錢形平次捕物控

鍵の穴

野村胡堂





「わツ驚いたの驚かねえの」
 ガラツ八といふ安値な異名いみやうで通る八五郎は、五月の朝の陽を一パイに浴びた格子の中へ、張板を蹴飛ばして、一陣の疾風のやうに飛び込むのでした。
「此方が番毎驚くぜ。何んだつて人の家へ來るのに、鳴物入りで騷がなきやならないんだ」
 親分の錢形平次は、さう口小言をいひながらも、さして驚く樣子もなく、淺間な家の次の間から、機嫌の良い笑顏を見せるのでした。
 江戸開府以來と言はれた捕物の名人錢形平次は、かうして煙草の煙を輪に吹きながら八五郎の持つて來るニユースを、心待ちに待つやうになつてゐたのです。
「へツ、こいつを聽いて驚かなかつたら、親分のめえだが、あつしは十手捕繩を返上して――」
「どつこい、皆まで言ふな、――番太の株を賣つて、煮賣屋のお勘子を口説くどくんだらう」
「叶はねエなア、――兎も角、行つて見て下さいよ。ピカピカするやうな良い娘が、ぢやうのおりた藏の中で、虫のやうに殺されてゐるんだ。世の中にはもつたいないことをする獸物けだものもあつたものですね」
「場所はどこだ」
「下谷の山崎町二丁目の呉服屋池田屋萬兵衞の家ですよ」
「場所が惡いな」
「三輪の萬七親分が、お神樂かぐらの清吉をつれて來て、嫌がらせな調べを始めたんで、池田屋の旦那が、お願ひだから錢形の親分をつれて來てくれ。あの樣子ぢや三輪の親分は、店中の者を數珠繋じゆずつなぎにしさうだつて、顫へ上つてゐますよ」
「まさか、そんな事もあるめえ」
 平次は氣が進まない樣子ながら、八五郎にせがまれて、たうとう出かける氣になりました。
「池田屋といふのは、お山の御用を勤めてゐる、分限者ぶげんしやぢやないか」
 道々事件の輪廓を、八五郎に説明させるのです。
「寛永寺御出入りの呉服屋ですよ。主人の萬兵衞は五十過ぎの有徳人うとくじんで、腰折れの一つもひねる仁體ですが、殺されたのは主人のめひで、娘のやうに育てられたお喜代といふ十九の厄。滅法良い娘ですぜ、もつたいない」
「若くて綺麗な娘が死んだのを、無性にもつたいながるのは、八の前だが物欲しさうで變だよ。同じことでも、可哀想とか何んとか、言ひやうがあるだらう」
「でも、※(「米+參」、第3水準1-89-88)じやうしんこで拵へて色を差したやうな可愛らしい娘が殺されてゐるのを見ると、あつしは無闇に腹が立ちますよ。このまゝ土に埋めてしまつちや、もつたいないやうな氣がして」
「又始めやがつた」
 そんなことを言ひながら、二人は山崎町二丁目に着きました。
 池田屋の店構へは大したことはありませんが、如何にも内福らしい豪勢さが、急所々々に光つてゐると言つた暮し方で、主人の萬兵衞、手代の吉三郎などが、丁寧に庭木戸を開いて平次を迎へ入れます。
「おや、錢形の親分。また手柄をさらひに來たのかえ」
 縁側に立つてニヤリとしてゐるのは、同じ十手仲間の三輪の萬七で、四十男のたくましい顏は、鬪爭意識に燃えてをります。
「飛んでもない。閉めきつた藏の中で、若い娘が殺されてゐるのは珍らしいからと、八の野郎が無理に引つ張つて來たんだ、――ところで親分の見當は?」
「大方目星は付いたつもりだが、まア錢形の兄哥あにいの調べつ振りを拜見しようか」
 三輪の萬七は意地惡く逃げて、平次のために説明してくれようともしません。
「それぢや、案内して貰はうか」
 平次は大してこだはる樣子もなく、そこへついて來た手代の吉三郎をかへりみます。二十四五のちよいと好い男で、場所柄らしくないにしても、何んかのはずみでニツコリすると、女のやうに優しい表情になります。
 裏の方へ廣くなつた母屋おもやを一と廻りすると、植込みの中に土藏が二たむね、その一つは大きくて母屋から離れて建ち、一つは小さくて母屋と廊下でつながつてをります。その小さくて頑丈な方に、殺された姪のお喜代の死體が、まだ今朝發見された時のまゝになつてゐるのでした。
 入口はたつた一つ、廊下の行き止りにかしの一枚板の塗喰しつくひの大戸で鎖した上、大一番の海老錠がおろされ、地獄の門のやうな嚴重な造りです。
 平次と八五郎はそこに待ち受けてゐた主人の萬兵衞に案内されて藏の中へ入りました。三輪の萬七が何にか自分の見落したあとを、錢形平次に見付けられでもしてはと思つたのか、さり氣ない顏で後からついて來たことは言ふまでもありません。


 中には小さいお勝手も、用便所もあると言つた、それは不思議な土藏でした。
「この藏はもと母屋から離れてをりましたが、私の父が年を老つてから、こゝに住みたいと申しましたので、廊下でつないでいろ/\手を入れました」
 主人の萬兵衞は、辯解らしくさう言ふのです。土藏の中にお勝手も便所もあるといふことは、隨分變つた設計ですが、見たところ三間半四方の小さい土藏は、全く一つの離屋になつてゐるらしく、用心深い先代の主人が、こゝを隱居部屋にして、店中を見張りながら號令したのでせう。
