「あッ、ヒ、人殺しッ」
宵闇を
「それッ」
「お
誰かが、路地の口に、ガタガタ
「お
お吉の指さす方、ドブ板の上には、向う側の家の戸口から
「あッ、お菊」
人垣は物の崩れるように、ゾロゾロと倒れているお菊の方に移りましたが、
「お菊、どうしたんだ」
野次馬を掻き分けて飛込んで来たのは、
が、お菊はもう虫の息でした。半面紅に染んだ顔は、恐ろしい苦痛に
「お菊ッ、――だから言わない事じゃない、
徳松は死に行くお菊の顔を憎悪とも、懐かしさとも、言いようのない複雑な眼で見据えましたが、やがて自分の腕の中に、がっくりこと切れる娘の最期を見届けると、
「お菊ッ」
激情に押し流されたように、自分の
「あッ、何ということをするんだえ、畜生ッ」
転げるように飛込んで来たのは、五十年配の女――お菊の母親のお
「おっ
わずかに反抗する徳松。
「お前がやったんだろう。畜生ッ、どうするか見やがれ」
戦闘的な母親は、お菊が死んだとは気がつかなかったものか、相手の男を憎む心で一パイです。
「違うよ、俺じゃねえ」
「あッ、お菊、
「…………」
「お菊、お菊ッ、死んじゃいけないよ。お菊、明日という日を、あんなに楽しみにしていたじゃないか」
「…………」
「お菊」
母親のお楽は、自分の腕の中に、一と
「おっ母ア、驚くのは無理もねえが、――お菊坊がこんなになったのは、おっ母アのせいもあるんだぜ」
徳松はまだそこに居たのです。
「まだウロウロしているのかい、――お菊を殺したのはお前だろう」
猛然と振り仰ぐお楽。
「違うよ、俺じゃねえ、大名なんかへやる気になったから、魔がさしたんだよ」
「何を、――お菊はな、お前のような
「違うよ、おっ母ア」
「覚えていやがれ、そのがん首を
そう言ううちにもお楽は、お菊の死骸をかき上げかき上げ、赤ん坊でもあやすように、血潮に濡れた肩から、
話は十日ほど前に
雑司ヶ谷の鬼子母神門外、
一つは大奥始め、諸家の女中、町人の女房たちの信仰を集めた鬼子母神の御利益と、もう一つは、
大名は滅多に
「お楽、――今日は
柴田文内は、顔見知りのお楽へ、こんな事をねだりました。
「ヘエ――」
お楽は恐る恐る
「気がきかないお楽だな。お前のところには、お
柴田文内は、主君土佐守のニコニコする顔を見ながら、身分柄にも似ぬぞんざいな口をききます。
もっとも、植村土佐守はこんな事が好きで好きでたまらなかったのです。
「浅はこの春
お楽は恐る恐る坐り込みました。
「ホウ、それは
「浅の妹の菊でございます」
「その菊でよい、ここへ呼んでくれ。酌を申付ける。姉の浅よりも一段のきりょうじゃな」
「ヘエ――」
土佐守はもう
「…………」
黙ってお辞儀をして、これだけが看板の大きな
奥方は今を時めく老中、
「もっと
そんな事を言った時は、二本目の
お楽と、お楽の後添い、――死んだお浅とお菊には
その上、土佐守はなかなかの美男で、表向きお楽夫婦と親子の縁は切るが、内々は逢っても
柴田、吉住両士は帰りました。が、後で考えると、そう簡単には玉の
徳松は落合村の百姓の子で、素姓の悪くない男ですが、友達にやくざが多かったので、いつの間にやら、その道に深入りし、親許は
それから九日、化粧と支度に大騒動をして、明日はいよいよ大名屋敷に乗込もうという前の晩――。
継父弥助の連れ
土地の御用聞、
「何? お菊が殺された?――
源吉の塩辛声を聞くと、お菊の死骸に
「徳松、――
ウロウロする徳松は、源吉にグイと袖を押えられました。
「親分、あっしは知りませんよ」
「何を、誰が手前が下手人だと言った」
「ヘエ――」
「変な野郎じゃないか、あッ血ッ」
徳松の
「お菊の死骸を抱き上げた時、こんなに付きましたよ」
