「親分、變なことを聽きましたがね」
ガラツ八の八五郎は、
「お前の耳は不思議な耳だよ、よくさう變つたことを聽き出せるものだ。俺の方は尋常なことばかりさ、
平次は氣のない返事をしながら、
「あつしの方はまた、變つたことばかり、手紙をやつてもあの
「あんな野郎だ、――ところで、その變つたことと言ふのは何んだえ」
平次は手の泥を拂つて、椽側に腰をおろし腹ん這ひになつて、煙草盆を引寄せるのです。
「こいつは變つてますよ。影法師に
「影法師に憑かれた?」
成程それは話が變り過ぎてゐます。
「四ツ谷の與吉が、淺草へ行く
江戸中にまかれた何百人の岡つ引は、八五郎に好意を持たないものはなく、わけても腕に自信のない者は自分の繩張り内に起つた事件の匂ひを、八五郎の耳に入れて置けば、親分の錢形平次が乘出してくれないものでもなく、平次が動き出せば、自分も飛んだ手柄のお
そんなことで、江戸中の面白い噂は、自然八五郎の耳に入り、八五郎の口から、斯う平次に取次がれることになるのです。
「影法師に
平次もいくらか好奇心を動かした樣子です。
「市ヶ谷柳町の菊屋の
八五郎は自分の
「自分の影法師が怖いのか」
「自分のなら、
「はてね」
「外を歩いてゐると、影法師だけが、フラフラと自分の前を歩いてゐたり、前の方が無事だと思つて、振り返つて見ると後ろから、ヒヨコヒヨコと影法師だけがついて來るといふんで」
「自分の影法師ぢやないのか」
「そんな事はありませんよ。彦太郎は十九になつたばかり、隨分出來のやはな息子には違げえねえが、自分の影法師と正體のない影法師を間違へる氣遣ひはありません。それに影法師の方は間違ひもなく女で」
「フーム」
「その影法師も、月夜の往來へ出るうちは良かつたが、この節は横着になつて、時々彦太郎の部屋の
「その影法師は誰かに似てでもゐるのか」
「
「そのお袖といふのは」
「彦太郎と同じ年の十九、菊屋の親父が金に飽かして買ひ取つた妾で、飛んだ人身御供だといふ話で」
「いやな話だな。その話は、もうそれつきり忘れてしまえ」
「親分には、こんな話は面白くありませんかね。あつしなんか、影法師でも生き
「生憎、そんな野郎には、氣の弱い生き靈なんか取りつかないよ」
「有難い仕合せで。その代り
八五郎はそんな打ち壞しな事を言つて、あまり持てさうもない、長い顎を撫で廻すのでした。
この影法師事件は、十日も經たないうちに、思ひも寄らぬ大發展をしました。
五月に入つて、山の手の町に
「親分、たうとう大變なことになりましたよ。與吉の野郎が、どうしても錢形の親分を引つ張り出してくれといふんで、あつしでは不足なんださうですよ」
八五郎はニヤニヤしながら、たいした不足らしい顏もせずに、與吉に押し出されて木戸の中へ入つて來るのです。
「八五郎なら不足はねえ筈だが、
平次は面白さうでした。八五郎の相手でもしてゐたいほど、
「からかはないで下さいよ、親分。柳町の影法師は、たうとう人を
「何んだと?」
「
八五郎は身をかはしました。
「よし、それぢや歩きながら聽くとしようか」
お靜が丹精した新しい
明神下から神樂坂へ、柳町へ拔ける道々は、すつかり夏でした。薄着になつて、急に活々とした娘達の
「殺されたのは、市ヶ谷柳町の金貸しで、萬兩の身代を持つてゐると言はれる、菊屋の市十郎。
「フーム、
「障子の側でふざけた恰好なんかするものぢやありませんね。魔物は何處にゐるか、わかつたものぢやない」
與吉はそんな
「下手人の見當はつかねえのか」
「怪しい奴ばかりで、――
「その妾は無事だつたのか」
「
「もう一人の妾はどうしたんだ」
「年増の方は
四ツ谷の與吉は、腕はたいしたこともありませんが、口だけはなか/\に
「外には」
「伜の彦太郎、こいつは一番怪しい男で、影法師に
「伜が、親父の妾に何うとかするのは、少し
「十九の
四ツ谷の與吉はゴクリと
「家の者はそれつきりか」
「まだありますよ。内儀のお世乃さんは
「あとは?」
「番頭の
「新宿の大門てえ奴があるか」
「吉原までは及びもつかねえ」
「落し話を聽かされてゐるやうだ」
「もう一人
「大そうな名前だな」
「本人は
「妙な取合せだな」
「菊屋の用心棒に入り込んだのは一年前、おべつか
四ツ谷の與吉は達辯にまくし立てるのでした。