 階下かいかは大方雜用の物置とお勝手で、格子窓が一つあるのも、こゝに幽閉されたお喜代に、三度の食事を運ぶ役に立つたのは皮肉なことでした。
 梯子段を登ると二階は、商賣物の呉服太物ふともののストツクを貯へる棚で埋められ、その中程の少しばかりの空所に、お喜代の床が敷いたまゝで、その上にお喜代が、無殘、自分の扱帶しごきで首を絞められて死んでゐるのです。
「――」
 一と眼、錢形平次もハツと立ち縮みました。それはまた、あまりにも痛々しい姿です。木綿物の冷たさうな床の上、大輪の牡丹ぼたんが碎けたやうな、十九娘のすぐれて美しいお喜代が、冷たくなつた淺ましい姿をさらしてゐるのでした。
 首を絞めた鹿の扱帶は、解いて床の側に置きましたが、心なくも苦痛にゆがんだ小さい顏はむき出しのまゝ、髮の亂れも衣紋の崩れも、言ひやうもなく痛々しいのに、三輪の萬七はそれを直してもやらなかつたやうで、それはひどく冒涜ばうとく的にさへ見えるのです。
「殺された時刻は?」
 平次は顏を擧げました。
「宵のうちなら氣が付く筈ですが、何んの音も立てなかつたやうで、――下女のお町はツイ廊下の先に休んでをりますが」
「見付けたのは誰だ」
「そのお町でございます。いつものやうに朝の食事を持つて來たさうですが、窓から聲を掛けても出て來ないので、私のところへさう申して參りました」
「いつもそんなことはないのだな」
「藏の中に入れられながらも、恐ろしく氣の輕い娘で、鼻唄交りで『お早やう』とか何んとか言ひながら、窓のところへ顏を出すさうです。それが今朝に限つて出て來ないので私のところへさう言つて參りました。――私も大して氣にもせずに來て見ますと、錠前にも締りにも變りはなく、開けて入ると二階の窓は閉つたまゝで――」
「――」
 主人の萬兵衞は、その時のことを思ひ出したらしく、ゴクリと固唾を呑むのです。
「下女のお町に窓を開けさせると、この有樣でございます」
「藏の中に灯はなかつたのか」
「用心が惡いので、行燈あんどんを入れてありません」
「ところで、何んだつてこんな若い娘を、藏の中なんかに入れて置いたんだ」
 平次は一番大事な問ひに觸れました。
「左樣でございます」
 主人萬兵衞の顏には、一瞬悔恨くわいこんと自責ともつかぬ、苦澁な雲がサツと擴がりました。が、さすがに大店おほだなの主人らしい自尊心を取戻して、靜かに語り續けるのです。五十年輩の小鬢こびんの霜も、月代さかさきの輝やきも申分ない分別男ですが、四角に張つた顎や、少し段のついた鼻筋に、きかぬ氣らしさは充分に受取れます。
「――これは仕置のためでございました。――仕置にしては少しひどいとお思ひになるかも知れませんが、お喜代は子のない私共夫婦に取つては、大事な/\たつた一人の姪で、口に出しては申しませんが、心の中ではいづれ立派な婿でも取つて、この池田屋の身代を讓るつもりでをりました」
「そんなことを本人や、はたの者が知つてゐたのか」
 平次はフト口を挾みました。お喜代の死とそれは重大な關係を持つてゐさうです。
「薄々は知つてゐたと思ひます。私は何んにも申しませんが、家内はツイ女のことで、折にふれて餘計なことも漏らしたやうで、――それに私のしつけのやかましさも、一と通りでなかつたので、奉公人達も、唯の姪ではないと思つてゐたやうでございます」
「――」
 平次は默つて先をうながしました。
「お喜代はまた、この通りのきりやう良しで、悧發な娘でございました。その上、去年あたりまでは、心立ても素直で、近所の褒めものでもあり、私もまた、自分の娘のやうに可愛がつて育てました」
「去年あたりまで――といふと」
「そのお喜代が、去年の秋頃から、だん/\樣子が變つて來たのでございます。手つ取早く申せば、仲よくしてはならない男と、仲がよくなつたのでございます」
「それは誰だ?」
「一丁目の勝太郎と申す、やくざな男で、男つ振りは一人前ですが、年中けごとに浮身をやつしてゐる、厄介な男でございます」
「――」
「人もあらうに、そんな野郎とねんごろになつては、私の望みも水の泡でございます。幾度も幾度も、意見もし、仕置もしましたが、若い者の無分別で、私の言ふことなどを聽き入れてはくれません。そればかりでなく、近頃は次第に増長して、二人を一緒にしてくれなければ、この家から出て行くなど大それたことを申すやうになりました」
「――」
 こゝにも古い者と新しい者、若い者と年を取つた者の、宿命的な衝突があつたのです。萬兵衞の顏は姪の痛々しい死骸を前にしながらも、湧き上がる忿怒ふんぬに燃えるのでした。
「あまりのことに腹を据ゑ兼ねて、私はこの藏の中に入れてしまひました。昔私の父親が隱居所にしてゐたこの藏の中は、食物さへ運んでやれば、三月や半歳はどうにかかうにか、大した不自由なく暮らせます」
