「親分、ありや何んです」
觀音樣にお詣りした歸り、雷門へ出ると、人混みの中に大變な騷ぎが始まつてをりました。眼の早い八五郎は、早くもそれを見つけて、尻を端折りかけるのです。
「待ちなよ、八。喧嘩か泥棒か喰ひ逃げか、それとも敵討ちか、見當もつかねえうちに飛び込んぢや、恥を掻くぜ」
平次は
「はいよ、御免よ」
などと、八五郎は聲を張りますが、場所が場所なり日和もよし、物好きでハチきれさうになつてゐる江戸の彌次馬は、事件を十重二十重に圍んで、八五郎の
その間に誰が氣がついたものか、
「錢形の親分だよ、道を開けなきや――」
などと言ふものがあり、やがて道は眞二つに割れます。
群衆の中に、
「どうしたんだえ、これは?」
平次は、兄妹とも夫婦とも見える、この二人の前に突つ立ちました。
「へエ」
「怪我をしてゐるぢやないか」
「危なく返討ちになるところでした――、親分さんが、お出で下さらなきや」
若い男は、血だらけの顏を振り仰ぐのです。
色白で少しのつぺりして居りますが、なか/\の好い男です。
「返討ちは穩やかぢやないな、――一體どうしたといふのだ。いや、此處ぢや人立がして叶はない。八、その通の茶店の奧を借りるんだ、お前は娘さんを――」
平次は眼顏で八五郎に合圖すると、直ぐ傍の茶店の奧へ若い男をつれ込みました。
その後から、旅姿の娘に肩を貸して、同じ茶店の奧へ入つて來る、八五郎の甘酢ぱい顏といふものは――。
何しろ娘の可愛らしさは非凡でした。旅姿も舞臺へ出て來た名ある娘形のやうで、汗にも
「先づ、その傷の手當てをするがいゝ」
奧へ入つた平次は、若い男の右
「まア/\こんなことで濟んでよかつたよ。ところで、深いわけがありさうだが、それを聽かして貰はうか」
「有難うございます。錢形の親分さんださうで、飛んだところで、良い方にお目にかゝりました」
「敵討ちが望みなら、強さうな武者修行か何んかに助けて貰う方がよかつたかも知れない。俺ぢや、助太刀の足しにはならないぜ」
「飛んでもない、親分さん」
それから温いお茶を呑んで、煙草を吸ひながら、心靜かに平次は、二人の話を聽いたのです。
「――私どもは腹違ひの兄妹で、私は山之助、妹はお
山之助は涙ながらに――文字通り、涙に濡れて語り進むのでした。
大友瀬左衞門が榮屋山左衞門を討つたのは、少しばかり用立てた金を、やかましく取立てた怨みで、榮屋もそれで潰れましたが、大友瀬左衞門も、城下の町人を殺した罪で永の
山之助はそれから間もなく、
「――故郷の濱松在の叔母に預けて來た妹のお
ところが、
「思案に余つて二人は、觀音樣にお詣りして、せめて親達の後生のお願ひでもしたら、敵討つ力もない不孝な私どもにも、運の開けることもあらうかと、ついこの先まで參りますと――」
山之助はゴクリと
「何があつたんだ」
「敵大友瀬左衞門と逢つたのでございますよ、親分さん」
「フ――ム」
「つく/″\江戸は狹いと思ひました。今までは私の方から――耻かしいことですが、逃げて廻つてをりましたが、今日といふ今日は、妹を連れた私と、子分の伊八といふならず者をつれた瀬左衞門が、淺草雷門前の道の眞ん中で、
「で、名乘りでもしたのか」
「飛んでもない、親分。私は
「妹のお
「たしなみの短刀を持つてゐる筈ですが、これも着換への中に卷き込んで、風呂敷に入れて背負つてをりますので、急なことでは取出すわけにも參りません、――よしやまた、女持の短刀くらゐ取出したところで、斬取り強盜を稼業にしてゐる大友瀬左衞門に刄向へるわけもなく、子分の伊八は、喧嘩伊八と言はれた男で、それ一人でも私ども兄妹の手にあまります」
「――」
「伊八は私共を見つけると――おや榮屋の
「で、どうしたのだ」
「あんまり腹が立つから、五六間追つ驅けましたが、二人とも怪我をしてゐる上、あつといふ間に十重二十重に彌次馬に取圍まれ、逃げも隱れも、惡者を追ふこともならなかつたのでございます」
「――」
「何んといふ
山之助は又も男泣きに泣くのでした。
「親の敵も討ちたからうが、差し當り、これからどうするつもりだ」
平次は兎も角も、この不運な兄妹を
「今からヤツトウの
意氣地のない兄は、泣くより外に
妹のお比奈は、兄よりはいくらか氣丈らしく、泣きもこぼしもしませんが、まだ身動きするのが痛いらしく、そつと唇を噛んで、美しい眉をひそめるのが、ひどく八五郎を惱ませます。
「親分、可哀想ぢやありませんか。つれて行つちやどうです」
椽臺の上に崩折れて、物も言はずに差し俯向く娘を見ると、八五郎は我慢のならない心持になるのでした。兄の多辯さに比べて、千萬無量の歎きを、ヂツと
「何處へつれて行くのだ」
平次にも
「あつしのところでよかつたら、叔母さんに頼んで見ますよ。若い女一人ぐらゐなら、どうにでもなるでせう」
