「御免」
少し職業的に落着き拂つた聲、錢形平次はそれを聞くと、
脱いでゐた
肌を入れて、八五郎のガラツ八に目くばせしました。生憎今日は取次に出てくれる、女房のお靜がゐなかつたのです。
「へツ、あの聲は
臍から出る聲だね」
ガラツ八は
頸を
縮めて、ペロリと舌を出しました。
「無駄を言はずに取次いでくれ」
「當てつこをしませうや、――年恰好、身分
身裝」
「馬鹿だなア」
「先づ、お
國侍、五十前後の
淺黄裏かな」
ガラツ八は
尤もらしく
頸を
捻ります。
「
訛がないぜ、――それに世馴れた調子だ――先づ
大家の用人といふところかな」
平次もツイ釣られます。
「御免」
もう一度、
錆のある素晴らしい
次低音が、奧のひそ/\話を
叱るやうに響きました。
「それ、お腹立ちだ。言はないことぢやない」
ガラツ八は
月代を藥指で
掻いて、もう一度ペロリと舌を出しながら、入口の方へ飛んで行きます。
「
仔細あつて、主人御名前の儀は
御免蒙るが、拙者は石川孫三郎と申す者。平次殿にお願ひがあつて
罷り越した、ほんの一寸逢つて頂きたい」
少し横柄ですが、ハキハキと物を運び馴れた調子です。
「お聞きの通りだ、親分、――この
賭は
口惜しいが親分の勝さ、四十五六の型へ入れて拔いたやうな御用人だ。逢ひますか、親分」
ガラツ八はモモンガアみたいな手付きをして見せます。
「御武家は苦手だが、折角こんな所へ來て下さつたんだ、兎に角お目に掛かるとしよう。
此方へ丁寧にお通し申すんだ」
「お家の重寶
友切丸か何か
紛失したんだらう、むづかしい顏をしてゐるぜ、親分」
「無駄を言ふな」
「へエ――」
ガラツ八は漸く客を導いて來ました。前ぶれ通り、存分に野暮つたい四十五六の武家、羽織の紐を
觀世縒で
括つて、山の入つた
袴、折目高の羽織が、少し
羊羹色になつてゐやうといふ、典型的な御用人です。
「これは、高名なる平次殿でござるか。拙者は石川孫三郎と申す、以後御見識り置きを願ひたい」
肩肘を張つて、眞四角にお辭儀をします。
「へエ、恐れ入ります。私は平次でございます。どうぞ、お手をおあげ下さいまし」
平次はすつかり
恐縮してしまひました。どうも一番あつかひ惡い種類のお客樣です。
「早速ながら、用件を申上げるが、實は平次殿、お家に取つて容易ならぬ事が起つたのぢや。何と力を貸しては下さるまいかの」
武家は折入つた姿ですが、平次は何かしら
釋然としないものがあります。
「どのやうな事か存じませんが、私は町方の御用を
承つてゐるもので、御歴々の御屋敷の中に起つたことへは、口をきくわけには參りませんが、へエ」
體よく敬遠するつもりでせう、平次は紙袋を
冠つた猫の子のやうに尻ごみをして居ります。
「御尤千萬、だが、――平次殿に乘出して頂かうと言ふわけではない。ほんの少しばかり、智惠を拜借すればよいのぢや」
「へエ――」
「實は御親類筋の安倍丹之丞樣から、平次殿のことを承つて參つたが、この
謎を解くものは、江戸廣しと
雖ども先づ平次殿の外にはあるまいと――」(「傀儡名臣」參照)
「御冗談で――」
押の強さうな用人に
促まつて、錢形平次も
悉く降參してしまひました。
この勝負は到頭石川孫三郎の勝でした。平次を
口説き落すと、
「實はこれぢや」
懷から取出したのは、小さく疊んで紙入に
挾んだ小菊が一枚。疊の上にひろげて、平次の前へ押しやるのです。
「これは?」
「見らるゝ通り、表の小菊の中ほどに、
紅筆で書いた、得體の知れない
假名文字が二十五ある」
「へエ――」
差覗くまでもありません。女の使ふ
笹紅を、筆に
含ませて書いた文字が二十五。平次が見てもなか/\の達筆ですが、不思議なことに、最初の一行が『あなかしこ』と讀めるだけ、あとは、どう讀んでも意味が通じません。
その全文を
掲げると、
あ な か し こ
へ の ち を す
