奇談クラブ〔戦後版〕

第四の場合

野村胡堂




プロローグ


 何年目かで開かれた、それは本当に久し振りの「奇談クラブ」でした。会長の吉井明子嬢よしいあきこじょうは三十近い吉井明子夫人になって、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけく美しく、世にもめでたい令夫人になりましたが、限りなくロマンスを追う情熱は、少しも吉井明子嬢の昔に変りは無く、幹事の今八郎こんはちろうを督励して、吉井合名会社の会議室に、昔の会員達を集めたのです。
 今八郎が半白の中老人になったように、若くて華やかだった会員達も、多くは分別臭い年輩になってしまいましたが、吉井明子夫人の案で、あらたに十数名の若い会員を加えたので、例の会議室の真珠色の光の中に集まった会員の空気は、思いも寄らぬ溌溂はつらつさがあり、それは青春の匂いさえも感じさせる生々いきいきしたものだったのです。
 スクリアビンが、音楽に色彩と光線と、香料さえも採り容れて、聴衆のあらゆる官能を動員したように、「奇談クラブ」の舞台装置と、その責道具もまた、一つの立派な綜合芸術でした。クリーム色の四壁に、ほのかに反射し合う真珠色の光や、何処どこからともなくきこえて来る、クラヴサンやヴィオラ・ダ・ガンバや――今の世の生活には縁の遠い古代の楽器から発するほのかな音楽や、沈香や白檀を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)くらしい幽雅な香の匂いなどは、会場へ入ったばかりでも、我々を夢幻の境地に誘い込まずにはきません。


「この素晴らしい夢幻的な空気の中で、私ははなはだしく現実的な、愛憎と執着にただれ切った人達の生活の、不思議な一断面――破局カタストロフと言っても宜い、――かくも、最も忌わしい情景についてお話しようと思うのです」
 当夜の話しの選手倉繁大一郎くらしげだいいちろうは、う言った調子で始めました。四十五六の地味な実業家らしい人柄で、およそこの会場の空気とは、調和しそうもない風采をして居りますが、話術の方は思いのほか精練されたもので、浪花節にならない程度の、劇的な抑揚もあり、第一声の音色トーンカラーが美しく、三十人余りの会員を、充分引締ひきしめて行く力があります。
「先年南伊豆の海岸で死んだ、日本洋画壇のホープ、閨秀けいしゅう画家のセザンヌと言われた、喜田川志津子きたがわしづこさんのことを、多かれ少なかれ皆様は御存じの事と思います――あのインディアン・ブルーの勝った深い海の色、有機的な連繋を持った岩の刷毛目はけめの美しさ、それに惜しみなく降りそそぐ日光、澄み切った空の色など、海洋画家として喜田川志津子さんは、まさに前人未踏の境地を開いたばかりでなく、第一――いやそんな事を第一に挙げては、喜田川志津子さんに済まないわけですが、我々男性の眼から見ると、喜田川志津子さんは、肉体的にもならぶ者の無いほどの美しさを持った婦人だったのです」
 話し手の倉繁大一郎は、う物々しく切出きりだして、その効果を見極めるように、して広くもない会場を眺め渡すのでした。
「――喜田川志津子さんの美しさは、ありきたりの美人の、整った目鼻立から来る調和的な美しさではなく、それとは全く反対に、法外に大きい黒い眼や、時には金色にさえ見えるセピヤ色の皮膚や、国宝阿修羅王の彫刻に見るような、燃焼的なはげしい表情や、を塗ったような赤い唇や、伸び切った四肢やの醸し出す、片輪で未完成で、そして不調和でさえある、いろいろの条件の集まった、世にも不思議な魅力であったと言った方が適切だったでしょう」
 がい一咳――という古い形容詞が、この倉繁大一郎の話のあいの手には、最も適切な表現でした。
「その志津子さんには、喜田川三郎さぶろうという凡そ『似もつかぬ』感情と生活様式と教養とを持った良夫おっとのあったことも皆様は御存じの筈です。喜田川三郎は技術家上りの富豪で、千万長者の一人でしたが、金儲けと下手なゴルフと、そして金持が貧乏人の真似まねをして喜ぶ程度のお茶に凝った男で、奥さんの志津子さんの描く海の絵などは、生れ代って来ても理解の出来ない人間だったのです」


 話の選手倉繁大一郎は、聴衆に与える感銘を打診しながら、話し上手に、う話し続けました。
「――その喜田川三郎氏が、奥さんの志津子さんを、どんなに溺愛したことか、――これは二人の結婚の成立から話して行かなければよくわかりませんが、あまり話が長くなりますから、兎も角奥さんの両親が、昭和初年の財界の変動で破産に瀕した時、巨万の金を投げ出して、恐ろしい不名誉とちかかった貧苦の淵から救い、その代償として、――誠にしからぬことですが、お嬢さんの志津子さんを迎え容れ、喜田川夫人として披露したのだと申上もうしあげただけで充分だろうと思います。
 志津子さんが喜田川夫人になったのは本意であったか不本意であったか、其処そこまではわかりません。しかし、喜田川三郎氏の並々ならぬ寵愛を利用して、相当以上に我儘わがままであったことも、明らかな事実であります。あの国宝阿修羅王のような、不思議な野蛮さと美しさとを持った志津子夫人が、精一杯御主人に我儘を言う図を想像して下さい。あの人が嬌瞋きょうしんを発して、喜田川三郎氏に涙乍ら訴えると、実業界であんなに鳴らした喜田川三郎氏は、全く海月くらげのようになってしまうのも有名な事でありました。
 志津子夫人の幼な友達で、その頃伊太利イタリーから帰ったばかりのバリトン歌手、千束守ちづかまもるが喜田川家に出入するようになったのも、志津子夫人の我儘な願いが叶えられた為であったでしょう。千束守はかなりの歌手で、喜田川三郎氏に比べると年も若く、第一南欧で長い間みがき抜いて、申分のない男前でもありました。
 醜い中老人で、金より外に頼るものの無い喜田川三郎氏が、美しい夫人の側へ、人気者のバリトン歌手を近づけるのは、勿論もちろん嫌でたまらなかったに違いありませんが、我儘一パイな志津子夫人の機嫌を取って、その燃え付くような魅力的な笑顔を見るためには、千束守は愚か、アラビヤ夜話の淫蕩な魔王でも喜んで近づけるより外には工夫もなかったのです。
 志津子夫人は展望台の出張りに三脚を持出もちだして、海の絵を描く、その傍で千束守が、海気を肺臓一パイに吸って、南の国の歌を歌う、――それを御主人の喜田川三郎氏が、面白くも無い精神修養の本を読み乍ら、眼の隅から二人の様子を眺め眺め、書斎の窓際の安楽椅子にもたれている――こんな日は幾日も続いたのです。
 千束守はその道の猛者もさではあり、歌よりも恋の狩人ラヴ・ハンターとして有名でしたが、伊太利イタリーから帰って間もなく、フトした機会にこの素晴らしい幼な馴染なじみの志津子婦人に[#「志津子婦人に」はママ]めぐり逢ってからは、身も世も忘れた姿で、志津子夫人に夢中になって居りました。いや全く、志津子夫人は夢中になるだけの値打は充分にあったのです。これだけの肉体的魅力と、才能と情熱とを持った人は、日本人の間にはそう沢山たくさんあるはずはありません。
 ところで、この悲劇の舞台になった、南伊豆の別荘、かつえんの行者が、神斧鬼鑿しんぷきさくの法術で彫り成したという伝説の凄まじい断崖の上の高楼たかどの――名づけて臨海亭りんかいていというのも、実は志津子夫人の我儘な願いを容れて、二三年前にようやく出来上ったものだったのです。
 奇岩怪石の上を拾って、五歩に一閣、十歩に一棧と言った恐ろしく洒落しゃれた建物ですが、一番上の母屋おもやとも言うべき高楼は、千尋ちひろの荒海の上に臨んだ、大岩石の上へ乗出のりだすように建てられたもので、その展望台から下を臨むと、数百尺の下は真白に笹縁を取った碧海で、鈍い銀色に光る岩の間を、岩燕がヒラリヒラリと飛交とびかうのさえ、此世のものとも覚えぬ凄まじい大景観です。
 知らない人が、豪華で雄麗で、安定感の豊かな母屋の書斎から、フト明るい展望台に出て欄干越しに、うっかり眼下の海を臨んだら、あまりの恐ろしさに胆を冷やすことでしょう。し此欄干が外れるような事があったら――万々一にもそんなことは無い筈ですが、欄干にった人はつぶてのように落ちて、岩に砕かれるか、千尋の海に沈むか、恐らく死骸も残さずに、完全に此世界から消え去ることでしょう。
 志津子夫人は、この展望台の上から、伊豆の海の種々相を描くのを、何よりの楽しみにして居る様子でした。
 遠く下田に続く海岸の美しい線や、眼下に踊る波の姿や、いやそれよりも、岩の上に張り出した展望台の脚下、銀灰色の岩と、碧の海とが光線と水蒸気にって千変万化する光の交響楽に対して、志津子夫人は異常な関心と興味とを持ち、それをカンバスの上に再現することに熱中していたのです」


 話し手、倉繁大一郎の調子には、にかしら異常なものがありますが、それだけに聴衆に訴える力には、容易ならぬものがありました。
「――喜田川志津子夫人の絵は次第に完成に近づくと、その熱心さは日毎ひごとに加わって、お天気さえ好ければ、毎日午前九時――朝の食事がおわってと休みすると、必ず展望台に出て、危うい欄干に凭れるように、眼下に展開する海と岩との、不思議な色調に吸い寄せられるように絵筆を動かすのでした。その神秘的な美しさは、朝の光の中に最もよく発揮され、昼近い陽が、展望台の影を岩から海へ落すと共に終るのでした。
 画業の合間合間、志津子夫人の遊戯は、相当大胆に展開しました。最初は夫三郎氏を相手に、室内屋外各種の遊びがくり返されましたが、千束守がこの別荘へ来て、夫人の請うがまにまに長い長い滞在を始めると、夫人の遊び相手は、若くてあたらしくて、そして夫人に取っては最も思出おもいでの多い少女時代の遊び友達だった、千束守に乗り換えられ、夫の三郎氏は、置き忘れられた秋の扇のように、部屋の片隅にっとして、何時いつまでも何時いつまでも辛抱強い眼を光らせて居なければなりませんでした。
 この状勢が続くと、事情がうなるか、大方皆様も想像されることでしょう。喜田川三郎氏の我慢が沸騰点まで押し上げられた時、恐ろしい破局カタストロフの予告が、遠雷鳴とおかみなりのように人々の神経を苛立いちだたせ始めたのです。
 嫉妬――何んという忌わしくも薄暗い言葉でしょう。喜田川三郎氏は、自分から離れて行く志津子夫人への見せしめに、その社会的勢力と、おびただしい財力を利用して、志津子夫人の憐れな両親を苦しめ始めた時、一方志津子夫人と千束守の親しみは、友情を越えた域まで醗酵したのも無理のないことでした。
 そうして、此後に、ある美しい秋の日、主人喜田川三郎の留守中、突如として志津子夫人と千束守の死が訪れたのです。
 それをお話する前、私は人間の死には凡そ四つの場合があるということを申上げたいと思います。
 第一は病死及び自然死、これは医者の匙加減と、看護方法以外には問題になりません。
 第二は過失死、
 第三は自殺、
 そして最後に第四として他殺があります。
 第二から第四までの場合は、その方法、条件、時、場所、などいろいろの問題を生ずることは申すまでもありません。
 喜田川志津子夫人と、その友人千束守の場合は、当然第一の場合である筈は無く、誰の眼にも第二の場合、即ち過失死と思われ、死骸は永久に発見されませんでしたが、警察の方もそれで届済とどけずみになりました。
 詳しく言えば、或朝――今から十何年前の九月十三日の午前八時の出来事です。その日は此上もなく美しく晴れ渡って、志津子夫人の「碧海と銀灰色の交響楽」を描いた絵に、最後の仕上をするには、此上なく結構な朝でした。
 女中達の証言によれば、志津子夫人は喜び勇んで展望台に飛出し、千束守の口ずさむ伊太利イタリーの歌を聴き乍ら、浮々うきうきとした心持で絵筆を走らせて居たということです。ピンク色の洋装に、綾糸で編んだ美しい帽子をかぶって、心も空に絵を描いていた夫人が、描いた絵と、真物ほんものの海とを見比べるつもりで、うっかり欄干にもたれて反身になった時――誰も見て居たわけではありませんが、夫人がよくんなポーズを取るのを、雇人達や夫の三郎氏が心得て居たのです。
 その刹那、――アッと言う間もなかったでしょう、海風にさらされて、ひどく腐蝕して居た欄干は、夫人の体重に堪え兼ねてポッキと折れ、夫人はそのまま、数百尺の下へ投げられた花束のように落ちて行ったのでしょう。
 展望台は大岩の上に張出した建築で、下は千尋の死の碧海になって居ることは、前にもお話しました。恐らく志津子夫人は、其儘波の底に沈んだらしく、永久に死体も揚りませんでした。其辺は犬の牙を噛み合せたような恐ろしい岩の林で、それを攻めなやむ怒濤の凄まじさ、どんな軽舸けいかでも近づけるところでは無い、近づいたところで、岩と藻とが怪奇な淵を形成している中から、死体を探し出す工夫などはつかなかったのです。
 それを見ると、南伊太利イタリーに住んで、海にはよく馴れている筈の千束守は、恐らく前後の思慮もなく、夫人の後を追って、展望台から飛込んだことでしょう。兎も角、異常な気合に女中達が展望台へ駆け上った時は、美しい夫人の姿も、それを護る騎士のように、一寸ちょっとも傍を離れない千束守の姿も其処そこには無かったのです。そして恐る恐るこわれた欄干のところから、眼下数百尺の海を望むと、中途に飛出した銀灰色の岩に、夫人の美しい綾糸の帽子と、千束守の手巾はんけちらしいものが、静かな海風に吹かれて息づくようにヒラヒラと動いていたということです。
 その日の早朝用事があって東京に出た喜田川三郎氏は、電話で呼び返され、百方手を尽して海を捜索しましたが、夫人の死骸も千束守の死骸も、それっ切り揚りません。
 三郎氏の悲嘆は、まことに眼も当てられぬ有様でした。大の男が、よくもあんなに、恥も外聞も忘れて泣き悲しんだものだと評判されたほどです。とむらいが済んで何もも一段落を告げると、夫人を死に導いた別荘は見るのも嫌だと言って、その年のうちに取りつぶさせ、一人取残とりのこされた喜田川三郎氏は、野心も、功業も、名誉も、利益も振り棄てて、そのまま何処いずことも知れぬ放浪の旅に上ってしまいました」


「ところで諸君」
 倉繁大一郎は急に話題を転じました。
「志津子夫人と千束守の死が、私の挙げた四つの死の場合の第二、即ち偶然の過失死と見做みなされて十年経ちました。が、私は測らずも手に入れた、二人の日記と手紙から、この悲劇は決して偶然に起ったものでなく、充分に研究され、計画し実行したところの死――即ち第三の場合の、自殺による死であったことを確めたのです。
 あんなに騒がれた閨秀画家と、人気の絶頂にあった花形歌手は、まさに神人共に許さざる、愚婦愚夫のすなる心中という方法を採って死んだことを、此処ここに用意した、いろいろの記録が証明して居ります。
 私の発見した手紙は、ひどくはさみを入れられ、日記は滅茶滅茶に抹殺されて居りますが、残った片言隻句へんげんせっくを綴って、いろいろの事情に思い合せると、志津子夫人と千束守の二人は、夫の嫉妬や外界のいろいろの圧迫に堪え兼ねて、到頭とうとう相対死あいたいじに」の道を選んだことが、実によくわかるのでした。
 手紙や日記を、んなに切ったり消したりしたのは、多分夫喜田川三郎氏が、自分の不名誉を救うために、あるいは甚だ忠実でなかった妻の志津子夫人に情死の汚名をせないために、二人が死んだ後で、この通り手紙や日記を切り刻んだものでしょう。その衷情はまことにあわれむべきですが、真理のために――いや、人間の醜さを反省するために、矢張やはり真相として其儘世に伝える義務があると私は信ずるのです。
 この日記と手紙は、喜田川氏の旧居を手に入れて、私の住居にするため、いろいろ改築をして居るうちに、長押なげしの裏、古机の抽斗ひきだし、額の後ろなどから出て来たものです。十年前の記録を、今頃発見するのはあまりに遅いようですが、私の手に入ってから十年間、喜田川氏の旧居は錠をおろしたままで、住む人もなく荒されて居たためでした。
 この記録を発見すると同時に、私は喜田川志津子夫人と千束守の死に就て、異常に興味を感じ、十年前の新聞や雑誌、喜田川氏の知人などを捜し出して、これだけのことを調べ上げました。んな事を発表するのは、行方不明になった喜田川三郎氏のためには、誠にお気の毒ですが、事実を事実として伝えるためには誠にむを得ないことであります」
 言い終って倉繁大一郎は、静かに壇を下りました。


「幹事長、幹事長」
 倉繁大一郎が、自分の席へ帰る前に、会場の隅から、大きな声を張り上げて立上たちあがった者があります。
どなたですか」
 今八郎は静かに応じました。
磯上伴作いそがみばんさくです。――今の方は事実を事実として伝えるために、十年前の隠された秘密をあばくとおっしゃった。それならば私にも一言しいことがあります」
「――――」
 会場は異常な好奇心に固唾かたずを呑みました。それほど磯上伴作の言葉には、思い詰めた緊迫さがあったのです。
「私は、人の秘事は、その人の欲する限り永久に隠して置くべきだと思います。墓を発くような詮索は、奇談クラブの名においてもあえてすべきではありません。だが、発いた事が事実と全く違って居たとしたら、どんなものでしょう。それは明らかに、誤れるままそっとして置くよりも、遥かに悪い事ではないでしょうか」
「磯上さん、此方こちらへ出てお話下さい、其処そこでは皆様へ通りません」
 会長の吉井明子夫人と打ち合せた幹事の今八郎は、会場の隅で際限もなくしゃべり続けて居る磯上伴作を招きました。
「では――」
 狭い通路を通って、明るい壇上に起った磯上伴作は、全く驚くべき風采でした。今時分には珍らしい紋付の羽織袴、それも幾年女の手にかからないか、見当もつかないようにヨレヨレになったのが、虫喰い頭、皺だらけの額、半白の※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)、冷笑と苦渋な表情に歪み果てた頬、――そんなものをよろって、風に吹かれる案山子かかしのように、安定を欠いた身体からだが、壇の上に、フラフラして居るのです。
 ただ二つの瞳だけが、明らかに青春の光をたたえて、二台のともしびのように、キラキラと光ります。
「私は事実の神聖のために申上げます、――これは永久に、地球の最後の日まで秘密にすべきものでしたが、今となってはいたし方がありません。
 倉繁氏とやらは、喜田川志津子と千束守の手紙と日記から、二人は明らかに情死したことを読んだと言われました。その証拠なるものは滅茶滅茶に鋏を入れ、縦横に塗抹した日記と手紙ですぞ。喜田川三郎が果して、そんな細工をしたものなら、自分の名誉を救うために、かえってどんな人が読んでも、その日記と手紙から、志津子夫人と千束守の情死したということが判らないように鋏を入れ墨で抹消すべき筈ではありませんか。
 いや、喜田川三郎に常識があるならば、自分の名誉を救うために、不貞の妻の日記と、奸夫千束守の手紙は、形も残さずに焼払やきはらうのが本当です。
 それを、そんなことをせずに、誰かが自分の家を買って、その人が日記や手紙を発見した時、志津子夫人と千束守が、情死をしたに違いないと判じさせるように鋏を入れ、墨でなすったのは、前に重大な目的があってした事では無かったでしょうか。
 つまり喜田川三郎にしては、万一の場合に、自分の不貞の妻と千束守が、「情死したという証拠」を残して置きたかったのでは無いでしょうか。
 何んでも無い手紙や日記に鋏や墨を入れて、恋や死を判じさせるのは、決してなまやさしい事ではありませんが、併し、少しく頭の良い者に取っては、それは決して出来ない事ではないのです。志津子夫人や千束守の平凡な日記や手紙も、鋏や墨を入れて、そんな目的のために悪用されたのではないでしょうか。
 もう一度その手紙と日記を検討して、切り抜かれたり、削られたりした文字のところに極めて平凡な、当り前の言葉を入れて見て下さい。すくなくとも、切り抜かれ抹消された文字を無視して、残る文字だけを綴って、恋と判じ、死と読むのは、それはいかにも浅墓あさはかなことではありませんか。
 ――もう一つ重大なことを申し上げましょう。志津子夫人の死んだ後で誰が、一体あの欄干を念入りに調べて見たでしょう。千万長者の令夫人の過失死の裏に、何が潜んでいるか――誰もそんな事を考える者も無かったでしょうが、あの時少し冷静な頭脳の所有者があって、折れた欄干を調べて見たら、新しい鋸目が幾個所かに入って、それを継ぎ合せて、新しいペンキで塗り隠してあったことに気がつくでしょう。
 どんなに海の風が荒いと言っても、建って二年か三年しか経たない展望台の欄干を、そんなにひどく腐らせる筈もありません。
 前夜、誰かが、欄干に細工をしたのを知らずに、志津子夫人はいつものように免れ、たちまち数百尺の下、怒濤の中に呑まれてしまったのでしょう。それを見ると人気歌手の千束守、少し甘口で思慮の足りない千束守は、前後の分別もなく海へ飛込んだのでしょう。
 皆様お驚きは御尤ごもっともですが、騒いではいけません、警官を呼んで来ることも無用です。これは『奇談クラブ』の座興のために創作された一篇の物語りに過ぎないのです。
 よしんばそれは事実であったところで、事件は二三日前で丁度ちょうど時効にかかったのです。
 ――喜田川三郎は何処どこへ行ったと仰しゃるのですか。イヤイヤそれは申し上げますまい。志津子夫人の両親のびっくりする程の財産を贈って、彼はそのまま姿を隠してしまいました。彼の心の中には、まだあの国宝阿修羅王に似た、魅力そのもののような志津子が生きて居るのです。それでいのです。愚劣で浅薄な千束守は、死んでも生きても、喜田川三郎をわずらわすことではありません」
 磯上伴作という中老人は、不機嫌らしく首を振って、フラフラと壇を下りました。ゾッと全会場を襲う戦慄、三十名あまりの会員は、黙りこくって顔を見合せるばかりです。


 次の瞬間、会場の中には、恐ろしい動揺が起りました。隅っこの方に引込ひっこんで、素知らぬ顔をして窓の外の闇などを眺めて居る、磯上伴作の面上に、幾十人の視線が、痛くなるほど投げかけられましたが、肝心の磯上伴作は、今言った事を忘れてしまったように、ケロリとしてすまし返って居るのでした。
「お静かに願います、――倉繁大一郎さんのお話も重大でしたが、磯上伴作さんのお話は、それにも増して重大なものでした。皆様の御驚きまことに御尤もと存じます。ところで、事件は一度ひとたび歴史となると、いろいろの人の利害や政策などに塗り潰されて、その真相を探ることは容易でありませんが、此処ここに、不思議にも、此の事件に関係した、もう一人の方が、此の会場に居合せ、皆様の疑惑を解くため、是非一言申上げたいと仰しゃるのです」
 今八郎はそう言い乍ら、前列につつましく腰をおろした、一人の婦人を促しました。そして、
環玉枝たまきたまえ様を御紹介いたします」
 と壇を下ったのです。
 あの不思議な空気の中に、期待と拍手に迎えられて起ったのは、三十そこそこの、まだ若々しい感じのする婦人でした。決して美しくはありませんが、聡明らしくて、健康そうで、何んとなく可愛らしさのあるこの婦人は、つつましく壇の上に立っただけで、会場の沸き返る空気を支配し、一瞬、水を打ったように静まり返ります。
「唯今の磯上伴作様は、喜田川志津子さんと千束守さんの死を、第四の場合――即ち他殺だと仰しゃいました。磯上様のお話をうけたまわると、それは悪魔的な周到な計画の下に行われた最も憎むべき犯罪で、その完全犯罪の成功は、一点疑うべき余地もないようですが、併し、物事はすべて、裏には裏があり、底には底があり、そう簡単に二二ンが四とは形付かたづけられない場合があることも勘定に入れなければなりません。
 ――志津子さんの事件にしても、過って死んだことにしてしまえば、それっ切り、何事もなく市が栄えるのですが、一度自殺とされ、さらに他殺とまで発展しては、志津子さんの名誉のために、このまま黙っては過されないことになりました。幸い私は、その間の事情をよく知って居りますので、差出さしでがましいとは存じましたが、皆様の疑惑を説き、志津子さんのえんをそそぐために、最後の一言を添えさして頂き度いと存じます。
 さて、話は十何年前に返りますが、その時喜田川志津子さんが、夫の激しい嫉妬の前に、自分の身を全うし、お友達の千束守さんを助け、そしてもう一つ大事なことは、夫三郎の悪意に満ちた奸策のために、もう一度恐ろしい不名誉な破産に瀕して居た両親を、その財政的破綻から救うためには、一体どんなことをしたらよろしいでしょう。
 実際志津子さんは腐朽した欄干に不用意に凭れて、千尋の海に落ち込むような人ではなく、また浄瑠璃の小春や、おさんや、三勝のように、無分別で野蛮な情死などをする――そんな浅墓な人ではなかったのです。
 その上、これは一番大事なことですが、事件のあった前夜、眠られぬままに、フト夜風に吹かれる積りで廊下に出た志津子さんは、夫の喜田川三郎氏が、闇に紛れて展望台の欄干に、妙な細工をするのを逐一見て取ったとしたらどんなものでしょう。
 ――夫の三郎氏は朝早く素知らぬ顔で東京へ行ってしまいました。この夫によって「死の淵」に追い込まれた筈の志津子夫人は、決然として自己保然の唯一の道を採ったのに何んの不思議があるでしょう。
 志津子さんと千束守の、それまでの関係は、唯単なる友人、――最もなつかしい幼友達に過ぎなかったことも、この際申上げて置く必要があるでしょう。兎も角、志津子夫人は、すこしばかりの詭計トリックを用いて、いよいよこの忌わしい『人形の家』をけ出す気になったのです。
 言うまでもなくこのノラは、かなり我儘な奥様だった事は違いありませんが、それでも売買結婚同様に自分を買い取った夫の、理由いわれない嫉妬のために殺されかけたのですから、死骸になった積りで、喜田川家を出るのに、何んのやましいことがあるでしょう。
 そのためには、腹心の女中を説き落して、よく言い含めるだけで充分だったのです。欄干をこわして、綾糸の帽子と白い手巾はんけちを、展望台の下の岩鼻にほうり出すことも、ささやかな準備の一つでした。そして、ほんの少しばかりの旅費だけを持って、何一つ手廻りの品も持出さずに、そっと南伊豆の別荘を脱出ぬけだし、一気に北海道の奥の奥、十勝平原の隠れ家へ飛んだのです。
 其処そこには志津子の一番親しいお友達が、早くから農園を経営して、志津子が世も家も捨てて逃込にげこんで来るのを待って居りました。
 その頃は旅行も楽でしたし、何処どこへ行くにしても、お米の通帳も、異動申告も要らなかったのです。
 それから十何年」

フィナーレ


 環玉枝はプツリと言葉を切ったのです。何やら恐ろしい感慨にとらえられて、声が喉に詰ったのでしょう。次に出たのは続く言葉ではなくて、ハラハラと壇上にそそぐ涙でした。
「嘘だ、嘘だ」
 不意に、会場の隅の磯上伴作は起ち上りました。恐ろしい感情に興奮して、異常な顔は火の如く燃えます。
「いえ、んな本当です。――そして志津子と千束守は、社会からも芸術からも見捨てられましたが、恐らく百姓夫婦のような健康を作り出して、幾十年の後、『第一の場合』即ち自然死に恵まれることでしょう」
「嘘だ、嘘だ、何んという出鱈目でたらめだ」
 磯上伴作は突っ立ったまま、まだ拳を振って居るのです。
「いえ皆んな本当です、この環玉枝が生きてこの壇に起って居ると同じように、志津子は北海道の果てに、すこやかに暮して居るのです。もう絵も描きません。歌も歌いません。四季とりどりの大観は、大自然のキャンバスに、神様が御自分の手で描いてくれます」
「嘘だ」
「まだ信じては下さらないのですか、それでは申しましょう。志津子が十何年前南伊豆の家を出る時、喜田川家の物をたった一つも身に着けませんでしたが、――自分の指から抜いた蒲鉾かまぼこ形の結婚指輪だけをたった一つ、曾ての夫喜田川三郎氏のテーブルの上に置いて来た筈です。それでも貴方あなたは、志津子が生きているのが嘘だと仰しゃるのですか」
「――――」
 恐ろしい沈黙でした。
 磯上伴作は力尽きたように、バタリと椅子に腰を下ろすと、壇上の環玉枝は、静かに一揖いちゆうして壇を下りました。
 肉付きの良い肩のあたり、健康そうな頬の色、――それは紫外線の強い田舎いなかで働いて居る、知識的な農婦の持つ代表的な風態ふうていではありませんか。





底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社
   2009(平成21)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「代作恋文」アポロ出版社
   1948(昭和23)年10月
初出:「宝石」
   1946(昭和21)年11月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード