「親分、笑っちゃいけませんよ」
「嫌な野郎だな、俺の面を見てニヤニヤしながら、いきなり笑っちゃいけねえ――とはどういうわけだ」
銭形平次とガラッ八の八五郎は、しばらく御用の合間を、こう
「親分にお願いしてくれ――って言うんだが、化物退治じゃねえ」
「化物退治は
「金沢町の升屋なんで」
「両替屋の升屋かい」
「そうですよ。――升屋のお
「馬鹿だなア。岡っ引に化物退治を頼む奴があるものか。――そんな口なら、岩見重太郎の方へ持って行くがいい」
銭形平次は、こんな事を言うのです。
「その岩見重太郎てぇのは、どこの岡っ引で?」
「ハッハッハッハ、こいつは秀逸だ。岩見重太郎が驚くぜ。岡っ引と間違えられちゃ」
「だって、あっしはまだ、岩見重太郎なんて野郎に逢ったこともありませんよ」
「そうだろうとも、俺も逢ったような気はしねえ」
「へッ、呆れたもんだ」
どこまで行っても話は
「だがね八。升屋には一体どんな化物が出るんだ」
平次はようやく真面目になります。化物退治も暇なときには満更でないと思ったのでしょう。
「化物だか幽霊だか知りませんが、升屋では
「なるほど。升屋の主人の言いそうな事だ」
「――たぶん狸か狐の
「フーム」
「ところが、その化物は、おそろしく人見知りをして、
「
「主人の由兵衛はあの気象だから、お内儀が閉口して、店の方へ行って休もうと言っても、どうしても聴かねえ。――子供
「町人の恥は嬉しいな」
平次はまだ少し茶化しながら、それでも次第にこの話に引入れられる様子です。
「一体、この世の中に、化物や幽霊はあるものでしょうか、ないものでしょうか、親分」
「俺は化物や幽霊に付き合いはねえ。そんな事は横町の手習師匠にでも聞くがいい」
「でも、出るのは確かですよ。お内儀は何べんも見たって言うんだから」
「出るだろうよ。俺はそのエテ物に、足が二本あるか、四本あるか、知りたい」
「じゃ、升屋へ乗込みましょう。主人もお内儀も喜びますよ」
「
「そう言って来ましょう」
ガラッ八の八五郎は、そのまま飛出しました。この馬鹿馬鹿しい化物騒ぎが、平次が今まで経験したことのないほど、不気味な恐ろしい事件の発端になろうとは素より知る由もありません。
「折入って親分に御願いすることがあって、
由兵衛は苦笑します。年輩三十五六、デップリ脂の乗った、柔和な顔立ちも、穏やかなうちに品のある物言いも、神田の草分け、江戸両替番組世話役の貫禄に申分ありません。
「これは、升屋の旦那。化物が暴れ出しましたか」
平次は何か予期している様子です。
「それなんですよ、親分。私はもう怖くて怖くて、あんな家に住む気がしません」
お内儀のお蔦は慎みを忘れて、夫の後ろから口を添えました。三十そこそこでしょうが、昔
「始めから順序を立てておっしゃって下さい」
銭形平次はにこやかにそれを受けました。神経の
筋を進める前に、少しばかり、その頃の両替制度と、升屋の家格を説明するといいのですが、話が固くなりますから、これはほんの概略に止めておきます。
その頃、江戸の両替屋は六百軒と限られ、三十幾組に分れて、江戸の金融機関になっていたものでその組織は非常に複雑を極めます。大別すると、本両替と銭両替とあり、資力の大きく、家格の良いのは、大名や商人の金融、金銀為替などを扱い、上納金や検査や、金銀相場立て、新旧貨幣の交換引揚げ、単純な両替すなわち貨幣の交換まで、いろいろと仕事があったわけです。
升屋は番組両替の世話役で、代々金沢町に住み、三井や竹原、中井、村田の本両替屋に次ぐ家格。すなわち金銀を店名の包封のまま通用させる、江戸九軒の大両替屋の一軒だったのです。
先代は徳五郎と言いましたが、七年前、川崎へ行ったまま行方不明になり、持物は品川の海へ浮んでいたので、網船でも出して溺れたのだろう、ということになりました。