「何?――お菊の死骸を抱き上げたとき付いた血だ? 嘘を
「親分」
「誰か、この野郎がお菊の死骸を抱き上げる前に、着物にも身体にも血の付いていないのを見届けた証人でもあるかい」
源吉はそう言いながら四方を見廻します。「血の付いているのを見たか」と言わずに、「血の付いていなかったのを見届けた証人はないか」と言ったところに、野次馬心理を
「親分、そいつは無理だ。あっしは何にも知らねえ」
「えッ、手前が知らなくたって、俺が知っていりゃ沢山だ。――お菊を追い廻したのは、手前の外にはねえ。落合の
「親分」
「うるせえ野郎だ。
「大丈夫ですか、親分」
子分の安が
「親分さん、娘を殺したのは、その男に間違いありません。どうぞ、
お楽は娘の死骸を抱いたまま、降り繁くなる涙の顔を挙げました。
「おっ母さん、お菊さんを家へ運んで行きましょうよ」
野次馬と源吉の目に
「おや? まだそこに居たのかい、お前は」
「え」
「お菊がこんな姿になって、――お前は、まさか嬉しいんじゃあるまいね」
「まア、おっ母さん」
お吉はあわてました。
「手伝っておくれ、――噛みついちゃ悪いから、お前は足の方を持つがいい」
「…………」
黙って死骸の足を持上げるお吉、わけもない涙が、この時ドッとこみ上げます。
「でも、やっぱり泣いてくれるんだね」
自分の言った皮肉のためとは、
多勢の野次馬は、このとき
後に残ったのは、三つ股の源吉と、子分の安の二人だけ。もっとも安の手には、落合の徳松の縄尻が掴まれております。
「おや、
血潮の中から、源吉は平べったいものを拾い上げました。
「よく使い込んだ剃刀ですね、親分」
子分の安は片手の
「いいものが手に入った。安、引揚げようか」
「ヘエ――」
源吉はその剃刀を、徳松の物と決め込んでいる様子です。
「
柴田文内、鼻をヒクヒクさしております。
「左様――、主人かな」
吉住求馬にも合点が行きません。
せっかく玉の輿に乗りかけたお菊が、昨夜のうちに、非業の最期を遂げたことは、もとより知る
お楽弥助夫婦も、あまりの事に顛倒して、今日植村家の迎えが来るとは知っていながら、ツイ使いの者を走らせて、それを止めることまでは考え及ばなかったのです。
「あ、柴田の旦那様、娘は、娘はとうとう殺されてしまいました」
お楽は真っ先に飛んで出ました。
「使いを差上げるはずでしたが、この通りの取込みで、何とも相済みません」
亭主の弥助は、額を叩いて
「それは気の毒、誰がいったいお菊を殺したのだ」
柴田文内、仰天しながらも好奇の眼を光らせます。
「娘をつけ廻していた、徳松という野郎でございます。――昨夜のうちに縛られて行きましたが――」
「フーム、そう申上げたら、殿にはさぞ御
「ハイ」
お楽は見事な女乗物を眺めながら、顔も挙げられないほど泣いておりました。これに乗るはずだった娘が、
「では、帰るとしようか、吉住
「ここへ来合せたのも、何かの
吉住求馬は、若いに
「なるほど
柴田文内はそんな事を言いながら中へ入りました。続く吉住求馬。
二人並んで、心静かに拝んでいると、何やら急に家の中が騒ぎ出します。
やがて騒ぎが鎮まると、バタバタと入って来たお楽、お菊の遺骸の前へヘタヘタと坐ると、何やら、訳のわからぬ事をブツブツ言いながら滅茶滅茶に線香を立てております。
「何だ、お楽」
「土地の御用聞――三つ股の源吉という親分ですよ」
「何しに来た」
「お吉を縛って行くんだそうで――」
「お吉?」
「
お楽はこういううちにも、お吉に対する憎悪の燃え上がってくるのを、どうすることも出来ない様子です。
「そんな事はあるまい。下手人は徳松とやらいう男で、昨夜のうちに捕まったというではないか」
口数の少ない吉住求馬はこう追及します。
「二人でやったかも知れませんよ」
「何?」
「どうかしたら、お吉一人の仕業かも知れないじゃありませんか。――お菊の姉のお浅がこの春死んだのも、お吉の
お楽はキリキリと歯を鳴らします。
柴田文内と吉住求馬は、そこそこに外へ出ました。半狂乱の母親を相手に、
外へ出ると、三つ股の源吉と子分の安は、弥助の連れ
「源吉とか申したな」
「ヘエ――、柴田様と吉住様で、とんだことでございましたな」
源吉の片頬には、ニヤリと皮肉な笑いが動きましたが、あわてて、
「その娘に疑いが
と、吉住求馬、若い義憤らしいものが燃えたのでしょう、少しせき込んだ調子です。
「ヘエ――、昨夜一緒に風呂へ行ったのはこの娘で、――手拭を忘れて湯屋へ戻ったと言いますが、番台で訊くと、戻らなかったと言いますよ」
「戻りましたよ、湯屋の前まで行って、
お吉は
自分のきりょうに自信のないお吉の、素顔のままの質素な様子が、人によってはかえってお菊の派手好みなのより良いという人があるでしょう。現に吉住求馬も、キリキリと縛り上げられて、訴えようのない眼――泣き濡れた頬、いじらしくも
「ドブ板に落ちていた手拭は、こんなに綺麗じゃないか」
源吉は
「家へ帰ってから洗ったんです」
こういうお吉の言葉は、勝ち誇る源吉を動かしそうもありません。
「徳松はどうした」
と柴田文内。
「まだ番所に留めてありますよ。――あの騒ぎのときは、筋向うの
「すると、殺されたのは一人で、殺したのは二人か」
吉住求馬の調子は皮肉ですが、
「徳松か、お吉か、どっちかですよ、旦那」
源吉は吉住求馬の抗議も一向通じないような顔をしております。
それから一刻(二時間)あまり、
「お菊を、殺したのは、この弥助に相違ございません。――いつもお菊やお浅に
と言うのです。
「馬鹿な事をいえッ。お前は、娘のお吉を助けたさに、罪を背負って死ぬ気だろう」
と、いきり立つ源吉。
「親分、よく近所の衆から、聞いて下さい。お吉がどんな心掛けのいい娘で、今まで二人の妹の無理を聞いていたか、よく解りましょう」
「…………」
「そのお菊が、大名に
「それは本当か、弥助」
次第に通る訴えの筋を、三つ股の源吉も、見廻り同心も、無視するわけにはいきません。その場で縄を打たれて、お菊殺しの下手人は、これで三人になったのです。
父親の弥助が
「お菊さんはこの私が殺しました。――
急にこんな事を言い張ります。
こうなるとどれが本当の下手人か判らず、そうかといって、三人の縄付を奉行所へ送るのは、三つ股の源吉始め、行きがかりで立会った見廻り同心の顔にもかかわるわけで、しばらくは目白の番所に留め置いたまま、一と晩念入りに調べ抜くことになったのでした。
その晩――。
事件はとうとう、神田の平次へ持込まれました。
「平次殿に逢いたい。拙者は植村土佐守家来、吉住求馬と申す者だが――」
変な事からこの渦中に巻込まれた吉住求馬は、思案に余った顔を、銭形平次のところへ持って行ったのでした。
「ヘエ、私は平次で、――どんな御用でございましょう」
「こんなわけだ。騒ぎが大きくなれば、自然主君の御名前にも
「…………」
「もう一つ。三人のうち二人、あるいは三人とも無実であろう。父親が娘を
純情家らしい青年武士が、畳へ手を付かぬばかりに言うのを、銭形平次はじっと聴いておりました。
「縄張違いは、私どもの仲間でうるさい事になっておりますが、御言葉の様子では、余程深い
「乗出してくれるか、平次」
「ヘエ」
「礼を言うぞ」
吉住求馬は、主君大事と思い込んでいるのでしょう、平次が引受けると、思わずホッと胸を撫で下ろしました。
「銭形の
三つ股の源吉は、イヤな顔をしながらも十手の義理で、八丁堀のお声掛りで来た平次に、一切のことを話しました。
「有難う、それで大概判ったようだ。なるほど三つ股の兄哥が三人縛ったのも無理はない。俺だって、そのうち一人だけ縄を解く気にはなるまいよ」
「そう言えば、その通りだが――」
源吉はいくらか心持が解けた様子で、苦い笑いを漏らします。
「一と通り見せて貰おうか、何も後学のためだ」
「それじゃ、現場から――」
「八、
平次とガラッ八の八五郎は、三つ股の源吉に案内されて、お菊の殺された湯屋の路地へ入りました。
一方は五尺ばかりの
「お菊が声を立てさえすれば、湯屋の入口にいたお吉に聞えたはずだね」
と平次。
「だから、殺したのは、お菊をよく知っている者の
「その通りだ。――が、別れ話がついて、他人になったはずの徳松が、未練らしくここで
平次の観察は、もう源吉の思い及ばなかったところまで飛躍します。
「すると、徳松は――」
ガラッ八は長い顔を出しました。
「お前は黙っていろ」
「ヘエ――」
湯屋の前、お吉が手拭を落したというあたりには、もとより証拠などの残っているはずもありません。
「
三人は元の道を取って返して、兇行のあった場所から、十間とも離れていない、碇床の店先に立ちました。
「
平次は、油障子に大きな碇を描いた入口の隣――
「これは、親分さん方、御苦労様で――」
碇床の親方は、少し頓狂な声を出します。
「格子の障子は開けておくのかい、親方」
と平次。
「ヘエ、この暑さですから、閉め切っちゃ仕事が出来ません、――お蔭でとんだ迷惑をしましたよ」
「剃刀を持って行くのが見えないだろうか」
「見張っていなきゃ、ちょいと気がつきませんよ、親分」
親方の言うのは恐らく本当でしょう。
「あの晩、徳松がここに居たそうだが」
「
親方の言うのが本当だとすると、徳松は少し不利益になります。
「それを、俺も徳松に訊いたんだ。すると、あの野郎は、お吉と一緒だから、この辺で顔を見せて、声でも立てられるとうるさいと思い、お菊の家の前で待っていた――と、こう言うのだよ」
源吉は引取って説明します。
「
と平次。
「いや、もう一度逢って、名残が惜しみたかったというよ。どうせ心変りのしたお菊だし、明日玉の輿に乗ると決っているから、何を言っても無駄だと
「それが本音かも知れないな、こんどはお菊の家へ行ってみようか」
平次は、こう、静かに段落をつけました。
お菊が殺され、お吉が縛られ、弥助は自訴して出た、残るはお楽一人だけ。近所の衆や、親類の者が来て、今日の葬式の支度だけは急いでおりますが、悲劇の家は、何となく
「銭形の親分さん、――早く娘の
勝気らしいお楽も、すっかり気が
「心配することはないよ、下手人は今日明日中に判るだろうから」
「本当でしょうか、親分さん」
「判ったところで、どうもならないかも知れないが、ともかく、落着いているがいい――そう言ったところで、娘二人に死なれちゃ、落着いてもいられまいが」
平次の眼には、深い
「有難うございます、親分さん」
これが岡っ引手先の口から聞く言葉でしょうか。お楽はツイ恥も忘れて、声を立てて泣きます。
「大急ぎで来て間に合ったのが何よりだ。お菊の死顔を見せて貰おうか」
「ハイ」
お楽は
静かに顔を起してやると、左顎の下へパクリと開いたのは、
「フーム」
「銭形の
と源吉。
「刃物が違う」
「えッ」
「剃刀には峰があるから、こう深くは切れない」
「いや、肉がはぜているぜ」
源吉は敢然としました。
「刃が厚いからだ」
平次も下がりません。
続いて、その晩着ていた、お吉と弥助の着物を出させましたが、どっちにも血の
「綺麗だな」
独り言のように平次。
「血が付かないわけだ。剃刀を
源吉は手真似をして見せました。お菊の後ろから近づいて、何か声をかけながら、
「逆手に持って肩を押えながら切った剃刀なら、傷は上向きに引かれるはずだ、――これは刃物の入ったところから下向きに引かれているぜ」
平次の推理は
「が――」
「前から切ったのだぜ。三つ股の
平次は手真似をして見せました。
「前から脇差で切られるのを、声も立てずに待っていたのかい」
と源吉。
「知ってる人だ、――お菊のよく知っている人だった。眼の前へ来るまで自分が斬られるとは思わなかった――」
「それにしても脇差を抜くのを黙って見ていたというのかい」
源吉はなかなか承知しません。
「…………」
平次は何か言いかけましたが、聞いている者が多いのに気がついたか、そのまま口を
「親分さん、下手人はやはり、あの徳松の野郎でしょうか」
お楽は顔を挙げました。
「いや解らぬ、三人に逢って訊いてみなきゃ」
平次と八五郎と源吉は、目白の番所へ引揚げました。
そこへ行くと、三人の縄付に逢う前に、平次は、剃刀と手拭を見せて貰います。
剃刀はありふれた床屋使いの品、
「これが、お吉の手拭か」
次に取上げた手拭は、何の変哲もない
「湯屋の前で落したというが、砂も泥もついてはいない――もっとも、お吉は帰って来てすぐ洗ったといってるが」
と源吉。
「なるほど」
平次はそれっきり手拭を返して、番所の中へ入りました。中には、徳松と、お吉と、弥助が、縄も解かず、役所にも送られず、三人の手先が付き添って、黙りこくって控えております。
「徳松」
「…………」
平次は
「みんな言ってしまった方がいいぜ」
「…………」
「お前が隠している事があるから、事面倒なんだ」
「…………」
「お前はお菊を殺す気で、碇床から剃刀を持出したに相違あるまい」
「いえ、親分」
徳松は振り仰ぎました。
「黙って聞け、――路地の外で待っていたが、二人の娘はなかなか来ない。そのうちに変な物音がしたので、飛込んで見ると、お菊はドブ板の上に殺されていた」
「親分」
「お前は剃刀を投出して、路地の外へ飛出し、お吉の声を聞くと、もう一度野次馬と一緒に引返して、
「親分、――その通りです。恐れ入りました、どこで親分はそれを見ていました」
徳松はヘタヘタと
「何だって早くそれを言わなかったんだ」
「でも、剃刀を持出したり、着物に血が付いたり、――逃れようがないと思いました」
「銭形の」
不意に、源吉は平次の
「何だい、三つ股の兄哥」
「それじゃ、徳松の野郎に、言い逃れの口上を教え込むようなものじゃないか」
源吉はこみ上げる激動を押えている様子です。
「大丈夫だ、それに相違なかったんだ。お菊を殺したのは徳松なんかじゃない、
「えッ」
「前から抜く手も見せず
「…………」
「後ろから徳松が来たはずですぜ、親分」
ガラッ八が口を出します。
「その通りだ。前からはお吉が引っ返して来た、――が曲者は恐ろしい腕利きのうえ身軽だ。お菊を仕留めると、左手の
「…………」
「生垣の中に足跡があったはずだ――今日はもう見えないが、その時すぐそれを見つけさえすれば、こんなに多勢縛るまでもなかった」
平次の言葉には何の疑いもありません。
「お吉は? 親分」
とガラッ八。
「何にも知らなかったのさ。お吉が下手人なら、濡れ手拭へわざと泥を付けたままにしておくよ。お吉は本当に風呂屋の入口で自分の手拭を拾ったから、女らしい心持で、その晩騒ぎの最中にも手拭の泥を洗っておいたんだろう。手拭を洗ったのが、お吉に罪のない証拠さ」
何という明察、――源吉も一句もありません。
「弥助は?」
ガラッ八はまだ堪能しない様子です。
「娘を助けたい一心だ――さア、縄を解いてもらって帰るがいい。お楽の手前、
平次は静かに言い終ります。
お吉は縄を解かれるのを待ち兼ねたように、父親の胸に飛付いて泣き出しました。
「それじゃ、下手人は誰なんだ」
源吉の不服そうな顔というものはありません。
「大方判っているつもりだ。今晩、――いや、明日の晩、お菊の法事をして貰って、その席で話そう」
平次は静かに立上がりました。
体術と据物斬に秀でたという、お菊殺しの下手人は誰? どう
百万遍が済んで、皆んな帰ると、
「御免」
二人の武士が訪ねて来ました。言うまでもなく柴田文内と吉住求馬。主君植村土佐守が、お菊横死の
一と通り挨拶焼香が済んで、弥助、お楽、お吉、源吉、ガラッ八と二人の武家を、店の次の間――仏壇の前に並べると、平次は静かに口を切りました。
「今晩は、お菊殺しの下手人の名を仏壇の前で申上げる事になっております。が、その前に、私の話がすんで下手人の名が出るまで、どんな事があっても、どんなとんでもない事を申上げても、どうぞ静かにお聞き下さるようにお願い申上げます」
「…………」
「その代り、私の中上げる下手人の名が違っているとか、そのために、不都合な事が起るとかいう時は、その場でこの首を打ち落して下すっても、決して
思い入った平次の調子。仏壇を前に、半円を描いた七人も思わず
「話は少し差障りがありますが、
これだけの枕をおいて、平次は本題に入ったのです。
奥方は時の老中酒井左衛門尉の息女、土佐守は一目も二目も置いておりますが、さすがに
そこで、お家の体面論を真っ向に、お菊の茶屋へ案内して、この事件を
「御両人と申しても、これは多分、吉住様お一人へ奥方からおっしゃったのでございましょう。吉住様は文武の達人で、酒井様から、奥方付として、
「…………」
平次の言葉に、両士は黙って聞入りました。ここまでは事件の図星を言い当てた様子です。
「吉住様からは、土佐守へは
「…………」
「この上は、下屋敷へ迎え入れる前に、お菊を殺す外はない。植村家安泰のため、一つはまた、土佐守様と奥方の仲を無事に納めるため、お二人のうちの一人――それも私は存じております」
「…………」
「――お菊を四五日付け狙ったことでございましょう。とうとう、明日は下屋敷入りという前の晩、風呂から帰るのを首尾よく斬った、が、――前後から人が来て逃げようはない。
平次の話の予想外さ、一座は死の沈黙に
平次はそれに構わず、
「ところが、下手人の疑いはあらぬ三人に懸って、世上の
「…………」
一座の視線は期せずして、吉住求馬の顔に集まりました。植村家で名代の腕利き、純情で、忠義で、奥方のためには
が、吉住求馬の顔は、作り付けた人形のように静まり返って、少しの表情の動きもなかったのです。
「それでは、お名前を申上げましょう、――主君のため、お菊を殺したのは」
平次は顔を挙げて、次の言葉が唇の上へ動きました。
「もうよい。許せよ、お楽」
平次の言葉を抑えて、脇差を引抜きざまガバと自分の腹へ突き立てたのは、――なんと、中年者の武家、柴田文内の方だったのです。
「柴田様、よく遊ばしました」
と静かに
「柴田
吉住求馬もこの断末魔の同僚の傍らに悲痛な顔を差寄せました。
「平次、
柴田文内の息が切れて、一座は深い沈黙に落ちます。
「…………」
「お楽、お吉、弥助――これで許してくれ。腹を切る外に、俺は、俺はこの過ちを償う道を知らなかった」
「…………」
「さらば」
「柴田様」
次第に落ち行く柴田文内の最期を、平次と求馬は、せめて左右から抑えてやります。
「…………」
刀を抜くと、サッと畳に流るる血潮。
それを避けもせずに、お楽とお吉は泣き伏しました。
「南無――」