錢形平次捕物控

小判の瓶

野村胡堂





「親分變なことを訊くやうですがね」
 ガラツ八の八五郎は、こんな調子できり出しました。櫻が散ると御用もひと休みで、久し振りで錢形平次は、粉煙草をせゝりながら、高慢らしい物の本などをひろげてゐたのです。
「お前の言ふことは大概てえげえ變なことばかりだが、まさか――どうして新造にはひげが生えないでせう――なんて話ぢやあるまいな」
「その新造なんですがね」
「それ見ろ。お前の話の種は、年増でなきや新造だ」
「交ぜつ返さないで、聽いて下さいよ。深川西町から、良い新造が足袋跣足はだしで驅けて來たんですから」
「へエ、押掛け嫁か、借金取りか、それとも安珍清姫か」
「そんな氣樂なものぢやありませんよ。鴛鴦をしどりのやうに仲よく添寢してゐる夫が、夜中に脱け出して人を殺すでせうか――ツて」
「あ、氣味が惡い。變な聲を出すなよ、八」
 江戸開府以來と言はれた捕物の名人錢形平次は、子分の八五郎と一番事務的な話を、かう他愛もない掛合噺かけあひばなしの調子で進めながら、巧みに急所々々を掴んで行くのでした。
「變な聲も出したくなるぢやありませんか。ね、親分」
「それで俺にどうしろと言ふんだ」
「當人に會つて、ちよいと深川西町を覗いてやつて下さいよ」
「あの邊は猿江町の甚三の繩張りだ、うるせえな」
「あの甚三親分が、生温けえ床から牛蒡ごばう拔きに、男を縛つて行つたんださうですよ。女は泣いてゐますぜ、親分」
「若くて綺麗な女の子のこととなると、八の眼の色が變るから恐ろしいよ。一緒につれて來たのかえ、――まア會つて話を聽いて見よう。こゝへ通すがいゝ」
 平次に取つては、見る眼嗅ぐ鼻ともいふべき八五郎は、その天賦てんぷの勘を働かせて、江戸中から不思議なニユースをかき集めて來るのでした。
「通してありますよ。お勝手口で、お靜姐さんが足を洗はせたり、熱いものを呑ませたり、世話を燒いてゐる眞最中」
「何んだ、そんなことか」
 八五郎の連れ込んで來た客といふのは十九か二十歳くらゐの可愛らしい女で、添寢の床から亭主を引つこ拔かれたといふのですから、娘でないことは明らかですが、眉も落さず、齒も染めず、娘姿の初々うひ/\しさが、少し派手になつた黄八丈のあはせと共に、ピタリと調和するといつた肌合の女です。
「お前さんか、配偶つれあひが縛られたといふのは? 一體どうしたことなのだ。落着いて話して見るがいゝ」
「有難うございます」
 ようやく平次の前にゐざり寄つた若い女は、平次の女房のお靜が、後ろから無言の激勵をしてくれなかつたら、そのまゝ逃げ出す氣になつたかもわかりません。それほど内氣でうぶで、臆病らしくさへあつたのです。
「お前さんの配偶が、誰を殺したのだ――いや、誰を殺した疑ひで縛られたのだ」
「私の伯父、小橋屋小左衞門でございます。深川西町に金貸しを渡世にしてをります」
「あ、あの、鬼の小左衞門か。いや、これは飛んだ言ひ過ぎだが、世間では專らさう言つてゐるぜ」
 深川西町の鬼の小左衞門、正しくは小橋屋小左衞門。中年から眼を患つて、視力はひどくうといのですが、實は盲目めくらでもなんでもない癖に、高足駄をはいて杖を突いて、盲目と同じやうな恰好をして、烏金からすがねを貸したり集めたりするといふ、江戸中に響いたそれは因業屋です。その鬼の小左衞門にこんな可愛らしくて純情らしいめひがあるといふのは、何にか造化の神の大きな惡戯いたづらを見せつけれらるやうな氣がしないでもありません。
「極りの惡いことでございますが、世間樣ではよくさう申します。――その伯父の小左衞門が、昨夜自分の部屋で絞め殺されたといふことで、私はその知らせも聽かないうちに、飛び込んで來た猿江町の甚三親分が、いきなりあの人を縛つて行つてしまひました。近頃は義絶同樣で往來もしませんし、それにあの人は、昨夜宵から一緒で、一と足も外へ出ないのですもの、伯父さんを殺す道理はございません」
 女はたしなみも極り惡さも忘れて、あの人のために躍起となるのでした。


「そいつはいろ/\調べなきやなるまい。猿江町の親分には惡いが、深川西町まで行つて見るとしようか」
 平次はようやく動き出しました。
「さう來なくちや」
 揉手もみでをしながら喜ぶ八五郎。若い女を仲に挾んで、神田明神下から深川西町への道々、ポツリポツリと語る女の言葉を綜合して、平次は事件の輪郭だけでもまとめて行きます。
