奇談クラブの席上、その晩の話し手
「これは実に今日の常識や道徳から見れば不可思議極まる事件だが、芸術至上主義に対する、一つの反逆でもあると思います。筋にはなんの誇張もなく、全く切れば血の出るような本当の話ですが、この話の中から、興味以上のものを汲みとって下されば、私の満足はこの上もありません」
そういい
美しい会長
徳川の末期、
美人画の
国主大名――といったところで、それは決して話術の上の誇張ではなく、現に勢州亀山六万石の城主、朝散太夫
天保八年というと、まだ
三百大名が武辺者や兵法者を競って抱えたは昔のことで、その頃は両刀を
浮世絵師の国主大名、石川日向守も、世の流行に漏れず、三人の愛臣を持っておりました。一人は彫物の名人で
「六郷左京はおるか」
「ハッ、これに控えております」
「木曾から、檜の良材が手に入った、
「ハッ、
「いささか俗でも、極彩色で、歌舞伎模様の恋に取詰めた女が
「私ごときが、――殿の御作と――」
「いや、遠慮は無用だ、その優劣は、遠慮のない入札で行くのじゃ、――面白いではないか」
日向守の国広は大変なことをいい出しました。浮世絵でも描こうといった殿様だけに、
「つきましては、御腰元の中から手本になる方を一人拝借いたし
「
多与里、小浪、梅野は亀山屋敷の三人美女といわれた腰元で、殿の浮世絵のモデルにも使われていたのです。
「有難き仕合せ」
相談は
一立斎広重の描いた東海道五十三次の名所絵の中でも、勢州亀山城は、一種特別な威厳と親しみを持っております。多分それは、相手は国主大名でも、同じ浮世絵師仲間の情愛が、善良な心の持主だった広重に、あんな優れたものを描かせたのでしょう。保永堂版の亀山の雪の曙、
それは兎も角、この話は江戸の下谷大名小路、石川家上屋敷に起ったことで、本国の勢州亀山とは関係がありません。
彫物の名手六郷左京は、自分の御長屋に
「
材木の胴を叩いたり、小口の木目を調べたり、六郷左京悦に入っているところへ、
「御免遊ばせ」
静かに訪れたのは、
「では、六郷様、
多与里を送ってきた老女が、厳重らしいお辞儀をして引揚げた後に、腰元の多与里はやるせない姿で取残されました。
大名屋敷で、臣下に美しい腰元を貸す――そんなことはあり得ない筈というかも知れませんが、何を隠そう、これは極めて当然のことで、石川日向守には、こうしなければならぬ事情があったのです。
というのは、大名の本妻は徳川幕府の人質政策で、
一番年嵩の十九で、一番美しい多与里は、まずいの一番に六郷左京のモデルとして、日向守の側から遠ざけられました。
高島田が初々しく、紫
「――――」
口の中で何分
「いや、御苦労で御座るな」
さっさと仕事を運びました。
檜材は早速荒削りされて、仕事場に立てられました。その間にモデルの多与里は、用意された衣裳を着けて、火見櫓の八百屋お七――存分に卑俗な題材であるにして、兎にも角にも、その頃の模範的な好尚にピタリとする、芝居振りの激情的を娘形になったのです。
六郷左京は張り切っておりました。人間は軽薄で、不良少年型であったにしても、男振りと彫物の腕だけは大したものでした。
幾度も幾度も図取りをしてポーズを直させた上、さて
モデルの多与里は、人形のようにお行儀がよく、人形のように綺麗でした。鑿を
こんな筈ではなかったが――、と六郷左京は幾度か首を
多与里は一日一杯、
「何ということだ、これではまるで泥人形ではないか」
そんなことをいい乍らも、六郷左京の鑿は、職業的な速力で、一日一日と彫像の形を整えて行きます。やがて
「これで良し」
出来上ったのは、もう桜の散る頃、何よりもまず衣服を改めて殿に御目通りを願うと、