「それは何時のことだ」
「一と月ほど前からでございます。そして大一番の海老錠をおろして、鍵は私の腰に下げ、夜も晝も側を離さないやうにして置きました。家内は弱氣で、姪に口説くどかれれば、ツイ開けてやらないものでもありませんし、奉公人共も、妙に色事となると思ひやりがありますから、鍵が手に入れば、姪を逃がしてやらないものでもありません」
「時々そんな素振りでもあつたのか」
「素振りどころぢやございません。藏から出たら、すぐその日のうちにも逃げ出す――などと、姪が申してゐたさうで、これはこゝにゐる手代の吉三郎から聽きました。全くそれくらゐのことをやり兼ねない娘でございました。この上もなく可愛らしくて、優しいやうに見えながら、性根に強いところがあつて、――現に藏の中に入れられながら、日本一の上機嫌で、鼻唄など歌つてゐると言つた、不思議な娘でございました」
 さう言ふ萬兵衞は、充分苦々しさうですが、死んだお喜代のお轉婆てんば振りを、憎みきれない――いやどつちかと言へば、それを享樂きようらくしてゐたらしい樣子が、苦笑をまぎらせた唇や、死骸を見やる痛々しい眼差しから、平次の慧眼に見て取られるのです。


 平次はもう一度、お喜代の死骸を調べて見ました。
 骨細の華奢きやしやな身體ですが、年頃の娘らしく充分にあぶらが乘つて、皮膚が桃色眞珠の光澤を持つてゐるのも、少し踏みはだけた手足が、法外に小さいのも、そして苦痛にゆがんだ顏が、死の恐怖とは凡そ縁の遠い、すねた娘の素晴らしく見えるのも、この娘の息の通つてゐる頃の可愛らしさを思はせないものはありません。
 着物は寢卷の上に晝の單衣ひとへを重ね、帶がなくて細紐だけの姿は、多分夜中に誰かに呼び覺されて、寢卷の上へあわてて着物を引つ掛けたものでせう。
 一と通り中を見て廻ると、平次は八五郎を誘つて藏の外へ出ました。もとより小さい藏で、入口はたつた一つ、窓は下に一つ上に二つ、いづれも嚴重な格子を入れてありますが、下の窓はお勝手の方を向いて、その扉を開けさへすれば、格子の間から食物くらゐは運び入れることができるのです。
 入口のかしの大戸には嚴重な鐵のさんがおりるやうになつてをりますが、それは藏の中にお喜代といふ者がゐるので、上げたまゝになつてをり、その代り外から大きい海老錠がおりるやうになつてゐるのでした。
「錠は?」
「こゝに置いてあります、――鍵はこの通り私の腰に下げたまゝで、今となつては無駄なことですが、妙なもので腰に鍵がないと御武家が兩刀を忘れたやうで、何んとなく張合ひのないやうな心持がいたします」
 さう言ひながら主人の萬兵衞は、腰にブラ提げた、鍵のたばを出して見せるのでした。
 その束は、大小六つの鍵を、萠黄もえぎの紐の紐に通して、乾漆ほしうるしの見事な根付けで腰に提げるやうにしたものです。
「ちよつと」
 平次は手を出して、主人から鍵の束を受取りました。
「この通り肌身を離したことはありません。夜は枕の下へ入れて寢るのですから、私の氣が付かないやうに、鍵だけ持ち出すことなどは思ひも寄りません」
 主人萬兵衞の自信は強大でした。
「――」
 平次はそれを聽いてゐるのか聽いてゐないのか、六つの鍵を受取ると、暫らくそれを見比べてをりましたが、何を考へたか懷紙を取出して、それを筆のぢくほどの太さにひねると、一つ/\の鍵の穴に、その太い紙捻を通して、力一パイ捻つて見るのでした。
「?」
 主人の萬兵衞も、八五郎も、そこまでついて來た三輪の萬七も、手代の吉三郎までが、けゞんな顏をしてそれを眺めてをりますが、何んのためにそんなことをするのか、誰にも平次の意圖は想像もつきません。
「御主人」
「へエ」
「この藏の鍵は、これだらうと思ふが――」
 平次は六つのうち、大きさから言へば二番目の鍵をり出して主人に見せるのでした。
「どうしてそれが?」
「いや、何んでもない。唯そんなことだらうと思つただけのことだ」
 平次は説明の代りに氣輕に笑つて、六つの鍵を主人に返しました。
「その鍵はもう一つありやしないか」
 三輪の萬七は横から口を出しました。
「飛んでもない、藏の鍵が二つあつちやたまりません。天にも地にも、この一つきりで」
 主人は以ての外と首を振るのです。
「その鍵を腰から外すことはあるだらう。湯へ入る時とか、便所へ行く時とか」
 平次の問ひは行屆きました。
「そんな時は家内に預けます。外の者に渡したことはございません」
 さう言ふ主人の言葉の下から、八五郎は母屋おもやへ飛んで行きました。その内儀を搜して來るつもりでせう。
「尤もその鍵を人に渡したことがあつたにしても、三日前や四日前に、藏の戸を開けて置いたんぢや何んにもなるまい。昨夜宵から夜中の間に手離したといふなら、話しになるが――」
 三輪の萬七は錢形平次の馬鹿念を押すのが可笑しいと言つた調子で、こんな横槍を入れるのです。まさにその通りですが、平次は別に考へがあるらしく、
「七日前でも、十日前でもいゝ、その鍵を手離したことはなかつたか、思ひ出して貰ひたいが――」
「それはございます。十日ばかり前、お隣りに住んでいらつしる御浪人の檜木ひのきふう之進樣が、を打ちに入らつしやいましたが――檜木樣と私は、お互に下手ながら互先たがひせんで、一と月に一度や二度は手合せをいたします。尤も私の方からは參つたことはございません。檜木樣のところには良いばんがないからと仰しやつて、毎度私のところにいらつしやいますが」
「――」
 碁敵の噂をするなつかしさでせう、萬兵衞の表情はほぐれて、幾分かそれは樂しさうな調子にさへなるのでした。
「その時も晝から打つて夜になりましたが、三番目の勝負がなか/\つきません。私は少し食べ過ぎのせゐもあつて、良い思案が浮ばないやうに思ひましたので、座を外して用便に參りました。いつもの癖で、家内を呼んで腰の鍵を預けようかと思ひましたが、それではお客樣の手前も如何と思ひ、腰の鍵束を取つて碁盤ごばんの下に滑り込ませ、そのまゝ用便に參つたことがございます」
「その時、部屋に殘つてゐたのは?」
「檜木樣お一人で」
「席を外したのは長い間か」
「いえ、ほんの一寸、煙草二三服の間で――それも部屋に戻つて來た時は、檜木樣は大石の活き死にで夢中で、私が戻つたのも氣が付かないほど考へ込んでいらつしやいました、――申すまでもなく碁盤の下に置いた鍵束にも何んの變りもございませんでした」
「煙草と言へば、その部屋に火鉢はなかつたのか」
「この頃の陽氣でございます。埋火うもれびの煙草盆を一つ置いてあつただけで」
「碁を打つてゐる間に、食事の世話をするとか、茶を運ぶとか――誰か部屋の中へ入つた者がある筈だが」
「百合が入りました。遠縁の者で、奉公人のやうに使つてをりますが」
 平次の問ひが次第に微妙に精緻せいみつになつて行くのを、三輪の萬七はくすぐつたい顏で聽いてをります。
「他には」
「他には誰も入りません。お客樣のお世話は百合が一人で引受けてをります――いや一度手代の吉三郎が燭臺しよくだいを持つて參りました。なア、吉三郎どん、あれは私が用便に立つた後かな、それとも歸つてからかな」
「へエ、――お二人共夢中の樣子でございました。私が灯を持つて參つたのも御存じなかつたやうで、へエ」
 手代の吉三郎は愛想よく應じます。
「もう一つ訊くが」
「へエ」
「晝間開けたきり、藏の扉を閉め忘れてゐるやうなことはないだらうな」
「そんなことはある筈もございません。現に私はこの三日の間藏の前へ行つたこともないくらゐですから、三度のものは下女が運んでくれますし、――めひのお喜代が折れて出るまで、私は藏の傍へも寄り付くまいと思つてをりました」
 そんな話をしてゐるところへ、八五郎は内儀のお伊勢をつれて來ました。
「――」
 默つてつゝましくお辭儀をして擧げた顏は、四十五六の病身らしい女で、髮の毛の薄い、皮膚の青黒い、心も氣も弱さうな女房振りでした。
「錢形の親分が、――お前は私から預つた藏の鍵を、誰か人に貸したことはないかと訊いていらつしやるんだが――」
 それを迎へて、萬兵衞は氣ぜはしく訊ねるのでした。
「いゝえ、私は誰にも貸したことも、持たせたこともありませんが――」
 お伊勢は首を振りました。弱氣と言つても、夫の言ひ付けだけは、精一杯に守り通さうと言つた、弱きが故の女の一てつさが見えます。
「――」
 平次は何やら深々と考へ込んでしまひました。


 母屋おもやから土藏へは短かい廊下でつないでをりますが、締りのない廻し戸があるので、自由自在に外からも入れるのです。
「下手人は外から入つたんぢやありませんか」
 八五郎は一かどのことを言つて鼻をうごめかします。
「外から入つたか、内の者かわからないが、兎も角、鍵を手に入れなきや、あの海老錠は開かないよ」
 平次はまだ鍵にこだはつてをります。
「夕方閉め忘れるといふこともありますよ」
「そんなこともあるだらうが、あの藏の中には、なか/\金目の物が入つてゐるし、あの主人は行屆きさうだから、滅多に藏を締め忘れることはあるまいよ、――それに主人は三日もあの傍へ行かなかつたといふのは、嘘ぢやないだらうと思ふ――」
 平次と八五郎は、こんな話をしながら、家の廻りをグルリと一と廻りして見ました。六月の大地は乾ききつて、足跡などは一つもわからず、木戸も至つて簡單で、人間も野良犬も自由自在に入れるのです。
「八、お前に頼みがあるが」
「へエ」
「一丁目の勝太郎といふ男に會つてくれ」
「?」
昨夜ゆうべどこにゐたか訊くんだ、――それから近所の噂も精一杯集めてくれ」
「やつて見ませう。親分は」
「俺はまだ、家中の者に逢つて見なきやなるまい。頼んだぞ」
「へエ」
 八五郎の飛んで行く後ろ姿を見送つてゐた平次が、クルリときびすを返すと、縁側から此方を見てゐる、手代の吉三郎とハタと顏が合ひました。
「番頭さん、丁度いゝ鹽梅あんばいだ。少し訊きたいことがあるが」
「へエ/\」
 吉三郎は揉手もみでをしながら平次を迎へて、縁側に並んで腰をおろした。
「外ぢやねえが、――主人は本當にめひのお喜代を可愛がつてゐたのか」
 平次の問ひは凡そ吉三郎の豫期したこととは縁のないものでした。
「そんなことはございません。そんな可愛いゝ姪を藏の中へ入れて、一と月も窮命きうめいさせる筈はないぢやございませんか」
「さう言つたものかな、――すると、主人は誰を可愛がつてゐたのだ」
「そこまではわかり兼ねます――亡くなつた人のことを申すやうで氣が引けますが、お喜代さんは何んと言つても少し我儘がすぎました」
「有難う。そんなことでよからう、――濟まないが、お百合ゆりとか言ふ遠縁の娘を呼んでくれないか」
「へエ」
 吉三郎は追はれる者のやうに去りましたが、入れ換つて縁側に顏を出したのは、二十歳前後の、少し不きりやうな娘でした。
 身扮みなりはそんなに惡くはなく、顏立も惡いほどではないのですが、お喜代の死顏のあやしい美しさにくらべると、これは唯の女にしか過ぎず。その上二十歳白齒は少したうが立つて、たゞ開け放しの正直らしいところだけが、平次の好感を誘ひます。
「あの何んか御用で」
 お百合はそれでも愼ましく兩手を突きました。
「いろ/\訊きたいことがあるんだが、――第一にお前はお喜代をどう思つてゐた。人柄とか、お前へのさはりとか、隱さずに言つて貰ひたいが――」
「いゝ人でした。親切で、思ひやりがあつて」
 お百合の調子には、何の誇張もわざとらしさもありません。
「お喜代が死ねば、この家の跡取りには、遠縁のお前が直るのぢやないか」
「いえ、飛んでもない。私なんか」
 お百合はサツと顏色を變へました。それはあまりに飛躍した想像で、お百合の胸の奧の奧に秘められたものに點火されたやうな氣がしたのでせう。
「主人は本當にお喜代を可愛がつてゐたのか」
 平次の問ひは又飛躍しました。
「え、それはもう、本當の娘のやうだ――と店中で申してをりました」
「そのお喜代と言ひ交したといふ、勝太郎をお前はどう思ふ?」
「――」
 お百合は默り込んでしまひましたが、くちびるのあたり、額のあたりに、隱しきれない反感がひらめきます。
「ところで、十日ばかり前に、お隣りの御浪人がを打ちに來られた時、お前は茶や菓子を持つて出たさうだな」
「ハイ」
「その時變つたことを見なかつたか」
「いえ」
「檜木風之進殿は煙草を呑まれるのか」
「いえ召し上がりませんが――」
「が、――どうした」
 お百合の言葉には、妙に煮えきれないものが匂ひます。
「旦那樣が立たれた後へ、何心なく入つて參りますと、檜木樣は煙草盆を引寄せて、埋火うもれびを掘り返してお出でになりました」
「――」
「この暑さに、お手を温めるのは、變なことだと思ひましたが」
 お百合にはそれ以上のことは判斷もつかなかつたのです。


 續いて平次は下女のお町に逢つて見ました。これは池田屋に二十年も奉公してゐる平凡な中年女で、何を訊いてもらちのあいたことは一つもなく。結局平次の得たところは、
「旦那樣のお喜代さんを可愛がりやうは、並大抵ではございませんでした。あれが本當の姪御さんでなかつたら、をかしいと思はれたかもわかりません」
 と言つたことが、平次の心に深く刻み付けられました。拔群の美しさに惠まれて、子供の時から池田屋で育つたお喜代が、叔父萬兵衞の溺愛できあいの的になつたことは當然で、そのお喜代が、人もあらうに町人から見れば外道としか思はれないやくざ者の勝太郎とちぎつたことが、どんなに萬兵衞の忿怒だつたか、かう聽くと平次にも、よくその邊の消息が呑込めるやうな氣がするのでした。
 外に老番頭の宗七といふのがをりますが、これは通ひで池田屋の内輪のことにはあまり關係がなく、もう一人丁稚でつちの伊太松も、まだ白雲頭の惡戯盛りで、人情の機微などとは縁がありさうもありません。
 調べが一段落になつて、又もとの庭へ出ると、
「親分」
 八五郎が頓狂な聲と共に飛んで來るのでした。
「どうした八、相變らずお前の出入りは賑やかだぜ」
「へツ、鳴物が欲しいくらゐだ。ね親分、勝太郎は昨夜ゆうべ本所の叔母の通夜へ行つて、一寸も外へは出ないさうですよ」
「お前は逢つたのか」
「逢ひましたよ。ぼんやり歸つて來たところをつかまへて、池田屋のお喜代が殺されたことを教へると、腰を拔かしてヘタヘタと坐つてしまひましたよ。あれぢや折角の男つ振りも臺なしだ」