 深川西町の小橋屋小左衞門はかうして長い間の蓄財生活を續け、五十を越して五六千兩といふ身代を築き上げました。女房は早く亡くなつて、女房の姪のお絹といふのを十年も前から養つてをりますが、これが年頃になるとピカピカするほどのきりやうになり、金のありさうな大店おほだなの二男坊を養子にと心掛けてゐるうち、このお絹は遠い徒弟いとこで、小橋屋へ足繁く出入りする、伊三郎といふ若い男と出來てしまつたのです。
 お絹といふのは平次の家へ跣足はだしで飛び込んだ女で、伊三郎は小左衞門殺しの疑ひで縛られた男、話は非常に簡單ですが、一と晩外へ出なかつた筈の伊三郎が、伯父の小左衞門を殺したといふことは、お絹の論理をまたなくとも明らかで、これはなにか容易ならぬ仔細しさいがなくては叶ひません。
「するとお前さん達は、小橋屋の近所にでも住んでゐるのか」
「隣りに住んでをります。夫の伊三郎が親から讓られた家で、そこから本所深川のお屋敷を廻つて、背負ひ小間物をあきなつてをります」
「で、お前と伊三郎は、まだ祝言はしてゐないのだな」
「ハイ、伯父がやかましく申しまして」
 お絹は眞赤になつてうな垂れました。この時分の世の中で祝言をしない男女が同棲するといふことは、自墮落じだらくな社會でもなければ、滅多にあり得ない事だつたのです。
 それにしても、この可憐で内氣らしい娘が、世のあざけりも人のつま彈きも覺悟の前で、好いた男と世帶を持つ氣になつたのは、並大抵ではない決心だつたでせう。伯父小橋屋小左衞門の因業もさることながら、この娘々した女に、そんな決心をさせた、伊三郎といふ背負ひ小間物屋の男前に、平次はフト興味を感じました。
 若い女の口から、何彼と引出すのは容易のわざではありません。深川西町の小橋屋に着くまでに、平次が聞いた手掛りはたつたこれだけ。
「おや、錢形の親分ぢやないか。大層早い耳だなア」
 小橋屋の店へ入ると、ドスの利きさうなびた聲が、平次の顏をつぶてのやうに打ちました。
 店火鉢へ中腰になつたまゝ、懷中ふところ煙草入を出して一服吸つてゐるのは、猿江町の甚三といふ中年者の御用聞。日頃錢形の平次とかなんとか、評判は大したものだが、この道ばかりは評判や人氣で仕事のできるものぢやねえ。はゞかりながら大川のこつちはこの猿江町の甚三の繩張りだ、滅多に錢形なんかに荒させるこつちやねえ。――そんな事を放言してゐる男だつたのです。
「猿江町の親分、惡く思はないでくれ。やけにむづかしさうな殺しだといふから、修業のために八の野郎をつれて來たのだよ」
「さうかえ。俺はまた伊三郎の女房――と言つても親の許した仲ぢやねえが、伊三の野郎と一緒に住んでゐるお絹の阿魔が、錢形の親分をつれて來て、伊三郎の繩を解いて見せると言つたとか、言はないとか、子分の者共がうるさく告げ口をするから、錢形の親分が、この俺の鼻を明かすつもりで乘り込んで來たのかと思つたよ」
「飛んでもない」
「まアいゝやな。眼でも鼻でも、遠慮することはねえ。見事に明かして貰はうぢやないか――はゞかりながら猿江町の甚三だ、綺麗に手をさらして御目にかけよう。その上錢形の親分が伊三郎の繩を解いたら、この甚三が髷節まげぶしをきつて坊主にならうか、それとも三遍廻つてワンと言はうか」
 ニヤリニヤリしながら、これだけのことを言ひきる甚三は、その自信も絶大ですが、爭鬪力もまた容易のものではありません。
「冗談ぢやないよ。猿江町の、俺の方は負けても、髷なんかきるのは御免だよ」
 平次はさう言つて、わだかまりもなく笑ふのです。猿江町の甚三の自信が絶大であればある程、この男の見込みには、大きな盲點がありさうでならなかつたのです。


 平次と八五郎は、甚三に案内されて、奧の主人の部屋を覗きました。
「錢形の親分。曲者はこゝから入つたのだ、よく見て置いてくれ」
 指さした縁側には、あつらへたやうに泥足、のみでこじ開けたらしい雨戸は、印籠いんろうばめが痛んで、敷居には滅茶々々に傷が付いてをります。
「これだけのことで、外から雨戸は開くだらうか」
 建具の嚴重さと、木口の新らしさを見て、平次はフト疑ひを挾みました。
「雨戸をみんな締めて、この俺が外から開けて見たから論はあるめえ、――尤も上下のさんだけだ。心張りが掛つてゐると、戸と戸の間に隙間がないから、鑿を使つたくらゐぢや開かねえ」
「昨夜は心張棒を掛けなかつたのか」
「殺された主人が自分でやるから、誰にも氣が付かないが、主人が殺された後で見ると、雨戸を一枚外から外して、心張棒は戸袋の中になゝめに立てかけてあつたよ」
「その戸袋は」
「これだ――心張りは麺棒めんぼうの古いのか何んかだが、思ひの外丈夫らしいな」
「戸袋は淺いぢやないか。その中へ心張棒を立てかけたら、六枚の戸はとても納まるまい」
「そんな事はどうだつていゝよ、――この通り、雨戸の下は、下駄で踏み荒した跡だ」
 甚三は軒の下の下駄の跡を指さしました。
「この庭には下駄はないのか」
「主人は庭を荒すのをいやがつて、草履しか置かせなかつたといふよ」
「それにしても泥の足跡は少し大袈裟おほげさだな」
 平次は早くもこの下手人の殘した證據に、幾つかのに落ちないものを發見したのです。
 部屋に入ると、檢屍が濟んで、とむらひの支度に忙しいらしく、主人の死骸を屏風びやうぶの中に納めて、二三人の者が打合せに夢中でした。
「へエ、御苦勞樣でございます。私は庄兵衞と申します。店の支配をいたしてをります」
 四十七八の少し草臥くたびれた男、胡麻鹽になつたびんを撫で上げて、女のやうな身振りをします。こんなのが案外金貸の番頭として、辛辣しんらつな商賣をするのでせう。
「――」
 その後ろから默つてお辭儀をするのは、三十二三の派手はでな大年増。色白で、顏が大きくて、びつくりしたやうな眼と、少し締りの惡い唇とは、恐ろしく肉感的ですが、決して美しい女ではありません。
「奉公人だよ。死んだ主人の世話をしてゐた、――お源さんと言つてね」
 甚三は註を入れてくれました。言ふまでもなくそれは、視力がうとくて不自由だつた主人のために、朝夕の世話をするために雇はれためかけでせう。
「お前は?」
 お源の横にゐた、若いたくましい男が、フト平次の注意をひきました。三十前後でせうか、色の黒い、眼鼻立は立派ですが、いかにも感じの荒々しい、用心棒には結構ですが、商人あきんどの店には、少し粗野な人柄です。
「亡くなつた主人のをひの善介と申します」
 言葉は少しどもりますが、物言ひは穩やかで、見てくれとは大變な違ひがあります。
「昨夜のことから、今朝主人の死骸を見付けるまでのことを訊きたいが」
 平次は定石通りの質問を出しました。
「いつもの通り、その日の帳面を濟ませ、寢酒を一合召上がつて、お一人でこの部屋に引揚げました。私は手探りで行く御主人をお見送りして、しばらく善介どんと無駄話をして休みましたが――」
 番頭の庄兵衞が説明するのです。
「お前は? 主人の寢る世話をしないのか」
 平次はお源の取濟ました顏を見返りました。
「旦那樣は近頃、年が年だから、一人の方が良いと仰しやつて、一人でお休みになります。私は勝手に裏の自分の部屋に休みますので――」
 お源はひどく言ひにくさうです。
「床の上げ下げの世話は誰がするのだ」
「下女のお曾根そねがいたします、――あれですが」
 お源の指す方を見ると、六十近い老婆が覺束おぼつかない恰好で客の支度らしく、納戸から膳などを取出してゐるのが、こゝからよく見えます。
 平次は何やら八五郎に眼配せすると、八五郎は心得て出て行きました。多分あの老下女から、妾のお源と主人の仲のことを訊き出すつもりでせう。
「今朝は?」
「それもあのお曾根が、雨戸を開けに來て見付けたさうで――雨戸が一枚外れて、障子が開いて、主人は床から拔け出してこときれてゐたのでございます。お曾根が大きな聲を出したので、私共も驚いて飛んで來ましたが、もう冷たくなつてゐて、どうしやうもございませんでした」
 庄兵衞はつゝしみ深く眉を垂れるのです。
「盜られた物は?」
「まだよくわかりませんが」
 庄兵衞はこうじ果てた顏をするのでした。
「番頭のお前に見當の付かない筈はあるまい」
「錢箱にも、當座のお小遣にも、少しも變りはございません。用箪笥ようだんすの錠前も御覽の通りそのまま、枕許の財布にまで手をつけてゐないのでございます」
「すると、怨みで殺されたとでもいふのか」
稼業柄かげふがら、隨分人樣に怨まれることもございますが、まさか命を取るほどの者は――」
 庄兵衞は疊の合せ目に坐つて、眼ざはりになるほど飛び出してゐる藁埃わらぼこりむしりながら、もう一度困惑しきつた顏をして見せるのでした。


「この部屋は、最近疊替へでもしたのか」
 平次は妙なことを尋ねます。
「いえ、この二年ほどは、疊を動かしたこともございません、――敷き合せに埃は出てをりますが」
「ひどい埃ぢやないか。念入りに藁屑わらくづまで飛び出してゐる、――氣の毒だがその疊を一枚あげて見てくれ」
「へエ」
 甥の善介は立上がりました。甚三はしばらく妙な顏をしてをりましたが、平次の指摘した、疊の敷き合せの藁屑が氣になつたものか、善介に力を貸して疊を一枚起すと、
「おや、この床板は動かしてあるぜ」
 續いて怪しい床板を引つ剥ぎました。ムツとカビ臭い風が吹き上がつて、床下には何やら散らばつた物があるのです。
提灯ちやうちんを貸してくれ」
 早速取寄せた提灯を入れて、床下を覗くと、土は散々に掘り起されて、その掘り起した土の上に散亂するのは、五升も入らうと思ふ梅干瓶うめぼしがめ破片かけらではありませんか。
「小判ぢやありませんか。そこのところ、もつと右」
 上から覗いた庄兵衞の聲につれて、甚三は瓶の破片に挾まつた、一枚の小判を見付けました。平次は受取つて土を拂ふと、燦爛さんらんとして吹き立てのやうな美しさです。
「瓶の口をふさいだ澁紙があるぢやないか――口がけなかつたので、紐も結び目もそつくりしてゐるのは有難い」
 平次はそれも甚三に拾はせました。瓶は滅茶々々にこはされましたが、瓶の口をおほつた澁紙は眞新らしいまゝで、それを縛つた紐まで、そつくり、そのまゝになつてゐるのです。
「もう少し掘つて見よう。みんな手を貸しな、――いや、それよりも掘るものが欲しい。くはでもすきでも」
 猿江町の甚三は小判の顏を見るとすつかり夢中になつて暗くてしめつぽくて、埃臭い床下へ潜り込みました。
「無駄だらうよ、猿江町の親分」
 平次は泰然として動きさうもありません。
「それはなぜだい」
「主人は盲目めくらではないが、ひどく眼が惡かつたといふぢやないか。現に――この部屋の物に一つも手を附けてゐなかつたとしたら昨夜使つた行燈あんどんくらゐはあつていゝ筈だ。ところが、その行燈もないところを見ると、主人は鳥目同樣で、夜は行燈が要らないほど眼が惡かつたのだらう」
「――」
 平次が妾のお源の神妙らしく取繕とりつくろつた顏をかへりみると、お源は少しあわてて、大きくうなづきました。平次の推理には一點の隙もありません。
「そんなに眼の惡い主人が、床下なんかに金を隱す筈はあるまいよ」
「だが、現に一つ」
 甚三は床下に散亂する梅干瓶の破片を指しました。
「それにもわけがあるだらう、――その瓶は一體古いのか新らしいのか」
「澁紙がそつくりしてゐるし、瓶には梅干の匂ひが殘つてゐるところを見ると、近頃床下に埋めたものだらうな」
 甚三もそれを承服しました。口を塞いだ澁紙に一應どろは附いてをりますが、紙の性はしつかりして、長く床下や土中にあつたものとは思へなかつたのです。
 こんな道草を喰つて、死體の調べは遲れましたが、一應床下を調べさせて、いよ/\あとは瓶も壺もないと判つて、床を塞ぎ疊を敷いてから、平次は改めて主人小左衞門の死體に近づきました。
 線香を上げて、念入りに拜んだ平次も、一と眼、死骸のグロテスクな人相にきもを潰したのも無理はありません。物慾の追求に、五十何年の生涯をけて、善きもの、美しきもの、優しいもの、正しいものに、一も與へなかつた小左衞門の死顏は、まさに邪惡そのものの模型を見るやうな凄まじいものだつたのです。
 床から拔け出して、野葡萄のぶだうのやうな眼を剥いた大親仁。盲目らしく見せるために、頭を剃り落して一毛もありませんが、無精髯が反つて茫々ばう/\と伸びて、首筋には因果の麻繩を二た重に卷いてゐるのでした。
 身體は頑丈な方で、これを音も立てずに始末するためには、恐ろしい惡賢さと、かなりの腕力を必要としたことでせう。平次はそんなことを考へながらフト後ろをふり返りました。妾のお源は殊勝らしく數珠じゆずなど爪繰つまぐつてをりますが、身體は思ひの外立派で、ずゐぶん半盲の大男一人を、殺せないことはないかも知れません。
「何んだらう、これは?」
 平次はフト死體の首からまだ取り去らない麻繩の、後ろの方に小さくひねつたワナのあることに氣がつきました。
「さア、俺も氣はついたが、――わからないなア」
 甚三は心細いことを言ひます。
「繩の結び目はひどくゆるいぢやないか。これぢやくすぐつたくなるだらうが、死にはしない」
 こんな緩い繩、――そして後ろにある小さいワナ、――この絞殺は謎だらけです。
「待て/\。この頑丈な主人が手一杯に暴れたら、背後から首を絞めてゐる者は、着物か手足を手繰り寄せられて、飛んだひどい目に逢はされるだらう」
「?」
「この頑丈な主人を殺すのに、大した力の要らない工夫があつた筈だ。麻繩のワナはそのためぢやないか」
 そんな話をしてゐるところへ、八五郎は張りきつた顏をして歸つて來ました。
「親分、いろ/\のことが判りましたよ」


「何がわかつたといふのだ、八」
 平次は八五郎を誘つて物蔭に行きました。八五郎の臆面おくめんもなさでも、その邊はあまりに聽く耳が多かつたのです。
「あのお源とかいふおめかけ野郎、大變な女ですぜ」
「何が大變なんだ」
