺れ過ぎて、芸術的な気品を欠くために、さして高くは評価されない。『ロンド・デ・ルタン』のピチカットが機関銃の発射のように正確だということは、芸術とはあまり関係のないことである。代表作は『カルメン幻想曲コロムビアJ七七二二


 ほかにコロムビアにはフランチェスカッティラスサモンズなどがある。サモンズは電気以前に活躍したアーティストで、当時のファンにとっては回顧的な興味を持つだろう。
 ポリドールのヴェチェーは若くて死んだ天才の一人で、記念的の意味で一枚備えるのもよかろう。モギレフスキーは日本提琴界の恩人として極めて重要な存在である。
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過去の巨匠たち


この項は電気以前の旧吹込レコードで、一般の鑑賞家蒐集家の目的になるものではないが、旧吹込レコードに興味を有する人のために、極めて少数の大アーティストのレコードに限り紹介することにした。

イザイエ Eug※(グレーブアクセント付きE小文字)ne Ysaye

 近代のヴァイオリンの巨匠と言えば、先年アメリカで歿したイザイエに第一指を屈することは、おそらく何人も異議のないところであろう。この人は晩年肥胖ひはんと老齢のために、ヴァイオリンの演奏不能に陥り、指揮者として更生し、シンシナチー管弦団を率いて、米国楽壇に重きをなしたことは、これまた一般好楽者の忘れ得ない記憶である。(イザイエの指揮した管弦楽レコードは、コロムビアのリボン盤に数枚入っている)
 イザイエは一八五八年白耳義ベルギーに生れた。マッサール及びウィニアウスキーについてヴァイオリンを学んだが、その演奏は情熱的で、技巧を超えて人に迫るものがあったと伝えられているが、その遺せるレコードは、電気以前の吹込みながら、コロムビアの歴史的記念レコードとして五枚十面だけ保存されているが、全部で十二面あり、中には到底入手しがたき珍品もある。(イザイエ自身の編曲したドヴォルザークの『ユモレスク』とワーグナーの『懸賞の歌』は日本でプレスされなかった)
 もし旧吹込みの心細いものながら、イザイエの於母影おもかげを知ろうとする人があったならば、五枚のうち、メンデルスゾーンの協奏曲ホ短調の終曲J三九〇〇を聴いて見るがいい。電気以前の心細い吹込みであり、かつピアノの伴奏で、その上一面に吹き込むために、小さいイントロダクションをカットしているが、その宏大な表現力と、火のような情熱に打たれない人はあるまい。
 これはしかし今となっては骨董レコードだ。一般人に勧めるわけではない。ただ私は、同じフランス十九世紀末の巨匠マッサールの門弟に、クライスラーとイザイエと二人を出したことを指摘して、この情緒的または主観的演奏に一脈の共通するものあることを知って貰えばそれでいいのである。
 二十世紀の大ヴァイオリニストたちをはぐくんだ十九世紀末の巨大な教授たちのうちには、ハイフェッツやジンバリストを育てたアウアーがあり、クベリック、コチアンなどを世に送った、セヴシックがあり、さらに、ブルメスターとフーベルマンを生んだ偉大なるヨアヒムがある。


ヨアヒム Joseph Joachim

 言うまでもなく、ヨアヒム(一八三一―一九〇七)は十九世紀後半の名ヴァイオリニストであるばかりでなく、ブラームスらの友人として、楽壇的に大きな足跡を遺し、その雄渾瑰麗かいれいな演奏は、HMV並びにドイツ・グラモフォンのレコードに、『ハンガリアン舞曲の第二番一枚を遺していることは、大方のファンたちの常識的に知っておられることであろう。(日本ビクターの白レーベル盤にプレスされている)
 このレコードは、おぼろげに大ヨアヒムのおもかげを偲ばせるに過ぎない極めて心細い録音であるが、ヨアヒムが残した二人の門弟のうち、わけてもフーベルマンのレコード界に印した足跡は極めて鮮かであった。


ブルメスター Willy Burmester

 ウィリー・ブルメスターが死んだ。言うまでもなく一時はイザイエ、クライスラーと並び称せられた世界の大提琴家で、一八六九年ハンブルグに生れたそうだから、まだ大して老い朽ちたと言うほどの歳でもなかった。まことに惜しい人である。
 このニュースを新聞で読んだ時、――ブルメスターを知っている総ての人がそうであるように――私が何より先に感じたのは、「とうとう二度目の日本訪問が実現されなかった」ことに対する淡い悲しみであった。
 ブルメスターが日本を訪ねたのは、大正十二年の春、大震災の半年ほど前――クライスラー、ゴドウスキー、ホルマン、パーローなどとほとんど同じ頃――で、日本の楽壇が最も多くの世界的名手を迎えた時であった。あの時のファンたちの有頂天さは、今日想像するような生優しいものではない。
 わけてもブルメスターは、ドイツ大使館の肝煎りで、大使館に音楽関係者を招待して紹介した上、帝劇を半分買い切るような騒ぎで演奏会を開いたが、予期に反した恐ろしい不入りで、クライスラーが連夜の満員で、帝劇の補助椅子まで不足になった騒ぎに比べると、全くお話にならないみじめな有様であった。
 当時、欧州大戦後間もなくのことで、自国のあらゆるものの宣伝に鋭意していたドイツの大使館が背景となり、その上名ピアニストのバルダスが伴奏を弾いてこの惨敗であったから、自尊心の高いブルメスターの憤激したのは無理のないことであった。(バルダスはそのまま日本に踏み留まって上野の教授となり、二、三年後帰国の途、イタリーの山中で自動車事故のため惨死した)
 その時ブルメスターは、
「日本という国は、ビクターの赤盤アーティストでなければ歓迎しない国らしい。自分もビクターの赤盤に吹き込んで、また出直して来るとしよう」
 と言ったと伝えられている。随分皮肉な言葉ではあるが、当時の音楽界の聴衆気質かたぎの一面を穿うがっていることは事実だ。
 ブルメスターの憤激にも、未曽有の不入りにもかかわらず、その時の演奏は実に見事なもので、心ある人たちは、非常に敬服していた。一部の間には、
「ブルメスターは決してクライスラーに劣るものではない」
 と極論する人があり、現に当時山田耕筰氏あたりが顧問で出版された世界提琴家画伝などいう本には、ブルメスターをイザイエの次、即ちクライスラーの上位に置いたものであった。
 とにかく、ブルメスターの手堅い、典雅な演奏は、相踵あいついで日本を訪ねたアウアー門下の提琴家たちの派手な華麗な演奏に飽き足らない人たちを喜ばせたことは一通りでなかった。
 ブルメスターはアメリカを経て帰国したが、その後すっかり楽壇を遠ざかって、故郷のハンブルグに人知れず死んで行くまで、さして華々しい演奏の評判を聞かなかった。特に最近の数年間は、ヴァイオリンに親しむような健康でなかったという噂を聞いたように記憶している。
 こうして、ブルメスターの日本再遊は実現されず、同時に、ビクター吹込みも永久に夢となってしまった。残るところの形見は、グラモフォンに吹き込んだたった四枚のレコードだけ(十二吋二枚、十吋二枚)、それも電気以前の大古レコードで、今では持っている人も何ほどもないことであろう。

 念のためにブルメスターのレコードを全部掲げてみる。
Air von J. S. Bach-Burmester     ┐
                   ├65296
Gavotte von J. S. Bach-Burmester   ┘
Sarabande H※(ダイエレシス付きA小文字)ndel-Burmester    ┐
                   ├65297
Andante Religioso Sinding-Burmester  ┘
Gavotte von J. ph. Rameau-Burmester  ┐
                   ├61890
Menuett von Dussek-Burmester     ┘
Arioso von H※(ダイエレシス付きA小文字)ndel-Burmester   ┐
                   ├61891
Menuett von H※(ダイエレシス付きA小文字)ndel-Burmester   ┘
 この吹込みは明瞭でないが、多分一九一〇年から三、四年の間であろう。昔の青ずんだ黒レーベルのドイツ・グラモフォンに四枚揃っている筈であるが、それを持っている人は、恐らく日本には幾人もあるまい。
 欧州戦後、犬じるしのドイツ・グラモフォンが国外輸出を禁じられた時、なんかの都合で、ほんの少しばかり入って来たことがある。青レーベルのシャリアピンなどと一緒に(その時入ったブルメスターのレコードは黒レーベル)、その犬の商標の上へ金色こんじきのムジカの半月形のレーベルを貼って、阿南あなん商会や、十字屋や、出羽屋にほんの少しばかりあったのを、昔のファンたちで記憶している人も少くはないだろう。
 当時のブルメスターのレコードなどは、ほとんど誰も顧みるものもない有様であったが、品がなくなると同時に、一部のファンたちが騒ぎ出して、六、七年前には古レコード屋を根気よく漁って歩いた人などもあったものだ。その関係か、ラモーの『ガヴォット』などでさえ、かなり高価に取引されたが、それもほんの一時で、この二、三年はまたごみ扱いを受けるようになっていたようである。
 ブルメスターが死んでもはや電気で入る見込みがなく、あの母型がドイツ・グラモフォン会社の倉庫深く隠されて再び陽の目を見る見込みもないとわかったら、ファンたちの蒐集熱はまた煽られることであろう。
 このレコードばかりは、いろいろむずかしい関係があって、多分再プレスは困難だろうと思う。「だからむやみに古レコードを捨てるものではない」という持論を、私はもう一度ここで繰り返しておく。

 四枚のうち、後の三枚は手に入りやすいが、バッハのアリア』は昔から品が少かった。私は幸い旧グラモフォンで手に入れたので持っているが、戦後の輸入の分には、これがなかったか、あるいは非常に少かったろうと思う。
 先の項に書いてある通り、これは『G線上のアリア』と同じく、バッハのニ調の組曲のアリアを編曲したものであるが、ブルメスター自身の編曲が特色で、普通ひかれる『G線上のアリア』とは、よほど趣の異なったものである。ブルメスターの端麗さと、手堅い美しさが、この一面に名残なく示されていると言う人もあるが、それほどではないにしても、テンポの遅い、充分情緒的な編曲も面白く、音の美しさも、旧式レコーディングを超越して人を魅するものがあるだろう。
 裏の『ガヴォット』はブルメスターの編曲ものでは、最も通俗になっている曲で、他の人の演奏で聴いていられることと思う。これも古雅な美しい曲で、ブルメスター自身の演奏はまたなく面白い。
 ヘンデルのサラバンド』、ジンディングのアンダンテ・レリジオソ』は大したことはない。以上二枚は十二インチだ。
 ラモーのガヴォット』は容易に手に入るのと、美しいので有名であった。この典麗な演奏は、原曲の美しいせいもあるだろうが、演奏の美しさもフーベルマンやフレッシュ以外には、比較を求むべきではない。これに比べると、クライスラーでさえ古典を弾いては、無用に甘過ぎると言われるだろう。裏のドゼックのミヌエット』もやさしく美しい。
 最後のヘンデルのアリオソ』は、例のカンタータで、この編曲は、少し簡素に過ぎるが、古朴な美しさは充分である。裏の『ミヌエット』も良い。
 以上はブルメスターの総遺産だ。この人は、ヨアヒム門下の最も偉大なる提琴家で、フーベルマンの大先輩であるが、その演奏は、アウアー門下のある人たちのようにいたずらに華麗でなく、セヴシック門下の一、二のように技巧に走ることなどは絶対になかった。一言にして尽せば、極めて端正で、荘重で、典麗で、最も代表的なドイツ臭い提琴家であったと言えるだろう。これに比べると、同門のフーベルマンはやや奔放で、マッサール門下のクライスラーとイザイエは、少しく艶麗過ぎるとも言えるだろう。
 ブルメスターは、少しくアカデミックでさえあった。彼はステージでも教室のようにひいたが、エルマンが非難したように、荒々しさは微塵もなかった。四枚のレコードを聴けば、それはよく解るだろう。
 とにかく、惜しい人である。新聞の訃報ふほうを読んだ日(二月二十五日)、四枚のレコードを聴いて、この稿を書いた。
後日註 ブルメスターのを聞いた当座で、この一項は少し褒め過ぎたかも知れないが、そのまま掲げておく。イザイエほど重要ではないが、注目に値する人ではある。


コチアン Jaroslav Kocian

 コチアンは一八八四年今のチェッコ(元のボヘミア)に生れた提琴家で、ヤン・クーベリックと同じくセヴシックの門に学んだ人、クーベリックよりは四つ歳下である。その演奏はクーベリック同様非常に華やかな技巧的なものではあったが、クーベリックほど業師わざしではなく、それよりは上品で、ヨーロッパ特に本国のチェッコではなかなか評判が良い。クーベリックが大半をアメリカで過し、有名なエンペラー・ストラディヴァリウスという銘器(時価二十万ドルと称される)を持っていたり、妻君が伯爵夫人であったりした関係で、ジャーナリスティックには非常に騒がれているが、演奏の点ではコチアンに左袒さたんする人も決して少くない。彼は一九二二年、即ち震災の前年にアメリカへ行く途中日本に立ち寄り、東京や横浜で数回演奏会を開いた。あまり評判にはならなかったけれど、心ある人は、クーベリックよりは良くはないかと考えた筈である。そこで一体この人のレコードがあるかどうかが、その頃かなり問題となったものだ。
 ところが震災後、今から十三、四年前のことだ、名曲堂がまだ神田の丸善の裏にあった時代(名曲堂の主人が私の名をまだ知らなかった時分だから随分古い話だ)、店の片隅に十銭均一の札のついたレコードが、二、三百枚積んであった。古いニッポノホンや何かまるでしようのないものばかりだったが、何気なくこの山をがさがさ掘り出しているうちに、アメリカ・コロムビアのごく初期、恐らく平円盤になって間もない黒地に銀文字で印刷したレーベルの盤が一枚目に止った。それが実にコチアンの Canzonetta(D'Ambrosio)(1423)だったのである。私は内心「一円でも買うぞ」と思いながら「これも十銭でいいのか」と冗談にいてみた。「ええ、十銭なんですよ」とまるで私が正札の字が読めないかのような調子で、番頭氏は言った。――
 その後、藤田氏などが古い目録カタログを調べているうちに、コチアンのレコードは片面三枚あることを発見したのである。彼は一九一〇年頃、あるいはもう少し前かに第一回のアメリカ訪問を行っているから、恐らくその頃に吹き込んだものかと想われる。それから私は何とかしてあとの二枚を欲しいと考えていたところ、『ディスク』の青木主幹が Elfin Dance(Spieo)を持っていたので、それをとうとう分捕ってしまった。勿論ごくごく古い吹込みだが、クーベリックに非常によく似た演奏振りをその貧しい録音から聴き取ることが出来る。私は年に一回か二回とり出して竹針でそっと聴くだけで、珍重に珍重しているが、折があって残る一枚を手に入れることが出来たらさぞ楽しかろうと思っている。今後この人がレコードに入れることは、まず期待出来なかろう。


クーベリック Jan Kubelik

 クーベリックが日本を訪ねた頃は、もはや衰退期に入ってからで、その演奏は、若かりし頃の華やかさを偲ぶ程度のものに過ぎなかった。
 今から二十年前のクーベリックは、全く鬼神のような大業師おおわざしで、その名声は欧米楽壇を圧し、レコードの方でも、イザイエと並んで、あるいはそれ以上の人気を保ったことさえあるが、単なる技巧家であっただけに、その衰えも早く、一方私的生活のことから楽壇的生命にまでもわざわいを及ぼして、この五、六年間は、ほとんど消息を断ってしまったようである。
 レコードは旧グラモフォンとビクターに十数枚、イタリーのレコードに数枚入っているが、取り立てて言うほどのことはない。片面物の『ツィゴイネルワイゼン』や、『ザパティアド』などが、クーベリックの技巧を偲ぶによかろう。これは幾度も入れ直しているが、最後のものはコロムビアの歴史的記念レコードにあるから、興味を持つ人は聴くもよかろう。しかし決して正統的な興味の対象になるものではない。
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ピアノ


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コルトー Alfred Cortot





 ピアニストのうちで、コルトーほど我々に親しみを感じさせる人はない。その演奏が適度にロマンティックで心に食い入る良さを持っているばかりでなく、我々長い間レコードをやっているものは、この二十年間、コルトーのために浮身をやつしたという思い出から来るなつかしさでもあろうかと思う。
 パデレフスキーを別格として、当代の現役的な大ピアニスト中、最もすぐれた人を選んだならば、十人の九人まで、シュナーベルとコルトーを挙げることであろう。ドイツ風の手堅い技巧に、ユダヤ人の鋭敏な芸術感を持つシュナーベルと、フランス風の、少しロマンティックで、そして新時代の空気にふさわしい趣味と叡知えいちを持って、典雅な線を感じさせるコルトーは、まことに面白い対照というべきである。
 今でこそ、コルトーは大家中の大家であり、ピアノ・レコード中、最も興味の深い優れた作品の提供者であるが、震災以前のコルトーは、僅かにビクター・カタログの一隅に出現したばかりで、その数枚のレコードも、ほんの好事家こうずかたちの、通な蒐集の目的たるに過ぎなかったものである。
 それにもかかわらず、コルトーの魅力は強大であった。そのショパンの一、二枚、リストの『第二ハンガリアン・ラプソディ』、それから、ラヴェルの『ジュ・ドオウ』などは、我らの蒐集の王座を飾ったもので、その鮮麗なタッチと、豊かにして聡明な情緒の処理は、我らの耳には全くユニークな感激をもたらしたものであった。
 当時、我らのあこがれは、一にも二にもコルトーであった。そのために判官贔屓ほうがんびいきに陥って、パデレフスキーを無視したり、ラフマニノフを憎んだりしたことさえあった。これらの大家たちは、コルトーと、あまりにも傾向が違っていたからである。コルトーのピアノの精練された趣味と、フランス風の鮮かな叡知に触れることは、我らの限りない喜びでもあった。同時に、コルトーの十数枚のレコードは、ピアノ音楽に対する我らの趣味を、どれだけ引き上げてくれたか解らない。当時の日本では、第一流のピアニストの演奏に接することなどは、全く夢のような望みであったからである。
 たどたどしいリストや、胸の悪くなるほど甘美なショパンや、呂律ろれつの廻らないシューマンに飽き飽きした我らが、コルトーの明皙めいせき鮮麗な演奏に接して、随喜し渇仰かつごうし、立ちどころにレコード万能主義者になったのもまたむを得ないことである。この意味において、コルトーが我らに教えたことは、どんなアーティストより大きく、その感化が厳然として抜くべからざるものがあった。今日の中年ファンに、コルトーでなければ夜も日も明けないのが、――少数ながら残っているのはそのためである。

 電気の直前に、ドビュッシーの『チルドレンス・コーナー』の入った時は、全く文字通り驚倒した。この演奏の見事さ、――ドビュッシーに対する理解の深さは、かつて我々の想像したあらゆる種類の演奏を、遙かに超えていたのである。この曲の一部分、例えば『ゴリウォークのケーキウォーク』などは、それ以前にもいろいろの人がレコードしているが、コルトーの演奏に比べると、あまりにも粗雑で、非芸術的でさえあった。
 我らのコルトーに対する期待は白熱した。一九二五年頃、世は電気レコード時代になると同時に、コルトーの名曲、大曲が、相次いで入って来た。
 第一番に入ったのは、ショパンの『二十四の前奏曲』(ビクター六七一五―八、名曲集二〇)であった。有名なレコード研究者の中村氏(NKM氏)がHMVの走りを輸入して、当時雑司ヶ谷に住んでいた私のところへ飛び込んで来たのは、昭和二年(一九二七年)の秋であったろう。二人は電気スタンドの下で、心耳しんじを澄まして聴いた。第一番のハ長調の前奏曲の、溌剌とした美しさが、完全に私どもを魅了してしまった。第二番の怪奇なイ短調の前奏曲では、もう息詰まらせていた。三番、四番、五番と進むにつれて、あるいは妖艶に、あるいは清楚に、あるいは豪快に、あるいは優美に、一擒一縦いちきんいちしょう、我らの心は曲とともに踊った。かつて、誰が一体こんなすばらしい前奏曲を表現し得たであろう――。
 第十五番の『雨垂れ』、あの単調で不気味な前奏曲に至って、私たちは全く胆を潰していた。コルトーの演奏は従来のショパン学者の解釈とは全く違った観点に立ったもので、コルトーに従えば、この曲の意味は、病児を護る母親の悩みであり、死の手に対する恐怖である――が、とにもかくにも、その単純にして劇的な、一種不思議な恐怖は、惻々そくそくとしてそびらに迫り、一面一曲を聴き了って、私は額に滲み出した冷たい汗を拭くばかりであった。こんなつまらぬ(?)小曲を、あんなに効果的に弾き得る魔術は一体なんであろう。
 大きな悲劇を終了した時のような、軽い疲労をさえ感じて、私と中村氏はただ顔を見合せるばかりだったのである。「これは驚いた」、「このエチュードのすぐれていることは解っているが、こんな演奏が出来るものとは思わなかった」、二人はそんなことを言うよりほかに、纏まった考えも浮ばなかったのである。
 コルトーは必ずしもテクニシアンではないと野村光一氏は言う。それは本当かも知れない。単純なテクニシアンに、ショパンやシューマンが、そんな具合に弾ける道理はないからである。コルトーの演奏はテクニック以上だ。このすばらしい表現は、優れた芸術家の全人格と、聡明さと、そして優れた気稟きひんとの賜物でなくてなんであろう。
 コルトーは新たなる驚異を齎したのである。私どものかつて聴いたショパンは、あまりにも脆弱で甘美であった。それは病的でなければ稚拙で粗笨そほんであった。しかしコルトーは違う。健康で優美で、線がくっきりと通って、時々豪壮でさえある。そのタッチは鮮麗だし、その旋律は言いようもなく美しい。理解と技巧と趣味と、三拍子揃った演奏でなければこれは望まれない。
 コルトーは若い時、指揮者として立つのが希望であった。十九世紀の末頃、当時世界を風靡したワグネリアンの運動に加わり、大志を抱いてドイツに遊んだことさえあったのである。コルトーが二十世紀の初頭ピアニストとしてより、むしろ指揮者として雄飛したことは、むしろ当然のことで、理論家として、幾種の音楽研究論文を発表しているのもまた偶然ではない。
 この経歴が、コルトーを偏狭なる一ピアニストとして満足せしめなかったのであろう。その見聞は広く、その抱懐は高い。フランス人の臭味を去り、偏狭を洗い落し、その見識の上に、その演奏の上に、明るさと自由さを、そして何より聡明さを添えたのは、コルトーの青年時代の修業の賜物であったと見るべきである。
『二十四の前奏曲』と前後して、ショパンの『譚詩曲バラード=ト短調』やウェーバーの『舞蹈への勧誘』やリストの『ハンガリー狂詩曲第二番』が出た。ショパンの『揺籃歌ようらんか』や『円舞曲=嬰ハ短調』もその頃であるが、いずれも恐るべき吹込みで、今日のレコードに比較すべくもない。しかし、その演奏にはコルトーの黄金時代の若さが、得も言われず匂っているのをなつかしむ人も少くあるまい。
 続いて入ったのは、ドビュッシーの『子供の領分チルドレンス・コーナー(ビクター七一四七―八)の入れ直しであった。この演奏の見事さは、『二十四の前奏曲』の時の驚きをまた新たにしたほどである。ドビュッシーをこれだけ美しく、これだけ上品に弾ける人は、当代ピアニスト多しといえども、断じてあり得ない。これこそ珠玉を並べて弾ずる天女の音楽にたとえてもいい。ドビュッシーのピアノ音楽の美しさは、コルトーの演奏によって満喫させられると言っても差支えはない。寒々と身に沁む雪片せっぺんの踊り、おどけたようなゴリウォークの踊り、すべてが詩であり、活きた絵画であった。

 その後のコルトーの飛躍は世にも目ざましいものであった。ことごとくのレコードが、ピアノ音楽好きを夢中にさせるに充分であったと言ってもいい。その中で最も優れたものを、挙げて見るとしよう。(コルトーのレコードは全部ビクターから出ている)
 まずシューマンの作品からは、
交響的練習曲』(作品一三及び遺作)
七四九三名曲集一二二
謝肉祭』(作品九)
JD七五一名曲集六一〇
ピアノ協奏曲イ短調』(作品五七[#「作品五七」はママ]
ロナルド指揮、倫敦フィルハーモニック管弦団
JD三四七五〇名曲集五三二
幼き日の思い出』(作品一五)
JD八四〇
クライスレリアーナ』(作品一六)
JD九五一名曲集六四五
胡蝶の舞』(作品二)
JE九七
 コルトーは青年時代の一部をドイツで過し、ドイツ音楽の研究に没頭したことは前にも書いた。コルトーのシューマンは、その頃の研究の賜物で、コルトー自身「若い時の仕込み」を誇ってもいるということであった。
 コルトーのレパートリーは、狭いのを以て有名だが、そのかわり、自分の十八番物に対しては、ぎりぎりのどん底まで突き詰めた研究をし、常に新しい生命を盛ることを心掛けているらしい。コルトーのシューマンが、そのショパン、フランク、ドビュッシーと共に、他の追随を許さざる境地を持っていることは、大方の知っている通りだ。
 コルトーのシューマンは、気むずかしいシューマンでも、気狂いじみたシューマンでもない。そのスタイルは明快で、その気分は常に明るい。多くのピアニストのような、シューマンをこね廻すことは、コルトーの気質や趣味が許さないのであろう。
『交響的練習曲』は厄介なむずかしい曲だ。レコードにもいろいろの人のが入っているが、結局こね廻して薄暗くして、――ちょうど下手な絵描きが、絵具をこね廻して、画面を真暗にするように――手のつけようのない面白くないものにする場合が多かった。が、コルトーは違う。このレコードは、相当古い吹込みではあるが、いわゆる小股の切れ上った、鮮麗なくせに、説明のよく届いた表現で、私の知っている限りでは、肩を並べるものもない出来である。
『ピアノ協奏曲』は、英国吹込みというハンディキャップを持っているにかかわらず、壮麗極まる演奏である。この曲の演奏におけるコルトーの頭のよさは、管弦楽との関係において、随所に指摘されるだろう。
『幼き日の思い出』はシューマンの全作品中でも愛すべきものである。この簡素な技巧と邪念のない趣味は、シューマンを憎む人でもほほえまずにはいられないだろう。レコードにはいろいろの人が入っているが、誰でも弾けるくせに、コルトーのを聴くと、ほかにうまいものは一つもないような気がしてしようがない。驚くべき童心の詩である。大人おとなが子役の声色を使うような、畸形的な作品は一つもない。清透明朗な、そのくせ含蓄の深い、物悲しいほどの美しさである。
『クライスレリアーナ』は『幼き日の思い出』に対照すれば、まさに大人の劇詩とも言うべき曲だろう。原曲は幾分皮肉で晦渋かいじゅうではあるが、コルトーの演奏は、征服的で世にも美しい。『胡蝶の舞』はシューマンの初期の作品で、面白いものではあるが、さして重要なレコードでない。
 右のうち、私は『謝肉祭』と『幼き日の思い出』を一般の人にすすめよう。『ピアノ協奏曲』と『交響的練習曲』は非常に優れたものだが、特別の興味に訴える点が少くない。以上四曲、いずれも吹込みは新しくないが、コルトーとしては代表的なものだ。
 ショパンのものでは、

二十四の前奏曲』(作品二八)
六七一五名曲集二〇
二十四の前奏曲』(作品二八)入れ直しの分
JD三八七九〇名曲集五四〇
バラード曲集
七三三三名曲集九四
練習曲』(作品一〇)
JD二九九三〇一名曲集五二四
練習曲』(作品二五)
JD四三一名曲集五四八
円舞曲
JD四三四名曲集五四九
ピアノ協奏曲第二番ヘ短調』(作品二一)
JD七九四名曲集六二〇
幻想曲ヘ短調』(作品四九)
JD三三〇
ピアノ奏鳴曲ロ短調』(作品五八)
DA一二〇九一二
ピアノ奏鳴曲変ロ短調』(作品三五)葬送ソナタ
JD三〇六
即興曲第一番変イ長調第二番嬰ヘ長調第三番変ト長調即興幻想曲嬰ハ短調
JD二六四
バルカロール嬰ヘ長調』(作品六〇)
JD五〇九
ポロネーズ変イ長調』(作品五三)
JD五五三
ヴァルス変イ調』(作品六九ノ一)
タランテラ』(作品四三)
DA一二一三
 ほかに前掲『円舞曲=嬰ハ短調』『揺籃歌』『バラード=ト短調』等が入っているが、これは電気の初期のもので、吹込みがいかにも古い。
『二十四の前奏曲』は二度レコードされた。その間約七、八年の距たりがあり、コルトーの演奏態度や、解釈の変化推移を窺うためには、極めて重要にして興味の深いレコードとされている。
 前に吹き込んだ『二十四の前奏曲』は、当然録音技術が幼稚で、そのレコード効果が甚だしく妨げられているが、コルトーがまだ五十歳そこそこの演奏で、若さと弾力と、そして覇気と芝居気との生々なまなましさが興味である。あの演奏だけを聴くと、コルトーのピアノは全く満点的である。これ以上は吹込技術を良くするより外に問題はあるまいと思われるほどだが、その後に入った同じ曲を聴くと、コルトーは華やかな表現を捨て、劇的な盛り上げを嫌って、甚だしく思索的に、苦渋の趣をさえ添えている。
 多くの人はあれを聴いて、「コルトー老いたり」と歎じた。それも一面の真理である。コルトーはこの時、六十歳近くなっていたのである。しかしコルトーともあろうものが、自分の老衰を意識しない筈もなく、それを意識しつつ、吹込料を稼ぐために、同じ曲を、見す見す下手に演奏して吹き込むものとは断じて思われない。演奏会の一回こっきりの演奏と違って、これは直ちに比較されるものである。比較しない方がよっぽどどうかしている演奏である。
 こう常識論を振り廻すまでもなく、コルトーが二度同じ曲をレコードする以上は、そこに何かたのむところがあり、前のものより後のものが、当然優れていなければならぬ筈ではないだろうか。
 が、議論はどうであろうと、多くの人たちは、素人のファンばかりでなく、専門的な音楽の批評家でさえ、しばしば前の吹込みの方に団扇うちわをあげるのはなんのためであろう。そのロマンティックな誇張、劇的な盛り上げ、そして、若々しい弾力、歯切れの良い技巧、そういったものの総計が、内面的に掘り下げて、やや苦渋の色濃くなった、後の『二十四の前奏曲』以上に興味と魅力を感じさせるのであろう。私はその両方に重要性を認めるが、一方だけどうしても捨てなければならないと決った場合は、恐らく古い吹込みの方を蒐集に残して、新しい方を割愛するだろう。
『バラード曲集』は七、八年前の吹込みではあるが、一枚物の『バラード=ト短調』よりは遙かに新しい。この演奏も代表的なもので、コルトーの手堅いテクニックと、その行き届かざるなき叡知が、四はりのゴブラン織の絵柄を見せるような荘重さである。しかし、もう少し待った方がいい、HMVにはさらに新しい『バラード』が吹き込まれ、ビクター会社は近くそれをプレスする運びになっている筈だから――。
『二組の練習曲』は、『二十四の前奏曲』に次いで重要なものであるが、総じて演奏は典雅で、革命エチュードも、木枯こがらしのエチュードも、情熱の飛躍といったほこりの立つものではない。コルトーはこの練習曲において、その最もたしなみのよきフランス紳士の姿を見せてくれるであろう。一曲一曲は、完璧的な技巧と、奥床しきたしなみで、申し分なく弾き揃えられている。
『円舞曲集』は珠玉篇の一つだ。この中に含まれた、後期のワルツの優雅な美しさは比類もない。初期の華麗なワルツの演奏者として、コルトーは必ずしも適任者でないが、のんびりと物悲しく弾いた嬰ハ短調のワルツのごときは、絶品的なものと言って差支えあるまい。誰にでも楽しめるレコードである。
『協奏曲』は多くのこの曲のレコードの中に毅然として王者の威容を示すものだ。
『幻想曲』はショパンの作品中のエヴェレストで、その演奏は極めて困難なものであり、実演でもレコードでも、私はかつて腑に落ちる表現に接したことがないが、コルトーのレコードを得て、多年の溜飲を下げたことだけは事実である。この演奏は、ほどの良いたしなみの深い演奏で、我らがこの曲に要求して止まない、夢と詩をふんだんに盛ったものである。
『ピアノ・ソナタ』は二曲とも入っている。ロ短調の方は、演奏の見事さでまさるが、変ニ短調の[#「変ニ短調の」はママ]方は、その有名な葬送行進曲で一般に訴えている。この葬送行進曲ソナタも、コルトーは電気以後二度吹き込んでいるが、この曲に限って、後のものの方が優れているようである。
 葬送行進曲ソナタはいろいろの人が入れているが、ド・パハマンの電気以前の一面物いちめんものを除けば、コルトーに及ぶものは一つもない。それは充分保証していいと思う。
『即興曲』も重要なレコードの一つだ、即興幻奏曲を極めて穏当に心静かに弾いて、少しも媚びさせないのも心憎いが、第一番の変イ長調の即興曲のしたたる情愛などは、これもパハマン以来比ぶるものもあるまい。
『バルカロール』以下の一枚物も、その一つ一つが典型的な美しさに恵まれている、ショパンはコルトーと頭から決めてかかっても、まず大した間違いはあるまいと思う。
 ここには掲げなかったが、ビクター愛好家協会の第四輯に採った『円舞曲=嬰ハ短調(作品六四の二)』、『夜想曲=変ホ長調(作品九の二)(RL三八)も、閑却は出来ないレコードである。この円舞曲をコルトーは電気になってから三回入れ直しているが、それぞれの興味があるにしても、最もロマンティックなこのレコードの味は格別である。単純な美しさは円舞曲集の方に団扇うちわをあげられるが、『夜想曲=変ホ長調』の傑作を併せているだけに、この方のレコードに強味があるかも知れない。
 この『ノクターン』はショパン学者の間には極めて評判のよくない曲だが、ノクターン中最も甘美で、最もノクターンらしい曲であることは大方の知られる通りだ。その演奏で最も優れたのとなると、私は相変らずコルトーを挙げなければならない。

 セザール・フランクは、
交響変奏曲』   ロナルド指揮
JD五二七
前奏曲コラールフーガ
七三三一
前奏曲詠唱調終曲
JD七七
ヴァイオリン・ソナタイ長調
(ヴァイオリン)ティボー
八一七五名曲集八一
 以上四曲、私は全部これを支持する。
『交響変奏曲』はフランクの作品中では不思議に華麗なものだ。コルトーはこれを二度吹き込み、今カタログにあるのはその新しい方のレコードだが、演奏の若々しさと、馥郁ふくいくたる香気は古い方の吹込みを推さなければならない。録音の良いのは、勿論新しい吹込みの方である。が、どういうものか、これは少し気が抜けているような気がしてならない。(古い方のHMV番号はDB一〇六九―七〇)
『前奏曲―コラール―フーガ』と『前奏曲―詠唱曲―終曲』の二曲は、神品と言っていい。私はこのレコードの前に甘んじて帽子を脱ぐ。しかしフランクの幽玄なむずかしさが、一般に訴えるかどうかは解らない。通俗さや妥協的な美しさは一つもないことを覚悟して聴くべきだ。演奏はやや古いが、前者の『前奏曲―コラール―フーガ』が完璧的だ。こんな内容的な美しさの滲み出る平明な技巧がすばらしい。
『ヴァイオリン・ソナタ』は電気の初期の方に近い吹込みだが、曲目演奏共に、コルトー・ティボーの組合せの第一位に置かるべき名品だ。このレコードについてはティボーの項に詳しく書いたが、私はヴァイオリン・ピアノ・ソナタで、これほど美しく神々こうごうしい曲を幾つも知らないばかりでなく、これほど見事な演奏も、五つとは数えることが出来ないと思う。録音の古さなどを度外して、誰のコレクションにも備えなければならぬものである。

 ドビュッシーはコルトーの独擅場どくせんじょうと言ってもいい。そのレコードは、
子供の領分組曲
七一四七
前奏曲第一輯
DA一二四〇DB一五九三
ヴァイオリン奏鳴曲
(ヴァイオリン)ティボー
JD五九六〇

『子供の領分』のことは前に書いた。これはコルトーの蒐集に欠くべからざるものであるが、もう一つ『前奏曲―第一輯』の良さは決してそれに劣るまいと思う。この六枚十二面のレコードは、ドビュッシーのピアノ曲の精粋を盛ったもので、一般向きの通俗さはないが、重要性と美しさにおいては、コルトーのレコード中にも首座を争うものと言ってよかろう。
 この演奏は、若きリアリストたちのような、冷たい素気そっけないものでなく、一篇の印象派の詩を読むような美しさに満ちたものだ。技巧の見事さは問題でないが、十九世紀以来のピアニストなるコルトーの新鮮な感受性と、その恵まれた感覚、叡知を褒めてやっていい。
『ヴァイオリン・ソナタ』はドビュッシーの代表作の一つとして、このすぐれた表現が長くスタンダードとなるものであろう。

 ほかに、重要なレコードだけを掲げると、
小奏鳴曲』『水の戯れ』(ラヴェル)
JD五七六
ピアノ協奏曲第四番』(サンサーンス)
JD九二一名曲集六三九
ピアノ奏鳴曲ロ短調』(リスト)
七三二五名曲集九三
クロイツェル・ソナタ』(ベートーヴェン)
(ヴァイオリン)ティボー
八一六六名曲集七二
室内協奏曲』(ヴィヴァルディ曲、バッハ、コルトー編)
アリア』(バッハ曲、コルトー編)
JD一一七六
荘重なる変奏曲』『無言歌第一番』(メンデルスゾーン)
JD一一九九二〇〇
水上を歩む聖フランシス』(リスト)
JD一二五〇
ハンガリー狂詩曲第二番』(リスト)
JD一二六四
 以上のうち吹込みの新しさを考慮に入れて、優れたレコードと言うべきは、サンサーンスの『ピアノ協奏曲』とリストの『水の上を歩む聖フランシス』であろう。しかしこの種外面的な技巧に重点を置いた曲を好まない人は、やや古くともラヴェルの『小奏鳴曲』の小意気な近代味に赴くべきである。その第四面目の『水の戯れ』は旧吹込み以来コルトーの十八番物で、絶品と言われてもいいものであろう。
 ヴィヴァルディの『室内協奏曲』も楽しきレコードの一つだろうし、再プレスではあるが、『ハンガリー狂詩曲第二番』も見事なものだ。このほかにもコルトーのレコードは一、二あったように記憶するが、さまではと省略する。

 ここで私は結論に到達した。コルトーの代表作を、このおびただしいレコードの中から選ぶのは非常にむずかしいことだが、以上述べ来たったところを参酌すれば、銘々の好むところを定めることが出来よう。二枚のコルトーで満足する人は愛好家協会のワルツノクターン』が一番良かろう。もう二枚という人にはシューマンの幼き日の思い出ショパンの即興曲』が、吹込みの新しさだけでも心丈夫だ。
 五枚という人は、思い切ってショパンの二十四の前奏曲シューマンの謝肉祭』を求めるがいい。ドビュッシーの子供の領分』は吹込みは古くとも自慢になるレコードであろう。少しくショパンを研究する人にはバラードの新盤とワルツ集』がある。もし近代楽に興味を持つならドビュッシーの前奏曲』は断じて逸してはいけない。フランクのソナタ』、ショーソンの協奏曲』もまた名盤として長く伝えられるものだろう。コルトーのリストも悪くないが、それよりはまず、ショパン、シューマン、ドビュッシー、フランクの代表作をあさるのが順当である。

小伝

 コルトーはジュネーブに近いニヨンで、一八七七年の九月に生れた。パリ音楽院を出て各所の演奏会に出演し、国内的な名声を得てからドイツに遊び、二十世紀早々指揮者としてフランスに帰り、後ソシエテ・デ・コンセール・コルトーを設立した。その後パリ音楽院のピアノ科教授となり、世界における最高のピアニストとして今日に至った。カサルス・トリオを組織したのは一九一〇年、そのレコードについては、室内楽の項に詳述する。
 コルトーのドビュッシー、ショパンなどの楽曲研究は極めて有名なものであり、そのノートは世界のピアニストたちの規範となっている。
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パデレフスキー Ignaz Jan Paderewski





 パデレフスキーは、過去三十年間ピアノの王座に儼然として貧乏揺ぎもしない。なんと言っても七十九歳(昭和十四年現在)の老躯だ。その演奏にはいろいろと疑義を持たれるが、パデレフスキーより技巧的には遙かにうまいと思われる若きピアニストが五人や七人はあるにしても、まだパデレフスキーの王座を覬覦きゆするものは一人もあり得ない。
 パデレフスキーの演奏は、全く手前勝手なものだ。この人の黒鍵ブラック・キイエチュードが、長大な交響楽詩シンフォニックポエムのような壮観を持つのを聴いて、私の知っている若いピアニストは、「私たちがこんなに弾くと先生に叱られる」と言ったものだ。先生に叱られるどころの沙汰ではない。学生がもしこの真似でもしようものなら、落第することだけは牡丹餅ぼたもち大の判こをして保証してもいい。
 パデレフスキーは、すべての楽曲を――古典でも近代楽でも、自分のものにしきってしまわなければ演奏しない人だ。その性癖は、かなり初期のレコードにも現われているが、大戦後ことに甚だしく、電気吹込み以後は、ほとんどパデレフスキー編曲と言いたい演奏さえある。その演奏効果は、実に燦然たるものであるが、原曲に忠実な演奏を目標とする人たちから見れば、テンポも表情も変えられ、縦横無尽のパデレフスキー色が、全く原曲と違ったものにしていることさえ少くないのである。
 その上、パデレフスキーの表現には、覆うべからざる老人的なゆがみがある。時々その演奏はブロークンでさえあるように考えられることがある。一曲一曲を指摘するまでもない。それにもかかわらず、パデレフスキーの演奏には、躍動する生命の輝きがある。パデレフスキーにおける場合は、演奏もまた、原曲と並ぶ――あるいは対立する一つの大芸術であったのである。
 パデレフスキーの実演は、レコードでも想像されない見事さだということである。その銀白の髪に照明を浴びて、ピアノという楽器を御して行く姿は、神話の国の巨人のように、神聖なものさえ感じさせると言われている。パデレフスキーは、ステージにっただけでも、幾千の聴衆を魅了し尽すそうだ。わけても英雄崇拝的な気分をふんだんに持つ婦人客の陶酔は、想像以上のものがあるらしい。
 演奏は一つの創造であることは疑いもないが、パデレフスキーの場合は、それは極めて強調されて、聴衆にショパンもシューマンも忘れさせるほどの燃焼的な空気をかもすのであろう。何人なんぴとも、いかなる演奏家も、パデレフスキーほど人の心を掴み得なかった。シャリアピンもクライスラーも、その点、パデレフスキーとは四つに組むことが出来ない。
 この魅力は一体何に由来するか。七十歳を越したパデレフスキーには、もはやテクニックに見るべきものもなく、その演奏には頽然たいぜんたる趣さえあるのである。それにもかかわらず、老来ますます魅力を発揮し、世界の子女こぞってパデレフスキーを見ることを以て誇りとするのは、彼がかつて波蘭ポーランドの大統領であったといったような、そんな簡単な理由ではあるまいと思う。
 野村光一氏はこれを「偉大なる音楽家」であると言っている。そして純粋な感情主義者で、病的な状態に到達していると言われている[#「言われている」は底本では「言われてゐる」]。私はこの意見に対して全面的に賛成するが、ほんの少しばかりの但書を加えておきたいと思う。それは、感情的であり病的であるにしても、パデレフスキーの偉大さに変りはないということである。パデレフスキーの演奏は、芸術的興奮のために、常識的な考え方からすれば、甚だしくゆがめられることがあるにしても、それはパデレフスキーのごとき芸術観から来る場合は、ある程度までは許されていいと言いたいのである。ましてその表現が燦然さんぜんとして一大芸術である場合――パデレフスキーのように大きな人格や識見と融合する場合――、音楽学生の歪められた演奏と同日を以て語ることは出来ない。
 眼をつぶってパデレフスキーの演奏したレコードを聴いて見るがいい。その傍若無人な表現力と、盛り上って行く劇的な情熱は、かつて何人なんぴとも企て得なかったところで、散々の姿に原曲を突き崩しながら、新しい芸術境を築いて行くことを堪能せずにはいられないだろう。

 パデレフスキーのレコードは、ビクターの赤盤と共に我々は知ったが、HMVの第二カタログによれば、一九一一年の吹込みが一番古いものである。曲目は彼自身の『メヌエット』、ショパンの『ワルツ=嬰ハ短調』、『ポロネーズ(作品四〇の一)』の三面だ。
 電気以前のパデレフスキー――コルトー出現以前のパデレフスキーは、全く魅力そのものであった。欧州戦当時パデレフスキーのレコードは、ビクターで数枚日本に渡来したに過ぎないが、「パデレフスキーのレコードをかけると、家の前に人立ちがするよ」――私の友達の一人が、そんなことを言っているほど珍しがられたものだ。
 その頃のパデレフスキーには、感情主義者としての芽生えがあったにしても、まだ老人的な歪みがなく、演奏は明朗鮮明で、情緒豊かなくせに水際立ったものであった。でも、時々解釈の自由な態度に、音楽学生を面食わせはしたが、お稽古レコードとして、決して不安を感ずるようなものでなかったことは事実である。
 私はパデレフスキーのレコードを電気以前二十七、八面、電気以後のは全部持っているが、自作の『メヌエット』などは四回ぐらい入れ直しており、ほかにも二回、三回とレコードしたものが、少くとも五、六曲はある。演奏は古いものほど良く、録音は新しいものほど良いのは、多くの老大家たちと同じことだ。自作の『メヌエット』にしても、ショパンの『ワルツ』にしても、一番最初の吹込みは、音は弱少であっても、美しさは後のものと比べられない。
 若かりし頃のパデレフスキーは、全く驚くべきピアニストであった。その鮮麗な惚れ惚れするような演奏は、若かりし日のクライスラー以上であったかも知れない。録音の悪いのさえ気にしなければ、あれだけの美しいショパンは、当時パハマン以外に弾く人はなかったであろうし、あれだけのシューマンや、あれだけのリストは、後にコルトーが現われるまでは、追従する人のなかったことは事実である。
『ワルツ=嬰ハ短調』、『ノクターン=変ホ長調』、『エチュード=冬の風』に示されたショパンへの同情、『ハンガリアン・ラプソディ第二番』のリストの征服、『高翔アウフシュブンク』のシューマンの解釈など、当時にあっては、驚嘆以外の何ものでもなかった。わけても『高翔アウフシュブンク』の見事さは、後のレコードの誰のを持って来ても歯が立たない。
 しかしこれらはことごとく電気以前の骨董レコードで、今では誰もの手に入るものではない。

 欧州大戦当時のパデレフスキーの活躍は見事であった。彼は祖国ポーランドの銃後の後援にあらゆる努力と私財を捧げて惜しまなかった。傷病兵にも、寡婦にも、孤児の上にも彼の手は伸べられた。アメリカにおける荘園一つだけを残して、ほとんど全部を捧げ尽したという噂は、決して誇張されたものではなかったであろう。
 戦争終結後、パデレフスキーは選ばれて波蘭ポーランド代表となり、ヴェルサイユの媾和こうわ会議に出席して、樽爼そんそ折衝を重ね、遂に波蘭ポーランドは百年の桎梏しっこくを免れて、光輝ある再建国となったことは、大方の知られる通りだ。波蘭ポーランド独立後、選ばれて初代の大統領となり、外務大臣を兼ねて、よく今日の波蘭ポーランドの繁栄を築くのもといとなったことも、また大方の知っておられる筈のことである。
 パデレフスキーは、ピアニストであると共に憂国の士であり、音楽家であると共に大政治家であった。これを、社会通念上の不良少年型や神経衰弱型の青白き音楽家に比べて、なんという違いであろう。
 大統領であり憂国の志士であることが、パデレフスキーが音楽家であることに、一点一画も加えるところがないと言うならば止めよう。が、すべての芸術は、その人格から発露する。人格のない人に、芸術はあり得ず、卑俗陋劣ろうれつな人間に、美しくも気高き芸術が生れる筈はない。
 そればかりではない。私の卑見を少しばかり言わして貰えるならば、人が音楽家である前に人間でなければならないのは、ちょうど我ら創作に従う者が、小説家であるよりも人間である方が正しいと同じ真理である。トルストイをして『クロイツェル・ソナタ』を書かしめた官能的な芸術に携る者は、何を措いてもまず、正しい人間でなければならない。音楽家であり小説家であるが故に、淫蕩遊惰な生活は断じて許さるべきではない。
 話はひどく脱線したが、一国の正しい文化や、大きな芸術は、世紀末的な思想の上に築いてはいけない。日本のような音楽の処女地にあっては、わけてもこの用意が必要であると思う。どんなに技巧がうまかったところで、不良青年型のアーティストの演奏には、その邪悪な心持が影響せずにいる筈はないのである。

 大戦後、パデレフスキーが再びピアノに還って来た時は、年齢のためと、長い間の政治生活のために、その演奏が「昔のようではない」と言われたことは事実であった。パデレフスキーの指は硬張こわばらないにしても、その思想はもう昔のパデレフスキーではなかった。パデレフスキーのレコードが、甚だしく変って来たのはその頃で、電気吹込みになる頃から、その傍若無人さは一段と強化されて行ったのである。実演のパデレフスキーは、それにもかかわらず満堂の聴衆を魅了し尽したということである。
 ところで、一般人には、パデレフスキーは、傍若無人で勝手で、むら気な演奏者のように思われているが、パデレフスキーの私生活を知る者の談を聞くと、パデレフスキーほど、克明で勉強家で規則正しい芸術家はあり得ないように伝えている。その一例を示せば、演奏旅行中のパデレフスキーは、船中から汽車の中にまで、愛用のスタインウェーを二台持ち込み、ほとんど毎日十二時間の猛練習を続けなければ承知しないそうだ。この一事、音楽学生たちには、まことによき教訓であると思う。

 パデレフスキーの電気レコードは、日本ビクターのカタログに載っているものだけで、十一枚二十二面、ほかにビクター愛好家協会の第一輯に自作の『メヌエット』、第三回に『月光曲』が二枚あり、総計十四枚にのぼっている。そのうち代表的な一、二枚を求めるとしたら、愛好家協会のメヌエット』を採るのが最も穏当な選択ではあるまいか。この曲はパデレフスキーの作曲中でも、極めて美しいもので、その燦然たる美しさは、古今のピアノ小曲中にも――通俗な意味でかなりすぐれたものである。電気以前に二通り、電気以後も二通りのレコードがあるが、愛好家協会のは最も新しく、鮮麗な録音はこの曲に一段の輝きを与えるだろう。
 続いて、ショパンのポロネーズ変ホ短調作品二六の二』が豪宕卓落ごうとうたくらくなうちに、パデレフスキーらしい感情と陶酔が人を惹き付ける。『華麗なる円舞曲作品一八』は女学校の運動会向きの曲ではあるが、パデレフスキーの芝居気しばいげの一面を知るには恰好だ。『夜想曲ノクターン変ホ長調作品九の二』もコルトーとは違った主情的な面白さを持つ。
『雨垂れのエチュード』は劇的ではあるがコルトーのほど面白くない。『トリスタンとイソルデ前奏曲』は最も新しいもので、パデレフスキー流の豪華な演奏だ。『練習曲=ハ短調(革命)』と『変ト長調(黒鍵)』は近頃のパデレフスキーの心境を知るためには一番面白い。ただし、演奏としては私は賛成しない。
 愛好会の『月光曲』三枚は、老ピアニスト最後の大飛躍だ。情報を信じ得べくば、これがパデレフスキーの形見になるかも知れない。テクニックにも感情にも、さして破綻はなく、堂々たる演奏ではあるが、パデレフスキーの特殊な趣味はかなり横溢している。お稽古の足しにはならないが、巨匠の最後の作品としての貫禄は充分だ。老齢による一種の弛緩は已むを得ないとしても、この人に特有の盛り上げ方は、さすがに老巧練達な良さと、純情的な美しさがひらめく。尊敬すべきであると思う。

 パデレフスキーは一八六〇年ポーランドのクリコフカに生れた。十七、八歳、既に一流ピアニストとして知られ、その名声と尊敬を年ごとに加えて行った。作曲家としても傑出し、シンフォニー、オペラ、コンチェルトも知られているが、作品十四の一の『メヌエット』が最も通俗になっている。
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シュナーベル Arthur Schnabel





 シュナーベルのレコード吹込みは、長い間期待されていたが、この人の良心的な態度は、録音技術の幼稚なうちは、なんとしてもうんと言わせるところまでは、妥協してくれなかったらしい。
 蓄音機及びレコードが進歩したと言っても、実演に自信と誇りとを持つ人から言えば、美人がゆがんだ鏡に自分の顔を映すような気がするのだろう。それはまことにむを得ないことである。
 ところで、ここに端なくも、シュナーベルがレコード界に乗り出す動機がつくられることになった。それは言うまでもなくナチスのユダヤ人排撃で、ドイツを逐われたシュナーベルが、英国にその安住の地を見出すとほとんど同時に、HMVの提唱で、シュナーベルをレコード界に引き出す運動が起り、シュナーベル自身もまた、近来レコード技術の進歩が、以前のようなものでないことを認識して、ここに多年の懸案なる大シュナーベルのレコード吹込みが実現されたわけである。
 最初のレコードは、ベートーヴェンの『第五ピアノコンチェルト(皇帝)』であったことは、多くの人の記憶にまだ新たなところだ。我々はどんなにそれを待ち焦れ、どんな心持でそれを聴いたかは、大方の想像に任せよう。その指揮者が第二流人のサージェントであり、管弦楽はイギリスのものであったにもかかわらず、我々は感激と陶酔と讃歎の嵐を浴びせて、シュナーベルのレコードを愛撫してもまだ足らない心持だったのである。
 シュナーベルの演奏は、予想したことではあるが「健康そのものであった」と私は書いた。これほど端正に、これほど楽譜に忠実に弾いて、これほどすばらしい効果をあげ、これほど美しく聴かせることは、全く人間業を超越したことである。シュナーベルの演奏に文句を言える人があったら、それは音楽を知らない人だと言ってもいい――私はそんなことさえ考えたのである。「これは全くスタンダードだ」、しかも最良、最上のお手本にして、最も高い芸術境に入ったものだと言っても差支えのないものであった。
 シュナーベルの演奏は、決して美しさに溺れたり、自分の主観に歪められたりすることはない。力強くて端正で、堂々としていて、そのくせ「もののあわれ」を知った演奏である。こんなそつのない、心憎い演奏を私はかつて聴いたことも想像したこともない。気品があって、弾き崩しがなくて、原曲に忠実で、き活きとした美しさをかもし出す。私はシュナーベルの演奏を聴くと、王右軍の書とか、ミケランジェロの絵とか、――そういった神品的な芸術品を思い出さずにはいられない。
 世の中には技巧家というものがあるが、シュナーベルはその最上の技巧家と肩を並べて恐らくなんの遜色もない技巧の持主であろう。その癖シュナーベルの演奏には、少しの技巧も匂わず、正々堂々として王者の兵をやるような大威容しか感じさせない。
 ベートーヴェンの解釈、演奏家として、シュナーベル以上の人は当代あり得ないことは、私が改めて言うまでもあるまい。シュナーベルはモーツァルトもブラームスもシューマンも弾く、しかしシュナーベルの本当の良さは、ベートーヴェンをなんの歪みもなく、なんのこだわりもなく弾いて、その神性を把握する大手腕だ。従来我々が接して来た多くのベートーヴェン弾きというものは、シュナーベルに比べてなんという鬱陶しい存在であったことであろう。『ムーンライト・ソナタ』でお月様の出を強調したり、『アパショナタ・ソナタ』で、ピアノを叩き潰すような感情の大荒れを見せられたり、そんな馬鹿げた芝居気の演奏に我々は馴らされて来たのである。ベートーヴェンに対する毛ほどの嫌悪が我々のうちに培われたことがあるとしたならば、この厄介極まる芝居気に煩わされたためではなかったであろうか。
 シュナーベルのベートーヴェンは、我々が飽き飽きするほど聴かされたベートーヴェンとは、およそ見当の違ったものであった。シュナーベルはもとより冷たいリアリストではない。その演奏には、程よきロマンティシズムさえ匂うのであるが、ベートーヴェンの解釈者としては、馬鹿馬鹿しい既成観念を根柢から取り払い、常套主義のお芝居をすっかり封じてしまって、改めてベートーヴェンを見直し、新しいスタートにって、その音楽的純粋性を掴み出し、ベートーヴェンの本当の姿に触れようとしているかに見えるのである。
 センチメンタルな感激や、大袈裟な身振りを、ベートーヴェンはどんなに嫌がったことか、彼の伝記を読むものは、ことごとく知っていなければならぬ筈である。それにもかかわらず、過去百年間ベートーヴェンは道化芝居をさせられ続けて、その本来の姿をすっかり覆い尽されていたのではなかったか。
 シュナーベルのベートーヴェンに対する解釈は、決して気取った近代主義ではない。しかしベートーヴェンのピアノ曲の中から、本当の良きものをひっさげ来たって、我らに示してくれた点において、伝統主義のかびを払って、ベートーヴェンの真の良さ、美しさを示してくれた点において、まさに新しい時代を劃した人であると言っても差支えはあるまいと思う。
 続いて入った『第一及び第四ピアノ協奏曲』は、情意兼ね備わった演奏の最もよき手本であろう。わけても『第四協奏曲』の特質あるきくすべき情味が、泉のごとく湧きこぼれるのを、誰でも気が付かずにはいなかった筈である。五曲の協奏曲のレコードの番号を左に列記する。管弦楽は第一と第五がロンドン交響管弦楽団、第二と第三と第四はロンドン・フィルハーモニック、指揮者は全部サージェント、このサージェントの指揮はあまり評判の良いものでなかったが、シュナーベルが好んで指名したということだから、なんかの良さを持つものだろう。(シュナーベルのレコードは全部ビクターに入っている)
第一ピアノ協奏曲ハ長調』(ベートーヴェン・作品一五)
JD一七二一名曲集一五六
 この曲の第十面目に入れた『エリザのために』は、簡単な曲だが驚くべき美しい演奏だ。
第二ピアノ協奏曲変ロ長調』(作品一九)
JD六三九四二名曲集五八七
第三ピアノ協奏曲ハ短調』(作品三七)
JD一七四名曲集五一〇
第四ピアノ協奏曲ト長調』(作品五八)
JD一二四名曲集五〇六
第五ピアノ協奏曲変ホ長調皇帝)』(作品七三)
(再プレス番号、JD一三一九二三名曲集六九九
 以上の協奏曲は、適当な間隔を置いてレコードされた。そのうちで優れたのは、第五、第四、第一などであろう。が、それと前後して、シュナーベルは、レコード界空前の偉業を思い立ち、それはほとんど完成しかけているのである。
 その偉業は、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ・ソサイティ』であることは、改めて言うまでもあるまい。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ三十二曲は、ドイツあたりではしばしば連続演奏されるということであり、その全部のレコードは、予想されないことではなかったが、ベートーヴェン弾きの権威者、シュナーベルによって実現されたということは、なんという幸せであったろう。
 一輯に三曲ぐらいずつ収めたアルバムは、十二輯を以て完結し、日本プレスも、もはやその最後の一輯を残すのみとなっている。このレコードについて、一曲一曲紹介することは、もはや不可能でもあり、無意味でもある。一般愛好家並びに研究者たちは、シュナーベルの名に信頼して、これを鑑賞用なり、研究用なりに備えて、なんの不安もないだろう。
 四年前、第一輯が売り出された時、私はその中のベートーヴェン最後のピアノ・ソナタ(作品一一一番)を聴いた時ほどの感激は、滅多に経験したことのないほど尊いものであった。この曲のレコードは、シュナーベルが最初であるが、実演ではしばしば聴いている。しかしシュナーベルを聴くまでは、これほど森厳荘重なものであり、人間の手でかなでられる最も美しく尊いものであろうとは想像もしなかったのである。シュナーベルのこの曲の第二楽章に示した高度の理解と端正な表現は、この曲の精髄を把握して、我らに真のベートーヴェンの姿を示したかに見えるのである。何人なんぴとも、このやや散慢な感じさえするソナタのうちから、これほど高貴なものを抽き出し得ないであろう。それは驚くべき技術である。ほとんど作為も主観も強調せずに、ややアカデミックにさえ見える態度で、あれだけのすばらしい表現を遂げようとは、達人のわざと言っても差支えのないものであろう。
 私はベートーヴェンの講演をする時、大学の講堂でしばしばこのレコードを演奏した。そして、さして註解を加えることなしに、知識的な青年たちの感激を、白熱に導くことに成功している。ベートーヴェンの最後の小むずかしいピアノ・ソナタが、かくまで多くの素人の心を打とうとは、誰が一体想像したであろう。
 その他、簡素な『月光ムーンライト』、情熱的な『アパショナタ』、それから『ワルドシュタイン』の豪華な美しさも、『ハンマークラフィエル』以下の幽玄なあるいは清楚なソナタも、私の知る範囲内において、シュナーベル以上の人はあり得ない。シュナーベルと全く違った人はあるが、それは色合の問題で、程度の問題ではない。

 短日月の間に、シュナーベルはかなり多くのレコードを入れた。それを全部羅列するの無意味な労力を避けて、私はその中から、優れたもの四、五曲を選んで掲げようと思う。
 ベートーヴェンの五つの『ピアノ協奏曲』と、『ピアノ・ソナタ協会』十二冊のレコード以外では、第一番に、
ピアノ五重奏曲変ホ長調』(シューマン)
プロ・アルト四重奏団共演
JD六九一名曲集五九七
鱒の五重奏曲』(シューベルト)
オンヌー、ホブデー、プレヴォ、マース共演
JD七八六九〇名曲集六一九
ピアノ協奏曲変ロ長調』(ブラームス・作品八三)
JD八三〇名曲集六二四
 以上三曲を挙げなければなるまい。シューマンの五重奏曲に示した力強さと、『鱒の五重奏曲』に滲み出す情緒と、ブラームス『協奏曲』に匂う気品とは、比類を絶するものと言っても誇張ではあるまい。私はわけてもブラームスに、シュナーベルの練達と滋味とを見るような気がする。
 モーツァルトは二曲入っている。
ピアノ四重奏曲ト短調』(K四七八)
オンヌー、プレヴォ、マース共演
JD五九六名曲集五七八
ピアノ協奏曲ハ長調』(K四六七)
JD一一一〇名曲集六七〇
 美しくはあるが、老巧な演奏で、安心して聴けるものである。ほかに、その子カール・シュナーベルと演奏した、
ピアノ複協奏曲ハ長調』(バッハ)
JD一二八九九一名曲集六九三
 このレコードがある。カール・シュナーベルは、父アルトゥール・シュナーベルには及ばないが、少壮ピアニストの俊豪で、この取合せは興味の深いものだ。もう一つ最近のレコードにシューベルトの『ソナタ=イ長調(遺作)』(JD一〇八七―九一、名曲集六六七)がある。

 要するにシュナーベルのレコードは、最初にベートーヴェンのピアノ協奏曲』中第五、または望みによっては第五と第四とを備えることが必要である。それと共に、『ベートーヴェン・ソナタ協会』レコード、十二巻のアルバムは極めて重要であるが、予約売出しであったために、今から手に入れることは相当に困難であるかも知れない。
 続いて、さらにシュナーベルに興味を持つ人はブラームスの協奏曲シューベルトの鱒の五重奏曲』などを心掛くべきであろうか。

小伝

 シュナーベルは一八八二年オースタリーのリプニックで生れ、レシェティツキーに学んで今日の大を成した。ベルリン・フィルハーモニーの独奏者として、ホホシューレの教授として、久しくドイツ派ピアノの最高峰に立っていた巨匠である。ブラームス、モーツァルトの研究者としても有名であるが、ベートーヴェンのピアノにおける限りは、長い間当代第一の権威者として推されている。
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バックハウス Wilhelm Backhaus





 バックハウスは、私の好きなピアニストの一人だが、レコードの方は、コルトーやシュナーベルほど沢山提供されていない。
 バックハウスの良さは、誰でも言うように、技巧の良さである。同じ技巧でも、フリートマンや、レヴィツキーのような、少し気取りのある、ひねこびた技巧ではない。彼の技巧は古い形容詞を使って言えば、颯爽たるもので、水もたまらぬ切れ味である。バックハウスを指して「鍵盤上の獅子王」というのはまことにふさわしい。
 一流のピアニストは、それぞれ特色も魅力もあり、どれを聴いてもそつのないものにきまっているが、その中で本当に楽しめる演奏、胸のすく演奏、たまらない魅力を持った演奏は誰であろうか、――という問に対して、一通りあちらを見て来た人たちは、ほとんど異口同音に「それはバックハウスだ」という。筆者はこの問を幾人もの人に投じて、同じ答を得た経験がかなり沢山あり、その先入心のせいか、バックハウスという人に対しては、一種の親しみをさえ感じているのである。
 バックハウスの演奏は、本当に見事なものであるらしい。どんな屹崛峨々きっくつががたる難曲も、この人のプログラムに載ると、平夷坦々たる都大路みやこおおじの舗装道路にならずにはすまないと言われている。難曲を難曲らしく弾くことは大抵のピアニストに出来ることだが、難曲を難曲として聴かせず、なんの造作もなく弾き上げて、ただその曲の美しさを満喫させるのがバックハウスにだけ許される至芸である。
 難曲の征服者というものは、広い世界には随分沢山あるものだ。その人たちが、立派過ぎる技巧を持ちながら、一向冴えたことも出来ず、そのまま老い朽ちて行くのは、芸術家として天分が低いために、技巧倒れがして、ろくな効果を挙げることが出来ないためか、または、柄にもない大望を起し、技巧を殺して、苦渋怪異な演奏をするためではなかったであろうか。
 バックハウスにおける場合は、技巧を技巧として生かし、それを極度に発揮しながら、芸術家としての約束を素直に守っているところに、非常な良さがあるのである。バックハウスは決して単なるテクニシアンではない。その本質のうちには、芸術家としての豊かな天分があり、それがたまたま他の技巧家のごとく、歪められた我意とならずに、素直に純粋に成長して、演奏家としての最上の素地したじとなったものであろう。
 バックハウスは万能選手であるが故に、芸術家でないとは言えず、シェークスピアは百の性格を持つが故に、文芸家でないとは言えない。バックハウスのうちには、音楽家にありがちの頑固な主観がなく、その縦横無礙むげのテクニックと共に、芸術的高度の感受性と、それを素直に発表し得る自由な表現力が兼ね備わったのであろう。その意味において、当代まことに得難きピアニストであると言えると思う。
 バックハウスには難曲はない。その演奏に接すると、常勝将軍が兵をやるごとく、いささかの不安も、こだわりも、後腐れもない。大抵の技巧家の演奏は、技巧を思わせる性質のものだ。ベートーヴェンやショパンを感ずる前に、ピアニストの指を感じさせる場合の方が多いのに、バックハウスに至っては、鞍上あんじょう人なく鞍下あんか馬無しだ。我々は指もキーも忘れて、その描き出して行く曲に引き入れられる。これが本当の技巧家であり、本当のピアニストであると言ってもいい。
 例えば、ルービンシュタインやフリートマンは、たぐい稀な技巧家ではあるが、我々にその技巧を忘れさせる域にまで達することは出来ない。ケンプに至っては、常にその指を意識させ、その足を意識させた。ケンプはバックハウスとは対蹠たいせき的な非技巧家ではあるが、それに比べると、バックハウスの演奏は天衣無縫と言った趣で、なんの技巧も意識させることなしに、難曲中の難曲を、苦もなく征服している。これは、彼の指の速さばかりではない、演奏芸術家として、最高最良の天稟てんぴんを有するもので、バックハウスの尊さは、即ちそこにあると言うべきである。
 この技巧家バックハウスが、オイゲン・ダルベーアの弟子であるのは面白い。ダルベーアはザウアーと並んで二十世紀初頭以来、ドイツの国宝的なピアニストではあったが、その演奏はグラモフォンの古い録音に従えば、重厚素朴で、却ってケンプを思わせるものがある。実際の演奏はあるいはそうでなかったかも知れないが、両者のレコードを比較して、私たちレコードに興味を持つものに在っては極めて興味の深い問題である。

 バックハウスのレコードの入ったのは、かなり古いことである。二十数年前ドイツのグラモフォンに入った『木枯しのエチュード』などは、その覇気と技巧と、驚くべき粗悪な録音を超えて燦然として我らの胸を打ったものであった。ビクターの旧吹込時代には、リストの『愛の夢』とショパンの『幻想即興曲』とグリークの『諾威ノルウェー結婚行進曲』とハイドンの『愉快な鍛冶屋』が[#「ハイドンの『愉快な鍛冶屋』が」はママ]入っていた筈である。こんな旧時代のレコードのことを語るのは、甚だ時代にそぐわないようではあるが、名演奏家たちの若い時のレコードは、老年時代になってからのものよりは、録音技術を無視して尊いばかりでなく、今にしてこれを記録しておかなければ、我々は永久に忘れてしまう惧れがある。
 バックハウスの初期のものでは『木枯しのエチュード』と『愛の夢』を以て第一とするだろうが、今では手に入り難いレコードになってしまった。

 電気以後最初に入ったレコードも、このリストの『愛の夢』であった。驚くべき悪い録音ではあったが、『愛の夢』をあれほど巧みに弾いた人はない。日本ビクター会社はどういうつもりか廃盤にしてしまったが、この節のことだから、いずれ再プレスをする時期があるかも知れない。
 それにしても『愛の夢』を廃盤にさせたというのは、日本人がバックハウスを知らなさ過ぎたためではあるまいか。私一個の好みから言えば、パデレフスキーのレコードはみんな持っている必要はないが、コルトーとバックハウスだけは、みんなかき集めて、折々に聴きたいような気がする。

 今日のカタログに載っているバックハウスのうちで、一枚物と言うと、シューベルトの『楽興の時=ヘ短調、変ロ調[#「変ロ調」はママ](ビクター七一二〇)だけで、しかもこのレコードは決して新しくはない。良いレコードには相違ないが『鍵盤上の獅子王』の巨腕を偲ぶには少しく物足りない。
 組物となると、非常に沢山ある。しかもそれがことごとくいので厄介だが、参考のために、とにもかくにも一通り書いておくとしよう。(バックハウスのレコードは全部ビクターに入っている)
練習曲』(ショパン・作品二五及び作品一〇
六九七一名曲集四三
パガニーニの主題に拠る変奏曲』(ブラームス)
七四一九二〇
ピアノ協奏曲第五番皇帝)』(ベートーヴェン・作品七三)
六七一九二二名曲集二一
ピアノ協奏曲第四番ト長調』(ベートーヴェン・作品五八)
HMVDB一四二五
ピアノ協奏曲第一番ニ短調』(ブラームス・作品一五)
JD二〇九一三名曲集五一五
ピアノ協奏曲イ短調』(グリーク・作品一六)
JD二八七名曲集五二一
月光ソナタ嬰ハ短調』(ベートーヴェン・作品二七の二)
JD四八九九〇
告別ソナタ変ホ長調』(ベートーヴェン・作品八一の一)
前奏曲と遁走曲第二十二番変ロ短調』(バッハ)
JD六二二
ピアノ曲集』(ブラームス)
JD五四五五一名曲集五七一
幻想曲ハ長調』(シューマン・作品一七)
JD一一六二名曲集六七八

 以上のうちから、一曲を選ぶということは非常にむずかしい。私一個の好みを言えば、ブラームスの『ピアノ曲集』を採るが、それでは興味が片寄り過ぎると思う人は、世間並に『月光ムーンライトソナタ』を選ぶのも悪くないだろうと思う。
 ショパンの『練習曲』は非常な名演奏で、私は長い間これをコンサート用の標準レコードにしていたが、今ではなんと言っても吹込みの古さを蔽う由もない。作品二十五の練習曲は電気の初期の、今から十年以上前の吹込みで、作品十番の方は、それよりやや遅れて、五、六年前のものであった。
 作品二十五番の方のエチュードで、第一番の『変イ長調のエチュード』などは、電気の初期のコルトーも良かったが、バックハウスの颯爽味はまた格別であった。第十一番の『木枯し』や第十二番の『ハ短調のエチュード』など、当時の我らにはほとんど讃歎の的であった。が、それも一昔前のことで、今では録音の古さのために幻滅を感ずることであろう。作品十番のエチュード全曲が発売される前に、『革命エチュード』だけ入ったレコードがあった。HMVを盛んに取った頃、それはファンたちの自慢のレコードの一枚であったが、全曲が吹き込まれて、いつの間にやら忘れられてしまった。
 ブラームスの『パガニーニの主題に拠る変奏曲』は、恐らくバックハウスの最大傑作であるばかりでなく、この曲の模範的な演奏であろうと思う。この有名な難曲を、これほど楽々と弾くことは凡手の企て及ぶところでなく、その上バックハウスの演奏風格は、申し分なく高朗である。たった二枚のレコードだが、何人も讃歎を惜しんではいられないだろう。吹込みはやや古いが名盤としての値打ちを傷つけるほどではない。
 ベートーヴェンの『皇帝コンチェルト』はシュナーベルと絶好の取組である。シュナーベルにはバックハウスよりもっともらしさがあり、内容的なものがあるが、技巧の見事さと、纏まりの美しさにおいては、管弦楽の指揮者がしっかりしているだけに、バックハウスの方が安心して聴けるかもわからない。吹込みの古さを条件に入れて、私は今でもこの両者の優劣に迷っている。常識的にはシュナーベルの方を称すべきであり、人に訊ねられた時、そう答えるが、私の個人的な好みから言えば、一概にきめるほどの決心は持っていない。
『第四協奏曲』は出来の良いものだが、HMVにあって日本ビクターにはない。あのレコードについても、第五と同じことが言えるだろう。
 ブラームスの『第一協奏曲』は、グリークの『協奏曲』と共に、正統的な蒐集には必ず備えなければならぬものだ。(今は手許にないので、詳しいことは書けぬが)ベートーヴェンの二つのソナタは、シュナーベルと対比される。シュナーベルが組物で手に入れ難い人のために、バックハウスをすすめるのは順当なことであろう。このうち『月光ムーンライトソナタ』は、わけても優れたレコードである。『月光ソナタ』のレコードは、二十種を下らないだろうが、美しい技巧と、穏当な解釈とで演奏したのでは、シュナーベルを除けば、バックハウスを私は採りたい。ケンプの『月光ソナタ』などに比べると、平淡過ぎて少し食い足らないと言う人があるかも知れないが、それだけ技巧と趣味とが精練されたもので、誰にも飽きさせない演奏だろうと思う。
 ブラームスの『ピアノ曲集』はバックハウスの傑作中の傑作だ。かつてこのレコードをHMVで手に入れた私は、日本ビクターがプレスするまで、約二年の間、ほとんど飽くことを知らずに聴いていた。ブラームスのピアノ曲の持つ、古典的な重厚な風格が、バックハウスの柄にぴたりとするのかも知れないが、当代恐らくブラームスを弾いて、これだけの人のないことも事実であろうと思う。とにもかくにも、コルトーのショパン、シュナーベルのベートーヴェン、フィッシャーのバッハと共に、バックハウスのブラームスは最上級の讃辞を献じても間違いはないだろう。これだけ技巧の見事なブラームスを私はかつて聴いたこともないからだ。
 シューマンの『幻想曲』は最近日本でプレスされたものだ。バックハウスの冴えは極度に発揮される。

 バックハウスは一八八四年ライプチッヒに生れた。天才少年的な逸話はないが、一歩一歩のし上げて行って、三十歳前後から世界の大家の班に列し、ダルベーアの衣鉢をいだ第一流のヴァチュオーソである。
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ド・パハマン Vladimir de Pachmann





 ウラディミル・ド・パハマンが死んだ。
「――とうとう――」
 私はあのお申しわけばかりの雑報を読んだ時、思わず新聞をほうり出してしまった。
 このとうとうにはいろいろの意味がある。――とうとうパハマンの実演を聴く機会を持たなかった歎声もあるが、それよりも、レコード・ファンの一員として、パハマンに、ショパンの『ノクターン』なり、『プレリュード』なり、『ポロネーズ』なりを纏めてレコードして貰えなかった口惜くやしさの方が遙かに大きい。
 いや、『プレリュード』や『ノクターン』ばかりでなく、出来ることなら、ショパンの全作品を電気でレコードしておいて貰いたかったのである。ショパンの全作品の中には、もとより傑作ばかりではない。(ショパン学者に言わせるとことごとく珠玉の名曲ばかりのようだが、実際傑作と称すべきものは、そんなに沢山あるものではない)が、それにしても、パハマンの演奏になるショパンの全作品をレコードで所有することは、決して無意味なことではないと思う。
 もっとも、パハマンも晩年は甚だよくなかった。電気になってからは概してよくないが(それでも二、三の佳作はある)、電気以前のパハマンは、驚くべき粗悪なレコーディングを超越して、なかなかに美しいのがある。ビクターやコロムビアの電気以前のパハマンは、一九一〇年から一四年の間に吹き込んだもので、パハマン六十歳台――あの不思議な老ピアニストが、盛んに活躍した時代の形見であったせいもあるであろう。雑音だらけの中からパハマンの魔術を聴くことは、必ずしも困難ではないと思う。

 大田黒おおたぐろ氏の書いた『影絵』の中のパハマンの項を読むと、レコードはパハマンのおもかげを伝えていないと言っている、恐らくそうであろう。この書の出版は大正十四年で、大田黒氏がこれを書いたのは、震災以前であった筈だから、パハマンの実演を聴いた人が電気以前のレコードに失望したのはむしろ当然のことである。
 歌い手以外のアーティストなら、同じことが誰にでも言える、いや歌の場合でさえも電気以前のゲルハルトなどは、俤もないと言われたものだ。ましてピアノの旧レコードが、実際の百分の一の美しさも伝えないと言われても恐らく嘘はないだろう。久野久子くのひさこ女史や、バルダス教授のピアノ・レコードを引合いに出すまでもなく、コルトーやバックハウスの電気以前のレコードでも解ることだ。
 しかし、電気になってから後のパハマンはあまりに歳を取り過ぎた。この点はパデレフスキーも同様で、レコーディングは悪くても、却って、電気以前の方が魅力があると言われている。パハマンのような、テクニックよりもある種の雰囲気を作り出すアーティストは、電気以前のレコードで正しい俤を掴むことは、もとより望みのないことであるが、年齢に破壊された美しさを差引くと、果していずれが孰れか疑いなきを得ない。私はこの意味において大田黒氏が何と言おうと、パハマンの古いレコードに電気以後のレコード同様の重要性を認めるものである。
 話は余事にわたるが、私はもう一度神田の古レコード屋あさりを始めようと思っている。時間がないので果し兼ねているが、近頃、電気以前のレコードの相場はあまりに法外だ。オーケストラや室内楽にはもはや生命のないのは判り切っているが、歌のレコードのある物や、今は世になき人の形見のレコードや、老いたる巨匠の若かりし頃のレコードには、充分の意義もあり値打ちもある。電気で入ったところで、――いかにレコーディングだけはすばらしくなったところで下手へたはやはり下手だ。レコーディングの古さのハンディキャップがあるにしても、十九世紀から遺された巨匠たちの晩年のレコードには、実にすばらしいものがある。それを味わうほどの雅量と想像力がなかったら、レコード道楽などは止すことだ。レコードはどんなによく入っても実演にまさる道理はない。コレクション全部を市の道路局にでも寄付して、日比谷の公会堂へ行くがいい。彼処あすこでは音楽の刺身がふんだんに聴かれる。
 もう一つ余事にわたることを許して貰えるならば、私は、電気以前のヴァイオリンと歌のレコードを根気よく集めている仙石せんごく氏に敬意を表している。近頃の人はあまりに浮気過ぎる。電気の新しいレコーディングでさえあればなんでも良いように思うのは、なんという浅ましさであろう。ピアノにしても、ヴァイオリンにしても、歌にしても、十九世紀から遺された巨匠たちに及ぶ人は、その後たった一人も出ていないではないか。
 大分脱線したが、私はパハマンの電気以前のレコードが、決して軽蔑すべきものでないことを語るつもりであった。

 パハマンはショパンの演奏者として、恐らく歴史に残る巨人であろう。彼のショパンにおける青白い雰囲気と病的な美しさは、全く想像以上のものであったらしい。
 ショパンはピアノの詩人であったように、パハマンはピアノの魔術師であった。どちらも、その思想において技巧において、決して正統的でなかったところに一脈の相通ずるものがあったのであろう。
 パハマンのショパン演奏に関するいろいろの物語や批評は、大田黒氏の書いたものに尽きている。パハマンはベートーヴェンを弾く人ではなく、コンチェルトのような、ピアノの機能の発揮のために書いた曲には全く不向きであったが、その「不健康な蒼ざめた美しさ」が、ショパンの小曲に臨むと燦然として宝玉のごとく輝いた。
 それは、美しいタッチであったということだ。しかし、パハマンの魔術は、タッチだけの問題ではない。彼の描き出す陰影の美しさは、指の下の奇蹟とも言うにしては、あまりに偉力があり過ぎた。パハマンは恐らくショパンを通して、一種の空気を作り、聴衆を蒼白い興奮に導く魔術を知っていたらしい。
 パハマンの演奏したショパンの『葬送行進曲』のレコードには、不吉な美しさがある。あのレコードをかけると、なんか変ったことがある――とある人は言った。私は現にそれを小説に書いたことさえあるが、全くあの『葬送行進曲』は奇蹟的に美しい。
 電気以前の大古レコードではあるが、同じ曲をあれだけ美しく(不吉な美しさで)弾いているのがあるだろうか。コルトーの電気はやや及ぶだろうが、ゴドフスキーも断じて及ばない。ラフマニノフのごときは『劇場の葬送行進曲』だ。あのパハマンのたった一面のレコードを世界に保存しておくためには、私は百枚のピアノ・レコードを葬ってもいいと思う。
 それはすすり泣く美しさだ。諦め兼ねた美しさだ。ひつぎを包む花束の揺れるのを、涙一杯溜めた眼で見つめながら尊い讃美歌を聴いている美しさだ。あんな深い悲しみ、あんな悲歎に彩られた美しさというものがほかにあるだろうか。

 パハマンのレコードで変っているのは、昔のビクターとHMVに入っている(青のカタログに)『革命エチュード』だ。面白いことにビクターの昔のカタログを見ると、
Etude, op. 10, No. 12(Arr. for left hand alone in C Minor by Godowsky)
となっているが、HMV(第二のカタログの歴史的レコード)の方には、
Etude, E Minor ― op. 10, No. 12
となっている。私は後者を持っているが、レーベルを無視し、ハ短調で弾いているのは事実で、同時に、絶対に両手で弾いていることも事実だ。ビクターの古いレコードが、左手云々とレーベルに書いてあるのも事実だが、これはレーベルを見ただけで、聴いたことがないから、本当に左手だけで弾いているかどうか判然しない。ビクターの古いレコードと歴史的レコードとは、多分同じものだろうと思うが、そうするとどちらもレーベルが違っているわけだ。これは後の人の考証にちたい。(こんなつまらないことでも研究しようという人があれば幸せだ)
 久邇宮家のコレクションの中には、ビクターの絶版レコード、即ち白レーベルものが交っていたように記憶する。これにもやはり左手云々の但書がタイプライターで叩いてあった筈だ。
 こんな詮索はつまらぬと言う人があるかも知れぬが、疑いを疑いのままにしておくことや、疑うことをさえ知らないのはなお悪いと思う。

 コロムビアのニュープロセス以前のレコード、即ち浅い水色のレーベル時代のパハマンは、レコードがいかにもひどかったので、私も手を出す勇気がなかった。パハマンが死んでから、あわてて、ニュープロセス後の電気以前のコロムビアを、三枚も求めたのはこのためであった。
 しかし、あの中には、ビクターの電気以前にもない美しいレコードがある。『夜曲=変ホ長調(作品九の二)』などはその例だ。この夜曲の不思議な美しさは、二十年後コルトーの電気が現われるまで、匹敵するレコードは断じてなかった。
 ビクターだけにしかないものでは、先の『葬送行進曲』を第一に、続いて、『雨垂あまだれのプレリュード』、『バラード(作品四七)』、『夜曲=ヘ長調(作品一五)』などであろう。『雨垂れのプレリュード』は、これもレコーディングの悪さを超越した見事なもので、簡素な技巧のうちに、そびらに鬼気の迫るものを感じさせるのは、後のコルトーの電気と比較して、吹込みが古いだけに、パハマンの方に同情を持たせるものがあるだろう。何分古いレコーディングでほとんど低音部の美しさが出ないために、非常な損をしていることは言うまでもないが、それにもかかわらず、パデレフスキーはじめ、いろいろの人の入れたこの曲のレコードに比べては、断然優れた芸術品であると言ってよかろう。
『バラード』は非常にテンポの速い、パハマン一流の無造作なものであるが、これにも非常な美しさの滲み出すのを感ずるだろう。作品十五の『夜曲』だけは、パデレフスキーの早い頃入れたレコードの方が美しいが、パハマンにはまたパハマンの境地がある。パデレフスキーのように、末段を劇的に演奏し過ぎることなしに惻々そくそくとして人に迫る雰囲気をかもしている。
 ビクターとコロムビアとHMVと、共通に入ったものはかなり沢山ある。その一つ一つについて言うのは、煩雑でもあり、かつ、時間も、行数も許されないことで、ここでは、極めて概念的な話に止めておこうと思う。
 プレリュードは全部で三つ入っているが、『雨垂れ』を除くと、あとは作品二十八の二十三番目のと、最後の二十四番目のだ。二十三番目のヘ長調の短いプレリュードも申し分なく美しいが、ファンたちの間に、昔から知られているのは、二十四番目の『ニ長調のプレリュード[#「ニ長調のプレリュード」はママ]』、即ち『革命エチュード』と並び称せられるあの情熱的なプレリュードであった。その中には伝説的なショパンの祖国愛と、憤激とが燃えている。とにもかくにも、凄まじい効果をパハマンは挙げている。僅かに後のコルトーが匹敵するばかりだ。
『即興曲=変イ長調』も二通り入っているが、あれはパハマンの夢見るような美しさを代表しているだろう。
黒鍵こくけんのエチュード』も、ブゾーニ以外には、こんなに美しく弾いた人がない。パハマンの有名なタッチの美しさを代表するだろう。言い落したが、作品二十五の三の『エチュード』は、コロムビアへだけでも二通り入っている。パハマンらしい暢気のんきさだ。出来はさしたるものでない。
『リゴレットのパラフレーズ』は馬鹿な曲だと思うが、パハマンは好んで弾いたようで、ビクターにもコロムビアにもある。大田黒氏は実演を聴いたことを書いているが、レコードでも相当美しい。メンデルスゾーンの『無言歌』も悪くない。シューマンのものは二つばかり弾いているが、大したことはないと思う。