「少し大袈裟おほげさだな」
「夫婦約束した娘が殺されたと聞いたらあつしだつて眼くらゐは廻しますよ」
「煮賣屋のお勘子ぢや、打ち殺されても死にさうもないぜ」
「チエツ、あんなのは」
 八五郎は忌々しく口をとがらせました。
「ところで、これから二本差と掛合ひが始まるんだ。お前も一緒に來るか」
「行きますよ。親分と一緒なら、地獄の釜の中だつて飛び込みますよ」
 八五郎は本當にそんな氣でゐるのでした。
 平次はそれを輕く聽き流して、池田屋の裏口から、路地を一つへだてた隣りの浪宅、檜木風之進のお勝手口に立つてをりました。
「御免下さい」
 世間並に訪づれると、
「どーれ」
 恐ろしく横柄な聲がして、お勝手の障子をガラリと引開けたのは、四十五六の少し汚な作りの浪人者でした。青ひげの凄まじい、眼の鋭いがどこか人をめたやうな横着さがあつて、市井しせゐの遊侠らしい感じのする男です。
「檜木樣でいらつしやいますか」
「左樣、拙者は檜木風之進だ。其方は」
「平次――と申します。お上の御用を承つてをります」
 平次は存分に下手に出ました。
「何んだ岡つ引か」
 檜木風之進は胸を反らせます。
「お隣りの娘のことに就て、いろ/\お伺ひいたしたいと存じますが――」
「待て/\、お隣りの娘は殺されたといふことだが、それは拙者とは何んのかゝはりもないことだよ、――かう見えても拙者は若い女と岡つ引は嫌ひでな」
 檜木風之進は先づ防禦の第一線を張るのでした。
「でも、池田屋の主人の鍵束かぎたばから、一つの鍵を選り出して、寸法を取つたのはどういふわけで――」
 平次も負けてはゐません。いきなり投り出したのはこの切札です。
「何?」
「お隱しなすつちやいけません。あの鍵の穴と足へ、煙草盆の消炭を塗つて、懷ろ紙にしたのはどういふわけでございます。あの鍵は池田屋の姪のお喜代が閉じ籠められてゐる、藏の鍵と御存じでせうね、檜木さん」
 平次の言葉は至つて靜かですが、拔き差しのならぬ苛烈な論告でした。
「ブ、無禮なことを申すと、手は見せぬぞ」
 檜木風之進は一刀にそりを打たせると、狹いお勝手一パイに肩肘かたひぢを張りました。が、さう言ふ癖に風之進の顏は、妙にニヤニヤして、皮肉で虚無的で、妥協的でさへあつたのです。
おどかしちやいけません、――あつしはかう見えても氣が弱いんで」
 平次は大して身構へる樣子もなく、この浪人者の芝居がゝなりな姿態を見上げました。
「怪しからん奴だ。何を證據にそんなことを言ふ?」
「鍵に炭が附いてをりましたよ。そして、お百合とかいふ娘が、運惡く變なことを見たんださうで、――どうかしたら手代の吉三郎も見たかも知れません」
「――」
「まさか旦那が鍵の寸法を入用なわけはないでせう。誰に頼まれてなすつたか、あつしはそれが訊きたいので」
「よし/\、そこまで知つてゐるなら言つてやらう。別にやましい話ではない」
「?」
「なア、岡つ引、お前もまだ血の氣の多い若い男のきれつ端しだ。少しは若い者の心持がわかるだらう」
「――」
 檜木風之進はひねくり廻してゐた長いのを投り出して、お勝手の板の間に、寛々と胡坐あぐらをかくのでした。
「惚れた同士――命にかけて惚れた同士が、一緒になれないばかりでなく、わけのわからぬ親爺に邪魔をされて、若い娘が藏の中に投げ込まれ、一と月あまりも窮命きうめいされてゐるとしたら、どんなものだ――お前は知るまいが、あの娘は名前だけの姪で本當のことを言へば赤の他人だ。池田屋萬兵衞が孫のやうな義理の姪に、惚れてゐるとしたらどんなものだ」
「本當ですか、檜木樣」
「俺が嘘を言ふものか。池田屋の番頭宗七にでも訊いて見るがいゝ。あのお喜代といふのは、内儀のお伊勢の遠縁の者で、萬兵衞とは血のつながりはない筈だ」
「――」
 平次もこれ程驚いたことはありません。
「第一、世の中にあんなに姪を可愛がる叔父があるかないか考へて見ろ。まるでめるやうだぜ」
「あの儘にして置いては、お喜代の命が危ない、――あつしは厄介な人間だが、お喜代と言ひ交したことには間違ひもない。何んとかして助けて下さい――と勝太郎の奴が拜むのだ」
「――」
「そして、二人手に手を取つて逃げ出し、京大阪へでも行つて世帶を持つから、お喜代を藏から出す工夫をしてくれといふのだ。それには萬兵衞の腰にブラ下がつてゐる、六つの鍵のうち二番目の鍵を盜む外はない」
「――」
 あまりのことに壓倒されて、平次は默つてこの浪人者の長廣舌ちやうくわうぜつに聽き入りました。
「鍵を萬兵衞の腰から取り上げるのは何んでもないが、鍵を盜られたと氣が付いたら、萬兵衞は直ぐ違つた錠を持出して此方の思惑をくじくだらう、――俺はさう考へたから、鍵を盜るのは思ひ留つて、萬兵衞の知らぬ間にあの鍵の型を取つたのだよ。煙草盆の消炭を塗つて、鍵の穴の大きさと、二本の足の寸法を取れば、飾り屋はその通りの鍵をこさへてくれる。どうだ岡つ引、驚いたらう」