櫓下やぐらしたの化猫で、二年ほど前から主人の小左衞門に喰ひ付き、こゝへノメノメと入り込んださうですが、浮氣で嘘つきで、金費ひが荒くて口やかましいから、さすがの主人も近頃では持て餘して、別れ話が持上がつてゐたさうですが、手切金を千兩出せと、尻をまくつてゐるので、出すに出されず引くに引かれず、この半年は主人と部屋も別々で、朝夕の世話も下女任せだといふことで」
「そんなことだらうな」
「だから、家の中に主人を殺す者があれば、あの妾のお源が一番怪しいと――これは下女のお曾根そね婆さんの言ひぐさですよ」
「それから?」
めひのお絹さん――今朝親分の家へ行つた。あの可愛らしい新造は、主人小左衞門の氣に入りで、行く/\はをひの善介と娶合めあはせ、この身上しんしやうを讓るつもりだつたが、お絹さんはもう一人の甥の伊三郎とねんごろになつて、可哀想にこの家を追ひ出され、伊三郎と一緒にこの隣りに世帶を持つてゐるんですつて」
「それは聽いた。が、お絹がこの家を出たのは何時のことだ」
「半年前ですよ。あの妾のお源の指金で、小左衞門を突つついて追ひ出したんですつて。小左衞門にして見れば、同じ甥だから、善介に娶合せようと、伊三郎に娶合せようと大した違ひはなかつたんでせう」
「フーム」
「近頃は主人の小左衞門も後悔して、伊三郎とお絹の仲を許して、もう一度お絹にこの家へ歸つて貰はうか知ら――などと考へてゐたさうです。六十近い下女のお曾根は、身體は動かなくても、氣はよく廻りますよ。そんな人の心の奧の奧まで、まるでてのひらを指すやうで、――女のこふを經たのは、全く氣味の良いものぢやありませんね」
「お前の話を聽いてゐると、お曾根を褒めるんだかくさすんだかわからなくなるよ」
「それから親分。番頭の庄兵衞、あれは大變な者ですね」
「それはどういふわけだ」
「取すました顏をしてゐるが、奧底の知れない人間で、お曾根婆さんなんか、一番怖がつてゐますよ」
「甥の善介は、善人の見本見たいなもので、無骨でどもりで女には持てさうもないが、滅法氣の良い男だ――と、これはお曾根婆さんの言ひ種ですよ。尤もあの年で奉公をしてゐるくらゐだから、お小遣ひでも貰へば、大概の者は褒めますがね」
 八五郎はなか/\穿うがつたことを言ふのです。
 錢形平次は八五郎と一緒に、もとの部屋に戻つて來ました。
「錢形の親分、新らしい下手人の當りは付いたかえ」
 猿江町の甚三は、平次の緊張した顏を見ると、妙にニヤリとした調子になるのでした。
「いや、一向、今のところなんにも解らないが、猿江町の親分は、伊三郎を下手人と睨んだのは、どんな證據を手繰つたんだ」
 平次はさり氣ない調子でした。
「動きの取れない證據は、昨日まで三兩といふ仕入の金に困つてゐた伊三郎が、今朝五十兩といふ大金を持つてゐたとしたら、どんなものだ。伊三郎はさる大旗本の奧方から預かつた直し物の髮飾かみかざり道具一式を、空巣狙ひにやられて困り拔いてゐたんだ。それを新らしくあつらへて、お屋敷にお返しするにはどうしても三十兩や五十兩はかゝる」
 甚三は面白いことを知つてゐるのでした。
 その大旗本の奧方から預かつた髮飾の道具といふのは、金銀鼈甲べつかふ[#「鼈甲の」は底本では「 甲の」]細工物で、容易ならぬ品ですが、その辨償べんしやうの金の苦面に困つた伊三郎が、かねて怨みのある小橋屋に忍び込み、主人小左衞門を殺して、床下の瓶を取り出し、それを打ち割つて、千兩や二千兩の金を盜み出したに違ひないと言ふのでした。
「瓶のありかを伊三郎はどうして知つたのだ」
 平次は口をれました。
「女房のお絹から聽いたのだらう。主人の小左衞門が、三千兩や五千兩の金を持つてゐるに違ひないといふことを、家中で知らないものは一人もないよ」
「あの梅干瓶うめぼしがめには、どうしても千兩は入つてゐた筈だ。眼の惡い主人が、床下に隱すのをお絹は何時の間にやら見てゐたのだらう」
「一應それで筋は通るが、それにしては瓶も、澁紙のフタも新らし過ぎるな――お絹がこの家を出たのは半年前だ」
 平次は考へ込むのでした。
「ところで、これは番頭さんに訊きたいが」
 しばらく四方あたりの樣子を見て、平次はきり出しました。
「小橋屋の商賣用の現金は、平常ふだんどれほど用意してあるのだ」
「商賣の方は小口ばかりで、百兩とまとまつた口はございません。店に三十兩ばかり、その用箪笥に二三百兩、それだけでございます。床下の瓶には何千兩入つてゐたか、それは私も存じませんが」
「たつたそれだけか――大層少ないではないか、――江戸でも高名な小橋屋だが」
「あとは貸金でございます。それは三千兩もございませう、何しろ何百といふ口數でございます。へエ、こんなことを申しては恐れ入りますが、良い商人あきんどは、滅多なことで現金を遊ばせて置きません。へエ」
