銭形平次もこんな突拍子もない事件に出っくわしたことはありません。相手は十万石の大名、一つ間違うと天下の騒ぎになろうも知れない形勢だったのです。
江戸の街はまだ
「八、こいつはとんだ御用始めになりそうだぜ、
「ヘエ――」
八五郎は
「見なきゃ判らないが、多分あの客人の後を
「ヘエ――」
八五郎は呑込み兼ねた様子ながら、平次の日頃のやり口を知っているだけに、問い返しもせず、お勝手口の方へ姿を消しました。
入れ違いに案内されて来たのは、十七八の武家とも町人とも見える、不思議な若い男。襲われるように後ろを振り返りながら、
「平次親分でございますか、――た、大変な事になりました。どうぞお助けを願います」
おろおろした調子ですが、それでも、折目正しく坐ってこう言うのでした。
武家風な前髪立ち、
「どうなすったのです、詳しくおっしゃって下さい。次第によっては平次、及ばずながら御力になりましょう」
平次はそう言わなければなりませんでした。物に
「私は――
「えッ、それではもしや、父上道庵様が?」
「ハイ、三人目の行方知らずになった本道(内科医)でございます」
「それは大変」
これは平次の方が驚きました。一色道庵というのは、町医者でこそあれ、その頃日本中にも聞えた
それはともかく、平次を驚かしたのは、この三人目の行方不明ということでした。昨年の秋あたりから、江戸の本草学者が神隠しに逢ったように、
しかし、何のために、医者が二人まで続けざまに殺されたか、御府内の岡っ引が
押し詰ってその
「御父上――道庵様が行方知れずになったのは、いつの事でしょう」
「
「それなら大丈夫、蓼白様は行方知れずになってから二十日目、参龍様は一と月目で殺されました。
「本当でしょうか」
「それはもうお請合いたします。今度こそはどんな事をしても曲者を嗅ぎ出して、万に一つも、父上様に間違いのあるような事はさせません」
「親分、お願い申します」
綾之助は
「親分ッ」
「あッ、八か、どうしたんだ。どこの
木戸を押し倒すように、いきなり庭先へ入って来た八五郎の
「親分、
「女に突き飛ばされたのを吹聴したって手柄になるかい。井戸端へ行って水でもかぶって来な、馬鹿野郎」
「ヘエ――」
八五郎は返す言葉もなく井戸端へ廻りました。間もなく
「どうしたのです、親分」
綾之助は眉を
「子分のガラッ八というあわて者ですよ、お前さんが入って来なすった時、蔭で声を聴いただけで、誰かに追いかけられるか、後を
「そう言えば、市ヶ谷からここまで、始終誰かにつけていられるようで、何とも言えない
綾之助は舌を巻きました。
入口に訪れた人の声を聴いただけで、その後を
「そんな事は何でもありゃしません。八の野郎がつまらない事をしなきゃア、とんだ手柄になったものを――」
「親分、つまらない事は可哀想だぜ、これでも精一杯の仕事をして来たつもりだが――」
八五郎はろくに拭きもしない身体に、新しい
「精一杯の仕事? 一体どんな物を見て来たんだ」
「親分に言い付けられて、すぐ裏から廻ると、向うの荒物屋の角に立って、そっとこちらを見張っている女があるじゃありませんか」
「
「犬っころ一匹居ねえ、御町内はまことに太平さ」
「無駄を言うな」
「側へ寄って首実験をしようと思ったが、どうしても
「…………」
「五六町追っかけたが、女のくせに恐ろしく足が
「何? 御守殿崩し?」
「まさか
「それがどうした」
「だんだん人足は多くなるし、見附を越して
「フーム」
「
「馬鹿野郎、女に溝へ投り込まれて感心する奴があるかい」
「天下の八五郎を溝へ投り込む女は、江戸広しといえどもたんとあるわけはねえ」
「
平次の言うのは
「親分、勘弁しておくんなさい。女に
「嘘をつけ、女には舐められ通しじゃないか」
「へッへッへッ、素っ破抜いちゃいけねえ」
ガラッ八は苦笑いをしながらピョコリと頭を下げました。これが精一杯の陳謝の心持でしょう。膝っ小僧がハミ出して、
銭形平次はガラッ八を
道庵は御典医ではありませんが、上様の御声掛りで、万一の場合は城中にも御呼出しがあって、
早く妻に死に別れて、家族は一子綾之助と、その姉のお絹の三人きり、お絹は父の仕込みで、女ながら本草学に詳しい上、世にすぐれて美しく生い立ちましたが、父道庵の注文がむつかしいので定まる縁もなく、
乗込んで行った平次も、何から手を付けていいか見当もつきません。
伊勢屋には病人も何にもなく、道庵を呼んだ覚えは勿論、
さては――と気の付いたのはもう真夜中過ぎでした。父道庵が不思議な医者殺しの三人目の犠牲者に選ばれたと判ると、お絹、綾之助の
姉弟打合せた上、弟の綾之助が銭形の平次を訪ねたのはその
「駕籠は町駕籠でしたか」
と平次、お絹に引逢わせてくれると、挨拶も抜きにこんな事を訊きます。
「町駕籠のように仕立てて来ましたが、後で気がつくと、道具も人足も思いの外立派だったようでございます」
お絹は取り乱した
「
「それも見ませんでした。もっとも昨夜はあの風で、手拭で提灯を包んでも不思議はなかったのでございます」
「フーム」
平次は
「親分、お願いでございます、一日も早く探し出して下さい」
気象者のお絹も、平次の手を取らぬばかりにこう言うのでした。
門弟達、出入りの者、一と通り調べましたが、なんの手掛りもありません。往来で駕籠を見かけた人を捜すことなどは、時も時、正月三日の江戸の街でも、思いも寄らぬことです。そのうちに松が取れて、世間は次第に静かになりましたが、道庵の行方は見当も付かず、平次もすっかり腐ってしまいました。
「平次、医者殺しの下手人はまだ判らぬか。一色道庵の行方知れずになった事は、殿中の御噂にまで上ったそうだよ」
「恐れ入りますが、もう三日ばかり御待ち下さいまし」
一時逃れと解っても、平次はそう言うより外には言葉もなかったのです。
「親分しっかりしておくんなさい、世間じゃそう言ってますぜ――銭形のもタガが
「馬鹿野郎」
平次はムズムズするほど腹を立てましたが、さすがにガラッ八を殴りもなりません。
「親分、一色道庵が帰って来ましたぜ」
「何?」
「
「そりゃア不思議だ。とにかく行ってみよう」
平次はすぐ飛出しました。もう
「親分、
「無駄を言わずに歩くんだ」
「だって、考えてみるとあっしはまだ晩飯にありつかねえ、無駄も言いたくなるじゃありませんか」
「…………」
「第一、助かって帰ったにしては、あの医者の浮かねえ顔が
「何だと」
「一色道庵は家へ帰ってもろくに物も言わず、
「フーム、それは不思議だ。何か深い仔細があるんだろう、急ごうぜ八」
「だがネ親分、あのお絹さんとか言う、お嬢さんは大した
「…………」
「それに
「解ってるよ」
そんな事を言いながら、二人は
中はガラッ八が言ったように、盆と正月が一緒に来たような騒ぎ、平次はガラッ八を門弟達の部屋に残して、とりあえず一色道庵に逢ってみましたが、困ったことに誰にさらわれて、十日の間どこに隠されていたか、その事に関する限りは、一言も漏らしません。
「平次親分、留守中は大層お世話になったそうで、お礼の申上げようもありません。お蔭で無事に帰って来ましたが、――いや訊いて下さるな。どこに何をしていたか、そればかりは言えません」
一度話が急所に触れると、分別臭い五十男の坊主頭を、深々と八丈の
平次はいろいろ手を尽して問い試みました、娘のお絹も見るに見兼ねて口を添えますが、一色道庵の顔は困惑に
「それは
「…………」
「その時、一人や二人腹を切ったところで申訳が立ちましょうか。九族根絶やしになってからでは、悔やんでも追いつきゃしません」
平次の言葉は急所を突きました。「謀叛」と聞くと、一色道庵はサッと顔色を変えて、静かに四方を見廻しながら、
「申しましょう、――こちらへ」
言葉少なに平次を別室に導き入れ、改めて四方に気を配ると、自分の胸に手を置いて、ホッと
「平次親分、私は世にも不思議な目に
一色道庵の話は怪奇を極めました。
こうです。
正月三日の晩、伊勢屋総兵衛からの迎いと言って来た
「これはおかしい」
と思った時は、まるっきり見当も付かぬ家の前――深い木立の中の一軒屋、それはちょうど大名の下屋敷の
驚く一色道庵は、声を立てる暇もなく、その縁の上へ引上げられました。四方は深い木立、右も左も大きい屋敷続きで、少しぐらい声を出したところで、誰も救いになどは来てくれそうもない場所だったのです。
やがて気が付くと、眼の前の障子は左右に押し開かれました。正面には
ハッと声を立てようとすると、左右の手を取って引据えられました。いつの間にやら、鬼をもひしぎそうな武家が二人右と左から挟んで、道庵を護っていたのです。
「一色道庵よく参った、苦しゅうない、即答を許すぞ。それから
主人は
やがて、主人は手文庫の中から、
「道庵、ここまで来て貰ったのはこれのためじゃ。何日と日限は切らぬが、出来るだけ早く、この丸薬と同じものを作り、その処方を書いて貰いたいのじゃ。
道庵はヒヤリとしました。本田蓼白や伊東参龍は、この丸薬と同じ物を作り兼ねて、――そのまま殺されてしまったのでしょう。
「よいか道庵」
よいも悪いもありません。道庵はその不思議な丸薬を取り上げて、思わず
丸薬は作ってから何十年経ったか解らないほど古いもので、眼で見、鼻で嗅いだぐらいでは、とてもその処方がわかりません。
「その丸薬は手元に七つある。一つだけは噛んでも砕いても構わぬが、その代り同じものを作らなければならぬぞ、よいか」
主人はそう言って、なんの
一色道庵はそのままそこに留め置かれて、丸薬の分析に没頭しました。が、七日経っても、十日経っても、蓼白、参龍が解いたより、たった二つの違った原料を発見しただけで、相変らず残る二つ三つは、年数のために変質して、何としても解きようがなかったのでした。
林の中の
十日経ちました。久し振りで庵を訪ねた主人の前へ、一色道庵の示した丸薬の成分というのは、

「人参と

主人は大機嫌でこう言います。
「恐れながら、この丸薬を一粒拝借して、御納戸町の自宅にお帰し下されば、心永く研究を重ね、残る二味を相違なく見つけて参りますが――」
道庵は恐る恐るこう言うのでした。
「フーム」
「ここではなにぶん道具薬品などが揃いません。いかがでございましょう」
「それでは一応御納戸町へ帰すと致そうか。その代りこの事を一言も漏らしてはならぬぞ。その丸薬の秘密向う一ヶ月の間に解き、解きおわったら合図をいたせ、早速迎いの者を遣わすであろう、よいか」
堅い約束。道庵はめでたく自宅へ帰る嬉しさに、何もかも承服して送り還されて来たのでした。
「親分、こうしたわけ、――私には何の事やら少しも解りません。丸薬は幾度も
一色道庵は全く不思議でたまりません。
「その林の中の庵というのは、どの辺に当るでしょう」
と平次。
「それが少しも解らないのです。道順の様子では
「家具類、――例えば火鉢とか膳とか、
「それも気を付けましたが、長押の金具は
「言葉の
「女どもは間違いもなく京言葉でしたが、武家と主人の殿には、奥州訛りがあったように思います」
「有難うございました。それだけで大方見当がつきましょう」
「どうぞ、私から聴いた事は内々にしておいて下さい。またどんな
「それは大丈夫でございます」
平次はそこそこに
「御免下さい。天下の大事、旦那様に御目にかかって申上げたい事がございます。神田の平次が参ったとおっしゃって下さい」
真夜中の笹野新三郎の門を叩きました。
「何だ平次、夜の明けるのを待ち兼ねるほどの大事があるのか」
「旦那、どうも謀叛の匂いがします」
「何?」
「これを召上がって御鑑定なすって下さいまし。一色道庵はこの丸薬と同じ物を作れと言われ、林の中の大名の下屋敷の
「フーム」
「本田蓼白と伊東参龍の見分けた成分は、松の甘皮と

平次の話は、ことごとに新三郎を驚かしました。
「平次、それが本当なら、大変な事になるぞ」、
「ヘエ――」
「お前は知るまいが、これは陣中の
「ヘエ――」
「兵家、忍術家は皆知っているはずだ。遠きは義経の兵糧丸、楠氏の兵利丸、竹中半兵衛の兵糧丸など言うものがある。兵書には
「ヘエ――」
平次は開いた口が
「東照権現様御一統の後は、各藩兵家本草家に兵糧丸を作らせ、いざ鎌倉という時に備えているが、これは秘中の極秘で、家老用人といえどもその製法を知らないのが常だ。天下知名の兵糧丸というのは、
笹野新三郎の説明は、すっかり平次を仰天させました。
「すると、やはり謀叛ものですね。麻布赤坂あたりに下屋敷を持っている大名が、兵糧丸を手に入れるかどうかして、本草家を誘拐してそれを作るつもりでしょう。これは一日も油断がなりません」
「ところで平次、どこの藩がそんな事を企んでいるか、見当でもついたのか」
と新三郎。
「奥州訛りのある大名と家来で、女中に京女を使っているところというと、すぐ判りそうじゃございませんか、旦那」
「フーム」
「紋所は、抱き
「何が判ったんだ、平次」
「間違いっこはありません。南部でございますよ」
「南部」
「御領地は盛岡で十万石、
「フーム」
笹野新三郎もこんなに驚いたことがありません。本草家を三人誘拐して二人まで殺したのは、容易ならぬ陰謀とは思いましたが、それが兵糧丸の秘密を解くからくりで、南部大膳大夫に疑いが向いて行くとは思いもよらなかったのです。
「早速
「これこれ平次、もう少し後先を考えて物を言え。南部家には立派な兵糧丸が伝わっているはずだ。数ある兵糧丸のうちでも、南部と水戸の兵糧丸は有名で、大小名方の
「ヘエ」
「その辺の事が
笹野新三郎の言うことは理路
兵糧丸や避穀丸というものは、
中にはずいぶん馬鹿馬鹿しいのもありますが、十中八九は理詰めで、梅干大の兵糧丸が三つか五つで、少なきは半日一日、多きは三日七日の
兵糧丸には、麻痺薬を用いて、一時胃を
とにかく、兵糧丸の秘密を守るためには、ずいぶん一藩の運命を賭けたこともあるくらいですから、封建時代に、人間を二三人殺すことを、何とも思わない野心家があったことも不思議はないのです。
余事はさておき、銭形平次は笹野新三郎に止められて、
「親分、今度はお嬢さんがさらわれた」
「何? お嬢さんが――」
「お絹さんが昨夜のうちに行方知れずだ。あんな綺麗な娘の死体が弁慶橋なんかに浮いた日にゃ、天道様も無駄光りだ、大急ぎで出かけましょう」
「よしッ、来い八五郎」
二人は宙を飛んで一色邸に駆けつけましたが、うち
お絹は昨夜
「親分、昨夜お前さんに打ち明けたのが悪かったのだ。娘に万一の事があっちゃ、私は生きて行く空もない」
一色道庵が、平次をつかまえて、
「ところで、玄関の上にブラ下げた
平次は妙なところへ気か付きました。
「…………」
「お娘さんがさらわれたので、丸薬の秘密が解けたという合図をなすったのじゃございませんか」
「…………」
「ね、それが悪いとは言いませんが、相手はどんな事をする気か、見当もつきません。大きい声では言えませんが、万一これが謀叛を企んでいるとしたら――」
「いえ、親分、そんな事はありません。あんな丸薬で謀叛も騒動も起せるわけはないし、それに、私にしては娘の命が何より大事でございます。黙って私をやって下さい、玄関へ瓢箪を出せば、その日のうちに迎えの
「行って丸薬の秘密を
「そんな事はありゃしません。丸薬の七味を解いてやれば、恩こそあれ怨みを受ける覚えはないはずです。私は行って娘を救い出さなきゃなりません」
お絹が父親の命に代るために、自分から進んで
「それじゃ、たった二つ私の願いを聴いて下さい、――一つは、その林の中の
平次の声は次第に小さく、やがて一色道庵の耳に何やら
「恐れ入りますが、御用人様へ御取次を願います。あっしは八五郎というケチな野郎でございますが、御家の大事を御知らせ申したさに、神田からわざわざ参りました――と」
「何じゃ、御用人様に逢わしてくれ、お前は一体何だい」
「ヘエ――、正にあっしで」
「正にって面じゃないよ、――用事は何だい、滅多な物貰いを取次ぐと、俺が叱られるでな」
「物貰いじゃないぜ
「そうかい、お家の大事とあっては放ってもおけまい、どりゃ」
腰を伸ばすと、ちょうど向うから中年の立派な武家が一人、何の所在もなくフラリとこっちへやって来るのを見かけました。
「あッ、
「何? お家の大事? 聴き捨てならぬ事じゃ。拙者は桜庭
ズイと出ました。思慮も分別も腕も申分のない武家に圧倒されて、ガラッ八の八五郎はツイ二三歩引下がりました。
「ヘエ、手前は八五郎と申しまして、ケチな野郎でございますが、南部兵糧丸の七味はよく存じております。

「何を言われるのじゃ、とんでもない。南部兵糧丸は、一藩の秘密で処法は御国許宝蔵に
桜庭兵介もすっかり
「御家老のお前さんも御存じがない。ヘエ――、すると、残る二味を申上げても一向面白くはないわけで」
「
「少しおかしな事になったぜ、――ね、御家老様、今殿様はこちらの御下屋敷にいらっしゃるんですかい」
「それは申上げ兼ねるが、見らるる通り裏表に門番一人ずつ、拙者がときどき見廻りに来るくらいだから、大方お察しもつこう」
「なるほど、ここにはいらっしゃらない、とおっしゃるんですか、――ヘエ――、ところで、一色道庵の娘、お絹と申すのがこのお屋敷におりましょう」
「いや、そのような者はおらぬぞ」
「おかしいなア、それじゃ本田蓼白や、伊東参龍を殺したのも
八五郎は遠慮を知りませんでした。穏当な桜庭兵介の調子に油断をするともなく、ツイこんな事までツケツケと言ってしまったのです。
「無礼者ッ、何を申すッ」
「ヘエ――」
「先ほどから黙って聞いていると、放図もない男だ。殿を初め一藩の名に
「…………」
「成敗してとらせる、それへ直れッ」
桜庭兵介が
「冗談でしょう。こんな事で首をチョン斬られてたまるもんじゃない、あばよと来た」
尻を
「爺や、あれは何じゃ」
「気違いでございましょうよ、別段呑んでる様子もなかったようですから」
門番と家老は顔を見合せて笑いました。まことに天下泰平な図柄です。
ガラッ八の報告を聴くと、平次の
それに、一色道庵の描いた林中の庵の見取図と、ガラッ八が
この上は最後の手段として、一色道庵が、迎いの駕籠に揺られて行く道々、平次の智恵で残して行った
一色道庵は、膝の上に載せた薬箱から、一と
駕籠はもうどこへ行ったか解りません。
「野郎ッ」
不意に
「あッ」
顔を挙げると、いつの間に集まったか、三方から五六人の人数、棍棒と
「え――ッ」
「何をしやがるッ」
「黙れっ」
キナ臭くなるような襲撃。平次はもう一度白刃をかわすと、身を
「逃げるか平次」
「何をッ、これでも喰らえッ」
懐を探ると、取出したのは青銭が五六枚。一枚一枚に口を
「あッ」
「やられたッ」
二三人は額を割られた様子、たじろぐ隙に平次は、身をかわして街の宵闇に隠れてしまいました。
しかし平次の方も大手ぬかりでした。せっかく智恵を絞った糠の栞も、夜道ではあまり役に立たず、そのうちに
翌る朝、一色道庵の死体は、南部家下屋敷の門前に捨ててありました。
左肩口からたった一と
一応死体を見せて貰った平次は、ちょうど下屋敷に居合せた家老の桜庭兵介に逢ってみようと思いました。一方は十万石の大名の二番家老、こちらは町方の御用聞風情、あまりに身分が違い過ぎますが、門前に変死人があっては、留守居の重役、知らん顔も出来ません。
「平次とやら、困った事が起ったものじゃ。当家の迷惑は一と通りではない、何とか早く取り片付けて貰いたいが――」
桜庭兵介思いの外手軽に平次を呼入れて、縁に腰を掛けたまま、こうこぼしております。ガラッ八を脅かした様子では、かなり荒っぽい人かと思いましたが、会ってみると思いの外
「恐れ入ります。もうすぐ取り片付けましょう。御迷惑は万々御察し申しますが、あの死体があったばかしに、御当家に掛る重大な疑いが晴れました」
「それは一体、何の事じゃ」
「三人の本草家をさらって殺した
「フーム」
「あの手際は見事でございます」
「余程の腕利きであろうな、八丈の重ね着を一枚の
「ところが、それほどの腕利きも、御当家裏門前で斬ったのは手ぬかりでございました。門の
「フーム」
桜庭兵介は唸りました。南部家に対する疑いが晴れた喜びよりも、この岡っ引の智恵の
「ところで、つかぬ事を伺いますが、御当家の兵糧丸処法が紛失したことはございますまいか」
平次はいきなり
「いつぞやも、そのような事を訊ねて来た男があった――が、南部兵糧丸は天下知名の秘薬じゃ。臣下といえども
「恐れ入ります」
「御領地盛岡の
「いえ、――ところでその兵糧丸を用いられたのは、いつの事でございましょう。一番近いところで――」
「
「どちらが用いましたので」
「攻め手は南部藩に、仙台会津の援兵二万人という大軍だが、兵糧も充分あり、兵糧丸の世話にはならなかった。敵は謀叛人の九戸政実一族五千人、福岡城を死守したから、そのとき城中に貯えてあった南部の兵糧丸を用いたことと思う。もっとも兵糧丸の法書きは盛岡の不来方城から一度も出した事がない」
「九戸政実の一族はどうなりました」
「皆死んだよ。城中の男女数百人を
「その九戸の一族で今日まで生き残る者はございませんか」
「なにぶん昔の事だ。今生きていると皆百歳以上だろう、もっとも、その子孫はないとは申されぬが」
桜庭兵介は問わるるままに藩の歴史を語ります。
「外に、南部藩を怨む者はございませんか」
「ない、いや心当りがないと言った方がよかろう」
「大膳大夫様と御仲の悪いのは?」
「大きな声では申されぬが、
後に
「恐れながら、御下屋敷の
平次は妙な事を言い出しました。
「ならぬところだが、当家の迷惑を取除いてくれたその方のために、案内してとらせる、こう参れ」
桜庭兵介は気さくに立ち上がり、平次を
*
その日の昼頃、精鋭をすぐった大捕物陣が、
取囲んだのは、南部様下屋敷左隣に、僅かに垣を隔てて建った林中の
捕物は相当以上に骨が折れました。手負いを五六人も
主人の殿に扮したのは九戸政実の
「親分、本当にあの連中は謀叛をする気だったのかい」
「いや、古い兵糧丸が手にあるのを幸い、その通りの物を作って、処法をさる大名に売り込むつもりだったのさ。話は大方極って、今晩取引というところを縛られたのは惜しかったろう。何しろ、南部の兵糧丸と言えば少し山気のある大名ならどこでも飛びつくよ、三千両でも安いよ。南部坂に巣を構えて南部家に疑いを向けるようにしたのは、万一露見した時の用意、昔の九戸政実の怨みを報いるつもりさ」
「ヘエ、三千両かい、あの薄黒い丸薬の法書きが?」
「それにしても
「そうとも、お絹さんの
「手前、お絹さんと言うと夢中だが、あれだけは諦めろよ、
「…………」
二人は御納戸町の方へ歩いておりました。危うい命を助かって、弟綾之助の許に引取られて行ったお絹の様子を見に行くつもりだったのです。