柳町へ行つたのは、もう晝を過ぎてをりました。菊屋といふのは、
平次の一行は、番頭の才八に迎へられて、奧へ通りました。與吉の
世の中を敵にして、贅澤と
殺された主人市十郎の部屋は、恐らく何も彼もが、
「この通り、主人は障子にもたれて、
與吉は血に染んだ障子と、その障子の下から二尺五寸ほど上に、突つ立てた刀の跡のあるのを指すのです。
「それにしちや、――」
平次は何やら考へてをりましたが、思ひ直した樣子で、障子の中へ入りました。中はまことに
「この通り、呑んでゐる最中、妾のお袖はお銚子を直しに
「下女のお萬もさう言つてゐるのか」
「其處までは訊かなつたが、お袖のやうな綺麗なのに言はれると、ツイそれ以上せんさくをする氣がなくなる」
與吉は
「灯りが一つしかないやうだが」
平次はフト、これほどの贅を盡した部屋に、燭臺が一つしかないことに氣がつきました。
「その代り百目
與吉の説明は思ひの外行屆きます。
「それにしても、障子越しに刺されたにしては、あまり血が
平次は
それは兎も角として、與吉と番頭の才八の案内で、次の部屋に移してある、主人の市十郎の死骸を見せてもらひました。その頃の檢屍は後の世ほどはやかましくはなく、末期の手當てのためと言へば、死骸を移したくらゐのことはうるさくは言はなかつたのです。
市十郎の死骸は、絹物の布團の上に寢かしてありました。見たところ背の低い脂肥りの五十前後、顏は死の苦惱もなく
傷は背後から一と突き、
「刄物は?」
「隣りの部屋にあつた脇差、――こいつは何んとかいふ名作で、主人の市十郎が質に取つたが氣に入つて買ひ取り、押入に投り込んであつたのを使つたといふから、
與吉は相變らず行屆き過ぎるほどの註を入れるのです。
「それは何處にあるんだ」
「椽側に捨ててあつたのを、そのまゝにしてある筈だ。持つて來させようか」
「いや、宜い。後で見よう」
平次は立ち上がつて、二階の樣子を念入りに調べました。部屋は三つ、居間と次の間と
「どうだ、番頭さん。お前の見當で、下手人は誰だと思ふ。錢形の親分に、申し上げて置いた方が宜いぜ」
四ツ谷の與吉は、お節介らしく口を挾むのです。年は若くて、
「私にはそんな事は見當もつきませんが」
才八はモヂモヂしながら答へました。三十前後の、これはちよいと好い男で、この
「そんな事はあるまい。お前さんは、菊屋第一番の智慧者の働きものだといふ評判ぢやないか」
「飛んでもない、――尤も旦那は少し敵を作り過ぎました。良い方でしたが、金貸しといふ商賣は、どんな慈悲善根を積んでも、人樣によくは申されません。お寺や
「成程ね」
平次はツイ
「昨夜、あの騷ぎのあつた時、お前さんは、店にゐたと言つたね」
與吉は重ねて訊ねました。
「まだ宵でした。
「お前の部屋は?」
「店二階で。へエ、此處からは
「店にはお前さん一人でゐたんだね」
「夜になると、店は私一人でございます。源介どんは日が暮れると、自分の家へ歸つてしまひますので」
源介といふのは、菊屋の通ひ番頭で、この事件には何んの關係もあるまいと、あとで與吉が説明してくれました。
この番頭と一緒に、菊屋で幅をきかしてゐるのは、
「何? 岡つ引きが逢ひたい? 俺は町方の岡つ引などに用事はない。用があるなら、寺社の御係りにさう言へツ」
四ツ谷の與吉が迎ひに行くと、
「あんな事を言つてをります。口ほど人の惡い男ぢやございませんから、氣になさらないで下さい、親分」
番頭の才八が取りなし顏に言ふのを、
「いや、あんなのは反つて扱ひいゝよ。此方から行つてお目通りを願ふとしようか」
平次は氣輕に立つて階下へ降りました。と、驚いたやうに隣りの部屋へ姿を隱したのは、二十二、三の好い年増、
「あれは?」
「お吉さんと言ひます」
才八は首をすくめました。が、續けて、
「主人を殺したら、あの匂ひではすぐ足がつきませう」
平次もツイ、苦笑ひをしてしまひました。この場合でも笑つて見たくなるやうな、それは厄介な匂ひでした。
「錢形の親分、お聽きだらう。この男は大層威張つてゐるが、
四ツ谷の與吉はすつかり興奮して、事と次第では、法印無道軒を引つ
「まア、宜い。與吉
「御坊?」
佐多田無道軒は振り返りました。總髮に
「色氣のない呼名で氣の毒だが、そんなことで勘辨してくれ。――ところで、お前さんはこの家の何んだえ」
