元日の昼下り、八丁堀町御組屋敷の年始廻りをした銭形平次と子分の八五郎は、
「八、目出度いな」
「ヘエ――」
ガラッ八は眼をパチパチさせます。正月の元日が今はじめて解ったはずもなく、天気は朝っからの日本晴れだし、今さら親分に目出度がられるわけはないような気がしたのです。
「旦那方の
平次はこんな事を言って、ヒョイと
「ヘエ――、本当ですか、親分」
ガラッ八の八五郎は、存分に鼻の下を長くしました。ツイぞこんな事を言ったことのない親分の平次が、与力笹野新三郎の役宅で、
「本当ですかは御挨拶だね。後で割前を出せなんてケチな事を言う気遣いはねえ。サア、真っ直ぐに乗り込みな」
そう言う平次、料理屋の前へ来ると、フラリとよろけました。組屋敷で軒並
「親分、あぶないじゃありませんか」
「何を言やがる。危ねえのは
「冗談でしょう、親分」
二人は黒板塀を
真新しい看板に『さざなみ』と書き、
「こいつは洒落ているぜ、――正月が裏を返しゃ盆になるとよ。ハッハッ、ハッハッ、だが、世間付き合いが悪いようだから、ちょいと直してやろう」
平次は店の中から
「入らっしゃい、毎度有難う存じます」
「これは親分さん方、明けましてお目出度うございます。大層御機嫌で、へッ、へッ」
帳場にいた番頭と若い衆、掛け合いで滑らかなお世辞を浴びせます。
「何を言やがる、身銭を切った酒じゃねえ、お役所のお屠蘇で御機嫌になれるかッてんだ」
「へッ、御冗談」
平次は無駄を言いながら、フラリフラリと二階へ――
「お座敷はこちらでございます。二階は混み合いますから」
小女が座布団を温めながら言うのです。
「混み合った方が正月らしくていいよ。大丈夫だ、人見知りするような育ちじゃねえ。――もっともこの野郎は酔が廻ると噛み付くかも知れないよ」
平次は後から登って来るガラッ八の鼻のあたりを指さすのでした。
小女は
「そこじゃ
部屋の真ん中に
「大層な景気ですね、親分」
面喰らったのはガラッ八でした。平次のはしゃぎようも尋常ではありませんが、それよりも胆を冷したのは、日頃堅いで通った平次の、この日の
「心配するなよ。金は小判というものをフンダンに持っているんだ。なア八、俺もこの稼業には
「冗談で――親分」
「冗談や洒落で、元日早々こんな事が言えるものか。大真面目の涙の出るほど真剣な話さ。ね、八、江戸中で一番
そう言ううちにも、平次は引っ切りなしに盃をあけました。見る見る膳の上に林立する徳利の数、ガラッ八の八五郎は薄寒い心持でそれを眺めております。
「儲かる事なんか、あっしがそんな事を知っているわけがないじゃありませんか」
「なるほどね。知っていりゃ、自分で儲けて、この俺に
「…………」
ガラッ八は閉口してぼんのくぼを
「――もっとも、手前の気っぷに惚れたのは俺ばかりじゃねえ。横町の煮売屋のお
「親分」
「悪くない娘だぜ。少し、
「止して下さいよ、親分」
「首でも
「親分」
ガラッ八はこんなに驚いたことはありません。銭形平次は際限もなく浴びせながら、滅茶滅茶に
四組のお客は、それにしてもなんというおとなしいことでしょう。そのころ
「なア、八、本当のところ江戸中で一番儲かる仕事を教えてくれ、頼むぜ」
平次はなおも執拗にガラッ八を追及します。
「泥棒でもするんですね、親分」
ガラッ八は少し捨鉢になりました。
「なんだとこの野郎ッ」
平次は何に腹を立てたか、いきなり起上がってガラッ八に
「親分、危ないじゃありませんか」
飛び付くように抱き起したガラッ八、これはあまり酔っていない上、どんなに
「ああ酔った。――俺は眠いよ、ここで一と寝入りして帰るから、そっとしておいてくれ」
障子の上に半分のしかかったまま、平次は本当に眼をつぶるのです。
「親分、――さア、帰りましょう。寝たきゃ、家に帰ってからにしようじゃありませんか」
「なにを。女房の面を見ると、とたんに眼がさめる俺だ。お願いだから、ここで――」
「親分、お願いだから帰りましょう、さア」
ガラッ八は手を取って引起します。
「よし、それじゃ素直に帰る。
「心得てますよ、親分。――小判を一枚ずつもやりゃいいんでしょう」
「大きな事を言やがる」
ガラッ八は平次を
「あ、親分、そんな事は、
八五郎もハッとしました。平次は
「放っておけ。俺が外した障子だ、俺が直すに何が危ないものか。おや、裏返しだぜ。骨が外へ向いてけつかる、どっこいしょ」
平次はまだ障子と
八五郎は平次を引っ担ぐようにして、どうやらこうやら帳場まで降りて来ました。
帳場に坐って居るのは、中年の番頭が一人。
「お帰りで? 親分さん、毎度有難う存じます。またどうぞお近いうちに」
「とんだ騒がせたね、済まねえ」
平次はフラフラと首をしゃくって、
「つまらないものでございますが、どうぞお手拭きになすって下さいまし」
番頭は帳場の側へ二た山に積んだ、お年玉の
「有難てえ、遠慮なしに貰って行くぜ。ところで番頭さん、俺はこう見えても大の親孝行者なんだ」
「ヘエ、ヘエ、結構なことで――」
「お袋は取って六十七だが、白地の手拭は汚れっぽいからと言って、
「…………」
「お安い御用だ。ひょいと一本だけ、その浅黄の方と換えてくんな」
平次は貰った手拭を下へ置いて、番頭の方へ手を出しました。
「御冗談で、――親分さん。その白地の方が
「その地の悪いのが好きなんだ。どうも手拭の良いのは、顔の皮を剥いて、始末にいけねえ」
「とんでもない。これは出前の註文に入らっしゃる御近所の衆や、お使いの方に差上げる分で――」
「そんな事を言わずに、頼むから一本」
平次は根気よく絡み付きます。
「親分、いい加減にして帰りましょう。浅黄の手拭が要るならその辺で二三反買って行こうじゃありませんか」
見兼ねてガラッ八が口を出します。
「なんだ、人の財布を預かっていると思って、いやに
「危ない、そこは敷居ですよ、親分」
あんよは上手――の形で、ようやく平次を外に
「八」
「ヘエ――」
「誰も見ちゃいないな」
「ヘエ――」
神田が近くなると、平次の態度は、俄然変ったのです。
「浅黄の手拭を出しな」
「ヘエ――」
「番頭と揉んでいるうちに、
平次はヒョイと手を出しました。しゃんとした足取り、顔の色も、身体の安定も、日頃の平次と少しも変りません。
「浅黄の手拭に
ガラッ八は懐から浅黄の手拭を一と筋、のし紙に包んだままのを出しました。
「手前の指先の働きを見屈けたから、俺は番頭に
「冗談でしょう。――ところで、親分は酔っちゃいなかったんで?」
ガラッ八は
「本当に酒を呑んだのは、吸物椀と
「ヘエ――」
「俺は
「すると?」
「間抜けだなア。――あの家を、不思議だとは思わなかったのか、手前は?」
「ヘエ――」
ガラッ八にはまだ解りません。
「
「ヘエ――」
「
「なるほどね」
ガラッ八は長い顎を撫でました。
「それだけなら物の間違いとも思うが、――表二階の障子が一枚、裏返しになっていたのに気が付いたか」
「そう言えば、親分の倒した障子を、そのまま敷居へはめたら、骨の方が外を向いてましたね」
ガラッ八は、あの時の平次の
「客商売の家が、元日早々、障子を裏返しにしておくという法はないよ」
「フーム」
ガラッ八は鼻の穴をふくらませました。平次の話が次第に重大さを加えるので、そっと後ろを振り返りましたが、ここへ来るともう元日の街も思いのほか淋しく、廻礼の
「たったそれだけで、俺は素通りが出来なくなった。屠蘇機嫌といった顔で、輪飾りを引っくり返したり、障子をわざと外して、裏表を直したり、とんだ
「…………」
「輪飾りはやはり裏返しになっていたし、二階の障子も、真ん中の一枚は、骨が外へ向いていたよ」
「ヘエ――」
「手前はそこまでは気が付かなかったろう」
「恐れ入った。親分、もう一度引返して様子を見ましょうか」
「馬鹿、この上相手に要心させてたまるものか。そうでなくてさえ、俺を平次と見破ったんじゃあるまいかと、大ビクビクものだったぜ」
それにしても、『さざなみ』の謎は解けそうもありません。
「なんだってそんな事をしたんでしょうね、親分」
「それが解らねえ」
平次は往来の真ん中で腕組をしてしまいました。
「輪飾りを引っくり返したり、障子を裏返しにすると、何かの
「そんな馬鹿なことがあるものか。その上、あんなに立て混んでいる客が、元日だというのに、少しおとなし過ぎたよ」
「…………」
「場所は海賊橋だ。――街を通る人から、たった一と目で見える輪飾りと障子に細工があったんだぜ――」
二人の足は、いつの間にやら、平次の家へ――路地を入っておりました。
「親分、その手拭に何かありゃしませんか」
「それだよ、――ともかく、お屋敷へ
「へッ、北の方お待兼ねと来やがる」
「殴るよ、この野郎」
噂をされる女房のお静は、この時まだ若くも美しくもあったのです。
「どうだい八、番頭が物惜しみをしただけに、手が混んでいるじゃないか」
平次は浅黄の手拭を畳の上に拡げました。
「なるほどね、十二支と江戸名所尽しだ」
手拭は一面の模様で、細かく十二に割った区画の中に、十二支の動物や、塔や、橋や、鳥居や、人物が、統一も順序もなく並べてあるのです。
「江戸名所に、
それ以上は二人にも判りません。とにかく、最初の一と区画は、塔と飛んでいる動物と、橋の
「こいつは親分、両国橋から見た浅草の五重の塔じゃありませんか」
「飛んでいるのは」
「
「
「…………」
「とにかく、この手拭を持って行って、どこで染めたか突き止めてくれ。
「ヘエ」
「それから、正月早々気の毒だが、しばらくの間、あの『さざなみ』を見張っていて貰いたいな。手が足りなかったら、下っ引を狩り出しても構わねえ」
「そんな大物でしょうか、親分」
「
二人はそれっきり別れました。
平次はそれからすっかり寝正月をして、三日の朝不精床を這い出すと、
「お早う」
ガラッ八の八五郎が
「なんだい、八、年始はもう済んだはずだぜ」
平次は
「あれッ、忘れちゃ情けないね。親分、海賊橋の輪飾り」
「あ、そんな事もあったようだね。三日二た晩寝通してみるがいい。御用のことはともかく、女房の面も忘れるよ」
平次はそんな事を言いながら、せっせと遅い朝の支度をしている、お静の素知らぬ顔をチラリと見やります。
「へッ、
「誰だ?」
「さざなみの番頭で」
「馬鹿野郎、『さざなみ』のお年玉を、『さざなみ』の番頭が誂えるに、何の不思議があるんだ。もう少し、
「しましたよ、親分、驚いちゃいけませんよ」
「脅かすなよ」
「こいつを驚かなった日にゃ木戸は要らねえ。『さざなみ』は昨日のうちに店を畳みましたぜ」
「なんだと」
「大晦日に店を開いて、正月の二日に店仕舞をしたと聴いたら、親分だって驚くでしょう」
「よし、すぐ行ってみよう。大家はどこだ」
「裏の倉賀屋――質屋が家主で」
それを半分訊いて、平次はもう出かける支度です。
「あれ、お前さん、まだ朝飯も、済まないじゃありませんか」
驚いたのはお静でした。
「お前一人で済ましておけ。――羽織はどこだ、――紙入と手拭は?」
二人は呆れるお静を後に、
海賊橋へ行ってみると『さざなみ』は店を締めて、近所で訊いても、どこへ引越したとも解りません。『さざなみ』の真裏、庭続きの質屋――倉賀屋――へ行って訊くと、
「どうも驚きましたよ。暮の二十五日に来て、正月早々店を開きたいからと、一両二分で貸しました――ヘエ、
主人の総七は、五十恰好のよく練れた人相を、解き難い謎に曇らせます。
「借り手はどんな人間で?」
「
それなら平次もよく知っております。
「雇人は?」
「下足が一人、板前が二人、下女が二人、それにお座敷女中が三人ぐらいはいたようでございます」
「あれほどの店を貸したんだから、証人があるだろう」
「それが、その、江戸へ出たばかりで、知合がないからというお話で、そのかわり敷金を半年分九両入れました。――もっともそれは昨夜お返し申しましたが」
「それにしちゃお年玉の手拭を誂えたのは
「へーエ?」
独り言ともなく、言った平次の言葉、主人の総七も何やらピンと来た様子です。
「なんか書いたものはないだろうか、請取とか、名札とか?」
「
これでは取付く島もありません。平次もしばらくは、煙草の
「それじゃ、あの店を私に貸してはくれまいか」
平次は大変なことを言い出しました。
「それはもう、親分さんの御用とおっしゃれば、決して否応は申しません。が、生憎『さざなみ』が、立退くと入れ違いに、借手が付いてしまいました」
「はて? どこの何という人だえ」
「何でも、古道具の
「ちょいと、その手金を見せて貰おうか」
「ヘエ――」
主人は帳場格子の中で、何やらガチャガチャさせると、四両二分の金を持って来て、平次の前に並べます。
「この金に目印でもあるのかい」
「何にもございません」
「それじゃ、どうして金箱の中から
「ヘエ――」
こうなると、少しも要領を得ません。
「五日に越して来るなら、今日は三日だから、四日一日は空いているだろう」
「ヘエ――」
「その空いてる四日一日だけ貸して貰おうか。五日の朝のうちには、綺麗に引払って行くから」
「ヘエ――」
倉賀屋総七は、あまり気の進まない様子ですが、顔の良い御用聞の申出を断わるほどの勇気もなかったのです。
「店賃は一両二分、一と月分に負けて貰おうか。――もっとくれと言われても、それで正月の小遣い総仕舞だ」
平次はそんな事を言って、一両二分の金を取出します。
「それには及びませんよ、親分さん。たった一日ぐらいのことなら、どうぞ御自由にお使い下すって」
「いや、借りた家の店賃は、やはり払わないと気が済まねえ。そのかわり一筆請取を書いて貰おうか」
「それじゃ、しばらくお預り申します」
平次の引きそうもない様子を見ると、主人の総七は渋々ながら一筆請取を書いて出しました。
「八、いよいよ商売替だよ」
「ヘエ――」
「気の無い返事をするなよ、なんとか景気をつけてくれ」
「何をやらかすんで」
倉賀屋の
「判っているじゃないか、『さざなみ』の後を借りたんだ。――当節はなんと言っても儲けの早いのは食物屋さ」
「驚いたなア」
「驚くことなんかあるものか。
「そんなものはありゃしません。十手小太刀の心得なら少しはあるが――」
「生意気なことを言うな。どうせたった一日だ。俺は帳場へ坐るから、手前は板前よ。お静は下女でお品さんに手伝って貰って、これはお座敷女中」
「大変なことになったね、親分」
ガラッ八の驚き呆れる間に、平次は着々とその支度を整えました。もっともガラッ八の板前では納まりません。知合の料理屋から、手の空いている限りの人数をカキ集め、座布団も、火鉢も、膳椀も一日のうちに運び入れて、正月の四日には、もう夜が明けると一緒に店を開いたのです。
「親分、とうとう
「ざっとこんなものだよ、八、表を見てくれ」
平次に言われて表に廻った八五郎。
「あッ」
さすがに驚きの声をあげました。
「どうだ八」
「あの通りだ、輪飾りも、――二階の障子も」
輪飾りを裏返しに、二階の障子の骨はこっちを向いているのです。
「
「
こうなるとガラッ八も一生懸命でした。
まだ廻礼のある時分で、
昼頃になると、家主の主人総七が、ブラリと様子を見に来ました。
「親分さん、商売はどんな様子で?」
「お蔭様で大繁昌です。いよいよ私も商売替をして、ここへ根を生やしましょうか」
「とんでもない」
平次のニコニコした顔を、およそ、見当のはずれた様子で眺めながら、倉賀屋の主人は帰って行きました。
「八」
「ヘエ――」
「何人来ている」
「六人ばかり、皆んなこの居廻りの下っ引ですよ」
「それでいい、江戸橋と、日本橋の御高札場と、
「ヘエ」
「これは大きな声じゃ言えねえが、倉賀屋の
「ヘエ――」
八五郎を出してやると、平次はまた帳場に
新店のせいか、客は一向来ません。――いや、新店でも元の『さざなみ』はあんなに客が立て混んだのです。今度は一体何としたことでしょう。
「入らっしゃい」
「許せよ」
ズイと入って来たのは、
「どうぞお通りを」
「遅れて心配いたした。元日という約束であったが、箱根の関所で手間取って、今日ようやく江戸へ入った始末じゃ」
何が何やら解りません。
「御苦労様で――さア、どうぞ二階へ、お通り下さいまし」
平次は一生懸命でした。が、
「手形はこれだ」
「ヘエ――確かに頂戴いたします」
小さく畳んだ
「許せよ」
二人の虚無僧は天蓋を
平次はその後ろ姿を見送ってそっと
二月十八日 (ウ)三五八
四月 六日 (サ)一〇〇
同 二十九日(カ) 一〇
七月二十八日(サ) 八
九月十七日 (ス) 六五
十月 七日 (ハ) 六
四月 六日 (サ)一〇〇
同 二十九日(カ) 一〇
七月二十八日(サ) 八
九月十七日 (ス) 六五
十月 七日 (ハ) 六
以上七項が書いてあるのです。
半刻(一時間)ばかりの後、軽い食事を済ました二人の虚無僧は、綺麗に勘定を払って二階から降りて来ました。
「有難う存じます、またどうぞ」
少しギコチないが、精いっぱいの世辞をふり
「お年玉を貰おうかの」
若い方の虚無僧は手を出したのです。
「…………」
平次はハッとしました。何もかも残るところなく用意を整えた積りでしたが、お年玉の白い手拭と浅黄の手拭だけは、染める暇がなかったのでした。
「例年のことだが――」
平次の
「お生憎様ですが、元日一日で出払ってしまいました」
「何、出払ってしまった。そんなはずはない。我々をなんと心得て仲間外れにするのだ」
「とんでもない――あ、ございました。一筋だけ残っておりました。少し皺くちゃになりましたが、これで御勘弁を願います」
平次は元日ここの帳場から、ガラッ八がくすねた浅黄の手拭を懐から出して、折目正しく畳み直し、用意の
「よしよし、皺になっても、貰いさえすれば。――それではまた逢おう」
「有難うございます。それでは、お静かに」
振り返りもせずに立去る二人の虚無僧を見送って、平次は思わず冷汗を拭きました。
「八、八は居ないか」
「親分」
ノソリと物蔭から出たのはガラッ八です。
「あの二人の虚無僧の後を
「ヘエ――」
ガラッ八は猟犬のように、尻を七三に引っからげて飛出します。
二た刻ばかり後、今日一日の店を仕舞い、借りた物は返し、
「あッ、ブルブル。あの若い虚無僧の腕には驚きましたよ、親分」
「ちょっかいを出して、大川へでも
平次は案外驚いた顔もしません。
「ちょっかいなんか出せるものですか。神妙に後を
「どんな家を訪ねて廻ったんだ」
「どこへも行きゃしません。天神様へお詣りして、落書を一と
「フーム」
平次の顔は次第に真剣になります。
「立去った後、その欄干の下をヒョイと覗くと、いきなり若い虚無僧が戻って来て、先刻から我々両名の後を跟けているようだ。不埒千万――だって言やがる」
「投げられたのか」
「ヘエ――十手を出す暇もありゃしません。いきなり
「危ないね」
「親分の前だが、永代の下の水は、思いのほか塩っぱい」
「馬鹿野郎」
そう言いながらも、寒空にガタガタ
「風邪を引きそうだぜ、親分」
「今
「少し淋しいね、親分」
「何を、子供じゃあるまいし」
平次は多勢の手伝いを皆んな帰した上、八五郎一人を留守番にして、そこから遠くない八丁堀組屋敷へ急ぎました。
与力笹野新三郎に逢って、
「旦那、この日付と数に、お心付きはございませんか」
虚無僧が手形と言って置いて行った
「平次、これはどこから手に入れた」
膝の上に置いて容易ならぬ眼を挙げます。
「虚無僧が置いて行きました。もっとも私を仲間と間違えたようで」
「これは大変なものだぞ。――ここじゃ詳しいことは解らない。御数寄屋橋へ行って、書き役の方に伺ってみるがいい」
「有難うございます、それじゃ」
「待て待て、
笹野新三郎、即刻支度を整え、平次ともども御数寄屋橋内、南奉行所に急ぎました。
書き役は留守。
思いの
「これは大変でございますよ、笹野様。昨日の二月十八日は、東海道
「えッ」
「それから四月六日には
「それは大変だ」
と笹野新三郎。
「してみると、あの『さざなみ』は泥棒の
銭形平次はこんな事だろうとは思いましたが、いまさら事件の重大さに驚くばかりです。多分、全国の泥棒どもが年に一度の顔寄せに、お互の功名を誇り合った上、獲物を何かの方法で分配でもするのでしょう。
「平次、しっかりやれ、これは容易ならぬことだぞ」
笹野新三郎は平次の腕に期待をかけます。
平次は笹野新三郎と打合せて、八丁堀を繰出したのは
『さざなみ』に行って一応ガラッ八の様子を見ようと思いましたが、なまじそんな事をして、曲者に用心させてはと、手先捕方を隙間もなく配置し、ともかく夜の明けるのを待つことにしたのです。
「何と申しても、怪しいのは倉賀屋でございます。自分の持家を寄合に使っているのを、知らないはずはないのに、何かと
平次は倉賀屋へ第一番に疑いをかけた上、手に及ぶかぎりの下っ引を動員して、二人の虚無僧の落着いた先を調べさせました。
「夜が明け切っては、近所の家で驚く。もうよかろう平次」
笹野新三郎は若いだけに功名を急ぎます。
「それッ」
平次の号令につれて、前後左右から倉賀屋の囲みを絞ったのは
「御免よ。板原左仲様御屋敷から来たが、かねて、入質の大小、今日の御登城に御用いになるそうだ。すぐ出して貰いたい」
「板原左仲様――とおっしゃる方は存じませんが」
臆病窓を開けた手代、淡い暁の光の中に立っている、お屋敷者らしい男を、不審そうに見やりました。
「そんな事があるものか、御身分柄内々の質入だ。主人に逢えば判る、
「ヘエ――」
手代は争い兼ねて潜戸を開けると、
「御用ッ」
「神妙にせい」
一隊の人数が、
が、しかしこの襲撃も、とんでもない結果になってしまいました。折角狙って来た倉賀屋の
家捜しをしてみると、蔵の中はお触書にある
「やはり、この総七は泥棒の片割れでした。――質屋になって、永いあいだ仲間の盗んだ品を
平次の解ったのは、たったこれだけです。
「番頭は?」
「仲間割れがしたか――主人の総七が裏切る様子でもあったので手を廻したのかも解りません」
「引続いて頼んだ、手を緩めてはならぬ」
与力笹野新三郎は、万事を平次に任せて、朝のうちに引揚げてしまいました。
「ところで、八はどうしているだろう。この騒ぎにも起き出さないのは、よっぽど疲れたのかな」
平次は『さざなみ』へ行ってみました。手を掛けると、締めたはずの表戸はわけもなく開いて、サッと射込む朝の光の中に、布団で
「馬鹿野郎、なんてエざまだ、一人前の岡っ引が――」
平次は
しかしこの失敗は事件のクライマックスでした。
「親分は?」
お勝手口から臆病らしく顔を出した八五郎が、
「相変らずよ。腕組みをして、唸ってばかりいるんですもの、――何とかして下さいな、八五郎さん」
恋女房のお静も、すっかり持て余し気味です。
「大丈夫ですか、いきなり怒鳴りゃしませんか」
八五郎はあの失敗以来、すっかり御無沙汰して、この
「八か、大丈夫だ。噛付きはしないから、入って来い」
奥から思ったよりも晴々しい平次の声。
「ヘエ――」
ガラッ八は恐る恐る小腰を
「なんて恰好だい。まア入れ、八」
「ヘエ――、もう怒っちゃいませんか、親分」
「
「正月の十日ですよ、早いもので」
「年寄り染みた事を言うな。――その十日に来たのはお前の運がなかったんだ、これを見てくれ」
「ヘエ――」
ガラッ八は恐る恐る滑り込みました。平次は畳の上へ置いた半紙へ、変哲なものを書いて一生懸命それと睨めっこをしているのです。
「これは何だと思う、八」
「橋の欄干じゃありませんか。――あッ、あのお年玉の手拭の模様を書いたんで? 親分ですかえ、これは、うめえもんだね」
「お世辞を言っちゃいけねえ。――手拭は虚無僧にやってしまったが、心覚えがあるから、あの模様の一番初めのを書いてみたんだ」
「ヘエ――」
「ところで。橋の欄干としてどこにこんな橋があるだろう」
平次の問は第二段に進みました。
「両国ですよ、間違いはありません。
「なるほど、両国かも知れない。――あの辺には見世物と水茶屋ばかりだが、道具屋のあるのを知ってるかい」
「知りませんよ」
「実はな、八、この手拭の染め模様が何かの
「ヘエ――」
平次の
「お
「…………」
「
「ヘエ、――暦はありましたか」
「あったよ、御用人にお願いするまでもないや、
平次は半紙一枚に刷った、粗末な木版の盲暦を出して、見せました。刀の大小を並べたり、賽の目や、太鼓や、田植え笠や、塔や、いろいろのものを画いて、
「これで見ると、十日と読ませるには、塔の蚊を画いている手拭の模様の最初のがそれだ。
「なるほどね、道理で無闇に足が長いと思った」
「手拭の模様は十二に分けてあったから、最初は正月とみていい、正月の十日というと今日だ」
「…………」
妙な緊張に、ガラッ八は唇を
「両国橋の近くに、何かあるに違いない、――どうだ八、この
平次はこんな事を言って落着いているのです。
「それじゃ行きましょう、親分、十日の日もあと
「その暮れるのを待っているんだ」
「風をくらって逃げたら?」
「大丈夫。お品さんが、利助
「ヘエ――」
ガラッ八は
*
その晩、両国の料理屋、
銭形の平次は、しかし、これを自分の手柄にはしませんでした。
「輪飾りが裏返しになっていたのを見ただけさ、いやはや」
そう言って首筋を掻く平次だったのです。