「親分變なことを訊くやうですがね」
ガラツ八の八五郎は、こんな調子できり出しました。櫻が散ると御用もひと休みで、久し振りで錢形平次は、粉煙草をせゝりながら、高慢らしい物の本などをひろげてゐたのです。
「お前の言ふことは
「その新造なんですがね」
「それ見ろ。お前の話の種は、年増でなきや新造だ」
「交ぜつ返さないで、聽いて下さいよ。深川西町から、良い新造が足袋
「へエ、押掛け嫁か、借金取りか、それとも安珍清姫か」
「そんな氣樂なものぢやありませんよ。
「あ、氣味が惡い。變な聲を出すなよ、八」
江戸開府以來と言はれた捕物の名人錢形平次は、子分の八五郎と一番事務的な話を、かう他愛もない
「變な聲も出したくなるぢやありませんか。ね、親分」
「それで俺にどうしろと言ふんだ」
「當人に會つて、ちよいと深川西町を覗いてやつて下さいよ」
「あの邊は猿江町の甚三の繩張りだ、うるせえな」
「あの甚三親分が、生温けえ床から
「若くて綺麗な女の子のこととなると、八の眼の色が變るから恐ろしいよ。一緒につれて來たのかえ、――まア會つて話を聽いて見よう。こゝへ通すがいゝ」
平次に取つては、見る眼嗅ぐ鼻ともいふべき八五郎は、その
「通してありますよ。お勝手口で、お靜姐さんが足を洗はせたり、熱いものを呑ませたり、世話を燒いてゐる眞最中」
「何んだ、そんなことか」
八五郎の連れ込んで來た客といふのは十九か二十歳くらゐの可愛らしい女で、添寢の床から亭主を引つこ拔かれたといふのですから、娘でないことは明らかですが、眉も落さず、齒も染めず、娘姿の
「お前さんか、
「有難うございます」
ようやく平次の前にゐざり寄つた若い女は、平次の女房のお靜が、後ろから無言の激勵をしてくれなかつたら、そのまゝ逃げ出す氣になつたかもわかりません。それほど内氣でうぶで、臆病らしくさへあつたのです。
「お前さんの配偶が、誰を殺したのだ――いや、誰を殺した疑ひで縛られたのだ」
「私の伯父、小橋屋小左衞門でございます。深川西町に金貸しを渡世にしてをります」
「あ、あの、鬼の小左衞門か。いや、これは飛んだ言ひ過ぎだが、世間では專らさう言つてゐるぜ」
深川西町の鬼の小左衞門、正しくは小橋屋小左衞門。中年から眼を患つて、視力はひどく
「極りの惡いことでございますが、世間樣ではよくさう申します。――その伯父の小左衞門が、昨夜自分の部屋で絞め殺されたといふことで、私はその知らせも聽かないうちに、飛び込んで來た猿江町の甚三親分が、いきなりあの人を縛つて行つてしまひました。近頃は義絶同樣で往來もしませんし、それにあの人は、昨夜宵から一緒で、一と足も外へ出ないのですもの、伯父さんを殺す道理はございません」
女はたしなみも極り惡さも忘れて、あの人のために躍起となるのでした。
「そいつはいろ/\調べなきやなるまい。猿江町の親分には惡いが、深川西町まで行つて見るとしようか」
平次はようやく動き出しました。
「さう來なくちや」
深川西町の小橋屋小左衞門はかうして長い間の蓄財生活を續け、五十を越して五六千兩といふ身代を築き上げました。女房は早く亡くなつて、女房の姪のお絹といふのを十年も前から養つてをりますが、これが年頃になるとピカピカするほどのきりやうになり、金のありさうな
お絹といふのは平次の家へ
「するとお前さん達は、小橋屋の近所にでも住んでゐるのか」
「隣りに住んでをります。夫の伊三郎が親から讓られた家で、そこから本所深川のお屋敷を廻つて、背負ひ小間物を
「で、お前と伊三郎は、まだ祝言はしてゐないのだな」
「ハイ、伯父がやかましく申しまして」
お絹は眞赤になつてうな垂れました。この時分の世の中で祝言をしない男女が同棲するといふことは、
それにしても、この可憐で内氣らしい娘が、世の
若い女の口から、何彼と引出すのは容易の
「おや、錢形の親分ぢやないか。大層早い耳だなア」
小橋屋の店へ入ると、ドスの利きさうな
店火鉢へ中腰になつたまゝ、
「猿江町の親分、惡く思はないでくれ。やけにむづかしさうな殺しだといふから、修業のために八の野郎をつれて來たのだよ」
「さうかえ。俺はまた伊三郎の女房――と言つても親の許した仲ぢやねえが、伊三の野郎と一緒に住んでゐるお絹の阿魔が、錢形の親分をつれて來て、伊三郎の繩を解いて見せると言つたとか、言はないとか、子分の者共がうるさく告げ口をするから、錢形の親分が、この俺の鼻を明かすつもりで乘り込んで來たのかと思つたよ」
「飛んでもない」
「まアいゝやな。眼でも鼻でも、遠慮することはねえ。見事に明かして貰はうぢやないか――
ニヤリニヤリしながら、これだけのことを言ひきる甚三は、その自信も絶大ですが、爭鬪力もまた容易のものではありません。
「冗談ぢやないよ。猿江町の、俺の方は負けても、髷なんかきるのは御免だよ」
平次はさう言つて、
平次と八五郎は、甚三に案内されて、奧の主人の部屋を覗きました。
「錢形の親分。曲者はこゝから入つたのだ、よく見て置いてくれ」
指さした縁側には、
「これだけのことで、外から雨戸は開くだらうか」
建具の嚴重さと、木口の新らしさを見て、平次はフト疑ひを挾みました。
「雨戸をみんな締めて、この俺が外から開けて見たから論はあるめえ、――尤も上下の
「昨夜は心張棒を掛けなかつたのか」
「殺された主人が自分でやるから、誰にも氣が付かないが、主人が殺された後で見ると、雨戸を一枚外から外して、心張棒は戸袋の中に
「その戸袋は」
「これだ――心張りは
「戸袋は淺いぢやないか。その中へ心張棒を立てかけたら、六枚の戸はとても納まるまい」
「そんな事はどうだつていゝよ、――この通り、雨戸の下は、下駄で踏み荒した跡だ」
甚三は軒の下の下駄の跡を指さしました。
「この庭には下駄はないのか」
「主人は庭を荒すのをいやがつて、草履しか置かせなかつたといふよ」
「それにしても泥の足跡は少し
平次は早くもこの下手人の殘した證據に、幾つかの
部屋に入ると、檢屍が濟んで、
「へエ、御苦勞樣でございます。私は庄兵衞と申します。店の支配をいたしてをります」
四十七八の少し
「――」
その後ろから默つてお辭儀をするのは、三十二三の
「奉公人だよ。死んだ主人の世話をしてゐた、――お源さんと言つてね」
甚三は註を入れてくれました。言ふまでもなくそれは、視力が
「お前は?」
お源の横にゐた、若い
「亡くなつた主人の
言葉は少し
「昨夜のことから、今朝主人の死骸を見付けるまでのことを訊きたいが」
平次は定石通りの質問を出しました。
「いつもの通り、その日の帳面を濟ませ、寢酒を一合召上がつて、お一人でこの部屋に引揚げました。私は手探りで行く御主人をお見送りして、しばらく善介どんと無駄話をして休みましたが――」
番頭の庄兵衞が説明するのです。
「お前は? 主人の寢る世話をしないのか」
平次はお源の取濟ました顏を見返りました。
「旦那樣は近頃、年が年だから、一人の方が良いと仰しやつて、一人でお休みになります。私は勝手に裏の自分の部屋に休みますので――」
お源はひどく言ひにくさうです。
「床の上げ下げの世話は誰がするのだ」
「下女のお
お源の指す方を見ると、六十近い老婆が
平次は何やら八五郎に眼配せすると、八五郎は心得て出て行きました。多分あの老下女から、妾のお源と主人の仲のことを訊き出すつもりでせう。
「今朝は?」
「それもあのお曾根が、雨戸を開けに來て見付けたさうで――雨戸が一枚外れて、障子が開いて、主人は床から拔け出してこときれてゐたのでございます。お曾根が大きな聲を出したので、私共も驚いて飛んで來ましたが、もう冷たくなつてゐて、どうしやうもございませんでした」
庄兵衞は
「盜られた物は?」