「主人市十郎の相談相手さ。用心棒と言つても宜い」
「その市十郎が殺されたんだぜ。下手人を搜しに來た俺達に手傳つてくれるのも、主人への義理といふものぢやないか」
「生きてゐるうちは主人市十郎に智慧と腕を貸したが、死ねば用事のない俺だ」
「金貸しの手先きか相談相手か知らないが、そいつは薄情過ぎるぜ」
「何? 死んだ者に智慧や腕は要るまい」
「だがね御坊、變なことを言つたり、妙な
「この無道軒に、妙な素振りがあるといふのか。聞き捨てにならぬことを吐かすと、錢形とは言はせぬぞ」
猫又の無道軒はいきり立ちます。
平次のからかつたのに對して、斯う眞面目にいきり立つたところを見ると、この法師一度は本物の修驗者だつたのかも知れません。と同時に、この法師、思ひの外
「親分ちよいと」
八五郎が庭の方から聲を掛けます。
「何處へ行つてゐたんだ、暫らく見えなかつたぢやないか」
「與吉兄哥がついてゐるから、あつしは外廻りの噂を手一杯に掻き集めましたよ」
「さうか、そいつは有難かつた。下手人の見當はついたか」
「へエ、少しはね」
平次は庭下駄を突つかけて外に出ました。與吉はまだ、猫又法印と、
「どんな事を聽き出したんだ」
廣い庭の植込みの蔭へ來ると、平次は菊屋の全景を眺めながら、八五郎を
「曲者――といふほどの
「フーム」
「若い
「いやな事だな」
「それに、殺された主人の市十郎と、伜の彦太郎は、親子と言つても、實は敵同士見たいなものですよ」
「?」
「彦太郎は先代の本當の
「成程、世間によくある
「彦太郎だつて、嬉しくも何んともありませんや。その上、自分と仲の良かつた、町内一番の娘お袖を、召使ひといふ名儀だが、金づくで引入れて、
「そんな事で親殺しをしたといふのか?」
「待つて下さいよ、親分。あつしは親殺しの肩を持つわけぢやねえが、その上影法師といふ惱まし事があつたとしたら――」
「何んだえその影法師といふのは。
「附き纒ひたくもなりますよ。殺された主人市十郎といふのは、
「フーム」
「毎晩
「――」
「もたれたり、ふざけたり、叩いたり、下手な小唄を歌つたり、見ちやゐられないんださうですよ」
「誰がそれを見てゐるんた」
「近頃は
「お前ぢやあるまいな」
「
「俺に訊いたつて仕樣があるまい」
「市十郎はまた、そんな圖を人に見せるのが好きで/\たまらなかつた。部屋の中にはわざと百目
八五郎の話はいかにも重要ですが、噂のかき集めにしては、いかにも微に入り細を
「お前はそれを誰から聽いたんだ」
平次は靜かに反問しましたが、話が少しうま過ぎて、彦太郎を
「家中の者は皆んな知つてゐますよ。番頭の才八も、下女のお萬も、猫又法印も、内儀のお世乃も、その
「お前の言ふことは少し馬鹿々々しいな」
「嘘も掛引きもありません。聽いたまゝ、
「何んだ、お前まで影法師に憑かれてるやうだぜ。氣をつけるが宜いよ、八」
「すると、彦太郎の眼には、自分の部屋の窓にも、歩いてゐる往來にも、不意に影法師が現はれた。女の影法師ですよ、髮振り亂した野暮な女の姿ぢやない。島田に
「彦太郎から聽いたのか」
「いえ、下女のお萬がさう言ひます。最初は本人の彦太郎も隱してゐたが、近頃は自分でも持て餘して、氣の置けない者には、さう言ふんださうですよ。――影法師はもう澤山だ、近頃は庭の築山へも行かないやうにして、夜になると外へ遊びに出たり、自分の部屋に籠つたりしてゐるが、お袖さんの影法師が二階から脱け出して、私に附き
「フーム」
「何んでもこの節は、半病人ださうですよ。可哀さうに」
「ところで、その彦太郎が、親殺しの下手人だといふのか」
「さう言ひきつちや可哀さうですが、どうもそんな匂ひがするぢやありませんか」
「おや、あれは誰だ」
平次は不意に植込みから出て、裏の物置の蔭を
「噂の彦太郎が、お袖と
「主人の市十郎が死んだといふのに、まだ二人は、そんな事をしてゐるのか。若い者を
二人は庭をグルリと廻つて、裏の物置を左右から覗くやうに取り詰めました。
「あツ」
平次と八五郎に包圍された形になつて、お袖は立ち
美しいといふよりは、これは
「お袖と言ふんだね。誰と話してゐたんだ」
平次は靜かに訊ねます。こんな清潔な娘が、十九やそこ/\で、
「ハ、はい」
お袖はひどくあわててをります。
「昨夜のことを、お前の口から聽きたいが――」
平次の調子の穩やかなのと、その顏には
「旦那にさう申し上げて、お銚子を直しに、裏梯子を降りて參りました。お
お袖は自分の肩を抱くやうに、その時のことを思ひ出したか、ぞつと身を
「お前は好きでこの家に奉公に來たわけぢやあるまい――家は何處だ」
暫らく經つて平次は、外の話題に入りました。
「ツイ少し先の、裏にあります、――半年ほど前からこの家へ――」
そんな話になると、お袖の話はひどく
「で?」
「亡くなつた父さんの借りたお金を、お母さんがどうしても返せなかつたので――」
さう言ひかけて、お袖は默つてしまひました。可愛らしいピンク色の唇が、心持ち
「これからどうするつもりだ」
「彦太郎さんは、旦那が死んだから、誰に遠慮もない、此處にゐてはろくな事はあるまいから、直ぐにも家へ歸れと言ひますけれど――」
「――」
「あの人は怖いし、後で何んとか言はれると、又お母さんが困るに極つてゐますから」
「あの人といふのは誰だ」
「――」
お袖は答へませんでした。が、それは番頭の才八ではなくて、
「もう宜い、――が、この家には暫らく俺達がゐるから、心配することはない。何處へも行かないやうにしてくれ」
「はい」
お袖は素直にうなづいて、家の方へ行つてしまひました。それと入れ代りに、
「逃げちやいけないよ、おい、女の子さへ素直に話してゐるぢやないか」
「八、手荒なことをするな」
平次は
十九と言つても、同じ年のお菊よりは[#「お菊よりは」はママ]、反つて
「私は逃げたわけぢやありません。この人が――」
「宜いよ、この男は少しそゝつかしいだけなんだ。蔭ぢや、お前の味方で、氣の毒がつてゐたよ」
「――」
「ところで、主人の市十郎――と言へはお前の父親だが、大層仲が惡かつたさうだな」
「あれは、私の父親なんかぢやありませんよ。この家へ入込りんで來て、勝手にふるまつただけで」
「フーム、それは
「――」
「お前とお袖は、わけがありさうだね。互ひに約束でもしたことがあるのか」
「――」
彦太郎は
「打ち開けて話した方が宜いぜ。早く下手人を擧げなきや、お前も困るだらう」
「そんな事言ひたかありません、――あの人を殺したのだつて、誰だか私が知るものですか。尤も、私も、何べん殺してやりたいと思つたか――」
純情らしい彦太郎は、前に立つてゐる者の素姓も忘れて、こんな事を口走るのでした。
「昨夜、お前は何處にゐたんだ。丁度あの頃だ」
「自分の部屋に寢てゐました。布團を
「お前の部屋は何處だ」
「
「主人の部屋へ遠いのか」
「遠くたつて行かうと思へば、裏梯子を登つて、直ぐ行けますよ」
この少年は自分から進んで、岡つ引の
「お前は影法師に取り
「――」
彦太郎は又默つてしまひました。
「その話を
「近頃は滅多に出ません。でも」
「何時頃から、そんなものが見えたのだ」
「二た月ばかり前、月の良い晩でした。用事があつて加賀樣御屋敷の御馬場を通つて來ると、目の前(
「どんな影法師だ」
「女の影法師です。大きな島田で」
「空を見なかつたか」
「何んか雲の影でも映るのかと思つて、空を見上げました。でも、上には木の枝一つなかつたんです。良い月でしたが」
彦太郎は
「それから何うした。續けてくれ」
「その影法師が、時々出るやうになりました。私の歩いてる時、前を歩いたり、後ろから
彦太郎はプツリと話をきつて、
影法師に
「その影法師の話は大事なことだ。
錢形平次は、この臆病さうな息子を追及しましたが、
「でも、私は」
彦太郎はひどく
「心配することはない。影法師がいくら暴れたところで、噛みつくわけぢやあるまい。それどころぢやない、父親の市十郎を殺した奴と、お前を
平次は噛んで含めるやうに言ふのでした。
「どんな事を話せば宜いのでせう」
「影法師のことなら何んでも」
平次は言葉少なに誘ひます。
「さう言へば、變なことがあります。影法師が出ると、きまつて、ものの
「焦げる匂ひ?」
「木の燃える匂ひと言つた方が宜いかも知れません」
平次は深々と考へました。影法師に匂ひがあるといふのは、想像もつかないことです。
「その影法師が誰かに似てゐるといふぢやないか」
「そんなことはありません。大きな島田に結つた、若い女の姿です。――私がさう言ふと、お袖さんに似てゐるだらうと、からかつた人もありますが、影法師の方は
