新奇談クラブ

第七夜 歓楽の夢魔

野村胡堂




「皆様のお話は、面白いには相違ありませんが、少し陰惨過ぎて、胃の腑の為には宜しくなかったように思います。其処へ行くと私の話は明るくて、朗らかで、おとぎ話のように浪曼的ロマンチックですが、決して小説や作り話ではありません。悉く今八郎さんの仰しゃる、切れば血の出るような事実談です。私が経験したことを私が話すのですから、これほど確かなことはありません」
 第七番目の話の選手水島三吾は斯う言った調子で始めました。仙波興業株式会社の若い取締役で、け者と評判を取った男ですが、打ち見たところは、思想家などによくある、少しばかり皮肉な感じのする、聰明そうな好い男です。

法学士の私が乞食に堕ちた


 驚いてはいけません。
 この私――水島三吾――が、身を持ち崩して、一度乞食の仲間に入って居たことがあります。
 大学を出たのは二十四の春、職業が無くてブラブラして居るうちに、続け様に両親に死なれたのですから、お小遣だけを潤沢に持った私が、何んな事になったか、お察し下さることは容易でしょう。
 泥棒と詐欺をやらないだけ、あらゆる出鱈目と放蕩を仕尽した私は、三年経たないうちに、財産ばかりでなく、名誉も信用も、自尊心も人格も、何も彼も綺麗に失くしてしまったのも無理のない事でした。
 親類も友達も、そうなってはもう寄り付くこってはありません。私自身もまた、そんな薄情な存在は、何んの未練もなく振り捨てて、ロビンソン・クルーソーのように一本立になってしまいました。
 金は一文も無く、信用も友人も職業も無いとなると、私の行く道は極って居ります。さらぬだに懐疑的な私の頭脳あたまは、その頃すっかり捨鉢になって、パンを得る為の、最後の努力を払うのさえ面倒臭くなってしまったのですから、私の落ちて行く道は、乞食より外にはありません。
 法学士水島三吾は、斯うして金看板の物貰いになり下ってしまいました。しかも、それをじ憂いでもする事か、当時は日本一の大英断のように、誇らしい気持にさえなって、偶々たまたま途で腰弁になり済して居る学友などに遇うと、わざとさとれよがしに、その男の前へ、文字通り蓬髪垢面の私の顔を突き出してやったりしたものでした。
 併し、乞食という商売は――私は敢えて商売と申します――決して楽な商売ではありません「右や左の旦那様――」をやるこつもすっかり板に付いてしまって、足へ一斗樽ほどにボロぎれを巻く手際も心得てしまった頃でも、何うかすると貰いが少なくて、夕飯にあり付き損ねたり、暴風雨あらしや吹雪の晩など、橋の下や、堂宮の軒下に、臍まで濡れて、ガタガタ顫え乍ら夜を明かすことも稀ではありませんでした。
 乞食にも貯金するのもあり、貰いが済めば家へ帰って、足腰を延ばして休んで居るのもありますが、それは乞食道の異端で、我々のような徹底した乞食は、必要以上に往来の人を悩ませて、貰い溜めをするような不心得なことはしません。
 物貰いを始めてから一年ばかり経った或る年の夏のこと、すっかりあぶれてしまって、二、三日ろくに物も食わずに、橋の下に寝て居たことがありました。私は一体仲間と一緒になるのが嫌いで、「学者」とか「変人」とか、親しみの無い綽名あだなを呼ばれ乍らも、たった一人の巣を見付けて、心静かに乞食の境地を楽しむ癖があったのでした。
 その時もたった一人で、打ち続く雨と、恐ろしいうえとにさいなまれ乍ら、それでも仲間のところへ救いを求めに行こうともせず、一張羅の筵を引っかついで、宵のうちから眠りこけて居ました。
 何時間眠ったかわかりません。
 兎に角、私は誰やらに呼び覚されました。
 重い瞼をやっと押し開けると、四方あたりは急に明るくなって、眼の前に、恐ろしく贅沢な電灯スタンドが立って居ります。
「あ、あ、あ、あ」
 大きい欠伸あくびを一つ、手足を存分に踏み伸ばすと、からまるのは有るか無きかの、フンワリした夜の物。
 ――こいつは素晴らしい夢だ――、
 私は茫然そんな事を考えて居ましたが、それにしては妙に現実性が濃厚で、何時も見る夢とは気分も道具立もすっかり違って居ります。
「若様、御夕食の用意が出来まして御座います」
 精練リファインされた若い女の次高音アルトが、耳障り美しく側に響きます。
 もう一度重い瞼を押し開くと、ツイ目の前に、十七、八の美しい腰元が、深々とした絨毯の上に、いともつつましく立って居るではありませんか。

