神田祭は九月十五日、十四日の
御城内に牛に
銭形の平次も、御多分に漏れぬ神田ッ子でした。一と風呂埃を流してサッと夕飯を掻込むと、それから祭の渦の中へ繰り出そうという矢先、――
「親分、た、大変」
鉄砲玉のように飛込んで来たのは、例のガラッ八の八五郎です。
「ああ驚いた。お前と付き合っていると、寿命の毒だよ。また
そう言いながらも平次は、大して驚いた様子もなく、ニヤリニヤリとこの秘蔵の子分の顔を眺めやりました。
全くガラッ八は、少し調子ッ外れですが、耳の早いことは
「そんな馬鹿な話じゃねえ、正真正銘の大変だ、親分驚いちゃいけねえ」
「驚きもどうもしないよ」
「金沢町のお春――あの油屋の一粒種の小町娘が、夕方から見えなくなって大騒ぎだ。ちょいと行ってみてやっておくんなさい」
「馬鹿だな。お前は。三日も帰らなきゃア騒ぐのももっともだが、夕方から見えなくなったのなら、まだ一と刻とも経っちゃいめえ。今頃は
平次は相手にもしませんが、どうしたことか、ガラッ八は妙に
「ところが、町内中の雪隠も押入もみんな探したんだ」
「何だってそんな
「だから大変なんだ、親分、お春坊は二日ばかり前から、――祭の済むまでには、私はキッと殺されるだろう――って言っていたんだそうだ」
「えッ」
「そればかりじゃねえ、日が暮れて間もなく、誰か男の人がお春の
「誰が見たんだい」
「困ったことに町内の
「よし、行ってみよう。お春坊は無事平穏に生きながらえるにしちゃ少し綺麗過ぎらア、こいつはなるほど、臭い事があるかも知れないよ」
平次はガラッ八を促し立てて、一と走り金沢町へ、何やら第六感をおののかせながら飛んで行きました。
金沢町の油屋の一人娘お春というのは、今年十九の
平次が金沢町へ駆け付けた時は、もう行列を揃えて、近辺を練り廻そうという間際、何分
抜けるような色白、多い毛を
それに並んで評判になったのは、町内の荒物屋の親爺で市五郎と言う五十男、
それはともかく、時刻は次第に移りますが、どうした事か美しいお春は帰って来ません。平次は
が、明神様の人ごみから町内を、一と通り歩いたところで、花笠を背負った手古舞姿のお春が、誰にも知れずに潜り込んでいそうな場所もありません。
男と
平次は、町内の人達二三人と、ガラッ八を
「親分、この辺じゃありませんね。外を探したらどうでしょう」
「いや、私はどうしても、この辺のような気がしてならないんだが、――聖堂の前へ廻ってみましょう」
平次はそう言って、
「これは何だ」
平次は、
「お、そいつは揃いの手拭だ」
提灯にすかして見るまでもありません。町内で揃いに染めさした、波に千鳥と桜をあしらった手拭、少しお花見手拭
「これがあるようじゃ、この辺が一番臭い。提灯を上から見せて下さい」
二つ三つの提灯を、崖から差出すと、その頃はまだ、
「あッ、お春さんだ」
騒ぎはそれから、火の付いた
縮緬の長襦袢が、藪と
「
祭の人数は、止めても、止めても、潮のように崖の上へ殺到して平次もガラッ八も手の付けようがありません。
間もなく、お春を誘い出して、聖堂裏の木立の中へ入った相手がわかりました。町内の酒屋の
「長吉、
平次は、これも祭の
「親分、御冗談でしょう。
少し気は弱そうですか、一生懸命なことは確かで、おろおろしながらも、自分の危ない地位より、お春の敵を討ちたさに
「それじゃ、何だってお春を木立の中なんかへ誘い出したんだ」
「祝言前の若い者ですもの、折さえありゃ二人っきりで居たいのは無理もないでしょう。それくらいのことは、親分――」
長吉は――察して貰いたい――といった顔で、平次を見上げました。少しノッペリしているが、お春の夫には打って付けの好い男で、人一人殺せそうな様子は
「お前の手拭はどうした」
「ここに持っていますよ」
長吉はそう言って、懐から畳んだ手拭を出しました。波に千鳥と桜、
「お春と何をしていたんだ」
「ヘエ――」
「何をしていたんだよ」
「この次に逢う日と場所を決めました」
「それっきりか」
「ヘエ」
「どれほど話していた」
「四半刻(三十分)ともかかりはしません。私が御神酒所へ引返した時は、まだ明るかったのですから――証人はいくらでもありますよ」
「よしよし、明るい内にお春を絞めて、お茶の水の崖まで引摺っても行けまいから、お前さんには罪はないだろう」
平次はこの男を帰してやろうか――と考えていました。滅多に人を縛らない平次で、これくらいのことでは長吉を疑う気にはなれません。
しかしそれは無駄な思いやりでした。
「平次、殺しがあったそうだな」
「あ、旦那」
同心、
「下手人は挙がったのか」
「下手人というわけじゃございません。殺された娘の
「そうか。俺はまた、その長吉とかいう男が、死んだ娘と一緒に聖堂裏へ隠れたように聞いたが――」
湯浅鉄馬がこう言うと、どうも話がむずかしくなりそうです。この男は、それだけ、
「親分、湯浅の旦那はとうとう長吉を縛って行ったようですね。あのノッペリした男がやはり下手人ですかねえ」
と同心湯浅鉄馬と入れ違いに、子分のガラッ八が入って来ました。
「俺には判らねえが、どうも、そうらしくは思われないよ。あの男は女など殺せるような柄じゃない」
「それじゃ、誰がやったんでしょう」
「それが解りゃ文句はないよ。――ね、ガラッ八、揃いの手拭を落した人がないか、落したら、目印がなかったか、これだけの事を訊いて来てくれ」
「ヘエ、そんな事ならわけはありません」
ガラッ八は気軽に飛んで行きましたが、間もなく、
「親分、この人が手拭を落したんだそうですよ」
「どこで、いつ頃」
「どこで落したかわかりませんが、一
男はおよそ
「お前さんは?」
「畳屋の
眼の鋭い、四角な顔をした辰蔵は、少し
「いや、そんなわけじゃない。辰蔵さん、つまらない事を聴くようだが、その手拭には何か目印がありましたか」
と、平次、相手が悪いと思ったか、少し下手に出ました。
「ありますよ。御神酒所で休んでいる時、今日の昼頃、当り箱を
「なるほど」
平次は腕を
「それでいいんだね、親分、あっしはもう帰らなきゃアならないんだが――」
「親方、御苦労だったね、もう帰っても構いませんよ。ところで、お春の死体の側に、手拭が一本落ちていたことを知っていなさるかい」
「ヘエ――、そ、その手拭が、あっしのだったとでも言うんですかい」
「いや、そうじゃないようだ。とにかく、この事は黙っていて下さいよ、下手人はどんな細工をするかも解らないから」
「ヘエ――」
辰蔵は少し恐れ入った様子で、ピョコリとお辞儀をすると黙って外へ飛出してしまいました。
「親分、あの男を逃がしてやっていいんですかい」
とガラッ八、辰蔵の態度がよっぽど気に入らなかったものか、平次の掛け声一つで、追っかけて、捕えてやりそうな勢いです。
「放っておけ。お春殺しの下手人なら、落した手拭を吹聴して歩くような事はあるめえ」
「だって親分、人に何とか騒がれる前に、手拭を落したと気が付けば、自分で名乗って出た方が、疑われずに済むわけじゃありませんか」
とガラッ八。
「おや、お前は恐ろしく
「馬鹿にしちゃいけねえ」
「誰が馬鹿にするものか。ついでに御神酒所へ行って、辰蔵が本当に手拭の端っこへたの字を書いたかどうか、訊いて来てくれ。それが済んだら、お前は辰蔵から目を離さずに見張っているがいい。もっとも、何にもあるまいとは思うが」
「へえ、そんな事なら訳はありません」
ガラッ八はまたすっ飛んで行きました。
ガラッ八の報告は、辰蔵の言葉を立派に裏書しました。御神酒所にいる人達の話を総合すると、辰蔵は今日の昼頃やって来て、一と休みしながら、寄付の帳面を付ける当り箱を引寄せて、手拭の端へ、小さくたという字を書いたことは疑いもありません。
「墨が馴染まなくて、うまく書けないので、何べんも何べんも、上からなするもんだから、――辰
ガラッ八はこう言って、それとなく自分の不明を弁解しております。
「人相が悪くて一々疑われた日にゃ、手前なんかも物騒だぜ。これから変なところへ立ち廻らねえ方がいいよ」
「親分、からかっちゃいけねえ」
「ところで、冗談は冗談として、町内から祭の行列に出ている人達に一応逢っておきたいことがあるんだ。しばらく家へ帰らずに、御神酒所の前で待っているように、世話人に頼んで来てくれ。お前ばかり歩かせるようだが、俺が顔を
「へえ」
ガラッ八はもう一度飛んで行きましたが、しばらくすると、自身番へ帰って来て、居眠りでもするように腕を拱いて考え込んでいる平次をゆり動かしました。
「親分、人が揃いましたぜ」
「よし、今行くよ」
平次はようやく身を起しました。御神酒所の前まで行くと、山車を真ん中に、往来に
平次は羽織を着た世話人に、何事か
「皆さん、済みませんが、銘々のお手拭を見せて下さい。銭形の親分のお頼みですから、どうぞ悪しからず」
と言うと、揃いを着た男女の人波が、何やらわけのわからぬ動揺を打ちます。たぶん夜更けまで止められて、こんな馬鹿なことをされるのが不平だったのでしょう。
「
平次にそう言われると、さすがに嫌とは言えません。頬冠りを取るもの、鉢巻を抜くもの、襟や肩へ掛けたのを外すもの、銘々の手拭を持って、潔白を示すように、平次の前へ押寄せて来ました。
「あ、そんなに突っ掛けちゃいけない、一人ずつ願います」
世話人に整理して貰って、平次は一人ずつ揃いの手拭を見せて貰いました。
五人、十人、二十人、と見て行きましたが、たの字を書いた手拭などはどこにもなく、それに似寄りの文字を書いたのもありません。
「もうこれだけかな、手拭を見て貰わない方はありませんか」
「おい、こっちにまだ多勢いるぞ」
世話人の声に応じて、両隣、菓子屋と荒物屋の店先からも声が掛かりました。
「ちょいとこっちへ来て貰おうか」
と世話人が言うのを押えて、
「いや、こっちから行ってみましょう」
平次は
「おや、銭形の親分、ここには、男殺しは多勢いますが、女殺しはいそうもありませんよ。もっとも私は別だが、何分こう年を取っちゃ――」
市五郎はそう言いながら、すっかり
「ホ、ホホホホホ」
と笑いの洪水、――先刻、お春が殺されたと聞いて、青くなったことも忘れて、もう若い女らしく浮かれ調子になっております。
「念のために、ともかく、ザッと見ておきましょう」
平次は
「私の手拭がどうかしましたか、親分」
そう言って顔を挙げたのは、同じ金沢町の質屋の娘お
「いや、そう言うわけでもないが――お勢さん、この端っこのたの字は、お前さんが書いたのかえ」
「あらッ、そんな字なんか――私、何にも知りませんよ。誰かの手拭と変ったのかしら」
お勢は愕然として顔色を変えました。日頃から気象者で通ったお勢ですが、何となくただならぬ空気の圧迫と、思いも寄らぬ手拭の文字に驚いたのでしょう。
「とにかく、この手拭は私が預かっておくよ。いいかえ、お勢さん」
「え」
恐怖と疑惑に打ちひしがれたお勢は、美しい顔を
「親分、もう手拭調べはようがすかい」
しばらくたってガラッ八は、化石したような、恐ろしい沈黙の中から声をかけました。
「いや、まだ三四人残ってるよ」
そう言うと平次は、お勢から借りた手拭を畳んで懐に仕舞い込んだまま、大急ぎで片付けます。一番の最後は、道化者の市五郎、それで何もかも済んでしまいました。
「辰蔵、これはお前が書いた字に違いあるまいな」
と平次。一同を帰した後、辰蔵を呼止めて、お勢の手拭を見せてやりました。
「違いますよ、親分、あっしの字は、もう少し
「確かにそうか」
「ヘエ[#「「ヘエ」はママ]
「お前、お勢を
平次は妙なところから、チラリと捜りを入れます。
「とんでもない、親分、あの娘に怨みこそあれ、庇ってやる義理なんかあるもんですかい」
「怨みと言うと何の怨みだ」
辰蔵は語るに落ちた形で、眼を白黒させます。
「極りは悪いが、言ってしまいましょう、実は――あの娘へちょいちょい当ってみたんですが、
「そんな事だろうと思った。もういい」
「帰ってもいいんですかえ」
「いいよ」
辰蔵は虎の
「親分、帰してもいいんですかい、お勢に怨みがあるという野郎を」
ガラッ八は
「いいよ」
「長吉でなく、辰蔵でないとすると、下手人はやっぱりお勢ですか、親分」
「お勢は一番怪しくないよ、――と言うのは、あのたの字が偽筆で、その上、お春とお勢が仲のよかった事も解ったし、第一娘の細腕で、笠の緒で人一人殺せるわけもなく、死体を聖堂裏からお茶の水の崖まで引摺って行けるわけもない」
「すると――」
「解らないな。まるで見当も付かない」
「ヘエ――」
平次がこんな事を言っていると、自身番の前へ、ノソリと立った者があります。
「あっ、旦那、こんなところへ」
「いや、お祭の様子を見に来ると、なにか騒ぎがあると言う話を聞いたが、どうしたのだ、一体」
それは、平次のためには、大事の上役で、その頃
「話は大概聴いたが、酒屋の倅も疑いは晴れたそうだな」
「ヘエ」
あれは同心の湯浅鉄馬が、無理に縛って行った、とは平次は言いません。恐れ入った様子で、首を垂れました。
「外に心当りがあるか」
「何にもございません」
「困ったものだな。外ならぬ御用祭に、
「ヘエ――」
「
「ヘエ――」
銭形の平次もすっかり恐れ入ってしまいました。こうまで言われると、日頃世話になっている笹野新三郎の顔の立つよう、どんな事をしても下手人を挙げなければなりません。
神輿に続いて三十六番の山車、――その頃はまだ城内へ入る慣わしはありませんが、それぞれ趣向をこらして、行列は氏子の町内を一と廻りします。
金沢町の山車の前には、手古舞姿の美しい娘が五人、お勢をピカ一にして、今日を晴れと押出し、その間を縫って
その日は、昨夜までは行列に見えなかった、お
潮吹はこの好敵手を迎えて、全く大車輪でした。
その頃の神田祭、二百六七十年後の今とは、まるっきり違ったものに相違ありませんが、人々の浮き立つ心と、引っ掻きまわすような賑わいには変りはありません。
行列が神田橋外を通る時一度、一と廻りして、本町通りを帰る時一度、
中から現われたのは、言うまでもなく薄禿の市五郎の顔。
「何、何をするんだ。冗談じゃねえ」
猛烈な剣突を食わせて、あわてて、揃いの袖で汗を拭きながら、
「何をしあがるんだ。畜生ッ」
市五郎は、口汚く罵ると、剥がれた面を引下げて冠り、前にもましてまた猛烈に踊り狂うのでした。
祭はこうして
その辺の床几、
その前に半円を描いた手古舞姿の娘達は、それを、面白いものというよりは、むしろ不気味なものに眺めて、そぐわない心持で、黙りこくっております。
「お勢さん、ちょっと来て貰おうか」
不意にどこからともなく姿を現わしたガラッ八は、手古舞姿のお勢の華奢な肩へ、むずと手を置きました。
「えッ」
お勢はサッと顔色を変えると、ヘタヘタと大地に崩折れてしまったのです。辰蔵の手拭が盗まれたこと、その手拭を盗んだ者は、お春殺しの下手人の疑いを受けていること、お勢の手拭には、辰蔵の手拭と同じたの字が書いてあったこと――などを、お勢は一夜のうちに誰からともなく聞き込んで、自分の上に黒雲のように
御用聞きのガラッ八に、肩へ手を掛けられて、ヘタヘタと崩折れたのも無理はありません。お勢は勝気で通った娘ですが、さすがに、もうこの上ふみ
潮吹は、またも猛烈に踊りました。自分の身体を掻きむしるような、滅茶滅茶な潮吹踊りが、お勢がガラッ八に引立てられて行く後ろ姿を、恐ろしい不安で眺める人達にとって、何というそぐわないものだったでしょう。
「お前さんは誰だえ、どこへ俺を
「黙って来るがいい」
面の中に
「お前さんは誰だい。今日は俺の邪魔ばかりしているようだが――」
「誰でもいい。ここはちょうどお春の死骸を投げ込んだところだ。ここでちょいとお前に話したいことがあるんだよ、まあ掛けるがいい」
お多福の面の男は、声の調子も変えずに、こう言って、崖の上の捨石の上に腰をおろしました。
「御免蒙るよ。俺は急ぐんだ、そんな人間に付き合っちゃいられない」
市五郎はそのまま、
「まあ待ちな、面白い話をして聞かせる」
お多福の男は自信あり気に腰も起しません。
「早く言ってしまえ」
「急ぐな、市五郎。お春が死んでいたのはここだ、お春の亡霊立ち合いの上で、話したいことがある」
「…………」
何という不気味な言葉でしょう。
「お春は聖堂裏で笠の赤い紐で
「俺はそんな事を聞きたくはない」
「酒屋の長吉が、お春をつれ出したというので疑われたが、あれはお春と近々一緒になるはずだったから、どう間違ってもお春を殺すはずはない」
「…………」
市五郎はモジモジしましたが、妙に引付けられて、振り切って逃げることも出来ません。青白い月が横半面を照して、こう語り進む男の、お多福の面が、妙に物凄く見えます。
「死体の側には手拭が落ちていた。下手人が落したんだ、それには何の印もなかった。間もなく畳屋の辰蔵が手拭をなくしたと名乗って出た。辰蔵はきかん気の男だが、
「…………」
「本当の下手人は、辰蔵の手拭を盗んだが、たの字が書いてあることに気が付いて、驚いてそこだけ割いて捨てた、手拭の端っこを五分や一寸割いても、誰にもわかる道理はない」
「…………」
「ところが、すぐ、手拭調べが始まった――本当の下手人はお勢に罪を
「…………」
市五郎は次第に引付けられて、もう立ち上がろうともしません。少し離れた捨石の上に腰をおろして、ワナワナと顫えてさえおります。
「お勢の手拭を調べた時、端っこに書いたたの字がまだ濡れていた。辰蔵は昼頃書いたと言うから夜中まで乾かずにいるはずはない。それに、
「嘘だ嘘だ、そんな
市五郎は不意に立ち上がると、サッと逃げ出そうとしましたが、それより早く身を起したお
「馬鹿ッ。もう
左手で面をかなぐり捨てると、言うまでもなく、銭形の平次、市五郎を膝の下に押えたまま、こう続けました。
「俺は昨夜のうちに縛ろうと思ったが、少し
「…………」
「ところが、お前は
「知らない知らない。俺にはそんな覚えはない。何を証拠にお春を殺したなんて、言い掛りを付けやがるんだ」
市五郎は猛然として突っ掛りましたが、平次は、静かに市五郎を引起して、
「そんな事を言ったって、免れようはない。市五郎、俺は無闇に人を縛らない事を、お前も知っているだろう」
「証拠を見せろ、証拠を」
市五郎はなおもたけり立って、平次の言葉を耳にも入れません。
「俺は、あの時手拭を二筋ずつ比べて行ったんだ、お前気が付かなかったろうが――、すると、お前の手拭は一寸ほど短かった。端っこを割いた証拠だ」
「親分、済まねえ、恐れ入った、――お春はたしかに、この市五郎が殺したに違えねえ」
「どうして殺した。そのわけを言え、それを知りたいばかりにお前をここへ伴れ出したのだ」
平次は縄もかけず、市五郎の水を浴びたように打ち
「親分、あのお春とお勢の
「何? お前の娘のお雪? あれは去年の秋、首を
「そうだ、親分、その通りだ。緋縮緬の
「わけを話せ、わけを」
「こうだ親分、聞いて下さい……」
市五郎は涙ながらに語りました。
お雪というのは市五郎の一人娘、お春にもお勢にも劣らず美しく育ったのが、お針友達で
去年の神田祭に、お春が言い出して、縮緬の揃いを拵えることを約束しましたが、親一人子一人の貧乏な荒物屋の娘のお雪が、父親の苦労を見兼ねて、明らさまにねだり兼ね、木綿の似寄りの柄を着てお祭へ出ると、待ち設けたお春とお勢から、さんざんに恥をかかされたのでした。
その
とうとう、辛抱がしきれなくなりましたが、細い荒物屋を営む親にも打ち明け兼ね、自分の小遣を貯めてようやく買った、たった一本の緋縮緬の扱帯を
「親分、これが怨まずにいられるでしょうか。その上お春は、酒屋の倅の長吉と好い仲になって、近いうちに祝言まですると聞いて、私は
「…………」
平次は黙ってうなずきました。
「親分、察して下さい。手古舞姿の美しいのを見ても、私は腹が立って腹が立って、――その上長吉と一緒に聖堂裏で逢引しているのに
大地に身を
「市五郎、お前の心持はよくわかる。さぞ口惜しかったろうが、お上の法は曲げられない。それに、お勢までも罪に落そうとした細工が悪かった」
「…………」
「俺からもお慈悲を願ってやる。が、今さら命を惜しんで
肩を叩いて市五郎を起すと、膝の土まで払ってやった平次は縄もかけずにそのまま引立てました。水のような月の光の中を――。