 パハマンが電気で入ったのは、大分古いことで、最初は二枚ばかり、続いて一年ばかりの間に六枚入って、最後に三年ばかり前、十インチが一枚入ったきり、全部で七枚が総遺産である。
 いずれも、パハマン八十歳以上の演奏で、決して出来の良いものではないが、それにしても、凡庸ピアニストには真似の出来ない美しさがある。
 電気のパハマンのレコードは全く弾力を失った演奏で、リズムもこわれていることは事実だが、しかし、それにもかかわらず、いたずらにテクニックの端正を望むような、乾燥無味な、アカデミックな演奏とは、日を同じゅうして語ることの出来ない尊いものがある。
 あらゆる年齢の障害のうちにも、パハマンのピアノには、何がなし蒼白あおじろい情熱があり、夢の国の魔術があるのだ。パハマンはどんなに歳をとっても、自動ピアノのように正しく弾く人を軽蔑させるだけの美しさを持っていたのである。
 最初パハマンの電気吹込みレコードを聴いた時、私は、あの『夜曲=ロ長調(作品三二の一)』の中に入っているパハマンのひとり言に驚かされた。全くあのレコードを聴いた時ほどびっくりしたことはない。パハマンはピアノを演奏しながら、いきなり物を言い出したのだ。
 いろいろ書いたものでは、パハマンは演奏しながら物を言うと読んでいるが、とうとうそれがレコードに入ってしまったのだ。演奏としては、勿論けしからぬものだが、パハマンの個性をはっきり見せてくれた点において、あの口上入りのレコード(DB八五九)は全く愉快でもあり貴重でもある。
 その後十吋の『ワルツ=変ニ長調(作品六四の一)』のレコード(DA七六一)では、とうとう演奏を始める前に滔々とうとうと口上を述べてしまった。――ほかにも一枚小さい声でつぶやくのが入っている筈だが、今は記憶しない。
 万歳ッ、とうとうパハマンの文句入りのレコードが出現した。ピアノレコードとしては勿論邪道であるが、大演奏家の奇癖を後の世に伝える意味で、このレコードはなかなか面白い。
 演奏もこの二枚は悪くない方だ。その後出たものでは『ワルツ=嬰ハ短調』(DA八六〇)が面白い。十二インチ片面の半分で片づけたもので、耳にも止らぬテンポの速さだが、思い入れ沢山に、芝居味をたっぷりに弾いたこの曲には想像も出来ない美しさがある。ラフマニノフのこの曲などは、パハマンに比べると、芝居気が入り過ぎて不愉快でさえある。パハマンの演奏は、陽炎かげろうのように舞う五彩ごさいまぼろしの美しさだ。決してレヴューの舞台で見るワルツではない。
『ポロネーズ(作品二六の一)(DB九三一)も、貴重な美しさを保っている点で、パハマンの後期のものとしては敬服すべきだ。『マズルカ二曲(作品五〇の二、及び作品二四の四)』なども、近頃コロムビアやビクターから出た『マズルカ集』なども、これに比べると教壇のマズルカという感じがするだろう。パハマンの魔術は、老いの征服の下から、あやしくも美しい感傷を作り出す。
 その次に売り出されたのは『夜曲=ホ短調(作品七二)』と『マズルカ二曲(作品六三の三、及び六七の四)(DB一一〇六)で、これはさしたる出来でないと言っても、マズルカはやはり美しい。『ノクターン』も独自の夢の国を描くには充分な美しさだ。
 最後に出たのは、ドイツで入った十インチで、これは昨年あたり日本ビクターからも出されているショパンの『プレリュード(作品二八の六、及び二八の三)』、裏はメンデルスゾーンの『プレリュード=ホ短調』(一四五九)であったが、これは強弩きょうどの余勢だ。すっかり弾力を失って、美しさのほの残るうちにも、いたましさを感じさせる。

 以上、私のパハマン・レコードに関する話は大体尽きた。
 電気以前のレコードはもはやプレスの問題に上せたくないが、ビクター会社はせめて、残る電気の六枚をプレスして同好の士にわかつべきであると思う。「パハマンも駄目だ」と言う人もないではないが、それは甚だ残酷な言い草だ。八十四歳の老人から、若さと弾力とを求めてはいけない。端正なテクニックを望む人は、教壇のピアニストに聴くことだ。日本にもうまい人が沢山ある。パハマンの良さは、埃臭い熱や、先生風の技巧ではない。あくまでも壊れたリズム、失った光沢の中から、巨匠本来の面目を見てやらなければ嘘だ。
 これほどのショパン弾きは、もう出現しないかも知れない。現われるにしても、五十年後やら百年後やら見当もつかない。近頃のピアニストが妙に我執と理屈に囚えられて、一向面白くもない演奏に堕ちようとしている時、パハマンを失ったのはまことに惜しいことだ。その意味においても、パハマンのレコードはまことに貴重である。ブゾーニの四枚の遺作レコードと共に私は十襲して愛蔵しようと思う。

 この稿を書いた後、ビクター会社は三枚のパハマンを売り出した。内二枚は、

ワルツ変ニ長調』(ショパン・作品六四ノ一)「パハマンの序言入り」
ワルツ変ト長調』(ショパン・作品七〇ノ一)
JF一七
練習曲変ト長調』(ショパン)「パハマンの序言入り」
前奏曲ロ短調』(ショパン)
マズルカト長調』(ショパン・作品六七ノ一)
JF五五

 以上二枚は一般カタログに載せられたもので、前掲『前奏曲=ロ短調』及び『前奏曲=ト長調』のレコードに加えて合計三枚のパハマンは自由に求められることになっている。
 このうちで最もすぐれたのは『練習曲=変ト長調』即ち黒鍵エチュードで、これは老人わざとも思えぬ鮮かなものだ。この曲の特色たる華やかさと一種の暗さが、パハマンの魔術的な演奏で、この上もなく妖しい美しさを発揮している。
 もう一つ、ビクター名演奏家秘曲集の中に、口上入りのノクターンとして有名な『夜曲=ホ短調』(JS二)が採られている。このレコードはパハマンの電気レコード中最も重要で、かつ出来の良いもので、先の黒鍵エチュードと併せて保存すれば、大抵の蒐集はそれで充分だろうと思う。

 パハマンのレコードというものは、電気以前のビクター、コロムビア、HMVが全部で三十枚ぐらい、電気以後のHMVは七枚十四面、ほかに英国以外で吹き込んだのが一、二枚あった筈である。私は全部所有しているつもりでいたところ、その後電気以前のレコードに三、四枚の不足を発見し、三、四年間の注意と苦心でようやく揃えることが出来た。一部は中古屋で捜し、一部は岩崎雅通いわさきまさみち氏に恵まれたのである。
 今頃パハマンの蒐集でもあるまいと言う人は、それはレコード音楽に対して正しい理解と同情を持たない人だ。怪しい録音を通して、故名人の風格を偲ぶのは、決して無駄なことではない。
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ゴドフスキー Leopold Godowsky





 ゴドフスキーのレコードはもはや骨董でしかない。が、我らゴドフスキーを、のあたり帝劇で聴き、そのブランスウィックや、コロムビアのライト・ブルーのレコードを、財布をはたいて買った者にとっては、いともなつかしき古典であることも言い添えなければなるまい。
 ゴドフスキーが日本を訪ねたのは、大正十一年の初秋と翌大正十二年の春であった。私は新聞の社会部の責任的な地位にいて、一刻も手を緩められない状態であったにもかかわらず、助手の某々氏らに一時を托して、そっと帝劇の二階席まで、ゴドフスキーを聴くために脱け出して行ったものであった。
 その頃までに日本を訪ねたピアニストというものは、ショルツ、バルダス、ミュンツ、やや遅れてジルマルシェックスぐらいのところで、世界的に知名であり、パデレフスキー、ローゼンタール、ブゾーニ、パハマン、と並んで、当時世界の五大ピアニストと言われたゴドフスキーの来訪は、音楽に興味を持つほどのものを、夢中にさしてしまったのも無理のないことであった。その時の演奏の出来は、大方忘れてしまったが、我々期待にふるえる者にとっては、ただ感激があるのみで、上手下手じょうずへたなどの詮議は、恐らく考えてもいなかったであろう。
 当時五十歳を超えたばかりのゴドフスキーは、全く脂の乗り切った年齢で、その後吹き込んだレコードのごとき、気の抜けたものでなかったことは、多くの人がまだ記憶しているところであろう。ゴドフスキーの演奏は幾分神経質ではあったが、本当に一と粒りの美しい音と、優雅典麗なスタイルで、――幾分女性的であるにしても――この上もなく美しいものであった。
 電気以前のブランスウィックに残っているルービンシュタインの『カムメノイ・オストロウ』やショパンの『幻想即興曲』が、僅かにあの当時のゴドフスキーの良さを伝えるだろう。
 電気吹込みになってからのゴドフスキーは、残念ながら甚だ振わない。が、この晩年のレコードを以て、ゴドフスキーの全部を品隲ひんしつし、一概にくさし付けてはいけない。十数年前の円熟し切った頃のゴドフスキーは、今日あらゆるピアニストのうちでも、最高位に置かるべき技巧家で、その技巧は、また騒がしき誇示を伴う不愉快な技巧ではなく、落ち着き払った、健康だが極めて繊細せんさいな、言うに言われぬデリケートなものであったことも事実である。
 惜しいことに、レコード技術が進歩した時は、ゴドフスキーの技術が歳を取り過ぎていた。コロムビアに入れた、

ノクターン』(ショパン)第一輯、第二輯
J七三九五傑作集六五)(J七四四一傑作集七三
謝肉祭』(シューマン)
J七八一九二一傑作集一二〇
奏鳴曲葬送行進曲ソナタ』(ショパン)
J七八五一傑作集一二五
ソナタ変ホ長調告別)』(ベートーヴェン)
J七六〇六

以上四曲いずれと言って取り立てて言うほどのものもない。むを得ずんば記念的の意味で、かつて得意中の得意とされたショパンの『ノクターン』を採るべきであろうか。

 ゴドフスキーは一八七〇年ポーランド生れ、一九三三年に死んでいる。独、仏に学び、サンサーンスの弟子であったこともある。十九世紀風の技巧家として、最後の一人であったが、惜しいことに盛時のレコードに電気吹込みがない。
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ギーゼキング Walter Gieseking





 ギーゼキングがレコードへ入ったのは、もう十年ほど前のことである。イギリスのヒット(その頃はホモコードと言った)に、ドビュッシーやショパンが入ったのを、物好きな人たちはいろいろ苦心をして手に入れたのだが、今では雑音の方が大きい有様で、棚の奥深く納まって、昔の思い出になっているに過ぎない。
 その頃のギーゼキングの評判は大したものであった。ドイツ人の血をけて、フランスで育ったピアニスト、――ゲルマン民族の気魄と、ラテン民族の教養を兼ね備えた天才、それが一体ドビュッシーをどう弾くことか、我々の好奇の関心も並々のことではなかった。が、粗悪な録音にわざわいされて、ギーゼキングに対する我らの興味も湧き立たず、そのまま幾年か過ぎ去った頃、不意にギーゼキングが、コロムビアのレコードに新しい技術で吹き込み、少し大袈裟に[#「大袈裟に」は底本では「大裟袈に」]言えば、応接にいとまのないほど、我らの前に提供されたのである。
 ギーゼキングのピアノは全く一風格あるもので、欧羅巴ヨーロッパの識者に一つの問題を投げかけたのも、無理のないことである。誰が一体ギーゼキングのように難曲、大曲、古典、近代楽の別なく、極めて無造作に弾きまくって、ギーゼキングのようにしたたる良さを感じさせ得たであろう。ギーゼキングの無感激は、あらゆるジェスチュアや、芝居気よりも、全体的なより美しい効果をあげているのだ。
 ギーゼキングは、冷たくて素気そっけない。どうかすると、こんなにまでしなくとも――と思われるほど、達弁に無造作に弾きまくる。が、その無造作は、近代人の潔癖さから来る、リアリスティックな主張の現われで、決して粗雑奔放な演奏を意味するのではない。老大家たちの持つロマンティックな幽霊――思い入れ沢山な演奏は、ギーゼキングにとっては、我慢のならない下品さであるだろう。
 彼は技巧的にも思想的にも、現代人としての高度の精練を受けている。冷たさをてらうのでもない。フランスの行き過ぎた新人たちのように、下手さをカムフラージュするための無造作では勿論ない。その情緒のうちには、かなりの温かさを持っているくせに、ギーゼキングは、この上もなく素気ない見せかけを持つのである。
 ギーゼキングの温かさは、言わば、人間としての体温の温かさで、懐炉や湯たんぽの温かさではない。彼の演奏には芝居気はないと言っても、それは感情の誇張や小汚い芸風から回避するために、やや極端に素気なさを見せるのであろう。
 私は次の時代の人たちのためにギーゼキングをすすめるのはそのためだ。この人の演奏は聡明で、冷静で、そして多分に芸術的だ。非常に優れた技巧を持ちながら、その技巧を悪用しないところが、ギーゼキングの身上といってもいい。
 レコードはかなり沢山あるが、繁雑に陥るのを避けて、代表的な二、三を掲げる。

交響変奏曲』(フランク)
コロムビアJ八一九九八二〇〇
スイト・ベルガマスク』(ドビュッシー)
J七九五二
ピアノ協奏曲変ホ長調』(モーツァルト・K二七一)
J八七〇五傑作集二六四
グルナードの夜』(ドビュッシー)
水の反映』(ドビュッシー)
J八五三九
子供の国』(ドビュッシー)
J八七二八J五五六三

 ほかにコロムビアの『世界音楽名盤集』の第二輯にも一枚採られている筈である。
 以上数曲のうちから、ドビュッシーのものを選ぶのがまず順当な選択であろう。『子供の国』にしても、コルトーのような甘い情緒はないが、純粋に音楽的で、ドビュッシーの印象主義の精髄を把握したたくましくも賢き演奏である。フランクの『交響変奏曲』も、心憎き名演奏だ。この人はロマンティシズムの匂いがないので、一般享楽的なレコードを聴く人には向かないが、この理解と風格は敬服していい。『スイト・ベルガマスク』も『水の反映』もその意味で推奨される。
 モーツァルトは、近代人の検討を経て新しい姿で見出される。ほかに、
ピアノ・ソナタ変ロ長調』(モーツァルト・K五七〇)
コロムビアJW四二
がある。甘美な陶酔的なモーツァルトではないが、冷艶清朗きくすべきだ。
ピアノ協奏曲第五番皇帝)』(ベートーヴェン)
J八三九六四〇〇傑作集二〇七
は評判のレコードだが、ベートーヴェンをこう弾くことは相当問題があろう。リストの『協奏曲第一番=変ホ長調』は音が割れて、楽しんで聴けないのが欠点だ。

 ギーゼキングは一八九五年ドイツ人を父として、フランスのリヨンで生れた。ハンノヴァーで正規の音楽を学び、二十歳はたち台にその異彩ある才能を以て早くも現われた。ホロヴィッツと共に最も将来を嘱目される少壮ピアニストである。
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フィッシャー Edwin Fischer





 バッハ弾きとして有名なフィッシャーが、始めてHMVに、ヘンデルの『シャコンヌ』とバッハの『半音階的幻想曲クロマティック・ファンタジー』を入れた時、一部の人には相当に騒がれたが、一般的には一向問題にならなかった。
『シャコンヌ』はいかにも美しかった。が、『クロマティック・ファンタジー』は、我らの常識からは、少しかけ離れた演奏で、「すばらしい。が、こいつはやはりプロフェッサーだ」と言ったことを記憶している。
 その後、バッハ協会の計画が発表され、フィッシャーがピアノで『平均率洋琴ようきん曲』を全部入れると聴いたときはさすがに胆をつぶした。この四十八曲の『前奏曲と遁走曲』は、西洋音楽の旧約聖書で、あちらではぶっ通しの演奏も珍しくないと聴いたが、日本で――しかも一流のバッハ弾きの演奏したこの曲を全部レコードで聴けようとは夢にも思わなかったのだ。もっとも、これより先、ハリエット・コーエンが一番から九番まで入れ、ホワード・ジョーンズが十番から十七番までは入れているが、それは全曲の僅か三分の一で、しかも、演奏はそんなにめられたものではなかった。いつになったらこの曲の全部をピアノで聴かれるかしら――と思っている矢先、バッハ研究者として知られ、バッハ弾きの権威と言われているエドウィン・フィッシャーがレコードしてくれるとなると、これはシュナーベルの『ベートーヴェン・ソナタ協会』にも劣らぬ魅力でなければならない。
 日本ビクターのプレスを待ち兼ねて、HMVで取った第一巻は、シュナーベルのベートーヴェンにも優って(これは決して誇張ではない)、私たちバッハ好きを夢中にさした。フィッシャーの生真面目きまじめで典雅な演奏は、最初のハ長調の前奏曲と遁走曲でもう私たちの心をしかととらえてしまった。とかく、華麗に弾かれ過ぎているバッハを、あれだけ簡素に、そして言いようもなく気高く弾いた人は、ブゾーニ以外に断じてあり得なかったのである。
 フィッシャーのタッチは明確で清澄を極める。その演奏は悪口言えば教壇風のものだが、テンポも表情記号も原曲オリジナルのままで、美しい音色トーンカラーと、整然たるスタイルで、ゴシック建築のようなすばらしい古典美を盛り上げて行くのだ。
 フィッシャーにはテンポがないという非難がある。あるいはそんな嫌いがあるかも知れない。この人のレパートリーは、バッハからベートーヴェン、シューベルトまでに限られ、決してショパンに手を出さないのは賢いことだ。この人には主観から来るゆがみもなく、ロマンティックなみだりな燃焼もない。現存大家中、コルトーなどと対蹠的な存在と言ってもいいだろう。
 しかし、そのためにフィッシャーの値打ちを云々うんぬんしてはいけない。厳格な意味において、古典はこう弾かるべきものである。清澄なタッチと整然たるスタイルと、そしてすべてを支配する客観的な美しさ、――それで充分な筈だ。いや少くとも、フィッシャーにおいては、それで満足して差支えはない。情操とか主観とかは、他に人を求めなければならぬ。フィッシャーにそんなものを付加したら、およそたまらなく付焼刃になってしまうことであろう。
 プロフェッサーとしてのフィッシャーは、恐らく当代の第一流であろう。その代り演奏家としては、シュナーベルやコルトーの下位に立たなければならない。その演奏には飛躍する空想も、技巧上の弾力的な面白さもないからだ。それにもかかわらず、私はフィッシャーに心惹かれるのは、バッハの演奏における限り、その徹底した古典主義に比類のない完璧的な美しさがあるからである。

 フィッシャーのレコードは、何より、
バッハ協会レコード』(全五輯)
を挙げなければなるまい。これはレコード界には劃時代的の偉業で、その演奏は典型的なドイツ古典主義の現われであり、記録的な値打ちを持つものである。
 続いてヘンデルの『シャコンヌ』(JF一六)と『組曲=ニ短調』(愛好家協会レコードRL二)を挙げることには誰も異論はあるまい。前者は十インチ、後者は十二インチ、たった一枚のレコードだが、いずれも珠玉のごとく美しい。(フィッシャーのレコードは全部ビクター)
ピアノ協奏曲ニ短調』(バッハ)
JD四二一名曲集五四六
前奏曲とフーガ変ホ長調』(バッハ曲、ブゾーニ編)
JD五一九二〇
半音階的幻想曲と遁走曲』(バッハ)
JD五〇

 以上三曲が、その順序で良いものだろう。
 ほかに、モーツァルトの『ピアノ協奏曲=ニ短調(K四六六)(JD三一五―八、名曲集五二六)、『ピアノ協奏曲=変ホ長調(K四八二)(JD八六六―九、名曲集六三〇)があり、『ピアノ・ソナタ=イ長調(土耳古トルコ行進曲ソナタ)(K三三一)(JD三六七―八)なども入っている。非常に美しいものだが、モーツァルトの甘美さが、無表情過ぎて食い付きがたいと言う人もあるだろう。現にこの『土耳古トルコ行進曲ソナタ』など、手際のよさはケンプのに比べて格段の違いであるが、ケンプの稚拙な親しみを採る人の方が多いかも知れない。
 ベートーヴェンの『熱情ソナタ』(JD七八三―五)や、シューベルトの『幻想曲さすらい人』(JD六〇六―八、名曲集五八一)についても同じことが言える。情熱を云々しさえしなければ、美しさにおいては申し分のないものだ。もっとも『アパショナタ・ソナタ』はほかにも沢山入っているから、必ずしもフィッシャーを挙げる必要はないが、シューベルトの『さすらい人の幻想曲』はほかに良いのがない筈だから、ファンタジーの味に乏しくとも、フィッシャーを採るのが順当であろう。
 要するに、フィッシャーの蒐集ばかりでなく、およそピアノ・レコードの蒐集を心がけるほどの人であったら、バッハ協会の五輯三十何枚のレコードは必ず備えておきたいものである。ほかには『シャコンヌ』一枚でも事足りる。さらにバッハの『協奏曲』を加えるか、『さすらい人幻想曲』を加えてもいい。愛好家協会の第一輯に入ったヘンデルの『組曲』もまた悪くない。

 フィッシャーは一八八六年バセールに生れ、ピアニストとしてのほかに、指揮者として、作曲家として知られている。わけてもバッハの演奏家としては、当代第一人者的の存在であることは言うまでもない。
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ルービンシュタイン Arthur Rubinstein





 ルービンシュタインがレコードに入ったのは、そんなに古いことではない。最初のレコードはショパンの『舟唄ふなうた=嬰ヘ長調』であったが、その脂の乗ったすばらしい技巧に恐怖して、「なるほどこいつは?」と十字屋の店頭で首を捻りながら、それでもあんまり見事なのでとうとう買ってしまったことを記憶している。
 その頃外国のレコード雑誌などは、相当ルービンシュタインを担いだもので、「スペインのもの、わけてもデ・ファリアが得意だ」という話も聴いていた。
 日本を訪ねたのは、ブライロフスキーの少し後であったが、批評家たちが、廊下とんびをしながら、そのショパンを激賞しているのを聴いて、私はなんだかくすぐったいような心持がしていた。レヴィツキーもフリートマンもショパンのあるものはまずかったが、ルービンシュタインのショパンも、あんまり褒めたものではなかったのである。ルービンシュタインは、気持より指の方が先に動く人であった。ちょうど非常な達弁家が、思想より先に舌が動いてしばしば心にもなきことを言うように、ルービンシュタインの指は思想よりも先に動いて、楽曲の表現を必要以上に行き届かせてしまうような気がするのであった。気分とか情緒とか、詩とかを必要とするショパンの演奏に向かないのは誠に当然のことである。
 この人の技巧と、艶麗な色彩は、衆目を聳動しょうどうさせるに充分であった。聴衆のつうな人たちが休憩時間に廊下へ出て、その絢爛けんらんたる演奏に眩惑されたまま、つい激賞する気になったのも無理のないことである。
 野村光一氏はさすがにピアノ音楽批評の大家であった。その著書の中には、明らかにルービンシュタインの欠点を指摘し、そのショパンに致命的な断を下している。これが本当のところである。同じ技巧家でも、ルービンシュタインは滅多にリストを弾かない。その近代的な色彩家としての要求が、リストでは満足しなかったためであろう。その代り、非常に沢山のショパンを弾いた。妖麗、艶美を極めたかゆいところに手の届くショパンだが、欧米の一般聴衆には、あの程度のが受けるのかも知れないのである。
 誰でも言うことであるが、ルービンシュタインの得意は、近代の色彩的なもの、わけても、デ・ファリアのものであろう。
恋は魔術師恐怖の舞蹈火の舞踊』(デ・ファリア)
ビクターDA一一五一
 この曲のすばらしさは、実演でも繰り返して聴いたが、全く驚嘆のほかはなかった。スペインの熱砂と、情熱の呼吸いぶきが、この演奏から身近く感じられるような気がする。
愛の夢』(リスト)
JD七六八
はほかに良いレコードのないのと、一枚の手軽さと、行き届いた演奏で興味が深い。
ピアノ協奏曲第一番』(チャイコフスキー)
JD六七七〇名曲集五〇四
は非常に褒められている。この曲の持つ外面的な美しさが、ルービンシュタインにぴたりとはまるのだ。
ポロネーズ集』(ショパン)
JD六五五六二名曲集五九二
夜想曲全集』(ショパン)
JD一〇三五四五名曲集六六〇
スケルツォ曲集』(ショパン)
JD一九一名曲集五一二
 以上三つの全集をレコードしたルービンシュタインの気の若さと努力はえらい。この中ではスケルツォ集が一番古く、夜想曲ノクターン集が一番新しいが、私は『ポロネーズ集』に一番興味を持っている。
 とにかく、これだけのショパンをレコードするのは、容易のことではなく、コルトーでなくて、ルービンシュタインをたしめたことは、ファンには多少の不平があっても、会社の側には理由のあることだろうと思う。三つとも慎み謹んで演奏しているので、ルービンシュタインのレコードとしては良い方であるが、ポーランド人ルービンシュタインには、やはりポロネーズが一番打って付けであったと私は信じている。
『スケルツォ』はこの人らしく悩みと皮肉が足りない。外面的な美しい演奏に堕して、救いなき魂の歎きがなかったと思う。『夜想曲』は技巧的にはことごとく見事だが、ややもすれば華麗になるのと、弾き過ぎるのが欠点で、青白い幻想も技巧の美しさに消え失せてしまう。
 これはしかし、私のお点が少し辛過ぎるのかも知れない。とにもかくにも、スケルツォやノクターンやポロネーズを、見事な技巧で揃えるだけでも有難いことだとも言える。
 ルービンシュタインにはモーツァルトもブラームスもある。ブラームスの『ピアノ協奏曲=変ロ長調(作品八三)(七二三七―四一、名曲集八〇)などは曲がいかにも立派なので、私の好きなレコードの一つであったが、欲を言えば脂粉しふんが多過ぎる。最近の吹込みではショパンの『ピアノ協奏曲第一番(作品一一)(JD一二七〇―三、名曲集六八八)がある。見事と言うも愚かだが、十年前のブライロフスキーのレコードの方に情緒の良さがあるのも不思議だ。
 ルービンシュタインのレコードを揃える人は、まずデ・ファリアの恋は魔術師』を聴いて、それから『ポロネーズ集』を求めるがいい。チャイコフスキーの『協奏曲』は第三番目の候補だ。

 ルービンシュタインは一八八六年ポーランドに生れて、顔も若々しく欧州の楽壇に知られたのも近頃だが、年齢は相当だ。ヨアヒムにヴァイオリンを習ったことがあるとは面白い。後パデレフスキーにも師事したと言われる。
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ケンプ Wilhelm Kempff





 ベートーヴェン抹殺論で、またもや楽壇に手榴弾を投じた兼常清佐かねつねきよすけ博士に、今から十二、三年前、私は雑司ぞうしの宅で、その頃ドイツ・ポリドールに入ったばかりの、ケンプの『月光ムーンライトソナタ』を聴かしたことがある。その頃の兼常博士は今日のごとくベートーヴェンに対して、甚だしき反感を持っていなかったものらしく、第一楽章のアダジオ――あの俗説のお月様の出というくだりが荘重に弾き進められると、籐椅子とういすの膝を進めて、
「この通りですよ、まさにこの通りに弾くのです。ドイツの本場で聴くベートーヴェンは、こういった強いアクセントと、ロマンティックな情緒を持たせて弾くのですよ」
 言葉ははっきり忘れたが、多分こんなことを言われたように記憶している。
 兼常博士を引合いに出すまでもなく、ケンプのベートーヴェンは、その初期のものほどロマンティックで、そして純粋にドイツ臭かったのである。
 一九三六年、ケンプはドイツ政府の文化使節として日本を訪ね、日比谷ひびや音楽堂から明治生命のホールに、幾夜かにわたって、おびただしいベートーヴェンとそして少しばかりのバッハ、モーツァルトを弾いた。その時のケンプの風貌、態度、解釈、音色――あらゆる技巧の末まで、私どもはつぶさに実見して、
「想像した通りだ。ケンプの実演は、レコードで考えていたと、少しの変りもない」
 思わずそう言った私の胸のうちには、油然ゆうぜんとして親しみが湧き起ったことを記憶している。
 私は日本を訪ねたあらゆる音楽家を聴いたつもりだが、ピアニストでは、後にも前にもケンプほど親しみを感じた人はなかった。一つはこの人の質朴な風采から来る親しみであったかも知れないが、少し前屈まえかがみに、ピアノへかじり付くようにして、本当に心から打ち込んだ様子で、少し無器用にぼっとりぼっとり弾いて行く姿は、どう考えても冷たいヴァーチュオーソではなかった。
 弾いてるうちに、ケンプの頬は次第に紅潮し、感興と共に、その指は滑らかに動いて行った。野村光一氏が、「ケンプはコーダがうまい」と言ったのは、さすがに慧眼けいがんで、弾き進んで曲の終りに近づくと、燃焼し切った感興と情熱のやり場に、ケンプは困っているのではあるまいかと思うほどであった。技巧的にはあまり優れていると思えず、それに発火点の遅い鈍重な感じのするケンプに取っては、曲の終りこそ、最も精神こめた演奏の出来るところであったのだろう。
 弾き了って立ち上るケンプの顔は、赤ん坊のように歓喜に輝いていたのを、みんなは見た筈である。どうかしたら、涙を浮べていたかも知れない。それほどケンプは、曲に打ち込んで、陶酔し切った心持で弾くアーティストだったのである。
 ケンプの良さは、この無器用さと詩人的情熱ではなかったであろうか。かつてのケンプのレコードに、理知的な冷たさが少しも見られず、その解釈、表現が、甚だしく内攻的主観的で、そして主情的であったのは、ケンプの性格なり演奏態度なりが、全部そのレコードに反映するためであったであろう。
 冷たく小賢しき現代リアリストたちのなかに、ケンプのような演奏家を見出したのは、なんとしても興味の深いことであるが、それが、全ドイツの信望を集め、国民的音楽家として、盟邦日本に送られるに至っては、ますます興味津々たるものを覚えずにはおられない。あのような主情的な、ロマンティックな演奏が、決して旧い見捨てられた型ではなく、少くとも本場のドイツにおいて、将来に大きな発展性を約束されているらしいことは、ますます以て興味満点的である。
 ケンプの良さ――その古臭い主情主義的な演奏が、思いのほか近代人の好みにマッチする重要な点は、技巧をもてあそぶ気の毛頭ないことではあるまいか。ピアノを極度に巧みに駆使することは、ケンプのあえてよくするところではない。ケンプの演奏態度は、ピアノの胸を叩いて、ベートーヴェンと語っているようでもあり、ピアノの中から新しいベートーヴェンを掘り出そうとしているようでもあったのである。
 ケンプはショパンを弾かない。ショパンそれ自身が詩である故に、ケンプの詩を育て上げる素材にはならないのであろう。

 それはともかく、ケンプのレコードは、ドイツ・グラモフォン以来我らには長い間の馴染である。バッハの『前奏曲と遁走曲』を一番先にレコードしたのは、恐らくケンプであったろう。それは震災前後の、雑音だらけなレコードであったが、ケンプの若さと情熱は、噪然そうぜんとして粗悪な録音から湧きこぼれたものである。
 電気以前のポリドールに、『月光ムーンライト』『悲愴』『ワルドシュタイン』『告別』『熱情アパショナタ』『作品九〇』『一〇一』等のベートーヴェンのソナタを吹き込んだケンプは、電気吹込みになるとともにほとんどその全部を入れ直した。当時電気にならない唯一のレコード、――作品百一番のソナタの旧吹込レコードを私は今でも筐底きょうてい深く愛蔵している。
 電気になってからのケンプは、二度までも吹込直しをしている筈だ。『月光ソナタ』が十二吋から十吋になったのはその時で、引き続き、『ハンマークラフィエル・ソナタ』が入り『皇帝協奏曲』が入り、クーレンカンプと組んで『クロイツェル・ソナタ』が入った。モーツァルトの『土耳古トルコ行進曲ソナタ』、バッハの『仏蘭西フランス組曲』の入ったのもその頃である。

 ケンプの演奏は素朴で純情で、そのくせ燦爛さんらんとしている。考えようでは、この人ほど無器用なピアニストはないが、この人ほど味の良いピアニストも少い。この人の指は、訥弁とつべんの雄弁だ。なんという動きの取れない足だろうと思うが、曲の美しいニュアンスを添えることにおいて、この人ほどの技倆を持っているピアニストは少い。
 ケンプの良さは、やはりベートーヴェンだ。ベートーヴェンのうちでは『月光ムーンライトソナタ』を挙げるのが順当だろう。このしっかりした表現のうちには、ケンプの情緒が溢れるほど盛られている。これより芝居気のある『ムーンライト』も決して少くはないが、少くとも、これほど『ムーンライト』の通念にぴたりとはまる演奏は少い。それに続いては、世評の通り私も『ワルドシュタイン』をとる。まことに絢爛極まる表現だ。
熱情アパショナタソナタ』は一生懸命さはあるが、シュナーベルの迫力に及ばない。ケンプのはいたずらに大きい音をするだけで、引き摺り込んで行く力に足りないのだ。
 続いて私はバッハの『仏蘭西フランス組曲』に手を挙げる。ケンプのバッハは一種の荘重味と、古朴に近い正直さがよく、この組曲はわけても美しい。クーレンカンプとの『クロイツェル・ソナタ』が良いと言う人もあり、『皇帝協奏曲』が良いと言う人もある。皆一応の理屈はある。それよりも私はモーツァルトの『土耳古トルコ行進曲ソナタ』の方を愛する。
 私の好む順序に、ケンプ・レコードをならべてみよう。ただしこの中の『月光ソナタ』と『ワルドシュタイン・ソナタ』は甚だしく録音が悪い。ホール・トーンが大き過ぎる上、音に弾力がないので、細部の美しさが少しも聴えない。

月光ソナタ』(ベートーヴェン)
ポリドール三〇一〇八
ワルドシュタイン・ソナタ』(ベートーヴェン)
四〇五一六
仏蘭西組曲第五番』(バッハ)
六五〇〇六
ピアノ奏鳴曲イ長調土耳古行進曲ソナタ)』(モーツァルト)
四五二三一
ピアノ協奏曲第五番皇帝)』(ベートーヴェン)
六五〇〇一
熱情ソナタ』(ベートーヴェン)
四〇五二七

 くれぐれも言うことであるが、吹込みの悪さを気にする人は、『フランス組曲』『土耳古トルコ行進曲ソナタ』などを求めるのが無事だろう。しかしケンプはやはりベートーヴェン弾きで、その意味から私は『ムーンライト』と『ワルドシュタイン』を上位に置いた。

 ケンプは一八九五年生れでギーゼキングと同年だ。生粋きっすいのドイツ人で父親も音楽学校の校長であったという。ユダヤ人追放後のドイツにおいては、彼は少壮ピアニストの第一線に立つ人で、作曲、オルガン等にも造詣が深い。
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ホロヴィッツ Vladimir Horowitz





 少壮ピアニスト中、第一番に将来を嘱目しょくもくされるのはホロヴィッツである。ロシアに生れたことと、天才的の大技巧家であること、演奏も、顔も冷たいほどの外貌を持っていることなど、ヴァイオリンのハイフェッツと似たものを感じさせる。
 しかし、芸術家としてのホロヴィッツはハイフェッツと全く違った存在であった。近頃のハイフェッツは派手で外面的で、そのくせ新しい楽曲をマスターすることに専念しているが、十九世紀のロマンティシズムの殻から脱却し切れない人だ。ホロヴィッツは、リストの中からも、ベートーヴェンの裡にさえも、新しい感覚と、冷たい技巧を駆使して、自分を投影せずんばまざる妖精である。
 ホロヴィッツの歯切れの良さは、当代無類である。超人的な技巧と言ってもいい。うまい、まずいも程度のものだが、ホロヴィッツに至っては、遙かにその程度を飛躍し、超人の長い脚で、難曲を苦もなく征服するばかりでなく、自分のものにしきって、冷然として取りすましている。
 その上三十歳を僅かに越したばかりのホロヴィッツの演奏には、何人も及ぶことの出来ない光沢がある。技巧の限りを尽している癖に、決して乾燥無味ではない。少しの濁りもない、玲瓏れいろうたる底光りがあるのだ。
 新時代はこういう人を要求するだろう。曖昧模糊あいまいもこたる演奏で満足したのは、もはや過去のことになってしまった。芸術から明確な角々と、冷たい美しさを要求するのが、次の時代の好尚になることであろう。

 ホロヴィッツのレコードは必ずしも多くない。そのうちから、興味の深いのを抜くと、
ピアノ奏鳴曲ロ短調』(リスト)
ビクターJD二一六
田園詩曲』『トッカータ』(プーランク)
練習曲第十一番』(ドビュッシー)
ビクターJD六九〇

 以上四曲は代表的なものであろう。リストのソナタに示したホロヴィッツの技巧のよさは、言語に絶するものがあるが、プーランクやドビュッシーを弾くホロヴィッツの鮮かなさばきも心憎い。ほかに、

奏鳴曲イ長調プレスト』(スカラッティ)
奏鳴曲ロ短調アンダンテ・モッソ』(スカラッティ)
ビクターJD九一二
三十二の変奏曲』(ベートーヴェン)
ビクターJF七一
 ほかにショパンの『マズルカ=ヘ短調』、『エチュード=ヘ長調』(JE八四)、ハイドンの『ソナタ第一番』(JD一五四、五)等々もあるが、それまではと割愛する。

 ホロヴィッツは一九〇四年ロシアのキエフに生れた。多くの大演奏家と共にユダヤ人である。彼は、三十歳に満たぬ頃から、既に大ピアニストの折紙を付けられて、新時代に登場する第一人者として嘱望されている。
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ブライロフスキー Alexander Brailowsky





 ブライロフスキーが日本を訪ねたのは、もう七年前のことである。我々の耳には、ロシアから飛び出して、花の巴里パリを荒しまくった、木曽義仲のように響いていたブライロフスキーが、実際その人に接して見ると、長身典雅な貴公子で、その演奏にも、スラヴ臭い野蛮さなどは、ほとんど見られなかったのである。
 ブライロフスキーには、若さと情熱はあった。が、その感覚は近代人のもので、その指は申し分なくよく動いた。ほんの少しばかりの粗雑さはあったかも知れないが、その粗雑さを償う詩人的素質は、ブライロフスキーをショパン弾きとしての最高のものを体得せしめているらしく見えた。
 技巧倒れのした、からからに乾いた演奏に馴れた巴里パリッ子たちが、ブライロフスキーのショパンを聴いて、その採り立ての果物のような新鮮さと、馥郁ふくいくたる野の匂いに、面食ったことだろう。ブライロフスキーのショパンには、すべてのショパン弾きに付き纏う青白い幽霊などは、ほとんど見るべくもない。彼のショパンも、幾分病的であったかも知れないが、精神病的でなかったことだけは事実だ。
 少くともブライロフスキーのショパンは、この上もなく情熱的で、少し粗笨そほんではあったが輝かしい美しさに充ちたものであった。それを聴くほどの者を、自分の持っている境地へ引き摺り込んで納得させなければ承知しない感情の燃焼を持っていたのである。
 この若さと輝かしさに対して、私は最上級の同情を持つことが出来た。前後して来朝したいかなるピアニストよりも、少し乱暴な演奏ではあったにしても、ブライロフスキーの撒き散らす魅力に、私は好意を持つようになっていた。

 ブライロフスキーのレコードは、種類から言うと決して少くない。が、大物はたった三つ、ショパンのピアノ協奏曲ホ短調作品一一ポリドール四五〇六五と、リストのピアノ協奏曲第一番変ホ長調六〇一二二一四と、ショパンのピアノ・ソナタ変ロ短調作品三五四〇五五一だけだ。
 このうちショパンの『ピアノ協奏曲』は名演奏で、ブライロフスキーのデビュー盤でもあるが、十年前の吹込みで、その点が重大なハンディキャップである。リストの『協奏曲第一番』もそれに次いで現われ、今でも演奏の良さではこの曲の代表的レコードにされているが、吹込みの古さは救いようがない。
 ブライロフスキーには、一枚物に非常に優れたのがある。
即興幻想曲嬰ハ短調』(ショパン・作品六六)
ヴァルス・ブリラント変イ長調』(ショパン・作品三四ノ一)
ポリドール四五〇三一
などはその一例だ。どちらも甘美に過ぐる曲だが、その甘美さがブライロフスキーの若さと相応して、コルトーなどとはまた別個の趣を出している。
タンホイザー序曲』(ワーグナー)(四〇四九七
は技巧の鮮かさを見るのに恰好だろう。この曲はよく演奏される癖に、レコードは甚だ少く、私の知っている限りでは、このブライロフスキーのほかに筋の立ったのはない。
 その他のショパンも、一通りの良さはどれでも持っている。が、取り立てて言うほどのことはない。リストかショパンの協奏曲一つ、それに『ヴァルス・ブリラント』と『タンホイザー序曲』で普通のブライロフスキー蒐集は間に合うだろう。ただし前二者の吹込みは、非常に古いことを記憶して貰いたい。

 ブライロフスキーは一八九六年キエフに生れ、キエフ及びモスコーに音楽教育を受け、ブゾーニの教えも受けたことがあると言われている。巴里パリに現われたのは一九一九年、日本を訪ねたのは一九三二年(昭和七年)である。
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ラフマニノフ Sergei Rachmaninoff





 私がラフマニノフのシューマンやショパンを、かなり手厳しく攻撃してから、もう七、八年になるだろう。あの『謝肉祭カルナヴァル』や『葬送行進曲ソナタ』には、全くラフマニノフ編曲と言いたいところが沢山あり、私ばかりではない、神経質な人が聴いたら、さぞ腹の立つことだろうと思っていた。
 ところが、私の言葉を自信づけるために、ラフマニノフのレコードを出して、幾度も幾度も聴いているうちに、私は、私の心境の次第に変って行くのを意識しなければならなかったのである。近頃の私は、ラフマニノフは決してまずくないと信じている。拙いどころの沙汰ではない、非常にうまい人であり、あの『謝肉祭カルナヴァル』や『葬送行進曲ソナタ』に加えた改削と主観も、ラフマニノフにおける場合は、充分許されていいと考えるようになったのである。
 ラフマニノフが作曲者であるが故に、ショパンやシューマンを改造して演奏していいと言うのではない。ラフマニノフの聡明と、ラフマニノフの天才と、そしてラフマニノフの技巧があれば、型通りのシューマンやショパンを、いとも鮮かに征服して、誇らしい顔をするのが、さぞ馬鹿馬鹿しいことだろうと思ったのである。
 ラフマニノフは一介のヴァーチュオーソではなくて、一個の芸術家であり、一流の作曲家である。ラフマニノフがピアノ曲を弾奏する場合は、ストコフスキーが管弦楽を指揮する場合以上に、自分というものを生かさなければならなかったであろう。それは必然的であり、かつ必要なことであった。ラフマニノフは決して技巧を売物にする人でないが、そのレコードが燦然として、一流のヴァーチュオーソと相対するのは、ラフマニノフにはラフマニノフの流儀があるためではなかろうか。
 演奏技巧のために、単なるヴァーチュオーソが原曲を歪めることは許さるべきでないが、優れた作曲者ラフマニノフの場合、百年五十年前の巨匠の作物に、些少さしょうの改変を加えるのは、必ずしも冒涜的なことではないと思うのである。
 証拠は――実物について聴くがいい。『謝肉祭カルナヴァル』や『葬送行進曲ソナタ』は七、八種のレコードがある筈だが、コルトーを除いて、ラフマニノフ以上に演奏した人がたった一人でもあったであろうか。
 私は近頃ラフマニノフに対して、同情的に考えるようになって来たことを喜んでいる。かつて七、八年前、ラフマニノフの演奏に対して加えた非難の言葉は、決して取り消す必要はないが(それはことごとく事実だから)、今日その上に、私の再認識の言葉を加えて、近頃の同情的な心境を伝えておきたい。

 ラフマニノフのレコードはかなり沢山あるが、蒐集の目的としては、自作自演のレコードを第一に推さなければならない。
前奏曲嬰ハ短調』(ラフマニノフ・作品三ノ二)
ビクター一三二六
ピアノ協奏曲第二番』(ラフマニノフ・作品八[#「ラフマニノフ・作品八」はママ]
八一四八五二名曲集五八
狂詩曲』(ラフマニノフ・作品四三)
JD七〇六名曲集六〇一
 ラフマニノフはおびただしい前奏曲を書いているが、この嬰ハ短調の悲劇的な前奏曲は、最も傑出し、かつ有名になっている。恐らく自作自演レコードのゆうなるものであろう。
『ピアノ協奏曲』は第一、第二とも驚くべき曲である。第二は電気以前のもあったが、電気以後のも同様にストコフスキーの管弦楽団指揮で、吹込みは古いが絢爛けんらんたるレコードである。『狂詩曲』は近頃のものだが、協奏曲ほど、有名でないにしても、録音のよさが、ラフマニノフの面目を躍如たらしめる。
 自作以外の曲では、

三頭立の橇』(チャイコフスキー・作品三三ノ一一[#「チャイコフスキー・作品三三ノ一一」はママ]
六八五七
真夏の夜の夢スケルツォ』(メンデルスゾーン)
JD 八〇三
 この二曲は絶対に良い。『三頭立のそり』は古い吹込みだが、曲の美しさを以て、『真夏の夜の夢』は吹込みの新しさと演奏のすばらしさが特色だ。
 ほかに、
謝肉祭』(シューマン)
七一八四名曲集七〇
ピアノ奏鳴曲変ロ短調』(ショパン)
一四八九九二名曲集九五
 吹込みは古いが問題になる演奏であり、特殊な興味を持つ人は蒐集に加えるもよかろう。ただし私の旧著にはこのレコードをかなり激しく非難してある。
 クライスラーと一緒に入れたヴァイオリン・ピアノ・ソナタが三曲ある。

ヴァイオリン・ソナタハ短調』(ベートーヴェン・作品四三[#「ベートーヴェン・作品四三」はママ]
八一一二名曲集一五
ヴァイオリン・ソナタト長調』(ベートーヴェン・作品三〇の三)
八一六三
ヴァイオリン・ソナタイ長調』(シューベルト・作品一六二)
八二一六名曲集一〇七

 三曲とも古く、演奏も最上とは言いがたい。ただ、二大巨匠を揃えたという、興味だけのものである。

 ラフマニノフのレコードは、普通『前奏曲嬰ハ短調』と『三頭だてそり』だけでも事足りるだろう。協奏曲やソナタを蒐集に加えるのは特別な興味を持った人だけでいい。

 ラフマニノフは一八七三年ロシアのオネガに生れた。指揮者、作曲家として早くから知られ、大戦後アメリカに移り住んで後はピアニストとして活躍している。長躯魁偉かいいで、東洋風な風貌をしているということである。
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ペトリ Egon Petri[#「Egon Petri」は底本では「Fgon Petri」]





 有名な人であり、古い人でもあるが、レコードに現われたのは極めて昨今である。四、五年前HMVに入った一、二枚のレコードが、消息通のファンたちに騒がれていたが、コロムビアからかなりの大物が出るようになったのは極めて最近のことである。
 一八八一年の生れというから、脂の少し抜けかかったところかも知れない。評判ほど滋味のないのはそのためでもあろうか。和蘭オランダ人の子としてハノーヴァーに生れ、最初はヴァイオリンを弾いていたが、後にパデレフスキーとブゾーニに師事し、わけてもブゾーニの感化を濃厚に受け、その衣鉢いはつを継ぐ人と目されている。
 ブゾーニの弟子にも、ペトリのような精微な技巧家と、グレーンジャーのような、少し荒っぽい主情的な演奏家とあるのは面白い。ペトリはブゾーニの形を伝え、グレーンジャーはその心を伝えたのかも知れない。
 ペトリは技巧的には非常にうまい人である。申し分のない円熟さと言ってもいい。が、感情的な盛り上りが散漫で、滋味を欠くような気分がするのは、我々の聴き馴れたドイツ風の演奏に対する伊太利イタリー風の演奏の面白さと言うよりは、むしろこの人の音楽的気稟きひんの影響ではあるまいかと思う。
 欧羅巴ヨーロッパではしかし、大変な人気であるらしい。この人の軽快なこだわりのない技巧が、一部フランス人などの好みに投ずるためであろう。
 レコードは沢山ある。短時日の間に、よくもこんなに入れたと思うほどだ。その中で、
パガニーニの主題による変奏曲』(ブラームス)
コロムビアJW七一
 が一番新しく、かつ一番面白かろう。見事な技巧が楽しめるからだ。
 チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番JW一〇四傑作集二八九も、鮮かな技巧が面白い。この二つを備えただけでもペトリは充分だろう。
 ベートーヴェン月光ムーンライトソナタJW一三は、コロムビア会社がうんと力瘤を入れたが、それほどではなかった。この上もなく綺麗な『ムーンライト』だが、うま過ぎて情熱が足りない。シューベルトのウインの夜J八六五三ベートーヴェンのピアノ・ソナタ嬰ヘ長調作品七八J八七六七は手頃のものだが、同じベートーヴェンのピアノ・ソナタハ短調作品一一一)』J八七五七傑作集二六九は賛成出来ない。巧みに弾いてはいるが、この曲の奥行きの知れないような美しさや、深沈たる魅力はないからだ。
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ナット Yves Nat





 井口基成いぐちもとなり氏の先生で、井口氏から直接この人の話を聴いたことがある。一八九〇年生れでまだ若い人だが、非常にすぐれた素質を持っているらしく、その頭の鋭さと、技巧のうまさは、当代フランスの第一流人である。レコードには近頃現われた人だが、理知的で、洗練された、良いものを持っている。
 レコードは、
ピアノ協奏曲イ短調』(シューマン)
コロムビアJ八二七九八二傑作集一七八
 これが代表的なものであろう。
 ほかに同じシューマンの子供の情景J五二四三リストのハンガリー狂詩曲第二番J七八四三がある。非常に特色のあるレコードだ。コルトーのようにロマンティックな味はないが、聡明で潔癖で、底光りのする良さがある。
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モイセイヴィッチ Benno Moiseivitch





 日本へ二度ぐらい来た筈である。若くて覇気があって、一流の技巧家だが、なんとなく早く纏め過ぎて真の完成美に欠けているような気がしてならなかった。腕にも情操にも欠くるところはないが、デリカシーが足りないのではあるまいか。最初聴いた時は、その達者さと、征服欲の旺盛さに驚いたものだ。
 しかし素質の良い人であり、人格的円熟とって、将来が期待されるだろう。
 レコードにはシューマンの幼き日の思い出ビクターD一九六九七〇ショパンのスケルツォ作品三一)』D一〇六五と、メンデルスゾーンの猟の歌F四七八がある。大して傑出したレコードではない。むしろ廃盤になったブラームスの『ヘンデルの主題による変奏曲』がよかったかも知れない。野村光一氏もそう言っている。
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フリートマン Ignaz Friedman





 フリートマンは一流の技巧家である。そのリストなどは、老巧練達を極めたもので、レヴィツキーなどよりは、物によってはこくのある演奏を聴かせてくれたが、うまかるべき筈のショパンには、幻滅を感じた人が甚だ少くなかったことであろう。
 フリートマンはショパンと郷国を同じゅうし、ショパン弾きとして知られた人であるが、その演奏には、詩も輝きも情操もなく、技巧倒れのした、こね廻された醜い姿しかなかったように私は聴いている。フリートマンの演奏は、多くの人に褒めちぎられたが、私は数日後、有名なピアニストに逢った時、フリートマンのショパンの退屈さを話して、すっかり共鳴されて面食ったことを記憶している。私の反感にも少しばかり話術的誇張があったが、ピアニストの反感はそれ以上に深刻だったからである。フリートマンのショパンについては、増沢健美ますざわたけみ氏、野村光一氏がかなり突っ込んで論じている。今さら私が付け加えるまでもあるまい。
 しかし、この人の技巧的な曲は全くすばらしいもので、リストのハンガリー狂詩曲第二番コロムビア七九九〇などは古い吹込みだが、コルトーと並んで推賞される。
 メンデルスゾーンの無言歌J五二二一J五三〇六J五三〇七J五三一〇四枚九曲は、かなり古い吹込みであり、決して冴えた演奏とは言いがたいが、常識的な達者なものである。
 それよりもフリートマンの傑作は、
マズルカ十二曲』(ショパン)
J八〇一〇一三傑作集一四九
であろう。マズルカとポロネーズは実演でもすぐれたものであったが、この程度の夢のない舞踊曲は、フリートマンの独擅場どくせんじょうであって、ベートーヴェンの『月光ムーンライトソナタ』なども入っているが非常に古くて問題でない。むしろ新しい吹込みのシューベルトの軍隊行進曲J八七〇四などに通俗的興味があろう。
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クロイツァー Leonid Kreutzer





 日本にいる人のことは書きにくい。が、この人は、当代ピアニスト中でも特異の存在で、その位置は決して低いものでないことは事実である。
 最初の日本訪問は、もう七、八年も前のことだが、その前からレコードで知っていたつもりの私たちは、第一回の演奏を聴いて、全く親しいものに接して驚きを感じたものであった。
 クロイツァーの演奏は、極めて精緻で、そして程のよいものである。こんな美しい情緒とニュアンスを持った人は、ほかにちょっと見当らない。なんか磨き抜かれた珠のような玲瓏さと、我らを押し包んで来る温かい羽毛の感触を味わったのである。
 クロイツァーのレコードは、ポリドール時代のはあまりに古く、その録音には感心出来ないものがある。コロムビアに移ってからも、初期のものは甚だよくない。極めて最近ようやく優れたもの――クロイツァー教授の真面目を伝えたものが出来るようになって来た。
ピアノ奏鳴曲第十二番葬送行進曲ソナタ)』(ベートーヴェン)
コロムビアJW九三
などはそのよき例だ。
 他に『ワルドシュタイン』や『月光ソナタ』があり、ショパンの『前奏曲(雨垂れ)』も入っているが大したことはない。将来のよきレコーディングに期待すべきである。
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ヴィニエス Ricardo Vi※(チルド付きN小文字)es





 ドビュッシー、ラヴェル等の近代ピアノ音楽の最初の紹介者にして、新人たちの崇敬の的になっているのは、スペインのピアニスト、リカルド・ヴィニエスである。
 誰よりも先にフランス、スペインの近代の良さを理解し、その高度の技巧を捧げて、新時代のピアノ音楽に良きスタートを開いてやったヴィニエスの先見と同情に私は敬意を表したい。
 この人の技巧はすばらしい。
朱色の塔』(アルベニス)
グルナードの夜』(ドビュッシー)
コロムビアJ七七四七
は古いが代表的なレコードであろう。年齢の関係か、近頃のはあまりよくない。
 もう一枚となると、同じアルベニスのグラナダJ七八六〇を採るべきだろうか。
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カザドシュス Robert Casadesus





 フランスの新人ロベール・カザドシュスは非常に評判の良い人だが、レコードは甚だ少い。ショパンの『バラード』が四曲四枚あったのは、いつの間にやら廃盤になっている。もっとも、この演奏は場違いものの感じで、カザドシュスのために採りたくないものではあった。
 大物ではウェーバーのピアノ協奏曲ヘ短調コロムビアJ八五九一傑作集二四四がある。が、むしろ一枚物のド・セヴラック作騾馬曳きたちの帰途JW八四の方が面白かろう。裏はフォーレのプレリュード第五番』と『即興曲第五番』が入っている。
 この人はレコードの方では将来を楽しむ側のアーティストだ。
 カザドシュスの読み方はいろいろ伝わっている。
 野村光一氏はカサドゥスと読み、近藤柏次郎はくじろう氏はカサデシュースと読んだと言い、コロムビアの目録カタロダにはカザドゥジュとしてある。私は極めて最近フランスから帰って来た人――その人は愛嬢をカザドシュスに託して来た人で、幾度もカザドシュス本人に逢ったそうだ――から聞いたところによると、これはやはりカザドシュスと読むのが本当だそうだ。
 ある米国人がカザドシュス本人に逢って、あなたのお名前はなんと読むのが本当かと訊くと、カザドシュスは笑って、綴りの通り語尾のSも発音させて読めばいいと言ったのを聞いたということである。
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レヴィツキー Mischa Levitzki





 レヴィツキーのショパンやベートーヴェンも、甚だ面白くないものであった。私はこの人の実演でベートーヴェンの有名なソナタの幾つかと、ショパンの『幻想曲=ヘ短調』も聴いたが、あんまり器用過ぎて、情熱も詩もないものであったことだけは記憶している。
 レヴィツキーの良さはリストに限られていた。
ピアノ協奏曲第一番』(リスト)
ビクターD一七七五
 これはかなり古いレコードだが、颯爽さっそうとして小味なところを私は好きだ。こんな曲に余計な思い入れなどはない方がいい。
 しかしそれも程度問題で、この曲が決してレヴィツキーを以て最上とするわけではない。それよりもレヴィツキーの十八番物は、
ハンガリー狂詩曲第六番』(リスト)
ビクターD一三八三
の名演だ。この曲の実演を同じリストの『カンパネラ』と共に私は二度か三度聴いたが、実に驚くべき手際であった。
 同じ曲がコロムビアにも入っているが、コロムビアの方は吹込みが悪い。
カンパネラ』(リスト)
コロムビアJ五〇〇一
 これも番号の示す通り恐ろしく古い吹込みだが、演奏は実にうまい。一度は聴いておくべきレコードだ。
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バウアー Harold Bauer





 私の好きなピアニストの一人だ。こんなに地味で、こんなに奥行の深い演奏家は少い。
 バウアーはかつてヴァイオリン弾きであったが、パデレフスキーに認められて中年からピアニストになったということである。この人のピアノに、若輩らしいところも、客気かっきらしいものもないのは、恐らくそのためでもあろうか。こんなにパデレフスキーと反対の傾向を辿たどるのは、師弟の関係を一体どこへ置き忘れたことだろう。
 この人は驚くべき確かな技巧の持主だ。が、その理性と趣味は感情以上に高度に発達し、技巧を抑制して、断じて平衡を破らせないのであろう。どんな曲を弾いても(現にベートーヴェンの『熱情アパショナタソナタ』を弾いているが)、決して興奮することも、羽目を外すこともない。
 バウアーはどこまでも平静だ。どうかすると平凡にさえ見える。が、その平静は、潭々たんたんたたえた水だ。深さもあり渋味もあり、そして波瀾も蔵している。
 この人の演奏を聴いていると、私は日本の能楽や茶の湯を思い出してならない。この演奏の色調はさびであり、その情緒は、もののあわれに似たものである。静かな『月光ムーンライトソナタ』や、落ち着き払った『熱情アパショナタソナタ』から、私はこの人の温乎おんこたる風貌と、高い教養とを窺い知ることが出来る。レコードは、

月光ソナタ』(ベートーヴェン)
ビクター六五九一
熱情ソナタ』(ベートーヴェン)
六六九七
幻想曲』(シューマン・作品一二)
JD九〇八一一名曲集六三六
即興幻想曲』(ショパン)
JD五六〇

以上四種しかない。『月光ソナタ』と『熱情ソナタ』は吹込みの古いのが欠点で、一風格を楽しむ人には面白かろう。
 シューマンの『幻想曲』は新しい録音で、曲の面白さと、バウアーの地味な演奏が、程よい折合いを遂げて、心憎きレコードの一つだ。私は愛玩している。『即興幻想曲』は、こんな甘美な曲を、こんなに平坦に弾けるものかと驚かれるほどだ。ほかにフロンザリー弦楽四重奏団と演奏したブラームスの五重奏曲ヘ短調作品三四六五七一名曲集一〇がある。

 一八七三年のロンドン生れで、もうかなりな年輩だ。
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リストの弟子たち





 十九世紀のピアノの王者、音楽の大御所であったフランツ・リストは、死んでからもう五十三年になる(昭和十四年から逆算)。その多くの弟子たちは、ほとんど楽壇から姿を隠してしまったが、たった四人だけでも、とにもかくにも演奏家として残っているということは、むしろ奇蹟に近いような気がしてならない。
 一人はエミール・ザウアー、一人はモリッツ・ローゼンタール、も一人はフレデリック・ラモンド、そして最後の一人はデ・グリーフだ。四人とももはや第一線人ではないが、老来ますますさかんで、音楽会にもレコードにも現われ、その前世紀来の妙技を若い人たちに示しているのは偉とすべきだ。簡単にレコードのことだけでも記録しておこう。


ザウアー Emil von Sauer

 一八六二年の生れで、ウィンの象牙の塔にリストの衣鉢を伝えている。一部の人には偶像視され、その極めて珍しい演奏会は、超満員の盛況を呈するということだ。
 演奏家としては無類のテクニシアンで、El※(アキュートアクセント付きE小文字)gant の一語に尽きると言われている。レコードは非常に乏しく(入っているのが不思議なくらいではあるが)、コロムビアにあるたった二枚が電気吹込みの総財産だ。ショパンの即興幻想曲』と自作自演の演奏会用ポルカJ八三五七ベートーヴェンの土耳古トルコ行進曲』と自作の白楊の葉J五三六一で、充分昔を偲ばせるレコードではあるが、何分とも老齢の跡は敝うべくもない。それよりはむしろ私は、十五、六年前のフォックス・レコードに入っていた六枚のザウアー・レコードに興味を持っている。恐るべき粗悪な録音であったが、ベートーヴェンの『悲愴ソナタ』や『あおきダニューヴ』の演奏に、まだ残るザウアーの若さの匂うものがあったような気がする。


ローゼンタール Moritz Rosenthal

 一八六二年オーストリアの生れでザウアーと同年だ。大学で哲学を研究したり、音楽美学を研究したりするうち、リストの弟子になって、中年からピアニストの名乗りをあげた人だ。その演奏は Brillant を極める。老来幾分素気そっけなくなり渋味をさえ加えたが、そのペダリングは絶妙と言われ、風格の大と、気宇の高さとにおいて当代の第一人者である。かつてブゾーニ、パデレフスキーと並び称せられたのも当然であろう。
 レコードは、パルロフォンやパテーにもあるが、日本コロムビアには二曲六枚、日本ビクターからは四枚発売されている。
ピアノ協奏曲ホ短調』(ショパン・作品一一)
コロムビアJ五四四三J八三九〇傑作集二〇六
 この協奏曲はかつて日本パルロフォンからも出されたことがある。吹込みはさまで新しいと言えないが、優麗典雅さにおいては、ブライロフスキーもルービンシュタインも敵ではない。ローゼンタールの代表的レコードであろう。管弦楽は伯林ベルリン国立歌劇場、指揮はワイスマンだ。
 新しい吹込みでは、ビクターのマズルカロ短調及び変イ長調JD九二四などが手頃であろう。他にシューベルトのウィンの夕』があり(これはそんなに良くない)、ショパンの円舞曲変イ長調』や『夜想曲変ホ長調変ニ長調』などがある。ますます盛大で、じゃんじゃんレコードに入れてくれるのは嬉しいことだ。
 スペインのビクターに、『ブリュー・ダニューヴ・ワルツ』をピアノに編曲したのが入っているが、恐らくローゼンタールでは一番面白いものだろう。日本で手に入れることは困難だが。


ラモンド Frederic Lamond

 一八六八年生れ、イギリス人でローゼンタールやザウアーより四つ若い。と言っても、もう七十歳だ。リストのほかにハンス・フォン・ビューローに教わったという。
 近頃のラモンドはひどくいけなくなったが、なんか少し気の毒なような気がしてならない。電気以前のピアノ・レコードで最も活躍したのはこの人で、私たちにとっては、昔の先生のような気がしているからだ。多分大震災直後であったろう。ベートーヴェンの『第五ピアノ協奏曲(皇帝)』と『ヴァイオリン協奏曲』とが一ぺんにHMVに入ったことがある。ヴァイオリン協奏曲はメンゲスの演奏で、ピアノ協奏曲はラモンドの演奏であった。あの二組のレコードを求めるために、私はどんなに骨を折ったか(経済的に)。そして、あれを何遍くり返して聴いたことか。お蔭でラモンドとメンゲスがしばらく耳について、後から入って来るレコードが、どんな巨匠名手のでも、しばらく嘘みたいに聞えてしようがなかったものである。
 私もラモンドの演奏を、今では決してうまいと思っていない。ベートーヴェン専売のピアニストで、ベートーヴェン以外は一つも弾かないが、いかにも平坦で無感激で、老人趣味で、情緒がない――それは私も認めている。しかし、今から十五年前、ラモンドがまだ五十五、六歳の頃入れた『熱情アパショナタソナタ』の良さだけは、私はまだ忘れることが出来ない。あの平坦な、少しもいきまないアパショナタ・ソナタが、形容詞通り、地球に砲丸の雨を降らせるような気がしたものだ。あのレコードはもう私のコレクションにもない。恐らく吹込みの悪さから来るカムフラージュだったかも知れないが、とにかく、同じラモンドの『月光ムーンライトソナタ』などより、遙かに優れたものであったように記憶している、今聴いたら、恐らく馬鹿馬鹿しい幻滅におわるかも知れないが――。
 ビクターの電気にラモンドは、『ワルドシュタイン・ソナタD一九八三と『ロンド作品五一ノ二JH一三五しかない。どちらも大したものでなく、蒐集に加える興味もあるまいが、記念的な意味なら、前者を選んでも、さして不見識ではあるまいと思う。


デ・グリーフ Arthur de Greef

 現存大家のうちの異色ある一人だ。ベルギー生れで、晩年のリストに教えられ、グリークの友人として、その解釈紹介者として有名であった。一八六二年生れというから、ザウアー、ローゼンタールと同年なわけである。
 この人のレコードはことごとく十年前の吹込みで電気の初期のものだが、非常に味の良いものばかりで、私は心をこめて愛蔵している。世間の人はあまり注意も払わないようだが、折があったら、もう一度聴き直してみることをおすすめしたい。
 ピアニストの中でも、これくらい情味のある演奏をする人は少い。技巧は満点的で、少しも芝居気も誇張も当て込みもないが、しみじみと人の心に食い入る良さを持っている。人間は同じ老人になるなら、こういう心境を持った老人になりたいと思うほどだ。代表作は、
ハンガリー幻想曲』(リスト)
ビクター九一一〇
ピアノ協奏曲イ短調』(グリーク・作品一六)
ビクター九一五一名曲集二四

 以上二曲であろうと思う。『ハンガリー幻想曲』はほかに良いレコードのない関係もあるが、この見事な技巧と、行き届いた情愛とがとてもたまらない。ともすれば技巧に溺れる曲を、こうゆかしく弾くグリーフはえらい。
『グリークの協奏曲』も吹込みは古いが、グリークの紹介者としての良さを代表するものだ。こんなに悪い録音のうちにも、グリークへの理解と同情がなつかしまれる。
 ほかにメンゲスのヴァイオリンと組んで、
小奏鳴曲ト短調』(シューベルト・作品一三七ノ三)
ビクターJD一一四一
がある。最も愛すべきレコードだ。曲も申し分なく可憐だ。この番号は再プレス番号で、元のはD一三九八となっている。
 もう一つ、メンゲスと組んで入れた『クロイツェル・ソナタ』がある。ビクターは廃盤にしてしまったが、私は『クロイツェル・ソナタ』のレコード中で、五本の指に数えられる佳作であったと思う。フーベルマン盤、クライスラー盤、ティボー盤、それにこのメンゲスとグリーフ盤を入れて、あとはゴールドベルクか、クーレンカンプのにしたい。
 第二楽章のピアノの美しさなどは、今でも耳についているくらいだ。再プレスをさせたいレコードの一つである。
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女流ピアニスト一束





ロン Marguerite Long

 Long と綴った名前の女流ピアニストは二人ある。一人はビクターのカスリーン・ロングで、一人はコロムビアのマルグリット・ロンだ。英人カスリーン・ロングは大したことはないが、仏人マルグリット・ロンは、フランスのピアノ音楽界の女大御所で、大姐御おおあねご的存在になっている。
 ロンのパリ音楽院の教授としての声名もすばらしいが、その演奏家としての腕前も、有髯ゆうぜん男子を瞠若どうじゃくたらしめるものがある。一八七四年生れだというから(貴婦人の歳を数えては甚だ相済まぬが)、決して若い人ではない。しかしその人間として、音楽家としての魅力は、我々の耳にまでことごとく響いている。
 ロンの楽壇におけるその年配と魅力と芸達者とを総計して、私はいつでも、女優のフランソア・ロゼエを思い出してならない。女優と比較しては、まことに失礼だが、これは私一個の偽らざる感想にほかならない。
 ロンのピアノは、あくまでも良き意味の女らしい。あらゆる女の敏感と、魅力と、たしなみと、柔かさと、そして夢とをあわせた上、近代的な聡明さで練り上げたもの――即ちロンの芸術である。ロンのレパートリーはモーツァルトからショパン、フォーレ、ドビュッシー、ミロオに至るが、それをことごとく消化し切って、いささかの不安も渋滞も感じさせない。
 ロンはフランスの印象派の詩人の感覚と、フランスの数学家の聡明さを持つ。その上に巴里女パリジェンヌ艶冶えんや韵致いんちを加えたと言ったら、恐らくロンの全貌を想像することが出来よう。その演奏は必ずしも綺麗ではなく、また女らしいセンチメンタリズムなどは微塵もない。ロゼエのように老巧で、ロゼエのようにあだっぽくて、そしてロゼエのように渋い。不思議な女流ピアニストを我らは所有したものである。代表的なレコードは、非常に沢山あるが、
フランス山人の歌詞による交響曲』(ダンディ)
コロムビアJ八五二七傑作集二五一
ピアノ協奏曲』(ラヴェル)
J八〇三五傑作集一五二
ピアノ協奏曲』(ミロオ)
J八七七七
ノクチュルヌ第六番』(フォーレ)
J八七五五

 まだあるだろう。が、ことごとく近代楽に興味を持つ人でなければ向くまい。
 むしろ一般のレコードを享楽する人のためには、
レントよりも遅く』『雨の庭』(ドビュッシー)
J七六九一
ピアノ協奏曲第二番ヘ短調』(ショパン・作品二一)
J七八三二傑作集一二二
ピアノ協奏曲イ長調』(モーツァルト・K四八八)
J八六三二傑作集二五一

の女らしい美しさをすすむべきだろうか。ただし、前二者は吹込みが少しく古い。
 フランスらしいものを、優雅な洒落しゃれたものを好む人は、一、二枚のロンを逸してはならぬ。


タリアフェロ Magda Tagliafero

 若くて美しいタリアフェロが、近頃人気のライトを浴びて立ったのは不思議のないことである。ロンがロゼエならばタリアフェロはアンナ・ベラでもあろうか。その清新幽婉ゆうえんな演奏は誰でも魅了せずには措かない。惜しいことに評判は大したものだが、レコードは至って少く、コロムビアの世界名盤集の中にある一枚を除けば、僅かに二枚だ。ショパンの即興幻想曲コロムビアJ八三六九の内気な華麗さとほのかなる脂粉の匂いをなつかしむ人もあろう。裏はアルベニスのセヴィリア』だ。
 もう一枚はウェーバーの華麗なるロンドJW二九、これも充分愛されていい。


クラウス Lily Krauss

 ゴールドベルクと一緒に日本を訪ねたクラウス夫人である。ピアノ独奏には大したものはないが、ゴールドベルクとの組合せで良いものを提供している。


コーエン Harriet Cohen

 英国生れの女流ピアニストで、なかなかの大物弾きだ。バッハの前奏曲と遁走曲』を第一番から九番まで弾いているが、情味があり過ぎて、バッハの神性とは遠い。


ヘス Myra Hess
シャーラー Irene Scharrer

 ヘス、シャーラー、コーエンの三人は従姉妹いとこ同士だということである。この中ではヘスが一番すぐれている。バッハの『カンタータ』を弾いたのなどは良かったが、日本にはない。日本コロムビアはシューベルトの『ソナタ=イ長調』を廃盤にして、ヘスの名をカタログから除いたのは惜しいことだ。
 シャーラーは素直な女らしいというほかに特色はない。メンデルスゾーンの狂想的回旋曲』が一枚残っている。


セルヴァ Blanche Selva

 私の好きな女流ピアニストの一人だ。フランス人らしい敏感さと、良い趣味を持った人で、ベートーヴェンの『スプリング・ソナタ』やフランクの『ヴァイオリン・ソナタ』をマッシアと入れているが、日本コロムビアにはない。この人のバッハの『パルティタ第二』も良いものであったが、これも日本にはない。


デヴィース Fanny Davies

 クララ・シューマンに手を取って教えられたという人だ。この人のシューマンの子供の情景コロムビアJ七七七七やシューマンの『コンチェルト』などは自慢のものらしいが、どうも少し年を取り過ぎて、面白いところまでは行かない。弛緩しかんした演奏だ。


サマロフ Olga Samaroff

 アメリカ生れの女流ピアニストで、昔からビクターの赤盤に入っている。かつてストコフスキー夫人だったことがあり、技術も相当以上だが、豊かな光沢に欠けている。ドビュッシーの『沈める寺』一枚しかないが、これはあまりよくない。


ナイ Elly Ney

 昔のブランスウィックに何枚か入っていたが、近頃はビクターにもコロムビアにもポリドールにもある。イギリスの女流では大姐御おおあねご(甚だ失礼な言葉だが)格であるらしい。ピアノは非常に老巧な人で、エリー・ナイ三重奏団を組織してピアノ・トリオをポリドールに入れている。ビクターにシューベルトの即興曲ヘ長調[#「即興曲=ヘ長調」はママ]楽興の時嬰ハ短調JD六二〇R・シュトラウスのブルレスケJD四〇六がある。後者が大物だ。


ランドフスカ Wanda Landowska

 言うまでもなくクラヴサンのランドフスカだ。クラヴサン(ハープシコード)の項に詳説するが、ピアニストとしても知名で、その、
ピアノ協奏曲戴冠式ニ長調』(モーツァルト・K五三七)
ビクターJD一〇七六名曲集六六三
は名演奏とされている。
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未来の人・忘られた人





ハンブルク Mark Hambourg

 昔は良かった時代もある。超弩級どきゅう的な大ピアニストたちが自重してレコードに入れなかった頃のハンブルクは、相当興味を持たれたが、今ではどうにもしようがない。一八七九年の生れというとまだ少しは弾ける筈だが、乱暴で荒々しくて、老人臭くて、無意味な誇張があって、どうにもならない演奏をする人だ。イギリスで盛んに入れているのは、習慣を尊ぶ国の惰性でもあろうか。『月光ソナタ』と『悲愴ソナタ』は大変なものだが、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第一番』と共に、本人の得意のものであろう。


ガンツ Rudolph Ganz

 昔はピアノで鳴らした人だが、今はアメリカのセント・ルイス交響管弦楽団の指揮者になっている。ビクターの電気直前から少しずつ入ったが、大方廃盤になって、メンデルスゾーンの『春の歌』とエンゼンの『葉蔭にそよぐ風』一枚しかない。重要性のない人だ。


コープラント George Copeland

 ビクターに『現代スペイン音楽JE一三一四JI五を入れている。達者な人だが経歴は判らない。サティーのグノシエンヌ』、ミロオの別れJF三三などは変ったものだ。少し奇嬌な[#「奇嬌な」はママ]感じもするが。


ドナーニ Ernst von Dohnanyi

 ハンガリーの有名な作曲者だ。コロムビアに、自分がピアノを弾きながら指揮したというモーツァルトのピアノ協奏曲第十七番ト調K四五三J七四〇六傑作集六七があるが、そんなに面白いものではない。ピアニストで指揮者で作曲者なるドナーニのおもかげを示しただけだ。ハンガリーのHMVにはシューマンの『幼き日の思い出』が二枚入っている。これはドナーニのピアニストとしての腕を見られるものだ。ただしあまり上手ではない。イギリスのHMVの茶色盤にも、ヨハン・シュトラウスのワルツがある。


サミュエル Harold Samuel

 イギリスのピアニストでバッハを専門に弾く。この人の電気以前のバッハの多くのレコードは、私たちには尊いコレクションであり、良い先生でもあった。今ではもう過去の人になっている。味の淡い人だが、しっかりした技巧を持った古典弾きらしい人だ。ビクターが全部を廃盤にしたのは残り惜しくもある。『前奏曲と遁走曲=ハ長調』などはフィッシャー以外にあれだけ良く弾いた人はない。もっとも十何年か前の吹込みではあるが。ほかに『英吉利イギリス組曲』や『パルティタ第二番』があった。


グレーンジャー Percy Grainger

 一八八二年オーストラリアに生れ、ドイツに学び、ブゾーニとグリークの感化を受けて、アメリカに定住した作曲者だ。この人の作曲したものには『浜辺のモリー』のような可愛らしい曲が多い。
 ピアニストとしても相当の人で、昔のコロムビアにはなかなか良いものが入っていた。電気になってからは大したものはないが、それでも『バッハ作品よりピアノへの編曲集コロムビアJ八〇五一傑作集一五四などは、この人でなければと思う大作だ。リストやブゾーニやタウジッヒの編曲したもののほかに、自分の編曲した『歓びの鐘』も一曲弾いている。壮麗でもあり、堂々としている。
 この人の演奏は同門のペトリとは反対に、技巧よりも情緒が優れている。あまりに上手じょうずでなくても腹の立たない人だ。これは日本コロムビアにはないが、アメリカで入ったシューマンの『交響的練習曲』などは、コルトーに比べると、肌理きめの荒い乱暴なものだが、一種の良さがあって、私はまだ捨て兼ねている。
 コロムビアにはほかにショパンの『ソナタ=ロ短調(作品五八)』があるが、これはあまり良くない。
 日本コロムビアで絶盤にしてしまったが、自作の『浜辺のモリー』を弾いたのは、惜しいレコードであった。十年前の古い吹込みではあるが、記念的にも復活さした方がいい。


マードック William Daniel Murdoch

 若い若いと言っていたマードックももう五十になった。電気以前のコロムビアに、大曲や新しい曲を入れて、私たちを喜ばせた人だ。一八八八年オーストラリアの生れで、イギリスに住みついているが、演奏は感覚的で柔かくて、ほのかな味を持っている。まずい人ではないが、鍵盤を撫で廻すような歯切れの悪さが欠点で、それさえ我慢すれば、味の良いピアニストだ。昔はサモンズやカテラルやスクヮイヤーと組んで、ソナタやトリオの大物をじゃんじゃん入れていたが、近頃はポリドールで時々出すだけ。そのポリドールの十三年度のカタログがないので、新しいのは紹介出来ない。
 ハイドンの愉快な鍛冶屋[#「ハイドンの『愉快な鍛冶屋』」はママ]四五二〇四ファリアのアラゴネーズ三五〇五七ショパンの夜想曲嬰ヘ長調嬰ハ短調四五二六八などがある。


ソロモン Cutner Solomon

 変った経歴を持ったイギリスの少壮ピアニストで、その技巧の冴えは驚歎されている。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番コロムビアJ七六九七七〇〇傑作集一〇四、新しいレコードではないが、この人の得意の曲目で、代表作とされている。ほかに、リストのハンガリー狂詩曲第十五番J八二一一の見事な演奏がある。


マース Marcel Maas

 ベルギーのピアニスト、デュボアのヴァイオリンと組んでよくレコードに入っている。私はこの人のピアノをデュボアのヴァイオリンより好きだが、それは録音のせいかも知れない。清澄な音と柔かい感情とを持った人だ。フランクの前奏曲合唱曲遁走曲J八〇六七傑作集一五六はコルトーと違った清麗なよさがある。


プランテ Francis Plante

 世界最年長のピアニストだ。一八三九年フランスに生れたというから、日本流に言えば百歳だが、まだレコードに入れる元気があるからえらい。非常な物識りでフランス楽壇の大長老で――実に驚くべき老人だ。レコードは四、五年前に入ったボッケリーニのメヌエット』とグルックのガヴォットコロムビアJ五一七四、いずれもプランテ自身の編曲で、堂々たる演奏だ。棚橋絢子刀自あやことじ短冊たんざく以上だろう。世にもめでたいレコードである。


ヒルト Franz Josef Hirt

 ドイツでは相当のピアニストだ。ベルン三重奏団の主宰者で、ピアノの味は固くて渋い。清朗な美しさはないが、しっかりした人らしい。シューベルトの『ピアノ・ソナタ=ト長調(作品七八)』がある。オネガーのローマン地方の追憶ポリドール三〇〇二八も変ったレコードだ。


プーランク Francis Poulenc

 作曲者として有名すぎるので、そのピアノは忘られがちだ。自作だけを演奏しているが『即興曲コロムビアJ五五二四でも『ノクチュルヌJ五四九二でもなかなか面白い。


シロタ Leo Sirota

 日本在住のピアニストだ。この人は有名な技巧家で、ストラヴィンスキーの知遇も得たと言われている。昔のパルロフォン(?)などに入ったシューマンの『交響的変奏曲』などは、日本でわざわざ取った人もあった筈だ。『ペトルシュカ』のピアノに編曲した『ロシア舞蹈』が入っていたが、廃盤になったらしい。今では山田耕筰氏のものが二、三、入っている。


その他

 このほかに、ビクターに黒盤でショパンの『マズルカ曲集』を入れているニーディルスキー(Nidzielski)は巧緻な技巧を持った人だ。
 コロムビアへショパンの『二十四の前奏曲』を入れたロルター(Robert Lorttat)もコルトーと対峙して、新味を誇っているところを褒めていい。
 同じコロムビアのシャンピ(Marcel Ciampi)は、フランスで評判の新人、ドビュッシーの『花火』と『沈める寺』は若々しい名演奏だ。
 コロムビアのコーエンの後を承けてバッハの『前奏曲と遁走曲』を十番から十七番まで入れたジョーンズ(Howard Jones)は評判にはならなかったがしっかりした人。

 ほかにポリドールにオバアート、デイモン、ビクターにタンスマン、チェレプニン、テレフンケンに大ニキシュの子のミーチャ・ニキシュ、エルドマン、ルップがある。
 特にビクターにブッシュのヴァイオリンと組んで入っている、ゼルキン(Rudolf Serkin)は最も将来を嘱目しょくもくされるだろう。爽快な音色や、聡明な解釈など、――独奏レコードはないが、非常に立派なものである。それに次いでは、ビクターやテレフンケンに入っているルップ(クライスラーの伴奏者)は大きな好奇心を持たせる。
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過去の大ピアニスト


この項は電気以前のレコードばかりである。特殊の研究者や、骨董的レコードの蒐集者以外には用事のないものであるが、レコードの使命のためには極めて興味の深い題目である。参考のために重要なピアニストたちを記録しておく。

ブゾーニ Ferrucis Benvenute Busoni[#「Ferrucis Benvenute Busoni」はママ]

 一八六六年フローレンスに生れ、先年物故した近代の大ピアニストである。二十歳前後に伊太利イタリーを出、ライプチッヒからロシア、アメリカと楽旅を続け、一八九三年再び欧州に還って、生涯の大部分をドイツに過し、作曲者として、ピアニストとして、そしてバッハの研究者として大名を馳せた。ピアニストとしては、パデレフスキー、ローゼンタール、ホフマンらと並び称せられ、バッハ研究者としては、オルガン曲のピアノ編曲、平均率洋琴曲のピアノ編曲等、功績は甚だ少くない。その音楽論の著書を以て、日本人にも親しい存在である。
 レコードは、コロムビアにたった四枚入っているが、いずれも電気以前の旧吹込みで、十年も前に絶版になったものであるが、巨匠ブゾーニのおもかげを偲ぶために、ファンの争奪が盛んになり、今日では中古市価ピアノ・レコード中の最高と言われている。曲目は左の通りである。

   ┌Nocturne in F sharp(Chopin)
11432┤
   └Etude in G flat(Chopin, Op. 10, No. 5)
   ┌(a)Prelude No.1(b)Fugue in C Major(Bach)
11445┤
   └Etude in E Minor(Chopin, Op. 25, No. 5)
11456 13th Hungarian Rhapsody
   ┌(a)Prelude in A Minor(b)Etude in G flat(Chopin)
11470┤
   └(a)Prelude to Choral (Bach-Busoni)(b)Scotch Step(Beethoven)
 右のうちで、バッハの『前奏曲と遁走曲=ハ長調』は最も有名なレコードであるが、『黒鍵こくけんエチュード』や『第十三ハンガリー狂詩曲』も良く、ブゾーニ編曲のバッハの『コラール』も興味が深い。
 バッハの『前奏曲と遁走曲』の高貴な美しさはフィッシャーといえども及ばないだろう。ブゾーニのバッハというものは世にも尊いものである。が、このレコードは骨董中の骨董で、容易に手に入るものでない。馬鹿馬鹿しいことだが、時価四枚五十円を下らないだろう。


グリーク Edward Hagerup Grieg

 グリークが自作を演奏したレコードは、私の知る限り三枚ある。一枚はHMVへ入っている“Au Printemps※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、270-1](「春に」)で、日本ビクターから歴史的レコードとして白レーベルで出ている。これはサラサーテのレコードと同様、多分蝋管ろうかんから平円盤にリ・レコードしたものだろうという説があるが、音は非常に小さくて、それこそ有るか無きかの可愛らしいものだ。これは白レーベルのなら容易に手に入ると思う。しかしHMVのは歴史的レコードに入っていて多少物々しいだろう。
 もう一つ日本で手に入るのはパルロフォンにある“Norwegian Bridal Procession※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、270-6]を日本でプレスしたものだ(E五一四一)。これは割合に鮮麗に入っている。当時の評判では自動ピアノのロールに入ったのを電気録音したものだということだったが、確かなことは判らない。しかし音の響き工合を聴くと、ペダルを踏み通しに踏んでいるような、なるほど自動ピアノのような機械的な趣があるから、恐らくは本当かも知れない。日本では黒レーベルの一円五十銭盤で出た。大して珍しいものではない。
 ところがここにもう一つのレコードがある。このことは既に何遍か話もし、書きもしているので、少々気がさすが、フランスのグラモフォンのごく初期の、黒レーベルに金文字で印刷し、裏にエンジェル模様のついたレコードにグリークが一枚あるのだ。曲は言うまでもなくパルロフォンと同じで、こちらは Cort※(アキュートアクセント付きE小文字)ge Nuptial Norv※(アキュートアクセント付きE小文字)gien とフランス語になっており、名前は Monsieur Grieg と入っている。番号は(G. C ― 35517)、裏を返して見ると、Reproducted in Hanover と浮出し文字が読み取られる。このレコードを持っていたのは『ディスク』の青木謙幸君だ。今から十一、二年前、同君はそれを手に入れて、珍重に珍重していたのである。私は何とかしてそれを分捕ぶんどりしようと一生懸命に骨折った。幾度か同君の宅まで足を運んで懇望したが、何としても譲ってくれようとしない。ある時などは、親戚で大学教授をしている人の奥さんの仲人を私がやったことがあって、ちょうどその家が青木君のすぐ傍だったので式服のまま乗り込んでせがんだことさえあった。が、同君甚だ頑強で、どうしても首を縦に振らない。――しかし、それからずっと後、たしか三、四年たってからのことかと思うが、ようやく心機一転して同君は割愛してくれた。私はそれを綺麗に磨いて、それこそ貴重品中の貴重品として保存している。音は勿論蚊の鳴くような可愛らしいものだ。
 グリークが死んだのは二十世紀になって間もない頃だから、レコードはそう沢山に入っていないことは言うまでもない。以上のレコードはいずれも録音の幼稚なものであるし、曲も三枚とも可愛らしいものだ。


ホフマン Joseph Hofmann

 ゴドフスキーやローゼンタールと並び称せられた大ピアニストである。大正十二年の秋日本を訪ねる予定になっていたが、あの大震災のために果さず、我らは永久にこの名匠の演奏を聴く機会を失ってしまった。
 レコードは電気以前のしかなく、コロムビアとブランスウィックに十数枚入っているだろう。レコードから判断すると、無類の端正瑰麗かいれいな演奏をする人で、ゴドフスキーほど繊細ではなく、しっかりした技巧と、程よき感情を持った人である。十数年前アメリカに定住し、ピアノの教師として、アメリカのメッカを以て許されているが、近頃ビクターに復活して、レコードに返り咲くという噂もあるが、確かなことはわからない。この人のピアノ奏法に関する著書は極めて有名なもので、日本には牛山みつる氏の訳があった筈である。
 私の蒐集にあるホフマンのレコードのうちでは、コロムビアのリボン盤にあるショパンの、『華麗なワルツ(作品一八の一)』とメンデルスゾーンの『かりの歌』の腹合せ、ブランスウィック十二インチの『ハンガリー狂詩曲第二』、同十インチのベートーヴェンの『土耳古トルコ行進曲』とショパンの『ワルツ=嬰ハ短調』が名品である。
 わけてもこの『土耳古行進曲』の鮮かさは、古い吹込みのハンディキャップを超えて燦然たるもので、一時上司小剣かみつかさしょうけん氏がこのレコードを非常に愛されていたのを記憶している(もう十四、五年前のことだが)。私は幸いにしてこのレコードを二枚手に入れ、最近若き蒐集家W氏に捧呈して喜びをけた。
 裏の『ワルツ=嬰ハ短調』も、非常にうまい演奏だと私は信じている。
 ホフマンは一八七六年生れで、まだそんなに老い朽ちた年ではない。そのレコード界復帰を熱望するのは私ばかりではないだろう。


