裸身の女仙

野村胡堂




綱渡りの源吉が不思議な使い


「姐御」
「シッ、そんな乱暴な口を利いてはいけない」
成程なるほど、今じゃ三千石取のお旗本のお部屋様だっけ、昔のつもりじゃばちが当らア」
 芸人風の若い男は、ツイと庭木戸を押し開けて植込の闇の中へ中腰に潜り込みました。
 迎えたのは、二十一二の不思議な美しい女です。
 武家風にしては、少し派手な明石縮あかしちぢみ浴衣ゆかた、洗い髪を無造作に束ねて、右手の団扇うちわをバタバタと、蚊を追うともなく、話し声を紛らせます。不思議に美しい――と言ったのは、決して無責任な形容詞ではありません。月の光と、縁につるした灯籠とうろうと、右左から照らされたこの女の顔は、全く、想像も及ばぬ不思議な美しさだったのです。首筋に束ねた髪は燃え立つように赤い上、大きく波打って、二つの瞳は碧海を切り取ったように碧く、上丈は五尺二三寸、肌の色は、桃色真珠に血を通わせたような、言いようの無い美しさに匂うのでした。
 この一風変った美しさを、人によっては、不気味と見る人もあるでしょうが、このやしき主人あるじ安城郷太郎あんじょうごうたろうは、又なきものに寵愛して、本妻の亡き後は、一にもおとり、二にもお鳥、お鳥でなければ、夜も日も明けぬ有様だったのも無理のないことです。
「そんな嫌な事を言っておくれでない――、それはそうと、あれほどこの邸の側へも寄らないようにと言って置くのに、うして潜り込んで来たのだえ、源吉げんきち
 お鳥はたしなめるように、う言いながらも、幾年振りかで逢った、一座の弟太夫だゆう、あの綱渡りのうまい源吉を、世にもなつかしく眺めるのでした。
「姐御、すまねえ、俺だってこんな、泥棒猫たいな恰好までして、人の家へ忍び込みくはねえが、二年振りで江戸へ帰って来ると、矢も楯もたまらず姉御に逢い度くなったんだよ」
 源吉は、この二つばかり年上の美女を物悲しく見上げました。小さい時から一座に育って、恋というにしてはあまりに親し過ぎる二人は、手を取り合って心ゆくばかり話すか、それとも、二匹の犬っころのように、存分に喧嘩でもし度いような、悩ましい衝動をどうすることも出来ませんでした。
んな丈夫かい」
 お鳥もツイ一足踏み出しました。張子の球にも鞦韆ぶらんこにも、手を組んで乗った源吉が、今でも親身の弟のように思えてならなかったのです。
「あ、親方も、おかみさんも、一座の者は皆んな丈夫だよ。姐御が抜けてから、碌に目は出ないが、それでもまア、その日に困るようなことは無い。――ところで、三千石のお旗本のお部屋様になった姐御は幸せかい。親方は晩酌のたびに、そればかり心配して居るよ」
有難ありがとう、まア、此通り暮して居るから、仕合せと言うものだろうよ、不足を言えばりの無いことだから――」
「そうかね、その言葉の様子じゃ、あまりかんばしい事も無さそうだ、まア、辛抱しねえ」
「お前に意見を言われるようになったのかねえ」
「ヘッ、その辺は矢張やっぱり昔の姐御だ、――もっともお月様の光じゃ、はっきり判らねえが、美しいことも昔の通りらしいネ」
「何をつまらない」
「ところで姐御、ツイ二三日前、両国の小屋へ、変な人が訪ねて来た」
「…………」
「五年越し、俺達の一座を尋ねて、日本国中を遍歴へめぐったと言う若い浪人者だ。尤も、そう言ったところで、親のかたきを討つわけでも、俺の綱渡りが見度いわけでも無い。手っ取り早く言えば姐御に逢って、話し度いことがあるんだとさ」
「…………」
「おッ、ひどい蚊だ、すまねえが、庭石の上に腰を下して貰って、その浪人者の話てえのを受売うけもつり乍ら、一席やらかそう」
 源吉は七三にからげた裾をおろして、脛から踵を包むように庭石の上に腰をかけました。その前にこれも中腰になったお鳥、縁側の光から、源吉の姿をかばうように、団扇うちわを動かして、無意識に蚊を追い払って居ります。
「ね、源吉、そんな浪人の話より、私は皆んなとと眼逢い度いんだが、んとかならないものかねえ」
「おっと、そんな贅沢ぜいたくを言っちゃいけねえ。一座とはすっかり手を切ったはずの姐御だ。よしんば今日の物に困るたって、のめのめ顔を持って来る親方じゃねえ、――それよりは今の浪人者だ、うしても姐御に逢わずに居られないから、ここ十日の間に、折を見て、雑司ヶ谷ぞうしがや鬼子母神きしもじん様へお詣りをして貰い度い。小日向こひなたと雑司ヶ谷なら、遠いところでは無いし、御寵愛の籠の鳥でも、子宝を授けて貰い度さのお詣りとか何んとか、口実はどうでも出来るだろう、とう言うのさ」
「――――」
「――それでも疑念があるなら、う言って貰い度い、そのお鳥殿とやらの、世にも不思議な素性が解った――と、う言うんだ、大分変ってるじゃ無いか」
「それは、何んとかして出られない事はないが、んな武家なんだい」
「嘘もいつわりも、悪巧わるだくみもあるような人柄じゃねえ、名前は萩江鞍馬はぎえくらま、絵に描いたような好い男だよ」
「萩江――鞍馬――知らないねえ」
 二人は近々と、何時いつの間にやらささやき合う姿勢になります。
「不義者ッ」
 不意に、恐ろしい一喝、縁側から怪鳥のように跳び降りたものがあります。
「あれッ、殿様」
「えッ、離せッ」
 すがり付くお鳥を蹴飛ばして、源吉を追って、庭木戸の外へ。
 相憎あいにくの月夜、五六間先へ、一散に逃げて行く源吉の後姿を隠す物のくまもありません。

年頃まで裸で育った山の娘


 お鳥は、その赤い毛と碧い眼が変って居るように、世にも数奇すうきな運命にもてあそばれた女だったのです。
 物心付いたのは、碓氷峠うすいとうげの奥、めったに人も通わぬ炭焼小屋で、岩吉いわきちという、山猿のような男の世話になっている時でした。
 世話になって居る――というのは本当で、お鳥自身は何処どこで生れたか知りませんが、かく岩吉の子で無かったことは事実で、二人は、全く顔かたちが似ないばかりでなく、岩吉は、山人の仲間でも評判の醜い独り者で、女房というものを持ったことの無い男だったのです。
 お鳥は、猿の子のように、一年の半分は裸体で育ちました。岩から岩へ、木から木へ、山の餌をって、山の獣達と一緒に何んの苦労もなく生い立ったのですが、髪の毛が房々ふさふさと延び、ふたつの乳房が、こんもり盛上もりあがって、四肢に美しい皮下脂肪が乗り始める頃から、身を切られるような、恐ろしい羞恥に悩まされ始めたのでした。
 岩吉は、ろくに着物を着せてはくれませんでした。海藻わかめつづったような、恐ろしい襤褸ぼろが、二三枚無いことはありませんでしたが、五月になるとそれを剥がれて、陽の当るうちは、岩の上でも、藪の中でも、赤裸で暮らさなければならないお鳥だったのです。
 お鳥は時々谷川の水鏡を見て、次第に美しくなって行く自分の肢体からだと、山人達や、たまに里から来る人間と自分との間に、恐ろしい差違さしちがいのあることを覚り始めました。赤い毛、碧い眼、まるい滑らかな顎、伸々のびのびした四肢、美しい皮膚など、岩吉はもとより、此辺で見かける人達とは、まるっきり違ったものです。
 もう一つ、お鳥の悩みは、自分を育ててくれた岩吉の態度が近頃すっかり変ってしまったことでした。五月から十月まで、陽のあるうちは、着物を着せてくれないのは昔からで、別に不思議も何にもありませんが、お鳥の行く先々へ、執念深く附きまとう岩吉の眼の色が、今まで経験したことも無い、不思議な光を帯びて来るのが、お鳥に取っては、何よりも我慢の出来ない圧迫でした。
「着物を着せておくれよう」お鳥は時々そんな事をせがみましたが、
「うんにゃ、ならねえ、若え者が今のうちから着物を着たら、冬になったら、うするだ」
 岩吉の調子には、一縷いちるの妥協性もありません。
 それでも、昼は大したことはありません、が、同じ小屋の中に眠る夜は、お鳥に取っては、たまらない嫌悪でした。本能的な不安の中にも、疲れと若さに誘われて、ウトウトと寝付くと、岩吉の毛むくじゃらな手が、お鳥の腕を押えて居たり、岩吉の髭面ひげづらが、お鳥の頬とすれすれに、息と息とが絡み合って居ることさえ稀では無かったのです。
 お鳥は驚いて飛起とびおきましたが、夜が明ける迄は一寸ちょっとも小屋の外へは出してくれません。何べんか、里へ逃げ出そうとしましたが、裸体ではうすることも出来ず、それに岩吉は口癖のように、
「お前が里へ出たら、一ぺんにち殺されるぞ、間違ってもそんな気を起すな」
 と言う言葉に脅やかされて、何辺か思い立っては、果し兼ねていたのです。
 しかし最後の時は来ました。ある夏の夜、岩吉の執拗な悪戯わるさは、到頭とうとう、山の処女の恐怖を、腹の底から揺り覚しました。
 お鳥はその時、十五か、精々せいぜい十六だったのでしょう。我慢の出来ない岩吉の腕からけ出すと、漆のような闇の山路を、全く当もなく駈けて出たのでした。

五十両の手切れでお鳥は旗本へ


 その晩、信州路を廻って、散々の不入に悩まされた軽業かるわざの一座が、安泊りに入る路用もなく、碓氷峠の出口に、古幟ふるのぼりを天幕にして、馴れた野宿をして居りました。
 峠には、時々狼が出て、旅人を悩ました時代です。野宿の軽業一座は、夜通し火を焚いて、かわがわる番人を置きましたが夜中から暁方あけがたかけて、焚火を見張らされたのは、一座の花形で源吉という綱渡りの少年でした。
 ツイ、うとうととした眼を開いて、夜の明けるまで、もう一と焚き――と立ち上ると、
「あッ」
 眼の前へ、赤い毛をした、裸形の娘が、人懐かしそうに立っているではありませんか。
「親方、た、助けてッ」
 二度目の少年の声を聞くと、親方の源太夫げんだゆうを始め、二三の屈強な男が、手廻りの得物を携えて飛出しました。
 が、焚火の前に、しょんぼり立っているのは、妖怪変化でも山の狼でもなく、一糸も纏わぬ処女――神々こうごうしいばかりに美しいのが、碧い眼を据えて、物に驚く風情に、ジッと此方こちらを見詰めて居るのでした。
 話せば、長くなりますが、――こうしてお鳥は、源太夫の一座に拾われ、言葉と、芸と、いろいろの智恵を仕込まれて、一年の後には、一座の花形、鳥太夫と名乗って舞台に立って居たのでした。
 それから三年経ちました。
 ふとした事から、お鳥の異国的な美しさを見た、三千石取の旗本、安城郷太郎と言う中年の武家が妻をうしなったばかりの淋しさもあったでしょう。恐ろしい熱心で、――お鳥を懇望したのです。
 源太夫は根気よく断わりました。「碓氷の山で育って、礼儀作法もわきまえず、武家奉公などは思いもよらない」と言う口実で、人橋を架けての望みを突っ返しましたが、「行儀作法はこちらで仕込む、見事一年と経たぬうちに、武家の家風を教えて見せる」という調子で、何んとしても諦めません。
 結局は、刀で脅かされて、折から御難続きの源太夫に、手切れともなく五十両の金をやり、一切の縁と関係を断つことにして、安城郷太郎のめかけとして引取ひきとられたのでした。お鳥はその時十九、
「此後、如何いかなる事があっても、出入はならんぞ、一座の者にも、よく申伝もうしつたえて置け、道で逢っても挨拶をしてはならん」
 う言う郷太郎の言葉にそむいて、弟分の源吉が、久し振りに江戸へ帰って来ると、浪人者――萩江鞍馬に頼まれた用事を口実に、昼のうちに、結び文をつぶてと一緒にほうり込んで、そぞろ歩きのお鳥に拾わせた上、夜になるのを待ち兼ねて、小日向の邸の中に潜り込んだのでした。

成敗は斯うと降り注ぐ唇の雨


「お鳥、来い」
 大日坂だいにちざかに駈け登ったらしい安城郷太郎、ほのおのような息をお鳥に吹き掛けるとむんずと、手を捕って庭口へ引入れました。
「あッ」
「驚くなお鳥、相手は盗賊として斬り、町役人に引渡したぞ、見度くば見て来るがい」
「…………」
「ところで、今度はお前の番だ、どんな成敗をしたものであろう、のぞみを言えッ」
 郷太郎はお鳥の身体からだを突っ放すと、沓脱くつぬぎの上へ、ハタと蹴飛ばしました。
「殿様、お間違いなさいますな、あれは、あの男は、源吉でございます」
 お鳥は起直おきなおると、必死ひっしと、郷太郎の裾にからみ付きました。
「何? 源吉」
「ハイ、あの軽業一座の源吉が、久し振りで江戸へ帰って、皆んなの代りに逢いに来てくれたので御座います」
「源吉なら、なお悪い、長く一緒に居ただけに、疑念も一としおと言うものだ。それに、あれほど言って置いたでは無いか、源太夫を始め、一座の者と、往き来はならんと」
 郷太郎もさすがに予想外のようでしたが、源吉と聞いて怒りは少しも納まったわけではありません。
「可哀そうで御座います、殿様、源吉は何んにも存じません」
「黙れッ」
「…………」
「庭口から忍び込んで女と曝き交して居る者を潔白と言えるか、第一、お前の心掛が悪い」
「ハイ」
「二年越行儀作法を仕込んで居るのに、まだ武家の家風を呑込のみこめぬとは、何んとした白痴たわけだ。裸体で碓氷の山の中で暮した時とは違う」
「…………」
 郷太郎の舌は辛辣に動きますが、お鳥は沓脱の上に崩折くずおれて物も言いません。
「軽業の一座で、その赤い髪の中に銀色の角を植え、裸体になって、鬼の真似まねをして居た其方そなたを、引取ってやったのは誰の恩だ」
「…………」
「せめて人がましい心構を覚えさせたさに、二年間の骨折でれと仕込んだでは無いか、それに何んだ」
「…………」
「武家の妻も同様の其方そなたが、若い男を引入れて、庭の木蔭に囁き交すとは何事だ」
「…………」
 四十男の嫉妬は、煮えた油のように執拗でした。少し不養生らしい蒼い顔が、憤怒と月の光に、物凄く硬張こわばって居りました。
「さア、成敗して取らせる、それへ直れ」
「殿様、それは、それはあんまりで御座います」
 お鳥はようやく顔を上げました。此世のものとも思えぬ美しい顔が半面青白い月を浴びて、碧い眼がポロポロと泣いて居ります。
「何があんまりだ、お前のようなものを教え込もうと思ったのが間違いだ、山猿の子は矢張り山猿だ、それへ直れ」
 邸の中は無人の境の如く誰も外へ出て止めようとする者はありません。主人の日頃の気象きしょうを知り抜いて居る上、溺愛されるお鳥に対して、おおうことの出来ない反感が、用人から端女はしたの末まで行亘いきわたって居る為でした。
「殿様」
「覚悟は宜いな」
 郷太郎は二度太刀を振りかぶりましたが、紅い唇、白い喉、碧い眼の、言いようもない魅惑的なお鳥の顔に逢うと、二度とも刀をおろして、息を継ぎました。
「殿様」
「よしッ、お前の成敗は、ほかすべがある。来いッ」
 刀をピシリと鞘に納めると、前屈みにお鳥の脇へ両手を入れて、五尺三寸あまりの美女を、いとも軽々と抱き上げました。
 不思議な弾性を包んだ、柔軟な身体からだが、郷太郎の腕の中にムズムズと動くと、
「不届な女だ」
 お鳥の顔へ唇の雨を降らせて、郷太郎はサッと奥へ、女を抱いたまま消え込みました。

油絵の具で描いたお鳥其儘の姿


 お鳥は十日待ちました。
 その間、一寸も外へ出る暇が無かったのと、郷太郎の愛撫――、源吉を斬って以来、油を注いだように猛烈になった愛撫から、のがれるみちも無かったのです。
 それに、お鳥の様子――、赤い髪と、碧い眼が、天明年間の江戸の街には、あまりに目立って、頭巾をかぶ期節きせつでもなければ、うっかり外へも出られなかったのでした。
 し、源吉が無事に逃げ延びたら、鬼子母神の茶店で待つと言う、若い浪人者とかの話は、そんなにお鳥をわずらわさなかったでしょう。が、命がけで、そんな事を教えてくれた源吉が、野良犬のように斬られて、悪名まで被せられたことを考えると、んな事をしても、鬼子母神で待って居るという浪人者に逢って五年の間、自分を捜し廻ったという用事や、自分の素性の事を聞かずには居られないような心持になって居るのでした。
 暑い日の昼下りから、紺色の日傘に、赤い髪を隠したお鳥はおいしという腹心の下女を一人れて、雑司ヶ谷の鬼子母神の境内へ入って来ました。
「あ、御新造様、あれは何んで御座いましょう」
 お石の頓狂な声に驚かされて、石畳の上にお鳥は立ち止ります。
「あッ」お石に指さされて、一と目、お鳥も立ちすくみました。
 右手の茶店、名物芋団子やら、焼鳥やらを食わせる家の、奉納の手拭の幾本かブラ下ったあたりに二尺に一尺五六寸の、今まで見たことも無い、不思議な絵がブラ下って居るのです。
 油絵の具で描いて、唐紙模様を彫んだ広い縁の額に入れた絵――それだけでも充分変って居るのに描かれた絵というのは、赤い髪、碧い眼、鼻が高くて、顎の円い、お鳥そっくりの女、羽根のような白い着物を着て、紅い唇が、ほのかに微笑にほころびかけて居る様子まで、お鳥そのままの美しい姿だったのです。
「これは、御新造様の絵姿じゃ御座いませんか、うしてこんなところに――」
 お石はあまりの事に眼を丸くして、釘付けになってしまいました。油絵などは、切支丹きりしたんの踏絵より外には見ることの無い時代、茶店の店先に、鏡に映したような、お鳥の肖像があったのですから、これに驚かなければうかして居ります。
「石、其処そこの店で訊いておくれ、これはうした絵で御座いましょうか――って」
「気味が悪う御座いますネ、御新造様」
「それじゃ私が訊いて見よう」
「あれ、そんな積りじゃ御座いません」
 お石が入って訊くまでもありませんでした。お鳥の変った顔形を見ると、茶店の婆アは心得顔に、
「御新造様、お鳥様とおっしゃいましたな。萩江様が十日も前から毎日毎日お待ち兼ねで御座います」と、奥を指さします。
「お石、ほんのしばらく此処ここで待っておくれ、誰か知ってる人が見えたらそっと教えてくれるように」
よろしゅう御座いますとも、御新造様」
 心得顔なお石を店に残して、お鳥は茶店の老女の案内するまま、薄暗い別間へ通りました。
ようやっとお見えになりました、旦那様」
「お、それは有難い」
 婆アの声につれて、窓際から身を起したのは、二十八九の立派な武士、越後上布に、白博多の帯、一刀を提げて起つと、長押なげしまげ刷毛はけ先が届きそうな堂々たる体躯で、浅黒い顔は日焦ひやけのせいでしょう、にっこりすると淋しさのうちにも、ふるいつき度いような愛嬌があります。
「さア、御新造様、お通り下さいまし、旦那様は今日で十日、明けの六つから、暮れの六つまで、この暑いのにこんな場所で、根気よくお待ちになりました。他から拝見しておいたわしいようで、何辺かお諦めなさいますように申上げましたが、十日目にはきッと来る、と仰しゃって、一刻も此処ここをお動きになりません。あの通りお痩せになって」
「まア、宜い――、お鳥殿お通り下さい。拙者は萩江と申す浪人者、斯様かような場所へ御案内申すのが、道に外れて居ることも、御迷惑なことも万々承知し乍ら、何んとしても、一言申上げ度いことがあって、諦め兼ねました」
「…………」
 お鳥は思案に暮れて、部屋の入口にうずくまりました。入ったものか、逃げ帰ったものか、全く分別が付かなかったのです。
 が、四角几帳面な浪人の言葉と、その端麗な顔を見ると、どんな警戒も、ほぐれるように解けてしまって、側へ行って聞くだけの事を聞いてしまい度いと言った、わけも無い衝動に駆られるのでした。
「お鳥殿、何より先に、父上の伝言を申上げ度い――」
「私の?」
「左様、お鳥殿の父上は、藁のうちから捨てたことを、どんなに後悔して居ることか――、唯今ただいま、店先で見られた絵姿をたよりに、万に一つ拙者の手で探し当てたなら、ぐ様知らせてくれるようにとくれぐれもおっしゃったが」
「私の父親は、何処どこの、何んと言う者で御座いましょう?」
「それが、お鳥殿、風の便りに聞くと、一年ばかり前に亡くなられたとの事じゃ」
「えッ」お鳥も妙な惑乱を感じます、が、じっとこらえて、浪人の顔――妙に思い詰めた真剣な顔を仰ぎました。
「今となっては、お鳥殿の身の秘密を知る者は、広い世界にも拙者より外には無い。礼儀にも道理にも無いことではあるが、源吉に頼んで、あの言伝ことづてを申し上げたのは、うしたわけであった」
「その秘密とやら仰しゃるのは何んで御座いましょう、――あの店先の絵姿は誰で御座いましょう、私で無いことは解り切って居りますが、若しや――」
 お鳥は息を呑みました。若しや――それは自分の母親か、又は姉だったかも知れないのです。
「それを申上度さ、それにお鳥殿に逢い度いばかりに、五年の間、岩吉という木樵きこりを尋ね、源太夫という軽業師を尋ねて、中仙道から、北陸、東海道は申すに及ばず、京へも大阪へも、奥州までも経廻りました」
「…………」
「いや、手前の骨折などを吹聴する積りは毛頭ない――が、話のついでに、思わぬ愚痴になりました。旗本、安城家へお入りと聴きましたが、斯様な話を正面から持って行っても、誰も信じてくれそうは無く、それに、安城殿はことの外潔癖だそうで、源吉を頼んでやるとあの始末だ」
 お鳥も暗然としました。弟弟子の源吉の死が、またくすぐるように涙を誘います。
「萩江様、何んと申上げて宜しいやら、いろいろ御骨折、有難う御座います。そうまでして下さる貴方あなた様はんなお方でらっしゃいましょう、せめて御身分をお明かし下さいまし」
「西国の浪人、萩江鞍馬、それ以上は申上げようも無い。軽井沢でお鳥殿の父上にお目にかかり、此店先に掛けてあった絵姿を手に入れて、拙者はうするより外には工夫も無かったのだ。お笑い下さい。武芸の修業でもあることか、一婦人を尋ねて、五年越日本中を遊歴した私は、武士の端くれを汚すさえ後ろめ度い――、何事も、前世の約束事であろう、お鳥殿」
 鞍馬はう言って、端麗な顔を俯向けました。
 言うことは筋も意味もありませんが、美しい絵姿に魅入られて、同じ顔形の人を探そうとした、果敢はかなくも熱烈な恋心は、お鳥の胸にも犇々ひしひしと喰い入ります。
「何んと申上げて宜いのやら、私には解りません。それにつけても亡くなった私の父親の名と、私の素性を、どうぞお教え下さいまし」
「他聞をはばかる事、暫らくお待ち下さい」鞍馬は立ち上って、すだれの外、夕陽にキラキラする石畳の上を見ましたが、ハッとした様子でお鳥を顧みました。
 続いて店からお石の声、
「御新造様、殿様が入らっしゃいます」
「あッ」お鳥も驚いて、にわかに店口に飛出しました。
 この時石畳を踏んで、鬼子母神の境内へ入って来たのは、安城郷太郎の忿々ふんぷんたる姿。
 その後には日頃お石と仲の悪い下男の鹿造しかぞうが心得顔にニヤリニヤリと従って居るのです。

山の女は反逆する


「女、何処どこを歩いて来た」
 邸へ帰って縁側に掛けたままの安城郷太郎、振り返ってお鳥に日本一の苦い顔を見せます。
「ハイ」
「ハイでは無い、鬼子母神の茶店に居たのは、ありゃんだ」
「…………」
「どんなに作法や、人の道を仕込んでも、お前は矢張り山猿の子だ、今度は許さんぞ」
「…………」
「石は今日のうちに暇を取らせる、お前は、お前は」
 郷太郎は考え込みました。この素晴らしい玩具おもちゃを壊さずに、存分に思い知らせる仕置は無いものか――を思い煩って居るのです。
「殿様、あのお武家は、私の父親の言伝を持って入らっしゃいました。決して、決して」
「黙れ、お前の父様は碓氷峠の猿だ、――そんな甘手に乗る俺と思うか」
 足を挙げてハタと蹴ると、お鳥の身体からだは庭へ、毬の如く転げ落ちたのかと思うと大違い、
「ホ、ホ、ホ、殿様、御冗談が過ぎます」
 縁側の上から、素晴らしい嬌笑を浴せるのはお鳥で、庭の芝生に尻餅を突いたのは、外ならぬ主人の郷太郎自身だった。
「無礼な女奴ッ、其処そこ動くなッ」
 郷太郎は飛起きると、縁側の一刀を掴みに行きましたが、お鳥は早くも飛付いて、座敷の中へパッと投げ込みました。
「殿様、作法の仕込みのと仰しゃいますが、それが、三千石の大身のたしなみでいらっしゃいましょうか。少し静かに、私の言う事も聞いて下さいまし」
「何を申すッ」
 郷太郎は、女の言葉を耳にも掛けませんでした。
 刀を取り上げられたムシャクシャも手伝って、大手を拡げて、ガバと組付くみつくのを、かいくぐったお鳥の双腕は、もう一度郷太郎の胸をドンと突くと、三千石の御大身ともあろうものが、他愛もなくよろけて庭石の上へ、したたかに尻餅を突いてしまったのです。
「ホホホホホ、まあ弱い殿様」
「えッ、己れッ」
 郷太郎は煮えこぼれそうに腹を立てましたが、んとしても腰が切れません。
 お鳥は十五六まで、碓氷の山奥に育って、猿や鹿を相手に、木から木へ、岩から岩へと飛んで歩いた上に、軽業の一座に交って、三年の間身体からだを練った女です。
 打物業うちものわざにさえならなければ、妾狂いに浮身をやつす安城郷太郎などの手に負える女ではありません。
「殿様、このお鳥を馬鹿に遊ばすのは宜しゅう御座います。山猿と一緒に育ったことも、銀の角を生やして、裸体はだかになって飛廻ったことも嘘とは申しません、が、何んの罪もない源吉を殺したり、私の親の悪口を仰しゃっては我慢がなりません」
「何?」
 お鳥の言葉は、切々として肺腑に喰い入りますが、郷太郎は起き上られぬまま、負け惜みの眼ばかり光らせます。
「私は言わば金で売られた身体からだで、三代相恩の家来でも、殿様の奥方でも御座いません。二年越しのお仕込みはお仕込みとして、この上我慢がなりましょうか」
「…………」
「私はもうお仕込を頂かなくとも宜しゅう御座います。此場から御暇を頂きます、殿様、そんな顔を遊ばすものでは御座いません」
「無礼者ッ」
「女から愛憎あいそ尽かしをすると、下々の者は、もう少しいさぎよい事を申します。殿様、もうお目にはかかりません」
「待て、待て女」
 安城郷太郎の声を背後に聞いて、お鳥は立ち上りました。
「こんな窮屈なところに居るより、私は矢張り碓氷峠へ帰って、裸体はだかで暮らしましょう。お友達だった猿や鹿が、まだ何匹かは生きて居ましょう」
 涙ぐましい声になって、つと立ち上ると、何時いつの間に忍び寄ったか、後からガバと組付いたのは下男の鹿造、
「何をするのさ、いやらしい」
 身を沈ませて、大の男にもんどり打たせると、
「えッ、神妙にせえ」
 前から用人、六尺の手槍をピタリと付けます。

駕籠に乗せて女を信濃路へ


「お女中、何処どこへ行かれる」
「あッ、旦那様、大変なことになりました」
 お石は往来に立ったまま、手離しで泣き出しました。呼び止めたのはこの暑いのに、深編笠で面体を隠した武士、言うまでもなくそれは、萩江鞍馬の世を忍ぶ姿でしょう。
「御新造様は、殿様のお怒りに触れて、浅ましく縛られたまま納戸なんどに投り込まれて、窮命中で御座います」
「えッ」
「私は昨日のうちにお暇が出ましたが、朋輩衆の取なしで、一日だけ延して頂き唯今宿元へ下るところで御座います。私はどうなっても構いませんが、御新造様がお可哀そうで――」
「これこれ、往来で泣いては人立ちがする、ところであの、お鳥殿を救い出す工夫はあるまいか」
んでもないこと――、御新造様は今晩、御領地の信州へ、通し駕籠かごれて行かれ、一生其処そこ押籠おしこめられるので御座います」
「えッ、それは本当か」
「嘘なら宜しゅう御座いますが、旦那様」
 お石は四方あたり構わず泣き出してしまいました。音羽の森に夕づく陽が、この一克者らしい娘の襟に射して、妙に涙をそそる情景です。
 鞍馬は、何程かのお鳥目ちょうもくを娘に握らせて、其儘そのまま宿に飛んで帰りました。
 慣れた旅支度と言っても夕景まで手一杯に急いで、小日向の安城邸に駈け付けたのはもう戌刻いつつ(八時)少し前、夏の日もすっかり暮れ切って、忍びの旅立ちには丁度ちょうど宜い頃合でした。やがて、門を出て来たのを見ると、駕籠が二挺、一つはお鳥の捕われの姿で、一つは、主人の郷太郎でしょう。それに用人、仲間、草履ぞうり取まで一行八人、さすがに大身だけ警固に一分の隙があろうとも思われません。
 特に用人小畑藤三郎おばたとうざぶろうは、中年者乍ら槍の名人、道中は長物を憚って、袋のままの手槍を毘沙門びしゃもん突きに、大きい眼を四方に配ります。
 門を出ると直ぐ――。
「小畑、先程も申す通り、万一曲者くせものに出逢ったら、其方はず第一にその槍で、女の駕籠を刺すのだ。間違っても、曲者に向ってはならぬぞ」
 先の駕籠からう声を掛けたのは、言うまでもなく安城郷太郎、お鳥を狙う者のあるのに、薄々気が付いたのでしょう。
 萩江鞍馬は、分別もなく、一行の後を追いました。
 泊りを重ねて、碓氷へかかったのは、それから四日目、安城郷太郎の一行は、日の暮れたのも構わず、峠道へ――、傍目も振らずにかかりました。
「近頃、峠へ千疋狼が出るぞ、危ないことだ、泊って行かっしゃい」
 そう言ってくれる里人の注意を聞流ききながして、何処どこかと言えば臆病な安城郷太郎が、夜の山道へ駕籠を入れたのは仔細あり気です。

千疋狼の餌に裸女を山へ


「女、お前の故郷に来たぞ、降りろ」
 郷太郎は駕籠からお鳥を引出させました。
「殿様」
 お鳥は思わず声を立てました。少しやつれては居るが、相変らずの美しさ、
「お前の顔を見ると、未練なようだが、俺は斬られなくなる。そこで、領地へ用事で帰るついでに、お前を故郷へ帰そうと思ってれて来たのだ」
「…………」
 郷太郎の残虐な目論見もくろみが次第に判ったものか、お鳥はぞっと身を顫わせます。
「お前は、此碓氷峠で育った相だ、しかも裸体はだかで――」
「…………」
裸体はだかで此山から出たお前を、裸体はだかで此山へ帰す――、俺の仕事はそれで済む。その上、里で聴くと近頃此峠へ千疋狼が出るそうだ。それも、お前の昔馴染なじみだろう。夜と共に吠え明かせ、ハッハッハッハッ」
 苦い笑が、郷太郎の頬を痙攣さして、うつろな声が、夜の林にカラカラと木精こだまします。
「えッ、畜生ッ」お鳥は歯を食いしばりましたが、此処ここまで運んだ郷太郎の悪戯いたずらを、思い止まらせることなどは出来そうもありません。
「何んか、遠くの方で、変な声がするようだ。狼に出られては迷惑だ。急げ鹿造」
「ヘエ」
 鹿造は、お鳥を引立てると、手近の立樹の幹へキリキリと縛りました。
「それでよし、サア、引揚げろ」
 そう言い乍ら郷太郎は駕籠へ入ると、もう一度振り返って、
「お鳥、故郷の月は格別だろう、お前の友達の吠える声も次第に近くなったぞ」
 すてぜりふを残すと、駕籠を促して里の方へ、一散に駆け降ります。
 それから狼の大群の近づくまで、ほんの四半刻もかかりませんでした。
 夜空に籠った陰惨なうなりに、お鳥はハッと首を挙げると、縛られた大樹をめぐって幾百の光り。
 それは、お鳥の匂いを嗅いで集った、千疋狼の血に渇く眼だったのです。
「…………」お鳥はっと唇を噛みました。山で育ったお鳥はこの悪獣の貪婪どんらんな食慾と、執拗極まる性質を知り過ぎるほど知って居たのです。
「…………」
 お鳥は黙って、八方に眼を配りました。いましめさえけば、逃れる道もあるでしょうが、んなに意地悪く縛ったものか、あせればあせるほど縄目が喰い込んで、月の光の下に、豊満な肉塊が、ただピチピチとうごめくばかりです。
 そのうちに、四方から囲んだ狼の壁は、五寸ずつ一尺ずつ輪を狭めて、一番先に立った灰色の親狼は、お鳥の目の先から三間ばかり、火のような眼をキラと光らせて、物を狙い撃つ恰好に、カッと赤い口を開きました。
 続いて、幾十、幾百の悪獣は、圧迫的な、いやらしいうなりの合唱を挙げて、四方から、恐ろしい力で圧倒します。
「た、助けて――」
 お鳥は、初めて悲鳴をあげました。
「萩江様――、鞍、鞍馬様――」
 もとより萩江鞍馬が、其辺に居ると思ったわけではありませんが、五年間自分を尋ねてくれたと言う純情的な武士の名が絶望的なお鳥の唇へ、フッと蘇返よみがえったのです。
 それと同時でした。
 真っ先の狼がサッと跳んでお鳥の肩へ、
「あッ」
 その時遅く、礫のように飛んで来た一人の武士、狼の首筋をサッと斬り払うと、お鳥を後ろに庇って身構えました。
「お鳥殿、もう大丈夫」
「アッ、萩江様」
 お鳥は夢のような心持で、救いの神の若い武士を見上げました。
「お鳥殿、危いことであった」
 そう言い乍ら萩江鞍馬は、狼の大群の中へ、刀を舞わしてサッと飛込みました。又二三疋は斬られた様子、悪獣のたじろぐ隙に、お鳥の縄を切り解いた鞍馬は手を取って側の大木へ――。

祖先の血が通うムリロの名画


 木の上へ、お互の身体からだ梯子はしごにして登ろうとした千匹狼は、鞍馬の為に、何十匹斬られたかわかりません。
 悪闘の一刻悪獣の群もさすがに少し身を引いて、遠巻きに樹上の二人を見上げました。
 鞍馬とお鳥は、それでも、いくらかずつ落付おちつきを取返とりかえして、やがて、平静な心持で話しうようになると、何より先に、お鳥の豊満な裸体、月の光にさらされて、ほんのりかすむような美しい身体からだが気になります。
「気持が悪くなかったら――」
 萩江は振り分けの中から、着換の単衣ひとえを出して、そっと、その肩へ掛けてやりました。
「…………」黙って俯向くお鳥の目には、もう涙さえ浮んで居ります。
「お鳥殿、いつぞやは、申上げる程のことも申上げなかった。――狼は急に飛び付きもすまい、此処ここでお話いたそうか」
「どうぞ、萩江様」お鳥は鞍馬へ差し寄るように、委ね切った心持で、見上げました。
「五年前――、祿を離れて、軽井沢の猟師、三五郎さんごろうと言う者の家に厄介になって居る時、フトした事から、あの絵姿を見付けたのが始まり、恥かしい事だが、うしても忘れられなかった――」
 萩江はう言う調子で語り進みました。猟師三五郎に聞くとそれは百年も前から家に伝わったもので、スペイン国のムリロと言う名人の描いたもの、ポルトガルの船乗りが、難破して清水港に着いた時持って来たのだということです。
 ポルトガルの船乗りは間もなく死んでしまいました。が、その種は日本に残って、三五郎の家には三代に一人位、赤毛碧眼の子供が生れることがあります。今で言う間歇かんけつ遺伝ですが、当時はそれをおそれ憚って、三五郎の親の代に軽井沢に引込み、山狩りを生業に細々と暮して居りましたが、何んの因果か、三五郎の女房も、異人の上陸と、切支丹禁制のやかましい時も時、人交りもならぬ紅毛碧眼の女の子を産んでしまったのでした。
 女房が産後の肥立ちが悪くて死んだ後、この異形の子を育てる気力もなく、三五郎は心を鬼に碓氷峠に捨てたのです。萩江鞍馬が三五郎の家へ行ったのは、それから十何年目、ふと見せられた船乗りの母の若い姿を描いたという、油絵の美しさに魅せられて、それとそっくり同じであったという、三五郎の娘の行方を探し出そうと決心したのでした。
 炭焼きの岩吉が十六まで育てたことはすぐわかりましたが、軽業小屋に逃げ込んでから先が判らない為に、三五郎から申受けた油絵を抱いて、五年越し、鞍馬は見ぬ恋にあこがれの旅を続けた末、フトしたことから、江戸で一座にめぐり逢い、お鳥は、旗本安城郷太郎の妾になって居ることまで突き止めたのは、ツイ半月前のことだったのです。
う言うわけだ、お鳥殿、その美しさに、ポルトガル国の船乗りの血を引いて居る為、いろいろのわざわいが後からあとと起ったのであろう。――併し、もう大丈夫、及ばず乍ら、この萩江鞍馬がお力になって、山の中から、街の中から、好みの場所に、安穏に送らせて進ぜよう、お鳥殿」
 お鳥は、あまりの事に、暫らくは言葉もありませんでした。が、
「有難う御座いました。五年間もお探しなすった上、危い命までお助け下さって、お礼の申上げようも御座いません、が、私のような者が長らえては、かえって諸方に御迷惑、私もまた因果が恐ろしゅう御座います。さらばで御座います、萩江様――」
「あッ」お鳥は身をおどらして、再び寄せた、狼の大群の上へ、自分から身を投じようとしました。が、これも危ういところで、鞍馬に抱き止められました。
「萩江様、どうぞ、殺して下さいまし」
「いや、そんな事はならぬ」
 二人は争う弾みに、足を踏み滑らして、もう一度落ちかけましたが、辛くも萩江鞍馬の手が、お鳥の全体重を留めて、小さい枝にブラ下りました。
「お鳥殿、たって死のうと言われるなら、拙者も一緒に、――手を離そうか」
「いえいえ、それはなりません、助かりましょう。私も助かります」
 咆哮する悪獣の大群の顎からわずか一尺のところで助かって、二人は漸く梢に還りました。
 何時いつともなく、東は白んだ。涙ぐましい心持で、二人は犇と抱き合って居たのです。旧幕時代に時々赤毛、碧眼の人を見かけたのは、萩江鞍馬とお鳥の子孫では無かったでしょうか、併し、それも今は昔の事です。





底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社
   2009(平成21)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「百唇の譜」東方社
   1951(昭和26)年2月
初出:「朝日」
   1932(昭和7)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年5月25日作成
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