 さう言ふ番頭の庄兵衞は、職業的なほこりに充ちて、貧弱な顏を昂然と振り仰ぐのでした。


「猿江町の親分」
「何んだえ、錢形の」
「俺は、この家にまだ金があると思ふがどうだらう」
「さア」
「目の惡い男 、[#「目の惡い男 、」はママ]因業いんごふで強慾で、氣が小さくて、恐ろしく行屆く男、――小橋屋小左衞門ともあらうものが、手許を空にして、貸し付ける筈はない」
「――」
「伊三郎のところにあつた金は、たつた、五十兩と言つたな、――あの梅干瓶は千兩や二千兩は入るぜ。主人の小左衞門があの中に小判を隱したとしたら、たつた五十兩は變ぢやないか」
 平次は多勢の者の聽くのも構はず、猿江町の甚三を相手に、こんな緻密ちみつな推理を聽かせるのでした。
「だが、伊三郎は五十兩しか持つてゐなかつたぜ」
「だからよ、最初から瓶に五十兩入つてゐたか、千兩二千兩の金のうちから、五十兩だけ伊三郎が取り出したか、――兎も角小橋屋小左衞門は近頃の分限者ぶげんしやだ。どう積つても、貸しが三千兩あれば、現金も三千兩くらゐはあるだらう。それを一體どこに隱してあると思ふ」
「知らないよ、自慢ぢやないがこちとらは、金なんてものを、あまり隱したことはないよ」
 甚三ははなはだしく不機嫌です。
「それどころぢやない。ない金をあるやうに見せるのに苦勞をしてゐるんだ」
 横からくちばしを容れたのは八五郎でした。
「馬鹿野郎、お前は默つてゐろ」
「へエ――」
「ところで俺は、かうしてゐるうちに、段々その金の隱し場所がわかつて來るやうな氣がするよ。小橋屋小左衞門が一生人に憎まれながら、爪に火をともして溜めた金は、どう少なく積つても三千兩かな。いや五千兩かも知れない」
「どこです、親分それは」
 八五郎はたまり兼ねました。
「この家を建てた棟梁とうりやうに聽けば隱し場所は一番確かだが――なアにそんな手數をしなくたつても判るよ。八、その床の間の板を剥いで見な」
「へエ」
 床の間に飛び付いた八五郎は、上敷の薄縁を引つ剥ぐと、その下の板――臺の付いた一枚板を、何んの思はせ振りもなくグイとあげると、中は粗末ながら大きい箱になつて、その箱の中に並べてあるのは、先刻床下ゆかしたで破片だけ見付かつたやうな、梅干瓶が三つ、澁紙の蓋を並べて、儼然と並んでゐるではありませんか。
「八、その蓋を開けるな、――俺は紐の結び目が見たい」
 平次は床の間にゐざり寄ると、床柱に手を掛けて、そつと中を覗きました。
 三つの梅干瓶は、それ/″\年代は違ひますが、いづれも口をおほつた澁紙は汚れくさつて、觸れればボロボロと崩れさうになつてをりますが、瓶の首を結んだ紐だけは、思ひの外確りして、容易のことでは千切れさうもありません。
「この結び目をどう思ふ、八」
 三つの瓶を、縁側まで運んで、多勢の監視の下に、平次は念入りに調べてをります。
盲目めくら結びぢやありませんか、親分」
「瓶が三つ、蓋の澁紙を押へた紐は、みんな盲目結びになつてゐるのは面白いぢやないか、――ところで、先刻床下で見付けた、瓶の蓋はどうした」
「これだよ」
 と甚三。
「この蓋を押へた紐の結び目は女結びだ。これはどうかしてゐると思はないかえ」
 平次は又一つ、大きな疑問に直面してしまつたのです。
「錢形の親分さん」
 縁側から聲を掛けたのは、下女のお曾根そね婆さんでした。
「何んだえ、婆さん。遠慮せずに言つて見な」
 八五郎は側から聲援を送ります。
「これは家中の方が皆樣よく御存じのことですが、亡くなつた旦那樣はお眼が不自由なので、御自分の物や、御自分の結んだものは、みんな盲目結びにして、他の方の物や、他の方の結んだものと、よく見分けの付くやうにしてをりました。――盲目結びの方が解けにくい――と旦那樣はよくさう申してをりました」
 下女のお曾根婆さんは、なか/\よく行屆きます。が、誰もそれに抗議を持ち込む者もありません。
 そんなことをしてゐるうちに、時刻は丁度晝になりました。番頭の庄兵衞は氣をきかして、どこかへ晝飯を誂へたらしく、提重さげぢゆうで御馳走が運び込まれるのを見ると、錢形の平次は滑るやうに小橋屋の裏口から出て、ぼんやりしてゐる八五郎をさしまねきます。
「何んです、親分」
「何んですぢやないよ。あの御馳走にはしをつけると、あとで引つ込みが付かなくなる。一度や二度の飯は拔いても命には別條あるまい。こつちへ來い、八」
「へエ、十手の手前か。飛んだ腹のる意地だね、親分」
下司げすな野郎だ。默つて來い」
 平次はかねて聽いて置いた、隣りの小間物屋、伊三郎お絹の新世帶を覗くのでした。
「あ、錢形の親分さん」