ダルベーア Eugen d'Albert

 ドイツ近代の巨匠の一人で、ピアニストとしてばかりでなく、作曲家として知られている。一八六四年に生れ、つい二、三年前に物故したが、レコードはフォックス(VOX)とドイツ・グラモフォンに数枚ずつあり、フランスのパテー・レコードに、私の知っている限りではたった一枚の電気レコードがある。
 若い時分は非常に技巧家であったらしいが、レコードは晩年のものばかりで、作曲家らしい我儘な解釈と、老人らしい傍若無人さで、ぼっとりした弾き方をしている。
 フォックスのレコードが来たのは震災直後で、阿南あなみ商会が輸入して小川町おがわまちのフランス書院で売っていた。その中にダルベーアの弾いたショパンの『ワルツ=嬰ハ短調』のあったのを聴き、六円という値段に驚いて買わずに帰ったが、そのぼっとりした美しさが、一晩中耳について眠られなかったので、翌る日飛んで行って求めたことがある。トリオの部分を一遍余計にくり返して弾いたレコードで、傍若無人さが人をめたものだ。その頃はこの上もなく美しいと思ったレコードではあるが、今聴いてみると幻滅そのものだ。
 グラモフォンのかき餅のようなレコードに入っている、モーツァルトの『土耳古トルコ行進曲』とシューベルトの『即興曲(作品一四一の三[#「作品一四一の三」はママ]』は当時の名レコードであった。電気以前の大変な録音だが、なかなかに捨てがたい。こんな不思議な情緒を持ったピアニストは今はない。
 パテーに入ったウェーバーの『舞蹈ぶとうへのいざない』とシューベルトの『軍隊行進曲』はダルベーア唯一の電気レコードだが、弛緩した演奏で幻滅を感じさせる。しかし骨董的には非常に尊いものだろう。私は高知の大脇氏の好意で手に入れた。


サンサーンス Charles Camille Saint-Sa※(ダイエレシス付きE小文字)ns

 仏蘭西フランス近代の大作曲家、サンサーンスの弾いたピアノ・レコードというものは、フランスのグラモフォンやHMVに片面四枚入っていたが、その後両面二枚になって、今でも第二カタログに掲げられている。日本ビクターからは一枚だけ、自作の『アルジェリア組曲の陸軍行進曲』と『悲歌(作品一四三)』が出ている(DB七〇四)。アルジェリア組曲の方はサンサーンス自身のピアノ曲で、悲歌の方はヴィヨームのヴァイオリンにサンサーンスがピアノ伴奏を付けたものだ。吹込みも古く、大した面白いものではないが、なんかの記念にはなるだろう。
 日本で出ない方の一枚は、『大洪水の前奏曲』と『ブリダの夢』だ。前者はヴィヨームのヴァイオリンで後者はサンサーンスのピアノだが、私はこの『ブリダの夢』が一番可愛らしいと思っている。
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チェロ


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カサルス Pablo (Pau) Casals





 チェロの王者カサルスの話をするのはまことに楽しい。最近も若きチェリストS氏を迎えて、とうとうカサルス礼讃の半日を語り暮してしまったほどである。
 S氏がチェロに興味を持ったのは、大震災前のコロムビア・レコードでカサルスの演奏を聴いたのが動機であったそうだ。なんとかして、あの柔かくて高雅で、含蓄があって温かで、豊かで平明で、魅力的で内面的な、カサルスのような音を出せる先生に就きたいと念願し、東京から神戸まで、良師を求むるの旅を続け、遂に六年の辛酸を嘗め尽し、更に幾年かの精進を続けて修業したということであった。
 芸術に志すものの努力は、誰でもS氏に劣らぬものがあるだろう。しかしS氏が、誰のチェロを聴いても、「あれはうまい。が、カサルスとは違う」という理由で、自分の方から世に聞えた良師を避け、カサルスのまぼろしを追って六年の修業の旅を続けたのであった。もとより日本にカサルスのおもかげを伝える人があるべき筈はないが、せめてはその音なり、芸術家としての気稟きひんなりが、カサルスに一脈通う人を求めたのであろう。
「日本のチェリストたちは、レコードのカサルスさえもあまり聴いていない」とS氏は言うのである。疎懶そらんなのか、尊大なのか、それは解らないが、とにもかくにも、小さい型の中に閉じ籠って、あまり世界の音楽界の水準に近づこうともしない人たちの多い中に、S氏の如き夢想家は、その動機が青年らしい稚気であるにしても、頼もしいことだと思う。

 カサルスの魅力というものは、チェリストS氏を俟って知るべきではない。いやしくもチェロという楽器に興味を持つものにして、――極言すれば、西洋音楽に関心を持つものにして、カサルスのチェロに興味と尊敬とを持たない者があるだろうか。ヴァイオリンのクライスラー、ピアノのパデレフスキーは、偉大は即ち偉大であるに相違ないが、演奏家としてステージに立っては、もはやカサルスの若さに及ぶべくもない。
 年齢において、クライスラーより僅かに一歳の弟なるカサルスが、今日なお若きチェリストたちの追随を許さぬものを持っているのは、なんという興味の深いことであろう。今日のカサルスに対して、「衰え」とか「老い」とかを云為うんいする人があったとしたならば、それは自ら音痴を告白するものである。カサルスは二十何年前と比べて、レコードの上では絶対に老いも衰えも感じさせない。よしや電気吹込み前後の事情の斟酌しんしゃくすべきものがあるにしても、私の知っている限りで、カサルスは昔のままのカサルスであり、滋味と美しさと輝きと深さを加えたほかに、一九一〇年代のカサルスは、そのままの姿で一九三八年の我々の面前に立っているのである。
 大震災前コロムビア商会に来たポスターのカサルスは、もはや燦然たる頭顱とうろであった。当時私たちはカサルスを、世界第一のチェリストであり、六十歳以上の頽然たいぜんたる老人とばかり思い込んだのである。その後カサルスの年齢が、燦然たる頭顱ほどではなく、クライスラーに一歳の弟であり、ティボーより僅かに四歳の兄に過ぎないと知って、どれほど安堵の胸を撫でおろしたことであろう。
 カサルスの電気以前のレコードを、私は二十七面まで保存している。この蒐集は大震災前後から、今日に至るまでの努力の結晶で、電気以後のカサルスのレコード、数十枚の蒐集だけでは、いわゆるカサルス党を満足せしむるには足りないと信じているからでもある。カサルスの電気以前のレコードについては、また別に語る機会もあるだろうが、その中の二、三、例えばバッハの『アリア』、『組曲=ハ長調』、モーツァルトの『五重奏曲=ニ長調のラルゲット』から、ブルッフの『コール・ニドライ』の大物から、アメリカ・コロムビアに入った、小さい唄の編曲物に至っては、まさに天下の絶品というべきで、驚くべき雑音を我慢して、私は今でもこの古レコードに一夕いっせきの興をやることを楽しみにしている。
 カサルスの『ゲー線上のアリア』は電気以前だけでも三種入っている――かつての私はそんなことまでも研究して、自分の蒐集の準拠にしていたものである。カサルスに対する崇敬と、情熱とは、クライスラーに対するよりも、更に真剣であったことを、私はこの機会に言っておきたいと思う。その証拠は、私はクライスラーの電気以前のレコードを幾枚も持っていないが(二、三十枚――即ち全クライスラー・レコードの約三分の一ぐらいしか持っていないが)、カサルスのレコードについては今もなおその蒐集の完成を念頭に置いており、事実、ほとんど十中九までは集め尽したことでも知れるだろうと思う。

 カサルスは、なぜそのように尊敬されるか、これは簡単なようであるが、なかなか一言にしては尽されない。
 カサルスは当代第一のチェリストであることは誰でも知っているが、何ゆえに当代の第一人者であるかとなると、これはなかなかむずかしい問題である。第一にカサルスは、チェロの奏法に新しい境地を開いた人で、従来世界を風靡した十九世紀風のチェリストたちの、思いも寄らぬ境地まで到達したことが挙げられるだろうと思う。カサルスのチェロを、クレンゲルやグリュンマーのような純ドイツ系のチェリストたちと比べるとよくわかると思う。グリュンマーもクレンゲルも、ドイツ正統派の名匠で、この上もなくうまい人たちであるが、カサルスと比べると、音も、表現方法も、内容的なものも、全く違ったものである。
 カサルスには勿論手堅い技巧もあるが、その上に、なんかしら、輝かしい芸術境がある。気高い音楽性と言ってもいい。彼の全人格から発散する気稟と滋味が、一種の雰囲気となって、その中に我々を溶かし込んで行くのである。カサルスには、スクヮイヤーのような粉飾も芝居気もなく、ハリスンのような蜜の甘さもない。むしろ淡々としてなんの技巧もないかに見える裡に、味わえど尽きず、めども及ばぬ深いものを持っているのである。
 コルトーとティボーは、ピアノとヴァイオリンの名匠で、当代の第一線に立つ芸術家であるが、カサルスに兄事して、その教えを乞う事実は、消息通のよく知るところで、ティボーに親炙しんしゃせる人たちは、ティボーの口を通して、カサルスに対する尊敬推服の言葉を一再ならず聴かされた筈である。
 更に消息通は、コルトーの今日あるは、カサルスの助言と感化の賜物であるとさえ極言している。カサルスは一流のピアニストに匹敵するほど、ピアノにも練達であり、カサルス・トリオのメンバーとして、カサルスに誘掖指導される機会が、コルトーには少からずあったことが、コルトー今日の大を致さしめた原因であるというのである。
 カサルスが管弦楽の指揮者として、一風格を有することは、その指揮したレコードを聴いたもののことごとく知っているところであろう。そのレコードは電気の初期のもので、極めて古い録音であるにもかかわらず、カサルスはさながら一挺のチェロを駆使するがごとく、その楽員を統制し、ベートーヴェンの『第四シンフォニー』その他に、その抱懐を示しているのは珍とすべきである。

 カサルスの演奏こそは、チェロという楽器の最高機能の発揚であるばかりでなく、純粋に芸術的である。彼の前にはもはや小ざかしき技巧はない。古典も近代楽も、カサルスの前には一様な素材で、作品の色彩傾向を超越して、最高至純の表現を与えるのがカサルスの流儀である。バッハの無伴奏『組曲スイート』も、アメリカの小唄も、カサルスにとっては、同じような素材であろう。楽曲の傾向をやかましく詮議立てし、コッソリ演奏者の主観を入れて、粉飾見事に演奏する人たちに比べて、カサルスの淡々たる態度は、なんという至人の芸風であろうか。
 カサルスの演奏態度は、極めて平淡自由なもののようである。パイプを脂下やにさがりにくわえたままチェロを奏しているカサルスの写真を私はしばしば見受ける。あの好々爺こうこうや然とした自由な態度は、やがて美しい音楽の流るるがごとく生れ出る原因でもあろう。
 カサルスの演奏料は一回三千ドルと言われている。この世界最高の演奏料も、カサルスに取っては決して高価でないが、その出演料にわざわいされて、コルトー、ティボーと組合せになるカサルス・トリオの演奏を困難ならしめているという噂にして本当ならば、三千ドルの罪も決して軽くはない。

 繰り返して書いたように、カサルスのチェロの特色は、その音楽的絶対価値の高いことで、単に、甘いとか美しいとかの、官能的な標準で律すべき問題ではない。カサルスのもう一つの特色は、曲に対する愛情と理解である。それから、心の自由さである。カサルスには頑固な偏見も、年寄臭い主観もない。彼の演奏は常に人間愛の泉から出発する光輝と愛情に包まれているが、その表現力は、百の性格ハンドレッド・キャラクターを持っている。バッハを一番バッハらしく演奏するのはカサルスであり、ベートーヴェンを一番ベートーヴェンらしく演奏する人はカサルスであり、同時にドヴォルザークを一番ドヴォルザークらしく演奏するのもカサルスである。その演奏には少しの芝居気も気取りもなく、少しの誇張も無理もない。新即物主義を奉ずる若い演奏家たちも、カサルスほど客観的にはなり得ず、浪曼ろうまん派の演奏家たちも、カサルスほど豊かな情緒は持ち得ない。カサルスを以て、チェロの王者の地位を擬するのは、その技巧の末の問題ばかりではない。彼の詩人的な魂と、音楽に対する理解識見と、その融通自在、寛達豪放なる態度に対する当然の敬意であったのである。

 これをレコードについて言えば、カサルスには一枚の駄作もない。電気以前のレコードさえ、そのことごとくが珠玉的で、識見と趣味との高い専門家たちが、その全部を蒐集せずんばまざらんとしているのでも解るだろう。まして電気吹込み以後のカサルスに至っては、等級階段を付するさえ已に冒涜的で、ただ銘々の好むところに従って羅列する結果に過ぎないことになるだろう。

 まず一枚物から挙げて見ると――
 たった一枚だけカサルスのレコードが欲しいというのがあったとしたら、私はバッハの『ミュゼット』とポッパーの『マズルカ』の裏表になっている十インチレコードを薦めるだろう(ビクター一三四九)。これは良いとか悪いとか、代表的とかなんとかいう意味ではなく、万人の胸に食い入って、その琴線をかき鳴らさずば已まざる、美しくも楽しいレコードだからである。わけてもこの『ミュゼット』の飛躍的な美しさは、燦々としてに降る春の陽光ひかりのようでもあり、珠玉の飛泉のほとりに、羽衣霓裳ういげいしょうをかかげて踊る天女の群れのようでもある。
 続いてあと二枚追加する人のために、同じバッハの『アリア』と『緩徐調アダジオ(ビクターJD一二六五)、もう一枚バッハの『甘き死よ来れ』と『メヌエット』(七五〇一)を挙げたい。バッハの『アリア』はニ長調の組曲の『アリア』をチェロの独奏曲に編曲したもので、G線一本だけで弾くヴァイオリンよりは、遙かに自由で寛濶な美しさに恵まれている。カサルスは電気以前に三度、電気になって一度、通計四たびこの曲をレコードしているが、そのいずれもが美しく、オルガンの伴奏、管弦楽の伴奏、とりどりの面白さがある。
『甘き死よ来れ』は言うまでもなくバッハの有名なカンタータの一節で、このカンタータを同じビクターに、ソプラノ歌手のラシャンスカが歌ったのがある筈である(このレコードも推されていいものだ)。併せ聴くのも興味が深かろう。
 更に二、三枚のカサルスを求める人に、私はビクター愛好家協会の第二回の掉尾の名レコードであった『コール・ニドライ』、二枚三面を算えなければなるまい。『コール・ニドライ』は、マックス・ブルッフの傑作、ヘブライの祈りの歌であるが、幽玄哀切な調べに、宗教も国境も越えて人の心に沁み入るものがあるだろう。歌ではかつて電気以前のグラモフォンに入ったバリトンのシュワルツが傑出していたが、ヴァイオリンではフーベルマンの入れ直しがすぐれ、チェロでは、多くのチェリストが一枚ずつは入れているが、カサルスの高雅幽遠な趣に及ぶのは一枚もない。このレコードの第四面目はバッハのチェロの組曲第二番(ハ長調[#「ハ長調」はママ])のプレリュードで、名レコードの一つにされているが、最近、カサルスは幸いバッハの組曲の二番と三番とをレコードし、続いて他の組曲をも、全部吹き込むことになったと伝えられている。
 ところで、以上に掲げたレコードを聴いた人たちは、もう五、六枚のカサルスを欲求するのは、当然のことであろうと思う。その時私は、ワーグナーの『タンホイザーの夕星の歌』と『名歌手の懸賞の歌』(ビクター六六二〇)、ゴダールの『ジョスランの子守唄』(JD一三二四)、サンサーンスの『白鳥』とシューベルトの『楽興の時』(JE七)、シューマンの『トロイメライ』(JE五九)、フォーレの『夢の後に』(JE一五八)などを挙げなければなるまい。他に、グラナドスの『ゴエスカス』もボッケリーニの『アダジオ』もショパンの『夜想曲ノクターン』も良いが、全部挙げるのは、一つも挙げないのと同じことだ。要は、カサルスに駄作はない、どのレコードを持っていても反覆聴いて飽くことを知らないというのが本当であろうと思う。

 カサルスの組物は、スペイン動乱以前のものと、スペイン動乱以後のものと二通りに区別するのが便利である。前者はコルトー、ティボーなどと組合せになった豪華極まるレコードであるが、その代り吹込みはやや古く、後者は協奏曲または新顔のピアニストなるホルスゾフスキーとの組合せであるが、吹込みは極めて新しい。(カサルスのレコードはすべてビクター)
 前者に属するものは、

魔笛の主題による七変奏曲』(モーツァルト作、ベートーヴェン編曲)
(チェロ)カサルス
(ピアノ)コルトー
三〇四七
チェロ奏鳴曲イ長調』(ベートーヴェン、作品六九)
(チェロ)カサルス
(ピアノ)シュルホーフ
DB一四一七
複協奏曲イ短調』(ブラームス、作品一〇二)
(ヴァイオリン)ティボー
(チェロ)カサルス
コルトー指揮、カサルス管弦団
八二〇八一一名曲集九九
 くり返して言うがカサルスに駄作はない。前期のものと言っても、この三曲はことごとく珠玉的だ。『モーツァルトの魔笛の主題による七変奏曲』は手堅い技巧と、コルトーとの組合せの面白さで、曲はあまり通俗なものではない。
 一般的にはむしろベートーヴェンの『ソナタ=イ長調(作品六九)』をすすめるのが穏当であろう。この曲についてはここに贅するまでもなく、常識的に周知のことである。ベートーヴェンの中期の傑作の一つで、あれほど壮大に、あれほど絢爛にチェロという楽器を歌わせた曲を私はほかに知らない。他にも二、三、この曲のレコードがないではないが、情意兼ね備わって、慈味溢るるごときカサルスの演奏に比べると、暁天の星よりも心細いものであった。カサルスのレコードを求める人は、小曲一、二に次いで、このベートーヴェンのソナタを採るのが、最も間違いのない方法であろう。これほど卓犖たくらく高遠なベートーヴェン魂を把握した演奏は滅多にあるものでない。
 第二に私はブラームスの「複協奏曲」をすすめたい。この吹込みは番号の示す通り、電気の極めて初期のものであり、曲は容易に素人が食いつけないほど難解苦渋なものだ。しかし、この曲はブラームスの全作品中でも傑出したもので、掬めども尽きぬ慈味があり、深沈たる美しさが底流をなしている。ブラームスが、知己ヨアヒムと名チェリスト、ハウスマンのために書いた作品で、その技巧のむずかしさも代表的であり、その構成の壮大雄麗さもまた代表的である。この曲には一点一画の無駄もなく、一まつの不足もない。達人ブラームスが技巧の粋を傾けて書いたと言ってもいい。
 その代りこの曲は少しの妥協も甘美さもないために、西洋音楽に馴れない人には厄介至極なものであるかも知れない。コルトー、ティボー、カサルスの三名人を揃えたと言っても、この吹込みはもはや十年以上の昔のものだ。私が第二位に置くのはそのためである。

 カサルスの大物のレコードの本当の美しいものは、この一、二年間に吹込まれたものから選ばなければなるまい。スペインの動乱を逃れて、英国、仏蘭西フランスあたりに楽旅を続けているカサルスは、最近HMVのために、組物を三つ吹き込んだ。

チェロ協奏曲変ロ長調』(ボッケリーニ)
(チェロ)カサルス
ロナルド指揮、ロンドン交響管弦団
JD一〇二三二五名曲集六五六
チェロ・ソナタヘ長調』(ブラームス・作品九九)
(チェロ)カサルス
(ピアノ)ホルスゾフスキー
JD一二二六名曲集六七九
チェロ協奏曲ロ短調』(ドヴォルザーク・作品一〇四)
(チェロ)カサルス
セル指揮、チェッコ・フィルハーモニック管弦団
JD一一八七九一名曲集六七五

 以上の三曲である。伊太利イタリー古典の異彩にして、チェロの技巧家なるボッケリーニの、華麗にして甘美極まる協奏曲に配するに、ブラームスの、少し気むずかしいが、一種の気魄を蔵するソナタ、最後にドヴォルザークの甘美な協奏曲を以てしたのは面白い。ボッケリーニの協奏曲は、言いようもなく美しい。カサルスでなかったら、その美しさに溺れるだろうと思うほどだ。ブラームスのソナタは、晩年の作品に共通の渋さを持ったもので、歌には乏しいが気魄にはすぐれている。カサルスに非ずんば、この曲の征服はむずかしかろう。技巧的の難曲ではなくて、これは思想的の難曲だからだ。
 ドヴォルザークの協奏曲は最も新しく、この曲のおびただしいレコード中にも嶄然ざんぜんとしてエヴェレストのごとく聳える。この華麗妖艶な曲を、カサルスはこの上もなく典雅に慈味溢るるばかりに弾きこなしている。
 他に、バッハの『組曲』を全部レコードするというニュースが世界のファンを驚喜さしている。(そのレコードのうち二曲六枚は近く、日本ビクターから頒布されるそうである)
 コルトー、ティボーと組合せになっているカサルス・トリオについては、室内楽の項に改めて詳述する。

 パブロ・カサルスは一八七六年スペインのバルセロナに生れ、オルガン弾きであった父親から、音楽の手ほどきを受けた。最初、ピアノ、ヴァイオリン、フリュートを学んだのはそのためで、カサルスがヴァイオリンやピアノに練達なのもそのためである。チェロをホヒ・ガルシェーに学んだのは十二歳、十四歳の時は音楽院で一等賞を得、二十二歳の時はコンセール・ラムルーでチェリストとしてデビューした。一九〇一年アメリカ訪問以来、名声は世界的となり、遂に当代一流中の一流人となったのである。
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フォイアマン Emanuel Feuermann





 フォイアマンが最初に日本を訪ねたとき、「チェロでツィゴイネルワイゼンを弾く」ということが、宣伝の大文句になった筈である。チェロで『ツィゴイネルワイゼン』を弾くことは、技巧としてはいかにもむずかしいことには相違ない。が、我らの好みから言えば、『ツィゴイネルワイゼン』は、やはりヴァイオリンで聴きたい。そして、チェロにはやはり、チェロらしい曲が沢山ある筈だから、その最も芸術的なものを、良い演奏で聴いた方がいい、ということであった。
 私は旋毛つむじ曲りのようだが『ツィゴイネルワイゼン』の曲目を避けた。どうしても『ツィゴイネルワイゼン』をチェロで聴きたくなったら、チェロのために編曲した『ツィゴイネルワイゼン』を、フェルドーシの古いレコードで聴いただけで充分だ。遠来の芸術家フォイアマンが、技巧の限りを尽して弾く『ツィゴイネルワイゼン』などを、はあはあ言いながら――松井源水げんすい独楽こま廻しでも見るような心持で――聴くことは、どうも、相すまぬことながら私の性に合わなかったのである。
 不完全あるいは不適当な楽器で、無理な曲を演奏しようとするものほど、私のかんにさわるものはない。宣伝文句や新聞の紹介などのお蔭で、私のフォイアマンに対する第一印象はかなり悪くされていた。私はフォイアマン来朝以前、そのレコードをうんと聴いて、非常に傾倒していたにかかわらず、私の胸の中には、フォイアマンに対する歓迎準備は出来ていなかったのである。
『タンホイザーの序曲』をピアノで弾いて、「ああお手々がくたびれた」といった恰好をして見せたモイセヴィッチのように、私はあまり愉快でない技巧家を見せつけられて、がっかりするばかりでなく、折角レコードを通して築き上げたフォイアマンに対するイリュージョンを、滅茶滅茶にするのではあるまいかとおそれたのである。
 ところが、驚いたことに、フォイアマンの実演を聴いて、私は、技巧のための技巧といった感じを少しも受けなかったばかりでなく、その天馬空を行くような、寛達自在な表現に魅せられて、全く息をくのも忘れたほど感動してしまったのである。
 これは全く驚くべきチェリストであった。従来レコードで聴いた、私どものチェロ音楽の評価を、根柢から叩き壊したばかりでなく、――これなら『ツィゴイネルワイゼン』を聴いても悪くないな――といった気持にまでなっていたのである。「実にけしからぬ男だ」私はそんなことを考えていた。そしてすっかり上気してしまった額を叩きながら、三つも四つも弾き続ける、少し精力的なアンコールに陶酔しながら、しばらく座から起つことも忘れていたことを記憶している。
 フォイアマンはまだ三十代の青年だ。が、一体どこからあんな劃時代的な思想と飛び離れて鮮かな技巧を生み出したことだろう。フォイアマンの演奏には、欠点をあされば、あまりに夢がなさ過ぎることである。マレシャルと対照すると、その豪宕卓犖ごうとうたくらくな気魄に、ただ茫然とするばかりだ。――これを「女学生的でなさ過ぎる」と一部の人はしゃれていうが、フォイアマンには情緒の代りに知的な美しさがあり、甘美さの代りに※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくする力のみなぎりがあるのである。
 フォイアマンの解釈演奏は極めて聡明で、リアルで、近代人らしい。ただそれだけではない。単なる冷たい即物主義者であるためには、フォイアマンは若くて情熱家だ。時にそれは、粗笨そほんではあるまいかとさえ疑わせるほどの奔放な情熱の所有者でもあった。新響とハイドンの『協奏曲=ニ長調』を演奏したとき、私は胆を潰したことを記憶する。チェロという楽器が、こんな威力を発揮して、管弦楽と対立し得るとは想像もしなかったのだ。
「これは松井源水とは違うぞ」と私は思った。この巨人的なアーティストに、『ツィゴイネルワイゼン』などをひかせるのは勿体ない、とも思った。私は家へ帰って、もう一度フォイアマンのあらゆるレコードを、再検討する気になったのはその時である。
 フォイアマンは力と情熱の演奏家だけではない。彼はユダヤ人に本質的な旋律の美しさと、近代青年の聡明なリアリズムを併せ持っている。彼の音は、マレシャルやカサドのように、決して一粒りの珠玉的な甘美さを持ったものではないが、楽曲の精神を把握して、そのクライマックスに盛り上げる力にいたって、僅かにヴァイオリンのフーベルマンを以て比ぶべきだと思う。
 もっともフーベルマンはやや旧時代の演奏家で、その演奏には、多分のロマンティックな幽霊が付き纏っているが、フォイアマンに至っては、そんなたいなものは微塵もない。その代り若さから来る粗笨さはある。カサルスのような完成美や、マレシャルのような神経質な整頓は見られない。
 フォイアマンのレコードは、かつてパルロフォンに入っていたが、六、七年前からコロムビアに移され、今では三つの大物と、十四、五枚の一枚物とがカタログに掲げられている。新しいのでサンサーンスの『白鳥』、シューベルトの『セレナード』(J五五七八)が手頃なレコードであろう。『コール・ニドライ』(J八二八七)、グノーの『アヴェ・マリア』とバッハの『アリア』(J八三二六)などは有名なレコードであり、ベートーヴェンの『モーツァルトの魔笛の主題による変奏曲』(J八五二五)は最も代表的なレコードであろう。
 フォイアマンの傑作も、大物の方に求めなければならない。ドヴォルザークの『協奏曲』(J八二八九―九三)は少しく古いとしても、左の二つは逸することの出来ないものだ。

協奏曲ニ長調』(ハイドン)
(チェロ)フォイアマン
サージェント指揮、交響楽団
J八五一一傑作集二二六
ソナタ第一番ホ短調』(ブラームス・作品三八)
(チェロ)フォイアマン
(ピアノ)パス
J八三一七傑作集一九四

 ハイドンの『協奏曲』は、日本でも実演され、ほかの人のレコードもあり、いろいろ比較する機会にも恵まれているだろう。フォイアマンの演奏は簡素雄大な表現で、女性的なスギアと比べると面白い対照になる。フォイアマンの代表作として、私はこのレコードを掲げたい。ブラームスの『チェロのソナタ』は、ピアティゴルスキーのもある。ピアティゴルスキーはルービンシュタインというよきコンビを得て、一段の強味を添えているが、この曲の若さと美しさが、フォイアマンの気稟に反映して、儼然たる存在であることに疑いはない。対立してそれぞれの特色を誇るものだろう。

 エマヌエル・フォイアマンは一九〇二年オーストリアに生れた。チェロの師は名匠故クレンゲルであるが、ドイツ系のチェリストたちに比べると、遙かに自由で、遙かに変った存在である。後ベルリン・フィルハーモニーの独奏者として活躍したが、ユダヤ人排撃の厄に遭ってドイツを去り、かつて再度まで日本を訪ねたことは人の知るところだ。ピアティゴルスキーは一部に早老を伝えられ、マレシャルは巴里パリ趣味に隠れて大いに雄飛する野心がないとすれば、次の時代のチェロの王座を狙う者は、フォイアマンと、あるいは年少ながらアイゼンベルクのほかにはあるまい。カサドは味は良いと言っても、今のところ王者の貫禄には遠い。
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ピアティゴルスキー Gregor Piatigorsky





 昭和十一年、軍人会館でピアティゴルスキーを聴いた時、私はその正確な技巧と、濁りのない美しい音に帽子を脱いだ。ピアティゴルスキーはうまいという話は聴いていたが、こんなに伸び切った良い腕を持っているとは思わなかったのである。
 かつて、ドイツ・パルロフォンにピアティゴルスキーが入った時、私はそのレコードを、かなり骨を折って手に入れたことがある。もう七、八年も前のことだが、曲は『コール・ニドライ』であった。このレコードも、その後三、四年経って、日本コロムビアにプレスされ、今では珍しくもなんともないものになってしまったが、当時まだカサルスの電気の『コール・ニドライ』は入らず、ほかに良いレコードもなかったので、ピアティゴルスキーが珍重されたことは一通りでなかった。
 ピアティゴルスキーの出現は、欧州の楽壇でも驚異的なものであったらしい。モスクワ帝室歌劇場の首席チェロ奏者になったのは十五歳の時で、シュナーベルに知られて、伯林ベルリンフィルハーモニーの首席チェロ奏者に据えられたのは二十歳はたち前後の時であった。ヴァイオリンは楽器の形が小さい関係から、しばしば少年天才を出すが、チェロの天才少年は、ピアティゴルスキーのような長大な肉体に恵まれた者でなければむずかしいのかも知れない。
 それはともかく、ピアティゴルスキーのチェロは、ミルシュタインのヴァイオリンのように、大した輝きがないくせに、妙に落ち着き払ったあらたかなものであった。情熱とか、気魄といった埃臭いものよりも、もっと高くて、普遍的で、そして芸術的なものをピアティゴルスキーは持っているらしく見えたのである。
 日本を訪ねた時のピアティゴルスキーは、僅かに三十歳を越したばかりの青年であったが、その芸風はフォイアマンよりも遙かに老成して、危なげのない、本格的な演奏ではあったが、いて欠点らしいものを探し出したなら、なんとなく平坦に過ぎて、個性的なものが稀薄だったかも知れない。増沢健美ますざわたけみ氏はこれをくせがないと言っていられる。あるいはそうかも知れない。少くともピアティゴルスキーの演奏は、端正で優美ではあったが、フォイアマンにおけるがごとく、聴衆が自分を投げ入れる気にはなれない性質のものであった。冷たいとか、素気そっけないとか言うのではなく、それはピアティゴルスキーの芸術が、純粋に客観的で、謙遜して言えば、我々の低俗趣味に「お前仕掛けチュトアイエ」で話しかけてはくれないのかも知れない。
 一歩あやまったら、これはジンバリストになるのではないか――ふとそんな気もした。が、いつの間にやら、その平明な演奏が、平押しに興味と興奮を押し進めて、我々の小ざかしき疑念などを追っ払い、最後の傾倒と陶酔とへ引き入れてしまったのである。ピアティゴルスキーは全く不思議な存在であった。
 このまま早老さえしなければ、――換言すればホルモンの補給が潤沢であったなら、ピアティゴルスキーは、若き大家たちのうちでも最も大きなものになるであろう。ピアティゴルスキーこそは、カサルスの後を襲ってチェロの王座にく人かも知れない。カサドでは柔軟に過ぎ、フォイアマンでは粗笨に過ぎると言えないことはない。ピアティゴルスキーが一生懸命自重して、その演奏に思想的な裏付けをし、個性的な良さを加えたならば、天下無敵の名匠ともなるであろう。

 ピアティゴルスキーのレコードは、コロムビアとビクターに入っている。コロムビアの方はやや古く、ビクターの方は幾分新しい。ピアティゴルスキーのレコードを、たった一枚だけ欲しいという人には、私は比較的吹込みの新しい、ウェーバーの『チェロ奏鳴曲=イ長調』(ビクターJD四〇五)をすすめる。くり返して聴いて、その爽快な滋味を満喫させられる。
 コロムビアには、一枚物が比較的多く、十三年度のカタログには五枚掲げてある。そのうち『コール・ニドライ』(J八五七二)は代表的なものであったが、吹込みはやや古く、シューマンの『トロイメライ』、メンデルスゾーンの『五月の微風メイ・ブリーズ(J五五二一)、サンサーンスの『白鳥』、ポッパーの『村人むらびとの歌』(J五五二五)などはやや新しい。しかし、ピアティゴルスキーは小手先の技巧家ではなく、この人のレコードから、小気のきいた小曲をあさるのは無益の道楽のような気がしてならない。これは筆者一個の好みであるが、一体チェロの小曲には、面白いものは非常に少く、ほんの少しばかりのものを除けば、どんな大家のプログラムも、大部分はヴァイオリン曲や、ピアノ曲や、歌曲の編曲物で占められている有様で、私のような門外漢には、飛びつくようなチェロの小曲というものをあまり記憶していない。
 チェロの良さはやはり大曲における雄大な表現力か、でなければ、アンサンブルの美しさだ。コンチェルトか、ソナタか、已むを得ずんば四重奏曲に私はチェロの本当の美しさを見出すと言いたい。カサルスのような神技は別だが、大抵のチェロのレコードなら、その人のうちで出来の良い大曲を選ぶに越したことはない。(これはしかし私一個の好みに過ぎない)
 ピアティゴルスキーの大曲は、
チェロ協奏曲イ短調』(シューマン・作品一二九)
(チェロ)ピアティゴルスキー
バルビロリ指揮、ロンドン・フィルハーモニック管弦団
ビクターJD三五三名曲集五三三
チェロ奏鳴曲ホ短調』(ブラームス・作品三八)
(チェロ)ピアティゴルスキー
(ピアノ)ルービンシュタイン
ビクターJD九九三名曲集六五〇
チェロ奏鳴曲ト短調』(ベートーヴェン・作品五ノ二)
(チェロ)ピアティゴルスキー
(ピアノ)シュナーベル
ビクターJD四八六名曲集五六一
 以上三曲、いずれをいずれと言いがたい出来だ。ピアティゴルスキーには、むらと癖のないことは、この三曲を並べて聴いてつくづく感ずるだろう。しかしレコード道の本格的な蒐集法から言えば、第一番に、ピアティゴルスキーの恩人にして、ベートーヴェンのピアノ曲の演奏者として、当代の第一人者を以て許されるシュナーベルとの組合せによる、ベートーヴェンの『チェロ・ソナタ』を採るのが正当であろうと思う。この曲は、ベートーヴェンの初期の作品に共通の華麗な美しさと共に、後年のベートーヴェンを暗示する一脈の苦渋さがあり、ピアティゴルスキーの雄大平明なげんと、シュナーベルの瑰麗典雅なピアノが、寸分のすきもなく歌い合う壮観を味わうことが出来るだろう。
 続いて私はシューマンの『協奏曲』をすすめたい。この曲の持つシューマンらしい憂欝さと深沈たる美しさは管弦楽が英国のものであり、指揮者がバルビロリであるにもかかわらず、相当に聴かれるものである。最後にブラームスの『ソナタ』も前二者に劣らぬ名盤ではあるが、これは既にフォイアマンのレコードがあり、ピアティゴルスキーにくみする人が多かるべきは予想にかたくないが、私は仮にこれを第五番目に置いて、フォイアマンに花を持たせようと思う。

 ピアティゴルスキーは、一九〇四年ロシアのエカテリノスラヴに生れ、父の手ほどきを受けて、九歳にしてサンサーンスの協奏曲を奏したと言われる。モスクワの帝室歌劇場の首席チェロ奏者から、もう一度正式に音楽院の教育を受け、ロシア革命後は欧米に遊歴して、一躍その名を世界的ならしめた。彼はその年齢、識見、技倆、等より見て、次の時代のチェロの王座を擬せられているのは当然のことである。
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カサド Gaspar Cassado





 カサドがレコードに入ったのは、もう十四、五年前のことで、電気以前のドイツ・ポリドールに吹き込まれた、ボッケリーニの『メヌエット』や『アダジオ』は、一部少数のファンに、非常に喜ばれたものである。
 チェロの王者カサルスのレコードには限りがあったが、チェロのレコードを好きな人たちの望みには限りがなかった。その時分は、フォイアマンもピアティゴルスキーもマレシャルもレコードのなかった頃で、チェロのレコードというと、カサルス以外にはほとんどなく、僅かな、ドイツ系の第二流アーティストや、英国のあまり上手でないチェリストのレコードに満足しなければならない状態であった。
 その渇望の真中へ、カサルス張りの楽名で、情緒濃やかで、柔かで含蓄の深い、カサドのレコードが、ほんの少しばかり入って来たのである。こんなことを言ったら、レコードに関心を持たない音楽家たちは、ファン気質かたぎの馬鹿馬鹿しさを笑うかも知れない。しかし、我らに共通の望みは、多少録音技術はまずくとも、より芸術的な、良き演奏に対する渇望であった。スクヮイアーやフェルデシーでは満足しなかったもの、もっと輝きのあるものを、カサドは持っていたのである。
 カサドは四十歳になったばかりで、フォイアマン、ピアティゴルスキーと共に、世界における三大少壮チェリストである。ポリドールに入った最初のレコードは、恐らく二十五、六歳の吹込みであろう。若きチェリストの、香気ある演奏風格は、なんにも知らぬ我ら日東のファンを、狂気せしめたことは一通りでなかった。私はひそかにカサドを愛蔵して、共にカサドを語る友のないのを口惜くやしいことに思っていた。
 言うまでもなくカサドは、カサルスと故郷を同じゅうし、カサルスと同じく、スペインの血の通う芸術家である。もとよりカサルスの持つ宏大な気宇はないが、カサルスの持つ趣味性、カサルスの持つ芸術観、カサルスの持つ技巧、それらのものの幾分は伝えている。至人カサルスよりは、スケールは小さいが、その代りカサルスよりは若く、カサルスよりも柔かい。
 王者カサルスに比べると、先生と弟子ほどの違いはあるにしても、カサドほどカサルスに近く、カサルスの俤を伝えた人もまた少い。その上カサドは作曲家としても一家をなし、シューベルトの『アルペジオーネ・ソナタ』の編曲のごときは、カサドの『アルペジオーネ協奏曲』が、私一個の好みではあるが、ヘルシャーのひいている『アルペジオーネ・ソナタ』よりどんなに面白いかわからない。小曲『親愛の言葉』は、師カサルスもまたひいているが、カサドのやさしき一面を伝えてほほえましきものだ。
 カサドの演奏には、柔かさと甘さはある。情緒と愛とはある。しかし、若き人の特色なるべき気魄と精力のないのが欠点とされている。もっと粗笨そほんでもいい。輝きと力が欲しいではないか――そんなことを言う人も決して少くはない。事実、チェロという音色の柔かい楽器を駆使して柔かさと甘さだけに終始しても、なんか一脈の食い足らなさのあるのは、まことに已むを得ないことである。が、チェロをスクヮイアーのように扱う人に比べて、カサドの演奏には、なんという美しい詩がかくされていることだろう。眼を剥いたり、見得を切ったりする、芝居気沢山な演奏や、粗剛、雑駁な音を、気魄と間違えるような演奏に比べて、カサドの内気な慎み深さは、――多少女性的であるにしても、なんという親しみの多いものであったであろう。
 カサドのレコードは、電気以後『アルペジオーネ協奏曲』とドヴォルザークの『協奏曲』以外にあまり良いものはない。電気以前のレコードは、その粗悪な録音にカムフラージュされてたまたま我らの興味に投じたのか、電気以後のカサドが、不幸にしてよき条件に恵まれなかったのか、一枚物のカサドには、残念ながら、何をさしいても求めたいというほどのレコードはないようである。
 コロムビアに入っている五枚の一枚物は、いずれも吹込みの古いもので、『コール・ニドライ』や『ラルゴー』は、かつての名盤であったというほどのことだろう。一枚備えたいという人はシューマンの『ゆうべの唄』とフォーレの『夢のあとに』の表裏(コロムビアJ五〇三〇)、またはタルティニの『グラーヴェ』と自作の『親愛の言葉』(テレフンケン一三六一八)をすすめたい。わけてもテレフンケンの『グラーヴェ』と『親愛の言葉』は吹込みも比較的新しく、ビクターに師カサルスの同じ曲のレコードがあるだけに、研究者に取っては興味は深かろう。
 カサドの傑作レコードは、なんと言っても先に掲げた二つの大物だ。
チェロ協奏曲ロ短調』(ドヴォルザーク)
(チェロ)ガスパル・カサド
イッセルシュテット指揮、伯林フィルハーモニー交響楽団
テレフンケン一三六二二
アルペジオーネ奏鳴曲に拠る協奏曲イ短調』(シューベルト作・カサド編)
(チェロ)ガスパル・カサド
ハーティ卿指揮、交響楽団
コロムビアJ七七一一傑作集一〇六

 ドヴォルザークの『チェロ協奏曲』は、コロムビアにフォイアマンのが入っているが、これは日本パルロフォンで七、八年前に一度プレスしたもので、その吹込みは決して新しくない。ビクターにはカサルスのがあり、これは、四沢したくうるおす春の水のような、行き届いた美しさと、豊かな輝きはあるが、優艶で人好きのする良さは、録音の新しいカサドもまた捨て難い。
 この『協奏曲』は、ハイドンの『チェロの協奏曲』と共に、最もよく演奏され、我らの耳にチェロの大曲中でも親しみの多いものだ。通俗――と言っては語弊があるが、ともかく、ロマンティックで情熱的で、感情が濃やかで、素朴で、『新世界ニュー・ワールドシンフォニー』や『アメリカン四重奏曲』や『ドゥムキー三重奏曲』のように欝陶しくなくて、人によってはドヴォルザークの明るい半面を代表したとも思われるこの協奏曲を、一番好きだという人があるかも知れない。
 この曲に示したカサドの演奏は、カサルスの平明豊醇ほうじゅんさともまた違ったものである。カサドの特色なる甘美な柔軟さは充分あるが、その上、情熱と燃焼と、力のみなぎりが、かなりよく表現されている。カサドのレコード中、この協奏曲を以て第一位におすのはそのためである。
『アルペジオーネ協奏曲』は、シューベルトの時代に発明されたアルペジオーネという弦楽器のために作曲されたソナタを編曲したもので、アルペジオーネという楽器は今はないが、幸いにしてこの曲だけが我らに残され、協奏曲に、またはソナタに、チェロのために編曲されて、シューベルトの天才の良さを味わわせているのである。
 この曲の美しさは第一楽章だが、それはいかにも燿奕ようやく的で、人の心に食い入る魅力がある。一度この曲を聴いたものは――シューベルトの総ての傑作における場合と同じように――恐らく生涯忘れることは出来ないだろう。それはシューベルトだけに許された、美しい旋律のせいでもあろうが、これを協奏曲に編曲して新しい生命を与えたカサドの力も認めてやらなければなるまい。
 指揮のハーティ卿は英国楽壇第一のわけ知りで、カサドのチェロをたすけて、平明だがよき効果をあげている。優れたレコードの一つとして――少くとも私の好きなレコードの一つとして掲げておく。

 カサドは一八九七年(または一八九八年)、スペインのバルセロナに生れ、パブロ・カサルスに就いてチェロを学び、少年時代早くも門下の逸足いっそくとして世に知られた。彼の演奏には旧守派の固陋ころうさも、徒らにチェロを唄わせる芝居気もない。純粋に芸術的で、正統的で、そしてやや甘美で柔かい。多くのチェリスト中、カサルスを別として、最も親しみの深い風格を持った人である。
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マレシャル Maurice Marechal





 レコードを聴いた感じと、実演に接した感じの違いは、人によって相当大きな隔たりを持つものであるが、その最たるものは、恐らくヴァイオリンのフーベルマンとチェロのマレシャルであろうと思う。
 フーベルマンの小さい音が、あんなに強大に聴えるのもレコードなら、マレシャルのデリケートな繊弱な演奏が、冷徹、強靱な音になるのもまたレコードである。フォイアマンはチェロと四つに取っ組んで、縦横にこれを駆使したが、マレシャルの演奏は、神経質で細心で、痛々しいほどチェロに打ち込んでいる。
 第一部の演奏はまだ微笑と余裕があった。が、第二部の終りになると、マレシャルは磨き抜いた表現をするために疲れ果てて、聴いている方が痛々しい位であった。
 アンコールを幾つも幾つも弾くとき、私はとうとうドアの外へ逃げ出していた。マレシャルの痛々しい努力――どんな些細な点にも、渾身の注意を配って已まない努力を見るに忍びないような気がしたのだ。
 マレシャルは、その顔も、態度も、心構えも、芸術観も、そして技巧も、表現方法も、ことごとくフランス人であった。むしろ巴里パリっ子であった。あまりにもフランス人的であり、巴里パリっ子気質であったかも知れない。マレシャルのチェロを聴いていると、私の神経までが針のようにとがって行く。――それは彫虫ちょうちゅうだ。すいの粋なる芸術道だ。泥臭いフォイアマンや、冷たく甘いピアティゴルスキーに比べて、なんという恐ろしい違いであろう。
 私はしかしこの人に一番好感が持てた。この人のひくフランスの美しい古典や、洒落しゃれた近代楽は天下の絶品と言ってもいい。ステージに立っているには相違ないが、聴いてくれよがしの態度などは微塵もない。自分で苦しんで、自分で創造して、自分の芸術を楽しんでいるようだ。大向うなどは大した問題ではない。喝采が湧き起ると、静かに立ち上って、フランス人らしく行儀よく一揖いちゆうする。
 マレシャルの演奏には、ドイツ風の気魄や泥臭さはない。その代り、一音一音が珠玉を綴ったように美しい。その玲瓏れいろうさはやがて、マレシャルの実演を聴いたことのない人に、冷たい鋭い感じを与えるのであろう。実演のマレシャルは、痛々しいほど神経質で、この上もなくデリケートだ。
 マレシャルの奇蹟はそればかりでない。日本のコロムビア会社が、日本で吹き込ませた多くの日本民謡に、マレシャルはなんという優れた技巧と愛情を示したことであろう。多くの高級ファンたちは、恐らくマレシャルの日本物に対して、一顧も与えなかったに相違ない。しかし、チェロの小曲に、あまり大きな興味を持たない私までが、マレシャルの日本民謡には、帽子をって三歎せざるを得なかった。日本の古民謡並びに創作民謡の編曲物に対して、マレシャルはなんという美しい同情と表現を与えたことであろう。マレシャルの良さと美しさを、私は思いも寄らぬところに発見して、美しい姿を与えられた日本の民謡のために、ほほ笑ましき心持にならざるを得なかったのである。

 マレシャルのレコードは甚だ少くない。日本の歌曲をひいた十インチの一枚物では、多忠亮おおのただすけの、『宵待草』(コロムビアJ五四八二)と、『荒城の月』(J五五三七)を採るだろう。
 外国物の小曲では、カサルスを除けば、この人に最も親しめるものがあるだろう。甘美で平俗なものを好む人は『よるの調べ』(J五五八九)や『ラスト・ローズ・オブ・サンマー』(J五五五六)も悪くあるまい。ややむずかしい物を好きな人には、ボッケリーニの『アダジオ―アレグロ』(J八三三〇)や、バッハの『アリオーソ』、フランクールの『ラルゴーとアレグロ』(J五五四九)、フェルウの『ソナタ=イ調』(J八四三三―四)なども良かろう。
 少し古いものに良いものがあるが、録音のよくないものはここに掲げることを見合せよう。

 大物ではドビュッシーの『ソナタ』があるが少し古い。やや新しいのではやはり、
協奏曲ニ短調』(ラロ)
(チェロ)マレシャル
ゴーベール指揮交響楽団
コロムビアJ八一三三傑作集一六六
 これもそんなに新しいレコードではないが、マレシャルの唯一のアルバム物であり、その犀利さいり※(「析/日」、第3水準1-85-31)めいせきな難技巧征服の演奏と、マレシャル固有の神経の行き届いた冷たい美しさ、それに一種の詩が人を魅了するだろう。管弦楽指揮のゴーベールも申し分がない。マレシャルの代表作の一つとして充分に推せるものであろう。

 マレシャルは一八九二年フランスのディジョンに生れた。パリ音楽院を出て、二十歳にしてコンセール・ラムルーの独奏者にぬきんでられたと言われる。マレシャルの境地は独特で、個性的だ。そのレコードに変ったものの多いのは、マレシャルの境地を証明する。
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その他のチェリスト





ザルモンド Felix Salmond

 英国のチェリストだ。常識的で健康な演奏が、好感を持たせる。代表作はベートーヴェンの『チェロ・ソナタ=イ長調(作品六九)(コロムビア七〇〇四―六、傑作集二七)、電気の初期のもので、録音は非常に悪いが、演奏は決して悪くない。


スクヮイアー W.H.Squire

 これも英国のチェリストで、非常に達者な人だ。電気以前サモンズやマードックと組んで入れたトリオが評判であった。今では一流のチェリストがレコードにどんどん入るので、スクヮイアーは取り残された形だ。派手で強大な音と、劇的な演奏を特色とする人だ。


スギア Guihermina Suggia

 カサルスの弟子で、一時その夫人だったことがある、カサルス張りの悠揚たる柔かさを持った人だ。女流チェリストの第一人者であることは言うまでもない。電気以前HMVでこの人のレコードを盛んに取ったことがあるが、今では顧みる人もなくなった。しかし決して下手な人ではなく、ハイドンの『協奏曲=ニ長調』(ビクターD一五一八―二〇)などは、今でもカタログにあり、女らしい癖はあるが、充分に聴けるものだと思う。

 ほかにビクターにマルセリ・ヘルソンベアトリス・ハリソンがある。どちらも黒盤程度の人で甘美な演奏を生命にしている。


クレンゲル Julius Klengel

 ドイツ近代の巨匠の一人だ。その門弟にフォイアマンなどを出している。ドイツ風のチェリストの総本山と言ってもいいが、レコードへ入れた時はもはや八十歳を過ぎて、僅かに名人のおもかげを偲ぶだけであった。ポリドールにたった二枚ある。バッハの『サラバンド=ニ長調』、タルティニの『アダジオ・カンタビーレ=ト長調』(一〇五九五)、ポッパーの『マズルカ=ト短調』、コジマンの『タランテラ』(一〇六一三)

 ほかにフルデシーがある。古くて達者な人だが、光彩の少い人でもある。

 チェロのレコードの骨董では、かつて日本を訪ねたホルマンを始め、クライスラーの弟のフーゴー・クライスラーキンドラー、作曲家のハーバートなどがある。ホルマンのレコードは好事家に喜ばれる。
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室内楽


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三重奏曲





コルトー、ティボー、カサルス(カサルス・トリオ

 世界最高の芸術団体と言うべきものは、チェロのカサルス、ピアノのコルトー、ヴァイオリンのティボーを以て組織する、このカサルス・トリオである。その結成は一九一〇年と言われるが、レコードに入ったのは一九二六、七年頃で、続け様に五曲吹き込んでそれっきり忘れたように録音をされない。全世界待望のピアノ・トリオが、こんなに休んでいるというのは、どんな事情があるにしても(経済的の事情のように聴いているが)、まことに惜しいことである。

 カサルス・トリオが最初レコードしたものは、シューベルトの『ピアノ三重奏曲=ニ短調[#「ニ短調」はママ](作品九九)(ビクター八〇七〇―三、名曲集一一)であった。英国の雑誌でその記事を見るとすぐ、私は十字屋へ行って註文をしたが(その頃HMVは十字屋で扱っていた)、ちょうど居合せた近衛秀麿子このえひでまろしが、私の手からサウンド・ウェーヴ誌を取り上げて、
「ほう、とうとうカサルス・トリオが入りましたね。第一、曲が良い。私も一組取ることにしよう」
 そんなことを言っておられたのを記憶している。レコードの来るまで、一日千秋の念いであったことは言うまでもない。その恐るべき高価なレコードを受け取った時、私はすぐ同好の友人たちをかき集め、雑司ヶ谷の宅で披露のコンサートを開き、興奮し切った心持で、最初のカサルス・トリオを聴いたのであった。
 それから間もなくメンデルスゾーンの『ピアノ三重奏曲=ニ短調(作品四九)(DB一〇七二―五、名曲集五〇)が入った。続いてハイドンの『ピアノ三重奏曲=ト長調』(JF七八―九)が入った時は、中村善吉ぜんきち(NKM氏)は、わざわざ新聞社の応接室に私を訪ねて、
「盤上に珠を転がすような名演奏――」
と報告して行った。続いてシューマンの『ピアノ三重奏曲=ニ短調(作品六三)(八一三〇―三、名曲集五二)が入り、最後にとうとうベートーヴェンの『ピアノ三重奏曲第七番=変ロ長調(大公トリオ)(作品九七)(八一九六―二〇〇〇[#「八一九六―二〇〇〇」はママ]、名曲集九二)(再プレス盤はJI八〇―四、名曲集七〇四)の大金字塔が五枚のHMVレコードとして出現したのである。
 ベートーヴェンの『大公トリオ』は、ベートーヴェンの後期の作品に共通の、閑寂な大諦観を暗示する曲で、その思想的な深さは、作品百十一番の最後のピアノ・ソナタに似ており、ベートーヴェンがいかにこの曲を愛し、かつ得意でもあったかは、当時の文献が明らかに証拠立てている。恐らく古今のピアノ三重奏曲中この曲より美しく、この曲より気高く、この曲より深味のある曲はなかったであろう。
 カサルス・トリオのこの曲の演奏は、満点以上であったと言っていい。単に技巧上の均勢とか、気分の統一とかいう問題ではない。カサルス・トリオはこの曲に対して、最上最高の表現を与えたばかりでなく、ベートーヴェンの『大公トリオ』を素材として、全く新しい大芸術品を作り上げたと言ってもいいくらいのものである。
 この演奏の驚くべき効果に対して、野村光一氏は、コルトーとティボーの相反対せる気質を、カサルスが加わることによって、巧みに牽制、調和させるのだ――という意味のことを言っておられる。誠にもっともなことであり、この上もなく聡明な解釈であるが、私はもう一歩進んで、これをカサルスの統制のためではあるまいかと思うのである。カサルスの芸術家としての地位はコルトー、ティボーの上位にあることは、何人も疑いのないところで、その宏大な気宇や、豊かな気稟が、コルトー、ティボーを包容すると見てなんの差支えがあろう。
 現にティボーは、しばしばカサルスを我らの想像以上に尊敬する口吻を漏らしており、レコードされたハイドンの『ピアノ三重奏曲』においては、チェロはしばしば、平然としてヴァイオリンのパートを冒していることは、かつて私が旧著の中に指摘した通りである。
 三重奏曲の演奏において、ピアノとヴァイオリンとチェロと、もとより軽重があるわけはないが、芸術的天分の豊かにして、年長者でもあるカサルスが、指導統制の任に当っていることは、当然過ぎるほど当然のことである。私はカサルス・トリオのレコードを聴いて、いつでも、カサルスの統制の驚くべき魔力に舌を巻いているのである。
 これらの三重奏曲の演奏は、現代において想像し得る限りの最高のものである。その均勢は極めて有機的で、いわゆる「合せもの」の感じは微塵もないばかりでなく、ゆらゆらと動く感情も、焔のごとく燃える情熱も、歓喜も、詠歎も、ほとんどなんの作為もなく、油然ゆうぜんとして湧き起り、ベートーヴェン後期を特色づける大きな諦観へと発展して行くのである。一小節一小節、一楽章一楽章を、単に手際よく演奏したのではない。美しくも巧みでもあるが、それより驚くべきは、全体としての渾然たる大成就だいじょうじゅで、この点は、いかなる三重奏団も足もとにも寄りつけるものではない。僅かにこの境地に似たものをかもし出せるのは、弦楽四重奏団を主宰したカペエぐらいのものであろう。

 カサルス・トリオの代表的レコードとして、まず第一にすすめられるのは、ベートーヴェンの『大公トリオ』で、それに次いでは、ハイドンの『トリオ』とシューマンの『トリオ』であろう。シューベルトのも、メンデルスゾーンのも名盤中の名盤には相違ないが、吹込みが少し古く、曲もやや食い足りなさを感じさせるだろう。


メニューイン兄妹、アイゼンベルク

 兄のエフディ・メニューインのヴァイオリンに妹のヘフツィバー・メニューインのピアノ、それにアイゼンベルクのチェロを組み合せたもので、非常に将来を楽しませている。
 兄のメニューインの天才振りは、ヴァイオリンの項に詳説した。妹のメニューインはまだ少女離れがしないが、アイゼンベルクのチェロは、楽壇の驚異で、その将来は測り知られないものがあると言われている。まだほんの少年の域を脱したばかりであるらしいが、豊潤清麗な音と深い理解とが、未来のカサルスを以て擬せられている。
 このトリオは、ベートーヴェンの『ピアノ三重奏曲=ニ長調(幽霊トリオ)(作品七〇の一)(ビクターJD八九八―九〇〇、名曲集六三四)とチャイコフスキーの『三重奏曲=イ短調』(JD一一七八―八三、名曲集六七六)を入れている。前者『幽霊トリオ』は、演奏者三人の年齢関係で、この曲の要求する苦渋の陰惨さはなく、ただ綺麗なだけで結局は失敗におわっているが、後者チャイコフスキーのトリオは、淡彩で片付け過ぎている嫌いがあるにしても、まず申し分のない美しさと情緒である。チャイコフスキーが、自分につらかりし先生のルービンシュタインをいたんで作ったものの纏綿たる美しさは、少しセンチメンタルではあるが、誰にでも訴えるであろう。恐らくカサルス・トリオで吹き込まない限り、この甘美な曲をこれだけに演奏し得る団体はちょっと考えられない。


ブッシュ、ゼルキン、ヘルマン・ブッシュ

 アドルフ・ブッシュのヴァイオリンとゼルキンのピアノ、それに弟のヘルマン・ブッシュのチェロを加えた三重奏団は、芸術的な点においてカサルス・トリオに次ぐものだろう。一人一人の練達よりも、ここには気の合った同士の心安さと、ドイツ風の見事な統制が物を言うのである。
 レコードはシューベルトの『ピアノ三重奏曲=変ホ長調(作品一〇〇)(ビクターJD七四五―九、名曲集六〇七)たった一つだが、完成された、しかも若々しい美しさは比類もない。


ブッシュ、ゼルキン、ブレイン

 ヴァイオリンとピアノとホルンのトリオだ。ブラームスの『ホルン三重奏曲=変ホ長調(作品四〇)(ビクターJD五五四―七、名曲集五七二)をレコードするために、特に作られたものだろう。この曲はブラームスの傑作の一つで、ベートーヴェン後期の作品以来の室内楽の至宝であると思う。深沈たる美しさと、掬めども尽きぬ滋味は、幾度聴いても飽くことを知らない。演奏の見事さもそれに相応して、ブッシュのブラームスにおける理解と同情が、最も手際よく発揮されたものだ。浮華なところのすこしもない、こっくり実の入った、豊醇瑰麗な演奏である。


ゴールドベルク[#「ゴールドベルク」の左に「(ヴァイオリン)」の注記]、ヒンデミット[#「ヒンデミット」の左に「(ヴィオラ)」の注記]、フォイアマン[#「フォイアマン」の左に「(チェロ)」の注記]

 ドイツ作曲界の新人、パウル・ヒンデミットのヴィオラに、鬼才ゴールドベルクのヴァイオリン、巨匠フォイアマンのチェロは驚くべき魅力的な取合せだ。このトリオはベートーヴェンの『セレナード=ニ長調(作品八)コロムビアJ八三五八六一傑作集二〇二とヒンデミットの『三重奏曲第二』J八五〇一傑作集二二四を入れているが、どちらも評判の良いレコードである。ベートーヴェンのセレナードは初期の極めて甘美な曲で、品格の良い割に楽しめるものであり、ヒンデミットのトリオは、新味の豊かなうちに、かなり一般的な美しさを持った曲であった。


ベルン三重奏団

 ピアニストのヒルトを首脳者とするトリオだ。少し暗くて楽しめないが、それだけにベートーヴェンの『ピアノ三重奏曲(幽霊)=ニ長調』は良いポリドール八〇〇五六。ほかにブラームスの『ピアノ三重奏曲=ハ長調(作品八七)同八〇〇八二がある。


エリー・ナイ三重奏団

 女流ピアニストのエリー・ナイが率いていることは言うまでもない。ドヴォルザークの『ドゥムキー・トリオ』ポリドール四五二六二とブラームスの『ピアノ三重奏曲=ロ長調(作品八番)四五一四三がある。少し若いが達者だ。


ダラニー[#「ダラニー」の左に「(ヴァイオリン)」の注記]、ザルモンド[#「ザルモンド」の左に「(チェロ)」の注記]、ヘス[#「ヘス」の左に「(ピアノ)」の注記]

 男女のトリオだが腕っこきが揃っているのでなかなか面白い。シューベルトの『三重奏曲第一=変ロ長調(作品九九)コロムビア七二六九七二傑作集四四は少し古いが、生命のあるレコードだ。


コロムビア系

 ほかにフランスの新人三人兄弟を以て組織したパスキエ三重奏団のベートーヴェンの作品九の二の『三重奏曲=ハ短調[#「ハ短調」はママ]J八四二二傑作集二一二は、一種の風格を持ったトリオだ。
 ブダペスト三重奏団はモーツァルトの『三重奏曲第五=ト長調(K五六四[#「K五六四」はママ]J八四九九五〇〇傑作集二二三を入れている。美しい曲の手頃な演奏と言える。
 ほかに、クラーク(ヴィオラ)、サアストン(クラリネット)、ロング(ピアノ)がモーツァルトの『三重奏曲第七=変ホ長調(K四九八)J八三六七を、プーランク(ピアノ)、ラモレット(オーボエ)、G・デラン(ファゴット)が、プーランクの洒落た『三重奏曲』J八一九〇を入れている。
 マードック、サモンズ、スクヮイアーのベートーヴェンの「大公トリオ」は採らない。
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四重奏曲





カペエ弦楽四重奏団 Capet String Quartet

 カペエ弦楽四重奏団ほど、芸術的に高い境地に押し上げられた室内楽団体は、二十世紀になってからは恐らく幾つもなかったであろう。私は文献と語り伝えに残る十九世紀のヨアヒム四重奏団や、イザイエやクライスラーが私的に演奏したことがあると伝えられるイザイエ四重奏団といえども、芸術的にはさしてこれにまさるだろうとは考えられない。
 私は最近人の依頼でコロムビアの目録カタログから好む曲をいてみたが、弦楽四重奏曲のくだりへ行くと、カペエ四重奏団の演奏したレコード全部にチェックしてしまって、抜きも削りもならぬ目に逢って閉口した。カペエのレコードを、たった一枚除外するくらいなら、私は他のあらゆる団体の演奏した弦楽四重奏曲を全部削ってしまったことであろう。

 実に驚くべきはカペエ四重奏団である。単にその技巧の精練や、均勢などは問題ではない。カペエ四重奏団の四人のアーティストが、渾然として有機的に結合した、一つの大天才であると言ってもいい。その芸術的な高度の燃焼は、僅かに室内楽団としてはカサルス・トリオを以て比較し得るだけであろう。
 カペエの演奏には天衣無縫という形容詞がそのまま当てはまるような気がする。そのレコードのすべてが、完璧的な傑作で、一つ一つが、燦として輝く。
 この演奏のすばらしさは、四人の技術の良さだけでは断じてない。その証拠には一九二九年第一ヴァイオリンのカペエが他界すると共に、この団体は全く壊滅し、第二ヴァイオリンのエウィットが残るメンバーに新人を加えて、エウィット四重奏団と名乗りあげたが、今のところ一向に冴えない様子で、カペエ世にありし時のおもかげさえも偲ぶ由はない。

 フランスの弦楽四重奏団が世界第一のベートーヴェンの演奏団体と言われるのは、実に面白い現象だが、その名誉の九十パーセントまでは、主宰者カペエの頭上を飾るべきである。四重奏団の統帥者としては、ブッシュもレナーも当代一流のヴァイオリン名手として知られているが、実際に聴いた人の話を綜合すると、カペエのヴァイオリンは、全く第一流中の一流のもので、その芸術的価値は、クライスラーのヴァイオリン、カサルスのチェロに匹敵するものがあったとさえ言われている。
 カペエ四重奏団のレコードのうちから、第一ヴァイオリンの活躍する部分を聴けば、この言葉が決して誇張でないことが容易に解るだろう(ハイドンの『セレナーデ』や『雲雀ひばり四重奏曲』のごとき)。この芸術境と技巧とを以て率いた四重奏団がどんな演奏をするかは、およそ想像も付くというものだろう。
 カペエの特色は、その磨き抜かれた清麗さだ。神経は隅から隅まで行きわたって、純金の針金のようにぴんと張っている。しかし、その得意とするベートーヴェンの演奏などになると、精緻極まる演奏のうちに、強靱きょうじん卓犖たくらくなナポレオン的な力が漲る。真に驚くべき演奏と言っていい。
 レコードは非常に沢山あるが、どれを採っても決して後悔するようなことはない。一九二九年の吹込みが最後で、録音は決して新しいと言えないが、カペエ・レコードはコロムビアのカタログにあるのが全部の遺産で、しばらくは、これ以上の弦楽四重奏団が世に現われそうもないとすると、一つ一つが宝玉のように貴くなる。

 カペエのベートーヴェンは、その全部が最上級の名演奏だが、わけても『四重奏曲第十五=イ短調(作品一三二)(コロムビアJ七五六二―六、名曲集八八)をまず聴いて見るがいい。この曲はベートーヴェンが病気の癒えた感謝と祈りをこめて書いた曲で、その第二楽章の[#「第二楽章の」はママ]「アンダンテ・モルト・アダジオ」の美しさは、この世のものとも覚えないほどだ。カペエの演奏の幽玄な幸福感と慎ましい諦観とは、なんという美しさだろう。私はこのレコードを、あらゆる機会にかけ、私の出て行くあらゆるコンサートに持ち出すので、すっかり摺り切れて、もう一組新しいのを求めなければならないようになっている。
 この曲は、レナーのも、ロンドン弦楽四重奏団のもあるが、どんなにしても、十年前に吹き込んだ、カペエの古レコードに及ばない。実に驚くべき名演奏である。
 次に、『四重奏曲第十四=嬰ハ短調(作品一三一)(コロムビアJ七五二九―三三、傑作集八二)をすすめる。この曲は前記の十五番の四重奏曲よりは、豪宕で内面的で、却ってすぐれていると言われている。ブッシュもレナーも名演奏には相違ないが、私をして遠慮なく言わしめると、やはり吹込みの古いカペエが良い。清朗卓犖たくらくな、実に品の良い演奏で、ベートーヴェンの晩年の境地がさながらに胸を打つ。
『ハープ四重奏曲=変ホ長調(作品七四)(J七四一〇―三、傑作集六八)は、第三位に置かれるだろう。この曲はレナーも良いが、カペエの優麗さは格別だ。第四位は『四重奏曲第七=ヘ長調(作品五九の一)(J八〇五五―六〇、傑作集一五五)でもあろうか。
 ベートーヴェン以外では、甘美なものではシューベルトの『死と少女の四重奏曲』(J七九五八―六一、傑作集一四一)と、ハイドンの『雲雀ひばり四重奏曲=ニ長調』(J五二〇一―三)が良かろう。『死と乙女おとめの四重奏曲』は幽婉そのものだ。涙なしには聴けない。『雲雀ひばりの四重奏曲』の第一楽章の第一ヴァイオリンの歌を聴いて見るがいい。カペエという人のすばらしい天分に何か考えさせられるだろう。
 むずかしいもの、近代楽の畑に属するものでは、ドビュッシーの『四重奏曲=ト短調』(J七九九二―九五、傑作集一四六)とラヴェルの『四重奏曲=ヘ長調』(J七八四七―五〇、傑作集一二四)を聴くことだ。ベートーヴェンを得意にするカペエが、本国関係があるにもしろ、ドビュッシーやラヴェルを誰よりもうまく演奏するのは興味が深い。私に、本当の意味で何をカペエから選ぶかと言ったら、ベートーヴェンの後期の二つの四重奏曲と、ドビュッシーの四重奏曲を採ることだろう。この新鮮な感覚と、聡明な理解と、美しい技巧は、真に人間離れのしたものだ。あらゆる弦楽四重奏曲のレコードを捨てても、私はカペエを私の手に残すことに努力するだろう。それは私の粗野な心を底の底からなごめ、芸術を知るもののみが味わえる歓喜と興奮とに導いてくれるからだ。


レナー弦楽四重奏団 L※(アキュートアクセント付きE小文字)ner String Quartet

 レナー四重奏団が始めてロンドンに現われたのは、さまで昔のことではない。ハンガリーのブダペストから出て来たエノ・レナーを主宰者にする四人の学生が、むくつけきハンガリー振りの若さを撒き散らして、倫敦ロンドンッ児の前に立った時、誰が一体あんなすばらしい音楽を生めようと想像したろう。
 レナー四重奏団の四人は高等音楽院を卒業したばかりの学生たちであった。それが、物もあろうに、至難中の至難とされているベートーヴェンの後期の四重奏曲を、なんの苦もなく片ッ端から、最上等の表現で演奏して聴かせたのである。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、室内楽団の曲目では、いわゆる「許し物」に属するもので、腕も心持も練り抜いた上でなければ、容易に指を染められないものだ。
 折からベートーヴェンの死後百年祭(一九二七年)に当ったコロムビア会社は、このレナー四重奏団を動かして、ベートーヴェンの四重奏曲十六曲のうち十四曲まで吹き込ませてしまったのである。コロムビア会社のカタログに今でも載っている、七千台の番号の四重奏曲は、その頃の吹込みに属するもので、今からざっと十一、二年前のものと思って差支えはない。

 レナーの四人の楽人たちはことごとく同年輩のクラス・メートで、ブダペストの高等音楽院に在学中、完全無欠の四重奏団を作り、至高至純の表現をするために、四人とも一室に籠って、特定の曲の理想的な演奏が出来るまで、断じて室外に出ないことに決めて練習したということである。名曲、大曲が、そうして一つ一つ征服されて行った。籠城を解いて街へ出て来た時、若い楽人たちは、幾十百の楽曲を、自由自在に演奏し得る境地に達していたのである。
 レナーの演奏は、多少劇的で、豊艶無類な[#「豊艶無類な」はママ]ものだ。若々しい感情の燃焼に任せて、ともすればロマンティックになり過ぎるが、その代り、それほど脂切った、豊麗な演奏をする団体はない。美しいが上にも美しく、豊かな上にも豊かだ。
 レナーの演奏を、私は純正調風だと書いたことがある。少くとも生真面目な平均率的ではない。一種のそれは魔術的なアンサンブルだ。大向う受け――と言うと失礼だが、劇場的で大衆的で、そして悦楽と興奮とに満ちている。
 カペエがレコードに出現する前、レナーは全く弦楽四重奏曲の人気を壟断ろうだんした。ロンドン弦楽四重奏団などは問題でなかった。それまで室内楽レコードの人気者フロンザリーでさえ、ばらばらでしどろもどろで、手に負えないものに聴えた。
 が、ひとたびカペエがレコード界に登場して、レナーの威力に昔日のおもかげはない。少くとも、ベートーヴェンとフランス近代楽の人気は、カペエのために奪われてしまったかたちである。僅かにモーツァルトとハイドンとブラームスが残ったが、それも近頃は、プロ・アルトやブッシュに蚕食されようとしている。レナーに昔の魅力のないのは、まことに淋しい。
 しかし、レナーが英国に渡ってからもう十七、八年だ。二十歳はたち台の青年たちも三十になり四十になり、分別盛りを越して、初老の域に進もうとしている。昔のままの派手で妖艶なレナーではさすがに人も自分も許さなくなった。近頃のレナー四重奏団が著しく地味に、渋味をさえ加えて来たのは、恐らくそのためでもあろうか。

 レナーのレコードは夥しい。が、ベートーヴェンはカペエとブッシュに株を奪われて、今では『四重奏曲第四=ハ短調(作品一八の四)(コロムビアJ八五六四―六、傑作集二三九)、『ハープ四重奏曲=変ホ長調(作品七四)(J八三八一―四、傑作集二〇五)、『四重奏曲第十四=嬰ハ短調(作品一三一)(J八〇八〇―四、傑作集一五八)、『四重奏曲第十六=ヘ長調(作品一三五)(J八七二二―四、傑作集二六六)、『四重奏曲第十五(作品一三二)(JW四九―五三、傑作集二八一)、以上四曲が新吹込みとして生命を持っているに過ぎない。しかしこのうち第十四番目の四重奏曲と最後の第十六番目の四重奏曲はブッシュの方がすぐれ、第十五番目はカペエに及ばず、結局『ハープ四重奏曲』と第四番目の四重奏曲だけに魅力を繋ぐだろう。
 レナーの良さはむしろ、モーツァルトに求めるがいい。吹込みは古いが『狩猟四重奏曲=変ロ長調(K四五八)(J七八五四―六、傑作集一二六)などは今でも追従を許さない美しさがある。『セレナータ(K五二五)(J七三九九―四〇〇)も名演奏で、レナーに打って付けのものであったが何分吹込みが古過ぎる。この曲の清純さはほかに求めるとして、これほど甘美なこびを盛った演奏はない。
 ハイドンの『皇帝四重奏曲』(J八四七一―四、傑作集二一七)は最近のものだが、粘った演奏で、レナーの魅力を減殺される。『四重奏曲=ヘ長調(セレナーデ)(J七六六一―二)も期待したほどでない。むしろ『ラルゴー四重奏曲=ニ長調(作品七六の五)(J七六二二―四、傑作集九四)の方が古い吹込みながら良かろう。
 レナーのブラームスが二曲ある。『四重奏曲=イ短調(作品五一の三[#「作品五一の三」はママ](J八〇二三―六、傑作集一五一)と『四重奏曲=ハ短調(作品五一の一)(J八一三六―九、傑作集一六七)だ。少しブラームスにしては脂が乗り過ぎるが、面白く聴かせることは事実だ。モーツァルトに次いで良いものだろう。レナーの良さは却って小曲にある。例えば『ノクターン』(J八〇七六)や『モーメント・ミュージカル』(J八四四四)や『アリア』(J五三一五)などがその一例だ。うっかりしている人もあるだろう。これは一度聴いて見るがいい。いかにも甘美なしゃれたものだ。


ロート弦楽四重奏団 Roth String Quartet

 かつてパルロフォンで通俗な小曲を入れていたロート四重奏団が、アメリカへ行って大曲を手がけ、思いもよらぬ大成功に気をよくしたのは、極めて最近のことである。
 レナーと同じくブダペストに生れたロート、アンタール、モルナール、ショルツの四人が、この成功を収めるまでの苦心と研鑚は想像するに難くない。この団体は、同じブダペストから生れたにかかわらず、レナーと反対に、極めて端正で手堅い古典の演奏に適し、レナーのロマンティックな、艶麗な演奏とは、全く違った色合いを持った団体である。
 第一の傑作は、コロムビアから予約で出した、バッハの『フーガの技法』十一枚のレコードである。この大曲を演奏したロートの手際の鮮かさと、その古典の解釈に対する厳正な態度と、充分に美しく聴かせることに成功した手腕は、一挙にして第一流の室内楽団に押し上げられてしまった。
 ほかにコロムビアから二組のレコードが出ている。シューベルトの『死と少女の四重奏曲=ニ短調』(J八七〇九―一三、傑作集二六五)は、枯淡に過ぎて情緒を欠くが、ハイドンの『四重奏曲=ハ長調(鳥)(作品三三の三)(J八六八〇―二、傑作集二六〇)は端正な手堅い演奏でありながら、一種滲み出す愛情があってなかなかに良い。将来を期待される団体である。


コロムビア系のいろいろ

 クレトリー弦楽四重奏団  新人たちの室内楽団だ。フォーレの『四重奏曲(作品一二一)(J七九〇七―九、傑作集一三三)とハイドンの『セレナーデ』(J五二六四)がある。フランス風の颯爽たる演奏だ。
 ロンドン弦楽四重奏団  古い因縁を持った団体で、コロムビアには以前沢山入っていたが、今ではベートーヴェンの『四重奏曲第十五=イ短調(作品一三二)(J八三四一―五、傑作集二〇〇)一つしかない。無感激なばらばらな演奏だ。


近衛子と伯林フィルハーモニー管弦団

 モーツァルトの『管楽器のための協奏的四重奏曲=ロ短調[#「ロ短調」はママ](J八六九二―五、傑作集二六二)近衛秀麿子このえひでまろし指揮で入れている。メンバーは伯林ベルリンフィルハーモニーの一流人ばかり。曲も簡素で美しく、興味の深いレコードだ。


ブッシュ弦楽四重奏団 Busch String Quartet

 ブッシュ四重奏団は、レコード音楽界の一大魅力だ。カペエ四重奏団以来、これほど我らの興味をひき、一作出るごとに胸を躍らせた経験はない。
 若きアドルフ・ブッシュが弦楽四重奏団を組織したのは一九一九年、欧州大戦の終了した年だ。その後間もなく、ドイツ・グラモフォンの赤レーベル片面盤四枚に、ハイドンの『セレナーデ(弦楽四重奏曲=作品三の五)』が入って、世界の室内楽レコード好きを夢中にさしたことは、もう記憶している人も少かろう。今までの室内楽レコードの粗雑な合奏に降参していた人たちは、ブッシュ四重奏団の演奏の持つ完成美と、それから発散する光輝に、すっかり陶酔してしまったのも無理のないことである。
 その後ドイツ・ポリドールはこのレコードを両面二枚とし、一九二六、七年頃のカタログにも載せ、日本にも二、三組は舶載した筈であるが、誰と誰が手に入れたか私は知らない。少くとも、片面四枚と両面二枚と、一時は二組の同じレコードが、私のコレクションにあったことだけは事実である。
 こんなことを語るのは、馬鹿馬鹿しいと思う人があるかも知れない。しかし、レコード音楽史を知る上において、これが何かの役に立つことがあるかも知れず、一面ブッシュ四重奏団の良さは、決して今日に始まったものでなく、我々老ファンは十五、六年前から、既にその驚くべき魅力に傾倒していたほど、早くも美しさが完成されていたということを知って貰えばいいのである。ブッシュの美しさと良さが、一朝にして出現したように思う人があったならば、それは誠に大変な間違いであると言わなければならない。
 その後数年、ブッシュ四重奏団のレコードというものはたった一枚も世に現われなかったが、今から五、六年前、遂にHMVが、ブッシュのヴァイオリン独奏曲とともに、その四重奏団の演奏をレコードすることに成功し、相次いで、ベートーヴェンの『弦楽四重奏曲=ヘ短調』(作品九五)(ビクターJD七一―二)と、ブラームスの『弦楽四重奏曲=ハ短調(作品五一の一)(JD一三四―七、名曲集五〇八)の二曲が世に現われたのである。
 このHMVのレコードが我らの手に入った時の喜びは、カサルス・トリオ以来のセンセイショナルなものであったと言っても、決して誇張ではない。長いあこがれのブッシュ四重奏団の昔のレコードとは比較にもならぬ録音が、一脈の不安を感じさせないではなかった。もし、万一あの昔のブッシュ四重奏団の美しさが、悪いレコーディングのカムフラージュであったとしたら、そして新しい吹込みのブッシュ四重奏団が、一向つまらないものであったとしたら、我らはどれほど大きい幻滅に直面しなければならぬことであろう。
 不安のうちに針は下った。なんと、――我らは自分の耳を疑った。こんなすばらしい音、最上級の演奏は、義理にも予想してはいなかったのだ。
 ベートーヴェンの第十一番の四重奏曲(作品九五、ヘ短調)は、恐ろしくむずかしい曲だ。この曲にはベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する技巧と思想上の暗示があり、それが渾然たる表現をされるのは、全く容易のわざではないのである。現に、従来この曲を演奏して、たった一組でも成功したレコードがあったであろうか。私は三、四種のレコードを知っているが、技巧的にうまいのは思想の高さが及ばず、思想的に成功したのは、その技巧が足りないために、散漫でなければ支離滅裂で、ほとんど言うに足りないものばかりであったが、我がブッシュ四重奏団はどうだろう。
 これは実に驚くべき演奏であった。うまいとかまずいとかいう程度の問題ではない。技巧上の条件をことごとく超えて、直ちにベートーヴェン魂に没入するものだ。ベートーヴェンが万人の悩みに代って苦しんだと思われるその苦渋の芸術が、岸壁を洗う夜のしおのように、ひたひたと我らの胸を打つではないか。もっともこの四重奏曲は決して悩ましいものではない。私がこう言うのは、ブッシュによって再現されたベートーヴェンの思想をさして言うのだ。悩みの半面には歓喜がある。この頃から芽ざしたベートーヴェンのカトリック的な諦観が、その気魄と我執の間を縫って、か弱いながら、世にも美しい光明を投げかける。
 私はカペエのベートーヴェン以外、これほど優れたベートーヴェンを聴いたことがない。ブッシュに対して最初の一曲で帽子を脱いだのもまた当然のことである。
 ブッシュの演奏は、ドイツ風の手堅い技術がその根柢をなしているので、徹頭徹尾、いささかの不安もない。音は清透で、四つの楽器のバランスはこの上もなく見事だ。カペエのフランス風の優雅な線に比べて、ブッシュはがっちりした風貌と、その確かさを少しもかたくなに思わせない輝きとを持っている。

 ブッシュ四重奏団のレコードはかなり多い。その中から最も傑出したのを選べば、先に挙げた十一番目の四重奏曲と、同じベートーヴェンの『四重奏曲=嬰ハ短調(作品一三一)(ビクターJD九二五―九、名曲集六四〇)、並びに『四重奏曲=ヘ長調(作品一三五)(JD四七六―九、名曲集五五九)の三曲であろう。第十四番目の四重奏曲(作品一三一)は、カペエの繊細さはないが、それよりは強さと幅とを持っている。第九シンフォニーの持つ威力にも匹敵する。苦渋と歓喜とが、圧倒的に人に迫るものがあるのだ。最後の四重奏曲(作品一三五)も、演奏のむずかしさにおいては、比類の少いものだ。この曲では、フロンザリーも、二度入れたレナーも失敗している。形骸を伝えることは出来るが、それは生命のないものに過ぎない。ブッシュの演奏はそこへ行くと実に完璧であった。これ以上の表現は、この曲においては予想されないと極言してもいい。この曲の持つ不思議な哲学味(?)、換言すれば、人生に大きな謎を投げかけて、冷たく笑っているような晩年のベートーヴェンの姿が彷彿ほうふつする。
 ほかに最初の『四重奏曲(作品一八の一)(JD二九一―三、名曲集五二二)』も、『ラズモフスキー四重奏曲』も良い(JD三一一―四、名曲集五二五)。『四重奏曲=変ホ長調(作品一二七)(JD一〇〇八―一二、名曲集六五三)ももとより絶品だ。が、ブッシュのベートーヴェンはまず前掲の三曲を聴いてからにしても遅くはあるまい。
 シューベルトの『死と乙女おとめの四重奏曲』(JD一〇三一―四、名曲集六五九)はレナーのように劇的でなく、カペエのように繊細ではない。素朴な暗さが全曲を支配して、得も言われない高貴な味だ。
 ほかにゼルキンのピアノを加えて、ブラームスの『四重奏曲=イ長調(作品二六)(JD七六四―七、名曲集六一四)がある。ブラームスの美しさと手堅さを代表するような曲で、渋さと華やかさが人を魅了する。ブッシュ四重奏団のげん三人にゼルキンのピアノを加えた、アンサンブルの美しさは、恐らく誰でも夢中にさせずには措かないだろう。大抵のブラームス嫌いに、私はこの曲を聴かせてやることにしている。

 因みにこの四重奏団のチェロ奏者ヘルマン・ブッシュは、アドルフ・ブッシュの弟で、独奏のレコードはないが、すぐれてうまいチェリストである。


プロ・アルト弦楽四重奏団 Pro Arte String Quartet

 プロ・アルト四重奏団のレコード出現は、ブッシュ四重奏団より少し遅れた。しかしその多方面にわたる活躍振りは、量においてはブッシュに二倍三倍するだろう。
 この団体はベルギーの新人たちで、アルフォンス・オンヌーとローランス・アルーが交互に第一、第二ヴァイオリンを弾いているのを特色とする。
 プロ・アルト四重奏団のレコードが最初に入った時、日本のファンたちは大した注目もしなかったが、ドビュッシーの『四重奏曲=ト短調』(ビクターJD四六二―五、名曲集五五七)が入るに及んで、俄然として問題が捲き起ったのである。この新人たちの近代楽に対する解釈なり演奏なりが、旧いカペエや、浪曼的なレナーとは、また違ったものがあったからだ。
 少し冷たくて素気そっけないのは、ロマンティックになり切らない近代人の聡明さのためであり、幾分荒々しく粗雑に聴えたのは、無暗に歌わせることなしに、直ちに原曲の音楽的価値を昂揚しようとする若い人たちの野心的な望みのためと判ったのである。
 プロ・アルトの人たちは若くて良心的で、非常に進歩的な頭を持っているらしかった。ハイドンの『四重奏曲(作品三の五)』をたった一枚に吹き込むほど、低徊ていかい趣味や詠歎趣味に遠ざかった人たちであったのである。続いて入ったセザール・フランクの『四重奏曲=ニ長調』(JD五二一―六、名曲集五六九)を聴くに及んで、ブッシュ四重奏団やレナー四重奏団とは全く違ったものがあり、そして対立する良さを持つものであることを完全に呑み込まされたのである。
 その頃から、HMVで入れ始めたハイドン協会のレコードは、更に我々を驚かした。ハイドンの百にも上る四重奏曲のうち、一体幾つをレコードするつもりか解らないが、ともかく、一輯七枚四曲くらいずつ、続けざまに五輯まで吹き込み頒布し、更に少し間を置いて(この時ハイドン協会は頒布を中止するという噂が立った)、昨年あたり遂にその第六輯を頒布したのである。近頃はまた休止しているようであるが、これだけの大規模な頒布会は、シュナーベルのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ協会以外にはほとんどない。
 プロ・アルト四重奏団のレコードしたハイドンの四重奏曲は、いろいろの意味で驚くべきものであった。その量の大きいのも驚きの一つであるが、その演奏が、我らの常套的な既成観念を、全く外れてしまったのと、何かしら、新しきものを打ちてようとする大きな努力のあとが見られること――がそれであった。
 プロ・アルトに対しては、日本のファンの間にも、多くの賛成者と、少しばかりの反対者とある。その演奏は極度にリアリスティックで、ロマンティックな情緒や夢が薬にしたくもないからだ。そのプロ・アルトが、明敏、冷静な頭で、弦楽四重奏曲の古典、ハイドンの作品を片っぱしから演奏して行くのだ。そこにはかつてハイドンから求められた甘美な夢も、稚気満々たるあこがれもなく、あるものは、純正音楽としての、古典らしい構成の美しさだ。

 私はプロ・アルトの非妥協的な、歪められた主観のない、聡明な演奏を好む。HMVの「ハイドン協会レコード」は、長く私の愛聴の品であった。若人らしい素朴な姿、その中に包む新時代へのあこがれ、インテリらしい冷たさ、ロマンティシズムに対する極度の嫌悪、――そういったものは、我らに取って決して不愉快なものではない。むしろかびの生えた既成観念や、飽き飽きしたロマンティックな情緒を強いられるより、どんなに心安くて清々するか解らない。