ま い わ か み
た お の と や
め ち ち に か
こんな具合になります。
「これが平次殿、お屋敷奧庭の
祠、何樣とも判らぬまゝ、お
稻荷樣と申してゐる社殿の中にあつたのぢや」
「へエ――」
「それも一度や二度ではない、三度までも」
石川孫三郎も、ゴクリと
固唾を呑みます。
「どんな
彈みで、見付けなすつたんで?」
平次の好奇心もかなり
搖ぶられます。
「二百十日の嵐で、お屋敷の
廂も
塀も、奧庭の
祠もひどく
傷んだ。彼方此方手入れをする
序に、
雨漏のひどくなつた祠も修繕させようと思ふと、正面臺の上に、これがキチンとのつてゐたのぢや」
「御本尊は?」
「御本尊と言つてはない。祠の中には、
御幣が一本立つてゐる切りだ。その御幣も雨漏りでひどく汚れたが、その御幣の前の臺の上に、これが疊んだまゝ置いてあつたのぢや」
「
汚れもせずに」
と平次。
「左樣、――多分嵐の後で置いたものであらう。臺はまだ乾き切つてはゐなかつたが、この紙には何の汚れもなかつた」
「へエ――」
「それだけならよい。が、何と申しても不氣味な紙片だから、拙者一存の取はからひで、祠の前で燒き
棄ててしまつたが、翌る日の朝、何氣なく
覗いて見ると、又同じものが臺の上に
供へてある」
「――」
「それも燒き棄てた、もうこれで大丈夫と思ふと、今日――三日目に、またこの小菊が乘つてゐる」
「誰かに相談しましたか」
「いや、――御主人樣は永の
御患ひ、若殿樣はまだお若い上に、至つてお弱い方ぢや。こんな事を申上げたら、お心持にもお身體にも
障るかも知れない。三日目の今朝になつて、お屋敷にこの春から泊つてゐらつしやる、御親類の方――
淺井朝丸樣といふ方に相談申上げ、いろ/\考へたが、何としてもわからぬ。思案に餘つて、いつぞや安倍丹之丞樣から
承つた平次殿が名前を思ひ出し、押して參つた次第ぢや」
石川孫三郎はさう言つて眉を垂れるのです。押の強さうな
頑固な感じのする人間ですが、一
徹の忠義らしいところが、次第に平次の好感を
誘ひます。
「ところで、この文句を讀む見當でもつきましたか」
平次はこの謎の二十五文字に吸付いて、一生懸命考へてゐる樣子です。
「いや、一向判らない。淺井朝丸樣は、四角な文字も讀む方だが、この文句ばかりは讀む
工夫はないと言はれる。縱から讀んでも横から讀んでも、
斜に讀んでも、
逆に讀んでも讀み下せないのぢや」
「成程これはむづかしい――ところで、この奧庭の祠とやらへ、外から自由に出入りが出來ませうか」
「と申すと」
「よくお屋敷方の内神樣で、塀の一箇所に
凹みを
拵へ、外から自由にお詣りの出來るやうにしたのを見掛けますが――」
「いや、そんなのではない。塀は嚴重な板塀で、忍び返しまで打つてある、
容易に外から入れる場所ではない」
「すると――」
平次はもう一度謎の假名文字に目を落しました。
「そんな事はありやう筈はないが」
石川孫三郎の顏は
硬張りました。何と言はうと、どう
誤魔化さうと、この
惡戯は、屋敷内に住んでゐる者の
仕業でなければなりません。
「ところで、この文句を讀む見込みはどうしても、立ちませんかね」
と平次。
「殘念乍ら見込はない。そつと
寫し取つて、近所の手習の師匠にも見せたが、――
尤も淺井朝丸樣は、これは學者や坊主は、讀めまい、
吉備眞備の讀んだ
耶馬臺の
詩のやうなものだから、
安倍仲麿の
蜘蛛でも下がつてくれなきや――と申される」
「成程、耶馬臺の詩見たいなものだ、――ところで御用人樣、御屋敷に住んでゐらつしやる御人數は?」
「殿樣は六十五におなり遊ばす、御病氣で一年越しお床に就いた切りだ。若殿時之助樣は二十五でまだお一人、よく出來た方だがお弱い。奧方はお勇樣と仰しやつて四十」
「若樣とお年が十五しか違ひませんね」
「後添でいらつしやる、若殿樣とは
