「親分、あれを聞きなすったかい」
「あれ? 上野の時の鐘なら毎日聞いているが――」
銭形平次は指を折りました。ちょうど
「そんなものじゃねえ、両国の小屋――近頃評判の地獄極楽の
一流の早耳、八五郎はまた何か面白そうな話を聞込んで来た様子です。
「地獄極楽の人形は凡作だが、招きの普賢菩薩が大した名作だってね」
「
「お倉と普賢菩薩を拝んで、極楽も地獄も素通りだろう。そんな野郎は浮ばれねえとよ」
「全くその通りさ、親分、――その普賢菩薩が、時々涙を流しているから不思議じゃありませんか、岡っ引
「
「冗談でしょう、親分」
ガラッ八をからかいながらも、銭形の平次は支度に取りかかりました。両国の活人形が泣いているというのは、どうせ
「出かけようか、八」
「ヘエ――、本当に行ってみる気ですか、親分」
「岡っ引冥利、お倉と普賢菩薩は拝んでおけと――たった今手前が言ったじゃないか」
「お倉だけは余計ですよ、――ところで親分、行ってみるのはいいが、朝でなくちゃ泣いていませんよ」
「寝起きの機嫌の悪いお倉だ」
「お倉じゃねえ、泣くのは仏体で」
「あ、そうそう」
平次はまだからかい
「明日の朝にしちゃどうでしょう、親分」
とガラッ八。
「早い方がいいぜ、明日行ってみたら普賢菩薩が笑っていたなんてえのは困るだろう。そうなると、岡っ引より武者修業を差向けた方がいい」
「口が悪いな親分、もっともここから向う両国までは一と走りだから、涙の乾く前に着くかも解らない」
二人は無駄を言いながら、朝の街を飛ぶように、両国橋を渡って、地獄極楽の見世物の前に立った時は、もう気の早い客が、五六人寄せかけておりました。
「いらっしゃい、御当所
木戸番はお倉という
「八、大層な木戸番だな」
と銭形の平次も少し感に堪えます。
「ね、親分」
八五郎のガラッ八は、呑込み顔に
「なるほど、これは凡作だ」
平次も驚きました。地獄極楽の活人形は話に聞いた通りの凡作で、凄味も有難味もありません。
「
ガラッ八は袖を引きます。
「馬鹿野郎、そんな罰の当ったことを言っちゃならねえ」
「菩薩方の張り店ときた日にゃ親分――」
「黙らないかよ、八」
二人は
「これは大したものだ、まるで作が違う」
少し彩色は濃厚すぎますが、実に非凡の出来栄え、右手に
「親分、あの仏様の眼を見てやって下さいよ、少し濡れているでしょう」
とガラッ八。
「眼ばかりじゃねえ、宝冠の
「ヘエ――」
「冠も頬も襟も汚れているのは、勧進元の細工にしちゃ念入りすぎるぜ、それに、夜が明けてからもう二た
平次は稼業柄で、妙なところへ気が付きます。
「…………」
「八、手前涙の味を知ってるかい」
「近頃はトンと泣かねえが、子供の時お袋に叱られて泣いていると、口へ涙が流れ込んだことがありますよ。汗みたいな塩っ辛い味だと思ったが――」
ガラッ八もこう言うより外はありませんでした。普賢菩薩の涙を見上げている平次の態度が、
「手前も仏様の涙を
「あっしが?」
「人間の涙は塩っ辛いが、勧進元の細工なら味があるわけはねえ、本当に仏像の涙なら
「ヘエ――」
「幸い朝のうちで小屋の中はガラ開きだ。今のうちにちょいと舐めてみな」
「親分、そりゃ本当ですかい」
ガラッ八も驚きました。日頃言い付けに
「嫌かい」
「嫌じゃありませんが――ね」
「岡場所のドラ猫みたいな
「安心していますよ、――驚いたな、どうも」
「嫌なら
銭形平次ともあろう者が、本当に中二階へ登りそうな様子になるのです。
「じょ、冗談じゃねえ、銭形の親分がそんな事をした日にゃ、江戸中の物笑いだ。あっしがやりますよ、やりますとも」
親分思いの八五郎は、こうなるともう悪びれませんでした。普賢菩薩の涙を舐めてみろと言う平次の言葉には、何か重大な底のあることは、もう疑う余地もなかったのです。
八五郎は黙って
「お前さん、そこへ登っちゃ困るじゃないか」
後ろから引下ろしそうになる男は、八五郎が懐からちょいと、十手を覗かせるとそのまま黙って引っ込んでしまいました。
中二階に登って及び腰になると、ちょうど仏体に手が届きます。
「…………」
仏像の涙を薬指に付けて、ほんの少しばかり舐めた八五郎の顔を、平次は世にも面白そうに見上げました。
「どうだ、八、塩っ辛いだろう」
降りて来たガラッ八を迎えるように、平次はこう言うのでした。
「どうしてそれが?」
「白く塩が溜っているじゃないか、あれが塩っ辛くなきゃア、どうかしているよ」
それから三日目。
「親分、大変ッ」
それとはなしに、東西両国を見張らせていたガラッ八が、鉄砲玉のように平次のところへ飛込んで来ました。
「どうした、八、普賢菩薩が笑い出したか」
「そんな事なら驚かねえが、今度は殺しだ」
「何?」
平次はピンと弾き上げられたように坐り直しました。
「両国には相違ねえが、あの小屋からずっと離れた
「行ってみよう、死骸はまだそのままだろうな」
「
「そいつはいい
平次とガラッ八はそのまま両国へ――。
人混みを掻き分けて入ると、亀沢町のとある路地に、
「おや、銭形の」
「
嫌な者に逢ったとは思いましたが、平次はさすがに、縄張にこだわる男ではありません。
「この辺は石原の親分の縄張だが、銭形のは
「とんでもない」
平次は少し尻込みしました。やくざや遊び人と違って、岡っ引御用聞に縄張などがあるわけはなかったのです。
「それじゃ俺が出しゃ張っても、文句はあるまいね」
「それはもう、三輪の兄哥、お互にお上の御用を承る身体だから、一刻も早く犯人を挙げさえすりゃいいわけで」
「
「?」
三輪の万七のニヤリとする顔を見ると、ガラッ八はそっぽを向いてペッと
「この上、銭形のが来たところで、気の毒だが仕事はあるめえよ」
万七は言いたい放題の事を言うと、背を向けて人混みの中へ
「親分、
「銭形の親分さん、お助け――」
お倉は摺れ違いざま、平次の耳に
「…………」
平次は黙ってそれを見送りました。が、三輪の万七とお倉の姿が見えなくなると、
「八、手を貸せ、少し調べてみよう」
死骸の
「親分、大変な怪我じゃありませんか」
とガラッ八。
「それだよ、見ろ、八、身体中傷だらけじゃないか」
死骸の帯を
「袋叩きにされたんだね、女一人の仕事にしちゃ、少し念が入りすぎだよ」
平次はそんな事を言いながら、
「
とガラッ八。
「馬鹿だね、その雪駄の片っ方はお倉の家にあったのさ、
「なるほどね、お倉の家――てえのは、いずれこの辺でしょうね」
「細工の器用なところを見ると、すぐそこってことはあるまいが、いずれ十軒とは離れちゃいまい、訊いてみな」
平次が言うまでもありません。好奇心でハチ切れそうになっているお立会いの衆は、路地を入って三軒目がそれで、母親と二人で住んでいるお倉が、あれほどの
「
「ヘエ――」
八五郎は一とわたりお立会いの衆を眺めましたが、馴れた眼で見当を付けると、何となく落着き兼ねた中老人を捕まえて、
「お前さんは知っていなさるだろう、掛り合いなんかにはしない、殺された男の身許だけでも教えてくれ」
単刀直入に訊いてみました。
「本当に掛り合いになりませんか」
「それはもう」
この頃の人が、どんなに事件に掛り合いになるのを恐れたか、今の人には想像もつかない心理があったのです。
「仏師の
「エッ」
「二代目
「そりゃ大変だ」
銭形の平次が乗り出した時は、中老人は早くも人混みの中に姿を隠してしまった時でした。
平次がすっかり緊張して、検屍の役人が来るまでの、たった
「親分、あのお倉というのは、勘兵衛の元の女房だったそうですよ」
