平次と生きた二十七年

――筆を折るの弁――

野村胡堂




愛情主義の平次


「銭形平次」を書き始めて、もう二十七年になる。自分が生きている間は書きつづけてゆくつもりでいたが、五、六年前から眼疾がんしつが急に悪化して、どうしても筆をもつことが不可能になってしまった。二度、三度と手術をし、どうにかして書きつづけたいと努力してみたが、何分にも七十六歳の老体のことゆえ回復もむずかしかったのだろう、最近ではすっかり気力も失ってしまった。
 そんなわけで、到底とうてい筆をとれないことを覚悟した。あるいは死ぬまで書けないかもしれない、これも天命だろう。
 眼を患って、どのように眼が大切なものかが骨身にこたえてわかった。私は視力が薄れてからも人の手を借りず自分で書いてきたが、この頃は一生懸命書いても、字が字の形を成さない。五号活字ぐらいはぼんやりと読めるけれども、八ポとなると読むこともむずかしい。こういう次第でとうとう筆を折らなければならなくなったが、三百八十余篇の「銭形平次」を愛読してきてくださったみなさんに心からお礼を申上げたいと思う。
 いざ、眼のために書くことをあきらめなければならないとなると、私の脳裏に浮かぶのはやはり失明のために苦しんだ先人たちのことである。ヘンデルは「光とともに天才を失う」と嘆いたが、この嘆きはそのまま私にはわかる。バッハにしても、滝沢馬琴たきざわばきんにしても、眼が見えなくなってからの精神的な苦しみは気の毒に堪えない。馬琴の口述を嫁のおみちさんが泣き泣き紙に写したというが、最後の原稿である「八犬伝跋文ばつぶん」はひじょうな名文である。
 私は口述をしたことがないので馬琴の真似をすることもできない。致し方のないことである。

 私の専門は法律で、大学では牧野英一先生の弟子だった。私はその頃から法律が刑罰主義であるのに一種の反感を抱いていた。人間の世界には悪があるけれども、それを取締るのに刑罰ではなく、なにか新しい法律ができたらいいのに、という願いをいつももっていた。ただ罰することだけが犯罪の解決ではあるまいという気持が常に私にはあった。
 探偵小説にしても『罪と罰』ではないが、なんでも罰することが主になっている。こういう刑罰主義への不満が私の「銭形平次」の寛大な裁き方になってあらわれていると思う。なんでも統計をとった人の話では私の捕物帳の七十何パーセントかは犯罪者を許しているそうである。その点では従来の捕物帳とはぜんぜん違っているといっていい。私は犯罪者を許す捕物帳の元祖といってもいいかもしれない。

