銭形平次が関係した捕物の
「ヘエー、御苦労様で――」
出迎えた番頭の
「銭形の親分さんで、――とんだお騒がせをいたします」
そう言う主人源吉の顔にも生きた色がありません。
「皆んな蒼い顔をしているようだが、どうした事だい」
平次は単刀直入に訊きました。
「皆んなやられましたよ、親分さん、運悪く死んだのは
主人源吉の頬のあたりに、皮肉な苦笑が
「フーム、一家皆殺しをやりかけた奴があると言うのだな」
「ヘエ――」
主人と番頭は顔を見合せました。
「そいつは容易ならぬ事だ、詳しく聞かして貰おうか」
平次も事の重大さに、思わず四方を見廻しました。気のせいか、家中のものが皆んなソワソワして、厄病神の宿のように、どの顔もどの顔も真っ蒼です。
「今朝の味噌汁が悪うございました。飯にも
「味噌汁の中毒というのは聞いたことがないな、――まア、その先を」
平次は不審の眉を
「朝飯が済んで間もなく、皆んな苦しみ出しました。――さんざん吐くのでございます。ちょうど、
「女ども?」
「死んだ家内と下女のお
「で?」
平次はその先を促します。
「町内の
主人の源吉はさすがに眼を落します。
「それは気の毒な」
「昼頃一度元気になって、この分なら大丈夫と思っていただけに
この春祝言したばかりの、恋女房お雪に死なれて、丸屋の源吉は少し取りのぼせておりました。
「ともかく、
「ヘエ、どうぞ」
源吉は不承不承に案内してくれます。恋女房のもがき
大地主といっても、しもたや暮しで、そんなに大きな構えではありません。元鳥越町の
主人の源吉は三十そこそこ、歌舞伎役者にもないといわれた男振りと、蔵前の
その
奥の一と間には、嫁のお雪の死骸が、まだ
三十四五の女が一人、机を持って来たり、線香を立てたり、時々はそっと涙を
「あれは?」
眼顔で訊ねる平次に、
「下女のお越ですよ、十七年もここに奉公しておりますが」
主人の源吉は弁護がましくこう言います。
「…………」
振り返って目礼したお越の顔を見て、平次もなるほどと思いました。足が少し悪い上に、半面のあばたで、眼鼻立ちはそんなに悪くないのですが、これでは嫁の口も
平次は仏様を片手拝みに、そっと
「フーム」
徳川時代の犯罪には、石見銀山は付きものでした。
「石見銀山があるだろうな」
平次は顔を挙げて、主人源吉の表情を追いました。
「へー、それがその、お越、お前は知っているだろうな」
照れかくしらしく、下女の顔を見やります。
「ハイ、あの、あんまり鼠がひどいんで、お
お越は物を隠そうとする様子もありません。それほど無技巧に、忠実に使い馴らされたのでしょう。
「お松さんというのは?」
平次は言葉を挟みました。
「私の妹でございます。一度縁付いて、不縁になって帰って来たっきり、この七年間、世帯の切盛りをしてくれますが――」
主人は何となく妹の方へ疑いの行くのを好まない様子です。
「どこへその石見銀山を置いたんだ」
平次の問は委細構わずお越に突っ込んで行きました。
「人が触ったり、間違って食物に入ったりしては悪いと思って、お勝手の戸棚の上へ置きましたが」
「持って来て見せてくれ」
「ハイ」
お越は立ち去りました。その少し足を引きずる後ろ姿を見送って、
「あの女は信用していいだろうな、御主人」
平次は問いました。
「十七年の間に一つも後ろ暗いことのなかった女です。――今時、あんな奉公人はございません」
「そうらしいな」
そう言いながらうなずく平次の眼には、満足らしい輝きがありました。
しばらくは言葉が途切れて、お勝手の方の人声が、ザワザワと聞えます。妙に押し付けられたような、不安と恐怖を
「どうしましょう、石見銀山は見えませんよ、旦那様」
お越は飛んで来ました。
「どうしたんだ、誰が
源吉もひどくあわてました。
「私が隠しておいた戸棚の上にはございません」
「お前が隠し場所を間違えるような事はあるまいな」
「いえ、そんな事はありません、他の物と違って」