八五郎は思ひきつた樣子で言ふのでした。
四日、五日、無事な日は過ぎました。
「お早う、親分」
「お早うぢやないぜ、八。
「もうそんな時刻ですかね、道理で腹加減が晝近いと思ひましたが――」
「あんな野郎だ、晝飯の
「貰つた猫の子のやうですね、――喉を鳴らして、コロコロしてゐますよ」
「それは好いあんべえだ」
「すつかり叔母の氣に入つちやつてね、無口で氣がついて、食は細いが、よく手傳つてくれるし、こんな嫁を貰つたら、さぞ――なんて」
「恐ろしく氣を廻すんだね」
「それほど氣に入つたのに、叔母はあのきりやうのことを、一と言も言はないのは剛情ぢやありませんか。女のヒネたのは若い女のきりやうのことを言ふと、見識に
「顏のない人間なんてのはないよ」
「あの叔母なんて
「お前といふ人間が怖いのさ」
「あつしはそんな怖い顏をしてゐますかね親分」
「袖でも引かれたらどうしようと思つてゐるんだらう」
「そんな思ひ過しをされちや
「懷ろ手をしたつて、
「お前さん」
後ろの方から、番茶をくんで出た、女房のお靜がたしなめました。
「ハツハツハツハツ、八がそんなことで怒るものか、心配するなよ――ところで何にか變つたことがあるのか」
「大ありですよ。
「虫齒の
「そんな間拔けなもんぢやありません。近頃江戸中を荒らし廻る、黒雲五人男の素姓と名前――それに人相まで、事細かに教へてくれたからたいしたものでせう」
「何? 黒雲五人男――そいつは大變なことぢやないか。山之助は何處でそれを嗅ぎ出したんだ」
平次が驚いたのも無理はありません。何々五人男といふ群盜が、江戸の
わけてもその中の『黒雲五人男』は、殘忍で
手口はその時/\で違ひますが、それは五人の兇賊が、盜賊の手柄爭ひをして、毎年首領の地位を爭ふのだとも言はれ、その神出鬼沒さと、無法殘酷な手口に、南北兩奉行、二十五騎の與力、百二十人の同心、
「その黒雲五人男の素姓人別が、手に取るやうにわかつたのはたいしたことでせう。尤も訊けばその筈で、あの山之助の親を討つて濱松を立退いた大友瀬左衞門の一味が、黒雲五人男だと聽いたら、どうです親分」
「フ――ム」
「黒雲五人男は、五人とも遠州の者で、最初の首領は大友瀬左衞門で、これは濱松の御家中で、百石を
「あとの一人は」
「それが大變で、――お源といふ、二十四五の年増女ですよ。黒雲五人男と一口に言ふが、本當は黒雲四人男の一人女で」
「――」
「この女は
八五郎の説明は、それで大方盡きました。
「有難う、大きに助かるよ。それだけ素姓と人相がわかれば、黒雲五人男だつて、呑氣に江戸の往來を歩いちやゐられまい」
「それぢや親分」
「あれ、もう歸るのか、八」
「へツ、あつしがゐないと、あの娘が淋しがりますよ」
「勝手にしやがれ」
八五郎はイソイソと歸つて行きました。が、平次に對する、黒雲五人男の挑戰は、これをきつかけに、恐ろしい勢ひで始められることになつたのです。
それから五日の間に、黒雲五人男は二ヶ所に押入り、一人を傷つけて一人を殺し、
が、三度目は大變でした。
「わツ、親分、到頭やつて來ましたよ」
ガラツ八の八五郎、馬のやうに
「何がやつて來たんだ、相變らずあわてた野郎ぢやないか。盆と正月が一緒に來たつて、男の子はさう物驚きをするものぢやねえ」
「驚きますよ、親分。黒雲五人男が來たんだから――」
「何處へ來たんだ、路地なんかで待たしちや濟まねえ。此方へお通し申すんだ」
平次は八五郎の眼の色の變つてゐるの見て、わざと落着き拂つてゐるのでした。
「向柳原のあつしの家ですよ」
「へエ、お前の家へ、そいつは飛んだ御苦勞だ、何を盜つて行つたんだ」
「お奉行所の手形(門鑑)と、御用の提灯が一と張り、――
「そいつは皮肉だな、お前はそれを默つて見てゐたのか」
「あつしがゐさへすれば、黒雲五人男を
「怪我はなかつたのか」
「お
「兎も角も行つて見よう、放つて置けねえことをしやがる」
平次は八五郎を促すやうに、向柳原まで飛んで行きました。
路地の中はまだ三々五々の人立ち、評判の兇賊黒雲五人男が押入つたといふので、お長屋の格が上がつたやうに思つてゐるのでせう。
家の中へ入ると、八五郎の叔母はまだブリブリしてをりました。
「私のところへ押込みが入るなんて、本當に呆れ返つてモノが言へないぢやありませんか、千兩箱の二、三十も持つてゐるとでも思つたのか、――若くて綺麗なお比奈さんがゐるから、私はもうそればかり心配で――」
と、まくし立てるのです。
「泥棒が入つたのは宵か、夜中か、それとも
平次はその鋭鋒を避けながら靜かに訊きました。
「夜中でしたよ、――
「――」
お比奈は默つてうなづきました。
「人數は?」
「たつた一人でしたよ。
「それつきりか」
