「この物語の不思議さは、常人の想像を絶しますが、決して出たらめな作り話ではありません。この広い世の中には、アラビアンナイトや
奇談クラブの席上、真珠色の間接光線のあふれる中で、ピアニストの
「皆様も御存じの新進作曲家で、おびただしい流行歌を発表して、当代楽壇の人気者になっている
あまりの話題に、会場一パイに詰めた会員達は、思わず
平賀源一郎はその凄まじい緊張を眺めながら、静かに語り続けるのでした。
作曲家小杉卓二の夫人由紀子は、凄いほどの美人でしたが、虚弱で神経質で、その上生来の内気で、男性を魅惑する肉体的条件は一つも持っていないといった、世にも気の毒な婦人の一人でした。
その由紀子夫人が心臓麻痺で死んだ四日目、葬式を済ませてから三日目の晩に、小杉卓二の愛人夢子が、小杉卓二の留守中、その寝室の中で虫のように殺されていたのです。
それを発見したのは、
「あッ」
小杉卓二が大の男の癖に悲鳴を挙げると、お勝手に働いていた
「まア、夢子さんが――」
お倉婆さんが
十二畳ほどの広さの豪華を極めた寝室は、昨夜のまま密閉されて居りましたが、朝の光は厚い窓掛の隙間から入って、天蓋付の素晴らしい寝台の上に、床から半身を
御存じの通り小杉卓二は、不良青年型の芸術家ですが、通俗作曲家としての天分は相当のもので、その甘酸っぱい流行歌が、レコードにラジオに、各所の演芸館に氾濫するにつれて、
教養も道徳観念も低い小杉卓二が、その生活の節度を失って、次第に放縦になり、無恥になり、不道徳にさえなって行ったのは、まことに
夫人の由紀子は、小杉卓二と八つ違いの二十四でしたが、夫の卓二と違って、極めて趣味が高く、芸術的天分にも恵まれて、ショパン弾きとしては、独自の境地と
由紀子は教養の高い、貞淑な女でしたが、夫卓二の職酷な態度に
その葬式が済むと同時に、卓二は熱海に演奏会があって、出かけました。好ききらいは別として、とにも
卓二は流行歌手の伴奏を弾いたり、自作のピアノの小曲を演奏したり、大分良い心持になって、
後で警察に調べられましたが、その晩卓二は熱海へ泊ったことは確実で、同じ宿屋で歌い手達と無駄話をしたり、
それは
知名人の家庭に起ったことでもあり、その上、京野夢子は映画女優として、一時は相当の人気を背負って立ったこともあるので、調べは厳重を極めましたが、「黄色い部屋」のように密閉された寝室で、美しい女が一人鋭利なぺーパーナイフで心臓を刺されて死んでいるという怪奇な謎は、容易のことでは解けそうもなかったのです。
「寝室の戸は確かに閉まっていたのですね」
係の警部は尋ねました。
「間違いありません。寝室の戸はいつでも内から厳重に閉めて寝る習慣になって居ります、――それに今朝私はこの鍵で開けて入ったのですから」
小杉卓二はズボンのかくしから、ニッケルめっきの――小さいが丈夫そうな鍵を出して見せました。
「鍵は幾つあります」
「二つだけです。あとの一つは、夢子が持って居るはずです。多分寝台の側のスタンドのところに置いてあるでしょう」
卓二のいう通り、ニッケルめっきの特色のある形をした鍵がもう一つ、サラセン模様のかさを被せた、青磁のしゃれた電気スタンドの側に置いてありました。
「窓には手を付けなかったでしょうな」
「手は付けません、電話をかけるひまにも、婆やに番をさして居た程で、部屋の中のものは何一つ動かしません。もっともあまり暗かったので、婆やにいい付けてカーテンだけは一部開けさせましたが」
「それは
警部は半分独り言のようにいって、開け残したカーテンをさっと払いました。
窓の外は思いの
明るい光線が一パイに入ると、寝室の中の調度の豪華さに、一種の反感を交えた讃歎を禁じ得ません。少し古典的なマホガニー塗の家具も、モーリス風の壁紙も、フカフカとした支那
この豪華な雰囲気の中に、一つの惨殺死体が横たわっているのでした。
女優京野夢子――その豊満な肉体と、あらゆる感情を香気の如く発散する、異常な表情美を特色として一時はスクリーンの女王とまで担ぎ上げられた女が、この美しい天蓋の
――死んでからまで芝居をしているのだ――と、後で係官の一人が不道徳な歎声を
見事に伸び切った長身で、豊かな皮下脂肪――というと一向不思議はありませんが、美しい蔓草のような柔らかさと強靭さを持った四肢や、桃色真珠の色沢を持った皮膚は、さすがに死の色彩を一と
こんもり
血はぺーパーナイフの突っ立ったあたりから、
「このぺーパーナイフは?」
係りの警部は気を
「隣の部屋――私の書斎に置いてあったものです」
卓二は慎み深く応えます。
「書斎の鍵は?」
「寝室と同じ鍵ですが、
「――――」
警部は黙って書斎に通ずる
スタンドの側にあった、ニッケル
もう一度寝室へもどった係官達は、部屋中の指紋を念入に検出しました。殺された夢子の指紋の外には、主人の小杉卓二と婆やのお倉のがあるだけ、外に見事にうずを巻いた指紋が、あちこちに検出されましたが、それは多分、四日前に死んで、本人の望み通り東京から少しく離れた、都下の村の寺に葬られた夫人由紀子のものだろうということになりました。
その寺は由紀子の里方の菩提寺で、由紀子の親達や兄弟が葬られていたので、夫から心身共に離れた由紀子が、自分の遺骸を横たえる場所として選んだのも無理のないことでした。
それはとも角として、王冠形のぺーパーナイフの柄にも、ほのかな指紋はありました。それは極めて不鮮明なもので、はっきりしたことは言えませんが、気の迷いか、亡くなった夫人由紀子の指紋に似ております。恐らく夫人が生きているころ、時々これを使ったために、夢子の胸に突っ立ったナイフの柄に偶然うらみの指紋が残っていたのでしょう。
その話を聴いた時は、さすがの小杉卓二もぞっと身を
婆やのお倉は、主人の卓二に
「昨日から昨夜にかけて、誰も来なかったか」
「御弔いのお客様が二三人お見えになりましたが、旦那様が御留守と申上げますと、皆な玄関でお帰りになりました」
「夢子は外へ出なかったのか」
「朝からあの嵐で、お天気になった時は、もう夕方でございました。昨夜はラジオを聴いたり、雑誌を読んだり、十時頃はいつものように寝室へいらっしゃいました」
婆やの口からも、犯人の匂いも
それから半歳経ちました。
夢子を殺した犯人はそれっ切りわからず、事件は完全に迷宮に入った初秋のある日、
「御免下さいまし」
一人の若い女が、薫風の如く小杉卓二の家の玄関に立ったのです。
洗練された洋装、コバルト色の小さいスーツケースを持って、ややルージュの濃い、何んとなく颯爽としたのが、口笛でも吹きたそうな、靴の踵でリズムを取り
「御免遊ばせ」
明るくこう訪れるのでした。
「どなた様で」
そう言い乍ら、婆やのお倉は、ハンドルを廻して開けた
「まア」
危うく倒れそうになりました。
頭から冷水をブッ掛けられたような恐怖が、サッと全身を走ります。
「あの、旦那様はいらっしゃいましょうか」
その声までが半歳前に死んだ、夫人の由紀子そっくりではありませんか。
少し顔が肉付いて、化粧が派手で、何んとなく軽快で爽やかですが、背丈から品の良い
「私は由紀子の妹の
「え、あの、奥さんのお妹さんで、まア、まア、まア」
婆やのお倉の驚きは大袈裟でした。白日の幽霊を見たような恐ろしい恐怖から解放されると、不思議な
「よく似ているでしょう、どなたも最初はびっくりなさるワ」
寿美子はそういって、
「まア、まア、よくいらっしゃいました、お亡くなりになった奥様から
婆やのお倉はあわてたように古風なお世辞笑いをしながら、
「旦那様がどんなにお喜びでしょう。まア、まア、どうぞ」
際限もなくまアまアの連発をして、その手からスーツケースを
「お兄様は?」
「いらっしゃいますよ。まア、どんなにお喜びになることか」
婆やは大急ぎで二階にかけ上りました。その後ろ姿を見送って寿美子は、手提の中からあわててコンパクトを取出します。
小杉卓二と由紀子の結婚は、世に言う自由結婚で、旧弊な由紀子の両親の気に入らず、そのまま肉親との音信は絶えて居りましたが、一年前両親が
寿美子はその後札幌のさる会社にやとわれて、社長秘書を勤めているという話はありましたが、姉の由紀子とはそれっ切り元のうとうとしい関係に還り、手紙の往復も滅多にはない有様で、由紀子の夫の小杉卓二も、妹の寿美子と逢うのが、今度は全くの初めてだったのです。
――妹は、私と気性が違いますから――と由紀子はよくいって居りました。芸術家肌の、
「何? 寿美子さんが来たというのか、それは珍らしい――
そんな事を言いながら、婆やの先に立って二階から降りて来た卓二は、明るい玄関の外へ顔を出して、そこに立っている女を一と眼、さすがにハッとした様子です。
「お兄様」
あまりに死んだ由紀子とよく似て居ります。
「寿美子さんか」
そういうのが精一杯です。
「北海道から出した手紙を御覧下すったでしょうね」
「うん、見た、
二日前に予告の手紙が来ていたのですが、死んだ女房の妹に、あまり興味を持たなかった卓二は、それをさえすっかり忘れていたのです。
「歓迎して下さるでしょうね、お兄様」
「そりゃ歓迎するとも」
「では」
寿美子は極めて自然に、外国人のような態度で、握手を求める手を
「いや、よく来てくれました、待っていたよ」
そう言い乍ら少しあわてて握り返した卓二の
「違う、違う、全く違う」
卓二は口の中で言いました。寿美子の明けっ放しな無遠慮な態度は、陰気で慎しみ深かった姉の由紀子とは、あまりにもひどい違いようです。
寿美子の登場は、夢子が殺されてから、とかく世間からも白い眼で見られていた小杉卓二に取っては、大いに生活の張り合いでもあり、生命のうるおいでもありました。
少し
「仕事? そんなものは
卓二は職業紹介所の主人みたいに、こんな事をきくのでした。
初秋の夕風も、窓に残る夕映も、妙にこの
「さア、人様にきかれると、
「うん、それはそうだろうな」
「それから、山登りに泳ぎに、ゴルフに、スキーに」
「ま、待ってくれ、姉さんとは大変な違いじゃないか、――ピアノはどうだ」
「音楽は大きらい、ピアノに綱をつけてなら引いて見せるわ」
「驚いたなどうも」
「ことに流行歌と来たら、聴いただけでも歯が浮く位――お兄様の前だけれど、ウ、フ」
すべてこういった調子です。その含み笑いの妖しくも
「これは手ひどい、まさに弾劾だな」
小杉卓二のようなしたたかな男も、この女には
「その代り好きなものを言いましょうか、お兄様」
「ウン、面白いな、何が好きだ」
「
「猛烈だね」
「それから、あれ」
寿美子の指は戸棚の中の――
「それはうれしいね、同じことならウィスキーといってもらいたいが、ヴェルモットの方が無事でよかろう」
卓二は立ってヴェルモットのビンと、二つのコップを持って来たことはいうまでもありません。
「まア、少し見くびったのね」
そう言いながらも寿美子は、見事にヴェルモットの
酒量は口ほどに無く弱いらしく、二杯目からすっかり玉山崩れて、薄いブドー色のワンピースの肘が、ともすれば長イスに並んで掛けた、卓二の腕へ腰へ、膝へと触れるのです。
顔立ちは品の良い美人型で、姉の由紀子そっくりですが、由紀子よりは
「北海道はそんなにいやになったのかなア」
卓二は水を向けるように尋ねると、
「そんなことないわ、リラの花と
「もうよい、その点は東京のまけにしておこう、しかし東京には――」
「音楽会があって、歌舞伎があって、封切映画があって――というんでしょう、私それが皆んな大嫌いなの」
「叶わないなア、そのうちに拳闘か野球でも観に行って、東京の良さを満喫させるとしよう」
「ところでお兄様」
「何んだ」
寿美子は妙に改まりました。
「私、東京へ着いたら、直ぐお兄様にきこうと思ったの、――あの、夢子ってどんな女?」
「――――」
「隠さなくたって宜いワ、お姉様から皆んなきいて知っているんですもの」
寿美子は激しい調子で追及しました。
「つまらない女だよ、――活動の女優崩れの」
卓二は噛んで吐き出すような調子です。
「でも、奇麗だったんでしょ、あんな奇麗な私のお姉さんに勝った位だから」
「
「まア」
「寿美子さんとは比べものにならないよ、活動の女優に要求されるのは、変った個性で美しさじゃないんだ。まして無教養で、無恥で、起きてから寝るまでお芝居をして居る女は、どんなものか考えてみるが宜い」
「まア」
寿美子は呆気に取られました。その女のため、姉の由紀子が命を縮めたことを考えると、卓二の言葉は
寿美子は健康を
その癖寿美子は、小杉卓二が一歩近づいて行くと、
寿美子は音楽に対して全く無関心で、わけても小杉卓二の作曲した、流行歌に対しては、ひどい嫌悪の様子を見せて居りますが、文芸、美術、その他についてはかなり高い趣味を持ち、卓二のような俗人などは、生れ返って来なければ、及びもつかぬものを持っている様子でした。
寿美子の美しさと、その傍若無人さは
「寿美子さん」
或る日、小杉卓二は到頭切り出しました。
この上我慢していると、何んか気が変になりそうだったのです。
「何アにお兄様」
「近頃寿美子さんは、大変H君と仲が良いようだね」
小杉卓二はニヤニヤ笑っておりますが、言葉には妙にトゲがあります。
「え、あの方、でも良い方でしょう」
「そりゃ良い男さ――良過ぎる位さ、一向面白くもない新即物主義のピアノ曲などを作って、十年一日の如く貧乏している位だから、――善人でなければ出来ない芸当さ」
「芸術家はそれが良いんじゃありませんか、お兄様」
「物の本にはそう書いてあるね――ところで」
「お兄様はお兄様でいいんでしょう、それだけ成功していらっしゃるから――でもHさんはHさんで、別な境地も誇りもあると思いますが、
「そんな事はまアどうでも宜いとして――寿美子さん、いつか私が言ったこと――」
小杉卓二はこの間から、寿美子に姉の後を襲って、自分と結婚してくれるようにと申出ていたのです。
「まア考えさして下さいな、――死んだお姉様が、そんな事を望んでいるか
寿美子はそういって、卓二の手をツイと逃げるのです。
こんな場面は、時と処を変えて、幾度も幾度もくり返されました。小杉卓二の心持は、
その間に卓二は、寿美子の身許に対する疑間を捨てたわけではありません。北海道まで探索の手を伸ばして、寿美子の様子を調べましたが、会社が解散されたことも事実、寿美子が身の廻りの物を持って、東京へ行ったことも事実、その辺には何の疑うべき節もありません。
最後に寿美子に気付かれないように、そっとその指紋を探って、つてを求めて警視庁で鑑定させて貰うと、それが何んと見事な渦を巻いた指紋で、夢子が殺された時家の中のあちこちで発見された指紋――多分死んだ由紀子の指紋だろうと推定したものと、そっくりその儘だったのです。
一卵性の双生児は、顔形ちばかりでなく、指紋までも同じものだろうか――卓二は恐ろしい疑問に悩まされました。
その指紋は実に、夢子を殺したぺーパーナイフの柄にまで付いていたことを思うと、寿美子の魅力に引ずりまわされながらも、小杉卓二は時々わけのわからぬ身ぶるいを感ずるのです。
(註)双生児には一卵性と二卵性とあり、一卵性双生児の場合は肉体的にも精神的にも酷似しているといわれている。
この三角関係は、次第に
小杉卓二は恋愛遊戯にかけては、申分なく老巧な選手で、道徳的には
到頭この情勢が、恐ろしい破局にまで押し上げられる日が来ました。
「あの、お兄様――私は
それはもう十二月になってからでした。身なりは変って居りますが、三ヶ月前
「引越し?」
小杉卓二には、暫らくの間寿美子のいった言葉の意味がわからなかった様子です。
「長い間お世話になりましたが、こうして居ては、お兄様の為にもならないようですから、私は矢張り身を退くことにいたしました」
お話ではなくて、それは宣言でした。最後的な絶交状を突き付けたといってもいいでしょう。
「
「いえ、北海道へは帰りません」
「では?」
「東京に踏み
「何? Hのところへ」
「――――」
暫らく重っ苦しい沈黙が続きました。
「それも宜かろう――が、
小杉卓二は思いの外気軽にうなずくと、そのまま立って、境の
「――――」
小杉卓二の態度の思いの外静かなのに釣られて、寿美子もそのあとに従いました。此家へ来てから三月にもなりますが、寿美子はまだ此部屋へだけは入ったことがなかったのです。
物珍らしそうに
「これでよし」
独り言をいい乍ら、それは実に無気味なほど落着いて居ります。
「まア、御兄様」
驚く寿美子を尻目に、
「
卓二は持っていたニッケル
「まア、どうなさる
寿美子はさすがに蒼くなります。
「驚くことはない。この扉の鍵は二つ、あとの一つは婆やが持っている――その婆やは、日が暮れなければ帰って来ないのだ――日暮れまでには、まだたっぷり三時間はあるだろう。それまでゆっくり話そうではないか、ね寿美子さん」
卓二は落着き払って、天蓋付の豪華な寝台――かつて夢子が刺されたあの寝台の上に腰をおろしたのです。
「――――」
寿美子は黙ってその前に立って居りましたが、この恐ろしい
「寿美子さん、もう観念したと見えるね。それが上分別だ。
小杉卓二は言うだけの事を言い終ると、静かにポケットを探って、パイプを取出します。
「小杉さん」
寿美子はもうこの兇暴な相手をお兄様とは呼びませんでした。
「?」
「小杉さん、あなたは、二重結婚をする積りですか」
寿美子の言葉はあまりにも予想外です。
「何をいうのだ、寿美子さん」
「いえ、あなたは、同じ女と二度結婚しようとするのですか」
寿美子は卓二の前に真っ直ぐに立つと、その指を挙げて、卓二の顔のあたりをピタッと指したのです。
重いカーテンの間から、
二人は暫らく睨み合いました。曾て小杉卓二の胸に芽生えた疑問が、この数秒間に恐ろしい
「あなたが結婚しようとしているこの私が誰なのか、あなたは御存じですか」
寿美子の調子は冷笑的になりました。
「寿美子」
「よく見て下さい、私の身体、この眼、この声に、あなたの先の奥さんで、恥と
「由紀子」
「そうです。――この私はあなたというものに騙されて結婚し、侮辱され、踏みにじられ、汚され、さいなまされて死んだ由紀子なのです」
「嘘だ、嘘だ――由紀子は死んだ、田舎の寺の墓地に葬られたのを、私はこの眼で見届けて居るぞ」
小杉卓二は立ち上りました。ワナワナと顫え乍ら、ともすれば寿美子を払い退けて、部屋の外へ
「それは土葬でした、由紀子の遺言だといってHさんが頑強に主張して、由紀子の両親の眠っている田舎の寺へ葬ったのです」
「――――」
「あなたはポーの小説『早過ぎる埋葬」を読んだことがあるでしょう。由紀子はあまりの嘆きに気を喪ったのを、薄情にあなたは厄払いをした心持で、医者の診断書をごま化して、一昼夜も経たないうちに葬ったではありませんか」
「――――」
「私――由紀子の死んだのを心から悲しんだHさんは、せめて私の死に顔を見る積りで、その晩そっと忍んで行って私の墓地を発掘しました。それは法律上恐ろしい罪ではあるでしょうが、その代り早過ぎた埋葬のために、生きながら葬られた私は、再び大気の中に掘り出されて、Hさんの腕の中で息を吹き返したのです」
「うそだ」
「うそか、うそでないか、由紀子を葬った墓地へ行って念入に調べて御覧なさい――あなたは由紀子が葬られてから、まだ一度も墓まいりさえしたことはないでしょう」
「――――」
「それがいやなら、札幌へ人をやって、もう一度念入に調べて御覧なさい。私の妹の寿美子は相変わらず札幌で他の会社に勤めていることが解るでしょう。寿美子と私は
「――――」
「さア、結婚しましょう、墓場から出て来た、この私――あなたの妻と、もう一度結婚しましょう。そして世間に向って、この一切の始末を公表しようじゃありませんか」
由紀子は卓二の前に立って、興奮に蒼ざめながらも、自尊心に充ち満ちた顔を振り仰ぐのです。
「――――」
「もう一つ教えて上げましょう、夢子――あの不潔な女の胸に突っ立って居たぺーパーナイフの柄に、どんな指紋があったか御存じでしょう」
由紀子は完全に勝ちました。寝台に
「よし、お前は由紀子に相違あるまい――が一度死んで法律的には此の世に存在しない人間だ。
サッと飛付く小杉卓二の手を、由紀子は辛くも逃げました。が、たった十二畳の狭い寝室で、その争いは
小杉卓二の狂暴なゴリラの手は、執拗に由紀子を追って、由紀子の着物は滅茶滅茶に裂かれ、髪もむしられ、肌も
が、由紀子はよく防ぎ闘って、さいごに書斎との境の
「これが三番目の鍵よ、小杉さん――鍵は二つしかなかったが、夢子とあなたの無恥で放縦な生活をしている部屋の鍵を、もう一つ、由紀子が作らせずに
「待て、待て」
地団駄踏む小杉卓二を寝室に残して、夢子は[#「夢子は」はママ]静かに
間もなく
「由紀子夫人を墓場から救ったHというピアニストはだれであったか、その推定は皆様にお任せしましょう。唯――その後由紀子夫人は楽壇から遠ざかりましたが、至極幸福に、新しい家庭を営んでいることだけを申上げて置き度いと思います」
言い