早耳のガラッ八は、ちょっと姿を隠した間に、これだけの事を聞き込んで来ました。
「どこでそんな事を聞き出したんだ」
「地獄極楽の活人形を彫った作人雲龍斎又六の弟子は皆んな知ってまさア」
「それを承知で、又六はあの小屋に使っていたのか、――勘兵衛と又六は商売敵で、恐ろしく仲が悪かったはずだが」
「又六はそんな事を知っていたか知らなかったか、とにかく弟子達がよく知っていて、師匠の又六が小屋へ出るたんびに、お倉へ優しい声をかけるのを、蔭で笑っていましたよ」
「そうか」
「そう解れば、勘兵衛を殺したのは、やはりお倉じゃありませんか」
とガラッ八。
「勘兵衛がお倉を殺すなら解っているが、お倉が勘兵衛を殺すのはどういう訳だ」
「世間じゃ、お倉が勘兵衛を捨てて飛出したって言うが、その実、勘兵衛がお倉を追出したのかも解りませんぜ」
「そんな事はどうでもいいが、――女が一人で若い男を袋叩きに出来るかい」
「袋叩きにしたのは他の者で、ヒョロヒョロになってここへ来たところをお倉が殺したとしたら?」
「そんな事があるものか、雪駄が片っぽお倉の家にあるというのに、勘兵衛の
「あッ」
「そんな事を言っていると、三輪の親分に笑われるばかりだ――」
「それじゃ親分」
「勘兵衛を殺したのは大の男さ、――それより、地獄極楽の小屋へ行って、見付けたいものがある、――ちょうどお役人が見えたようだ、ここはお任せして引揚げようか」
「…………」
平次の明察の底の深さを知っているガラッ八は、そのまま黙って後ろに従いました。そこから五六町、小屋は
二人が小屋へ入った時は、まだ木戸を開けたばかり、お倉に比べると一向魅力のない大年増が、型のごとく塩辛声を振り絞っておりますが、どうした事か、更に客の入る様子はありません。
「御免よ」
「ヘエ、いらっしゃい」
「客じゃねえ」
「おや、銭形の親分さん、おみそれ申しました、どうぞこちらへ」
「又六師匠はこちらへ来なさるかえ」
「毎日
「
「ヘエ――、どういたしまして」
又六の弟子で、小屋の取締りを兼ねている、中年者の
「お倉が縛られたってね」
平次はその顔を真っ直ぐに見詰めながら、ズバリと言って
「ヘエ、元の亭主を殺したんだそうで」
「たいそう早耳じゃないか、俺も今それを聞込んだばかりなんだが」
「…………」
「まア、いいや、ちょいと小屋の中を見せて貰おうか」
「ヘエ――」
ズイと入ると、中は空っぽも同然、地獄の活人形に朝の陽が射し込んで、何となく不気味なうちにも、
平次はそんなものには眼もくれず、真っ直ぐに
「ガラッ八、その踏台を持って来てくれ」
「ヘエ――」
象の下に踏台を据えさせると、平次はその上に乗った菩薩を少し上げ、台座の下から覗きました。
「この銘は一度書いたのを削ってまた書き入れたようだね」
「一向存じません」
巳之吉は
「八、その辺に
ガラッ八を中二階へやって、平次は下から声を掛けました。
「捜すまでもありませんや、ここにありますぜ」
とガラッ八。
「その中に水が入っているだろう、ちょいと舐めてみてくれ」
「ヘエ――」
「ほんの少し塩っ辛いだろうと思うが」
平次は妙な事を言い出しました。
「あッ、これはやはり仏様の涙ですかい」
「そうだよ」
「恐ろしく涙を出したんだね」
「これは銭形の親分、御苦労様で」
「お前さんは?」
「雲龍斎――え、その又六でございますが」
「あ、雲龍斎師匠でしたか、とんだ災難で」
「有難うございます、――この小屋も半分はお倉のお蔭で繁昌していたようなもので、当分代りを捜すまでは、人気を取戻せそうもありません」
「なアに、普賢菩薩の評判が大したものだから、そんな心配もありますまいよ」
「有難うございます」
「その人気を独り占めにしている菩薩様が少し汚れたようですね、あれはやはりサクラを使って泣かせるんでしょう――」
「親分、御冗談を」
又六は少し照れ臭い顔をしました。が、この顔には、どんな感情も紛れさせる、不断の微笑が、さざ波のように動いているのです。
「ところで師匠、お倉は勘兵衛の元の女房だという話ですが、お前さんそれを承知で雇いなすったかい」
と平次、さりげないうちにも、次第に問題の核心に触れて行きます。
「少しも存じませんよ、ツイ今しがたそれを聞かされて、びっくりしていたようなわけで、へッ、へッ」
「お前さんは、大層お倉に親切だったっていう
「親分、からかいなすっちゃいけません。そんな馬鹿な事が――」
「まアいいやな、ハッハッハッ」
平次は他愛もなく笑いながら、軽い心持で小屋を出ました。
「ありましたよ、親分、
少し獅子っ鼻が
「そうだろうと思ったよ、勘兵衛の家は浜町だ。橋番所があるから、明け方表から小屋へは忍び込めねえはずだ」
「見透しだね、親分」
「おだてちゃいけねえ」
「下手人は解りましたか」
「大方解ったつもりだが、証拠というものが一つもねえから、捕まえることもどうすることも出来ない」
平次は深々と腕を
「誰です、その下手人は」
「
「えッ、雲龍斎又六?」
「黙っていな、大きな声を出すと鳥が飛ぶぞ、しばらく万七
銭形の平次はそれから必死の活動を始めました。
地獄極楽の小屋の者は、
平次が一番怪しいと思った又六は宵のうちに緑町の自分の家へ帰って、それっきり急ぎの仕事に取りかかり、夜中まで
調べて来れば、やはり一番怪しいのはお倉ということになりますが、
「自分の
最後に与力の笹野新三郎にそう言われると、三輪の万七もこの上女を責めようはありません。
が、事件は四日目になって、思いもよらぬ方面へ発展してしまいました。
「親分、又六が
「何? そんな馬鹿な事があるものか」
ガラッ八の報告を聞いた時、平次は危うく日頃の冷静さを失うところでした。
勘兵衛殺しの下手人と
「自害じゃあるまいね」
「
「…………」
銭形の平次ほどの者も、見事にガラッ八にしてやられました。
「その鑿が、浜町の勘兵衛の仕事場から出た品ですよ、
「えッ」
「親分、大きい声じゃ言われないが、世間じゃ勘兵衛の幽霊がやったんだって言ってますぜ」
ガラッ八は少し迷信家らしく脅えた眼を見張りました。
「馬鹿な、そんな事があるものか、幽霊が人を殺す世の中になっちゃ、岡っ引は上がったりだ、行ってみよう」
真っ直ぐに向う両国へ――。
得物は
引起して明り先に死体の顔を持って行くと、日頃さざ波のように寄せている微笑は消えて、――何という悪相でしょう。少し
「おッ」
平次も、ガラッ八も、思わず顔を
小屋の者は一人残らず、
筋合から言えば、勘兵衛の元の女房のお倉が、一番疑われる立場にいるわけですが、この時はまだ二三日前に許されたばかりですから、どんな大胆な女でも、見張りの目を
巳之吉は真っ先に挙げられましたが、これは万七の気休めみたようなもので、何の役に立つほどの事も知ってはいなかったのです。
そのうちに、二日三日と
「親分、あの普賢菩薩は又六の作じゃないって話がありますよ」
ガラッ八は妙な事を聞込んで来ました。
「俺もそう思うよ」
「ヘエ、親分はそれを知ってなさるんですかい」
「知ってるわけじゃないが、地獄極楽の活人形とは、あんまり手際が違いすぎる。それに、あの仏体の台座を見ると、銘を削って書き変えた跡があるんだ」
「ヘエ、――驚いたなア、どうも」
「雲龍斎又六は、高慢に構えているが、あれは
「すると、あの仏体は誰の作でしょう」
「それが解らぬ」
「この間殺された勘兵衛じゃありませんか。二代目一刀斎勘兵衛は、親の初代一刀斎に
「いや、――俺には
「親分」
「手前は死んだ勘兵衛の身許を洗ってくれ。親の初代一刀斎勘兵衛は、五年前に禁制の
「ヘエ――」
「俺はお倉を縛って泥を吐かせてみる、どうもやはりあの女が臭い」
「三輪の万七親分が一度縛って許したばっかりじゃありませんか」
「その通りだよ」
「勘兵衛の
ガラッ八もなかなか深刻です。
「人の口真似をするな」
苦り切った平次。
「三輪の子分衆の見張っている中を抜け出して、
「出来ない事じゃないよ。
「ヘエ――、驚いたなア」
お倉はとうとう平次の手で縛られました。容易に人を縛らぬ銭形平次が、しかも、三輪の万七が一度許したのを縛ったのですから、お倉の罪はほとんど確定的のものと見ても差支えなかったでしょう。
「ヘエ――あの女が、大の男を二人も殺したのかい」
江戸っ子は舌を巻きました。元の夫一刀斎勘兵衛を殺し、続いて、主人の雲龍斎又六を殺したとすれば、
驚いたのはガラッ八の八五郎でした。
「親分、大丈夫ですか」
「何が?」
平次は近頃すっかり不機嫌です。
「お倉を伝馬町へ廻して、牢問いに掛けるそうじゃありませんか」
「その通りだよ。どうしても白状しないんで、笹野の旦那もすっかり持て余しなすったよ、この上は伝馬町に送って、牢屋同心の手でうんと責めることになったのさ、女のしぶといのばかりは、痛め
「へえ、あの女をですかい」
「
「…………」
ガラッ八も黙ってしまいました。人一倍涙
「そんな事より、頼んだ事はどうだったい」
「それですよ親分、不思議なことがあるもので――」
ガラッ八は
「小屋で殺された晩も、本人の又六は緑町の自分の家で、
「えッ、どうしてそれを親分」
「そう来なくちゃ、テニヲハの合わないことがあるんだ」
「驚いたなア、どうも」
殺された本人が、自分の家で暁方まで働いていたというのは、一体どういう意味でしょう。
「八、少しばかり絵解きをしてやろうか」
「ヘエ――」
「勘兵衛が殺された晩、又六は内弟子を自分に仕立てて、仕事場へ置いたんだ。その細工が過ぎて自分が殺される晩も、
「ヘエ――、なある」
ガラッ八は一応感心しましたが、まだ、お倉を疑う気にはなれません。
が、事件は次第に緊張して、お倉牢問いの物凄い噂がどこからともなく、物好きな江戸っ子の耳に伝わりました。
「
そんな話が、口から口へと、
それから二日目。
「銭形の親分にお目に掛って申上げたいことがございます」
妙におどおどした五十男が、平次の家へそっと訪ねて来ました。
「お待ちしていました、さア、どうぞ」
平次は飛んで出ると、宵闇の中に、
「親分、私の申すことは、あまり変っているので、びっくりなさるかも知れませんが、決して嘘や偽りは申しません――」
薄い膝においた手が
「私は何もかも知っているつもりですよ。勘兵衛師匠、みんな打明けて下さい」
「えッ、私の名を御存じで?」
「知らなくてどうしましょう。お前さんは
「えッ」
「お前さんに出て貰いたいばかりに、あっしはいろいろ無理な細工をしましたよ」
驚き
初代勘兵衛の話は、平次には耳新しいことばかりでした。
「私はお上の目を忍んで、三年前からこっそり江戸へ潜り込み、蔭ながら
「…………」
多少予期した筋ですが、平次は神妙にうなずきながら、次を促しました。
「倅は彫物下手でございましたが、私の彫った物に銘だけを入れて、――二代目は初代に
「…………」
何という犠牲的な愛情でしょう。平次は黙って涙を
「昨年いっぱいかかって、世にも人にも秘めて造った普賢菩薩――あれは私の一代にも二つとない出来でございました。
「やはりそうか」
「又六は倅の銘を削った上、神々しい素木の仏像へ、見世物向きに、あんな下品な彩色をしてしまいました。――その上、自分の下手な地獄極楽の活人形と並べて、両国の小屋へ飾ったのですから、倅が腹を立てたのも無理はありません。その上、嫁のお倉は永年の貧苦に愛想を尽かして飛出し、人もあろうに又六を頼って、両国の小屋の木戸番にまでなり下がりました」
「…………」
「後で、――あの普賢菩薩を
「…………」
「それはともかく、倅は幾度も幾度も又六にかけ合って、普賢菩薩を取戻そうとしましたが、又六は私が内々江戸へ帰っていることも、倅の代作をしていることも知って、なかなか素直に言う事を聞きません。一度などは、倅を捕まえて――お前にこの普賢菩薩ほどの物が彫れたら、望みの通り返してやる、宝冠だけでも、首だけでもいいからこの場で彫ってみろ――と、
「…………」
「腕は鈍いが、倅は父親の私の彫った物は大事にしてくれました。とうとう我慢が出来なくなって、小舟で浜町川岸から向う両国に渡り、手桶に隅田川の水をくみ込んで、嫁の手引で小屋に忍び込み、せめても下品な彩色だけでも洗い落そうとしました。一度二度ならずそんな事をやってみたそうですが、いつも妨げられて逃げ帰ったのでございます」
「ちょうど上げ汐時に出かけるから、仏体を洗いかけた水には、いつでも塩気があった」
「親分は、そんな事まで御存じだったのですか」
「大概察していたつもりだ、――それがとうとう帰って来なかった。お前さんの彫物を洗いに行った二代目勘兵衛さんは、又六の弟子どもに袋叩きにされて死んでしまったのだよ」
「親分、私は
初代勘兵衛は肩を
「殺す気もなかったろうが、打ちどころが悪かったのだ。前からお倉にちょっかいを出していた又六は、お倉に
「その通りでございます、親分、それだけ解っているのに、どうして又六を縛っては下さらなかったのでしょう」
「証拠がなかったのだ、――又六は腹の底からの悪党だ」
「親分、何もかもみんな申上げます、――いつまで経ってもお上で倅の敵を討って下さる様子もないので、とうとうたまり兼ねて小屋に忍び込み、又六を
初代勘兵衛はとうとう言うべきことを言ってしまいました。
「お倉は無事だよ、師匠いま逢わせて上げよう、――お静、お静」
平次は隣の室へ声をかけると、すっかり目を泣き
「お、お倉じゃないか、
「
お倉は物も言えませんでした。初代勘兵衛の膝下へ、ただひた泣きに泣いているばかりです。
「親分、さア、私に縄を打って下さい。又六を殺したのは、確かにこの私に相違ありません」
初代勘兵衛は涙を納めると、
「縛られてどうするつもりだえ、師匠」
「倅が死んだ上は、生きて行く望みもありません。私は表向き遠島になった日蔭者、私の名では起上がり
思い入った初代勘兵衛の態度を見ると、お倉もおろおろするばかりで、今さら止めようもありません。
「
「えッ」
「二代目一刀斎勘兵衛の彫物は、みんな初代勘兵衛が代作してやったという事が判ったら、死んだお前さんの倅の名はまる
「親分」
「悪い事は言わない、師匠、お倉をつれて、どこか江戸の岡っ引の手が届かないところへ行って貰いましょうか。親の敵討が許されるものなら、倅の敵討だって許されないという理窟はあるまい」
「…………」
「世間へはこう言い触らそう、――二代目勘兵衛は又六が殺した、又六は、又六は――あの普賢菩薩の尊像を二代目勘兵衛から
「親分」
「サア、ここに居ると何かと面倒だ。一刻も早く私の目に見えないところへ姿を隠して貰おうか」
平次は立ち上がると、半紙に
「親分、恐れ入ったよ」
そこにはガラッ八の八五郎が、お静と二人、
「親分、この御恩は一生忘れません、それじゃ、ずいぶん御機嫌よう」
初代勘兵衛はお倉を
*
初代一刀斎勘兵衛も、嫁のお倉も、それっきり江戸に姿を見せませんが、時々思いも寄らぬ土地から、一刀彫りの素晴しい人形が、神田の平次のところへ送って来ることがありました。諸国名物一刀彫の中には、この初代一刀斎勘兵衛が元祖だったのが幾つかあったはずです。