内儀のお蔦は一年
「この化物騒ぎは三月ばかり前からですが、どうにもこうにも、お話になりません。屋根の上へ石が降ったり、女どもが
「…………」
平次の真面目な顔を、少し極り悪そうに見ながら、由兵衛が続けました。
「
「化物の殴り込みというわけですね」
平次は苦笑しました。
「何しろ金蔵は、六十三という歳ですから、気だけは勝っていても、化物と組討ちをする柄じゃございません。縁側で眼を廻しているのを下女が見つけて、一応の手当てはしましたが、何を訊いても夢のようだと申します」
「雨戸は?」
「一枚外れておりました」
「化物もさすがに節穴からは通れなかったでしょう」
と平次。
「馬鹿馬鹿しいと思いながらも、これじゃやり切れません。女房の臆病に付き合うようですが、親分の智恵でも拝借したらと思いましてね」
由兵衛は仕様ことなしに笑っております。
「私が行って見るのはワケもありませんが、岡っ引の姿を見ると、鳥が逃げてしまいます。明神様には済まないが、朝詣りということにして、ここへそっと寄って下すったのは、いいことでした。――ところで、お店の奉公人は、
「金蔵を始め、番頭手代小僧まで、十七人、それに下女が三人、飯炊きが一人」
「多勢ですね。その中で、三月か四月前に来たのはありませんか、化物の悪戯の始まる頃――」
「私もその辺に気がつきましたが、
昔の奉公人は三月が出代り、それまであと十日とありません。
「それじゃ、今晩は奉公人のうちで一番気の強いのを、一人だけ離室へ寝かしてみて下さい。二朱か一分の褒美を出したら、進んで離室の番をしようと言うものがあるでしょう」
「また怪我をされると困りますが――」
「大丈夫ですよ、私も後でそっと覗きますから。――もっともこれは言っちゃいけません」
その晩平次は、お勝手口からそっと升屋の母家に忍び込みました。案内してくれたのは主人の由兵衛。
「離室へ寝ているのは?」
平次は廊下に立って
「治助――という男で」
「強いんですね」
「
「お店に何年ぐらい居るでしょう」
「二年ぐらいになるでしょうか。二十七八の、よく働く男ですよ」
主人の由兵衛はこう言いながら、離室の方へ案内します。真っ暗な廊下を足
「この三月の出代りに、その男も出されるんでしょう」
「その通りですよ親分。よく働くには働きますが、身元が
「化物が忙しくなったわけですね」
「ヘエ――」
主人は判らないながら、平次へ
「おや?」
由兵衛は立止りました。雨戸が一枚開いて、縁側には梅の
まだ月は出ませんが、庭には、揺らぐ
「シーッ」
平次は由兵衛の
「治助は床の中に居ない様子です」
「…………」
平次はそれに応えず、黙って外を指しました。
「あッ」
離室の裏、少し荒れた窓寄りの
「黙って」
平次は由兵衛の驚きを押えるのが精一杯でした。
「小さい方が治助です」
「一人は相棒でしょう」
「何を掘る積りでしょう?」
「シッ」
窓の外の二人は掘る手を休めて、腰を伸しました。土の上へ、横に置いた泥棒
治助というのは、なるほど三十には間があるでしょう。少し
「あとはもう楽だ。一尺も掘ると、その下は土蔵を壊した時の、壁土や瓦や貫や
治助の声でした。
「…………」
それを聴いた、由兵衛の顔は見物でした。
「何を呆れていなさるんで――、旦那」
平次はこう訊かずにはいられません。
「井戸を埋めたのは六七年前のことですよ。それを新参者の治助が知っているのはおかしいじゃありませんか」
由兵衛の言うのはもっともです。離室の窓の下、何の変化もない踏み固めた場所から、昔の井戸を捜し出すのは、いずれ仔細のあることでしょう。
「縛ってしまいましょうか」
