随筆銭形平次

平次身の上話

野村胡堂





 銭形平次の住居は――
 神田明神下のケチな長屋、町名をはっきり申上げると、神田お台所町、もう少し詳しくいえばうなぎの神田川の近所、後ろは共同井戸があって、ドブ板は少し腐って、路地には白犬しろが寝そべっている。
 恋女房のお静は、両国の水茶屋の茶汲女をしたこともあるが、二十三になっても、娘気の失せない内気なはにかみやで、たった六畳二た間に入口が二畳、それにお勝手という狭い家だが、ピカピカに磨かれて、土竈へっついから陽炎かげろうが立ちそう。
 そのくせ、年がら年中、ピイピイの暮らし向き、店賃たなちんが三つ溜っているが、大家おおやは人が良いから、あまり文句をいわない。酒量は大したこともないが、煙草は尻から煙が出るほどたしなむ。お宗旨は親代々の門徒もんと、年は何時いつまで経っても三十一、これが、銭形平次の戸籍調べである。


 実際は元禄以前、寛文万治までさかのぼった時代の人として書き起こされたものであるが御存知の通り、それは挿絵の勝手、風俗の問題――衣裳から小道具まで、はなはだ読物の世界に不便であるために作者の我がままで幕末――化政(文化・文政〈一八〇四―三〇年〉)度の風景として書かれ、特別な考証を要するもの以外は、はなはだ済まないことではあるが、頬冠りのままで押し通している。
 芝居道でいえば、「寺子屋」の春藤玄蕃しゅんどうげんばが赤いかみしもを着て威張ったり、「鎌倉三代記」の時姫がお振り袖をジャラジャラさせ、「妹背山いもせやま」の鱶七ふかしちが長裃を着けるのと、同じ筆法と御許しを願いたい。
 銭形平次の物語を書き始めてから二十年になるが、平次はどうして年をとらないのだという小言をひっきりなしに頂戴している。
 それについて、いつか「週刊朝日」の誌上で辰野隆博士の質問に答えているが、連続小説の主人公の年齢を読物の経過する年月と共に老い込ませていくのはおよそ愚劣なことで、モーリス・ルブランのルパンがその馬鹿馬鹿しい例を示していると私は答えておいた。小説の主人公は何時までも若くてそれでよいのだ。大衆文芸の面白さはそのコツだといってもよい。
 平次の女房のお静は、両国の水茶屋時分、平次と親しくいい交わすようになって、平次のために不思議な事件のうずの中に飛び込み、危うく命をかけた大手柄は、二十三年(昭和六年)前「オール読物」に書いた、銭形平次の第一話「金色の処女」に詳しく書いてある。しかしそんな事はどうでもよい。お静は何時までも若くて愛嬌があってそして、フレッシュであればいいというと、辰野隆博士は面白そうにカラカラと笑った。
 ところで、その銭形平次は実在の人間か――ということをよく訊かれる。大岡越前守や、遠山左衛門尉と同じように、『武鑑』に載っている人間ではないが、江戸時代の記録が散逸して、ふすまの下張りになっているから、お寺に人別があったかどうか、私といえども判然としない。恐らく岡本綺堂の半七親分や、佐々木味津三のむっつり右門君と同じことであろうと思う、りと信ずる人には実在し、無いと観ずる人には架空の人物であったに違いあるまい。


 吉川英治氏が『江戸三国志』が映画化されたとき、最早二十五六年も前のことだが――新聞社の試写会で挨拶をさせられたことがある。それに先だって、吉川氏が「今晩は一つ種あかしをして、主人公以下ことごとく架空の人物だということを話そう」というのである。その頃その新聞社の学芸部長であった私は、驚いてそれをとどめ「そいつはいけない。読者は皆、作中の人物を九郎判官義経ほどの実在の人物だと思っている。読者の幻想を打ちこわさないように願いたい」というと、吉川氏がそれに応えて、要領よくやってくれたことは申すまでもない。
 熱海にお宮の松があり、逗子ずしには浪子不動がある。千葉県の富山には八犬伝の碑があり浅草の花屋敷には、半七塚を我々捕物作家クラブ員が建立した。小説の中の人物が、塚になり碑になって、実在の人よりも遥かに実在らしく生きていることは、その例非常に少なくない。
 京都、大阪には、東京以上に、小説、浄瑠璃じょうるり中の人物の遺跡が保存されているそうである。偉人傑士といえども、御時世が変わると、百代の後にまで遺す気で建てられた銅像も鋳潰いつぶされたりするのである。現に不思議な時代に遭遇して、我々はそれを嫌になるほど見聞したはずである。その中に、小説や詩や浄瑠璃に創造された架空の人物が、民俗の記憶の底深くしまいこまれ、塚となり碑となるのは、むしろ嬉しいことではあるまいか。
 明治中頃に重野安繹しげのやすつぐという学者があった。その頃独自の史論を発表して、児島高徳こじまたかのりの存在を否定し、武蔵坊弁慶を撲滅し、面白可笑おかしい逸話を持った、史上の大物を片っ端から否定して、抹殺まっさつ博士という綽名あだなで呼ばれたことは、老人方は記憶しておられるであろう。
 歴史上の人物らしく思われている人でさえ、洗って見ると、架空の人物は少なくない。まして職業作家が、踊らせ、話させ、心中したり、切り合いまでさせる人間が、全部実在の人間であり得ようはずはないのである。もっとも昔の人はこれを一つのごうと観じ、謡曲の作者は、紫式部をさえ罪人扱いにしているが、今の人は、作中の人物をなつかしんで、碑を建て塚を築いている。血肉をもった実在の人間より、それは浄化され神格化されているためでもあろうか。
 シェクスピーアの場合、史劇あるいは悲劇は大概粉本があるらしく、ハムレットも、オセロも、マクベスも、リア王も、恐らく実在したことであろう。だが、実在の王子ハムレットは、シェクスピーアの描いたハムレット程は偉人でなく「在るべきか、在るべきでないか、それは疑問である」などと、六つかしいことはいわなかったに違いない。これは余事にわたるが、日本の歴史小説も、史実の詮索せんさくに溺れるよりも、シェクスピーアの偉大さと深さを学ぶべきではあるまいか。もっとも歴史小説というものを書かない私は、気楽にこんなことがいえるのかもしれない。歴史は歴史家に任せて、小説家は小説を書けばよいのだ。史上の人物を踊らせて、新しい創造をすればよいのだ。ピカソの美人は顔が二つあり、マルシャンの太陽は青い。それでよいではないか。


 亡くなった菅忠雄君が、新聞社の応接間に私を訪ねて「雑誌をはじめることになったが、その初号から、岡本綺堂さんの半七のようなものを書いてくれないか」と持ち込んだのは、昭和六年の春のことである。「綺堂先生のようには出来ないが、私は私なりにやってみよう」と簡単に引き受けてしまったが、それから実に二十三年、銭形平次の捕物を今でも書き続けている。四十枚から五十枚の短篇だけでも三百篇、中篇長篇を加えたら、三百二十篇にはなるだろう。作者の私自身も、よくもこんなに書き続けたものだと思っている。
 昔から、長い小説は随分ある。『源氏物語』『アラビアン・ナイト』『南総里見八犬伝』『戦争と平和』『水滸伝』『大菩薩峠』と。だが、その多くは一つの筋の発展で、起承転結のある、幾百の小説の集積はあまりない。探偵小説にはフランスの『ファントマ』や、イギリスの『セキストン・ブレーク』があるが、それは多勢の作者が力をあわせた作品で、一人の頭脳と手から生まれたものではない。
 こういうと、大層自慢らしく聴こえるが、誰もやったことのない事をやり遂げるというのは、誰にしてもなかなか楽しいものである。ビルからビルへ針金を渡して綱渡りするのも一升何合の大飯を食うのも、私がおびただしい小説を書いたのと、あまり大して変わらぬ優越感であろう。『大菩薩峠』の作者は屡々しばしばその長いのをもって誇っていたが、私もまた、その例に漏れないのに気がついて、今さら苦笑する次第である。考えてみると、モリ蕎麦を背丈ほど喰うのを誇りとするアンチャンと、大して変わらぬ無邪気な自慢話である。
 申すまでもなく、二十三年の間には、実にいろいろのことがあった。どうにもこうにも書けそうもなくなったことも三度や五度ではない。幾度かはお辞儀をしてしまったこともあるはずである。が、眼が悪くなって、原稿紙の枡目ますめさえも覚束おぼつかなくなった今でも、どうやら書き続けているのである。これは決して洒落や道楽で出来ることではない。生活と四つに組んで、創作慾に引きずられて、弱いマラソン選手のように、あえぎ喘ぎ駆け続けているのが本当の姿である。
「鼻唄を歌いながら書く」と、某新聞に書いたのは、無闇に芸術がる人達、名匠苦心談の製造に憂身をやつす人達に対する、私のささやかな反語であったが、最近作家の某氏が三十年振りに私を訪ねて「鼻唄を歌いながら小説を書くというのは、あれは羨ましい境地だ」と褒めてくれたには胆をつぶした。どこの世界に鼻唄を歌いながら小説を書ける化物があるだろう。
「名匠苦心談」というものを、私は何より嫌いである。満足に三度のものにあり付いて、一つの芸事を仕上げるものに、おろそかな心掛けはないはずである。芸事に対してあえて芸術とはいわない――俺だけが彫心鏤骨ちょうしんるこつの苦心をしていると自惚うぬぼれる人間は、私だけが熱烈なる恋をしていると思い込む芸者と、あまり大した違いのない低能である。
 また「消耗品の芸術論」になりそうであるが、私はいつでも、いかなる世界でも、職業と、それに打ち込む労作を尊む、俺だけが芸術家だと思う人間は、消えて無くなった方がよろしい。昔から、そんな者はろくな仕事をした例はないのである。


 木村名人は私に訊ねたことがある。「あの平次のおびただしいトリックは、どうしてこしらえるのだ」――と。木村名人は私の心友の一人である。私は将棋の駒の並べ方も知らないが、木村名人とは二十年も机を並べた間柄で、あの聡明さと、江戸ッ児らしい気前と、情誼のこまやかさには敬服している。
 余事はさておき、私はこの問に対して、「それはなんでもないことだ、将棋さしが詰将棋の手を考えるのと同じことだ、木村名人が生涯に三百題の詰将棋を考えたところで、少しの不思議もないではないか」――と。
 捕物又は探偵小説のトリックは、もう一つの例を挙げると、数学の教科書の問題を作るのと同じことだともいえるだろう。解くものにとっては、神妙不可思議の手段があるように思えるだろうが、拵えるものにとっては、それは大した六つかしいものではない。
 碁や将棋のうまい人は、夥しい定石を研究し、それを体得して、自分の手を生み出す。探偵小説又は捕物作家も、夥しい型を記憶しておいて、その古い型を土台に、新しい手を考える外はないのである。
 江戸川乱歩氏は、古今東西の探偵小説を読破し、その幾百、幾千のトリックを分類し、幾つかの型を作って、その上に、前人未踏のトリックを発見しようとしているということである。これは仲間人の単なる噂で、江戸川氏本人から聴いたことでないから、真偽のほどは定かでないが、江戸川氏のような緻密ちみつな頭脳を持った人には、さもありそうな事でもあるのである。
 探偵、捕物小説のトリックの世界にあっては、古い手は絶対にいけない。換言すれば、誰かが使ったトリックを、二度と用いることは許されないのである。私はかつて現代探偵小説に、低圧電気による殺人を書いたことがあったが、それは専門医にたしかめて書いたものであったにかかわらず、前後して故小酒井不木こざかいふぼく博士が、同じトリックを用いて、まったく違った小説を書いて発表したために、恐ろしい暗合に腐ってしまったことがある。
 もっとも、トリックの新奇を競う結果、探偵又は捕物小説は、神経が繊細になり、怪奇になり、現代人の生活や常識から、かけ離れていく傾向のあることもまたむを得ない。激しい競争や、高度の文化の惹き起こす混乱は、口惜しいことではあるが、何時でもこういったものである。
 生前の正岡子規が、明治三十二三年の頃、後輩の俳人に教えてこういったことがある。
「俳句に上達したければ、少なくとも一万句は作り捨てるがよい、君達の思想にコビリ付いている先人の残滓ざんし、例えば、かわず飛び込む水の音とか、日ねもすのたりのたりかなとか、そういった月並な考え方はみんな出尽くしてしまって、それから始めて銘々の本当のものが出て来る」と。まことに面白い言葉だ。俳句も詩も小説も、作るものの苦心に変わりのあるはずはない、まして先人の真似も許されない探偵、捕物小説の構成や、その生命ともいうべきトリックは、生涯書いて書いて、書き捨てて、始めて新しい良いものが生まれるのではあるまいかと、私はいいたいのである。本当の天才の境地を私は知らない、我々凡才、濁った脳漿のうしょうを持ったものは、汲み出し、汲み捨てるより外に、智恵を浄化する術はないのである。
 私は捕物小説を書き始めた頃、時々翻案ではないかという疑いを受けた。評論家の高田某、作家の奥村君はその代表的な人達であった。奥村五十嵐君は、後に捕物小説を書くようになってから「いや済まないことした、あれは翻案などであるべきはずはない」と素直に詫びてくれたが、惜しいことに五年前に世を早くした。
 捕物又は探偵小説に種本は無い。それは筋やトリックを生命としているからである。古典文学に、こういった物語の粉本の少ないのは、背景になる社会生活が単純で、人々はことごとく割り切った暮らしをしていたためであろう。
 もっとも旧約時代のソロモンの伝説が、大岡政談に採り用いられた例もあり、仏説にも『古事記』以後の史書にも、淡い探偵的な話はある。謡曲の「草紙洗」は唯一の探偵物語であるが浄瑠璃には非常に夥しい。忠臣蔵の勘平などは、なかなかの探偵劇だといってよい――だが、そんなものは一つも利用されるものではない。
 中国には、詐術又は裁判小説は夥しく、『棠蔭とういん比事』などはその代表的なものだが、私はその中のトリックを逆に用いた例はある。もっとも盗用と思われるのが厭で、出所は明らかにしてあるはずである。西鶴の『本朝桜蔭おういん比事』は叙述の精妙さで帽子を脱ぐが、今用いられるようなトリックや材料は少なく、『棠蔭比事』以下の比事物や用心記も大同小異といって差支えはない。
 我々の範とするのは、やはりボアゴベ、ガボリオ、ポー以後の外国探偵小説であるが、これは、コナン・ドイル以前の古典に属するものほど面白く、精緻巧妙にはなっても、近代のものに私は心かれない。それは、トリックに嘘が多く、筋も拵え過ぎて、人物が浮彫されていないからである。つまり、人間の描かれていないものは、何が何でも、読む気にはなれないからである。
 新しい探偵小説には、謎解きとしての面白さはあっても、打ち込んで読む気になれないものが多い。化学方程式のない毒薬、変幻怪奇な仕掛け、製造工程を無視したレコード、それでは困るのである。
 その意味において、髷物まげものの捕物小説のよさはいろいろの制約があるためだと私はいおうとしている。そこにはピストルも無ければ、自動車も電話も無く、青酸加里も無ければモルヒネも無い。あるものは石見銀山いわみぎんざん匕首あいくちと、そして細引だけである。したがってトリックもまた人間の心の動きの盲点を利用したものや、感情の行き違い、注意のズレといった、心理的なものになり易く、そのトリックは、時代や文化によって、動き易いものではない。つまりは、明日は変わっていく器械的なトリックではなくて、千古不易の心理的本質的なトリックになることが多いからである。
 叱られ、罵られ、時には恥ずかしめられながらも捕物小説が、民衆の間に浸透していくのは、この特色のためではあるまいか。捕物小説をチャンバラと解し、時代思想への逆行と考えるのは、捕物小説を読まざるものの誣言ぶげんである。