 いそ/\と飛んで出るお絹、それは小橋屋の豪勢さにくらべて、見る影もない侘住居ですが、新家庭らしく明かるく小綺麗に片付いて、貧乏臭いうちにも、何んとなく清潔な美しさがあります。
「たつた一つ訊きたいことがあるよ。お絹さん、昨日まで仕入の三兩の金に困つたといふ伊三郎が、今朝になつてどうして五十兩といふ大金を持つて來たのだ」
「私は、何んにも存じませんが、親分さん」
 お絹は詮方せんかたもない姿でさう言ふのでした。それは恐らく掛引のない言葉でせう。お絹の大きい眼が何んのはゞかる色もなく信頼しきつた樣子で、平次を見入るのです。
「よし/\、それぢや、伊三郎に訊く外はあるまい。まだ送られてはゐまい」
「そこの辻番に、甚三親分の子分衆に見張られてゐます」
「よし/\、それぢや逢つて來ようか」
 たち上がる平次を、お絹はやるせない瞳で追つかけて、
「錢形の親分さん、あの人はどうなるでせう」
 そう言ふのが精一杯だつたのです。
「大丈夫だよ、――俺の訊くことに、正直に返事をしてくれさへすれば」
「ぢや、私も一緒に參りませうか」
「よからう、お前の顏を見たら、伊三郎も氣が變らないとは限るまい」


 平次と八五郎に、今度はお絹を加へて、近所の辻番を覗いて見ることになりました。
「寄るな/\、見世物ぢやねえぞ」
 甚三の子分が、威猛高に彌次馬を叱る眞ん中へ、
兄哥あにい達、大變な景氣だね」
 錢形平次の一行が顏を出したのです。
「あ、錢形の親分」
 五六人の子分達は、互ひに顏を見合せましたが、かうなつてはもう一も二もありません。
 平次は八五郎とお絹をうながして、ズイと辻番の油障子の中に入りました。
「あ、お絹」
 繩付のまゝ、よろ/\と立上がつた伊三郎。色の淺黒い華奢きやしやな男で、正直さうではありますが、ずゐぶん出入りのお屋敷の大奧の女中方からは騷がれさうです。
「伊三郎、お前は助かりたいだらうな」
「錢形の親分さんお願ひでございます」
「このまゝではしかし、助ける見込みはない。そればかりでなく、お前の配偶つれあひのお絹も、いづれは猿江町の親分に縛られて、ひどい目に逢はされることになるだらう」
「親分さん」
「だから正直に言ひさへすればよいのだ。昨日晝過ぎ、お前は誰に逢つたんだ」
「それは言はないことに約束いたしました」
 伊三郎は頑固ぐわんこらしく頭を振るのです。
「お前は、小橋屋小左衞門殺しの疑ひで、御處刑になるかも知れないのだよ」
「致し方もございません。――恩人に迷惑をかけるよりはその方が諦めがつきます」
「お前に五十兩の金を貸したからと言つて、別に死罪にも遠島にもなる筈はないぢやないか――相手といふのは誰だ」
「でもその方は、主人の金を都合してくれました。――私はお屋敷方に出入りして、いろ/\の事を見聞きしてをりますが、口の固いのが資本もとでで、皆樣から信用をして頂いて、かう商賣を續けてをります。――私に五十兩の金を貸して下すつた方も、私の口の固いのを見込み、私の大難を見るに見兼ねて、主人の金を融通ゆうづうしてくれたのでございます」
「その金は、小左衞門を殺して、あの家の床下から盜み出したと思はれてゐるのだよ」
「――」
「お前はそれでも、默つて小左衞門殺しの罪を引受ける氣か」
「私が小橋屋の御主人を殺さないことは、夕方から一寸も外へ出ないことでもわかります。その邊のことはお絹が一番よく知つてをります」
 この恐ろしい頑固と、そして手に了へない純情さに、錢形平次もさすがに呆れ返つてしまひました。
「よし、よし、お前には義理があるだらうが、お絹さんはその相手に大した義理はない筈だ、――亭主の伊三郎が助かるか助からないかの瀬戸際だ。よく考へて返事をしてくれ。昨日の晝過ぎから夕方まで、お前の配偶つれあひはどこにゐたのだ」
 平次は振り返つて、お絹に訊ねました。
 薄暗い辻番の小屋の中、駄菓子と荒物と草鞋わらぢの中に、縛られたまゝかたくなにうなだれてゐる伊三郎の樣子を見ると、お絹は先刻さつきから、こみ上げる激情に唯もうおろ/\するばかりでしたが、錢形平次の問ひを受けると、泣き濡れた美しい顏を擧げて可愛らしく泣きじやくりしながら、ヂツと自分の考へを整理するのでした。
「家にをりました。久し振りで商賣を休んで、――五十兩の金がなきや、この商賣もお仕舞ひだ――と愚痴ぐちを言ひながら、すると」
「すると」
 平次は、その言葉を受取つて勢ひづけます。
「小橋屋の番頭さんが顏を出して、伊三どん少し話があるが――と誘ひ出しました」
「小橋屋の番頭といふと、庄兵衞だな」
「えゝ、そして、一寸。ほんの一寸外へ出ましたが、すつかり陽氣になつて歸つて來て、これで助かつた、これで俺も顏が立つ――と申してをりました。昨日の申刻なゝつ(四時)下がりでございました」
「有難う、それでいゝ。八、わかるだらうな」
「へエ――」
 何んと八五郎の顏の長さ。
「來い、八」
 平次は辻番を出ると疾風しつぷうの如くもとの小橋屋へ、そこには猿江町の甚三が、おとむらひの振舞酒に醉つて、もういゝ加減の機嫌になつてゐるところでした。
「猿江町の親分、その男をつかまへてくれ。下手人はその番頭だ」
「何、何?」
 平次は甚三を坊主にする代りに、この手柄を讓つてやらうとしたのです。
 驚いて逃げ出す庄兵衞は、八五郎の手に押へられました。あわてた甚三はようやく事情を察して、
「この野郎、御用だぞい」
 怪しい腰付きで、この弱い下手人を組敷くのです。
        ×      ×      ×
「曲者は外から入つたのでない證據はうんとあるよ。縁側の泥足の跡は大袈裟おほげさ過ぎたし、雨戸は心張りをかつてあると、あののみくらゐでは外から開かないよ」
 深川からの歸り、下手人の庄兵衞を猿江町の甚三に縛らせていゝ心持になつた平次は、伊三郎とお絹に拜まれながら、初夏のすが/\しい街を、かう話しながらたどるのでした。
「眼の惡い金貸が、三度の食事を忘れたつて、戸締りの心張棒を忘れるものか。それにあの心張棒は今朝戸袋の中に立てかけてあつたと言ふが、戸袋は淺いから、心張りがあつちや、六枚の雨戸は納まらないよ」
「成程ね」
「死骸の首の繩がゆるくて、後ろにワナのあつたのは、小左衞門の首に繩をかけた曲者が、小左衞門が暴れても自分がつかまらないやうにあの心張棒を繩の後ろのワナに突つ込んで遠くから締めたのだ。そんなことをする奴は、身體の丈夫なをひの善介ではない。弱々した番頭の庄兵衞か、女のお源だ」
「へエ」
「疊の合せ目に藁屑わらくづがハミ出してゐるのに氣が付くと、庄兵衞はニヤリとしたよ。それから、床下から出た瓶は新らしくて梅干うめぼしの匂ひがすると言つたらう。蓋の澁紙も新らしくて一と月と經つたものではない、あの邊は濕氣しけるから、床下の紙がすぐ腐るよ、――主人の金の隱し場所をお絹が知つてゐて、伊三郎に教へたかも知れないといふのは大間違ひだ。お絹はあの家を出たのは半歳も前だが、瓶の蓋は眞新らしくて、――十日とも經つてはゐない」
「――」
「わざと小判を一枚だけ落したのも、あれはだ。が伊三郎が盜つたのなら、五十兩だけといふことはあるまい、あの瓶にはどうしても千兩は入つてゐた筈だ」
「それから、結び目は?」
 八五郎も盲目めくら結びの秘密には氣が付いてゐたのです。
「小左衞門が結んだものはみな盲目結びになつてゐるが、あの瓶の口だけは女結びだ。誰かが、小左衞門を殺してから、瓶の中の物を盜つて、その瓶の口を結び直した上、叩き割つて床下に入れて置いた證據だ。それから」
「――」
 平次の説明はます/\に入ります。
「俺が――もつと現金がある筈だ――この家を建てた大工に聽けば隱し場所がわかると言つた時、番頭の庄兵衞は少しあわてて床の間を見たよ、そこに三つの瓶が隱してあらうとは、俺にも思ひも寄らなかつたのさ」
ふてえのはあの番頭ですね」
「お源を手に入れて、小橋屋を乘取るつもりだつたらう。お絹を追ひ出したのも、あの男の細工だらう。お絹は氣も心も良い女だが、お源はありや賢さうな馬鹿だよ、――庄兵衞は、主人をあやめる段取りを拵へると、伊三郎が金に困つてゐることを知つて、主人の金を融通するのだから、どんなことがあつても默つてゐろと約束して、五十兩の金を握らせ、それから、あれだけの芝居を打つたのだらう。ひと掴みしかない癖に、あれは恐ろしく喰へない男だよ」
「猿江町の甚三親分も、すつかり恐れ入つてゐましたね。少しばかり好い氣味で」
「馬鹿なことを言ふな、手柄爭ひなどは御用聞に大禁物だよ」
 さう言ふ平次の心掛けが、口惜くやしがりながらも、どんなに八五郎をいゝ心持にすることでせう。
「それにしてもあのお絹といふのは、良い女でしたね」
「人の女房だ、褒めてもしやうがあるまい。それより俺はあの伊三郎といふ男の、馬鹿々々しい正直さに惚れ込んだよ。世の中にはあんな馬鹿があつても惡くないね」
 二人はそんなことを話し合ひながら、明神下へ急ぐのです。そこでは平次の戀女房のお靜が、晩酌ばんしやくの用意をして、氣もそゞろに待つてゐるのでした。





底本:「錢形平次捕物全集第二十九卷 浮世繪の女」同光社
   1954(昭和29)年7月15日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード