「親分、あっしは、気になってならねえことがあるんだが」
「何だい、八、
捕物の名人銭形の平次は、その子分で、少々クサビは足りないが、岡っ引には
遅々たる春の日、妙に生暖かさが
「ね、親分、あっしは、あの話を、親分が知らずにいなさるはずはねえと思うんだが――」
「何だい一体、その話てえのは? 横町の乾物屋のお時坊が嫁に行って、ガラッ八ががっかりしているって話ならとうに探索が届いているが、あの
「冗、冗談でしょう、親分、誰がそんな馬鹿なことを言いました」
「誰も言わなくたって、銭形の平次だ、それくらいのことに目が届かなくちゃ、十手捕縄を預かっていられるかい」
「そんな馬鹿なことじゃねえんで――あっしが気にしているのは、親分も薄々聞いていなさるでしょうが、近頃大騒ぎになっている本所の泥棒――、三日に一度、五日に一度、
「馬鹿野郎ッ」
みなまで言わせず、平次はとぐろをほぐして
「へえ――」
「へえ――じゃないよ、世間様の言うのは勝手だが、
「相済みません」
「本所は石原の
「――ヘエ、面目次第もございません」
「馬鹿だなお前は、なんて恰好だい、借金の言い訳じゃあるまいし、そう二つも三つも、立て続けにお辞儀をしなくたってよかろう。それに、
平次もとうとう吹出してしまいました。こうなると、何の小言を言っていたか、自分でも判らなくなってしまいます。
「御免下さい」
折から、入口の格子の外で、若い女の声。
「八、ちょいと行って見ておくれ、どうせお静の客だろうが、
「ヘエ――」
ガラッ八の八五郎は、それでも素直に立上がって今叱られたばかりの狭い袷の前を引っ張りながら縁側から入口を覗きましたが、何を見たか、弾き返されたように戻って来て、
「親分、た、大変」
日本一の
「何だ、騒々しい」
「石原のが来ましたぜ」
「
「いえ、娘のお
「何だ、早くそう言えばいいのに、丁寧にこっちへお通しするんだ。それから、お茶を入れる支度をしてくれ、――いつまでもそんなところに突っ立ってる奴があるかよ、坐って取次ぐんだぜ、膝っ小僧に気を付けな、お品さんに笑われるじゃないか」
平次は小言を言いながらも、この面喰らった正直者を、
お品というのは、石原の利助――平次と事ごとに張合った、本所の御用聞――の一人娘で、この時二十二三だったでしょう。二三年前一度縁付いて、夫に死なれて父親の許へ帰って来ましたが、若後家というよりは、いかにも娘々した、水の
「お品さんが来てくれるとは珍しいネ、お静は折悪しく買物に出かけたが、どうせすぐ帰るだろう、ゆっくり話していって構わないだろうネ」
小さい時から知っている平次は、ツイこういった、わけ隔てのない心持で、渋い茶などを入れてやりました。
「有難うございます。そうもしてはいられませんが、――実は折入ってお願いがあって伺いました」
娘はモジモジして、何やら言い兼ねている様子です。
「お品さんが、私に? ヘエ――どんな話かは知らないが、私に出来ることなら何なとして上げよう――何、人が居ちゃ言いにくい話? 大丈夫、お品さんも知っている八五郎が一人居るだけで、あとは皆んな出払っている。八なんざ馬みたいなもので、何を聞かしたって構やしない――あッ、そこに居たのか、ハッハッハッハッ、こいつは大笑いだ」
平次の高笑いに吹飛ばされたように、ガラッ八は納まりの悪い顔を、次の間へ引込めてしまいました。
「実は親分、お聞きでしょうが、あの本所の押込み騒ぎ――、
「そうだってね、利助兄哥もさぞ心配だろう」
「それが親分、困ったことになってしまいました。なにぶん入られたのは六軒とも大きい家ばかりで、
「ほう、それは大変」
「井筒屋の旦那が、折悪しく目を覚して、縁側まで出たところを、脇差で
「フム」
「そうでなくてさえ、石原のも年を取ったとか何とか、世間ではうるさく言いますし、お上の方でもこの間から、何かとやかましくおっしゃいます。石原の利助が、五十近くなって、十手捕縄を召上げられるような事があっては、世間へ合せる顔もないと言って、
「それは気の毒な」
「今日も、
お品は涙ぐましい眼を落して、しばらく声を呑みました。
「それは、さぞお困りだろう、私に出来ることなら、して上げたいが――」
「親分、私は親に隠れて、お願いに伺いました。このまま放っておけば、石原の利助の一代の名折れ、十手捕縄を召上げられないものとも限りません」
「…………」
「日頃は親分との間に、面白くない事もあるように聞かないではありませんが、親分は江戸中で評判の腕利き、それに、人の難儀を黙って見ていらっしゃる性分でないことも存じております。どうぞ、親子を助けると思召して、一と肌脱いでは下さいませんでしょうか、親分、お願いでございます」
お品はいつの間にやら、畳の上へ、水仕事で少し荒れているが、娘らしく
若々しいと言っても、御用聞の娘に育って、一度は縁付いたこともあるお品は、こう話をさせると、筋も通り情理も立って、隣の部屋で黙って聞いているガラッ八などよりは、余程性根の
「お品さん、よく判った。実は兄哥にすまないから、遠慮していただけの事で、そんな事に骨惜しみをする俺ではない、何とか角の立たないように、蔭から目鼻を開けて見よう――そう言うと、この平次はひどく器量がいいようだが、決してそんな
「有難うございます、親分」
「まだ礼を言うには早いよ。ところで、縄張違いの私では飛込んで行っても何かと困ることがあるだろう、お品さんにも少しは手伝って貰えるだろうネ」
「それはもう」
「女御用聞もしゃれているだろう、ハッハッハッ、これは冗談だ」
平次は
その時ちょうど、お静も帰って来た様子。
「それじゃ、あまり遅くならないうちに、一と走り番場町の井筒屋まで行ってみてくるとしよう。お品さんは大した用事もあるまいから、お静を相手に、ゆっくり遊んで行きなさるがいい」
平次はガラッ八を促し立てながら、お静と入れ違いに、怪盗の跡を尋ねて、本所へ
「銭形の親分、有難うございました。親分がお出で下されば
井筒屋の番頭の言葉は、
「
と平次。
「ヘエ、昼前に済んで、主人の死体も始末いたしました。人間業らしくない泥棒が、本所中の
「とんだ災難だったネ」
「ヘエ、有難うございます。こんな事と知ったら、場所柄で、関取衆でもお願いしておくのでございました」
平次は番頭の愚痴に追っ掛けられながら、何かと見て廻りました。家族はかなり
「済まないが番頭さん、雨戸をすっかり締めて、昨夜泥棒が入った時と同じようにして貰えまいか」
「ヘエヘエそれは、わけもないことで」
井筒屋の雨戸をすっかり締め切ると、平次は一応外へ出て縁側を一と廻りしました。泥棒の入ったのは、南の縁側、
平次は有合せの鋸を借りて、
「八、
と平次。
「そんな事はやりつけないから、うまく行かないかも知れませんよ、親分」
「馬鹿野郎、そんな事をちょいちょいやられてたまるものか」
平次は冗談を言いながら、家の中へ入って、主人の寝部屋に陣取りました。
「ようがすか、親分」
「黙ってゴシゴシやりな、いちいち断る泥棒なんてものはないよ」
「…………」
ガラッ八は、泥棒の鋸引きにした雨戸へ、廻し鋸を入れて少しずつ、少しずつ引いております。
白昼、四方は相当やかましい時ですが、それでも、鋸の音は手に取るよう、両替屋の主人や番頭――日頃窃盗や押込に敏感になっている者が、どんなによく
「泥棒の入ったのは
と平次。
「ヘエ――かれこれ、
「月はなかったはずだね、昨夜は?」
「四月の七日でございます。お月様は夜半にはなくなります」
平次は、薄暗い中で、そのまま腕を
「八」
「ヘエ」
「もうたくさんだよ」
「そう言わずにもう少し、あとちょっとで
「馬鹿だな、そんな事をしたら雨戸は台なしだ、泥棒ごっこはもうたくさんだよ」
「そうですかね、こんなお手伝いならいつでもやりますよ」
「
「ところで番頭さん、あれだけの鋸引きが、聞えなかったのはどういうわけだろう。あんな大穴を二つもあけるには、どうしたって
平次には
「それがネ親分、
番頭は妙な事を言い出します。
「狸囃子――?」
「え、本所七不思議の一つの狸囃子でございますよ。こんな場所ですから、狐や狸のいるに不思議はありませんが、近頃はそれも毎晩のようで、うっかりすると寝そびれて、暁方になってウトウトすることがございます」
「それは変った話を聞くものだな、本所の狸囃子というのは話の種にはなっているが、
「知らない方は皆んなそうおっしゃいますが、一度本物を聞くと、不気味でなかなか寝付かれるものではございません」
「やはり狸が腹鼓でも打つといったことかネ」
と平次。
「そんな手軽なもんじゃございません。太鼓と笛で、馬鹿囃子そっくりですが、それが、遠いような近いような、
番頭はすっかり
「笛まで入るのは念入りだネ、どこの森でやっているとか、どこの木立でやっているとか、おおよその見当ぐらいは付くだろう」
「それが親分、不思議なんで、ずいぶん腕に覚えのある方が、狸退治をやるんだと言って、囃子の音に見当を付けて、出かけてみるんだそうでございますが、東かと思って出かけると、西の方から聞え、南の方のつもりで探していると、北に移るんだそうでございます」
「ヘエ、それは面白いな」
「ちっとも面白くはございません。私どもが聞いたんでも、
「いよいよ面白いな、泥棒が狸だとすると、フン
平次はすっかり悦に入って、
「親分、狸が雨戸を破ったり、人を斬ったりするでしょうか」
「そこだよ、俺にも解らなくって弱っているのは」
平次はこんな気楽な事を言いながら、一度締め切った雨戸を開けさせて、今度は、斬られた主人清兵衛の死体を、一応見せて貰いました。
右の肩から胸へかけて、たった一と
「親分、こいつは狸にしちゃ器用すぎますぜ」
とガラッ八。
「馬鹿、世の中には、どんな狸がいるか、手前なんかに解ってたまるものか」
「そうですかねえ、親分」
「ところで番頭さん、その狸囃子は、
「宵から始まって、夜中まで、いやどうかしたら、
「根気のいい狸だネ」
平次はそれっきり黙ってしまいました。狸に興味を失ったのでしょう。
「八、この泥棒狸の手口は、もう少し見なきゃア解らないようだ。この間から入られた家を、一軒残らず歩くとしよう」
「ヘエ――大変ですネ、そいつは」
「骨惜しみしちゃ、いい御用聞にはなれないよ。まず黙って
平次とガラッ八は、それから日取りを逆に取って、泥棒に入られた家を六軒、すっかり見てしまいました。
井筒屋の前に入られたのは、原庭の物持ち
その前に入られたのは、
その前は旗本、
その前は
こう調べ上げて石原の利助のところへ寄ったのは、もう夜でした。
「
「お、銭形のか、遠いところを、わざわざ気の毒だったな、なアに大した事じゃねえが、風邪を引いたのに、疲れが出たんだろう、明日あたりから、仕事の方に取りかかろうかと思っている」
利助は
「まア、大事にするがいい、無理をしちゃ後へ悪かろう」
「お品の奴が心配して、医者を呼べの、お
顔色は悪いが、相変らずの利かん気で、平次もすっかり、今日の始末を打明けそびれてしまいました。
そのうちに、お品は、晩の用意をして一本つけて参ります。
「何にもございませんが、有合せで」
といったような取りなし、これは馴れ合いずくですから、平次も遠慮するようなしないような、ズルズルベッタリ
「おや、ありゃ何だい――」
遠くの方から節面白く、太鼓と笛の
「あ、また始まりやがった」
石原の利助はあまり気にする様子もありません。
「何だいありゃ、兄哥」
「狸囃子さ、馬鹿馬鹿しい」
「押込の入った晩には、必ず狸囃子が宵から聞えるっていうが、あの音なんだネ」
「世間じゃそんな事を言うが、まさか狸が泥棒と
「いや、そうでもないよ兄哥、俺は一つ、明日は狸狩りをやろうと思うんだが、若い者を少し貸して貰えるだろうネ」
「構わないとも、どうせ遊んでいるようなものだ。あの泥棒ときた日には、若い者なんかの手に負える
平次は間もなく
「親分、どこへ行きなさるんで」
とガラッ八。
「黙ってついて来るがいい、狸のお宿を探すんだ」
「ヘエ――」
ガラッ八は渋々ながら、平次の後から、影のようにピタリとひっ付いて、やって行きました。
井筒屋の番頭が言ったように、馬鹿囃子はしばらく原庭の方から響いておりましたが、平次が原庭へ行った頃は、いつの間にやら方角が変って、それが松倉の方になっております。
「親分、あまりいい気味じゃないネ」
とガラッ八。
「何をつまらない、狸の方でガラッ八さんが怖いって言ってるぜ、黙ってついて来な」
平次は昼一度歩いた通り、原庭の金貸し後家のお紺の家から逆に取って、中の郷の石上左伝次の家まで五軒をいちいち調べて廻りましたが、さて何の
「今晩もまた、どこかへ入られるだろうが、困ったことに防ぎようがない、ガラッ八、帰ろうよ」
「ヘエ――」
二人はいつの間にやら
「明日は一つ狸退治だ。畜生ッ、その時こそ逃しはしねえぞ」
銭形の平次は、子分のガラッ八を
平次は
朝から始まって夕刻まで、
陽が暮れて引揚げる時、利助の子分に一
「見や、銭形とか何とか言ったって、あの
「全くだよ、狸が泥棒したって話は、
いやもう滅茶滅茶です。
平次はしかし驚く様子もなく、一向平気な顔をして、予期した幕切れを待っておりました。
それから三日目、とうとうその日が来ました。
「親分、お品さんが見えましたよ」
取次ぐガラッ八をかき
「お品さん、挨拶は抜きだ、あれはどうなった?」
「親分、とうとう出かけましたよ」
「そいつはしめたッ」
「親分に言い付かった通り、
「フムフム」
「すると笛辰は夕方からブラリと出掛けたんです。よっぽど後をつけようと思いましたが、万一
駕籠で来たくせに、あまりの緊張にお品は息を切っております。
「それで何もかも片付くだろう。平次の狸狩りにも、見る人が見れば
「有難うございます。この上はどうか、お出かけ下すって、手配をお願いします」
「いや、本所は石原の利助親分の縄張内だ、大急ぎで家へ帰って、どこまでもお品さんが思い付いた事にして、原庭の
「…………」
「狸は弱いから、手先が二人も行けばたくさんだが、金貸し後家のお紺の家には
「親分は」
「俺は行くまでもないだろう、狸はもう
「でも」
お品はひどく心許ない様子でしたが平次に追い立てられて、石原の家へ駕籠で帰りました。
その夜の捕物は、平次の狸狩りにもまして本所の人達を驚かしました。
大法寺の経蔵に向った二人の手先は、何の
同時に金貸し後家のお紺の家に向った一隊は、そんな手軽なわけに行きませんでしたが、お紺を始め、その手代の
本所を荒し廻った大泥棒、――井筒屋の主人まで殺した
「ヘエ、誠に恐れ入りました。狸囃子を使ったのは、本所の七不思議をもじったに相違ありませんが、実は貸本の『
と言っております。
この手柄を一人占めにして、石原の利助はどんなに面目をほどこしたかわかりません。近頃は利助に
が、利助にしては、これほど見当の違ったことはありません。自分が何にも知らないうちに、大手柄をしていたのですから、まるで夢のような心持です。
娘のお品を責めてみると、これはもう、言いたくて待ち構えていたところですから、何もかも平次の指金だったことを
薄々平次の息が掛っているとは思いましたが、そう
「平次
日頃面白くない仲だけに、利助も我慢の
「兄哥、冗談じゃない、俺は何を知るものか、狸狩りをやって物笑いの種を
平次はなかなか
「まアいい、せっかくそう言ってくれるなら、
利助はこんな事を言って、後は、お静の手料理で酒になりました。
*
「親分、あっしには
とガラッ八は、利助の帰って行く姿を見送りながら、平次に向いました。
「何でもないよ、六軒の雨戸を調べると、あとの五軒は、いかにも狸囃子に合せて、半刻も一刻もかかって引き切ったように、鋸目が細かくなっているが、お紺の家の雨戸だけは、鋸目が荒くて、一気に引っ切ったことが判ったんだ」
「なるほど」
「五軒も六軒も荒らした曲者が、物持で通ったお紺の家へ入らないのはおかしいと思われるから、自分の家へも入ったように、嘉七とお紺が細工をしたんだよ」
平次の観察は
「ところで、大法寺の経蔵でやった馬鹿囃子が、どうしてあんなに近くなったり、遠くなったり、東に聞えたり、西に聞えたりしたでしょう」
とガラッ八。
「
「なるほどね」
「それから、あの経蔵には、入口が一つと、窓が二つある、その一つ一つを開けたり閉めたりして
「ヘエ――そんな事もありますかねえ」
「まだ判らない事があるかい」
「あの日、昼一度廻ったのに、夜もう一度六軒の家を廻ったのは?」
「あれは
「狸狩りは?」
「そこで、翌る日狸狩りということにして、土蔵か、穴蔵かともかく、どの方角へも自由に囃子の音を響かせるにいい場所を探したんだ。お蔭で銭形の平次は間抜けになって、石原利助が器量を上げたのよ」
「つまらない事になったものですね」
「利助兄哥も、これで引込みが付き、俺もお品さんへの義理が済んだというわけさ」
平次はそう言って豊かにガラッ八を顧みました。頭の鈍いガラッ八にも、何となく