「――」
「俺はその鍵でお喜代を藏の中からつれ出し、二人は遠い國へでも行くことかと思つてゐたよ。――ところが大當て違ひだ。あの可愛らしいお喜代が、昨夜人手に掛つて死んだつてね。可哀想に、あんな綺麗な娘は、江戸中搜したつて滅多にはないぜ。誰が一體そんなむごたらしいことをしたんだ――勝太郎だらう――つて、飛んでもない。あの野郎は人間の屑見たいな野郎だが、惚れた女を殺すほどの馬鹿ぢやない、――鍵の型を取つて來てやると、お禮だと言つて、五兩の金を出したよ。俺はそんなものを取るものか、尾羽打枯らしても檜木風之進だ、色の取持ちをして小遣をかせいぢや、祖先の惡源太義平に濟まない――見損なつたか畜生、お前が道行みちゆきと出かける時、餞別せんべつをどうして工面したものかと、そればかり心配してゐる俺の心持を知らないかと、五兩の金を叩き付けてやつたよ。ハツハツハツ」
 浪人者檜木風之進の長談議は果てしもなく續きます。


「親分、矢つ張り下手人は勝太郎ですね。あの野郎を縛つてしまひませう」
「待て/\八、まだに落ちないことがある」
 平次の聲を耳にも掛けず、山崎町一丁目に飛んで行つた八五郎は、間もなく凡そ氣拔けのしたやうな顏で、ぼんやり池田屋に戻つて來ました。
「どうした八」
 平次はさすがに心配さうに聲を掛けます。
「三輪の親分が、一と足先に勝太郎を擧げて行きましたよ」
「何? 三輪の親分が――」
「二人の話を聽いて、先廻りしたんですよ。ひどいことをするぢやありませんか」
 八五郎のカンカンになるのを、平次は辛くもなだめてをります。
「放つて置くがいゝ、――ところで八」
「へエ」
「三輪の親分は、どうせ一應の下調べをするだらう。お前は番屋までついて行つて、調べの樣子を見て來るがいゝ」
「少し業腹ごふはらですね」
「飛んだ良い修業だよ。贅澤を言つちや濟むめえ――俺は顏を出したくないから、向うの角の煙草屋で待つてゐる」
「へエ、では行つて參ります」
 八五郎は氣輕に出かけて行きましたが、やがて氣拔けのしたやうな顏でフラリと歸つて來ました。
「何うした八」
「何うにもかうにも、まるで話になりませんよ。あの勝太郎の野郎は、池田屋の娘と一年も前から夫婦約束をしてゐたんださうで。池田屋の身上しんしやうに未練がなきやこんな窮屈なおもひをするのは馬鹿々々しいてんで、二人は夜逃げの相談をしてゐた矢先、娘の方が嗅ぎ付けられて、池田屋の藏の中に閉ぢ籠められたんで――」
「それはわかつてゐる、その先は?」
「勝太郎は、檜木風之進に頼んで、鍵の寸法を取つて貰ひ、それを持つて行つて、門前町の錺徳かざりとくの手で、立派な合鍵を拵へたんださうですよ」
「フーム」
「――この通り合鍵は持つてゐるが、しやくにさはることに、それを使ふ前にお喜代が殺されてしまつた。私といふ人間は、まア何んといふ運の惡い月日に生れたことだらう――と、これは泣きながらの勝太郎の言ひ草ですよ」
「すると、勝太郎は確かに合鍵を持つてゐたのだな」
「自慢さうに三輪の親分に見せましたが、鍵は今拵へたばかりの新しい物で、きり立ての眞鍮しんちゆうのやうにピカピカしてをりましたよ。それに勝太郎の野郎は昨夜本所の叔母のところへお通夜に行つてゐたことは確かで」
「すると八、すつかり樣子が變つてしまつたよ」
「へエ、何が變つたんで」
「藏の鍵を後生大事に温ためてゐるやうぢや、下手人は勝太郎ぢやない」
「すると誰でせう親分」
「――」
 平次は考へ込みました。これは實にむづかしい謎です。
「親分」
「默つて來い。八、もう一度池田屋の主人に訊いて見たいことがある」
「へエ」
 平次はもう一度池田屋の主人萬兵衞に逢つて見ました。
「外ぢやないが御主人、めひのお喜代が殺された後は、この家の跡取りはどんなことになるんで?」
「左樣、いまさら外から養子といふわけにも行かないでせうから、矢張り遠縁のお百合を養女にする外はないでせうよ」
 萬兵衞は悲しさうでした。我儘で少しおきやんで、そして出來立ての※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工のやうに綺麗だつたお喜代にくらべて、平凡で世間並で、何んの魅力もないお百合は、あまりにも冴えない跡取りだつたのです。
 それだけ聽くと平次は、お勝手口へそつと下女のお町を呼出しました。
「お前は氣が付いてゐる筈だ。お百合と手代の吉三郎はどんな仲だ」
 平次はこんな突つ込んだことを訊くのです。馬鹿なやうでも、四十過ぎまで獨りで通した女の神經が、事男女の關係となるとどんなに鋭敏に働くか、平次はよく知つてゐたのです。
