「親分、お願いがあるんですが――」
お
「お品さんが私に頼み――ヘエ――それは珍しいネ、腕ずくや金ずくじゃ話に乗れないが、膝小僧の代りにはなるだろう。一体どんな事が持上がったんだ」
銭形平次は気軽にこんな事を言いました。お品の話を、出来るだけ滑らかに手繰り出そうというのでしょう。いつでも、そういった心構えを忘れない平次だったのです。
「お聴きでしょう? 蔵前の札差に
「聴いたよ。たった一人だが、
二た月ほど前から
「
「…………」
「今度逃がせば、十手捕縄を返上しなければなりません、どうしましょう親分」
「なるほど、それは心配だろう。どんな手口だか私も知らないが容易の捕物じゃあるまい」
「よく
お品は淋しそうでした。平次とすっかり融和しているようでも、利助にはまだ年配の誇りと、妙に
「気のきかない話だが、俺も心配をしながら遠慮していたのさ。――それじゃこうしようじゃないか。あの通り
平次はそう言いながら、ガラッ八の方を振り返りました。案山子と言われたのが不足らしく、そっぽを向いて
「そうして下されば、どんなに助かるかわかりません」
お品はホッとした様子で白い顔を挙げました。聡明さにも美しさにも、何の不足もないお品を見ると、平次は、つくづくこういった心持になるのでした。
「お品さんが男だったら、大した御用聞になるだろう――惜しいことだね」
「あれ、親分、そうでなくてさえ、――娘御用聞とか何とか言われる毎に、私は身体が縮むほど極りの悪い思いをします。せめて父さんが
「いや、とんだ事を言って済まなかった。――お品さんが良い
平次は照れ隠しにそんな事を言わなければなりませんでした。
「そんな気になれないんで、父さんに苦労をさせます。今さら十手捕縄を返上して、番太の株を買うわけにも行かず、七八人の子分の暮しの事も考えると、どうして私は女なんかに生れて来たのかと、――親分」
お品は涙ぐんでおります。気に染まぬ聟を取るのがイヤさに、親父の後見をして、御用聞の真似事をしている自分が、つくづく浅ましかったのでしょう。
「
「親分」
お品は
「八、聴いたろう、日が暮れたら出掛けてくれ」
「案山子の一と役ですかい」
ガラッ八は少し
「嫌味を言うな。俺の口から『八五郎は大した腕だから、さぞお役に立ちましょう』とは言えないじゃないか」
「ごもっともみたいなもので、へッへッ」
「大層腹を立てたんだね、――もっとも
「もうようがすよ、親分」
ガラッ八は泳ぐような恰好で平次の皮肉を封じました。
「お品さんがせっかく頼んで来たじゃないか。ともかく、行ってみてやるがいい」
「行きますがね、親分、曲者の見当だけでも付かないと、捉まえようがありません。泉屋一家ばかりを狙うのはどうしたわけでしょう」
ガラッ八の疑問は、その頃の江戸中の人の疑問でした。
「それが判りゃわけはないよ。商売敵か、家督争いか、高利の奥印金に悩まされた
「ヘエ――」
「
平次はそんなところまで見当を付けましたが、それ以上のことは素より解りません。
八五郎のガラッ八が、
「よう、八五郎
誰やらが早くも見付けて嫌味を言うと、
「あ、いいとも」
臆れた色もなく、こう言って
まもなく石原の利助がやって来て、人数を四組に分けました。
「八兄哥には泉屋の店口を頼むぜ。筋向うの辻番から、
「ヘエ、承知しました」
八五郎は早速辻番の波障子の中にもぐり込みました。中には顔見知りの伊三松、三十前後で、ガラッ八とは馬の合いそうな男が居ります。
「八兄哥、頼むぜ、――今まで泥棒は、
伊三松は説明してくれました。なるほどこれほど研究が積めば、悪者も羽を伸してはいられないわけです。
「泉屋から出るのは構わないのかえ、兄哥」
「出るの?」
「迎いが来て、番頭は今しがた出て行ったぜ。通いらしいから、いずれ家に病人でもあるんだろう」
「そいつは気が付かなかった。ちょいと行って訊いて来ようか」
伊三松は飛んで行きましたが、まもなく帰って来て、ガラッ八の鑑定が
「こんな時は曲者だってうろつくのは骨が折れるだろう。自分の巣の中に潜って、晩酌でもやっているんじゃないか」
八五郎はこんな事を言います。自分がお役目を好い加減にして、パイ一にありつきたかったのでしょう。
「月の無いよく
伊三松も喉の鳴るのを我慢していたのです。
「泉屋の表は締めてあるし、店には多勢寝ずの番が居るし、こう見張っているだけが無駄みたいなものさ」
「
「ハクショ」
そんな話をしていると、番太の親爺が、戸棚を開けて、貧乏徳利を一本持出して来ました。
「貰ったのがありますが、ちょいと
「爺さん、そいつはいけねえ、飲むなら向うの隅っこで一人でやんな、見せびらかすのは殺生だぜ」
ガラッ八はさすがに良心がありました。がしかしその良心はいつまで続くことでしょう。やがて
「番頭が帰ったようだぜ」
「あれが泥棒だったら?」
伊三松はまだほんの少しばかり職業意識があります。
「小僧が臆病窓を開けて、顔を見てから入れた様子だ、――第一あの泉屋と書いた提灯が物を言わア」
ガラッ八はすっかり好い心持そうです。
が、まもなく泉屋の中は、煮えくり返るような騒ぎが始まりました。
「泥、泥棒ッ」
夜の街を筒抜けに、小僧の金切声。
「それッ」
ガラッ八と伊三松は酔も興も
内からサッと開く戸、中は真っ暗。
「御用ッ」
真っ先に飛込んだ伊三松の十手は、曲者の脇差に叩き落されました。
「神妙にせい」
続くガラッ八は、曲者の背後から、ガッキと羽掻締めに組付きます。
「
誰やらの声が甲走ると、気のきいたのが、奥から
淡い灯が一と打、帯ほどの幅で射すと、曲者は脇差を逆手に、ガラッ八の腹のあたりを突いて来ます。
「
ガラッ八は片手を抜いて、その利き腕を
「え――ッ」
激しい気合と共に、曲者の身体はガラッ八の腕を脱けました。脇差に気を取られて、羽掻締めが緩んだのでしょう。もっとも、脇差は幸いガラッ八の手に残って、曲者は素手のまま、唯一の逃げ道なる表口へ飛付いたのです。
「待て待て」
続くガラッ八、伊三松、多勢の番頭手代小僧。
「えい」
曲者が振り返って、頬冠りの中から一と睨みすると、それも大方は逃げ散って、ガラッ八の手が僅かに顔を包んだ手拭に掛ります。
が、曲者にどんな業があったものか、脇差の
「あッ」
見事に
「御用ッ」
「逃げるなッ」
一瞬にして、闇の中に大混乱が起ったのです。
「
高らかに響くガラッ八の声。
「畜生ッ、離せ、何をするッ」
その下に泥を
第二の灯が用意されました。
「
「ヘエ――」
銭形平次の前に、八五郎はもうすっかり恐れ入っております。
「曲者が伊三松とは知らなかったよ」
「からかっちゃいけません、親分」
ガラッ八は耳の後ろを掻きながら、何やら気に済まぬ様子で、平次の顔ばかり見ております。
「伊三松は鼻の先を摺り剥いて大むくれさ。石原の兄哥も言っていたよ、――御親切は
「親分、そんな事より、
「なんだえ、腑なんぞに落ちた
「笑っちゃいけませんよ、親分」
ガラッ八はまだ迷っております。
「
「真顔で冷かされるから、なおかなわねえ」
「
「ね、親分、真面目に聴いて下さい。
「何だと?」
平次は急に真顔になると、ガラッ八の方へ向き直りました。
「そんなはずはないと思うから、黙っていましたが」
「その曲者は誰だ、――言ってみるがいい」
「笑っちゃいけませんよ親分」
「誰が笑うものか、俺はお前のドジさ加減に腹を立てているんだ、曲者の顔を見て黙っている御用聞が、どこの世界にあるんだ」
「それがね、親分、――頬冠りを取ると灯が消えると一緒だ、ちらりと見たばかりだから、万一間違いというものが――」
