相変らず捕物の名人の銭形平次が、
その
「た、大変ッ」
「何だ、また調練場から小蛇でも
と、その頃は
「それどころじゃねえ」
「町内中の騒ぎになるから、少し静かにしてくれ。麹町へ
「今度のは巨蟒じゃねえ、
「なんだと」
駒次郎は、
丈吉の死体は、井戸端にくみ上げた釣瓶に手を掛けて、そのまま崩折れたなりに冷たくなっていたのでした。
抱き起してみると、右の眼へ深々と突き立ったのは、商売物の磨き抜いた畳針。
「あッ」
駒次郎も驚いて手を離しました。
「ね、
「そんな事は解るものか。親父へそう言ってくれ」
「親方はまだ寝ていますぜ」
「そんな事に遠慮をする奴があるものか」
勝蔵が主人の弥助を起して来ると、井戸端の騒ぎは際限もなく大きくなって行きます。
変死の届出があると、町役人が立会の上、
それに、丈吉はなかなかの道楽者で諸方に不義理の借金もあり、年中馬鹿馬鹿しい女出入りで悩まされていたので、十人が十人、自害を疑う者はありません。
「持ち合せた畳針で眼を突いて、井戸へ飛込むつもりだったんだね。ところがここまで来ると力が脱けて井戸へ飛込む勢いもなくなった――」
朱房の源吉は独り言を言いながら、もっともらしくその辺を見廻したりしました。
「親分の
不意に横合から、変な口を利く奴があります。
「なんだと?」
振り返るとそこに立っているのは、銭形の平次の子分で、お
「ね、朱房の親分、井戸へ飛込んで死ぬ気なら、何も痛い思いをして、眼なんか突かなくたっていいでしょう」
「何?」
「それに、商売柄、縄にも
八五郎は少し調子に乗りました。さすがに死体には手は着けませんが、遠方から
「
「ヘエ――」
「どこから
源吉の調子は圧倒的でした。
「神田の平次親分のところに居る八五郎で、ヘエ――」
「ガラッ八は名乗らなくたって解っているよ、その長い
「ヘエ――」
「俺が訊くのは、どこから何の用事で来たか――てんだよ。ここへそんな顎を突っ込むのは縄張
「朱房の親分、決してそんな訳じゃありません。平川天神様へ朝詣りをして、三丁目へ通りかかると町内中の
「面だけで沢山だ。口なんか出して貰いたくねえ」
「相済みませんが、親分、どう見たってこれは自害じゃありません。自分の手で、眼玉へ畳針を三寸も打ち込めるもんじゃありませんぜ」
ガラッ八も容易に引下がりません。
「目玉へ畳針を当てて、井戸端へ頭を叩きつけたらどうだ」
「それなら井戸端へ血がつくはずじゃありませんか」
「血なんか幾らも出ちゃいないよ」
「もう一度調べ直して下さい。外から曲者が入ったんでなきゃア、家の中の者でしょう。その男は金廻りも悪いが、
「さア、もう帰って貰おうか、ガラッ八親分なんざ、物を言うだけ恥を
「…………」
「畳針は真っ直ぐに突っ立っているし、頬にも
源吉はしたり顔でした。死体になった丈吉は、
「…………」
ガラッ八はごくりと
「神田の八五郎兄哥は、この家の中に下手人がいる見込みだとよ、皆んな顔を並べて、人相でも見せてやんな、――
朱房の源吉は、井戸端に集まった多勢の顔を見渡しながら、いい心持そうにこんな事を言いました。
主人の弥助は五十を越した年配、その
「やい、八兄哥、帰ったら平次へそう言いな、近頃少し評判がいいようだが、あんまり出しゃ張るとろくな事はあるめえ――とな」
ションボリ帰って行くガラッ八の後ろ姿へ、源吉は思う存分の
「親分、こういうわけだ、あっしは何と言われたって構わねえが、親分の事まであんなに言われちゃ我慢がならねえ。お願いだから四丁目まで行ってやっておくんなさい。源吉の鼻をあかさなきゃア、この
ガラッ八の折入った様子は、世にも不思議な痛々しさでした。
「たいそう腹を立てたんだな八、手前にも似合わない」
「腹も立てますよ、親分」
「まアいい、俺にまで喰ってかかられちゃ
と平次。
「親分、本当に行って下さるか」
「八の顔だって汚しっ放しにはなるめえ、それに、話の様子じゃ、俺が考えても自害じゃねえ」
「有難てえ、それでこそ銭形の親分だ」
「馬鹿野郎、おだてに乗って出かけるわけじゃねえぞ」
「へッ、へッ」
ガラッ八は自分の額をピシャピシャ叩いておりました。この心服し切っている親分から「馬鹿野郎」と叱られる度に、嬉しくて嬉しくてたまらない様子です。
四丁目の畳屋へ行ったのは、
「フーム」
筵を
「ね、親分、誰かに
少しばかりガラッ八の鼻は
「そんな事が解るものか――これだけ力任せに畳針を刺すうち、
「眠っているところをやられたら?」
ガラッ八、今度は少し不安になりました。
「井戸端で眼を開いて寝ている奴はない」
「酔っ払っていたらどうです」
とガラッ八。
「丈吉は生れつきの下戸で、
主人の弥助は後ろから口を出しました。せっかく朱房の源吉が自害にして運んでいるのを、変な場違い野郎が飛出して、「殺し」にしようという態度が
「親分、向うの二階から
ガラッ八はそっと
「少し遠いな、――それに、畳針は手裏剣には少し軽いからあの二階から打ったんでは、頬に傷をつけるぐらいが精々だ。眼玉を狙って三寸も打ち込むわけには行くまい」
「…………」
ガラッ八は黙ってしまいました。せっかく神田から引張り出してきた親分の平次も、これでは源吉と大した変りはありません。弥助も、その倅の駒次郎も、職人の勝蔵も口には出しませんが――
「お隣はどんな人が住んでいなさるんで?」
平次は改めて弥助に訊きました。
「右の方は下町の物持のお嬢さんが一人、何でも
「左の方は」
「御浪人ですが、これは大藩の御留守居をなすった方で、お金がうんとあります。町内の質屋に
弥助は
「お年は?」
「
平次は一応現場を調べた上、町内の質屋へ行ってみました。
大里玄十郎の暮し向きの事を訊くと畳屋の
「近頃畳屋とすっかり
そっと、こんな立入ったことまで教えてくれました。
平次はその足ですぐ大里玄十郎の格子の外に立ちました。
「何? 銭形の平次が参った、ちょうどいい
一刀を
「恐れ入りますが、ちょっとお嬢様に御目に掛りとうございますが」
「馬鹿
「恐れ入ります」
「恐れ入ったら帰れ帰れ、畳屋の職人を殺すほど怨みも理由もある拙者ではない。この上用事があるなら、せめて町方の役人を
いやもう滅茶滅茶です。
「とんだお邪魔をいたしました、御免」
平次とガラッ八は、キリキリ舞いをして引下がりました。何心なく振り返ると、
背の高い、少し骨張った娘ですが、何となく
「親分、済まねえ、手裏剣は間違いだったネ」
追いすがるようにガラッ八。
「
「じゃ、やはり自分の眼へ針を刺して井戸端へ頭をぶっつけたんで」
とガラッ八。
「そんな事が出来る芸当かどうか、やってみな」
「へッ」
そんな事を言いながら、二人はもう一軒の隣、お町という娘の住んでいる家の格子の外に立っておりました。
「お町さんは居なさるかい。神田の平次だが、ちょいと逢って下さい」
「ヘエ――」
年頃の下女は奥へ飛んで行きました。隣に騒ぎのあったことは知っているはずですから、神田の平次という言葉がピンと来たのでしょう。
しばらくすると、
「あの、済みませんが、お嬢さんは
先刻の下女が物に
「風邪? それはいけないな、夏の風邪は抜け難いから、用心なさるがいい、いつから寝なすったんだ」
平次の調子は至って平坦でした。
「
「そうかい」
「あの、御用は?」
「なアに、大した事ではないが、――隣の畳屋の職人が死んだのをお聞きなすったろう」
「ヘエ」
「あれは、人に殺されたんだと思うんだ。心当りはあるまいね」
「いえ、何にも」
「あの丈吉とかいう男は、時々ここへ来ることがあったかい」
「一度もいらっしゃいません。私などはお顔もろくに知らないくらいで――」
「駒次郎兄哥は時々来るだろうね」
「ヘエ――」
そう言って下女はハッと袖口で口を
「でも、でもあの、近頃はさっぱりいらっしゃいません」
「そうだろう、大里様のお才さんと近いうちに祝言するそうだから」
「…………」
妙に探り合いのような
「お嬢さんにはお目に掛るまでもないんだが、その代りあの塀のあたりを見せて貰いたいよ、丈吉殺しの曲者が、あの辺から塀を越して行ったかも知れないんでネ」
「…………」
下女が返事をする前に、ガラッ八を目で
南を
「親分、男なんざ入った様子はありませんね。それにこの塀ときた日にゃ、まさか人間は潜られないが、バッタ、カマキリ、
全くその通りでした。畳屋の方こそ、黒々と塗って、大した不体裁もありませんが、こちらの方は見る影もなく荒れて、支えの柱は所々
平次とガラッ八が塀際を離れて元の格子戸の前へ来ると、青い顔をした娘が少し取り乱した姿で目礼をしておりました。
「お町さんでしょうね、とんだお邪魔をしました」
「どういたしまして」
「気分はどうです」
平次は格子の中へ入って、言葉はひどく丁寧ですが、いつもに似ぬ図々しい態度で上がり
「有難うございます、大したことはございません」
何という痛々しい感じのする娘でしょう。
「そんな事で変な気を起しちゃならねえ」
平次はつかぬ事を言って、この娘の宿命的な醜い半面を見詰めました。右半面がお才などは足許にも寄りつけぬほど美しいのに、これはまた、何という造化の
「ところで、女世帯では何かと物騒だろう。隣の畳屋を見張らせながら、ごく用心の良い男を一人置いて行くが、泊めて下さるでしょうね」
「えッ」
「八、
「親分、あっしが?」
「そうよ、若い女の中へ転がしておくには、手前のような用心の
「チェッ、情けねえことになりやがったな」
「頼んだよ、八」
平次はろくに返事も聴かず、そのまま神田へ引揚げました。
「弱ったなア、どうも、驚いたなア」
後に残された八五郎の弱りようというものはありません。
若い女二人の白い眼に
「親分、大変な事になったぜ」
「また大変かい、八の大変に驚いていた日にゃ、御用聞が勤まらねえ」
平次は縁側で相変らず朝顔の世話に余念もありません。
「立派な御用聞が朝顔道楽を始めるようじゃ――」
「なんだと、八」
「へッ、へッ、天下は泰平だって話で」
「馬鹿にしちゃいけねえ、――ところでその大変というのは何だ」
「また一人死にましたぜ」
「何? とうとうお町が死んだのか」
平次は朝顔を
「お町――とどうして解るんで」
ガラッ八の鼻はキナ臭く
「俺はそれが危ないと思ったからお前を泊めたんだ、なんだって夜っぴて見張っていねえ」
「それは無理だよ親分、そう言ってくれさえすりゃア、あの娘の首っ玉へでも
ガラッ八は叱られながらはなはだ不服そうです。
「とにかく行ってみよう、もうこれっきりだろうと思うが、一応見ておかないと、後々のことが安心ならねえ」
二人はすぐさま飛出しました。
麹町四丁目の、お町の家へ行ってみると、隣の畳屋の井戸から引揚げて来たばかりのお町の死体は乾いた物に着換えさせて、二人の下女と、それから、日本橋から駆けつけたという、お町の姉というのが、線香を
「畳屋の井戸へ飛込んだのかい、なるほどこっちの方が少し深い」
平次は今さらそんな事まで感心しております。
「銭形の、御苦労だね」
畳屋からノソリと出て来たのは朱房の源吉、朝っからアルコールが
「朱房の
平次は微笑をさえ浮かべて、