呑気に明るく


 私は学校を出て旧報知新聞に入り、明治四十五年から昭和十二年まで新聞記者生活を送った。私が部長をしていた頃、鈴木茂三郎さんなどは私の下にいたものである。
 小説を書き始めたのは新聞記者時代、昭和の初め頃だった。冨士、講談倶楽部、キングなどにポツリ、ポツリ書き始めていたところ、当時の「オール読物」の編集長だった菅忠雄君が報知に訪ねてきて、あすこの応接間で「一つ、捕物帳を書いてくれませんか」という話だった。「やりましょうかね」ということになり、人を罰するのではなく、すべての人を許してやる捕物帳をやろうじゃないか、ということになった。殺伐さつばつな暗い捕物帳ではなく、呑気のんきな明るいものを書こうということが私の主眼だった。菅君は一高の菅教授の息子さんで、「オール読物」に書く口火を切ってくれた人だが、もう十数年前に亡くなってしまった。
「銭形平次」は翻訳だ、などといわれたことがある。ところが私は翻訳は大嫌いな性分で、平次は完全に私の創作である。モデルというものもない。いつか奥村五十嵐君が銭形は翻案だなどといって騒いだが、けっきょく奥村はあやまってきた。あれだけたくさん書いたものが翻案などである筈はない。タネ本もない。
 ただ、銭形が銭をほうるということは『水滸伝すいこでん』から暗示を受けた。『水滸伝』の没羽箭張清ぼつうせんちょうせいが錦の袋からつぶてを出して投るということから銭形平次の投げ銭を考え出した。
 八五郎は楽天家で、惚れッぽくて、どうにもしようのない男であるが、人間の甘いところと人のいいところをそっくりそのまま現わしている。八五郎を考え出したことは成功であった。下町あたりへ行くと、八五郎の人気のあることがよくわかった。
「平次にはお静といういい女房があるのになぜ八五郎を結婚させないのか」などと、よく聞かれる。しかしとうとう八五郎は結婚させずに終ってしまった。あとは読者の方々のご想像にまかせるよりしかたがない。それに八五郎を結婚させたら、もうおしまいだろうと思う。底抜けに人のいい八五郎にモデルはないが、徳川時代の滝亭鯉丈りゅうていりじょうの書いた『花暦八笑人はなごよみはっしょうじん』からヒントを得て、ものにこだわらない明るい人間を案出した。
 平次の女房お静はできるだけでしゃばらない、おとなしい一種の理想型のタイプに書いた。万事控え目であるところがお静の特色である。お静は「銭形平次」の第一回目から登場しているが、結婚したのはたしか三回目ぐらいのときだと思う。
 辰野隆氏がもち前の皮肉をとばして、「作家というものはちっとも成長しないな。平次もお静も三十年としをとらないんだから……」とからかわれたが、これは割に有名な挿話である。
 あれだけ数多く書いたが、全部を通じて私の捕物帳の特徴は侍の肩をもっていないということである。農民や町人に贔屓ひいきしていることである。私は昔から士族というものが嫌いである。私の祖先は南部藩の百姓一揆いっきに加わっているが、その血がやはり私にも流れているせいだろうか。四百二十幾篇を通じて、侍というものはトコトンまでやっつけている。また私は剣というものが嫌いで、うちにも、刃物らしい刃物は置いてない。ナイフでさえ、ろくに切れるものはないくらいである。だから私は剣戟けんげきというものを書いたことがない。チャンバラというものは私の捕物帳にはない。人を殺すというようなバカ気たことは大嫌いである。私は初めから侍は無駄めし食いだとハッキリいっている。
 それからいわゆる通人、風流人といったものも私は嫌いである。私は厳格な一夫一婦主義だから、そうした通人というような人物はひどい目にわしている。美男美女も出るし、八五郎女難、平次女難というようなことは書いていても、男女関係でさばけた通人というものは認めていない。こういう人物を登場させた場合、いつでも徹底的にやっつけている。これはやはり私の暮らしが生真面目なせいだろう。うちの応接間にはオルガンが置いてあって、教会の連中が日曜毎に礼拝らいはいにくる。生活も質素一方で、酒も煙草ものまず、遊びというものを知らない。そういうところから御手洗みたらい辰雄さんの「野村胡堂というヤツは実につきあいにくいヤツだ」という批判も出てくるのだろう。
 動物では馬と犬が嫌いである。私は百姓の子だから馬のことはよく知っているが、馬を飼おうとは思わない。なぜ馬が嫌いかというと、私の親父が百姓をしていて、四十年程以前の金で五万円の馬を買った。その借金を私が全部背負うことになって、家内などはそのためにどんなに骨を折ったかしれない。犬が嫌いなのは私の娘が一度、犬にまれたからである。その予防注射のために家内は十八日間も娘を連れて病院に通った。だから私は犬というものを飼わないで、塀に針金をめぐらしている。