平次はこれ以上井戸掘を見ているのが馬鹿馬鹿しいような気がしました。飛出して縛りあげた上、二人の口を開かせ、それから井戸を掘ってみても遅くはありません。
「もう少し見ていましょう。――井戸はどうせ一間ともありません。二人で掘れば、二た
「二た刻?」
「何が出て来るか、楽しみじゃありませんか」
側に平次が居るせいもあるでしょう。由兵衛はすっかり落着いて、井戸の中から、金の茶釜でも出て来るのを見ていたい様子です。
治助が言った通り、一尺ほどの下は木舞やガラクタが主で、何のわけもなく井戸は掘下げられます。
「早くしようぜ。
「心得てるよ。夜明けまでに掘り出して、裏木戸からズラかりゃいいだろう」
二人はかねて用意した道具で、骨身を惜しまず働きました。
由兵衛と平次は、息を殺してその作業を見守りました。
「変なものがあるぜ、兄哥、灯を見せてくれないか」
井戸の中で、ガラクタを取りのけていた青髯が言うと、
「それよ――」
上から治助が、龕灯の灯先を向けてやりました。
「わッ」
「た、大変ッ」
龕灯を差し向けた治助も、井戸の中の青髯も、一ぺんに声をあげます。何様、容易ならぬ物を見たのでしょう。
「兄哥、一人で逃げちゃ殺生だ。――待ってくれ」
「逃げるものか、――そんなものは片付けて、その下を見るがいい」
「俺はもう御免だ。代るから、今度は兄哥が入って見てくれ」
青髯はとうとう、たまり兼ねて井戸から
「今さらそんな気の弱い事を言っちゃ困るじゃないか。大事な品は多分その下にあるんだろう。ノコノコ這い出して来やがると、無事じゃおかねえよ」
治助の手にはキラリと何やら光ります。多分脅かしの
「兄哥、勘弁してくんな。俺はもうイヤだ。――大きな声を出すぜ」
「馬鹿野郎。――仕様のねえ人足だ。今引上げてやるから、待っていろ」
そう言いながら治助は、闇の中にそっと匕首を構えます。井戸の中から上がって来る相棒を一と突きにして、その臆病な口を封じた上、自分で中の秘密を捜る積りでしょう。
がしかし、こうなると平次も放っておけません。由兵衛と顔を見合せると、
「御用ッ」
バッと飛出し様、治助の利腕を殴りました。
「あッ、何をしやがるッ」
匕首を叩き落されて、拾いにかかると、加勢に飛込んだ主人の由兵衛、
「神妙にせい」
平次の馴れた手は、早くも治助を取って押えましたが、同時に、井戸から飛出した青髯、由兵衛をドンと一と突き、疾風の如く裏木戸から飛出すのを、
「どっこい、待っていたぞ」
闇から生れたようなガラッ八の八五郎、一流の
「何だ何だ」
「また化物が暴れ出したのか」
「それ行ってみろ」
母屋から五六人、心張棒、天秤棒から、
「おや、旦那」
「平次親分も」
そこに展開された、不思議な事件に、飛出して来た奉公人達も、しばらくは呆気に取られるばかり。
「大急ぎで灯を持って来てくれ」
主人の由兵衛はようやく我に還ると、早速差図役に廻ります。大立廻りの時龕灯は消えて、薄明るい暁の光では、井戸の中までは見えなかったのです。
「ヘエ――」
持って来たのは
凄まじい好奇心が、口火を転じた煙硝のように燃え上がります。
「あッ」
驚きの声が、多勢の口を
「わッ」
番頭達も、主人の由兵衛も、思わず弾き飛ばされたように飛退きました。
「誰か手を貸して貰いたいが」
さすがに平次は一番落着いておりました。一とわたり驚きの納まるのを見ると、こう言いながら、集まった人数の顔を読みます。
「…………」
誰も返事をする者はありません。
「八、どうだ」
「やりますよ」
ガラッ八はさすがにいやとは言いません。
「
平次の言葉に勢いを得て、番頭達はようやく動き始めます。
井戸から引上げた死体は、想像以上に不気味なものでした。
肉はほとんど落ちて、乾いた壁土や木舞の中に埋まっていただけに、申分のない
「かなり大きな男には違いないが――さて、誰だろう」
平次は
「心当りがあったら言う方がいい。こんなにされちゃ誰だって浮ばれまい。それ、真っ黒な眼が皆んなを見ているじゃないか」
平次は続けて言いました。
「銭形の親分さん、――この死骸が誰か、私にはよく解ります」
身体の痛いのを我慢して、この時にようやく這い出して来た老番頭の金蔵です。
「番頭さんか、お前さんは
「もしや――どころじゃございません。これは七年前に行方知れずになられた、先代の大旦那に相違ありません」
老番頭金蔵は言い切りました。
「間違いはあるまいな。番頭さん」
「それはもう、先代の旦那様のお
「証拠はあるだろうね」
「第一、この胸に刺した脇差は、行方知れずになった時差していなすった品でございます。それから、着物に凝った方で、――この
「…………」
「それに、この井戸を埋めたのは土蔵を建て直した年で、ちょうど七年前、先代の旦那が行方知れずになった年でございます。――浅い井戸で水が悪くて使わずいたのへ、職人が邪魔な物を
金蔵の思い出はそれからそれと
「先代の旦那が行方知れずになった時、この井戸は見なかったのかい」
と平次。
「一応は覗きましたが、半分埋まった井戸の底を掘る気にはなりませんでした。何しろ、品川の海から、旦那の脇差の
「品川の海から身についた品物が上がったのに、七年経ってから、屋敷内の井戸から死骸が出たのは
「ヘエ――」
平次の鋭い疑問も、老番頭には何の意味もない言葉でした。
「旦那。どんなものでしょう」
平次はさり気ない顔で由兵衛を見上げました。
「私には何にも解りません」
先刻まで、井戸を掘るのを、あんなに面白がって眺めていた由兵衛の顔は、鉛のように真っ青です。
「先代が行方知れずになった頃、旦那はどこに居ました」
「ここに居ましたよ」
平次はそれっきり口を
川崎へ行ったきり帰らずに、品川の海で死んだことになっていればこそ、その日一日店から動かない由兵衛には、何の疑いも掛らなかったのですが、先代徳五郎が、金沢町の自分の家の、庭で殺されたとなると、話がまるっきり違います。
由兵衛が青くなったのも、とみには口も利けないのも、全く無理のないことでした。
「親分、何だって由兵衛を縛らなかったんで?」
治助と青髯を番所へ引いて行く途中、たまりかねて八五郎は訊きました。
「七年前のことだ。あれだけの証拠じゃ縛れない。――それに、こいつらが井戸を掘っている時、由兵衛は平気な顔をしていたよ。――いや、平気どころじゃない、面白がって眺めていたくらいだ。井戸の中に自分の殺した死骸があると知っていちゃ、どんなに大胆な人間でも、あんな
「なるほどね」
「それに、この二人を縛る時は手を貸して、俺の危ういところを助けたり、灯を番頭の手から取って井戸を覗いたり、――どうしても下手人と思えない事をしている。あの井戸が窓の下にあるのに、離室に平気で五六年も寝起きをしているのもおかしいじゃないか」
「ヘエ――。そう言ったものかな」
ガラッ八はまだ腑に落ちない様子ですが、平次にそう言われると、強いて
「安心するがいい。升屋は万両分限で、神田一番の両替屋だ。身に覚えがあってもなくても、由兵衛は逃げも隠れもすまい。――その上、あれだけの女房があっちゃ」
「好い女ですね、親分。元は芸者だと言うが」
「左手の小指が半分から先ないだろう。――柳橋から出ている頃、
「へッ、へッ、お安くねえ
ガラッ八はペロリと舌を出しました。
番所へ行くと、事件があまり変っているのと、升屋の家格が
「平次、大変な事があったそうだな」
「お早うございます。――全く大変なことで、あっしも途方に暮れました。死体が見付かったんですから、下手人を捜さなきゃなりませんが、何分七年も前の事じゃ――」
「まア、諦めたもんじゃあるまい。その井戸掘をやった、二人を調べてみよう」
「それより外に工夫もございません」
「当ってみるがいい」
笹野新三郎は、
「手前達は、何だってあんな仏様を掘り出したんだ。お上には御慈悲がある、手数を掛けずに言ってしまったらどうだ」
八五郎に縄尻を
「金があると思いましたよ。――何しろ小判で三千両と言うから――」
青髯の男は、思いのほか甘口で、ペラペラとやります。
「黙っていろ」
治助はジロリと凄い三白眼を見せました。
「兄哥、こうなっちゃ言った方がいいぜ。三月越しお化けの真似をした上、ちょいと井戸掘をやらかした外に、大した悪事もしなかったじゃないか」
青髯は他愛もありません。
「言ってよきゃ、俺が言うよ。――」
「それは良い料見だ。なア治助、島帰りはそれぐらいの度胸がなきゃア、悪党仲間へ顔向けがなるめえ」
「へッへッ、よく御存じで、銭形の親分」
「額の入墨を、刃物で切り取ってあるじゃないか。子供の時庭で転んで、切石に額を
「なるほどね。親分は見透しだ。みんな器用にブチまけましょう」
治助はすっかり諦めた様子で、ボツボツ語り始めました。
「
「何? お小姓の治郎助? それが手代に化けて、二年も我慢したのか」
平次が驚いたのも無理はありません。お小姓の治郎助というのは、武家の出だとも、役者崩れだとも言われる、名題の悪党で、海道筋を縄張に、宿から宿と荒し廻る忍びの名人だったのです。
「だらしのねえ恰好で、お目通りをして、面目次第もありません。――お小姓の治郎助が、井戸掘の真似をしたんだから、笑ってやって下さい。実は親分」
「…………」
お小姓の治郎助の白状は怪奇を極めました。
それから一年ばかり経って、与市は、傷寒で死にましたが、臨終という時治郎助を枕辺に呼んで、
――江戸へ行ったら、金沢町の升屋へ入り込んで、離室の窓の前にある、古井戸を掘ってみるがいい。一間ばかり掘ると小判で三千両の金が出て来るはずだ。
――それは新鋳の通用金と、旧鋳の金を換える時、そっと用意した贋金と摺り換え、真物の小判を三千両も貯めて、井戸の底に匿 したのだ。俺はもう助かる見込みはない、これを言わないと心残りがして、冥土 の障りになる。形見にやるから、掘出して遣ってくれ――。
と、こう言ったのです。――それは新鋳の通用金と、旧鋳の金を換える時、そっと用意した贋金と摺り換え、真物の小判を三千両も貯めて、井戸の底に
「島から許されて帰ると、大金を掛けて
少し不貞腐れますが、この言葉に嘘があろうとも思われません。笹野新三郎と銭形の平次は、何とはなしに顔を見合せました。
「平次、井戸の中には、確かに金はなかったろうな」
と笹野新三郎。
「それはもう間違いはございません」
「すると、島で死んだ与市とかいう番頭が、治郎助を使って、井戸を掘らせたのは?」
「死体を掘り出させるためでございましょう」
「何のためだ」
「
平次の明察は次第に
「そんな手数な事をするより、――井戸の中に死体がある。下手人は誰――と言ってしまった方がよいではないか」
「死体があると言っちゃ、治郎助が骨を折って掘り出してくれません。――それに、島でそんな事を言ったところで、贋金使いの兇状持の言うのを誰が真に受けましょう」
「なるほど、そんな事もあるだろう。――与市が怨んでいる者というと――」
「与市は金蔵に次いで店中の幅利きで、内々升屋の身上を
「すると?」
疑いはまたもや、当主由兵衛の方へ、北を指す磁石のように、極めて自然に、宿命的に向いて行きます。
「だから親分、あの時由兵衛を縛ったら――て言ったじゃありませんか」
八五郎は
「手前は黙っていろ」
平次はいつもに似気なく不機嫌です。
その日の夕方、ガラッ八は鉄砲玉のように飛んで来ました。
「親分、大変だ」
「何が大変なんだ。今度は井戸から幽霊でも出たのかい」