「なアに、自害が自害と解りさえすりゃアそれでいいのさ。人殺しの下手人が解らなかったとなると、この辺を縄張にしている、この源吉の顔に
「そんな事を言やしません」
八五郎は
「丈吉とお町は言い交した仲さ、――丈吉が借金だらけで自害したんで、お町がその後を追うつもりで、わざわざこの井戸までやって来て身を投げた――とね、
朱房の源吉は本当にしたり顔でした。
お町の家へ引返して来ると、姉のお
二十七八――どうかしたらもう少し若いでしょうが、とにかく、素晴らしい肉体を持った女で、その
「お、人形町の師匠じゃないか」
「あら、銭形の親分」
取り繕ったところをみると、紛れもありません。それは人形町で踊りの師匠をしている、有名すきるほど有名な女だったのです。
「お町さんの姉というのは、師匠だったのかい」
「え、あの
お勢は新しく湧いて来る涙をどうすることも出来ずに、身を
「気の毒だったネ、そんな事もありはしないかと思って、八五郎を側へ付けておいたんだが――」
「そうですってね、本当に親分さんの思いやりは、どんなに有難いと思ったか――でも、死ぬ気になった者は、どんな
「まアまア、あんまり泣くのも妹さんのために良いことじゃあるまい、
「有難うございます、親分さん」
平次はいい加減にして神田へ引揚げました。事件はこれで何もかも大団円になったようですが、平次の心の中にはまだまだ済まない事ばかりです。
「八、気の毒だが、これから三日に一度ぐらいずつ四丁目へ行ってみてくれ」
「四丁目?」
「麹町四丁目だよ。畳屋と大里とかいう浪人の家と、それからお町の家へ当分姉のお勢が住む事になったそうだから、ついでにそれも見廻るんだ」
「まだあの辺に何かあるんですかい、親分」
「これから本当の芝居が始まるだろうよ、見ているがいい」
平次は、何やら呑込み顔にうなずきます。
それから十五六日、平次は
「親分、驚いたぜ、全く」
ガラッ八はとうとう平次を捕まえました。
平手で長い
「何に驚いたんだ、――また四丁目で誰か死んだのかい」
「そこまでは行かねえ、が、あのお勢がどうかしたんだ」
「…………」
「妹の家へ入り込んだはいいが、近頃は恐ろしく若作りで妹の三十五日も済まないうちから、町内の若い者を集めて、浮れ切っているんだ」
「フーム」
「
「それがどうしたんだ、お前が
「へッ、口説きもどうもしねえが、あんまり色っぽいんで、気味が悪くて、長居は出来ねえ」
「たいそう気が弱いじゃないか」
「
「それは面白かろう、見ぬは
「お静さんが気を悪くしなきゃアいいが」
「何をつまらねえ」
二人はもう日が暮れたというのに、麹町四丁目までやって来ました。
「お勢さん、親分を
案内役のガラッ八は、顎から手を外して、格子を開けます。
「あら親分、その後はすっかり御見限りねえ、でもまアよく」
といった調子、荒い浴衣の袖を
「これは驚いた」
「あら、何を驚いてらっしゃるの親分、ちょうど淋しがっているところよ、ゆっくりなすってもいいでしょう」
手を取っていきなり奥へ。
人形町に居る時は、色白の素顔を自慢したお勢、どう踏んでも三十がらみに見えた大年増でしたが、厚化粧に
どっちが本当のお勢なのか、こうなると平次も見当がつかなくなるくらい。
「驚いたね、どうも、お勢さんがそんなに若いとは思わなかったよ」
照れ隠しに煙草ばかり
それから酒。
それからは平次の意気込みも違い、ガラッ八の報告も急に活気づきました。
畳屋の勝蔵がせっせとお隣へ通い始めた、という報告があってから十日ばかり経つと、今度は畳屋の息子の駒次郎が急にお勢に熱くなり出して、町内の
お勢の妖しい魅力は、間もなく麹町中の若い者を気違いにするのではあるまいかと思うようでした。
猛烈な
油のように行渡る年増の愛情は、駒次郎をすっかり夢中にさして、もう大里玄十郎の娘お才などの事を考えている余裕もなくなってしまった様子です。
「何かきっと起りますぜ」
ガラッ八がそう言って、額を叩いたり、手を揉んだりしたのは、お町が死んで四十日目あたりのことです。
「いよいよ大変だ、親分」
ガラッ八が飛込んで来たのは、もう日射しの秋らしくなって、縁側の朝顔も朝々の美しい
「また大変か、今度は誰の番だ」
「畳屋の駒次郎が
「今度は自害じゃあるまい」
「畳庖丁で、首を右から後ろへ半分も切るなんてことは、朱房の親分が見たって自害にはならねえ」
「よしッ、行ってみよう」
平次はすぐ飛んで行きました。
畳屋の裏木戸を入って、群がる野次馬を掻き分けるように井戸端へ近づくと、井戸と物置の間の朝顔の垣根の中に、畳屋の息子の駒次郎が、
「銭形の兄哥、御苦労だね」
「おや朱房の兄哥」
「下手人は挙がったよ」
「ヘエ――」
「職人の勝蔵さ、隣へ引越して来た踊りの師匠を張り合って、
源吉はだいぶ好い心持そうです。
「本人は口を割ったろうか」
「知らぬ存ぜぬだ、いずれは少し痛めなきゃアなるまい」
「証拠は?」
「何にもねえ――と言いたいところだが、ありすぎて困っているんだ。刃物は勝蔵の使っている畳庖丁だ、――もっとも本人は井戸端へ忘れて置いたっていうが、良い職人が道具を井戸端へ忘れるはずはねえ、それに、
源吉のいう証拠はあまりに通り一遍のものです。
「駒次郎を怨む者は、まだ外にもあるはずだ。怨みだけで言えば、町内の若い者が半分ほどは下手人の疑いがある。それから、大きい声じゃいえないが、娘を捨てられて怒っている浪人者もいるぜ」
「大里玄十郎か」
「まアね」
「そんな事を言ったって、勝蔵が下手人でないとは決らないぜ、俺はともかく八丁堀へ行って来る。町内の若い者なり、浪人なりを
朱房の源吉は、いや味を言いながら行ってしまいました。
町内の若い者、半分は下手人の疑い――と聞いて
「親分、本当に勝蔵じゃありませんか」
ガラッ八は少し心配そうです。
「解らないよ、だがね、八、駒次郎の傷は、
「斬って下さいと首を突き出したようだ――って親分は言うんでしょう」
「その通りだよ」
「
「抱きついて念入りに刃物を引かなきゃア、こうは斬れない」
平次の言うことはだいぶ変っておりました。
「じゃ親分、どういうことになるんで」
「まだ何にも解っちゃいないが、畳庖丁のような短い得物で、これだけ念入りに斬ると、下手人はうんと血を浴びたことだろうな」
「…………」
「勝蔵の持物をみんな見せて貰ってくれ、血の付いたものが一つでもあれば下手人だ」
「ヘエ――」
ガラッ八は飛んで行きましたが、間もなくつままれたような顔をして帰って来ました。
「血なんか付いた物は一つもありません」
「床下や天井裏や押入には」
「待って下さい」
ガラッ八はもう一度飛んで行きましたが、どこにも怪しい物は見付かりません。
「なきゃアいい。住込みの職人が、着物を一と
「…………」
「ところで八、俺は近頃朝顔を咲かせて楽しんでいるが、自分で育てると、草花も、我が子のように可愛いものだ」
「…………」
平次が人殺しの現場で、いきなり朝顔の話を始めたので、ガラッ八も
「草花を可愛がる心持は、また格別だよ。自分で育てないのでも、折れたり、散らされたりすると、我慢が出来ない」
「…………」
「駒次郎を殺した下手人は、朝顔の垣を
「…………」
「荒っぽい男や、浪人者の仕業じゃねえ」
「…………」
「八、俺はもう下手人探しが
平次はそんな事を言いながら、塀隣のお勢の家へ引揚げました。
「まア、親分」
「お勢、これはどうした」
家の中はガランとして、下女の姿も見えない上、昨日までは、あんなに厚化粧の若作りだったお勢が、
「引越しですよ、私はやはり人形町の方が水に合いそうで――」
「それもよかろう、――ところで、俺もつくづく岡っ引が厭になったよ」
「まア」
「気の毒だがお茶でも貰おうか」
平次は庭から縁側へ廻って、
「お勢、今日一日俺は岡っ引じゃねえ、お前の昔馴染――まア、兄貴か友達と思って話してくれ」
「…………」
平次の言葉は急にしんみりしました。
「俺は、口幅ったいようだが、この間からの不思議な事の
「…………」
お勢は首をうなだれました。白粉っ気がないとやはり元の三十前後の大年増ですが、その物淋しい美しさは、極彩色のお勢よりはかえって清らかで魅力的であります。
「駒次郎は、お前の妹のお町と言い交していた。かなり深い仲だったに相違ない、毎晩合図をしては、あの塀を挟んで両方から話したり、笑ったり、泣いたりしていたんだ――それが、大里玄十郎父娘が引越して来ると、駒次郎の心は急にお才の方へ傾いてしまった。父親の弥助も、武家の娘を畳屋の嫁にするつもりですっかり夢中になって、あの大里玄十郎が
「…………」
「お町は毎晩合図をしたが、駒次郎はもう塀の側へ来てはくれなかった。で、とうとう我慢がし切れなくなって、切れてやるから、たった一度だけ逢ってくれ――と言ってやった」
「…………」
「その手紙を見付けたのは丈吉だ。お町に気があったから、駒次郎のふりをして塀の向う側へやって来て、駒次郎がするように、塀の穴へ眼を当てて見た。お町はそのとき駒次郎を殺して、自分も死ぬ気だったんだ、いつぞや駒次郎が自分の家へ忘れて行った畳針を持ち出して塀のこっちから、一思いに眼を突いた」
「…………」
「丈吉は声を立てたかも知れないが、なにぶんの
「…………」
何という明智でしょう。平次の言葉は、見て来たようにはっきりしております。
「俺は大方察したが、お町が殺したという証拠は一つもない、それに、男に捨てられたお町の心持がいじらしかった――万一自害するような事があってはならぬと思い、それとなく
「…………」
「それから、お前が出て来た。妹の
「…………」
「物置の前で逢引をした晩、井戸端に勝蔵が忘れて行った庖丁を見ると、お前は急に駒次郎を殺す気になった。抱き付いてくるのを、自由にされるような振りをして、
「…………」
「朝顔の垣を踏み倒すのが可哀想になって、お前は廻り道してここへ逃げ帰り、血だらけになった着物を始末し、白粉も紅も洗い落して、元のお勢になった」
「…………」
「どうだ、違ったところがあるか」
平次の話は
「親分、一々その通り、寸分の違いもありません。さア、私を縛って下さい」
「いや、縛るとはまだ言わないはずだ」
「けれど、これだけは御存じなかったでしょう。お町は私の娘――天にも地にも、たった一人の生みの娘だったんです」
「え、お前の娘、――年が近過ぎるようだが」
「近いもんですか、お町は十八、私は三十四」
「三十四?」
「日本橋の
「それは――」
「娘のお町が死んだ時、私も死んでしまいたいと思いましたが、身仕舞して鏡を見ると、まだまだ私には若さも綺麗さも残っていそうに思ったので、一と芝居打ってみる気になりました。武家育ちの
「…………」
「私は勝ちました。
お勢はもう泣いてはいませんでした。真っ直ぐに目を起すと、観念し切った殉教者のような清らかさが、その蒼白い顔を
「お勢、俺は今日一日岡っ引じゃないと言ったはずだ。――駒次郎は
「親分」
「解ったかお勢。――人を殺したのは悪いが、俺には縛る力はない、――せめて死んだ人達の後生を
「ハイ」
お勢も、側で聞く八五郎も、すっかり泣き濡れて、しばらくは顔も挙げませんでした。
*
お勢はその後踊りの師匠を