「出来上った
日向守はことの外の機嫌です。
「殿、御絵の方は?」
左京が恐る恐る訊くと、
「其方の彫物の出来上るのを待っていたよ――これじゃ見てくれ、手本になったのは小浪だが、半四郎に似ているという噂じゃ」
平民殿様はすっかり悦に入って、
「ハッ」
恐る恐る押し戴いた六郷左京は、それを一と眼、ハッと首を垂れました。
髪を振り乱して、櫓に駈け登る人形振りのお七、激情に取り
「恐れ入りました、到底私の彫物の及ぶところでは御座いません」
そう言う左京へ、
「芸道と君臣の礼は又別だ、無用な謙遜ではないか、左京、兎も角其方の作を見よう」
日向守は砕けた殿様でした。
「ハッ」
不本意乍ら、左京の作品――八百屋お七の彫物は縁側に運び込まれました。
覆いの白い布を
「左京、これはなんだ」
「ハッ」
「
「――――」
「もう一度やり直せ」
「ハッ」
六郷左京は、無念の唇を噛んで引下る外はなかったのです。わけ知りの主君日向守は、事芸道に関する限り、
六郷左京はお七の像を抱いてお長屋に引下りました。こうなるともうこの彫像を、二度と見るのが嫌になります。
いきなり庭に持出すと、薪割りで真っ向から
「畜生ッ、何んの
左京はなおもそれを切り刻みました。極彩色のお七は、四つに割られ、八つになり、十六に、三十二になって、庭の隅に
「なんということだ」
それに泥を蹴上げて、家の中に入った左京は、猛烈な自己嫌悪に陥って、
「酒だ、酒だ、早く酒を持ってこい」
最後の逃避を、アルコールに求める外は無かったのです。
「六郷様、どうなさいました」
酒の用意をして来た女中の後ろから、そっと顔を出したのは、モデル以来、御殿から此のお長屋へ、毎日通い慣れた腰元の多与里です。
「多与里殿か、御前体まことに散々であったよ、あれ程の凡作とは、鑿を取ったこの私も、陽の光りで見るまでは気が付かなかった」
左京は盃を取って、唇を濡らしました。
「あの、私のせいで――」
「いや、
「いえ、あの」
灯の蔭に反けた顔のいじらしさ――この女にも、このような優しい半面があったのか知ら――六郷左京は新しい発見をしたような心持になりました。
「仕事はやり直しだ、前祝に一献参ろうか、多与里殿」
「あの、お酌いたしましょう」
銚子を取った白い華奢な手、俯向いた頬がサッと紅差して、妙に此娘を
「それは有難い、――長い間の辛抱であったが――拙者の技の
「いえ、私のせいで――」
「いや、多与里殿の美しさは非の打ちどころは無い、――もう少し灯の傍へ――こう近う寄られるが宜い」
酒が廻ると、六郷左京の舌も態度も無遠慮になって、ツと伸びた手が、
骨細の、掌の中に消えそうな凝脂、不思議に弾力的な触感が、酔った左京をツイ積極的にしました。
「あれ」
それは
「多与里殿」
六郷左京の声はツイ口の中に消えます。
なんという美しさでしょう。三月近くあの妖艶極まる扮装をしたお七の姿を見馴れてきた左京ですが、それは冷たい、そして取澄ました美しいものに過ぎなかったのに、今晩の多与里の悩ましく輝かしく、そして
女は全く違った半面を見せたのです。
「恋だ」
左京は、自分の疑問に胸の
美貌を買われて、亀山侯の御殿に上った多与里は、十九の春までも、ツイ恋らしいものも知らず、固い固い蕾のまま、お七の扮装をさせられ、心ならずも、激情のシーンを強いられていたのでしょう。
女を美しくするもの、恋の外に何があろう、
「多与里殿、もっと
左京の手は又伸びました。もう多与里の手首ではなく、その丸い小さい肩――激情と娘らしい恐怖にワナワナ
だが、
六郷左京は、その道にかけては、戦場万馬往来の古つわものでした。唯の小娘――それはお人形のように綺麗であるにしても、意気地も
それからの仕事は、奇蹟的に進捗しました。モデル台の上に立った多与里は、最早以前の美しい泥人形の小娘ではなく、左京の操る
鑿は勢いよく動き出しました。しかもその一彫一刻が、有機的な繋りを保って、一塊の
四月には磨きも済んで、端午の節句の頃にはもう彩色にかかっておりました。
わざと毛描きや、丹念な塗りは
その間にも六郷左京と多与里の恋の遊戯は、日とともに濃度を加え、最早抜き差しならぬ心境にまで押し上げましたが、その時
作品は早速殿――石川日向守の御前に運ばれました。
五月の
「フーム」
石川日向守はさすがに
それはまさに、一塊の美しい焔でした。激情に駆られた一人の処女が、凄惨な
「これは良い、見事だぞ左京、――余の浮世絵などの遠く及ぶところでない」
石川日向守は、さすがに芸術のわかる殿様でした。膝を打って感嘆し乍ら、いさぎよく自分の負けを宣言するのです。
数々の下されもの、身に余る
「お帰り遊ばしませ」
「――――」
「上々の御首尾で、お
ワクワクした心持で迎えてくれた多与里に対して、左京はもう、大した関心も持っていなかったのです。
「多与里殿、長い間御苦労であった、御殿へ帰って休まれるがよい」
左京の口から出たのはたったこれだけ。
「――――」
多与里はその
「あ、あ、疲れた、四五日存分に休みたい」
左京はそういって、色消しな
側にいる多与里などは、もう眼中にもありません。
それからの六郷左京と、腰元多与里の関係は、世にも不思議なものでした。一度処女の心に点じた恋の焔は、左京の冷淡さに煽られて、お七的な激しさにまで燃えさかりますが、一方左京の心境は昔の平静に還って、多与里の事などは、忘れようともせずに、綺麗に忘れるほどの不人情振りです。
一つの芸術の完成のための、ささやかな犠牲が多与里だったのでしょう。そんなものにこだわるにしては、六郷左京は十分に悪魔的でした。
用事を
この冷たさが逆効果を生んで、多与里の情熱を
「左京を呼べ」
殿から、
「ハッ、御召しで御座いますか」
妙に改まった調子に、六郷左京は
「外ではない、――近頃屋敷中の噂だが、其方多与里となんか約束でも取交したのではないか」
平民殿様はすっかり下々のことを
「飛んでもない、左様な覚えは毛頭」
「よいよい、お前の方に覚えがなくとも、多与里は大した執心じゃと申すが」
「一々左様なことに
「もうよいよい、言いわけは
「それは」
「よいではないか、半年も其方の長屋に通って、顔を合せた間柄だ。その上多与里はあの通り思い詰めている。よもや不足は申させぬぞ、余の申付けじゃ」
「ハッ」
六郷左京、こんなに驚いたことはありません。一時の方便で、多与里の恋心を煽ったには違いありませんが、それをまさか一生つれ添う女房として背負い込もうとは思いも寄らなかったのです。
同じ背負い込むなら――町人の娘の淋しい多与里より若くて明るくて、愛嬌があって、その上石川日向守一門の末に連なる石川
「恐れ乍ら、殿――」
「なんだ、承知をする気か」
「殿には、
六郷左京は妙なことを言い出しました。
「ウム、それがどうした」
馬琴の八犬伝はその頃天下の人気を湧き立たせていたことはいう
「あの末段に、里美侯の八人の姫君を、八人の犬士にめ合せるところが御座います」
「ウーム」
「その手段として、
「いかにも、実際はあり相もない話だが、狂言続語としては面白いな」
「それを学んで、縁結びで御決めになっては
「成程それは面白いな」
浮世絵の殿様石川日向守は、此奇抜な縁結びに、とうとう乗り出してしまったのです。
政略や野心や、家柄のためにさえ――いや、殆んど家柄や利害や、政略のためにだけ婚姻が行われた時代のことです。三人腰元と三人の寵臣の縁結び、この不道徳な遊戯さえも、道徳的に正当化されたところでなんの不思議もありません。
三人の美しい腰元の存在に、安からぬ心を抱いていた御内室は、第一番にこの縁結びに賛成しました。
大体の段取りは八犬伝に書かれた縁結びの通り、簾を距てて投げた三本の赤い紐を、六郷左京、名川采女、伊東甚三郎の三人が、引きさえすればそれで良かったのです。
この行事は、五月十五日の晩と
こうなると、運勢は三つに一つです。六郷左京にしてみれば、美しい泥人形の多与里を
六郷左京はまず、老女砧に渡りをつけました。これは容易ならぬ
早速
こう運んでしまえば、あとはもう天下泰平でした。いよいよ五月十五日の日も暮れて、上屋敷大広間の、かけ連ねた銀燭の中に、三人の美女、多与里、小浪、梅野は、それにめ合せる筈の三人の寵臣、六郷左京、名川采女、伊東甚三郎と相対しました。
一方は
やがて、三人の花嫁が次の間に退くと、老女の手で、簾の下から三本の赤い紐が投出されました。
「では、年長の六郷左京から」
上座の日向守の声が掛ると、左京は
続いて采女、最後に甚三郎、三人それぞれ引いた赤い紐の先には、左京の紐には小浪、采女の紐には梅野、甚三郎の紐には多与里の名札がついているのでした。
どっと歓声が挙りました。
「やんや、やんや」
石川日向守は扇を開いて
御内室もその横からニッコリしました。まさに此遊戯は満点的な成功です。それから間もなく、綿帽子を被った三人の花嫁は、老女達に手を引かれて、それぞれの運命の
名川采女、伊東甚三郎のところにはどんなことがあったかわかりませんが、六郷左京のところに案内されて来た花嫁――腰元の小浪は、不思議なことに親の石川玄蕃もその妻の某も姿を見せず、老女が花嫁を奥の一と間に納めると、親類縁者を誘うように、コソコソと帰ってしまいました。
三々九度の盃は殿の御前で済ませたのですが、せめて床盃の世話でもしてくれなければ――といった物足りない心持で、六郷左京は新婦の待っている
花嫁の小浪は、床の前にキチンと坐ったまま、少し固くなっております。
「小浪殿、――不思議な縁であったな」
「――――」
寄りそうように坐りましたが、花嫁は黙りこくってまだ物も言いません、多分
「まずそれを脱ぐがよい」
六郷左京は及び腰に手を伸ばして、花嫁の綿帽子を
が、花嫁は物も言いません、静かに上げた顔、左京を見据えた眼、
「あ、多与里」
それは紛れもない多与里――曾てはお七のモテルになって、散々恋の遊戯をした相手の、多与里の
「――――」
「お前は、お前は――」
まさに左京は開いた口も
「怨めしい、お前の心、――紐に目印しまで付けさしたと、砧様に聴きました。でも私の歎きの深さ切なさに、砧様は我慢がなり兼ねて、
「何? あの婆ア
「これ程までにして、私を踏みつけようとは、怨めしい、左京様」
ツと立った多与里の手には、いつの間に抜いたか懐剣が光っていました。
「あ、危いッ」
という間もありません。寸鉄も帯びなかった六郷左京は、伸びた花嫁の懐剣に胸を刺されて、
「あッ」
腑甲斐なくも尻もちをついたのです。彫物の腕は優れていても、武術の方は此上もない大なまくらだったのです。
「私の話はこれで終りました。六郷左京は花嫁姿の多与里に刺されて死に、多与里は可哀想に其儘気が狂ったということです。名作八百屋お七の彫像は、気の狂った多与里のために、その夜のうちに滅茶滅茶に割られたことも申し添えましょう」
話し手の天野久左衛門はそういって、又五本の指で長い髪を梳きました。
「最後に、教訓めかして
天野久左衛門は、ピョコリとお辞儀をして、呆気に取られている聴衆の中に紛れ込みました。