平次は瞑想から呼び覚されて、この日本一のあわて者を迎えました。
「
「それがどうした」
「驚いちゃいけませんよ。親分、お内儀のお蔦を縛って行きましたぜ」
「何だと、馬鹿野郎」
平次はガラッ八を叱り飛ばしているのでした。
「お蔦を縛ったのは、あっしじゃありませんぜ。三輪の万七とお
「あの女が元の亭主を殺したというのか」
「何だか知らねえが、骸骨を入棺しようとすると、されこうべの口から、噛み切った小指の骨がボロリと落ちたんで――」
「あッ」
「驚くでしょう親分。――お内儀の左の手には小指がねえ、――ちょうど親分のアラ捜しにやって来た万七親分は、それを聴くとすぐお内儀に縄を打った」
「よしッ、そんな馬鹿な事があるものか。もう一度行こう」
平次はガラッ八を追っ立てるように、升屋へ飛んで行きました。
升屋の中は恐ろしい事件の続発に
「死骸の口から出た小指というのはここにあるだろうね」
平次は挨拶も忘れて、主人の由兵衛に訊ねました。
「これですよ、親分」
指さしたのは、経机の上の小さい箱に入れた紙包、――心
「何だ。こりゃ女の小指じゃねえ」
平次は少し拍子抜けがした様子です。
「私もそう思いました。それに、蔦が指を切ったのは、柳橋に居る頃で、もう十年も前のことです。三輪の親分にそう言っても、耳にも入れてくれません」
由兵衛は平次の言葉に勢いを得て、急にこんな事を言うのです。
「心配なさる事はありませんよ。お内儀さんはすぐ返されるでしょう。――が、他にこの家に、指のない人はありませんか」
平次はその辺に寄って来る番頭達を眺めました。
「私はこの通りですが――」
由兵衛は十本満足に揃った、自分の指を見せながら続けました。
「ね、金蔵どん、――三宅島へ流された与市は?」
「左様でございます。私もそれを申上げようと思っておりました。与市は先代の旦那様が行方知れずになった頃、

「そんな事があったね」
と由兵衛。
「どの指でしょう?」
「右手の薬指でしたよ。――書き物に不自由はないが、箸を持つには困るとか言っていましたから」
「与市は左利きでしたか」
「そんなことはありませんよ」
金蔵の記憶はたしかでした。
「念のため、もう一度治郎助と竹に逢って、与市の様子を聴いて来ましょう。右手の薬指というと少し話が変って来る――旦那は番頭さん達と、御通夜をして待っていて下さい。帰りにはお内儀さんも一緒かもわかりませんから」
平次は八丁堀へ飛びました。由兵徳と金蔵だけでなく、島で与市に逢った、治郎助からも指の事を確かめておきたかったのです。
「親分。あの指が与市のじゃ、無駄骨折じゃありませんか」
「…………」
「下手人が島で死んで、からかい面に死骸を掘らせたんでしょう」
ガラッ八は平次の後ろから、こんな事を言います。
「黙っていろ。筋はこれから面白くなるんだ」
「ヘエ――」
平次が八丁堀から升屋へ帰ったのは、その晩の
お蔦は手続が遅れて、今晩連れて来るわけには行かなかったそうですが、――
「その代り、素晴らしい事を聞込みましたよ」
平次はこう言いながら、少し有頂天に手を揉んでおります。
「どんな話です。親分」
と由兵衛。
「治郎助が言うんです――与市は苦しい息の下から、――井戸の中には升屋が引っくり返るような物があるが、あんまり
「…………」
「升屋が引っくり返るような品というのは、この棺に納めた先代御主人の骨に決っていますが、――人一人の命に関わる大事の品、あん畜生に思い知らせる証拠の品――というのは、一体何でしょう」
「…………」
「多分、下手人の落した、煙草入とか紙入のようなものでしょう。どうせ夜じゃ判るまいから、明日の朝捜すことにして、それまで私は、家へ帰って一と寝入りして来ます。左様なら、お休みなさいまし」
平次は一人言のように言って、升屋から
それから一刻ばかり後。
升屋の店中はすっかり寝鎮まって、先代主人の骸骨を納めた、離室の一室だけが明々と灯っておりました。
平次が帰ると間もなく、雇人達はみんな下がって、残ったのは元気を恢復した老番頭の金蔵一人、これも薄寒いのと淋しいので、
フト黒い影が、離室の雨戸を離れると、掘荒した井戸の方へ、静かに近づいているのです。
ときどき足下の大地を丸く照すのは、昨夜治郎助達が持っていた、泥棒龕灯でしょう。
黒い影がようやく穴の口に近づくと、要心深く
「あッ」
黒い影はのけ反らんばかりに驚きました。がしばらくすると、気を取直した様子で、もう一度井戸の底を覗いたのです。
中には、昨夜見た通り、――濡れ腐った着物に包まれた、凄まじい骸骨が一体、寒々と横たわっているではありませんか。
「…………」
黒い影は全身を
「由兵衛」
どこからともなく、か細い不気味な声。
「馬鹿な」
黒い影は超人的な勇気を振り起して、もう一度井戸の底を覗きました。こうして自分の妄想を取払おうとしたのでしょう。が、底に横たわった骸骨はそのまま元の姿で、何の変りもなく、――いや、何の変りもなければ、黒い影は勇気と理性を取戻す道もあったでしょうが、この時骸骨は、黄灰色にされた手を挙げて、ユラユラと井戸の上から覗く黒い影を招いたのです。
「由兵衛――来いよ」
黒い影は、その声を聞くと見事に引っくり返りました。
「わ――ッ、勘弁してくれ。――私が悪かった」
這い廻る黒い影の上へ、
「御用ッ」
いつの間にやら平次の手はかけられていたのです。
「親分、もう上がってもようがすかい」
井戸の中からはガラッ八の八五郎。骸骨の紙型を貼り付けた黒い
「八、御苦労だったな。お蔭で下手人が捕まったよ」
「いや驚いたの驚かねえの」
ガラッ八はペッペッと唾を吐きながら、身体に巻き付けた、異様な装束を脱いでおります。
*
下手人は言うまでもなく由兵衛。
「指を噛み切られたのは与市なのに、下手人が外にあったのはどういうわけでしょう」
翌る朝、疲れが少し脱けると、ガラッ八はもう絵解きをせがみます。
「先代の徳五郎を殺したのは、由兵衛と与市と相談の上だ。由兵衛は升屋の身代を継ぎ、与市はお蔦を手に入れる積りだったが、由兵衛に両方とも取られた上、贋金の一件がばれて島へ送られた。その時与市が主人殺しの事を言わなかったのは、贋金の方は確かな証拠がなかったそうだから、島で神妙に勤めさえすれば、許されて江戸へ帰る見込みもあるが、主殺しは間違いもなく
「なるほどね」
「で、死ぬ時、治郎助を騙したのは、由兵衛への嫌がらせで、うまく行けば叔父分殺しという重罪を露見さしてやろうと企んだのだ」
「…………」
「七年前のその晩、主人の徳五郎が川崎から夜になって帰って来たのを、庭で
「…………」
ガラッ八は唸ります。
「口を塞いだのは与市だが、刺した人間は
平次は憂鬱そうでした。
「今晩まで由兵衛が下手人と判らなかったんですか、親分ほどの人にも」
「由兵衛はこの古井戸に自分が殺した徳五郎の死体があるとは知らなかった。――多分、金を貰って死体を海へ捨てるように頼まれた与市が、不精を極めて、徳五郎の身に着けた品だけ海に流し、死骸は由兵衛にも知らさずに、古井戸へ
「…………」
「由兵衛があんまり平気なんで、少しも疑う気は起らなかったよ。――知らぬが仏さ。もしあの古井戸に自分の殺した死骸があると知ったら、六年の間平気で離室に住んだり、治郎助が井戸を掘るのを面白がって見たりはしなかったろう」
「なるほどね」
「巧んだ事はどんなに上手に隠しても判るが、知らずに暢気に振舞う人間は疑いようがない。――何しろ嫌な事だったよ」
平次は手柄顔もせずに、つくづくこう言うのでした。