「それつきりならよいが、私の頬つぺたを匕首で叩いて、
「で?」
「それでもよい加減に
「人相や身體つき、聲などに叔母さん心覺えはなかつたのか」
「ありませんよ、泥棒なんかに近づきは、――でもたつた一つ氣のついたことがあります」
「――」
「
振り返るとお比奈は、相變らず言葉少なに、そして淋しさうにうなづいてをります。
「そいつは良いことに氣がついてくれた。
「まア、それ程でもないでせうよ」
などと、叔母さんは滿更でもない樣子です。
「ところで、それからどうしたんです、叔母さん」
「何時までもさうしてゐるわけに行かないから、お比奈さんと二人で押入の戸を
叔母さんの鋭鋒は、いつもの通り八五郎の方に向いて行くのです。
平次は時を移さず、八五郎を新鳥越の越中屋金六の家へ走らせ、お比奈の兄の山之助に急を告げました。――尤も事件はたいしたこともなかつたので、忙しかつたら來なくてもよいといふ條件です。八五郎が歸つて來ての報告は、
「山之助は
「
「主人の金六はヨイヨイで身動きも怪しく、ロレツも廻らず、
黒雲五人男と、お比奈の兄の山之助との間に、何にか連絡はないかといつた、少しばかりの疑ひも、これでは吹き飛んでしまひます。
黒雲五人男の挑戰の第一手段は、
「サア、大變だ、親分。黒雲五人男は御用の
と、いふのは八五郎の報告でした。
「錢形の親分、近頃お南の奉行所に變な者が出入りする樣子です。出入り商人にも變りはなく、曲者の忍び込んだ樣子もないのに、お奉行所の中でいろ/\變つたことが起つたり、妙な物が
八丁堀屋敷からは、與力笹野新三郎の使ひで、若い下つ引が飛んで來ました。まさに、八五郎のところから盜み出された、御用の提灯と、奉行所の手形が惡用されてゐるに違ひはありません。
「親分、妙なことになりましたが――」
フラリと八五郎がやつて來たのは、それから四五日經つてからのことでした。
「何が妙なんだ、大層
さういふ平次も、黒雲五人男の
「あの、新鳥越の越中屋の山之助がやつて來ましてね」
「お
「そのお比奈さんの兄が、青い顏をしてやつて來て――向柳原のあつしの家へ、暫らく泊めてくれないかといふ相談なんで」
「新鳥越から向柳原は、少し遠過ぎるぜ、あの
「暫らく休むんださうですよ」
「フーム」
「
「――」
「それを嗅ぎつけた黒雲五人男の仲間が、どこで何う訊き出したか山之助の奉公してゐる越中屋を突きとめ、
「で?」
「これぢや、命が危ない、越中屋の店のことも氣にかゝるが、主人に頼んで店を閉めてもらひ、向柳原のあつしの家へ來て、暫らく黒雲五人男の眼を
「ありさうなことだが――あのヨイヨイの主人金六獨りでは身動きも出來まい。誰がそれを介抱するんだ」
平次は當然の疑ひを持出しました。
「兄の山之助があつしのところへ來てゐる間、妹のお
「つまり、兄と妹と入れ替るわけだな」
「早く言へばその通りで」
「それが妙なことかえ、八」
「――」
「あの綺麗な妹が、兄と入れ替つちや、成程お前にして見れば妙なことかも知れないよ――ところで、お前はそれを承知したのか」
「男と見込まれちや、イヤとも言へませんよ。尤もあつしの傍では、あのお比奈坊が、
「ヨイヨイの年寄の傍より、八五郎の傍の方が良いといふわけかえ」
「それに違げえねえと思ふんだが――」
「お前といふ人間は、よく/\結構に出來てゐるよ――ところで、入れ替へは濟んだのか」
「今日、これから始まるんですが、どうしたものでせう、親分」
「男と見込まれたんだらう――兄に頼まれちや、妹の手前もあるといふわけだ」
「でも、
「娘の
平次はこんなことを言つて、煙草の煙を輪に吹くのです。
「錢形の親分の、あれだけは玉に傷さ。
八五郎は
「そんなに不服なら、山之助をこの俺の家へつれて來るがよい。黒雲五人男をおびき寄せる
「あつしは?」
「お前は時々新鳥越を覗くんだな。その氣があるなら、
「へツ、そんなものですかね」
などと、ツイその氣になる八五郎です。
それから三日目、山谷の春徳寺に、思はぬ事件が起りました。
春徳寺の
時刻は丁度晝少し前、昔は寺の多い山谷でも、
兩替屋阿波屋三郎兵衞の寄進で、本堂の再建が出來れば、春徳寺も昔の姿を取戻すわけで、その日の設けは、三日も前からの大騷動。住職の春嚴
ところで、阿波屋の一行、主人夫婦に娘お由利、手代の宗次郎、
「お早いお着きでございます。住職以下
一行を本堂の側の一室に案内して、まことに行き屆いた挨拶です。前髮立の美少年、
その頃、山谷の山内には、よくこんな寺小姓を見かけることがありました。振袖火事の娘が三ツ橋で見かけたのも、多分こんな姿だつたでせう。谷中や湯島、芳町あたりの
「それは御丁寧で恐れ入ります。實は晝過ぎ日本橋を出て
阿波屋三郎兵衞はクドクドと辯解をしてをります。