「その隠し場所を知ってるのは、お前だけか。他に、誰か知っている者はないか」
平次は口を
「…………」
お越はギョッとした様子で振り返りましたが、すぐ激しく首を振って、
「誰も、誰も知ってるはずはございません。私が隠したんですから」
「疑いはお前にかかるが、それでも構わないのだな」
「構いません、え、少しも構いませんとも」
お越の声は激情に
「味噌汁を食わない者は何ともなかったというが、誰が一体味噌汁を食わなかったんだ」
平次の問は核心に触れます。
「それは――あの」
主人の源吉は思わず言葉を滑らして、ギョッとした様子で口を
「旦那様」
お越は、飛びかかって、主人の口を
「飯や香の物には
「…………」
「この家の中に、石見銀山の中毒にかからなかったのが一人あるはずだ、そいつは誰だい」
「…………」
ワナワナと動く主人源吉の唇を、お越は必死の目くばせで封じている様子です。
「八、店かお勝手へ行って、家中の者で、毒に
平次は事面倒と見て、八五郎を動員しかけたのでした。
「ヘエ」
立上がる八五郎、――が、その身体が部屋の外へ出るのを、外から押し戻すように、
「申しましょう、味噌汁の毒に中らなかったのは、この私でございましたよ」
そう言って入って来たのは、二十七八の年増、まだ美しくも若くもあるのを、
「お前は」
驚き騒ぐ源吉の前へ、女は静かな顔を挙げました。“男まさり”という
「構いませんよ、兄さん、本当の事をはっきり言った方が、物事が早く片付くでしょう、ね、親分さん」
女は半分平次へかけて言って、わずかに頬を
「お前は?」
「主人の妹――松と申しますよ。今朝は御近所の方と、観音様へ朝詣りをする約束で、その方が誘って下すった時は、
お松はそんな事を言って、ツケツケと平次を見上げるのでした。冷たい聡明な眼差です。
「そんな事を言って、お前」
驚く源吉、
「――その上、お越が石見銀山を隠しておいた場所も、この私だけは知ってましたよ」
「まア、お松さん」
お越は飛付きました。が、さすがに口を
「放っておいておくれ、――私は物を隠してビクビクしていることなんか大嫌いなんだから」
お松はしかし、そんな
「私も申し上げて
番頭の総助は後ろからそっと主人の顔をのぞきました。
「何だい、何か知っていることでもあるのかい」
平次がそれを横合から引取ります。
「他じゃございませんが――石見銀山を戸棚の上に隠してあったことなら、この私も存じております、ヘエー」
「何だ、そんな事か」
主人の源吉、事もなげですが、お松とお越の顔には何やら疑惑の色が浮かびます。
「これから、一人一人に
「ハイ」
平次は先に立ってお勝手に入って行きました。続く、お越、ガラッ八。
「さア、少しお
「ハイ」
平次は二本
「お勝手はお前一人か」
「もう一人お富さんという御飯炊きがおりますが、父親が病気で三日ばかり前から
「一人では骨が折れるだろうな」
「いえ」
お越は、いつもの習慣で、巧みにきれいな方の半面を見せて、慎ましく板の間に坐っております。後ろに突っ立ったのはガラッ八、長い影が、ユラユラと戸棚に揺れるのも、少しばかり怪奇な
「お前の生れは?」
「房州でございます」
「親兄弟はあるのか」
「兄夫婦が百姓をしておりますが――」
あまり事件と縁のない訊問に、お越は不審の眉を挙げました。
「この家の人達はどうだ、目立って仲の悪いのはないか」
「いえ、――皆んな良い方ばかりで」
「亡くなった新造は、主人の望みで、大層な支度金を出して貰ったという話だったが――」
それは神田から
「でも良い方でございました。――気前の良い」
お越は給金でも増してもらった様子です。
「
「そんなに悪くはございません、――お松さんはあの通りで、世間の
「もう一つ訊くが、――番頭さんは、お松さんをどう思っているのだ、
「私には何にもわかりませんが――」
「よし、よし。次はお松さんをここへ呼んでくれ、――それから、石見銀山の鼠取りを隠しておいたのは、この戸棚の上だな」