 プロ・アルトの四重奏曲中、興味の深いものは、前掲ドビュッシーとフランクの四重奏曲のほかに、ラヴェルの『四重奏曲=ヘ長調』(JD五七八―八一、名曲集五七六)がある。バルトックの『四重奏曲=イ短調』(JD六七八―八一、名曲集五九五)がある。一つ一つが良いものだが、以上四曲とも近代音楽のむずかしさをいとう人には向かない。
 私はむしろ、大コレクションを飾るためには、または特別に室内楽に興味を持つ人には、異色のある「ハイドン協会」のレコードをすすめたい。日本ビクターは第三輯から出し始めて、今第五輯の頒布をおわったばかりである。
 このハイドン協会のレコードのうち、『セレナーデ』一枚だけ、愛好家協会の第一輯レコードに採られている。プロ・アルトを簡単に知ろうとする人の参考にはなるだろう。最近のレコードではモーツァルトの『四重奏曲=変ホ長調(K四二八)(JD一二三三―五、名曲集六八一)がある。プロ・アルトらしい知的なモーツァルトだが、充分美しい。

 ほかにプロ・アルトの興味は、大ピアニストたちと演奏したピアノ四重奏五重奏曲の見事さだ。シュナーベルと共演したモーツァルトの『ピアノ四重奏曲=ト短調(K四七八)(KD五九六―九、名曲集五七八)、ルービンシュタインと共演のブラームスの『ピアノ四重奏曲=ト短調(作品二五)(JD四四四―七、名曲集五五三)の二曲は、プロ・アルトの弦楽四重奏曲とは全く違った面白さである。わけても私はブラームスの四重奏曲に興味を持つ。


ビクター系四重奏団いろいろ

 フロンザリー弦楽四重奏団  電気以前の弦楽四重奏曲は、フロンザリーが第一等であった。我らも断片零細といえどもかき集めたことがある。ニューヨークの千万長者をパトロンとして、アメリカの楽壇に雄飛した時代もあるが、一九二九年に解散され、僅かばかり残っていた電気レコードも、ビクター会社はことごとく絶版にしてしまった。演奏は評判ほどでなく、銘々勝手に弾きまくるので、かなり散漫であり、芸術的に決して高いものでなかった。

 ローゼ弦楽四重奏団  昔のパテーたて震動盤に五、六枚ある時は、ローゼの名前で騒がれたものだ(音はその頃でも悪かった)。言うまでもなくローゼは、維納ウィンフィルハーモニーのコンサートマスターで、維納ウィン楽界の長老として尊敬されている。
 しかし、何分の老齢で、その独奏も魅力はなく、四重奏曲も大したことはない。HMVに入った時は大変な評判であったが、取った人たちは大抵後悔したことと思う。ベートーヴェンの四番目(作品一八の四)の四重奏曲とハープ四重奏曲と作品一三一番の四重奏曲が入っているが、ビクターのカタログに残っているハープ四重奏曲(AF三一六―八)が一番良いだろう。老人らしく荒々しく、情緒に欠けた演奏だ。

 ブダペスト弦楽四重奏団  非常に優れた団体で、レナーなどよりは良いと言われているが、日本ではあまり受けない。情熱的で少し荒い感じだ。曲によっては良いかも知れない。シューベルトの『死と乙女おとめの四重奏曲』(九二四一―五、名曲集一四)とモーツァルトの『四重奏曲=ハ長調(K四六五)(JD一六五―七)が代表作だ。将来良いものが出るかもしれない可能性がある。ビクターに母型が沢山来ていると言われる。

 ほかにアンリ・メルケルの四重奏団はフォーレの『ピアノ四重奏曲第一番』(JH二六―九、名曲集五八六)を入れているが、良いものだ。
 エルマン弦楽四重奏団の『アンダンテ・カンタビーレ』は通俗味満点だろう。ブロンデル弦楽四重奏団、プラーグ弦楽四重奏団とかぞえると際限もない。


ポリドール系四重奏団

 デマン弦楽四重奏団  ねっとりした味と手堅い技術を持った団体だ。シューベルトの『四重奏曲(死と乙女おとめ)』『同=変ホ長調(作品一二五の一)』、モーツァルトの『四重奏曲=ハ長調(K四六五)[#「『四重奏曲=ハ長調(K四六五)」はママ]などがある。

 ギャリミル弦楽四重奏団  ミロオが監督して自作の『四重奏曲第七=変ロ短調』(三五〇九四―五)を入れているほか、ラヴェルが監督して自作の『弦楽四重奏曲=ヘ長調』(四五一八一―三)を入れている。新人たちが自分の作物を監督して入れているところが興味だ。

 近頃はプリスカ四重奏団が活躍して、モーツァルトのものや、ヴェルディの『四重奏曲=ホ短調』(三五〇七三―六)を入れている。ヴェルディのこの曲は二度目のレコードだが、研究者には珍しかろう。

 エリー・ナイらがシューマンの『ピアノ四重奏曲=変ホ長調』(四五二〇五―八)を入れ、ランケルらがルキューの『未完成ピアノ四重奏曲』を入れているのも珍しいものだ。


テレフンケンの四重奏団

 カルヴェ弦楽四重奏団  フランスの楽団だが、近頃はドイツへ行ってテレフンケンのために盛んにレコードしている。フランス風のデリカシーよりは、ドイツ風の線の太さがあり、味は決して悪くない。カペエやブッシュの芸術境には及ばないまでも、かなり質の良いものだと思う。レコードは、ベートーヴェンの『四重奏曲=ヘ長調(作品一八の一)(二三六四七―五〇)、やハイドンの『四重奏曲(作品三の五)(二二六〇八―九)、ハイドンの『四重奏曲=ニ長調(雲雀)』(二二六一一―三)などがある。ハイドンの『セレナーデ』が良い。
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五重奏曲、その他





シュナーベル、プロ・アルト弦楽四重奏団

 プロ・アルトの絃の新鮮味と、シュナーベルのピアノの老巧さと、この取合せは決して悪くない。
 シューベルトの『トラウト五重奏曲(作品一一五[#「作品一一五」はママ](JD七八六―九〇、名曲集六一九)などは、歌わせ過ぎないシュナーベルと、やや冷たいプロ・アルトが、この甘美な曲を演奏したところに地味な良さがある。典麗と言ってもいい、見事な演奏である。続いてシューマンの『ピアノ五重奏曲=変ホ長調(作品四四)(JD六九一―四、名曲集五九七)がよかろう。


プロ・アルト四重奏団とホブディー(第二ヴィオラ)

 モーツァルトの名品、ヴィオラの五重奏曲が二つ入っている。『五重奏曲=ト短調(K五一六)(JD三七一―四、名曲集五三五)と『五重奏曲=ハ長調(K五一五)(JD八二四―七、名曲集六二三)とだ。
 どちらも吹込みもよく、演奏も立派だが、私は前者ト短調の五重奏曲の方は、古い吹込みながらレナーの方に興味を持つ。この曲の不思議な暗さはモーツァルトにしては特異なもので、プロ・アルトは、その味が出ていない。


プロ・アルト四重奏団とピーニ(第二チェロ)

 シューベルトのチェロ二挺の『五重奏曲=ハ長調(作品一六三)(JD六一五―九、名曲集五八三)が入っている。この曲はトラウトの五重奏以上の名曲で、シューベルトの室内楽中でも一、二の傑作だ。ほかに比較するレコードもないが、演奏もなかなか良い。


コルトー、インターナショナル四重奏団

 フランクの『ピアノ五重奏曲=ヘ短調』(六八四九―五二、名曲集三八)が入っているが、電気の初期のもので非常に古い。演奏は立派であるが――。


バウアー、フロンザリー四重奏団

 ブラームスの『ピアノ五重奏曲=ヘ短調(作品三四)(六五七一―五、名曲集一〇)がある。フロンザリーで日本ビクターに残っている唯一のレコードだが、演奏も大したものでなく、吹込みが非常に古い。


ヴュルムゼル及びタファネル管楽器合奏団

 ベートーヴェンの『ピアノと管の五重奏曲=変ホ長調(作品一六)(ビクターDB一六三九―四一)が入っている。非常に面白い曲で演奏も見事だ。六、七年前の録音ではあるが。


パリー五重奏団

 フリュートとハープとヴァイオリンとヴィオラとチェロで、ダンディの『組曲(作品九一)(ビクターJD二九七―八)やスカラッティの『ソナタ=フリュートと弦楽器のための』(JE四―五)など楽しき限りだ。


英国放送協会楽員

 ヴァイオリンのカテラル、ヴィオラのショーア以下七人でベートーヴェンの『七重奏曲=変ホ長調(作品二〇)(JD一一〇五―六、名曲集六六九)を入れている。この曲の第三楽章のメヌエットは作品十九の[#「作品十九の」はママ]『ピアノ・ソナタ』と同じ素材を用いているし、第四楽章のメロディは女学生でも知っている。
 演奏はとにかく滅法楽しい曲だ。

 ほかにカテラルとプロ・アルト四重奏団のブロッホの『ピアノ五重奏曲』(JD一九八―二〇一、名曲集五一三)がある。


レナー四重奏団、ドゥレーパー(クラリネット)

 この組合せは非常に良い。吹込みは古いが、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲=イ長調(K五八一)(J七四五一―四、傑作集七五)と、ブラームスの『クラリネット五重奏曲=ロ短調(作品一一五)(J七六〇〇―四、傑作集九二)は共に名レコードだ。モーツァルトも美しく楽しいが、ブラームスの五重奏曲の、第二楽章アレグレットは[#「第二楽章アレグレットは」はママ]絶品と言うべきで、かつてカサルスがチェロでこの楽章だけをひいたのが、骨董レコードの名品として珍重されている。


レナー四重奏団とドリヴェイラ(第二ヴィオラ)

 モーツァルトの『五重奏曲=ト短調(K五一六)(J七七六三―六、傑作集一一一)はヴィオラ二挺の五重奏曲として有名だ。綺麗なモーツァルトがこんな宿命的な暗さを持つ曲を作ったのが不思議でもあり面白くもある。
 レナーの演奏は大変よろしい。この情味を私は賛成する。


シュミットとカルヴェ四重奏団
シャンピとカルヴェ四重奏団

 フロラン・シュミットが自作の『ピアノ五重奏曲=ロ短調』(J八六六四―五)を、カルヴェ四重奏団と一緒に入れている。シュミット指揮がやまだろう。ドイツ新人の作曲と指揮は興味の深いものである。
 シャンピとカルヴェ四重奏団の方はフランクの『ピアノ五重奏曲=ヘ短調』(J八二四二―六、傑作集一八二)だ。コルトーのより新しい吹込みが強い。


レナー、ロート等の七重奏、八重奏

 ベートーヴェンの『七重奏曲=変ホ調』が入っているが吹込みが古いので、ビクターのBBCのメンバーの方が面白く聴かれる。
 シューベルトの『八重奏曲=ヘ長調』はそんなに面白い曲ではない。楽器の多い室内楽は、それぞれの楽器に重要性を持たせるので、享楽的に聴く曲としてはつまらぬものだ。もっとも自分で演奏するのは面白かろう。


ストロムニスキー打楽器合奏団

 ヴァレーズの『十三打楽器のイオニゼーション(電離)』(コロムビア)という大変な曲が入っている。ウルトラ・モダン音楽だ。不思議な曲だ。


ストラヴィンスキー指揮

 この人の指揮でペトルシュカの『ロシア舞踊』(J五三八七)と『管楽器のための八重奏』(コロムビアJ八一六三―四)と『十一楽器のためのラグタイム』(J八五四〇)が入っている。恐ろしく気のきいたものだ。


ポリドール系五重奏曲その他

 ミュンヘン三重奏団を主体とする伯林ベルリンフィルハーモニー管弦楽団員は、ベートーヴェンの『ピアノ五重奏曲=変ホ長調(作品一六)(四五〇四〇―三)を入れている。

 ライプチッヒ、ゲヴァンドハウス弦楽四重奏団は、シューベルトの『トラウトの五重奏曲』を入れている。演奏は良いが吹込みは古い。同じ五重奏団のモーツァルトの『嬉遊曲(木管五重奏曲)第八番、第十四番』も良いものであった。

 ウェンドリング弦楽四重奏団は、ドライスバッハと一緒にモーツァルトの『クラリネット五重奏曲』を入れている。
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ソプラノ


レーマン Lotte Lehmann




 ドイツ系の女流歌手のうち、本当に歌えるのと言うと、ロッテ・レーマンを除いては大した人はあるまい。ゲルハルトもエリザベート・シューマンも年を取った。オネーギンもイヴォーギュンも、華々しいことはないとなると、リードでもオペラでも、自由自在にこなしているレーマンを第一線に押し立てるほかはあるまいと思う。そのレーマンも、ユダヤ人排撃の嵐にわざわいされて、独墺どくおうに安住することはむずかしかろうといううわさが最近伝わっている。天道様てんとうさまと米の飯を求めてどこへ行くか、レーマンに興味を持つ人には、かなり気の揉める問題であろう。
 一八九〇年の生れだというから、レーマンも、そんなに若いわけではない。恐らく今はこの人の絶頂期であろう。どうかしたら、少し盛りを過ぎたかも知れない。
 ゲルハルトなどは、声の味と頭脳で聴かせることの方が多いのに反して、レーマンは徹頭徹尾うでで聴かせる人だ。もとより良い声には相違ないが、レーマンの場合は、技巧の方が声の美しさよりもすぐれている。ワーグナー歌い手としてたたき上げ、オペラで一家を成した関係からでもあろう。この人の声はゲルハルトやシューマンよりは遙かに派手で、ドイツ風の堅実な技巧に、ほんの少しばかり伊太利イタリー風の発声法が加味されていると思う。ドイツのごつごつしたオペラ歌手とは柔かさにおいて違うものがある。
 レーマンの歌が情味に豊かで、劇的な気分の行きわたるのは、レーマンの聡明のせいでもあるが、一つはこの賢き発声法のせいではあるまいか。この人のオペラ物を聴くと、私はいつでもそう思っている。先年物故したドイツの大歌手、リリー・レーマン夫人の確かな技巧と、美しい魅力とを、ロッテ・レーマンに見出すのである。ロッテ・レーマンこそは、名実ともに、リリー・レーマンの後継者であると言って差支えはあるまい。(レーマンのレコードは歌劇全曲物とドイツ歌曲集以外は全部コロムビアに入っている)
 レーマン夫人の最大傑作は、コロムビアのレコードに入っている、シューマンの女の愛と生涯J五三九二インチ四枚の、全曲レコードであろう。伴奏は管弦楽で、甚だけしからんものだが、レーマンの歌は実にうまい、――やるせない処女の初恋から、男の雄々しい姿に持つ憧憬、男の死から、寡婦かふの淋しさを終るまで――、なんというすばらしい表現であろう。レーマンこそは実に驚くべき歌い手だ。少しも嫌味でなく、品の良い情味で、春の水が四沢したくうるおすように、歌全体に輝きと潤いとそして淋しさを漂わせている。
 シューベルトのアヴェ・マリアJ八三八九も、あらゆるこの歌のレコードで第一等の出来だろう。行き届いた優しい表現は比類もない。ウェーバーの魔弾の射手アガーテの詠唱J八五八六に至っては、傑作以上だ。驚くべき技巧の良さと、表現の美しさだ。『タンホイザーエリザベートのアリアJ五五三〇も良い。
 リードではシューベルトの魔王J五五〇三のしっかりを採る。ただしこの曲は二通り入っているが、私がここに挙げたのはピアノ伴奏の方だ。
 ビクターにも『独逸ドイツ歌曲集JE三〇が一冊入っている。モーツァルトからヴォルフに至る小品リードを十一曲歌ったもので、ほかにないレコードがあり、なかなか嬉しい。モーツァルトの『秘めごと』、シューマンの『占う女』、ブラームスの『テレザ』、ヴォルフの『アナクレオンの墓』など良いものだ。

 なおビクターの歌劇全曲『薔薇ばらの騎士』や、コロムビアの『ヴァルキューレ第一幕全曲』のソプラノはこの人が歌っている。ドイツの楽劇に示したレーマン夫人の威力はすばらしい。旧人も新人もたくさんあるだろうが、ドイツ系の女流歌手で、これくらい、頭脳と技巧と声と三拍子びょうし揃った人はない。それにレーマンにはまだ幾分の若さと魅力がある。この後に大いに期待されるだろう。
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シューマン Elisabeth Schumann




 清澄な声と可憐な表情を持ったソプラノ歌手で、リード歌いとしては、日本人に最も好まれる人である。その声は少し暗いが、劇的ないたずらな誇張がないのと、清らかな感じのするのが魅力であろう。
 声の質や、技巧の上から、古典的なもの、わけてもモーツァルトが得意だが、シューベルトやシューマンやブラームスもまた悪くない。リヒアルト・シュトラウスに伴って楽旅がくりょをした関係で、シュトラウスのものも得意とされている。声の清澄さが生命のシューマンが、シュトラウスのリードを得意とするのは、一応矛盾のようではあるが、R・シュトラウスの伴奏部に力点を置いた旋律の乏しい歌は、声の悪い人ではとても歌われない。シュトラウス自身、自分の歌曲の歌い手として、声の美しいシュルスヌスやエリザベート・シューマンを選んだのは賢いことである。
 この人のレコードで、日本ビクターから出ているものでは、モーツァルトの子守唄E五五五と、リヒアルト・シュトラウスの夜曲』『JD三八六が二大傑作であろう。二つとも七、八年前の吹込みで、エリザベート・シューマンの若さが匂うばかりでなく、同情と理解のある歌い方で、実に美しいレコードと言っていい。次いではシューマンの『胡桃くるみの樹』(JD一一〇)、シューベルトの『野薔薇のばら』『なれこそわがいこい』など可憐なレコードだ。通俗なのではフリュートの助奏入りの『森の小鳥』と『私のもの』、但しこれはむずかしいリード好きが聴くものではない。本当の意味で通俗なレコードだ。
 モーツァルトのオペラは非常に良いと言われるが、日本ビクターには入っていない(HMVにはたくさんある)。ビクターのバッハの『弥撒みさ=ロ短調』のソプラノはこの人が歌っている。このレコードに大きな価値を添えたのはシューマンの力であったと言ってもいい。
 シューマンも近頃下り坂になったと言われている(大田太郎氏が話していられた)。年のせいというほどではないかも知れぬが、シューマンの絶頂期は十年前から五、六年前までで、この二、三年は高い方の声がいけなくなりつつあることは事実らしい。恐らくシューマンのレコードでも、あの『子守唄』や『朝』などが最上の条件であろう。
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イヴォーギュン Maria Ivog※(ダイエレシス付きU小文字)n

 非常にうまい人だ。カール・エルプの夫人だが、ドイツ系のソプラノでこれほど美しい声と芸術的な気品を持った人はない。惜しいことにレコードはたった二枚、『あおきドナウの流れ』(ビクターJD四六七)も良いが、『ドイツ民謡JF三〇が非常にすぐれている。一九〇一年生れだから、まだ下り坂の人ではない。


ギンスター Ria Ginster

 愛すべきソプラノだ。が、少し女学生めく。ドイツ生れで英国の人気を博しているところが、この人の甘美さの証拠だろう。ブラームス、レーガー、シューベルトの『子守唄』(ビクターJD二二八)、モーツァルト、シューベルトの『子守唄』(JD三〇四)といったようなものを入れている。モーツァルトの歌劇も可愛らしい。
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ガリ‐クルチ Amelita Galli-Curci




 二十世紀の初頭、コロラチュラ・ソプラノの人気は、テトラツィーニが一人占めであったが、ガリ‐クルチがローマからアメリカに乗り出すようになってから、完全にその人気を奪われてしまった。
 ガリ‐クルチも、今では五十歳の老女になってしまったが、二十六、七から三十六、七までの間、――一九一六年から一九二六、七年頃――即ち旧吹込みレコードの末期頃までは、並ぶものなき名ソプラノ歌手であったに相違ない。この人の声は純粋で清澄な上、不思議な輝きとうるおいがあり、情味と魅力においては、旧時代のあらゆるソプラノを圧倒したばかりでなく、年齢のハンディキャップさえなければ、ダル・モンテといえども歯が立たなかった筈である。
 楽器のように均勢の取れた非常に表情的な声は、ガリ‐クルチの強味で、その上声量も相当あり、若い頃はなかなか美しくもあったらしい。
 日本を訪ねた頃は、大田黒おおたぐろ氏のいわゆる大きな鼻が目立つようになったばかりでなく、電気以前のレコード時代とは、比較にもならないほど声の美しさを失っていた。それを意識したガリ‐クルチは、若い頃の良さを出すために、どんなに骨を折って歌ったことか、その苦しそうな顔を見るのが、本当に気の毒なような気がしてならなかった。
 ガリ‐クルチの良いレコードは、吹込みは悪くとも、電気以前のものにあるだろう。しかし今はそんな穿鑿せんさくに堕することを避けて、実用的な電気吹込み後のレコードから選ぶとすれば、やはり『ソルヴェイクの唄聴け雲雀ひばりの歌声をビクター六九二四を採らなければなるまい。これは電気の初期のレコードだが、あらゆるレコードのうちで一番売れるそうだ。十年間に恐らく何万枚と売っているだろう。一番通俗さを持っているからだろう。
 私は、デ・ルカと一緒に歌っている『椿姫いざ我に命じ給え八〇八九が好きだ。それから『セヴィリアの理髪師ほのかなる声七一一〇も悪くあるまい。
 安らかな歌を好きな人には『ホーム・スイート・ホーム』と『ラスト・ローズ・オブ・サマー』(一三五五)もすすめられる。
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ヴァラン Ninon Vallin




 ニノン・ヴァランを最初に聴いたのは、十六、七年前、縦震動のパテー・レコードであった。今でも私は、その重要なものは全部持っているつもりだが、あの中のデ・ファリアの『ホータ』などは、今聴いてもびっくりするほどよく入っている。
 ヴァランもあの頃は張り切っていた。若さと情熱が溢れて、どうにもならないような歌い振りであった。それまでガリ‐クルチとか、シューマンハインクとか、ファーラーとか、メルバとかばかり聴いていた私などは、たった一ぺんでヴァラン党になったのも無理のないことである。
 この人はスペインの近代歌曲をよく歌うくせに、フランスの一番洒落しゃれた新しい歌曲も巧みに歌い、その上フランスやイタリーの歌劇オペラはお手のものだった。私はその頃入った『ラ・ボエーム』や『ミニョン』を持っているが、柔かで清澄で、実に良い味だ。
 五、六年経って、世は電気吹込みレコード時代になってから、ヴァランはフランスのオデオンとパルロフォンと、それからその頃は横震動になったパテーへ、盛んにフランスの新しい歌を入れ始めた。私などはそれに牽き付けられて、後から後から取って見た。フォーレや、ドビュッシーや、デュパルクの歌が、ヴァランの美しい声で――少し派手な表現で、じゃんじゃん入るのは、ヴァラン党には、かなりのセンセイションであったのである。
 その後日本コロムビアは、パテーやオデオンの母型を使用するようになり、日本でも盛んにヴァランをプレスして出してくれた。ヴァランはもう珍しくもなんともなくなり、私の情熱もさめてしまったが、近頃になってようやく、かつて七、八年前の私などがパテーやオデオンで愛聴したレコードと同じものが、コロムビアから出て来るのは、少しばかりくすぐったくないでもない(もっとも新しい母型もたくさんあるが)。
 近頃はヴァランも、女だてらにレジオン・ドヌールかなんかを貰って、フランスの国宝的な芸術家になりすまし、舞台を退いて、子弟を教えているということだ。そんな年でもあるまいが、歌い手は引込み時が大切だから、それも賢いことかも知れぬ。
 この人のレコードはかなり多いが、やはりオペラが本格だ。『ハバネラ』でも『セギディリヤ(J五四〇〇)でも、少しお品が良いが、この人ほど見事に歌える人は、まず断じて当代にない(スペルヴィアは別の意味でうまい)。それからスペインの歌曲『ホータ』(J五五六八)のようなのも良いが、フランス近代の歌曲、フォーレの『夢の後に(J五三一三)や『秋』(J五四九八)、ドビュッシーの『緑』『マンドリン』(J五五〇五)などを歌うと、実にけしからぬほどうまいものだ。この歌はもっと面白くもなんともないように歌うのが本当だが、ヴァランが歌うと、必要の限度を超えて綺麗になり魅力的になる。
 ヴァランでいけないものは、フランス語で歌ったドイツのリードだ。シューベルトの『セレナーデ』などは止した方がいい。全く畑違いだ。
 ヴァランのレコードを一枚求める人は、『ハバネラ』と『セキディリヤ』が良かろう。もう一枚を加える人は、フォーレの『夢の後に』が良い。三枚目は『ホータ』がよかろう。あとは曲の好みに従って差支えはない。
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ダル・モンテ Toti Dal Monte




 先年ガリ‐クルチより二、三年おくれて日本を訪ねたことがある。ガリ‐クルチより十歳若いだけに、安心して聴いていられる。柔かくて美しい声を持っている上に、技巧がすぐれて、実に縦横自在な歌い手だ。ガリ‐クルチの王座を奪ったのも無理はない。欠点は情熱らしいものの足りないことで、美し過ぎ、うま過ぎて少し食い足りない。それだけレコードでは申し分のない歌手とも言える。
 代表的なレコードは『ラムメルムーアのルチア狂乱の場(ビクター六六一一)だろう。すばらしい出来だ。生命のある楽器のように確かで美しい。『聴け雲雀ひばりの歌声を(DA一三一五)も絶品的なものだ。ガリ‐クルチの比ではない。『椿姫=ああ、そはかの人か』(JD二九五)も、『ミニョンのポロネーズ』(DB一三一八)も良い。
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ポンス Lily Pons

 近頃映画に進出して、盛んに活躍している。背の低い小さい女で、芝居も下手へただが、歌も大したことはない。もっともグレース・ムーアよりはうまかろう。どこからあんな声が出るかと思うような声を出す。
 声の美しさも清透さも、技巧の自由さも、ダル・モンテには及ばないが、ダル・モンテよりは六つ年下で、少しばかり情熱的で、燃焼的なのも、器械から声の出るようなダル・モンテより人間的魅力があるかも知れぬ。巧みなことと柔かさとではダル・モンテの敵ではないが、とにかく映画などに出して『ブリュー・ダニューヴ』をブルースで歌わせるには惜しい人だ。
 レコードでは少し古いが『リゴレットしたわしき御名みな(七三八三)、『ラクメ=ベルソング』(七三六九)、それから『セヴィリアの理髪師=ほのかなる声』(JD七九三)と言ったところだ。(以上はビクター・レコード)
 因みにポンスの初期のものは、コロムビアに二、三枚入っている。
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ボリ Lucrezia Bori

 一時は鳴らした人だ。スペイン系の歌い手で、柔かさと情熱との程よき調和が嬉しかった。非常に素直な歌手で『ミニョン』の「南の国」(ビクター一三六一)、『ラ・ボエーム』の「妾の名はミミ」(ビクター六七九〇)などが良かった。近頃舞台を引退したということだが、レコードは新しく入っているらしい。


ラシャンスカ Hulda Lashanska

 アメリカ生れの非常に綺麗な歌い手で、第二のファーラーと言ってもいい人だ。日本ではあまり問題にされないが、どのレコードも妖艶ようえんしたたるばかりだ。邪道と言えば邪道だがアメリカ人にはさぞ受けるだろう。それだけの派手な声を持っていて、オペラは歌っていない。
 レコードでは、バッハの『甘き死よ来れ(ビクター七〇八五)などがある。メンデルスゾーンの『歌の翼』がよかったが、絶盤になったらしい。
 シューベルトなどは邪道ながら、実に派手なものだ。『アヴェ・マリア』と『汝こそ我が憩い』(JI三一)がある。ポール・ライマーと歌った『セレナーデ』などは腹を立てて打ち割りたくなったものだ。


ザック Erna Sack

 近頃ドイツで騒がれている人気歌手だ。若さと美しさをき散らすようなところが、この人の受け容れられる原因だろう。声も技巧も良いが、それよりも張り切った若さと、魅力が特色だ。レコードはテレフンケンに六、七枚入っているが、レーハルの『金と銀(二三六五九)の通俗なのが一番良い。そう言った人だ。『あおきドナウの流れ』(一三一二二)なども楽しめるだろう。
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テイトとスタパン Maggie Teyte, Suzanne Stappen




 テイトはコルトーのピアノ伴奏で、ドビュッシーの歌を十四曲(JE七六―八二、名曲集六四七)、スタパンはコッポラ指揮の管弦楽伴奏で、フォーレの『やさしき歌』九曲と『エスパアンの薔薇ばら(JK二九―三三、名曲集六二七)を入れている。どちらも、ビクター蒐集クラブのレコードだ。
 テイトは行き届いた表現を持った人で、バトリの若い時を思わせるが、それにもまして見事なのは、コルトーのピアノの伴奏で、ドビュッシーの歌曲の伴奏部の面白さを、これほど巧みにかした人はかつてないと言っていい。テイトは確かイギリス人だということであったが、それにしては、フランスの歌になじみ切った態度で、そのこまやかさにはなんの不安もない。少し理知的であり過ぎるかも知れないが、それは声の美しさで充分カムフラージュされる。言葉のハンディキャップなどは少しも感じさせない。
 スタパンは若くて清らかだ。二十年前のニノン・ヴァランはもう少し若さがあった。フォーレのやさしい情緒と、真珠色の美しさを表現するには、ヴァラン以外にこの人ほどの美しいのを聴いたことがない。ヴァランより若いのが強味だとも言えるだろう。
 フランスの近代歌曲を好む人に、私はこの二つのアルバムをまず用意することを切にすすめる。この二冊にパンゼラとヴァランの数枚と、バトリとクロアザが一、二枚ずつあれば大抵の蒐集は充分だろう(特別な研究者は別だが)。
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メツォ・ソプラノ


ゲルハルト Elena Gerhardt



電気以前のゲルハルト・レコードは、別項『巨匠の回顧』に詳説する。

 かつてリードの女王と言われたゲルハルトも、今年はもはや五十六歳の老女である(一八八三年生れ)。若かりし頃の魅力を失ったと言われるのも、まことに当然のことと言わなければならない。
 ゲルハルトの若かりし頃は、どんなにすばらしい歌い手であったか、いろいろの文献と語り伝えが這間しゃかんの消息を物語っている。近代の大指揮者ニキシュが、ゲルハルトの驚くべき天分を見出し、進んで彼女の伴奏を弾くために、公衆の前に立ったのは、実にゲルハルトが十八歳の少女時代であった。世界の大指揮者ニキシュを伴奏者としたゲルハルトの当時の得意や思うべしである。(ゲルハルトがニキシュの伴奏で歌った有名なIRCCのレコードのことについては、『巨匠の回顧』の項に書く)
 ゲルハルトの声は万人ばんにんすぐれたものであった。清澄で、深沈として、驚くべき含蓄と陰影を持った声で、その上、楽曲に対する彼女一流の聡明な解釈は、ただ単に、美しく器用に歌いまくる多くの女流歌手の間に、嶄然ざんぜんとして特異の境地を開いたものであった。少くとも三十台――四十台までのゲルハルトの驚くべき表現は、リードにおける限り、男声のスレザーク以外に肩を並べる者のなかったことは事実である。
 ゲルハルトは、見事な恰幅かっぷくを持った大女で、その声は必ずしも大きくないと言われている。近衛秀麿子このえひでまろしはかつて私に「ゲルハルトが日本へ来てくれるといいですな。声量は小さいが、非常にうまい人ですよ」――そんなことを言っていられたことを記憶している。それはしかしもう十数年も昔のことで、今日のゲルハルトのことではない。
 電気以前、HMVとドイツ・グラモフォンに入っている頃のゲルハルトは、その声価に比べて甚だ良いレコードではなかった。「ゲルハルトはレコードが非常に悪い」――私はそんなことを始終聞かされていた。
 そのゲルハルトが電気吹込みで入ったのは一九二六、七年頃で、それから引き続き十枚以上のレコードを吹込んでいるが、録音の断然良くなったのと反比例に、一部の間には「ゲルハルト老いたり」の声、ようやく繁からんとしている。
 ゲルハルトは本当に老いたであろうか。
 五十五歳と言えばもう第一線の歌い手の年齢ではない。がしかし、私は一部の人が近頃のゲルハルトを非難するほどは落胆していない。ヴォルフ協会以後のゲルハルトのレコードはいかにも惨憺たるものだが、今ビクターの目録カタログにある『冬の旅』四枚をはじめ、シューベルトのレコード二、三枚は、今から十一、二年前の吹込みで、決してゲルハルト老いたりと言わせないうま味を持っていた。
 私の言葉に疑いを持つ人があったら、ゲルハルトと対照してほめられているエリザベート・シューマンの最近のレコード、シューベルトの『春の夢』と、ゲルハルトの『春の夢』(JD一二三七)とを比べて見るがいい。
 もっともこの『春の夢』は、ゲルハルトがまだ完全に若さを失わない十一、二年前の吹込みであり、エリザベート・シューマンは、近頃高い方の声をスポイルして、ステージを退いて学校の先生になったと言われているくらいで、ちと比較する方が無理かも知れない。(ゲルハルトの電気以後のレコードは全部ビクター並びにHMV)

 余事はさてき、ゲルハルトのレコードで一番良いものと言うと、やはりシューベルトの冬の旅』を歌った数枚のレコードだろう。『辻音楽師』(EJ一五四)と『菩提樹』(六八四六)と、前掲の『春の夢』(JD一二三七)はわけても美しい。『辻音楽師』は少しテンポが遅く、思わせ振りな歌い方ではあるが、この簡素な歌を聴くと、老いさらばえた辻音楽師が、時雨しぐれに濡れて行くあわれな姿が彷彿ほうふつとして、我にもあらず涙がこぼれる。名手と言うべきである。『菩提樹』はスレザークと好い取組で、いずれをいずれとも決定しがたい。巧者はスレザーク、気品はゲルハルト、堪能させる歌い方はスレザークで、魅力はゲルハルトの方がまさるだろう。
春の夢』はゲルハルトの傑作の一つである。この歌をこれほど美しく、またこれほど凄艶に歌った人も、歌える人もあるまいと思う。転調の美しさなどはほとんど無類というべきであろう。ゲルハルトをたった一枚求める人には、私はこのレコードか、でなければ『辻音楽師』をすすめることにしている。辻音楽師の陰惨さを好まない人には、当然この『春の夢』が向くであろう。
 続いて私は『ます(JF四)をすすめたい。このレコードはゲルハルトの電気の最初のレコードで、十年ばかり前これが手に入った時、野村光一こういち氏を私の宅へ引っ張って行って聴かせ、「この通りですよ。今までレコードでは、ゲルハルトの味が出ないと思っていたが、こればかりは本当のゲルハルトですよ」と感心させたものだ。
 それと前後して入った『水に寄せて歌える(JD六〇五)も絶品だ。この歌はシューベルトでは明るい歌の傑作で、ゲルハルトのを聴いていると清涼の気が肌に迫る。こんな清澄な声と深沈たる美しさを表現する歌手はない。それと並ぶ名品、レーガーのマリアの子守唄』はビクターの名演奏家秘曲集に採られている。それから『駅逓えきてい(一三四二)何処どこへ』『隠遁いんとん(DA一二一九)というところであろうか。ゲルハルトはブラームスがうまいと言われているが、レコードでは『淋しき野辺のべ(JD七五)以外あまり良いのがない。ゲルハルトが年を取ってから吹込んだのばかりだからだろう。

(ヴォルフ協会第一輯のレコードは七枚十九曲の大物で、一九三一年全部ゲルハルトが吹込んでいる。その当時の旧稿を訂正補筆して此処に掲げる)

 フーゴー・ヴォルフ協会のレコードが、日本から前後二百組以上も注文が行ったということは、どんなに主催者のマッケンジー氏を始め、英吉利イギリスの関係者を驚かしたことか、日本人の音楽鑑賞の水準を、極めて端的に教えてやったような気がして、ファンという立場を離れて、いささか肩身が広い。

 打ちあけてお話しすると、私も最初は、二、三十、せいぜい五十組止りの申込みだろうと見縊みくびっていたようなわけで、第一回百二十組、追加約三十組と聞いて、実は少からず驚いた次第である。
 言うまでもなく、ヴォルフはむずかしい。シューベルトやシューマンの本格的なドイツ・リードと違って、ヴォルフは単に理解することそれ自身が困難で、まして、これを享楽的に聴くなどということは、一、二、有名な美しい歌を除けば、まず考えられないことである。ヴォルフの歌はそれだけ技巧的で、憂欝ゆううつで、素人耳しろうとみみには、まことに始末の悪いものであるが、そこがまた、ヴォルフの良いと言われる点でもあるのだ。
 シューマンのように、気が違って死んだヴォルフの作品には、潜伏した狂気とも言うべき、手にえない一脈の憂愁さが流れている。この中から、歌の美しさ、面白さを見出すのは、素人に取っては全く骨の折れる仕事である。

 ポール・ミュラーは「ワーグナーの偉大なのは、劇作家としてではなく、言語学者としてである。(つまり、あの独特の宣叙せんじょ調を書いて、巧みに言葉を生かした点で――)ヴォルフの偉さは同じような意味で、リードとして詩を生かした点である――」というようなことを言っている。(ようなこと――で、これはミュラーの言葉の直訳ではない)
 全くこれは至言で、シューベルトは歌うために詩を選んだが、ヴォルフは詩を愛するが故に、それに作曲した。詩が読む者に与える感銘や、その心持の動きを、巧みに掴んでいる点では、全く比類がないと言っていい。それだけヴォルフのものはむずかしいのである。つまり、訴えるよりは、むしろ理解させる方で、そのためにしばしば詩の持つ感銘を伝えることに溺れ過ぎたとさえ言われたほどである。

 このゲルハルトの歌った十九曲の歌のうち、とりわけ面白かったのは、スペイン歌謡集のうちの五曲と、イタリー歌謡集のうちの五曲であった。これは、今までレコードに入っていなかったせいもあるだろう。今まで入っていたのは、ゲーテや、メリケや、アイヘンドルフの歌謡だけで、スペイン歌曲と、イタリー歌曲は、長くあこがれの的であったせいもあるだろうと思う。
 人によっては、このスペイン歌謡集とイタリー歌謡集によって、ヴォルフは真価を発揮したと言っているくらいで、この歌の持つエキゾティックな味は、当時の知識的な人たちを驚かしたらしく、今聴いて見ても、実際良いものが少くない。
 もっとも、この良さや美しさは、シューベルトやシューマンを以て代表するドイツ・リードの本格的な良さ美しさではなく、やや後に現われた北欧のグリークやアメリカのマクダウェルの持った、世紀末的と言ってもいい、やや病的な、特殊の美しさと相対するものである。この人たちの歌曲には、シューベルトやシューマンの持っている普遍性は乏しいから、誰にでも好かれるというわけには行かない。
 換言すれば、ヴォルフの歌は、能才の最大限度の発揮とも言うべきで、その盛りこぼれるようなテクニックの美しさは驚嘆に値するが、それは、シューベルトのように湧き上る泉のような、むに已まれぬ天才の産物でないことは明らかだ。

 スペイン歌謡集は“Herr, was tr※(ダイエレシス付きA小文字)gt den Boden hier”“Die ihr schwebet”“Nun wandre, Maria”“Wenn du auf den Blumen gehst”“Ach, des Knaben Augen”――以上五つであるが、ほとんど等級を付するのがむずかしいくらいで、歌も演奏も申し分なく見事だ。
 イタリー歌謡集の五曲のうちでは、“Auch kleine Dinge”“Und steht ihr fr※(ダイエレシス付きU小文字)h am Morgen auf”――以上の二曲が最も優れているだろう。

 歌がよくて、案外演奏のよくないのは、“Das verlassene M※(ダイエレシス付きA小文字)gdlein”だ。これは引き延ばし過ぎて、あまりに技巧的に歌われたせいか、歌の主人公が乙女おとめであるという感じが出ない。同じメリケの詩でも、“Rat deiner Alten”は、主人公が老婆だけに、ゲルハルトの技巧がぴたりとはまる。リードの女王ゲルハルトも年を取ったという感じは免れない。ほかにメリケので、“Gesang Weylas”が良かったと思う。この歌はほかの人のレコードもあるが、ゲルハルトのは、一語一語に不思議な力が籠って、絵画的なアトモスフェーヤを出すことに成功している。ブランツェルの歌ったこの曲のレコードは、オーケストラ伴奏で入っているが、これは確かにオーケストラの方が面白い。言うまでもなく、この伴奏のピアノをオーケストラに編曲したのは、作曲者のヴォルフ自身で、ホルンの美しい効果などは、ピアノでの代用はむずかしい。
 伴奏のボスは、現代第一流の伴奏弾きで、決して悪かろう筈はないが、ヴォルフはその曲の性質上、オーケストラ伴奏の方が面白いもののあるのは、また已むを得ないことである。
 それから、メリケの“Auf einer Wanderung”及び、アイヘンドルフの“Das St※(ダイエレシス付きA小文字)dchen”のように、たくさんの転調を持った、むずかしいテクニックを要求する歌は、ゲルハルトの技巧がすぐれているから、とりわけ面白く聴かれた。なんと言っても、ゲルハルトは技巧家で、手の混んだものを巧みにさばいて、美しく歌って行く手際は比類もない。

 結論を言えば、総じて面白く結構に聞いたと言うに尽きる。ヴォルフの研究者、ゲルハルトの崇拝者には、かけ換えのないレコードであろう。もしほんの少々文句を言わして貰えるならば、ゲルハルトも幾分年を取って、単純な歌がだんだんいけなくなって行くことを、このレコードによって初めて発見したことだ。これはシャリアピンにも、シューマンハインクにも、キプニスにも、ブラスローにも、さらにさらにスレザークにもあることで、年と共に大抵の歌い手は、手の混んだ、細かく分解の出来るものほどよく歌うようになる。声の美しさと輝かしさと、無技巧の魅力を失うからだ。
 しかしゲルハルトは、まだそんな年ではない。技巧的なもののうまいのは、一つは、この人の持ち味でもあるのだ。一つ一つの転調に注意の行き届くところなどは、さすがに帽子を脱がせられる。(因みに、ヴォルフ協会はその後第四輯までレコードを出しているが、日本に輸入されたのは甚だ少い)
(この項『レコード音楽』昭和七年五月号所載)
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スペルヴィア Conchita Supervia

 スペインの歌い手で、スペインのものを歌わせては絶対に追随を許さなかったが、惜しいことに一九三六年、お産の後で若くて急逝した。晩年は多く英仏に過し、オペラに出演して第一流の人気を博していたらしい。歌い振りは南国の燃える情熱をたたき付けるようであった。少し野蛮で奔放で、そのくせ技巧が上手で、おもても向けられない烈々たる歌い手であった。
 スペインの真夏の陽のような、妖艶無双な歌い手は、カルメンがうまかったことは言うまでもないが、スペインの匂いの高い歌曲も実にすばらしい。少し古いのではファリアの『七つの西班牙スペイン民歌曲(コロムビアJ五三八四―六、傑作集一九二)の「ホータ」や「ナナ」や「ポーロ」が素敵だ。新しいのではグラナドスの『トナディリアス』が良い。『七つの西班牙スペイン民歌曲』はファリアの独特の荒さがあるが、『トナディリアス』はグラナドスの優しさと美しさがある。
カルメン』の「ハバネラとセギディリア」(J五三三七)は本当に焔と血の匂いがする。ヴァランのカルメンなどは美しいには美しいが、これに比べるとお嬢さんのようなものだ。

バトリとクロアザ Jane Bathori, Claire Croiza

 バトリはフランス楽壇の大姐御おおあねごで、その腕は歌にも社交にも、政治家にも有名である。昔はさぞうまい人でもあったろうし、事実、近代フランスの歌謡は、この人の聡明さによって救われ、この人の理解と勇気によって世に出たと言っても差支えはないものであった。
 フランスの近代歌謡が、いかに特異なものであったかはここに説く限りではないが、少くとも、フォーレ、デュパルク、ドビュッシー、ラヴェル、以下の新鮮な芸術的歌曲は、古い伝統主義者たちには極めて理解の困難なもので、その大部分は、バトリ夫人の努力なしでは、亡び失してしまわないまでも、世に出ることが遙かに遅れたであろうことは想像するにかたくない。
 今日のバトリは、あまりに老いた。その聡明さは昔と変らないにしても、その声は、もはや魅力というものを感じさせないが、しかし、声ばかりが決して歌唄いの条件ではない。例はいささか不穏当かも知れないが、バトリの歌を聴くと、私は晩年の名俗曲歌手橘之助きつのすけを思い出さずにはいられないものがある。バトリの歌から受ける感じは、その溢るるばかりの同情と、芸術愛と、そして精練し抜かれた技巧の良さだ。本当に仏蘭西フランス的なものを我々はバトリから感じずにはいないだろう。

 クロアザも同じように年齢の浸蝕を受けつつあるが、クロアザにはまだ若さがあり、本来の美声がある。バトリがフランス的であるとすれば、クロアザはさらにパリ的であると言えるかも知れない。異常な巴里パリの魅感が生理的に老いを証明して、あやしくも人に迫るものを感じさせるだろう。クロアザとバトリはとにもかくにも、異常な歌い手である。巴里パリでなければつことの出来ない魅力的な存在であると言えるだろう[#「だろう」は底本では「だらう」]
 バトリのレコードはラヴェルの『博物史(J七八六四)が興味の深いものであったが、コロムビアは廃盤にしたようである。続いてドビュッシーの『ビリティスの三つの歌』(J五一八六―七)、『華やかな饗宴』(J七七八一)、『月光』(J五一四一)などが挙げられる。理解の深い、渋い表現で、年は取っても確かなものであり、充分好感を持たせるだろう。
 クロアザはデュパルクの『かなしき歌(J五一九五)、ドビュッシーの『忘られし小唄(J五一五七)などが面白かろう。フォーレの『夢の後に』(J五二四〇)は一番よく歌っているが、ヴァランなどに比べると、年齢で損をしている。(バトリとクロアザのレコードは全部コロムビアにある)
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アルト


シューマンハインク Ernestine Schumann-Heink




 大震災前、日本を訪ねたころはもう六十歳を越していたが、その歌はまだなかなかしっかりしていた。日本へあまり良い歌い手が来なかった頃で、帝劇の入りは相当であり、楽壇からも一般社会からも、かなりの歓迎を受けた。
 シューマンハインクはこの旅ですっかり日本贔屓びいきになり、その後も幾度か来遊を企てたようであったが、老歌手の楽旅を引き受けるマネージャーがなかったので、とうとう果さなかったらしい。私は仔細しさいあって幾分かの事情を知り、さぞシューマンハインクが失望するだろうと心を痛めたものであった。若くて美しい歌手でなければ、その頃はもう日本でも引受け手がなくなっていたのであろう。
 シューマンハインクの歌は、レコードに聴くと同じように、叩き上げた老練さと、一種の強い響きを持っていた。低い方はわけても美しく、この人の声は決してぼけたり崩れたりすることはなかった。宗教的なものや民謡風の小曲を歌うときは、親類の小母さんのような親しさを感じさせたものだ。決して華々しくはなかったが、日本へ来た歌い手のうちで、私はこの人とシャリアピンが一番なつかしい。亡くなったのは一昨々年の一九三六年、生れは一八六一年プラーグであった。中年から米国に帰化した筈である。
 シューマンハインクのレコードでは、シューベルトの『魔王(ビクター七一七七)が絶対的に支持された。が、厳格に言えば、電気以前のビクターの『魔王』の方が遙かに良い。この歌の持つ良さも美しさも、シューマンハインクは申し分なく併せ持っている。あまり過ぎない程度の劇的な歌い方も、シューベルトが望んだであろう心持にぴたりとする。管弦楽の伴奏は重大な欠点だが、それを除けば、『魔王』のレコード中、一、二の傑作であったろう。電気の入れ直しは、老齢の影響を蔽うべくもない。
きよしこの夜』(六七二三)も小母さんらしくて良い。シューベルトの『ます(一五四〇)は晩年の吹込みだが、さすがに風格のあるものだ。他にも良いものがあったが、廃盤になったらしい。
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オネーギン Sigrid Onegin




 瑞典スエーデン生れのアルト。非常にうまい人だ。日本であまり騒がれないのは、地味な歌い手でぱっとしないせいだろうと思う。ドイツ・グラモフォン以来レコードに入っており、イヴォーギュンやシューマンと共に一部の人々に興味を持たれていたものだ。
 シューベルトの『君こそ吾が静けきいこいなれ(ビクター七〇七五)は名演で、この歌における限り比類の少いものだ。(旧著『バッハからシューベルト』に多少非難しているが、それはまだ私の考えの至らぬためであった)
 それよりも、ブラームスの『アルト・ラプソディ(七四一七―八)は特筆さるべきレコードで、歌も曲も良いが、オネーギンの歌の堂々たる美しさは敬服に値する。但し吹込みはかなり古いことを覚悟して聴くことだ。
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バット Clara Butt




 先年日本を訪ねて、間もなく長逝した。英国では一般の尊敬を集めた老歌手で、若い時は非常にうまい人であったらしい。日本を訪ねた頃は、老人癖があって少々困ったが、それでも風貌の立派なのと、歌い振りの滋味の豊かなので、非常に親しみを感じさせる人であった。一枚ぐらいはコレクションに加えるのもよかろう。サリヴァンの『ロスト・コード』とアダムスの『聖なる都』の腹合せ(コロムビアJ九〇〇八)が良い。ほかには『スイート・ホーム』とか『アニイ・ロリー』とか、むずかしくない、お国振りのものが安心して聴けるだろう。
 この人の古い時の吹込みが、電気以前のコロムビアに二、三十面、ビクターにも五、六面入っていたものだ。その頃のバットは老人癖がないのと、声量の豊かなのと、自由自在な、宏大な表現とで、世界のファンを唸らしたものであった。今ではもはや骨董に過ぎないが、それでも私のような昔からの蒐集を持っているものは、その骨董に却ってバットの美しさを見出している。しかしそれは手に入りがたいレコードでもあり、一般的には電気の一、二枚を持つだけで充分としなければなるまい。(バットの電気以後のレコードは全部コロムビア)
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ビクター系女流歌手





シュナーベル Threse Schnabel[#「Threse Schnabel」はママ](ソプラノ)

 言うまでもなくピアニストのシュナーベルの夫人だ。非常に素直な良い技巧と、女らしいやさしい情緒を持った人だが、何分年を取り過ぎて魅力において欠くるところのあるのはむを得ない。先生らしい素直さを採るのがせめてもだが、夫君のピアノ伴奏は実にすばらしい。ボスのような専門の伴奏家を除けば、パンゼラとテイトに伴奏したコルトーと相対して、伴奏の二大偉観と言っていい。わけても『魔王』(ビクターJD二二〇)『影法師』『都会』(JD一七三)はすばらしい。


レートベルク Elisabeth Rethberg(ソプラノ)

 私のコレクションには、七、八枚のレートベルクを持っているが、ビクターの新しいカタログ(昭和十一年以後)には一枚もなくなっている。これは誠に惜しいことだと思う。レートベルクがそんなにうまいわけではないが、この人のリリー・レーマンの系統を引くらしい、妖艶苦渋な歌い方には、一種のむずがゆい美しさがあったものだ。ドイツのものも良いが、『オセロ』の「アヴェ・マリア」や「悲しみの歌」など、『ファウスト』の「宝石の歌」など、私は今に忘れない。


タリー Marion Talley(ソプラノ)

 十六歳かで大宣伝の波に乗って現われた歌手であったが、少し乳臭にゅうしゅうで日本人の我々にはつまらなかった。これも廃盤組の一人。


ノレナ Eide Norena(ソプラノ)

 ビクターで一番若くて人気のある歌い手だ。ややナイーヴな荒さを感じさせるが、それだけ野性的な美しさがあるとしたものだろう。ぐいぐいと人に迫る若さと魅力がある。ビクター愛好家協会レコードの『椿姫』の「ああそはの人か」などが代表的だろう。ほかにグリークの『春』(JD九四二)を私は面白いと思う。


プランタン Yvonne Printemps(ソプラノ)

 かつてはギトリーの夫人であり、フランス劇壇の花形だが、不思議に歌をよくする。もっとも一流の歌い手と比較してはいけないが、日本の少女歌劇のようなものでないことは確かだ。リュリーの『月光に寄す』(JD三三)など、なかなか親しめる。が、プランタンの良さはやはり台詞せりふで、歌の入った台詞せりふ『さらば小さき夢よ』(JE一二七)などは魅力そのものだと言える。


コルユス Miliza Korjus(ソプラノ)

 黒盤から近頃赤盤になった若い歌手だが、声が清澄で技巧も素直で、好感の持てるコロラチュラ・ソプラノだ。ヨハン・シュトラウスの『春の声』(JB九四)など楽しめよう。


エリッツァ Maria Jeritza(ソプラノ)

 大戦後にドイツから米国へ渡った時は大変な人気であった。ファーラーが映画に転向した後へ、メトロポリタンの支配人が、エリッツァを迎えたわけである。ファーラーと同じ系統のリリー・レーマン畑の歌い手だが、アメリカ人ファーラーと違って遙かにドイツ臭く、イタリー・オペラを歌っては、幾分固さを免れない。しかし恰幅の立派なのと、芝居上手なので、当初はかなり騒がれたらしい。『カルメン』はファーラーやヴァランやスペルビアに及ばず、『魔王』はレーマンやゲルハルトやシューマンハインクの敵でない。やはり『ローエングリン』の「エルザの夢(六六九四)が傑作だろう。電気の初期に入った『魔弾の射手』の「アガーテの祈り」(六五八八)や『タンホイザー』の「歌のやかたよ」(一二七三)などの方が良かったと私は思っているが、これは絶盤になってしまった。わけてもこの『タンホイザー』が良い。それから、日本ではプレスしなかったが米国ビクターに入った『夕景トワイライト』などは今聴いても良い。この人はもう少し買われても良い人であると思う。


ポンゼル Rosa Ponselle(ソプラノ)

 やや魅力を欠くが、自由な声と技巧とを持った歌手で、一時なかなかよかったものである。代表的なレコードは、テナーのマルティネリーと歌った『アイーダ』の「さらば此世このよ(三〇四一)であったが惜しいことに廃盤になった。残っているのでは『アイーダ』の「凱旋の願い」(七四三八)がある。
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コロムビア系女流歌手





マルチネリ Germaine Martinelli(ソプラノ)

 シューベルトの『美しき水車小屋の娘』(J八五三四―七、傑作集二三二)とシューマンの『女の愛と生涯』(J八五一八―九、傑作集二二七)の二つの大物の全曲を歌っている。恐ろしく達者な人で、しかもフランス語で歌っているのが特色だが、何しろ『美しき水車小屋の娘』二十曲をたった四枚に全曲を叩き込み、『女の愛と生涯』八曲を二枚で片づけている雄弁は驚嘆に値する。下手へたな人ではなく、むしろ上手じょうず過ぎるくらいの人だが、特別な注文でないと、少し変り過ぎた感があるだろう。


クレンコ Maria Kurenko(ソプラノ)

 可愛らしい声と、やさしい表現とを持った人だ。廃盤になったものに良いのがある。『ミュゼッタ・ワルツ』(J五〇二九)も大したことはない。


ムチオ Claudia Muzio(ソプラノ)

 近頃コロムビアのイタリー風の歌手では一番魅力のある人であったが、惜しいことに先年若くて死んだということである。『トスカ』の「歌に生き恋に生き」(J五五一〇)、『カヴァレリア』の「ママも知る通り」(J八五六三)などを私は記憶している。

 ほかに、ポンスも、ムーアもギンスターもある。黒盤物では、ベッテンドルフと映画で親しみのあるエゲルトが興味だろう。歌はうまくないが、それは人気だけの花形だ。
 アルトでは老巧ブラスローがある。昔はえらい歌手であったが、近頃は何分年を取り過ぎて、三十年前の赤ビクターで鳴らした面白さはない。
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ポリドール系女流歌手





グレー Madelene Grey[#「Madelene Grey」はママ](ソプラノ)

 ラヴェルの『マダガスカル土人の歌(五〇〇四四―五)と『三つのヘブライの歌』(五〇〇四三)を入れている。どんな人か明らかでないが、魅力的な美しい声の持主で、土の匂いと、そしてあやしい悩ましさを感じさせる。バトリやクロアザのような技巧のうまいと言うよりは、持ち味と若さが物を言う人らしい。私の好きなレコードの一つだ。


ミシュグマイナー Mysz-Gmeiner(アルト)

 シューベルトの十曲のリードを入れた時は、大きな話題を投げかけた人だ。立派なソプラノで、聡明な解釈と、正確な穏健な表現を持った人だが、惜しいことに若々しい爽快さがなく、深沈たる内面的な美しさにも欠けている。が、いや味のない、素直な技巧に好感を持たせる『魔王』(六〇一二一)など、ともかくも代表作だろう。


ライズナー Emmi Leisner(アルト)

 単調で灰色だが、非常にしっかりした人だ。かつて電気以前のマーラーの『第二シンフォニー』の独唱をやったのが見事であった。電気以後では、ベートーヴェンの『スコッチ・アリア』三枚が良かったが、近頃のカタログには見えない。

 ほかに廃盤になったのでは、ベルマスとネメスに私は愛着を感じている。近頃はムーアとザックが一、二枚ずつあったように思う。
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テナー


スレザーク Leo Slezak




 日本における有名な歌手の某氏が、私にこんなことを言ったことがある。
「なんと言っても歌は伊太利イタリーオペラに限りますね。『ラ・ドンナ・エ・モビレ』などと来た日には全くたまりませんからね。そこへ行くとドイツのリードなんかは馬鹿げたものですよ。『イッヒ・コンメ・フォム・ゲビルゲ・ヘル』なんて、まるで叱られてるようなもんで。ヘッヘッ」
 私はこれを聴いて、どんなに腹を立てたことか、それは諸君の想像に任せよう。とにかく、爾来私は、その歌手に対して好意を持つことをめてしまった。私を侮辱するならまだいい。百年前に餓死した可哀そうなシューベルトを侮辱する言葉を、私はとても聴いてはいられなかったのだ。
 この歌い手の言葉は、言うまでもなくドイツ音楽万能のアカデミックな空気に対する反抗でもあったであろう。しかしながら、フランスのシャンソンなり、イタリー・オペラのアリアなりを挙ぐるために、ドイツのリードをけなすのは甚だ面白からぬことではあるまいか。いわんや我がシューベルトをけなしつけるにおいては、彼実に救うべからざる外道げどうに堕するものと言っていい。
 私のレコードのコレクションは、自分で持て余すほど広汎なものではあるが、そのうち最も誇るべき部門がありとすれば、それはドイツのリードのレコードであったと思う。幾度も書いたことではあるが、リードのレコード七、八百枚以上というのは、私の馬鹿な道楽のうちでも、第一の誇りで、銘々の好き好きと片づけられればそれまでだが、静かにレコード音楽を味わう者にとって、すぐれた室内楽と、美しいリードほど有難いものはないと思っているほどである。

 スレザークを語るために、順序として、電気以前のレコードのことを少しばかり話さして貰いたい。電気以前のレコードに興味のない方は、この一項だけを飛ばして読んで下すっても一向構わない。ドイツ・リードのレコードなどいうものがまだ幾枚もなかった時分、私たちの蒐集の中心点になった昔のスレザークのことを語るのは、我々鶏肋けいろく党に取っては、なかなかに興味の深いことである。
 一九一四年のビクターには、スレザークのレコードというものは五枚入っている。これこそはクレーマンのビクター・レコードと共に珍品中の珍品で、私なども今だに何枚か持っているが、今日の進歩した録音に比べれば、決して結構なものではない。もっとも『アイーダ』の「浄きアイーダ」や、『カヴァレリア・ルスチカーナ』の「シチリアナ」などは決してまずいものではなく、ロージングのイタリー・オペラの旧盤と共に、むしろ敬服すべき出来には相違ないとしても、スレザークのレコードを集むる者に取っては、まず論点のほかに置くべき外道げどうの趣味と言って差支えのないものであろう。シューマンの『蓮の花』と『ローエングリン』の「白鳥の歌」は本格的なもので、かなり後までビクターに残っていたが、これも今日からは、もはや云々うんぬんすべきレコードではない。僅かに、昔のビクターにこんなものがあったということを偲ぶだけだろう。HMVの青のカタログには、一九三〇年のでも四枚八面のスレザークが残っている。そのうち、クルツと一緒に歌ったドイツ語の『ラ・ボエーム』などが、馬鹿馬鹿しく変っているだろう。シューベルトの『セレナーデ』がこの頃から入っているが、私は聞いたことがない。(電気のは日本ポリドールにあるが)
 スレザークの本格的なリードのレコードは、昔のドイツ・グラモフォン並びにポリドールにたくさん入っている。電気吹込みのレコードは後に説くとして、これら電気以前の旧吹込みレコードが、どんなに私どものあこがれの的であったか、これこそ、知る人ぞ知ると言っておきたい。今から十年前、中村氏に逢って、たまたまスレザークの話が出た時、「私はスレザークのレコードを大抵持っているつもりだ」と言うと、中村氏は「私も大抵持っている」と言ったことがあった。当時幾枚も輸入されなかったスレザークのレコードを、克明に買い集めて持っている人が、私のほかにもう一人二人あるに相違ないことは、輸入元のレコード棚を見てよく知っていたが、その一人が中村氏であったことは、まことに不思議な奇遇でもあったのである。
 当時のポリドール・レコードのスレザークは、ほとんどことごとく電気で吹込み直しになってしまった。今さら旧吹込みのスレザークを説くのは、あまりに死児のよわいかぞうるたぐいに堕するだろう。『菩提樹ぼだいじゅ』でも、『君こそ吾がいこいなれ』でも、昔のと今のと比べると、まことに今昔の感だ。
 電気で入れ直さない二、三のうちに、最も心牽かるるのはシューベルトの『アトラス』だ。この歌はHMVにドゥハンの歌ったのもあるが、苦悩の全世界を負う悲痛な感じは、とてもスレザークと同日を以て語ることが出来ない。ポリドールに電気吹込み直しのないのはいかにも残念なことだ。
『アトラス』を『地図』と訳するのはどういうものであろう。これはやはり全世界を負う神話の『アトラス』に偶したのだから、原語のまま『アトラス』としておくのが本当ではあるまいか。

 電気吹込みになってからのスレザークは、約半分ほど日本ポリドールからプレスして売り出している。あれを日本で売り出させるために、私はどれほど骨を折ったことか。リード好き、特にスレザーク好きの人たちに、少しは礼を言われてもいいように思っている。
 リードのレコードは売れないものに決めていた当時のレコード会社は、どんなに勧めてもスレザークを出そうとはしなかったのである。特にポリドール会社は、その前に出したレーケンパーが甚だ面白くなかったせいもあったろう。(不思議なことにドイツの本国では、あのメガホンを口へ当てて歌ってるようなレーケンパーの方が、スレザークより高いレーベルになっている)ところで、一度売り出すと、そのスレザークがすばらしい人気だ。いやいやながら出したポリドール会社が、どんなにこの人気に景気付けられたか、想像に難くあるまい。
 スレザークは全くすばらしい。世界のあらゆるリードの歌い手で、あれだけにすばらしい技巧を持った人は、断じてほかにはないだろう。『ラ・ドンナ・エ・モビレ』でなければ良い歌でないと信じている人や、マッコオマックやスキーパでなければ、興味を感じ得ない人は別だ。その人たちはスレザークと別の世界に住む人類だ。
 スレザークもまだ若くてアメリカへ行っていた頃は、オペラの歌い手として、「第二のタマニョ」と言われたこともある。彼の声は輝かしく、芝居はとてもうまかった――と伝えているが、それはしかし、カルーソーやマルチネリーの出現以前のことだ。
 欧州戦後ドイツに帰ったスレザークは、僅かにワーグナー物は歌ったが、レコードの上ではもはやイタリー、フランスのオペラを歌わなかった。彼のレコードが、あの巧妙さを以てしてシュルスヌスや、ヤドローカーや、レーケンパーにも人気が及ばず、緑レーベルで我慢させられているというのは、スレザークのためにはまことに気の毒なことであるが、我々レコードファン、特にドイツのリードを愛する者にとっては、却って幸いであったのかも知れない。
 スレザークの実演を聴いた人は、口を揃えて「あれこそ至高至上の芸術だ」と言う。少しくレコードの実物について、スレザークの至高至上なる所以ゆえんを語ろう。

 一言にして尽せば、スレザークは練達無比のテクニシアンだ。その声の輝かしさと、明暗に富んだ美しさはほとんど比ぶべきものがないばかりでなく、技巧のすばらしさにいたっては、大手を振って当代に闊歩すると言ってもいい。スレザークは本当の芸術家だ。彼の理解と表現とは、最高の創造であると言って差支えはない。
 スレザークのリードに対する表現は、単に歌うという言葉だけでは当らない。彼の歌の特色は、詩の持つ意味を細かく、ちょうど朗読するような気分で表現して行く。従って、スレザークの歌い振りには、甚だしく理智が勝って、俚耳りじに入りがたい渋さがある。スレザーク嫌いの必ずしも世に少くないのは恐らくそのためでもあろう。メロディのなめらかな歌い廻しや、声の美しさなどをスレザークに求める人があったら、恐らくその人は辛い失望をめさせられずにはすまないだろう。
 シューベルトの初期の作品における如き、簡朴鮮明なメロディの一貫した歌は、スレザークには決して得意な曲目ではない。スレザークのプログラムで、最もすぐれたものは、メロディの一貫しない極めて理智的なものほど良く、例えば、詩の一句一句が、音楽と密接緊要な関係を保っているリヒアルト・シュトラウスの歌曲の如きは、スレザークに取っては最も打ってつけの題目だったのである。

 世の中にはレーケンパーをめる人も、キプニスを褒める人もある。それも良かろう。銘々の好き嫌いは勝手だが、しかしこれだけのことは言える。例えばシュトラウスの『ツァイクヌング』や『たそがれの夢』のような、極めて精緻な歌曲、メロディがあるかないかわからぬような理智的な歌曲において、スレザークの巧妙さは実に圧倒的だ。それに比べると、キプニス――あの高名なキプニス――が、なんと言う粗笨そほんなことだろう。
 この意味において、スレザークは、明朗簡勁かんけいなシューベルトのものを、しばしば歌い過ぎて法のつかぬものにすることがある。彼のルバートは、その巧妙さにわざわいされて実に猛烈だ。多くのテナー歌手と同じく、彼は盛んに裏声を使う。符にないところ、例えば八度降りる音などにはきまってスラーを掛ける。表情記号の変更などはお茶の子さいさいだ。
 この癖が、スレザークの特長でもあり、また同時に欠点でもある。その歌が最高の芸術的表現にもなり、技巧一点張りの、甚だ面白からぬものにもなるのだ。例えば『菩提樹』のような、単純なメロディアスなものにおいて、スレザークは少しく細工が過ぎはしまいかと危まれざるを得ない。
 その代り、『君こそ我が憩いなれドウ・ビスト・デイ・ルウ』のようなものになると、驚嘆すべき技巧の冴えを見せている。あのクライマックスに気分を運ぶ手際の老巧さ、テンポをぐんぐん早めて、さっと切り上げるすばらしいサイレントの効果などは、真似ても、洒落しゃれても、到底出来ることではない。彼の歌は一つの創造であり、彼は本当の芸術家であると言うのはそのためだ。
『アム・メール』は特長と欠点と相半ばする出来とも言い得るだろう。シューベルトの素直なメロディの美しさは、スレザークの技巧のために幾分がれているが、その代り抒情詩を朗読するような、精緻な気分の表現は比類もなく美しい。シュトラウスの『親しきまぼろし』などは、『ツァイクヌング』と共に、スレザークとしては代表的な良いものであろう。ドイツで『モルゲン』が入ったように聞いたが、これも恐らく無類だろうと思う。あのほとんどメロディのない不思議にも美しい歌は、スレザークには打ってつけのプログラムであったろうと思う。(その後、この歌のレコードが日本でもプレスされたが、果してスレザークにしては出来の良いものでなかった)

 ブラームスとシューマンにおいても、スレザークはあらゆるレコード・アーティストに冠絶するだろう。あの淋しくも美しい歌『野の寂寥せきりょう』はどうだ。クルプもゲルハルトも美しいには相違ないが、閑寂な引き入れるような魅力は、スレザークと同日を以て語られない。スレザークは声を半ばしか出していないような歌い方をしているが、いかにも老巧で美しくて、魅力に富んでいる。シューマンの『月光』と『胡桃樹ヌスバウム』などは、上乗のレコードで、スレザークの特色を非常によく語る例の一つだ。
 ヴォルフは二つとも良い。特にあの『隠棲』は絶品と称すべきものだろう。日本にはないがレーヴェのバラード『トム・デア・ライマー』も、少し劇的ではあるが立派なレコードの一つだ。
 ほかに、シューベルトの『ポスト』『セレナード』はいずれも推賞し得るもので、ブラームスの『セレナード』(これは日本に出ていない)、シューベルトの『楽に寄す』『夜と夢』は出来の悪い方であったろう。
(『ディスク』昭和六年五月号所載)

 この一文を草して早くも七年の歳月は流れた。その後スレザークも老い、私の心境も変ったが、今さら書き直すほどのこともないので、少しばかりの付記を添えて、そのまま掲げておく。
 スレザークはその後うま味を失ってしまった。恐らくスレザークの良さは、欧州戦前から一九二〇年前後までで、あとは次第に下り坂になり、一九二五年の電気録音の初期に、数枚の珠玉的なレコードを残して、急テンポに芸術的品位と、その美しさを失ったと言っても差支えはあるまい。
 映画に進出することによって、スレザークの名は一般的になったが、ドイツ・リード歌手としての王冠は、自らかなぐり捨てたも同じことであった。スレザークの本当の良さを味わうためには、電気の極めて初期に入ったポリドールのレコードを、五、六枚用意するだけで足りるだろう。電気以前のレコードは、一部専門的な研究者には大事なものであるが、今となってはもはや手に入れる方法はない。
 私は結論として(前項と重複するが)、七年後の今日の考え方から、スレザークの優れたレコードを、極めて常識的な標準で掲げて見よう。
 第一番に、シューベルトの『菩提樹』『君こそ我が憩いなれ(四五一七〇)を用意するのが穏当な蒐集方法だろう。続いて『セレナーデ(四五一〇八)と『海辺うみべにて』(六〇一六二)も逸してはいけない。この『海辺にて』の裏にあるシューマンの『胡桃くるみの樹』は、やはりスレザークの傑作の一つだ。
 それにヴォルフの『隠棲』(五〇〇三〇)とシュトラウスの『黄昏たそがれの夢』と『なつかしのまぼろし(三五〇二六)、それからシューベルトの『郵便馬車』『何処いずこへ』(三五〇三五)も逸するわけには行かぬ。
 こうなるとスレザークのレコード全部になるが、そのうちから、シューベルトを好む人、シュトラウス、またはヴォルフを好む人にそれぞれの選択を任せるほかはない。
 最近私はドイツ・ポリドールで、スレザークのワーグナーを二、三枚、手に入れた。吹込みはそんなに新しいものではなく、スレザークの老いは隠せないが、それでも『名歌手』二曲、『ローエングリン』二曲、なつかしいものであった。


マルティネリとジーリ Giovanni Martinelli, Beniamino Gigli

 マルティネリは小カルーソーと言われたテナーだ。カルーソーが生きている頃から、カルーソーそっくりの声を出したが、カルーソーの歿後はかんばしいこともない。この人は昔々電気以前のビクターにファーラーと一緒に入れたカルメンなどが一番の傑作だろう。近頃のカタログには、電気の初期に入ったものが二枚しか残っていない。聴けるのは『リゴレット=女心おんなごころ』と『トスカ=星は輝きぬ』(一二〇八)くらいのものだ。

 ジーリは当代アメリカ第一の人気テナーだ。声の美しいことと、その魅力的な匂いと、張り切った情熱が無類で、スキーパもマルティネリも歯が立たないらしい。
 若い時は叫び過ぎて、少し困るものもあったが、近頃は脂が乗り切って、大変よくなった。今一番よく歌えるイタリー派のテナーだろう。これだけ表情的な美しい声を持った人は少い。
 レコードも良いものが大分廃盤になった。残っているのでは、悪いのもないが際立って良いのもない。やはり『リゴレット女心』と『トスカ=星は光りぬ』(JF七五)、『サドコ=印度インドの歌』(一五七〇)などを挙げるほかはない。『カルメン=花の歌』(JD七四四)も美しい。本当にジーリを好きな人は廃盤カタログをあさるがいい。トスティの『セレナーデ』だって充分美しかったと思う。
 この人の傑作は、むしろ全曲歌劇『パリアッチ(JD五一〇―一八、名曲集五六六)の主役を歌ったレコードだろう。九枚の大物だが実にすぐれたものだ。


ビョルリンクとフレタ Jussi Bj※(ダイエレシス付きO小文字)rlng[#「Jussi Bj※(ダイエレシス付きO小文字)rlng」はママ], Michele Fleta

 ビョルリンクはスカンディナヴィアから現われて、カルーソー以来と騒がれているビクターのフレッシュ・マンだ。北国風な清澄なテナーで、イタリーの歌い手とは趣が違うが、魅力的なことと、音色の美しさは非常で、ビクター愛好家協会に採った『アイーダ』と『ラ・ボエーム』は傑作であった。ほかに『リゴレット=女心』と『トスカ=奇妙な調和』(JE一〇〇)があり、最近は『オー・ソレ・ミオ』(JE一四九)が出たが、これも悪くない。

 フレタはスペインのテナーで、昔は鳴らした人だ。日本へも十年ばかり前に来たことがあるが、美しい声と、優雅なわざを持った人であるとしても、その頃はもう衰えていた。デリケートな、薄ガラスの細工物のような感じのする人で、昔はさぞ良かったであろうと思ったが、もう人気の表面に浮び上る人ではない。


スキーパ Tito Schipa

 アメリカではマッコーマックの人気を継承したらしい。日本人にもスキーパを好きな人が多く、藤原義江よしえ氏などはこれを張っている。小味で恐ろしく器用で、決して叫ばない歌い手だ。イタリー風の歌い手だが、かなり強烈な特殊性があり、そのかろやかで乙なところが一般人に向くだろう。
 スキーパは器用過ぎて、私はあまり好きでない。口ざわりはよいが、生真面目きまじめなジーリなどと違って、少くともレコードでは飽きが来るようだ。こんな人のが売れ高はいいらしい。
 レコードではイタリーの民謡が得意らしく、『海に来れ(ビクター一二〇四)などは傑作だろう。『オー・ソレ・ミオ(一〇九九)、『ソレントに帰れ』(JF一四三)も良い。オペラでは『リゴレット』の「女心」が得意らしい。『オー・ソレ・ミオ』の裏になっている『マルタ=夢の如く』なども技巧的には見事だ。この人はスペインの物も得意で、ふるいレコードだが、『アイ・アイ・アイ(六六〇一)などは誰よりもうまい。
 スキーパには馬鹿馬鹿しいレコードがあるから、注意して選ぶべきだ。
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マッコーマック John McCormack




 マッコーマックの若い時の人気というものは大したものであったらしい。この人は筋の立った歌はあまり歌わず、極めて甘美な小唄や、品の悪くない流行歌や、民謡畑のものを主にし、オペラやリードもほんの少しぜるが、それは刺身のつまほどで、かつて日本へ来た時、五夜の独唱曲目に、大作曲家のものはたった一つ、ヘンデルの『親しき愛よ』かなんかを歌ったきりだと言って、亡くなった伊庭孝いばたかし氏が嬉しがったことを記憶している。
 昔は正統派のレコード蒐集家たちは、マッコーマックなどには、鼻も引っかけないのを名誉としたものだ(それは勿論間違ったことだが――)。アメリカであんまり騒がれるのと、その甘美な歌い方が、清教徒的なファンの気に入らなかったのだろう。それがいろいろの機会に発表されるようになると、これも亡くなった快男児の東健而あずまけんじ氏が、「マッコーマックを嫌いだなんて言う奴は生意気だ。喧嘩ならいつでも来い」といったような威勢のいいことを書いたようにも記憶する。
 現に私なども、昔はあまりマッコーマックを好きな方ではなかったが、いつの間にやらあの甘美な鼻声の良さを知って、電気以前のマッコーマックのレコードだけでも、五十枚くらい保存している。電気以後のマッコーマックは、若さを失って甚だ良くない。
 マッコーマックは一八八四年アイルランドに生れ、アメリカに定住した。あの愛蘭アイルランドの民謡が、とてもたまらないのはそのためだ。
 日本へ来たのは昭和の初め頃であったろうか。あの時のマッコーマックは、大した鼻息で、「俺が歌うんだから、条件も保証もいらない。マチネーでも一向構わない」と言ったとかいう話であったが、いざ帝劇のふたを開けると、半分にもたぬがらあきで、マッコーマックの強大な自信を裏切ること少くなかった。恐らくマッコーマック自身も、自分の人気の衰えに気がつかなかったであろう。アメリカでその頃もなお大きな声価を持っていたのは、半分惰性の力でないとは誰が保証しよう。
 マッコーマックは予想よりは衰えを見せていたことは事実だ。が、決してまずくはなかった。品のいい小唄に陶酔して、極めて情緒的に、小さい声で歌う巨大漢は、全く面白い対照でもあった。恐らくあの頃はマッコーマックの分水嶺を越えたばかりで、まだ充分魅力のあった時でもあるだろう。

 マッコーマックから、オペラやリードのやかましいものを求めてはいけない。この人のシューベルトは実に腹の立つものだし、ヴォルフ協会のヴォルフの如きは沙汰さたの限りと言ってよい。藤田不二ふじ君がヴォルフ協会に対して、マッコーマックに歌わせるのは困ると言って抗議すると、「まあ聴いて貰おう。マッコーマックのヴォルフだって決して悪くはない」といって返事が来たということであった。英国人などはすっかり尊大な心持になっているから、自分の無批判を棚にあげて、日本人何を言うかという心持だったかも知れない。
 しかしマッコーマックの楽しんで歌う民謡や小曲は全く良い。声量の小さい人だが、巧みな裏声を使って、余韻嫋々じょうじょうとやるところは全く理屈なしに楽しめるものであった。
 電気以後のレコードにはろくなのはないが、それでも『金髪にまじる銀髪(ビクター一一七三)アデステ・フィデレス(六六〇七)などは古いものだけに良い。シューベルトをシルクレットの伴奏でジャズ化して歌ったのなどはけしからんものだ。ない方がいい。
 電気吹込みで廃盤になったものが十枚以上あるが、その中になかなか良いものがあった筈だ。

 電気以前の骨董レコードのことをついでに書くと、クライスラーが助奏したレコードは十四面あるが、これはことごとく良い。わけてもグノーの『アヴェ・マリア』、シューベルトの『アヴェ・マリア』『ジョセランの子守唄』『ホフマンの舟唄』などは有名でもあり貴重でもある。
 トスティの『グード・バイ』『ティペラリー』、それから母国アイルランドの民謡はことごとく面白い。今はしかし、こんなレコードは容易に手に入るまい。
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ティル Georges Thill




 フランス風の歌劇歌手としては、技倆も人気も第一流であろう。何よりもこの人の美声は強味で、これだけの良い声を持っている男性歌手はジーリのほかにはない。輝きと、張りと、情熱をあわせ、そしてフランス人らしい精練された柔かさを失わないのは特色だ。
 レコードではベルリオーズの『はかなきうらごと』と『最後の難船』(J八四八八)が本格的で良かろう。オペラでないものでは『ラ・マルセイユ』と『過ぎにし夢』(J五二三六)が古い吹込みだが自信あるらしきものだ。通俗なものでビゼーの『西班牙スペイン夜曲』(J五三〇一)などどうだろう。(ティルのレコードはコロムビア)
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ロージング Vladimir Rosing




 ロージングのことについては、私は何べんか長いものを書いた。この人が本当にうまいかまずいか、確たる評価は――少くとも日本では定まっていないにもかかわらず、この人のレコードに対して、極めて少数ではあるが、絶対支持を惜しまないファンのあるのは興味の深いことである。
 ロージングが、若いロシアのテナー歌手として、英国を訪問したのは、欧州大戦の直前彼が二十歳を僅かに越した時であった。が、一部の間には早くもその才能を認められ、欧州大戦後の欧州楽壇に、ロシア歌謡の驚くべき紹介者として、最も優れたロシア歌劇の歌手として、儼然たる地歩を占めるに至ったようである。
 ロージングをして有名ならしめたのは、エオリアン・ヴォカリオンのレコードに、五十数曲のロシア歌曲並びに独伊の歌劇を吹込んだ時に始まると見て大過はあるまい。ちょうどその頃ロージングは、初めてアメリカを訪問し、驚歎すべき歌手として一部の間に有名になっていたことも、ロージングを世界的ならしめた原因の一つである。
 実演を聴いた人の話によると、ロージングは、声量がない上に、表現が地味で、極めて振わない歌手だということである。かつて徳川頼貞よりさだ侯が、筆者に「あれほど有名な歌手で、実演を聴くと一向つまらないのはロージングですよ」と話されたことを記憶している。
 ロージングの声の小さいのと、その色彩の苦渋なのと、技巧の精緻なのが、舞台受けのしない原因でもあるだろう。その間の事情はロージングのレコードを聴いても、ほぼ想像のつくことであると思う。

 いろいろの反証があるにもかかわらず、私は十七、八年一日いちじつの如く、相変らずロージングはうまいと思い込んでいる。ロージングは決して派手でもなく、美しくもない。陰惨で、暗くて、なんかしら襲いかかるものを感じさせるが、その技巧の精緻なすばらしさは、いかなる男声歌手も及ぶところでないと私は信じている。
 かつて、エオリアン・ヴォカリオンに入ったムソルグスキーの歌謡集十二枚一冊と、ロシアの歌謡集十二枚二冊は、今でも私は十襲じっしゅうして愛蔵しているが、近頃コロムビア会社が、十数年雌伏しふくしていたロージングを再び音楽界にたしめ、ムソルグスキー歌曲集六枚二輯をレコードしてくれたことは、新旧対照の意味において、非常に嬉しいことであった。
 この新吹込みレコードを聴くことによって、かつて我々が恐れていたロージングのうまさは、旧吹込みの不完全な録音によるカムフラージュではないかという疑いは、たった一ぺんに雲散霧消した。十何年を距てても、長い間の学校教師生活を続けて、ステージに遠ざかっていても、ロージングはやはりうまく、少しも腕を鈍らせていないばかりでなく、かつてのエオリアンの怪しきレコードは、ロージングの若き日の芸術として、また別に意義を生ずることを覚ったのである。

 断っておくが、ロージングは決して通俗ではない。ジーリやスキーパや、シャリアピンに興味を持つ人が、ロージングに興味を感ずることはなかなかにむずかしい。ロージングの好んで歌う曲目は、泥の中から生れた、ロシア農奴のうどの陰惨極まるうごめきの声であり、その表現はこの上もなく晦渋かいじゅうで、そして芳年よしとしの絵に見るような、嗜虐的な陰惨さを持ったものだ。
 ロージングの好んで歌うムソルグスキーやクイやダルゴムジスキーの歌曲は、ほとんどことごとく、牢獄と飢えと、悪魔的な皮肉と嘲笑とを題材にしたものであって、シャリアピンが歌えば、それにも華かさと光明が点ぜられるが、ロージングが歌えば、それがそのままロシア土民の迷信と飢えとの生活であり、地獄変相図に現代の衣を着せたようなものになるのである。

 ロージングは好まざる人に取っては全くの世迷言よまいごとだ。私は冗漫になる記述を避けて、直ちにそのレコードについて語ることとしよう。(すべてコロムビア)
ムソルグスキー歌曲集』二巻(第一巻J八六一〇―二、傑作集二四七)(第二巻J八六一四―六、傑作集二四八)は言うまでもなくロージングの代表作で、この中にはムソルグスキーの傑作歌曲がほとんど網羅されている。第一巻は比較的初期のもので、『きのことり』や『山羊やぎ』のような、悪魔的な小曲があり、第二巻は後期のもので、有名な『死と唄の踊り』四曲を納めている。この四曲の物凄まじい表現は、シャリアピンでも駄目で、ロージングを得て初めて不思議な天才ムソルグスキーの死に対する恐怖と、嘲笑と、自棄と、呪詛じゅそとの驚くべき表現が遂げられると言い得るだろう。
 一枚物では『のみの唄』と『ヴォルガの舟唄(J八二七七)の背中合せになっているのが選ばれるだろう。これも、シャリアピンなどの派手に陽気な演奏と違って、陰惨極まるもので、骨に徹する皮肉を感じさせる。さらにクイの『飢え』(J八三三六)に至っては言語に絶する恐怖の芸術だ。全身に百こくの冷水を浴びせられるような気がする。
 ほかに『露西亜ロシアジプシー歌集』(J八五二六)の酒臭い情熱も面白い。
 最後に、ロージングは決して通俗なものでないことをもう一度断っておく。甘美な旋律を楽しむような心持でロージングを聴いたら、さぞ胆を潰すことだろう。これは特殊な研究者だけがするものだ。
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タウバー Richard Tauber




 恐ろしく達者なテナーだ。電気以前にパルロフォンへ『冬の旅』などを入れてファンの血を湧かしたが、その後日本コロムビアからおびただしいレコードが出ている。映画に進出して頑強な精力的なシューベルトにふんし、我々の既成観念を叩きのめしたりしたこともあり、日本人にはかなり親しみの多い人である。
 声量もあり、広い音域を持った張り切った歌い手で、往くとして可ならざるはない。欠点は達者過ぎて歌いまくることと、裏声の使い方が生硬で露骨で、滑らかな美しさを欠くことだ。ドイツ・リードの本格的な歌手としてはいささか困るが、トーキー向きのリード歌手には打って付けで、こんなに派手で圧倒的な表現を持っている人は少い。
 民謡とオペレッタには良いものがあり、レコードもその方面から漁れば、間違いはないだろう。第一番に挙げたいのは『独逸ドイツ民謡曲集(J五四六一―六、傑作集二一三)で、十二曲の珠玉的なドイツ民謡を纏めて歌っているのが有難い。リードと違って民謡なら少々の歌い崩しも腹が立たなくていい。続いて『メリー・ウィドー・ワルツ(J二〇八七)が絶品的で、女声のラシャンスカと男声のタウバーほど、このワルツをよく歌っている人はないと思う。真面目なものでは合唱付きで歌っているベートーヴェンの『神の稜威みいつ(J二七八〇)が良い。いかにも派手で立派だ。続いて『ヴォルガの舟唄』(J二八二〇)、それから映画の主題歌などがよかろう。
 シューベルトの『冬の旅』もシューマンの『詩人の恋』も歌っているし、ほかにシューベルトは六、七曲歌っているが、私は採らない。こんな精力的で脂ぎっていて、滅茶に歌い崩されるとシューベルトが可哀そうになるからだ。
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キープラ Jan Kiepura

 映画の方では非常に有名な歌手だが、私などはあまり興味を持てない。なんとなく大衆的になり過ぎて、派手で肌理きめが荒くて、芸術的な魂の裏づけを忘れている。好きな人は映画の主題歌のうち、なんでも採るがよかろう。


スミルノフ Dimitri Smirnoff

 かつてはソビーノフと並び称せられたロシアの最も魅力的なテナーであった。HMVの電気以前のや、昔のドイツ・グラモフォンにはたくさん入っていたが、今はコロムビアに電気で『ヴォルガの舟唄』と『レンスキーのアリア』(J八三七〇)が一枚残っているに過ぎない。非常につやのあるテナーで、少し官能的過ぎるほどであったが、一部には打ち込んで好む人もあったようだ。
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ロマント Euzo de Muro Lomanto[#「Euzo de Muro Lomanto」はママ]

 ダルモンテと共に、かつて日本を訪ねたことがある。甘美な声と表情とを持ったテナーで、情熱と力とはないが、イタリー民謡などには独特の美しさがある。『私の太陽よ』(コロムビアJ五一四七)や『遠きサンタ・ルチア』(J五三一四)などが愛される。
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バリトン