 捕物小説――とあえていわない、私の平次物を、勧善懲悪とめてくれる人がある。まことに有難いようではあるが、私には、どうも有難くないのである。勧善懲悪というのは、滝沢馬琴流の小説をいうもので、それは多分に徇法じゅんぽう的屈従的であり長いものに捲かれろ主義である。換言すれば『八犬伝』の忠孝仁義主義である。
 ところが、わが銭形平次は十中七八までは罪人を許し、あべこべに偽善者を罰したりする。近代法の精神は「行為を罰して動機を罰しない」が、銭形平次はその動機にまで立ち入って、偽善と不義を罰する。こんな勝手な勧善懲悪は無いはずである。ヴィクトル・ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』を書いて、法の不備とその酷薄さを非難し、古今の名作を生んだ。私は銭形の平次に投げ銭を飛ばさして、「法の無可有郷ユートピア」を作っているのである。そこでは善意の罪人は許される。こんな形式の法治国は、髷物まげものの世界に打ち建てるより外にはない。
 私は貧しい百姓の子で、三代前の祖先は南部藩の百姓一揆に加わっているはずである。子供の時から、侍の世界の、虚偽と空威張からいばりと馬鹿馬鹿しさを聴かされて育っているのである。私が子供の頃は、馬に乗って歩いても、侍の子孫達が来ると馬から降りてお辞儀をしなければならなかったものである。銭形の物語の中に、祖先が人を殺した手柄で、一生無駄飯むだめしを喰っている、侍階級に対する反抗が散見するのはやむを得ない。
 私は徹底的に江戸の庶民を書く。とりわけ無辜むこの女を虐げる者は必ず罰せられるだろう。八五郎のように、私はフェミニストだからである。銭形平次と八五郎が、みんなに愛されている限り、私は書き続けるだろう。
 江戸という時代は、制度の上には、誠に悪い時代であった、が、隠された良い面が数限りなく存在する。私はそれを掘りさげていきたい。捕物小説という、変わったゲームに便乗して。





底本:「銭形平次捕物控(一)平次屠蘇機嫌」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年5月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集 別巻」同光社
   1954(昭和29)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2016年9月9日作成
2019年11月23日修正
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