「そんなことを言つちや惡いけれど、――吉三郎どんは最初、お喜代さんを口説くどき廻してゐましたよ。お喜代さんが逃げてしまつて、勝太郎さんと好い仲になると、近頃は諦めた樣子で、お百合さんの機嫌ばかり取つてゐるんです。お百合さんの方もまんざらぢやないやうで、ウ、フ」
 と言つた調子でした。
 平次は池田屋をいゝ加減にして、門前町へ飛びました。
「八、錺徳を呼出して、思ひきりおどかしてくれ。二つ三つ引つ叩いても構はない。人に頼まれて怪しい鍵なんか拵へる奴は遠島ものだ」
「やつて見ませう」
 そんなことになると、八五郎は心得たものでした。いきなり門前町の錺徳の店に飛び込むと、
「さア、野郎、眞つ直ぐに申上げろ。お前が拵へた鍵で、人が一人殺されたんだぞ。まご/\しやがると、しよつ引いて石を抱かせるからさう思へ」
 八五郎がわめき散らすと、中年者の錺徳はひとたまりもありません。
「へエ/\皆んな申上げます。一丁目の勝太郎さんに頼まれて、寸法書き通りの鍵を拵へたに、間違ひありません――」
「馬鹿ツ、誰がそんな事を訊いてゐる」
「へエ」
 平次は横から一かつしました。
「お前はそれで濟むと思つてゐるだらうが、もう一つ、同じ寸法の鍵を拵へたに違ひあるまい」
「へエ、そ、そんなことが」
「隱すな、勝太郎は大ぴらに拵へさせたが、その後で、同じ寸法でもう一つ鍵を作らせた者がある筈だ。そいつは誰だ。言はないと、八」
「野郎、覺悟しやがれ」
 八五郎は本當に、懷中から捕繩を出したのです。
「申しますよ、親分、――言ひますとも。勝太郎さんが鍵を頼んだ後で、同じ寸法で鍵を造らせたのは、――」
        ×      ×      ×
 平次と八五郎は、もう一度池田屋に引返しました。そして手代の吉三郎――あの愛嬌者の調子の良い男を、有無も言はせず縛つてしまつたのです。
「吉三郎は池田屋の身上しんしやうねらつたのさ。最初お喜代を追ひ廻したが、お喜代は勝太郎と出來てしまつたので、それは殺してお百合に乘り換へ、池田屋の身上を乘つ取る大望を起したのだよ」
「へエ、惡い野郎ですね」
 吉三郎を下つ引に送らせて、平次と八五郎は、夕景の街を神田へ歸るのでした。
「勝太郎がお喜代を救ひ出したさに、あのあぶれ浪人の檜木風之進に頼んで鍵の型を取らせたと知つて、近所の錺屋かざりやを當つて見て、錺徳に同じ鍵を作らせたのだらう。勝太郎は鍵を作らせることを隱す氣もなかつたから、これは直ぐ判つたに違ひない、――檜木風之進が鍵の型を取つたことはお百合ゆりに聽いたことだらう。お百合は何んにも知らないやうな顏をしてゐるが、あの女は思ひの外の悧巧者で、いろ/\の事を知つてゐるに違ひないよ」
「へエ」
「錺徳は、勝太郎からはいくらも禮は貰はないだらうが、吉三郎からは五兩か十兩のまとまつた金を貰つてゐるに違ひないよ。吉三郎はその鍵で夜半よなかに藏の中へ入つて行つた、――お喜代は氣が付いたから、あわてて寢卷の上へ姿の着物を羽織り、細帶を締めて出迎へたのだらう。夜中に不斷着を着てゐたのは、勝太郎が來たのでない證據だ。勝太郎が忍んで來たのなら、長襦袢ながじゆばん一つで逢つてゐる筈だ」
「成程ね」
「吉三郎は多分藏の入口にお喜代を呼び出しそこで絞め殺して、死骸を二階へ運んだのだらう。そして後を締めて濟まして自分の部屋に歸つたに違ひあるまい。鍵はどこかへ取捨てたのだ、小さい物だから井戸へでも投り込めば容易に見付かるまいよ」
「――」
「お百合は下手人は吉三郎と氣が付いて、言はうか言ふまいか、迷つたに違ひあるまいが、たうとう言はずにしまつた。――が、俺はもう少しで、主人の萬兵衞を下手人かと思つたよ。萬兵衞はめひのお喜代を可愛がり過ぎた。内儀は病身で、義理の姪があんなに綺麗で陽氣でお轉婆だ。萬兵衞が可愛がつたのも無理はない――が可愛がりやうが過ぎたから俺は危なく萬兵衞に繩を打つところよ、――岡つ引といふものはむづかしい稼業だな」
 平次はつく/″\さう言ふのでした。
「でも、全くもつたいない殺しですね。あのお喜代といふ娘は――」
あきらめろ八、死んだ娘に岡惚れしても仕方があるまい。まだしも煮賣屋のお勘子の方がピチピチしてゐるぜ」
「へツ」
 平次と八五郎はそんなことを言ひながら、晩酌ばんしやくの支度をしながら女房のお靜が待つてゐる家路を急ぐのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十九卷 浮世繪の女」同光社
   1954(昭和29)年7月15日発行
初出:「小説の泉」
   1948(昭和23)年5月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年4月3日作成
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