「誰がそんなことを言ふんだ」
「番頭の才八どんです」
あの悧巧者の才八が、彦太郎がお袖に氣があるのを知つて、ちよいとからかつて見る氣になつたのでせう。
「他に氣のついたことは?」
「最初は外を歩いてゐると、私の前を、ヒヨロヒヨロと、影法師が歩いてをりました。ハツと氣が付いて、見定めようとすると、掻き消すやうに見えなくなりました」
「どんな具合に?」
「大地がポーツと明るくなつて、その中に黒い影法師が映るのです」
「お前の影ではなかつたのか」
「飛んでもない――髮を振り亂した影法師ですもの」
「成る程」
「最初に見たのは、
彦太郎はさう言つて、精も根も盡き果てたやうに、蒼白く
「それを誰かに相談したのか」
「相談に乘つてくれる人はありません。親父は相手にしてくれず、才八どんは笑ふだけ、無道軒さんにきかせると、
さうして彦太郎は、影法師の憑きものに惱まされながら、次第に
「猫又法印は修驗者ではないか。話をしたら、憑き物を拂つてくれさうなものだが」
「二、三度頼んで見ましたが、あべこべに脅かされるだけでした。――お前さんは若い女の生き
「厄介な法印だな」
平次は苦笑ひに濟ませましたが、腹の中では明確に猫又法印の惡意を感じた樣子です。
「あの人は誰にでもさうなんです。人を脅かしたり、怖がらせたり、調伏したり、――そんな事ばかりやつてをります。親父があんな人を手なづけてゐるのが不思議でなりません」
彦太郎は猫又法印の無道軒に對しては、並々ならぬ反感を持つてゐさうです。
「その法印の身性を知つてゐるのか、お前は?」
平次は靜かに、極めて自然に問ひ進めました。
「誰も
「例へば?」
「法印は今でこそ修驗者のやうな顏をしてをりますが、もとは長崎あたりで拔け荷を
「フーム」
「
「――」
「一年前にフラリとやつて來て、それから客分とも用心棒ともなく、此處に
「法印とひどく仲の惡いのは誰だえ」
「番頭の才八で、かげでは惡口ばかり言つてをります。あんな山師をお店に置いては、ろくな事はあるまいと」
口がほぐれて來ると、彦太郎は臆病らしさに似ず、なか/\よく話してくれます。
「親分、ちよいと」
八五郎は椽側から顏を出して、
「何んだ、何處へ行つてゐたんだ」
「親分が、あの伜と掛け合つてゐるうち、あつしは二、三人達者な奴と逢つて來ましたよ。何しろあの
「それでどうした」
その煮えきらないのに口をきかせて、平次はいろ/\の手掛りをつかんだことは、八五郎の分別に想像もつかないことです。
「猫又法印に當りました。主人の殺された部屋の眞つ下に陣取り、下手人を斬り殺すんだと言つて、
「道理で煙いと思つた。それからどうした」
「祈祷の合間を
「何んの禁呪だ」
「御坊の法術には、自分を祈り殺す
八五郎の目にも、
「怒つたらう」
「怒つたの怒らねえの、あの
「當り前だ」
「――菊屋市十郎殿は、
「まア、宜い。それからどうした」
「番頭の才八を呼び出して、あの猫又法印の素姓を調べましたが、たいしたことは知りませんね。長崎で拔け荷を扱つて、主人の市十郎と懇意になり、貸した金の取立てが名人で、調法がられたといふことです。
「フーム、話はそれだけか」
「もつと大事なことがありますよ」
「何んだ、出し惜しみをせずに、いつぺんにブチまけなよ」
「番頭の才八が言ふには、主人市十郎が殺された時、伜の彦太郎は、自分の部屋で布團を冠つて、寢て居たと言つたやうですが、あれは眞つ赤な嘘だといふんで――」
「フーム」
「あの時、彦太郎は、自分の部屋には居なかつたさうで。丁度その時才八が覗いて見たんださうで」
「そいつは容易ならぬことだ。まさか才八が嘘を言つたのではあるまいな」
「あつしも突つ込んで訊きましたが、才八は
「兎も角も、若旦那の彦太郎はその邊にゐる筈だ。もう一度呼んで來てくれ」
八五郎は店の方へ飛んで行きましたが、やがて、ひどく澁つて居る彦太郎を、
「もう一つ訊きたいことがあるんだ」
平次はそれを、穩やかな調子で迎へました。
「へエ?」
「親旦那が殺された時、お前は自分の部屋で布團を引冠つて寢てゐたと言つたが、あれは嘘だつたね」
「?」
「大騷ぎになつて、驅けつけた時のお前の姿は、寢卷ではなくて
「?」
「あの時お前は自分の部屋に居なかつたに相違あるまい」
「――」