「まだよくわかりませんが」
庄兵衞は
「番頭のお前に見當の付かない筈はあるまい」
「錢箱にも、當座のお小遣にも、少しも變りはございません。
「すると、怨みで殺されたとでもいふのか」
「
庄兵衞は疊の合せ目に坐つて、眼ざはりになるほど飛び出してゐる
「この部屋は、最近疊替へでもしたのか」
平次は妙なことを尋ねます。
「いえ、この二年ほどは、疊を動かしたこともございません、――敷き合せに埃は出てをりますが」
「ひどい埃ぢやないか。念入りに
「へエ」
甥の善介は立上がりました。甚三はしばらく妙な顏をしてをりましたが、平次の指摘した、疊の敷き合せの藁屑が氣になつたものか、善介に力を貸して疊を一枚起すと、
「おや、この床板は動かしてあるぜ」
續いて怪しい床板を引つ剥ぎました。ムツとカビ臭い風が吹き上がつて、床下には何やら散らばつた物があるのです。
「
早速取寄せた提灯を入れて、床下を覗くと、土は散々に掘り起されて、その掘り起した土の上に散亂するのは、五升も入らうと思ふ
「小判ぢやありませんか。そこのところ、もつと右」
上から覗いた庄兵衞の聲につれて、甚三は瓶の破片に挾まつた、一枚の小判を見付けました。平次は受取つて土を拂ふと、
「瓶の口を
平次はそれも甚三に拾はせました。瓶は滅茶々々にこはされましたが、瓶の口を
「もう少し掘つて見よう。みんな手を貸しな、――いや、それよりも掘るものが欲しい。
猿江町の甚三は小判の顏を見るとすつかり夢中になつて暗くて
「無駄だらうよ、猿江町の親分」
平次は泰然として動きさうもありません。
「それはなぜだい」
「主人は
「――」
平次が妾のお源の神妙らしく
「そんなに眼の惡い主人が、床下なんかに金を隱す筈はあるまいよ」
「だが、現に一つ」
甚三は床下に散亂する梅干瓶の破片を指しました。
「それにもわけがあるだらう、――その瓶は一體古いのか新らしいのか」
「澁紙がそつくりしてゐるし、瓶には梅干の匂ひが殘つてゐるところを見ると、近頃床下に埋めたものだらうな」
甚三もそれを承服しました。口を塞いだ澁紙に一應
こんな道草を喰つて、死體の調べは遲れましたが、一應床下を調べさせて、いよ/\あとは瓶も壺もないと判つて、床を塞ぎ疊を敷いてから、平次は改めて主人小左衞門の死體に近づきました。
線香を上げて、念入りに拜んだ平次も、一と眼、死骸のグロテスクな人相に
床から拔け出して、
身體は頑丈な方で、これを音も立てずに始末するためには、恐ろしい惡賢さと、かなりの腕力を必要としたことでせう。平次はそんなことを考へながらフト後ろをふり返りました。妾のお源は殊勝らしく
「何んだらう、これは?」
平次はフト死體の首からまだ取り去らない麻繩の、後ろの方に小さく
「さア、俺も氣はついたが、――わからないなア」
甚三は心細いことを言ひます。
「繩の結び目はひどく
こんな緩い繩、――そして後ろにある小さいワナ、――この絞殺は謎だらけです。
「待て/\。この頑丈な主人が手一杯に暴れたら、背後から首を絞めてゐる者は、着物か手足を手繰り寄せられて、飛んだひどい目に逢はされるだらう」
「?」
「この頑丈な主人を殺すのに、大した力の要らない工夫があつた筈だ。麻繩のワナはそのためぢやないか」
そんな話をしてゐるところへ、八五郎は張りきつた顏をして歸つて來ました。
「親分、いろ/\のことが判りましたよ」
「何がわかつたといふのだ、八」
平次は八五郎を誘つて物蔭に行きました。八五郎の
「あのお源とかいふお
「何が大變なんだ」
「
「そんなことだらうな」
「だから、家の中に主人を殺す者があれば、あの妾のお源が一番怪しいと――これは下女のお
「それから?」
「
「それは聽いた。が、お絹がこの家を出たのは何時のことだ」
「半年前ですよ。あの妾のお源の指金で、小左衞門を突つついて追ひ出したんですつて。小左衞門にして見れば、同じ甥だから、善介に娶合せようと、伊三郎に娶合せようと大した違ひはなかつたんでせう」
「フーム」
「近頃は主人の小左衞門も後悔して、伊三郎とお絹の仲を許して、もう一度お絹にこの家へ歸つて貰はうか知ら――などと考へてゐたさうです。六十近い下女のお曾根は、身體は動かなくても、氣はよく廻りますよ。そんな人の心の奧の奧まで、まるで
「お前の話を聽いてゐると、お曾根を褒めるんだかくさすんだかわからなくなるよ」
「それから親分。番頭の庄兵衞、あれは大變な者ですね」
「それはどういふわけだ」
「取すました顏をしてゐるが、奧底の知れない人間で、お曾根婆さんなんか、一番怖がつてゐますよ」
「甥の善介は、善人の見本見たいなもので、無骨でどもりで女には持てさうもないが、滅法氣の良い男だ――と、これはお曾根婆さんの言ひ種ですよ。尤もあの年で奉公をしてゐるくらゐだから、お小遣ひでも貰へば、大概の者は褒めますがね」
八五郎はなか/\
錢形平次は八五郎と一緒に、もとの部屋に戻つて來ました。
「錢形の親分、新らしい下手人の當りは付いたかえ」
猿江町の甚三は、平次の緊張した顏を見ると、妙にニヤリとした調子になるのでした。
「いや、一向、今のところなんにも解らないが、猿江町の親分は、伊三郎を下手人と睨んだのは、どんな證據を手繰つたんだ」
平次はさり氣ない調子でした。
「動きの取れない證據は、昨日まで三兩といふ仕入の金に困つてゐた伊三郎が、今朝五十兩といふ大金を持つてゐたとしたら、どんなものだ。伊三郎はさる大旗本の奧方から預かつた直し物の
甚三は面白いことを知つてゐるのでした。
その大旗本の奧方から預かつた髮飾の道具といふのは、金銀
「瓶のありかを伊三郎はどうして知つたのだ」
平次は口を
「女房のお絹から聽いたのだらう。主人の小左衞門が、三千兩や五千兩の金を持つてゐるに違ひないといふことを、家中で知らないものは一人もないよ」
「あの
「一應それで筋は通るが、それにしては瓶も、澁紙のフタも新らし過ぎるな――お絹がこの家を出たのは半年前だ」
平次は考へ込むのでした。
「ところで、これは番頭さんに訊きたいが」
しばらく
「小橋屋の商賣用の現金は、
「商賣の方は小口ばかりで、百兩と
「たつたそれだけか――大層少ないではないか、――江戸でも高名な小橋屋だが」
「あとは貸金でございます。それは三千兩もございませう、何しろ何百といふ口數でございます。へエ、こんなことを申しては恐れ入りますが、良い
さう言ふ番頭の庄兵衞は、職業的な
「猿江町の親分」
「何んだえ、錢形の」
「俺は、この家にまだ金があると思ふがどうだらう」
「さア」
「目の惡い男 、[#「目の惡い男 、」はママ]
「――」
「伊三郎のところにあつた金は、たつた、五十兩と言つたな、――あの梅干瓶は千兩や二千兩は入るぜ。主人の小左衞門があの中に小判を隱したとしたら、たつた五十兩は變ぢやないか」
平次は多勢の者の聽くのも構はず、猿江町の甚三を相手に、こんな
「だが、伊三郎は五十兩しか持つてゐなかつたぜ」
「だからよ、最初から瓶に五十兩入つてゐたか、千兩二千兩の金のうちから、五十兩だけ伊三郎が取り出したか、――兎も角小橋屋小左衞門は近頃の
「知らないよ、自慢ぢやないがこちとらは、金なんてものを、あまり隱したことはないよ」
甚三ははなはだしく不機嫌です。
「それどころぢやない。ない金をあるやうに見せるのに苦勞をしてゐるんだ」
横から
「馬鹿野郎、お前は默つてゐろ」
「へエ――」
「ところで俺は、かうしてゐるうちに、段々その金の隱し場所がわかつて來るやうな氣がするよ。小橋屋小左衞門が一生人に憎まれながら、爪に火を
「どこです、親分それは」
八五郎はたまり兼ねました。
「この家を建てた
「へエ」