平次は、ガラッ八の後ろの古い戸棚を指さしました。
「え、その小さいお重の中へ入れておいたのです」
「よし、それでいい」
平次はお越の後ろ姿が廊下に消えると、踏台を戸棚の前に持って行き、
「八、これを見ておけ、――お重の中は一面の埃だ、――お越がこの中へ石見銀山を隠したと言うのが嘘か、でなきゃ、
平次がそう言って踏台から下りると、主人の妹のお松が取り澄まして入って来るのと一緒でした。
「まだ御用があるんですか、親分」
何か平らかでないものがあるのか、お松は突っ立ったままこう先手を打ちました。
「お松さん、お前さんは石見銀山が戸棚の上にあるのを知ってると言ったが、ありゃ、お前さんの眼で見たのか、それとも――」
「お越から聞きましたよ、鼠取りを買ってやると、――戸棚の上の重箱の中へ入れておきますよ――と言ったんで、そこにあると思っていたんです」
「いつごろだ、それは?」
「五六日前ですよ」
「すると、石見銀山を見たわけじゃないのだね」
「ええ――でもお越なんか疑っちゃいけませんよ。お奉行所へそう申上げれば、あれは
お松は少し躍起となります。
「お前は、嫁のお雪と仲がよくなかったそうだな」
平次はズバリと言い切りました。
「え、――あんな女はありゃしません。下品で、
平次も少し呆れました。まだ下手人の見当もつかないのに、この女は殺された
「悪口はそれくらいでよかろう、もう生きちゃいないのだから。――ところで、番頭の総助はどうだ」
「ありゃ馬鹿ですよ、私をどうかするつもりでいるんでしょう、――あんな
「少し手きびしいな」
平次は苦笑いに紛らせました。
次は主人の弟
「当り前ですよ。こんな事になるのは、半年も前から判り切っていましたよ、兄貴のあの癖が直らなきゃ――」
吉三郎はそう言ってプツリと口を
「癖?」
平次は何やら思い当った様子です。
「兄貴と
「現に?」
吉三郎の言葉はまたプツリと切れます。
「言ってしまいましょう。隠しておいたって、誰かから親分の耳に入るに決ってまさア」
「…………」
「お向うのお
「フーム」
平次も薄々それは聞いておりました。飾り屋のお雪が丸屋の嫁になるのが
「こんな事になるのも、もともと兄貴が浮気っぽいからでさ。ね、親分、三十になるまで、独り身が面白くてたまらない兄貴だったんですもの。家の者なんか捜すより、外へ出て、町内の娘や後家をあさってごらんなさい。嫂のお雪さんに怨みのあるのが、ざっと私が知っているだけでも十人はありますぜ」
吉三郎の言葉は露骨な
「それで、お光が怪しいというのか」
平次は独り言のように
「怪しいのはお光ばかりじゃありません。女房を貰って三月経たない兄貴と変な噂を立てた、師匠のお
「師匠のお角?」
「猿屋町の小唄の師匠ですよ、お光の粉屋から一軒置いて隣の――」
この男の呪いを聞いているのは、平次にも少し
「ところで、中毒を起したのは朝の味噌汁だ、――家の外の者が味噌汁へ細工をすることが出来るだろうか」
平次はこの男の呪いの口を
「下女はお越一人きりでさ。お勝手元にばかり居たわけじゃないから、
「
「逢わなかったら? どうです、親分」
この男の悪魔的な空想は、どこまで発展するかわかりません。
「ところが、この戸棚の上の石見銀山が無くなっているんだ。外から女が入って、踏台をして石見銀山を取って、それを鍋へ投り込んで逃げ出したというのか」
平次は弁護側に廻ったような形勢です。
「なアに、お越が置き場所を忘れたんですよ。大体あの女は忙しすぎるんです、――曲者は別に石見銀山を外から持って来たとしたら、
「…………」
平次はその上相手にはなりませんでした。
「いやな野郎じゃありませんか、親分」
ガラッ八は後ろから平次をのぞきました。
「誰が?」
「あの弟野郎ですよ、――
「嫂だけじゃないよ、毒は家中の者が呑まされたんだ」
「…………」
ガラッ八は黙ってしまいました。これ以上は考えたところでガラッ八には判りそうもありません。
「親分さん」
不意に、お勝手の障子が開きました。
「何だ、お越じゃないか、用事でもあるのか」
平次は踏台にかけたまま、グルリと向き直ります。
「一つだけ申し忘れましたが」
「何だい」
「御新造さんが昼頃になって、少し気分がよくなったが、
「フム」
「何しろ毒に
「お前は呑まなかったのか」
「湯呑が一つしかなかったので、私はもう一度お勝手へ行って、
「…………」
「七転八倒の苦しみでございました。びっくりして大声を出すと、たった一人御無事なお松さんと、旦那様のお手当てをしていなすった、本道の全龍さんが飛んで来て介抱して下さいました」
「お松さんと全龍さんは一緒に駆け付けたのか」
「いえ、お松さんの方が先で――」
「それから」
お越の話に、何やら重大さが匂うのでしょう、銭形平次は少し夢中になって、踏台から乗出しました。
「それっきりでございます」
お越の顔は――今朝の中毒のせいか、まだ真っ蒼です。
「まだ何かあるだろう、――みんな言ってくれ、大事なことだ」
「いえ、もう何にもございません」
「その薬缶はどこへやった、奥にもここにも見えないようだが――」
平次は
「その後で旦那様が、その水を呑もうとなすったので、私がお止めしました」
「それはよかった」
「また誰か呑んでも悪いと思って、みんな流しへ捨てて薬缶はよく洗って戸棚に仕舞い込んでしまいました」
「何という馬鹿なことするのだ、仕様がないなア」
平次はそう言いながら、水下駄を突っかけて流しの外を見廻りました。
「親分、毒はとうに流れましたぜ」
少し茶化し気味のガラッ八の顔がそれを覗いております。
「だがな、八、下水の中に、
平次はそう言って、
丸屋の嫁お雪を殺した下手人は、秋
銭形平次も悉く閉口しました。係り同心漆戸忠内は、
「どうした事だ、丸屋の中毒騒ぎは? やはり鼠のせいかな」
「鼠じゃございませんが、あの下手人は、私などより、よっぽど智恵がありますよ」
平次も頭を掻いて引下がる外はなかったのです。
そのうちに、猿屋町の小唄の師匠お角が、大びらに丸屋の源吉に囲われることになりました。女房が死んで百ヶ日も営まないうちに、後添いの話でもあるまいというのと、お角には先の亭主の子で、四つになる
お角は二十四五の年増盛り、柳橋に
川一と筋
お角は先月まで使っていた下女にも暇を出し、源吉との恋の遊戯を
「おや? 坊やはどこへ行ったかしら」
お角はフト、
「どこかその辺に居るだろうよ。馬も牛も通る場所じゃなし、それに、外はまだ薄明りがあるよ。さアその盃をあけるがよい」
源吉は
「でも、こんなに遅くまで外に居たことなんかないんですもの」
「心配することはないよ。子供は正直だ、暗くなれば帰って来るに決っているさ」
「そうでしょうか、――」
しきりにこみ上げて来る不安と
ちょうどその時、幸三郎は、
フト、四つの
「あッ」
と言う間もありませんでした。宵闇の中を、通り魔のように襲いかかったものが、幸三郎の小さい身体を、ドシンと力任せに突き飛ばしたのです。
子供の身体は
それは実に一瞬の出来事で、誰も見た者もありません。
いや、たった一人、川の向う岸、丸屋の裏木戸をあけて、ゴミを捨てに出たお越が、夕闇の中に、ただならぬ悲鳴と、川に突飛ばされた子供の姿を宵闇の中に見たというのです。
お越は
「誰か来て下さいよ」
思わず口から出たお越の叫び声を聞付けて、三人五人と岸へ立ちました。近所の家からは、
「おや? お師匠のところの幸三郎じゃないか」
多勢の顔には、驚きと非難と、そしてほのかな
幸三郎が、お越始め町内の衆の介抱で、
「坊や、お前はまア何だってあんな場所に居たんだい、――お母さんが、
お角は半狂乱の
(――三味線をひきながら捜していたんだとよ、迷子の迷子の幸三郎やい――なんてのはいい節廻しだぜ――)
後ろの方で、そんな事を言う者もありました。
「お母ちゃん、――坊は川へ突き落されたんだよ、ひとりで落ちたんじゃないよ――」
四つの早生れで、幸三郎は賢い子でした。咄嗟の間に自分が川に落ちた、因果関係を読んでいたのです。
