錢形平次捕物控

娘の役目

野村胡堂





「八、何んか良い事があるのかい、大層嬉しさうぢやないか」
「へツ、それほどでもありませんよ親分、今朝はほんの少しばかり寢起がいゝだけで――」
 ガラツ八と異名いみやうで呼ばれる八五郎は、さういひ乍らも湧き上がつて來る滿悦まんえつを噛み殺すやうに、ニヤリニヤリと長んがいあごを撫で廻すのでした。
 相手になつてゐるのは、江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次、まだ三十そこ/\の苦み走つた良い男ですが、十手捕繩を持たせては、江戸八百八町の隅々に、魑魅魍魎ちみまうりやうのやうに暗躍する惡者共を番毎ふるへ上がらせてゐる名題の名御用聞です。
「叔母さんからまとまつたお小遣でも貰つた夢を見たんだらう」
「そんなケチなんぢやありませんよ、はゞかながら濡れ事の方で、へツ、へツ」
「朝つぱらから惚氣のろけの賣り込みかい、道理で近頃は姿を見せないと思つたよ。ところで相手は誰だ、横町の師匠ししやうか、羅生門河岸らしやうもんがし怪物くわいぶつか、それとも煮賣屋のお勘子か――」
 平次はそんな事をいひ乍ら朝の膳を押しやつて、貧乏臭い粉煙草をせゝるのでした。
「もう少し氣のきいたところで――」
「大きく出やがつたな、年中空つ尻のお前が入山形いりやまがたに二つ星の太夫と色事いろごとの出來るわけはねえ、それとも大名のお姫樣のうんと物好きなのかな」
 う言つた調子で何時も大事な話を進める親分子分だつたのです。ガラツ八の八五郎はこの時二十八、まだ叔母さんの二階に居候ゐさふらふをしてゐる獨り者ですが、平次のためには大事な見る眼嗅ぐ鼻で、この春から十手を預つて、今ではもう押しも押されもせぬ一本立の御用聞でした。
 平次の女房の若いお靜は、二人の話のトボケた調子に吹出しさうになつて、あわててお勝手へ姿を隱しました。この上附き合つてゐると朝のうちから轉げ廻るほど笑はされるのです。
「何を隱さう、ツイ其處そこ――路地の入口の一件ですよ」
「あツ、お秀を張つてゐるのか、惡いことはいはない、あれは止せ。第一お前には少しおしよく過ぎるぜ」
 平次がかう言ふのも無理のないことでした。
 神田お臺所町――錢形平次が年久しく住んでゐる袋路地の入口に、今年の春あたり引越して來た仕立屋の駒吉、その娘のお秀の美しさは、神田中に知らぬ者も無かつたのです。
 もつとも駒吉は三年前まで上野山下に大きな店を持つて、東叡山とうえいざんの御出入りまで許された名譽の仕立屋でしたが、ツイ近所の伊勢屋幸右衞門に押入つた大泥棒熊井熊五郎の召捕に、彌來馬の一人として飛出し、元氣に任せて助勢したばかりに、巨盜きよたう熊五郎に斬られて右の腕を失ひ、それから健康がすぐれない上に、仕事も上がつたりで、到頭山下の店を人手に讓つて、お臺所町のさゝやかなしもたやに越し、娘のお秀の賃仕事で、細々と暮してゐる五十男だつたのです。
 お秀はその時二十歳、父親の怪我やら家の沒落ぼつらくなどで、その當時にしてはき遲れになりましたが、それが今では幸せになつて、父親の介抱を一と手に、甲斐々々しく賃仕事をして、大した不自由の無い日を送つて居りました。親孝行で氣性者で、その癖滅法めつぽふ愛くるしいお秀が、何彼なにかにつけて近所の獨り者の噂に上らない筈もありません。
「親分の前だが、これでも男の端くれですぜ。お職過ぎるは可哀想ぢやありませんか」
「ほい、怒つたのか、――ぢやまアお前とお秀は頃合の相手といふことにして、何んかかう手應へでもあつたのかい」
「手應へどころの段ぢやない、ドーンと來ましたぜ」
 ガラツ八の八五郎は乘り出すのです。
「ま、待つてくれ。さうはずみが付いちやかなはない――先づ膝つ小僧を隱しなよ。鐵瓶てつびんたぎつてゐるんだぜ、そいつを引つくり返すと穩かぢや濟まない」