「――そんなわけで、まだお茶の支度も出來て居りません。恐れ入りますが、お孃樣のお手を拜借願へませんでせうか」
小姓は顏を擧げて、母親の後ろに小さくなつてゐる娘お由利の顏をチラリと見たのです。
「それはいと
父親に聲をかけられると、お由利は
「では、お願ひいたします」
お小姓は靜かに立上つて
庫裡には大釜に湯が沸いてをりました。茶道具から菓子まで、何んの手落もなく其處に出揃へてあります。
年頃の見當はつきませんが、前髮立の美しい小姓と、十八になつたばかりの、これは申し分なく可愛らしい町娘は、まゝごとのやうな心持で、お茶の支度をしたのです。阿波屋の主人夫婦と手代宗次郎と、お由利自身の分、それから本堂に擔ぎ入れた三千兩の
「お孃樣、これで皆んな濟みました、お孃樣も此處で召上がりませんか――私も戴きますが」
お小姓はお由利にもお茶と菓子をすゝめ、自分も一碗の茶を取つて、口のところへ持つて行くのでした。
「わツ、大變、親分」
ガラツ八の八五郎、泳ぐやうに飛び込んで來たのは、その日も
「何んだ、大變が
平次は慢性大變中毒で、八五郎のわめくのを、たいして驚きもしません。
「三千兩ですよ、親分、三千兩――」
「誰がお前に三千兩くれると言つたんだ」
「誰もくれるわけぢやありません。三千兩の大金が煙のやうに消えたんですよ」
「言ふことが大きいな」
「その上、人が一人殺されたんだ。親分、大急ぎで行つて見て下さい」
八五郎はまだ格子につかまつたまゝわめき立てるのです。
「もう少し落着いて話せ。お前の樣子はまるで三千兩の
平次にたしなめられると、八五郎は
山谷の春徳寺へ、三千兩奉納の一
「繪に描いたやうな綺麗なお小姓ださうですよ――そのお小姓のくんでくれた茶を呑むと、阿波屋の夫婦を始め、娘のお由利も鳶頭も人足四人も、性も他愛もなく睡りこけてしまつたんださうです」
「睡り藥だらう、それもきゝのよいところを見ると南蠻物だ。この間池の端の丸屋で盜まれた毒藥の中に、
平次は早くも、この
「
「で?」
「續いて、阿波屋の夫婦も、四人の人足も氣がついたが、
「娘は?」
「
「
「曲者はその小姓にきまつてゐますが、何處へ逃げたか、まるで見當もつかず、第一、三千兩を持つて行つたとすると、相棒がなきやなりません」
八五郎は八五郎だけの智慧を傾けるのです。
「ところで、
「それが大笑ひで」
「何が大笑ひだ」
「寺の納戸の中へ、メチヤメチヤに縛られた上、
「寺にゐるのはそれつきりか」
「まだ外に、釜吉といふ五十年配の寺男がゐますが、
「門跡前へ何にか用事があつたのか」
「春徳寺は貧乏寺で、ろくな用意もないから、三千兩といふ大金持參の大
「――」
「尤もあつしがさう言つてやると――出直すといふ手があるぜ、無駄は言はねえものだ――と三輪の親分は大きな眼を
「ところで、お前はどんなきつかけで、山谷あたりへ行つたんだ」
平次の問ひは當然でした。向柳原に住んでゐる八五郎が、山谷のニユースを拾つて來るのは、少し時間が早過ぎます。
「へツ、へツ、あの娘の顏を見に行きましたよ」
「誰だ、あの娘てえのは。
「飛んでもない――あの清淨
「山之助の妹のお
「まア、そんなことで」
「お比奈は元氣か」
「せつせと洗濯物をしてゐましたよ。越中屋の金六は、あの娘に下の世話までさせるんですつて、罰の當つた話で」
「兄の山之助はそればかり心配してゐるよ」
「さう言へば、山之助の姿は見えませんね」
あのことがあつてから、妹のお比奈は越中屋へ行き、兄の山之助は錢形平次に引取られてゐるのでした。
「昨日から
「それには及びませんがね」
「ところで、何處まで聽いたつけ」
「お比奈が洗濯をしてゐるところですよ――裏へ廻つて無駄話をしてゐると、三輪の子分が表の往來を驅けて行くぢやありませんか。たゞごとでない樣子なので、跟けて行くと山谷の春徳寺で、その騷ぎの眞つ最中でせう」
この事件は、三輪の萬七のお膝許だからと、すましては置けないものがありました。それは、春徳寺で
もう一つ、それより大分前のことですが、由比正雪の一味が、神田上水に毒を投じて、江戸の人心を
平次は八五郎と共に、時を移さず、山谷まで飛んだことは言ふまでもありません。
春徳寺に着いたのは、もう
だが、盜まれた三千兩は、それつきり行方もわからず、殺された手代宗次郎の死骸は、引取手もなく、寺の一室にそのまゝにしてあります。
平次が來たと聞くと、寺社の役人河村半治は、ホツとした顏になりました。慣れない仕事で、自分ではどうにも
「おや、平次が來てくれたか、それは有難い。萬七と相談をして、良きやうに取計らつてやれ。拙者は一應引揚げる、いづれ又參るとして――」
寺社役河村半治は、