「まア、この子は、何を言うんだえ、お前を川へ突き落すなんて、そんな鬼のような人があるものか――こんな可愛い
お角は幸三郎のぐしょ濡れの身体を、自分の胸に抱きしめて、駄々っ児のように身を振りました。
「本当だよ、――赤いおべべを着た
「まア」
お角はゾッと身を
この事が平次の耳に入ったのは、それから四五日経ってからでした。
「それは本当の事かい、お角さん」
猿屋町の師匠の家へ、平次が自分でやって来て確かめると、
「親分さん、怖いことですが、幸三郎の言ったことに少しの嘘もありません、――その
そう言ってお角の取出した一枚の付け木に、恐ろしく下手な字で、〈げんきちとてをきるか、いやならこんどはほんとにおまえのこをころすぞ〉とこう書いてあったのです。
「心当りは?」
平次は顔をあげました。
「十人ぐらいありますよ、親分さん」
「まず第一に?」
「粉屋のお光」
お角の眼は
「それから?」
「丸屋の旦那の妹、――お松さん」
「少しおかしいな」
「私が乗込んで行けば、一文だってあの女の勝手にはさせませんよ」
「フーム」
「両国の水茶屋のお
「それから?」
「とても数え切れるものじゃありません。ともかく、私は身を引きました。丸屋の後添いになるのは本望ですが、倅の命はそれよりも大事です。三日前に旦那とは手を切りましたよ、親分」
お角はそう言ってサメザメと泣くのです。次の間ではあの晩から風邪を引いた幸三郎が、弱々しくも
平次は暗い心持で甚内橋を渡りました。事件は女の
そのいずれにしても、平次にとっては、決して良い心持の捕物ではありません。
その足で丸屋へ行くと、主人源吉も、その事があってから、二三日は小さくなって
「親分、これは」
「誰も聞いちゃいないだろうな」
「皆んな店の方に居ますよ、どんな御用で? 親分」
「その障子や
平次の問は唐突でした。
「そんなにありゃしませんよ、親分、世間の評判の方が大きいんで――」
源吉は照れ臭く額を叩きました。全く良い男には相違ありませんが、自負心が強大で、
「だが、世間で気の付かない、言うに言われない引っ掛りのがあるだろう。少し押付けがましいが、これへ心当りの女の名前を書いて貰いましょうか、――商売人は別だぜ」
平次は
「親分さん、本当のところ、人間はそんなに浮気が出来るものじゃありません。商売人を
源吉はすっかり恐れ入っております。事実
「お角は子供の命に見返したそうだが、外に私の知ってるだけでは粉屋のお光、水茶屋のお楽――」
「そんなところですよ、親分、後生だから、勘弁して下さい」
「他にうんと怨まれる筋はないだろうな、御主人」
「あるわけはないじゃありませんか」
大汗になって弁解する源吉を、平次は浅ましくも
が、事件はこれでお仕舞になったわけではありません。その歳の暮には、源吉がせっせと通い出した、両国のお楽の水茶屋が、原因も判らず焼けてしまったのでした。
「親分、よっぽど変ですぜ。丸屋の嫁を殺して、幸三郎を川へ投込み、お楽の茶屋へ火をつけた下手人は、鼻の先で笑ってるじゃありませんか。何だって遊ばしておくんで」
ガラッ八の八五郎までがこんな事を言いますが、平次は容易に腰を切ろうともしません。
「八、
「骨を折ったぜ、親分。お松と、お楽と、お角と、お光と、――これは女の
ガラッ八は帳面、巻紙、小菊、浅草紙、いろいろの紙に書いたものを並べました。
「男三人は相当に書けるが、女四人はお松の外は皆んな
「このうちに付け木の字に似たのはありませんか」
「無い、一つも無い。付け木の字はもっと下手だ」
「わざと下手っ糞に書いたんじゃありませんか」
「多分そんな事だろう。――ところで、もう一人頼んだのがあるはずだが、――女は五人だぜ、八」
「下女のお越は
「ハッハッ、こいつは手前の負だ。お越の方が役者が上だよ」
平次はカラカラと笑いました。
翌る年の二月、丸屋の主人源吉は、親類縁者――わけても妹のお松の反対を押切って、両国の水茶屋の女、お楽を二度目の女房に迎えることになりました。
世間の噂を
母屋にはいろいろの不祥なことがあったので、新夫婦の部屋を、離屋に
その離屋から、
「それッ」
と
「旦那、旦那ッ」
驚き騒ぐ人々の中へ、ヌッと顔を出したのは、銭形の平次でした。
「皆の衆、騒ぐことはない、主人も花嫁も無事だ。母屋の方に休んでいるよ。ここに泊ったのはこの私と八五郎だ。私は主人に化けたから無事だったが、八五郎の
平次は
ガラッ八の八五郎は、女形の装束を脱いで、コソコソと人込みの後ろに姿を隠しました。顔を見られるのが恥かしかったのでしょう。
「ところで、私と八五郎がここに泊ったのは、曲者の仕掛けるのを待つためだ。
平次の言葉は続きます。
離屋の前に集まった二三十人の群衆は、声を呑んでその次の言葉を待ちました。
「曲者の姿は確かにこの眼で見た。火を付けるところを節穴から覗いたんだから、間違いのあるはずはない」
「親分、その曲者は誰だ。早く言って下さい」
群衆は異常な圧迫感に堪え兼ねて、ザワザワと揺れます。
「そこに居るよ、誰にも解るはずだ。――手の真っ黒なのが証拠だ」
平次に指さされて、ハッとした一人、思わず自分の
「あッ」
後ろからむずとガラッ八が襟首を
「
ガラッ八の手の中に、一と握りになったのは、見る影もない女、あの下女のお越だったのです。
「八、油断するなッ」
平次が叫ぶ間もありません、お越はガラッ八の油断を見すまして、その手をパッと払いました。たじろぐ
「寄るな寄るなッ」
お越は絹を裂くような
「旦那様、お怨み申します」
「あれッ」
庭も家の中も、ただ人間が渦を巻く大混乱です。
「お越ッ、執念が過ぎるぞッ」
平次の叱咤とともに、得意の投げ銭が夜風を
「あッ」
「旦那様、お怨み申しますよ、旦那様」
きりきりと縛り上げられながら、お越は、哀れな顔をあげて、二階を睨み上げながら、
「八、早く、
平次が声をかける間もありませんでした。お越の口からはタラタラと血潮が、――振り仰いで、
源吉は物蔭に隠れて、ワナワナと顫えました。たった一夜の、かりそめの
*
「八、いやな捕物だったな」
この事件がすっかり片付いてから、早春の
「親分は
とガラッ八。
「いや、少しも解らなかったよ。どんなに巧んだ悪事よりも、少しも巧まない悪事の方が解り難い。――お越は最初から投げてかかったんだ。石見銀山を隠していたのも自分、お雪に二度目の毒の入った水を呑ませたのも自分と、白状しているだけに疑いようはなかった」
「ヘエ――」
「戸棚の上の重箱の中へ、石見銀山を入れた様子のないのを見て少し変だと思ったよ。四五日前に石見銀山を入れたなら、
「…………」
「幸三郎を川へ突飛ばした時は、お越も細工がうまくなっていた。赤い着物を羽織って、お光かお楽の
「…………」
「あの時は、お越を挙げようかと思ったが、どうも証拠がアヤフヤだ。付け木に書いた下手な字も、お越は全くの無筆のふりをしていたので、手のつけようがなかった。奉公人下女
「なるほどね」
ガラッ八は感にたえました。
「ところで、男のためにあれほどの事をするには、お越はあんまり不器量すぎた。まさか美男の源吉があのお越に手を出そうとは思わなかったよ。多分、浮気者の源吉が、ほんの出来心で、たった一度ふざけたのだろうが、
「…………」
「源吉はお越を見くびっていたので、疑う気にもならなかった。――もっとも後で、お越ではないかしらと気が付いたらしいが、
「ヘエ――」
「源吉は面目のために黙っていたし、お越はそれを思い知らせるために
「…………」
「八、気をつけるがいい。正直な女はこの世の宝だが、一度
「ね、親分」
ガラッ八はしんみりしました。
「何だ」
「源吉は憎いじゃありませんか」
「女を
「お越は?」
「悪い事をしたには相違ないが、可哀想だよ。……手前も縄をかけた因縁があるから、思い出したら念仏でも
「…………」
ガラッ八は黙りこくってしまいました。妙に心淋しい日でした。