「そんな事は構やしませんよ。ね親分、お秀はかう言ふんだ――私がうして難儀して居るのも、とゝさんが片輪になつたのも、皆んな熊井熊五郎とかいふ大泥棒のせゐだから、私を可哀想だと思ふなら、熊井熊五郎を縛つておくれ。八さんは十手捕繩を預つてゐる立派な御用聞なんだから、それ位のことが出來ない筈はない。首尾しゆびよく父さんの仇が討てたら、その時は――」
「その時は何うしたといふんだ」
「あとはたもとで顏を隱しましたよ、へツ、へツ、いはぬが花で――」
「馬鹿だなア、お秀のつもりぢや、その時は他所よそへ嫁に行く――といひ度かつたのさ」
「そんな薄情なお秀ぢやありませんよ、はゞかながら――」
 八五郎は少しムキになります。
「まア宜い、三年前山下の伊勢屋で掛人かゝりうどの浪人者を斬り殺し、隣の仕立屋駒吉に傷を負はせて逃げた熊井熊五郎が近頃また江戸に舞ひ戻つて御府内を荒してゐるやうだ。三年前は捕り損ねたが、今度といふ今度は逃がすこつちやねエ、現に笹野さゝのの旦那も、昨日お役所でお目にかゝると、熊井熊五郎と言つたやうな筋の惡い曲者が御府内を荒し廻るのは、御上の御威光ごゐくわうにもかゝはることだ、何とか一日も早く召捕つて、江戸中の町人共に安心させるやうにといふ御言葉だ。お秀坊の話が出なくても、俺はその事で今日は彼方此方飛廻らうと思つて居る。丁度宜い鹽梅あんばいだ、お前も精一杯手傳つてくれ」
 平次の話はいよ/\眞面目な軌道きだうに乘つて來ました。
「へエ、やりますよ。お秀坊の褒美附きだ、何んでも言ひつけて下さい」
 八五郎は夢中になつてニジリ寄ります。


 巨盜熊井熊五郎の活躍は、江戸中の手先御用聞を奮起ふんきさせました。この曲者を首尾しゆびよく縛ることが出來れば、八五郎はお秀を手に入れるかも知れず、御用聞としては一世一代の譽れにもなるでせう。
 熊五郎が江戸を荒し始めたのは、かなり古いことで、元は上方から來たとも言ひ、甲州から入つたとも傳へますが、兎も角過去十年の間に、ざつと九十箇所も荒したことでせう。一説に熊井熊五郎は日本國中の泥棒の大親分になるため、仲間の重立つたものとけをして、江戸の第一流中の一流といふ大町人、有徳うとくの有名人、お役付の武家などを百人選び、百軒を全部荒して一萬兩を盜むといふ大願を立てたのだとさへ傳へられた程です。
 ところが今から三年前、上野山下の呉服屋伊勢屋幸右衞門の家へ忍び込んで見露みあらはされ、多勢の番頭手代に包圍された上、伊勢屋の居候浪人白井右京に土藏裏に追ひ詰められましたが、態五郎はあべこべにこれを斬り殺し、丁度其處へ驅け付けた、隣の仕立屋の主人駒吉の右の腕まで斬り落して逃げ亡せてから、ハタと消息を絶つて、この春までは熊五郎のクの字のうはさも聞かなかつたのです。
 それが、三年經つた此年の夏あたりから、又もや江戸に舞ひ戻つて、荒し殘した大町人有名人の家を、しらみつぶしに荒し始めたのでした。
 父親の片腕を切られて、それから裏長屋に引込むほどに落ち果て、二十歳娘の手内職で父娘二人細々と暮して居るお秀が、少し人間が甘口に出來た八五郎をつかまへて、愚痴ぐち交りに頼むのも無理のないことだつたでせう。
「親分、この十年の間に態五郎が荒した場所と家の名をざつと調べて貰つて來ましたよ。此通り」
 翌る日、八五郎が八丁堀の組屋敷で調べた熊井熊五郎の犯跡はんせきを、半紙三枚ほどに書き連ねたのを持つて來ました。
「どれ/\、十年前から始まつて、足掛け三年前に伊勢屋へ入るまで八十二軒か、盜つた金は三千二百兩――思ひの外少いな、あやめた人間は十七人、殺したのだけでも九人だ――フム」
 平次はうなりました、これは全く捨て置き難い兇惡振りです。