神社佛閣の中で起つた事件は、言ふ迄もなく寺社奉行の係りで、町方は口を出す權利さへなかつたのですが、上野の山内のやうに、山同心がゐて、自治的に取締りが出來てゐる場所は別として、一般江戸の町の寺や社で起つた事件は、民事的なものは別として刑事上の事件は、江戸の治安を背負つて立つ、町奉行配下の與力同心に任せ、寺社の係りは事件を
「錢形の親分の前だが、もう下手人が擧つてゐるんだぜ。親分に汗を掻かせる程のこともあるめえよ」
などと、甚だ平らかでない調子です。
「有難う、このまゝ引揚げて、晩酌でもやる方が氣がきいてゐるが、眠り藥が池の端の丸屋から盜まれた物らしいから、毒藥の御取締の手前放つても置けない」
平次は穩かに辯解しました。
「なアに、つまらねえ泥棒さ、三千兩の小判が見つかりさへすれや」
萬七はひどく輕くあしらつてをりますが、事件には底の底がありさうで、
「ところで、その寺男の釜吉といふのが、大きな荷物を背負つて來たと言つたが、
「そんなことにぬかりがあるものか。花川戸で
三輪の萬七は、この事件を、怪しい寺小姓と、寺男の釜吉の共謀と睨んでゐる樣子です。
平次はそれをよい加減にあしらつて、寺の中に入りました。阿波屋三郎兵衞と女房お仲、それに娘のお由利は、眠り藥の覺めた後の氣分の惡さが治りきらず、それに三千兩の紛失は、阿波屋に取つても、
「錢形の親分ださうで、丁度よいところ」
三郎兵衞は青い顏をしながらも、席を設けて平次を迎へ入れました。
「飛んだ災難でしたね」
「いやもう、散々の目に逢ひましたよ。お寺へも氣の毒ですが、もう一度三千兩の金を拵へることは、私にも出來ないことだ。何んとか取返して頂けませんか。それに手代の宗次郎も下手人が擧がらないうちは行くところへも行けないでせう」
大家の主人らしい
「その寺小姓の顏に、見覺えはなかつたでせうな」
「飛んでもない、夢にも見覺えのない顏でしたよ。聲は少し
それがまた、憎くてたまらない樣子です。
「殺された宗次郎は、毒茶は呑まなかつたことでせうな?」
平次は變つた角度から問ひをすゝめました。
「呑まなかつたやうです。茶碗に口をつけましたが、そのまゝ下へ置いて、お小姓の後を追つて、
「その呑み殘しの茶碗の茶は」
「三輪の親分が、
それは當然な用意でした。
「
三郎兵衞は『何んなりと』と言つた顏を振り向けました。
「手代の宗次郎を、お孃さんの
「その通りですよ、親分。娘は來年は
三郎兵衞は、平次の
「綺麗なお小姓に誘はれて、お孃さんが
「成程、若い者の心持は、さう言つたものでせうな」
「そのお孃さんが、
平次は其處まで突つ込んで行つたのです。
「それも、隨分責めて見ました。若い娘にあるまじきことで、世間の聞えも惡いと思ひましてな――すると娘の申し分にも、滿更の言ひわけとばかりも思へない節があります」
「?」
「娘はかう申すのです。――お小姓にすゝめられてお茶を呑んだ。喉は乾いてゐたが、ひどく
三郎兵衞は父親らしい熱心さで、娘のために、かう辯ずるのでした。
そんな話をしてゐるところへ、隣室へ退いた内儀のお仲は、娘のお由利の手を取らぬばかりに、もとの座に戻つて來ました。母親のお仲は四十前後、美しさの僅かに殘る、平凡な町家の内儀で、娘のお由利は、品はないが、丸ぽちやで、愛嬌があつて、いかにも可愛らしい十八娘でした。
「錢形の親分さん、いろ/\娘に訊いて見ましたら、大變なことを申します」
内儀のお仲は少し息を
「大變なこと?」
「娘は、まア、私は驚いてしまひました。あのお小姓を探し出してくれと、飛んでもないことを申します――あれは大泥棒の人殺しだと申しても聽きやしません。そんな筈はない、大泥棒の人殺しは他にあるに違ひない――と」
内儀が意氣込むのも無理のないことですが、浮氣な江戸娘の無分別さ、我儘で、
「そんな馬鹿なことが」
三郎兵衞は居住ひを直して、
「でも、娘は、かう言ふんです。名前は聽かなかつたが、あのお小姓には、間違ひやうのない目印があるから、それを便りに探せば、すぐわかるに違ひない――つて」
「目印?」
平次は膝を立て直しました。
「右の耳の後ろ、玉をのべたやうな首筋に、豆粒ほどの、眞つ紅な
「そいつは有難い。繪に描いたやうなきりやうで、首筋の赤い痣だ。地獄の底へ行つても見つかりますぜ、親分」
傍で聽いてゐた八五郎が夢中になつて乘出します。
其處をきり上げた平次は、
たつた一と突きで
お茶の用意をした部屋には、お由利が抱きしめてゐたといふ
庫裡の奧には、住持の春嚴
「阿波屋さんの皆さんが着くほんの四半刻ほど前でしたよ。深い
慾のなささうな老僧ですが、それでも一代の心願がフイになるかと思つてか、眼をシヨボシヨボさせて歎くのです。小坊主は傍から、老師の泣き
春徳寺の三千兩紛失事件は、それつきり迷宮入になつて、阿波屋三郎兵衞の手代宗次郎を殺した、兇惡な下手人も、見當もつかぬうちに三日五日と日が經ちました。
ある生暖かい日の夕方。
「親分、あの病人の
こんな途方もないことを言ひながら、相變らず
「何を言ふんだ、馬鹿々々しい」
平次は椽側の
「でも親分は、新鳥越の越中屋金六のところを、時々は覗いて見るやうに――つて言つたでせう」
「お前が、あのお
「ところで――お比奈坊の兄の山之助はゐませんか」
それはこの間から黒雲五人男に狙はれて、平次のところへ逃げ込み、錢形の
「氣分が良いと言つて、
「それぢや、どんなことを言つてもよいわけで――實は、この間から一日に二度づつ、新鳥越の越中屋を覗きましたよ。お比奈坊は一寸見は、はにかみやで無口で取りすましてゐるやうですが、段々顏馴染になると、飛んだ面白い娘で、あつしとすつかり仲好しになつてしまひましたよ」
「フ――ム」
「あれで飛んで色つぽいところがあるから面白いでせう、
「馬鹿だなア、あの娘はなか/\確りしてゐるから、つまらねえ眞似をすると、飛んだ目に逢はされるぞ」
「大丈夫ですよ――ところで、今日といふ今日、お比奈坊が、ちよいと用事があるけれど、病人を一人置いては出られない、氣の毒だけれど、半日留守番をして下さらない?――と言ふんぢやありませんか。おつと承知の助、皆まで言ふな――か何んかで、大呑込みで引受けたのは、この間親分に頼まれた、あの病人の身體のことでせう」
「フ――ム」
「中風で口もきけない病人と、半日
「思ひつきだな」
「ところが、やつて見て驚きましたよ。大釜に一杯湯を沸して、流しに
「若い娘一人の手ぢや、そんなに度々行水も使はせられなかつたことだらうよ」
平次は妙なところへ同情してをります。
「兎も角も、ざつと洗つて、もとの床へ納めてやりましたがね、あの病人は誰が何んと言つたつて、正眞正銘の、
「飛んだ功徳だつたな、いづれ良い
「酬いはテキメンで、お比奈坊が歸つて來て、それや喜んでゐましたよ。私一人では重くてどうにもならないから、兄が歸つて來るのを待つて、一日も早く湯を使はせてやりたいと思つてゐました――と」
「いや、俺からも禮を言ふよ。越中屋の金六が、本當の病人でないと、山之助お比奈兄妹は、とんだ
「念の入つたことですね、――でもあの金六ばかりは、醫者に見せる迄もなく、眞物のヨイヨイですよ。尤も、何處かで見たことのある顏だと思つたが、そいつは思ひ出せません」
記憶の百味
「外に氣のついたことはないのか」
「行水が濟んでから、家中を探して見ましたが、賣れ殘りの
「刄物は」
「切れさうもない菜切
「あとは?」
「女物と男物が、だらしもなく交つてゐましたよ。お比奈坊、顏の造作や物言ひはひどく片付いてゐますが、世帶の方は一向片付きませんね」
「女房には不向きぢやないか」
「へツ、片付けの方は、あつしがやります」
八五郎は
「おや、山之助が歸つたぢやないか」
二人は急に口を
その翌る日、平次は與力筆頭笹野新三郎の八丁堀役宅に呼出されてをりました。
「平次か、忙しいところを氣の毒であつたな。實は困つたことが起きたのだ」
椽側に平次をかけさせて、近々と煙草盆を持つて來た笹野新三郎は、その頃
「へエ、どんなことでございませう」
平次は膝に手を置いて次を待ちました。美しい秋日和でした。
「外でもない。この間から、南の御奉行所に、何んとも素姓の知れぬ者が出入りするといふ噂のあることは、知つてゐるであらうな」
「存じてをります。向柳原の八五郎のところへ押入つた、武家風の泥棒が、御用の提灯と御奉行出入り商人の手形を盜んで參りました。それを變なところで役に立てはしないかと、ビクビクしてをりましたが――」
平次は言ひ淀むのです。間違ひもなくその
「いづれ出入りの町人のやうな顏をして來ることであらうが、六十枚の手形が出てゐることだから、どれが曲者やら一向に見當はつかない、――兎も角も、寮に忍び込んで、夜つぴて仕事をする樣子で、書き役の手文庫から
「――」
平次はヂツと考へ込みました。
「あれから三年經つたが兇賊の『
「左樣でございます。養ひ娘のお島といふのが生き殘り、疾風の女房――お島は養ひ親を引取つて世話をして居りましたが、その母親も間もなく亡くなり、お島も何時からともなく姿を隱してしまひました。生きてゐたら、二十五六にもなりませうか」
「その疾風と申した兇賊の名を、お前は覺えてゐることだらうな」
「本名は木村六彌、又の名を森右門と申しました」
「いづれ記録を新らしく作らなければなるまい、宜しく頼むぞ」
「かしこまりました」
「その記録を選つて盜んだといふのは、
「有難うございます。森右門の木村六彌は死んだ筈でございますが、伜の皆吉と養ひ娘のお島はまだ生きてゐることと存じます。丁度山谷の春徳寺で、三千兩の祠堂金が盜まれた折でもあり、とことんまで調べて見たら、何にかの