彦太郎は、いぢめられつ兒のやうに、眼を白黒させて默つてしまひました。
「その言ひわけを訊きたいが、――どうだ」
「――」
平次は暫らく片意地らしい彦太郎の樣子を眺めてをりましたが、何時まで待つても、返事をしてくれさうもないので、
「八、若旦那は、誰かに見張らしてくれ。四ツ谷の與吉
「へエ」
八五郎は若旦那の彦太郎を
「親分さん、少し申し上げたいことがありますが――」
妙に物柔かい女の聲が、平次を呼びとめました。振り返ると、三十五、六の少しひねた大年増、
「何にか用事かえ」
それは下女のお萬――と、
出戻りの達者な女、よく働く代り、お節介で、おしやべりで、毎々主人や番頭や、
「若旦那が可哀さうで、私はもう、我慢がなりません」
多血質らしい中年女、お節介なだけに、人が良いことでせう。
「若旦那がどうしたといふのだ。知つてることがあるなら、話した方が宜いぜ」
「私もさう思つて、ツイ口を出してしまひました。考へて見ると、親旦那樣が亡くなつたことでもあり、誰にも遠慮もないわけで」
お萬の言葉にも妙に含みがあります。
「さう/\、誰にも遠慮もないよ、若旦那がどうしたといふのだ」
「あの時――親旦那樣が二階で殺された時、――若旦那樣が、
「?」
「若旦那樣とお袖さんが、お勝手の隣りの私の部屋で、――逢つてゐたんですもの」
「逢引か」
「逢引といつた――そんないやらしいもんぢやございません。二人は默つて手を取り合つて、顏を見合せて、ヂツとして、涙ぐんでゐるんです。可哀さうに」
「――」
「二人はずつと前から、好き合つてゐたんです。でも、お袖さんが、親旦那の持ち物ときまると、それをどうしようといふ若旦那ぢやございません。二人は死ぬほど
三十五の出戻り、存分に
「二人は時々逢つてゐたのか」
平次も妙に引入れられるやうな心持ちで問ひ返しました。
「少しの
「誰も、そんな事に氣がつかなかつたのか」
「隨分、氣をつけました。でも、何時ともなく、誰かが二人の素振りを見付けて、口に出して言ふ者もありました」
「例へば?」
「あの猫又法印などは、
お萬はなか/\
「主人の市十郎は?」
「法印がつまらないことを告げ口したかも知れません。近頃は若旦那を見る眼が變でした」
「よく、それで彦太郎を追ひ出さなかつたな」
「だつて、若旦那の方が、この菊屋の心棒ですもの。大旦那が若旦那を追ひ出したら、親類方が承知しなかつたでせう。さうでなくてさへ、妾狂ひがひどいので、親類方の噂になつてをりました」
「ところで、お前はなか/\目が屆きさうだ。もう一人の妾のお吉には、惡い噂はなかつたのか」
平次は話題を變へました。引出せば、いくらでもこの女から手掛りは引出せさうです。
「新宿で勤め奉公をしてゐる時、あのお吉さんと番頭の才八どんは、
お萬の口邊には、深刻な笑ひが
「お吉は商賣人あがりか」
「どう見たつて、あれは素人ぢやありませんよ。匂ひ袋を身體中にブラ下げて、さはれば、
「
「男の方は、どうしてあんなヌラヌラした女が好きなんでせう。才八どんなんか、ひとかど通なことを言つてる癖に、あのお吉さんを見る目は尋常ぢやありません」
さう言はれると、そんな素振りがあつたかも知れませんが、微妙な消息は平次にも判斷がつきさうもありません。
「ところで、死んだ主人は、妙な癖があつたさうだが、夜分、自分の部屋へ引取つてからは、誰も他の者を寄せつけなかつたことだらうな」
平次の問ひは次第に
「そんなことはありません。誰でも用事があれば呼びつけられて、隨分いやなところを見せつけられました。私はお銚子を運んで行きましたし、才八どんは店の勘定が濟むと、一應その日の金の出し入れを、旦那樣に申し上げましたし、――旦那樣は帳尻にはやかましかつたさうです」
「法印は?」
「あれは自分の部屋でお仕着せの寢酒をやつて、獨りで寢てしまひます。旦那がお妾とふざけるところなんか、
「お吉は?」
「お袖さんが居る時は、
「有難う、そんな事でよからう。お蔭でいろ/\のことが判つたよ」
平次もお萬の
「八、二人の妾と、奉公人達の荷物を調べてくれ。飛んだところに、極め手があるだらう」
平次は、八五郎と與吉を手傳はせて、家中の者の荷物を調べさせました。
驚いたことに、
妾のお吉は、買ひ食ひの小遣くらゐ持つてをり、お袖は母親に
「へエ、あの内儀が百兩と