江戸研究と音楽と


 私の捕物帳の特徴はいま書いたように、まず容易に罪人をつくらないこと、町人と農民に愛情をもったこと、侍や通人は徹底的にやっつけたこと、そして全体として明るい健康な捕物にしようと心掛けたことだろう。
「オール読物」に連載し始めてから、挿絵のほうはいろいろ変わった。小村雪岱こむらせったい、木村荘八、河野通勢、鈴木朱雀すじゃく、中一弥、神保朋世などの方々が次々と描いてくれた。
 ずいぶん長い間の銭形であったが、書いていて作家としての一種の満足感を覚えることがときどきあった。思い通りに筋を運んで、途方もない結末にもって行って溜飲りゅういんを下げたこともあり、ひじょうに兇悪な犯人を許してやって、いい気持になったこともある。なにしろ実際問題と違って文章の上のことだからのんきな遊びもできたというものである。
 いつかお女郎を題材にして書いたことがあるが、江戸時代のお女郎というものは自殺することを許されなかった。宿場女郎が自殺をすると、親許おやもと身代金みのしろきんをとられたり、いろいろひどい目に遇わされる。お女郎の自殺を禁止するという法律があって、ここまで人間の意志を束縛する法律は日本以外どこにもない。こういうことは一つの大きな社会問題だと思って、銭形の題材に使った。平次が自殺だと称してお女郎を助ける話だが、ああいうものは江戸時代の世相を調べてみるといろいろ出てくる。江戸時代の風俗については私は高等学校から大学にかけての時期をほとんど江戸研究に費やしたので、わりあいによく知っているつもりである。江戸時代の珍本を印刷させて作家連中に配ったこともある。
 五味康祐君も音楽が好きだそうだが、私も音楽は昔から好きで、レコードも大分集めた。この間、東京都へ一万枚ばかり寄付したけれど、まだ相当残っている。眼が不自由になってから朝から晩までレコードを聴いている。芝居にも、映画にも行けないので、レコードを聴くぐらいが私のせいいっぱいの楽しみである。しかしこの音楽と捕物帳と共通したものがあるということは世間ではだれも知らないだろう。シューベルトやモツァールトを聴いてそれが銭形平次に通じてゆくということは誰も考えないだろうと思う。シューベルトからすぐ捕物帳の筋が浮んでくるということはないけれども、たしかになにか共通したものがあって、音楽から受けた感銘で「銭形平次」を書くということは時々あった。

「銭形平次」は三百八十幾篇、枚数にすれば三万枚に近い。短篇だけを書くつもりでいたが、新聞連載などで長篇もいくつか入っている。私の寝室の床の間は全集や選集でいっぱいになっている。よくも書いたものだとわれながら感心することがある。全集も中央公論社で出したのを初めとして三つか四つはある。
「オール読物」に連載した短篇は以前には一日で書いたものだが、最近は最低三日はかかるようになっていた。もっとも案を練るまでが容易ではない。なにか書こうと思うものが胸に浮かんでから、それをデッチ上げるのに一週間はかかる。案が出来上がれば、新聞記者上がりだから書くのは早い。案を練り上げるまでに苦労がある。にせビッコを登場させようと思うと、自分で肩から帯を吊って脚を結んで、実際にやってみる。その恰好かっこうがおかしいといって家内などは大笑いするが、私としては真剣だった。締切りに間に合わないようなときは徹夜をしたこともあるが、六十を越してからは仕事は昼間だけにして、夜は休むように心掛けてきた。

吉田さんも愛読者


 吉田前総理が愛読して下さったというのは評判だが、私は嘘だと思っていた。しかしどうも事実らしくて、いつかだれかの結婚式で家内が吉田さんと向い合った時に、「野村さんのものはよく読みますよ」といわれたそうである。家内が「吉田さんはもっと怖い方かと思っていました」というと、「いいおじいさんでしょう」と笑いながらいろいろ話されたそうである。家内は吉田さんに大変好印象を抱いている。
 いつか武者小路さんに「君の銭形を読んでいるよ」といわれたことがあり、またなにかに「白状すると銭形から学んだことがある」と正直に書いておられたのを見たことがある。またある学者から「銭形を読まないと寝つかれない」と聞いたことがあった。銭形には邪念がないから、催眠薬になるのかもしれない。
 私は全集を出すとき、作家の人には提灯をもって貰わないことにしている。私の友達は大部分、科学者とか政治家で、中谷宇吉郎氏や吉田洋一氏には時々推薦文を書いて貰った事がある。
 銀座に「銭形」という料理屋があって、主人が義理堅く、盆暮には必ず顔を見せる。初め将棋の名人木村義雄さんが私のところへ連れてこられて、先方の希望で「銭形」という名前を許した。いい男だから名前をやったのだが、繁昌している様子である。
 銭形ファンがたくさんあることは作家冥加みょうがではあるが、かつて菊池寛氏が銀座は歩けないといったように、案外なところで顔を知られていて、ウッカリものを食いにも行けないということがあるので、私はめったに外出しない。一昨年までは家の近くを毎日散歩したものだが、この頃のように眼がすっかり不自由になってはそれもできなくなってしまった。
 ファンというよりも文学青年といったような人たちがよく来る。雑誌社へ紹介してくれという人もあるけれども、やはり自分の腕を磨くことが先決問題である。ほんとうの苦労を知らない文学青年のものはどうにもしようがない。
「銭形平次」は戦後だけで十本ばかり映画化され、全部で十五、六本にはなるだろう。銭形にふんした俳優ではやはり長谷川一夫がいいと思う。あの人は凝り性でずいぶん工夫をしていて、私は好きだ。
 探偵小説や捕物帳もずいぶん読んだが、私が一番面白いと思って読んだのは岡本綺堂さんの『半七捕物帳』である。エドガー・アラン・ポーなども興味深く読んだ。ただ犯罪の追及という点がみなきびし過ぎるように思える。私のものは捕物張としてはのんき過ぎるといわれるかもしれないが……。

平次スリにやられる


 原稿は全部万年筆で書いた。ずっとパーカーばかり使っていたが、終戦後のあまりパーカーなどない頃、愛用の二、三本入れておいたのを容器ごと汽車のなかでスられて実に残念な思いをしたことがある。伊東へ行こうと思って熱海で乗り換えた時、入口のあたりで、なにかサッとかすめられたような気がした。スリは財布と間違えて万年筆をとったのだろう。ちょうど帝銀事件のあった頃で、車掌さんに直ぐ届けたら、車掌さん曰く「銭形の親分ともあろうものがスリにやられちゃ、みっともないですよ」――私はなんとも言葉が出なくてペコペコお辞儀じぎしていた。家内が傍で大笑いするので、私もつい釣り込まれて笑ってしまったが、あの万年筆は使いれていたものだけに残念でならなかった。東京へ帰って、その話をすると、友人や親類がアメリカさんあたりから手に入れたのをゆずってくれたり、贈ってくれたりした。しかし使い馴れたものへの愛着は断ち切りにくいもので、しばらくはしょげてしまった。作家にとって万年筆は武器みたいなものである。
 うちでは表札もよくとられる。一時「捕物作家クラブ」の表札を下げておいたが、とられ通しだった。なにか泥棒けになるということらしい。浅草にある「半七塚」の黒いきれいな砂利も、魔除けとか泥棒除けにみんなもって行かれてしまうということだ。
 あの「半七塚」を造ったのは私であるが、いま「銭形平次塚」を神田明神に造ろうという話があって、守田勘弥君などが奔走ほんそうしてくれている。これは二、三年前から話があったが、私は断りつづけに断っている。岩手県日詰ひづめが私の故郷であるが、ここでも塚を建てたいといっている。しかし私はこれも承知しない。生きているうちはそういうパッとした派手なことはやって貰いたくないというのが私の本音である。それに空想の人間のが出来てもしようがなかろうという気持もある。

我が子・平次


 とにかく銭形平次ではよく稼がせて頂いた。一度書いたものがまた全集や選集になって出るということで、二重、三重に働いて貰ったわけである。なかには迷惑を受けた出版社もあったが、これはこちらがむかしびとで、印税の催促などできない性格だからしかたがない。ラジオ、映画でもよく働いてくれた。
 私が銭形を書き出したのは新聞記者時代からで、五、六年は両刀使いでいたわけだが、当時、報知はそういうことを許していた。だから本業の新聞記者の給料よりも雑誌社から貰う原稿料のほうがよほど多かった時代がある。だから夏は軽井沢に避暑をするというようなこともできたわけで、それをとやかくいう人はなかった。あの頃はのんきでよかったと思う。
 私は四人の子供があって、その内娘が一人、物を書いていたが夭折ようせつしてしまった。生きていれば親子二代の作家になったかも知れないが、先立たれて、いま残っている子供は娘一人、孫が二人だけである。子供運には余り恵まれなかった。
 それに銭形平次ともとうとうお別れということになって、すっかり淋しくなってしまった。一つ、暮らし方の工夫をしなければなるまい。淋しくともこれが人生だと諦めている。もし今後健康が多少とも回復するようなことがあれば、あるいはあと一篇か二篇まとめ上げることが出来るかも知れない。その時には銭形の故郷である「オール読物」で、みなさんに読んで頂きたいと思っている。
(昭和三十二年九月「オール読物」)





底本:「銭形平次捕物控(七)平次女難」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年11月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集二六巻」河出書房
   1958(昭和33)年
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1957(昭和32)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2016年3月4日作成
2019年11月23日修正
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