「八、
「何かやりましょうか、親分」
「
「おやッ、変な女が居ますぜ」
銭形の平次が、子分のガラッ八を
野暮用で本所からの帰り、橋の中ほどまで来ると、ガラッ八がこう言って平次の袖を引きました。大した智恵のある男ではありませんが、眼と耳の良いことはガラッ八の
「あの女か」
「ありゃ身投げですぜ、親分」
「人待ち顔じゃないか、逢引かも知れないよ」
「逢引が欄干へ
橋の上にションボリ立っていた女、平次とガラッ八に見とがめられたと気が付くと、いきなり欄干を越して、冷たそうな水へザンブと飛込んでしまったのです。
「八、飛込めッ」
「いけねえ、親分、自慢じゃねえが、あっしは徳利だ」
「馬鹿野郎、着物の番でもするがいい」
そういううちにバラリと着物を脱ぎ捨てた平次、何の
女は一度沈んで浮んだところを、橋の下にもやって来た月見船が
女は激動のために正体もありませんが、幸い大した水は呑んでいない様子、月見船の客は船頭と力を併せて、濡れた着物を脱がせて、船頭の
「どうだい、気分は。少しは落着いたか、何だってそんな無分別な事をするんだ」
平次は素っ裸のままで、女を介抱しております。
「有難うございます」
顔を挙げた女、平次はそれを正面から眺めて、どうやら見覚えがあるような気がしてなりません。
「違ったら謝るが、お前さんは、お
「えッ?」
女はもう一度心を取直して、橋間の月に平次の顔をすかしました。
「ね、やはりお楽だろう?」
「あッ、銭形の親分、面目ない」
女は
「銭形の親分さんで、――これは良い方にお目にかかりました。私は
なるほど、
「お蔭で人一人助けました、とんだ功徳でしたよ」
と平次。
「功徳には違いありませんが、町人はこんな時は何の役にも立ちません」
「ところで、お楽、お前のような女が、なんだってまた身を投げる気になったんだ」
平次は質屋の亭主にはかまわず、船を両国の方へ漕がせながら、
「何も
「何?」
「兄の
「…………」
「兄は泥棒かも知れませんが、妹の私は何にも知りゃしません。それを町内の“構い者”にして、厄病神のように追払ったのは、何という訳の解らない人達でしょう」
「…………」
「大泥棒の妹と知れると、どこでも三日と置いてはくれません。
平次も驚きました。その頃江戸中を騒がせた三人組の大泥棒のうち、一人は逃げ、一人は死に、香三郎というのだけ
「そいつは気の毒だ。岡っ引だって鬼や
「親分、そういって下さると嬉しいけれど、私はどうせ大泥棒の妹だから」
「そうひがんじゃいけねえ、お前の身の立つように、及ばずながら何とか工夫をしてやろう。もう死ぬなんて、つまらねえ心持は起しちゃならねえよ」
「…………」
お楽は泣いておりました。
「親分、
「八か、何て口をきくんだ」
「それじゃお土左」
「馬鹿ッ」
こんな他愛のない掛合が、船の中の空気をすっかり柔らげてくれました。
「親分、寒かったでしょうね、――その女は橋番所に引渡して大急ぎで帰りましょう。
「この人を
「ヘエ――、お土左を? 物好きだねえ」
「つまらねえ事をいうな、――笹屋の旦那、それじゃこの女はあっしが引取って参ります。とんだお世話になりました」
平次がお楽を
まだ厄を越したばかり、若くて美しくて、気立てのいいお静は、気の毒なほど
「この辺へ商売用で来ました、ついでと言っちゃ済みませんが、昨夜は親分の御世話になりましたのでお礼
そんな事を言って、笹屋の主人源助が
「とんでもない、あっしこそお礼に上がらなきゃアならないところで」
平次はあいそよく迎えて、何くれとなく話しました。平次よりは幾つか年上でしょうが、
馬が合うというものか、二人はすっかり話し込んで、お静の着替えを借りて着たお楽を相手に、とうとう日の暮れるまで長話をしてしまったものです。
それから源助はチョクチョク訪ねて来ました。平次が留守だと、お楽やお静や、ガラッ八を相手に冗談口をきいて帰ることもあります。
「ありゃ何だい、質屋の亭主だっていうが、
ガラッ八は、蔭へ廻るとこんな事を言いますが、面と向うと、まことにだらしもなく引っ込んでしまいます。物識と通人は、ガラッ八にとっては一番の苦手だったのです。
もう一人、お楽と源助を嫌いな人間がありました。
それは、ツイ二軒置いて隣に住んでいる、駄菓子屋の娘お
「八さん、お寄りよ。知らん顔をして通ると、この間、私を
「あッ、お町か、
ガラッ八はそう言いながらも、悪い心持がしないらしく、縁台に腰をおろして、お町がくんでくれた
「ね、八さん、あの女はどこの化物さ。平次親分のところへ入り込んで、近頃はお静さんを使い廻しているッてえじゃないか」
「俺が、そんな事を知るものか。いずれ
ガラッ八は当らず触らずの事を言っております。
「近所にあんなのが居ちゃ
「そこがお静さんのいいところさ、お前とは少しばかり出来工合が違う」
「何だとえ、もう一度いって御覧」
「何遍でも言うよ、お静さんのあのボーッとしたところを親分が気に入ったんだ。そういっちゃ済まねえが、お町のようにピンシャンしてちゃ、親分の気に入るわけはねえ」
「畜生ッ、何とでも言うがいい。――ところで、あのお楽とかいう女は、どうだい」
お町はこう言われても大して腹を立てる様子もなく、お楽のことを根ほり葉ほり聞きたがっております。
「あのお楽ときた日には大変さ。ただもうネットリして、
「嫌だねえ、万一お静さんから親分を
「少し物騒だね」
「何が物騒さ、あんな女に町内を荒らされる方がよっぽど物騒じゃないか」
お町はそういった女でした。お静と平次が一緒になると、ゲームに負けたような心持で、一旦綺麗に引下がってはみたものの、横合から変なのが飛出して、平次へちょっかいを出しているのを見ると、自分がいさぎよく引下がっただけに、打ち殺してもしまいたいような、言いようのない衝動を感ずる――といった
四五日は無事に過ぎました。
お静は相変らずまめに立働いて、何の蔭もないように暮しておりますが、気を付けて見ると、
お楽はガラッ八がいったように、少しねっとりしておりますが、奉公人のように、よく働いております。
「ね、お前さん、ちょいと」
ある日、お楽の留守を見定めて、お静は物蔭に平次を呼び入れました。
「何だえ、誰も聞いちゃいない、用事があるならそこで話せ」
平次は少し面倒臭そうでした。
「私、こんな事は言うまいと思ったけれど、気味が悪くて、どうにも我慢がならない。お願いだから、お金か何かやってお楽さんを
「何?」
予想外なお静の言葉に、平次は眼を
「――出て貰ったって、その日に困らせるような事さえしなければ、義理は済むじゃありませんか、お願いですから」
「お前
「あれ、そんな事じゃありません。近頃私はこのままジッとしていると、殺されそうな気がしてならないんです」
「…………」
「
「…………」
「それから、今朝は物置に入っていると、外から戸を締めて、
「…………」
お静の言うのは
「お静」
「ハイ」
「お前は、俺がお上から十手捕縄を預かる身分と知って嫁に来たはずだな」
「…………」
平次の言葉は
「縛られたり、打たれたり、顔へ怪我をしてさえ、一言も泣き言をいわなかったお前が、それくらいのことで、お楽を追い出せとは何ということだ。やはり
「あれ、そんなつもりじゃ」
「黙ってお袋のところへ帰ってくれ。長いことは言わない。十日経たないうちに、何とか言ってやろう。とにかくお前がここに居ちゃ、ろくな事がなさそうだ。手廻りの荷物だけ
「お前さん、そんな、そんな、――私はそんなつもりで言ったんじゃありません。堪忍して下さい、死んでも私はここを動きません」