「でも、十年前のは親分やあつしの知つたことぢやありませんよ」
「だが、この夏からもう七軒に押入つて居るぜ。町年寄の奈良屋ならや右衞門、朱座あかざ淀屋よどや甚太夫、銀座の小南利兵衞、油屋の大好庵だいかうあん、米屋の桑名屋くはなや、紙屋の西村、佛師の大内藏――皆んな公儀御用の家ばかりだ」
「それに盜つた金は四千五百兩――先の九十軒より多いのは驚くでせう。その代り今度は殺されたのも怪我人もねえ」
「それだけ熊五郎が巧者こうしやになつたのさ、――おや、待つてくれ。熊井熊五郎が押込みに入るのは、不思議に六の日が多いぢやないか、五月六日に二十六日、六月十六日、七月六日、二十六日、八月十六日、九月六日――」
「親分が休む日だ」
 八五郎の發見は重大でした。岡つ引は休みがあるわけは無いのですが、それでも月に三度、六日と十六日二十六日だけは骨休みをして、好きな盆栽ぼんさいをいぢつたり、八五郎とザルたゝかはして居る平次は、その日に限つて熊井熊五郎が出動することを知つたのは、單純な暗合や何んかで無いことは、あまりにもあきらかです。
「明日は十月の六日だね、親分」
「フーム、丁度紅葉もみぢでも見乍ら王子の稻荷いなり樣へお詣りしようと思つたが、これを見ちや休んでも居られめえ。朝のうちに八丁堀へ行つて、笹野の旦那と打ち合せ、晝から夜へかけて心當りの場所を廻つて見るとしようか」
「心あたりといふと?」
「熊五郎の荒した家は、江戸で家元とか本家とかいふ大町人の家ばかりだ。『江戸諸用細見圖』といふ書物の中には、そんな大町人の名前がズラリと並んでゐるよ。熊五郎がまだ荒さない家はいくらもあるまいから、其處を一つ/\見張らせるんだ」
「成程ね」
 今まで熊井熊五郎を追廻した老巧らうこうの御用聞、三輪の萬七も其處までは氣が付かなかつたのでせう。
「それぢや頼むぜ、八。明日の十月六日は大事だ、歸つて一と休みするがいゝ」
「それぢや親分」
 八五郎はフラリと外へ出ました。五日月はもう白々と中天に懸つて、袋路地も鳩羽はとば色にたそがれた中に、何やらつやめくもの――、
「お秀ぢやないか」
「あら、八さん」
「何をしてゐるんだ」
「――」
「もう薄寒いぜ、若い女が一人で外に居る時刻じこくぢやねえ」
「父さんは機嫌が惡いんですもの。身體が不自由だから無理もないけれど――」
 お秀は可愛らしいあごえりに埋めて、シクシク泣いて居るのです。
「心配するなつてことよ、お前の父さんのかたきはきつと取つてやるぜ、――さう言つただけぢや安心が行くめえが、捕物にかけちや江戸開府以來と言はれた錢形の親分が、いよ/\乘出すことになつたんだ」
「まア」
 お秀の白い顏が、八五郎の顏へ近づくと、香ばしい息が八五郎の無精髯ぶしやうひげの頬をさはやかに撫でるのでした。
「それによ、流石さすがは錢形の親分だ。この仕事に手を着けると決まると、たつた一日でお前いろんな事が判つてしまつたぜ」
「いろ/\の事?」
「そいつはまア言はねえ方が宜からう。兎に角明日からいよ/\熊五郎退治だ」
「嬉しいわねえ、それもこれも八さんのお蔭よ。父さんの。仇がてたら、私きつとお禮をするわ」
「なアーにそれに及ぶのか、惡者を縛るのがこちとらの稼業かげふだ」
「でも私はお禮をしなきや心持が濟まないもの、――それから、時々どんな樣子か、そつと知らせて下さるわねエ」
「呑込んでゐるよ」
 八五郎はツイ、さう言ひ乍らお秀の肩をポンと叩きました。處女をとめはハツと驚いた樣子で、八五郎の手をいくゞるやうにバタバタと驅け出しましたが、自分の家の貧しい入口に立つと、間の惡さうに路地の外へ出て行く八五郎を見送つて、淋しくやるせなくニツコリしました。


 その晩、熊井熊五郎は、尾張をはり樣御呉服所、日本橋二丁目の茶屋新四郎の奧へ押し入り有金八百兩をうばひ取つた上、歸り際の邪魔じやまをした、手代の甚三郎といふのを斬りました。
