小石川水道端に、質屋渡世で二万両の大身代を築き上げた
「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい」
「ハイ、唯今、すぐ参ります」
女中も庭男もいなかったとみえて、奥から飛出したのは
「あッ、これはたまらぬ。エヘンエヘンエヘン、そこを開けて貰おう。エヘンエヘンエヘン、寒いのは我慢するが、年寄りに煙は大禁物だ」
「どうしましょう、ちょっと、お待ち下さい。燃え草を持って参りますから」
若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまま、面喰らって物置の方へ飛んで行ってしまいました。
底冷えのする梅二月、宵といっても身を切られるような風が又左衛門の
その時でした。
どこからともなく飛んで来た一本の
「あッ」
心得のない人ではありませんが、全く闇の
「どうしたどうした、大旦那の声のようだが」
店からも奥からも、一ぺんに風呂場に
見ると、
「俺は構わねえ、外を見ろ、誰が一体こんな事をしやがった」
豪気な又左衛門に励まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立っているのは、
「
「あ、誰かあっちへ逃げて行ったよ。追っかけて御覧」
と言いますが、庭にも、木戸にも、往来にも人影らしいものは見当りません。
「こんな物が落ちています」
余事はさておき――、
引抜いたあとは、つまらない
「これは大変だ。しかし
仔細らしく坊主頭を振ります。
昨夜の吹矢を、後で詮索をする積りで、ほんのしばらく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなってしまったのです。
「誰だ、吹矢を捨てたのは」
と言ったところで、もう後の祭り、故意か過ちか、とにかく、又左衛門に大怪我をさした当人が、後の
「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗ってあったかも知れぬて」
「え、そんな事があるでしょうか」
又左衛門の
「そうでもなければ、こんなに膨れるわけがない。この毒が胴に廻っては、お気の毒だが命がむつかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思うが、いかがでしょうな」
こう言われると、又次郎はすっかり
「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
千貫目の
「ネ、親分、右の通りだ。田代屋の若旦那が銭形の親分にお願いして、親父の片腕を無くさせた相手を取っちめて下さいって、拝むように言いましたぜ」
「たかが子供の玩具の吹矢なら、洗い立てして、かえって気の毒なことになりはしないか」
銭形の平次は、容易に動く様子もありません。
「吹矢は子供の玩具でも、毒を塗るような
「それは解るもんか」
「その上、吹矢筒の吹口には、女の口紅が付いていたって言いますぜ」
「何だと、八」
「それお出でなすった。この一件を打明けさえすりゃ、親分が乗り出すに決まってると思ったんだ」
ガラッ八はすっかり悦に入って内懐から出した
「八、そりゃ本当か。無駄を言わずに、正味のところだけ話せ」
「正味もおまけもねえ。吹矢筒の吹口に、こってり口紅が付いているんだ。その上、吹矢が飛んで来た時、外に居たのは嫁のお冬だけ。疑いは真一文字に恋女房へ掛って行くから、又次郎にしては気が気じゃねえ」
「フム」
「銭形の親分にお願いして、何とかお冬の
「誰しも
「それが
「何が?」
「親分も知っていなさるだろうが、田代屋の総領というのはあの水道端の又五郎って、
「そうか、あの水道端の又五郎は、田代屋の倅か」
「それですよ親分、十年も前に勘当されて、しばらく
「フフ、話は面白そうだな」
「呆れた野郎で、世間では、田代屋の
「そんな事もあるだろうな」
「吹矢はその小倅の留吉のだから面白いでしょう」
「何だと、八、なぜ早くそう言わねえ」
「へッ、へッ、話をこう運んで来なくちゃ、親分が動き出さねえ」
「馬鹿野郎、掛引なんかしやがって」
そう言いながらも平次は、短い羽織を引っ掛けて、ガラッ八を追っ立てるように、水道端に向いました。
先はたかが質屋渡世の田代屋ですが、二万両の大身代の上、仔細あって公儀からお声の掛った家柄、まさか着流しで出かけるわけにも行かなかったのです。
向うへ行ってみると、待ってましたと言わぬばかり。
「銭形の親分、よくお出で下さいました」
若主人、又次郎は、
「親分、これは若旦那の又次郎さんで――」
ガラッ八が取りなし顔に言うと、
「有難うございました。滅多に人を縛らないという銭形の親分がお出で下すったんで、どんなに心強いかわかりません。
山の手の広い構え、土蔵と店の間を抜けて、
やがて奥へ通って、大主人の又左衛門に引合されましたが、これは思いの
「銭形の親分だそうで、よくお出で下さいました」
「とんだ災難でございましたな、どんな様子で?」
「なアに腕の一本くらいに驚く私じゃないが、やり口がいかにも憎い。刀か
暗に嫁のお冬と言わないばかり、無事な右手に握った
「吹矢筒はそのままにしてあるでしょうな」
と平次。
「大事な証拠ですから、私の側から離しゃしません、この通り」
倅の又次郎が手を出しそうにするのを止めて、自分で
平次は受取って、端っこを包んだ手拭をほぐすと、中から現れたのは、なるほどはっきり紅いものの付いた、吹口。
「ね、銭形の親分、口紅でしょう」
「そうでしょうね」
平次は気の乗らない顔をして、一と通り吹矢筒を調べると、
「矢はやはり見えませんか」
解り切ったことを言います。
「それが見えないから不思議で――」
「たしかに毒が塗ってあったでしょうな」
「それは間違いありません。
「なるほど、ところでそんな恐ろしい毒を手に入れるのは容易じゃありませんね」
「ところが、親類に
「えッ」
「嫁の里が
「…………」
平次は黙って、この頑固な老人の顔を見上げました。麹町六丁目の桜井屋というと、山の手では評判の生薬屋で、お冬の里がそこだとすると、これは全く容易ならぬことになります。
「どうでしょう銭形の親分、これでも疑う私が悪いでしょうか。打明けると家の恥だが、隣に住んでいる総領の又五郎、やくざな野郎には相違ありませんが、近頃は幾らか固くもなったようだし、自分から進んで親の側へ来るくらいだから、少しは人心もついたのでしょう。私も取る年なり、いずれ勘当を許して、せめて隠居料に取り除けておいた分だけでも孫の留吉にやりたいと話したのがツイ四五日前の事だ。その舌の乾かぬうちに、私の命を狙った者があるんだから変でしょう――こんな事を言うと、倅の又次郎が
又左衛門の心持は、ますます明らかでした。又次郎は席にもいたたまらず、滑るように敷居の外に出ると、誰やらそこで立聴きをしていたものか、又次郎のたしなめる声の下から、クッと忍び泣く声が洩れます。
「一応
「サア、どうぞ――。これ、親分を御案内申しな。自由に見て頂くんだぞ」
「ハイ」
次の間から出て来た又次郎、――若い美しい女房に溺れ切って、家業より外には何の楽しみも望みも持っていないらしい若者、父親の
「これが家内」
又次郎に引合されたのは、ひどく打ち
「それから、これが妹分のお秋」
これはお冬にも
これは後で又次郎に聞いた事ですが、妹といっても実は奉公人で、頼るところもない身の上を気の毒に思って、三年越し目をかけてやっている娘だったのです。いかにも育ちは良いらしく、物腰態度に、何となく上品なところさえあって、見ようによっては、町家に育った、嫁のお冬よりも遥かに美しく見えます。
続いて大番頭の長兵衛、手代の信吉、皆造、丁稚小僧までなかなかの人数ですが、平次は面倒臭そうな様子もなく一人一人に世間話やら、商売の事やらを訊ねて、お勝手から風呂場の方へ歩みを移します。
仲働きはお増というきかん気らしい中年者、飯炊きは信州者の名前だけは色男らしい権三郎。合間合間に風呂も
一と通り風呂を見廻った平次は、油障子を開けて外へ出ました。
「ね、親分、ここがその又五郎って、兄貴の家ですぜ」
いつの間にやら、ガラッ八が
「風呂場の障子が開けっ放しになっていると、この垣の根からでも流しに立っている人間へ吹矢が届かないことはないでしょう、――吹矢を飛ばした上で、筒を向うへ放り出すと――ちょうどあの辺」
「…………」
「もっとも、ここから五六間あるから、馴れなくちゃ、そんな手際の良いことは出来ねえ。この節は両国あたりの矢場で吹矢を吹かせるから、道楽者には、とんだ吹矢の名人がいますぜ」
「馬鹿ッ、何をつまらねえ事を言うんだ――黙っていろ」
「ヘエ――」
妙にからんだガラッ八の言葉を押えて、平次は垣の外から声を掛けました。
「
「何を言やがる――、ここからでも吹矢が届かないことはない――なんて、厭がらせを言やがって一体どいつだ」
飛出したのは、又次郎の兄、田代屋の総領に生れて、やくざ者に身を落した又五郎です。三十をだいぶ過ぎた、ちょっと良い男。
「あれ、お前さん、銭形の親分だよ。滅多なことを言っておくれでない」
後ろから袖を押えるように、続いて庭先に出たのは、三十を少し越したかと思う、美しい年増、襟の掛った
「何をッ、銭形だか、馬方だか知らねえが、厭な事を言われて黙っていられるけえ。
「兄イ、勘弁してくんな、たいした悪気で言ったわけじゃあるめえ。なア八、
平次は二人の間へ食込むように、垣根越しながら、又五郎を
「銭形のがそう言や、今度だけは勘弁してやら。二度とそんな事を言やがると、生かしちゃおかねえぞ、
又五郎は少し間が悪そうに、ガラッ八の頭から
「サア、銭形の親分、もう何もかもお解りだろう。家の者だって、外の者だって、遠慮することはない。縛って引立てておくんなさい」
外から帰って来た平次を見ると、又左衛門はいきり立って、皆んなの後から
「旦那、まだそこまでは解りません――が、吹矢を射たのは、御新造でないことだけは確かですよ」
「えッ、ど、どうしてそんな事が判ります」
「吹矢筒の口をもう一度見て下さい。付いているのは口紅に相違ないが、それは唇から付いたんじゃありません。唇から付いたんなら、もう少し
「えッ」
「見たところ、ほんの少しでも、口紅をさしているのは、この家の中では御新造だけだ。誰か悪い奴がそれを知っていて吹矢筒の口へ紅を塗って、庭へ捨てておいたんでしょう。その時すぐ、そこに居た者の指を見りゃ、一ぺんに判ったんだが惜しいことをしましたよ」
「フム――」
銭形平次の明察は、
「まだありますよ。吹矢は風呂の棚の上からなくなったと言いましたが、私は見当をつけて探すと、一ぺんに見つかってしまいました、これでしょう」
平次は二つ折にした懐紙を出して、又左衛門の前に押し開くと、その中から現れたのは、紛れもない磨いた油竹に美濃紙の羽をつけた吹矢――、もっとも吹矢はすっかり泥に
「あッ、これだこれだ、どこにありました」
「それを言う前に伺っておきますが、御新造は、その晩外へ出なかったでしょうな」
「え、風呂場からお父様をここへお運びして、それからズッとつき切りでございました」
お冬は救いの綱を
「そうでしょう、――ところでこの吹矢は庭の奥の土蔵の軒に、土の中に踏み込んであったのです」
「えッ」
「それも、女の下駄なんかじゃありません。職人や遊び人の履く麻裏で踏んでありました」
「ホウ」
又左衛門も又次郎も、声を合せて感歎しました。その一座の驚きに誘われるように、
「有難うございます。銭形の親分、私は、もうどうなることかと思いました」
お冬は敷居際に、泣き伏してしまいました。
事件はこんな事では済みませんでした。
紛れるともなく経った、ある日のこと、平次の家へ鉄砲玉のように飛込んで来たガラッ八。
「親分、大変ッ」
「何だ、ガラッ八か。相変わらず騒々しいね」
「落着いていちゃいけねえ、田代屋の人間が
「何だと、八?」
銭形の平次も驚きました。あわて者のガラッ八の言う事でも鏖殺は穏やかじゃありません。
「それッ」
と神田から水道端まで、一足飛びにスッ飛んで行くと、なるほど田代屋は表の大戸を締めて、中は煮えくり返るような騒ぎです。幸いガラッ八が聞き
年は取っても、剛気な又左衛門は、一番気が強く、これも少食のお蔭で助かった嫁のお冬と一緒に、家族やら店の者を介抱しておりますが、日頃から丈夫でない養い娘のお秋は、一番ひどくやられたらしく、
町名主から五人組の者も駆けつけ、医者も三人まで呼びましたが、何分、病人が多いのと、急のことで手が廻りません。そのうち平次は、
「ガラッ八、今朝食った物へ、みんな封印をしろ。鍋や皿ばかりでなく、
「合点」
平次のやり方は
吹矢で腕一本失った時と違って、今度は事件を揉み消すわけに行きません。一家中毒を起して小僧が一人死んだ上、あと幾人かは、生死も解らぬ有様ですから、平次が行き着く前に、町役人から届出て朝のうちに検屍が下る騒ぎです。
町医者立会の上、いろいろ調べてみると、毒は朝の飯にも汁にもあるという始末、突き詰めて行くと、井戸は何ともありませんが、お勝手の
「これは驚いた、これほどの猛毒は、日本はもとより
と、奎斎先生舌を巻きます。
「すると、その辺の生薬屋で売っているといったザラの毒ではないでしょうな」
と平次。
「左様、これほどの水甕に入れて、色も匂いも味も変らず、ほんの少しばかり口へ入っただけで命に係わるという毒は私も聴いたこともない。これは多分、――
「ヘエ――」
「耳掻き一杯ほどの鴆毒でも、何百金を積まなければ手に入るものではない、――イヤ何百金積んでも手に入らないのが普通だ」
奎斎老の述懐は、ますます平次を驚かすばかりです。
「
又左衛門は気を取り直して、一本腕の不自由さも、毒の苦しさも忘れてこんな事を言います。当てつけられているのは言うまでもなく嫁のお冬、これはまた不思議に丈夫でほんの少しばかりの血の道を起したといった顔色、
平次はそれを尻目に、小半刻水甕に齧り付いて、調べておりましたが、
「この
お冬を顧みてこう問いかけます。
「
「これだッ」
「何ですえ、親分」
とガラッ八。
「仕掛はこの柄杓だ。ちょいと気がつかないが、よく見ると底が二重になって、その間に薬が仕込んであったんだよ」
平次は
「あッ」
驚き騒ぐ人々の中へ、平次は盆の上に載せた柄杓を持って来ました。
「この通り、種はやはり外から仕込んだものに違いありません。家の者ならこんな手数なことをせずに、いきなり水甕へ毒をブチ込むところでしょうが、
「死んだ三吉でございました」
お冬はそう言って、ホッと胸を撫でおろしました。自分の上に降りかかった、二度目の恐ろしい疑いが、また平次の明察で朝霧のように吹き払われてしまったのです。
「それにしても又五郎はどうしたんだ」
思い出したように又左衛門はそう言いました。火事息子という言葉もあるくらいで何か騒ぎのあるとき駆けつけるのが、勘当された息子の
「なるほど、そう言えば変ですね」
と平次。
「だから、あっしは言ったんで、どうもあの垣の外が臭いって――」
とガラッ八。
「黙らないか、八、そんな下らない事を言っている暇に、ちょいと覗いて来るがいい」
平次にたしなめられて、尻軽く外へ飛んで出たガラッ八、間もなくつままれたような顔をして帰って来ました。
「
「何、まだ雨戸が開かねえ」
「親分、恐ろしい寝坊な家もあったもんですね」
「そいつは可怪しい。来い、ガラッ八」
平次は弾き上げられたように起ち上がりました。改めてそう言われると、又左衛門もガラッ八も、お冬も背筋をサッと冷たいものが走ったような心持になります。
庭を突っ切って、垣を飛び越えると、平次はいきなり雨戸を引っ
「今日は、今日は、隣から来ましたがね、――田代屋の旦那が、御用があるそうですよ」
続けざまに鳴らしましたが、中は静まり返って物の気配もありません。赤々と雨戸に落ちる陽ざしはもう昼近いでしょう。どんな寝坊でも、雨戸を閉めておかれる時刻ではありません。平次はガラッ八に手伝わせて、とうとう雨戸を一枚外してしまいました。
一足中へ踏み込むと、
「あッ」
又五郎とその女房のお半は、どんなにもがき苦しんだことか、
「子供は? 留ちゃんは?」
「ここだここだ」
ガラッ八は、部屋の隅から、菜っ葉のようになっている留吉を抱いて来ました。食べた物が少なかったのか、こればかりはまだ寿命を燃やし切らず、身体も動かず声も立てませんが、頼りない眼を開いてまぶしそうに
「留ちゃん、留ちゃん、大丈夫かい、しっかりしておくれよ」
この人の好い叔母に抱かれて、それでも留吉は
「大丈夫だよ留ちゃん、もう大丈夫だよ、叔母ちゃんがついているから、お泣きでないよ」
お冬はそう言いながら、留吉を抱いて、
その後ろ姿をツクヅク見送った平次。何を考えたか、自分も母家へ取って返して、薄暗い中に
「親分、どこへ」
後ろからガラッ八、これは下駄と草履を
「八、お前はしばらくここにいるがいい」
「ヘエ――」
「俺は少し行って来るところがある」
「あれは一体、どうした事でしょう親分、あっしには少しも解らねえ」
「正直に言うと俺にも解らないよ」
「ヘエ――」
「八、恐ろしい事だ。いや、もっともっと恐ろしい事が起りそうで、どうもジッとしちゃいられねえような気がするんだ」
「親分、大丈夫ですかえ」
「…………」
「親分」
半刻ばかりの後、八丁堀組屋敷で、
「旦那様、これは一体どうした事でございましょう。一と通りの家督争いとか、金が
「フム、だいぶ変った事件らしいが、平次、お前は本気で見当がつかないというのか」
笹野新三郎は妙に開き直ります。
「ヘエ――そうおっしゃられると、
「それみろ、銭形の平次にこれほどの事が解らぬはずはない。ともかく、思いついただけを言ってみるがよい。お前で解らぬことがあれば、
「有難うございます。旦那様、それでは、平次の胸にあることを、何もかも申上げてしまいましょう」
「…………」
「あの、田代屋又左衛門というのは、確か、
「その通りだ。それほど知っているお前が、何を迷うことがあるのだ」
「ヘエ――、するとやはり、田代屋一家内の
「まずそう考えるのが筋道だろうな」
「田代屋が一とまず片付けば、次は同じく忠弥を訴人した
「その通りだよ平次」
「また浪人どもを狩り集めて、謀叛を企てる者がないとも申されません――」
「いや、そこまではどうだろう」
「それにしても不思議なのは、あの毒薬でございます。医者の申すには、町の生薬屋などに、ザラに売っている品ではない、たぶん南蛮筋の秘法の毒薬でもあろうかと――」
「平次、お前はあの事を知らなかったのか」
「とおっしゃいますと」
「田代屋一家の騒ぎは大した事ではないが、私にはその毒薬の
「…………」
「平次、これはお上の秘密で、誰にも明かされないことになっているが、心得のために話してやろう。漏らしてはならぬぞ、万々一、人の耳に入ったら最後、江戸中の騒ぎにならずには済むまい」
「ヘエ――」
笹野新三郎は自分も
「丸橋忠弥召捕の時、
「…………」
「玉川に流し込んで、江戸の武家町人を
「ヘエ――、存じております」
「ところが、二本榎の貸家で見つかった毒薬というのは、その実二百三十樽だけで、あと百樽の行方がどうしても判らぬ」
「エッ」
「一味の者は誰も知らず、係りの平見
「…………」
「もしその百樽の毒薬が由井、丸橋の残党の手に入り、諸方の井戸や上水に投げ込まれるようなことがあっては、江戸中の難儀はもとより、ひいては天下の騒ぎだ。田代屋一家
「…………」
「平次、これは大変な事だ、一刻も早く曲者の
笹野新三郎の思い入った顔を、平次は
「旦那様、しばらくこの平次にお任せを願います」
「何?」
「せめて今日一日、この平次の必死の働きを御覧下さいまし。その代り、弓師藤四郎、奥村八郎右衛門はじめ、御老中方お屋敷に人数を配り万一の場合に備えて頂きとうございます、その手段は――」
平次は新三郎の耳に口を持って行きました。
平次はその足ですぐ田代屋へ取って返しました。奥へ通されて、主人の又左衛門と相対したのはもう夕暮れ。小僧の三吉と、隣に住んでいた又五郎夫婦の死体の始末をして、家の中は上を下への混雑ですが、幸い他の人達は全部元気を取り返して、青い顔をしながらも忙しそうに立ち働いております。
「実はイヤな事をお聞かせしなければなりませんが――いよいよ、毒を盛った人間の目星がつきましたよ」
「ヘエ、どこのどいつでございます」
腕の痛みにも、毒薬の苦しさにもめげず、相手が判ったと聞くと又左衛門は膝を乗り出します。
「それが厄介で、いよいよこの家から、縄付を出さなきゃアなりません」
「やはりあの女で――」
「いや考え違いなすっちゃいけません、御新造は何にも知りはしません」
「ヘエ――」
「風呂場から吹矢を盗んで、外へ捨てて相棒に土の中へ踏み込ませたり、
「誰です、その野郎は、早く縛って下さい」
「いや、そう手軽には行きません。田代屋一家を
「田代屋一家を怨む者というともしや――?」
「気がつきましたか旦那、あれですよ、丸橋忠弥の一味――」
「エッ、家の中の誰がその謀叛人の片割れです、太い奴だ」
「シッ、静かに、人に聴かれちゃ大変――つかぬ事を訊きますが、あの奉公人とも養い娘ともつかぬお秋――、あの女の身許がよく判っていましょうか」
「いや――そんな事はありゃしません。あの娘に限って」
「あの娘の毒に
「そう言えば――」
二人の声は次第に小さくなります。
「太い女だ、三年この方目をかけてやった恩も忘れて」
と又左衛門、腹立ち紛れにツイ声が高くなります。
「今騒いじゃ何にもなりません。あの女は
平次の声は、
間もなく田代屋を抜け出した一人の女――小風呂敷を胸に抱いて
「誰だ?」
中からは
「兄さん、私」
「お秋か、今頃何しに来た」
「大変よ、手が廻ったらしい」
「シッ」
中からコトリと桟を外すと、羽目板と見えたのは
「どうしたんだ、話してみろ」
伏せていた
「兄さん、あと一刻経たないうちに、ここへ役人が乗込んで来ます。捕方同心の一隊百人ばかり、八丁堀を出たという話――」
お秋の息ははずみ切っております。
「誰がそんな事を言った」
「銭形の平次」
「どこで」
「田代屋の奥で、旦那と話しているのを聴いて、夢中になって飛出して来ました」
「馬鹿ッ」
「…………」
「平次がそんな間抜けな事を、人に聴かれるように言うはずはない、お前があわてて飛出す後を
「エッ」
思わず振り向くお秋の後ろへ、ニヤリと笑って突っ立っているのは、果して銭形の平次の顔です。
「あッ」
驚くお秋を突き退けて、
「御用だぞ、神妙にせい」
一歩平次が進むと、早くも五六歩飛退いた曲者、
「平次、寄るな、この龕灯の先を見ろ。向うにある真っ黒なのは
「…………」
寸毫の隙もない相手の気組みと、その物凄い顔色、わけても思いもよらぬ言葉に、さすがの平次も驚きました。
「寄るな平次、
平次もさすがに驚きましたが、相手の気組みを見ると、全くそれくらいのことはやり兼ねないのは判り切っております。
「待て待て、そんな無法な事をして、江戸中の人間に難儀をかけるのは本意ではあるまい。天運とあきらめて、神妙にお縄を頂戴せい」
「何を馬鹿な、俺は死んでも仇は討てるぞ、見ろッ」
右手に
「あッ」
龕灯を取り落すと同時に飛込んだ平次、しばらく闇の中に揉み合いましたが、どうやら組伏せて、早縄を打ちます。
物置の外へ出ると、ガラッ八、これはお秋を縛って、
「親分、お目出とう」
「お、八か、骨を折らせたなア」
*
捕まえた曲者は、
調べたら面白いこともあったでしょうが、人心の動揺を
平次は老中阿部豊後守のお目通りを許され、身に余る言葉を頂きましたが、相変らず蔭の仕事で、表沙汰の手柄にも功名にもなりません。それもしかし気にするような平次ではありません、時々思い出したように、
「あのお秋って娘は可哀想だったよ。田代屋の又次郎に
こんな事をガラッ八に言って聴かせました。