「馬鹿
山浦丈太郎は、その手紙を
三年前まで、小田原の城主
その後、役人の
そんなに曲解されなければならぬ境遇や、その日の物にまで事欠く、三年越の浪人生活に、山浦丈太郎悉く嫌気がさしている矢先、この不思議な手紙を受取ったのです。
「よし、それならば、討たれて死んでやろう。俺の言い分の通らない世の中に、貧乏し
山浦丈太郎は、物事をそんな風に考える男でした。
取って二十八の良い男、箱根
時は正徳三年八月の初め、七代将軍
浪人者のみじめさは、こんな時ほど身に染みます。腕に
山浦丈太郎ならずとも、落ち果てた浪人者が、そう言った心持になるのは無理のないことでした。
武州八王子にこれも佗しく暮している浪人者、万田龍之助も、同じような手紙を受取りました。
其方も最早十八歳ではないか、親の敵の山浦丈太郎が、目と鼻の間に居るのに、何んという不甲斐 のないことだ。父親の九郎兵衛に少しばかりの非曲はあったかも知れないが、それを洗い立てた上に、手に掛けて殺したのは山浦丈太郎だ。その敵も討たずに、お染 の愛に溺れ、八王子から一歩も踏み出す心の無いのは、何んという見下げた性根であろう。それほどお染の傍を離れるのが嫌なら、一緒につれ立って、敵討の旅に出るがよい。来る八月十五日の日没頃、其方のためには不倶戴天の敵山浦丈太郎は、箱根の間道太閤の辻堂の前に立って居ることになっている。夢々疑うまいぞ。この折を取逃しては、親の敵を討つ望 はまずあるまい。穴賢 、人に語るな。
人をだが、敵の所在が
「よし、敵山浦丈太郎を斬って、父親と一緒に、八寒地獄へ真っ逆様に落ち込んでやろう」
そう言った無法な心持が、万田龍之助の若い血潮を湧き立たせたのも無理のない事でした。
「龍之助様、
旅仕度もそこそこ、八王子の町を飛出した万田龍之助の後から、
龍之助が三年前小田原を追われてから、世間を狭く身を寄せた、遠縁の
「いや、なに、ツイ
龍之助は少しヘドモドしました。
「龍之助様、箱根へいらっしゃるのでしょう」
「え?」
「私も一緒におつれ下さい、お願いでございます」
「――――」
町外れの
「龍之助様、私にもこんな手紙が参りました。御覧下さい」
お染が懐から取出したのは、龍之助が受取った不思議な手紙と全く同じ筆跡で、
――万田龍之助は、親の敵を討つために、箱根の間道へわけ入ることになっている。相手は山浦丈太郎という勇士、龍之助一人では討ち取ること思いも寄らない。龍之助を助け度 いと思うなら、直 ぐ様後を追うがよい。南蛮渡来の短筒を一挺貸してやる。これさえあれば、女の細腕一つでも大の男に向うことが出来る筈 だ――。
あまりにもよく「短筒というのは?」
「これでございます」
お染は重そうに持って来た包を解くと、中から現われたのは、金銀の象眼を施した、南蛮物の凄まじい短筒が一挺、万田龍之助は、自分が
短筒を取上げて、巨大な
「何が行手にあるか少しも解らないが、
「でも龍之助様」
お染は鉄砲を掻い抱く恰好で、クネクネと
「母上が御心配なさるだろう」
「いえ、母様へもそう申して参りました。母様は――龍之助様先途を見届けるのはお前の役目、私は決して止めはしない――と
「――――」
龍之助は涙ぐましい心持でうなずきました。
人呼んで厄介の
「
大磯の居酒屋でとぐろを巻いているところへ、十二三の可愛らしい小僧が声を掛けたのです。
「何? やっけえのけえ六? ――馬鹿にするねえ、そんな珍毛唐見てえな名前なんか持って居るものか、畜生ッ、人の
粕臭い息をフーッと吹いて、クルリと向うを向いてしまいました。
「だって、左の
「やいやいやい、人の面の棚
「御免だよ、耳朶を取払った代りに、歯が飛出しゃ元々だ」
「抜かしたな小僧」
「怒ったって怖くも何んともないよ、それより、やっけえのけえ六なら白状した方が
様子が滅法可愛らしい癖に、言うことは恐ろしく
「何?」
「だから白状しねえ、やっけえのけえ六ならやっけえのけえ六と――」
「貝六は俺だよ、江戸から箱根までの間に、
「それ見ねえ、やっぱり厄介の貝六じゃないか。それよ、手紙は確かに渡したよ。お駄賃がうんと出ているんだ。あとで受取らねえなんて言っちゃおいらの落度になるぜ」
「何を小僧
厄介の貝六は小僧から手紙を受取ると、クルクルと巻き込んだ半切を開いて行きました。美しい仮名文字が五六行、
「読めるかい、親分」
「何をッ」
「その手紙が読めるか――てんだよ、
小僧は傍を向いて赤い舌をペロリと出しました。
「何をッ、陽が
「うまく言うぜ、――読んで上げようか親分」
「何をッ」
厄介の貝六は負け惜しみを言い乍らも、小僧の手に手紙を渡す外はありません。
「面白いことが書いてあるぜ、けえ六親分」
「何を」
「親分は見かけに
「一人で笑って居ずに、さっさと読みやがれ。
そう言い乍らも、貝六はすっかりじれ込んで居りました。
「こんな手紙を、
「何を
「
「小田原のあの子、はてな?」
貝六は小首を傾げました。小田原の飯盛に嫌がらせをしたのは幾人もありますが、箱根の山の中へ
厄介の貝六は狐につままれたような心持でフラフラと外へ出ました。
「貝六」
押し
「何をッ? 間抜け
反抗的に肩を
「大層な機嫌だな、貝六」
「おや、
貝六は拳固でペロリと顔を撫で廻しました。この凄味な浪人者赤崎
「旦那って程の面じゃねエが、間抜け
三十五六、色白で、長身で、腐った
「勘弁しておくんなさい、その朱鞘が目に入らねえほど面喰って居たんで」
「ハテネ」
赤崎才市はプッと楊子を吐きました。
「ところで御用は? 旦那」
「外じゃねえ、手前がツイ今しがた、小僧の手から受取った手紙があるだろう」
「ヘエー」
「お易い御用だ、ちょいとそれを見せてくれ」
「お易い御用じゃありませんぜ、旦那、一生に一度の女運をさらわれた日にゃ、あっしは浮ぶ瀬が無くなりまさア」
「馬鹿だなア、――女運だと思ってやがる、そんな気でうかうかと太閤道へ行くと、運がよくて関所破り、悪かった日にゃ、そのガン首が一ぺんに飛ぶぜ」
「おどかしっこなしに願いやしょう。こんなに見えても、あっしは臆病者で、ヘッ、ヘッ」
「厄介の貝六が臆病だった日にゃ、世の中に肝の太い人間が無くなるよ、――まア宜い、俺を疑うなら、ボンヤリ太閤道へ、行って、その薄汚いガン首を無くして来るが宜い」
赤崎才市は、
「望みは金じゃないよ」
「ヘエー」
「先刻手前へ女文字の手紙を渡した小僧は、俺にも一本渡して行ったんだ、――隠すものか、俺はそんな料見の狭い人間じゃねえ、これだよ、ほら」
赤崎才市は、懐から分厚の手紙を一本取出して、何んの
「こいつは読めませんよ旦那、自慢じゃねえが仮名でせえ小僧に読んで貰ったあっしだ」
「そんな事が自慢になるものか」
「読んで下さいよ旦那」
「読んでやっても宜いが、今日、たった今から、お前は俺の仲間になるか」
「ヘエー」
「驚くな貝六、――仔細あって俺は、この
「七万両――、待っておくんなさい旦那、七万両というと、一体どれ位の金で?」
「一両小判が七万枚だ、――そいつを一人占めにする手段も知って居るが、向うに廻る人間が恐ろしく
「そいつは旦那」
貝六はゴクリと
「七万両と聴いて肝を潰すなんざ、厄介の貝六に似気ないことじゃないか」
「驚きやしませんが、そいつはあんまり話が大きくて本当らしくはありませんぜ旦那」
「よしよしそれじゃ嘘だと思って来て見るが宜い、今から八月の十五日まで――三日の間俺に手伝ってくれたら、日当一両ずつ出すよ。その代り七万両の金が入ったって、手前には一文もやらないよ」
「日当一両も悪くねえが、七万両の山分けの方が、少しばかり分が良いようだ。乗りますよ、旦那その割勘の方に」
「人間はあまり
「ヘッ、自慢じゃねえが空っ
「顔で呑める店は無いのか」
「八方塞がり」
「呆れた野郎だ、その
「ワッ、この一張羅を剥がれちゃ道中がならねえ、そいつは殺生過ぎるぜ旦那」
「何を言やがる、人に訊かれたら雲助の
性格の破産者と信用の破産者、
「もう少し詳しく話しておくんなさい。絆纏一枚が惜しいわけじゃねえが、七万両の夢を見て、風邪を引いちゃ割に合わない。これは一体どうしたことなんで? 旦那」
厄介の貝六は、店の中に誰も居ないのを見定めると、盃を置いて赤崎才市の方へ膝を寄せるのでした。小田原の町外れ、上り下りの客に、一番安くて
「誰も聴いちゃ居まいな、貝六」
「時分時でないから大丈夫でさ、猫の子が一匹耳をすまして居るだけだ、勘定が済んだら、親父は安心して奥へ引込んだし、小女はつまみ食いで
店の内外を
「それじゃ話して聴かせる、驚くなよ、貝六」
「驚くな――たって、眼なんか据えて
「無駄を言うな、――手前の守り袋か臍の緒書きの中に、得体の知れないものを描いた、変てこな
赤崎才市は物々しく始めます。
「ありますよ、旦那、死んだお袋が肌守の中に縫い込んでくれたんだが、何んでも三寸四方ほどの小さい紙片で、蜘蛛の巣のようなものと、六つかしい字が書いてある筈だが――」
「それだよ、貝六、それがありゃ、手前も
「ヘエ、一万両」
「宜いか、よく聴くんだぞ、――今から
「ヘエー」
話の重大さに貝六はすっかり圧倒されました。
「その大久保石見守は、武州八王子で、三万石を食んで亡くなったが、死んだ後で大変な
「――――」
「ところが不思議なことに、七人の妾に分けてやると言った七万両の金だけは、
「――――」
「無い筈だ。その七万両というのは、大久保石見守が、家康公の命令で、最初に
「――――」
「その手筐は公儀役人に没収されたが、役人に見付けられる前、総領の藤十郎はそっと絵図面だけを
「――――」
「七つに切った絵図面は、大久保石見守の百年忌に、箱根の山の間道で一緒に集まることになったのだ。こいつはまぐれ当りや、物のはずみじゃ無い。死んだ石見守の導きか、――いや、そんな事でもあるまい。俺達の眼にも止らない恐ろしい人間が、逞ましい智慧を働かせて、絵図面の切れを持った大久保石見守の七人の子孫を、糸をたぐるように、日本国中から箱根へ集めているのだ」
そう言う赤崎才市も、不敵な眉をひそめて、逞ましい肩をゾッと顫わせました。
「で――」
貝六は何んべん固唾を呑んだことでしょう。
「大久保石見守の子孫は、四方八方に散って居る。勝手な苗字で勝手な仕事をして居る。この赤崎才市もその一人なら、お前――厄介の貝六もその一人だ。七人の子孫が集まって、仲よく一万両ずつ分けるなら物事は穏かだが、――俺から始め、そんな事じゃイヤだ。七万両みんなか、元の
赤崎才市の話は、厄介の貝六の肝を奪いました。二朱や一貫の
「旦那、――そ、そいつは驚いたね、あっしなら、七万両が七十両でもオンの字だが、
「好い心掛だ、その気で一つやってくれ」
「
「ちょいと、女の子を一人さらって、若い武家を一人
「ヘエー、安く言うが、そいつは大仕事だぜ」
「そんな気の弱いことじゃ、七万両の夢を見るのも六つかしいぞ、宜いか、貝六」
赤崎才市は貝六の耳に口を寄せました。
「お、
「
「
「寝物語なんてものを用いないからだよ」
無駄を言いながら、何やら
旅の雲水、名は
雲水空善は腹痛を起して、店の奥に横になって居るうちに大変な事を
「――名月の宵、箱根間道太閤道の辻堂にて、非業に相果つる五或は七の
「ちょいとお待ちなさい、旦那」
「――――」
「旦那」
二度まで呼ばれると、山浦丈太郎は静かに立ち止りました。畑宿を越えて、左へ一と足、箱根笹の凄まじい茂りの中へ分け入ろうとしたところを呼び止められたのです。
「拙者に用事か」
丁度真昼時分、不思議に人足が絶えて、間道に分け入るのは、今を
「
振り向くと、思いも寄らぬ近々に女の首、
「心得て居る」
山浦丈太郎は悪びれた色もありません。
「まあ。――
「何?」
山浦丈太郎はさすがにギョッとしました。
「それを承知の上で、間道へ踏み込むのは」
「お前は何んだ、――見たことがあるような」
「お忘れになりまして」
又ニッコリ、浅黒い顔、美しくもない髪
「白糸のお
この素晴らしい笑顔で、山浦丈太郎は
それにしても、以前と少しも変らぬ若さと愛嬌は何んとしたことでしょう。三年前のお滝は十九か二十歳に見えましたが、三年後の今近々と顔を合せても、二十歳よりあまり上とは思われません。
「まア、嬉しいワねエ」
そう言って又ニッコリする様子は、
「
「藪から棒でなくてよかったでしょう」
「
山浦丈太郎はお滝をかきのけて、箱根笹の藪へ――
「まア、本当に関所破りをなさる
お滝はフイと身を開きました。
「心願の筋があって、
「どんな祟りがあっても」
「くどい」
「箱根関所の元御役人が、何も彼も心得て関所破りをなさると、容易のことでは済みません――命にかけて
「それを聞いてどうする」
「まア、そんな怖い顔をなすって――、私は、あなたのお為を思って
「俺の望み? 俺の望みは命を捨てに行くのだよ、敵を討たれに行くのだ」
「まア」
「それをお前が代ってくれると言うのか」
山浦丈太郎の頬には、皮肉な微笑が浮ぶのでした。
「たったそれ
「命を捨てることが、たったそれ丈けというほど手軽か」
「これは? 山浦様」
お滝は帯の間から、錦の守袋を取出して、目の前にチラチラさせるのです。
「あ、それは俺の守り袋だ、いつの間に――」
「ホ、ホホ、麓の茶屋で、これを抜かれたのを御存じなかったのでしょう」
「お前か」
「まア、まア、私が泥棒や巾着切に見えます?」
「外に誰も居なかった筈だが――」
「厄介の貝六という、日本一の厄介な男が、あなたの側でドブ六を呑んで、絡みついて居た筈ではありませんか」
「フーム」
「この守り袋の中に、命と釣替の大事なものが入っていることを御存じでしょう」
「いや、その中には臍の緒書が入って居るだけだ。今死ぬ身に用事のない品、親切気があるなら、そこらの草の中に埋めて人に跨がれぬようにしてくれ」
言い捨てて、山浦丈太郎は箱根笹の中に分け入るのです。
その
「その臍の緒書きの上を包んだ紙片に御用はありませんか」
「要らない、そんな
「まア、これが反古紙、何が書いてあるか御存じもない?」
男の気楽さに、お滝も少し
「知らない、もう俺に構うな」
山浦丈太郎は箱根笹を分けて、次第にその深みへ没し去ります。
「何んと云う
お滝の声も、チラホラ見え初めた旅人の姿に遠慮して、それっ切り
「チェッ、仕様が無いねエ」
「お武家様、
言葉は丁寧ですが抜きも差しもならぬ命令です。万田龍之助はお染と顔を見合せてハッと立ち
関所破りは磔刑が定法、その素振りや計画があった丈けでも無事には済みません。――そう気が付いた丈けでも、唇が痺れて、頬からサッと血の気の
「馴れぬ旅に近道をしたばかりに、道に迷ってこの仕儀、
万田龍之助は長いものに
「それじゃ、こうお
万田龍之助は、お染を振り返って「安心して待ってお
湯元から間道を入って、谷川を宜い加減
「まだかな」
「もう
山裾を廻る時たった一言交した切り、それから又十二三丁、道は草叢に没して、次第に街道から遠くなる様子です。
「おや?」
気が付いて見ると、
「案内の方、案内の方」
二三度、その辺を
「若しや?」
万田龍之助は立ち止って後ろの方を
龍之助は
「おッ」
万田龍之助は立ち
道はたった二本、今龍之助の来たのと丁度反対の方へ伸びて居る杣道を、滅茶滅茶に駆けました。時々大きい声で「お染」と呼び度い衝動に悩まされ乍ら、
がそれは全く無駄な努力でした。
四半刻ばかり、傷ついた獣のように駆け廻った龍之助は、ハッと、草地の上に膝を突きました。
「あ」
赤い、燃え立つような
絞りの麻の葉も、龍之助に取っては忘れようのないものです。紛れもないお染の品――と思うと、ツイ抱き締めるように
途方に暮れて、暫く立止っていると、サラサラと耳に爽やかな水の音が聴えます。龍之助はそれを聞くと、恐ろしい渇きに、喉が
這い寄って見ると、崖の上から落ちる一筋の山清水へ、誰が架けたか、青竹の
手で
「あッ」
くらくらと
ジーンと鳴いて行く秋の蝉、――側腹のあたりに、
やや暫く経つと、同じ清水の傍に、山浦丈太郎が差かかりました。
山路は馴れた強健な足取りですが、秋の陽に照り付けられて、さすがに喉が渇いたものか、水の音を聞くと、吸い寄せられたように、岩清水の下に腰をおろしたのです。
山馴れのした丈太郎は、直ぐ側にある
「――――」
首を曲げて、プーッと吐き出しました。
「あいや、御武家」
後ろから声を掛けられると、
「拙者か」
ギョッとし乍ら、悪びれた色もなく振り返ります。
「その水を呑んではなりません」
六十近い雲水の僧、
「御僧、なぜお止めなさる」
「その清水には、毒が投じてござるぞ」
「えッ」
「現にツイ今しがた、その水を呑んで毒に
「
「病人はそこの木蔭に寝かせて置いたが、愚僧一人では何んとしても手が及ばない。貴殿も暫く
「心得申した」
指さす一と叢の木立の中へ、
「御僧、病人は
「それ、その木の下」
二人は大きな日影を作る木の下へ入りました。が、差覗くまでもなく、
「あッ」
「どうなされた御僧」
「確かに
「どんな方?」
「十七八の、まだ前髪立の若い武家で」
「フーム」
山浦丈太郎は妙に思い当ります。箱根の間道へ、今日に限ってわけ登る十七八の若い武家、それが自分を敵と
丁度その時、
「お滝さん、ヘッヘッヘッ、うまくやっているぜ」
「あッ――けえ六親分かい、おどかしちゃいけない、そんなところへ、汚ない面なんか出して」
「汚い面は御挨拶だね」
「こんなところへおびき出して、この若いのを締めたのはお前さんだろう」
白糸のお滝は、美しい顔を挙げて、押っ
「冗談だろう、その武家をおびき出したのは俺だが、締めたのは俺じゃねえ」
「はてね」
「雌の方を知ってるかい、お滝さん」
「知らないよ」
「はてね」
厄介の貝六も仔細らしく雁首を曲げました。
「こいつは油断が出来ないよ。手柄争いは私と親分達ばかりじゃない。蔭にもっと凄いのが居て、恐ろしい事を企らんで居るに違いない」
「――――」
「私も、赤崎さんも、お前さんも、その糸で操られて、銘々一番賢い積りで見得を切って居るのさ」
「誰だい、その糸を引いてる野郎は」
「判らない、少しも判らないから
お滝はそう言って
「お女中、待たれい」
恐ろしく錆の乗った声、お
「ハ、ハイ」
「
五十日月代、腐った羽二重、朱鞘を落して、麻裏
「――――」
お染は
「ところで、お前のつれの若侍――万田龍之助とか言ったな、――あの男は首尾よく罠に落ちてしまったよ」
「えッ――敵は、敵討は?」
「何を隠そう、俺がその敵だ」
「山浦丈太郎?」
「そうだ、山浦丈太郎とはこの俺のことだ。今では、万田龍之助を生かそうと殺そうと俺の心持一つだ」
「――――」
ヌケヌケとこんな事を言ってのける、赤崎才市の
「あんな小僧を
「助けて下さい、あの人を、お願いだから助けて下さい」
お染は後前の分別もありませんでした。万田龍之助が助かることなら、どんな犠牲でも忍んだことでしょう。
「随分助けてやらないものでもないが、それには望みがある」
「?」
「お前の持っている肌守の中に、蜘蛛の巣のようなものを書いた、絵図面の切れがある
「――――」
「どうだ、お易い事ではないか、その絵図面一つで、お前の
「でも、これは母さんが、誰にも見せてはならないと――」
お染は
「よしよし
赤崎才市は子供をからかう調子で、眼までつぶって見せるのです。
「いえいえこれは」
お染は懐を抱いたまま、後に断崖が口を開いて居ることも忘れて、ジリジリと下るのです。
「さてもしぶとい」
赤崎才市は、長いのをギラリと抜きました。鞘は大
「あれッ」
お染はもう一歩退きました。
「危ないッ、後は谷だ、――この刀の方が、まだしも極楽だぞ」
ニヤリと笑う笑いがコビリ付いて、赤崎才市の苦渋な顔に、残酷な悪相がパッと拡がります。
「あれーッ」
町娘のお染は他愛もありませんでした。
前後の分別もなく、脅かされた鳥のようにパッと
「待て待て、聴きわけのない女だ」
赤崎才市の手が伸びると、お染の帯際を取ってグイと
「ヒ、人、人殺しッ」
「馬鹿
「た助けて――ッ」
若い最高音を本街道が近いと聴くと、手加減もなく張り上げるのです。
「えッ、面倒、俺を怨むなッ」
赤崎才市は小手を振りました。紫電一閃、お染は飛び散る血潮の中に、声もなく崩折れます。
赤崎才市は血振いをして一刀を鞘に納め、娘の死骸を引起して、帯の間を
「無い」
振り上げた顔、疑惑と失望に歪んだ
「あッ」
顔をかすめて、プーンと焔硝が匂うのです。
「驚いたか、御浪人」
近々と高鳴る若い声、振り仰ぐとツイ頭の上、二十尺ばかりの屏風岩の上に、短筒を片手だめしにして、十三四――とも見える少年が笑って居るではありませんか。
「何者ッ?」
赤崎才市はカッと眼を剥きました。
「箱根近くに住んで俺を知らなきゃもぐりだよ。大磯へ変な手紙を持って行ってやったじゃないか」
「あッ、あの小僧か」
いつぞや厄介の
「箱根の
「何を小僧
「怒ると上から小便をひっかけるよ、ハッハッハッ、驚いたろう、あわてて逃げたって駄目だよ」
「己れッ」
「そんな女の懐なんか捜ると、鉄砲が物を言うぜ、見るが宜い、南蛮の短筒だ、――その女は、こんな結構なものを持っているくせに、使うことを知らなかったんだ」
「馬鹿
「俺は鉄砲の撃ちよう位は知ってるぜ。今のは小手調べさ、小鬢をちょいとかすって、傷をつけないところが手際だろう、本当に撃つ気なら、眼玉でも鼻の穴でも喉仏でも、望み次第に撃ち貫いてやる――屏風岩の根を廻って来ようなって駄目さ、大きな声を張り上げりゃ、畑宿まで筒抜けだ、ものの百も数えぬうちに、お役人が五六十飛んで来るよ、今の鉄砲の音で、宜い加減驚いてるんだもの」
「――――」
「驚いたか御浪人、尻尾を
海道丸の
赤崎才市は黙って引揚げました。お染の懐に、狙った密書が無いとすると、この上小僧をからかって、つまらない破綻を招くのは、いかにも馬鹿気て居ります。
「大層な勢いじゃないの」
後から柔かい声、
「あ、姐御か、
振り返った海道丸の鼻の先へ、近々と白糸のお
「鉄砲の音に驚いて来て見たのさ、でも危ないネエ、そんなものを
「大丈夫さ、
「まア」
「たった一つ入って居たんだよ、そいつが外れて、あの浪人野郎の鬢の毛を少し

「あッ」
お滝が止める間もありません。海道丸の手があがると、短筒は大きく弧を描いて、千仞の谷底へ放り込まれたのです。
「
海道丸は腹掛を探って、二枚の絵図面の切れを
「まア、
「一枚は、毒に
「まア、お前だったのかい」
「一枚はその女が夢中になって、巾着を落して行くから、後をつけて行って拾ったんだよ。それから、
海道丸は小さい
「まア、いやに
お滝も少し
「いやに物驚きをするぜ、
「まア、呆れたよ、この子は」
「
「――――」
お滝も口がきけなくなりました。
「もう陽が落ちるぜ、辻堂の前へ行って待ってるが宜いや、あばよ」
ヒラリと身を翻すと、屏風岩から一足
「姐御、甘くやって居るぜ」
「誰だい」
「貝の字」
入れ代って、ノソリと立ったのは、厄介の貝六の半裸体、自分の鼻を指してニヤリニヤリと笑うのです。
「貝の字も無いものだ、臭いよ、風上からじゃ、お目通りは叶わないよ」
お滝は
「いやにツンツンするじゃ無えか、
厄介の貝六はそんな事を言い
「お前さんにはお職過ぎるよ、――
「
「脅かす気かい、お
「その棘にさされて
お滝は袖を楯にして、さすがに一歩退きました。
「口説きも
「――――」
「ね、姐御、いやさお滝さん、七万両の小判を一人占めにしようたって、そうは行かねえ。素直にその四枚を投げ出しゃ、俺もあとの三枚は工面するよ、物は相談だ。どうだい」
貝六は大きな手を頤の上に泳がせて、ジリジリとにじり寄るのです。
「あとの三枚がお前の手にあると言うのかい」
「今は無い、が、持ってる奴は俺の外に二人、
貝六はひどく下手に出ました。赤崎才市が口ほどにもなく働きの無いのに比べて、お滝は海道丸少年を手先に使って、半日の間に四枚の絵図面を集めた手際の素晴らしさに面喰ったのです。
「御免
「何を?」
「怒ったって駄目だよ、しっかり
「何をッ」
厄介の貝六も一向睨みがききません。お滝の舌に翻弄されて、掴みかかるほどの勇気もなく、スゴスゴと引揚げてしまいました。
「あれが太閤道の辻堂で御座ろうな」
旅の雲水
「左様、
山浦
「どうしても行かれるか」
「いかにも」
「今宵、名月の光に照されて、太閤道の辻堂の前に、五、
旅の僧が丈太郎の
「
「そこで、御武家の面体には、不祥な事を申すようだが、明かに死相が――」
「敵討たれに行く拙者、死相は当然のことで御座る。武士に取っては、誉れの吉相」
「何んと言われる、敵討たれ?」
雲水空善は、丈太郎の言葉の意外さに、押えた袂を離して、正面に廻りました。
「今から三年前、この箱根関所役人として、朋輩万田某を斬って
山浦丈太郎は雲水をかき退けるように、ツイと出るのです。物ごしの静かさ、恰幅の見事さ、人柄の上品さ、雲水空善は、長大息して、この死にに行く武士を見送るばかりです。
「武門の意地とあらば、最早お止め申さぬ、御片付けは出家の役、いずれ骨を拾って進ぜましょう、南無」
空善は法衣の袖を合せて何やら念ずるのです。
「さらば、頼み入る」
一礼して山浦丈太郎は、箱根に馴れて健やかな足取り、果し合いの場に臨むたしなみには無いことですが、岩を踏み越えて、一気に辻堂の方へ登ります。
が、辻堂の前にたどり着いた丈太郎は、まだ誰も来て居ない事に気が付くと、捨石に腰をおろして、暮れ行く
「山浦丈太郎、よくぞ参ったな」
辻堂の後、夕闇を染め出した中から、ヌッと出て来た男の顔は、覚悟を決めて居た山浦丈太郎を驚かすに充分でした。
「貴殿は?」
「万田龍之助――不倶戴天の親の敵、覚えたか」
「何? 貴公が万田龍之助」
「いかにも」
五十日月代、腐った羽二重、禿ちょろの朱鞘、長刀になった麻裏を突っかけた、三十五六の万田龍之助があって宜いものでしょうか。
「万田龍之助氏は、拙者はまだ対顔しないが、十八九の前髪立の美少年と聞いたが――」
「いや、ツイこの間まで若衆であったよ、前髪を落して急に老けて、こんなに小汚なくなったが
ヌケヌケと青髭の跡をさすって笑う不敵さ、
「何んと言う」
「いつまでこの顔を眺めて居ても、老けたものは若くはならぬが、拙者は正に万田龍之助、親の敵だッ、来いッ」
ギラリと抜いた一刀、万田龍之助と名乗る赤崎才市は、片手上段に振り
「意趣を言えッ、次第によっては、相手になろう」
「親の敵――で悪ければ兄の敵、それで気に入らなきゃ朋輩の敵だ。
「それ程に言うなら相手になろう」
山浦丈太郎は相手の顔色から、兇悪な
「いよいよ抜いたな」
「
「行くぞッ」
刃の切先と切先が噛み合いました。夕映と月明りとが、中空に入れ代る淡藍色の大気の中に、二条の毒蛇は、伸び、縮み、絡み合い、死闘の一瞬を享楽しているのです。
その後から、ヒョイと首を出した厄介の貝六、岩を小盾に
それが急所を外れたにしても、
あわや、――真に危機一髪という時でした。
「あッ」
山浦丈太郎と赤崎才市の果し合いは、
「待った」
誰やら、谷底から這い上る気合、
「その勝負待った」
「お、御坊」
一歩下った山浦丈太郎、それへ噛んで含めるように、
「暫く、その勝負の相手は、これなる若いお武家でござる、まことの万田龍之助殿は、この仁でござる」
空善は月の中に、死に行く少年武士の顔を曝して見せるのです。
ドキリとした様子で、少年を避けた赤崎才市、それがうっかり、山浦丈太郎の身近だった事には気が付きません。
「
踏み込んだ丈太郎の一刀、赤崎才市を袈裟掛に切って落しました。
「万田殿」
空善は、心せわしく少年武士を抱え上げます。
「いざ、この首を進上しよう。本懐を遂げられい」
山浦丈太郎は一刀の血ぶるいをして、雲水の腕の中の少年武士を覗くのでした。
「もう息が無い、一念の力で、瀕死の身を辻堂近く這い上ったのを、幸い拙僧が夕闇の中に見付け
「――――」
空善は龍之助の月光にカッと見開いた眼を
「道々、苦しい息の下から、素性を打ち明け、敵討つために辻堂へ――と繰り返して言われたが――南無」
空善は涙を念仏に紛らせました。月明りに浄化された万田龍之助の死顔は、この上もなく
「敵の顔も見ずに――不憫な」
山浦丈太郎も裏淋しい心持でした。
「何事も約束でござるよ、――討ち兼ねるのは、討ち兼ねるだけの仔細があろう」
「生きて、も一度下界へ還る望みは無い。死出三途の道づれは、この山浦丈太郎が――」
ハッと思う間に、丈太郎は血刀を逆手に取直して居りました。
「ま、待って、山、山浦様」
「私も、私も殺して下さい、――この細工をしたのは皆んなこの私、――さる人から聴いた七万両の謎、六本の手紙を書いて、皆んな
「――――」
恋と慾との両天秤で、お滝は此大芝居を書いたのでした。その気違い染みた述懐はまだ続きます。
「大久保石見守の子孫が七人、それぞれ祖先からの言い伝えで、七万両の事は知ってる筈、でも、その七人の居る場所が判らなかった、――幸い私に教えてくれる人があって、六人六様の手紙を書くと、案に
がくりと
「山浦氏一人を助け、この山を
雲水空善は、珠数をあげてサッと空を払います。
「それに違いはありませんが、山浦様は私如きに目もくれません、それから七万両の金にも、――そして敵を討たれて死ぬ事ばかり考えて来ました」
「三四人の命を虫けらのように断つ女に、山浦氏が目をかけようか、
「いえいえ違います、私はいかにも絵図面を手に入れました、が、一人も人を
「何?」
お滝の言葉は予想外でした。
「四人の人は誰かに殺され、絵図面は独りでに私の手に集ったのです。この通り」
お滝は帯の間から、六枚の絵図面を出して、石の上に並べました。月明りが
「その一枚はこれだ」
雲水空善が、懐から出した一枚の絵図面を真ん中に置くと、絵柄はピタリと合って、
「これが辻堂だ」
山浦丈太郎は初めて口を開きました。美濃紙一枚ほどの絵図面が、
「これが辻堂の後の
と空善の指は絵図面を這います。
「――(仲秋望の夜
「
「御坊」
「山浦氏、
空善は寒々と袖をかき合せるのです。
「参ろう、御坊」
「お滝も来るが宜い」
二つの死骸に羽織をかけて片手拝みに、三人は辻堂の後に廻りました。時刻も丁度戌刻、筍岩の影の落ちたあたり、わざわざ敷いたらしい一枚石の上から、示された通りの足数を辿ると、道はハタと屏風岩に
「お、三猿が刻んである――苔がひどいから、
空善は屏風岩の正面の苔を払って、ほのかに見える三猿を指さしました。あまりの薄彫りで、昼の強い光線の下では、却って紛れて見えなかったかも解りません。
「叩いて見ましょうか」
と丈太郎。
「いや、叩くのは言葉の綾だろう、押して見られるが宜い」
「
山浦丈太郎は肩を三猿に当てて、ウーンと押しました。
とみ
「唯押しただけではいけない、この岩は一枚扉になっているが、
雲水空善は、早くも扉の仕掛を見破ったものか、三猿を
「これでよし」
と言った時は、三猿の岩はその根のあたりに、少しばかりの隙間さえも見せて、明かに龕灯返しの一枚扉ということが解ります。
「どれ」
山浦丈太郎が立って、三猿の左の方、何んにも
「灯が欲しいな」
空善は真っ暗な空を覗きながら言いました。
「今頃
山浦丈太郎は何んの恐れ気もなく、穴の中へズイと入りました。続いてお滝、最後は空善。
入口に背を向けて、丈太郎は早くも火打鎌を鳴らします。その頃の武家のたしなみで、火打袋と懐中
心細い灯ながら、それでも
「お」
真っ先に立った山浦丈太郎が、
「何んじゃな」
後から
「あッ」
お滝はさすがに悲鳴をあげました。が、次の瞬間、骸骨の凭れて居るのは、幾十とも知れぬ千両箱のうちの一つで、その箱も大方腐って釘が緩んだものか、一方の隅から、吹き立てのように見える小判が、ゾクゾクとハミ出して居ることが判りました。
「あ、灯が尽きた」
山浦丈太郎は、燃え残る懐中蝋燭を捨てました。細い紐のようになった懐中蝋燭が、今まで燃えて居たのが不思議な位です。
「右の棚――石の凹みの中に、蝋燭がある、百年前のものかも知れないが」
空善は早くもそんな事まで気をくばって居たのでしょう。丈太郎は大急ぎで手を
百年前の蝋燭が首尾よく燃えると、パッと一時に眼界が開けて、半ば腐った千両箱――三四十もあろうと思うのが、目に入ります。
「
空善は冷たい岩に腰をおろして、こんな事を言うのです。
「ハッハッハッハッハッ」
不気味な笑いが、
「
お滝にはわけても
「まア、海道丸」
お滝の声には救われた喜びが響きました。こんな陰惨な空気の中で、
「安くして貰うまいよ、姐御」
「えッ」
「海道丸には相違ないが、もうお滝姐さんの子分や手下じゃない――相対ずくで物を言うぜ、え、おい、三人」
海道丸の顔には、不思議に威圧的なところがありました。月の光のせいか、可愛らしい顔が妙に
「何を言うんだえ、海道丸」
「フ、フン、まだ気が付かないのかえ、こんな芝居を打ったのは、姐御は自分だと思って居るだろうが、よく考えて御覧、大久保石見守の子孫が、百年後にどうして居るか、一々教えてやったのはこの俺じゃないか」
「――――」
「六本の手紙だって、姐御が書いたに違いないが、文句は皆んな俺が教えてやったろう、――その坊さんに、今晩
「お前は――」
「黙って聴いておくれ、七人
「海――」
あまりの事にお滝は立上って手を振りました。月光に半面を照された海道丸の顔は、悪魔的で高慢で、もう先刻までの
「第一俺は十三や十四じゃ無えんだぜ、百年越の
一瞬淋しそうな苦笑いが、海道丸の頬をよぎります。
「お前は誰だ」
雲水空善は一喝をくれました。
「早くそれに気が付きゃよかったんだよ、坊さんはさすがに智慧がありそうだ、――考えて見るが宜い、大久保石見守の子孫、七家の人間を百年も見張って、敵を討つ折を狙って居るのは、一体誰だと思うんだ」
「――――」
「解らないのか、その骸骨の五代目の孫だよ」
「それじゃ、話に聴く石坂左門次の――」
空善は、何んとなく、ぞっとしました。丈太郎もお滝も、あまりの事に、口もきけません。
「その通り、
「――――」
「お滝姐さんは
海道丸の言い草は冷酷で高慢でした。
「己れッ」
我慢のなり兼ねた山浦丈太郎、入口から飛び出そうとしましたが、
「ハッハッハッ。駄目だよ、
海道丸は、顔を歪めて面白そうに笑うのです。
「十日も放って置くと、三人共餓死するよ、それが嫌なら、一つだけ助かる工夫を教えてやろう」
「――――」
あれからもう一刻位は経ったのでしょう。天井から吐き散らす、呪いの言葉も大方尽きて、深くなり行く夜だけが、穴から射し込む月光の角度でハッキリ読めます。
「俺は、先祖の百年目の命日に、
「――――」
「三人のうち、一番後まで生き残ったのを一人助けてやろう――餓死するのを待って居ちゃつまらない、二人を殺したのが助かる事にするんだ。三人でお互に殺し合うんだよ、素晴らしい観物だぜ。大久保石見守の子孫には、丁度宜い仕事だ」
「――――」
「どうだい、――一番強そうな山浦丈太郎は、二人をやっ付けて、助けられる気は無いかえ」
「馬鹿
丈太郎の
「フ、フ、やるぜ、でも、そんな事をしても無駄さ、姐御はどうだい、その武家と坊主を締める気はないのかえ」
お滝は悲しそうに上を見やるばかりです。
「坊主でも宜いよ、こいつは見物だぜ」
空善も黙って袖をかき合せました。
「二人を退治した者に、その七万両の金の半分をやるとしたらどうだ」
「――――」
「えッ、
悪魔の顔は又笑います。
「小僧、黙らぬかッ」
丈太郎はたまりかねて叱咤しましたが、それは
「怒ったか、お武家、それなら頼まない、三人一緒に退治してやる。――気が付くまいが、此天井には仕掛があるんだ、七万両を盗みに入る者のあった時、そいつをひと潰しにするように、四本の
「――――」
「楔は四方に立っている、四つの小さい地蔵様だ。こいつを一つ一つ抜けば宜い、宜いか、そら、一つ、二つ」
「――――」
「念仏でも称えるが宜い、これが三つ目だ」
何やら大きな音をさせて倒すと、小石が天井から雨のように降ります。
「四つ目を抜くよ」
海道丸の声と共に、お滝は丈太郎に
「山浦さん、三年越、私は忘れ兼ねました。たったひと言」
「お滝」
山浦丈太郎の手は、お滝の肩を引寄せて居たのです。お滝の思いの外の善良さが判ると、丈太郎の心の中に、関所役人時代の
「嬉しい、山浦さん」
二人の激情には構わず、
「いいか、四本目だぞ、こいつは少し固いや」
海道丸の声と共に、ひとしきり又小石の雨が降りますが、一瞬の後に迫る死も忘れて、丈太郎とお滝は夢心地に顔を見合せて居りました。
「入口の扉の側が宜いぞッ」
空善は天来の啓示にハッと気が付くと、男女二人の陶酔を破って、グイグイと岩の扉の下に押やりました。
同時に、ガラガラドシンと天柱地軸も崩るる音、立昇る土
「御坊、御坊」
「
見ると、岩と岩との間に挟まって、雲水空善は身動きもならぬ有様です。幸い天井が落ちたので、中天の月が明る過ぎるほどよく照して居ります。
「御坊、お
「少し重過ぎた、腰が砕けてしもうたらしい」
振り仰ぐ青い顔、淋しい笑はコビリ付いたまま、死の色が次第に濃くなり行きます。
「御坊」
「約束事じゃ、大久保石見守の子孫の末、七万両の金が身近にあると聴いて、
「御出家様」
千貫の岩に挟まれて、腰から下を泥のように砕かれた雲水空善の手を取って、白糸のお滝は泣くのです。
「石坂左門次の子孫も可哀想であった、が、海道丸は才智に任せて敵を討ち過ぎた、あれ」
空善のふるえる指先の方を見ると、天上の大岩と一緒に落ちた海道丸は、その岩にひしがれて、
「解ったか、お滝殿、山浦氏、これが因果の理法だ――仲よく暮されい、――お二人だけが許されたのだ」
「御坊」
「もうお別れじゃ、さらば」
二人の縋るに任せたまま、手を合せて仏の名を称える空善の声は、次第に
七万両の黄金が、江戸へ持出されて