繼しい仲だが、至つてお
睦まじい。奧方には今年十九になる若葉樣といふ、それは/\お綺麗なお孃樣がある」
孫三郎はこの主人の娘がひどく自慢の樣子です。
「それから?」
「
掛り
人の淺井朝丸樣、殿樣の遠い
甥御ぢや、これは二十七歳、文武の心得もある」
「――」
「外に拙者と、お腰元が一人、お松といつてこれは十八、仲働が二十六のお宮といふ忠義者、下女が二人、それに鐵といふ中間がゐる。鐵太郎とか鐵五郎とかいふのであらう、
請状に名前は書いてある筈だが、二十八になる良い若い者で、鐵、鐵で通つてゐる」
「それだけですね」
「もう一人、門番は
宇内といふ老人夫婦、六十を越してゐるが、恐ろしく達者だ」
「――」
「外には、馬が一頭、猫一匹――」
「よく判りました。その御人數の中で、假名文字をこれだけ綺麗に書けるのは、どなたでせう」
「左樣、――先づ腰元のお松と――」
「御孃樣の若葉樣と、奧樣のお勇樣と――」
平次は指を折りました。
「いや、お孃樣や奧樣は、このやうな
惡戯を遊ばす筈はない」
「淺井朝丸樣とやらも、書けば書けるのでせう。若殿時之助樣も、御用人のお前樣も」
「飛んでもない」
石川孫三郎は大きく手を振ります。
「ところで御用人樣」
ひどく改まつた平次の顏を、石川孫三郎は不安らしく見上げました。
「この謎の假名文字を讀むと、決して
幸せなことはございませんが、それでも讀みたいと仰しやるでせうか」
「?」
「この文字は恐ろしい言葉でございます。これが讀めると、御用人樣一日も
一刻も安い心がなくなるばかりでなく、お屋敷の皆樣には恐ろしい
疑の雲がかゝりますが、それでも――」
平次はもうこの謎を解いてしまつた樣子です。
「さう聞くと、私も迷ふが、いづれにしても、そのまゝには相成るまい。それを讀まずに燒いてしまつたら、惡戯者はまた四枚目を用意するだらう。惡いものなら惡いもののやうに、書いた者を詮議して、後の
祟りのないやうにするのが、この石川孫三郎の勤めと申すものであらう」
「いかにも、
御尤も、――では讀み下します、御覽下さい」
「――」
平次の指の先は、小菊の眞ん中、五つづつ並べて五行書いた、三行目の三番目――一番眞ん中の
わといふ字を指しました。
「御用人樣、私の指の動く通りに讀んで下さい」
平次の指は紅筆で書いた假名文字の上を、
吉備眞備を救つた
蜘蛛のやうに動きます。
「何々、わ、か、と、の、お、い、の、ち、を、す、み、や、か、に、ち、ち、め、た、ま、へ、あ、な、か、し、こ」
あ―な―か―し―こ
|
へ の―ち―を―す
| | |
ま い わ―か み
| | | |
た お―の―と や
| |
め―ち―ち―に―か
石川孫三郎の顏は、平次の指を追つて讀み上げるうちに眞つ蒼になりました。後の半分ほどは口の中で
呟くだけで、最後の一句でゴクリと
固唾を呑みます。
「御用人樣、――若殿お命を速かに縮め給へ、
穴賢――と紅筆で
願文を書くやうな人間は、御屋敷に心當りはありませんか」
「ない」
孫三郎は深々と腕を
拱いて、疊の縁を
凝と見詰めて居ります。
「讀んで上げない方がよかつたかも解りませんが、お屋敷にこんな大それた願文を書く人間がゐちや
抛つては置けません。一度はイヤな思ひをなさるつもりで、この書き手を搜し出し、
後腐れのないやうになさいませ」
平次はかうでも言ふ外はありません。
「有難う。屋敷の名も申さず、定めし無禮な奴と思ふであらうが、何事もお主のため、――この私に免じて許して下され。早速惡者を搜し出し、思ひ知らせた上、お禮に參るであらう。さらばぢや、平次殿」
孫三郎は打ち
萎れて歸つて行きました。
「親分、變なことがあるものだね」
ガラツ八は酢つぱい顏をします。
「まだ/\うるさい事になるだらうよ」
平次はまだ何か考へてゐる樣子です。
それから三日。
「御免」
錆のある聲が少し落着きを失つて、また平次の戸口を
訪れました。
「親分、來たぜ」
「シツ、丁寧に取次ぐんだ」
平次に
促されて、ガラツ八は石川孫三郎を案内して來ました。
「平次殿、――大變なことに相成つた」
典型的な用人が、挨拶も忘れて平次の前にドカリと坐るのです。
「
惡戯者が解りましたか」
「それがトンと相解らぬ、いや解つたつもりになつたばかりに、大變なことに相成つたのぢや」
「――」
「平次殿、この上は隱しても無益なこと、何も彼も打明けて申上げる。實は、拙者の主人と申すのは本郷元町に御屋敷のある、二千五百石取の御旗本、
横山主計樣」
「大方見當は付いて居りました」
「成程、さすがは平次殿。主人御名前を隱し
了せたと思つたのが拙者の
淺墓さだ、――それは兎も角、あの謎の文句を、立歸つて主人主計樣に御目にかけたところ、御病中ながら以ての外の御立腹。若殿時之助樣御命を縮めたいと思ふものは、當屋敷内に、
繼しい奧方お勇樣の外にある筈はない――と仰しやる」
「――」
「御重態の床から起き上がり、奧樣を御呼付け、弓の折れを持つての
御折檻ぢや」
「――」
平次も驚きました。かりそめに讀んでやつた
謎の言葉が、それ程の騷ぎを起さうとは思はなかつたのです。
「御主人樣の御考へも一應は
尤もながら、奧樣は、御同族の中にも聞えた貞節、二十年この方、手鹽にかけてお育て申上げた、若樣時之助樣の御壽命を
縮めたいと思はれる筈もない。拙者も必死とお止め申したが、御老體の一
徹さ、何としてもお心が解けない」
「――」
「二日二晩に及ぶ
折檻の後、奧樣には、よく/\思ひ
定めたものと相見え、昨夜、――
深更、見事に生害してお果てなされた」
「えツ」
平次は水をブツ掛けられた心持でした。
「たつた一人の御跡取時之助樣の御壽命を
呪はれ、殿御腹立ちも
尤も至極だが、
繼しき仲を疑はれて生害して身の
潔白を示された、奧樣の御心中もお
悼はしい。今朝からお孃樣若葉樣始め、召仕共の歎きで、お屋敷の中は
滅入つたやうな心持だ。それに、遺書の立派なお言葉に、殿も今更後悔の御樣子で、――何んにも仰しやりはしないが默つて我慢してゐられるだけにお氣の毒だ」
「――」
平次も何か自分が
責められてゐるやうな心持で、小さくなつて聞いて居ります。
「わけても
若葉樣は、母上樣の潔白のため一日一刻も早く、その
呪の願文を書いた惡戯者を搜し出し、父上樣の御怒りも
宥めて上げたいと、葬式の仕度もせぬおむづかりやうぢや。如何にも、尤も至極の願ひ、お孃樣の御心持をお察し申上げると、惡戯者を搜すのが何よりの
供養ぢや――拙者も包み兼ねて、實はかう/\と、平次殿のことを申上げると、ではその平次殿とやらに、早速、屋敷へ來て頂くやうに、お前がお迎へに行つて來いといふお言葉ぢや。殿樣、若樣にも御異存はない、一刻も早く、平次殿が行つてくれなければ、奧方お勇樣の
御葬ひの仕度も相成り兼ねる仕儀ぢや。どうであらう、平次殿」
石川孫三郎は、手を突いてまた眞四角にお
辭儀をするのです。
「よく解りました。いかにもお屋敷へ參りませう」
「それでは、來て下さるか」
「元々私が餘計な
猿智惠を働かせて、あんな謎を解いたから起つたこと、――如何にもお供いたしませう。惡戯者を取つちめて、キユウキユウ言はせなきや、この平次の心持が納まりません」
「では、平次殿」
「參りませう。後と言はずに、今、直ぐ」
平次は帶をキユツと締め直すと、羽織を引つかけて、石川孫三郎に
從ひました。
「親分」
後ろからガラツ八の八五郎。
「來るがいゝ、手が欲しくなるかも知れない。十手なんか要るものか、相手は御大身の旗本屋敷だ」
元町の一
廓を占領した、宏大な横山
主計の屋敷。平次とガラツ八は、用人石川孫三郎に案内されて、裏門からお勝手へ廻り、奉公人達の好奇の眼に迎へられて、奧の主人主計の部屋に通されました。
「平次――と申すか、宜しく頼むぞ。世間へ聞えては、當家の
瑕瑾にも相成る、その邊拔かりなく――」
病床に半身を起したのは、
頽然たる主人です。
肝の病で久しく寢て居たのが、三日前怒りに任せて奧方を折檻し、引續く心痛に
疲れ果てて、物を言ふのも
おつくふさう。
「畏まりました」
平次はさう言ふより外にありません。孫三郎に
目配せされて、早々に引下がると、次は若殿時之助、これは敷居際で默禮しただけ。
「平次と申すさうだな。宜しく頼みますぞ」
時之助はそれでも優しく聲を掛けます。二十五といふにしては、ひどく若く見えるのは、心も身體も弱いせゐでせう。でも何となく
清純な聰明な感じがして、平次には好感の持てる青年でした。
お孃樣の若葉には縁側から挨拶しました。小机に
凭れて、眼を
脹らして居りますが、
下膨れの細面が、類のない上品さです。
「お願ひ申します」
半分は口の中で言ふ言葉が、千萬言の雄辯よりも、少なくとも、平次の後ろからヒヨコヒヨコとお辭儀をする八五郎には
徹した樣子です。
「お孃樣、きつとこの平次が、
惡戯者を見付けてお目にかけます。――が、一つだけお尋ね申します」
「何なと」
「お屋敷で
口紅をお使ひになるのは、どなたとどなたでございませう」
「私と、それから松だけ、――母上はお用ひになりません」
屹とした言葉は、死んだ母の無實を少しでも晴らさうと言ふのでせう。
「皆樣御使の小菊を一枚頂戴いたしたうございます」
「――」
若葉は默つて
手筐の中から一と
束の小菊を取出して、平次の方に押しやりました。
「有難うございました」
一枚取つて見ると、謎の文句を書いた紙と全く同じ
漉きです。
「それから、これは私の紅、と、筆」
可愛らしい鏡臺の
押斗しから出した紅皿が二つと、これも可愛らしい紅筆が一本、平次の前にそつと押しやるのでした。紅皿の一つは使ひかけですが、筆の
穗が太く
柔かくて、とても、美しい
假名文字などを書ける品ではありません。
それから平次は
掛り
人の淺井朝丸に逢ひました。二十七八の
髯跡の青々とした好い男、學問も武藝も相當らしく、わけても錢形平次の近頃の働きにすつかり夢中になつてゐる樣子です。
「御苦勞だな、平次」
「恐れ入ります」
「何か手掛りは見付かつたか」
「何んにも解りません」
「紅筆で假名文字を書いたから、女の
仕業と考へるのは少し早合點だな。
現に叔父上はそれでしくじつたのだ」
淺井朝丸は
穿つたことを言ひます。
「
御尤もで」
平次はそれに輕くうなづきました。良い參考になると思つた樣子です。
それから腰元のお松にも逢ひました。十八といふにしては、ませた娘で、可愛らしくも
悧發でもありますが、持つてゐた紅皿は、指の跡が澤山あるだけ、紅筆を使つた樣子も、紅筆などを持つてゐる樣子もありません。
「若殿樣をどう思ふ」
「御慈悲深い方でございます」
何かしら、あこがれを持つた眼を、平次がヂツと見詰めると、お松は眞つ赤になつて差しうつむきました。
仲働のお宮は働くより外に
望も興味もない女。外に下女が二人、年寄の門番夫婦にも逢ひましたが、何の變哲もありません。
「もう一人、中間の
鐵が居ります」
「成程」
平次は孫三郎に案内されて、中間部屋に入つて行きました。
「鐵は丁度ゐないやうだが」
「中を見ても構はないでせうな」
「構はないとも」
孫三郎のうなづくのを見ると、平次は中間部屋に入つて行きました。三疊の隅つこに、蜜柑箱が一つ、
行燈が一つ、蜜柑箱は机の代りになるらしく、その上に
硯箱が置いてあつて、箱の中には、手習をした
塵紙が二十枚ばかり重ねてあります。取上げて見ると、何か
往來物を習つてゐる樣子、
下手は下手ながら、一生懸命さが
溢れてゐるのも不思議です。
「餘つ程心掛の良い男ですね」
「渡り中間には珍らしい男だ」
「どれ/\どんな物を持つてゐるか」
三尺の押入を開けると、上は夜の物、下は
竹行李が一つ、
蓋をあけると、中から着換が二三枚と、新しい手拭と三尺と、
塵紙が少々、それに小錢の少し入つた
財布と、紙の包が一つあります。
中を開けて見ると、
「あツ」
三人聲を合せたのも無理はありません。紙包の中から出て來たのは、眞新らしい
天郡上で包んだ紅皿が一つ、赤い
半襟が一と掛けです。
「この野郎だツ」
わめく八五郎。
「待て/\、紅皿は眞新しい、買つたばかりで手が付いてゐない、――それに半襟だけは餘計だ」
平次は落着拂つてその下を見ると、底の方へ押込むやうに入れてあるのは、
一振の
匕首、拔いて見ると、思ひの外の凄い道具です。
丁度その時、中間の鐵がノソリと歸つて來ました。一と目樣子を見て取ると、
「何をしやがる、――誰に斷つて人の物に手を掛けるんだ」
平次の襟髮へ手を掛けます。
「野郎ツ、御用だぞツ」
ガラツ八はその後ろから飛付きました。
「何をツ」
振り返つた鐵の
拳が、思ひ切りガラツ八の
頬桁に鳴ります。
「神妙にせい、御用だぞツ」
猛然と
掴みかゝる八五郎、二人は一瞬動物のやうに
爭ひました。が、到頭八五郎が勝つて、鐵を膝の下にギユツと引据ゑます。
默つてそれを見てゐる平次。
「親分、繩を、繩を」
ハネ返さうとする鐵を押へて、ガラツ八は必死と爭ひ續けるのです。
「もういゝ、縛らなくたつて、話は解るだらう、――鐵とか言つたな、――お前の留守に押入を見て惡かつたが、御主人のお許しがあつたんだ」
「――」
ガラツ八の手を離れると、鐵はプリプリしながら起き上がりました。二十七八の丈夫さうな男ですが、渡り中間のすれつからしなところがなくて、なか/\良い
印象を與へます。
「お前に少し訊きたいことがある――この紅と半襟は何の爲に持つてゐる」
平次の調子は靜かですが、いや應言はさぬ強さがあります。
「紅や半襟を、
折助や中間が持つてゐちや惡いのかえ、――
夜鷹や白首にやるんぢやねえ、十六になる妹に持つて行つてやるつもりで買つて置いたんだ」
「それは良い心掛けだ、――
匕首は?」
「そいつは男の
魂だ。萬一の時の用意に持つてゐちや惡いか」
鐵は事毎に
逆ねぢを喰はせます。
「よし/\、それもお前の言ふのを本當にしよう。ところで、お前は何か隱してゐることがあるやうだ。町方の手で調べて解らぬことはないが、そんな事をして、身分素姓が知れると、お前の
請人が飛んだ迷惑をするよ」
「――」
「お前も聞いた筈だ、
昨夜このお屋敷の奧方が
亡くなられたが――それは惡者の
惡戯から起つたことだ。
詳しく言へば、紅筆で書いた願文から起つたことだ、――その願文を書いた奴は、下手人も同樣だが――お前はその疑ひを受けてゐる。その紅皿の貰ひ手をつれて來て、お前と突き合せるまでは、許すわけにいかないよ――」
「――」
「お前の身許を洗つて見ようか、それとも此處で言つて了ふか、どうだ、鐵」
「――」
中間の鐵は默りこくつて下ばかり見詰めて居ります。深沈たる顏色です。
「八、この野郎は容易に口を割るめえ。請人を
搜して、うんと絞つてみろ。どうせ所名前も
僞だらう。本當の素姓が判つたら、親も女房子も皆な縛り上げて來い」
平次は
峻烈でした。
「よし、言ふよ、皆んなブチまけるよ」
鐵は顏を上げました。
「紅筆の願文を書いたのはお前か」
石川孫三郎は
掴みかゝりさうでした。
「違ふよ、御用人、そんな
腐つた女のやうな事をするものか。俺は如何にも、横山一家に怨がある。わけても若殿の時之助には、足を一本叩き折つて、肥だめへ投り込みたいほどの怨みがある」
「默れツ」
孫三郎は我慢がなり兼ねました。
「俺の母親が、丁度そんな眼に逢つたんだ。やい、
味噌摺用人奴、よつく聞きやがれ」
鐵は言ふのでした。――今から三年前、若殿時之助がまだ丈夫で元氣だつた頃、甲州街道を遠乘りして、
