小説家
まだ三十を幾つも越していない
「これは私の友人の経験した話で、決して大衆小説の筋のように、奇っ怪なものではありませんが、この少しばかりロマンティックな話の中から、人間の心の奇怪至極な動きと、花恥かしい処女の成し遂げた、驚くべき恋の冒険の醍醐味を味わって頂き
大磯虎之助は、こう言って、さて話の本筋に入ったのです。
若い作家
一つはこの人の持っている新
そこで考えたのは、筆の立つのを資本に、代作業をやって見ようということでした。既に大正の始め頃、当時の左翼作家の長老
代作業
研究論文から小説まであらゆる代作の需 めに応ず
わけてもあなたの恋人に送る手紙は最も効果的に代作いたします
研究論文から小説まであらゆる代作の
わけてもあなたの恋人に送る手紙は最も効果的に代作いたします
東野南次
こういった奇抜な看板を出したのです。
さて東野南次は、弁当と魔法ビンのお茶と、
東野南次という名前を見たら――という、多少のうぬぼれもあったのですが、この種の商売がヤミ屋の食料品のような、簡単に客を呼べるものでないことは、第三者から見ると、あまりにも明らかなことです。
新聞を精読して、煙草を吸って、魔法ビンのお茶を空っぽにして、ラッシュ・アワーの殺人的な混雑電車で、郊外の巣に帰る、――こういった、平凡無事な、そして限りなく退屈な日が幾日か続きました。が、いつまで経っても、博士論文の代作を頼みに来る者もなく、懸賞小説の応募作品を書いてくれといって来るものもありません。
一ヶ月程たって、東野南次の収入の総計は、
部屋代がただでも、これでは電車賃にもなりません。東野南次もいよいよ
トン、トンと遠慮勝に
東野南次は、あわてて
「カム・イン」
と英語でやったものです。
「御免遊ばせ」
窓から
「あの――」
「まず、お通り下さい、私が東野南次ですが」
南次はあわて気味に
「あの――」
若い女客は、手提袋から可愛らしいハンケチを出して、それをまさぐりながら、
それと相対して掛けた東野南次は、その言葉の続きを待つように、実は客の美しさを享楽しておりました。ためらい勝ちな風情や、自分を勇気づけようとしている努力の表情など、
どうかしたら、
「あの――手紙を書いて頂けませんでしょうか」
若い女は
「え、お易い御用で、――で、
東野南次は精一杯事務的な調子で、用意したレター・ぺーパーを
「それが、あの――」
若い女客は又躊躇の虫に取付かれましたが、暫らくすると、思い切った調子で、
「――今日はからずもお目にかかって嬉しかったということを書いて頂き度いんです」
ただそれだけの事を云うのです。
「たったそれだけで――」
「それから、日頃尊敬――いえ、お慕い申し上げているあなた様と、短い間でもお話の出来たのが、どんなに嬉しかったかということ――」
女の言葉は
「それから――」
「それだけで御座いますわ」
「それ位のことでしたら、あなたが御自分でお書きになった方が、先方もお喜びでしょうが――」
東野南次はツイ商売気を離れて、こんな忠告をして見たくなるほど、相手はいじらしく痛々しかったのです。
「でも、私は字も下手ですし、文章も書けません。それに、
女はそういって、本当に極り悪そうに小首を傾けるのでした。
「暫らくお待ち下さい、直ぐ出来ますから」
東野南次はそう言いながら、古いギシギシする廻転椅子を窓の方に向けて、出来るだけ慎重に、ロマンティックに、そしてういういしく、ほのかな恋を匂わせながら、そのくせ表面は事務的な響きを持つように、書きも書いたり、実に二枚半という長文を書いてしまいました。
「こんなことで
「まア、素的ですわ」
読み終って上げた女の眼には、何んと涙さえ浮んでいるではありませんか。
「お気に入りましたか」
東野南次は筆を
「署名をして下さいませんか、――
女客――幽里子は、三枚の手紙を丁寧に畳むと、手提袋から出した可愛らしい封筒に入れて、静かに
