錢形平次捕物控

笑ひ茸

野村胡堂





 伽羅きやら大盡磯屋いそや貫兵衞の凉み船は、隅田川をぎ上つて、白鬚しらひげの少し上、川幅の廣いところをつて、中流にいかりをおろしました。わざと氣取つた小型の屋形船の中は、念入りに酒が廻つて、この時もうハチ切れさうな騷ぎです。
「さア、皆んな見てくれ、こいつは七平の一世一代だ――おりん姐さん、鳴物なりものを頼むぜ」
 笑ひ上戸じやうごの七平は、しりを端折ると、手拭をすつとこ冠りに四十男のはぢも外聞もなく踊り狂ふのでした。
 取卷の清五郎は、藝者のお袖を相手に、引つきりなしにけんを打つて居りました。貫兵衞の義弟で一番若い菊次郎は、それを面白いやうな苦々しいやうな、形容のしやうのない顏をして眺めて居ります。
 伽羅大盡の貫兵衞は、薄菊石うすあばたみにくい顏をゆがめて、腹の底から一座の空氣を享樂きやうらくして居る樣子でした。三十五といふ、あぶらの乘り切つた男盛りを、親讓りの金があり過ぎて、呉服ごふく太物ふともの問屋の商賣にも身が入らず、取卷末社を引つれて、江戸中の盛り場を、この十年間飽きもせずに押し廻つて居る典型的なお大盡です。
「卯八、あの酒を持つて來い」
 大盡の貫兵衞が手を擧げると、
「へエ――」
 爺やの卯八――その夜のお燗番かんばん――は、その頃は飛切り珍しかつたギヤーマンの徳利とくりを捧げてともから現はれました。
「さて皆の衆、聽いてくれ」
 貫兵衞は徳利を爺やから受取つて、物々しく見榮みえを切ります。
「やんや/\、お大盡のお言葉だ。皆んな靜かにせい」
 清五郎は眞つ赤な顏を擧げて、七平の踊とおりんの三味線を止めました。
「この中には、和蘭渡おらんだわたり赤酒せきしゆがある。ほんの少しばかりだが、その味の良さといふものは、本當にこれこそ天の美祿といふものだらう。ほんの一杯づつだが、皆んなにわけて進ぜ度い。さア、年頭としがしらの七平から」
 貫兵衞はさう言ひ乍ら、同じギヤーマンの腰高盃こしだかさかづきを取つて、取卷の七平に差すのでした。
「有難いツ、伽羅きやら大盡の果報にあやかつてそれでは頂戴仕るとしませうか、――おつと散ります、散ります」
 野幇間のだいこを家業のやうにして居る巴屋ともゑや七平は、血のやうな赤酒を注がせて、少し光澤つやのよくなつたひたひを、ピタピタと叩くのです。
「次は清五郎」
 これは主人と同年輩の三十五六ですが、雜俳ざつぱいも、小唄も、嘘八百も、仕方噺しかたばなしも、音曲もいける天才的な道樂指南番で、七平におとらず伽羅大盡に喰ひ下がつて居ります。
「へエ――オランダ渡りの葡萄ぶだうの酒。話には聞いたが、呑むのは初めて――それでは頂戴いたします、へエ――」
 美しいおつたにおしやくをさせて、ビードロの盃になみ/\と注いだ赤酒。くちびるまで持つて行つて、フト下へ置きました。
「何うした、清五郎」
 少し不機嫌な聲で、貫兵衞はとがめます。
「いえ、少し氣になることが御座います」
「何んだ」
「あれを――氣が付きませんか、橋場はしばのあたりでせう。闇の中に尾を引いて、人魄ひとだまが飛びましたよ」
「あれツ」
 女三人は思はず悲鳴をあげました。
「おどかしてはいけない、多分四つ手駕籠の提灯ちやうちんか何んかだらう」
 と貫兵衞。
「そんな事かもわかりません、――あゝ結構なお酒でございました、――もう一杯頂戴いたしませうか」
 清五郎は綺麗に呑み干した盃を、お蔦の前に突き付けるのです。
「それはいけない、酒にも人數にも限りがある。その次は菊次郎だ」
「さう仰しやらずにもう一杯、――頬つぺたが落ちさうですよ」
「いや、重ねてはいけない、それ」
 貫兵衞が目配めくばせすると、お蔦は清五郎の手から盃をさらつて、菊次郎のところへ持つて行きました。貫兵衞の義理の弟で三十前後、これは苦み走つたなか/\良い男です。
 菊次郎もどうやら一杯呑みました。義兄が祕藏ひざうの赤酒は、こんな時でもなければ口に入りさうもありません。
 續いて藝者のおりんとお袖、おつたは呑む眞似だけ。大方からつぽになつた徳利は、杯を添へてとものお燗番かんばんのところに返されました。


「あ、お前は」
 お燗番の八は飛付きました。が、その徳利を奪ひ取る前に、船頭の三吉は徳利の口を自分の口に當てて、少しばかり殘つて居た赤洒を、しづくも殘さず呑み干してしまつたのです。
「宜いつてことよ、今日は大役があるんだ。酒でも呑まなきや、仕事が出來るものか」