笹塚で百姓女を一人
蹄にかけて大怪我をさせたことがありました。女が高荷を背負つてゐたために、馬が驚いて
狂奔したといふのを理由に、氣の立つてゐた時之助は、怪我をして肥だめに落ちた女を見捨て、そのまゝ屋敷へ引揚げて來たのです。
女は鐵の母親でした。足を折つた上、馬に
蹴られた場所が惡かつたか、そのまゝ床に就いて枕もあがらず、あまりの事に、人を頼んで横山家に掛け合ひましたが、劍もほろゝの挨拶で、相手にもしてくれません。
鐵は多血性男子でした。母の看護を小さい妹に任せ、江戸へ出て轉々奉公してゐるうち、縁があつて、素姓を隱したまゝ、横山家の中間部屋に入り込んだのです。
「あはよくば殿樣の前へ出て、思ひ切り
啖呵を切るか、若殿をもう一度馬に乘つけて、足の一本も折つてやらうと思つたのさ。殿樣は御病氣、若殿も馬に乘る樣子もねえ。いゝ加減に
諦めてオン出てやらうと思つて居る矢先だ、妹へ紅や半襟を買つたのは、久し振りで
笹塚へ歸る
土産だよ。解つたか、
味噌摺り奴、――手前は腹の惡い人間ぢやねえが、主人大事が
嵩じて、外の者へツラく當り過ぎるよ、氣を付けやがれ」
「――」
石川孫三郎も一句もありません。
「紅筆の何とかを書いて、人に嫌がらせをするやうな、そんなケチな野郎ぢやねえ。見損なひやがつたか」
鐵は土間に
大胡坐をかいて、精一杯の
啖呵を切るのです。
「よし/\解つた。が、さう解つた上は此屋敷へ置くわけに行かねえ、俺と一緒に來い」
平次は靜かに鐵の肩を叩きます。
「あ、何處へでも行くよ。
憚り乍ら岡つ引を
怖がるやうな、そんな惡い事をした覺えはねえ」
立ち上がる鐵。平次はガラツ八を招くと、何やら
囁いて、鐵をつれて自分の家へ歸しました。
「御用人樣、奧庭の
祠を見せて下さいませんか」
「いゝとも」
石川孫三郎はホツとした顏で先に立ちます。
奧庭の祠には何の變つたこともありません。白い
幣を立てた、三尺四方ほどの堂と、賽錢箱と、鈴と、それに赤い小さい鳥居と。
「紅筆の願文は、
嵐の後で、堂を修復する話があつてから、見付かつたのですね」
「その通りだ」
と孫三郎。
「その時堂の中は
濕れてゐたと言ひましたね」
「最初のは、まだ乾き切らない臺の上にのせてあつた」
「有難うございました。それぢや又明日の朝參ります、――皆んなへ、私がもう一度來ることを言つて置いて下さい」
平次は變なことを言つて歸つて行きます。
その晩平次は、中間の鐵をなだめ/\、いろ/\の事を
訊き出しました。最初はプリプリしてゐた鐵も、平次の心持が解ると次第に
打解けて、
晩酌を附合ひながら、
滑らかに話すやうになつてゐたのです。
その話の筋を
纒めると、腰元のお松は若殿の時之助と親しく、一しきりは目に餘ることもありましたが、身分の
隔てがあるのと、母親のお勇が
嚴しいので、二人は次第に遠ざかつて行くらしく、お松に暇を出すと言つた、一時の噂も立消えになつてゐるといふことでした。
もう一つは掛り人の淺井朝丸で、これは文字もあり、腕もよく、一かどの人間には違ひありませんが、少し道樂が過ぎるので、お勇には受けが惡く、一時は若葉を妻に申受けて、淺井家を
興さうといふ話もあつたやうですが、何時の間にやらそれも
沙汰止みになつたといふことです。
「紅筆の願文を書くとすると、お松か、淺井朝丸のうちと言ふことになるな。明日は多分判るだらう」
平次は何やら成算があるらしく、
四方山の話に更かしてその晩は寢てしまひました。
明る朝、ガラツ八と一緒に横山家へ行つた平次。
「今日は御家來衆奉公人を始め、お屋敷の皆樣の荷物を調べさせて頂きます」
始めからかう言つた振れ込みで、先づ用人石川孫三郎の荷物をしらべ、掛り人淺井朝丸の手廻りの品を調べました。
石川孫三郎の荷物には、何にもあるわけがなく、淺井朝丸の部屋にも怪しいものは一つもありません。この人はかなりのインテリらしく、むづかしい本が幾十册と、机の上には、よい紙、よい墨、よい筆、よい
硯などを取揃へてあります。
次は腰元のお松の部屋。
此處で平次は大變なものを見付けました。小さい
手筐の中にいつぞや平次に見せた紅皿の外に、もう一つ使ひかけの紅皿があつて、それには指でなく、筆の跡があり、その紅を使つたらしい
軸の短かい紅筆までが添へてあるではありませんか。
「これは?」
平次はお松の面前に突き付けました。
「あツ、――私は、私は何んにも存じません」
お松は青くなつて立ち
竦みます。後ろからは
虎視眈々たるガラツ八の眼。
紅皿は半分以上
剥げて、筆はかなり上等の細筆、
軸は半分程のところから切つて捨ててありますが、
穗の根の方が薄黒くて、元は墨に使つた筆を、洗つて
紅筆にした樣子です。
「お前のではないと言ふのか」
「何んにも知りません。今朝まで此處にそんなものは入つてゐなかつたんです」
あまりの事に、お松は立上がる力もなく、疊の上にヘタヘタと崩折れて、
恐怖に見開いた眼が紅皿に吸ひ付いて居ります。
「親分」
八五郎は後ろから、この娘の肩へ手を掛けさうにしました。
「待て、八」
平次は紅筆の穗を散らして、鼻の先へ持つて來て一寸嗅ぎましたが、
「この人ぢやない」
大きく
かぶりを振るのです。
「親分」
四方をねめ廻す八五郎。
「極く良い
唐墨を使つてゐる人間の
仕業だ、――それツ」
指した縁側には淺井朝丸が眼を光らせてゐるのでした。
「野郎ツ」
飛付く八五郎。
「無禮者ツ」
一
閃、危ふく身をかはした八五郎は、淺井朝丸の二度目の襲撃を
除ける暇もありません。
「あツ」
縁側から足を踏み外して、もんどり打つて庭へ落ちるのを、浴びせて一と太刀。
が、それは平次の投げ錢に
封じられました。
「えーツ」
肘へ一つ、頬へ一つ、ひるむところを、飛込んだ平次は、猛烈に體當りを一つくれると、淺井朝丸の身體は
朽木の如く庭へ落ちます。
「待つてました」
飛付いた八五郎、今度は用意の繩でキリキリと縛り上げてしまひました。
× × ×
「親分、變な野郎がゐるもんだね」
歸り途、ガラツ八は平次の説明を
誘ひました。
「あれは本當の惡黨さ、――自分で
謎の
呪文を書いて置きながら、用人に、
耶馬臺の
詩みたいだ――つて言つたさうだ。誰かに讀んで貰はなきや困るが、自分で讀んぢや
拙かつたのさ。幸ひ俺は、辻講繹で聽いて、
吉備眞備が
蜘蛛に教はつて、耶馬臺の詩を眞ん中の一字から――
東海姫氏の國――と渦卷形に讀んだと知つてゐたから讀めたのさ」
「ぢや始めからあの居候野郎が怪しいと睨んだんですか」
「さうでもない、一時はてつきり鐵の仕業と思つたよ。でも
昨日の樣子で鐵でないと解つた、――そこで、用人に言つて前觸れして置いて、今日荷物しらべをしたのは、惡者の細工を見るためさ。それが圖星に當つて、紅皿と筆をお松の
手筺に入れたのは、
罠に掛つたやうなものだ」
「――」
「わざと筆の
軸の
銘を切つて、善い筆か惡い筆か解らないやうにしたが、上等の
唐墨を洗ひ落すのが、少し
ぞんざいだつた」
「何だつて新しい筆を使はなかつたんでせう」
とガラツ八。
「字でも書かうといふ程のものは、妙に筆を
惜しがるものだよ。使ひ古した筆を洗つてごま化したのが間違ひさ」
「それで市が榮えるわけだね、親分」
「横山家では無事に
葬ひを出せるだらうし、鐵の野郎には三十兩のお手當を貰つて來たから、俺の仕事は濟んだやうなものだ」
平次はさう言つて、懷に呑んだ三十兩の小判にさはつて見るのでした。これで鐵は
笹塚へ歸つて、母親の養生も存分に出來るといふものでせう。
「あの娘は綺麗だね、親分」
「だが、可哀想だよ、一層氣の毒なのはあの
若葉とかいふ娘さ」
平次は
暗然としました。本當に妙な事件です。