「くどいなア」
「笹屋の宗太郎ですよ、親分」
「何だと?」
「それ、親分だって驚くでしょう、あの右の足が二三寸短くて、しみっ垂れの猫背が、――」
「フーム」
銭形平次もこれには唸らされました。笹屋の宗太郎は、猫背で跛者で、その上小金を貸して、細い
「宗太郎には兄弟が無かったか」
平次は早くもそんなところまで気が廻ります。
「ありますよ、――
「フーム」
平次にもいよいよ解らなくなりました。笹屋の宗太郎なら、お品を嫁に欲しがっている男で、一と通り知っておりますが、縄張外のことで、死んだ弟の宗次までは知らなかったのです。
「ね、親分、
「いや、そんな事を遠慮する奴があるものか。こうなれば
が、平次が出かけるまでもありませんでした。ちょうどそんな話をしているところへ、利助の娘のお品が笹屋の宗太郎を案内して来たのです。
「宗太郎さんが、どうしても平次親分に逢ってお話がしたい、このままにしておくと殺されるかも知れない――と言うんです」
嫌で嫌でたまらない求婚者をここまで
「これは親分さん、一二度
宗太郎の蒼い顔は、恐怖と不安に、ワナワナ
部屋へ入って来るのをよく見ていると、右足は左の足に比べると、どうしても二寸は短いようです、
「なるほど、
平次も思わず膝を進めました。
「親分、聞いて下さい。この世の中に私のような不仕合せなものがあるでしょうか」
笹屋宗太郎の話は、冒頭からこの調子でした。涙を誘うような、煽情的なものではないまでも、世にも陰惨な、不愉快なものだったのです。
宗太郎の父親は笹枝宗左衛門という三百五十石取の立派な旗本でした。が、つまらぬ事から上役の疑いを受け、それに役目の上の手落ちもあって、家禄を没取された上、世に顔向けもならぬような目に逢いました。
つくづく武士は嫌だ――と、潔く両刀を捨て、鳥越に世帯を持って、貯えの小金を融通し、利潤が積ってかなりの身代を作りましたが、今から三年前他界、世帯はそのまま総領の宗太郎が継いで僅か三年の間ながら、酒や女はもとより、あらゆる道楽と縁のないのが仕合せで、身代は太るばかりでした。
「たった一つ困ったことは、
「…………」
泉屋と宗次の関係――始めて聞く暗示に、平次は何もかも読んでしまったような気になりました。
「それからは、飲む、打つ、買うの三道楽で、私が小遣をやらないと、刀を抜いて脅かし、外へ出ると、押借、
「…………」
「もっとも、宗次にも言い分がありました。兄弟と言っても双生児だから、どっちが兄どっちが弟と言ったところで、確かな
「…………」
平次は黙って聴いております。
「宗次の乱行は日に日に募って、何べん私を殺そうとしたかわかりません。とうとう我慢が出来なくなって、今から二年前、三百両だけ分けてやって、兄弟の縁を切り、世間へは死んだと言いふらして、上方へやりました。何か身につく商売でも覚えさせようと思ったのでございます」
「その宗次とやら言う弟さんが帰って、泉屋一家へ仇をしている――とこう言いなさるのだね」
平次は珍しく
「お察しの通りでございます、親分さん、兄が弟の事を訴人するのは、よくよくではありますが、あんなに世間様を騒がせて、いつまでも黙っているわけには参りません。私がこんな事を言ったと知れたら、兄弟の見境もなく、斬るの殺すのと言うでしょうが、それも致し方がございません。いつまでも知らん顔をして、石原の親分さんや、お品さんに苦労を掛けるのも心苦しく、思い切ってここへ参りました。それに――」
「お前さんは宗次に逢いなすったのか」
「いえ、二年前に別れたきりでございます。三百両の金はとうに
「泉屋一家を荒しているのが、どうして弟の宗次と解ったのだえ」
「それでございます、親分さん、泉屋一家ばかり狙うのは、縁談の事で怨んでいる、弟の外には思い当りません、――それに、昨夜は私のところへも押込んで、手文庫から五十両ばかりの金を持って逃げました」
「それが弟の宗次だと言うのか」
「宗次の外に、手文庫の隠し場所を知ってる者がありません」
宗太郎の言うのは、何となく
「お前さんのところに雇人は何人居るんで?」
「番頭は通いでしたが、これは半月前に止めさせました。あとは小僧が一人、下女が一人、私と三人暮しでございますが、みんな早寝の早起きで、泥棒の入ったことなどは、誰も知りません」
「フーム」
平次はもう一度腕を
「それでは親分さん」
宗次は帰りかけましたが、平次の六つかしい顔を見ると、立上がり兼ねてモジモジしております。
「たった一つ訊きたいが、お前さんの弟は、お前さんによく似ているだろうね」
「それはもう、双生児の男同士で、子供の時は親父にまでよく間違えられました。年を取ると次第に気性が違って来たのと、弟は身体が丈夫で、顔色も艶々しておりましたから、家の者に間違えられるような事はありません」
「暗がりで、ヒョイと他人が見たら――」
「それなら、私と弟と間違えても不思議はありません」
「有難う、それで大方解った」
「それでは親分さん、何分
その晩は雪、ツイ油断をしていると、平右衛門町の隠居泉屋の老夫婦が、
「それ行け、――八」
ガラッ八と一緒に駆け出した平次は、いきなり途中から道を変えて、鳥越の方へ外れます。
「親分、どこへ?」
「俺はちょいと信心をして行く。
「ヘエ――」
何の信心だか解りませんが、ガラッ八は雪を踏立てて、平右衛門町へ飛びました。
平次はその後ろ姿を見送りながら、鳥越の笹屋の裏路地へ、そっと潜るように入り込んだのです。
「おや、銭形の親分さん」
「大層精が出るんだね、宗太郎さん」
まだ
「表は小僧に掃かせましたが、どうも、ぞんざいでいけませんよ」
そういう言葉が、聞きようでは、弁解らしくも響きます。
「ところで、昨夜弟の宗次が来たろうか」
「ヘエ――、また何かやりましたか、ここへは顔を出しませんが。――もっとも、来たらうんと意見をしようと思っていますが、
「そういったものだろうな、――ところで、宗次が立ち廻ったら、早速届けて貰いたいが、
「ヘエ――」
「それじゃ頼みますよ」
「何かありましたんで、親分」
「なアに、大した事じゃない」
泉屋の隠居二人を殺した大事件を、――しかも、半刻経たないうちに知れるはずのことを、平次は教えようともせずに
そこから平右衛門町までは一と走り、平次が行き着いた時は、雪と
こんな騒ぎの中から、何を捜し出せるものでもなく、唯もう平次は茫然として、血と雪と人間の渦巻を見詰めておりました。
「まさかあの雪にと――思ったのが油断でした。いつも来る
番頭の
「お、銭形の」
石原の利助は救われたような顔で迎えました。これだけ曲者に翻弄されると、我慢の角も折れて、銭形平次が唯一の頼りだったのです。
「目星は? 石原の兄哥」
「何にも解らない。笹屋の宗次の
「それに気が付いたから、ここへ来る前に、鳥越へ廻ってみた。そんな様子はねえ。宗太郎は小僧と二人で一生懸命雪を掃いていたぜ」
平次の真意はそこにあったのです。
「逃げ込んだ弟の足跡を隠すためじゃあるまいネ」
「何とも言えない」
「行ってみようか、銭形の」
「それもよかろう」
二人は、後を子分どもに頼んで、もう一度鳥越に引返しました。
笹屋の宗太郎は、先刻平次と逢った時とは、打って変ったあわてた姿でした。
「あ、親分さん方、大変な事になりましたな、とうとう泉屋の御隠居夫婦が――」
「お前さん、それを弟のせいだと思いなさるかえ」
「…………」
宗太郎の顔は苦悩に歪んで、
「一応家の中を見せて貰いたいが、よいだろうな」
利助の調子は冷たくて非妥協的でした。
「ヘエ――」
二人は上がり込むと、裕福らしいが狭い家の中を、隈なく見て廻りました。入口の二畳、次の六畳、そこにはお仏壇があって、その後ろはお勝手と、不似合に贅沢な風呂場、下女と小僧の寝間、それから八畳一と間、納戸と押入、便所、その奥に、宗太郎の寝間の四畳半が、縁側の先へ継ぎ足したように建て増してあります。
天井にも、床下にも、人間一人隠す場所はありません。
「立派な
平次は古い箪笥の前に立っております。
「親父が武家上がりで、二三十本ありましたが、
なるほど、残るのはほんの三四本、それもいい加減のものばかりで、下の方の
「この
平次が取出したのは、
「お、これは
「そうだろう、――どうも
銭形平次は、さり気なく宗太郎の顔を見やります。
「親分、――やはり弟が」
宗太郎は柱へよろけました。
「宗太郎、隠しちゃ、ためにならないよ。弟はどこに居る、――お前は知っているはずだ」
「いえ、何にも存じません」
宗太郎はもう
「小僧と下女を呼んで調べようか、銭形の」
利助は
「それもいいだろう」
そう言う平次の前へ、小僧と女中は呼出されました。吉蔵という十三四の少年と、おさめという山出しらしい
「隠さずに言うんだぞ。お前達はこの家へ奉公してから何年になる」
「私は二た月前で、おさめどんは、一と月にしかなりませんよ」
吉蔵は先輩らしい優越感にひたります。
「その前の奉公人は?」
「皆んな暇を取りました」
「それでは聞くが、近頃、ここの弟という人は来なかったか」
「存じません」
「旦那によく似ているが――」
「知らねえだよ」
これでは手の付けようがありません。
「それじゃ、昨夜とその前の晩、旦那の宗太郎さんはこの家に居たかい」
平次は利助に代って問いかけました。
「居ましたよ。旦那はお金の勘定が好きで、夜更けまで
小僧の吉蔵はこまちゃくれた事を言います。
「お前は見たのか」
「いえ、夜中小用に起きた時、旦那の部屋に
「話声は聞かなかったか」
「
平次の問もそこで行詰りました。
「旦那は夜更けにお前達を部屋へ入れないのか」
「ヘエ――、金の勘定などを奉公人は見るものじゃないって叱られます。
「それで、算盤を弾いているんだね」
「ヘエ、昨夜もその前の晩も、
生意気そうな小僧の吉蔵は、恐れ入った宗太郎を顧みます。
「それでいい。
平次はもう一度立って
机の上に算盤が一つ、その先がすぐ雨戸で、雨戸には小指の先ほどの小さい穴があいておりますが、始終
平次はそれを持って元の部屋へ帰ると、
「これは何だ」
宗太郎の胸先に突付けました。
「ヘエ――」
「江戸では見かけない品だ、――弟の宗次が持って来た物に相違あるまい。どうだ」
「…………」
「兄が弟を
「ヘエ――」
「まア、坐れ。不自由な身体で、そう立っていちゃ苦しかろう」
「有難うございます。――みんな申上げますが、
「隠れ家を言えば、これからすぐ行って縛って来る。お前に迷惑を掛けぬぞ」
利助も口を添えました。曲者の身体へ、次第に手が届くような気持だったのです。
「父親、笹枝宗左衛門が役目の失策を仕出かしたのは、今から二十年も前、泉屋の隠居が盛んな頃、
「…………」
宗太郎は畳の上へ手を突いたまま、思いも寄らぬ事をこう話し出したのです。
「御当所鳥越へ来て、少しばかりの
「…………」
「不都合な弟には違いありませんが、兄の私から見れば、可哀想でもございます。どうぞたった一晩だけ名残を惜しませて下さい。明日になれば、因果を含めて、きっと名乗って出るように致させます」
「いや、それはなるまい」
と利助。
「では、せめて一日」
宗太郎はポロポロと涙さえこぼしておりました。
宗太郎はその上口を開きません。が、縄打って引立てたら命に替えても弟を逃がすでしょう。平次と利助も、持て余してそのまま暮れるのを待ちました。
「もうよかろう、宗太郎、弟はどこに居る」
ガラッ八が手伝いに来たのを切っかけに、平次は最後の問を持出しました。
「いつまで隠しても大罪を犯した弟を助けるわけには参りません、みんな申上げます」
「言ってくれるか、宗太郎」
利助と平次は、左右から詰め寄りました。
「今頃は父親の墓に名残を惜しんで、隠れ家へ納まっておりましょう」
「父親の墓へ――?」
「左様でございます。
「なるほど、どうしてそれに気が付かなかったんだ」
平次は口惜しがります。
「門前の花屋の親爺は、昔使ってた若党でございます。弟はそこに身を隠しております」
「有難い」と利助。
「八、ここを頼むぞ。帰って来るまで、その男から眼を離すな」
平次も続いて飛出しました。一気に山谷の正伝寺へ――。
が、これはなんという見当違いでしょう。山谷の正伝寺へ着いたのは
第一、正伝寺の墓場には、笹枝家の墓などというものの無いことは、花屋も、
「これはどうだい、銭形の」
利助は花屋の店先にドッカと腰を据えました。
「石原の兄哥、俺達は大変な間違いをやらかしたらしいぜ」
「宗太郎が嘘をついたのか」
「それに違いないが、嘘も、念入り過ぎるぞ」
平次は考え込みました。
「それじゃ引返して宗太郎を引立てよう」
「いや、もう逃げてしまったろう。あんな悪く
平次は利助と並んで腰をおろしてしまいます。
「ここへ坐り込んじゃ困るぜ、銭形の」
「待ってくれ、兄哥、俺は大変な事を見落していたんだ――一昨日の晩曲者は八五郎に顔を見られると、その
「…………」
平次の深沈たる顔を、利助は不安そうに眺めるばかりです。
「奉公人は二た月まえにみんな変えた、帳面の筆跡もその頃変っている、――風呂場は急拵えだが、不似合いに贄沢で、お姫様の風呂場のように、内から厳重に鍵が掛るようになっていた――刀箪笥には後家になった刀があって(同じ拵えの脇差は曲者が持っていた)風車は雨戸の外へ仕掛けて、夜風にクルクル廻ると、その柄を机の前へ持って来て、あの穴へ竹箸でも仕掛けると、風の吹く度に算盤の球をパチパチ弾かせることも出来る――」
恐ろしい疑惑に利助も顔を挙げました。
「宗太郎と宗次は、親も間違えるほど顔が似ていた。とすると、――あの宗太郎と名乗るのが、その実は弟の宗次かも知れない」
「跛足はどうする」
利助は相談すると、
「そうだ、あの跛は
平次は愕然としました。
「とにかく帰ろう。こりゃ、大変な事になるかも知れない」
二人は花屋を飛出しました。一気に鳥越の笹屋へ――。
ガラリと格子を開けると、
「あッ、親分」
ガラッ八は元のまま八畳に
「宗太郎はどうした」
「親分方へ正伝寺と言ったが、あれは広徳寺の間違いだから、大急ぎで親分方に教えて来ると言って、
なんという他愛のなさ。
「馬鹿野郎ッ、だからお前に番人を頼んだじゃないか。どこの世界に親の墓のある寺を間違える奴があるんだ」
「あッ、いけねえ」
「呆れ返った野郎だ」
平次はさすがに怒りましたが、今さらどうすることも出来ません。
「親分、あの宗太郎は弟と
「当り前よ、――が、待てよ、宗太郎はここを出る時、跛足を引いていたか」
「え、あの跛は生涯
「待て待て」
平次は考え込みましたが、いきなり畳の上に坐って、自分の膝を見詰めております。
「親分」
「跛もあんなひどいのになると、両膝が揃わないのが本当だね」
妙なことを言い出します。
「…………」
「宗太郎は歩く時は右の足が二寸も短いくせに、坐った時両膝の揃うのはどうしたわけだ」
「親分」
ガラッ八は、平次の気違い染みた様子が気味が悪かったのです。
「八、帯を解け」
「大丈夫ですか、親分」
「気が違ったと思うか、安心しろ、俺は今跛を拵えてみせるから」
八五郎に解かせた帯で、自分の右足の
「あッ、親分」
ガラッ八も利助も仰天しました。平次の右足は二三寸短くなって、左肩下がりの醜怪な猫背の恰好になってしまったのです。
「跛者に見えるか」
「見えるどころじゃねえ、宗太郎そっくりだ」
「やはり、あれが弟の宗次だったんだ。二年前に貰った三百両を
平次の明察、もう
「それじゃ、どこへ行ったんだ」
と利助が、これも夢の醒めた心持。
「帳面で見ると、この二た月の間に、千両から掻き集めている、その上泉屋から
「なるほど、船だ」
と言ったところで、墨田川の川筋を半刻や一刻の間に、みんな調べる方法はありません。
「親分、お品さんは来ませんか」
「何? お品がどうした」
石原の利助の子分、伊三松が飛んで来たのです。
「
「何だと?」
利助は色を失いました。
「どっちへ行った、伊三
「それが解らないんで」
「――宗太郎が曲者だったんだ、が騒ぐな、騒ぐと飛ぶぞ、――あの野郎、行きがけの駄賃にお品さんをさらったのだろう」
平次は驚き騒ぐ利助、ガラッ八、伊三松を
「どこへ行くんだ、銭形の」
利助はすっかり打ちひしがれながらも、お品の身の上を心配して、僅かに若い者と一緒に駆けておりました。
「
「すると」
「船を三隻出そう、御厩河岸から追っかけて一
「合点」
「伊三兄哥は、両国から出せ。俺と石原の兄哥は、
「合点」
平次の号令は周到を極めます。
*
一方はお品、宗太郎に誘われて、何心なく来たのは石原町の河岸、もうすっかり暗くなって、往来もありませんが、宗太郎の足取りだけはよく判ります。
「おや? お前さんの足は?」
驚いたことに、宗太郎の大跛が、いつの間にやら
「気が付きましたかえ、お品さん」
「えッ」
「お品さんが跛を嫌ったように、私も跛の真似は大嫌いさ。二た月越しの辛棒は貸金二千両を掻き集めて、お品さんを手に入れたいばかり」
「お前さんは?」
「宗太郎の弟の宗次だよ」
「えッ」
「驚いたろう、お品さん、跛の意気地なしのしわん棒の兄貴と違って、私は丈夫で威勢がよくて、金離れの良いのが自慢さ。行こうぜ、兄貴から持越した恋だ」
これが曲者、とはっきり判ると、お品も思わずギョッとしました。
「あれッ」
「どっこい、お品さんは尋常な
お品の口を塞ぐと、
そっとおろしたのは、
「その
頬から頬へ、そっと通う体温、お品は眼がクラクラするほど憤りを感じましたが、無抵抗に、小判の上に寝かされて、どうすることも出来ません。
「俺は一日も早く、お品さんの前に、正体を見せたかったのさ。お品さんというものがなきゃ、もう半歳辛棒して、期限になった貸金をかき集めると、三四千両は手に入れられたんだ」
「…………」
「が、お品さんに見られたら、跛者やしわん棒や、臆病者の真似をしているのは、辛かったぜ」
宗次は自分の英雄的な姿を誇るように、漕ぐ手を休めては時々お品の前に立ち上がるのでした。
「おやッ」
同じ灯の無い船が、ヒタヒタと前から迫ります。
「変な船が来るぜ」
それが平次と利助の船だったことは、言うまでもありません。
「宗次、御用だぞ」
「何をッ」
闇を
「悪党らしくもない、お縄を頂戴せい」
宗次は逃れようのないことをはっきり知りました。後ろからは伊三松の船、向うからガラッ八の船が、これは灯を滅茶滅茶に点けて、
「御用ッ」
「神妙にせい」
と漕ぎ寄せるので、その人数はざっと二三十人。
「ハッハッハッ、手が廻ったのか。少し油断が過ぎたかも知れぬて、――が思い置くことはない、お品さんと一緒だ、晴れの心中も
お品を抱き上げたまま、身を躍らせて真っ黒な川へ――、その時遅く、間髪容れぬ投げ銭が、平次の手から流星の如く飛びました。
永楽銭や文銭では埒があかぬと見たか、取って置きの小判が一枚、二枚、――夜の水の上に閃きます。
「あッ」
宗次はお品を
このとき、二千両の小判の上には、縛られたままのお品が、