「あの、お代は?」
と極り悪そうに付け加えるのです。
「それには及びませんよ、口開けですから」
東野南次があわてて手を振りましたが、
「でも、
幽里子はそういって、百円札を一枚、使い残りのレター・ぺーパーの下へ押込むように、身をかえしてヒラリと
残るのは、ほのかな薫風だけ、東野南次は夢見るような心持でそれを見送りました。
なんということだ、――東野南次は何べんかこう繰り返しながら、狭い部屋の中をグルグル廻っておりました。
その
が、それから七日目、この期待は見事に酬いられました。
「御免遊ばせ」
あの爽やかな声が、またもや
「どうぞ」
今度はもう英語も出ませんでした。
「また参りました」
「え、幾度でも」
そんな他愛もないことをいって、二人は貧しい卓を挟んで腰をおろしておりました。
「またお願いに参りましたが」
幽里子はさすがに恥かしそうですが、その恥かしさをなだめるように、
「喜んでお役に立ちましょう――この間のお手紙、反響がありましたか」
「ええ」
幽里子は
「今度はどんな事を書きましょう?」
東野南次は万年筆を執りました。
「改めて書くことは無いんですけれど――もう一度近いうちにお逢いしたいということと、私の家へお迎え出来たら、どんなに仕合せだろうということと――それから、それから――」
「それから?」
「――毎日お目にかかっていたいということと」
幽里子の唇は激情にふるえるのです。恋する
「宜しい、適当に書いて見ましょう。新聞でも御覧になって、暫くお待ち下さい」
東野南次はそう言って、憑かれた者のように筆を走らせました。素晴らしいインスピレーションです。
「これで
差出したのを読んでいく幽里子は、本当に泣いておりました。
「まア、結構ですわ。
「
「
幽里子は又百円札を一枚、卓の上に押しやって、留める間もなくサッと部屋の外へ出てしまいました。
後に取残された東野南次の興奮と失望と、幸福と不幸とをごっちゃ交ぜにした心持は、今度は四日しか続きませんでした。
五日目にはまた幽里子の訪問を受けて、三本目の手紙を書いたのです。
それから三日目には四本目、次の二日目には五本目、――その
六本目あたりからはもう、幽里子も遠慮の無い調子で、処女の
十本目の手紙を書いた日、さすがの東野南次も、幽里子の後をつけて見ようかという気になりました。今までは依頼者への信用を考えてきた南次ですが、幽里子の調子があまりに熱烈になって、このまま捨ておくと
実はそんな世間並な年輩染みた
帽子を取って、一歩廊下に
目の前には二十五六の小意気な青年――翻訳していえばヨタ者らしい男が、青白い緊張した顔に、チュウブから押出したような笑を浮べて、いんぎんに小腰を屈めているのです。
「君は?」
「東野さんですね。ちょいと話があります、手間は取らせない、お顔を」
青年は東野南次を押し戻すように部屋の中へ入って、ピタリと後ろ
「無礼では無いか、――君は何をしようというのだ」
東野南次は引け目を見せまいとするように、ツイ痩せた肩を張ります。
「何もしやしません。商談ですよ、東野さん」
「商談?」
「僕はあの女――幽里子のためにあなたの書いた手紙の宛名が知りたいのです」
「――――」
青白い青年は、卓を隔ててドッカと腰をおろしました。姿や顔の華奢なのに似ず、その性根は図太そうで、言うことも妙にドスが利きます。
「どうです東野さん――いや東野先生、ただとは言いません、打ち開けて下さればお礼はしますよ」
「それは御免を
東野南次は言い切りました。
「どんな手紙――冗談でしょう、手紙の内容を知らずに、こんな事をいう僕じゃない、――僕はね、幽里子さんの後をつけて来て、
「――――」
「ビルディングといっても、こんな安普請だ。そっくり返ったベニヤ板の
「――――」
「手紙の中味は幽里子さんの言葉でよく解ったが、肝腎の宛名がわからない――あの甘ったるいラヴ・レターを一体誰が幽里子さんから貰っているんだ」
「それは知らない、――私も知ろうとしているが、教えてくれないのだ」
「うまい事をいうぜ、幽里子という署名まで書いてやるくせに、宛名を知らないという法があるものか」
「――――」
「僕の名は
「――――」
「
半沢伝次はそういうと、ズボンの隠しから取出した紙幣の一と束、ざっと一万円位はあるだろうと思うのを、卓の上にピタリと置くのでした。
「気の毒だが、宛名は知らないよ。よしんば知っていたところで君に教えるわけにはいかない」
「まだ足りないのだな。ではこれも添えて」
伝次は左の小指から、何やら石の入った
「帰ってくれ給え、――知らないといったら知らないよ」
東野南次は、この時ほど英雄的な心持になったことはありません。両手をむずと卓の上に置いて、胸を張ってこう大きく言い切ったのです。
「畜生ッ、覚えてやがれ、――いずれいわせずに置くものか。こっちは命がけだ」
半沢伝次は紙幣と指環をかき集めて、元のかくしに
その後ヨタ者の半沢伝次は姿を見せませんが、困ったことに、幽里子もそれっ切り来なくなってしまったのです。
淋しい、
東野南次は
東野南次は卓に向って万年筆を執って、誰のためともわからぬ、十一本目の恋の手紙を書きました。綿々たる情緒、燃ゆる思慕、夢みるようなあこがれ――それはすべてかつての幽里子が口述したものではなく、東野自身の、消え去った麗人への情熱になってしまうのもまたやむを得ないことでした。
それから十五本目を、そしてあの騒ぎのあった日から半月目には、東野南次の宛の無い手紙は、二十本目を書いているのでした。署名は相変らず「南次」と書きましたが、この時ばかりはなんのはずみか、宛名を幽里子様と書いてしまって、ハッとした心持でそれを隠しました。恐ろしい冒涜に対する自責の心持が、東野の感じ易い心をチクチクさいなみます。
ちょう度その時でした。
エレベーターの
「御免――あ、そ、ば――」
たえだえの声がして、バタリと物の倒れる音がするではありませんか。
驚いて飛付いた
「どうしました、幽里子さん」
東野南次はそれを抱き上げると、兎も角、窓際の椅子まで運んで来ました。
「あッ痛、痛」
ひどく苦しそうです。
「
「――――」
が幽里子は返事もなく
「
恐ろしい不吉な予感にさいなまれて、幽里子が自分の手で押えた胸のあたりを見ると、
「あッ、血」
左の胸――乳の下あたり、パッと浸み出しているのは、青磁色の服を
「待って下さい、直ぐ医者を呼びますから」
立ち上ろうとする東野南次は、物言わぬ幽里子の、瞳の歎きに呼び止められました。
「何んか? 水ですか、幽里子さん」
「――――」
ともすれば昏々と死の淵に
「――――」
小さい――血の気のうせた唇が僅かに動きます。
東野南次はその瀕死の乙女の、――恋人を求める唇を見詰めて、黙って顔を反けるほどの道学者では無かったのです。
「幽里子さん、死んではいけない、死んではいけない、――いえ、私は決して幽里子さんを死なせない」
それはいずれ、真の恋人の手に渡してやる処女であったにしても、暫らくは許せ、
「幽里子さん、幽里子さん、死んではいけない」
傷ついた幽里子を抱き上げて、同じビルディングの二階にいる外科医の診察室まで運ぶうち、東野南次の唇は幽里子の額にキッスの雨を降らせていたのです。
幽里子の傷は、かなりの重傷でしたが、幸いに心臓部を避けていたので、辛くも命を取止めました。
が、その
一方警察へも届けて幽里子を刺したヨタ者の半沢伝次の手配をして貰い、さてそれから幽里子の身許を調べることになりましたが、重態でまだ口をきかせるわけにいかず、
東野南次がとんで行くと、それは小綺麗なしもた家で、表札の曾我野
しかし、幽里子の容態は、思いの
母親の礼子は病床に付きっきりで、夜の眼も寝ずに介抱しました。それから東野南次も、五階の事務所に泊って、朝も昼も夜も、母親を助けて、外廻りの用事に没頭し、時々は病床の幽里子を、
一日一日と幽里子は健康を回復して、二週間目にはもうベッドの上に
「多少の内出血があるから、せめて三週間は」
という医者の意見で、まだ家へ帰るわけにはいきませんが、留守宅に用事も溜っているから――と母親は一日目黒の家に帰り、臨時に雇った看護婦も出かけて、東野南次が、その代り半日の世話を引受けることになった日のこと、
「どうです幽里子さん、顔色もすっかり良くなりましたよ」
東野南次は世間並なことをいいながら、その寝台の傍に腰をおろしておりました。
「有難う、先生にはとんだお世話になって――」
幽里子の顔には珍らしく若々しい血が上って、心からそういいながら、手はツイ赤ん坊のように、南次の方へ伸べられるのです。
「でも良かった――あなたに死なれたら、どうしようかと思いましたよ」
東野南次は、極めて自然にその感謝の手をとっておりました。
幽里子が瀕死の重傷を受けて、夢心地に東野南次に抱きあげられた時、その白い額に雨と降った、南次の唇を記憶しているとしたら、こう心安くは手を伸べなかったかもわかりません。
「本当に、どんなにお礼を
そういう幽里子はもう涙ぐんでおります。
「それから、半沢伝次とかいうヨタ者は、昨日挙げられたようですよ。あんな無法な奴が勝手に飛廻っていちゃ、物騒で叶わない」
「でも、可哀想――」
幽里子はつくづくそういうのです。自分を殺しかけた相手ですが、憎みに徹する気にはなれなかったのでしょう。
「もうすぐ幽里子さんも退院ですね」
「ええお蔭様で」
東野南次はフと、幽里子のはしゃいだ様子が妬ましくなりました。この病院から外へ出てしまったら、幽里子は再び東野南次のところへは帰って来ないでしょう。
あの恋文の宛名は誰だかわかりませんが、幽里子がこれ程の
しかし、それにはまたいろいろの事情があるかもしれず、この病院を一歩外に出さえすれば、幽里子は完全に自由で、
大怪我の後でやつれてはおりますが、幽里子の顔は子供のように清らかでした。訴えるような大きい眼にも、ムリロの天使のような可愛らしい唇にも、ほのかな微笑と、安らかな信頼の外には何んの邪念も無い幽里子――それを見ている東野南次はフと、心の中の悪魔の
悪魔はこういうのでした。――この娘を断じて人にやってはならぬ――病院から出たら最後、この娘はもうお前とは赤の他人ではないか――言い出すなら今だ――いや、永久にこの娘をお前の物にするなら今だ――と。
東野南次に、半沢伝次の兇暴さがあったら、幽里子を殺して自分も死んだかもしれないのです。東野南次自身の書いた恋文に対して、東野南次は今燃えつくような恐ろしい嫉妬を感じていたのです。
「東野さん、何を考えていらっしゃるの」
幽里子は声を掛けました。
「――――」
「お話して下さいませんの?」
このさわやかな子供らしい声も、誰やらを求めている清らかなひとみも、もはや東野南次のものではなかったのです。
――殺すなら今だ――
それは恐ろしい悪魔の囁きでした。東野南次の実行力の無さが、僅かにそれを食い止めましたが、唇がサラサラと貧血して、胸の鼓動が早鐘を打ちます。
「――――」
東野南次はフラフラと立ち上りました。
この上踏み止まっていたら、どうなったか解らず、暫らく幽里子の魅惑的な眼を逃れて、自分を取戻す必要があったのです。
「
「――――」
東野南次はハッと
が、その間の悪さも漸く救われました。廊下を近づく足音――母親か看護婦かはわかりませんが、誰やらがこの
その晩、東野南次は、ビルディングの屋上に出て、少し
ビルディングは五階で、大して高くはありませんが、天気さえ良ければ、富士も見られ品川の海も眺められます。
宵の街は灰紫色に淀んで、車の灯が右へ左へ流れ、巷の雑音は不思議な不協和音を湧き立たせて、妙に引入れられるような心持にさせるのでした。
高層建築の誘惑――いつか東野南次は、そんなコントを書いたことがあります。それは百尺近い屋上庭園にいると、平静な心持をもった者でも、ツイ死の淵の口を覗いて見たいような、異様な誘惑を感ずることがある――といった筋です。
東野南次は今まさに、その死の淵の口を覗いているのでした。
東野南次は、この時ほど自己嫌悪を感じたことはありません。自分はまさか人を殺す気になろうとは、生れてから今まで、想像もしたことは無かったのです。それも造化の素晴らしい傑作、美しい処女の中の処女といってもいい、あの清らかな幽里子を、自分の情慾のために殺そう――と単に考えただけでも、それは実に身の毛のよだつ恐ろしさです。
これでは半沢伝次――あの一番愚劣なヨタ者と、何の違いがあろう。
死――東野南次はフとそんな事を考えておりました。この悔恨と、自己嫌悪を救うものは、死より外には無いような気がするのです。そしてこの屋上庭園から身を躍らせて、灰紫色の闇の中に飛込みさえすれば、それで万事が終結するのだ。
「幽里子さん、
東野南次は、二階の病室のあたりへこの別れの言葉を投げると、少し早足で、屋上庭園の胸壁に近づいたのです。
一瞬の後、
「東野さん――いらっしゃいます?」
「――――」
「東野さん、
五階の廊下、自分の部屋の前で叫んでいるのは、幽里子の母親の礼子ではありませんか。
「ハイ、ハイ、
東野南次はそんな照れ隠しをいいながら、急ぎ足に自分の部屋に近づくと、
「お邪魔いたしますが、少々お目にかけ度いものがありまして」
椅子に掛けると、母親の礼子は懐から
「これは? 曾我野さん」
東野南次は、母親の礼子をこう呼んでいたのです。
「それを御覧下さいませんか。そして、先生のお考えを伺いたいのですが」
「――――」
東野南次は礼子の視線を浴び
中から現われたのは、美しい封筒に入れて、日付順らしく束ねた手紙の一と束。
試みにそのうちの一通を取って、中身を抜いて見ると、予期しないことではありませんが、それは幽里子の頼みに応じて、東野南次自身の書いた、例の恋文の一つではありませんか。
署名は幽里子、それに不思議はありませんが、宛名は幽里子自身の手で書き入れたらしく、それは「東野南次先生」となっているのです。
次のも、次のも同じことでした。十本の恋文を見ると、十本全部東野の書いたもので、一本の例外もなく、宛名は東野南次になっているのでした。
「――――」
東野南次は黙って首を垂れました。疑う余地もありません。幽里子が命をかけた恋人は、何んと恋文を代作した、東野南次その人だったのです。
「東野先生――私はこの手紙を見付けましたので、ついでに娘の日記も読んで参りました。
「――――」
「それから先生のお書きになったものを全部買い集めて読んだ上、いろいろ考え迷った揚句、先生のところへ手紙を書いて頂きに参った様子で御座います」
礼子の静かな説明も、東野の耳にはもう入りません。
「私は、私はそんな値打のある人間ではない、私は愚劣で野蛮で、仕様のない人間です、あの清らかな幽里子さんの愛に値するような人間ではありません」
「まア、先生」
「私はこれっきり姿を隠します。幽里子さんには宜しく
不意に
が、
「――――」
二人は鉄と磁石のように、極めて自然に、黙って抱き合いました。
そしてそれを見て泣いたのは、母親の礼子だったのです。
「これで私の話は終りました。いっこう奇談ではないなどとおっしゃらないで下さい。人の心の不思議さは、なかなかもって大衆文芸的な事件の不思議さなどと比較にはなりません。そして最後に、幽里子と東野が
話し手の大磯虎之助は静かに壇を下りました。奇淡クラブの会員達は、この大磯虎之助こそ、話の中の東野南次に外ならないということを、誰も疑う者は無かったのです。