尤も、曾て『疾風』が扮裝したのは僞の中氣でしたが、山之助の主人で、お
平次は妙に割切れない心持で明神下の自分の家へ歸つて來ました。
黒雲五人男と、山之助お比奈兄妹は、何にかしら重大な繋がりがあるやうですが、兄の山之助は、
「あの、ちよいと」
平次は、路地に入らうとした足を停めました。耳に馴れた快よい響きが、思ひも寄らぬ場所で平次を呼止めたのです。
「何んだお前か」
建物の袖の蔭から、ソツと出て來たのは平次の戀女房のお靜だつたのです。曾ては兩國の水茶屋で、美しさと清らかさを
でも、平次と一緒になつてからのお靜は見事でした。夫の平次と自分の生活を、少しでも豊かにすることばかり考へて、貧しさの中に精一杯の、つゝましやかな努力を續けてゐるのです。その内氣で出しや張りのないお靜が、自分の家の路地の外に、平次の歸りを待つてゐるといふのは、容易のことではありません。
「何があつたんだ」
平次は重ねて訊きました。
お靜の眼顏に案内されて、平次は默つてその後に從ひました。何にか重大なことがあつたらしく、お靜は顏を少し緊張させて、默りこくつて、神田明神の境内へ入つて行くのです。
平次は妙な思ひ出し笑ひのコミあげて來るのを、どうすることも出來ませんでした。二人はまだ戀仲であつた頃、平次の姿を見つけたお靜は、店からソツと拔け出して、眼顏で合圖しながら、町の裏へ、
「ね、お前さん、あの人は矢つ張り女よ」
明神樣の裏手に廻つて、捨石に並んでかけると、顏をそつぽの方へ向けたまゝ、偶然並んでかけた他人同士のやうに、お靜は口を開くのでした。
「女? 山之助が?」
「お前さんは、さう言つたでせう。呉服屋の番頭だと言つた山之助さんの手に、
「言つたよ、聲も恰好も、男に違げえねえが、素振りに變なところがあるし、あの撥だこはどうも呑込めないつて」
「私は、それから氣をつけてゐました。すると、風邪を引いたと言つて、どうしても町湯へ行かないし、もう一つ、うちへ來てから七日にもなるのに、少しも
「あ、成程、いゝところへ氣がついた」
平次は思はず褒めてしまひました。お勝手へ引つ込んで、世帶のやりくりより外には、何んにも知らないやうな顏をしてゐるお靜に、こんな結構な智慧があらうとは思はなかつたのです。
「それに、聲も
「フーム」
「それから、女にはよくわかりますが、あの人には男の匂ひがないんです」
「――」
「もう一つ、
「その落しの蓋を、お前はわざと曲げて置いたんぢやないか」
「あら、そんなこと」
お靜は思はず顏を赧らめて、襟に顎を埋めましたが、おとなしいやうでも岡つ引の
「兎も角、そいつは有難かつた。山之助が女とわかると、いろ/\考へ直さなきやならないことがある。お前もよく見張つてゐてくれ――なアに大丈夫、何んにも怖いことがあるものか、お前は默つて家へ歸るがいゝ。俺は相手が用心しないうちに、もう一つ突つ込んで調べたいことがある」
平次はお靜を家へ歸すと、その足ですぐ向柳原の八五郎の巣を訪ねました。
「おや、親分、珍らしいことですね。親分の方から此方へ來るなんて、まア/\」
などといふ八五郎を押し留めて、
「直ぐ支度してくれ、新鳥越へ行くんだ」
「お
「精の出ることだ」
二人はあまり冗談も言はず、銘々のことを考へながら新鳥越の越中屋へ行きました。もう日が暮れかゝつてゐる頃です。
「ま、親分さん方、こんなところへ」
などと、お比奈は嬉しさうに二人を迎へてくれます。
「病人はどうだえ、世話のやけることだらうが、お前は感心だよ」
平次はお比奈の勸めるまゝに、
「今丁度晩の支度のところでした」
「さうか、兄さんもお前がよくしてくれるので、安心してゐる樣子だよ」
「本當に濟みません。兄さんが臆病なばかりに、飛んだ御厄介になつて」
「何んの、そんなことは構ふものか。ところで、俺も何にかの縁だ、ちよいと病人の見舞ひをして行きたいが――」
「汚いところですが、どうぞ」
平次はお比奈に案内されて、たつた一と間の病間へ入つて行きました。プーンと鼻をつく異臭が、さすがの平次を
一つ二つの慰めの言葉をかけましたが、病人の金六には、それも通じない樣子です。
平次はよい加減にきり上げて、八五郎を誘つて、暮の街へ飛び出す外はありません。踏み留まつて調べるには、これはあまりにも陰慘です。
外へ飛び出すと、
「八、近頃六十年配の、左の
平次はいきなり八五郎に一つの仕事を言ひつけるのです。
「乞食ですつて、親分?」
「あの病人は呉服屋なんかぢやないよ、立派な物貰ひさ。顏は申し分なく陽に
「やつて見ませう、――お比奈坊は何んだつて、そんな乞食を――」
「お比奈坊のことなんか、忘れてしまへ」
「へエ」