八五郎は酢つぱい顏をするのです。
「十兩と纒まつた金は、一本立ちの御用聞の八五郎兄哥も身につけたことはあるめえ」
「
「尤も、浮氣をする男の
「そんなものですかね――亭主に張り合つて、パツパと費ひさうなものですが」
平次の哲學が、八五郎には急に呑込めない樣子です。
「才八が空つ尻なのは、遊びがひどいからだらう」
「正直者だとも取れますね」
「死んだ主人がやかましくて、妾とふざけながらも、毎日の帳尻は見たといふくらゐだから、思ひの外奉公人達には
「ところで、あの猫又法印が、百も持つて居ないのは何んと判じます」
「あわてて隱したのかな」
「へエ?」
「いや、そんな事はあるまい」
「それから、あの猫又法印は威張り返つて、自分の部屋の押入を開けさせませんよ。
「兎も角、與吉
平次と八五郎は、源介を呼んで來て、主人の部屋から手文庫を持出させて調べましたが、それは金錢の出入帳と證文の外には何んにもなく、土藏の中に思ひの外の現金が隱されてゐた外には、たいした收獲もありません。
「親分、妙なことがありますが」
八五郎と番頭の源介は、帳場格子の中に首を突つ込んで不思議がつてをります。
「何が不思議なんだ」
「この大福帳ですよ。半紙
「それがどうした」
「お終ひの三、四日分のところを、

番頭の源介は、腑に落ちない樣子で、大福帳を撫でてをります。
「枚數にして、どれくらゐだ」
「三枚もあつたでせうか」
「何にか、變なことでも書いてあつたのか」
「そんなことは御座いません」
「御禁制の品でも仕入れるとか何んとか」
「飛んでもない」
番頭の源介は
才八より少し
「金の出し入れに
平次は念を入れました。
「金のことになると、やかましい主人でございました。五文十文の違ひでも、決して
「才八が費ひ込みでもしてゐなかつたのか。大分遊びがひどかつたといふが」
「いえ、金の間違ひはなかつた筈でございます。――尤も才八どんには結構な貢ぎ手もありましたが」
「それは誰だ」
「御主人樣が、しつかり給金を出してをりましたから――へエ」
番頭の源介は
才八のパトロンは、主人の市十郎でないと、それは多分、あのベタベタした妾のお吉あたりでせうか。
「その才八が、亡くなつた主人市十郎の身寄りにでもなつて居るのか」
「いえ、そんなことは御座いません。尤も御内儀のお世乃さんの遠縁に當るやうには伺つてをります」
それは平次にも初耳でしたが、亡くなつた主人市十郎より十幾つも年の若かつた才八は、子供の時から、唯の奉公人でやつて來たのでせう。
「親分、お願ひしますよ」
又、八五郎が飛んで來ました。
「何がどうしたんだ」
「猫又法印が威張り出して手がつけられません。與吉親分は弱つてますよ」
「よし/\」
平次は氣輕に身を起すと、猫又法印の部屋になつてゐる、奧の一と間に入つて行きました。其處では
「やい、岡つ引奴、俺が向うの部屋で、下手人調伏の
お經で
「御坊、大層な勢ひだな」
平次はヌツと入りました。
「何んだお前は、錢形とか何んとか言はれて、近頃増長した野郎だな」
「お互ひに増長するのは結構なたしなみぢやないよ。ところで、御坊はこの家の何んだ」
「主人市十郎の用心棒だ」
「用心棒といふと、一期半期の奉公人か」
「ブ、無禮なことを申すな」
「主人市十郎は死んでしまつたぜ。奉公人なら居据つても構はないが、
平次も我慢がなり兼ねました。
「言つたな野郎」
「
「何、何んだと」
「そんな
平次は無道軒を乞食坊主と見破つて、
「何んにもありませんよ、親分」
八五郎は押入から首を出しました。
「それ見ろ、後の
力づくでは
「いや、きつとあるに違ひない。若旦那の彦太郎を
「待つて下さい親分」
四ツ谷の與吉は疊をあげて床下を這ひまはつた
「何んだそれは?」
「泥棒龕燈ですよ。この中に小さい
四ツ谷の與吉はすつかり得意になつてをります。
「いや、そんなことでは自分の姿を見せずに、影法師だけを、遠くの往來や椽側に映すわけには行くまい」
平次はさすがに
「ザマあ見やがれ」
猫又法印は面白さうにわめきます。側に平次と與吉と八五郎が居るのでは、力づくでは叶はぬかと思つたか、どうやら神妙に
「親分、妙なものがありましたよ」
八五郎は押入れの隅を這ひ廻つてをりましたが、やがで何やら一と掴みほどさらひ出しました。
「蝋燭の