ドゥハン Hans Duhan




ヒュッシュ、スレザーク、ゲルハルトとの比較

 ウィン国立オペラのバリトン歌手であるハンス・ドゥハンは、そんなすぐれた人とは思われないが、シューベルトの三大歌曲を、全部レコードしてくれた最初の人として、我々には極めて親しみ深い人である。この三大歌曲のうち、『美しき水車小屋の乙女おとめ(JD一〇一―三、JE一〇一―七)と『白鳥の歌』(JE一一四―七、JD一〇五七―九、名曲集六六八)だけが全部日本ビクターにプレスされ、『冬の旅』は僅かに「菩提樹」「水の流れ」(JD一〇五)「辻音楽師」「暈日くもりび(JE一一三)の二枚だけが日本で売り出されている。
『冬の旅』はその後ゲルハルト・ヒュッシュの名盤が入り、ドゥハンの全曲日本プレスは望まれなくなってしまった。『美しき水車小屋の乙女』も、技巧としては、ドゥハンはヒュッシュの敵ではないが、しかし、ドゥハンの素直さと、その優しい情緒は、ヒュッシュにない良きものを持っていることも事実だ。少しく冗漫ではあるが、私はここに旧稿の一部を掲げて、ドゥハンの讃美と、スレザーク、ゲルハルト、ヒュッシュに対するドゥハンの技倆を明らかにしておきたいと思う。この稿の一部は旧著『バッハからシューベルト』にも採録してあるが、多少の重複を覚悟の上、今日のレコード界情勢を考慮に置いて訂正加筆した。これによってドゥハンの地位と芸術が彷彿ほうふつされるならば望外の幸せである。

旧稿『ドゥハンのシューベルト』から

 三大歌曲のうち『美しき水車小屋の娘(Die Sch※(ダイエレシス付きO小文字)ne M※(ダイエレシス付きU小文字)llerin)』は、ドゥハンの声の質と歌い方にしっくりはまって、第一等の出来であったと思う。誤解しては困るが、シューベルトの三大歌曲中で、作品としてこれが一番良いという意味ではない。言うまでもなく『美しき水車小屋の娘』にも、限りなく美しい歌がたくさんあるが、シューベルトの作品の価値を論ずる場合には、『冬の旅』なり『白鳥の歌』なりに、より多くの傑作を網羅していることは争われない。しかし私の言わんとするのは、『冬の旅』及び『白鳥の歌』はあまりにも陰惨で、ドゥハンの素直な歌い方や、若々しい声には適せず、却ってシューベルトの初期の輝かしさと朗かさとを有する『美しき水車小屋の娘』にこそ、ドゥハンの美しさを充分に発揮しているという意味である。
 伴奏のピアノを弾いているフェルディナンド・フォルという人は、相当にうまい人のようではあるがしばしば不愉快な弾き崩しがあり、音も甚だ大きくないから、ゲルハルトやスレザークやデニスの伴奏に比較すると、うまいまずいの問題を別にしても、甚だしく遜色がある。
『美しき水車小屋の娘』一聯二十曲の歌は、有機的に不可分なもので、骨が折れても全部を通して聴くか、でなければ最初から聴かないことだ。二十曲全部を通して聴くとなると、言うまでもなく、技巧に不確かな点があったり、悪い癖があったり、嫌味があったりするようなことでは、我慢にも聴いていられるものではない。その点ドゥハンの歌い振りは、まことに理想的で、幾分稚拙なところまで却って親しみ易さを感じさせる。この歌を最初に聴いた時、私は亡くなった船橋栄吉ふなばしえいきち氏を思い出したものであった。デニスがエルウェスに似ているように、ドゥハンと船橋栄吉氏との間には、藤原義江氏とスキーパ以上に似通ったところがある。声が似ているばかりでなく、その幾分稚拙な(そんなことを言っては失礼だが、決して悪意ではない)素直な親しみ多いところまで似ている。
 この「――野育ちの青年が、水車小屋の娘に恋して、一度は得意と幸福の絶頂に押し上げられながら、黒いひげを生やした恋仇こいがたき猟人かりゅうどが現われて、女と望みを一緒に失って行く――」という浪曼ろうまん的な一聯の歌曲を、どんなにドゥハンは真面目に、手一杯に歌っていることか、特に八番目の「朝の挨拶」、十三番目の「緑色のリボンもて」などは、曲としてはこの集のうちで決して優れたものではないが、ドゥハンの素質から来る可愛らしさが沁み出して、思いのほかのもうけもののような出来えであった。
 五番目の「夕焼け」、九番目の「水車屋の死」、十番目の「涙の雨」、十八番目の「しおれた花」、十九番目の「水車屋と小川」――以上のような、悲しい色調を帯びた歌も、シューベルトの後期の歌(『冬の旅』や『白鳥の歌』)にあるような腹の底から陰惨な歌と違って、極めてロマンティックな若々しさがあるためか、ドゥハンの明るい朗かさに妨げられないばかりでなく、この人にとってはことに良い題材でさえあったようである。
 いて言えば、オペラの歌手としても相当知られているらしいドゥハンが、一向表現に劇的誇張がないのはいいとして、総体にニュアンスの不足なのは不思議なことである。もっともシューベルトの初期のものは、悲しんでやぶらざる程度のものであるから、ドゥハンの調子が必ずしも悪いとは言えない。事実、私はよく言うことであるが、ドイツ・リード、特にシューベルトのように純な感情を歌ったものを、オペラのアリアのように歌われるほど、不愉快なことはない。ゲルハルトやスレザークや、ミスグマイナーやの尊さは、リードを本当のリードとして歌う点で、巧みにオペラを歌うくせに、不思議に素直なリードを聴かせるのはユリア・クルプたった一人であったと思う。それに次いで、多少劇的であるにしても、若い時のシューマンハインクも悪くはない。話はすっかり脱線したが、そこへ行くとわがドゥハンは正統派的で素直で、少し食い足らなさはあるが、決して歌い過ぎるということがないから聴いていて腹の立つおそれはない。
 二番目の「何処へ」と十一番目の「我がもの」は、朗かに充分美しく歌われているが、スレザークなどに比べると、さすがに表情の貧しさに失望する。十四番目の「猟人」は力強い良い出来だ。妙に細かいところに行きわたらないドゥハンの素朴な表現が、却ってこんな歌にはぴたりと来る。
 総体として『美しき水車小屋の娘』の出来は、むらのない、筋の良い素直なもので、歌を稽古する人にも、歌を享楽する人にも向くものであろう。私は前にも書いた通り随分くり返して聴いているが、決して上手でない癖に不思議に飽きさせない。

冬の旅(Die Winterreise)』二十四曲の歌が、いかに優れた珠玉篇であったか、ここに説くまでもなかろう。
『冬の旅』の演奏は、ゲルハルト、ヒュッシュの滋味と老巧が圧倒的で、ドゥハンは到底及ばないが、その一つ一つにはなかなかに良いものがある。
 第一番目の「お休み」は、冒頭の歌で高潮した感情はないが、平明なうちになんとなく身に沁みる淋しさのある歌だ。ドゥハンはヒュッシュのような深い悲しみの含蓄がない。ゲルハルトのように、身につまされる物悲しさがない。この歌はなんとなく暗示的で、一脈の冷気と、物さびた味が要求されるが、ヒュッシュの出来は抜群だ。
 二番目の「風見(風信旗)」、三番目の「凍る涙」は歌が良いせいもあるだろうが、非常に出来が良い。本当に涙も心も凍るようだ。五番目の「菩提樹」、これは私だけでもいろんな人の歌ったのを七、八枚持っているが、比較が多いだけにドゥハンも辛い。スレザークやヒュッシュやゲルハルトに比べると、エクスプレッションに乏しく、この歌の持っている魅力――あのシューベルトと仲のよかったショバアを、最初の一度できつけたという不思議な魅力――に乏しい。伴奏も決して良いとは言えない。スレザークのすばらしい技巧が第一等で、ヒュッシュの平淡な物悲しさがそれに次ぐだろう。
 六番目の「涙の洪水」は力の籠って線の太い出来だが、ゲルハルトのはこの人より精緻で感情が行きわたっている。しかしドゥハンも決して悪くはない。七番目の「川の上」、ドゥハンは中央部の長調になってからの素直な単純味のあるメロディを非常に美しく歌っている。八番目の「回想」は無造作なドゥハンの持ち味が良い。つまり歌い過ぎない強味だ。九番目の「鬼火」は、ブロックマンやタウバーに比べると、素直で嫌味がないだけに身につまされて聴かれる。
 十一番目の「春の夢」は、『冬の旅』二十四曲の中央部を飾る良い歌だが、ドゥハンはゲルハルトと違った意味で良い効果をあげている。これだけはヒュッシュも及ばないだろう。例えば始めの部分の長調で書いた華かなメロディなどは、ゲルハルトより遙かに明るい感じがするが、後半の短調の物悲しいメロディはゲルハルトの方がぐっと美しい。二人の素質の相違だ。十二番目の「寂寥せきりょう」も前半がよく、後半になると少し間延びがする。もっともこれは歌そのものも、後半は前半に劣っているが、ドゥハンはテンポを緩くして、明らさまにその歌の欠点をさらけ出すためであろうと思う。ヒュッシュの聡明さに団扇うちわがあがる。
 第十三番目の「ポスト」は、「菩提樹」と共にあまりにもよく知られた歌だ。ほかに良いのがあるせいもあるだろうが、ドゥハンのは大して目立たない。十四番目の「白頭」は可も不可もない。よく達者な伴奏きのやることだが、ピアノが和声かせいをアルペジオに弾いているのは嫌なことだ。十五番目の「烏」、この歌の不気味さが足らぬ。ゲルハルトはクライマックスを非常に上手に歌っているが、ドゥハンは素直に過ぎて、この不気味な歌を、あまりに味のないものにしている。ヒュッシュは簡素で物凄さを出している。
 十七番目の「村にて」はあまりよくない。ドゥハンはテンポが遅過ぎて、ぶっ切ら棒で、村の夜の景色が眼に浮かばぬ。伴奏もよくない。十八番目の「嵐の朝」、伴奏の非常に綺麗な曲だが、あまりに音を殺し過ぎてるのが惜しい。
 二十番目「道しるべ」は伴奏が小さくて効果が出ないのは惜しい。この歌はヒュッシュ、ゲルハルト、ブロックマン、キプニス、タウバーらのがある。素直に歌っても陰惨な感じがよく出るし、ドゥハンのこだわらない歌い方は悪くないと思うが、ピアノが悪いので大変損をしている。この歌の第一等の出来は巧まずして陰惨さを沁み出させるヒュッシュで、ゲルハルトの芝居気の多い歌い振りがそれに次ぐだろう。
 二十一番目の「旅籠屋はたごや」は、長調で書かれていながら非常に陰惨な感じのするので有名だが、この人の声は本質的に明る過ぎて、この歌の陰惨な味が出ない。二十二番目の「勇気」、これは、力強い、いい歌い方で、二十三番目の「幻の太陽」、二十一番目と同様長調で書かれた暗い歌で、レーケンパーのようにアクセントが強くないから、嫌味なところがないが、上出来とは言い難い。最後の二十四番目の「辻音楽師」はテンポもゲルハルトより早く(ゲルハルトはテンポを無用に遅くしたという非難がある)、ゲルハルトのように歌い過ぎないから、素直で却って良いと思う。ゲルハルトは非常に上手に歌っているが、少し劇的にこしらえ過ぎている。そこへ行くとドゥハンは素直で粗朴で、単調なメロディの持つ身に沁む悲しさを非常によく表現している。この集の中で第一等の出来であろう。ヒュッシュの「辻音楽師」は巧みであるが、思ったほどでない。三つそれぞれの特色があり、いずれとも言い難い。
『冬の旅』全部を通じてドゥハンのは残念なことにピアノが悪く、伴奏部の美しい歌に特に物足らなさを感じさせる。英国のグラモフォン誌はこの伴奏を褒めていたように記憶するが、お座なりも甚だしいと思う。外国の雑誌にもいろいろ閥も系統も資本関係もあり、その上に相当偏見もあるようだから見る人は注意されたい。
 ドゥハンの『冬の旅』についてもう一つ言いたいのは、この人の朗かなバリトンは美しいものであるが、『冬の旅』のような陰惨な歌には適しない場合がある。出来ることなら、情緒的なテナーに歌って貰いたいと思う歌が、一つ二つならずあることは誰でも気が付くだろう。このレコードは日本でほんの一部しかプレスせず、ヒュッシュの全曲を売り出したのは、却って我々の幸せであったかも知れない。

 シューベルトの三大歌集のうち、『白鳥の歌』は最後のものであると共に、最も優れたものであり、かつ最も陰惨なものである。そこにはもはや斧鉞ふえつの跡もなく、彫琢ちょうたくの痕も止めない。かつてこの地上に生れた薄倖なる大天才の死に行く魂の、最後の大燃焼であり、真にこれこそは天衣無縫の芸術であると言っていい。
 特にこのうちの三曲、ハイネの詩に作曲した「都会」と「海のほとり」と「影法師」は、詩の美しさと力強さと相まって、シューベルトの歌曲中にも一大異彩である。ほかに「アトラス」があり「憩いの地」がある。これは、十四の珠玉中にも、燦然として夜光の珠のように輝く五顆の名玉である。
 この曲におけるドゥハンの出来栄えは、第一番目の「愛の使い」は小川に恋の囁きを使いさせるという一聯の陰惨な歌曲中では、最もなごやかな甘美なもので、むしろドゥハンの素直な無技巧な柄に一番当てはまっていると言うべきであろう。この歌はゲルハルトの歌ったのもあるが、それは極めて技巧の積んだ表現で、巧みには相違ないが歌の性質から言えば、ドゥハンの無造作ななごやかさに団扇をあげたい。
 第二の「戦死の予感」は、この歌集の最初の陰惨な歌で、それは一つの縮小歌劇であると言われている。バリトンの広い音域を必要とするこの歌を、ドゥハンはかなり巧みに歌っているとは言うものの、それは多少アカデミックで劇的な情緒に欠くるところがあるかも知れない。可もなし不可もなしという出来だろう。三番目の「春のあこがれ」は最も愛すべき歌曲の一つで、何物のしいたげにもめげない天才の明るさと朗かさがみなぎっている。それは死の予感に悩まされたシューベルトの、空しいあこがれであるにしろ、朗々誦すべしで、ドゥハンの素直な歌い振りは、この歌の表現には「愛の使者」と同じ程度に適当であった。
 四番目の「セレナード」は、有名過ぎるほど有名な歌である。この歌には若さと陶酔とが油の如く滲み出るが、ドゥハンの出来は必ずしも最上ではない。単に正直に素直に歌っているというだけで、キャペルがこの歌の歌い手に要求した「香りと想像」とが欠けている。これはさらに技巧家で、この歌を得意のプログラムとする、レオ・スレザークのものでなければならぬ。ポリドールに入っているスレザークのレコードが恐らく第一等の出来であろう。
 五番目の「憩いの地」はこの一聯の歌曲中でも傑作の一つで、なんとも言えない物悲しさと美しさに満ちている。ポリドールのレーケンパーは、少しテンポを遅く、存分に引き延ばして思い入れたくさんに歌っているが、私はむしろドゥハンのテンポを早目に、ぐんぐん歌って行く賢さを採りたい。この歌はテンポを早めても充分物悲しさのみ出る歌で、ドゥハンの歌い方は、シューベルトの要求しているクレフティッヒの表現には乏しいかも知れぬが、レーケンパーのように、クレフティッヒにこだわり過ぎると、却ってこの歌の持つ素直な悲しみを打ち壊す結果になる。ドゥハンは無技巧のうちにも、柔かな美しさがあり、この集のうちでは目立って良い出来だろうと思う。六番目の「遙けき彼方」は歌もさまで優れて居らず、出来も大したことはない。七番目の「別離」は題目に似ず明るい軽やかな別離の心持を歌ったもので、これも可もなく不可もなしという程度であろう。
 八番目の「アトラス」は、前にも言ったように、世界をになう神話のアトラスに、その苦悩をたとえた歌で、これを辞書の命ずる通り「地図」と訳しては意味を成さない。ドゥハンのと電気以後のスレザークのと比べると、まるで違った歌のような心持で、スレザークはテンポをぐっと早めて、相当歌い崩しもあるが、全世界を担う苦悩の感じを、実に巧みに表わしている。ドゥハンはテンポを遅く、譜の命ずるとおり、極めて正直な歌い方だが、魅力も乏しく、刺戟も少い、極めて食い足らぬ感じだ。(スレザークの『アトラス』は、電気以前のレコードで、今では手に入り難い)
 九番目の「彼女の肖像」は極めて物優しい思い出を歌ったもので、シューマンと間違えられるので有名な歌である。かなり甘美な、ロマンティックな歌で、ドゥハンの歌い振りも悪くない。十番目の「漁師の娘」も良い歌だ。朗かな船歌ふなうたの調子と、その伴奏部の織り出す綾はなんとも言えない。この歌はゲルハルトが巧みに歌っているが、歌の性質から言えば、女声は少しおかしい。ドゥハンは美しさにおいてゲルハルトに及ばないが、本格的で素朴で、かなり良さを持っている。
 十一番目の「都会」は問題の多い歌ではあるが、実に美しい。特にこの伴奏部がすばらしい。が、このレコードで一番先に気の付くことは伴奏のピアノの弾き崩しだ。即ち、ピアノの部分を、わざと声部と食い違わせて効果を出そうとしているが、これはしばしば試みられることであるにしても、甚だ嫌味いやみだ。それに歌の方で言っても、シューベルトは前の部に明らかに「低く」と書き、後に現われるほとんど同じメロディに対しては「強く」と要求しているのに、ドゥハンはそれをさえも無関心に、同じ調子で一本調子に歌っているという有様で、無技巧も少し度を越していはしないかと危まれる。シューベルトはもう少し劇的に歌うことを要求した筈で、折角の歌が、ドゥハンの無技巧にわざわいされて、つまらぬものになった嫌いがあると思う。いかがなものであろう。この歌はシュナーベル夫人の歌につけたシュナーベルの伴奏がすばらしい。
 十二番目の「海辺にて」はハイネの詩も良いが、シューベルトの曲も良い。この一聯の歌曲中で最も優れたものであろう。その代り非常に技巧のむずかしい歌で、キャペルは、「この歌はバリトンで歌うのが一番無事だ、テナーでは滅多にうまく歌われない」と言っているが、不思議なことにテナーのスレザークの方が、バリトンのドゥハンより遙かに巧みに歌っている。ドゥハンは忠実に真面目に歌っているというだけで、この歌の持つ魅力と情緒を出すためには甚だ遠い。スレザークの「海辺にて」は、あらゆるリード・レコード中でも傑作の一つで、その身につまされる陰惨さは比類のないものであった。
 十三番目の「影法師」は実に物凄い歌だ。この歌にはシューベルトの死の予感と、痛ましい自嘲の響きがある。この歌はレコードの上にも三つ四つ入っているが、満点を付けられるのはまだない。特にシャリアピンのは論外で、「ボリス・ゴドノフ」の幕切れのように泣き声で呶鳴どなるから恐れ入る。キプニスも歌っているが、これもあまり良くない。少し誇張が過ぎていかなる場合にも失わぬシューベルトの美しさというものが全くない。ドゥハンはおとなしいが、無事に過ぎて、この歌の劇的な物凄さというものが充分に表現されない。――この歌の要求するところは幻想上のことである。天賦てんぷの情熱と想像力である。普通の歌手の手は届かない――というキャペルの言葉は正しい。老スレザークかヒュッシュをまつべきであろう。
 最後の「伝書鳩」はシューベルトの初期の素朴に返ったような歌で、明るさも若さもある。『白鳥の歌』の最後を飾るためには、まことに不思議な歌である。ドゥハンの出来は、これも可もなく不可もない程度であろう。
 ピアノの伴奏については前にも書いたが、三つの歌集のうちでは、この『白鳥の歌』の伴奏が一番出来が良いが、つまらぬ細工でしばしば不愉快にさせられるのは困る。例えば、十一番目の「都会」の伴奏の如き、もう少し素直に弾いて、この歌の持っている絵画的な効果を出させたらどんなに良かったろうと口惜くちおしいことに思っている。

 ドゥハンの歌がもう一枚レコードされている。それはシューベルトの『魔王』と『さすらい人』で、既にアメリカのビクターにもプレスされているから、ドゥハンのものではこれが一番日本ビクターに現われる可能性の多いものであろう。
『魔王』の方は、あまりに淡泊で一本調子だが、決して悪いものではない。シューベルト自身もこの歌はかなり劇的に取り扱われることを予期しているようだから、もう少し歌ってもいいと思う。全く惜しいことだ。しかしこれがドゥハンの持ち味で、決して憎めないところ――それどころではなく、一種の親しみを感じさせるところが取柄だろう。ピアノはレコーディングの良い割には出ず(人間の声とピアノの右手の部分との、綺麗な不協和音などは、もう少し出る筈だが)、一体にピアノを殺し過ぎるように思う。

『さすらい人』は電気のはキプニスとシュルスヌスとドゥハンがある。コロムビアのキプニスは最初の出から物々しく、ほかの人にないドラマティックな歌い振りであった。「ディ・ゾンネ」のところはシューベルト自身も気に入ったらしく、ピアノの有名な幻想曲に主題として採り用いているが、キプニスはこのメロディのテンポを落していろいろに味をつけようと苦心している。苦心が酬いられなかったのは惜しいが、とにかく大車輪だ。最後の音は下のDを出しているが、これもキプニスらしい我慢があって嬉しい。が、なんと思ったか、その後に二小節あるピアノの美しい終結をカットしたのはひどい。総じて骨を折って歌ってはいるが、この歌のメランコリックな味は少しも出ない。
 ポリドールのシュルスヌスはすばらしい技巧で、最初のメロディの生かしようや、“Wo!”と溜め息をくようなテクニカルな歌い方などはさすがにうまい。「ティ・ゾンネ」はテンポを早く、こだわらずに歌っているが、それでいて物淋しさが滲み出る。一体にテクニシァンだけに歌い崩しもあり、「ディ・ゾンネ」の中のメロディの一節などは、ほとんどイタリー・オペラになるところもある。シュルスヌスの持つ唯一の欠点だ。しかし総体に憂欝で、旅人のうみ疲れた悲しい気持がよく出ている。
 ドゥハンは極めて穏健な無事な歌い方で、シュルスヌスのメランコリーも、キプニスの力強さもない。各種のメロディを皆同じような調子で歌いとおすのは、学校向きとでも言おうか、少し飽気あっけなくもある。それにピアニシモとピアニシシイモとの区別もはっきりしないような歌い方だが、嫌味がないのと、一種無技巧のうまさがあって、決して聴かれないものではない。「やや速く」のところ、伴奏が小さ過ぎて効果の出ないのも惜しい。
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ヒュッシュ Gerhard H※(ダイエレシス付きU小文字)sch




 リード歌手として、近頃一躍人気の中心になったのはゲルハルト・ヒュッシュである。この人もコロムビアで歌劇(主にワーグナー、モーツァルト)を歌っているうちは大したこともなかったが、HMVにシューベルトの『冬の旅』全曲を入れるに至って、たちまち一流中の一流のリード歌手としての折紙を付けられるようになったのである。
 ヒュッシュの出現は彗星的であったが、その欧州における名声は決して新しいものではなく、単に日本人たる我々好楽家が、知らずに過していたというに過ぎない。もっともその表現は極端に地味で、大向う受けなどは微塵もなかったことが、ヒュッシュを受け容れるのを遅らせたのかも知れないのである。
 そのためでもあるだろうが、ヒュッシュの歌劇は甚だ冴えない。モーツァルトが大して面白くないばかりでなく、当然良かるべき筈のワーグナーでさえも、巧みに立派に歌っているという以上に、魅力を感じさせるものはなかったようである。従来ヒュッシュのレコードの冴えなかったのは、シューベルトを一枚も入れなかったということに原因するであろう。
 ヒュッシュのリードは少しも派手ではないが、その解釈、用意、心構え、技巧は、ほとんど完璧である。地味で、落ち着いて、リードの約束を超えた、劇的な誇張などは微塵もなく、舞台効果のために、泣き声を張りあげるようなことは絶対にない。
 極言すれば、ヒュッシュはそのまま教科書である。どんな歌い手でも、自分の芸術としてリードを扱う場合には、多少の歌い崩しは常識とされているが、ヒュッシュにおける限り、ほとんど歌い崩しらしい歌い崩しのないのは、まさに奇蹟的な端正さで、どんなやかましい先生が、楽譜と睨めっこをしながら聴いても、不思議なことに、ヒュッシュにはまず非の打ちどころがないのである。
 レコード・アーティストのリード歌いのうちで、一番歌い崩しの猛烈なのはレーケンパーとタウバーで、シュルスヌスも、スレザークも、ゲルハルトも、その点は決して他人ひと様に遅れを取るものではない。ドゥハンとシューマンは比較的少いが、それでもヒュッシュに比べると、決して端正な表現とは言えなかった筈である。
 ヒュッシュの歌の値打は、シュナーベルのピアノと同じように、スタンダードとしての強大な威力で、その端正な表現に、驚くべき芸術感を盛ったところに、一流アーティストとしての品位があると思う。リードを、シャリアピンやエリッツァのように歌って、面白く聴かせるのは、少くとも本格のドイツ・リード歌手としては恥じなければならぬところだ。
 ヒュッシュの表現には、いつでも均勢と中庸と、柔かい弾力とがある。どんなに激情的なものを歌っても、その燃焼を芸術的に処置して、決して実感に押し流されるようなことをしない。それがヒュッシュの特色の第二である。
 それから、ヒュッシュほど、リードの解釈に聡明な人はなかったと思う。その表現は内輪で謹直であるが、思想的な裏付けはこの上もなく深奥でしっかりしている。ヒュッシュの『冬の旅』の全曲を聴いて、私はいつでも胸を締め付けられるような、湧き上る悲しみを感ずるのは、ヒュッシュの表現の底に隠された、思想的な深みの関係ではあるまいかと思っている。従来『冬の旅』を歌ったレコードはたくさんあり、その全部はヒュッシュより遙かに劇的に表現をしているが、悲哀に対する探究において、ヒュッシュの深さに対したものは一人もない。
 シューベルトの悲哀は、運命にしいたげられた善良なる魂の悲哀である。芝居の子役の愁歎場ではない、反抗と悪意の少しもない悲哀――それがシューベルトのリードに盛られた、暗さの色調だったのである。そのシューベルトの芸術を再現する者が、大芝居をしたり、腹の減った声を出したりするのは、驚くべき見当違いでなくてなんであろう。
 ヒュッシュの解釈が常に内輪に穏健なものであり、その悲哀の色着けが、内面的で少しの誇張も伴わないのは、ヒュッシュのリードの第三の特色であると思う。(ヒュッシュのレコードは大部分ビクター)

 ヒュッシュの最大傑作は、シューベルトの『冬の旅(JD三五七―六二、JF五〇―二)二十四曲、九枚のレコードであることは誰でも疑いを容れまい。この一輯に示されたヒュッシュの特色は、前項ドゥハンとの比較で大方尽した。ここでは前の優れた二、三曲について、ぜいするに止めようと思う。
 最初の「お休み」は心の底から淋しさの滲み出す曲だ。このやるせなさと淋しさを、言葉の一つ一つに、極めて自然に持たせて歌える人は、恐らくヒュッシュのほかにはあるまい。ヒュッシュのレコードが現われる前、私はゲルハルトのこの曲の驚くべき技巧に傾倒したが、ヒュッシュと比べて聴くに及んで、ゲルハルトは、その老いを、劇的な空疎な表現によってカムフラージュしていることを、まざまざ覚らせられてしまった。ヒュッシュのこの歌に示した端正な表現と、その端正さの底に潜む情緒は実に無類の境地に達したものである。
「菩提樹」はスレザークが名盤で、ゲルハルトが僅かに追従し得ると私は信じていた。が、ヒュッシュの出現によって、また別にこの境地のあることを認めなければならない。この歌は極めて派手に歌われがちな習慣を持っているので、ヒュッシュの地味な歌い振りは一応不思議ではあるが、その平坦な悲哀感のうちには言うに言われぬ良さがある。スレザーク以上とは言い難いが、少くともゲルハルトと並んで、この歌の正統派的な表現の代表的なものであろう。
「溢るる涙」はこの輯でも屈指の出来である。雪の上にはふり落ちる涙、その悲しみを運び去る小川、――その深沈たる悲哀の表現は驚くべきものだ。ヒュッシュの声の深さは、この歌に最もよく現われていると言っていい。
「春の夢」は、ゲルハルトの情緒的な美しさが一番私を牽きつけた。が、ヒュッシュの宏大な表現、――全曲を支配する、もやのような悲哀感のうちに脈動する夢幻的な歓喜は、私に新しい美を示した。
「道しるべ」は歌としても優れているが、ヒュッシュの出来栄えは実に抜群である。恐らくこの輯二十四曲中の傑作であろう。この絶望的な荒涼感に比べると、老巧ゲルハルトを以てしても物の数ではない。宿命的な苦悩の道を辿たどる旅人の姿が、ヒュッシュの正直過ぎるほど正直な表現のうちから、彷彿ほうふつとして浮彫りされる。このレコードに匹敵するリードの傑作レコードを私はあまり多くは知らない。
「辻音楽師」はゲルハルトの遅いテンポと充分な情緒に比べて、多少無造作で颯爽さっそうとしているが、ドゥハンに比べると、さすがに骨にも沁みる哀愁が湛えられている。十インチに収めた、極めて無造作な歌い方ではあるが、ヒュッシュとしては「道しるべ」「お休み」「春の夢」などに次ぐ傑作の一つであろう。
 その他十数曲もとりどりに見事だが、さまではと思ってここに贅しない。ミュラーのピアノの伴奏が、真面目過ぎるがなかなか良いということを付け加えておく。

美しき水車小屋の乙女おとめ(JD七二四―三一)は歌の性質上、『冬の旅』ほどの出来ではない。この二十曲に示した、技巧の精緻さは申し分のないものだが、ヒュッシュの歌と表現は、甘美な情緒にはやや遠く、一つ一つを比べて聴くと、スレザークや、ゲルハルトや、ドゥハン以上と言えないものも少くない。
 勿論、全体としての少しのたるみもない堂々たる儀容は何人も及ぶべきでない。その点は安心してこの歌の師表としてよかろう。出来栄えから言えば、前半の明るく美しいものより、後半の暗い苦渋なものがよく、七番目の「焦躁」あたりからピッチをあげて、九番目の[#「九番目の」はママ]「涙の雨」あたりへ次第によくなって行くが、ヒュッシュの本領はやはり、十七番目の「いまわしき色」の後であると思う。
 この輯の中の傑作は「忌わしき色」と最後の「小川の子守唄」で、それに続いては『焦躁』、さらにさかのぼって、最初の一、二曲であろうか。
 くり返して言うが、『美しき水車小屋の乙女』は『冬の旅』の次に置かるべきもので、古いドゥハンのレコードにもまた、この曲における限り存在価値があるというのだろう。

 ヒュッシュの一枚物にも珠玉的なものが二、三ある。ビクターの『さすらいびと(JK九)は、この曲から我々が聴き馴れた劇的な誇張はないが、申し分なく立派で、ヒュッシュの正直な表現に、多少の食い足らなさと安心を感じさせる。『タンホイザー』は二枚あるが、歌の面白さを勘定して「見渡せば」と「夕の星」(JD一一四三)の方が良かろう。しかしこれも昔のシュワルツなどを記憶していると、最上のものとは言いがたい。
 レーヴェの『鳥刺しのハインリッヒ』(JE七一)は、通俗な面白さだ。
 コロムビアには二枚入っているが、私はシューマンの『二人の擲弾兵てきだんへい』と、ベートーヴェンの『神の稜威みいつ(J五三六二)の腹合せが良いと思う。『二人の擲弾兵』をこれほど無造作に歌って、これほど劇的な深刻な味を出している人は少い。ヒュッシュの非凡な技巧と頭のよさだ。『神の稜威』も地味だが落ち着いた良い演奏だ。
 ヒュッシュに期待するところは将来だ。スレザークもゲルハルトも老いた今日では、リード歌手としてこれほど楽しみの深い人はない。この人のレコードのうち、『冬の旅』と『美しき水車小屋の乙女』は予約物で手に入り難いが、ヒュッシュに興味を持つ人は『冬の旅』だけは聴いておくことで、一枚物では『さすらい人』と『二人の擲弾兵』があれば良い。
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シュルスヌス Heinrich Schulusnus




 スレザークとヒュッシュに、シュルスヌスを加えて、当代男声リード歌手の三名手と言いたいが、これはしかし、日本におけるレコードに標準を置く我々の観方で、ドイツ本国では、シュルスヌスの人気の前には、老スレザークなどは、全くものの数でもないようである。
 口へメガフォンを当てて歌うような、技巧一点張りのレーケンパーにしても、美しさをスポイルしてしまって、もはやステージに立てそうもないヤドローカーにしても、レコードの方ではスレザークより遙かに上位に取り扱われている。我々東洋のファンなどは、ごまめの歯ぎしりをしたところで、これはどうにもならない人気であるらしい。
 わけても、シュルスヌスの人気は、かつてのシュワルツにも匹敵するものがあるだろう。この人の発声法には、シュワルツなどと共通した、ベル・カント風の趣があり、その上、タウバーなどと違って、悪達者なケレンがないので、ドイツの好楽者たちに支持を受けるのであろう。
 シュルスヌスの声は全く美しい。この朗々として心ゆくばかり歌う態度は、我々を陶酔に誘わずんばまないものである。事実シュルスヌスは、自分の芸術に陶酔する癖があるので有名で、ステージに立って得意の一曲を歌うとき、感極まって、涙を流すことさえ往々にして見られるということである。これは、かつて羽目を外さないヒュッシュの落ち着き払った歌い振りに比べて、なんという違いであろう。
 日本にも、シュルスヌスに異常な好意を持つファンは少くない。中には「好きだから好きだ」と言った喧嘩腰の御贔屓ひいきさえ見受けるが、シュルスヌスの陶酔し切った表現と、その恐らくこの上もなく善良であろうと思われる魂が、シュルスヌス宗を作る大きな原因となることであろうと思う。
 従ってシュルスヌスは、甘美な明るい歌にその全部の良さを投影させる。その美声と気稟きひんとが、明るく美しいせいであろう。暗く陰惨なものに対するシュルスヌスは、しばしば法のつかない泥濘ぬかるみに踏み込んで、あがきの付かないことさえあったのである。かつてリヒアルト・シュトラウスが、その自作の歌曲の発表に際して、女声のエリザベート・シューマンと、男声のシュルスヌスを選んだというのは、非常に有名な話であるが、恐らく、聡明なるR・シュトラウスは、自作のほとんどメロディを失った歌曲の歌手として、美声家のエリザベート・シューマンとシュルスヌスを選んだのであろう。

 シュルスヌスのレコードは、ポリドールに夥しく入っている。最近のものは、昭和十一年度以後の総カタログがないので、全部をここに掲げるわけに行かないが、私の記憶を辿って優秀なレコードをかぞえたなら、まず――
 ベートーヴェンの『アデライデ六〇一八四を第一に挙げなければなるまい。ベートーヴェンの歌曲中の傑作を、これ以上に歌える人は当分現われるようなことはあるまい。この美しい詩はシュルスヌスの美声によって、最もよくかされると言っていい。
 続いて、最近発売のシューベルトの『セレナードE一七二、旧プレスは六〇一〇〇のロマンティックな美しさを私は愛する。ポリドール会社は廃盤にしてしまったが、シュルスヌスの歌ったヘンデルの『ラルゴー』はこの歌のレコードの代表的なもので、前掲『アデライデ』と並ぶべきものであったと思う。
魔王四五〇八〇も立派な演奏である。恐らく男声でこの曲をこれだけ良く歌っている人はあるまい。シュルスヌス的な甘美な陶酔はあるにしても、――この歌から、あまりにも暗澹たるものを望まなければ、これは充分に美しいものである。
 ブラームスの『恋歌こいか五〇〇三六も愛されて良い。シューマンの『二人の擲弾兵てきだんへい』も、劇的な美しさにおいて、シュルスヌスのかもす雰囲気は第一等かも知れぬ。
 その他この一、二年間に入ったものに面白いものがあったように思うが、カタログがないのでこれ以上は思い出せない。私の記憶する範囲では、シューマンの『モンドナハト』、ヴォルフの『アナクレオンの墓』『別離五五〇〇七、ブラームスの『淋しき野辺D一一七などは優れたものであったと思う。
 要するに、ドイツ・リードを楽しむ人に、私は喜んでシュルスヌスをおすすめする。この人の歌うドイツの歌曲は、本当にロマンティックで楽しいことは事実だ。どんなに入門的な人でも、シュルスヌスのドイツ・リードには好感が持てるだろう。
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パンゼラ Charles Panzera




 ベルギー人パンゼラは、フランス楽壇の至宝的存在であることに何の不思議もないが、この人が、ドイツの一流歌手と同じように、シューマンの『詩人の恋』全曲を歌ってレコードしたのには少し驚かされた。もっとも、電気以前のHMVには、パンゼラのシューベルトもワーグナーも入っていたもので、今さらそれを驚くのが不思議なくらいであるが、それだけパンゼラという人は、フランス人になり切り、オペラ・コミックの人気者であったことが興味をそそったわけである。
 パンゼラを我らが知った最初のレコードは、震災前後のフランスのグラモフォンに入ったドビュッシーの『ペレアスとメリサンド』八枚の大物であった。このレコードを手に入れるために、どれだけの苦心と犠牲が払われたか、古いファンたちの話題になっているが、とにもかくにもプロティエールのメリサンドに対するパンゼラのペレアスの柔美な魅力は、当時の我々の驚異となったもので、引き続き私などは、あらゆる方法を講じて、HMVのパンゼラを取り、今日でも私のコレクションには、少からぬパンゼラの旧吹込みレコードがまじっているほどである。
 フォーレやデュパルクに対して、クレーマン歿後、パンゼラほどの理解と、パンゼラほどの美しい表現を与えた人のないことは事実で、この点でパンゼラは、生え抜きのフランス歌手に大手を振って威張っていいわけである。
 この特色は何よりも技巧の自由なことと、声のコントロールの美しいことで、いつでも叫ぶことなしに、柔かい中音で、実に堂々たる表現を与えることである。フランス語に対する愛情や、詩に対する理解も、男声歌手で、この人以上の人は本国のフランス人にもあり得ない。
 傑作はデュパルクの『旅へのいざなJD一四八であろう。これには管弦楽伴奏とピアノ伴奏と二種あるが、日本プレスはパンゼラ夫人のピアノ伴奏で入っている筈である。
 続いてデュパルクの『波と鐘JD六九五、フォーレの『漁人りょうしの歌JE一六という順序で聴くがいい。
 パンゼラの変ったものでは前掲のシューマンの『詩人の恋JD七九八八〇〇名曲集六二一があるが、コルトーのピアノ伴奏が魅力の大半で、歌としての興味はやはりフランスのものを採るのが穏当だろう。しかしドイツのリードに示したパンゼラの理解と技巧は驚くべきもので、この『詩人の恋』はタウバーなどよりは遙かによく、デニスと相対しても一歩も退かぬ出来を示している。
 モーツァルトの『ドン・ジュアンJE四四名曲集六一五に示した腕も大したものだが、それよりもやはり、ドビュッシーの『ペレアスとメリサンド一四四四四一七四九六三六名曲集六八のペレアスを歌ったパンゼラはめられていい。十年前の吹込みで、録音の古さはまことにみじめだが、近頃はさすがのパンゼラも年齢関係で、幾分の衰えを見せていることであり、この十年前の吹込みが、パンゼラの盛時を偲ぶ記念として、極めて意義の深いものになろう。
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ティベット Lawrence Tibbett




 アメリカ人らしい歌い手だ。派手で野性的で張り切って、芝居上手だ。イタリーのバリトンにはこんな型の人はない。好きも嫌いも言わせない。押し切ったところが、嫌味いやみがなくて好ましくもある。代表作は私一個の考えでは、ビクターに入っている新人ガーシュウィンの歌劇『ポーギーとベスJH四五名曲集六一二の主役であろうと思う。このジャズ音楽に芸術境を見出したガーシュウィンのオペラを歌わせて、これほどの適任はなかったであろう。野蛮な近代性とアメリカ風な情熱とは、全く名残なく表現される。続いては映画『悪漢の唄一四四六の主題歌だ。ティベットがトーキーで演じたままのレコードで、胸のすく野性美が愛されよう。
 本格的なオペラはこれ以上に歌える人もたくさんあるが、それでも『セヴィリアの理髪師』の「何でも屋の歌七三五三、『カルメン』の「闘牛士の唄八一二四などは一風格があるとしたものだろう。イタリーの本場のバリトンのような高朗さのないのが欠点で、この人のオペラにはなんとなく苦渋さと野蛮さが特色になっている。
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デニス Thom Denijs




 シューマンの『詩人の恋ビクターD二〇六二三枚を歌っているのが唯一のレコードだ。伝記も楽歴も不明だが、私はこの人をかなり高く買っている。中年以上の人らしくて、やや苦渋な声だが、一種の美声家で、陰影に富んだ美しい色調を持ち、その表現は落ち着いて、渋いものだ。『詩人の恋』はパンゼラもタウバーも歌っているが、この人ほどの渋味はない。ドイツ人らしい融通のきかない堅さから救われて、暢達ちょうたつな、情緒豊かな歌い手だ。表現の内容的な良さはヒュッシュに及ばないが、『詩人の恋』一曲だけでも存在価値のある人だと思う。
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デ・ルカ、ゴゴルツァ、ショル、エディ、ヤンセン
De Luca, Gogorza, Schorr, Eddy, Janssen




 デ・ルカは過去の人になったが、旧盤時代にはルッフォ、スコッティ、バッティスティニらと並んで、或はこの三人を率いてビクターのバリトン陣第一人者であった。イタリー生れの本格的なオペラ歌手で、その歌は柔かく渋く、温かく、そして情味に富んでいる。
 電気ではいくらも入っていず、その少いのも大部分廃盤になってしまったが、『椿姫』の「美しきプロヴァンスに在るいえビクター七〇八六などは傑作であったと思う。老人臭いものではあるが、いかにも温かい情味が嬉しい。
 ガリ‐クルチと一緒に歌った『リゴレット三〇五一は声も技巧も年を取り過ぎたが、父性愛の柔かな情緒はめども尽きない。『椿姫』の「君が娘に言い給え八〇八九もなつかしいレコードだ。

 ゴゴルツァはスペインのバリトンで、アメリカ人になり切っているが、スペイン的なものが良いらしい。一時はアメリカで大変な人気であったらしいが、大袈裟で、空疎で、技巧的で、日本人には向かない。

 ショルは良いバリトンだが、アメリカ的でないので、レコードではあまりかんばしいことはない。バッハの『ミサ=ロ短調』のバリトンはこの人だ。一枚物ではシューマンの『二人の擲弾兵ビクターJD四七四があるに過ぎない。

 ネルソン・エディは映画で宣伝されて有名になったが、そんなにうまい人ではない。テナーのキープラ、ソプラノのムーアと同じように私は考えている。

 ヤンセンは『ヴォルフ協会』の第二回レコードで初めて我々に印象されたバリトンである。ヴォルフは極めて無事平穏であったが、近頃入ったビクターの『二人の擲弾兵』や『セレナード』は、味が空疎で技巧的でさして面白いものではない。将来に期待するとしよう。
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ストラチアーリ、ヴォルフ Stracciari, Wolf




 ストラチアーリは当代オペラ歌手のバリトンで、第一人者と言われている。コロムビアは、クララ・バットとこの人だけを紫盤むらさきばんにしておくほどの勿体もったいのつけようだ。もっともヴァイオリンの天才少年のザイデルが紫で、フーベルマンが青なんだから、この紫はあまり重要性はないとも言える。とにかくストラチアーリは昔はうまかったことは事実で、電気以前のこの人のレコードは随分尊重されたものであるが、六十幾歳の今日では、昔ほどの魅力があろうとは思われない。本国の格付けはどうであろうと、ビクターのデ・ルカとあまり大きな違いはないだろう。しかし年は取っても歌は非常にうまい人で、劇的なものはデ・ルカ以上に情熱も迫力もある。幾つかイタリー民謡を歌っているが、それは大したことはない。『フィガロの結婚』とその裏の『リゴレットコロムビア九〇〇三などが代表的であろう。

 エルンスト・ヴォルフがロバート・フランツの歌曲五枚十数曲を入れたときは、私は思わず歓呼の声をあげた。ヴォルフという歌手に興味を感じたわけでなく、ロバート・フランツのリードを大量に聴かれるのを喜んだのである。フランツの歌のレコードは、電気以前にガドスキーが一曲、電気になってからラシャンスカがたった一面入れただけで、フランツの温藉おんしゃな優しい歌に興味を持つ者にとっては、まことに物足らないことだったのである。
 ところがそれを一ぺんに十九曲と吹込んだのである。ヴォルフという人は非常な年配の筈だが、米国の楽壇では有名な人で、充分我々に期待させるだけの献立が出来ていた筈であるが、さて実際のレコードを聴いて見ると、フランツの歌のよさも、歌い手の技巧のうまさも申し分はなかったが、なんと言っても七十歳を越したヴォルフに、やさしき愛の歌を歌う情緒がある筈はなく、なんの非の打ちどころもないにかかわらず、なんとなく一脈の淋しさを感じさせたものである。
ロバート・フランツ歌謡集コロムビアJ八六六〇傑作集二五七、『三つの独逸ドイツ民謡曲J五五三九、『願い』ほか五曲J五五四四、以上五枚がヴォルフの総レコードだが、フランツを好む人以外には大して興味のあるものとは言えないかも知れない。同時にフランツの良さは、シューベルトやシューマンと違って、素人には容易に受け容れ難いものであることも付け加えなければなるまい。
 その代りフランツを好む人やフランツを研究する人にとって、これは珠玉的な五枚のレコードである。声にしわこそ寄ったが、ヴォルフは技巧の非常にうまい人であり、フランツの淋しさを、ますます淋しくし、フランツの地味さをますます地味にする嫌いはあるかも知れないが、充分研究されていいレコードであると思う。
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レーケンパー、ウルバノ Rehkemper, Urbano




 私はしばしば悪い方の引合いにレーケンパーを出しているが、この人の欠点は技巧に溺れ過ぎるためで、決してまずいためでないことを改めてここに明言しておきたいと思う。この人の声は決して緻密ではない。が、強大なホーンを持った咽喉のどで、高朗強大なことはバリトン中でも恐らく第一人であろう。
 技巧の精緻なことは驚くばかりで、電気以前の『さすらい人』を聴いて、私は三歎したことを記憶している。実に錣太夫しころだゆうの義太夫を聴いているように、情意兼ね備わった、――その上、申し分なく芝居気のある演奏であったからである。
 レーケンパーは次第にポリドールのカタログから削られて、今ではマラーの大歌曲『亡き幼児等を偲ぶ歌四五一五四の三枚を残すだけとなってしまった。しかしこのレコードは、今から十年前の吹込みで、録音の驚くべき古さにもかかわらず、代表的に良いもので、歌曲のレコード中、恐らくこの後までも話題に遺るものであろう。
 その良さの大部分は、マラーの曲にあることは言うまでもないが、レーケンパーのこの表現の巧みさも勘定に入れないわけには行かない。
 この人ほどの業師わざしが、精一杯に歌った面白さはまた格別であると言っていい。

 ウルバノも古いバリトンの一人だが、ポリドールには今二枚のレコードしか残っていない。『ニーナの死』と『マリア・マリ五〇〇二〇が挙げられる。
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バス


シャリアピン Feodor Chaliapin




 シャリアピンもとうとう亡くなったそうだ。昭和十一年の早春、あの大雪の降った前後、日比谷ひびや公会堂で聴いて、陶然とした心持は今でも忘れられない。
 今までいわゆる世界的な歌手をかなりたくさん聴きもし、これからも聴くことであろうが、シャリアピンほど印象的で、シャリアピンほど感銘の深い人はあり得ないだろう。それだけシャリアピンの芸術はすぐれ、シャリアピンの個性は特殊なものだったのである。
 シャリアピンの伝記は、その自叙伝にも詳しいが、ロシアの田舎いなかに生れて、あらゆる艱苦かんくめ尽し、音楽家としてってからも、長く無視され閑却されて、欧米のレコードに現われたのは、かなり後のことである。ビクターのカタログにしても、一九二二年には一枚もなくて、一九二三年になって、俄然として十枚のレコードを載せたような有様で、シャリアピンが『世界第一の歌手』として声名を馳せたのは、彼が二度目の訪米後、四十歳を遙かに越してからのことであった。
 シャリアピンは天成のオペラ歌手であった。その恰幅かっぷくの堂々たるのと、歌のうまいのは我々も見たが、その上抜群の芝居上手じょうずで、『ボリス・ゴドノフ』の終焉しゅうえんの場の如きは、鬼気そびらに迫るものがあったと言われている。半裸体で歌った『メフィストフェーレ』の凄まじさも語り伝えられ、映画『ドン・キホーテ』の見事な演技は、シャリアピンの歌以上に日本人には印象されているであろう。
 シャリアピンについては語るべきことが甚だ多いが、伝記その他はしばらくき、私は、私のコレクションを中心として、この巨匠が我々の手に遺した、芸術的遺産なるレコードについて語ろうと思う。

 シャリアピンの芸術の本当の絶頂は、四十歳から五十歳前後までであったことと思う。その頃シャリアピンの吹込んだレコードの、代表的なものとしては、電気以前の『ヴォルガの舟唄』『のみの歌』などがある。その後のものは技巧的に緻密になっているが、弾力的な美しさを失っていることも事実であり、それ以前のものは、声としては若さと弾力に恵まれ、この上もなく美しいが、技巧においては、後期の精練に及ばないものを見出すだろう。
 シャリアピンが日本へ来たときは、六十三歳かであった。十七、八歳から歌って、六十三歳のあの当時、あれだけに歌えたということは、つやや弾力を失ったと言っても、ほとんど奇蹟的なことである。歌い手として、あれだけ生命の長い人は、容易のことではあり得ないだろう。
 しかし、声の美しさと輝かしさにおいては、シャリアピンといえども、若き日を恢復する由はなかった。シャリアピンは一九〇五年頃から、一九一五、六年頃までの間、ロシアで何枚のレコードを吹込んだか、それは全く不明だが、私の持っているエンジェル印のロシア・グラモフォン・レコード(Gramophone Monarch Record)のオレンジ色、銀文字盤に入っているグノーの『ファウスト』の「きんこうしの歌」十二インチ片面レコードの如きは、シャリアピンの若さと美しさの代表的なものである。このレコードは一九一〇年以前、シャリアピンが四十歳前のものであろうと思うが、当時のシャリアピンが、技巧よりは天成の美声で、やや脂っこく、――そのくせ朗々と歌ったおもかげは充分に偲ばれるだろう。
 私のこのレコードは、芝の小さい喫茶店で手に入れたもので、ざくざくに割れて使用に堪えないのを、店主が心得て十襲していたのを、幾度か懇望して手に入れたものだ。「金の犢の歌」はその後十インチに吹込み直しているが、技巧も録音もよくなっているのに、美しさにおいては全く問題にならない。
 歌劇『セヴィリアの理髪師』の「蔭口かげぐちの歌」も私は三種類持っている。帝政時代のロシアで入れたグラモフォンのレコードが一番美しい。技巧から言えば、後のものほど優れているが、これも私は古いものに愛着を感ずる。

 シャリアピンのレコードで、一番初めに日本へ来たのは、スペインのヴィクターに入った『ノルマ』の「山の彼方かなた」であった。これは合唱付きのレコードで、非常に高朗な美しいものだ。当時シャリアピンというものが日本に知られていず、輸入商も見当が付かなかったので、スクリアビンと間違えて、店頭に「ロシア当代大作曲家の歌ったレコード」と大きく貼り出して売ったという一口噺ひとくちばなしが伝わっている。二十年前のファンには、銀座でそのビラを見た人も、そのレコードを求めた人もあった筈である。当時ドイツ・グラモフォン系のレコードは、シャリアピンの綴をCHAでなくてSCHALIAPINにしていた関係もあったであろう。今なら随分大騒ぎをするところだが、当時はそれを百人が百人疑う人もなく、僅かに千人、万人に一人気の付いた人があっても、自分の知識に対するひそかなる誇りだけを感じて、素知らぬ顔をして通り過ぎたことと思う。
 その後私はこの『ノルマ』をビクターの外にHMVでも手に入れ、更に緑色グラモフォンのも手に入れて、三様三枚の蒐集を誇っていたが、内容が全く同じものなので、請わるるがまま、若き友人にHMVの方を割愛し、今は手許に二枚しか持っていない。ほかに南葵なんき文庫と、さる高貴の方の御蒐集の中にあるのを拝見したことがあるが、まだ幾枚かは諸方に散っていることであろう。
 シャリアピンのこの時代のレコードは、驚くべき美しさだ。昔の民謡『アライズ・レッド・サン』などは、電気の十インチでも入っているが、ピンク色十二インチ片面HMVのすばらしさは格別だ。このレコードはHMVでも早く廃盤になり、一時は第二カタログにもなかったので、濠州のHMVのカタログで見つけて取って見ようとしたことさえあるくらいだ。昔のロシアの民謡としては、代表的に良いもので、その泥臭どろくささが人をきつける。電気以前のピンク色十二インチ片面盤はもはや手に入る見込みもあるまいが、電気のビクター現役レコードでも、充分面白さは味わえる筈だ。
 十字屋あたりが計画的に大量のシャリアピンを輸入したのは、HMVピンク十二インチ片面の『ボリス・ゴドノフ』「ボリスの死」と「ボリスの臨終」あたりだ。このレコードはかなりたくさんある筈で、その後ビクターの赤盤で一九二三年に入って来たのも、ドイツ・グラモフォンの緑色盤も全く同じ母型を使ったものだ。このレコードが入った頃は、大田黒おおたぐろ氏あたりがシャリアピンを紹介した上、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドノフ』の偉大さを盛んに説いた頃で、若き時代のファンたちは、片面一枚六円(?)という眼の玉の飛び出るHMVレコードに、蟻の甘きにつどうが如く誘惑されたものだ。
 シャリアピンの『ボリス』は全く絶品中の絶品と言っていい。その凄まじさ、その良さは、実演に接した岩崎雅通まさみち氏が私に語られたことがあるが、レコードは恐らくその気分の十分の一、或は百分の一を伝えるに過ぎないものであろう。それにもかかわらず、シャリアピンのうまさと、このオペラの偉大さが、かなりよく窺い知られる。
 但し、この『ボリス・ゴドノフ』の幕切れの如き、劇的な要素が重大な役目をつとめる場合では、レコードの出来は我々の期待が大きいだけに、決して満点とは言えない。私は『ボリス・ゴドノフ』のオペラの実演を三度か四度見ているが、貧しい旅興行のオペラでも、実演の迫力は全く大したものである。その意味において、この『ボリス』のレコードは、数あるシャリアピンのレコード中でも、極めて重要なものであり、傑作の一つではあるが、レコード音楽の約束から言えば、必ずしも満点でないことは察し得るだろう。
 この場合においては、劇的要素と共に背景の管弦楽が極めて重要で、電気以前のレコードは、シャリアピンの声が若々しくて弾力的であるにかかわらず、私は電気以後の吹込み直しの方に団扇うちわをあげたいと思う。レコード・ファンも理性を無視してまで、懐古趣味であってはいけない。
 ほぼ同じ頃入った『プリンス・イゴール』の「ガリキー公の歌」は最初十二インチ片面で、後十インチに吹込み直したものだが、十二インチの方は合唱付きで十インチの方は録音が良く、古いものあさりの物好きさえ言わなければ、十インチの方がレコードとしてすぐれている。ところで、その『ボリス・ゴドノフ』の「カザンの町で」は電気以前のシャリアピンの佳作の一つであろう。実演で観ても、この悪僧の歌は効果的な面白いものだ。

 シャリアピンのレコードにおける絶頂期は、恐らく電気以前の『ヴォルガの舟唄』であろう。あのレコードが日本へ来たのは、大正十二年の春(一九二三年)震災の少し前、クライスラーやゴドフスキーが日本をたずねた頃だ。ふとしたことであのレコードを発見した私は、文字通り狂喜したものだ。その前年日本を訪ねた老ホルマンが、世界の音楽界を語って、――ヴァイオリンはイザイエかクライスラー、ピアノはパデレフスキー、歌はシャリアピン――と世界の第一人者を挙げたのを聞いていたし、かつてシャリアピンの『ボリス』その他のレコードも知っていたが、『ヴォルガの舟唄』を聴くに及んで、私は完全に帽子を脱がされたことを記憶している。
 シャリアピンの特別な発声法――あののどと鼻を使った宏大なホーンで作られる声は、どう聴き直しても、複数の声の音色――大勢の人が斉唱ユニゾンで歌っているとしか思われなかった。それにかつて大田黒氏が書いたことのあるピアニシモの美しさ――。私は初めて第五シンフォニーのレコードを求めた少年のように、このレコードを毎日聴いた。その頃医者の禁を破ってクライスラーの音楽会を聴いて高熱を発していた私は、病床に仰向けになりながら、おいせがれにこの『ヴォルガの舟唄』をかけさせて、誰が描いたか知らぬが、ヴォルガ河曳船ひきぶねの暗澹たる絵を思い出しながら、抵抗療法的な快味を貪っていたものだ。「そんなに聴いたらレコードが駄目になるでしょう」家族がそう言って心配したのは、私の蒐集のうちにこのレコードたった一枚であった。「安心しろ。摺り切れたら、また買って来る」と豪語した私は、その言葉を実行して、十五年後の今日、私の蒐集にシャリアピンの『ヴォルガの舟唄』のレコードが四枚あり、そのうちの二枚は電気以前に吹込んだ同じレコードである。私のコレクションの中に、同じものが二枚あるレコードは、これとクルプの歌った『星月夜』のほかにはない。しかしシャリアピンの『ヴォルガの舟唄』に溺れたのも、十五年前の昔語りになった。
『ヴォルガの舟唄』と前後して入った電気以前のレコードの佳品は、『二人の擲弾兵』や『トレパック』や『深夜の閲兵』や『ダウン・ゼ・ペターキー(モスコーの街の歌)』や『蚤の歌』や『シベリア囚人の歌』であると思う。が、この大部分は電気で吹込み直され、その電気の方が原則として良くなっているので、ことさら旧盤を説く必要はない。
 が、この中で注目すべきは、米国ビクターにしかなかった『シベリア囚人の歌』の十インチレコードである。歌の意味も作曲者も判らないが、鎖を叩くような陰惨単調なピアノの伴奏で歌う、凄まじくも恐ろしい歌であったことを私は記憶している。このレコードは数が少かったから、今では手に入れる由もあるまい。その後HMVで同じ題名の歌が入ったが、それは十二インチで全く違ったものであり、シャリアピンが日本へ来遊して歌った『ロシア囚人の歌』もまた違ったものである。
『蚤の歌』も三回ぐらい入れ直している。電気直後のは一番巧者こうしゃだが、面白さは電気以前のだ。愛好家協会で吹込ませたのも、芸の老境が判って面白い。一体この歌は悪魔的な陰惨さにおいては、ロージングの方が遙かに優っているが、実感が伴い過ぎて、義太夫的な興味に堕するおそれがある。シャリアピンの飽くまでも笑う高朗さも一風格だ。総じてムソルグスキー作のものはこの『蚤の歌』と同じことが言えるだろう。日本来遊の時も、思いのほかムソルグスキーを歌わなかったのは、シャリアピンの本質的な明るさと一致し難いものがあるためではなかろうか。疑いを存しておく。(ムソルグスキー作では『トレパック』は『蚤』に並ぶシャリアピンの傑作だ。これは後項に書く)
 電気以前にあって、電気以後にない泥臭いロシア民謡もいく枚かあった筈だ。今では第二カタログをさがしてもないのがある。その他宗教的なものに良いものが少くないが、一々はわずらわしい。
 ただ逸することの出来ないのは、グリンカの『疑惑』とフレジェの『角笛』だ。これはシャリアピンも好んで実演に歌ったが、一つは深刻で一つは雄麗で全く美しかった。電気になって入れ直したのもあるが、私は昔のが懐かしい。
 珍しいのではフランスの国歌がある。が、それはどうでもいい。私の好みから言えば、もう少しシャリアピン自身も好んで歌ったダルゴミジスキーを入れて貰いたかった。この人の皮肉な暗さが、シャリアピンの陽気さを通して、一種の面白さをかもしたものだ。

 電気以後のシャリアピンのレコードは手近にあることでもあり、どこででも聞かれるものであると思う。
 日本ビクターの十九枚から、傑作を拾い上げると、第一番に『ボリス・ゴドノフ』の「別れ」と「臨終JD八六二のほかに、「時計の場」と「ボリスの独白JD二二六を挙げなければなるまい。これは迫力において、背景の奥深さにおいて、電気の強味を発揮し、電気以前のレコードを顔色無からしめたものだ。
 映画のイベールの『ドン・キホーテJF二二二三も逸することの出来ないものだろう。これは見た方が面白かったので、シャリアピンのレコードとしてはさまで優れたものでないが、とにもかくにもシャリアピンの映画レコードとしてよき形見かたみであることは疑いを容れない。歌としてはマスネーの『ドン・キホーテ六六九三の方が面白いかも知れない。
 電気に入れ直して良くなったのは、ムソルグスキーの『トレパックJD七二三である。シャリアピン晩年の傑作の一つで、この凄まじさと美しさが比類もない。ロージングほど実感に溺れないのが特色である。その他では『ステンカ・ラーズィンDB一四六九は代表的なものであり、『角笛』とその裏の『老下士ろうかし七四二二は先に言ったダルゴミジスキーの代表的な歌の一つだ。むずかしいものであるが、グレチャニノフの『信経しんきょう』とアルシャンゲルスキーの『われ信ずJD三二八は高く評価される。
 他に『ボリス・ゴドノフ』の「カザンの町にて一二三七も、民謡の『モスコーの街の歌JE一五六四も電気のよさがある。これはシャリアピンが好んで歌った唄で、歌いながら踊り出すような恰好をした。
 シャリアピンで私の絶対にくみすることの出来ないのは、シューベルトのリードだ。実演を聴いた人は気が付かれたように、シャリアピンはほとんど無造作に歌い崩す癖がある。オペラや民謡はそれで構わないが、リードの場合はどういうものであろう。あの傍若無人ぼうじゃくぶじんな調子で伴奏者を引きまわして行く歌い方は、シューベルトにおける場合は賛成出来ない。『死と乙女』も『影法師』も、劇的で面白くはあるが、リードとしては落第だ。

 シャリアピンのレコードで、日本で売り出されないもののうち、非常に重要なものが二、三種類ある。それはいつぞやも書いたことだが、シャリアピンの舞台の実演をレコードしたもので、『ボリス・ゴドノフ』が四枚、内三枚は一九二八年七月ロンドンの王立歌舞場で吹込んだもの、二幕目三面、四幕目三面だ。あとの一枚は、アルバート・コーツの指揮した『ボリス』の「戴冠式」だ。残る一枚はボイートの『メフィストフェーレ』の実演をレコードしたものだ。「戴冠式」は、演奏会のものらしく歌劇の実演と言いがたいが、片面だけ歌っているシャリアピンの出来はすばらしく、コヴェント・ガーデンの実演四枚に至っては実に絶品と言っていい。音はさまで大きくなく、やや散漫にさえ感ずるが、実演に伴う迫力は凄まじい。
 それにつけても、シャリアピンが、『ボリス・ゴドノフ』の全曲をレコードしなかったのは、歴史的な悔いであろうと思う。パハマンのショパンで『ノクターン全集』、ニキシュの指揮したベートーヴェンの『第九』がないと共に、或はより以上淋しいことである。今後少くとも一世紀はシャリアピン以上のボリス歌い手は出現しないことであろう。今の進歩した録音法で、それをレコードしなかったことは返す返すも口惜くちおしいことである。
(『レコード音楽』十三年五月号所載)

 前掲のシャリアピン論は、この巨匠の追憶にふけって、電気吹込み以後のレコードを書くことが甚だ簡略であった。改めてシャリアピンのレコードを蒐集に加える人のために、最近のレコードについて、少しばかりの蛇足を加えよう。
 シャリアピンのレコードの選択は、シャリアピンの得意の曲目を採るのが第一の方法である。シャリアピンの得意の曲目というと、『ボリス・ゴドノフ』であることは言うまでもなく、前項に書いた「ボリスの死」と「告別」は、第一番に用意さるべきものであるが、一般の好楽者たちの、楽しんで聴くためのレコードとしては、それよりもまず『ヴォルガの舟唄六八二二と『のみの歌六七八三を求むべきである。この二つの歌は、シャリアピンが日本における五夜の演奏会で、毎晩必ず歌ったもので、その得意のほどが思いやられるばかりでなく、この歌を歌うときのシャリアピンの陶酔し切った顔は、今でも我々の眼にちらつくほど愉快なものであった。
 このレコードは幾通りも入っているが、厳格には電気以前の方がよく(私は電気以前の『ヴォルガの舟唄』を今でも二枚所持している)、その声の若さに言うに言われぬ輝きがあるが、今日手に入れることは非常に困難であり、録音の悪さという重大なハンディキャップのために、一般の愛聴盤としては、甚だしく不都合なものである。
 で、一般好楽の士は、電気の初期に吹込んだ前掲の二枚に満足するのが常識であろうと思う。ビクター愛好家協会のレコードは、『ヴォルガの舟唄』と『蚤の歌』を腹合せにしているが、晩年の吹込みにかかわらず、これもかなり良いものである。それは録音技術の進歩のためであろうが、一つには晩年のシャリアピンは、一時声の若々しい美しさをスポイルした代償として、甚だしい技巧の臭味に走ったのを、老来また昔に還って、無技巧の技巧の老境に入ったためでもあろうと思う。
 続いて私は『モスコーの街の唄JE一六五(このレコードは再プレス盤の番号で、古いプレスは一五五七になっている。二つとも全く同一のものである)を挙げたいと思う。無知で情熱的で、野蛮で空騒ぎの好きなロシアの街の人たちの唄は、本当にこんなものでもあるだろう。これを歌うシャリアピンの手拍子を叩いて浮かれ切った様子を、私は今さらほほえましく思い出す。
 続いて、『トレパックJD七二三、『ステンカ・ラーズィン』『疑惑DB一四六九、『角笛七四二二などであろうか。『トレパック』の陰惨さ、『ステンカ・ラーズィン』の雄麗さ、『角笛』の高朗さは、シャリアピンの三方面の特色を代表しているものと言ってもいい。
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ジュールネ、ピンツァ Journet, Pinza




 プランソン亡き後、フランスのバス歌手として、ジュールネの令名は一時世界を風靡した。この人の電気以前のレコードには、傑作と言わるべきものは、二、三にして足らない。電気後はあまり振わないが、それでも独唱が六、七枚、二重唱も何枚か入っていたが、十三年度のビクターカタログでは、独唱は『ラ・マルセイエーズ』と『二人の擲弾兵てきだんへい六五五七たった一枚になり、二重唱は一枚もなくなってしまった。
 廃盤物の中からあされば、ベルリオーズの『ファウストの劫罰ごうばつ』の「メフィストフェレスの小夜楽さよがく一一二三グノーの『ファウスト』の「メフィストフェレスの夜想曲六五五八などは本格的なものであろう。但しこのレコードは六十歳を越してからの吹込みで、新鮮さの点においては保証の限りでない。

 ピンツァはイタリー系の当代のバスで第一人者であるが、ビクターのカタログによれば、八、九枚の電気吹込みレコードを、全部カットしてしまっている。この人は若くて柔かくて、いかにも高朗なバスだが、惜しいことであると思う。
 代表的なレコードは、今は市場にないが『ノルマ』の「山の彼方かなた八一五八、『ファウスト』の「黄金こがねこうし」などであったろう。わけても『ノルマ』は電気以前のシャリアピンには及ばないにしても、誰にでも愛されて良いものであったと思う。
 二重唱ではマルティネリとの『アイーダ』の「神殿の場」があり、全曲物では、日本プレスはないが、スカラの独唱者として参加したHMVの名盤ヴェルディの『ミサ』十枚の大物がある。これはとうとう日本で出ずにしまったが、宗教楽の全曲中でも有数の良いものであった。
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キプニス Alexander Kipnis




 オペラもリードもなんでも相応にこなして行く達者なバスである。技巧は抜群だが、芝居気が相当にあり、声も緻密さを欠くのが欠点だろう。
 この人のレコードをかけていると、山田耕筰こうさく氏が「ドイツ人ではないね」と言ったことがある。さすがに慧眼けいがんで、この人のリードを聴くと、非常に巧みではあるが、ドイツ人でない匂いを感じさせるだろう。
 これはしかしキプニスに対してお点のからい批評である。この人のシューベルトは達者ではあるが、情熱が中庸で、技巧にすぐれている点においては、比類の少い人である。『さすらいびとコロムビアJ七三三四、『影法師J七三三五などは、なんと言っても、優れたものであるに相違ない。
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二重唱――六重唱





 二重唱の重要なレコードは、独唱の項にあわせて掲げた。三重唱以上のレコードにも、良いものは少くないが、取り立てて掲げるものは――
 ビクター系で、ガリ‐クルチ、ジーリ、ピンツァ、ホーマー、デ・ルカ、バーダによる『リゴレット』四重唱、『ラムメルムーアのルチア』の六重唱ぐらいのものであろう。
 コロムビアには、ジェンティレ、スティニヤーニ、グランダ、ガレフィの組合せで『リゴレット』の四重唱があるJ七四五九
 ポリドールにはR・シュトラウスの『アラベラ』を、ウルスレアク、ボコール、エルガーの四人で歌っているのが珍しい。
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合唱





宗教楽

ビクター系

 バッハ協会合唱団及び管弦団はブレーの指揮で、フォーレの『鎮魂弥撒みさJD六二七三一名曲集五八五を入れている。この曲は近代風の宗教楽で、この種のものの異彩であり、古典的な荘厳さを失わずに、新鮮な輝きと美しさが横溢する。バッハ協会の合唱団の質のよさにも依ることだが、演奏は雄大荘厳を極め、宗教楽レコード中ヘンデルの『救世主』全曲、ベートーヴェンの『荘厳弥撒そうごんみさ』、バッハの『弥撒=ロ短調』と並んで四大全曲物と言えるだろう。

 ベルリン・ジング・アカデミー合唱団はゲオルク・シューマンの指揮で、ブラームスの『ドイツ鎮魂曲C二三七七C二三八一を入れている。この曲はドイツ語で書かれた弥撒みさで、若きブラームスの心魂を打ち込んだ傑作であり、ゲオルク・シューマンは宗教音楽の研究者として、指揮者として令名のある人で、申し分なく良かるべき筈であるが、吹込みの古いのと、カットのひどいので、興味を半分そがれるのは惜しいことである。しかしほんの一部分の吹込みではあるが、ブラームスの宗教音楽の良さを窺うには充分であろう。最後の面に入っているハイドンの『四季』の冒頭も悪くない。
 同じ団体のバッハの『クリスマス聖譚曲』の「神にえあれ」と「感謝に充ちてJH六三も逸するわけに行かない。この大曲の一部分ではあるが、宗教楽に興味を持つものには尊いレコードだ。

 聖パルトロマイ教会聖歌隊バッハの『馬太マタイ伝による受難楽」』は非常に期待されたレコードだが、オルガンの伴奏であったのと、教会のコーラスで練習不足らしいのが多少失望させた。近頃この曲が同じビクターに管弦楽伴奏で入ったということであり、このレコードはもはや過去のものでしかない。

 ロンドン・フィルハーモニック合唱団をコーツの指揮したバッハの『弥撒みさロ短調JH五五七二名曲集五九五は、十年前のHMV吹込みであるが、日本プレスは極めて昨今で、日本においてはまだ現役レコードである。これは曲の宏大な美しさと、神品的荘厳さに加えて、独唱者にソプラノのシューマン、バリトンのショルらを揃え、コーツが精一杯の真剣な指揮で、宗教楽のレコード中、先にも掲げた通り傑作の一つである。私は今でも、限りなくこのレコードを愛して、ヘンデルの『救世主』全曲と共に書斎の棚に飾ってあるほどだ。演奏の良さよりは、原曲の良さのためであるかも知れない。

 システィン教会聖歌隊をペローシ監督の指揮した『システィン教会合唱曲集JD一三〇は、伝統を誇る古風な宗教楽の録音で、極めて貴重なレコードである。断じて享楽的なものではないが、研究者にとっても、後の世へも、よき贈り物であろう。

 カレッジ・オヴ・ザ・セークレッド・ハート聖歌団の『グレゴリアン・チャント七一八〇名曲集六九にも同じことが言える。

 ローヤル・コーラル・ソサイティは『ハレルヤ・コーラスJB三三と『天地創造』の「もろもろの天の神のえをあらわ」「御業みわざは成れりJB五四を入れている。『ハレルヤ』はこれ以上のがたくさんあるが、『天地創造』はレコードが少いので、この一枚が重要視される。


□コロムビア系

 英国放送協会聖歌団を、ビーチャム卿の指揮した、ヘンデルの『救世主きゅうせいしゅ全曲J八四五〇六七傑作集二一六について、私はもう幾度も語った。この曲に情熱と信仰を傾注し尽したヘンデルの一本気に対する讃歎から、このレコードに対する私の個人的な思い出まで、私は幾度書いても飽きはしないだろうが、読者の迷惑を考えて、ここではただ、この曲の驚くべき美しさと宗教的な情熱の昂揚とを伝え、ビーチャム卿の指揮や、BBC合唱団の演奏が、十年前の吹込みにかかわらず、驚くべき生彩の気を持っていることを書くに止めようと思う。
 なおこの十八枚のレコードの中から三枚と二枚と抜萃したレコードが『救世主』と銘を打って、別に発売されていることも付け加えておく必要があるだろう。十八枚を重荷に考える人は、その三枚物J七三一〇と二枚物J七八六六をだけでも聴くべきである。

 同じ合唱団をビーチャム卿が指揮して、メンデルスゾーンの聖譚曲『エリヤ』全曲J五三一九三三傑作集一七六がある。あれほど有名な曲であり、演奏者も全く同じなのにもかかわらず、ヘンデルの『救世主』に比べると、輝きにおいて、迫力において、格段の違いを見出すだろう。『エリヤ』の曲や演奏が悪いのでなく『救世主』があまりにすぐれているからであろう。

 一枚物にもなかなか良いものがある。ブルノ・キッテル合唱団の『ハレルヤ・コーラス』は恐らくこの曲のレコード中で傑出したものであったが、コロムビアはそれを、世界音楽名盤集の第二輯に編入している。
 リュールマンの指揮で、巴里パリ交響楽団とテナーのプラネルが演奏したベルリオーズの『基督の幼時』の「聖家族の憩いJ八四三六は驚いた。ディスク大賞を獲たレコードではあるが、この曲の荘厳な悲壮美は、なかなかに比類もあるまい。
 ラインハルト指揮、バッハの『カンタータ第七八番)』「吾等める足をもちてJ八六四〇は世にも可愛らしい少年唱歌隊の二重唱に、弦楽器の伴奏で、その可憐な美しさをめでて、私はあらゆるコンサートに持ち出している。
 英国国民合唱団を、スタンフォード・ロビンソンの指揮した『天地創造J三一七五が一枚入っている。


□ポリドール系

 ドルトムンド市立音楽学校聖歌隊の『グレゴリアン・コーラル三〇〇五二がある。これは五枚か七枚のうちの二枚で、大部分は日本で出ずにしまった筈だ。研究者には大事なものであり、演奏も良かったのだから、全部出しておいて貰いたかったと思う。このレコードにパテルポルナー少年聖歌隊の『グレゴリアン・コーラル一〇三四〇が一枚付いて日本では出たように思う。

 有名なバシリカ合唱団もモーツァルトの『アヴェ・ヴェルム』とハイドンの『天地創造』の一節を入れている。何分にも吹込みが古い。

 ポリドールの宗教音楽レコードのぴか一は、ブルノ・キッテル合唱団の入れたベートーヴェンの『荘厳弥撒ミサ・ゾレムニスM一一一十一枚のレコードだ。言うまでもなくこれはベートーヴェン後期の大傑作で、第九シンフォニーと両翼をなす曲であり、宗教音楽としても、古今の名曲の一つだ。ベートーヴェンのいわゆる「心よりで再び心におもむかんことを」の厳粛な思想が、その十一枚の全曲に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくする。演奏は非常に見事で、これだけのレコードは滅多に聴かれないが、惜しいことに吹込みは十年前のものだ。
 このレコードの第二十二面にある『自然の上に神の稜威みいつ』は、この原曲オリジナルの姿で歌ったレコードとしては代表的にすぐれたものであろう。録音の古さを我慢すれば、今でも充分聴ける。

 リストの『合唱弥撒ミサ・コラーリスイ短調』、レヴィの指揮したパリ・フィルハーモニック合唱団の演奏で、器楽を伴わない合唱で、非常に興味の深いものだが、一般的なレコードではない。

歌劇

□ビクター系

 ベルリン国立歌劇場合唱団をブレッヒの指揮した『さまよえるオランダ人』の「つむぎ歌」と『魔弾の射手』の「がために花嫁JH五七は、たった一枚だが非常に良い。歌もよく知られたものであり、合唱も見事、充分楽しめるレコードだ。

 メトロポリタン劇場合唱団は、イタリーのスカラ座の合唱団と東西相呼応する質の良いものだが、このメトロポリタンの合唱が、『椿姫』の「ジプシーの合唱」「闘牛師の合唱四一〇三、『カルメン』の「煙草たばこ女工の合唱」「猟夫かりゅうどの合唱四一七三などを入れたのは、もう十年も前のレコードだが、背景の管弦楽の吹込みの古さを気にしなければ、これは非常に輝かしいものである。
 ほかにこの団体に、『ファウスト』と『フィデリオ』と『ローエングリン』がある。いずれも興味の深いすぐれた出来である。


□コロムビア系

 ミラノ・スカラ座合唱団が入れた『トロヴァトーレ』の「アンヴィル・コーラス」と『ファウスト』の「兵士の合唱J五〇一〇、『マダム・バタフライ』の「ハミング・コーラスJ五〇一五など一枚物で気のきいたコーラスだ。
 モラヨリの指揮した『アイーダ』の「大行進曲J七四一七には、幾分の本場物らしさが残っていよう。
 ビーチャム卿の指揮した『イゴール公』の「韃靼だったん人の舞曲J八六五八五九は、とにもかくにも通俗的な面白さがあろう。
 巴里パリオペラ座合唱団が『ファウスト』の「兵士の合唱J七四八八を入れたのがある。良いものであったが古くなった。


□テレフンケン系

 伯林ベルリンフィルハーモニーの伴奏で、『レハール喜歌劇名曲集』と『ウェーバー名曲集』、伯林独逸ベルリンドイツ歌劇場の合唱と管弦楽でミレッカーの『乞食こじき学生』がある。一枚ずつの手頃のレコードだ。
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歌劇、楽劇、交響劇の全曲





 歌劇類の全曲というと、かつては形を整えたという程度のレコードしかなく、我々は三流五流の旅廻りのオペラを聴かされて満足しなければならなかった時代もかなり長く続いたものである。
 大震災前後に、フランスのパテー・レコードに、『カルメン』『ファウスト』その他フランス歌劇の大物が五、六種、ほとんど全曲近い吹込みをされたことがあった。このうちの『カルメン』などは、オペラ・コミックの主要歌手を網羅したもので、一部のファンにセンセイションを起したが、それもしかし縦震動レコードであったために、さしたる営業的成績を見るに至らず、年と共に忘れられ、捨て去られてしまったことであると思う。

 電気吹込みになっても、しばらくは全曲オペラには手が廻らない有様であったが、そのうちにビクターが『カルメン』『リゴレット』『アイーダ』などの大物を続けさまに売り出し、同時にコロムビアが、『カルメン』『お蝶夫人』『椿姫』『トスカ』と釣瓶つるべ打った。歌劇全曲陣はこうして一応整った上、近年ポリドールが、五、六輯の縮小オペラを連発し、続いてコロムビアとビクターの第一流アーティストを起たしめた新全曲物が発売され、一転してテレフンケンの『世界歌劇名曲集』となったのである。


□ビクター系

 まずビクター系の全曲歌劇レコード中、特に傑出したのを挙げると、


歌劇パリアッチ』(レオン・カヴァロ曲)
ミラノ・スカラ座管弦団及び合唱団、ギオーネ指揮
JD五一〇名曲集五六六
楽劇薔薇の騎士』(R・シュトラウス曲)
レーマン、オルシェヴスカその他の独唱者及び合唱団
ウィーン・フィルハーモニック管弦団、ヘーガー指揮
JD三九一四〇三名曲集五四一

 以上の二つであろう。前者はスカラの精鋭をすぐったもので、合唱団と管弦団の渾然たる本場物の味はまた格別であり、独唱者に当代テナー歌手の第一人者ジーリを得ていることがすばらしい。ジーリの情熱はパリアッチにおいて最もよき燃焼を遂げているとも言えるだろう。ネッダを歌うパセッティもプロローグのバリトンも相当に歌っている。
薔薇ばらの騎士』は、公爵夫人をレーマン夫人が歌い、オックス男爵を本年物故ぶっこした名バス歌手マイアーが歌い、ゾフィーをシューマンが、若き貴公子をメツォ・ソプラノの老巧、かつてはエリッツァと盛名を張り合ったオルシェヴスカが歌っている上、ウィーン・フィルハーモニック管弦団をロバート・ヘーガーが指揮している豪華盤だ。イタリー歌劇の全曲には随分良いのがあるが、ドイツの新しい楽劇にこれだけの条件で入れたレコードはかつてない。但し、R・シュトラウスのものは日本では通俗になり得ないから、一般的でないのは惜しいことだ。演奏のすばらしさは本場でもこれ以上のものは予想されない。

 この『薔薇ばらの騎士』と対応匹敵する全曲物は、
ファウストの劫罰』(ベルリオーズ曲)
コンセール・パドゥルー管弦団、サン・ジェルヴェ合唱団、コッポラ指揮
JH七四八三名曲集六三七

の一篇であろう。主役バリトンは、パンゼラで、恐らく当代第一のメフィストフェレスであろうと思う。その他の役々、合唱団の出来えも申し分なく、或は『薔薇の騎士』以上に評価する人があるかも知れないが、作者の傾向も、歌われる言葉も違う。この二つの全曲は、永く相対照的に論ぜらるべきであろうと思う。

 続いて私は、全曲物ではないが、コッポラが指揮し、パリ・オペラ・コミック座の歌い手と管弦団で入れたドビュッシーの『ペレアスとメリサンド』を挙げたい。これは電気になりたての頃の吹込みで、もはや十一、二年前のものではあるが、ほかにこれほどの『ペレアスとメリサンド』がないので、私は今でも時々出して聴いている。ペレアスはパンゼラが歌い、メリサンドはブロティエーが歌っているが、泉水の指環のシーンや、髪梳かみすきのシーンなどは夢のような美しさだ。ほかにバスの名手マルケルが一面歌っているが、いずれにしても吹込みが非常に古いために、管弦楽の美しさがほとんど殺されているのが欠点だ。
 続いて、ガーシュウィンの『ポーギーとベス』を私は好む。これもたった四枚だがJH四五名曲集六一二、聡明にして野蛮な魅力を持つアメリカ近代オペラの面白さを堪能させる。ティベットが主役のバリトンを歌っているのも、打ってつけな荒々しさがあっていい。指揮はスモーレンス。
 もう一つ、モーツァルトの『ドン・ジュアン』の抜萃に私は興味を持つJE四四名曲集六一五。フランスで入ったもので一応は場違いらしく感ずるが、モーツァルトの歌劇は極めてフランス的であり、相変らずパンゼラの活躍がこのレコードを値打ちづける。バスのペナンとソプラノのデルマも良い。

 ソサイティ・レコードではあるが、モーツァルト歌劇協会の大物全曲二つは、その量においてだけでも、レコード全曲界に大関を張るだろう。

歌劇フィガロの結婚』上下二巻(モーツァルト曲)
グリンドボーン・モーツァルト歌劇記念祭出演者、フリッツ・ブッシュ指揮
JD一二〇九二五
歌劇コシ・ファン・トゥッテ』上下二巻(モーツァルト曲)
演奏指揮同上
JD一二九四一三一三

 ロンドンの郊外に建てられたグリンドボーンの歌劇場は、よきパトロンとよき設備とを持って有名であり、わけてもそのモーツァルトの上演は世界に話題を提供している。この二つの全曲レコードは最近の上演をそのまま録音したもので、日本のプレスはほとんど予想されなかったことであり、我々はビクター会社の勇敢さに驚いたくらいである。
 指揮はドイツの新人であり、名提琴家ヴァイオリニストアドルフ・ブッシュの兄であるところのフリッツ・ブッシュで、歌い手たちも、あちらでは有名な第一線人だということである。ブッシュの指揮は極めて端正なもので、その近代人的な検討と趣味性にされた玲瓏れいろうたる古典は、極めて興味の深いものであるばかりでなく、一九三〇年代のモーツァルトの演奏として、後人に示さるべきものであると思う。演奏は総じて有機的なまとまりと、芸術的な盛り上りの意図に導かれたもので、歌い手銘々の勝手な競演は許されていず、モーツァルトにしては、輝かしさがやや微温的ではあるが、美しさと親しみを横溢させ、研究者に取ってはこの上もないものであると言っていい。
 シャルパンティエ曲、交響劇『詩人の生涯JD七〇二名曲集五九九は、作曲者自身がパードルー管弦団及び合唱団を指揮したもので、フランス近代楽の大先輩が、新様式の音楽劇を試み、本来の音楽に一石を投じた野心作としてすこぶる興味の深いものである。曲は極めて交響楽的で、楽章の代りに幕を用い、楽器の表現力にあきたらずして、独唱合唱を用いたと言うべきもので、曲そのものの興味がこのレコードの特色であろう。

アイーダ』全曲九四八八九五〇六名曲集五四と『リゴレット』全曲九五二五三九名曲集三二は、ミラノ・ラ・スカラ座の合唱団と管弦楽団をサバイーノが指揮したものであり、『カルメン』全曲九五四〇五六名曲集六一はパリー・オペラコミックの演奏を、コッポラの指揮したのであり、どちらも纏まった大物の先駆であったが、なんと言っても録音が古く、全曲物としての生命を半分失っている。一枚物や二枚物と違って、歌劇全体を味わおうとするには、この程度の録音では少し物足りないだろう。
 しかしどちらも、演奏団体も独唱者も本物の第一線人で、出来は決して悪いものではない。研究者にとっては、今でも生命のあるレコードであろう。

 ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』が二冊のアルバムに入っていたが九一六四七〇名曲集二六及び九一七一名曲集二七、今では廃盤になったらしく新しいカタログには見えない。コーツとブレッヒが交互に指揮したもので当時は悪くないものであったが、今では後から新しいのが入るから、廃盤もまたむを得ないのだろう。

 これはほんの部分的なものだが、マスネーの歌劇『ウェルテル』の第四幕が二枚入っている。DB四八一三。オペラ・コミックの演奏で、子供の合唱団を使った面白いものである。

 もう一つ、黒盤ではあるがサバイーノの指揮したマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』全曲C一九七三八一九枚を私は愛する。ラ・スカラ座の合唱団と管弦団の演奏したもので、一人一人のうまさは大したことでなくとも、全体としての纏まりはなかなかに美しい。


 □コロムビア系

 コロムビア系には歌劇の全曲が非常に豊富で、日本プレスも随分たくさんあるが、日本人に親しみの少いオペラの全曲で、イタリーあたりで入った全曲が、まだ幾つあるかちょっと数え切れない。

 日本プレスのうちの優秀レコードは、
楽劇ヴァルキューレ』第一幕全曲(ワーグナー曲)
レーマン、メルヒオール、リスト
維納ウィーンフィルハーモニック管弦楽団、ワルター指揮
JS六一三傑作集二八六
歌劇ルイーズ』全曲(シャルパンティエ曲)
ヴァラン、ティル、ペルネエ
ロオジェル合唱団及び管弦団、ビゴオ指揮
J八六七二傑作集二五九
歌劇セヴィラの理髪師』上下二巻(ロッシーニ作)
スカラ座合唱団、ミラン交響楽団、モラヨリ指揮
J八七三二傑作集二六七J八七四〇傑作集二六八

『ヴァルキューレ』は第一幕だけだが、ワルターの指揮は水も漏らさぬ見事さだ。ソプラノのレーマンは当代ワーグナー歌手としての第一人者で、精緻で優麗な表現は非の打ちようもない。近頃の名盤である。
『ルイーズ』は『詩人の生涯』と同じく、シャルパンティエの野心作で、いわゆるこの作者独特の音楽物語ミュージカル・ロマンスである。現代生活を描いた小品的な構成のうちに、この作者の人間愛と新鮮な感覚とが人を魅了する。美しくもしき音楽劇である。歌手にヴァラン、ティルの両巨匠を得たのも強味で、バスのペルネエも申し分なくうまい人だが、何よりロオジェル合唱団の質の良いのに驚く。
『セヴィラの理髪師』は本当に本場物という完成美が人をきつける。モラヨリの老巧さと、ミランの管弦楽団の良さも勿論だが、この合唱はスカラ座の精を抜いたものらしく、歌い手も粒りに光っている。イタリー歌劇の全曲物で、一人二人のうまい歌手を云々せずに、全体としての良さを採るならば、このレコードを第一位に置かなければならない。本当に安心して聴けるものである。

 ビーチャム卿の指揮したプッチーニの『ラ・ボエーム』の第四幕全曲J八六四五傑作集二五四とボローディンの『イゴール公』の「韃靼人だったんじんの舞曲」があるJ八六五八倫敦ロンドンフィルハーモニック管弦団が主体で、世間並の演奏であるが、後者の方が面白かろう。

 コロムビアには、電気の初期に入った五つの歌劇全曲がある。モラヨリの指揮、スカラ座合唱団とミラン交響楽団に一流の歌手の加わったもので、『アイーダJ七四九八五一五傑作集八一、『ラ・トラヴィアタJ七四六一七五傑作集七六、『マダム・バタフライJ七五七一八四傑作集八九、『ラ・トスカJ七七二五三八傑作集一〇八
 それにコーエン指揮のオペラ・コミック座と巴里パリ交響楽団の『カルメンJ七三六一七五傑作集六〇を加えて五つだ。七、八年或いは十年前の吹込みで、全曲物としての価値は高くないが、オペラ好きの青山のT氏が、『アイーダ』のロンバルディを是非聴いてくれと言っているし、『椿姫』でバリトンのガレッフィとソプラノのカプシールを支持し、『トスカ』ではスカッチャーリの「歌に生き恋に生き」を、『お蝶夫人』ではパンパニーニを激賞し、『カルメン』ではバリトンのゲノーを褒めて、オペラのレコードに冷淡な私に抗議して来た。ここに抄録して好意を謝したい。

 最後に、コロムビアの全曲歌劇で重大なものが二つある。一つはラヴェルの『スペインの時J八〇八五九一傑作集一五九で、一つはストラヴィンスキーの『結婚J八六七二傑作集二五九だ。前者は廃盤になったが、惜しいことだと思う。日本で売れそうもないものだが、フランス音楽の研究者には大事なものであったろう。後者はオペラと言えないが、「お下げ髪」から「結婚の祝宴」まで四場に分れ、ストラヴィンスキー自身指揮した興味の深いレコードである。

 もう一つ、ドビュッシーの『ペレアスとメリサンドJ八一七九八四傑作集一七二がある。メツォ・ソプラノをクロアザが歌っているが、ワキ役で大したことがなく、幾分魅力を欠く。


□ポリドール系

 ポリドールにはすばらしいものが一つある。それは一九三六年バイロイトで入ったワーグナー祭のレコードだ。
一九三六年バイロイトに於けるワーグナー祭の記念レコード
ヴァルキューレ」(SKB〇二〇四七
ローエングリン」(SKB〇二〇四九五三
ジーグフリート」(SCB〇二〇五四
ティーチェン指揮

 以上三曲、いずれも部分的なものではあるが、その管弦楽、合唱、独唱の渾然たる美しさはワーグナー・レコード中の一異彩である。おそらく、バイロイトというワーグナーに因縁の土地、劇場、観客のかもし出す空気のせいでもあるだろう。指揮者ハインツ・ティーチェンは日本では新顔であったが、ドイツでは有名な人で、歌手もバイロイトに出演するということが即ち第一流ということになると言われている。
 ソプラノのミュラー、クローゼ、テナーのローレンツ、フェルカー、バリトンのプロハスカ、バスのマノヴァルダ、という顔ぶれだが、五分のすきもない芸術的な緊張と、一種の荘重な空気を感じさせるのはえらい。

 ポリドールには縮小歌劇というのが専売的で『カルメン四四一三一三五、『ファウスト八〇〇六八七二、『ラ・ボエーム八〇〇九〇(以上巴里パリオペラ・コミック座員と、コンセール・ラムルウ管弦団、ヴォルフ指揮)、『魔弾の射手八〇〇六四、『ローエングリン八〇〇七八八一、『蝙蝠こうもり四五二一五(以上伯林ベルリン国立歌劇場座員及び管弦団、ヴァイガート指揮)、『ホフマン物語三五〇二九三一伯林ベルリン国立歌劇場合唱団、管弦団、メリハル指揮)
 以上七曲という陣営だ。一曲は四枚から五枚ぐらい、それで大歌劇の二時間半ぐらいかかる演奏のエッセンスが入るのだから、この上もなく手頃だ。欠点は管弦団の部分、例えば序曲や前奏曲や間奏曲の大部分がカットされ、歌が主になっていることだが、歌手も相当のところらしく、『カルメン』や『ホフマン物語』などはなかなか良かったと思う。


□テレフンケン系

 テレフンケンはポリドールの縮小歌劇の上を行って、たった一枚で大歌劇を纏めている。「日本テレフンケン名曲愛好会、世界歌劇名曲集」という講談社風の長い名の頒布会のレコードがそれだ。今までに『魔弾の射手二三六七一と『メリー・ウィドウ二三六七二と『椿姫二三六七三とが出ている。それは十二枚で完成する筈であるが、指揮は新人で、要領第一のシュミット・イッセルシュテット、歌手も一流どころらしくなかなかに楽しきものだ。とにかく、たった一枚で大歌劇の気分だけでも味わえるのだから、これが現代人好みというものかも知れぬ。
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管弦楽


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 洋楽レコードの売行きの半分は管弦楽である。これはどこの蓄音器屋でも一致した現象で、どんな名曲名演があっても、ピアノやヴァイオリンや歌のレコードは、売れ高において管弦楽の足下にも寄りつくことではない。しかしこれは決して古い昔からの傾向ではなく、かつて、日本人の洋楽レコード愛好熱は独奏楽器や歌曲に傾いた時代があり、日本のファンは一体いつになったら複雑な管弦楽に興味を持つだろうかは、識者の間にしきりに論議されたものである。それが時世のお蔭と録音方法の発達によって、非常に短日月の間に解決したのは、まことに面白い現象である。
 若い情熱的な学生さんなどには、同じ曲目を百回も二百回も、ほとんど宗教的な気持で繰り返して聴いている人もあるが、そのレコードは、ほとんど例外なしに管弦楽の曲目だと言ってもいいくらいである。
 レコードの技術の方から言っても、管弦楽の吹込みは最も後れたものであった。それは昔の吹込み法によると、吹込室のラッパの小さい口一つで一切の音を捉えなければならなかったからである。その上、雲母式の吹込みボックスを使用した結果、非常に多くの楽器の音がすべて分離されるなどということは、ほとんど不可能だと言って良かった。即ち打楽器や低音楽器の或る音がほとんど録音されなかったり、弦楽器でもヴァイオリンとヴィオラの音が区別されなかったりする状態であった。もう一つの重大なことは、力が再現されなかったことである。昔の録音法では大管弦楽の持つ力――その量感と迫力がどうしても再現されない。音は不自然に綺麗ではあったが、力の点ではまことに情ないものであった。
 従って、昔の吹込み法においては管弦楽のメンバーも手加減を加えられ、楽器の排列についても相当苦心されたようで、ビクターの電気以前のレコード、例えばベートーヴェンの『第五交響曲』などは、恐らく、その楽員の数は三十名を超えることはなかったであろう。そういう無理なことをして、管弦楽の形だけをわずかに入れるに過ぎなかったのである。
 そういう古い時代の吹込み法に対して、革命的な変革を与えたのは、ストコフスキーであった。多くの大指揮者たちはほとんどレコード音楽などを眼中に置かなかったにかかわらず、ストコフスキーの聡明さは、機械音楽の将来性を洞察して、特別の研究をこれに傾け、いかにすれば管弦楽の演奏が良く録音されるかという点に関して、当時の幼稚な吹込み方法の許す範囲内で考究を続けたのであった。これはストコフスキーのレコード界における大きな功績である。今から二、三十年前、ビクターのフィラデルフィア管弦団のレコードが、どんなにセンセーショナルなものであったかは、古いファンは誰でも知っていることだ。一方から言えば(ストコフスキーの項でも述べるが)、それはピアニシモのない、かなりゆがめられた管弦楽であった。しかし、吹込み法の幼稚な当時において、大管弦楽の録音法としては、或る種の成功を遂げたものであることは認めて良かろう。
 然るに一九二五、六年に到って電気吹込み法が完成し、管弦楽の吹込みに一大革命がもたらされた。新しい方法によれば、各楽器の高音から低音まで理論的には見事にキャッチ出来たが、しかし初期の電気吹込みでは、楽器の分離が甚だ粗雑で、ほとんど絃と管との区別がつかず、ただむやみに大きな音を出した時代があった。マイクロフォンの数や位置に関しても全然研究が行われず、弱い音の楽器を前に出して、強い音の楽器をむやみに後へ引っ込めるといった程度の呑気な楽員の配置で、しばしば不自然な姿のまま録音されていたのである。
 その後、研究に研究が重ねられて、今日のような陰影と輝きを持った、柔かな録音法が完成されたのである。が、それにもかかわらず、管弦楽というものはレコードで再生する音楽のうちでは最も苦手であること、依然として昔と変りはない。もっと実演と接近したものにするということは、まだまだ研究の余地が残されている将来の問題なのである。
 管弦楽の団体と指揮者とは、多くの場合独立した存在で、それは当然別々に論ずべき性質のものであるが、私は便宜のため、指揮者と管弦楽団とを結びつけて、現在レコードに入っている姿のまま紹介する方法を採りたい。
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トスカニーニ Arturo Toscanini

付ニューヨーク・フィルハーモニック管弦団
Philharmonic Symphony Orchestra of New York




 今日世界の大指揮者といわれるものは、恐らく十指にも余るだろうが、万人が認めて一流中の一流指揮者とするものは、トスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルター、メンゲルベルクらであろう。それにワインガルトナーを加えるのが、まず今日の常識で、レコードの方面では、アメリカの人気を背負って立つストコフスキーを加えて、世界の六大指揮者とするのが穏当だと私は考えている。

 トスカニーニは一八六七年生れで、今年七十一歳の高齢であるが、儼然として世界の大指揮者中の大指揮者として、その威容を保っているのは偉とすべきである。同時にそれは興味の深い現象でもある。独奏家はどんなに偉い人でも、年をとれば弾力と輝きとを失い、本当の良い味は抜けてしまうのが普通である。しかし、管弦楽の指揮者だけは、高齢に達した人の方が、しばしば若い人よりは良い味を持っているのはどうしたわけであろう? たまたま若くて有名な人もないではないが、一流の大指揮者と言えば、大抵は五十歳または六十歳を越した人が多い。これは独奏家と違った面白い現象である。
 トスカニーニは、最初ミラノのスカラ座の正指揮者として、専らオペラの指揮に従っていた。従ってトスカニーニのレペルトワールには、約百曲のオペラがあると言われているが、しかしこの人の本領は必ずしもイタリー・オペラにのみ局限されず、あらゆる方面に驚くべき天分を発揮し、ことに古典音楽の解釈演奏においては、前人未踏の境地を拓き、今日世界大指揮者の王者の地位を占めているのである。
 二十世紀の初頭から、彼はニューヨークのフィルハーモニック管弦団の指揮者として迎えられ、ミラノとニューヨークを一年交代で往復した時代が長く続いた。トスカニーニがレコードに吹込んだのはその頃からのことで、トスカニーニの初期のレコードは、ビクターの旧赤盤に五、六枚入っている。今となってはもはや問題にはならないが、当時はストコフスキーやメンゲルベルクやムックと共に、トスカニーニは最も美しい管弦楽のレコードを我々に提供していたのであった。
 その後彼は故郷の伊太利イタリーにおいてとかくいろんな問題を惹起じゃっきし、利かぬ気と強情がわざわいして、イタリーに安住することが出来なくなり、アメリカにまたイギリスに赴いたりしていた。近頃は米国第一の放送局なるニューヨークNBCの管弦団に招聘されて、そこの管弦団を指揮することになったと伝えられている。
 トスカニーニの衝突癖は甚だ有名で、昨年はフルトヴェングラーとも睨み合っていた。この人の芸術家としての負けじ魂がそうさせるのであろう。
 有名な話だが、トスカニーニの指揮の特徴は、いかなる曲でも諳譜あんぷでやることだ。諳譜で指揮をするということは、本格的であるかどうかは相当議論のあるところで、現に今から十五、六年前、欧米の楽壇でも問題になったことがあり、トスカニーニはその時諳譜指揮者の代表的人物として議論の爼上そじょうに上ったものである。トスカニーニの諳譜指揮は、彼の主張かも知れぬが、もう一つの重大な理由は、彼が極度の近眼であるからだといわれている。トスカニーニはひどい近眼のため指揮台上の譜が読めないので、その人間離れのした記憶力でスコアをそらんじてしまうのである。全くトスカニーニの記憶力は驚くべきで、初見の楽譜を一度眼を通しただけで、直ちに諳譜で指揮するというような、実に想像も及ばぬ離れ業をやってのけると伝えられている。
 指揮者が譜を見るというのは便宜上のことで、原則的には諳譜で指揮することが当然のように思われる。芝居の役者が黒奴をいつまでもつけるのが恥であるように、指揮者が楽譜を見ずに、弾力的な指揮をするのは、事情は違うが、何がなし一脈の相通ずるものがあるような気がする。昔の指揮というものは、原作者の書いたままを再現するを旨として、指揮者の個性の介入を許さぬものであったが、今日では必ずしもそうではない。指揮は一つの芸術で、原作を出来るだけ有効に再現し、出来るだけ原作者の意図を生かして行かなければならないのである。
 トスカニーニが諳譜で指揮することは、期せずして原作の楽譜を頭に入れて消化し、楽譜に煩わされることなく、これを自由に指揮し得る方法ではなかろうか。トスカニーニの指揮は、必ずしも指揮者の主観をとり入れたゆがめられたものではなく、古典的な立場を堅持するものであるが、そのうちにも極めて個性的な弾力があるのは、諳譜による指揮のせいかも知れないのである。諳譜指揮法が絶対に良いとは必ずしも言えないが、一つの強大な特色であることは否定の出来ない事実だ。
 トスカニーニの指揮は、フルトヴェングラーのような主観の強い誇張のある指揮と対照すべきもので、その本来の姿は、極めて古典的なものであるが、一方においては、ワインガルトナーのような、形の彫琢ちょうたくに重点を置いたものではないことも事実である。
 彼の指揮の異常な特色は、テンポの速いことだ。これはニキシュを代表者とする前時代のロマンティックな指揮の行き方とは全く異なったもので、てきぱきと畳み込んで行く気組、――それは形の崩れを極端に嫌った結果で、日本でしばしば聴かれるローゼンシュトックの行き方が、その型を踏襲したものだと思う。トスカニーニの場合は、それに天才的な表現力が加わって、ただむやみに畳み込んで行くのではなく、そこに厳たる必然性が在るのである。従ってトスカニーニの演奏したものは、五分の隙もない精緻な美しいものであると同時に、驚くべき情熱と気魄とがみなぎっている。
 七十以上の頽然たいぜんたる年輩でありながら、これほど気魄のある演奏が出来るのは、真に驚くべきである。非常に美しいくせに、非常にダイナミックで、ちょうど雪舟せっしゅうが老境に入って書いた画が、驚くほど気魄に漲っていたのと、全く同一である。いかなる芸術家も、年齢に因る衰頽は致し方がなく、技巧的には確かさが加わっても、気魄にすき切れが出来て、息が続かなくなり、むらの多い作品が出来るのが普通であるが、トスカニーニは決してそうではない。彼はいつまでも青年の情熱と気魄で描き続けている。当代の第一人者である貫禄は、実にここに由来するのである。

 さてトスカニーニのレコードでは、ニューヨーク・フィルハーモニーを指揮したのが、今のところ最も良い。その条件にかなった新しいレコードは、ベートーヴェンの『交響曲第七番=イ長調』(作品九二)(ビクター、JD八一九―二三、名曲集六二二)であろう。
『交響曲第七番』は、ベートーヴェンの交響曲の中では最も不思議な情熱を持った曲である。それはいわゆる「バッカスの狂宴」といわれる奔放な表現を要するもので、ワインガルトナーの磨き抜かれた美しさも、必ずしも悪くはなかろうが、しかしこの曲の奔騰する美しさは、トスカニーニの表現を以て第一番とすべきである。『交響曲第六番』にベートーヴェンの示したおちつき払った閑寂さが、一ぺんに叩き破られたような、非常にロマンティックなくせに、気狂いじみた情熱を持ったこの第七番のシンフォニーを描いて、トスカニーニの如くきつくような表現を与えたものは、確かに比類がないと言ってよかった。
 ワインガルトナーの『第七』には玲瓏れいろうとして水の戯れるような美しさが感じられる。が、トスカニーニの『第七』は、燃え上る焔のような激しさだ。いずれも見事なものであり、美しくもあるが、そこには冷と熱との相違がある。

 その次に挙げたいのは『ワーグナー名曲集』(JD八八八―九一、名曲集六三二)である。
 このレコードが現われた時は、おそらくこれがトスカニーニ最後の作品ではないかと想われたが、その後復活して盛んに入れるので、私ども少からず気を好くしたことであった。このレコードに含まれている「ローエングリンの前奏曲」などを他の人に比較すると、トスカニーニの特色がはっきりと判って非常に面白い。しかし面白い点から言えば、やはり「ジークフリートのラインへの旅」であろう。トスカニーニにこのような情緒的な美しさのあるのは、ワーグナーにも情緒的な美しさがあると同様に、興味の深いことである。
 以上のほか、『椿姫』の第一幕と第三幕の前奏曲が一枚に入っている(JD一〇一三)のも、トスカニーニの絶品的なレコードで、ここには彼のお家芸的な美しさ、イタリー・オペラに示したトスカニーニの最高の良さが表わされていると言っていい。
 トスカニーニのモーツァルトについては、有名な探偵小説家ヴァン・ダインが「トスカニーニのモーツァルトは聴きたくない」と、作中の主人公に言わしめているが、それは本気で言っているのか冗談か知らぬが、トスカニーニのモーツァルトの交響曲――例えば『ハフナー交響曲』の如き――は極めて美しいものである。一方から言えば、彼のモーツァルトは美しくはあるが、中世紀のヨーロッパの宮廷的な、享楽的な音楽ではなく、もう少し現代人の感覚に近いものではないか、そんなことが言えなくはなかろうか。
 トスカニーニのレコードは、前に入っていたものではヴェルディ、ロッシーニなどイタリー歌劇もの、近頃のものではベートーヴェンの『第七』が真先に挙げられるべきだろう。ハイドンの『時計クロック交響曲』(七〇七七―八〇、名曲集五七)も、非常に傑出したものであった。最近に入ったベートーヴェンの『交響曲第六番=ヘ長調』(JD一二〇四―八、名曲集六七七)は、実に見事な指揮であるし、トスカニーニの心境に興味と同情の持てるものではあるが、イギリスのオーケストラ(B・B・C交響管弦楽団)を用いたことで、多少質の低下を免れなかった。

 結論として、トスカニーニの組物のレコードを何か欲しいという人にはベートーヴェンの『第七交響曲』を、一枚物という人には『椿姫の前奏曲』をお勧めする。第二番には『ワーグナー名曲集』をお採りになるがよく、その次にロッシーニのもの――『セヴィラの理髪師―序曲』『セミラミーデ―序曲』その他一、二入っているもの、すべて良い。最後に少し古いがハイドンの『クロック交響曲』を採るべきであろう。

 トスカニーニは一九二八、九年頃ニューヨーク交響楽団とニューヨーク・フィルハーモニーとが合併の後、その正指揮者として招聘しょうへいされ、つい最近までこの楽団を指揮した。
 ニューヨーク・フィルハーモニーは、世界一好きのアメリカ人が、世界一のオーケストラとして誇っているもので、その土台となった二つのオーケストラ、即ちニューヨーク・フィルハーモニーとニューヨーク・シンフォニーとはそれぞれに特色があり、かつては名指揮者ダムロッシュやボダンツキーが指導していたが、その後両者合併して現在の組織となったのである。楽員の多いことと、質の優秀なことは、事実上世界の第一流である。それは、大戦後経済的に疲弊した欧州各国の楽人を、ドルの力で引き抜いた関係もあり、古い伝統で化石化した楽員を情実的に網羅しているのではなく、若くて覇気のある新人を集めたからである。もう一つは、多少の欠点は伴うだろうが、一つのグループとしてアメリカナイズされた空気に精練されていることだ。従って技術の優秀なこと、気分において自由なこと、アメリカらしい生き生きした弾力に満ちていることなどが特色で、少くとも質において世界一であることは、何人も疑わぬところである。ベルリン・フィルハーモニーやアムステルダムのコンツェルトゲボウはそれぞれに特色があるが、全団の威力を発揮し得ることではニューヨーク・フィルハーモニーの敵ではない。それを指揮して演奏したトスカニーニは、世界一の業物わざものを持った名人の剣客の如きもので、その武者振りの颯爽さは、以て知るべきであろう。
 最近トスカニーニは、アメリカ最大の放送局N・B・Cのオーケストラを指揮してレコードに入れたが、その第一回の作品、ハイドンの『交響曲第十三番=ト長調[#「ト長調」はママ]』が日本ビクターから発売された(JD一三五八―六〇、名曲集七一〇)。このオーケストラは、ドルの国アメリカ国内をはじめ、欧州各地から各楽器奏者をドルの力で集めた全く独立した優秀楽団で、日本の愛宕山あたごやまのオーケストラのような新響の別働隊とは全く類を異にする。しかもその質はニューヨーク・フィルハーモニーやフィラデルフィア管弦団と相対して米国の三大管弦団といわれている。
 この優秀な楽員を網羅する楽団が、トスカニーニの如き巨人に依って指揮されたハイドンの『交響曲第十三番』が、非常に威力的なものとなったことは、改めて言うまでもない。トスカニーニといえども、まだ手馴れない楽団を指揮しては、やや重厚な味になったのは已むを得ないが、この上ない絢爛たるレコードで、将来に対して大きな期待を持たせている。
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フルトヴェングラー Wilhelm Furtw※(ダイエレシス付きA小文字)ngler

付 伯林フィルハーモニー交響楽団
Berliner Philharmorische[#「Berliner Philharmorische」はママ] Orchester




 管弦楽オーケストラの指揮というものは、かなり古くから開拓されたものだが、しかし昔の指揮は原作者の意図を生かすことを以て最上とし、従って楽譜通りに演奏すれば以て足れりとしたのであるけれども、時代と共に指揮法も次第に変化し、指揮者の意思が次第に多く加わって、指揮もまた創作的な意図を必須条件とする独立せる芸術になったのである。本当の意味で管弦楽を指揮したと言い得る人は、十九世紀ではヴァーグナーとハンス・フォン・ビューロー、及びビューローの後継者ニキシュであろう。
 わけてもニキシュは、指揮は即ち一つの芸術であるという立派な建前で、しかもそれを実際に証拠立てたのであった。ニキシュの指揮は決して原曲通りの演奏ではなくて、極めてロマンティックに、訴える力を強調したものであった。そのニキシュが、伯林ベルリンフィルハーモニーの主席指揮者として二十世紀初頭を飾ったが、ニキシュの歿後、その後を襲ったのは、かつてウィーンの指揮者たりし若冠三十幾歳かのフルトヴェングラーで、それは、一九二二年のことである。
 名にし負う伯林ベルリンフィルハーモニーを、僅か四十歳にも満たぬフルトヴェングラーが指揮するということには、多少の危惧の念を持たれなくはなかったが、しかし結局それは杞憂におわり、間もなく彼が指揮壇上の飛将軍として、ドイツにおいてのみならず世界に雄飛する時が来たのである。
 今から十三、四年前、私どもはフルトヴェングラーの威容について、新帰朝者の口から盛んに語り聞かされたことであった。しかしフルトヴェングラーがレコードに入れ始めたのは、比較的遅かった。我々がレコードを通じて彼に接したのは、ポリドールに入ったベートーヴェンの『第五交響曲』であったように記憶している。
 フルトヴェングラーの指揮振りは、ほぼニキシュの指揮法にのっとったものであるが、もう少し細部まで神経の行きわたった、近代人らしいデリカシーを持ったもので、ニキシュを団十郎としたら、フルトヴェングラーは恐らく吉右衛門というところであろう。ニキシュには何となく雄大な英雄的な感じがあるが、フルトヴェングラーは英雄的であるにしても、更に技巧家であり、神経質である。彼の指揮したレコードを聴いていると、一つの編曲という感がしなくはない。テンポがかなり自由に変えられるし、表情記号もかなり猛烈に置きかえられている。ストコフスキーが全体を華麗に豪壮に大袈裟にするを意図するに対し、同じく原曲を改変するにしても、フルトヴェングラーの方法は、劇的にクライマックスに盛り上げて行くためにあらゆる方法を尽くそうとするのである。ストコフスキーのは絢爛たるゴブラン織だが、フルトヴェングラーのは中心点のある屏風絵びょうぶえである。だから盛り上げ方においてストコフスキーとの違いが起って来るのである。
 フルトヴェングラーの代表的なレコードと思われるベートーヴェンの『第五交響曲』を聴くと、以上のことはよく判る。『第五』のきかせ所を聴かすために、指揮者に許されるあらゆる犠牲を忍んでいる。第三楽章から第四楽章にすべり込むために第三楽章の終りの部分が、甚だしく犠牲にされていることも目立つし、第四楽章の冒頭も甚だしく変化されていることも、見逃せぬ特徴である。これはフルトヴェングラー以外の人も必ずしも行わぬことではないが、彼の如く猛烈なのはない。が、しかし、フルトヴェングラーの実際の演奏を聴いて、彼に反感を持つ人をまだ私は聞かない。
 ベートーヴェンの『第五』を演奏して聴衆を泣かせる人は、世界広しといえどもフルトヴェングラー以外にはなかろう。ワインガルトナーの『第五』も綺麗ではあるが、あれを聴いて涙を流す人はなかろう。フルトヴェングラーの指揮者としての威力はなかなかに侮りがたい。四十歳に満たぬ壮年にして、多くの老大家を凌いで世界の大指揮者の線上に躍り上ったのは、彼の驚くべき天分と心構えのせいである。

 ここでフルトヴェングラーの指揮する伯林ベルリンフィルハーモニーというものについて一言しよう。
 最も古い伝統と格式を持ったオーケストラとして、この楽団はウィーンのフィルハーモニーと並び称された時代もあった。しかしウィーンのフィルハーモニーが昔日の威容を失い、伯林ベルリンのフィルハーモニーが欧羅巴ヨーロッパにおける最高の地位を誇っているのは、ナチス政府の保護のせいもあろうけれども、フルトヴェングラーの統制と吸引力の致すところ、また彼のフィルハーモニーに対する威力に因るところが大きいであろう。しかしフルトヴェングラーがこの楽団の成長と保護のために払った犠牲もまた考えなければならない。ゴールドベルクが猶太ユダヤ人の関係でドイツをわれることになった時、職を賭して政府当路者と争ったのはフルトヴェングラーであり、ヒンデミットが国外に放逐されることになった時、これが引留めに奔走したのもやはりフルトヴェングラーであった。そういう点だけでも、婦人関係や金銭関係で悪名を流す指揮者たちとは全く選を異にして、彼の地位と人気の揺ぎなき所以の一つであることが解るだろう。
 伯林ベルリンフィルハーモニーは、同じ伯林ベルリンの国立歌劇場管弦楽団と同じく国立のオーケストラであることは言うまでもないが、質と気魄において同国のオーケストラを代表するものであることも極めて明らかな事実である。アメリカやフランスのオーケストラに比べて、楽員それぞれが優秀な技倆を持っているというためではなく、その良さは満々たるドイツ魂に依る融合統一であると思う。伯林ベルリンフィルハーモニーには感情の齟齬そごもなければ、気分のむらもなく、ばらばらの気持はかつて見られたことがないのである。どんな大曲でも、どんな小曲に対しても、常にいわゆる「獅子の一撃」で、全精力と全機能を以てぶつかって行くドイツ魂がその演奏から感じられる。小さい序曲も、大きい交響曲も、いわゆる聴きごたえがあるのだ。他の指揮者の場合でもそうだが、この楽団を最もよく統率して、最もよくその力を発揮させるのはフルトヴェングラーである。フルトヴェングラーあることによって伯林ベルリンフィルハーモニーは最大の能力を発揮し、豪宕瑰麗ごうとうかいれいな音楽をきかせる。それは、他のいかなる優秀な楽員を擁する各国のオーケストラといえども及ばぬところである。

 フルトヴェングラーの指揮した管弦楽レコードは、ほとんどことごとく良いと言っていい。しかしそれではあまり頼りなかろうから、その中から極めて優れたものだけを挙げると、それは最近コロムビアに入ったベートーヴェンの『交響曲第五番=ハ短調(作品六七)』(JS一―五S、傑作集二八二)である。
 この『第五交響曲』は、いわゆるフルトヴェングラー風に仕上げられ過ぎた嫌いがなくはないが、恐らく『第五』の持つ美しさをこれほど良く発揮したレコードもなかろう。また、ベートーヴェンが『第五』を書く時に用意したであろう心持を、これほどよく再現した演奏もなかったであろう。いわゆる『運命交響曲』という表題に最もふさわしいもので、――それは純粋音楽風ではないが、極度にロマンティックな味は、ワインガルトナーといえどもなお遙かに及ばないものを持っていながら、表現が少しも弱められてはいず、極めてダイナミックで存分に線が太い。これが即ち良い意味でのフルトヴェングラーの特色である。
 これに続いては、ポリドールのウェーバーの『魔弾の射手―序曲』(六五〇一一―二)を挙げなければならぬ。この序曲はレコードにも随分たくさん入っているが、恐らくこれほど立派な演奏はなかろう。ウェーバーの持つ豪華な美しさは、フルトヴェングラーという描き手によって、名残なく尽されていると言っていい。
 もう一つ、ワーグナーの『トリスタンとイソルデ』の「前奏曲」と「愛の死」(六〇一九六―七)、シュトラウスの『ティル・オイレンシュピーゲル』(六〇一八八―九)、バッハの『ブランデンブルグ協奏曲第三番』(四五一五二―三)、この辺を続いて挙ぐべきであろう。
 フルトヴェングラーのワーグナーというものは、非常に見事なものだが、まれに演奏するのは『トリスタンとイソルデ』だけで、本国でもあまり聴かれないということである。何かの折に全曲物の入ることを期待して已まない。この『トリスタンとイソルデ』の「前奏曲と愛の死」の新盤がコロムビアに入り、世界音楽名盤集の第三輯に入れられることになっている。
『ティル・オイレンシュピーゲル』もいろいろの人が入れているが、フルトヴェングラーに及ぶものはちょっと考えられぬ。極めて雄渾なティルである。
 小さいものでは、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢―序曲』(四五二一三―四)も悪くないものだし、『ローエングリン―第一幕への前奏曲』(六〇一八七)、メンデルスゾーンの『フィンガルの洞窟』(四五〇八八)、ウェーバーの『舞踏への勧誘』(四五一〇〇)などもこれに次いで挙げられるだろう。しかし、何と言っても、フルトヴェングラーの良さはベートーヴェンの交響曲にあるのではないかと思う。かつて私は日本ポリドール会社に対して、独逸ドイツ文化紹介のためベートーヴェンの九つの交響曲全部をフルトヴェングラーに入れさせることをドイツ本国に提議してはどうかと勧めたことがあったが、それは種々の事情で実現しなかった。最近はビクターとコロムビアに入れるようになったから、或は我々の希望が達せられないこともなかろうと考えている。
 フルトヴェングラーは、どちらかと言えば早熟の人だから、案外早く年を取りはしないかと、一抹の危惧を抱かずにはいられない。
 そこで結論として、フルトヴェングラーのレコードを一枚か二枚欲しい人には、ポリドールの『魔弾の射手―序曲』、またはコロムビアの世界音楽名盤集第三輯の『トリスタンとイソルデ』の「前奏曲と愛の死」を、一組という人にはコロムビアの『第五交響曲』を奨める。
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ワルター Bruno Walter





 最近ナチスのオーストリー合併に伴う粛清によって、ドイツを去らねばならなくなった音楽家の中で、最も痛惜されているのはブルノ・ワルターではないかと思う。
 ワルターは年配においても、楽壇的地位においても、トスカニーニとフルトヴェングラーの間にいる人であり、またベルリンとウィーンの両方の大オーケストラを指揮して、フルトヴェングラーと相対峙たいじする形勢に長く置かれた人である。ところが日本のレコード界では、どういうものかワルターの知られること甚だおそく、ワルターがウィーンを去ろうとする頃初めて愛惜されているのは、まことに皮肉なことでもあり、迂遠なことでもある。
 ワルターの良さは、その中庸を得た美しさにある。ワルターはフルトヴェングラーのような劇的誇張を伴わず、また情緒に溺れるようなことをしないが、しかし決して冷たい、形式を整えようとして外面的なことに終始する人ではない。形においては古典的な演奏をする指揮者であるけれども、腹の底にはモダニズムを持っており、スタイルの端正なことでは恐らく当代の第一人者であろう。ワルターくらい綺麗で、形の崩れぬ演奏をする人はない。そのくせグスターフ・マーラーの衣鉢を継いだという一種の豪華な行き方とロマンティシズムの色合が、相当この人の指揮を支配している。
 ワルターの演奏は非常に端正で、むやみな歪曲わいきょくはほとんど発見されない。その点では、フルトヴェングラーやストコフスキーとは、全く異なった立場にいる人である。しかしこの人の持っている端正美の中から出て来る美しい情緒は、決して外からつけた付焼刃のセンチメンタリズムではなく、おのずから滲み出して来る内面的な輝きなのである。わけても、古典の演奏に対しては、トスカニーニ以外にこの人ほどの美しさを示し得る人はなかろうと思う。

 ワルターのレコードは、ウィーン・フィルハーモニーを指揮したものが最も優れている。私はこの稿を書くまでにはまだ聴いていない。けれどもいろいろの情報を綜合して、彼がウィーンを去るに臨んで入れたモーツァルトの『ジュピター交響曲』が、恐らく今までのワルターでは最も優れたものではないかと思う。なぜかと言うに、モーツァルトを最も端麗に演奏出来る人はワルターを以て第一とするからで、モーツァルトを得意とするワルターが、モーツァルトの傑作『ジュピター』をウィーンを去るに臨んで入れたということは、劇的な気持をかもすに十分である。(このレコードは近く日本コロムビアから発売される。番号はJS一九―二二、傑作集三〇〇)
 それに続いては、コロムビアの『世界音楽名盤集』第二輯に入っているモーツァルトの『セレナード』(K・五二五)であろう。これは小さいが非常に見事なもので、ほかにも良いレコードがたくさんあるが、この曲の美しさに溺れ過ぎず、またこの曲の気品を落さぬのは、ワルターを以て第一とすべきだろう。
 これに次いでは、――むしろこれに並んで傑作といわれるのは、ベートーヴェンの『交響曲第六番=ヘ長調(作品六八)』(コロムビアJ八七四八―五二、傑作集二七五)であろう。『第六』のレコードは、御存じの通りワインガルトナー、メンゲルベルク、トスカニーニのがあって、メンゲルベルクにはメンゲルベルクの特色があり、トスカニーニにはトスカニーニの特色があって、良さにおいてはそれぞれにちがいはないが、私の好みを言わして貰えるならば、ワルターを以て第一とする。なぜかと言えば、この曲の演奏に対して感情に過不足のない、実に行きわたった情緒を持っているくせに、いわゆる程の良さがあるからである。これほど自由に演奏しながら、少しの我意もない、忠実なベートーヴェンの再現である。この人の第六は、標題の示すが如く、世にも美しい田園情緒の描写で、最も安心して聴けるものである。
 それに次いで挙げられるのは、シューベルトの『未完成交響曲』である(J八六四二―四、傑作集二五三)。随分おびただしくレコードされている『未完成』であるが、ワルターほど安心して聴けるのは一つもない。或るものは演奏が良くても吹込みが悪く、或るものはトーキー音楽の如く誇張されており、また或るものは劇的に遊戯に堕している中にあって、独りシューベルトの在りし日を偲ばせるような美しさと気品を見せてくれるのは、ワルターの『未完成』である。
 さらにこれに続いてはブラームスの『交響曲第三番=ヘ長調(作品九〇)』(JS一五―八、傑作集二九四)と『同第四番=ホ短調(作品九八)』(J八六一七―二一、傑作集二四九)である。わけても『第四番』は良いレコードが他にないので、この曲の代表的なものと言い得るであろう。ブラームスの苦渋な作品を、安らかな気持で聴かせている。
 モーツァルトの『プラーグ交響曲』(JW八―一〇、傑作集二七四)も、どうかしたらシューベルトの『未完成』以上に良いものであろう。モーツァルトの良さを、正統派的な美しさで表現していると言われる。
 もう一つ、畑は違うがワーグナーの『ヴァルキューレ』第一幕全曲(JS六―一三、傑作集二八六)を入れたものも名盤として逸することが出来ず、それからワーグナーの『ジークフリート牧歌ぼくか(J八五六七―八、傑作集二四〇)も良い。その他、挙げれば際限のないことである。
 もしワルターのレコードから何を選ぶかとすれば、第一に『ジュピター交響曲』と『田園交響曲』を採るのが順序であり、次いで協会物ではあるがモーツァルトの『セレナード』、シューベルトの『未完成』、モーツァルトの『プラーグ交響曲』などが選ばれるべきであろう。

 ウィーン・フィルハーモニーについては、フランツ・シャルクの項で述べる。
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メンゲルベルク Willem Mengelberg

付 アムステルダム・コンツェルトゲボウ交響楽団
Concertgebouw Orchestra




 第一線の指揮者として、トスカニーニ、ワインガルトナーに次ぐ年長者であるメンゲルベルクは、オランダの国宝的な芸術家であり、女性歌手ユリア・クルプと共に、和蘭オランダの有する世界の誇りであろう。
 メンゲルベルクの指揮は、形は古典的なものであるが、特殊な情熱を持っていて、非常に燃焼的な芸術である。かつてのニューヨーク・フィルハーモニー時代の彼の演奏は、非常に端正なものであったが、近頃のは――年齢の関係でもあろうか――やや主観の強い、そして多少の誇張を伴って来たもののように思われる。
 この人のレコードは、最初に入ったのは一九二〇年前後で、赤盤級の指揮者としてストコフスキーとトスカニーニ以外に知らなかった我々にとっては、一つの驚異であった。それほどこの人の指揮は輝きに満ちたものであった。一つは楽壇の長老としての人格の反映でもあろうが、規格整然たる中に、わざとらしからぬ覇気を感じさせたもので、この点においてワインガルトナーやフルトヴェングラーの如き業師わざしたちとは大きな相違である。
 メンゲルベルクの指揮は、非妥協的な強さを感じさせる。太い線が燃焼している感じで、細部に注意が行きわたり過ぎるほど行きわたっているくせに、ダイナミックなものを感じさせるのである。彼の指揮は、ワルターのように整然とした中に、トスカニーニの覇気とフルトヴェングラーの劇的な面白さをあわせ備えたものである。この人の演奏する曲目も非常に広範囲にわたり、古典から近代に及び、その点ではトスカニーニなどより遙かに融通の利く人である。しかしその得意とするところは、ベートーヴェンとブラームスとであろう。わけてもこの人にはチャイコフスキーという良い武器を持っている。チャイコフスキーの持っている絶望的な美しさには、メンゲルベルクは最も適当したものであろう。ストコフスキーは華か過ぎ、その他の人たちはしばしば軽佻けいちょうで甘過ぎる。

 メンゲルベルクのレコードは、いわゆる合併前のニューヨーク・フィルハーモニーを客員として指揮したものがビクターにあり、それから故郷オランダのアムステルダム・コンツェルトゲボウを指揮したものが、最初のはコロムビアに、最近のはテレフンケンに入っている。この楽団は純然たるメンゲルベルクの手兵で、メンゲルベルクはこの管弦団を三十年このかたはぐくみ育てて来たのである。従ってニューヨークの客演指揮者としてのメンゲルベルクには、巧さはあるが何となく他人行儀な感じがある。
 コンツェルトゲボウの指揮者としてのメンゲルベルクは、いわゆる家庭的な親しみを覚えさせ、くつろいだ感じを見せる。これは誠に当然のことである。コンツェルトゲボウ交響楽団は、どんな小さな隅にもメンゲルベルクの注意と愛情が行き届いている。今は世界のオーケストラでは、米国の二、三とドイツの一、二が優秀と言われているが、それは伝統と楽員の優秀さによるもので、コンツェルトゲボウに至ってはメンゲルベルクを指揮者とする限り、世界第一と称して差支えのないものであろう。これくらい気が揃い、これくらい親しみ深いオーケストラは、恐らく世界のどこにもなかったであろう。特に弦楽器の奏者に優れた楽人を擁しているが、全体の水平線もベルリン・フィルハーモニーに匹敵すると近頃言われている。纏まっている点では、恐らく世界第一と言っても差支えなかろう。

 メンゲルベルクのレコードの傑作は、やはりアムステルダムのコンツェルトゲボウを指揮したものにあるが、その中で新しい録音によるテレフンケンを採るのが順当である。
 第一に挙げられるのは、最近に入ったチャイコフスキーの『悲愴ひそう交響曲』(二三六八一―五、アルバム二一)だ。これはもう絶対的なレコードである。このレコードの演奏は、チャイコフスキーのノートを書き込んだ楽譜を、作曲者の遺族がメンゲルベルクに提供したと伝えられ、いろいろな因縁が付き纏っている。電気以前のビクターにはメンゲルベルクの指揮で、この曲の一部分が入っており、非常に見事な演奏であったことを、古いファンは記憶している筈である。
 新しい録音は、さらにその良さを倍加している。チャイコフスキーの悲哀の突きつめた救いのない芸術は、メンゲルベルクの棒によって、いかなる人が考えたよりも深刻に再現されている。クーセヴィツキーにしても、ゴーベルにしても、この悲哀が付けたりのお芝居に過ぎないように感ぜられ、あまりに技巧とわざとらしさがひけらかされているが、メンゲルベルクに到っては、この曲に滲透しているチャイコフスキーの絶望感を体得しつくした演奏である。東洋的な厭世感と、スラヴの泥臭さが、こうまで面白い芸術的完成を見ようとは、メンゲルベルクの棒によって初めて知ることが出来よう。細部にまで行き届いた、手に入った表現であって、全く非の打ちようがない。
 この曲に較べると、ベートーヴェンの五番と六番の交響曲は、やや遜色を持つだろう。ことに第六は我々の既成観念をくつがえすようなテンポの変更があり、メンゲルベルクの主観が強く出過ぎて、面白くはあるが、うなずき難いものがないとは言えぬ。少くともワルターの安らかさがない。それに較べれば『第五』の方が興味があるかも知れぬ。しかし凡庸指揮者の『第五』に比べて、遙かに良いことは申すまでもない。続いてヴィヴァルディの『弦楽協奏曲=イ短調』(二三六六〇―一)の方に面白さを見出すだろう。
 コロムビアにあるコンツェルトゲボウを指揮したレコードは、総体に古さが気になるだろうが、この中には非常に優れたものが二、三ある。例えばブラームスの『交響曲第三番=ヘ長調(作品九〇)』(J八一五四―七、傑作集一六八)とか、ワーグナーの『タンホイザー序曲』(J八〇九二―三)などは、後から幾つものレコードが出たが、しかしその盛り上って行く情熱において、メンゲルベルクに及ぶものは一つもない。ブラームスの『第三』も、形の美しさはクラウス、手際の良さはワルターにあるが、この曲に何かしら精神的内容を感じさせるのはメンゲルベルクで、いろいろな伝説的解説を持つこの曲に、メンゲルベルクは最も面白い表現を与えている。
 リストの『前奏曲レ・プレリュード(J七六一一―二)も他に数多くのレコードがあるが、メンゲルベルクを凌ぐものはない。ベートーヴェンの『エグモント序曲』(J八〇二七)、『レオノーレ序曲第一』(J七九六五)、『同第三』(J七八五七―八)の三序曲も、メンゲルベルク以上のを私はあまり知らない。
 バッハの『組曲第二番=ロ短調』(J七八九一―三、傑作集一三〇)は、新しいレコードとしてビクターにブッシュ指揮のがあるが、メンゲルベルクにはメンゲルベルクの良さがあり、古いが棄て難いレコードである。クリスチャン・バッハの『シンフォニア』(J七二六〇)も美しい。

 ニューヨーク・フィルハーモニーを指揮したメンゲルベルクのレコードでは、ベートーヴェンの『交響曲第三番=変ホ長調』(ビクター七四三九―四五、名曲集一一五)が出色の出来である。これは決して新しいレコードではないが、楽団の優秀さとメンゲルベルクの気魄とで、非常に見事な効果を挙げている。ヘンデルの『アルキーナ組曲』(一四三五―六)も、メンゲルベルクの傑作の一つに数えられる。原曲の美しさもあるが、非常に楽しい古典である。

 そこでメンゲルベルクを一曲求められる方には、テレフンケンの『悲愴交響曲』が良く、小さいものを望まれるならば、ヴィヴァルディの『弦楽協奏曲』かC・バッハの『シンフォニエッタ』のような楽しいものか、然らずんば『アルキーナ組曲』の如きやや古くても美しいもの、またメンゲルベルクの良さを本当に知ろうとする人には、『タンホイザー序曲』やベートーヴェンの『第三交響曲』の如きを奨める。
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ワインガルトナー Felix Weingartner





 ワインガルトナーは先年日本を訪ねて、その指揮振りは我々にも極めて親しい。彼は七十五歳の高齢にもかかわらず、なお矍鑠かくしゃくとして世界の楽壇に雄飛していることは、真に驚くべきで、今日専ら自由な立場にあって、いろいろな楽団に棒を振っているのも一つの魅力である。
 この人の指揮振りは、一言にして尽せば、彫琢ちょうたくの極で、或る意味ではかどのとれたものである。それは良く言えば極度に磨きのかかったもので、いわゆる形の美しさという点では、この人以上の指揮者は当代見出されないであろう。もう少し面白げに、もう少し情緒的に指揮する人はあろうが、品格を保ち続けて本当に玲瓏たる演奏をするのは、この人である。
 ワインガルトナーの演奏は、少しの無理もなく、その表現はいつも常軌を逸してはいない。そしてノーブルで、中庸を保っている。ワインガルトナーの演奏からは、氾濫する感情を見ることは出来ない。と同時に、野蛮な見得を切るようなこともない。その代り彼の演奏には野性的な激情はほとんどないと言ってよく、ベートーヴェンの最も激情的なシンフォニーを指揮した場合も、彼の表現は整然として、外面的な美しさがそのまま保存されている。『第一交響曲』『第二交響曲』『第五交響曲』の如きは、その最も良い例である。古典の演奏を今日の事情に移す点に、ワインガルトナーは最も優れた才能を持っている。この人は作曲家でもあり、また学者でもある。従って楽器の移り変りや、音楽上のいろいろな進歩における考慮をめぐらして、古典を我々の生活にマッチさせる方法を発見することでは、ワインガルトナーは当代の第一人者と言っていい。
 この人の作品は、断片的なものはレコードにもあった筈だが、作曲者としてはそれほどの人とは言えないようだ。しかし指揮者として、文献の上の功労は逸することが出来ない。ベートーヴェンの交響曲の指揮法に関する彼の著述は、世界の指揮者の金科玉条となった時代もあった。「ワインガルトナーがこう言った」ということは、或る時代かなりな権威を以て響いたものである。今ではもはやそれほどではないが、ベートーヴェンの交響曲の指揮法の参考書としては、これほど立派なものはかつてなかったことは事実である。
 ワインガルトナーの洗練された、角の取れた演奏は、美しさの極致ではあるが、どうかすると、それを以て食い足らないという人があるかも知れない。それがワインガルトナーをして、極めて特色的ならしめる一つの原因でもあるのだ。例えば『英雄交響曲エロイカ・シンフォニー』をとって話して見ても、この曲をあれほど綺麗に手際良く演奏した人はかつてない。実に隅から隅まで行きわたった注意と磨きだ。しかしその代り『第三』の持つベートーヴェンの覇気は、あまり多くを求めることは出来ない。

 ワインガルトナーのレコードは、電気以前から全部コロムビアに入っているが、電気以前のこの人の『第七』『第八』などは、恐らく全曲レコードの最も芸術的なものの先駆をなしたものである。
 近頃のワインガルトナーのレコードの中で、最も優れたものはベートーヴェンの『交響曲第八番=ヘ長調』(J八六六九―七一、傑作集二五八)である。『第八』はベートーヴェンの交響曲では勿論重要なものではないが、『第七』と偉大なる『第九』を繋ぐ『第八』の指揮者として、ワインガルトナーは実に打ってつけである。これほど美しい『第八』は、かつて我々が想像だにしなかったものだ。それに続いては同じくベートーヴェンの『第九交響曲』を採るべきであろう。
『第五交響曲』(J八一二〇―二三、傑作集一六四)は、フルトヴェングラーと比較すれば魅力がないかも知れないが、しかしスタイルの良さと、いわゆる玲瓏とした美しさを望み、熱っぽい[#「熱っぽい」は底本では「熱っぼい」]苦悩に歪められた『第五』を予期しない人には良いものであろう。日本で演奏した『第五』を聴いた方も知る通り、ワインガルトナーの『第五』は、整然たる美しさを持つもので、隅々まで行き届いた注意と、技巧的な限りを尽した、いわば同情と研究の極度において指揮されたものなのである。表現は幾分フルトヴェングラーやメンゲルベルクより弱いが、しかしメンゲルベルクにもフルトヴェングラーにもない、形の上の美しさがある。
『第九交響曲』(J八三七一―八、傑作集二〇三)についても同じことが言える。但しテレフンケンに入ったヨッフムの『第九』をまだ聴いていないので確かなことは言えぬが、少くともワインガルトナー以前のレコードで、これと匹敵するものはない。ストコフスキーもフリードも入れているが、これは本当に十八番物という感じで、抜き差しの出来ない演奏、いわゆる磨き抜かれた『第九』、外面的に整えられつくした『第九』であることも事実である。これはワインガルトナーにして初めて許されるべきで、これだけの大曲を活かすには、飛び上った新しいものは、当然封ぜられねばならないのである。この『第九』は、独唱者にリヒアルト・マイヤーを得ていることも一つの良さであって、よしんばヨッフムの新しい『第九』が入ったとしても、この『第九』レコードは生命の長いものであろう。磨き抜かれた、いわゆるティピカルな『第九』として、永く残され語り伝えらるべきものである。
 一枚物のワインガルトナーを求める人には、私はヨハン・シュトラウスの『ブルー・ダニューブ・ワルツ』(J七三四三、『懐しの名曲集』第一輯に収められている。番号はS一〇三五)と、彼自身編曲したウェーバーの『舞踏への勧誘』(J七四三四)をお奨めしたい。『ブルー・ダニューブ』は、後にクライバーの指揮したものも出たが、ワインガルトナーの正統派的な美しさは、また格別である。『舞踏への勧誘』は、ベルリオーズの無造作な編曲とは違って、ワインガルトナーの個性がはっきりと窺えるものである。
 非常に変ったものだが、ハイドンの『玩具交響曲トイ・シンフォニー(J七九二八)が、この曲のレコード中では非常に優れている。

 結論として、ワインガルトナーのレコードを求める人のために間違いないのは、ベートーヴェンの『第八交響曲』であろう。それから『第九交響曲』は世界的な一つの国宝としての価値があるだろう。それに続いて『第五交響曲』と『第三交響曲』も挙げておかねばならぬ。
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ストコフスキー Leopold Stokowski

付 フィラデルフィア管弦団 Philadelphia Orchestra




 ストコフスキーは、かつて三十歳の若冠を以て、フィラデルフィア管弦団の正指揮者の栄位を占めた。それはフルトヴェングラーが三十幾歳でベルリン・フィルハーモニーを率いたのと、東西好一対いっついの話柄である。爾来二十六年間、ストコフスキーはフィラデルフィア管弦団を世界一流の地位にまで押し上げ、それを自家薬籠中のものにしてしまったのである。最近オルマンディが時々交代して指揮しているが、ストコフスキーに較べると格段の差違があることは、たまたま以てストコフスキーの優れた才能を証拠立てるものであろう。
 ストコフスキーのアメリカにおける人気の盛んなことは、たまたま以て『オーケストラの少女』が示す通りで、この人の指揮棒は、ほとんど昔噺むかしばなしのフェアリーの魔法の棒のように思われている。ストコフスキーのことをアメリカ人は「天才」と言っているということである。これは近衛秀麿子このえひでまろしの語るところであるが、いかにも米国人らしい好みだと思う。
 ストコフスキーの指揮振りは、一言にして尽せば、いわゆるアメリカナイズされた指揮であって、古典的な指揮とも、ドイツ風の指揮法とも異なる全く独立した指揮法だ。その上、アメリカの聴衆の好みと、レコードの場合は、録音法の進歩が、ストコフスキーの指揮に影響したことは尠くない。この人には全く特別の華かさがあり、楽員を統率する技術と、音を作り出す術にかけては、確かに当代の第一人者である。ストコフスキーの演奏したものは、それがベートーヴェンであろうとブラームスであろうと、すべて絢爛けんらんを極めているが、どうしてそうなるのかと言うと、旧著の中に私も書いたことであり、また野村光一こういち氏もしきりに論じていることであるが、第一にストコフスキーは、原曲を自分の註文通りに改める才能と趣味を持っているからである。この人の指揮では、ピアノ[#ピアノ、U+1D18F、189-8]フォルテ[#フォルテ、U+1D191、189-8]になることは決して珍しくない。ソロがユニゾンになることもしばしば聴かれる。表情記号の置換えや、テンポの変更は、実にお茶の子さいさいである。
 何はさて措いても、演奏効果が第一眼目で、豪華華麗の演奏のためには、ストコフスキーはあらゆるものを犠牲にして顧みぬのである。しかしそれは決して悪いことだとは言い得ない。なぜかと言うと、時代の違いと楽器や環境、気持の相違を無視して、ハイドンやベートーヴェンを昔のままに演奏することは決して褒めた話ではない。ただ古典の演奏にどれだけ正直であるか、またどれだけの改竄かいざん変更が行われているかが問題になるのである。原曲に忠実でないのは、ワインガルトナーもフルトヴェングラーもメンゲルベルクも、要するに程度の問題であって、原則的には少しも関わらぬわけだ。ただストコフスキーの改竄の方法は、原作者の気持の最も良き表現ではなく、今日の聴衆にとって最も良き表現であるというだけの差違がある。ワインガルトナーは、ベートーヴェンが現代に生きていたならばかくもしたろうかという気持をまず考えるが、ストコフスキーは、恐らく、どうしたらアメリカの聴衆が最も感銘深く聴くかと考えているようだ。
 ストコフスキーはオルガン弾きから出発した人だ。それがこの人の特色とも欠点ともなっている。特色の一つは、オルガン曲からの編曲が得意で、バッハのオルガン曲を管弦楽曲にして面白く聴かせるのはストコフスキーの手腕だが、同時に彼の編曲したものはリズムの面白さが半分失われていることも事実である。
 ストコフスキーにはフォルテシモと、ピアニシモはある。が、しかし、フォルテとピアノはないという非難もある。低きは九地の底、高きは九天の上という、非常に激動的な表現を好むのだ。それからもう一つのこの人の特色は編曲の才能で、バッハの編曲は特色的であるが、と同時にワーグナーの幾つかも編曲し、ムソルグスキーも編曲して聴かした大胆不敵さがある。それは実に達者なもので驚くのほかはないが、何がなし冒涜的な感じもないではないけれども、それは我々の感じだけで、バッハ以前の非常に古めかしい楽曲が、現代の我々の鑑賞に適当するように編曲することが許されるとしたら、ワーグナーもムソルグスキーも許されていいのだろう。これは後世の批判をって論ぜらるべきで、単に好き嫌いを以て云々すべきではないが、私自身は、バッハ以後の編曲を好まない。
 フィラデルフィア管弦団はストコフスキー以前も優秀であったが、ストコフスキーがさらに自分に合うように洗練し馴致させた手際はまことに驚くべきで、「どんな無理でも聞かせる」と野村光一氏も言っているが、非常に面白い言葉である。パデレフスキーがピアノに対して無理を聴かせると同じように、ストコフスキーはフィラデルフィアの管弦団に無理を言わしているのだ。ピアノがパデレフスキーの意思の通りに動くように、フィラデルフィアはストコフスキーの意志のままになっている。
 この管弦団は、大戦後そのメンバーの質を著しく良くしたといわれているが、ニューヨーク・フィルハーモニーやNBCと同じ事情に因るものであろう。しかし、これほどストコフスキーに対して従順なフィラデルフィアも、オルマンディに対してはそれほどでないのも面白いことである。
 従ってストコフスキーのレコードは、豪華艶麗なものほど総て良いのであって、ベートーヴェンやブラームスの苦渋な音楽よりは、チャイコフスキーやリムスキー・コルサコフの甘美な外面的なものに、本当の良さが見出される。ごく最近のものは再プレスか、または小曲であって、纏まったものは多くは二、三年前に発売された。
 第一番に挙ぐべきは、チャイコフスキーの『胡桃くるみ割り組曲』(JD六〇一―三、名曲集五八〇)と、ドヴォルザークの『新世界交響曲』(JD六六五―九、名曲集五九三)で、前者の明るい甘さ、後者のアメリカ風の豪華さは、ストコフスキーのこの上もない派手な調子で、非常に綺麗に演奏されている。こういうものならば、ストコフスキーの主観が強く出されても、変更が猛烈でも、一向苦にならぬのである。
 これに続いてはチャイコフスキーの『第五交響曲=ホ短調』(JI七四―九、名曲集五六八)と、リムスキー・コルサコフの『シェヘラツァーデ』(JD七七一―六、名曲集六一六)の二曲であろう。チャイコフスキーの『第五』は、映画の『オーケストラの少女』の冒頭に出て来る音楽で、ストコフスキーの指揮者としての魔術的な魅力ある態度や、非常に感受性の鋭敏なことや、その創造性やが、レコードの上にまで想い起されて興味が深い。
 バッハの編曲では、最近の『パッサカーリア=ハ短調』(JD一三四六―八、名曲集七〇六)が面白い。バッハに対する理解と同情、並びに彼の編曲の天才が窺われるレコードとしてまず挙げらるべきものであろう。

 ストコフスキーのレコードは実におびただしい。ワーグナー、ムソルグスキーの編曲は、前にも述べた通り、実に見事なもので、ストコフスキーの才能を窺うべきものだが、めいめいの好みで決すべきであろう。近代楽に対するこの人の解釈は、多少古さがあって、ストラヴィンスキーやドビュッシーの解釈は、見事だが何かしら一脈のもの足らなさがある。ブラームスは派手になり過ぎて、ブラームスの精緻な美しさには欠けている。ベートーヴェンはアメリカのベートーヴェンという嫌いがあり、むしろストコフスキーの小曲から言って、吹込みは非常に古いが『カルメン組曲』(JE一五七及びJD一三一四―五、名曲集六九五)とか、スーザの『星条旗行進曲』(一四四一)のようなものに面白さがあり、もう一つオーケストラに編曲した『フーグ=ト短調』(JE二四)やボッケリーニの『メヌエット』(七二五六)のようなものに、他の人の持たぬ何とも言えない良さがある。ウェーバーの『舞踏への誘い』(JD一三二五)にも同じことが言える。スクリアビンの『法悦の詩曲』と『プロメテウス』(七五一五―八、名曲集一五二)は、他にレコードがないので重要性を持つだろう。
 結局、ストコフスキーのレコードを、たった一曲欲しい人には『新世界交響曲』を躊躇ちゅうちょなく奨める。たった一枚欲しい人には『フーグ=ト短調』かボッケリーニの『メヌエット』を奨める。但しこれは非常に甘美なもので、高級な士君子しくんしのものではない。
 もう一つ、サンサーンスの『動物の謝肉祭』(JD五六二―四、名曲集五七四)も、ストコフスキー風のもので非常に面白い。
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オルマンディ Eugene Ormandy

付 ミネアポリス管弦団 Minneapolis Orchestra




 オルマンディはミネアポリスからフィラデルフィアへ、ストコフスキーに代って入ったくらいだから、相当期待された指揮者である。勿論才能もある人のようだが、まだ一般のファンには馴染が薄く、同時にフィラデルフィアのオーケストラにも馴染まぬようである。フィラデルフィアを指揮してからのレコードは、僅かに三曲しかまだ入っていない。しかしその三曲とも大したことはない。却ってミネアポリス時代のものに面白いものがあるだろう。
 ミネアポリス管弦団は、地方的な楽団ではあるが、アメリカ一流のもので、オルマンディ指揮の下にこのオーケストラの入れた一番の大物は、マーラーの『交響曲第二番=ハ短調(復活)』(ビクターJD九五五―六五、名曲集六四六)である。
 この曲はかつて電気以前のポリドールにフリードが入れて騒がれたことがあるが、オルマンディのは悪くはないけれども、何か持ち切れないという感じがある。フリードにこんな大曲の成功を要求する方が間違っているかも知れぬが、もう少し引き締まって欲しかったと思う。しかしこのレコードは研究者にとっては甚だ貴重なものである。
 オネガーの『ピアノと管弦楽のための協奏曲』(JD六八九、ピアノはノルトン)は、ピアノの面白さもあるが割に良いものだ。しかし結局はまだ大したものはない。
 要するにこの人は才能のある、技巧のすぐれた人のようだが、まだ大家としての風格と個性が足りない。将来に期待すべきであろう。
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シャルク Franz Schalk

付 ウィーン・フィルハーモニー管弦団 Vienna Philharmonic Orchestra




 ウィーン・フィルハーモニーというものは、かつては世界一の質を持っている管弦団だと言われていたが、大戦後それがかなり低下したと伝えられている。現在でも世界第一流であることには変りはないが、ベルリン・フィルハーモニーやコンツェルトゲボウ、或はニューヨーク・フィルハーモニーなどに比較して、決してそれらの上に在るものとは言いがたかろう。
 この楽団の特色は、楽員に非常な長老を網羅していることで、頭の禿げた人や白髪しらがの人が多いことは、写真を見ても判る通りだ。従って生涯を楽団のために捧げつくそうという、利かぬ気のドイツ魂を思わせる人の多いのが特色とされている。或る批評家はこの楽団の演奏を評して弦楽四重奏のようだと言う。それは統率者の威力が弱いことと、指揮者が仮になくとも済むということ、そして楽員めいめいが互角の一流的な芸術家であることから、室内楽団のようだと洒落しゃれて言われる所以なのであろう。
 ウィーン・フィルハーモニーが初めてレコードに入れた時、ある会合の席上で逢った近衛秀麿さんに話すと、大変な喜びようで、「あすこは絃がすばらしいですよ。下手な指揮者だと、絃に引き摺り廻されて手がつけられない」と言ったことを私は記憶しているが、全くこの管弦団は、下手な指揮者には苦手らしいのである。ロシアでは七、八年前、指揮者のないオーケストラが出来て一時問題になったが、こういう風な楽団こそそういう形式が適しているのではないかと思われるほどである。
 ウィーン・フィルハーモニーの絃が特に優れていることは、今の近衛さんの言葉にもあった通りだが、そのコンサート・マスターは、有名な老提琴家のロゼーだ。かつてのウィーンの音がどんなに美しかったか、各楽員がどんなに優れた腕を持っていたかは、十分想像することが出来る。
 世界一のオーケストラという迷信を我々に抱かせていたウィーン・フィルハーモニーが、今から十年ばかり前、シャルクの指揮で最初にレコードに入れたのは、ベートーヴェンの『第五交響曲』であった。
 ウィーンが『第五』と『第六』と引き続いてレコードに入れたということを知った時、私はビクター会社の当事者に電話して、すぐに日本でプレスして売り出すように慫慂しょうようしたが、何かの都合でこれはなかなか実現されず、そのまま何年か過ぎてしまった。その間に、日本ビクターに対してファンから寄せられたHMVの『第五』の註文が一千組に及んだと伝えられる。この形勢に吃驚びっくりしたビクターは、とうとう母型を取り寄せてまず『第五』を出し、続いて『第六』を出し、『第八』を出し、『レオノレ序曲第三番』を最後として、シャルク指揮のベートーヴェンのレコードは全部日本ビクターから出されたのである。
 やがてシャルクは死んでしまった(一九三二年)。オデオンに入ったシューベルトの『未完成交響曲』は、その後日本パルロフォンから発売され、やがてまた日本コロムビアからも再発売された。
 シャルクのレコードは、以上五曲で、番号を掲げると左の如くである。

交響曲第五番ハ短調』(ベートーヴェン・作品六七)
(ビクターC二〇二二―五)
交響曲第六番ヘ長調』(ベートーヴェン・作品六八)
(ビクターD一四七三―七、名曲集六六)
交響曲第八番ヘ長調』(ベートーヴェン・作品九三)
(ビクターD一四八一―三)
レオノレ序曲第三番』(ベートーヴェン)
(ビクターEJ三三二―三)
(以上ウィーン・フィルハーモニー管弦団演奏)
交響曲第八番ロ短調(未完成)』[#「『交響曲第八番=ロ短調(未完成)』」は底本では「『交響曲第八番=ロ短調』(未完成)』」](シューベルト)
伯林ベルリン大交響楽団演奏)
(コロムビアJ八二一三―五、傑作集一七八)


 シャルクのベートーヴェンの指揮は極めて特色的なものであった。今までの指揮者がとかく表題に捉われたり、持って廻った劇的な指揮をしたがる『第五』に対しても、シャルクは迷信打破的で、決して劇的に持って廻るようなことをせず、ほとんど目にも留らぬ素早さで、淡彩剛健にさっと演奏してゆく、いかにもあっさりした無造作なものであった。それにもかかわらず、隅々まで行き届かざるなき彫琢ちょうたくの美しさは大したもので、現にこの楽団を率いてロンドンを訪れた時は、そのベートーヴェンの指揮振りの鮮かさには、理屈の多いロンドン子の胆を奪ったということだ。今まで脂の濃いベートーヴェンの指揮を聴かされていた人々が、かくの如く素朴で、簡素で美しいベートーヴェンを聴かされて感嘆したのは無理もない話である。シャルクのベートーヴェンに対して、最上のお点をつけない人はあろうけれども、少くとも反感を持つ人は恐らくなかろう。
 わけてもシャルクがレコードに入れた時代のウィーン・フィルハーモニーは、今日よりもさらに質の良かった頃で、以上のレコードは総て後世に遺さるべきものであろう。出来から言うと『第五』『第六』『第八』の三つの交響曲はほとんど、相匹敵している。そして玄人くろうと筋は『第六』を支持する人が多い。シャルクの『第六』の持つ淡泊な情緒は、とかくこの曲をこね廻す指揮者たちに対し一脈の清涼剤で、非常にさわやかなものである。しかしシャルクの真面目を知るには、やはり『第五』を採らなければならぬ。『第五』における颯爽たるシャルクの指揮振りは、後世に一つの型を遺すものと言ってもいい。『未完成交響曲』もこの曲を最も淡彩に、それから爽快に演奏した一つの例として、クライバー、ワルターの『未完成』と共に、重要なレコードとして記憶さるべきであろう。
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クライバー Erlich Kleiber[#「Erlich Kleiber」はママ]





 今から十七、八年前、ドイツのフォックスにクライバーが『ブルー・ダニューブ・ワルツ』を二枚四面にのんびりと吹込んだことがあり、それを震災直後のバラックの十字屋で聴いて、非常に驚嘆したことがある。来たのは三組だけだったが、一組は近衛が買い、残る一組は、さる高貴の方がお買上げになったと聞いている。
 その後数年、近衛子が日本パルロフォンに『ブルー・ダニューブ・ワルツ』を吹込むことになり、私もその吹込みを聴きに行ったが、吹込みが済んだ時近衛子は、「どうです、クライバーに似てるでしょう?」と私に言われたことがある。なるほどその『ブルー・ダニューブ』は極めてクライバー張りのものであった。その後渡欧した近衛子は、シュトラウスの指揮に関してクライバーの忠告を受けに行ったという噂を私は聴いている。
 クライバーは欧州で一流の指揮者であることは論を俟たないが、非常に特色のある人で、通俗音楽の中から気高い良さをき出すことと、難しいものを一般人の趣味に引き下げて聴かせてくれるという二つの違った方面に対して、不思議な才能を恵まれている。この人の指揮するベートーヴェンの交響曲は、非常に情緒的な甘美なものだが、そのヨハン・シュトラウスのワルツは、この上もなく芸術的な香気の高いものだ。この人が割合に出世しなかったのは、背の低いためだというゴシップが伝えられているが、背の低いことはレコードとしては一向苦にならない。
 今も述べた通り、彼は通俗な曲を芸術的に聴かせるところに独特の良さがある。従ってクライバーのレコードの中で最も優れているのはヨハン・シュトラウスのワルツで、これは絶対間違いないところだ。それに次いではスッペ、シュトラウスその他の通俗な序曲だろう。従ってこの人からワーグナーやリストの良さを求めるのは無理だ。
 クライバーのレコードは、最初ポリドールに入り、中頃ビクターに出た。最近はテレフンケンに専ら入っているが、ポリドールのは余りに古く、ビクターもあまり良くないから、やはり最近のテレフンケンにクライバーを求めるのが順当だろう。最も良いのはヨハン・シュトラウスのワルツ集で、その中の傑作は『あおきドナウの流れ』(一三一〇四)であろう。『酒・女・唄』(一三一〇二)も良く、それに次いで『アッチェレラチオーネン』(一三一〇五)、『皇帝』(一三一〇一)、『千一夜物語』(一三一〇三)という順序だろう。他に『蝙蝠こうもり(二三六〇五)、『ジプシー男爵』(二三六二三)と序曲が二つあり、それからスッペの『軽騎兵―序曲』(一三六二七)といったものがクライバーの特色的のレコードであろう。
 シューベルトの『未完成交響曲』(一三六一二―四)は、クライバーにしては非常に正直な、芸術的な野心に燃えた演奏ではあるが、最上の『未完成』とは言い難い。モーツァルトの『弦楽夜曲セレナード』も、悪くないという程度だろう。
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ブレッヒ Leo Blech





 レオ・ブレッヒは、かつて伯林ベルリン国立歌劇場管弦団の正指揮者で、クライバーとは反対に、非常に背の高い、猫背を二つ折りにして指揮をするという人である。国立歌劇場の正指揮者をしただけに、甚だそつのない人で、何をやらしても当代第一流的な技巧の持主である。その達者さも、イギリス人の常識的な達者さと違い、ドイツ風の鈍重な達者さで、一つ一つがぴかぴかする。但しこの人の指揮した交響曲だけは条件付きで、悉くが良いとは言われない。というのは、交響曲の中からも、彼は何かしら劇的なものを盛り上げなければ承知しないからで、シューベルトがあまり良くないのはそのためである。
 ブレッヒの良さは序曲に見出される。クライバーがワルツに対すると同様、ドイツ、フランスの歌劇の序曲を演奏して、ブレッヒほど美しく、ブレッヒほど纏まりの良い指揮者は他にない筈である。電気以前にもかなり多く入っていたが、それらの悉くが良かったことを私どもは記憶している。
 その序曲はビクターに十曲ほどある。そして悉く良いと言って差支えないが、新しいのから選べば間違いなかろう。仮に例を挙げるならば、モーツァルトの『ドン・ジォヴァンニ=序曲』(JE九)とか、トーマの『ミニョン=序曲』(D一二四六)、オーベルの『ポルティチの唖娘=序曲』(JD二四五)など、際限なくある。目録カタログを見て自分の好む曲を選ぶがいい。
 それに続いて優れたものとなると、クライスラーのヴァイオリン協奏曲の管弦楽を指揮しているレコードだろう。しかしこういうものを推奨するのは、ブレッヒに対して気の毒というものであろう。
 最近の吹込みによる新しいブレッヒでは『イゴール公』からの「行進曲」と「舞曲」(ビクターJE七二一―二)と、テレフンケンに入れたメンデルスゾーンの『フィンガルの洞窟』(一三六二八)、『ラ・ジョコンダ』の「時の踊り」(二三六一五)を挙ぐべきだろう。しかしブレッヒには非常に優れたものがない代りに、どのレコードでもむらのないことを知っておく必要がある。
 伯林ベルリン国立歌劇場管弦団は、伯林ベルリンフィルハーモニーと相対する名楽団で、よく訓練され、渾然として一体をなした表現が強味である。どんな曲でもマスターして行くすぐれた訓練は特色的であるが、レオ・ブレッヒの如き老巧な指揮者を持つことによって、国立歌劇場の機能は最上に発揮される。行きわたった注意と、いわゆる過不足なき技巧を持っていることは言うまでもないが、これに加うるにドイツ風な陰影の濃い、ごまかしのない演奏で、全体的な情熱と陰影は、国立歌劇場の特色である。この点ではフィルハーモニーといえども一籌いっちゅうするかも知れない。フィルハーモニーがフルトヴェングラーによってその良さを発揮するものとすれば、国立歌劇場はブレッヒによってその良さを発揮するものであろう。ウィーンのフィルハーモニーと軌を一にする、技能の優秀性と弾力性とはここの楽団の一大特徴で、将来長くその優秀さを保持して行く所以だろう。

クーセヴィツキー Sergei Koussevitzky

付 ボストン交響管弦団 Boston Symphony Orchestra


 セルゲイ・クーセヴィツキーはロシア生れの大指揮者の一人で、近代楽の理解者としての第一人者である。ロシア革命以後をほとんどアメリカで暮したクーセヴィツキーは、ニキシュやムックによって築き上げられた誇りある伝統を持つボストン・シンフォニーを指揮している。
 クーセヴィツキーの強味は、近代的な知性と感覚の持主であることで、そしてもう一つの強味は、大きな財布を持っていることだと言われている。それはともかくとして、クーセヴィツキーによって紹介された近代楽曲は決して少くなく、近代作曲家でその作品をクーセヴィツキーに献呈し、クーセヴィツキーによって演奏されることを、一つの誇りとした時代もあったのである。一通り総譜に眼をとおすだけでも容易でない難解複雑な近代楽を、直ちに自分の曲目に上せ、どんな音がするかも見当のつかぬような曲の核心を掴んで、見事、芸術的な表現を成就することにかけては、クーセヴィツキーの威力は、真に驚くべきものであった。
 従って彼は今日の最も大切な指揮者であり、また明日の大切な指揮者である。が、その反面には、形の美しさに重点を置く古典には向いていない。どんな古めかしい曲に対しても、クーセヴィツキーは一見識を持たずにはいられぬ人だからである。その適例は、ベートーヴェンの『第六交響曲』で、第三楽章に重点を置くために、第一楽章と第二楽章を犠牲に供して顧みないのがクーセヴィツキーの流儀である。『第五交響曲』もまた私どもが考えていたものとは違い、第二楽章に大きな負担をかけている。従って悪口を言う人は「彼はただのバス奏者に過ぎない」とまで極言している。もう一つ聴き逃し難いことは、クーセヴィツキーは音に対する感覚が良くないという噂だ。これを翻訳して言うと、第一流の指揮者に比べると耳が良くないということになる。
 しかしクーセヴィツキーの指揮振りは、官能的な約束や制限を超えて、もっと近代人の知性に訴えるものがある。この知的な、論理的な、或は哲学的な物の考え方が、形の美しさに溺れる人とはおのずから差異のあるべきで、甘美のものをしばしば犠牲にすることがないとは言えない。クーセヴィツキーに対する非難は、大方そんなところから出発しているのではあるまいか。
 クーセヴィツキーのレコードの中、出来の良いものを挙げると、ムソルグスキー作ラヴェル編曲の『展覧会の絵』(ビクター七三七二―五、名曲集一〇二)などであろう。これはムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽に編曲した極めて色彩的な曲で、その色彩的な点がクーセヴィツキーにぴたりと合っていて、旧式な指揮者にはない味を出している。それに次いでは、ラヴェルがクーセヴィツキーの演奏を好んだという『ボレロ』(JD五六七、八)が問題となるだろう。作曲者自身の演奏とは違った、手際の良い面白さがある。
 クーセヴィツキーのベートーヴェンにはくみし難い。ハイドンの交響曲は新しい『百二番』よりは古い『驚愕きょうがく』の方を採る(七〇五八―六〇、名曲集五五)

 ボストン交響管弦団は、アメリカではニューヨーク・フィルハーモニーやフィラデルフィア管弦団と並ぶ優秀な楽団で、かつてはニキシュやムックをいただき、ドイツ風な訓練を受けたものである。古いファンたちは、電気以前のレコードでこの楽団のよさを知っている筈である。その後モントゥーが指揮して幾分フランス風なものとし、クーセヴィツキーに到ってさらに一段と変化を遂げた。今日では幾分質を落したようだが、ニューヨーク・フィルハーモニーやフィラデルフィアには及ばぬとしても、アメリカでは第一流のオーケストラで、桑港サンフランシスコやシカゴのよりは良いらしい。ある人の話では、クーセヴィツキーのボストン・シンフォニーに対する威力は大したもので、ストコフスキーのフィラデルフィアに匹敵するものがあるということである。


シュトラウス Richard Strauss


 リヒアルト・シュトラウスは、言うまでもなく指揮者としてよりは、作曲者としての方で有名で、作曲者として指揮が出来るという点で、現代作曲者の中でも特異なる存在となっている。しかし作曲者必ずしも良き指揮者であるというわけではない。むしろ作曲者の指揮はしばしば主観が強いのを常とするのみならず、自作を指揮しても面白くない演奏となる場合も多いのであるから、他人のものを指揮して良い演奏を聴かせる場合は極めて少い。シュトラウスはその極めて少い例の一人である。
 若かりし頃のシュトラウスは、自分の作曲とモーツァルトのものとを得意としたと言われる。この人の指揮したモーツァルトの『交響曲=ト短調』などは、古いながら良いものであった(今は廃盤になっている)。大体において自分の意図にかたより過ぎるので、誰の作品を指揮しても「シュトラウス作曲」になるということは、当然免れ難いことであった。大曲では、例えばベートーヴェンの『第五交響曲』の如きもあったが、専門の指揮者たちのに比べるとかなり変ったもので、いわゆる楽しめるレコードではなかった。シュトラウス自身のもの、例えば『サロメの舞曲』(ポリドール四五〇九一)などは、今日まだ目録カタログに残っているが、『薔薇ばらの騎士』の「円舞曲」(四五〇九四)などと共に、この人のレコードの代表的なものであろう。
 モーツァルトのものでは『魔笛=序曲』があり、自作の大物に『にわか貴族』『ドン・キホーテ』『ティル・オイレンシュピーゲル』といったものがないではないが、さして興味をぶほどのものではない。この中では、『ティル・オイレンシュピーゲル』(四五〇八六、七)は、作曲者自身のものとして興味の持てるものであろう。
 そこで、この人の代表的なものを欲しい人は、『薔薇の騎士』(四五〇九四)、『サロメ』(四五〇九一)を選ぶのがよかろう。もう少しという人には『ティル』を採られるようにお奨めする。すべてポリドールである。モーツァルトとベートーヴェンのシンフォニーは、なんと言っても吹込みの古さが目立って、第一線に持ち出さるべきものではない。
 シュトラウスの淡々として巧まざるに重厚な味を出す指揮振りも、もはや過去の語り草になってしまったのは惜しいことである。最近ビクターに入った『薔薇の騎士』のワルツなどはあまりにも痛ましい老いを感じさせる。


フィッツナー Pfitzner


 フィッツナーは作曲者であることにおいて、シュトラウスと共通している。しかしシュトラウスほど偉大ではないとしても、それほど、我意がない。そして情緒の豊かな指揮をする人で、この人のベートーヴェンの『第六交響曲』(ポリドール四五一三六―四一)は、古いながら今でも評判の良いレコードである。それに続いて『第三交響曲』(四五一一四―九)を挙げる人もある。演奏は前者が国立歌劇場、後者が伯林ベルリンフィルハーモニーである。
 とにかく右の二つは、フィッツナーの代表レコードであり、この人の優しき人柄を偲ぶにふさわしいものである。


クレンペラー Otto Klemperer


 オットー・クレンペラーは、非常に聡明な新人である。この人の指揮にはいやな癖が付き纏っていないし、前世紀の亡者もない。颯爽たるやや冷たい指揮をする人だが、この人の代表的レコードとしては、ベートーヴェンの『レオノレ第三序曲』(ポリドール四〇一九一、二)が幾分新しいだけで、多くは廃盤になって、若いままに過去の人になった嫌いがある。


フリード Oscar Fried


 オスカー・フリードは技術的には非常に優れた才能を持つ人であるが、しかし厚さ、深さに欠くるところがある。何をやらしてもうまい人で、ポリドールに入っているレコードはいずれも悪くない。電気の『第九』(ベートーヴェン)を最初に入れたのはこの人で、このレコードの価値は相当高く評価されていいと思う。多少イージーな『第九』ではあったが、とにかく大曲の吹込みに対する大きな道を拓いたものだ(四五〇〇一―七)
 チャイコフスキーの『胡桃割り組曲』(四五一一一―三)がそれに続いて入っている。コロムビアに入ったチャイコフスキーの『悲愴交響曲』は、当時評判であったが、今では全く過去のものとなった。


メリハル Alois Merichal[#「Alois Merichal」はママ]


 メリハルはポリドールの近頃の米櫃こめびつであるが、フリードのように達者で融通の利く人であると共に、生真面目きまじめな、親しみの持てる指揮者だ。この人はいろいろなトーキーにも音楽を付けていて、その方でもなかなか才能を示している。古典の指揮をしては極めて正直で、一種の情緒と正当さにおいて、かなり良い特色を持った人である。やや冴えない感じはあるが、それはいわゆるはくの付くのを待つほかはない。
 レコードは実に夥しく入っている。大抵は伯林ベルリン国立歌劇場管弦団を指揮したものだが、市立歌劇場、その他地方のオーケストラを指揮したものもある。
 メリハルの傑作は、伯林ベルリンフィルハーモニーで入れたバッハの『ブランデンブルク協奏曲』の「第二番=ヘ長調」(四〇五四九―五〇)、「第四番=ト長調」(四五〇六二―四)、「第五番=ニ長調」(四五一六一―四)、「第六番=変ロ長調」(四五一五〇―五一)が入っている。コロムビアのブッシュ指揮のに匹敵して良いのは第四番だ。しかもピアノではなく本格的にチェンバロを使った愛すべき演奏である。
 国立歌劇場管弦団を指揮したレコードでは、小さい序曲などに却って愛すべきものがあろう。『売られた花嫁=序曲』(四五二八六)などその良き例である。その他実に大量に入っている。


フリッツ・ブッシュ Fritz Busch


 フリッツ・ブッシュは提琴家アドルフ・ブッシュの兄である。ドイツ指揮界の新人で、弟ブッシュのヴァイオリンと同じく、非常に生真面目な演奏をする。稜々かどかどのくっきりしたリアリスティックな冷たさを持った人である。
 この人の傑作は、モーツァルト協会の二大歌劇『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』(ビクター)で、長大にして華麗なるこれらの曲を、むらのない非常に堂々たる指揮をしている。そのほかにリヒアルト・シュトラウスの『ドン・ファン』(ビクターJD一〇〇五―六)、『ティル・オイレンシュピーゲル』(JD三五一―二)がある。
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フランス系指揮者


ゴーベール Philippe Gaubert

 フィリップ・ゴーベールは、フランスの指揮者として現代において最高の地位にある人である。ピエル・モントゥー、ルネ・バトンは既に年をとり過ぎ、シュヴィヤールは十年前に既に亡く、ピエルネまた近年いたパリの音楽界において、ゴーベールを以て長老となすは当然のことと言わねばならぬ。
 パリの国立音楽院管弦楽団(ソシエテ・デ・コンセール)は、楽員の優秀さと、フランス的なアトモスフェアを持つこと、他の民間団体の比でないことは言うまでもない。この音楽院のアカデミックな楽団を率いるゴーベールの指揮が、またアカデミックに終始することは、これまた言うまでもない。
 ゴーベールの指揮は完全無欠だといわれる。それこそ申し分なく外面的な形の整ったもので、野村光一氏はこの人の指揮をドイツ風の指揮と対照的だと言っておられるが、全くフランス風の形の美しさに重点を置いて、ティピカルなものである。ゴーベールの代表するフランス風の指揮というのは、譬えて言えば、鮮麗な原色を点描で行くフランス印象派の絵画で、全管弦楽団の有機的な結合と、総量的な表現を目的とするドイツ風な行き方とは違って、各楽器が腕にりをかけてめいめいの音を磨いている。モネの画が原色の配列で纏め上げているように、各楽器が美しい原色のままでめいめいの存在を主張し、その間に全体の統一を見出す行き方となっているのである。
 ゴーベールの指揮した音楽が、やはりそういう外面的な各楽器のパートの美しさと、繊麗な仕上げに神経の行きわたったもので、同時に全体としてはドイツの演奏に比べて迫力の劣るものあるのは、まことに已むを得ないことである。従ってゴーベールの演奏を聴いていると、これ以上の表現はないような、完璧的な美しさを感ずる。が、しかし、聴き終ってから考えると、内容が空虚で、それが何を我々に与えているか、少しも考えられぬのである。それが唯一の特色でもあり欠点でもある。

 ゴーベール指揮のレコードの中では、コンセール・ストララム演奏のラヴェルの『ダフニスとクロエ』(コロムビアJ七七四九―五〇)が最も代表的な作品であろうと思う。この非常に難解な新しい音楽に対して、ゴーベールの腕の冴えははっきりと示されている。チャイコフスキーの『悲愴交響曲』などは美しくはあるが盛り上りが足らぬ。いわゆるチャイコフスキーの泥臭さがなくて、ただの綺麗なシンフォニーに過ぎない。我々はむしろフランクの『交響曲=ニ短調』(J七六四九―五四、傑作集九八)に興味を持っている。いわゆるフランクの苦渋な暗さにはゴーベールは必ずしも適当ではないが、フランクの交響曲をこれだけ美しく演奏することはとにかく特色的である。一つはコンセルヴァトワールの美しいフランクへの理解の深さも手伝っているであろう。
 その他二枚物だがデューカの『魔法使いの弟子』(J七〇五〇―五一)が興味が持てるだろう。しかしこれも吹込みは決して新しくないから、今聴いては物足らぬところがあるかも知れぬ。サンサーンスの『死の舞踏』(J七九九〇)は、ゴーベールらしい外面的な良さを最も良く発揮したものであろう。
 そこで結論として、通俗なものでは『死の舞踏』を、多少難しくてもかまわぬ人は『ダフニスとクロエ』を奨められる。


ヴォルフ Albert Wolf

 ヴォルフはコンセール・ラムルーの正指揮者で、フランスのフルトヴェングラーといわれている。名前から推すとドイツ人の血統であるらしいが、その関係か彼の指揮は非常にドイツ臭く、フランス風のデリカシーを持っていない。従ってそのドイツ人の根強さもやや稀薄でないが、仏独混血の良さと悪さをあわせ持っている人である。
 ドイツの伯林ベルリンフィルハーモニーをヴォルフが指揮したレコードもあるが、この人の境地を語る面白いものだ。近頃のはコンセール・ラムルー一点張りだが、ポリドールの管弦楽にはこの人の入れたレコードが最もたくさんある。
 一体コンセール・ラムルーは、二十世紀初頭の名指揮者シュヴィヤールが開拓したオーケストラで、それ以前はこのオーケストラの名となっているラムルーが創始したものである。このラムルー、シュヴィヤールはフランス人ながら熱心なワグネリアンであり、従ってドイツ風な指揮をし、演奏をする楽団として知られていた。そこへヴォルフを持って来たのは面白いことで、この楽団にしてこの指揮者ありの感が深い。
 ヴォルフは好んでフランスの近代楽を演奏しているが、それは必ずしも最上のものではない。むしろややさかのぼってフランクの『交響曲=ニ短調』(ポリドール八〇〇九五―九八)と『贖罪しょくざい』、(四〇四七八)、シャブリエの諸作品を吹込んでいるが、そういうものの方が良いのではないかと思う。


パレー Paul Paray

 ポール・パレーはレコードでは新人であるが、ヴォルフの先輩としてかつてラムルーを指揮し、ピエルネ引退後その後を襲ってコンセール・コロンヌの正指揮者となり、天下を三分して保っている。
 コンセール・コロンヌはパリの交響楽団中最もフランスらしいものであるが、これをピエルネの才能と人格とではぐくみ、パリ人らしい神経の行きわたった、磨き抜かれた管弦団にし、パレーがその後を承けて指揮しているのは面白い。
 パレーは冷たい磨き抜かれた指揮者である。鬱陶しい空気の中に生活することの出来ぬ人で、アカデミックなゴーベールのいわゆるフランス宮廷式とはまた違った、フランス近代の香りの高い人であるが、しかしこの人のベートーヴェンの『第六交響曲』は、私どもの賛成することの出来ぬものである。これはフランスのベートーヴェンであり、夢も詩もない『田園』であり、水蒸気のない、あまりに透明過ぎる『田園』である。技術的には見事だが、味に乏しいのである。
 パレーのものではダンディの『フランス山人さんじんの歌調にる交響曲=ト長調』(ピアノはマルグリット・ロン)(コロムビアJ八五二七―九、傑作集二三〇)、これがロンのピアノと相俟って、非常に香気の高い良いレコードだと思う。
 一枚物ではムソルグスキーの『裸山らざん(J八三六五)が良い。あらゆるこの曲のレコードの中で傑出したものだ。


ピエルネ Gabriel Piern※(アキュートアクセント付きE小文字)

 ピエルネはポール・パレーの先輩で、晩年はコンセール・コロンヌを退いて、客演指揮者としてレコードだけに入れていた。この人は実にフランス人のティピカルな紳士であったらしい。作曲者にして指揮者を兼ねた人としては優れた人であった。作曲も実に善良な、邪念のない、美しいものを書いているが、その演奏もまた邪念のない、沁々しみじみと行き届いたものであった。
 ピエルネの演奏したレコードには、作曲がそうであったように、驚天動地的な傑作は一つもない。その代りどれを取っても沁みわたるような愛情を感ずる。ドビュッシーの『牧神の午後の前奏曲』でも、ラヴェルの『マ・メル・ロア』でも、シャブリエの『西班牙スペイン狂詩曲』でも、皆一つ一つに愛情が籠っている。『マ・メル・ロア』(コロムビアJ八六四九―五〇)はこの中でも最も代表的であるかも知れぬ。が、しかし、これはレコーディングがさまで新しくない。総じてピエルネのはパルロフォンからコロムビアに移ったもので、大抵新しくない。


ストララム
 付 コンセール・ストララム Walther Straram ― Concerts Straram

 コンセール・ストララムは彗星の如くパリ楽界に出現した楽団である。専門的に所属している楽員が一人もないという珍しい楽団で、他の楽団からの優秀なピックアップ・メンバーから成っているのが特色的である。創設者でもあり指揮者でもあるストララムの財力によって、この楽団は支持されているという話だ。
 ストララムはかなり才能のある人で、冷たい新即物主義者のように思われている。これは音楽的才能の乏しいためか、或はロマンティックな黴臭かびくささに陥らないためか、なかなか面白い問題であるが、しかしその演奏を聴くと、単に楽員の優秀なためばかりではなさそうで、ストララムの才能に、一応も二応もの敬意を払っていいと思う。
 この人の最も代表的なレコードは、ルッセルの『蜘蛛くもの饗宴』(コロムビアJ七八三〇―三一)である。ドビュッシーの『牧神の午後の前奏曲』(J七七四五)もピエルネと並んで最も見事な演奏であろう。ともかく、冷たい近代性を真向にふりかざし、良い楽員を集めて鋼鉄の如き確乎かっこたる演奏を聴かせるのは心にくきことである(なお、ストララムは近年逝去した)


 
アンゲルブレック、ルネ・バトン
 及びコンセール・パドルー
D.E.Inghelbrecht, Ren※(グレーブアクセント付きE小文字) Baton ― Concerts Padereux[#「Padereux」はママ]

 アンゲルブレックは決して大した指揮者ではないが、パリ交響楽団の正指揮者として、レコードにもかなり多く入れているので重要視される。レコードは『アルルの女組曲』が入っているが、大したことはない。

 コンセール・パドルーはかつてパドルーによって組織され、主として外国作曲家のものの演奏を続けたということであるが、その後ルネ・バトンが正指揮者となるに及んで注目され、且つ大いに活躍を遂げた。ルネ・バトンはピエルネと並び称された人で、その指揮振りはフランス好みのいきなもので、指揮棒が後の聴衆からは見えなかったという話だが、或人が「どうしてそう動かないのか」と訊ねると、彼は「じゃ、フォルテシモをどうして出すか」と言ったということだ。これは面白い話だが、それほど彼の指揮はいきなものであったそうである。レコードには電気以前のHMVに『交響幻想曲』があった。これはいとも良きものであったが、もはや昔語りとなってしまった。彼は今では隠居している。


コッポラ Piero Coppola

 ピエロ・コッポラは実に融通の利いた指揮者で、フランスの現代指揮者としては最もレコード上に華やかな活動を続けている人である。生れはイタリーだというが、この人の指揮には確かにイタリー人らしい明るさがあった。だからドイツ臭い深刻なものは面白くなかった。それからあまり融通が利き過ぎて、イージーになる嫌いがあった。しかし何をやらしてもこなして行く腕前は驚くべきで、電気以前の『ペレアスとメリサンド』より最近のものに到るまで、非常に傑出したものもない代りに、屑らしいものもないといった人だ。
 今も述べた通り、この人のドイツ物は全然興味の持てないもので、ワーグナーの『パルジファル』やシューマンの『交響曲=第三番』なども入れているが、それは形だけのもので、やはりフランスの近代楽にこの人の良さは窺われるのである。
 例えばラヴェルの『クープランの墓』(ビクターJH一五七―八)など最も良かろうし、古いので気の毒だが、ドビュッシーの『ペレアスとメリサンド』なども良かった。今では吹込みの古さがあまりに目立って奨め難い。しかしロッシーニの『ウィリアム・テル=序曲』(JE九、一〇)は面白かろう。それから協奏曲(例えばメルケルの『西班牙スペイン交響曲』など)などに伴奏しているのになかなか良い演奏がある。


モントゥー Pierre Monteux

 ピエル・モントゥーはフランスの古老で、近頃はサンフランシスコ交響楽団を指揮しているようだが、既に老境に入って、レコードへはほとんど入れていないが、その乏しいレコードの中では、ベルリオーズの『幻想交響曲』(ビクター一一〇九三―七、名曲集一一一)に、さすがに大家らしい面影を窺うことが出来る。
 これを演奏しているパリ交響楽団の組織については詳しく知らぬが、優秀な楽員を集めてレコード吹込みのために作られているのではないかと思う。


ドゥフォー

 ブラッセルの王立音楽院管弦楽団の指揮者で、格式の良い人である。大家らしい大家だが、面白さに欠けている。


コルトー、カサルス

 ピアニストであるコルトーはまた指揮者としても活動を見せている。バッハの『ブランデンブルク協奏曲』その他を指揮してレコードに入れているが、彼はその昔ドイツで勉強したワグネリアンで、指揮には自信のある人である。『ブランデンブルク協奏曲』六曲中では、ヴァイオリン(ティボー)やピアノ(コルトー)が活躍する『第五番=ニ長調』(ビクターJD一二一―二)が良く、その他はラテン的であると評されているが、ほほえましき余技でもある。

 カサルスは優れた音楽家で尊敬されていいが、レコードの上では指揮者として活躍したものは多くない。ベートーヴェンの『第四交響曲』その他二、三、ビクターから出ているが、いずれも大したことはない。
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英国系指揮者


ウッド Henry J. Wood

 ウッドは英国楽壇の長老として、非常に大きな尊敬を一身にあつめている。努めて若き人々の作品を演奏して、同国の作曲界に指導的な役割を演じていることも、その理由の一つだが、長い間プロムナード・コンサートを開いて、ロンドンの人々に音楽の趣味と知識を植えつけていることも、一般から親しまれている所以であろう。
 ウッドの指揮は決してうまいものでないが、常識的な同情ある態度と、レパートリーの広汎なことがその特色である。レコードは実に夥しくあり、前には、コロムビアから、最近はポリドールから出ているが、常識的な音楽に深い造詣と趣味のある人だから、彼のレコードとしては、やはりそういう畑から求めるのが順当である。例えばグラナドスの『西班牙スペイン舞曲』(ポリドールE一三三―四)などは、ウッドの新しいものの中での良いものである。ロンドン市民の音楽教育に資したように、レコードの方でも今から二十年も前に、新曲大曲を盛んに吹込んで、我々を教育してくれた恩人であることを忘れてはならない。
 コロムビアには非常に多くのレコードがあるが、全て啓蒙的な曲が中心になっている。


コーツ Albert Coates

 アルバート・コーツはロシア生れのイギリス人で、イギリスの指揮者中での一異彩であり、最も優秀な指揮者であって、彼の指揮するロンドン・シンフォニーは、BBCと並ぶ同国の二大オーケストラの一つである。古いオーケストラが次第に老衰して行くに対して、ますます溌剌たる力を以て守り上げて行くコーツは、技倆的にもなかなかしっかりした人である。スラヴ人の血と情熱の強さがこの人の指揮に感じられるが、その代りその演奏は幾分粗笨そほんな嫌いがあり、デリケートなものは良くないが、ロシア物にかけては確かに当代無比である。クーセヴィツキーのような気取ったモダン・ボーイではなく、堂々たる、但し少々野性的な良さを持つ人である。
 レコードはビクターに夥しくあるが、彼の傑作はプロコフィエフの『鋼鉄の歩み』(JD六四―五)であろう。それとはまるで畑の違った曲だが、私はバッハの『弥撒みさ=ロ短調』全曲(JH八八―一〇四、名曲集六四二)が好きだ。かく、古典とロシアの近代楽にまたがって成功しているコーツの武者振りも棄て難い。少し古いがボロディンの『交響曲第二番=ロ短調』(一一一六三―五、名曲集一一三)なども特色的なものだ。
 小曲も相当たくさんにあるが、コーツの良さを知ろうとするには、やはり熱と力の籠ったもの、――近代楽に興味を持つ人には『鋼鉄の歩み』を奨めたいと思う。

ビーチャム Thomas Beecham

 ウッド、ロナルド、ハーティと並んで英国楽壇の長老にトーマス・ビーチャムがある。その先代のビーチャム・ビルという人は、薬で儲けた巨万の富を投げ出して、英国楽壇のために尽瘁じんすいした人である。
 ビーチャムの演奏は、ウッドほど常識的啓蒙的ではなく、ハーティほどの※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)ていかい趣味でもない。何となく親しめる良さを持った人であるが、ただ、ドイツの晦渋かいじゅうな音楽をやると、簡単に片づけてイージーになるのが欠点である。しかしイギリス的のものには一種の才能と良き趣味がある。例えばヘンデルの『メシア』全曲(コロムビアJ八四五〇―六七、傑作集二一六)の如きは、この人のレコード中での傑作に属するであろう。概してヘンデルが良く、『コンチェルト・グロッソ第十四番』(J八〇二八)、『意匠の起源』(J八一六一)など皆出来の良いもので、ヘンデルが英国に植えつけた心持のよみがえりが見られるかも知れぬ。


ハーティ Hamilton Harty

 ハミルトン・ハーティは、イギリス人にしては珍しくデリカシーを持ち、情愛にすぐれた指揮者である。従ってこの人の演奏したものは、人好きのする可愛らしいものが多い。何よりの傑作は、ハーティ自身の編曲したヘンデルの『水上の音楽』(コロムビアJ八二四七―八)と、それに次いでは同じくヘンデルの『王宮の花火の音楽』(J八五〇四―五、傑作集二二五)であろう。管弦楽はいずれもロンドン・フィルハーモニーである。
 ハーティはマンチェスターにあるハ※(小書き片仮名ル、1-6-92)レ管弦団の指揮者である。英国の一地方にあって、ロンドンの諸楽団を向うに廻して立派に太刀打ち出来るオーケストラを率いていることでも、彼がなかなか良き指揮者であることが解るのである。


ボールト Adrian Boult

 英国の放送協会(BBC)が設立され、無名の指揮者アドリアン・ボールトがその専属オーケストラを指揮してじゃんじゃんレコードに入れたのは、確かに目ざましいことであった。BBCオーケストラは多くの優れたメンバーを網羅し、その大規模な点でも、ロンドン・シンフォニーと並ぶ英国有数の楽団である。
 ボールトは無名であったとは言え、ニキシュの弟子だということだから、相当の年功者である筈だが、しかしこの人のレコードには英国風の手堅さはあるけれども、フランス風のデリケートなところも、ドイツ風の線の太さもない。何をやらしても手落ちはないが、非常な傑作も一つもなく、レコードで聴く範囲では、悉く無事な演奏であり、どれも同じような出来えである。だからシューベルトの『交響曲=ハ長調』も、モーツァルトの『ジュピター』も、バッハの『組曲』も皆同じ気持で聴かれる。そういった指揮者である。


ロナルド Landon Ronard[#「Landon Ronard」はママ]


 この人も英国楽壇の長老の一人で、同国の指揮者中、年齢、地位から言っても最長老である。しかしウッドほど粗雑さがないので安心して聴かれるが、傑作として挙げるに足りるものを私は記憶しない。コンチェルトの伴奏を指揮したものは、サージェントとは違って安心であるという程度である。


サージェント Marcolm Sergent[#「Marcolm Sergent」はママ]

 シュナーベルの弾いたコンチェルトの伴奏を指揮しているが、あまり要領の良い人でなく、大したものはない。


アドルフ・ブッシュ Adolf Busch

 ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュは、指揮者としても一家をなした人で、この人のバッハの『組曲』二巻(ビクター)と、『ブランデンブルク協奏曲』六曲(コロムビア)は、近年のレコード界でもなかなか重要なる所産である。
 わけても『ブランデンブルク協奏曲』六曲は貴重で、全体の出来から言えば、コルトーもメリハルも及ばぬであろう。部分的にはコルトーにもメリハルにも優れたものがあるが、第六番の如きに到ってはブッシュに及ぶものは一つもない。非常に手堅くて、内輪で、落ちつき払った地味な中に、輝きのある美しさを蔵している。一つには楽員の優秀なためもあろう。
『組曲』も華かではないが美しい出来である。


その他の指揮者

 オイゲン・ヨッフム は最近ベートーヴェンの『第九交響曲』を入れたということである。新興ドイツを代表する若さと情熱を持った人で、正直な指揮が特色であるらしい。
 もう一人、ドイツで注目される指揮者はハインツ・ティーチェンだ。一九三六年のバイロイトのワーグナー祭を指揮して我々を驚かしている。
 エルネスト・アンセルメ はちょっと聴ける人だが、味の良い指揮者とは言い難い。ヘンデルの『コンチェルト・グロッソ』(ポリドール)その他が入っているが、大したことはない。
 ワイスマン は達者な指揮者で、英国のグーセンスと同じく、ライト・オペラの指揮者として重要な人、黒盤の雄である。
 アーサー・フィードラー はボストン・ポップスの指揮者、アメリカ風の気の利いた颯爽たる人で、近頃ぐんぐんしている。
 ストック・ヘルツ は既に過去の人である。ホーレンシュタインもかんばしくない。その他夥しい指揮者があるが、語るに足るものはない。


オペラの指揮者

 イタリーにモラヨーリがある。スカラの正指揮者で、良い作品をたくさんレコードしている。最近の『セビリアの理髪師』二巻(コロムビア上巻J八七三二―九、傑作集二六七、下巻J八七四〇―四七、傑作集二六八)などは重要な傑作の一つである。
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物故せる指揮者


以下物故大指揮者数名のレコードは、大部分電気以前の旧吹込盤で、一般の鑑賞用レコードには不適当なものである。

アルトゥール・ニキシュ



 序文において既に書いたが、近代の指揮法のたんを開いた人として極めて重要な指揮者であるニキシュについては、近衛秀麿の『シェーネベルク日記』などになかなか面白いいろいろなことが書かれてある。
 専門の指揮者として一家をなした人はハンス・フォン・ビューローに次いではこの人くらいで、非常に偉い人であっただけに、たくさんの逸話を残している。ブラームスが自作の曲をニキシュに指揮されるのを、特に喜んだのは有名なはなしで、彼の『第四交響曲』は褒貶ほうへん区々な曲であったのを、ニキシュの指揮によって俄然その真価を人に知られたと言われている。
 彼の人となりは含蓄の多いゆかしい感じを人に与えるが、真摯しんしな静かな性格の反面には常に愛すべきユーモアがあったということである。
 彼の指揮は、作曲者の予想した最上のものを表現したばかりでなく、しばしばそれ以上のものに到達した。彼以前の指揮は全く指揮者の主観というものは考慮に入れられず、ただ作曲者の指示を忠実に生かすことばかり専念したのであるが、彼に到って初めて作品を一つの素材とし、これを指揮することによって自分の主観の上に新しい芸術を創造することが出来たのである。僅かに残された彼のレコードで見ても、作者の指示した表情記号などをかなりの程度まで自在に変えて、独特の効果に立ちいたっている。
 彼の指揮には常に一種独特の強いアクセントがある。フルトヴェングラーらは彼の直系の後継者と見なされているだけに、充分ニキシュを偲ばせる諸特質を具えていると言われる。
 彼の指揮したレコードは、ドイツのグラモフォンと英国のHMVに僅かずつ残されている。ドイツのグラモフォンからは三枚だけポリドールに引きつがれている。HMVの二六年のカタログには九枚載っているが、これはほとんど全部震災前後に輸入され、かなり流布した筈である。『ハンガリアン・ラプソディー第一』(リスト)はHMVとグラモフォンと両方に入っているが、これは同じものではなく、HMVのはロンドン交響管弦団(三面)、グラモフォンはベルリン・フィルハーモニー(四面)である。
 ベートーヴェンの『第五』は言うまでもなくニキシュのレコードでは代表的なもので、古いものであるにかかわらず、彼の特徴を知るには最も好い。これはベルリン・フィルハーモニーを指揮したもので、グラモフォンとHMVと同じ母型によったものである。グラモフォンの方がオリジナルなので人々は迷信的にグラモフォンの方が良いと思っているが、そんなことはなく、HMVの方が雑音が少くて却って良い。演奏はこの管弦楽団の黄金時代だから、非のうち所のないものである。曲の解釈は、今のフルトヴェングラーと血縁関係にあることがわかる。しかしフルトヴェングラーよりは遙かに自在である。何分にもレコードが心細く、管と絃との区別さえはっきりつかない有様であるが、彼の偉大さはある程度までうかがえるだろう。到るところ強い主観が脈々と流れている。
 この他には、『エグモント序曲』(HMV)、『カルナヴァル・ロメーン』(グラモフォン)、『フライシュッツ』『オベロン』などの序曲及びエグモントの第四面目の、『フィガロの結婚―序曲』等である。
 もう十年ニキシュを生き延びさせて、得意中の得意とするブラームスや、仲好しだったというヨハン・シュトラウスの美しいワルツ、それから例の聴衆を泣かしたというチャイコフスキーの『第六』などをレコードに残させたかったと思う。
 総体にオーケストラ・レコードは電気でも三年か五年しか生命はないもので、電気以前は絶対に駄目だというのが私の持論である。私自身も電気以前のオーケストラ・レコードはほとんど全部破棄してしまい、ほんの二十枚余りを保存しているのみであるが、その大部分はニキシュのものが占めている。いうまでもないが、こんなレコードには享楽的な価値は全然ないということを記憶して貰いたい。
 因みに日本ビクターからは歴史的大演奏家の記念レコードとして、リストの『ハンガリー狂詩曲』第一番(三面)と『フィガロの結婚―序曲』(D八一―五六)の二枚だけ発売されている。


カール・ムック

 旧吹込み時代の指揮者として、ニキシュに次ぐ偉大なる存在で、この人のボストン・シンフォニーを指揮した時代の遺産が電気以前のビクターに、二、三伝えられている。或る時、吹込所へ行く途中自分のテスト・レコードの演奏を聴いた彼が、「誰だ、僕と同じ指揮をしているのは?」と言ったという有名な逸話があるが、ワーグナー指揮者としては偉大な人で、バイロイトのワーグナー祭を指揮したレコードがコロムビアに遺っている。ボストンの正指揮者であったが、独探どくたんの嫌疑を受けてドイツに還ったのも、欧州大戦当時の昔話である。


 シュヴィヤールは、コンセール・ラムルー時代のがパリにおける本当の大指揮者と言われたが、残念なことにレコードはパテーの縦震動盤に十枚内外入っているのが全遺産だ。今は手に入り難く、手に入っても聴く便宜も少かろう。
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吹奏楽


ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団




 吹奏楽のレコードはかなりたくさん入っているが、最も芸術的に優れたのはギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団である。第一流の演奏者を網羅し、現在はピエル・デュポンがこれを率い、フランスが世界に誇る楽団である。
 ギャルドの演奏は非常にフランスらしい歯切れの良いもので、吹奏楽のための曲ばかりではなく、芸術的な管弦楽曲を盛んに編曲して演奏して聴かせるのはこの楽団の特色の一つである。コロムビア、ビクター等に入っている夥しいレコード中で、代表的なものはリストの『ハンガリー狂詩曲=第二番』(コロムビアJ三二三四)、モールの『スイスの歌調に拠る変奏曲』(J三一七九)、ウェーバーの『クラリネット協奏曲第二番』(J一三六六)等であろう。その他いずれも聴いても楽しい優れたレコードである。

 ビクターには有名な米国の行進曲王故スーザの率いるスーザ吹奏楽団のレコードが数枚目録カタログに載せられている。いずれも自作の行進曲で、一つ一つが親しめるものだ。

 テレフンケンには、ヴォイチャッハ指揮のテレフンケン大吹奏楽団のレコードが夥しく入っているが、その中ではエミール・カイザー編曲の『歴史的大行進曲集』(一三一〇八―一〇)が最も代表的に優れたものである。
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器楽


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オルガン


シュヴァイツァー




 シュヴァイツァー博士が演奏することによって、バッハのオルガン曲は、更に一段の尊さを加えることを私は信じて疑わない。
 よき曲とよき演奏とよき録音と――これは、レコード音楽の価値を決定する三つの必須条件であると信ぜられて来た。ところで私は、真に良き演奏というものは、更に三つの条件――人格、識見、技巧の三拍子揃ったものでなければならないことを、つくづく感じたのである。バッハのことはあまりにも語り尽された。私は『バッハのオルガン音楽』のレコード一巻(コロムビアJW一―七、傑作集二七三)を手にして、このレコードに最後的の価値をめて、演奏者シュヴァイツァー博士の崇高なる人格と当代第一流のバッハ研究者としての識見と、このレコードを吹込むに至った博士の周到な用意とを語りたいと思う。
 博士の『水と原生林のほとりにて』は邦訳もあった筈であり、その自叙伝『我が生涯と思想』は日本の読書界にもかなりよく読まれたということを聴いている。特にそのバッハ研究の大著に到っては、音楽に対するシュヴァイツァー博士の造詣を傾け、その深遠なるバッハ再検討の大題目をひっさげ来りて、当代音楽界の一部に空谷くうこく跫音きょうおんにも似たものがあるだろう。
 シュヴァイツァー博士をつまでもなく、「音楽の父」なる「神聖バッハ」の音楽が、近代興行政策の手に移されてあまりにも舞台のライトを浴び過ぎた。神ながらの声とも言うべきバッハの音楽が、粉黛ふんたいほどこされ、劇的ジェスチュアを与えられて、我々の耳に踊る世紀末的な姿はまことに我慢のならぬことであったのである。
 そのバッハの音楽を、昔ながらの姿に返し、二百年前のバッハの真精神に立ち還らせるのが、シュヴァイツァー博士の主張であり、まざる努力であり、そして、このレコードの生れた動機でもあった。このレコードを通して「不純なメーキアップを洗い落した」バッハに接し、多少の見当違いを感ずる人があるかも知れない。これらの人たちのために私は少しくシュヴァイツァー博士の人格と主張について語りたい。

 シュヴァイツァーは一八七五年上部アルサスに生れた。父は牧師であったし、母も牧師の娘であったが、祖父は学校長で、オルガン弾きであった。シュヴァイツァーが二十四歳で神学博士となり、傍らオルガン音楽に練達し、早くも一流の玄人くろうととしての素地したじを築いたのは決して偶然ではなかったのである。
 アフリカの蛮地に赴き、ど人教化と救済に一生をささげる決心を定めるまでに、シュヴァイツァーは十年の熟慮と準備を費した。最初パリの伝道会社の月報で、コンゴー伝道の急務――黒人の肉体と霊魂の救済――を読んだ時、若きシュヴァイツァーは決然としてったのである、「主よ、私は往く」――と。
 両親や友人たちの激しい反対の中に、博士シュヴァイツァーは、初歩の医学生として学校に籍を置いた。アフリカど人の間に往くためには、言葉よりも行為の方が、遙かに雄弁なことを知っていたのである。その準備は長くて真剣であった。哲学博士、神学博士の上に、更にもう一つ、医学博士の肩書を加えるために彼は七年の歳月を費さなければならなかった。
 利権や野心のために、千里を遠しとせずして行く人は決して少くない。が、アフリカど人を貧苦と病魔と罪悪の中から救うために、これだけの用意をしたシュヴァイツァーの心掛けは尊くも気高い。シュヴァイツァー自身はその自伝の中に、「行為の英雄はない。ただ放棄と患苦の英雄のみがあり得る」とカーライルの言葉を引用しているが、この心意気は、彼にして初めてその真意を味わい得るものであろう。
 一九一三年シュヴァイツァー博士は、バイブルとオルガンと、メスとを持って、アフリカのランバレーネに渡った。その信仰と実験は幾多の著書で伝えられている。一九一七年欧州大戦のために帰欧し、ドイツ領生れなるが故に、罪なくしてとらえられたこともあるが、やがて青天白日の身となって、講演とオルガン演奏とで欧州を廻った。
 シュヴァイツァーの伝道方法は、合理的でいささかの無理もなかった。黒人の霊と肉とを救う傍ら、その心を和らげるために、造詣の深いオルガン音楽を用いたばかりでなく、資金が欠乏すると欧州に還って、講演とオルガン演奏とで夜に日を継いで資金を調達したのである。

 クライスラーやパデレフスキーが、その人格を以て一世に仰がれ、或は銃後の恩人として或は建国の偉人として、その風格名望に単なる演奏家以上のものをっていることは人の知るところだ。従ってその音楽に、技巧以上の輝きのあるのは、まことに当然と言うべきである。
 シュヴァイツァー博士においても、ほぼ、クライスラーやパデレフスキーと同じことが言えるだろうと思う。人間としてのシュヴァイツァー博士は――大なる者の眼の前には――クライスラーやパデレフスキー以上であるかも知れない。とにもかくにも、シュヴァイツァー博士の演奏には、技巧だけがすぐれた若い不良少年型の演奏家には、かつて見ることの出来ないもののあることを知っておきたいと思う。
 そればかりではない、シュヴァイツァー博士はパリのバッハ協会の会長であり、そのバッハ研究の著書は――先にも言ったように、極めて権威的なものである。

 シュヴァイツァー博士に従えば、近代のバッハ音楽の演奏は、極めてゆがめられたものであるということである。バッハがその神聖な「音楽の父」としての座から引き降されて、高い入場料と、明るい電燈と、巧妙なヴァーチュオーソたちの技巧の中につれて来られ、その音楽の姿を著しく変えなければならなかったのは、シュヴァイツァー博士ならずとも、想像するに困難ではあるまい。
 バッハのオルガン曲と、レコードされた演奏とを比べて――オルガンの機構を勘定に入れ、時代の隔たりを差引いても、それはあまりに「劇的に」あまりに「速く」弾かれていることは、何人も気が付かずにはいないだろう。
 シュヴァイツァー博士がこう言うのである。「総じて近代のバッハ弾きたちの演奏は、あまりにテンポが速過ぎる嫌いがある」と。それは誰でも首肯しゅこうされることであるが、博士は更に、「詳しく言えば、遅いところは速く弾かれ、速いところは無用に遅く弾かれる。アレグロはバッハの意図より遙かに遅くなるくせに、アダジオはバッハが考えたであろうより、あまりにも速く弾かれる」と言うのである。
 単にテンポが速いと言うだけではない、近代の演奏家たちは、バッハの音楽から劇的な空気をかもし出すために、その楽曲の姿を変えていささかも疑わなかったのであろう。
「その上」にとシュヴァイツァー博士は言うのである。歌うように、滑らかに演奏することさえもしばしば忘れるのはなんとしたことであろう。バッハのオルガン曲にレガートが不必要である筈はない。――音は、ぽつりぽつりと切って演奏することを、古典らしいと思うならば、それは実に重大なる誤謬ごびゅうであると言わざるを得ない。
 総じてバッハの音楽にダイナミックな変化を付けることは、甚だ好ましからぬ趣味で、バッハが二百年前に、謙虚な心持で書いたオルガン曲は、近代のダイナミズムとはおよそ縁のないものである。――言葉は違うが、シュヴァイツァーの主旨は、大方こう言ったものである。

 バッハの全生涯を通じて、オルガンの作曲期間は必ずしも長くはなく、その作品の量も、他の器楽曲に比して、決して多くはない。しかしその半生を教会のオルガン弾きとして、名利の外に暮したバッハに取って、オルガンという楽器は、その愛着と自尊心とを賭けたものであったことは、いろいろの伝記に明らかなことである。オランダの名オルガニスト、ラインケンの演奏を聴くために、餓えて窓の下に立ったバッハが、金貨をくわえたにしんを拾ったのは十五歳の時であった。
 フランスの名オルガン弾き、マルシャンが、バッハに競演をいどみ、いざという時は逃げ出したのは、バッハ三十歳前後のことであったろう。教会のオルガン弾きとしては、ワイマール時代までであったが、それでも後年即興的に演奏して、美事な技巧に友人たちを喜ばせたと言われている。また一面バッハはオルガン奏法、わけても指の使用法に劃期的な改良を加えたことは、隠れもない事実である。
 バッハが真にオルガンの中から生れたような人間であったことは、否むことの出来ない事実で、その作品はよしや他の器楽曲に比較して数において少くとも、一曲一曲が魂を打ち込んだものであり、従来の形式張った無味乾燥なオルガン曲に、一脈の人間味と、さんたる美しさを加え、百代の金字塔的な豊彩を放ったことは、まことに偉とすべきである。
 バッハのオルガン曲の興味は、その信仰の表われとも言うべきコラールと、作曲技巧の粋を尽した遁走曲フーグにあると言っても差支えはない。ルーテル派の讃美歌から、自在にその楽想を採ったと言われるコラールについては暫く措いて、『フーグ』に示したバッハの巨大な風格は、後世何人もこれと並ぶことを許さないものがあるだろう。バッハにおいて遁走曲フーグの表現力は、極度に音楽的な美しさを発揮し、形式美を滲透して、その内面的なものの発露を感じさせずには措かないのである。
 前奏曲における伝統の上に築かれた自由な美しさ、幻想曲の壮麗雄渾な芸術性の飛躍、バッハをほかにして、これは求められないものであった。
 これらの曲の演奏に当って、シュヴァイツァー博士は、現在の発達したオルガン――或は機械的に発達し過ぎたオルガンの行き過ぎた表現力に満足せず、演奏者の意図と思想と趣味を、極めて直截ちょくせつに表現し得る「古いオルガン」を捜したと言われている。
 現代の楽器は改良され尽して、発達の絶頂に置かれ、この後は「電気仕掛け」に変るべき運命を持っているらしく思われる。楽器の改良はもとより悪いことではないが、楽器は発達すればするほど、演奏者の意図を伝えることがむずかしくなるものである。最も正直な楽器は人間の声で、最も演奏者の意図と遠ざかった楽器は「電気仕掛け」の楽器である。改良されれば音も豊饒に美しくなるだろうが、演奏者の意図や趣味はますます遠くなるばかりである。トーキーの音楽や電気ピアノや、テレミンの音が、なんとデリカシーを欠いたものであることか、私は改めて説くまでもあるまい。
 もとより、現代人の手になれる現代楽曲を、現代人が演奏して、充分の効果を挙げる時には、発達した楽器も必要であろうが、バッハのオルガン曲の場合は、トーキー音楽やテレミンは日を同じゅうして語ることは出来ない。教会のオルガン弾きとしてほとんど神を讃美するためにのみ作曲したバッハのオルガン曲――敬虔けいけん無比なそのフーグやファンタジーを演奏するために、哲人シュヴァイツァー博士が、欧州全土に、二百年前の機構を有する古いオルガンを捜したのは涙ぐましい努力である。

 この『オルガン音楽』集の演奏から、何々楽団の大オルガンを用いたというが如き、舞台の名人たちの華かな効果を求めてはいけない。シュヴァイツァーの素朴な、謹厳な演奏は、世にも地味なものであるが、その底には敬虔にして毛ほども忽諸こつしょにしない、名匠の精進が潜み、二百年前の「西洋音楽の父」なるバッハ魂が、あるがままの姿で浮き出して来ることを知らなければならない。

 この『トッカータと遁走曲=ニ短調』も、『幻想曲と遁走曲=ト短調』も、かつて幾通りかのレコードで聴き知っている人も少くあるまい。それらがいかに豪華に、いかに荘厳に演奏され、劇的空気を醸し出したかも言う必要はない筈だ。既に、『小遁走曲=ト短調』の一曲においても、私どもは巧みに劇的な盛り上げ方をした、ヴァーチュオーソたちの美しい演奏を聴き知っているが、シュヴァイツァーにおける場合、それは、なんという野暮やぼったい、地味な、そして気のきかない演奏であろう。一曲一曲についてそれを言うまでもなく、いやしくもバッハのオルガン曲に関心を持つ者ならば、この演奏の素朴な淋しさに、茫然たる人さえあるだろうということを私はおそれている。
 しかし、その人たちは、近代の華麗な軽佻けいちょうな歪められ過ぎたバッハを聞き馴らされ、バッハの粉黛ふんたいを施した一面だけを見ていたことを反省しなければならない。バッハは正に、シュヴァイツァーの説くが如く、この謹厳素朴な、あるがままの姿こそ本来の面目なのである。
 ここに本当のバッハの神性があり、バッハのつくろわぬ美しさがある。淋しい故に古典を棄てるならば、去ってジンタ化せるトーキー音楽でも聴くがいい。いやしくもバッハの魂にふれ、バッハの神性を把握し、バッハの美しさを味わわんとするならば、真人シュヴァイツァー博士のバッハに聴くべきである。
 このレコードに対して、私は全面的に支持する所以ゆえん、極めて概念的ではあるが、真意をんで頂きたいと思う。
(この項『ディスク』昭和十三年一月号所載)
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デュプレ、ブレー、ドウソン




 オルガン曲はどちらかと言えば日本の人々には馴染が少く、シュヴァイツァー博士の演奏したバッハの「オルガン音楽」の如きも、営業的には決して成功しなかったようである。ただ纔かに人間としてまた伝道者として知られていた関係で、一部の人に最も深い感銘を与えたという程度であった。しかしオルガンの技巧から言えば、シュヴァイツァーよりはマルセル・デュプレの方が遙かに上位に置かるべきものである。シュヴァイツァーの演奏は、人間としての貴さがその演奏の上に認められるのためで、オルガンを駆使する技巧や純正な演奏という立場から言えば、フランスの大オルガン奏者なるデュプレを推さなければならぬ。
 デュプレはノートルダム寺院のオルガニストであり、パリ音楽院でバッハのオルガン曲を全部演奏したという驚くべき記録を持つ人である。この人の得意は勿論バッハにある。日本ビクターには極めて僅かしか出ていないが、HMVにはかなり多くある。日本ビクターのはほとんど大部分絶版にされ、バッハの『前奏曲=ト長調』『遁走曲=ト長調』を裏表にしたもの(七二七一)及びバッハの『パッサカーリアと遁走曲=ト短調』(JD一一五三―四)があるくらいである。


 ほかにビクターにはブレーとドーソンがある。巴里パリバッハ協会会長にして、バッハ弾きとして有名なブレーの『トッカータとフーガ=ニ短調』と『幻想曲とフーガ=ト短調』は逸することの出来ないレコードだ。
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その他のオルガニスト




 ヘンデル弾きとしてポリドールのフィッシャーを逸することは出来ぬ。昔数組のヘンデルを演奏していたが、やはり絶盤になってしまって、現在では僅か一曲『コンチェルト=ニ短調』(J〇三九九)が残っているだけである。バッハの理智的なのとは違って、華麗なヘンデルを聴かしている。
 同じくポリドールにあるトゥルヌミールが演奏したフランクの『コーラル=イ短調』(四〇四七四―五)その他を記しておく。
 コロムビアにはハロルド・ダウバーの弾いたヘンデルの『協奏曲=ニ調』(J八三六六)がある。
 その他通俗な曲をシネマ・オルガンで演奏したものは無数にあって、一々挙げるのも煩わしいほどである。
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クラヴサン


ランドフスカ

 クラヴサンという楽器は、どういうものか、日本の好楽家には大変好かれている。ただ日本ではこの楽器が行きわたっていないので、その演奏技術などは、ほとんど全く知られていないと言っていいくらいであるが、レコードで聴くこの楽器は、音質の美しさとこまやかな表現力で一般に喜ばれるのであろう。ソロ楽器としても面白いが、オーケストラに助けられて協奏曲を演ずる場合もまた多くの興味がある。
 クラヴサンの世界的巨匠は、言うまでもなくワンダ・ランドフスカ夫人である。
 ランドフスカ夫人はポーランドに生れてドイツで修業し、フランスで大名を馳せたという変った経歴の持主であるが、この人の偉大さは古典の研究者として有名であること、ピアノ奏者としても一流の技倆を有すること、もう一つは作曲家でもあることだ。それよりもランドフスカ夫人を有名にしたのは、このクラヴサン(英語ではハープシコード)という古い楽器を、近代人の表現力に適応するように、二列の鍵盤と多数のペダルを持つ独特の機構を持つものに改良したことである。従って従来の古いクラヴサンには聞かれなかった豊麗な音と、行き届いた表現を発揮出来るようになったのである。この人のクラヴサン演奏は、研究者にとっては最も良き研究材料であり、アマチュアにとっても非常に楽しい音楽である。
 ランドフスカ夫人のレコードは電気以前にもあった。電気になってから数年は、一、二小曲を入れたに過ぎなかったが、近年に到って世界のファンの要求を容れて急に活動を始め、大曲を続々とレコードするようになった。
 大曲を入れるようになってからの最も優秀なものは、ごく最近入ったバッハの『イタリー協奏曲』(ビクターJD一二四二―三)とハイドンの『クラヴサン協奏曲=ニ長調』(JD一三一六―八、名曲集六九六)が挙げられる。
 やや古いものでは、ヘンデルの『クラヴサン組曲』(JD九四五―五〇、名曲集六四四)とバッハの『ゴールドベルヒ変奏曲』(JD二七一―六、名曲集五一九)を採るべきであろう。
 この人の一枚物、小曲物で満足する人には、ビクター名演奏家秘曲集に入っているバッハの『ガヴォット』が最も良く、バッハの『イギリス組曲』(DA一一二九)も一枚物として可愛らしいが、吹込みはやや古い。新しいものでは前記『イタリー協奏曲』が最も代表的なものであろう。また、大曲の研究者には『ゴールドベルヒ変奏曲』が重要なレコードである。

 その他クラヴサン演奏家としてはレスジャン=シャンピオンがあり、ビクターにあるクリスチャン・バッハの『クラヴサン協奏曲』(K六四二三―四)が可愛らしい。

クラヴィコード


 クラヴィコードはまたハープシコードとは違った意味で古典音楽として非常に興味あるものであるが、レコードはドルメッチの演奏した『バッハ四十八協会』レコード(コロムビアJ八一四一―七)以外には、あまり重要なものはない。但し『四十八協会』はバッハのオリジナルの形を知る上に、またこの古典楽器の性能や表現を知る上に、非常に興味の深いものであることを記憶して欲しい。

ハープ


 ハープは独奏楽器としてはクラヴサンほどの興味はない。しかしオーケストラでは重要な役目を務めることは申すまでもない。
 レコードはビクターにラスキーヌ独奏のものが相当入っている。中でもフォーレの『即興曲』(JB一二一)が良い。ポリドールにもこの人の演奏したヘンデルの『ハープ協奏曲[#「ハープ協奏曲」は底本では「ハーブ協奏曲」](三五〇五二―三)がある。後者は演奏は良いが、録音があまり良くない。
 ほかにビクターには、パリで有名なヘルブレヒト独奏のラヴェルの『序奏部とアレグロ』(JB三五―六)がある。

フリュート


 フリュートではマルセル・モイーズが最も活躍しており、かつ興味が深い。モイーズは現在パリ音楽院の教授であって、フランス第一流のフリュート奏者であり、また世界一流の奏者でもある。但しこの人のフリュートは、フランス風の透明な硬い音の吹き方である。それも面白いが、アマディオのような柔かいフリュートのあることも忘れてはならぬ。
 モイーズのフリュート独奏のレコードは、ビクターとコロムビアに相当多く入っているが、絶対的に推奨し得るのはモーツァルトの『フリュート協奏曲=ニ長調』(ビクターJB二〇七―八、名曲集七〇三)と、モーツァルトの『フリュートとハープの協奏曲=ハ長調』(ビクターJB一―三)である。前者はやや吹込みが古いが、非常な名盤で、モーツァルトの器楽曲の面白さとモイーズの巧さとを満喫することが出来る。『フリュートとハープの協奏曲』は、モーツァルトの作品としては極めて近代楽風な新し味があり、いずれも充分に面白いものである。
 その他モイーズの大曲としてはバッハの『組曲=第二番』(ビクター)及び『ブランデンブルク協奏曲』(コロムビア)の両レコードに参加したものも逸し得ないだろう。
 モイーズの一枚物はコロムビアに多く入っている。曲目の興味あるものを選ぶのが本当だろう。
 コロムビアにある大物としてはドビュッシーの『フリュート、ハープ、ヴィオラのための奏鳴曲』(J五三六四―六、傑作集一八六)がある。ハープはラスキーヌが弾いている。しかしこれは相当難解な近代楽であることを知っておくべきである。

 その他、ビクターにはアマディオが入っている。この人のフリュートはモイーズとは違った良さがあり、非常にふっくらした柔かい音が特色である。モーツァルトの『フリュート協奏曲』をたった一枚に入れているのが傑作である(一一一三二)
 コロムビアにはルネ・ル・ロアも入れている。この人も巧い人だと言われている。

ギター


 ギターではアンドレ・セゴビアが依然としてギターの王座に納まっているようであるが、かつて日本にも来遊したことがあるから、そのデリケートな芸術を記憶している人もあろう。
 レコードではビクターに十数曲入っているが、その一つ一つがすべて良い。どの曲が良いかということは言えない。いずれを採っても無駄がないようである。大体近代スペイン作家のものとドイツ古典ことにバッハのものが多く、スペインのも面白いが、バッハも同様に極めて興味が深い。めいめいの趣味によって決すべきであろう。
 コロムビアには最近フリオ・マルティーネス・オヤングレンが盛んに活躍している。非常に達者な技巧の持主である。
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巨匠の回顧


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歌の骨董レコード[#「骨董レコード」は底本では「骨菫レコード」]


これは蒐集の目的のために書いたのではない。読者諸君の古い蒐集の中にこれらのレコードがあったらどうぞ故人のために大事にして下さいという意味で書いたに過ぎない。


 レコードの蒐集は、常に音楽愛に終始すべきもので、絶対に骨董いじりに堕してはいけない――これは私の年来の主張だ。
 年代の古さやレエベルの珍奇さをあさるなら、マッチのペーパーでも集めた方が、よっぽど安くつくだろう。何を苦しんで高価で破損し易くて、おまけに手に入りがたいレコードの骨董集めに浮身をやつす必要があろう。
 骨董的なレコードの蒐集は、電気以前のレコードに懐古的な夢を追う老人に任せておくがいい。若くて聡明で、音楽の正統的な趣味に赴こうとするものが、十九世紀の匂いのする古物をあさるのは、どう同情して考えてもあまり褒めたことではない。
 電気吹込みの新しいレコードを聴き尽した人が、過去のアーティストを振り返って見るのは許されていい。骨董レコードの本当の値打は、電気吹込みの新しいレコードを聴き尽して、ふるきをたずねる意味においてこそ重要なのである。
 私がここに骨董レコードを語るのは、若くて野心的で、音楽愛に燃ゆる人たちを相手にするのではなく、ファンの中のほんの一部分を占むるであろうところの、極めて少数の懐古的な老人たち及び、特別な研究者のために、最近の私のコレクションに現われた、骨董レコードの変化を語りたいと思うからである。
 骨董レコードに溺れるのは馬鹿げたことであるが、骨董レコードを無視する態度も決して褒めたことでない。新刊の娯楽雑誌を追うような心持で、先月のより今月のが良いように思うのは、「お坊ちゃん的蒐集癖」以外の何物でもないのである。
 レコードの役目は、名人巨匠の現在の芸術を、時間も場所も超越して、万人に聴かせるためのものであると共に、名人巨匠のすぐれた芸術――その個性と時代色と――を、後の世にのこすことでなければならない。
 骨董レコード中、最も価値の低いものは、管弦楽のレコードで、これは録音技術の進歩の関係上、電気吹込み以前のレコードは、ほとんど無価値と言っても大した間違いではないと思う。その中に、ニキシュやシュヴィヤールのものが僅かに貴重であるとしても、管と絃との区別も判然としないレコードから、ニキシュの真面目をつかもうとするのは、掴もうとするものの無理で、むしろニキシュに対してお気の毒なことになりはしないだろうかと危まれる。
 諸種の協奏曲はそれに次いで値打がなく、弦楽四重奏曲もほとんど聴くに堪えない。ピアノも音の再現は言うに足りないが、演奏者の気持と、曲のスタイルは僅かに伝えている。ヴァイオリンはやや(実に心細いが)保存の魅力を感ずるが、これと言っても大した値打のものでなく、電気吹込みのないイザイエやブルメスターやヨアヒムに、少しばかりの興味を持たれるに過ぎないだろう。
 そこへ行くと歌のレコードは最も興味が深く、伴奏部の貧弱さをさえ我慢すれば、どうかすると、今日の電気吹込みレコードより魅力的なものがある。人間の声は音域が狭い上に物故名人巨匠たちの遺せる芸術や、今は老境に入った名歌手たちの、若かりし頃の芸術を聴くという楽しみがあるためであろう。
 しかしこれも、電気のレコードに飽満した上のことだ。近頃の見事な録音を無視して、むやみに古いものばかりをあさり、魅力も美しさも失せてしまってから吹込んだ老歌手の気の抜けたレコードに、数十金を投ずるといった趣味には、私はくみすることが出来ない。「手頃のところに、もっと若くて弾力があって、ぴかぴかするような歌い手の電気レコードがたくさんあるじゃないか」私は骨董いじりの邪道に入った人に、いつでもそう言ってやるのである。
 レコードの蒐集はあくまでも芸術的価値で決定すべきもので、いかに世界的に有名な歌手であろうとも、我らはその実演も聴いたことのない人たちの、下手な或いは気の抜けた演奏に愛着を持つ必要はない。記念という意味ならば、乞う、「君の父親の謡曲でも入れさしておくことだ」と言いたいくらいのものだ。


メリー・ガーデン Mary Garden

 近頃アメリカの国際レコード蒐集家倶楽部(I・R・C・C)が、電気以前または電気直後の廃盤になったレコードのうちから、重要なもの、或いは珍奇なものをプレスして、同好者に頒布している。これは我々母型を有せざる日本のファンにとって、まことに健羨けんせんあたわざるところである。
 その曲目には、珍しいもの、すぐれたものが非常に多い。が、ややアメリカ人好みに堕して、我々日本人には蒐集の意味の解らないものがないでもない。この全部のレコード百何枚とかを取ることは、日本人として無意味のことであるが、数あるレコードの中の五、六枚或いは七、八枚は、真に珠玉的な魅力を持っていると言っても過言ではない。
 その筆頭に掲ぐべきは、メリー・ガーデンがドビュッシー自身のピアノ伴奏で吹込んだ二枚のレコードのうち、『ペレアスとメリサンド』(Pell※(アキュートアクセント付きE小文字)as et Melisande)と『グリーン』(Green)である。『ペレアスとメリサンド』の初演の時、作者ドビュッシーは、その主役にガーデンを指摘したことは、世界楽壇の有名な話で、その演奏のすばらしかったこともまた想像にかたくない。ドビュッシーの伴奏をひいたレコードというものは、ほかにも有名すぎるほど有名なクルプの歌った『星月夜』があるが、『ペレアスとメリサンド』を歌っているだけに、この蒐集家倶楽部のレコードの方が遙かに尊い。
 メリー・ガーデンという人は、決して声の良い人ではなく、歌は知的で、技巧はクロアザのように優れているが、世間のいわゆる美しい歌ではない。イタリー歌劇のアリアを歌う美声家たちのような心持で聴いたら、悲観する人は少くなかろう。この稿を書く前夜も私は堀内敬三氏に逢って、一時代前アメリカで歌った人気者たちの話をしたが、堀内氏なども現に、メリー・ガーデンは決してうまくなかったと言っている。「本当にうまいのはファーラーだったでしょう」とも言っていた。メリー・ガーデンの良さは、その美貌と政治的手腕と、俳優としての素質と、人間としての聡明さと、一種の技巧であったらしいことは、書いたものとレコード以外には知らない私でも想像のつくことだ。ドビュッシーは恐らく、この聡明さを買って、『ペレアスとメリサンド』の初演という大仕事を成功さしたのであろう。
 メリー・ガーデンの風貌は、美しく賢き「女大御所」という感じだ。この人は資本家でもあり、演出家でもあり、歌劇場の支配人でもあった。映画界のメリー・ピックフォードがややこの人に似ているような気がする。電気以前コロムビアに三枚のレコードがあり、電気以後のビクターには一枚だけ(ドビュッシーの『美しき夜』とシュルクの『月光』)が入っているが、決して重要なレコードではない。


ゲルハルト Elena Gerhardt

 国際レコード蒐集家倶楽部のレコード中、最も興味の深いのは、エレナ・ゲルハルトがニキシュ(Nikisch)の伴奏で歌ったヴォルフの『ハイムウェー』(Heimweh)であろうと思う。ゲルハルトがまだ少女時代に、その才能を名指揮者ニキシュに見出され、ニキシュが自らピアノ伴奏を引き受けて、欧州を巡遊したことは、いろいろの意味で楽壇に話題を投げかけた。その頃のゲルハルトの良さは、我々はいろいろの方面から語り聴かされたが、レコードではドイツ・グラモフォンに、ウィンクラーの伴奏で入れたのが最も良く、それさえも今では骨董中の大骨董で、市中で手に入れる見込みはほとんどないようである。
 ゲルハルトの声の美しさは、一九一〇年代は絶頂であったらしく、ニキシュ伴奏のこのレコードを聴いて、私はゲルハルトの名声の決して誇張でなかったことを知ったくらいである。ドイツのリードを歌って、誰が果してこれだけ美しい声を持っていたであろう。これに比べると当代人気第一のロッテ・レーマンも荒々しく、エリザベート・シューマンはあまりに頼りがない。ゲルハルトの声は緻密で、深くて、言うに言われぬ高貴なにおいと光とがある。その上、この人の技巧は一九一〇年代のようやく少女時代を過ぎたばかりの若さで、ほとんど絶頂期に達しているのは驚くべきことだ。
 ニキシュの伴奏は、電気以前のレコードとしては非常に優れたもので、凜々としてゲルハルトの歌を引き立てている。恐らくこの伴奏だけでも、後世への重大な記念になるものだろう。
 ゲルハルトのドイツ・グラモフォンに入れたレコードは、悉くザイトラー・ウィンクラーの伴奏で、両面で十枚ぐらいある筈である。その中には、R・シュトラウスの『モルゲン』(Morgen)、ヴォルフの『フェルボルゲンハイト』(Verborgenheit)などがすぐれたものだろう。恐るべき雑音ではあるが、約十枚のレコードはことごとく良いものだ。
 が、それにもましてゲルハルトの良さは、英米のエオリアン・ヴォカリオンに入ったレコードであろう。赤靴のような米国ヴォカリオンの『魔王』(Der Erlk※(ダイエレシス付きO小文字)nig)は古レコード屋で二十円以上ということであるが、これは恐らく先のニキシュ伴奏の『ハイムウェー』に次ぐ名盤で、シューベルトの『魔王』をこれほど巧みに歌っているレコードを私は知らない。若き頃のゲルハルトよりはかなり劇的になっているが、それがまた『魔王』には打ってつけであったように私は思う。
 そのほかには『死と乙女』(Der Tod und das M※(ダイエレシス付きA小文字)dchen)が優れており、私一個の好みから言えば、ブラームスの『野の寂しさ』(Feldeinsamkeit)が優れていると思う。この閑寂な美しさは、スレザーク以外には決して追従をさえ許さないだろう。電気以後のゲルハルトについては大方の知らるる通りだ。


ファーラー Geraldine Farrar

 ファーラーの歌い振りは非常に個性的なもので、近代のドラマティック・ソプラノの歌手では、これほど魅力に富んだ人はないだろう。それはあやしきまでの魅力である。カルメンなどを聴くと、ドン・ホセならずとも、魂を奪われずにはむまいと思うほどである。
 この魅力的な歌い方に対して、私は長い間ファーラーの個性に原因するものと思い込んでいたが、数年前、近代ドイツの名歌手リリー・レーマン(Lilli Lehmann)の遺した有名なオデオン・レコードを聴くに及んで、「これあるかな」と思い当った。ファーラーの魅力の胚種はいしゅは、リリー・レーマンのうちにあったことを発見(?)したのである。ファーラーがリリー・レーマンに師事したのは、十九世紀の末の少女時代で、恐らく当時のファーラーは『オーケストラの少女』のディアナ・ダービンの如く美しく、ディアナ・ダービンの如く聡明であり、そしてディアナ・ダービンの如く達者であったことと思う。その頃カイゼルがファーラーを御贔屓ひいきで、いろいろ噂の種になったことは、かなり有名な世界的ゴシップである。
 前項に堀内敬三氏の話を書いておいたが、若かりし頃のファーラーは、全くすばらしい存在であったらしい。アメリカ生れであったことが、お国自慢のアメリカ人の間に、ファーラーの人気をあおる一つの原因でもあったが、しかし同じアメリカ人でも凡骨ターリーのような天才少女もあるところを見ると、ファーラーの人気の大部分は、当然ファーラーの美貌と演技と歌とによってち獲たものと言って差支えはあるまい。
 これは遙かに後の話だが、ドイツで修業したファーラーの圧倒的な人気を忘れかねて、メトロポリタンの支配人は、ファーラー凋落後、同じドイツで修業した、ドラマティック・ソプラノ歌手のぴか一、イエリッツァをスターに迎えた。これは美しさも、演技も、歌も、決してファーラーに劣るものでないと思われたにかかわらず、その人気はファーラーの三分の一にも及ばなかった。極めて肝腎にして、しかも、ややもすればテストの目をこぼれる、魅力というものに欠けていたからである。
 ファーラーは全く美しかった。その演技のすばらしさも、映画で見た人は記憶している筈である。カルーソーの晩年、そのホセにカルメンを付き合ったとき、終幕を効果的にするために、滅茶滅茶に逃げ廻った。肥ったカルーソーが舞台中をふうふう言いながら追い廻したという逸話も伝わっている。匕首あいくちを振り廻したカルーソーが、美しくて妖艶で、その上軽捷なファーラーを、よちよち追い廻す図は、考えただけでも相当のものだと思う。
 ファーラーの魅力の絶頂期を代表するものは、メトロポリタンで大戦直前に歌った『カルメン』と『蝶々夫人』と『ラ・ボエーム』のミミであった。これは一九一〇年頃からぼつぼつビクターにレコードされ、一九一四、五年にはファーラーの優れたレコードは全部揃ってしまったと言ってもいい。一九一九年以後の吹込み――つまり大戦以後のファーラーの新吹込みレコードには、もはや一枚も良いものはなかったと断言しても差支えはない筈である。
 最近藁科わらしな君の好意で聴かしてもらったI・R・C・C(国際レコード蒐集家クラブ)のファーラーのレコード七、八枚のうちで、私が特に興味を感じたのは、リリー・レーマン仕込みのドイツ系の歌で、わけてもモーツァルトの『アレルヤ』(Alleluja)は傑出したものであった。(一九〇八年頃の吹込みで、ファーラーがメトロポリタンに入った前後のものであろう)
 この『アレルヤ』の良さは、ダービンなどは比較にもならない。オネーギンの如く巧者で、エリザベート・シューマンよりも輝かしく、いて比較を求めたならば、電気以前のドイツ・グラモフォンに入っていたエリザベート・シューマンの『アレルヤ』が、僅かに追従するだけであろうと思う。
 若かりし頃のファーラーというものはそれほど優れた素質を持っていたものである。もし私の言葉に疑問を抱く人があったら、『カルメン』の「ジプシーの歌」か、『蝶々夫人』の「或る晴れた日」か、『ラ・ボエーム』の「わが名をミミと呼ぶ」を聴いて見るがいい。これほど巧妙で、こぼれるような美しさと、輝きと、魅力を持った人が、最近の進歩した電気吹込みにたった一枚でもあるであろうか。論より証拠、手近にファーラーを持っている人があるなら、新進の歌手たちの、あらゆる良き吹込み条件に恵まれたレコードと比べるのが、ファーラー認識の上に一番近道であろうと思う。

 ファーラーの良きレコードは何か――という問を、しばしば私は地方の人たちから受け取る。いとやすきことだから、出来るだけお答えしてはいるが、今日日本の市場でファーラーのレコードを手に入れることが、どんなにむずかしいことであるかということもついでに書き添えることにしている。外国から輸入の道が絶えた上は、日本の中古レコード屋を漁るほかはないが、中古屋にもファーラーのレコードの出ることは、一年に二、三枚、或いは一枚もないという心細い有様で、今ではメルバと同じ程度に稀覯品きこうひんになってしまった。
 ファーラーの良さに、二つの種類がある。一つは、メトロポリタンの当り役で、ドラマティック・ソプラノとしての本格なレコードに現われたファーラー。実例を示せば――
『カルメン』Carmen で、「ハバネラ」Habanera と「セギディリア」Seguidilla と「シャンソン・ボエーム」Chanson Boh※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me。この三つは甲乙なく優れたものだ。ほかにマルティネリと歌った「アルト・ラ!」Halte l※(グレーブアクセント付きA小文字)! がすばらしい。総じてファーラーは妖艶な飛躍的なものが良く、「ミカエラのアリア」などは、どうもピタリと来ない。
『蝶々夫人』Madame Batterfly では先に書いた「或る晴れた日」Un bel di Vedremo は圧倒的だ。この歌をこれだけに歌ったレコードを私は知らない。ディスティン Distinn[#「Distinn」はママ] が僅かに比較されるだけ。電気以後はその靴の紐を結ぶに足りるのさえないようだ。カルーソー Caruso と歌った愛の二重唱 O quant' occhi fisi も歴史的な意味を持つレコードであろう。
『ラ・ボエーム』La Boh※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me では「わが名をミミと呼ぶ」Mi Chiamano Mimi はすばらしい。この歌はリリック・ソプラノでもう少し優しく静かに歌う方が良いのだが、ファーラーは存分に劇的に歌って、少し激情的であり過ぎるが、その約束を超えて美しい。続いて「アディオ」Addio もそれに劣らず良いものだ。
『トスカ』Tosca もかなり早く入ったが、「愛と歌」Vissi d'arte e d'amour は良い。『ファウスト』Faust は「宝石の歌」Air des bijoux' メルバと相対するものだろう。ほかにカルーソーと歌った「庭園の場」Garden Scene'、ジュールネ Journet と歌った「寺院の場」Church Scene なども逸してはいけない。
 ほかにクライスラーの助奏付きで『ミニヨン』Mignon の「君よ知るや南の国」Connais tu le pays?、スコッティと歌った『ホフマン物語』Tales of Hoffman の「舟唄」Baraolle[#「Baraolle」はママ] など、ファーラーのレコード中でも有名なものだ。

 もう一つの種類は民謡や流行歌を唄ったレコードには、クライスラーの助奏付きで、『ミニヨン』の「君よ知るや南の国」と両面に組合せになった“Mig※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-1]hty[#「Mig※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-1]hty」はママ] Lak' a Rose※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-1]がある。レコード界の貴重品と言っていい。ほかに“My old Kentucky Home※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-2]“Comin' Thro the Ryel※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-2][#「“Comin' Thro the Ryel※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-2]」はママ]なども挙げられるだろう。
 フランスの名テナー歌手クレーマン(Cl※(アキュートアクセント付きE小文字)ment)と歌った“Au Clair de la Lune※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-4]は、非常に興味の深いもので、手に入り難いだけに市価も貴い。ほかに小さいもの可愛らしいものが少からずあったが、煩わしさを避けてここには省く。

 ファーラーが映画へ出演したのは、今から十四、五年前であったろうか。ファーラーの歌手としての生命はそれっきり幕を閉じた。今なら歌の魅力で、グレース・ムーアなどには物も言わせなかったことであろうが、惜しいかな、その頃はトーキー以前で、ファーラーを必要とした映画は、その美貌と演技だけに止まり、あたら「歌」は永久に葬られることになったのである。ファーラーのためには、映画進出はまさに致命的な葬送行であったと言っても差支えはない。
 その後、声も若さも失ったファーラーは再度オペラに復帰の望みを絶たれ、コンサートとレコードへの復活を心がけたが、少くともレコードの方はかんばしいことがなかったようだ。「ドイツ・リードを歌いたい」とフォノグラフ記者に漏らし、「アイ・アム・ソーリー」なんて言われたことを私は記憶している。事実、ファーラーのドイツ・リードは、I・R・C・Cにも入っているが(シューマンの『胡桃樹ヌスバウム』)あまり結構なものとは思えなかった。
 電気吹込みのファーラーはたった一枚あるようだが、これも幻滅ものであったと思う。結局人は出所進退を誤ってはいけないという平凡な実例を残して、ファーラーは老いてしまった。まことに惜しいことであるが、残されたレコードは約百枚(私の如きでさえその内の三分の二は持っているが)、後世への尊い遺産であることがせめてもの慰めであった。


クレーマン Edmond Cl※(アキュートアクセント付きE小文字)ment

 二十世紀になってから、フランスは多くの名歌手を出した。プランソン、ジュールネ、ヴァンニ=マルクー、ムラトール、カルヴェ、ヴァラン、――などはゆうなるものだが、わけても我らに取って、興味の深いのは、エドモン・クレーマンの存在である。
 クレーマンは先年故人になったが、その晩年は音楽院の声楽主任であるほか、私塾を開いて弟子でしを取り、世界の声楽研究生のメッカの観を呈したと言われている。日本の歌い手の奥田良三氏なども、「クレーマンの門に入りたいと思ったが、あまり月謝が高いので、恐れをなして、アンジェロのもとに行った」と言っていたように記憶する。その頃クレーマンの月謝というのは一週一回で、数百金であったそうだ。
 岩崎雅通まさみち氏がクレーマンに教えを乞う希望のあった奥田氏のために、手紙で都合を訊いたことがあるそうだが、折返し来たクレーマンの返書は懇切丁寧を極めたもので、「私のところは授業料が高いから、他の良い教師をお世話しよう」と言ったということであった。自分の見識を崩さずに日本の学生をいたわったクレーマンの心やりはゆかしい。
 クレーマンの歌のよさは、腹の底からのフランス人であるためで、かつてはメトロポリタンにへいせられて、その華やかな舞台を踏んだクレーマンが、どうしてこの気品と柔かさを維持し得たか、我々には全く不思議である。この人の歌を聴いて第一に感ずることは、そのたしなみの深さとスタイルの美しさである。ティルやジーリのように決して叫ぶことをしないのは当然としても、スキーパのような通俗な媚態がなく、非常にすぐれた技巧家だが、決して技巧に溺れるということをしない。
 クレーマンの声はいかにも美しい、底光りのする内省的な声だ。空々しさは微塵もなく、常に心の中を訴えるように我々の耳に響く。その情愛と詩味は、若かりし日のスレザークと独仏好一対の芸術境であったと言えるだろう。
 従って、オペラによくメロディにいい。オペラもイタリーのではいけない。マスネーやラロに限られる。メロディは、ドビュッシー、フォーレ、フランク、往くとして可ならざるはない。
 ビクターには十六面の吹込みをしているが、独唱では、――幾度も書いたことだが、マスネーの『マノンの夢』Manon ― Le R※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)ve が絶品で、この歌のあらゆるレコードに冠絶する。極言することを許して貰えるならば、カルーソー以下の大歌手もこの歌における限り、クレーマンに比べると豚が吠えるようなものだ。これほど緻密な美しさと、真珠色の輝きと、行きわたらざるなき技巧で、ふんわりと押し包んだ情緒をかもし出すのは、まことに容易ならぬことと言うべきである。続いてラロの『イスの王』Roi d'Ys ― Vainement, ma bien aim※(アキュートアクセント付きE小文字)e を私は愛する。
 ジュールネと歌ったものが三枚、ファーラーと歌ったものが四枚あるが、いずれも早く絶版になって一九二〇年以後に残っているのは、ファーラーの項で書いた『月光に』Au Clair de la Lune だけであった。
 クレーマンの本当の良いレコードは、縦震動時代の昔のパテーにたくさん入っている。一九二三年のカタログによれば十九枚三十八面に上り、この中には絶品中の絶品と言われる“Romance”(Debussy)“Green※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、270-6](Debussy)“Clair de Lune※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、270-6](Faur※(アキュートアクセント付きE小文字)などがある。私も七、八枚は持っているが、近頃の蓄音機では縦震動レコードをかけようがないので、全くの宝の持ち腐れだ。
 クレーマンのフランス・メロディの良さはこの人の本質的なもので、クレーマンの持つ国民性と、その芸術境との現われであるとも言うべきであろう。一つ一つ書いても詮方せんかたはないが、いかにも高朗優雅なもので、これをただの骨董として葬り去るのは惜しい。縦震動レコードから横震動レコードに移す技術は、大してむずかしくないということであるが、これを電気に更生して、我々の蓄音機で聴くことが出来たらどんなに嬉しいことであろうか。


メルバ Nellie Melba

 二十世紀になってからの最も偉大なる歌い手は、十目の見るところ、女でメルバ、男でカルーソーの二人であろう。それにシャリアピンを加えた三人は、物故三大歌手として、我らの興味の的であるばかりでなく、恐らく後世への語り草として永く残る人たちであろうと思う。
 メルバのことについて、私は書き過ぎるほど書いた。が、この稿を続けるためには、古い材料を整理して、もう一度ここに繰り返さなければなるまい。
 濠州のメルボルンに生れ、父の意にそむいて音楽にいそしんだ話や、フランスで辛い修業の後、その父を自分の出演するオペラに招待して驚かした愉快な逸話は、あまりにも有名だ。私はここでは、単にメルバの――必ずしも多くはないレコードについて物語るに止めようと思う。
 地方のファンたちから「メルバのレコードならなんでも買って送ってくれ」とか、「お前の持っているメルバのレコードを全部売れ」とか言ったような、かなり虫のいい註文を時々受ける。私はそんなのには大抵取り合わないことにしている。大骨折りで捜し出して送っても、多くの場合後悔することの方が多いからだ。第一、古レコードを捜すなら、私に頼まずに、東京に十数軒ある中古レコード屋に頼むのが順当である。更に人のコレクションをいて売れと言うが如きに至っては、およそ紳士としてのデリカシーを持ち合わせない人の申し分と言うべきである。

 それはともかく、メルバは、一度聴いた者にとっては、忘れることの出来ない魅力だ。地方の人たちが、しばしばメルバ蒐集狂になるのも、また已むを得ないことであるかも知れない。現にこう言う私も、ビクターの一九二五年のカタログにあるメルバは二十二面のうち十九面まで集め、そのほか一九二五年以前に廃盤になったもの、またはHMVやグラモフォンにだけあるものを十三面ほど持っている。それも、ビクターとHMVと、またはHMVとグラモフォンとダブらせて持っているのも三、四枚あり、ほかに電気以後の三枚も、あらゆるプレスで持っているつもりだ。
 メルバの声は純粋で含蓄が深い。劇的なものによく、民謡によく、フランスのメロディに良い。この人の醸し出す情緒は、全く比類のないものである。往くとして可ならざるはなきメルバに取っては、平凡なレコードというものは一枚もなく、従って傑作として特に挙ぐべきものもない。メルバのレコード悉くが傑作であり、一枚一枚が珠玉の如く美しいからだ。
 中で蒐集家の方から問題にされるは、クーベリックの助奏したバッハ、グノーの Ave Maria と、メルバ自身がピアノの伴奏を弾きながら歌っているいわゆる「弾き語り」のレコードなどであろうと思う。
 しかし、優れたレコードという建前から言えば、むしろヴェルディの Otello ― Ave MariaWillow Song、モーツァルトの Figaro ― Porgi AmorVoi che Sapete, Il re Pastore ― L'amers, Saro Constanti、それにプッチーニの La Boh※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)meAddio と Mi Chiamano Mimi、それから『トスカ』や『トラヴィアタ』のような本格的なオペラであろう。

 メルバに小母さんらしい親しみを感ずる人には、Ye Bahks and Braes o' Bonnie Doon[#「Ye Bahks and Braes o' Bonnie Doon」はママ]Burns)や Annie Laurie、それから Good ByTosti)などをすすむべきだ。
 珍品あさりの人たちには、ショーソンの Le Temps des Lilas、ドビュッシーの Romance, Mandoline が喜ばれよう。この『タン・デ・リラ』については、私は幾度も書いた。世界的珍品の一つで、日本には二枚しかない筈である。
 世間並の興味からは、フリュートの助奏付きで Lo, Here the Gentle Lark が喜ばれよう。
 電気になってから、メルバは三枚六面のレコードを吹込んだ。一枚は早く日本ビクターで売り出した『ラ・ボエーム』の「アディオ」と「告別の辞」で、一枚は先頃ビクターの座右名盤集に採った『椿姫』である。しかしこの辺のメルバは引退期のもので、老巧ではあるが、多少の衰えを感じさせるのは已むを得ない。
 最後に、カルーソーと一緒に歌った Boh※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)meO soave fanciulla がある。さして上出来のレコードではないが、なんとなく物々しさを感じさせるだろう、後世へのよき記念の一つでもある。


カルーソー Enrico Caruso

 カルーソーが死んで十九年になる。ついこの間のような気がしているが、全く烏兎※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)うとそうそうといった古風な形容詞にふさわしい感じだ。
 カルーソーのレコードが、赤ビクターにじゃんじゃん入った頃のセンセイショナルな心持を、今のファンたちは知らない人の方が多かろう。カルーソーが死んだ時、日本の新聞が小さい写真入りで十行ぐらいしか書かなかったのを、その頃社会部の編輯に関係のなくなっていた私が、大いに憤慨したことを今でも記憶している。
 カルーソーこそは、全く世紀の歌い手といわるべき巨人的な存在であった。カルーソー亡き後のイタリー歌劇界の淋しさは、全く目に見えたほどで、二十世紀になってからのイタリー歌劇は、カルーソーを最後として、その華かな幕を閉じたと言っても大した誇張ではないほどである。
 カルーソー亡き後、スキーパ、ジーリを始め、ほとんど小カルーソーの観があった。マルティネリなどが、テナー歌手の代表的なもので、群雄割拠的にその勢威を競ったが、結局は団栗どんぐりの背比べで、カルーソーの魅力の十分の一にも及ばず、イタリー歌劇は顛落の運命を辿って、無残レヴューやショーやコミック・オペラに押されるの已むなきに至ったのである。かつて二十年、三十年前の欧米の士女はカルーソーを知らざるを恥とし、メトロポリタン歌劇場の前売券は、プレミアムが付いて飛んだが、カルーソー亡き後は、もはや聴かざるを恥とするような歌い手は、世界にたった一人もなくなってしまったのである。カルーソーの持てる人気の偉大さは、とにもかくにも驚くべきものであったに相違はない。
 多くの過去の歌い手たちのレコードは、時の背後に葬り去られて、一部好事家の骨董趣味を満足させるに過ぎないが、カルーソーのレコードばかりは、死後二十年近い今日までも、電気の再プレス盤として復活し、次の時代の人気歌手たちと堂々その声望を争う有様である。カルーソーのレコードを論ずることは、決して老人の骨董趣味でないことは、ビクターのカタログをあさるまでもなく明らかなことであると思う。

 カルーソーは一八七三年ナポリに生れた。若い頃の声は極めて脆弱ぜいじゃくで、歌の教師から「ガラスの声」と言われたということであるが、そのガラスの声が、後年ガラスを割るほどの強大な声になったということは、興味の深い因縁である。
 カルーソーを有名にしたのは、一九〇三年後のことで、その米国訪問と、メトロポリタン出演は、一挙にして歌劇界の王者に押し上げてしまった。続いてビクター・レコードの吹込みは、カルーソーの声を世界的にし、物好きな米国人たちは、驚喜して喝采を送り、いやが上にも大きい声を、大きい声をと要求して止まなかった。
 カルーソーは肥った醜い男で、芝居もあまり上手ではなかったらしい。それがロメオになり、ホセになり、ラダメスになり、ピンカートンになり、あらゆる優美繊弱なる良い男になったのである。歌わないカルーソーを舞台に見るのは、かなりの幻滅であったらしいが、一たび歌い出すと、天鵞絨ビロードの声と言われた、柔かい感触と、情緒の豊かな歌が、人間離れのした巨大な声量で、場の隅々まで凜々りんりんと響き渡った。英雄崇拝の好きなアメリカの聴衆たちが、随喜し渇仰したのも無理のないことである。その騒ぎようが、ちょうど世界選手権を取った重量拳闘選手に対すると、あまり性質の違ったものでないにしろ、とにもかくにも、盛大を極めたものであることは想像に難くない。
 カルーソーに対する要求は、「もっと大きな声、もっと大きな声」をということであった。カルーソーは精根の限りを叫んだ。叫び疲れてとうとう咽喉のどを痛めたカルーソーは、故郷のナポリに還って手術を受け、一時は恢復するだろうと言われたがついに再び起たず、一九二一年八月二日、その多難にして華かなりし生涯を閉じたのである。
 カルーソーのレコードは、一九二五年のビクター目録カタログには百五、六十面を載せているが、私の知っているのだけでも、このほかにまだ十面ぐらいはある。恐らく二百面前後がその総量であろう。
 カルーソーのレコードは一時ビクター会社の米櫃こめびつになったもので、カルーソーの死後その遺族の受取った印税は年額二十万円乃至ないし五十万円に上ったということであった。日本の流行小唄歌手の印税などは、羨望の的になった時代もあるようだが、カルーソーのそれに比べると物の数でもない。
 カルーソーの極めて初期のレコードは、黒盤であったということであるが、それは私も見たことがない。私はかなり古いカルーソーのレコードを持っているつもりだが、黒盤を持っていないのは、今でも重大な物足りなさを感じている。
 カルーソーのレコードが、最初日本へ来たのは、大正の初め頃であったろうと思う。赤盤片面一枚三ドルの時代は、日本の小売相場は七円五十銭で、一ドル七十五セント均一になってから、四円五十銭に値下げされた。当時のファンはカルーソーのレコードを一枚か二枚所有するのが、恐ろしい見得で、少々大袈裟に言えば、千里を遠しとせずして、カルーソーの新盤を聴きに行ったものだ。現に私なども、カルーソーを一枚求めると、電話口へ蓄音機を持って行って、友人へカルーソーを放送して聴かしたことなどもある。その頃は電話は度数制でなかったし、交換手嬢もあまりやかましく言わなかったものだ。
 辰野隆たつのゆたか博士が帝大の法科学生だった頃、あの運動場の日向ひなたで、友達へ伊十郎の『勧進帳』十何枚かを放送して聴かせる話をしていたように記憶している。明治四十二、三年のことのように思うが、その頃の電話の暢気のんきさがほほ笑ましく思い出される。

 カルーソーのレコードのうち、電気再生して、日本ビクターで売り出したのは、九枚十八面に及んでいる。これに完全にプレスされた旧吹込盤を蓄音機にかけ、伴奏だけを実演でダブらせて、電気に吹込み直しをしたものらしく、伴奏をダブらせる手加減と、その楽員の配置、マイクの距離などが、非常にむずかしいものだろうと思う。
 しかし電気再生の成績はなかなか優秀で、管弦楽が活き活きと美しく入ってくるばかりでなく、カルーソーの声までが、弾力と光輝とを加えて、昨今吹込んだものとあまり変りはない。願わくはこの方法を(テトラツィーニは既に試みたが)、カルーソー以外の名歌手たちにも試み、骨董レコードの優秀品に新しい生命を吹込んで貰いたいものである。
 カルーソーは伊太利イタリー歌劇の歌手で、なんと言っても、伊太利イタリー歌劇のものが最も優れている。わけても、『アイーダ』の Celesth A※(ダイエレシス付きI小文字)da[#「Celesth A※(ダイエレシス付きI小文字)da」はママ] や『リゴレット』の La donna ※(グレーブアクセント付きE小文字) mobileQuesta o quella と言ったものが絶品的だ。『浄きアイーダ』と『ラ・ドンナ・エ・モビレ』には電気更生盤もある。カルーソーの特色はこの二枚が最もよく代表するだろう。
 続いて『アフリカナ』の O Paradiso、『カルメン』の Air de la fleur、『マルタ』の M'appari、『道化師』の No, Pagliacci non sonVesti la giuqba[#「Vesti la giuqba」はママ]、『トスカ』の E lucevan le stelle などは一流的のレコードであろう。この『アフリカナ』の「オ・パラディソ」はもう一枚のレコードと共に、かつて新しい劇団の人が、米国の新しい劇を上演するために決定的に必要であり、諸方を捜した揚句、私のところへ来て持って行ったことのあるレコードである。『カルメン』の「花の歌」は平凡だが非常なむずかしい歌で、誰が歌ってもうまいところまでは行かないが、カルーソーは実によく歌っている。この歌のレコードで恐らく第一等の出来であろう。『パリアッチ』はカルーソー得意の一つで、私はカルーソーの死んだというニュースを受け取った時、なんとなくあのだぶだぶの白いドミノを着て、太鼓のばちを振り上げているカルーソーの姿を思い出したものだ。カルーソーは少し歌い過ぎるけれども、「いや道化どうけはもう真平まっぴらだ」などの悲壮味は比類もない。
 他のバリトンなりソプラノなりと一緒に歌ったのでは、ファーラーと歌った『ファウスト』の Prison sceneGarden Scene は美しい。メルバと歌った『ラ・ボエーム』の O soave fanciulla は出来の上から最上のものではないが、取合せがメルバであるのが興味である。ほかに『リゴレット』の四重唱や『ルチア』の六重唱は、或はゼンブリッヒ、スコッティ、セヴェリナとの組合せとなり、或はガリ‐クルチ、ペリニ、ルカとの組合せとなり(四重唱)、ガリ‐クルチに代るにゼンブリッヒを入れ、デ・ルカの代りにアマトを入れまたはスコッティを入れなどして(六重唱)いろいろの組合せで、おのおの三種ずつ入っている。いずれも極めて重要なレコードで、かつて日本の小売値段が十六円と言ったこともある大骨董品である。
 ほかに二重唱でシューマンハインクと入れた『トロヴァトーレ』の Ai nostri monti、アルダと歌った Miserere などは貴重でもあり、かつ優れたレコードでもある。

 歌劇に次いでカルーソーの面白さは、生国イタリーの、ナポリの民謡に聴かなければならない。カルーソーの民謡には、少しばかり叫び過ぎるにしても、一種素朴な良さがあり、その望郷の念に彩られた美しさが、惻々そくそくとして人に迫るものがある。これをただ器用に甘美に歌い廻す、スキーパなどと比べてはいけない。
 ナポリの民謡のうち、最も優れたものは、Santa LuciaO sole mio とであることは何人も異論がなかろう。その他ナポリの民謡や、ナポリ語で歌われた唄は少くない。その一つ一つにカルーソーの郷愁と愛情が沁み出していると言ってもいい。
 右のほかにカルーソーには思いも寄らぬ美しいものがある。ヘンデルの『ラルゴー』などはその一つだが、私の蒐集七、八十枚のカルーソーが今座右にないので、どれとどれと言うことは明言しがたいが、思いも寄らぬ美しいものが、カルーソーのレコードには潜んでいることだけを注意しておこうと思う。


クルプ Julia Culp

 ビクターの古いカタログをあさって、私はユリア・クルプに逢着した。このアルト歌手が、指揮者メンゲルベルクと共に和蘭オランダの国宝的存在であり、かつては薄倖なる天才、フーゴー・ヴォルフの紹介者として有名であったことは、およそ音楽に関心を持つものの悉く知っているところであるが、このアルト歌手の吹込んだ電気以前の骨董レコードが、二十年前三十年前に売り出された当時の二倍、或は三倍の中古値で、日本のファンたちに争奪されているということは恐らく当のユリア・クルプ夫人といえども御存じのないことであろう。
 クルプのレコードは、どうしてそんな人気をち獲たか、正確なことは私も知らない。しかし私の想像を書くことを許してもらえるならば、恐らくこの人の声質が極めて柔かく、その表現が、常に、温藉おんしゃ優雅で、かつて聴く者を焦立いらだたせるようなことをしないためではなかったであろうか。
 クルプは滅多にオペラを歌わない。が、たまたまオペラを唄ったレコードを聴いても、その温かさと柔かさと、言うに言われぬ物優しさに、油然ゆうぜんとして親しみの湧き起るのを禁じ得ない。サンサーンスの妖婦ダリアの『我が心が声に開く』を歌ってさえも、我らに取っては「大好きな小母おばさん」らしさを失わないクルプである。
 もう一つの原因は、ドビュッシー自身伴奏のピアノを弾いて歌わせた、有名な『星月夜』のレコードが、骨董中第一の王座に押し上げられ、市価十数金という飛んでもない値がするために、他のクルプのレコードも、その人気に釣られて、その結果、一様に高騰したのではあるまいか。
 クルプの良さは、この小母さんらしい良さであり、その芸術には、女性歌手には、ありそうで滅多にない母性の尊さを感じさせるものがある。多くの女流人気歌手が、ややもすれば娼婦型の魅力に専念するのに対して、クルプの存在は、まことに頼もしい限りであると言っていいであろう。

 クルプのレコードは、私の知っている限りでも、電気以前約四十面、電気以後は三枚六面ぐらいの数であろう。この人のレパートリーは、独逸ドイツのリードから、フランスのメロディー、英独の民謡、フランスの歌劇に及んでいるが、優れたものはやはりドイツのリードと、民謡畑のものであろう。ポリドールには今でも、電気以前に吹込んだシューベルトの『アヴェ・マリア』とヴォルフの『望郷ハイムウェー』がカタログに掲げられているが、これなどは、クルプの代表的なレコードの一つと言ってもよい。シューベルトの『アヴェ・マリア』を極めて平坦に無造作に歌っている小母さんらしい気取らない美しさも敬服すべきだが、ヴォルフの『ハイムウェー』に至っては、ヴォルフの紹介者としてのクルプが、レコード界に提供した貴重な資料で、充分尊敬されていいものである。
 ヴォルフに取って、常に仮想敵であったブラームスの歌にも、クルプは良いものを二、三枚入れている。そのうちでも一般から愛されるのは『揺籃歌ようらんかWiegenlied で、この歌に行きわたる柔かい母性愛の美しさは、いかなる人も及ばない。平明温雅なうちに、なんという気高い芸術境であろう。
 シューベルトは五、六枚あり、その中でも、『君こそわが静けきいこい』Du bist die Ruh などは絶品的なものだ。こんな美しいやるせない感情を歌って、少しも安価な感傷や芝居気に堕さないクルプは尊いと思う。『野薔薇のばら』も『セレナード』も推賞される。わけても『野薔薇』は思いのほかレコードが少く、私は子供たちのお稽古や鑑賞に、いつでもクルプのこの古い吹込みに依らしめていた。
 ベートーヴェンは二枚入っている。『田舎娘いなかむすめ』(The Cottage Maid)は珍しいというだけのものだが、『真実なるジョニー』(Faithful Johnnie)は名盤の一つだ。このベートーヴェンの編んだ『スコッチ・アリア』全曲をクルプに吹込ませなかったのは、レコード界残念事の一つに私はかぞえている。
 シューマンの『月光』も良いが、私はそれより、『エジプトのイスラエル人』のアリアとして歌われたヘンデルのアリオソ Dank sei Dir がすばらしいと思う。
 しかしなんと言ってもクルプのレコードでは、ドビュッシーがピアノ伴奏を自分で弾いている前掲の『星月夜』だ。このレコードはHMVにもフランスのグラモフォンにも、米国のビクターにもあり、米国のビクターは全く同じレコードに対して、ボスの伴奏と明記していることにより、ファン間に大きな問題を投げかけているが、かつて幾度も書いた通り、私はこのレコードが欧羅巴ヨーロッパ吹込みであることと、仏蘭西フランスのカタログでもドビュッシー(即ち作曲者自身の伴奏)となっていること、それからボスはしばしばクルプの伴奏を弾いている関係で、米国ではふと誤記し得る事情などを綜合して、ドビュッシー自身の伴奏と信じている。
 十数年前まで、このレコードは、決して珍しいものではなかったが、今では、市中に出ることはほとんどなく、たまたま中古屋の手に入ると、十数金というような法外な値がするということだ。
 クルプの大物では、シューマンの『女の愛と生涯』がオデオンから全曲出ている。電気直前のもので老巧ではあるが、老いの跡を蔽うことは出来ない。記念的にも技巧的にも興味の深いものだが、いささか輝きを欠くのは已むを得ないことだ。
 電気になってからは、エレクトロラに三枚(十二インチ一枚、十インチ二枚)入っている。当時は大変騒がれたもので、電気吹込みか電気以前の吹込みかもわからなかったが、ドイツから取って見て、ようやく電気とわかったような心細さであった。録音のよさのせいか、『女の愛と生涯』よりは輝きがあり、そのうち『菩提樹ぼだいじゅ』と『死と乙女おとめ』はビクターの秘曲集に採られているが、ほかにも良いものはある。ヴォルフの『フェルボルゲンハイト』とブラームスの『フェルトアインザムカイト』は、日本でプレスする機会を作りたいものである。
 しかし、結局クルプの良さは、電気以前のものに限ると言っても大した間違いはあるまい。近頃の消息は知らないが、電気吹込み前後からのクルプは、なんとしても年を取り過ぎたことは事実だ。歌い手と年齢の悩みは、ここにもまざまざと証拠立てられる。


シュワルツ Joseph Schwarz

 近代の男性歌手のうち本当の美声というものは、テナーのタマニヨとジーリ、バリトンのシュワルツなどであろう。シャリアピンは美声家であると共に劇的な技巧においてまさり、カルーソーは美声ではあったが、むしろ大きな声が一世を驚かした。
 シュワルツは技巧的にも優れた人であるが、その声の美しさは、今日盛んに唄っている人気者のシュルスヌスなどの比ではない。もっと声の質が緻密で、清澄で、表現が自由で、宏大な荘厳な感じをさえ与えるものがあったのである。
 欧州戦後、疲弊し切ったドイツで、大統領よりも高給を受けていたのは、シュワルツであったと伝えられている。その頃のシュワルツの人気と魅力とは、全く大したものであったに違いない。
 大正十二年の秋、シュワルツ日本来遊の話が決り、帝劇はその日取りまで内定していたが、あの大震災のために、ピアニストのホフマン同様、来遊が中止になってしまった。それだけならいいが、間もなくシュワルツは、四十幾歳の若さで、病んで伯林ベルリンに長逝し、シュワルツの良さを知っているほどの日本の好楽者を失望させたものだ。
 シュワルツのレコードは電気以前のドイツ・グラモフォンに、片面で二十七、八枚、ソプラノのドゥックスと一緒に歌ったのを加えて、三十五、六面入っていたが、その後(一九二五年)、ドイツ・ポリドールで両面十五枚になり、ドゥックスと一緒のを加えて十九枚三十七面になったのが、カタログ面で最も多い時であった。いずれも電気以前の旧吹込みで、おまけにドイツ・グラモフォンのひどい雑音だらけなレコードであったから、今日のレコードに比べると、かき餅に針を当てるような粗悪なものである。それにもかかわらず、シュワルツの深沈たる美しさが、雑音にされて我らの心を掴まずには措かないものがあった。
 しかし、あらかじめ断っておくが、今日シュワルツのレコードを手に入れることは、日本ではほとんど絶望であるばかりでなく、世界的にも極めて困難であることを覚悟しなければならない。五、六年前までは、大震災前に輸入された、片面のグラモフォン・レコードを中古屋の店頭に見かけることもあったが、今ではもはやそれも望まれない。日本ポリドール会社は、創業当時、クルプ、ヘンペルなどと共に、シュワルツの旧吹込みレコードもプレスし、十二インチ一枚(『タンホイザー』の「夕星の歌」とほか一面)と十インチ一枚(ベートーヴェンの『自然の上に神の稜威みいつ』とヘンデルの『ラルゴー』)を売り出していたが、いつの間にやらそれもカタログからカットされてしまった。まことに惜しいことである。

 私の知ってる範囲において、シュワルツのレコードの最も美しいものは、ヘンデルの“Cantata con stromenti”(Arioso-Dank sei Dir, Herr)であろうと思う。シュワルツの声質と発声法は、シュルスヌスによく似たものであるが、更に幽玄で余韻の深いものがあり、このカンタータに示した敬虔な情緒は比類もないものであった。それに、ピアノ伴奏は、第九シンフォニーの最初のレコードの指揮者であったウィンクラーで、グリュンフェルトがチェロの助奏をしている。
 それに続いて、私は『タンホイザー』の「夕星の歌」と「眺め渡せば」を挙げたい。シュワルツの発声法は、ベルカント風にドイツ風を加味したもので、イタリー、フランスのオペラにもよかったが、ワーグナーにもまた我らが想像し得る最高の美しい表現を与えた。この『タンホイザー』のよさは、ゲルハルト・ヒュッシュといえども及ばないものがあるだろう。『コール・ニドライ』や『カロ・ミオ・ベン』もシュワルツの独擅場どくせんじょうであったが、それよりも私はベートーヴェンの『自然の上に神の稜威』を採りたい。この歌の独唱レコードは、アルトのライズナーとテナーのタウバーとがある筈だが、荘厳さにおいてはシュワルツと同日に語られない。
 メンデルスゾーンの『エリヤ』のアリアも立派であった。が、『ファウスト』の「ヴァレンチンの祈り」もすばらしい。総じてシュワルツはその声の性質から、瞑想的な祈りと悩みを歌ったものに成功している。ほかにオペラでは『ザザ』や『パリアッチ』に良いものがあるが、それはまずシュワルツとしては第二流的なものだ。
 珍しいものはグリークの歌を三つ歌っていることだ。グリークの歌は特別な味のあるもので、一般的ではないが、『エロス』『白鳥』『小舟』とともに、研究者には面白かろう。それからR・シュトラウスのものに変ったものがある筈だ。
 私はシュワルツを二十枚ばかり集めて、十襲じっしゅうして愛蔵している。電気蓄音機にこの大古おおふるレコードをかけて聴くのもまた楽しいものだ。物故の大歌手のうちでも、レコードに入っている限りでは、シュワルツなどは最も興味が深い。


カルヴェ Emma Calv※(アキュートアクセント付きE小文字)

 エンマ・カルヴェ夫人はなつかしい人だ。――仏蘭西フランスでこの人の実際を聴いた人は皆そう言っている。若かりし頃は、カルメン歌手として世界の第一人者で、アメリカのマリア・ゲーなどは、有名ではあったが、アメリカ風の芝居達者で、カルヴェ夫人の格式と気品には及ぶべくもなかったらしい。
 カルヴェ夫人の気品は全くその身についたもので、カルメンを歌っても、決して悪魔的な妖邪な味はない。ちょうど今日のニノン・ヴァランに、十九世紀風の技巧で歌わせたなら、ややカルヴェ夫人に似たものになるかも知れない。
 マドリッドに生れて白耳義ベルギーで成功した人で、カルヴェ夫人は決して巴里パリっ子ではないが、その晩年はニューヨークとパリで活躍し、一般に巴里パリっ児のように思われていたものだ。
 レコードはビクターに十面内外入っている。そのうちで最も興味の深いのは、『カルメン』の「ハバネラ」と「シャンソン・ボエーム」で、清澄な声と、妖艶な表現とが、カルヴェ夫人独特のものである。巻舌でまくし立てるようなスペルヴィアやゲーとは全く違ったカルメンであることは言うまでもない。
 続いて、グノーの『セレナーデ』をフリュートの助奏で歌っているのは面白いものだ。どうかしたら、カルヴェ夫人のレコードでもこれが一番通俗的な人気であるかも知れない。それからもう一つ、『小児しょうにのための三つの小さき唄』は愛すべきものであった。
 カルヴェのレコードも今ではほとんど手に入れようはない。古い蒐集を保存している人たちは、出来るだけ大事にしておくようにおすすめしたい。十面のビクターは吹込みは非常に古く、その上カルヴェ夫人が、かなりの年輩になって吹込んだもので、いろいろのハンディキャップはあるが、それでも前時代の大歌手のおもかげを偲ぶには充分であろうと思う。
(『巨匠の回顧』の項は『レコード音楽』昭和十三年後半期連載)


バット Clara Butt

 クララ・バットが日本へ来るというので、日本コロムビア会社が電気レコード三十二枚も売り出したことがある。しかしながらこれは決してバットの電気レコードの全部ではない。ほかにドヴォルザークの『聖書の歌』もある筈だし、サリヴァンのなんかもあった筈だ。
 私のコレクションの中には、英国コロムビアを加えて、電気だけでもバットのレコードが十五枚以上ある。
 電気以前のアメリカ・ビクターには私の知っている限りでは、バットのレコードは四枚あったが、一九二〇年頃絶盤になってしまった。私は辛うじて持っているが、今頃手に入れるのはまず出来ない相談だろう。もっとも曲目は大した珍しいものはなく、ほとんど全部電気で入れ直しているから、今からあさるほどのものではない。
 イギリス、米国で名声のある人だけに、HMVには随分たくさんのレコードが残っている。言うまでもなく悉く電気以前の吹込みだが、コロムビアに電気のが十数枚あるにもかかわらず、HMVが旧盤を引込ませもせずに、麗々とカタログに並べている。
 何分バットも日本を訪ねたのが五十八歳であったというから、日本流に言えば六十近いお婆さんになったわけだ。電気に入ったにしても、この節のより二十年前の歌い盛りの頃に吹込んだのが良いのはわかりきったことで、私が電気以前のバットに興味を感ずるのは、必ずしも骨董癖のためばかりではない。
 バットのプログラムは極めて特異なもので、婦人で叙勲されているとか、英国皇室のお覚えがめでたいという関係からでもないだろうが、不思議に国民的な歌謡を中心に、英国らしい作曲者、例えばエルガー、サリヴァンなどのものや、お国の民謡、宗教的な歌謡などに限られ、それにグノーや、シュミナードやが一つ二つ交っているに過ぎない。こんな純なプログラムを持っている人は、世界の歌手にも恐らく幾人もあるまいと思う。
 従って歌詞も(少しばかりの例外はあるが)、ほとんど九十パーセントまでは英語だ。バットは滅多に翻訳した歌を歌わないのだから、頑固と言えば頑固だ。この調子だから、昔も今もバットにはあまり変ったレコードというものはない。それに英国の国民的歌謡や、英国人にだけ興味のある歌は、日本人に取っては必ずしも嬉しいものと限らないから、バットのレコードを集めるとなると、よっぽどの物好きでない限り、そんなにたくさん掻き集める必要はまずない。
 例えば、HMVの旧盤で言えば、ヘンデルの『ラルゴー』、シュミナードの『小さき銀の指環』、ジオルダニの『カロ・ミオ・ベン』、それだけでもうたくさんなような気がした。それに夫君、ケンネリー・ラムフォード氏と一緒に歌ったレーアンの[#「レーアンの」はママ]『スノードロップス』でもあれば充分だった。
 言い忘れたが、ビクターのバットは片面三ドル時代のもので、一流アーチストとしては普通だが、HMVは暗青色で十二シルリング六ペンス、パッティのピンク色レコードと同値だ。バット夫人が英国でどんなに尊崇を集め、高い社会的地位を占めていたか、それを以てもわかることと思う。

 コロムビアの電気以前には、両面三十一、二枚入っている。曲目はHMVと似たり寄ったり、ヘンデル、エルガー、サリヴァンというのが多いが、この方には珍しく、ヴェルディの『ドン・カルロス』、ドニゼッティの『ラ・ファヴォリタ』『ルクレツィア・ボリジア』、グノーの『ファウスト』、サンサーンスの『サムソンとダリラ』などの有名な歌が入っていた。
 そのほか変っているのは、ベートーヴェンが二枚あり、その内例の『この暗き墓の中に』などは、シャリアピンよりも良いと言われたものだ。夫君ケンネリー・ラムフォード氏との二重唱はコロムビアにも一枚あるが、それは『フレンドシップ』というカノンで、その美しさというものは法外だ。私はこれも辛うじて雑音だらけのを持っているが、日本には幾枚も来なかったろうと思う。

 一時コレクション仲間でバットが流行したことがある、古レコード屋やHMVなどは法外なる高値で、コロムビア旧紫盤のでさえ随分したものだ。全くこの頃のバットのレコードには良いものがあった。バットにおいては、決して電気万能ではない。

 バットの歌は実に美しい。玲瓏れいろうとして銀盤上に玉を転ずるようだ。それに音色が緻密で華かで、情熱があって、少し固くはあるがコントロールがいかにも自在だ。
 音域の広いことは驚くばかりで、うっかり聴いていると、女と男と二人で歌っているのではないかと思うことがある。この人の低音部は事ほどさようにすばらしい。しかしあまりすばらし過ぎて、オクターブの上を歌ってくれた方が良いと思うことがないでもない。
 私どもレコード党には、上の方が美しくも輝かしくもあると思う。あの威嚇的な低音が、レコードではデリケートな柔かさを持っていない。それはとにかく、これだけの豊かな、光彩に満ちた声を持った人は、そんなに沢山はあるものではない。
 電気レコードのことは前に書いた。十二枚のコロムビアは、レコーディングの美しさにおいて旧盤を圧倒するだろう。バットもさすがは年と共に癖が強くない。若い時の魅力を多少失ってはいるが、まだまだ確かさと立派さは駆け出しの歌い手の追従を許さない。
 電気以前のレコードを漁るのは、好奇に過ぎる。バット夫人のレコードの場合においても『ラルゴー』や『暗き墓場』や『友情』やに若き時代を偲ぶのは、特別な好事家に任せて、日本コロムビアの十二枚のレコードの内から、『聖なる都』なり、『スウィート・ホーム』なり、『メシア』なり、その好むところを二、三枚り出す方が、遙かに常識的でもあり、かつ堅実なコレクションの方法でもあるだろう。
(バット夫人もその後英国で亡くなった。この一文は日本来遊当時『レコード』誌に掲げたものであるが、記念のため再録しておく)


ガドスキー Johanna Gadski

 ウィーンのソプラノ、ガドスキーが長逝したのは五、六年も前のことである。彼女のレコードを漁って見ると、一九一〇年HMVのカタログに二十二枚出ており、内リードは五枚(そのうちシューベルトは三枚)入っている。
 レコードの上に残した彼女の足跡はかなり重大なもので、一九一四年頃は彼女のレコードにおける最大活躍期で、独唱レコード三十四枚、カルーソーとの二重唱が六枚、ホーマーと三枚、ユリッツと五枚、以上を合わせると四十八枚という実に記録的な大量を残した。この時代の歌手としては、カルーソーやマッコーマックに匹敵するほどの声望で、女流でこんなに入れた人はほとんどないと言ってもいい。
 彼女の入れた曲の大部分はワーグナーで、シューベルト、ブロッホ、フランクが各一、二枚、それにR・シュトラウスのものがほんの一、二枚。ともかく当時のガドスキーは、ワーグナー歌手としては比類のないものであった。例えばエルザにしても、アガーテにしても彼女の独占的なものであったばかりでなく、恐らくその後に至っても、彼女ほどに歌える人は容易に出て来ないだろう。
 彼女の声は音域が広く、その表現は豊かで、特にメロディを歌うことがうまいばかりでなく、レシタティーヴに対して特殊な技巧をもっていた。これがワーグナー物お得意の理由でもあったことであろう。その例として、彼女の有名な十八番もの『ローエングリン』の中の「エルザの夢」がある。発声が少しドイツ風にきついところはあるが、表現の豊かなことは無類だ。声の質から言えば、エリザベート・シューマンにオペラものを歌わせるとややこの人に似て来る。
 ガドスキーのレコードで珍しいものは、R・シュトラウスの『サロメ』のうちの Ich bin verliebt をうたったものである。十インチ片面もので、早く絶盤となり、珍品中に数えられたものだ。私は米国プレスの白レーベルにタイプライターで文字を打ったものを持っているが、全体で日本に三枚とないのではあるまいかと思う。
 もう一枚有名なものは、シューベルトの『魔王』を歌ったものだ。シューマンハインクの電気前のレコードに似た、――ともかく、ああいった気持の歌い方をする人だ。父、子、悪魔の三人の歌いわけが実にうまく、父親が子をなだめるあたりに少しの無理があるようだが、他の人がややもすると、魔王を威嚇的に声を大きくして表現するに引きかえて、この人は声をおとして、子供にささやきかける調子で歌って効果をあげている。もっともリードとしては最上の出来でないが、歌い手としての用意が実によく、最後の短いレシタティーヴなど、これはガドスキー独特のうたい方だ。
 古い時代、ロバート・フランツの歌曲がたった一曲レコードされていた。この人の Im Herbst(秋に)がそれだ。この歌は、失恋した青年が、春歩いて楽しかった野辺のべを、秋になって春とは全く違った悲観的な気持になって歩く、というひどく暗い気持の歌だが、ガドスキーの出来は、少し歌い過ぎたうらみはあるにしてもなかなか立派なもので、少しもうたいまくったというような嫌な感をあたえない。もっとも高い部分を歌う時は少し苦しそうだが、――一体にこの曲は広い音域を使って書かれており、普通の人にはなかなか歌いこなせない。
 一体にオペラ歌手がリードを歌うと、リード歌手がオペラを歌うより以上にむらのあるものだが、ガドスキーはオペラ歌手でありながら、リードをよく歌った。シューベルトも、この人のはしっかりしたものであった。
(旧稿、『レコード』誌所載)


タマニヨ Francesco Tamagno

 カルーソーの大先輩で、近代イタリー・オペラの大御所的テナーだ。カルーソーはガラスを歌い割ったというが、この人のスカラ座で歌う声は、外の往来まで凜々と響いたそうだ。
 一九〇五年五十四歳で亡くなっているが、レコードは思いのほかたくさん入っている。一九二六年のHMVの第二カタログには(この年と翌年のHMVの歴史的記念レコードを集めた第二カタログが一番豊富だ)両面八枚入っている。もっともこの八枚十六面にはダブった歌が入っているから、面数にすると、十一面しかない。ほかにドイツのグラモフォンには、私の所持している限りでもHMVにないものが入っている。本国のイタリーには、もう少し多くのレコードがあったと思うが、ちょっと今日では調べようがない。
 タマニヨの十インチレコードは、十インチ米価五ドルで、十割関税の声を聴いて、日本のカタログ面が二十三円と注せられたことがある。あまりと言えば人をめた値段で、実際の取引きはなかったことと思うが、とにもかくにも、パッティとタマニヨは高いレコードの両大関であった。
 その後日本ビクターは白レーベルの歴史的レコードとして、タマニヨを一枚だけプレスしている。『オセロ』は「回教徒の誇り」と「オセロの死」(DR一〇〇)で、これは黒盤並の一円六十五銭だから、二十三円の夢はいよいよ馬鹿馬鹿しくなる。
 タマニヨの声は、カルーソーに比べて遙かに清澄で、引き緊った美しいにおいを持ったものであった。表情も極めて豊かであり、近代の大テナーと言われるになんの不思議もない。パッティは年をとり過ぎて、レコードに入った頃は聴くに堪えなかったが、一九〇三年に入った五十二歳のタマニヨは、凜々としてまだ若さと魅力を持っていた。
 十九世紀風の歌い手で、今日の耳からは少し変に聴えるだろうが、過去の巨匠中でも、この辺は最も偉大なものであろう。蒐集家の目標は、ヴェルディがタマニヨのために書いたという『オセロ』(Othello)から選ぶのが本道だ。日本ビクターの白レーベル盤などは、最も代表的なものだろう。私の持っているので、「オテロの死」を十二インチに入れたドイツ・グラモフォンがある(HMV及びビクターのは十吋)。珍品の一つだろう。
 ほかに「ウィリアム・テル」(William Tell)が良い。このアメリカ・ビクターは、かなり後まで残っていたレコードだ。


パッティ Adelina Patti

 男声のタマニヨに対して、一時は「歌の女王」と言われた歌い手だ。一九一九年七十七歳の高齢で亡くなったが、若い時はイタリー・オペラの歌手として世界の第一人者をち得たが、晩年は多く英米に暮して、『スウィート・ホーム』一点張りに歌って歩いたと言われている。六十、七十を越した歌手が、イタリー歌劇などを歌って歩くより、この方がどんなに賢かったかわからない。パッティが晩年まで「歌の女王」の名声と格式をおとさなかったのは、この要領のためであったかも知れない。
 かつてはスカンディナヴィアの鶯、ゼニー・リンド以来と言われたパッティも、レコードで聴くと大したものではない。パッティのレコードは片面十七枚(一九二六年のHMVによる)で、悉く一九〇六年の吹込みだが、その時既にパッティは六十三歳の高齢であり、「蓄音機音楽はあまりに若く、パッティはあまりに老いた」と言われたのも無理のないことである。レコードによってパッティを味わおうという人は、その若い頃の盛名を知っているとしたら、幻滅以外にはなんにもないことと思う。
 その中から求めるとしたら、やはりお得意の Home, sweet home を採るのほかはあるまい。続いて私は、The last rose of summer くらいで満足しようと思う。もっとも日本ビクターには、白レーベルの歴史的レコードで、モーツァルトの『ドン・ジォヴァンニ』の「我を責め給え」(HO三〇五五)が入っている。黒盤並の二円七十五銭だ。
 パッティもHMVで十二シリング、米国ビクターで五ドルの時代があり、日本相場に直訳して十割関税を加算し、二十三円也と注したことなどがある。そのつもりか今でも中古値ちゅうぶるねが恐ろしく高い。馬鹿なことだと思う。日本ビクターの白レーベルでたくさんだ。


その他の巨匠たち


 まだ重要な歌い手はたくさんあるが、際限もないことだから、漏れた巨匠を少しばかり拾っておく。

プランソン (Plan※(セディラ付きC小文字)on)

 フランス近代の大バス歌手だ。一九一四年に亡くなっているが、この人はジュールネなどよりも一まわり上手うわてであったらしい。グノーの『ファウスト』の「メフィストフェレのセレナーデ」や、ベルリオーズの『ファウストの劫罰ごうばつ』の同じ「メフィストフェレのセレナーデ」などは、後世に範を垂れるものがあろう。宏大な美しい声と、幅の広い柔かな表現を持った人だ。ほかに望みのある人は『ファウスト』の「黄金きんこうしの歌」などが面白かろう。

ブラスロー (Braslau)

 ひところの有名なアルトだが、近頃は電気でコロムビアにも入っている。しかしビクターの昔のに魅力があるだろう。アメリカ生れでもあり、マックダウェルの Thy Beaming Eyes などが面白いかも知れない。しかしこの人の本領はやはりオペラだ。

デスティン (Destine)

 ボヘミヤの有名なソプラノで、かつては政治運動に干与して、投獄されたこともある。愛国運動の一端に、スメタナの『売られた花嫁』を欧米に歌い歩いたりした。
 声の清らかなのと、可憐な歌い振りは、女丈夫らしくはない。代表的なものは『蝶々夫人』の「晴れたる日」や『アイーダ』の「おおわが祖国」などである。興味の深いのはスメタナの『子守歌』で、可愛らしいのはモーツァルトとシューベルトの『子守歌』だ。しかしこれらのレコードはもう手に入る見込みはない。この人はコロムビアの昔のレコードにも四、五枚入っており、それが五、六年前まではよく中古屋に転がっていたものだ。

テトラツィーニ (Tetrgzini[#「Tetrgzini」はママ]

 ガリ‐クルチ出現以前、世界第一のコロラチュラ・ソプラノであった。日本ビクターには電気更生盤の『リゴレット』と『セヴィリアの理髪師』が入っている。『ヴェニスのカーナヴァル』『スイス・エコー・ソング』『ルチアの狂乱』などが良い。

ウィザースプン (Witherspen[#「Witherspen」はママ]

 この人の『菩提樹ぼだいじゅ』に随喜したのはもはや昔の夢になった。英国人臭く、ドイツ・リードを歌う人で決してうまくないが、昔のファンは懐かしかろう。

ブロンスカヤ (Bronskaja)

 ロシアのコロラチュラ・ソプラノで、過去の重要な歌手の一人だが、あまりレコードは日本へ来ていない。日本コロムビアの赤盤(歴史的記念レコード)に『カロ・ノメ』とグノーの『アヴェ・マリア』が入っている。

ノルディカ (Nordica)

 コロムビアのピンク色のレーベルで(真紅のもあった)、一時は蒐集家を喜ばしたものだ。美人のソプラノでは最上位の歌い手で、この人のレコードではドビュッシーの『マンドリン』は有名だ。『アンニー・ローリー』やR・シュトラウスの『セレナード』も喜ばれた。

ゲイ (Gay)

 専門的なカルメン歌い手として有名であったが、この人のビクター・レコードは、滅多にない。コロムビアには『カルメン』の「ハバネラ」と「カルタの歌」が入っている。ほかのは興味が少い。

エルウェス (Elwes)

 イギリスのテナーで、社会的地位のあった歌手だが、人を救おうとして、プラットホームで汽車にかれて死んだ。レコードはかなり入っているが、ウィリアムスの『オン・ウェンロック・エッジ』五面がすばらしい。英国の近代作曲家で一番英国的なウィリアムスの代表的な歌を入れているせいもあるが、ロンドン弦楽四重奏の伴奏で、これは本当に良い心持の歌だ。荘重で柔かくて、愛情が行きわたる。大田黒おおたぐろ氏の書くものによくこの歌のことが出て来る。

ドゥックス (Dux)

 昔のドイツ・グラモフォンと、ブランスウィックに入っている。コロムビアに電気が一枚あるが、近頃のはいけない。『マリアの子守歌』『月夜』などがよかった。少し憂鬱な美しい声の持主であった。

 ほかに男で、ソビノフ、ラザロ、パオリ、ヤドローカー、女で、オーベ、ルイームス、エドヴィナ、ロソフスキー、レアシュ、ミカイロワ、と書いて来ると際限がない。この辺で骨董盤の筆をく。
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付録

レコードファン心得帳


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レコードの保存と手入れ




※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) レコードの保存

A キャビネットについて

 レコードの保存にはそのために作られたキャビネットを必要とし、またそれが保存の具として最も理想的であることは、誰しも心得ているが、さてとなるとなかなか気に入ったものが手に入らない。市販の物はいろいろな条件を考えて見ると、まず大体において落第に近いものが多い。そこでこれは是非自分であつらえて作るのが最も良いとなるわけだから、まずその作り方心得から申し上げることにしよう。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) キャビネットに必要な二つの条件 レコード・キャビネットを作るにあたって不可欠の条件であり、かつ少からず頭を悩ますことが二つある。その一はいうまでもなくレコードを湿気と塵埃じんあいから防護して安全に保存するの目的を十分に満足させることであり、その二は、それと同時に室内装飾としての条件を満足させること、これである。仮りにレコード保存の目的を十分達し得るものであっても、室内に置いてあまりに不体裁不調和なものでは半ば意味を失うものと言ってよい。その反対に、いかに体裁ていさいがよく意匠をらした立派なものでも、肝腎のレコード保存の目的を満たすに不十分なものであれば、勿論これも不合格だ。実は私自身もこれまで幾度かキャビネットを作って見て、そして幾度か失敗を重ねている。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) キャビネットの意匠 これは、レコード保存の目的から言えば第二義的のものであるが、前述の通りやはり非常に大切な問題だから先に申し上げることにする。
 原則として意匠デザインはその道の専門家、即ち美術家の手をるべきである。しかしもし自分にその方の多少の知識のある人ならば、自分の手でデザインするのが最も望ましいことである。ただしそのいずれの場合にせよ、あくまで一つの様式スタイルに準拠することは堅く守らねばならぬ。ルネッサンスにするか、ゴティックにするか、或はセセッションにするかは、自分の趣味に訴え、他の室内調度との調和を考慮して決すべきである。くれぐれも言っておくが、間違っても家具屋まかせにしてでたらめなものにしてはいけない。
 私もかつて自分でデザインして一つ造らせて見たが、口の悪い伊庭孝いばたかしはたちまちこれに「お仏壇」という異名を奉ってしまった。その次にもう一つ大きいのを造ったら、今度は「洋服箪笥だんす」と冷かされた。近頃作った新しい方のは、全体を三列にしきって中央の一列は全部抽斗ひきだしとし、左右はおのおの扉にしてあるが、この扉のまん中に硝子ガラスを幅十センチほどに細長く入れて見た。扉全部を硝子ガラス張りにすると、いかにも商店のショー・ケースのようで面白くないが、こんな風にすると見た眼の感じが大変良い。硝子ガラスを透してアルバムのいろいろな色彩や背の金文字の一部分が見えるのも悪くない(レコードを探し出すのにも楽だ)。これも一つの方法だと信じている。
 もう一つ忘れてならぬ大切なことは、とかく家具屋まかせにしておくと、しばしば極めて非芸術的な金具を使われることがあるから、金具に対しては相当神経質にやかましく注文を出すがよい。粗末な品はじきに飽きていや気がさして来るものであること、いかなる場合でも同様である。
 さて外観は右のような心得の下に定めるとして、最も肝要な用材や棚の作り方などはどうしたらよいか、これには何よりも念入りな注意が払われねばならぬ。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 用材 これは最も吟味を要する。湿気をびやすいもの、乾燥が不十分で狂いやすいもの、薄くてりやすいものなどを使うことは勿論避けねばならない。それから今まで一般に硬質の木が良いように思われているが、私の経験から言うと、むしろ軟質の木を厚く使う方が結果が良いようである。最も理想的なのは檜か桐である。私も現在檜のを一つ持っているが、これは絶対に湿気をばない。藤田不二ふじ氏の桐製のキャビネット説は確かに傾聴すべきで、日本などの家庭でも使っている桐の白木の箪笥が、あの通り衣服保存の役目を十分に果しているのでも分るように、湿気に対しては絶対的に安心と言ってよかろう。桂も檜と共に推奨出来る。
 ここで一つ注意しておきたいのは、今まで非常に誤り信ぜられていたベニヤ板についてである。ベニヤは御承知の通り、薄い板を縦横に重ねて貼り合せてあるので、りに対しては絶対大丈夫のように信ぜられているが、これは重大な迷信である。乾燥の悪い薄いベニヤの棚は、使っている間に湿気を招んで皿のように反ったり合せ目が剥がれたりする。それ故、十分に乾燥した厚いものに限りベニヤの使用は許される。
 棚の用材として板硝子いたガラスを使っている人もあるが、なるほど棚そのものは反りも狂いもせず、かつ絶対に湿気を吸収しない代りに、レコードと袋とに湿気が全部吸われてしまう。いわゆる棚が汗をかくのである。それはちょうど日本建築の場合に、床下を全部コンクリートにして湿気を避けおおせたりと安心していると、いずくんぞ知らん、湿気が全部上へあがって床板や畳がじくじくになってしまうのと、全くいつにする失敗である。
 よくニスを塗った硬質の木を使った棚も見かけるが、これもわざわいを起しやすい。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 棚の設計 第一が棚と棚との間隔について陥りやすい失敗は、間をあけ過ぎて一棚に収めるレコードの数が多くなることである。それは決してレコードのためによいことではない。少くとも十二、三枚以上は決して一棚に積まないようにすること、アルバムを入れるとすれば一棚に四枚入りのもの三冊を最大限度とすべきである。(さりとてあまり浅いのも整理上困る場合が生じやすい)
 左右の寸法、即ち間口まぐちは、広過ぎるよりも狭過ぎて困る場合の方が多い。左右すれすれにレコードが入るような棚では、第一に出し入れのたびごとに袋のへりが擦れていたみやすい。これは恐らく誰でもが経験する過失であろう。レコードの寸法を標準として作るとしても、内法うちのり外法そとのりを間違えたために、いざ出来て見るとレコードが入らなかったなどという失敗は、なさそうで実は往々にして経験することだ。それからアルバムにしても、ビクターのアルバムを標準にして作ると、コロムビアのアルバムを入れるに窮屈であったりする。これも注意すべき一つだ。であるから、左右少くも各五分ぐらいずつの余裕を見込んで寸法を定めることが肝要である。既製品にはこういう点実に不親切なのが多い。
 次に、二列以上の棚あるものを作る場合、必ずといっていいくらい誰でもが陥る失敗は、左右の扉をまん中で合わせるために、左の扉を開く時にはどうしても右の扉から先に開けねばならぬようになることである。梅雨つゆ時などはことに厄介で、左側の扉を開く時に右側の棚にまで同時に湿気を入れるような結果になってしまう。これを避けるためには、必ず中央に柱を一本入れて、左右の扉がおのおの独立して開くようにすべきである。
 棚板は、断るまでもなく、自由に抜差しの出来るものたるべきこと絶対に必要である。これが出来ぬような品物は、間違っても買ったり作らせたりせぬことだ。こういうのは棚の奥のほこりかびをどうして拭き取ることが出来ようか。いろいろの点でまたレコードの出し入れの際に袋をいためやすいことも、恐らく誰でも経験するところだろうと思う。全く落第である。
 抽斗ひきだし式のキャビネットを作る場合の注意としては、普通の棚よりも奥行を深く、まず一寸五分か二寸ぐらいのゆとりをつけておいた方が使いよい。こうしておくと、レコードを取り出すのに抽斗を全部あけなくとも済むから、大変便利であるし、片手で抽斗を下から抑えておいて、片手でレコードを取り出すような危い芸当をする必要もないわけである。
 坊間ひさいでいる抽斗式のキャビネットには、底板に孔をあけてそこからレコードを押し上げるようにしているのが多いが、それよりは抽斗の両横のわくを三分の一乃至二分の一ほど手の入るだけに浅くりぬいておくことを勧めたい(次図参照)。前述の通り奥行をたっぷりにしておいて抽斗を七分通りだけ引き出し、この刳りに両手を入れてレコードを取り出すようにすれば、第一安全でもありかつ袋をいためるおそれもない。
抽斗式レコードキャビネットの横枠を浅く刳りぬいた図
 なお、ベニヤ板がいけないことを前に申し上げたが、これは棚板に使う場合のことで、抽斗の底板に用いることは一向差支えない。四方からぴたりと定着しておくから、反る心配のないことはあえて説明を加えるまでもなかろう。
 話は少し違うが、私は近頃特別にボール箱を作って一箱にレコードを七、八枚ずつ収め、箱のままキャビネットに入れることにしているが、これだと整理も楽になるし、袋をいためることを防いで工合がよい。袋はレコードと共に大切にすべきものである。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) キャビネットの色彩 これはとかく無頓着に過されやすいが、ちょっと考えれば分る通り、レコードの防湿の上から見るとなかなか大切な事柄である。私は科学者ではないから詳しいことはわからぬから、これも長い体験から割り出したところを述べるのであるが、最もレコードにかびを招ぶのは黒である。これは説明するまでもなく、黒という色があらゆる光線を吸収する結果であろう。その証拠に、同じ場所においても黒レーベルが最もよくびるのでもわかる(これに次いでは青レーベルがよくかびるものである)。中村善吉ぜんきち氏は、キャビネットを朱色に塗ることを試みてある程度の成功を得られた。このキャビネットは、現在私の手許に来ているが、大変いいようである。赤外線が黴に対して何か力があるのではないかという風に私は考えている。赤いレーベルが最も黴びないのはそのいい証拠であろう。キャビネットの外側を黒っぽく塗るのは、だからおよそ意味なきことである。
 最も理想的なのは白木しらきである。これは光線をすべて反射するからであろう。私は最近出入りの大工に命じて、ごく粗末な白木のキャビネットを幾つか作らせたが、これが案外成績がいいのに驚いている。白木の桐の箪笥の例は先ほども申した通りである。

B レコードの防湿

 先ほどからしばしば問題になっている湿気は、レコードにとっては塵埃と共に最も忌むべき大敵であるから、これが防護については最善ベストを尽さねばならない。完全に閉じる扉乃至抽斗ひきだしを持ったキャビネットを備えたとしても、日本のような湿度の高い国では、それだけではどうしても満足に防ぐことは出来ない。そこでこれを特殊な施設にして人工的に防ぐ方法もいろいろとあるし、自分も実際にいろいろと講じて見た。最も完全に近い方法として、或種の薬品を以て処理する道もあるにはあるが、かなり高価につく上に手数も随分かかるので、どなたにでも勧めるわけには行かない。(博物館で国宝の防湿にやっている方法がこれである)
 安価でやれる方法としては強硫酸の使用がある。これは乾燥度も随分高い代りにレコードを傷めもするので、これも奨められぬ。私がいつか作らしたキャビネットは、空気の流通をよくするために棚の後方にあなをあけて見たが、これも成績よろしからず結局手数倒れに終った。
 そんなわけで、手軽にしかも安全に湿気を防ぐ方法は、今のところまだ発見出来ないでいる。

C レコードの置き方

 レコードの置き方として、袋に入れて平におくのと、アルバムに入れて立てておくのと、蓄音機屋のようにボール箱に入れて棚におくのと、いずれがいいかという質問をよく受けるが、勿論断るまでもなく、袋のまま棚なり抽斗なりに何枚か重ねておくのが最良の方法である。
 アルバム付きの組物は、アルバムだけ別に立てておいてレコードは袋のままにおくのがいいが、私どものようにあまり数が多くなると場所をとり過ぎるから、大部分アルバムに入れて平においている。特別のボール箱を作って、八枚ほどずつ入れておく方法を実行していることは先ほど申したが、その代り袋がったり出し入れのたびにいたんだりせぬよう寸法に余裕をつけてある。
 アルバムのことについてもう少し詳しく申し上げよう。日本でも風土によっては、十インチアルバムならば立てておいても大してレコードはいたまない。左右からぴっしりと押えておけば一層安全である。しかし十二インチとなるとどうしても横に平に置くのが安全である。もし縦に入れる場所のあるキャビネットを使うとするならば、よくよく注意せねばならぬ。昔のブランスウィックの機械に、左右からばねで押えるような平な板を装置したのがあった。ああいう風になっているならともかく、そうでない場合は、まず華氏八十五度以上に昇る季節では中のレコードが全部反ることを覚悟せねばならぬ。
 もう一つアルバムについて忘れてならぬこと――コロムビア、パルロフォン、HMVのアルバムは枕(背の方の部分)が高いから、これを重ねておくと必ず二冊目のレコードが皆反ってしまう。欧州のように気候の温和な湿度の低い国では縦に立てておけるからこれでいいかも知れぬが、日本では気候の関係上どうしても横におくようになるから差支えを生ずるのだ。随分前からたびたびコロムビア会社の人に忠告した結果、近頃のアルバムは枕が低くなったのでその心配がなくなったが、以前のような枕の高いものには、一冊ごとに段ボールを一枚入れて緩和するがよい。

※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) レコードの手入れ

 レコードの保存については大体以上述べたような心得を実行してまず万全を期したとしても、それでもなお避けることの出来ぬ反りや黴をどう処理するか、この問題について次に申し上げる。

A レコードの反りとその手当

 レコードの故障の中で、最もしばしば起るのは反りである。摂氏三十度ぐらいになると、日本のように特に湿度の高い国では、かなり注意しているつもりでもとかく反りを生じやすい。
 即ち一般に板に面した方がへこみ、上がとつになる傾向がある。しかしたくさん積んでおく場合に軟質のレコード(古いパテ盤、昔のポリドール盤の如き)は、レーベルの個所が溝の面より低くなっているためか、レーベルの方がへこんで来る。それを無理に直そうとすれば勢いレコードを割ることになる。※(始め二重括弧、1-2-54)ドイツ・ポリドールは特にこの割れに敏感である(日本のポリドールはそんなでないが)。コロムビアは中にパルプが入っているのでそこに欠点がある。その他各社のレコードはそれぞれに特質があるから一概には言えぬ※(終わり二重括弧、1-2-55)
 そこで反りの直し方であるが、どうかすると蓄音機屋の店先で、店員が反ったレコードを火鉢にかざしている光景を目にすることがあるが、これなどは実に乱暴至極な話で、こんなことをしたら、それこそ大切な溝を傷めてレコードを雑音だらけにしてしまう。そればかりではない。あおりがついて一個所だけ特に伸縮してしまうから、下手へたをやるとまるで使いものにならなくなる。間違っても火鉢などにかざすべからずである。
 では安全な手当法は何か? 日光さらすのも一方法である。それには平な板なりテーブルなりの上に載せ、硝子ガラスを上にして挾み、真夏ならば二、三分間、春秋ならば十分間ぐらい直射日光を当てる(冬の日光は弱いから駄目である)。けれども、これにはかなり綿密な注意が肝要で、真夏の激しい日光では、万一うっかりして度を過そうものなら、デリケートな溝の山が角度を失ってしまって、レコードは雑音だらけになってしまう。
 これを避けるためには、少々手数はかかるが、まず平な物の上において上から軽い重しを載せ、真夏ならば一週間ぐらいってから重しを除く。これがまず、最も自然な安全第一の方法である。へこんだのは引っくり返して凸の方を上にして軽い物を上にのせておく。これはキャビネットの中で出来る。
 一個所へりだけ蓮の葉のように伸縮したのは、絶対に手の施しようがない。こんなレコードは廃棄するほかはない。昔はよくひびの入ったレコードをにかわかすがいでつけて使ったものだが、針がかちかち打っつかるたびにひどくサウンドボックスを傷める。たったレコード一枚のために大切なボックスを傷めるの愚は、誰しも御免であろう。

B 黴のとり方

 いろいろ研究した上での結論から言うと、レコードに生える黴に対して予防の法がほとんどない今日では、結局生えたものを拭き取るよりほかにがないということになる。そこでレコードの面に対して化学的に良いものと悪いものとを研究して見ると、最も悪いのはアルコールである。これはシェラックの溶剤であるために、レコードの面をすっかり腐蝕させて[#「腐蝕させて」は底本では「腐触させて」]しまう。
 次は揮発油であるが、一部分の汚点しみを除くためにこれを用いてすぐに別の布で拭いておくのは差支えないが、一個所を長くさらすと、やはりレコードの面を傷つけるから避けるがいい。昔はよく復活油とか称するものを使って、レコードの面に埃をつけて喜んでいた人もあったが、今ではそういう人はもうないだろうと思う。
 水は最も無害である。長くひたすのは勿論いいことではないが、非常に汚れたレコードをすっと拭くのには水がいい。HMVのレコードを数昼夜水に浸けて実験した人もあるが、レコード面はこれがために何らの損傷を受けなかった。ただしレーベルの部分がいたむのは致し方ない。
 また手垢を極度に嫌う人がある。勿論これはたのしきものではないけれども、気になるほどの害はない。これも拭き取るに越したことはないが、何よりも悪いのは埃で、レコードをかける前に必ず一回ごとに拭うべきである。でないと、針先でレコードの溝を埃をつけたままこすることになる。その害や言うまでもない。

C ビロードとイボタ

 レコード面を拭くのに昔はガーゼを使ったものだが、今から十年ほど前から私はビロードを用い出し、人にも勧めている。ビロードのこまかい毛がよくレコード面を掃除してくれるのである。それも絹ビロードだと脂や湿気を吸収することが出来ないから、なるべく上等でない綿ビロードの方がかえっていい。それから一枚の布を洗濯して使っては効果が減るから、せいぜい新しいのと交換しなければならぬ。
 レコード面を滑かにする薬品については私もいろいろと研究して見たが、結局いぼたが最も良いということに帰着した。今から十一、二年前のことだが、私は偶然のことから気がついて生薬屋きぐすりやからいぼたを買って来た。ちょうど刀の打粉うちこのように金巾かなきんの袋に入れてレコード面にたたきつけて拭いて見た。結果は大変好かったが私は発表を憚っていた。いぼたというのは虫の巣であって特殊な木蝋もくろうから作ったものであるから、かえって湿気を招んでかびを生ずる原因になりはせぬかと実はおそれたからである。しかし三年たっても五年過ぎても、そのために悪い影響を認めなかった。むしろレコード面を滑かにすると同時に黴を防ぐことにもなったことを発見したので、ようやく近年になって何かの機会にこれを発表したところ、早速利にさとい商人がこれを応用してレコード拭きを作ったようである。ただしこれでたたいた後はやや脂ぎってべったりしたような感じがあるから、その後をもう一度乾いた布で拭くとよい。
 しかしながら、この方法を新しいレコードに施すのは意味なきことである。古くなってかさかさになったレコードに対してのみ施すべき、言わば一種の若返り法でもある。

※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) レコードの整理法

 レコードの整理法も、コレクションの量や、整理のためにき得る手数と時間などによっていろいろに違って来るし、各人それぞれに説のあることではあるが、ここでは大体私が現在実行している方法を中心として、気づいた点を申し上げることにしよう。

A 五百枚以下のレコードの整理

※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 少数レコードの整理 コレクションを始めて間もない少数のうちは、まず演奏の形式別にしておけば十分であろう。大体オーケストラ、ピアノ、ヴァイオリン、歌という工合にする。五十枚から百枚ぐらいのコレクションはこの程度で差支えないと思う。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) やや多い場合 右のようにしておくうちに、追い追いコレクションの数が殖えて不便を感じて来たならば、右の分類を更に演奏者別に細分する方法を採ることにすればよい。例えば、ピアノ・レコードの中をコルトー、パデレフスキー、バックハウスという風に、またヴァイオリンの中をクライスラー、ティボー、ハイフェッツという工合に分ける。オーケストラの多い人ならば指揮者別にするもよかろう。室内楽の多いコレクションならば、これも右に準じて分ければよいわけである。

B 大量のレコードの整理

 しかしコレクションの数が、五百枚以上千枚二千枚となって来ると、右に申し上げたような単純な方法では到底処理しきれなくなる。
 しからば、かような大量のレコードの整理法として何が最も能率的かつ有効な方法であろうか? 最も切実に悩んでいるであろうこのクラスのファンたちの問に答えて、私の経験を以下申し上げる。
          ◇
 第一に最も理想的な方法として推奨したいのは、カード式によるインデックスを作ることである(図書館の本の整理法にならうわけである)。これには曲目別で一通り、演奏者別で一通り、都合二種のカードが必要である。完全なキャビネットを備えてこのカード式の方法を丹念に実行することが出来れば、まずこれに越した整理法はないと信ずる。
 かつて南葵なんき文庫のレコード・コレクションもこの方法を採用していた。さる宮家でも、このカード式によって整理されている由うけたまわっている。放送局でも有坂氏がこの式に拠っているらしい。
 そこで仮りにここに五千枚のコレクションがあるとすれば、楽曲別と演奏者別におのおの五千枚ずつ、合わせて一万枚のカードを必要とする理屈であるが、実際には三枚四枚の組物が相当にあるから一種二千枚以下、二種のカードを用意するとしても三千数百枚で事が足りはしまいかと思う。
 これはしかし、お道楽としてコレクションをしている一般の人にとってはなかなか大変な仕事で、第一にタイプライターを打つことの不自由さがあり、また、カード箱が相当に高価である。仮りにこの二つの困難を意に介さぬ人であっても、次にはこのカードとレコードのおのおのを絶えず完全に整理して行くという大きな手数が控えている。御承知の通りレコードは月々新しいものが発売されるから適宜これを加えて行かねばならぬし、古いものの整理も必要であるから、レコードの増減に従って絶えずカードの抜き差しを丹念に行わねばならない。何千枚ものコレクションの整理を完全に行うとすれば、どうしても専門に一人の手が要るわけで、一般民間の人にはなかなか言うべくして容易に行い難い。ことに私のような忙しい仕事を持っている者にとっては、到底思いも及ばぬことである。
 カード代りにノートへペンで書き込んで行く方法もいいかも知れぬが、後から増して行くレコードのために無駄な余白を用意したりせねばならず、整理した分を消して行くために汚れて見にくくなったり、余白が尽きて飛び離れた場所に書き込まねばならなかったりする不便が起ることを覚悟せねばならぬ。

C 私の実行している整理法

 そこで私のような忙しい者は、忙しいなりに自分勝手流の一法がある。それをこれから申し上げよう。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 作曲者別にすること 私の経験によれば、不思議なことに無名の作曲家のレコードは非常に少く、数にして百枚に一枚ぐらいの割に過ぎない。あとの九十九枚はまずバッハとかヘンデルとかいう風な著名な人たちのものばかりである。そこに着目して作曲者別の整理をやって見ると、非常に要領よくうまく整理することが出来た。これをもっと具体的に申し上げて見ると――
 まずバッハ以前に一つの分類を設ける。イタリー・クラシック、フランスのクラシック、その他単純にクラシックと呼ばれるもの全部をこの中に含ませる。
 次にバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト……という工合に、音楽史的に一人一人整理しておく。私の手許には只今のところバッハがほぼ三百枚ぐらい、ベートーヴェンが六、七百枚ぐらいあるが、これをまずアルバム物とバラ物とに別ける。そしてアルバムはアルバムだけの棚に収め(だから、棚が二重に要るわけである)、バラの方は十枚ぐらい入るものと十五、六枚入るものと二種類、約百五、六十個のボール箱を用意しておいて、これに収める。一人の作曲者で数の多いのは、更にその中でオーケストラ、ピアノ、ヴァイオリンという風に大別し、そのいずれにも属さぬ曲種は、室内楽チェンバー・ミュージックに、これにも収めかねる特殊のものは器楽インストルーメントとする。このほかに歌のある人のは纏めてヴォーカルの中へ全部入れてしまう。オルガンは大抵ピアノの中に一緒にしてしまう。器楽の少い時は室内楽と一緒にし、オーケストラが特に多い時には序曲だけ別の箱に入れておく。こんな工合に分類して得た結果、バッハはアルバムが三、四十冊、バラ箱で五つか六つに入ってしまった。ほかもこれに準ずる。(ほかにHMVは別にしてある)
 ところが、こういう疑問は当然起って来るであろう。モーツァルトの裏にシューベルトが入っていたり、バッハの裏にヘンデルが入っていたりするレコードはどう扱うか。或いはもっと飛び離れてフランスの古典と近代とが裏表になっているのなどは一体どう始末したらよいか? この時こそである、カードを役立たせるのは。
 カードと言っても、私などは手近にある一枚の原稿用紙で事が足りるのである。これに曲目、演奏者を書き込んでおき、レコードは時代の古い方へ整理してしまう。即ち、仮りにモーツァルトの『魔笛』の裏にシューベルトの『ロザムンデ』が入っているという場合には、レコードそのものは時代の古いモーツァルトの方の箱に収めておいて、シューベルトの箱にはくだんのカードを入れておく。薄い紙一枚のことであるから別にレコードを傷めることもなく、レコードの散佚さんいつも防げて、しかも必要の場合には一見してたちまち用を弁ずることが出来る。シベリウスとシューベルトが裏表という際にはシューベルトの方へレコードを、シベリウスの方へカードを、こういう筆法で行けばいささかの苦労も要らない。私はこの手前勝手の流儀をあまねく同好の士に奨めたいと思っている。
 以上のほかに、私個人としての好みに過ぎぬが、HMVとNGSのレコードだけは別の棚に整理している。好きなドイツ・リードも別の一棚に収めてあるが、しかしこれなどはあくまでも個人の好みであって、正道的にはやはりシューベルト、ブラームスなどにそれぞれ分類しておくべきであろう。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 演奏者別による分類 ところが、クライスラーやコルトーなどのように非常にレコードの数も多く、しかも往々にしてさまで有名でない作家の作品を入れているのは、また一つ別の扱い方が要る。私が作曲者別整理と併用している演奏者別の分類というのがそれである。例えばクライスラーでもコンチェルトのように纏まったものはアルバムで作曲家の方へ入れ、その他のバラのレコードはクライスラー個人の箱を別に設けてここに一括して収める。コルトーなどもこの例に倣うが、ショパンのように一人でたくさんのピアノ曲を持っている人の作品は、作曲家別を主にしてショパンの棚の方へ纏めるという風にしている。
 試みに私のキャビネットで独立して箱を持っている演奏家を挙げて見ると、
ピアノ
 コルトー、パデレフスキー、パハマン、ローゼンタール、ザウアー、ダルベア
ヴァイオリン
 クライスラー、ティボー、エルマン、シゲティ、フーベルマン、プシホダ
チェロ
 カサルス、マレシャル、フォイアマン、ピアティゴルスキー

 シャリアピン、メルバ
(但し、リードの方はゲルハルト、ドゥハン、レーマン、クルプなどに分けている)
 右のほか、ギターとカスタネットとは各別にしてある。これは特殊なものであるのと、作曲者が全く変っているからである。
 右のような程度である。
 厄介なのはオペラの歌である。オペラの一枚物はまず大部分が裏表別の作曲者のが入っているからである。そこで私は大まかにヴェルディとプッチーニだけは別に独立した箱を与えて、それ以外はすべて声の種類で分けることにしている。即ち、ソプラノ(オペラと民謡とはまた別にしてある。リードは前述の通り全然別格に扱っている)、アルト、テノール、バリトン、バスのそれぞれの独唱、それから二重唱デュエット三重唱トリオ、という風にして、オペラの部門に放り込んでおく。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 国別による近代楽の分類 さて困ったのは近代楽の分類である。まずドイツでは、ブラームス以後になると独立した一箱を占めさせる作曲家は、ほとんどなくなってしまう。R・シュトラウスは別として、ブルックナー、マーラー、シュレーカー、フィッツナーなどという人たちに到っては、アルバム二、三冊を除くほか今のところ僅かに一、二枚しか入っていない。
 フランスでは、サンサーンス、フランク、ドビュッシー、ラヴェル、ダンディ、デュカ、オネガーの程度までは独立出来るが、そのほかの人になるとレコードは実に少い。
 スペインではまずマニュエル・デ・ファリア、アルベニスくらいのもの、イタリーに来るとレスピーギだけで、あとはもう二枚か三枚しかない人ばかりになる。
 右のような次第で、まず同じ国の人は系統で色別けして二人か三人をもって一箱に纏めておく。
 北欧では、ロシアはグラズノフ以後のものを一纏めに、スカンジナヴィアその他は各国別にして整理してしまう。
※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) その他 こんな風にしてもなお分類しきれぬものがある。例えばオペラの序曲だけが一曲か二曲入っているだけで一本立ちにならぬ作曲家たちのものは、別に「オペラの序曲」という一箱をこしらえてこれに纏めておく。こういう種類に属するものは二、三十枚ほどある。
 原曲を室内楽に編曲したもの、例えばショパンの『プレリュード』をレナーがクヮルテットで入れたものは、特にショパンの方に収める。こういうたぐいの演奏はもともと邪道ではあるけれども、数ある中には捨て難いものもあるから、これらは「室内楽・雑」という類に入れる。
 こうまで細かく分類してもしかもなおかつどうにも別けかねるものは、已むを得ず「雑」の部に収容する。ところがよくしたもので、こういう厄介なものは現在私の手許にある六千枚のレコードの中にせいぜい二十枚とはない。これに属するものはごく特殊な楽器のもの、或いはごく小さな作曲家のものなどだ。

 以上のような工合で六千枚のコレクションもまずあますところなく綺麗に分類されてしまう。これを要約すると、
 (一) 作曲者別
 全部をまずこれで分けて見て、もしこれで始末しきれぬものは、
 (二) 国籍別
にする。これ以外に、
 (三) 演奏者別
の方法を併用する。この三つの分類でまず十分である。手数のかかったカードがなくても、一目見て大抵求めるレコードは取り出すことが出来る。どうかすると、タンスマンとかチェレプニンなどというのは、どこの国の人だったかと迷うこともあるけれども、上述の分類整理法を実行して、私はまず日常少しも不自由を感じていない。私同様せわしい方は、参考にされてはいかがかと思う。

※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 袋を大切にせよ

 余談ではあるが、ファンとしておろそかにすべからざる心得を一つ申し上げておく。
 それは、とかくレコードを大切にする人でありながら、袋に対して鈍感な人が非常に多いことである。袋が揉めていたり、破れたりしていても一向平気な人があるが、これはやはり相当に大切にすべきであると思う。レコードさえ満足なら袋などはどうでもいいというのは、少くともレコード音楽を愛する所以ゆえんではない。袋は袋なりに一種の芸術品として愛玩の対象となり、また買った当時の気分を偲ぶよすがともなる。何よりも第一にレコードはそれぞれその会社の袋に収めるべきだ。ビクターの袋にコロムビアのレコードを入れておいたり、ポリドールの袋にビクターが入っていたりせぬように心掛けたいものである。
 と同時に、レコード会社としても出来るだけ注意して変なものを作らぬようにして貰いたいものである。近頃アーティストの写真を袋に刷り込むことが盛んに行われているが、あれはいやな趣味だ。クライスラーやコルトーあたりならまだじょすべしとしても、ジャズや流行小唄の歌い手などのいかがわしきものを入れるのは御免を蒙りたいものである。それもコルトーのレコードをすべてコルトーの写真のある袋に入れるという方針ならまだいいが、ジャズ歌いか何かの袋にシャリアピンのレコードが入っているなどは腹立たしくさえなる。
 現在のところ、HMVの無地の袋が一番感じがいい。NGSの昔の袋も厚くてよかった。袋に蓄音機や針の広告を入れるのは商売だから悪いことではないが、アーティストの似ても似つかぬグロな顔は不快至極である。こういうのが好きなのは、音楽的価値のないレコードにサインして貰って喜んでいるのと同様、一種の邪道である。

※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 針に関する私見

 針は何を使ったらよいか? これはレコードを聴くにあたって最も切実な問題であるだけに、誰しもがかなり悩んでいるようである。
 何しろ蓄音機用の針たるや、市場にひさがれているものは千差万別で、同一の会社からも、低音、半音、高音、特大音、或はクロミウム針、竹針、等々が売り出されている有様だから、これでは迷わないわけに行かぬであろう。
 結論を先に言うと、原則として針は鋼鉄製を最も良しとする。
 しかしながら同じく鋼鉄針といっても、困ったことには坊間ひさぐところのものにはかなり不純なものが少くないということを耳にしているから、鋼針かねばりなら何でもよろしいというわけには行かない。こういう不良品を音の高いレコードに使うと、途中で針先が潰れてしまうという悲惨なことが起ってしまう。だから事情の許す限り信用の措ける高価な針を使う方が、結局大切なレコードのためには得策である。
 針金を伸ばしてぶつぶつ切って先をとがらせただけの針では、レコードのためによくないのは火をるよりも明らかな話で、レコードの溝は御承知の通り底が円くなっているから、縫針のような尖端を持ったのは著しく溝を傷つけ、レコードの寿命を極端にちぢめてしまう。こういうのを検べるには万年筆型の手頃な顕微鏡があるから、これを一本用意しておくのが最も簡単な方法である。
 クロミウム針 最近クロミウムを使った硬度の高い針が出来て、七十五回から百回ぐらいまで取り替えずにそのまま使えると称されているが、これはしかしいわゆる宣伝文句であって、私の経験によれば、大抵三十面ぐらいでいけなくなるようである。しかも硬いとはいっても一面ごとに針先が減ることであるから、たとえ針の位置を動かさないとしても、一回ごとにレコードの溝に当る針先の角度が違って来る。一回だけで捨てる純良な鋼鉄針に比べてレコードによくないことは明らかである。これはしかし私の素人しろうと了簡で、必ずそうだとは保証し切れぬけれども、まず危険と見て差支えない。店頭用やジャズ・レコードなどを惜しげもなくかける場合ならば、一々針をつけかえる手数も省けて一概に悪いとは申されぬ。自分もレコードの種類によっては時折使っている。
 針の太さ 次に、針の太さということをかなり気にしている人がある。普通の場合、細い針の方が太いのに比べてレコードを傷める率は少い。それはつまり針が細ければ再生される音が小さく、従ってサウンドボックスから針を伝わってレコードに戻って来る震動も小さいからである。反対に針が太ければ音は高い代りに震動も大きいから、それだけレコードを傷める率も大きいということになる。結局問題は、針の太さ如何いかんよりは、音の大小の方が影響を及ぼすわけである。太いのが悪いといえば、竹針などは最も太くてレコードを傷めそうなものだが、音が小さいから決してそうでないことによっても明らかであろう。
 竹針の問題 竹針については世上いろいろの説があるようである。中には鋼鉄針よりはむしろレコードをそこなうことが多いと唱える人がある。しかしこれは宣伝のための説で一向に信じられない。
 但し竹針も程度によりけりで、突端が潰れるまで使ってはレコードの溝にやすり[#「鑢を」は底本では「鑪を」]かけるような結果になって勿論良くない。従って竹針といえども一本一回主義を厳守して、一回ごとに鋭利なカッターで切るべきである。かつて輸入されたチニーの竹針は五面までつと称され、事実安いレコードには三面ぐらいまで切らずに使って大して差支えを感じなかった経験がある。しかしそれでもHMVのレコードには、やはり一面ごとに切って使ったものである。最も注意を払われねばならぬのは背(かど)である。ここが潰れたりささくれたりしたのを使うのが一番よくない。
 次に、竹針と鋼針とを交互に使っては悪いと言われるが、これは実際上から申しても常識を外れたことで、最初からいずれか一方にきめておくのが本当である。
 次に、重大な蒙をひらいておきたいことがある。それは、竹針が鋼鉄針に比べて音が良いという誤れる認識である。いうまでもなく竹針においてはその木質が音の良導体でないために、その分子の中に音の大部分が吸収され、出て来る音は角度を失っていわゆる丸い音になる。ちょうど風呂敷をかぶせたような音である。音が柔かくていいというのはその人の解釈のしようではあるが、これを鋼針かねばりよりいいというのは、ピントが外れてぼんやりした写真を芸術的だといって有難がると同様、重大な誤りであると言わねばならぬ。
 現にレコードは、吹込みの時にはダイヤの針でワックスを刻んで行くが、これは始めから終りまで尖端の角度が変らぬからである。その意味からいって、レコードの損傷を厭わぬならば針は硬いほど良いということになる。竹針よりは鋼針がよく、更にクロミウム針がよい。しかもソフト・トーンのような長さの長い、針自身が共鳴を起すものよりは、フル・トーンの方が音そのものは最も鮮麗であって良いと自分は考えている。但し、その代りレコードへの反動は大きいから、そういういろいろの条件を加減して、結局家庭で鑑賞するためとしては半音ハーフトーンの鋼針が最も理想的であるという結論に到達する。
 そこで、最後の結論を申せば、
レコードを惜しむ人は竹針を用うべし
良い音で聴きたい人は鋼針を用うべし
ということになる。この間、多少の食違いのあるのは致し方がない。
 なお、現在では竹針も鋼針もほとんど和製で用が足りるようになった。それは一頃の舶来と毫も変らぬくらい、製法も進歩している。であるから、名の通ったものであれば、和製の針を信用して使っていいことを特に申し上げておく。

※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)※(終わりきっこう(亀甲)括弧、1-1-45) 蓄音機の選択と手入れ

蓄音機発達の跡

 近年における蓄音機の発達は実に驚くばかりで、この五十年間の進歩の跡を顧みると誠に想像以上のものである。従って、将来とてもこの趨勢すうせいは更に加速度的に続くものと見なして差支えなかろうと思う。そこで今日の問題について語るに先だって、過去の状態をざっと顧みることにすると――。
 今から二十何年か前に、ビクター会社からラッパのついた機械が発売された時の我々の感激はどうであったろう。外観も小ぢんまりと見事なら、音もまたびっくりするくらい綺麗であった。が、そのうちに今度は例の九号型というものが出来て見ると、我々の感激は更に新たなものとなり、前のラッパの付いたものなどは莫迦莫迦ばかばかしくて顧みる者さえなくなってしまった。当時九号の機械はサウンドボックスだけでも十五円もしたもので、これを持つことはファンの大きな自慢の種であった。ところがこれも一場の夢で、チニーやブランスィックの三百円五百円という立派な機械が我々の前に現われて、もうこれ以上の物はあるまいと大変なセンセーションを惹き起したが、それさえもやがてビクターのクレデンザやコンソレットの出現の前には影が薄くなり、さては五百円のチニーがいかにふん張っても百何十円かの十字屋のマーベルに及ばぬという状態になってしまった。
 ざっと右のような次第で、年と共にふるきものは新しき進歩の前に姿をひそめてしまったのである。今日に到ってもまだビクターの九号が良いと思っているのは、だから恐るべき頑迷であり、同様に、電気以前の雲母マイカ式の品を非常に立派な機械だと思いこんでいるのもどうかしていると言わねばならぬ。なるほどモーターはしっかりしているし、キャビネットは美術的ではあろうが、しかし音の再生という点になるとまるで問題ではない。
 最も大きな変革を蓄音機に与えたのは、サウンドボックスにおけるマイカに代るジュラルミンの出現である。しかも初期のジュラルミンも追い追いに研究が積まれて、その厚さも千分の三ミリから千分の二、千分の一と、次第に薄いものが出来るようになった。
 また、短い単純なホーンに代ってエクスポーネンシャルの理論にもとづく長いホーンが採用されることになった。そしてこの理論に従えば長いホーンほど良いのであるが、長いホーンでは材料が金属のものはそれ自身共鳴を起すし、他の物質では音を吸収するおそれを生ずる。それを防ぐためにはまたいろいろの工夫がなされ、次第に完成に近づいて来たわけである。従って古いものが年と共に落伍して行くのは致し方のないことで、今日機械を買って十年の保証を求めるのは、求める方が間違いである。これは従来のアクースティック蓄音機に対しても電気蓄音機でも同じことである。初期のものと今日のものとでは、実に大した変りようと言わねばならぬ。

電気蓄音機について

 さて電気蓄音機も実にいろいろあって、一時低音部を強くぼんぼんといった音を出すのが流行はやったこともあり、高音部を特に出す好みもあった。つまり音の再生が、狭くて綺麗なのと広くても汚いのとの差があったわけで、それはまた真の音に近いかいなかの問題でもある。現在トーキーの機械はかなり進歩し、その再生も音の幅と力とにおいては申し分ないと言ってもいいが、しかしそれが本当の音として認められるかどうかは、やはり疑問である。例えば映画の中で諸君はしばしば頬を叩く音を聞くであろうが、あれがしかし本当の音だとは誰も考えまい。あれではまるで板を叩く音である。
 そういう次第で、理想的な電気蓄音機の出現はまだまだ将来のことに属する。十年さきのことは到底保証出来るものでないから、機械を求める人は現在を最も重視すべきで、それで三年満足出来れば上等であり、五年飽きが来なければそれは幸いというべく、十年愛用に堪えるならばそれこそ限りなき幸福と言わねばならぬであろう。

難しき哉、機械の選択

 機械の選択は実にむずかしい。人からもよく相談をかけられるが、実にこれには困る。結局はその時の状態により、また買う人の好みに従って決定するほかないのである。
 例えばアクースティックの方にして見ても、サウンドボックス一つについてもいろいろの場合がある。半径が小さくて薄いジュラルミンを使ったボックスは、感度が強くてデリケートに音を再現し、半径を大きくしてジュラルミンを厚くしたものは、音が柔かくて幅がある代りにデリカシーを欠くであろう。ボックス一つについても既にこれだけの差があるのだから、どうしてもその人の好みに相談して決定せねばならぬことになる。
 アームの長いのも、エクスポーネンシャルの理論から言えば音は正しく柔かいが、しかしそれ自身共鳴を起す惧れが充分にある。ホーンの理想的なものと言えば、それ自身が共鳴せず、また音を吸収しないことであるが、仮りに共鳴を起さぬように石膏せっこうのごとき練り物がよいとしても、材料そのものが音を吸収してしまって、うるおいもなく光もないふやけた音になってしまう。こういう練り物には塗料を施して吸収を妨げるという方法もあるが、これも絶対的とは言えない。
 最もよく音の吸収を妨げるのは金属のホーンだ。しかしながら金属のホーンはそれ自身共鳴を起すから、すべての音が変化してゆがんだものになってしまう。昔あった朝顔形のラッパはその最も好き例である。そこで金属のホーンにはつめ物をしたり、或いは針金や縄を捲いたりして共鳴を防ぐという方法も試みられているが、果してどれほどの効果があるか、まだ研究の余地が十分にあろう。
 最も理想的なのは木製のホーンである。ところが軟質の木があると練り物同様、音を吸収し、硬質の木は金属と同じように、共鳴を起すから、これまた絶対的に理想的とは申し難い。ヴァイオリンの胴張に模したものや、ラッパのテューブのように張ったものもあるが、しかしいずれも妥協的のもので或る程度の強味はあるけれども、まだまだ研究の余地は今後に残されている。

機械に関する諸々の心得

 (1) ターンテーブル は勿論廻転する時にゆがみがあってはいけない。これが歪んでいるのは蓄音機のセンターの棒が曲っているか、或いはそれを受けるボールベアリングのボールが擦れているか、ターンテーブル自身が歪んでいるかのいずれかが原因であるが、この歪みは一個所にあおりを与えてレコードの或る部分だけに強い力を与えるから、そこだけが極端に白くなるようなことになる。もっともこれはターンテーブルの歪みだけでなく、レコード自身っているためのこともあるが、この歪みは音楽の再現を傷つけ、レコードを傷つける。それで上司小剣かみつかさしょうけん氏は水準器を用意して常に機械を平らに置かれるというが、私は水準器を用意せぬまでも、せめてターンテーブルの歪みを放置するような無神経でありたくないと希望しておく。
 (2) モーター 蓄音機の各部分中で最も重要なのはモーターで、これは機械の大切な生命だといっていい。世の中にはサウンドボックスばかり気にしてモーターに冷淡な人も稀にあるが、それは大変な間違いと言わねばならぬ。モーターのことも最もやかましいのは上司氏だが、とにかく機械の心臓部ともいうべきモーターに対して、もっと関心を持たれていい筈である。
 モーターの廻転の正否を試す最も簡単な方法は、ストロボスコープを使って十二インチ盤がスタートから終るまでいつも同じ速度を保つか否かを見ることである。
 世間には「私のところのモーターは十インチ何枚十二インチ何面かかります」とうたっている製造者もあるが、これは意味なきことである。御承知の通りビクターのクレジンサは四ちょうぜんまいであるが、しかも十二インチ二面以上かけるのは無理である。十二インチ一面かけ終えたらあとは少しずつ補充して捲いてやるようにせねばならぬ。
 原則として、ぜんまいの短いのはスタートが早く牽引力も大きいが、しかし長い生命を持たぬから初めと終りでは廻転速度に差が生じて来る。理想的なのは厚くて強いぜんまいを出来るだけ長くして、一本よりは二本、二本よりは四本と入れた方が、互いに補い合って平均な廻転をするから、欲を言えば四挺ぜんまいであるとよいが、廉価な機械ではそういう贅沢は許されないから、二挺で差支えない。ただし、強力で長いゼンマイであることは是非希望したい条件である。(以上はスプリング・モーター)
 (3) 電気モーター 次に電気モーターであるが、近頃は非常に粗悪な品が市場に現われている。こういう物になると、冬になればむやみと廻転が緩くなり、反対に夏にはとめどもなく速くなる。中には最初の一、二面は遅くてだんだん使うに従って速くなり、九十回も百回も廻るものさえある。これはモーターに熱を持って油が融け出すからで、そういう粗悪な品をつかまぬようにする心がけを忘れてはいけない。いつかも言ったことがあるが、私が現在使っているブランスィックのパナトローブは、夏冬調節の必要もない良いモーターが入っているのが自慢だが、舶来の高級の機械にも往々にして不良なモーターがついていることがある。国産品も全部とは言えないがなかなか悪くないモーターがある。
 夏と冬で廻転が違うのはまだ恕すべしとしても、一面かける途中で既に不同を起すというのになると始末が悪い。勿論この場合あおりがついて音にうなりを生ずる。これは国産の安物ばかりでなく舶来の高い品にもしばしば見受けるから、買う時の注意はゆめおろそかには出来ない。
 たしか震災前のことであったが、田辺尚雄たなべひさお氏が書かれた蓄音機の本の中に、モーターが第一の生命であると説かれているのを見て不思議に思ったことがあるが、それは確かにボックスやホーンに劣らず大切であることが次第にわかって来たことである。世の蓄音機業者はくれぐれもモーターだけは良いのをつけて貰いたいと思う。
 ついでにモーターの油の注し方についてここで申し上げる。上等の機械になると油のし方を指定してある。ぜんまいその他重量のかかる廻転の緩慢な処にはヘヴィ・オイルを、デリケートな動きをする軽い処には軽いオイルをという風に。昔のブランスィックにはこの指定があった。しかしこの頃の機械には指定どころか、油をあなさえないのがある。
 油は自分で注してもよいが、やはり信頼するに足る技師に命ずるのが最も安全である。この場合「信頼すべき」ということは欠くべからざる条件で、同じグリースにしても幾階級かあり、またグリースを入れるにしても、ぜんまいいきなり土間へじゃあっと伸ばすような心得の悪い蓄音機屋があるから油断が出来ない。こんなことをされたらぜんまいが砂だらけになってしまって、ひどく寿命を縮めてしまう。
 電気モーターも自分で出来ないことはないが、こういう深部に注さねばならぬものは素人の手にはおえぬから、やはり練達の技師に依頼するのが安全である。油も昔のスリー・イン・ワンは固まらなくて質も良かったが、近頃のは寒天のように固まってしまう粗悪品があるから、これも信用第一に選ぶことが肝要である。
 (4) キャビネット 断るまでもなく蓄音機を直射日光に当てることは常識としても当然いけない。大切なキャビネットが反ったり、ひびが入ったりするからだ。またキャビネットは出来るだけ美しい光沢を保つべきだから、めいめいの好み好みで油で磨くのもよかろうし、艶布巾つやぶきんの常用もよかろう。蓄音機屋では初めは木蝋もくろうで拭くが、自宅ではスリー・イン・ワンがやはりいいと思う。しかしこれは磨いた後で手の型がつくから、よくよく拭き込まねばならぬ。手の型のつかぬ拭き方を欲するならば、日本の家具の艶出つやだしに使われるいぼたの粉がよかろう。しかしこれもよく拭き込む世話が要る。近頃アサヒ艶布巾と称するものがあって、ヴァイオリンの胴の艶出しにも使われるくらいで、これはキャビネットを拭くに便利なものである。
 (5) サウンドボックス は出来るだけ丁寧に取り扱うべきであることは勿論だが、海岸へ持って行くことはなるたけ避けたい。潮風にあたるとジュラルミンが風化する惧れが多分にあるからである。是非持って行かねばならぬ場合には、これを防ぐ方法を講ずべきである。

蓄音機を買う時の用意

 蓄音機選択の困難についてはさきに述べた通りであるが、その項でも述べた通り、何を選ぶかは結局その人の好み経済力とがこれを決定する。ABCとほぼ値頃の同じ三会社の蓄音機を挙げて「どれを買ったらいいか?」と問われても、やはり好みに委すがよいと答えるほかはない。
 蓄音機はやはり一種の贅沢品であるから、安いものより高いものの方が大体良いときまっている。しかし高いのが絶対に良いとは言い切れない。また有名なもの必ず良品とは言えない。これは宣伝のやり方一つで有名なものがあるからだ。中には著名な音楽家や批評家の讃辞を羅列して売り込むものもあるが、これとて全幅の信用をかけるわけには行かぬ。なぜなら、音楽家の中には蓄音機にまるで無関心な人もあるからで、こういう種類の宣伝をそっくり信用するのはおよそ危険が伴う。仮りに機械のことのよくわかる音楽批評家が書いたものでも、短所を指摘した個所は遠慮なくカットして、長所をめた都合のいい部分だけ抜いて宣伝に使うというのはよくある手だから、これもまるっきり当てにすることは出来ない。
 先輩の意見を訊くのも一つの方法だが、そういう人の中には自分の持っている機械を無上のものとしてそれだけを勧めることがあるから、やはり広く意見を求め、これを参考として自分で選択するのが最も理想的である。大体において信用もあり名も通っている品なら間違いないが、今も申した通り宣伝で得た信用や有名があることも考慮の中に加えねばならぬ。
 店で番頭に相談するのも一法であるが、蓄音機屋というものは正直のところもうけの少いのよりは利幅の大きいのを勧めたがるのが人情だから、それも丸々信用出来ない。中には定価の半分ぐらいでおろされる物さえあるから、番頭の意見も参考にはなるが無条件で従うわけに行かぬことを十分心得ておかぬと、飛んだ目に会ってしまうことがある。

ポータブルを自宅用にする可否

 機械を買いたいと思うがポータブルの方が旅行用にもなり自宅でも使えて重宝だと思うが……という言葉をよくきくが、しかしポータブルという言葉の意味が示す通り、それは飽くまでも携帯用であって、書斎や応接間には使用すべからざるものである。譬えて見れば応接間へ通った客に畳み椅子を勧めたらどうだろう。説明するまでもなく畳み椅子はあくまで野外でスケッチしたりいこうたりする時に使うもので、客間にはやはり長椅子なりひじかけ椅子なりを備うべきである。それに構造から言っても少からぬ無理がある。第一にホーンが小さいから音量も少く分離も悪い。音が大きくても含蓄がない。だから自宅用にポータブルを買おうという人には、口を酸くして私はその不可なるを説いている。
 但しポータブルと大きい型のと二重に買える人は勿論、一向差支えないわけで、一つだけ買う人はポータブルは避けるべきだ。夏季、避暑地へポータブルを持って行って小唄のレコードなどかけるのは、決していい趣味とは言えない。いわんや二週間かせいぜい一カ月のためにあとの一年の大部分を犠牲にする必要のないことは、今更申し上ぐるまでもなかろう。
 なお、経済的に高いものを買えぬ人が、子供の玩具おもちゃにするのだからと言って粗悪な安物を買う人を往々にして見受けるが、これは大変な心得違いで、子供に間違った音を絶えずきかせるような恐るべき結果を招くし、機械そのものもじきに飽きてしまうから、少し奮発しても是非信用のおける物を求めるようお勧めしたい。
(『レコード音楽』昭和十年九、十、十二月号所載。この項竹野氏の筆記)





底本:「名曲決定盤(上)」中公文庫、中央公論新社
   1981(昭和56)年9月10日初版
   1992(平成4)年5月10日再版
   2003(平成15)年8月30日第6刷
底本:「名曲決定盤(下)」中公文庫、中央公論新社
   1981(昭和56)年10月10日初版
   1992(平成4)年12月15日再版
   2004(平成16)年1月15日第6刷
底本の親本:「名曲決定盤」中央公論社
   1939(昭和14)年5月3日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ダブルハイフン(1-3-91)は、「=」(1-1-65)で代替入力しました。
※「汎濫」と「氾濫」、「ウイン」と「ウィン」、「テクニシァン」と「テクニシアン」、「タマニョ」と「タマニヨ」の混在は、底本通りです。
※複数行にかかる波括弧には、けい線素片をあてました。
※底本巻末の藤田圭雄氏による作曲者別索引は省略しました。
※大見出し「レコードファン心得帳」の中見出し「レコードの保存と手入れ」は竹野俊男氏による筆記です。
※大見出し「歌」の中見出し「ソプラノ」「メツォ・ソプラノ」「アルト」「テナー」「バリトン」「バス」、大見出し「管弦楽」の中見出し「フランス系指揮者」「吹奏楽」、大見出し「器楽」の中見出し「オルガン」「クラヴサン」「クラヴィコード」「ハープ」「フリュート」「ギター」は破線による罫囲みで表現されています。
※見出し前後の空行の数、[#改ページ]の有無は、底本通りです。
※底本の親本で「管絃団」を底本は「管弦団」で表示しています。
※底本の親本発行時に生存していて、底本発行時に死亡している作曲家の没年は編集者による追加です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※誤植を疑った「言われてゐる」「あつたかも」「大裟袈に」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
※【上-45p】ホ短調[#「ホ短調」はママ] クラシック音楽作品名辞典では1番イ短調、2番ホ長調のみ、ネットも同様。下巻339p 作曲者別索引には「提琴協奏曲第2番ホ長調」しかない。
※【上-87p】パガニーニさえも[#「パガニーニさえも」は底本では「バガニーニさえも」] 底本の親本は「パガニーニ」
※【上-89p】Rudolf Serkin[#「Rudolf Serkin」は底本では「Rudolf Serkjn」] ウィキペディアでは Rudolf Serkin、元々 I と J は同じ文字だそうですが。267p には「Rudolf Serkin」。底本の親本は「Serkin」。
※【上-98p】続いて[#「続いて」は底本では「総いて」] 底本の親本は「続いて」
※【上-108p】Georg Kulemkampff[#「Georg Kulemkampff」はママ] ウィキペディアやジャケット画像では Kulenkampff だが、Kulemkampff がないこともない
※【上-115p】姐妃だっき[#「姐妃の」はママ] 底本の親本もママ、辞書は妲妃
※【上-116p】声名を[#「声名を」は底本では「声明を」] 底本の親本は「聲名」
※【上-120p】モーツァルト・K四二四[#「モーツァルト・K四二四」はママ] クラシック音楽作品名辞典やネットによると、K424は「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 変ロ長調」。YOUTUBE にこのコロムビアレコード(J8581)の画像が出ているが、「SONATA IN C MAJOR、K296」となっている。
※【上-147p】作品五七[#「作品五七」はママ] クラシック音楽作品名辞典やネットによると、作品57は「ベルシャザル」(歌曲)、ピアノ協奏曲=イ短調は54かも
※【上-153p】変ニ短調の[#「変ニ短調の」はママ] 150p に列挙されているのには変ロ短調とあり。第3楽章が葬送だが、変ニ長調。
※【上-180p、263p、下巻作曲者別索引】ハイドンの愉快な鍛冶屋[#「ハイドンの『愉快な鍛冶屋』」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアなどでは「愉快な鍛冶屋」はヘンデルの作品。だが、底本の親本や下巻末の作曲者別索引もママ
※【上-181p】変ロ調[#「変ロ調」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアに変ロ調はなし。
※【上-192p】ニ長調のプレリュード[#「ニ長調のプレリュード」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアでは「ニ短調」
※【上-228p】ラフマニノフ・作品八[#「ラフマニノフ・作品八」はママ] クラシック音楽作品名辞典によると作品8は「6つの歌」、ピアノ協奏曲第二番は「作品18」、ウィキペディアも同じ
※【上-228p】チャイコフスキー・作品三三ノ一一[#「チャイコフスキー・作品三三ノ一一」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアによると、作品33は「ロココ風の主題による変奏曲」、「三頭立の橇」は作品37の「四季・トロイカで」では
※【上-229p】ベートーヴェン・作品四三[#「ベートーヴェン・作品四三」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、作品43は「プロメテウスの創造物」、ヴァイオリン・ソナタ=ハ短調は第7番(作品30-2)かも
※【上-231p】Egon Petri[#「Egon Petri」は底本では「Fgon Petri」] 底本の親本(昭和14年)=、ウィキペディアでは「Egon Petri」
※【上-257p】即興曲ヘ長調[#「即興曲=ヘ長調」はママ] クラシック音楽作品名辞典では、ヘ長調は見つからず、あるのはへ短調
※【上-260p】奇嬌な[#「奇嬌な」はママ] 底本の親本(昭和14年)も「奇嬌な」
※【上-268p】Ferrucis Benvenute Busoni[#「Ferrucis Benvenute Busoni」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアやレコード画像などは「Ferruccio」
※【上-273p】作品一四一の三[#「作品一四一の三」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、作品141はミサ曲3番、即興曲は作品142がある
※【上-283p】ハ長調[#「ハ長調」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、第2番はニ短調、ハ長調は3番
※【上-312p】ピアノ三重奏曲=ニ短調[#「ニ短調」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、ピアノ三重奏曲第一番作品99は変ロ長調
※【上-313p】八一九六―二〇〇〇[#「八一九六―二〇〇〇」はママ] レコードの型番が八一九六番から二〇〇〇番では合わない。同じ名曲集の再プレス盤が「JI八〇ー四」と5面なので、もしかすると、「八一九六―二〇〇」の誤りか。
※【上-320p】ハ短調[#「ハ短調」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、作品9の2はニ長調、ハ短調は9の3
※【上-320p】K五六四[#「K五六四」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、三重奏曲ト長調(K五六四)は第7番
※【上-323p】第二楽章の[#「第二楽章の」はママ] ウィキペディアやCDジャケットなどでは第2楽章は Allegro ma non tanto、第3楽章が Molto Adagio-Andante
※【上-328p】作品五一の三[#「作品五一の三」はママ] クラシック音楽作品名辞典などによると、四重奏曲=イ短調は作品51の2、作品51の3はなし
※【上-330p】ロ短調[#「ロ短調」はママ] 下巻の作者別索引では「管楽器のための協奏的四重奏曲=変ホ長調」となっている。日本SP名盤復刻選集※(ローマ数字3、1-13-23)(J8692-5S)には「管楽器のための協奏的四重奏曲=変ホ長調K追加9」、クラシック音楽作品名辞典の「協奏交響曲」には変ホ長調とイ長調のみ。
※【上-340p】四重奏曲=ハ長調(K四六五)[#「『四重奏曲=ハ長調(K四六五)」はママ] 底本の親本(昭和14年)も「』」が欠
※【上-342p】作品一一五[#「作品一一五」はママ] クラシック音楽作品名辞典によると、鱒五重奏曲は作品114。
※【上-345p】作品十九の[#「作品十九の」はママ] クラシック音楽作品名辞典によると作品19はピアノ協奏曲2番、ウィキペディアなどではピアノソナタ20番第2楽章からの転用とあり。
※【上-346p】第二楽章アレグレットは[#「第二楽章アレグレットは」はママ] ウィキペディア、ネット、CD画像ではアダージョ。第一楽章はアレグロ。
※【下-51p】Threse Schnabel[#「Threse Schnabel」はママ] ネット検索、ウィキペディア、レコード画像では「Therese Behr-Schnabel」
※【下-57p】Madelene Grey[#「Madelene Grey」はママ] ウィキペディア、レコードジャケット画像などによると Madeleine Grey
※【下-69p】Jussi Bj※(ダイエレシス付きO小文字)rlng[#「Jussi Bj※(ダイエレシス付きO小文字)rlng」はママ] ウィキペディア、レコードジャケット画像では Jussi Bjo:rling
※【下-82p】Euzo de Muro Lomanto[#「Euzo de Muro Lomanto」はママ] ネット、SP、LPレコード画像は Enzo
※【下-102p】九番目の[#「九番目の」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアによると10番目
※【下-166p】ト長調[#「ト長調」はママ] クラシック音楽作品名辞典によると、13番はニ長調
※【下-167p】Berliner Philharmorische[#「Berliner Philharmorische」はママ] ネット検索では Philharmorische は1件のみ、他は Philharmonische
※【下-186p】熱っぽい[#「熱っぽい」は底本では「熱っぼい」] 底本の親本(昭和14年)では「熱っぽい」
※【下-198p】『交響曲第八番ロ短調(未完成)』[#「『交響曲第八番=ロ短調(未完成)』」は底本では「『交響曲第八番=ロ短調』(未完成)』」] 、二重かぎカッコがダブっているので、親本に合わせました
※【下-200p】Erlich Kleiber[#「Erlich Kleiber」はママ] レコードジャケット画像やネットでは普通「Erich Kleiber」
※【下-210p】Alois Merichal[#「Alois Merichal」はママ] クラシック音楽作品名辞典、レコードジャケット画像では Alois Melichar
※【下-218p】D.E.Inghelbrecht, Ren※(グレーブアクセント付きE小文字) Baton ― Concerts Padereux[#「Padereux」はママ] Wikipedia、レコードジャケット画像などは「Concerts Pasdeloup」
※【下-226p】Landon Ronard[#「Landon Ronard」はママ] ウィキペディア、レコードジャケット画像などでは「Landon Ronald」
※【下-226p】Marcolm Sergent[#「Marcolm Sergent」はママ] ウィキペディア、レコードジャケット画像などでは「Malcolm Sargent」
※【下-250p】ハープ協奏曲[#「ハープ協奏曲」は底本では「ハーブ協奏曲」] 底本の親本(昭和14年)、下巻作曲者別索引はハープ
※【下-256p】骨董レコード[#「骨董レコード」は底本では「骨菫レコード」] 下巻目次、底本の親本(昭和14年)は「骨董」
※【下-266p】Distinn[#「Distinn」はママ] ウィキペディアやレコード画像では「Destinn」
※【下-266p】Baraolle[#「Baraolle」はママ] クラシック音楽作品名辞典、ウィキペディアなどによると「Barcarolle」
※【下-267p】Mig[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-1]hty[#「Mig※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-1]hty」はママ] Lak' a Rose Mighty Lak' a Rose なら Farrar のレコード画像がある。
※【下-267p】“Comin' Thro the Ryel[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-2][#「“Comin' Thro the Ryel※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、267-2]」はママ] レコード画像などによると「Comin' Thro the Rye」
※【下-272p】Ye Bahks and Braes o' Bonnie Doon[#「Ye Bahks and Braes o' Bonnie Doon」はママ] ネットのSP写真などは Bank
※【下-277p】Celesth A※(ダイエレシス付きI小文字)da[#「Celesth A※(ダイエレシス付きI小文字)da」はママ] CDジャケット画像などは Celeste Aida、クラシック音楽作品名辞典は Celesta Aida
※【下-277p】Vesti la giuqba[#「Vesti la giuqba」はママ] クラシック音楽作品名辞典などは Vesti la giubba
※【下-289p】レーアンの[#「レーアンの」はママ] ウィキペディアやネットのSP写真は Lehmann
※【下-299p】Tetrgzini[#「Tetrgzini」はママ] ウィキペディアやレコードジャケット画像などによると Luisa Tetrazzini
※【下-299p】Witherspen[#「Witherspen」はママ] ウィキペディアやレコード画像では Herbert Witherspoon
※【下-314p】腐蝕させて[#「腐蝕させて」は底本では「腐触させて」] 底本の親本(昭和14年)は「腐蝕」
※【下-327p】やすり[#「鑢を」は底本では「鑪を」] 底本の親本(昭和14年)は「鑢」
入力:kompass
校正:みきた
2022年3月27日作成
2022年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

下側の右ダブル引用符、U+201E    270-1、270-6、267-1、267-1、267-1、267-2、267-2、267-2、267-4、270-6、270-6、267-1、267-1、267-2、267-2
ピアノ、U+1D18F    189-8
フォルテ、U+1D191    189-8


●図書カード