床の間に飛び付いた八五郎は、上敷の薄縁を引つ剥ぐと、その下の板――臺の付いた一枚板を、何んの思はせ振りもなくグイとあげると、中は粗末ながら大きい箱になつて、その箱の中に並べてあるのは、先刻
「八、その蓋を開けるな、――俺は紐の結び目が見たい」
平次は床の間にゐざり寄ると、床柱に手を掛けて、そつと中を覗きました。
三つの梅干瓶は、それ/″\年代は違ひますが、いづれも口を
「この結び目をどう思ふ、八」
三つの瓶を、縁側まで運んで、多勢の監視の下に、平次は念入りに調べてをります。
「
「瓶が三つ、蓋の澁紙を押へた紐は、みんな盲目結びになつてゐるのは面白いぢやないか、――ところで、先刻床下で見付けた、瓶の蓋はどうした」
「これだよ」
と甚三。
「この蓋を押へた紐の結び目は女結びだ。これはどうかしてゐると思はないかえ」
平次は又一つ、大きな疑問に直面してしまつたのです。
「錢形の親分さん」
縁側から聲を掛けたのは、下女のお
「何んだえ、婆さん。遠慮せずに言つて見な」
八五郎は側から聲援を送ります。
「これは家中の方が皆樣よく御存じのことですが、亡くなつた旦那樣はお眼が不自由なので、御自分の物や、御自分の結んだものは、みんな盲目結びにして、他の方の物や、他の方の結んだものと、よく見分けの付くやうにしてをりました。――盲目結びの方が解けにくい――と旦那樣はよくさう申してをりました」
下女のお曾根婆さんは、なか/\よく行屆きます。が、誰もそれに抗議を持ち込む者もありません。
そんなことをしてゐるうちに、時刻は丁度晝になりました。番頭の庄兵衞は氣をきかして、どこかへ晝飯を誂へたらしく、
「何んです、親分」
「何んですぢやないよ。あの御馳走に
「へエ、十手の手前か。飛んだ腹の
「
平次はかねて聽いて置いた、隣りの小間物屋、伊三郎お絹の新世帶を覗くのでした。
「あ、錢形の親分さん」
いそ/\と飛んで出るお絹、それは小橋屋の豪勢さに
「たつた一つ訊きたいことがあるよ。お絹さん、昨日まで仕入の三兩の金に困つたといふ伊三郎が、今朝になつてどうして五十兩といふ大金を持つて來たのだ」
「私は、何んにも存じませんが、親分さん」
お絹は
「よし/\、それぢや、伊三郎に訊く外はあるまい。まだ送られてはゐまい」
「そこの辻番に、甚三親分の子分衆に見張られてゐます」
「よし/\、それぢや逢つて來ようか」
たち上がる平次を、お絹はやるせない瞳で追つかけて、
「錢形の親分さん、あの人はどうなるでせう」
そう言ふのが精一杯だつたのです。
「大丈夫だよ、――俺の訊くことに、正直に返事をしてくれさへすれば」
「ぢや、私も一緒に參りませうか」
「よからう、お前の顏を見たら、伊三郎も氣が變らないとは限るまい」
平次と八五郎に、今度はお絹を加へて、近所の辻番を覗いて見ることになりました。
「寄るな/\、見世物ぢやねえぞ」
甚三の子分が、威猛高に彌次馬を叱る眞ん中へ、
「
錢形平次の一行が顏を出したのです。
「あ、錢形の親分」
五六人の子分達は、互ひに顏を見合せましたが、かうなつてはもう一も二もありません。
平次は八五郎とお絹を
「あ、お絹」
繩付のまゝ、よろ/\と立上がつた伊三郎。色の淺黒い
「伊三郎、お前は助かりたいだらうな」
「錢形の親分さんお願ひでございます」
「このまゝでは
「親分さん」
「だから正直に言ひさへすればよいのだ。昨日晝過ぎ、お前は誰に逢つたんだ」
「それは言はないことに約束いたしました」
伊三郎は
「お前は、小橋屋小左衞門殺しの疑ひで、御處刑になるかも知れないのだよ」
「致し方もございません。――恩人に迷惑をかけるよりはその方が諦めがつきます」
「お前に五十兩の金を貸したからと言つて、別に死罪にも遠島にもなる筈はないぢやないか――相手といふのは誰だ」
「でもその方は、主人の金を都合してくれました。――私はお屋敷方に出入りして、いろ/\の事を見聞きしてをりますが、口の固いのが