お静はあまりの事に
「お静、見っともない、言い出した事を変替えする俺じゃない。ともかくお袋の所へ行って、五日なり十日なり、俺の考えの決まるのを待つがいい」
「
「馬鹿ッ」
「堪忍して下さい、お願い」
お静は平次の膝から胸へ、首にすがりついて、たった三つになる子供のように、泣くのでした。
少し
「八、ガラッ八は居ないか」
縁側の方へ声を掛けるのでした。
「オーイ」
ノソリと立ったガラッ八も、
「気の毒だがお静をお袋のところへ連れて行ってくれ。十日経ったら、改めて平次が伺いますって、いいか」
「御免
「何だと?」
「そんな使いは御免蒙ろうよ」
「馬鹿ッ、突っ立って物を言う奴があるか」
「立とうと坐ろうと勝手だ。そんな貞女を追い出して、あの
「野郎と言ったな。馬鹿ッ」
「馬鹿の親分は野郎でたくさんだ」
「畜生ッ、言やがったな」
平次は思わず煙草盆を持って立上がりました。
「あれッ、八さん、お前さんの方が引っ込んでいてくれなきゃア、――どうせ私が悪いんだから」
お静は二人の間に割って入りました。
「親分、可哀相じゃありませんか、お静さんは泣きながら行きましたよ。私はちょうど横町で、バッタリ出くわすと、お静さんを
お楽はそう言って
「お前が来てから、お静の調子がすっかり変ったのさ。気の毒だが、御用聞の平次に、
「でもねえ、あんなに騒がれて一緒になった二人じゃありませんか。私なんか、遠くから見ていてどんなに
お楽はそう言って、
「お前も一つやるかい、お楽」
お静の着替えには相違ありませんが、お楽が着ると、
「だけど嬉しいねえ、親分とこうして居られるんだから、私はまるで夢のような心持よ」
少し馴れ馴れしい口をきいて、猪口を返す手に思わせぶりな力をこめたりしました。
「つまらない事を言っちゃいけない。ところで、お前にいろいろ聞きたいことがあるが、――言ってくれるだろうね」
と平次。
「親分には命を助けて貰った上、こんなに親切にして頂くんだから何もかも言ってしまいますわ、その代り私の願いも聞いて下さるでしょう?」
お楽はいつの間にやら長火鉢の向う側から、こちら側へ滑って、平次の身体にもたれるようにしているのでした。
「それはもう、大抵の事なら聞くが――」
「有難いわねえ、親分、一体、どんなことをお話すればいいの」
「外でもない、半歳前に江戸中を荒らした三人組の大泥棒、一人はお前の兄の香三郎で、これは伝馬町の大牢に入っている。もう一人は
「解りましたワ、親分、思い切って言ってしまいましょう。房吉は名を変えて、今では江戸の真ん中に住んで、親分が死んだと思い込んでいる三平と一緒に、相変らず悪事を重ねていますよ」
お楽の手はいつの間にやら平次の腕に巻き付いて、その少しほてった顔は、妙に悩ましく平次の緊張した顔を見上げるのでした。
「それは有難い。房吉、あの人殺しの房吉といわれた野郎と、兄弟分の三平はどこに居る、教えてくれ、お楽」
「その代り私のお願い、――」
「出来ることなら何でも聞く、――房吉はどこだ」
「…………」
お楽が何か言おうとした時でした。
「御免下さい」
お勝手の格子が開いて、ソロリと入って来たのは、
「親分、今晩は、ちょいとお静さんのお留守見舞よ、入っていい?」
表からは二軒置いて隣に住む、昔のお静の
「あッ、お品さん、――お町もかい」
平次も
「お町もか――はひどいでしょう。親分、そのもかが気に入らないよ」
お町は自分の家のように入って来ました。
「弱ったなア」
「弱ったのはお静さんよ。あんな可愛らしいお
「お町、口が過ぎるぞ」
「お
お町はちょっとも引きそうにありません、――それどころか、長火鉢の向うへ、女だてらに
「さア、親分
平次は苦笑いして立上がりました。後ろにはお品。
「親分、お静さんはお里へ帰ったそうですねえ」
「どこから聞いたんだ、お品さん」
「手紙が来ましたよ、頼むから一と晩親分を見張って下さい――って」
「どれ、その手紙を見せな」
平次はお品の手から手紙を受取りましたが、見覚えのある
「親分、ここへ泊っても構わないでしょう?」
お品までがこんな事を言います。これはお町と違って、叱ることも追っ払うことも出来ないだけが、厄介というものでしょう。
「こいつは面白いや。女三人で親分を真ん中に、
お町はすっかり喜んでおります。
「親分、あの話は明日にしましょう」
と、お楽。これも
「驚いたな、どうも、皆んな帰ってくれ。御親切は有難いが、一と晩頑張っていられちゃ、俺がたまらない」
と、平次。
「色男には誰がなるってね、親分、こう
お町は柱にもたれて太平楽を言っております。
銭形の平次もこの晩ほどひどい目に逢わされた事はありません。脂ぎった妖艶なお楽と、鉄火で
朝になると、飛出して一と風呂、お品が
その晩、町内の銭湯へ行ったお楽が、容易に帰らないと思っていると、
「あ、人、人殺しッ」
路地の中で大変な騒ぎが始まりました。
留守番のお品は飛んで出ました。お町が引揚げてしまった後、さすがにお品一人では淋しかったのです。
「何だ何だ」
あっちこっちから人が飛出して来ました。平次の家の近く、通りから少し入った一間の路地、一方は板塀で、一方は表を
誰かが
「あッ」
皆んな潮の引いたように
「平次親分のところに居る人じゃないか」
誰かが言います。
紛れもなくそれは、お楽の取乱した湯上がり姿に相違なかったのです。
平次は朝から留守、どうする事も出来ません。そのうちに誰が言ってやったか、町役人が見廻り同心を連れてやって来ました。
後ろから顔を出したのは、どうして嗅ぎ付けたか、
「旦那、申上げます。殺されたのは、この間から平次のところへ入り込んでいる女で、お楽とかいうそうです。そのために平次は女房のお静を出したって話ですから、いずれ、そんな事で刃物
万七はすっかり
「刃物は何だ」
「
「フーム」
「妙な物を見付けましたよ、旦那、死体の
万七の渡したのを見ると、
「これはいい手掛りだ」
と同心。
「心当りの者を聞くと、それほどの品ですから間違いはありません、平次の女房のお静の品なんだそうで――」
「何? 平次の女房が下手人だというのか」
万七の謎を解いて、同心も驚いた様子です。
「お静が下手人だとは申しませんが、とにかく、この女のために昨夜追出されて、お袋のところへ帰ったそうですから、一応呼出してお訊き下さいまし。こんな人通りのない路地の奥へ入って、どうして櫛なんか死体の側へ置いたか、その
「フーム」
どうも万七の言う事はいちいち皮肉です。
「もう一つこれは大した事じゃございませんが、念のために申上げておきます。お静は余程
「…………」
いよいよもって万七の舌は毒を含みます。
しかし、同心もすぐに平次の女房に縄を打たせるわけには行きません。念には念を入れて、路地の内外、湯屋での様子、それから平次の家に留守番をしているお品まで調べました。が、お静を呼出して訊くより外には、下手人の見込みも当りも付きそうもないと解ったのです。
「お静の里というのはこの付近か」
と同心。
「ツイそこで」
「
同心の許しが出ると、清吉は飛出そうとしました。
「どっこい、それには及ばねえよ、お静さんにやましい事があるわけはねえ」
ヌッと顔を出したのは八五郎でした。
「八
万七は妙に笑いたいような、泣き出したいようなしかめっ面を見せます。――
「へッへッ、有難いことで、三輪の親分が大層気の毒がっていなすったと、親分へ申しておきましょうよ」
「ところでお静ちゃんはどうなすったえ」
「これもお気の毒みたいな話で、ツイ今しがたまで、おっ
「本当かい」
「お隣で聞けば解りまさア」
「この櫛はお静さんのだってね」
万七は動かぬ証拠のつもりで、鼈甲の櫛を見せました。
「お静さんのだったら、どうなるんだ」
「気の毒だが下手人の疑いは
「へーエ」
「死体の
「そうですかい、もう一つ同じ櫛を持っている人があったらどうします、三輪の親分」
「何だと?」
「ちょっと待っておくんなさい」
ガラッ八は飛んで行きましたが、しばらくすると、ベロンベロンに酔っ払ったお町を引っ担ぐようにして
「何だって? あの雌猫が殺された? いい気味だね、明日まで生きていりゃア、私が殺すつもりだったよ。あん畜生と一と晩
いやもう滅茶滅茶の機嫌です。
「お町、人一人の命に関わることだ、
ガラッ八は一生懸命でした。万七の手から受取った櫛をお町の
「私のだよ、誰が盗んで行きやがったんだ」
「確かにお前のだね」
「お静さんと一年前に
「目印はないかえ」
「そんな物があるものか、針で突いたほどの傷も付けないのが自慢だったんだ。誰が一体盗んで行ったんだ」
お町の言うのは嘘らしくもありません。
「いつ盗まれたんだ、
万七は横合から口を出しました。
「出鱈目、チ、畜生、岡っ引じゃあるまいし、お町
お町の大地に崩折れるのを尻目に、
「八兄哥、お静さんの疑いは晴れたとは言えねえな」
万七はニヤリとします。
「三輪の親分、お静さんは昼からズーッとここへ来るまであっしと話していたんですぜ」
八五郎は少しムッとした様子です。
「一つ穴だ、当てになるものか」
「三輪の、あっしが嘘をついたって言うのかえ」
「誰もそんな事は言わねえよ」
「お町はこの間からお楽の
「こんな酔っ払いに人間一人殺せるわけはねえ。無駄だよ、八兄哥――」
「じゃどうあっても」
「縄張外で気の毒だが、平次兄哥ではこの調べがむつかしかろう。俺が代ってお静さんの口を割ってやらなきゃアなるまい、どっこい」
三輪の万七はそう言って、お神楽の清吉を振向きました。何やら目くばせすると、苦い笑いが二人の頬をニヤリと走ります。
「畜生ッ、そんな事をされちゃ銭形の親分の名折れだ、お静さんを調べるなんて、俺が不承知だ」
八五郎は大手を拡げて
「馬鹿野郎、奉っておきゃアいい気になって、
「何を言やがる、手前は仲間の
「うるさいッ」
「
「役目の表でもか」
「…………」
「馬鹿野郎、ドジを通らねえと、手前のようになるとよ、ハッハッハッ」
清吉はこんな洒落を言いながら、八五郎の胸をドンと突きました。
「野郎、突きゃアがったな」
飛びかかろうとする八五郎。
「騒ぐな、八五郎、話は俺がつけてやる」
後ろからそっと肩に手を置いた者があります。
「何をッ」
振り返ると、八丁堀の旦那、
万七とガラッ八の争いの
調べはまた最初からやり直し、何から何まで念入りに繰り返しましたが、結局、お楽を殺す動機を持っている者は、お静とお町の二人だけ。落ちていた櫛は、二人のうち、どっちかの物と決っておりますが、お町は二た月前に紛失、お静は
お静はとうとう
ちょうどそこへ、ノッソリと銭形平次が帰って来ました。
「あッ、親分、大変な事になった」
八五郎は飛付きました。万七の側に引据えられたお静は、飛付くこともならず涙一杯溜めて、平次の喜び勇む顔を見ております。
「聞いたよ、お楽が殺されて、お静とお町が下手人の疑いを受けているって話だろう、――お蔭で俺には、何もかも解ったような気がする。旦那、御免なさいまし、三輪の
平次はそう言うと、ズカズカと死体の側に寄り、
「大方見当がつきましたよ、櫛を見せて下さい、ホウ、これはお静のだ」
「えッ」
ガラッ八はいうまでもなく、お静も、新三郎も、万七までもびっくりしました。自分の女房を致命的な疑いに引入れるような言葉です。
「どの辺に落ちていたんだ、誰が拾った? もとのように置いて貰おうか、――それで間違いはないね、後で間違ったなんて言われると困るが、何? 目印が付けてあった? それは有難い」
平次はそう言ってもう一度櫛を取上げながら続けました。
「この櫛には血が付いていない、誰も拭きゃしませんね、――もっとも一度血の付いた櫛なら、拭いても歯の間に血が残っているはずだが、この櫛にはそんな跡はない、――血の中に入っていて、血が付かないとすると、この櫛はお楽を殺した時落したんではなくて、後から持って来て、そっと置いて行ったものに違いない。血が乾きかけてから置いたなら、櫛へは血が付かなかったわけで――」
「…………」
皆んなはこの一言ですっかり平次に征服されてしまいました。互に顔を見合せて、次の言葉を待つばかりです。
「自分の持物を死体の側へ持って来る者はないから、この下手人はお静でもお町でもありませんよ」
平次は笹野新三郎の方を向いてこう言います。
「…………」
皆んなホッと溜息を
「それから、こんな袋路地の奥へ湯帰りのお楽を連れ込むのは、知っている者でなきゃアならないが、女じゃありません。後ろから突いたから、一応女と思うのも
「…………」
「これは、お楽を胸に抱いて、後ろへ手を廻して匕首を背中に押し当てるように、恐ろしい力で突き下げた傷だ。これなら返り血を浴びる事もなし、傷口が下向きになっているのが何よりの証拠だ。それから、お楽の手の爪の中に
「…………」
何という明察でしょう。万七は一句もなく首を垂れました。
「一体下手人は誰だ、平次、話してみるがいい、お前には解っているようだが――」
笹野新三郎は
「最初から申しましょう。九月十三夜に、両国橋で私は身投げ女を救い上げました。これがお楽で、三人組の大泥棒、香三郎の妹でございます。側にいた船へ引上げて貰おうとすると、その船の船頭が
「…………」
平次の話は奇っ怪でした。調べてみるとお楽は房州生れの
「笹屋源助というのはお楽の亭主でございます、それは後で解りました」
平次はこう続けます。
――お楽は平次の家へ入込みましたが、平次に心
お品を呼出した手紙を、平次が手を廻して笹屋の亭主の書いたものと比べると、寸分違わぬ同じ筆でした。笹屋の源助は、女房お楽の心変りを知って平次と一と晩一緒に置くのを気遣い、お品をおびき出してその番人にしたのです。お町が飛込んで来たのは、これは源助にも予想外だったでしょう。
――笹屋の源助は三人組大泥棒の首領房吉の変名だった事は言うまでもありません。お楽が自分を裏切って、自分と三平の
「櫛は、源助がチョイチョイ
平次はこう説明して、一度辛く当ったお静へ、――勘弁しろよ――といった優しい
「ところでその笹屋の源助というのはどうした、急いで手配しなければなるまい」
と、笹野新三郎。
「それには及びません、あれでございます」
指さす人込みの中から、一人の男、身を
「あッ」
ひるむところを、どこをどう飛込んだか、親分の気を知ることの早い八五郎は、サッと飛込んで後ろから組付きました。
「これが笹屋の源助か」
笹野新三郎は、もの優しくさえ見える縄付を顧みました。
「そうでございます、三人組の
平次は
「そうと知ったら、逃げるんだった。手前の話に釣られて、とうとう年貢を納めさせられるよ」
房吉は口惜しそうに
「ガラッ八は最初からお前の側に付いていたよ、俺の眼の動き一つで、何でも読むのが八五郎の芸だ。逃げたはずの三平も、今頃は捕まっているだろう。それも手配をしておいたよ」
平次は事もなげにこう言います。
「銭形の親分、お前さんはお静さんを捨てちゃならないよ。お静さんを泣かせると、このお町が承知しないから」
酔っ払いのお町はフラフラと立ち上がると、お静の