平次は其處から直ぐ本銀町の兩替屋阿波屋三郎兵衞の家へ急ぎました。事件は妙に急迫感を帶びて來たので、寸刻の遲れも許されず、町駕籠を拾つて精一杯の酒手をやつたのは平次にしては珍らしい
「あ、錢形の親分、丁度私の方から參らうと思つてをりました」
阿波屋三郎兵衞はイソイソと迎へるのです。
「お孃さんはどんな樣子で?」
「そのことでございます。最初は散々に駄々をこねてをりましたが、あのお小姓は三千兩の盜人で、手代の宗次郎を殺した
阿波屋三郎兵衞は、面目次第もない首を垂れるのです。我儘一杯に育つた一人娘が、思春期の爆發的な狂態は、親の意見もさして役には立たなかつたのでせう。
「それは困つたことで、――兎も角も、あつしが逢つて見ませう」
平次は娘に逢つて、手代宗次郎を殺して、三千兩の金を奪つた、色小姓の正體を突きとめる氣になつてをりました。
「では」
三郎兵衞の案内で、平次は娘の部屋へ通されましたが、それは世にも可愛らしく、
「お孃さん、あのお小姓は、男姿にはなつてゐるが、實は女と判りましたよ」
「え?」
錢形平次の言葉は、無言戰術のお由利にも、恐ろしい
「あれは黒雲五人男の内の一人で、お源といふ、名題の毒婦とわかりましたよ。女が女を思ひ詰めて、どうするのですお孃さん、恥かしいとは思ひませんか」
平次の言葉は丁寧ですが峻烈でした。
「いえ、いえ違ひます、違ひますよ、そんなことはあるものですか、あの人は、確かに男」
「證據は?」
「私が振袖に
「――」
「あの方は私に囁きました、いつかは又逢はうと」
かう言はれると、平次の築き上げた空想の構圖も、すつかり突き崩されてしまひます。
「そしてあの小姓が引揚げる時、宗次郎を刺したのも、お孃さんは見てゐたでせうね」
「――」
お由利は激しく頭を振ります。恐らくその時は、
平次は默つて引揚げる外はなかつたのです。明神下まで歸つて來ると、夜更けにも
「どうした八、わかつたか」
「非人頭のところへ行くと一ぺんにわかつてしまひましたよ。
「それは何時のことだ」
「三月ほど前で」
「よし、それでわかつた。お前は明日の晝頃新鳥越へ行つて、あのお比奈坊を
「へつ、からかつちやいけません」
「大眞面目だよ、抱きついても構はねえ。首の後ろに眞つ赤な
「あの、お比奈坊が三千兩泥棒のお小姓ですか、親分」
「まだわからねえよ、――それからかう言ふんだ。親分の平次が、泥棒の隱した三千兩を見つけたさうだから、今晩は取出すことになつてゐると――」
「本當ですか、それは?」
「本當なら、こんなことをお前に頼むものか」
「へエ、何んだかわからなくなりましたね」
八五郎は平次の思惑を測りかねて、眼をパチパチさせてをります。
翌る日の夕刻、薄暗くなりかけた頃、越中屋にゐた筈のお比奈は、不斷着のまゝ、山谷の春徳寺の山門を入りました。
本堂の前で、お
「あ、八五郎親分」
隙を狙つて、
「皆吉、久し振りだつたな」
と、聲を掛けると、お比奈は、暫らく石疊の上に立ち
「えツ、もうかうなれば」
お比奈はパツと
「それ、八」
「御用ツ」
爭ひは深刻でしたが、平次の力添へで瞬時にかたづいてしまひました。
「畜生ツ、覺えてゐやがれ、岡つ引奴」
平次を睨んで
× × ×
平次はその夜のうちに、春徳寺の
そして事件が一段落といふ時、八五郎のために、かう説明してやつたのです。
「あれは今から三年前、浪人木村六彌が、主家歸參のために入用な三千兩を盜み溜め、それを俺に邪魔された上、品川沖で水死をしたことがあるが――その後日物語さ。お
「お島といふと、あの八人藝の」
「榮屋の山之助といふのは、實は女で、八人藝のお島が姿を變へたのだよ。皆吉のお比奈に無理に仲間にされ、喧嘩になつて淺草で
「へエ、太てえ奴等で」
「お前の家へ入つた泥棒は、お島の山之助だ」
「でも、侍
「附け髷だよ。五六寸の棒がありや、叔母さんの眼ぐらゐは
「へエ、
「それから丸屋で毒藥を盜んで、春徳寺で三千兩を盜つたのさ。お島の山之助は惡事をいやがるから、人質のつもりで俺のところへ預け、お比奈の皆吉が一人でやつた仕事だよ。住職と小僧を縛つた修行者も、皆吉の早變りさ」
「首の赤い
「そんなものはわけもなく描けるぢやないか」
「三千兩の金が、あの寺にあるとどうしてわかつたんです」
「千兩箱は一つ五貫目もあるんだ、――あの時は外へ持出す隙がなかつたよ。それに相棒もないとわかると、寺の中に隱してあるときめて差支へはあるまい。俺が三千兩を見つけてしまつたと、お前がお
「へエ、恐ろしいことですね、あんな綺麗な若造が――」
「義理の姉のお島が手傳つたといつても先づ皆吉一人の仕事だ。黒雲五人男が江戸一パイに
「お島はどうしました」
「何處かへ逃げたよ。それでいゝぢやないか」
かう言つた平次です。