眼が覚めると若様に変って居た


 私はかなり横着者ですが、生れてから、まだこんなに驚いたことはありません。
 橋の下の大地の臥床ふしどが、贅沢乍ら落ち付きのある、最上等の寝室に変って、荒筵がスプリングの寝台ベッドに化け、街灯の遠い光が、美しい電灯の近い光に、そして何時も私の寝込を襲って、叩き起こす髯武者のお巡りさんが、思いもよらぬ美しく若い女中に変って居るのです。
 どんな仙女の銀の杖だって、こんな素晴らしい魔術が出来るわけはありません。私は豚の児から王子様に変えられた、アラビア夜話の中の人物のように、暫らくは呆気に取られて、口を利くことも出来ませんでした。
「あの、皆様お待ち兼ねで入らっしゃいます」
「…………」
「お風呂をお召しなさいましたら、すぐ階下へお出で下さいますように」
「…………」
 私は寝台の上に起き直って、この女中の顔なり言葉なりから、何か暗示ヒントを掴もうとしましたが、よほど良く訓練されたものと見えて、美しい顔は蝋細工のように無表情で、何んな些細なことも引き出せそうはありません。
「此処は何処です」
「…………」
 女中の少し怪訝な顔を見ると、乱発しようと思う問が悉く口の内へ引っ込んでしまいます。
「何んというところです」
「お邸で御座います」
「何処の邸?」
「若様のお屋敷で御座います」
 女中は仕方無しに答えて居る様子ですが、その困惑は容易のことではありません。
「私は誰だ」
「…………」
「私の名は何んだ、――女中さん、念の為に言ってくれ」
 私は何時の間にやら寝台を滑り落ちて、寝巻パジャマ姿のまま、女中の前に立って居りました。
「お風呂をお召し遊ばしませ」
 女中は事面倒と思ったか、私の問には答えず、事務的な切口上で、隣室の扉を開けました。其処はホテル風に直ぐ洗面所と風呂場で、大理石のように見える化粧煉瓦タイルを敷き詰めて、白々とした西洋風呂が一つ、大姿見の前には、一番ハイカラな男の七つ道具までが取り揃えてある様子です。
 風呂場を見ると私は反射的に、自分の手足を見ました。今までは少しも気が付かずに居りましたが、四方の華麗な贅沢な調度に対照して、これは又何んと言う汚なさでしょう。一つはこれも商売道具の積りで、何ヶ月越し湯で洗ったことの無いのと、汗と泥と埃にまみれて、野天に泊るせいもあったでしょう。兎に角、自分乍ら物凄いような汚なさ――、若い女中がひたむきに風呂を勧めたのも、全く理由の無いことではありませんでした。
 風呂場へ入って、これも何ヶ月目かで鏡を見ると、顔の変りようも想像以上です。
 うっかり途中で逢ったとしたら、自分乍らとても自分とは想像も付かなかったでしょう。どうも実に大変な人相で、伸び切って埃だらけになった頭は、煙突ブラシュそっくり、顔は赤黒く焦げて、よくも斯う垢を溜めたと思うような汚なさ、ハイカラな大弁慶縞の寝巻と対照して、その怪奇グロ味は百パーセント以上です。
 これを見ると、もう若い女中を質問攻めに困らせるような事は出来ません。
 いきなり西洋風呂に飛び込むと、最も短時間で、最も効果的に、全身の垢と埃を洗い落しました。
 三十分がかりで一と皮剥くと、其処に用意されたタキシードを、手早く着けました。乞食に成り下ってこそ居りますが、二、三年前までは私も最尖端人の一人で、一番贅沢な仕立てのタキシードに驚くような人間ではありません。
 すっかり着込んで、大姿見の前に立つと、我乍ら生れ変ったような爽やかさ、陽にけて少し色は黒くなって居りますが、スポーツマンらしい健康さが漲って、それもなかなか洒落て居ります。
 無精髯を手剃り乍ら剃り落して、伸び過ぎた毛は、何うやら彼うやらチックの力で後ろへ撫で付けて見ると、これも芸術家によくある型になって、なかなか悪くありません。
 風呂場の扉を排して外へ出ると、今まで其処に待って居たらしい女中は、
「…………」
 たしなみ深く何んにも言いはしませんが、その眼は驚異と好奇に燃えて居ることは疑いもありません。私は然しそんな事は眼にもかけぬ態度で、
「さア、食堂へ案内せい」
 いとも悠然と反り身になりました。
 どうせ夢なら、その夢を一番有効に享楽きょうらくしてやろうと言った横着気が頭をもたげると、もう屋敷の名やこの私の名を訊ねて、女中を困惑させることは思い止まってしまったのです。

華やかな晩餐、美しい令嬢


 廊下へ出て、大きい階子はしご段を降りて、二た間、三間先の大闥おおとびらを押すと、中から華やかな笑いと、薔薇色の光が溢れて出ます。
 出来るだけ落ち付き払って、如何にも自分の家の客間へ出て来た若い貴族と言った態度で、私はドアの中へ一歩入って行きました。
「秀麿さん、皆様お待ち兼ねで入らっしゃいます」
 少し含みのある女の声。
 顔をあげると、一番先に迎えてくれたのは、五十近い上品な婦人、黒ずくめの洋装が妙にシックリして、微笑を含んだ顔にも名ある外交官夫人などによくある、生涯の半分を外国で送ったらしいハイカラな精練が匂います。
「甥の秀麿で御座います。外国から帰ったばかりで、お友達もありません相ですから、どうぞ宜しく」
 そう言って、一座の人達に引き合せてくれました。
 一座と言ってもあと四人だけ、一人は梅谷あきらと言う貴族らしい青年、少し病弱そうですが、これは如何にも上品な人柄、もう一人は金井半四郎という、富豪の若主人と言った負けん気らしい、精悍そうな二十五、六の青年、打ち見たところはニコニコした、まことに人付きの良い男です。
 あと二人は若い婦人で、一人は薫さんと言って、梅谷青年の妹、和服のよく似合う、華奢な、高雅な感じのする二十二、三の貴族らしい娘、最後の一人は、私を紹介してくれた葉山夫人の愛嬢で、花枝と言って、十九か精々二十歳はたち位の、明るいクリーム色の洋装をした、ピチピチするような快活な娘でした。
 この花枝という娘の可愛らしさは全く法外で、健康と幸福とを、エマナチオンのように放散して歩くのではないかと思うほどです、円ぽちゃの、少し仰向いた鼻、ポッチリ描いたような唇、生理的に微笑を絶やさないような豊かな頬、滴る大きい黒瞳、弾力的な美しい肢体――、すべてが近代人に取って限りない魅惑です。
 私はこの五人の男女に、五つの美しい花弁を持った、醜いしべのように取り囲まれて居りました。
 それにしても、この客間サロンの美しさは何うでしょう、飾電灯シャンデリアや英国製の絨毯や、波斯ペルシヤの壁掛けの華やかさに驚いたわけではありません。この近代ルネッサンス風の、ドッシリした造りや装飾や家具や、一ごうの破綻も示さない、完成された趣味性は、大抵の贅沢は見て来た私も、全く兜を脱がされて了います。
 大きい安楽椅子に凭れて、五人を相手に、私は何んと言うヘマな主人振りだったでしょう。私の名は「秀麿」ということだけはわかりましたが、姓も身分も、此の屋敷の町名番地も知らないのですから、どんなに横着気を発揮しても、橋の下で仲間の乞食と馬鹿話をする時のようなわけには行きません。
 芝居の話、美術の話、音楽の話、西洋の話、有名な貴族達の話――と後から後からと湧いて来る話題を、適当にさばいて行く為に、私はどんなに骨折ったことでしょう。幸い往来で読み捨ての新聞を拾って、新しい事は大概知って居たのと葉山夫人が調子を合せて、巧みに話題を進行さしてくれたので、どうやら斯うやら、大した馬脚を現さずに済んだようなものです。
 やがて食堂が開かれました。主人席に着いた私は、今日まで三日あまり、ろくな芋の尻尾にもあり付かなかったのですから、胃の腑が飛び出して、いきなり皿へ噛み付きそうになるのを、どんなに大骨折で辛抱したことでしょう。
 料理の美しさ、酒のうまさ、私は久し振りのせいもあったでしょうが、頬ぺたが落っこちるのではないかと思いました。食事の間に咲いて行く話題は、因果と私には一番苦手な音楽談で、近頃来たダルモンテや、シゲッテイと言った音楽家の噂などには、全く閉口して、
「秀麿さんは、あれをお聴きでしたか、――よかったですね」
 音楽好きらしい梅谷青年の口を、両掌で塞いでやり度いような、手の付けようの無い焦躁を感じたりしました。
 それに劣らず弱ったのは、金井半四郎のリーグ戦の話です。
「早慶第二回戦は何うでしょう、あの時僕は、友達と賭けたんですが……」
 と言った話も全く私を手古摺らせました。
 食事が済んで、喫煙室へ入って、薫さんの弾くピアノの音を隣りに聴いて、贅沢な葉巻の口を切った時、私は全く救われたような心持になりました。一年あまりの、すさみ切った生活が、私をすっかり野獣みたいにして了ったのでしょう。長い間物貰い生活をした私にとって、上流人の生活は全く楽ではありません。
 三十分ばかり経って、五人の客は銘々の自動車で帰ってしまいました。
 取り残された私一人、少し裏淋しい心持で廊下を戻ると、
「直ぐお休み遊ばしませ」
 先刻の女中が、何処からともなく現れて案内してくれます。
 元の寝室、淡い真珠色の光の中にくつろいだ私は、もう女中を苦しめて此の謎を解くほどの気力も無く、寝巻に着換えると、すべてを明日の事にして、橋の下の筵の臥床ふしどに潜り込む時のように、一番贅沢な寝台の上の、薄い絹布団の中へ身を横たえて眼をつぶりました。
 夢か、現実か、私には何が何やら一向解りません。
 たった一時間半ばかりの不思議な経験を反芻するように思い出して居ると、あの花枝の健康な美しい笑顔が、そっと私の記憶を占領して了います。

女乞食のお若と観音様の逢引


「おいおい起きなさい、何時まで寝て居るんだ、もう六区の活動が開くぜ」
 私はハッと眼を覚ましました。誰やら足の先で私の横腹を蹴飛ばして居るのです。
 そっと眼を開けて見ると、あの豪奢を極めた寝室もベッドも消え失せて、私は筵を頭から冠ったまま、いつもの橋の下に丸くなって寝て居たのです。
「此処は何処だえ」
「馬鹿野郎、手前の巣を忘れる奴があるかい。水際へ降りて面でも洗って来あがれ」
 そう言い乍ら、もう一つ私の脇腹を蹴飛ばすのは、辻の六蔵という仲間では面の良い乞食、腕も頭も私と張り合って、ツイ両雄並び立たないような破目に臨んで居る厄介な男でした。
「三公、手前、気でも触れやしないか」
「何を?」
「頭は蜻蛉とんぼ見てえに光って、身体が嫌に生っ白くなったじゃ無えか」
「えッ……」
 そう言われて見ると成程、私の手足は陽に焦けては居るが小薩張こざっぱりと洗い浄められて、顔はわかりませんが、頭の毛も何うやら油か何んかで後ろへ撫で付けてあります。
「鼻持のならねえ匂いだ、お若坊に見せようて積りだろうが、そんな地者のおしゃれはこちとらの仲間には通用しねえよ」
「何んだと」
気障きざな野郎っちゃ無い。大溝へ頭でも突っ込んで出直して来あがれ」
 パッと埃を蹴返すと、横っ飛に橋の袂へ駈け上ります。
「野郎ッ」
 と言ったが及びません。
 又仕返しをする事もあるだろう――と言った、淡い忿怒とも哀愁とも付かぬ心持で、橋の上へ這い上ると、私も平常ふだんの持場の観音様の裏手の方へ出動して行きました。
「ちょいと三ちゃん」
「…………」
「お待ちよ、何んて早い足だろう、今日はボロも巻かず、びっこも引かず――それで商売が出来るのかい」
 と言い乍ら、側へ寄り添うように、ハアハア息を切らして居るのは、今しがたも喧嘩の種になった、女乞食のお若でした。
 女乞食と言ったところで、これは門付の芸人で、ペンペコ三味線を一挺抱えて居りますが、手拭をかぶった下から見える目鼻立は、成程仲間の目からは、美しくも輝やかしく見えるでしょう。白粉っ気なしの、陽に焦けた顔は、かなりふけて見えますが、本当の歳は二十歳を越しては居ないでしょう。
 尤も美しく見えるのは左半面だけで、右半面は大焼痕やけどで引っ釣りだらけの上、眼まで潰れて居りますから、此方の側からはとても二た眼とは見られません。
 どうして乞食の仲間に入ったか、生れは相当に良かったらしく、物越しも尋常、気風も娘らしい若々しさと、荒み切れない優しさを持って居りますから仲間では一番の人気者で、斯う言う私も、昨日までは何んかしら淡い恋心を寄せて、辻の六蔵と二、三度鞘当てめかしい事をやったものです。
「どうしたのさ、三ちゃん、今日は全く変よ、好い匂いなんかさして」
 二人は観音様の裏手、気紛れな土地の子供でも無ければ、滅多に入って来ない木蔭の捨石に掛けて、ちぐはぐな心持で顔を見合って居りました。
「すっかり綺麗になったのねえ、そうして居ると、三ちゃんは紳士のように立派よ」
「何をつまらない」
 私は噛んで吐き出すように顔を反けました。
 昨日まで淡い恋心を寄せたお若が、今日は又何んと言う醜さでしょう。
 二人は暫らく黙り込んでしまいました。
 お若の溜息を、ツイ耳の側に聴き乍ら、私は昨夜の素晴らしい経験と、あの葉山夫人の愛嬢の美しさを、忘れ兼ねて居りました。

娘の手を握った儘恐ろしい睡魔へ


 もう一度、あの晩の若様生活をくり返し度いとは思いましたが、翌る日の夜も、その翌る日の夜も橋の下で寝て、橋の下で覚めました。いろいろの事情を綜合して、あれは夢や幻ではなく、極めて確かな真実の経験だったことは明かですが、日が経つにつれてその自信もぐら付いて、矢張りあれは夢だったかも知れない――と言った、あやふやな心持になるのでした。手足が垢染んで、頭の香油が抜けると、私にはそうより外に考えようが無かったのです。
 女乞食のお若は、私が元の通り汚くなって行くのを見て、すっかり有頂天になって居ります。近頃では辻の六蔵などには見向きもせずに、私のところにへばり附いて、私の幻想イリュージョンを打ち壊すことに専念して居るようでもあります。
 貧しい、ひもじい幾日が続きました。屈辱と穢汚えおの中に、私の自由は次第に蘇がえって行きます。私はもうすっかり虚無的ニヒリスティックな乞食根性になり済して、いつかの夜の冒険も忘れがちになって居りました。
 この儘で過ぎてしまえば、私は一生乞食で終ったかも知れませんが、幸か不幸か、或る晩私は、もう一度あの豪奢を極めた寝台の上で眼を覚したのでした。
「若様、皆様お揃いで入らっしゃいます。お召し換え遊ばしませ」
 いつかの若い女中が、お面のような無表情な顔で、斯う言うのを聞くと、私はもうガバと飛び起きて、隣の風呂場に飛び込んで居りました。汚れた顔や手足や、埃だらけな頭を見られ度くないと言うよりも、兎もすれば私の手から漏れ出しそうな、この果敢はかない世界をしかと押えようとしたのでした。
 一と風呂、念入りに洗い落して、今日は爽やかな絹セル、焦茶色の羽織を引っ掛けていそいそと客間へ行くと、顔ぶれは前の通り、葉山夫人と、梅谷と金井と、薫と花枝は、飛び付くように私を迎えてくれます。
「秀麿様、今晩は有難う。久しく呼んで頂かないんで、随分待ち遠でしたワ」
 というのは、人なつこい花枝、今晩は清々すがすがしい石竹色の洋装で一段と立ち優って美しく見えます。
 それから雑誌、食事、撞球やら、麻雀マージャンやら始まりました。撞球は学生時代から得意で、梅谷や金井と優劣なくやれますが、麻雀にはすっかり降参して了いました。これは近頃の流行で、橋の下の住人には先ず縁の無い遊戯だったのです。
 此の屋敷の見当だけでも知って置こうと思ったので、そっと抜け出してバルコニーへ出ると、其処にはこれもあまり麻雀を好きでないと言う花枝が、籐椅子に深々と凭れて、初夏の夜の大空を匂わせて居ります。
「花枝さん、何を見て入らっしゃるんです」
「あら、御免下さい、私麻雀はあまり好きじゃありませんし、金井さんが執拗しつこく仰しゃるから、そっと抜け出してしまったんです」
 私は黙ってうなずいたまま、籐椅子を引き寄せて花枝の側へ、肘と肘が、触れそうに近々と掛けました。
「あの音は何んでしょう」
「電車じゃ御座いませんか」
「何処の」
「省線よ」
 花枝の爽やかな声には、何んか腑に落ちない響きがあります。
「花枝さん、変な事を聞くようですが、どうぞ笑わずに答えて下さい」
 私は思い定めて、この娘の口から、一切の秘密を引き出そうとしました。
「え、どうぞ――、だけど、私何んにも存じませんワ」
 花枝の顔は、薄明りの中に、少し傾いて、大きい目が怪訝そうに私を見詰めます。
「此処は何処でしょうね、花枝さん」
 運の悪いことに此の屋敷は、塀が高く、植込が深く、二階のバルコニーから眺めても、此処は何処という見当は全く付かなかったのです。
「お、ホ、ホ、貴方のお邸じゃ御座いませんか」
「それは判って居るんですが、――一体此の私は誰でしょう」
「まア秀麿さん」
 これが花枝の答の全部だったのです。「秀麿さん」これが私の名前に相違ありませんが、何の秀麿なのか、私はそれを訊き出す勇気もありません。私の姓を源氏か平家か、それとも橘かを聞き定める為には、花枝はあまりに娘らしく、あまりに無邪気だったのです。
 そのうちに、恐ろしい眠気が私を襲い始めました。不自然な、不愉快な眠さが、私の全身を穴の中に引き入れるような心持にさせます。多分今しがた女中が持って来た冷たい飲物に、催眠薬のようなものが仕込まれて居たのかもわかりません。
 此の儘眠ってしまえば、翌る朝私は、あのいつもの橋の下で、荒筵の中に眼を覚すでしょう。そう思うと、恐ろしい睡魔と闘い乍ら、私は溺るる者のように其の辺を探し廻りました。
 やがて、ツイ眼の前にある花枝の美しい顔も、次第に遠ざかって了います。
「花枝さん、僕は恐ろしい、――眠らされかけて居るんです、僕の手を手を、――握って下さい」
 私の様子がどんなに真剣だったか、
「何うなすったんです、秀麿さん、秀麿さん確りして下さい」
 娘の恥かしさも忘れて、差し延べた柔かい温かい手、強く握れば掌の中に消えそうなのを、私は何んの遠慮もなく犇と掴みました。
「花枝さん、花枝さん」
 私の後ろから、金井半四郎の憎悪に充ちた眼が、この不思議な情景シーンを見詰めて居るからですが、そんな事はもう問題ではありません。私は花枝の小さい手を握って、眠りの不可抗力と死物狂いに争い続けて居りました。

喜劇の大詰に恐ろしい襲撃


「花枝さん――」
 私の掌の中にある小さい手を引き寄せると、素直に近寄って、私の頬へ、頬を寄せてくれます。
「三ちゃん、目が覚めて?」
「あッ」
 覚束なくも重い瞼を開くと、眼の前にあるのは、引っ釣りだらけの焼痕の顔、美しい花枝の手が、何時の間にやら、女乞食のお若の手に代って居たのでした。
 場所は言うまでもなく橋の下、籐椅子は荒筵のしとねに変って、私はボロ片の中に、豚の児のように転がって居たのです。
「三公、見っともねえぞ、天道様に照らされて何んて態だッ」
 不意に辻の六蔵の声、橋の袂から飛び降りると、町内の人達が捨てた塵埃ごみを一と抱えさらって、私とお若の頭の上からサッと掛けます。
「何をしあがる」
 激怒に私の眼は冴えました。飛び上ると六蔵の胸倉を取って、柔道初段の腕前、腰車にかけてサッと投げると、六蔵の身体はもんどり打って河の中へ。
「あッ、乞食の喧嘩だッ」
「乞食が川へ入ったぞ」
 立ち騒ぐ橋の上の人には目もくれず、
「来いお若」
 二人は岸に飛び上ると、浅草の方へ一文字に逃げ出してしまいました。
 それから半時ばかり、何処を何う歩いたかわかりませんが、お若はとうの昔に振り捨てて、私だけたった一人、浅草の奥の捨石の上に頬杖を突いて考え込んで居ました。
 フト思い付いて、自働電話に入り込んで、電話帳を繰って見ると、秀麿と呼ばれた自分の姓はわかりませんが梅谷、金井、葉山などという姓は幾つもあります。
「あるぞあるぞ――」
 私はツイそう言ってしまいました。一人は婦人、一人は部屋住と見えて、葉山、梅谷だけではわかりませんが、金井半四郎の方は、事務所と本邸と二本まで電話を持って居ります。
 駒込の木立の中に、金井半四郎の本宅を見付けたのは、それから一時間ばかり後のことでした。
 早速飛んで行って見ると、思いの外堂々たる邸宅で、ボロを引っさげた乞食姿の私などが、とても門へも寄り付けそうもありません。
 私はあきらめた心持で、例の橋の下へ辿り着きました。往来の絶間たえまを見すまして、橋桁の下の闇へ這い込むと、
「三ちゃん待って居たよ」
 半面美人のお若が待って居て、
「…………」
 不機嫌な私に構わず、
「今日は貰いがどっさりあったから、天プラを買って来たよ、お上り」
 お若は私の身体へ凭れるように、鼻の先へ美味しそうな竹の皮を開くのでした。
 それから私の二重生活は二、三度繰り返されました。若様になり済した時、今度こそはといろいろ手を尽して、自分の身の上を探究しましたが、皆んな気を揃えて隠すのか、短かい時間では、どうにも手の下しようがありません。
 いろいろの事件を考え合せると、私の正体を知って居るのは、屋敷の内の者ほんの二、三人だけで、あとは近頃外国から帰ったばかりの、ひどい神経衰弱で、健忘症にかかった若様と信じ切って居る様子でした。
 まことに恥かしい事ですが、或る時などは、どうせ又乞食生活に戻されるものならばと考えて、用心の為に、
「私の紙入を持って来い」
 空々しい顔をして、女中にそう言って見たことがありました。素直に持って来た紙入の中を見ると、百円札と十円札が一パイ、少なく見積っても二、三千円はあったでしょう。私は少しボーッとなって、内懐へ堅くしまい込みました。翌る朝橋の下で眼が覚めても、こればかりは何んとかして手に残し度いと思ったのです。
 併しそれもいけませんでした。翌る朝、荒筵の中で眼を覚した時、第一番に懐の中を探しましたが、百円札どころか、赤い銅貨が一枚も無いという情けない始末です。
 私はすっかり困惑して了いました。その間にも、花枝との間が次第にこまやかになって、私の方から申込さえすれば、千に一つも間違い無いところまで押し進みましたが、一方橋の下の住人としては、女乞食のお若は執念深く私に絡み付いて、もうどんな事があっても離れそうにありません。
 此の儘で行ったら、私は気違いになったかも知れませんが、幸か不幸か、喜劇の結果は、思いもよらぬ恐ろしい姿で私の上へ降りかかって来ました。
 或る若様生活の晩、私は堪え切れなくなって、客間から庭へ飛び出しました。女中や家来共の眼をのがれて、往来へ抜け出したら、門札を見るなり、巡査に訊くなりして、自分の名前と、屋敷の正体だけでもわかるだろうと思ったのでした。
 門を出て振り返ると、山の手の大きい屋敷の悪い習慣で、此処にも標札がありません、が、四方の淋しさ、物の音、気分などで、番町辺りの大きい邸宅ということだけは解ります。
 淋しい町を五、六歩行くと、後ろから、
 ドーン
 と板を叩くような声、脇の下に激しい痛みを覚えて、思わずよろめくと、
「野郎、くたばって了え」
 横合から鋭い物で私の頭を打った者があります。私はそれっ切り気を喪ってしまいました。

浪曼主義者仙波子爵登場


 何時間、或は何日経ったことでしょう。その次に私が眼を覚したのは、橋の下の筵の上でも、豪奢を極めた寝室の中でもなく、白ずくめの外科病院の特等病室の中でした。
「あッ、花枝さん」
 私の顔を気遣わしそうに見守って居る若い娘は、紛れもなく美しい花枝だったことが、どんなに私を心強がらせたことでしょう。
「あら、お気が付きまして」
 花枝の狂喜する声が、直ぐ附添看護婦に止められてしまいました。私の容態はまだ、精神の激動にも、物を言うことにも適しては居なかったのです。
 それから二週間ばかり、長い長い保養の後、私は漸く長い話にも、精神の激動にも堪えるようになりました。その間看護婦や医者の行き届いた看護は言うまでもありませんが、折々病牀を訪ねてくれる花枝の親切が、どんなに私へ力づけてくれたかわかりません。
 到頭退院の日が来ました。花枝と看護婦に扶けられて自動車に納まった私は、三十分と経たない内に番町のとある邸に送り届けられました。顔見知りの雇人女中達の目礼するのに答えて、二階の寝室に通ると、私を寝台ベッドの上へ押し上げるようにした看護婦と花枝は、
「お疲れでしょう、暫らくお休みなさいまし、あとでお目に掛り度い方がある相ですから」
 妙に気に掛る言葉を残して階下したへ降りてしまいました。
 斯んな事を言われると、すっかり亢奮してしまって、眠ることも休むことも出来ません。
 到頭我慢がしきれなくなって、私は枕元の呼鈴を押してしまいました。女中を呼んで、花枝なり、看護婦なりに来て貰おうと思ったのです。
 暫らくすると廊下に足音がして、ドアは静かに外から開けられました。窓から入る朝の光線を正面まともに浴びて、入口に立ったのは、高雅な若い紳士――。
「どうだ、水島君、気分はすっかり良いか、――私だよ」
 その声を聞いた刹那、私は何も彼も解ってしまいました。
「仙波君、君か、君だったのか、こんな悪戯わるさをしたのは」
 五年前にフランスへ行って了った、子爵仙波基経もとつね、私はこの男の存在をすっかり忘れて居たのです。この浪曼主義者なら、どんな奇抜な芝居でも打ち兼ねません。

犯人は誰?


 私から言うと可笑しく聞えますが、若い仙波子爵は、命と名誉と財産とを、私に助けられた事があったのです。悪竦な詐欺団の奸計に引っ掛って、危うく刑法上の罪人にまでなろうとしたのを、当時法科大学を出たばかりの私が、柔道初段の腕前と、ノートから解放されたばかりの生々しい法律的知識で救ってやったのでした。その経緯いきさつも一つの物語になりますが、それはまア預るとして、その事件があってから、急に日本が嫌になった仙波子爵は、大きな財産と噂の種を残して、殆んど永住するようにフランスへ行ってしまったのです。
「フランスの生活にも厭きて、日本に帰って来たのが六ヶ月前さ、フト友達恋しくなって、君の行方を探すと、初めは容易に判らなかったが、警視庁と私立探偵社の力で、到頭橋の下に住んで、あんなヒドい暮しをして居ることまで解ったんだ――」
 仙波子爵は秀麗な面を曇らせて、斯う話し続けました。
「――直ぐにも引き取って、足を洗わせようと思ったが、君の強情さも旋毛つむじ曲りも知り尽して居るし、それに近頃精神的にも余程変って居るようだというから、表面から忠告に向ったんではとても受け付けまいと思ったんだ。腹心の家来に言い付けて、橋の下に寝て居る君を、麻酔さしてさらって来ては、ロマンチックな世界を覗かせて、橋の下でなくとも、此の世には面白い生活のあることを悟らせたんだ。ことに、私の従妹の花枝は君を橋の下の生活から引き離す為には、一番の殊勲者だったらしいよ」
 仙波子爵の話を聴き乍ら、寝台の上でいろいろ思い合せると、成る程そう聞いて説明されないことは一つもありません。
「ところがあの騒ぎだ。君は短銃ピストルで撃たれた上、棍棒で殴られて門の前に倒れて居たんだ。側には半面大火傷の女乞食が、これも棍棒で打ちのめされて、虫の息で倒れて居たよ」
「え、それから何うした」
「犯人は直ぐ捕った。辻の六蔵という乞食さ。君が夜な夜な麻酔させられ、何処いずこともなくさらわれて行くのに気の付いた女乞食が、大骨を折って後をつけて、此の屋敷の外まで来ると、又その後をけて来た六蔵という男乞食がやって来て、いきなり門から出た君を打ったらしいんだ。女乞食が驚いて止めると、今後は女乞食に打ってかかって、それも半死半生の目に逢わせた――。話はそれだけだが、警視庁の調べはそれ丈けでは済まなかった」
「…………」
「六蔵は短銃を持って居るわけは無い。君の頭を打ったのは六蔵に相違ないが、君の脇腹へ短銃の弾を撃ち込んだ人間は外にあるという見込なんだ」
「それから何うした」
「極く簡単に話すと、君を襲撃した本当の犯人は、君も知ってるだろう、あの金井半四郎だったんだよ。辻の六蔵は倒れかかる君を殴って、二つ三つ瘤をこしらえただけなんだ」
「えッ」
「女乞食――お若とか言ったね、あれは感心な女だ。あんな目に逢っても、君の事を何んにも言わなかった相だ。まだ病院に居る筈だよ、もう少し丈夫になったら、見舞ってやり給え」
 丁度仙波子爵の話が済んだのを合図のように、
「お茶を持って参りましたワ、此処で召し上りません?」
 花枝の明るい顔がドアの蔭から現れます。
        ×        ×
「此の後のことは申すまでもありません。私は親友の厚意で乞食の足を洗った上、仙波子爵家が大株主になって、旧領地の特産物を扱って居る興業会社に入り、仙波子爵の従妹の花枝と一年前に結婚しました。――勿論その前に、私のボヘミアン時代のことを、何も彼も打ちあけたことは申すまでもありません。女乞食のお若は、素姓を聞いて見ると、育ちのよい娘で、心掛も申し分ないことが解り、且つ私には何んと言っても恩人ですから、引き取って私の家から裁縫学校へ通わせて居ります――昔の淡い恋心と仰しゃるんですか、いや飛んでもない、そんなものはもう毛程もありません」
 水島三吾は腰の低いお辞儀を一つしました。





底本:「奇談クラブ(全)」桃源社
   1969(昭和44)年10月20日発行
初出:「朝日 第三巻第七号」博文館
   1931(昭和6)年7月1日発行
※冒頭の罫囲みは底本では波線です。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2021年9月27日作成
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