「その金は、小左衞門を殺して、あの家の床下から盜み出したと思はれてゐるのだよ」
「――」
「お前はそれでも、默つて小左衞門殺しの罪を引受ける氣か」
「私が小橋屋の御主人を殺さないことは、夕方から一寸も外へ出ないことでもわかります。その邊のことはお絹が一番よく知つてをります」
この恐ろしい頑固と、そして手に了へない純情さに、錢形平次もさすがに呆れ返つてしまひました。
「よし、よし、お前には義理があるだらうが、お絹さんはその相手に大した義理はない筈だ、――亭主の伊三郎が助かるか助からないかの瀬戸際だ。よく考へて返事をしてくれ。昨日の晝過ぎから夕方まで、お前の
平次は振り返つて、お絹に訊ねました。
薄暗い辻番の小屋の中、駄菓子と荒物と
「家にをりました。久し振りで商賣を休んで、――五十兩の金がなきや、この商賣もお仕舞ひだ――と
「すると」
平次は、その言葉を受取つて勢ひづけます。
「小橋屋の番頭さんが顏を出して、伊三どん少し話があるが――と誘ひ出しました」
「小橋屋の番頭といふと、庄兵衞だな」
「えゝ、そして、一寸。ほんの一寸外へ出ましたが、すつかり陽氣になつて歸つて來て、これで助かつた、これで俺も顏が立つ――と申してをりました。昨日の
「有難う、それでいゝ。八、わかるだらうな」
「へエ――」
何んと八五郎の顏の長さ。
「來い、八」
平次は辻番を出ると
「猿江町の親分、その男を
「何、何?」
平次は甚三を坊主にする代りに、この手柄を讓つてやらうとしたのです。
驚いて逃げ出す庄兵衞は、八五郎の手に押へられました。あわてた甚三はようやく事情を察して、
「この野郎、御用だぞい」
怪しい腰付きで、この弱い下手人を組敷くのです。
× × ×
「曲者は外から入つたのでない證據はうんとあるよ。縁側の泥足の跡は
深川からの歸り、下手人の庄兵衞を猿江町の甚三に縛らせていゝ心持になつた平次は、伊三郎とお絹に拜まれながら、初夏のすが/\しい街を、かう話しながらたどるのでした。
「眼の惡い金貸が、三度の食事を忘れたつて、戸締りの心張棒を忘れるものか。それにあの心張棒は今朝戸袋の中に立てかけてあつたと言ふが、戸袋は淺いから、心張りがあつちや、六枚の雨戸は納まらないよ」
「成程ね」
「死骸の首の繩がゆるくて、後ろにワナのあつたのは、小左衞門の首に繩をかけた曲者が、小左衞門が暴れても自分が
「へエ」
「疊の合せ目に
「――」
「わざと小判を一枚だけ落したのも、あれは
「それから、結び目は?」
八五郎も
「小左衞門が結んだものはみな盲目結びになつてゐるが、あの瓶の口だけは女結びだ。誰かが、小左衞門を殺してから、瓶の中の物を盜つて、その瓶の口を結び直した上、叩き割つて床下に入れて置いた證據だ。それから」
「――」
平次の説明はます/\
「俺が――もつと現金がある筈だ――この家を建てた大工に聽けば隱し場所がわかると言つた時、番頭の庄兵衞は少しあわてて床の間を見たよ、そこに三つの瓶が隱してあらうとは、俺にも思ひも寄らなかつたのさ」
「
「お源を手に入れて、小橋屋を乘取るつもりだつたらう。お絹を追ひ出したのも、あの男の細工だらう。お絹は氣も心も良い女だが、お源はありや賢さうな馬鹿だよ、――庄兵衞は、主人を
「猿江町の甚三親分も、すつかり恐れ入つてゐましたね。少しばかり好い氣味で」
「馬鹿なことを言ふな、手柄爭ひなどは御用聞に大禁物だよ」
さう言ふ平次の心掛けが、
「それにしてもあのお絹といふのは、良い女でしたね」
「人の女房だ、褒めてもしやうがあるまい。それより俺はあの伊三郎といふ男の、馬鹿々々しい正直さに惚れ込んだよ。世の中にはあんな馬鹿があつても惡くないね」
二人はそんなことを話し合ひながら、明神下へ急ぐのです。そこでは平次の戀女房のお靜が、