それは不思議な判じものでした。平次はそれを疊の上に列べて、默つて考へ込んでをります。
「御坊は以前、長崎に居たことがあつたさうだな」
「それがどうした」
猫又法印は肩を
「長崎で拔け荷を扱つたといふが、オランダ人から、寫し繪くらゐは手に入れたことがあるだらう」
「?」
猫又法印は默つて眼を光らせました。
「彦太郎を
「――」
「そして、その影法師が出る時、木の
「――」
「八、
「よしツ」
八五郎はいきなり天井にもぐり込みました。此處に言ふ『映し繪』又は『寫し繪』は、後の世の
猫又無道軒はそれを一臺江戸に持ち込み、最初は
天井裏から、怪し氣な幻燈器械は直ぐ見付かりました。
「サア、坊主、カラクリの寫し繪が出て來たぞ。望みの通り寺社の御係りに引渡さうか」
八五郎はその煙突のある眞四角な黒い箱を差し上げて踊り出します。
「いや、この上は、何んであんな事をしたか、ワケを訊かう」
平次は問ひ詰めました。
「知らない/\、知るものか」
猫又法印は大きく
「よし/\、宜い心掛けだ。何んにも言ひたくなきや、菊屋の主人市十郎殺しの下手人として、送つてやるだけのことだ。――どうせ本當の下手人はお前ぢやあるまいが、この平次が手を引けば、お前を助ける者はないぞ。それも承知か」
「いや、言ふ。斯うなれば皆んな言ふ。頼んだ相手は死んでしまつた。もう默つてゐる義理もない」
猫又法印はペラペラとしやべつてしまひました。それによると、彦太郎が臆病で神經質なのを知り、それをウンと
彦太郎は憎くもあり邪魔でもありましたが、世間や親類の手前、表向きはそれを追つ拂ひもならず、その上彦太郎とお袖は
「といふわけだ。皆んな主人の言ひ付けで俺の知つたことぢやない」
と、この
「親分。すると、主人殺しの下手人は誰でせう」
「矢つ張り、猫又法印ですか」
「いや違ふ」
平次が家の廻り、わけても風呂場やお勝手を念入りに調べるのを、八五郎は追つかけるやうに訊ねるのです。
「すると、あの弱さうな
「いや、あの彦太郎ではない――俺には下手人はわかつたつもりだ。キメ手になる程の證據がない」
「
「お前は亂暴でいけない。證據のない者を縛つて、
「相變らず、弱氣ですね。何を搜しや宜いんで」
「紙の
「紙屑籠ぢやありませんか」
「曲者はそんななまやさしい人間ぢやない。
「親分は?」
「俺はもう一度市十郎の殺された二階を見るよ。お前も後から來てくれ」
八五郎は四ツ谷の與吉を搜しに飛んで行きましたが、やがて、二階の主人の部屋で、何やら考へ込んでゐる平次のところへ戻つて來ました。
「犬は良いのがあるさうですよ。次は何んです、親分」
「お前は背が高い方だが、主人の市十郎は
平次は妙なことを言ひます。
「その代りよく
「ところで、お前は、この主人を突き殺した、障子の
「斯うですか」
八五郎は
「ところで、廊下から主人を突いたと思はれる障子の穴は恐ろしく高い、――丁度お前の首のあたりに當るぜ」
「主人の傷は、後から背中の左、
「
「それはどういふ者なんです、親分」
「穴が高過ぎるし、
「誰です、それは?」
「主人市十郎に信用されきつてゐる者、主人と
「誰です」
「毎晩この部屋へ來る奴、――主人の市十郎を、
丁度その時でした。階下の方では何やら、騷ぎが始まつた樣子、四ツ谷の與吉の聲が
「親分。犬は裏の柔かい土を掘つて、血染の半紙を見付けたさうですよ」
椽側から階下を覗いて八五郎は
「よし、これは店の大福帳から

平次はそれを承けて立ちました。
「どうしてそんなところに」
「曲者はその大幅帳を主人に見せに來たのだ。主人の市十郎が、それを覗いて見て居るところを後ろから刺した。血は大幅帳に

「すると曲者は?」
「その男だ。與吉
平次は二階の椽側から、逃げて行く一人の男の後ろ姿を指さすのです。
それは言ふ迄もなく、手代の才八。土地の御用聞與吉は、飛び付いて自分の
主人市十郎に、
× × ×
猫又法印の佐多田無道軒は、唯の山師坊主とわかつて遠島になり、お世乃とお染は、淋しく菊屋の跡を立てました。
お袖は身を恥ぢて
「文句を言ふ野郎があつたら、俺が引受ける」
などと八五郎までが乘出して、若い貧しい二人を一緒にしてやりました。
「良い心持ちだね、親分」
三十男の八五郎は、自分がまだ獨り者のくせに、こんな呑氣なことを言つてゐるのです。