 熊五郎の活動を何時も六の日と鑑定かんていした錢形平次の智惠の裏を行つて、その前の晩――十月五日の夜中を選んだするどさは、さすがの平次も舌を卷きました。こんな恐ろしい人間が相手では、ガラツ八が褒美にありつくことなどは思ひも寄りません。
 二丁目の茶屋新四郎へ行つて見ると、三輪みのわの萬七が、子分のお神樂かぐらの清吉をつれて早くも駈け付け、血眼の調べの眞つ最中でした。
「おや、三輪の兄哥。笹野の旦那の申し付けで、俺も覗きに來たが、相變らず熊五郎の手口だらうな」
 平次は先輩せんぱいの萬七に對しては、何時でもんな調子でした。
「錢形か、――こいつばかりは兄哥でもわかるめえよ。何處からどうして入つたか、まるつ切り見當も付かないんだ。戸締りに變りは無いし、縁の下にも天窓てんまどにも人間のもぐり込んだ跡は無いんだぜ」
「仕事をして出たのは?」
「夜中にいきなり店番をしてゐた手代の甚三郎を叩き起し、雨戸を開けさせて悠々いう/\と出て行つたさうだ。覆面ふくめんのまゝ懷手か何んかで頤で指圖をするから、あんまりしやくにさはつて、甚三郎が追つかけて庭まで出ると、――馬鹿奴つ、神妙に引込んで居れ――と振り返りざま一刀を浴びせた相だ。五日月が落ちた後だから、外は眞つ暗で、家の中からは何んにも見えなかつたといふよ」
 三輪の萬七はそれでも一應の説明はしてくれます。平次は一應主人の新四郎始め番頭手代達にも逢つて見ましたが、三輪の萬七が話してくれた外には何んの變つたこともありません。
 手代の甚三郎の死體を見せて貰ふと、傷は右の肩先から左へ、――なゝめ袈裟けさ掛けに二三寸斬り下げて居りますが、振り返り樣拔き討に斬つたにしては見事な腕前です。
「熊五郎が人をあやめたのは、今度は始めてだな」
「だから最初は熊五郎ぢや無いかも知れないと思つたが、入つた場所のわからないところを見ると、矢張り熊五郎の手口だ。他の泥棒ならどんなにうまくやつても忍び込んだ場所が判るものだ、雨戸をコジあけるとか、格子かうしはづすとか、土臺の下を掘るとか、窓わくにあとを殘すとか――熊五郎に限つてそれが一つも無い」
「明るいうちに潜り込むもありますぜ」
 ガラツ八の八五郎はくちばしれました。
「暮れ六つには店を閉めて、多勢の奉公人が手分けをして掃除さうぢをするんだぜ。顏を知らないのが一人でもマゴマゴして居りや、直ぐ大騷ぎになるぢやないか」
 お神樂の清吉が彈ね返すやうにいひました。八五郎とはどうもりが合ひません。
「八五郎兄哥の考へも一と理窟りくつだ。宵に忍び込んで夜中に仕事をする曲者もよくあるためしだが、熊井熊五郎が十年越し荒した跡を一つ/\調べて見ると、そんな生優なまやさしいことぢや無いのだよ。昔は態五郎が仕事に入る家へ前以て何月何日參上すると、手紙で先觸れした例もあるが、晝のうちから多勢の人に見張らせて、蟲一匹入らないやうに用心しても、夜中にはチヤンと入つて來て、ねらつた品を盜つて行くのだ。それを邪魔立てする者は、きつとやられた――さう言ふ相手だよ、八五郎兄哥の智惠でも、このなぞは解けめえ」
 三輪の萬七はさう言つて冷たい笑ひを頬にたゞよはせるのです。八五郎がどんなに口惜くやしがつても、昔の事を知らないだけに齒が立ちません。
 しかし三輪の萬七も何時までもガラツ八をからかつて居る氣はありませんでした。熊井熊五郎といふ稀代きだいの兇賊を相手にしては、十年間の經驗でも自分一人だけでは覺束おぼつかなく、矢張り錢形平次の智惠と力を借りる外は無いことはあまりにもよく解つて居るのでした。
 その日のうちに、江戸中の浪人者で、背の低い、腕の達者な、中年過ぎの、生活の贅澤ぜいたくな、身性のはつきりしない者は、町方の手で一人殘らず調べ上げられ、昨夜の十月五日に家を開けたものは言ふ迄もなく、近頃六の日に行動の怪しかつた者は念入りな詮議を受けました。
 鍋町に住んでゐる手習師匠のばう、お玉ガ池の用心棒で評判のよくない某、入谷の浪宅にくすぶつてゐる押借おしかりの常習犯で某と、十人ばかりの札付の浪人者が、町方の手で擧げられましたが、いづれも確かな現場不在證明があつて、この虱潰しらみつぶし案も失敗に終りました。


「あら、八さん」
「お秀か、まだお前に喜んで貰ふやうな話は無いよ」
「そんなことぢや無いわ――あの、私にもお手傳の出來ることはありませんかしら」
 今日もほの暗い路地の中に八五郎の歸りを迎へて、お秀は極り惡さうにういふのです。父親の駒吉に似た小柄ですが、愛嬌あいけうがあつてキビキビして、すぐれた氣性を内に包み乍ら、何んか斯うき通る樣な清らかさと、沁み出す樣な魅力みりよくを感じさせる娘でした。
「そいつは無理だ、大の男でさへ命がけの仕事だもの。お秀さんのやうな綺麗な人が出る幕ぢやねえ」
 ガラツ八の八五郎は、少しムキになつて、八つ手の葉つぱのやうな大きなを振ります。
「でも、父さんがそりや氣をもんで、ろくに身動きも出來ないくせに、時々飛出さうとするんですもの」
「錢形の親分が乘出してゐるんだ、もう一度熊五郎が動き出しや、間違ひなく縛られるよ。安心して待つてゐるやうに、とさういつてくれ」
「有難う、八さん」
 お秀はさういつて、あわてたやうに自分の家に入りました。まご/\してゐるとまた八五郎に肩位は叩かれるかも知れないのです。
 八五郎はこれだけけ合つたにかゝはらず、熊五郎の跳梁てうりやうが次第に激しくなりました。
「さア、大變だ、親分」
 八五郎が飛込んで來たのはそれから十日經つた十月十七日の朝でした。
「熊五郎が何處かへ入つたのだらう」
 昨日の十六日は精一杯の用心をして、夜遲くなつて歸つた平次は、今朝はもう不安な豫感にさいなまれて、薄暗いうちから起き出して、八五郎の來るのを待つて居たのです。
「小川町の御旗本、千二百石取の篠塚しのづか金之助樣のお屋敷に入り、五百兩の金を取つて大玄關を開けて逃げ出しましたよ」
「篠塚金之助――それはお前、三年前に熊五郎が一度忍び込んだお屋敷ぢやないか」
「あの時は首尾よく忍び込んだが、用人に見付けられて騷ぎ出され。御主人金之助樣に追はれて、熊五郎ほどの者も這々はふ/\の體で逃げ出しましたよ。金之助樣は一刀流の達人だ」
「そんな事もあつたな」
「今度はその仕返しに入つたんでせう。ふてえ奴ぢやありませんか」
「ともかく行つて見よう」
 平次は手早く仕度をすると、八五郎をうながし立てるやうに小川町に向ひました。
 篠塚金之助といふのは、有福で聞えた大旗本で、屋敷も小川町の一角を占め、小さな大名ほどの暮し向に見えます。平次と八五郎は裏口から恐る/\入つて行つて、用人に幾つて一應調べさして貰ふつもりでしたが、町方の者といふとまるで相手にしてくれません。
「それ/″\御支配のあることだから、當屋敷の出來事は、お係りの方へ屆出る。氣の毒だが町方役人は引取つて貰ひたい」
 といふ挨拶。旗本の取締とりしまりは若年寄の役目で、町方の岡つ引などはまるつ切り齒が立たなかつたのです。
「わけのわからねえ唐變木たうへんぼくぢや無いか、泥棒を搜し出して、あわよくば盜まれた金を取り戻してやらうといふのに――」
 八五郎は屋敷の外へ出ると、道の小石を蹴飛けとばしたり、羽目板を叩いたり、立つた腹のやり場に困る樣子ですが、
「怒るなよ八、千二百石取の大旗本ぢや齒が立たねえ」
 平次はなだめ/\歸るのです。
「へツ、三輪の親分とお神樂の清吉も神妙な顏をして裏口から入つて行きますぜ。同じ劍突けんつくを食はされるんだらう、――宜い氣味だ」
「馬鹿野郎、そんな事を言ふ奴があるものか、十手のよしみだ、ちよいと氣をつけてやるが宜い」
 平次は八五郎を走らせて一應注意させましたが、手柄爭ひに夢中になつて居る萬七と清吉は、それをどう解釋したか、體よく、八五郎の注意を斷つて、篠塚の屋敷へ入つてしまひました。
「チエツ、親分の氣も知らねえで、勝手にはぢを掻きやがれ」
 八五郎のふくれること。
 これを一※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さふわにして、熊井熊五郎はいよ/\最後の飛躍をくはだてたのです。それから八日目の十月二十五日に、錢形平次の家にんな手紙が投げ込まれました。
 明十月二十六日、上野山下の伊勢屋幸右衞門の家に押入り、千兩の金を無心するつもりだ。これで熊井熊五郎の百軒から一萬兩盜む大願は成就じやうじゆする。伊勢屋幸右衞門へは三年前に一度押入り、居候浪人白井某と隣の仕立屋駒吉を斬つたが、此方も縮尻しくじつて一文も申受けなかつた。今度はその埋合め合せに一千兩の金を申受ける。夢々疑ふことなかれ。あなかしこ
  平次どの
熊井熊五郎
 と世にも人をなめた文句です。
「畜生ツ、人を馬鹿にしやがる」
 八五郎は躍起となつていきり立ちますが、
「待て/\飛出す前によく考へることだ。これだけの事を前以つて知らせるのは、容易よういならぬことだ」
 平次はヂツと腕を組んで考へ込みました。


「八、お秀の家へ行つて見ようと思ふが、お前も行くか」
「へエ――?」
「三年前伊勢屋へ熊五郎が入つた時の樣子や、駒吉が斬られた時の事をくはしく訊きたいんだ」
「行きませう、親分」
 ガラツ八は大乘氣でした。
 路地の入口、さゝやかなしもた屋に駒吉を訪ねると、床を敷きつ放しの二階に通して、お秀にお茶などを入れさせ乍ら、いろ/\話してくれました。駒吉といふのは、まだ五十そこ/\でせうが、怪我をしてから滅切めつきり年を取つて、半分は寢て居るらしく、見たところ六十近いやうな、一と握りほどの中老人です。
「右腕は熊五郎に斬られて、此通り附け根からありませんから、ろくに身の廻りのことも出來ません。身に覺えた仕立てなどは、片手業かたてわざで出來る筈もなく、伊勢屋さんのお情けで少しばかり仕事を廻して貰ひ、娘が夜の目も寢ずに働いて、やつと二人口を過して居ります。それもこれも熊五郎の仕業で――」
 駒吉はいろ/\と立ち働くお秀の後ろ姿を眼で追ひ乍ら腑甲斐ふがひなくも涙組むのです。
 三年前までは山下で良く暮して居たので、昔のおもかげを忍ぶ調度はいくらか殘つて居りますが、その日の暮しに追はれるらしい樣子で、その邊の道具も着物もひどく不調和です。お秀はさすがに娘盛りで、赤い可愛らしいものを身に着けて居りますが、それも何となくチグハグで哀れ深い姿でした。
 いろ/\なぐさめて、二人は起ち上がりました。八五郎を一足先へやつて、駒吉に何んか言ひ殘した事を話して居た平次は、階子段の入口と間違へて、いきなり押入の唐紙からかみを開けましたが、
「あつ、これは飛んだ事をした」
 あわてて閉めて、階子段を降りて行きました。下では八五郎がお秀をつかまへて、何やらしんみり話し込んで居ります。多分こんなへマでもやつて、少しでも二階で手間取り、八五郎とお秀が差向ひで話をする時間を、少しでも多く作つてやらうといふ親切だつたかもわかりません。


 その晩から翌る日にかけて、上野山下の伊勢屋の騷ぎは大變でした。三戸前の土藏のうち、一番小さくて嚴重な土藏に、何萬兩とも知れぬ現金を入れた上、大切な道具類、諸大名から預つた反物などをこと/″\く詰めこみ、翌る二十六日の夕刻には、嚴重に錠前ぢやうまへをおろして、番頭と手代と出入りのとびの者職人衆などが、交代で張り番をすることになりました。
 三輪の萬七とお神樂かぐらの清吉は、早くから來て頑張り、出入りをやかましくいひましたが、何分多勢の奉公人や客のことでもあり、半日でヘトヘトにつかれて、夕刻かけてはもうお義理だけの見張りになつてしまつたのも無理のないことです。
 平次と八五郎は、そんな情勢を知らぬ顏に、日が暮れてからフラリとやつてきました。
「錢形の兄哥、大層ゆつくりだね」
 三輪の萬七は少しばかり中つ腹でした。
「泥棒はどうせ日が暮れてからだ。ね、そんなものぢやありませんか、三輪の親分」
 ガラツ八は挑戰的てうせんてきです。
「馬鹿野郎、餘計な事をいふな」
 平次はそれをたしなめました。
 それから二刻あまり、重大な謎をはらんだまゝ、江戸の夜は靜かに更け渡ります。
 やがて亥刻よつ半(十一時)とも思ふ頃、母屋おもやの方からドツと聲が擧りました。
「親分、大變ツ。熊五郎が何處からか出て納戸なんどへ隱れましたよ。あの腕利きだからうつかり飛込めねえ、早く來て下さい」
 八五郎は息せき切つて居ります。
「よし/\騷ぐな、納戸の戸はどうした」
「内からめて開けさせません」
「それぢや、三輪の兄哥、母屋へ行つて見るか」
「よからう」
 三輪の萬七は清吉と一緒に母屋へ飛んで行きます。
「八、お前は此處で頑張ぐわんばつてくれ」
「へエ――?」
 八五郎は少し不平さうでした。
「それから土藏の扉を八文字に開けるんだ」
 錢形平次は大變なことをいひ出します。
「大丈夫ですか」
「そして、土藏から一番先に出て來た奴を縛るんだ」
「へエ――」
「ぬかるな八、一番先に出たのだよ、逃すな」
 平次は其儘母屋へ飛んで行きました。
 取殘された八五郎は土藏の扉を開けて、眞つ暗な中と睨めつこをしたまゝ、不安な心持で遠く母屋の騷ぎを聞いて居ります。
 不意に土藏の中から飛出した者が、
「あツ、待てツ、待て」
 八五郎は獵犬れふけんのやうに飛付いてその肩を押へました。
「八さん、御苦勞樣ねエ」
「あツ、お前はお秀ぢや無いか。何をしてゐたんだ」
「お手傳ひに來たのよ、平常ふだん伊勢屋さんのお世話になつて居るんですもの、――先刻このお藏の中へお道具を出しに入つたまゝ、閉められてしまつたぢやありませんか」
 お秀はさういひ乍らいそ/\と母屋の方へ駈けて行くのです。
「あ、待つてくれ、お秀」
 呼んでも追付くことではありません。
 間もなく母屋から平次も萬七も清吉も、番頭手代達も戻つて來ました。
大縮尻おほしくじりよ、曲者を納戸に封じ込んだつもりで安心して居るうちに、納戸の格子を二本叩き斬つて飛出してしまつたのさ」
 斯う言ふのは平次です。
「此方も大笑ひでしたよ」
 と八五郎。
「土藏から何んにも飛出さないのか」
 平次はせき込みます。
「飛出しましたよ、そいつは思ひも寄らない人間なんで、へツへツ」
「何? 飛出した、そいつをつかまへなかつたのか」
 平次は顏色を變へました。
「だつて土藏からパツと出たのはお秀ぢやありませんか、――お手傳ひに來て、道具を出しに入つたまゝ閉められたんですつて」
 八五郎には何んのこだはりもありません。
「あ、――それで解つた。來いツ、八」
 平次は夜の街を一散に飛びました。呆氣に取られて口を開いたまゝの萬七や清吉を後に殘して――。


 お臺所町の路地の入口まで來ると、
「八、お前は外で見張れ、――今度こそ間違ひもなく、第一番に飛出した奴を縛るんだぞ。油斷すな」
「お秀坊が泥棒ですか、親分」
「今にわかる」
 言ひ捨てて平次は駒吉お秀父娘おやこの小さい家へ飛込んだのです。だが、其處で平次を迎へたのは、娘お秀がたつた一人、行燈あんどんの前に愼ましく坐つて、歡念し切つた姿です。
「駒吉はどうした」
「――」
親父おやぢはどこへ行つた」
「知りません、親分」
 見上げたお秀の眼はいた/\しくも涙にれて居ります。
「お前が歸つた時はまだ此處にゐた筈だ」
「――」
かくすな、お秀」
「え、皆んな申上げます。とゝさんは百軒目の大願成就たいぐわんじやうじゆの日だから錢形の親分の鼻をあかせるんだといつて、つまらない手紙なんか出したので、私は一生懸命父さんにお願ひして、代つて行きました。氣ばかり強くたつてあの身體で、錢形の親分さんにねらはれては、助かりやうは無いと思つたのです。――私は日の暮れる前に店の人のやうな顏をしてそつとあの土藏に忍び込みましたが、家で留守るすをする筈だつた父さんは、私のことを心配して、後から出かけて行つて母屋の方に忍び込んであの騷ぎを始めたのです。その間に私は八さんをだまして此處まで逃げて來ましたが――」
「それで、父親はどうした」
「親分、私を縛つて下さい、私が熊井熊五郎です。お願ひ――親分」
 お秀は自分の手を後ろに廻して崩折くづをれるのでした。
×      ×      ×
 仕立屋駒吉こと、兇賊熊井熊五郎は、間もなく東海道筋で捕へられ、江戸に送られて御處刑おしおきになりました。娘お秀は平次の情けに護られて、からくも繩目をまぬかれましたが、八五郎の心持を無視して、何處へともなく姿を隱してしまつたのです。多分有髮うはつあまで一生ををはるつもりでせう。
 平次が路地の入口に住んでゐる駒吉にうたがひを向けたのは、自分の動きがあまりによく見張られてゐることに氣が付いたのが最初で、それから茶屋新四郎の手代甚三郎が斬られたのは、右肩先から斜大袈裟なゝめおほげさで、振り返り樣曲者が斬つたとすれば、刀は左に持つて居なければならぬ筈とさとつたためでした。その上、駒吉を見舞つた時、間違つた振りをして押入を開け、其中には思ひも寄らぬ贅澤ぜいたくな品々の外に、特殊の脇差わきざし懷提灯ふところぢやうちん繩梯子なはばしご覆面頭巾ふくめんづきんなどといふ忍術使ひでなければ必要のない品のあるのを一と眼で見て取つて、いよ/\その信念を固めたのです。これは後でわかつた事ですが、駒吉の熊五郎はねらひをつけた大家へ晝のうちまぎれ込み、得意の忍術で物の蔭や壁際に屋守やもりのやうにへばり附いて、夜更けを待つて仕事をするのでした。
 三年前伊勢屋へ入つた熊五郎が浪人白井某を斬り殺し助勢に行つた隣の駒吉の腕を切つて逃げたと言はれましたが、これは白井某が熊五郎の腕を切り落し、自分は熊五郎に斬られて死んだと見ても差支さしつかへが無いわけで、駒吉が熊井熊五郎であることは何んの支障ししやうもなく説明されるのです。
 三年間休んだのは、右腕を切られた後の養生と、左腕を自由に使ひこなす迄の練習期間で、それがをはると再び百軒一萬兩の大願へ驀進ばくしんしたのでした。
 駒吉の熊五郎が一番恐れたのは平次で、平次の家の路地を見張つたのも深い理由のあることです。百軒一萬兩の仕事は誰とけたのか、それを果せばどうなるのかは泥棒世界のことで誰にもわかりません。
 お秀はかししく美しいが善良な娘で、極力父の惡業をいさめましたが、到底及ばず、最後の伊勢屋押込みは、父より一と足先に出て目的の土藏の中に忍び込み、父の危險に身を以つて代るつもりでした。八五郎の甘さに一寸は救はれ乍ら、到頭平次の慧眼に見破られたのでした。
「八、くよ/\するなよ。お秀は良い娘だつたが、熊五郎の娘ぢやお前の相手にはならないぜ」
「お職過ぎますかね、親分」
 八五郎はそんな生れて始めての厭味いやみを言つて淋しく笑ふのです。





底本:「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年9月28日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード