銭形平次捕物控

百四十四夜

野村胡堂





「親分、退屈だね」
 ガラッ八の八五郎は、鼻の穴で天文を観るような恰好ポーズを取りました。
あきれた野郎だ。小半日空を眺めて欠伸あくびをしていりゃ、猫の子だって退屈になるよ。庭へ降りて来て手伝いな。跣足はだしになると、土がやりとして、とんだいい心持だぜ」
 平次はそう言いながら、せっせと植木鉢の世話をしております。
 青葉と初鰹はつがつお時鳥ほととぎすで象徴される江戸の五月は天気さえよければ、全く悪くない心持でした。いきなり飛出して、母なる大地のはだに、跣足で触れる快さは、人間のもつ一番原始的な素朴な望みだったかもわかりません。
 だが、八五郎は違います。
「そいつはあんまりいきな恰好じゃないぜ、親分」
 若い親分平次の、尻を端折はしょった後ろ姿を眺めて、八五郎はニヤリニヤリと笑っているのでした。
「粋事で植木の世話をする奴があるものか。日向ひなたへ寝そべって、お先煙草を一と玉けむにする野郎だって、大した粋じゃあるめえ。煙草は構わねえが、縁側を焼跡だらけにするのだけは遠慮するがいい。店賃たなちんがキチンキチンと入ってないから、大家へ気の毒でならねえ」
「ヘエ、――親分でも店賃を溜めるんで? ヘエ――」
「何を感服つかまつるんだ。岡っ引が店賃を溜めりゃ、お上から御褒美でも出るって言うのかい」
「ヘエ、――驚いたね。二三百両持って来てやりてえが、あっしも、今月はやり繰りが付かねえ」
「馬鹿野郎、人の店賃の世話より、手前てめえの小借りでも返す工夫をしやがれ。二三百両ありゃ、角の酒屋の借りぐらいはけえせるだろう」
「ありゃ、一貫六百で、親分」
「六百でも一貫でも借りは借りだ。十手なんか突っ張らかして半端な借りをこせえると、町内の鼻ッつまみになるぞ」
「ヘエ――」
 ガラッ八は、まさに一言もありません。
「まア、そんな事を、人様が聞くと笑いますよ」
 女房のお静はれた手を拭きながら、顔を出しました。その後ろから、ニコニコした顔を覗かせたのは、石原いしはら利助りすけの娘――娘御用聞――といわれたおしなです。お静とあまり年は違いませんが、いつまで経っても世帯擦れのしない、初々ういういしいお静の女房振りに比べて、出戻りで理智的で、しっかり者らしいお品は、美しさに変りはなくとも、二つ三つ老けて見えるのも是非のないことでした。
「あ、お品さんか、――お品さんなら有るも無いも承知だ。きまり悪がることがあるものか」
「まア」
 お静とお品は、顔を見合せて隔てもなく笑いました。
「ところでとっさんは元気かい、近頃すっかり御無沙汰したが」
 お品の様子が何となく冴えないのを、平次は見のがすはずもありません。
「ツイこの間も天霊様のことで、さんざん親分にお骨折りをかけたんですから、今度は父さんが自分で手掛けて目鼻をつけたいって言うんですが――」
 お品は本当に言いにくそうです。昔は平次と張り合って、さんざんいやな事もした父親の利助が中風の気味で引籠ひきこもってからは、平次の並々ならぬ助勢でわずかに十手捕縄を守り通して来たことを考えると、この上平次の親切に甘える気もなくなるのでした。
「そいつはつまらねえ遠慮だぜ、お品さん、この二三日はろくな仕事もなく、俺は植木ばかりいじっているし、八の野郎はへそからけむの出るほど煙草を吸って、退屈様の百万遍だ、――俺と八で間に合うことなら、なんでもそう言って来るがいい、とんだ人助けだぜ」
 平次は手を洗って端折った尻をおろすと、世話甲斐もない植木鉢の行列を、しみじみと眺めやるのです。
「それじゃ、聞いて下さい、親分」
 お品は話し始めました。


 大坂へ送る幕府の御用金五千両、宇津谷峠うつのやとうげに差しかかったところを、三人組の兇賊に襲われ、宰領の武家中根鉄太郎なかねてつたろうは斬られ、馬子二人までを負わされて、五千両見事に奪い取られたことがありました。
 それは今から三年も前のこと、当時はまだ元気の良い石原の利助は、町奉行から特別のお声がかりで、勘定方の役人と一緒に、東海道宇津谷峠まで出張し、十日あまりも滞在して調べましたが、何の得るところもなく帰って来たことは、平次もよく記憶しております。
「その三人組の一人、三州の藤太とうたというのが駿府すんぷでお手当になりましたが、激しい捕物で、役人に斬られて間もなく落命、息を引取るとき、宇津谷峠で奪い取った五千両は、仲間の頭分かしらぶん西国浪人赤井市兵衛あかいいちべえが隠していると白状したそうです」
「…………」
 平次はその先を促すようにひざを進めました。お品の持って来た話は、どうやら退屈病を一遍に吹飛ばしてしまいそうです。
「もう一人の仲間は稲妻小僧いなずまこぞうの六。三人別れ別れになってほとぼりをさまし、三年目の今年江戸に落合って、五千両をわける約束だったそうです。三州の藤太が死に際に白状したのはたったこれだけ」
「それがどうしてお品さんに判ったんだ」
「駿府のお役所から人が来ましたよ。三年前父さんが調べに行ったことが判っているからでしょう」
「話は面白そうだが、たったそれだけじゃ、手のつけようがねえ」
「まだこんな事がありました。三州の藤太の命より大事にしていた立派な煙草入の中に、鍵が一つと丁寧に畳んだ紙片かみきれが一枚入っていて、それにはこう書いてあったんだそうです。『大舟町おおふなちょう市兵衛百四十四夜』――と」
「大舟町? 市兵衛? 百四十四夜?」
「煙草入は持って来て、父さんが預かってありますが、何の事だが、ちっとも判りません」
「…………」
「残った二人の悪者が、江戸のどこかで逢って、五千両の御用金を始末するのも近いうちでしょう。駿府からわざわざ知らせてくれた事でもあり、ここで曲者くせものを縛って、五千両の御用金をお上の手に返せば、父さんもどんなに顔がよくなることでしょう。――でも」
 お品はうら悲しそうでした。三十年も鳴らして来た石原の利助の名も、老衰と病気で近頃はしゃっくりを止める禁呪まじないにもならず、近いうちに十手捕縄をお取上げになるだろうといううわささえ立っているのです。
「お品さん、心配することはないよ。俺で出来るだけのことはやってみよう。手掛りさえありゃ、手繰たぐって手繰れないことはあるまい」
 と平次の無造作さ。
「親分」
 お品は口もきけないほど打たれておりました。江戸開府以来と言われた、名御用聞銭形平次が引受けてくれさえすれば、土壇場に据えられた親の利助の名も、どうやら救うことが出来るでしょう。
「その文句を書いて貰おうか、お品さんのいい筆蹟で――」
「あら」
 お品は少し照れながらも、半切はんきれ硯箱すずりばこを借りて「大舟町市兵衛百四十四夜」としたため、きまり悪そうに平次の前に押しやりました。
「八、こいつは判じ物だ。少し考えてくれ」
「ヘエ――」
 八五郎はその文句を覗いて、鼻の穴をふくらましておりますが、結構な智恵などは浮びそうもありません。
「大舟町というのはどこだい」
 と平次。
「戸塚の裏街道に、大船というところはあるがね」
「そいつは東海道の田圃たんぼの中だ。曲者が集まるのは江戸の真ん中だぜ」
「お膝元には大舟も小舟こふなもねえ――」
「待ちな、八、洒落しゃれが素通りしちゃ、せっかくの判じ物が台無しだ。大舟はないだろうが、小舟町こぶねちょうというのはあるぜ」
「なるほど、荒布橋あらめばしから中ノ橋へかけて、小舟町だ。そこに市兵衛というのがありゃ、今からすぐでも踏込んで縛って来る」
「行ってみるがいい、そんな事で判りゃ大手柄だ」
「じゃ、親分、お品さん」
 ガラッ八の八五郎はサッと飛出しました。ノッソリしているようでも、御用となると、この男には羽が生えます。
 平次はお品の書いた判じ物のような文字を、じっと見詰めました。大舟町市兵衛が判ったにしても、この後の五文字「百四十四夜」は何の事やら少しも判りません。
 お品は次の間へ行って、お静と女らしい細々とした話にふけっておりました。


 ガラッ八の八五郎は、その日の夕方ヘトヘトになって帰って来ました。
「小舟町には市兵衛も二兵衛もありゃしません。ああ草臥くたびれた」
「大舟町を小舟町と判じたのが無理かも知れないよ、――とんだ骨折りだったね、お隣から貰った柏餅があるから、二つ三つ押し込んで、晩飯の出来るまで待つがいい」
 平次はツイ腹の中の親切の地を出して、ガラッ八のためにお茶をれてやりました。
「有難いね、なるほど今日はお節句だ」
 八五郎はあわてた恰好で柏餅へ手をやります。
「どんなに腹が減ったか知らないが、右と左へ柏餅を持って、チャンポンに食う人間はないぜ」
 と平次。
あんと味噌との食いわけだ」
あきれた野郎だ。――柏の葉っぱごと食わないようにしろ」
 平次はそう言い捨てて、お品の方へ向き直りました。
「何を考えていたんで? 親分」
 ぬるい茶をガブリとやって、ガラッ八もその中へ割込みます。
「百四十四夜という文句を考えているんだ、どうも解らねえ」
 銭形平次も少し持て余し気味の様子です。
「すぐ判りそうなもんじゃありませんか。――お七夜、お十夜、八十八夜、百夜通ももよがよいは深草の少将で――」
「馬鹿野郎」
「へッ、うっかり智恵も出せねえ」
 柏餅で腹一杯になると、ガラッ八はもうこんな調子でした。
「元日から百四十四日目というと、五月の二十六日になりますね」
 お品は指を折りながら、月の大小を勘定しております。
「そんな事かも知れないが、元日から勘定するのは、暦の上では珍しいことだ。例えば、八十八夜も二百十日も、節分から勘定するのが定法だから――」
「節分は?」
 ガラッ八は立上がって柱暦を覗きました。
「節分は暮だったよ。そいつは今年の暦だ」
「不自由な暦だね」
「節分から百四十四日目は、八十八夜から五十六日目じゃないか、八十八夜は何日いつだい?」
「だからあっしが八十八夜と言ったじゃありませんか」
 ガラッ八の鼻は少しばかりうごめきます。
「深草の少将だけは余計だよ。――無駄を刈って、八十八夜を捜しな」
「三月の七日」
「お品さん、算盤そろばんを頼みますよ。三月は小の月だから八十八に二十二足す。四月も小でそれに二十九足す――といくら」
「百三十九になりますよ」
 お品の華奢きゃしゃな指は、思いのほか器用に、算盤のたまの上へパチリパチリと動きました。
「あッ、――節分から百四十四日目というと五月の五日だ」
「今日?」
 ガラッ八も思わず息を呑みます。
「百四十四日と書かずに、百四十四夜と書いたのは、たぶん今夜のことだろう」
 平次の声も緊張しました。
「どこでしょう」
 とお品。
「それが判りゃ」
 三人は顔を見合せるばかりです。
「少し考えよう。――たった一と晩で、五千両の金と、御用金泥棒が二人飛ぶかも知れない」
 平次は深々と腕をこまぬきます。こんな時こそ、江戸開府以来の素晴らしい智恵を、手一杯に働かせるところでしょう。
「親分、本当に小舟町でしょうか」
 とガラッ八。
「まず間違いはあるまい。この曲者は、恐ろしく洒落しゃれっ気がある」
「その小舟町に、赤井市兵衛がいるのも確かでしょうね」
 お品もたまりかねて口を出しました。
「それも間違いはあるまい。五千両の金がありゃ、人の物でもただ取ろうという心掛けの人間は、山里に隠れて三年の間鹿や猿と一緒に暮す気にはなるまい。金を隠すにも、ぜいを尽すにも、江戸は一番いいところだ」
「…………」
「八」
「ヘエ――」
「下っ引を五六人駆り集めて、小舟町中を当ってみてくれ。暮しの良い浪人者はいないか、町人でも武家出の西国訛さいごくなまりのある人間はないか、二三年前から住みついて、金があり余って困るようなのはないか、仁兵衛とか三郎兵衛という名で、黒河とか、青山とか、とにかく、色に因縁ゆかりのある苗字みょうじか屋号を持っているのはいないか、――これだけの事を、一刻いっときのうちにさぐらせてくれ。俺とお品さんは、小舟町の自身番に行って待っている」
「大丈夫でしょうか、親分、そんな判じ物みたいな事で」
 ガラッ八には、何かしら不安がありました。
「洒落っ気は人間の癖だ。この狙いが外れたら、俺は十手捕縄を返上するよ」
 平次の強大な自信に追っ立てられて、ガラッ八は晩飯を食うのも忘れて飛出してしまいました。
「親分」
 お品はその理智的な顔を挙げました。
「大丈夫だ、お品さん、大舟町だの、百四十四夜だのと洒落のめす奴は、青山仁兵衛とか何とかいって、小舟町にぬくぬくと住んでいるに違いない」
 平次は自分に言い聞かせて自信を固めるように、もう一度こう繰返します。


 八五郎の鼻の良さは、一刻経たないうちに、要領を得てしまいました。
「親分、判った」
 自身番へ飛込んで来たのは亥刻よつ(午後十時)少し前。
「大きな声だぜ、――そっと言ってくれ、町内へ触れを廻すには早え」
 平次はそう言いながらも、この報告をどんなに待ち兼ねたことでしょう。
白石屋半兵衛しらいしやはんべえ――こいつに間違いはねえ」
「なるほど、それが赤井市兵衛の変名だったのかい」
「三年前にこの町内へ来て、米、油問屋の古い暖簾のれんを居抜きのまま買ったんだ、その代金が七百五十両」
「なるほど」
「武家出だそうで、商売は番頭任せ、五十五六のまだ達者な身体を持て扱って、好き放題に日を暮している。白石屋というから、奥州の白石に縁があるのかと思ったら、それは先代から買った暖簾名で、当人は心持西国訛があるというのも面白いじゃありませんか。ね、親分、こいつが曲者でなかった日にゃ、あっしも十手捕縄返上だ」
 八五郎はすっかり意気込みます。
「つまらねえものを流行はやらかすなよ、――ところで女房子は?」
「女房はおきちといって三十七八、こいつは商売人上がりらしい代物しろものだ。おしゃれおしゃべりで、お先っ走りだが、人間はあんまり悧巧りこうじゃねえ。一年ぐらい前から来ているめいのおゆきは十九で、これは品のいい綺麗な娘、番頭の喜助きすけは四十五六の手堅い男、手代の文三郎ぶんざぶろうは店へ来て一年そこそこにしかならないが、男っ振りも評判も無類だ。ほかに小僧が二人、下女が二人、店には通いの男が二三人」
「大層な人数じゃないか」
「こっちにも五六人手が揃いましたぜ。踏み込んでみましょうか、親分」
「そいつはまずいな、判じ物で人を縛るわけには行かねえ」
「それじゃ?」
「手前と二人だけで乗込んでみよう。明日というわけには行かねえ。お品さんはしばらくここで待って貰おう」
 平次は躊躇ちゅうちょしませんでした。このうえ証拠などを揃えていては、どんな手違いになるかもわからない情勢だったのです。
 が、白石屋に乗込んで行って驚きました。
 中は煮え返るような騒ぎ、四間半間口の店から、不安と焦躁の気がこぼれていたのです。
「どうした」
 いきなり小僧をつかまえて訊くと、
「旦那が死んだんです」
 予想もしなかった答です。
「どうして死んだ――いつ、どこで?」
按摩あんまいちさんが帰って、奥で横になって休んだまま、――今しがた文三郎さんが行ってみると――」
 小僧はゴクリと固唾かたずを呑みました。
「案内しろ、俺は神田の平次だ」
 こんな時は、十手に物を言わせる外はありません。
「ヘエ――」
 ガタガタふるえる小僧に案内させて、店から奥へ、その間幾人にも逢いましたが、男も女もすっかり逆上して、平次が何をしに来たかさえ考えてはいない様子です。
「あれは?」
 あっちこっちの押入をあけたり、箪笥たんすを抜いたり、騒ぎの中に家捜しをしている若い男に、平次の注意は向きました。
「文三郎さん」
「…………」
 平次の顔を見ると、あわてて神妙な様子を見せる手代の文三郎は、この騒がしい空気のうちには、とにもかくにも不思議な存在でした。せいぜい二十五六のい男、少し華奢きゃしゃではあるが、悪人らしい男ではありません。
「あ、銭形の親分さん」
 奥の一と間、――店と土蔵に挟まれて、一方口の狭い部屋の中に、主人の死体は二三人の驚きと歎きのうちに横たわっておりました。
 声をかけたのは番頭の喜助、四十五六のよくふとった、――何となく魯鈍ろどんそうに見えるうちにも、したたかな駆引を用意しているらしい男です。
「気の毒なことだね、――急に亡くなったのかい」
「ヘエ、――あんまり急で、涙も出ません、ヘエ――」
平常ふだんから弱かったのかい」
「とんでもない、丈夫が自慢の主人で、時々肩が凝るほかには、風邪一つ引いたことのない方でございます」
 平次はズイと寄りました。かりそめに敷いた蒲団ふとんの上、箱枕と小掻巻こがいまきだけのうたの姿のまま、主人の白石屋半兵衛は死んでいたのです。
 びんに少し霜を置いた、見事な恰幅かっぷくで、面ずれ竹刀しないだこを見なくとも、たった一と眼で武家出とわかりますが、それが心持顔をゆがめて、さしたる不自然な形の崩れもなく、息が絶えていたのです。
 苦悶の跡も、刀槍とうそうの傷も、毒物の斑点もないのですから、卒中かしんの病の頓死といっても、誰も疑う者はなかったでしょう。が、これを平凡な死にしてしまっては、「百四十四夜」と今宵こよいを暗示した、不思議な判じ物の意味が判らなくなります。
 そのうちに町内の本道(内科医)が来ました。誰が呼んだのかわかりませんが、息の絶えてしまった者には、「耆婆扁鵲ぎばへんじゃく」も施しようがありません。
「これは卒中だ。何とも致し方がない」
 そこそこに立上がる本道の袖を、平次はそっと押えました。
「これでも卒中でしょうか、もう一度て下さい」
 平次は死骸を俯向うつむきにして、そのぼんのくぼのあたりを指します。
「あッ、なるほど」
 本道はあわてて眼鏡を取出しました。白石屋半兵衛の首の後ろ、ちょうど毛の生え際の急所に、蚊にさされたほどの、小さい小さい傷があったのです。
「こいつは人間の命を取るほどの傷じゃないでしょうか」
「いかにも、これは大変だ。――頂門ちょうもん一針いっしんとはこのことだ」
「八、この家の者を、一人も外へ出しちゃならねえ、――それから、宵に来た按摩をつれて来てくれ。手荒なことをするな」
「ヘエ――」
 ガラッ八は弾みのついたまりのように飛んで行きました。


 ガラッ八の後ろ姿を見送って、平次はもう一度部屋の中を見廻したのでした。
「あの、主人は、もしや?」
 女房のお吉は、自堕落な顔を引締めて、一生懸命になります。
「お気の毒だが、人手に掛って死んだよ」
「えッ」
「按摩が帰ってから、誰と誰がここへ入ったか、判るだろうな」
 平次はすぐ大事な問に取かかりました。
「お雪さんと――」
 お吉は自分のそばにいる若い娘を振返ります。
「いつものように、水を持って参りました」
 十八か十九か、四方あたりの殺風景さに似ぬ、もの優しい娘でした。
「その時主人は生きていたんだね」
「え、寝息を聞いたような気がします」
「そんなに近く寄ったのかい」
 お吉の眼は嫉妬に燃えました。
「でも――」
「このお雪さんというのは、主人の本当の姪じゃないんだね」
 と平次。
「赤の他人ですよ。――元は奉公人だったんです。少し渋皮がけているばかりに、物好きな主人が姪とか何とか披露しましたよ」
 本人を前に置いて、お吉の舌は深刻にあばき立てました。
「それから誰が入った」
「番頭も手代も入りました。――その手代の文三郎が、主人が死んでいるのを見付けたんです」
「番頭を呼んでくれ」
 平次が言うと、お雪は呑込んで部屋の外へ出ましたが、間もなく、番頭の喜助をつれて来ました。
「ヘエー、親分さん、御用で?」
先刻さっきお前さんがこの部屋へ入った時、主人は生きていたのか、死んでいたのか」
「それがよく判りません。――私は部屋の入口から声を掛けただけで、おそばへ寄ったわけじゃございませんから、お返事がないのを、よく眠っていらっしゃるものとばかり思い込んでおりました」
「どんな用事があったんだ」
「今日の帳尻ちょうじりと、荷繰にぐりのことを申上げる心算つもりでございました」
「そいつは毎晩やるのかい」
「毎晩やることにはなっておりますが、晩酌をお過しになると、ツイ面倒臭くおなりの様子で、ヘエ」
 喜助はお吉の顔を顧みて、場所柄ながら少しばかりにんがりとします。
「おめえさんここに何年居るんだ」
「三年でございます。――でも、大坂に居る時分からの御引立てで、旦那様にお目にかかってから、かれこれ十年にもなりましょうか」
「大坂はどこに居たんだ」
「あの、心斎橋しんさいばし通りに居りました」
「何という家だ。商売は?」
「大坂屋、――油問屋でございました、ヘエ」
「主人は人手に掛って死んだに相違ないが、お前には心当りはないかえ」
「それを承って、ただもうびっくりしております。こんな結構な御主人を、うらむものなどがあってよいものでしょうか」
「怨みがないまでも、主人が生きていては困る者があるだろう」
「さア」
 喜助はこの間を持て余した様子でした。
「文三郎に来るように、そう言ってもらいたいが――」
「ヘエ――」
 喜助は解放された喜びに、よく肥った身体を転がるように部屋から出て行きました。
 続いて入って来た手代の文三郎、この店中では一番立派な男ですが、何に興奮したのか、平次に呼び付けられても、挨拶をするでもなく、死骸の側に無造作に坐って、何やら気になるらしく、後ろの方ばかり振り向いているのです。
「先刻何か捜していたようだが、ありゃ何だい」
 平次の間は少し慳貪けんどんでした。
「何でもありません」
「主人が死んだという晩、家中の押入を覗くのは穏やかじゃないな」
「…………」
 文三郎は黙って唇を噛みます。
「いつから此店ここに居るんだ」
「一年ほど前からです」
「ここの主人を、赤井市兵衛と知ってか」
「えッ」
 文三郎は愕然がくぜんとして眼をみはりました。平次の言葉が、あまりにも意外だったのです。
「五千両の金は、まだ見付からないのか」
「とんでもない、親分」
 平次の言葉の効果は、全く見事というの外はありません。理智的に見えた文三郎が、すっかり度胆を抜かれて、急にソワソワし始めましたが、平次の問に対しては、まだ何と答えたものか、思案も定まらない様子です。


 間もなくガラッ八は若い按摩あんまを一人つれて来ました。この界隈かいわいを流して歩く、佐の市という二十七八の男、物の黒白ぐらいは見えるようですが、按摩もはりもなかなかの上手な上、持前の愛嬌あいきょうのよさが手伝って、旦那衆にも可愛がられております。
「佐の市か」
「銭形の親分さん」
 佐の市は声のする方へヒョイとお辞儀をしました。
「お前が帰る時、白石屋の主人はたしかに生きていたかい」
「それはもう、親分さん、変ったことがあれば、黙って帰るような事はいたしません。――んでいるうちに、いびきをかき始めた様子だから、掻巻かいまきをお掛けして、そっと帰りました」
「鍼は?」
「持ってはおりますが、白石屋さんは鍼をお嫌いで、一度も打ったことはありません」
「お前の鍼箱を見せてくれ。鍼が足りなくなっているようなことがあるかも知れない」
「ヘエ――」
 平次の言葉の意味をみ取り兼ねながらも、佐の市は懐中ふところの鍼箱を取出しました。
 一番から十番まで、一寸五分ぐらいから、五六寸のまで、枕に並べた定法の鍼の数を、不自由な眼と手捜てさぐりとでからくも読むと、
「一本も無くなってはいません、親分」
 佐の市は昂然こうぜんとして首をあげました。
「ところが、白石屋の主人は、その鍼を打たれて死んだんだよ」
「えッ、――そんな事はありません。どこへ、どんな鍼を打ちました。手さぐりで、私に教えて下さい」
「ここだよ」
 平次は佐の市の手を取って、死骸の頸筋くびすじの鍼痕を探らせました。
「これですか、親分、――これは、『十四経和語抄きょうわごしょう』にもない、六百五十七けつの外の、禁断の鍼ですよ、親分」
「…………」
「こんな鍼を打たれちゃ、一とたまりもありません。――たぶん物も言わずに死んだことでしょう」
「佐の市、――お前は、この家の誰かに、その急所をらしはしなかったか」
 平次はいよいよ最後の問まで辿たどりつきました。お吉も、お雪も、ガラッ八も、思わず固睡かたずを呑んで、按摩の唇の動きように見入ります。
「ツイ冗談ともなく、話したことがあります」
「誰へだ」
「亡くなった白石屋の旦那様に、――十日ばかり前のことでした」
「外にはないか」
「聞いていた方があったかも知れません。が、この眼では」
「見当ぐらいつくだろう」
衣摺きぬずれの音と、柔かい息づかいを聞いたように思いますが――」
 佐の市の言葉は暗示的です。絹物を着ている、柔かい息づかいの人間というと、女房のお吉と姪のお雪の外にはありません。
「話は違うが、お前の眼はいつ頃から悪くなったんだ」
「五つの時からですよ、親分」
 佐の市の言葉には、諦め切れない悲しみがあります。
「生れは?」
「御当所でございます」
「師匠は?」
沢田検校さわだけんぎょう様」
 少しの疑いもありません。
「有難う、お蔭でいろいろの事が判った。もう帰ってもいい――八、誰かに送らせてやるがいいぜ」
 平次は佐の市を送り出してホッと息づきました。


 白石屋の四方は下っ引を動員して、隙間すきまもなく見張らせましたが、そのためか、今晩来なければならぬはずの、稲妻小僧の六は、いつまで経っても姿を見せません。
「もしや?」
 平次の胸には、大きな疑問が浮びました。稲妻小僧の六という曲者は誰かの姿を借りて、この包囲陣の中――白石屋の家の者として、澄ましているのかも判らないと思い付いたのです。
 平次は八五郎を呼んで、二つ三つの用事を言い付けました。
「誰でも構わない、一人は勘定方の御係りへ行って、三年前宇津谷峠で斬られた、中根鉄太郎という人の身寄りの者の居るところを聞いてくれ。皆んな揃っているならいいが、弟なりせがれなり、妹なり娘なりが、一人でも欠けているなら、その行先から、人相などをよく聞いて来るがいい」
「ヘエ――」
「もう一人は、町奉行へ行って、大坂の事をよく知っている人に、心斎橋通りの問屋で、大坂屋というのがあるかないか聞いてくれ」
「ヘエ――」
「それからもう一人は、灸や鍼の道具を売る店を捜して、近頃素人に一番の鍼を売らなかったか訊いてくれ。なアに、日本橋から江戸橋の近所だけで沢山だ。それで判らなかったら江戸中を捜さなきゃなるまいが、大方一軒か二軒でらちがあくだろうよ」
「ヘエ――」
「もう一人、石原の利助兄哥あにきのところへ行って、駿河するがから持って来た煙草入を借りて来てくれ。――それだけ揃えば、夜の明けないうちに何もかも解るよ。八五郎とお品さんは、家の中へ入って、俺の手伝いをして貰おうか」
 平次の指図は恐ろしく行届きますが、それが、家中の者に筒抜けに聞えるような大きな声です。
 下っ引は八方に散って、家の中はしばらく空っぽになりました。
「親分」
「何だ、八」
「あの文三郎というなまちろい手代は、まだ家の中を嗅ぎ廻っていますよ」
っておけ」
「あの野郎が稲妻小僧じゃありませんか。夜の明けないうちに、五千両の金を捜し出して、持って逃げ出そうという魂胆でしょう」
「抛っておくがいい。あのヒョロヒョロした男に、五千両の小判が持てるものか」
 平次は一向驚く様子もありません。ガラッ八は諦めた様子で店の方へ引返します。
「親分」
 今度はお品でした。
「変ったことでもあるのかい、お品さん」
「何にもなくて困るんです」
「二人の女は?」
にらみ合ったまんまですよ」
「この家に五千両の金が隠してある――とほのめかしてみるがいい」
「そんな事を言ってもいいでしょうか」
「悪者は最初から知ってる。――慾のない人間には教えても一向差支えはない」
「じゃ、そうやってみますワ」
 平次の自信に動かされて、お品は元の部屋に引返しました。が、そこには、お吉も、お雪も居ず、半兵衛の死骸だけが、まもる者もなく、冷たく横たわっているだけでした。
「た、大変ッ」
 庭の方から、消魂けたたましい声。
 お品と平次と、廊下でハタと顔を合せて、無言のまま庭に飛降りると、ガラッ八の八五郎が、庭の灯溜ひだまりを指さして、もう一度爆発しそうな声を、一生懸命に噛み殺しております。
「何だ、八?」
 と平次。
「これを見て下さい」
 指さしたのは、中ぐらいな鯉幟こいのぼりを半分ほどおろした下、幟の竹竿を立てた、厳重な二本の石柱のあたりに、あけに染んで一人の男がうずくまっているではありませんか。
 引起してみると、番頭の喜助、もう息も絶えて、呼び生けようもなかったのです。
 あかりを呼んで調べると、頸筋を後ろから引っ切った見事な深傷ふかで、多分、声も立てずに死んだことでしょう。


「親分」
「何だ、八」
「あの野郎を縛って構わないでしょうな」
「誰だい」
「稲妻小僧の六」
「見当が付いたのか」
「手代の文三郎ですよ。あれが稲妻小僧でなかった日にゃ、あっしは――」
「十手捕縄の返上は少し気が早いぜ、もう少し待ちな。――証拠が揃わない」
 平次は落着き払います。もうあけ近いでしょう。初夏といっても、涼しい風が寝不足の肌を引締めて、妙にゾクゾクさせます。
「家の中を嗅ぎ廻っているじゃありませんか。証拠なんかるものですか、縛って引っぱたけば、手もなく白状しますよ」
「馬鹿っ、そんな世間並な気になるから、いつまで経っても見当が外れるんだ。岡っ引はとがのないものを縛っちゃ恥だ」
「あの、あの男に科はないと言うんで――」
「物のたとえだよ」
 平次は軽くらせて、背を見せます。
「五千両の隠し場所は? 親分」
 ガラッ八は追っかけました。
「それも見当が付いたよ」
「本当ですか、親分」
 八五郎の声は、親分平次に対する讃歎に弾みます。
「俺が嘘をいたことがあるかい。夜が明けるのを合図に、見事五千両を引出して見せるよ」
「親分、それじゃ大手柄じゃありませんか」
「このうえ赤井市兵衛と番頭の喜助を殺した奴が見付かりさえすればね」
「それなら、あの文三郎じゃありませんか」
「いや、違う」
「親分」
「自分で殺したなら、あんなに無遠慮に家中を捜し廻るようなことはあるまい」
「それじゃ?」
「もうすぐ判るよ」
「あのお雪という娘じゃありませんか。主人の部屋へも入っているし、着物にはほんの少し血が付いていましたよ」
「…………」
「綺麗な顔をしているが、何をやるか判ったものじゃない。叩けばほこりの出る身体じゃありませんか」
「…………」
 平次は考え込んでしまいました。
「親分」
「よし、やってみようか。稲妻小僧の六はこの騒ぎに驚いてしばらくは寄り付くまい。せめて二人殺しの下手人を挙げて、五千両の御用金を勘定方にお返ししよう。来い、八」
「可哀想だが、やりますよ、親分」
 手ぐすね引いて、お雪の部屋というのへ向った二人。
「待って下さい」
 暗い廊下で、ハタと行手をはばまれました。
「誰だい」
「私でございます」
「手代の文三郎さんか、何の用事だ」
 平次の言葉は冷たくて厳しい調子でした。
「御主人と番頭さんを殺したのは、この私です。お雪さんなんかじゃございません。私を縛って、どこへでも突出して下さい」
「…………」
 平次は黙って突っ立ったまま、遠灯とおあかりにすかして激情にふるえる若者の顔を見やりました。
「そして、五千両の御用金は、お願いですから、お雪さんの手から、勘定奉行へ還させて下さい」
 文三郎は板敷の上へヘタヘタと坐って、両を合せているのでした。
「よしよし、よく言ってくれた。――ところで、主人は何で殺したんだ」
 と平次。
「按摩の鍼で殺しました」
「その鍼はどこから手に入れて、どこへ隠した」
「…………」
「番頭の喜助はどんな意趣で殺した」
「…………」
「どうして殺した」
匕首あいくちで殺しました」
「その匕首はどこへやった」
「…………」
「おいおい嘘を吐くなら、もう少し器用に吐くものだよ。――本当の事を教えてやろう。主人を殺したのは、あの番頭の喜助さ。五千両の隠し場所を嗅ぎ付けて、急にそれが欲しくなったんだ。ところが、五千両を隠し場所から取出す段になって、赤井市兵衛の仲間――たぶん稲妻小僧の六に見付けられその場でかたきを討たれたんだ。刃物は剃刀かみそりさ、匕首なんかじゃない」
「…………」
 平次の明智に、文三郎もガラッ八も圧倒されてしまいました。
「主人を殺した鍼は、あの部屋の壁の中に叩き込んであったよ。番頭を殺した剃刀は、多分あののぼりの竿の割れ目に入っているだろう」
「…………」
「それから、お雪さんというのは、主人の姪でも何でもない。あれは勘定方役人、三年前宇津谷峠で三人の曲者くせものに斬られた、中根鉄太郎という方のお嬢さん――だ。奉公人に住み込んだが、綺麗で利発なので、主人の市兵衛が、姪と言い触らしたのだろう――これは間違いのない心算つもりだ。勘定方へ行った下っ引が帰って来れば何もかも判る」
「親分、その通りです。フトした事から白石屋半兵衛が、赤井市兵衛と知って、敵を討つ心算で入り込みました。でも、五千両の御用金を奪い還さない限り、敵を討ってもほまれにはならず、父上鉄太郎様の汚名をそそがれません。お嬢さんが今日まで我慢していたのはみんなそのためでした」
「お前は何だ」
「中根様の用人、青山文三郎」
「そうか」
 平次も何やら予想外なものがあった様子です。若い文三郎の献身的な働きは、決して愛や情けから出発したものばかりではなかったのでした。


「あッ、危ないッ」
 文三郎は絶叫しました。振返ると、三四間先の廊下を、女がお雪に追いすがって、髪をつかんで引戻しざま、キラリと匕首あいくちを振りかぶったのです。蹴飛ばした雨戸の間から、朝の光がパッと射します。
「己れッ」
 平次の手からは銭が飛びました。
「あッ」
 たじろぐ匕首の女、飛込んだガラッ八は、その後ろからギューと羽交締めにします。
「あッ、気障きざだよ、畜生ッ」
 女が身を沈めると、ガラッ八の巨体は縁側にもんどり打ちました。
「御用ッ、神妙にせい」
 飛込む平次。
「亭主の敵を討った私に、何が御用だい」
 振り冠った乱髪の中から、激怒に引きつるお吉の顔が、朝の光を半面に浴びます。
「稲妻小僧が女と知らなかったばかりに、余計な人間を一人殺させたよ。サア、もう逃しはしないぞ」
 と平次。
「馬鹿におしでない」
 匕首と銭とは、しばらく宙に相打ちました。女ながら、稲妻小僧と言われた、恐ろしい軽捷けいしょうさ、しばらく平次も持て余しましたが、やがて匕首を叩き落すと、キリキリと縛り上げます。
「あ、親分」
 木戸を開けて、庭先へ入って来たのは、物音に驚いて飛込んで来たお品とその子分でした。
「お品さん、これが稲妻小僧の六だ。三人組の一人が女とは気が付かなかったよ。赤井市兵衛の白石屋半兵衛は死んでしまったが、この女を突出しただけでも、御奉行所ではお喜びだろう」
「…………」
 お品は黙ってお吉の稲妻小僧を受取りました。感激に上気した顔に、初夏の朝風が快く吹きます。
「それから、駿府から持って来た藤太の煙草入を貸して貰おうか。お吉の帯の間には紙入があるはずだ。それと、殺された主人の煙草入があれば、五千両の唐櫃からびつは開くだろう」
「親分、唐櫃はどこにあるんで」
 ガラッ八は狐につままれたようです。
「男の子のない家にてた、鯉幟の下にあるのさ。五月五日の晩に仲間を呼んだのは、人目につかずに、これが開けられるからだ」
 鯉幟の竿を持たせた二本の石柱の根を掘ると、一枚石の下から、かしのかなり大きな唐櫃が出て来ました。びた金具に、三つの海老錠えびじょう、その一つ一つが、藤太と市兵衛の煙草入から出た鍵と、お吉の紙入から出た鍵で開くようになっております。平次の手でふたをはねると、
「あッ」
 中から出たのは、全く手付かずの五千両の小判、折から、町並の上に昇った朝日に照らされて、眼もくらむばかり。
「こいつは中根様のお嬢さんの手柄になさるがいい。大急ぎで勘定奉行に運ばせましょう。文三郎さんは、お雪さんと一緒に行って、何にも言わずに納めて来なさることだ」
「親分」
 お雪と文三郎は、顔を挙げることも出来ないほど泣いておりました。
「八、来い。退屈が吹っ飛んで腹が減ったろう」
 平次はクルリとその激動の情景シーンに背を向けました。後ろからスタスタとついて行くのは、恐ろしく腹の減ったくせに、胸が一杯になっている八五郎です。
「親分」
「何だい」
「好い心持だね」
「滅多に朝起きしないからだよ」
 平次の足は次第に早くなります。昨夜ゆうべ一晩寝もやらぬ女房のお静と香ばしい味噌汁が待っていることを考えたのでしょう。





底本:「銭形平次捕物控(九)不死の霊薬」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第八巻」中央公論社
   1939(昭和14)年6月28日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1939(昭和14)年6月号
入力:山口瑠美
校正:結城宏
2017年9月24日作成
2019年11月23日修正
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