「でも、その酒を呑んぢやいけないことがあつたんだ。仕樣がねえなア」
「ケチケチ言ひなさんなよ、酒の一本や二本、何んでえ」
 船頭の三吉は、お燗番の卯八の文句もんくに取合ふ樣子もありません。
 それからの騷ぎが、どんなに惡魔的なものであつたか、たつた一人素面しらふだつた、若い藝者のお蔦だけがよく知つて居ります。
 一番先に狂態きやうたいえんじたのは、江崎屋えざきやの清五郎でした。
「ウ、ハツハツハツ、ハツ、ハツ、ハツ、こりや可笑をかしい、ハツハツハツ、ハツ」
 腹を抱へて笑ひ出すと、そのうつろな笑ひが、水を渡り闇を縫つて、ケラケラケラと川面一パイにひろがつて行きました。
 それをきつかけのやうに、暫くの間坐つたまゝ、顏の筋肉をムヅムヅ動かして居た巴屋の七平は、物にかれたやうに起き上がつて、筋も節もなくをどり始めたのです。
 續いて菊次郎――日頃かしこさうに取澄してゐるのが、膳を二三枚蹴飛けとばすと、湧き上がるやうな怪奇な手振りで、ヒヨロリ、ヒヨロリと人の間を泳ぎ廻るのです。
 年増藝者のおりんは、何やらわめき散らして、狹い船の中――杯盤の間を滅茶々々に轉げ廻りました。日頃氣取つてばかり居る中年増のお袖も、譯のわからぬ事を歌ひ續け乍ら、あられもない双肌脱もろはだぬぎになつて、尻尾に火の付いたけもののやうに、船の中を飛び廻ります。
 その中でも一番猛烈を極めたのは、船頭の三吉でした。口から泡を吹いて、醉眼すゐがんをビードロのやうにゑたまゝ、野猪のじしのやうに、ともからみよしへ、舳から艫へと、亂れ騷ぐ人間を掻きわけて飛び廻ります。
 しづまり返つた隅田川の夜氣を亂して、船の中には、一しゆん氣違ひ染みた旋風せんぷうが捲き起つたのです。うつろな笑ひと、譯の解らぬ絶叫と、滅茶々々にもつれ合ふ中を、七人の男女が狂態の限りを盡すのでした。
 一番若くて、一番綺麗なおつたは、颱風の眼のやうに移動する動亂のうづけて、お燗番かんばんの卯八の懷に飛込んだり、伽羅きやら大盡の貫兵衞の背後うしろに隱れたりしました。船は丁度隅田川の眞ン中に停つたまゝ、一寸も動く樣子はありません。この動亂を避ける道は、夜の水より外には無いのですが、水心の無いお蔦はさすがに其處へ飛込むほどの勇氣も無かつたのでせう。
「旦那、どうしたんでせう、私は、私はこはい」
 日頃はみにく蝦蟆がまかなんかのやうに思つてゐた貫兵衞も、今の場合では、たつた一人の救ひの神でした。殆んど素面しらふで、ともからこの狂態をヂツと見詰めて居る貫兵衞の冷たい顏には不氣味なうちにも、妙に自信らしいものがあつたのです。
こはがることはないよ、あいつらは騷ぐことが好きなんだ、――あんなにゲラゲラ笑ひ乍ら、滅茶々々に踊り狂ひ乍ら、地獄の底まで道中するんだ」
 貫兵衞の醜い顏は、惡魔的な冷笑にゆがんで、七人の狂態を指した手は、激情にふるへます。
「助けてエー、旦那樣」
 お蔦は思はずすがり付いたたもとを離しました。冷靜を裝ふ貫兵衞の顏には、踊り狂ふ七人の顏よりも物凄いものがあつたのです。
 その騷ぎの中から、船頭の三吉はヒヨロヒヨロとともに戻りました。
退いてくれ、――俺は、大變なことを忘れてゐた」
 片手業にお燗番かんばん八をかき退けると、かねて用意したらしい、木槌こづちを取つて、船底のせんを横なぐりに叩くのです。
「あツ」
 お燗番の卯八は後ろから、その身體を羽掻締はがいじめにしました。此處で船底の栓などを拔かれたら、船の中の十人は、一とたまりもなくおぼれ死ぬことでせう。
「止してくれ、――邪魔しやがると、手前てめえのガン首から先に拔くぞ」
 いきり立つ三吉。
「頼むからそいつは止してくれ」
「何を言やがる」
 振りもぎつた三吉、もう一度つちは勢ひよく振りあげられます。
 その爭ひは一瞬にして片付きました。船頭の三吉が豫て仕掛けをしてあつたらしく、船底の栓が他愛たわいもなく拔けるのと、卯八の必死の力が、荒れ狂ふ三吉をふなばたから川の中へ押し轉がすのと、殆んど一緒だつたのです。
 ドツと奔騰ほんとうする水。
「あツ」
 卯八は今拔き捨てた栓を搜しましたが、咄嗟とつさの間に三吉が川の中へはふり込んだものか、それは見當りません。自分の身體を持つて行つて、穴から奔注ほんちうする水を防ぎましたが、そんな事では、何んの役にも立たないことが、すぐ解つてしまひました。
 船の中の狂亂は、一瞬毎にその旋回せんくわいを増して、山水やまみづに空廻りする水車のやうな勢ひ。
「あツ、さうだ」
 卯八は料理のため用意した出刄庖丁を取出すと、碇綱いかりづなをブツリと切りました。あとは、に寄つて、馴れない乍ら一と押し、二た押し。
 水浸みづびたしになつた凉み船は、それでも白鬚しらひげの方へ、少しづづ少しづつは動いて行きます。
 時々ドツとあがる笑ひ聲、それも次第に納まつて、亂舞も大方いだ頃、船は向島の土手の下、三間ほどのところへズブズブと沈んでしまひました。


 たましひの拔けたやうに、呆然ばうぜんとしてゐる貫兵衞をうながし、か弱い乍ら、一番氣のたしかなおつたを手傳はせて、卯八一人の大働きで、水船から引上げた人間は五人、船頭の三吉と、野幇間のだいこ巴屋ともゑや七平は、それつ切り行方不知ゆくへしれずになつてしまひました。
 近所の船頭をかり集め、松明たいまつを振り照して川筋を搜しましたが、その晩は到頭解らず、翌る日の朝になつて、船頭三吉と、野幇間七平の死骸は、百本ぐひから淺ましい姿で引上げられました。
 ところで、不思議なことに、呑む、打つ、買ふの三道樂に身を持崩もちくづして、借金だらけな船頭三吉の死骸からは、腹卷の奧深く祕めた百兩の小判が現れ、野幇間七平の死骸には、背後はいごから突き刺した凄まじい傷が見付かつたのです。
「こんなわけだ、親分、行つて見て下さい。前代未聞の騷ぎぢやありませんか」
 ガラツ八の八五郎は、得意の早耳で、これだけの事を聞込んで來たのでした。
「そいつは御免蒙ごめんかうむらう、向島ぢや繩張り違げえだ」
 錢形平次は相變らず引込み思案です。
「繩張りの事を言や、三輪の萬七親分だつて繩張り違ひでせう」
「それが何うした」
「いきなり川を渡つて、現場を散々荒し拔いた上、柳橋に渡つて、おつたを擧げて行きましたぜ」
「それが見込み違げえだといふのか」
 と平次。
「お蔦は藝者家業かげふこそしてゐるが、親孝行で心掛の良い娘だ、人を殺すか、殺さねえか、親分」
「大層腹を立ててるやうだが、誰かに頼まれて來たんぢやあるまいな、八」
「へエ――」
「誰だか知らないが、門口かどぐちで赤いものがチラチラするやうだ、此處へ通すが宜い、――お靜」
「はい」
 女房のお靜は心得て門口へ行つた樣子ですが、何やら押問答おしもんだふの末、モジモジする娘を一人、手を取らぬばかりにれて來ました。
「お前さんは?」
 平次も少し面喰めんくらひました。まだほんの十七八、身扮みなりは貧し氣な木綿物ですが、此界隈かいわいでも、あまり見かけた事のない良いです。
「へツ、へツ、――お蔦の妹ですよ、親分」
 ガラツ八は不意氣に五本指で小鬢こびんなどをいて居ります。
「早くさう言や宜いのに、――なんと言ひなさるんだ」
「お絹さんてんだ、親分、――あつしの叔母さんの知合で」
 ガラツ八はまだモヂモヂして居ります。
「お絹さんと言ふのかい、――一體どうしたといふんだ、皆んな話して見るが宜い。俺の力で及ぶことなら、何んとかして上げよう」
 錢形平次が、う言ふのは、全くよく/\のことでした。それだけこのお絹といふ小娘は、好感の持てる娘だつたのです。
 油つ氣のない髮、白粉おしろいも紅も知らぬ皮膚ひふ、山のはひつた赤い帶、木綿物の地味な單衣ひとへ、なに一つ取柄の無いやうすですが、そのつくろは身扮みなりにつゝんだ、健康さうな肉體と、内氣な純情とは、どんな人にでも、訴へずには措かなかつたでせう。
「姉を助けて下さい、親分さん」
「一體、どうしたのだ」
「姉は――幇間たいこもちの七平をうらんで居ました。あの人がお袖さんに頼まれて、餘計な事を言ひ觸らしたばかりに、菊次郎さんと切れてしまつたんです」
「それで?」
「それで、七平を殺したのは、姉さんに違ひない――つて、三輪の親分が言ひます」
「フーム」
「それから、昨夜ゆうべ舟の中で、みんな氣違ひみたいになつたのに、姉だけ一人、平氣でゐたのが怪しいんですつて」
「それだけの事なら、お前の姉さんを下手人げしゆにんにするわけにはゆくまい。外に何んか手掛りがあるだらう」
 三輪の萬七の老獪らうくわいさが、それだけの證據でお蔦を縛らせる筈もありません。
「姉ちやんは怪我けがをしてゐたんです」
「――」
「手首を切つて、ひどく血が出てゐたんですつて」
「そんな事もあるだらう、――よし/\、俺が行つて覗いてやらう。親孝行で評判の良いお蔦が、人など殺せる道理はない、――八、一緒に行つて見るか」
「へエ――」
 親分を引張り出したのは、自分の手柄だけではなかつたにしても、フエミニストの八五郎は、すつかり有頂天になつて、親分の草履ざうりなどそろへて居ります。


「おや、錢形の」
 向島で沈んだ船を見て、百本ぐひへ死骸を見に行つた平次は、現場でハタと三輪の萬七に逢つてしまひました。
「萬七兄哥、もう下手人の目星が付いたやうだな」
「今度は間違ひがねえつもりだ。女のうらみは恐ろしいな、錢形の、――磯屋いそやの貫兵衞は江戸一番の醜男ぶをとこだが、あの弟分の菊次郎は、また苦み走つた飛んだ良い男さ。お蔦はあの男に捨てられたのを七平のせゐだと思ひ込んでゐるんだ」
 自分の手柄に脂下やにさがる萬七に案内されて、兎も角も、引取手もなく、むしろを掛けたまゝにしてある二人の死骸を見ました。
 船頭の三吉は、稼業柄にもなく、水に落ちて死んだといふだけのことですが、野幇間のだいこの七平の死骸には、背中せなかから突いた傷が一つ、水にさらされて、凄まじい口を開いて居ります。
匕首あひくち剃刀かみそりぢやねえ」
出刄庖丁でばばうちやうだよ、水船の中から拾つて番所に預けてある」
 萬七は先に立ちました。
 番所へ行つて見ると、船頭三吉の腹卷から百兩の小判と血脂ちあぶらの浮いた出刄庖丁と、それから、嚴重に繩を打つたまゝのお蔦が留め置かれて居ります。
 水船から這ひ上がつて、半身ぐしよ濡れのまゝ縛られたのでせう、腰から下は生濕なまじめりのまゝ、折目も縫目ぬひめも崩れて、むしろの上にしよんぼり坐つたお蔦は、妙に平次の感傷をそゝります。
 妹のお絹によく似た細面ほそおもて、化粧崩れを直すよしもありませんが、生れ乍らの美しさは、どんなきたな作りをしても、おほふ由もなかつたのでせう。うな垂れた緑の眉から、柔かい頬のあたりがかすんで、言ひやうもない痛々しい姿です。
「お前は左利ひだりききかい」
 平次の最初の問ひは唐突たうとつでした。
「いえ」
 僅かに顏を擧げるお蔦。
「傷は右手首のやうだが、――どうしてそんな怪我をしたんだ」
「自分の持つた出刄庖丁で切つたのさ、解り切つたことぢやないか」
 萬七は苦々しくさへぎります。
「右手に持つた出刄庖丁で、右手首を切る筈はない」
 平次のさう言ふ言葉に力を得たものか、
「お燗番かんばん八さんが、碇綱いかりづなを切つて投げた庖丁が當つたんです」
 お蔦は顏を擧げてはつきり言ふのでした。
「本人はあんな事を言ふがね」
 と萬七。
「だが、三輪の兄哥。若い女の手で、七平を殺した上、船頭の三吉まで水の中へは投り込めないよ」
「何んの中毒か知らないが、船の中では皆んな半狂亂はんきやうらんだつたさうだよ。目のくらんだ人間なら、女一人の手でも、二人や三人始末出來ないことはあるまい」
 萬七はぐわんとしてお蔦に疑ひを釘付けにするのでした。
「お蔦――お前は今大變な事になつてゐるよ、――皆んな申上げて了つちやどうだ、隱し立てをして、萬一の事があると、母親や妹が、飛んだ歎きを見ることになるぜ」
「親分さん、私は、私は何んにも知りません」
 平次の言葉の意味が解ると、お蔦はたゞさめ/″\と泣くのです。
「船の中で正氣だつたのは、磯屋とお燗番かんばんの外には、お前一人だつたと言ふぢやないか。お前は何にか知つてるに違ひあるまい」
「――」
「お前の妹のお絹が、先刻俺の家へ來たよ。母親のなげきを見ては居られないから、何んとか、姉を助けてくれ――と言つて」
「親分さん」
 お蔦はしばられたまゝ、ガバと泣き伏しました。
「言ふが宜い、お前は何にか知つてゐるに違ひない」
「――」
 お蔦は默つて頭を振りました。
「ね、錢形の、この通りだ」
 萬七は我が意を得たる顏です。


「親分さん方、――磯屋いそやぢいやが、申上げ度いことがあるさうですよ」
 下つ引が一人、うさんさうに鼻を持つて來ました。
八か、呼出すつもりだつた。丁度宜い、此處へつれて來い」
「へエ――」
 間もなく、下つ引に案内されて、恐る/\膝小僧ひざこぞうを揃へたのは、昨夜ゆうべのお燗番――磯屋の庭掃にはは八でした。五十六七――一寸見は六十以上にも見えますが、長い間戸外生活と勞働できたへて、鐵のやうに頑丈なところがあります。
「何んだ、卯八」
 萬七は事件が厄介らしくなる豫感で、少しばかり苦い顏を見せました。
「お蔦さんが縛られたと聞いて、びつくりして飛んで參りました。お蔦さんは、始終私か旦那の側に居りました。人を殺すなんて、飛んでもない」
「それぢや、誰が七平や三吉を殺したんだ」
 萬七は乘出します。
「私ですよ、親分さん、――この八ですよ」
「何?」
「三吉を川へはふり込んだのは、この私に違ひございません」
「何んだと?」
「船に仕掛けをこしらへて、中流で沈めにかゝつたのは、あの三吉でございますよ。私は船底のせんを拔かせまいと思つて一生懸命組打をしました。が、何んと言つても年のせゐで、三吉を川へ抛り込んだ時は、もう栓が拔かれて、水が瀧のやうに入つて居ました。仕方が無いから、碇綱いかりづなを切つて、滅茶々々に岸へぎ寄せました」
 卯八の言葉は豫想外でした。が、これだけ筋が立つてゐると、最早疑ふ餘地もありません。
「三吉は何んだつてそんな事をしたんだ」
 平次もこの恐ろしいくはだての意味は讀みかねました。
「船の中の人間を皆殺しにするつもりだつたかもわかりません。碇綱で川の眞ん中に止めた船が沈めば、あんなに醉つて居ちや、助かるのが不思議です」
「皆んな氣違ひ染みた騷ぎをして居た――とおつたも言ふが、何んか變なものでも呑ませたんぢやないか」
「――」
土手どてに這ひ上ると、ケロリとしてゐたが、船の中に居る時のことは、何んにも知らないと言ふぞ」
 萬七は疊みかけました。
「――」
 卯八は頑固がんこに口をつぐみます。
「それぢや、七平を殺したのは誰だ」
 と平次。
「それはわかりません」
「お前ぢや無いと言ふのか」
「七平はみよしに居りました。私やお蔦さんはともに居りました」
「出刄はお前がはふつて、お蔦の手に當つたさうぢやないか。その出刄で七平が殺されて居るんだぜ」
 平次はその時の情景を想像して居る樣子です。
「――」
「七平の側には誰と誰が居たんだ」
「おりんさんと、清五郎さんと、菊次郎さんと――」
「主人の貫兵衞は?」
「旦那樣と、お袖さんは、私と七平さんの間に居りましたよ」
「フーム」
 今度は平次が默り込んでしまひました。


「八、昨夜ゆうべ船に乘つてゐた人間を、片つ端から調べ上げてくれ」
「へエ――」
「男も、女も、どんなつまらない事でも聞きもらしちやならねえ。七平と懇意こんいなのや、七平に怨や恩のあるのは、とりわけ大事だよ」
「そんな事ならわけはねえ」
「急ぐんだよ、八」
「へエ」
「それから磯屋の貫兵衞も、身上しんしやうから女出入りまで、根こそぎ調べて來い、こいつは一番大事だ」
「心得た」
「一人で手にへなかつたら、下つ引を二三人狩り出せ。明日の朝までだよ、八」
 平次の言葉を半分聞いて、八五郎は飛出しました。
 それから半日。
「親分」
 八五郎はもう歸つて來たのです。
「どうした、八」
「いろ/\の事が判りましたよ」
「話してみな」
「おつたが七平の細工さいくで、菊次郎と割かれたことは――」
「それはもう判つてゐる」
「菊次郎は飛んだ野郎で、金と女を取込むことにかけては大變な名人ですよ」
「――」
「お蔦と手を切つて、近頃はお袖に夢中になつて居ますよ」
「フーム」
「兄貴の磯屋の身代を、どれだけくすねたか解りやしません。近頃磯屋の身上がゆがんで、伽羅きやら大盡の貫兵衞は首も廻らないのに、菊次郎だけは、大ホクホクだ」
「磯屋がそんなに惡いのか」
「このぼんは越せまいといふ話ですよ。何しろ十年越の駄々羅だゞら遊びだ。どんなに身上があつたつてたまつたものぢやない。それに、義弟の菊次郎を始め、巴屋ともゑや七平、江崎屋清五郎などは、滅茶滅茶におだててつかはせて、そのかすりを取ることばかり考へて居るんだ」
「清五郎と七平の暮し向はどうだ」
野幇間のだいこを家業のやうにして居るくせに近頃は大變な景氣だ。ことに清五郎なんか、地所を買つたり、家を建てたり、おりんの身請けをするといふ話もありますよ」
「よし/\、それで大分判つたやうだ。ところで、八。横山町の町役人に會つて、明日の辰刻いつゝ前、磯屋の主人貫兵衞が、御手當になる筈だ、萬事拔かりのないやうに仕度をして置け――とう言つて置いてくれ」
「それは、本當ですか、親分」
「本當とも、笹野さゝのの旦那には、あとでさう言つて置く、――こいつは大變な捕物だ。かつちやならねえ」
「あんまり早く町役人に言つて置くと、磯屋の耳に入りますよ」
「それで宜いんだよ」
「へエ――」
「おツと待つた、八」
「今晩、少し仕事がある。横山町の自身番へもぐり込んで、俺の行くのを待つてくれ」
「へエ――」
 八五郎は何が何やら解らずに飛んで行きます。
 それからときばかり、江戸の街々もすつかり寢鎭ねしづまつた頃、平次は横山町の自身番を覗きました。
「八」
「あツ、親分」
「靜かについて來い」
 二人はそれつきり默りこくつて、城廓じやうくわくのやうな磯屋の裏口へ忍び寄りました。
「何をやらかすんで、親分」
「ちよいと、泥棒の眞似をするんだ」
「へエ――」
「どんな事が始まつても、驚くなよ、八」
「――」
 平次の調子の物々しさに、八五郎もツイどうぶるひが出るのでした。
「このへいへ飛付けるだらう」
「大丈夫ですか、親分は」
「大丈夫だとも」
 二人は裏口の側の天水桶てんすゐをけ踏臺ふみだいにして、あまり苦勞もせずに塀を乘り越えました。
「どうするんで、親分」
「シツ」
「驚いたなア」
「驚くのはこれからだよ」
 磯屋の裏をグルリと一と廻り、平次は家の中へ忍び込めさうな場所をさがす樣子でしたが、伽羅大盡と言はれた構へだけに、さすがに忍び込む場所もありません。
「親分、あれは?」
「シツ」
 平次は八五郎を突飛ばすやうに、あわてて物蔭ものかげに身をひそめました。裏口が靜かに開いて、眞つ黒なものが、そろりと外へ出たのです。
「――」
 二人は呼吸いきを殺して見詰めました。
 眞つ黒な人間は、暫く外の樣子を見て居る樣子でしたが、誰も見とがめる者が無いと判ると、引つ返して家の中から手燭てしよくを持つて來ました。
 磯屋いそやの主人、伽羅きやら大盡の貫兵衞です。
 貫兵衞は平次と八五郎には氣が付かなかつたものか、その前を通り拔けて、物置の方へ足音を忍ばせます。
「來い」
 平次は八五郎を小手招こてまねぎ乍ら、靜かにその後をつけました。
 やがて物置から、プーンとキナ臭い匂ひ、パチパチと物のはぜる音。
「八、大變だ。あの火を消せ」
ツ」
 二人が一團になつて飛込むと、磯屋貫兵衞は、手燭の火を、物置の中のガラクタに移して居る最中だつたのです。
「野郎ツ」
 しや二飛込むガラツ八。
「あツ」
 燃え草の火の中に、貫兵衞と組んだまゝ轉がり込みました。咄嗟とつさの間に平次は、物置の側にある井戸に飛突くと、幸ひ其處にあつた用心水を一杯、燃え上がつたばかりのほのほの上へ遠慮會釋もなく、ドツと浴びせたのです。
「わツ、ブルブル」
 火は消えました。が、ガラツ八と貫兵衞は、取つ組んだまゝヅブ濡れになつて、物置の口へ轉がり出ます。
「何んといふ馬鹿なことをするんだ、御府内ごふないの火付けは、火焙ひあぶりだぞ」
 平次はそれを闇の中に迎へて※(「口+它」、第3水準1-14-88)しつたします。
「相濟みません」
 相手の素性すじやうも判りませんが、貫兵衞は威壓ゐあつされて、思はず大地にくづれました。
「幸ひ誰も氣が付かない樣子だ、――酒へ毒を入れたり、物置へ火をつけたり、一體これはどうした事だ」
「――」
「俺は神田の平次だ、話して見ちやどうだ」
 平次の聲は威壓から哀憐あいれんに變つて居りました。
「錢形の親分――良い方に見付かりました。皆んな申上げます。この私が、今晩死ななければならないわけ――」


 物置の前から奧の一と間に案内されて、平次とガラツ八は、磯屋貫兵衞の不思議な懺悔話ざんげばなしに耳をかたむけました。
「聽いて下さい、親分。この世の中に、私ほどしあはせに生れて、私ほど不幸せになつた者があるでせうか」
 磯屋貫兵衞の話は斯うでした。貫兵衞が父の跡を繼いだのは十年前、丁度二十五の歳、金持のお坊ちやんに育つて、阿諛あゆ諂佞てんねいに取卷かれ、人を見下みくだしてばかり來た貫兵衞は、自分の世帶になつて、世の中に正面から打つかつた時、初めて、自分の才能、容貌ようばう魅力みりよく――等に對する、恐ろしい幻滅を感じさせられたのです。
 それまで、自分ほど賢い者は、江戸中にもあるまいと思つたのが、我儘な坊ちやんの言ひつのる言葉に屈從くつじうする人達の姿であり、自分ほど立派な男はあるまいと信じさせたのは、おべつかを忠義と心得た、卑怯ひけふな人達のお世辭を、かゞみ沒交渉ぼつかうせふに信じてゐたに過ぎないことを、つく/″\と思ひ當らせられる時が來たのでした。
 貫兵衞は、恐ろしい失望と自棄やけに、氣違ひ染みた心持になりましたが、間もなく、何萬兩といふ大身代が自分の自由になつたことと、その何萬兩を散じさへすれば、お坊ちやん時代の昔の夢を、苦もなく再現することの出來ることに、氣が付いたのです。
 あらゆるお世辭、――齒の浮くやうな阿諛あゆを、法外な金で買つて、貫兵衞は溜飮りういんを下げました。色街の女達も、百人が九十人まで、小判をバラきさへすれば、助六のやうに自分を大事にしてくれます。
 行くところ、煙管きせるの雨は降りました。家へ歸ると、女達の手紙を、使ひ屋が何十本となく持つて來てくれました。やがて、金の力の宏大なのに陶醉たうすゐして、貫兵衞はもう一度、それが自分にそなはつた才能、徳望のやうに思ひ込んでしまつたのです。
 それから十年の間、貫兵衞はあらゆる狂態をし盡しました。女房を迎へるひまもないやうな、せはしい遊蕩いうたう――そんな出鱈目な遊びの揚句は、世間並みな最後の幕へ押し流されて來たのです。
 手つ取早く言へば、磯屋にはもう一兩の金も無くなつて居たのです。家も、屋敷も、商品も、二重にも三重にも抵當に入つて、この盆には、素裸すつぱだかはふり出されるか、首でもくゝるより外に、貫兵衞の行く場所は無かつたのでした。
「さうなると、女共は皆んな私から離れてしまひました。おつたも、おりんも、お紋も、お袖も――、それから私を十年越し喰ひ物にして居た遊び仲間も、蔭へ廻つて私の惡口を言ふやうになりました。何千兩となく取込んだ義弟おとうとの菊次郎も、巴屋ともゑやの七平も、江崎屋の清五郎も、私の顏を見て、近頃はもう昔のやうにお世辭笑ひをしなくなつたばかりでなく、わざと私に聞えるやうに、私の惡口をさへ言ふやうになつたのです」
 貫兵衞の話の馬鹿々々しさ、ガラツ八の八五郎さへ、我慢がなり兼ねて時々膝を叩きますが、錢形平次は世にも神妙に構へて、
「それから」
 靜かに次をうながします。
「私は一の思ひ出に皆んなを馬鹿にしてやらうと思ひました。昔金にかして手打入れた、わらだけの粉を、和蘭渡おらんだわたりの赤酒に入れて、皆んなに一杯づつ呑ませ、あらん限りの馬鹿な顏をさせて見るつもりだつたのです」
 話は次第にその晩の筋になつて來ます。
「凉み船を出して、首尾よく笑ひ茸の酒を呑ませ、皆んなの、あらゆる馬鹿な姿を眺めました。それがせめてもの――翌る日は死んで行く私の腹癒はらいせだつたのです。その晩歸ると、奉公人に皆んな暇を出し、この家に火をつけて、私は首でもくゝるつもりでした。――それが、船をしづめられたり、七平が殺されたり、あんな思ひも寄らぬ騷ぎになつてしまつたのです。私の死ぬのは、そのお蔭で一晩遲れました――もつとも」
「――」
「尤も、卯八だけは私の心持をようく知つて居りました。あればかりは、私におべつかも使はず、お世辭らしい事も言ひませんが、こんな落目になつても、一生懸命、私をかばつてくれました。――笑ひ茸のたくらみなども、最初はたつて止めましたが、命に別條のないことだからと説きふせられて、私に一世一代の溜飮りういんを下げさせたのです」
「船を沈めさせたのは誰の指圖だ」
 平次はそれを知り度かつたのです。
「それは知りません。――私は自分の命さへ捨てるつもりでした。今更うそいつはりもありません。船頭の三吉に、船を沈めることを言ひ付けたのだけは、この私ぢやない」
「すると?」
「第一、私にはもう、百兩といふ小判がありませんよ」
 貫兵衞はさう言つて淋しく笑ふのです。三吉の死體の腹卷にあつた金の事でせう。


「親分、驚いたね」
 ガラツ八は、默々として横山町から歸る平次に聲を掛けました。磯屋貫兵衞を町役人に預けて、さてこれから何うしようも無く、家路を辿たどつて居たのです。
「俺も驚いたよ。七平を殺したのは、お蔦や貫兵衞でない事はたしかだ」
「三吉に言ひ付けて、船を沈めさせた奴ぢやありませんか」
「えらいツ、八、其處へ何んだつて氣が付かなかつたんだ。あの晩、赤酒を呑む振りをして呑まなかつた奴と、およぎのうまい奴を調べて來い、――今度は間違ひ無いぞ」
「そんな事ならわけはありませんや」
「何處へ行つて聞くつもりだ」
「船宿を軒並叩き起して――」
「それも宜いが、八とお蔦に聞くのが早いぜ」
「心得た」
 ガラツ八は闇の中に飛びます。翌る朝ガラツ八が、その報告を持つて來たのは、まだ薄暗いうちでした。
「親分、驚いたの何んの」
「どうした、八」
「あの中で泳げないのは、貫兵衞と爺やの卯八だけですよ」
「何?」
「死んだ七平なんぞと來た日にや、河童かつぱ見たいなもので」
「菊次郎と清五郎は?」
「二人ともよく泳ぐさうですよ、――もつとも女共は皆んな徳利とつくりだ、少しでも泳げさうなのは、橋場はしばで育つたお袖位のもので」
「すると――面白いことになるぜ。七平は船が沈んでも死に相もないからされたといふわけだらう」
「其處ですよ、親分」
 ガラツ八は大きな聲を出します。
「ところで、赤酒を呑まないのは、誰と誰だ」
「そいつが大笑ひで、親分」
 ガラツ八はクスリクスリと笑ひます。
「何が可笑をかしい」
「あの伽羅大盡きやらだいじんの貧乏大盡が何處迄お目出度いか解らない」
「どうしたんだ」
「赤酒の中に、何んか仕掛けがあると知つて、たつた一人も呑んだ奴が無いと聞いたらどうします」
「本當か、それは、八?」
 この情報には、さすがの平次も驚きました。
「どうかしたら、殺された七平位は呑んだかも知れないが、菊次郎も清五郎も、おりんも、お袖も呑んぢや居ません。皆んな川に捨てたり、手拭てぬぐひにしめしたりしたさうで――これは最初から素面しらふだつたお蔦と卯八が見屆けてゐますが。もつとも三吉はたしかに呑んださうで」
「成程な」
わらだけなんて、そんなものを呑ませて、萬一間違ひがあつてはと、人の良い卯八がそつと菊次郎に耳打をしたんです」
「そいつは大笑ひだ、――呑まない毒酒を呑んだ振りをして、七人そろつて氣違ひ踊りと馬鹿笑ひをするとはふざけたものだな、伽羅大盡きやらだいじんの馬鹿納めには、なる程そいつは良い狂言きやうげんだ」
「ところで下手人げしゆにんは誰でせう、親分」
「解つて居るぢやないか」
「へエ?」
「皆んなだよ」
 平次は八五郎と一緒に先づ、磯屋の近所に住んで居る菊次郎をおそひました。猛烈に暴れるのを縛つて、續いて江崎屋の清五郎を、それから――年増藝者のおりんとお袖とを、四人數珠じゆず繋ぎにして、その朝のうちに送つてしまつたのです。
×      ×      ×
「さア判らねえ、下手人は四人ですかい、親分」
「その通りだよ。菊次郎が頭領かしらになつて、この十年の間に、磯屋の身代を滅茶々々にし、その半分位は自分達が取込んで居たんだ」
「そいつは世間でも知つて居ますよ」
「いよ/\磯屋が身代限りといふことになると、お白洲しらすへ出るから、自分達の惡事が皆んな知れる、――凉み船で笑ひ茸を呑ませるといふ話を卯八から聽いて、菊次郎と清五郎は、其裏を掻く相談をしたんだ。船頭の三吉に百兩の大金をやつて、河の眞ん中で船を沈めさせ、貰兵衞とお蔦と卯八を、おぼれさせ、自分達だけ助かるつもりだつたのが、其場になつて七平が不承知を言ひ出して、仲間割れが出來て一寸困つたところへ、船頭の三吉は本當に毒酒を呑んで、卯八のやうな年寄に川へはふり込まれた」
「へエ――」
「卯八の抛つた出刄庖丁でばばうちやうを拾つたのは、一番近いところに居たおそでだ。お袖の手から菊次郎が受取り、これを清五郎に渡した。清五郎がそいつでみよしに後ろ向になつて居る七平を突き、川の中へ落したんだらう。たゞ川の中へ突落した位ぢや、およぎのうまい七平は死なない――七平に寢返りを打たれちや菊次郎も清五郎も首が危ない」
「なアる――」
「そんな事をして居るうちに船は岸に着いた。人立ちがして來たから、その上の細工は出來なかつたのだらう」
 さう説明されて見ると疑ふ餘地もありません。四人――七平を加へて五人でやつた細工さいくなら、成程手際よく運びもするでせうが、最後のきはに、七平の裏切と卯八の忠義で、惡者共のたくらみが喰ひ違つてしまつたのです。
「惡い奴等ぢやありませんか。親分」
「人間のくづだよ、――俺の立てたすぢは先づ間違ひはあるまいと思ふ。このお調べは面白いぜ、八」
「へエ――」
「氣の毒なのは磯屋の貫兵衞だ、――が、自業自得じごふじとくといふものさ、――それよりも可哀想なのはおつただ」
 平次はつく/″\さう言ふのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」同光社磯部書房
   1953(昭和28)年9月28日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1939(昭和14)年8月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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