「親分、変なことがあるんだが――」
ガラッ八の八五郎が、少し鼻の穴を
「よくそんなに変なことに出っくわすんだね、俺なんか当り前のことで
銭形の平次はそう言いながら、せっせと冬仕度の
まア――随分、といった顔をお静はあげましたが、また例の八五郎を遊ぶつもりの冗談と判ると、素知らぬ顔をして、縫物の針を動かしました。名残りの
「だが、こいつは変っていますよ親分」
「前触れはそれくらいにして、なんだいその変っているのは」
八五郎の物々しい調子に釣られて、平次もツイ起き直りました。
「今朝、湯島の天神様にお詣りをして、女坂の上から、ぼんやり
「消し忘れたんだろう」
ガラッ八の報告も、平次に
「ところが親分、念のために、ツイ今しがたもういちど行ってみると、行灯の灯がまだ点いているのはどうでしょう」
「フーム」
「朝消し忘れた行灯が、油も
「なるほどそう言えばその通りだが、――近頃なんか、そんな
「やってみましょうか」
その話はそれっきり忘れて、ガラッ八が帰ったのは日が暮れそうになってから。
「親分、どうもますます変ですよ」
八五郎のキナ臭い顔が飛込んだのはまだ朝のうちでした。
「昼行灯はなんの
平次も少しばかり真面目になります。
「解らないから不思議なんで」
「それじゃなんにもならないじゃないか」
「ところが今朝は昼行灯が引込んで、赤い鼻緒の草履がブラ下がっているんで」
「さあ解らねえ」
「きのう行灯の出ていた二階に間違いはありませんよ。
「何かの禁呪にそんなのはなかったかい」
平次の顔も少しキナ臭くなりました。
「禁呪なら草履を頭へ載っけるんですよ」
「いよいよもって解らねエ。――その家にどんな人間が住んでいるんだ」
「取揚げ婆アのお早の家ですよ」
「あの間引をするとかいう、評判のよくない?」
「亭主の六助は中条流の女医者の薬箱持をしたことがあるそうで、殺生なことを渡世にする鬼夫婦の家だから話になるじゃありませんか」
「フーム」
「近所で訊くと、二階には
「なんだ病気か、――馬鹿にしちゃいけねえ」
平次は
「でも、一と月ばかり前までお屋敷奉公をしていたそうで、そりゃ綺麗な娘だという評判ですぜ、親分」
「綺麗な娘と聴くと、無性に乗り出すからイヤになるよ。面が綺麗だって、気の変なのは
「気が変にしても、天神様の境内へ見えるように、いろんな物を持ち出すのは変じゃありませんか」
「そんなに気が
平次も何かしら疑念が残らないでもない様子です。
「親分、ちょいと来て下さい。いよいよ変なことになったんだが、あっしじゃ見当が付きません」
三日目の朝、八五郎が飛込んで来ると、いきなり平次を引立てそうにするのです。
「とうとう来やがったか、今日あたりはお前の大変が飛込みそうな陽気だと思ったよ。いよいよその娘が笹っ葉かなんか
平次は少しばかり面白そうでした。
「それならここへ来る前に、飛び込んで相方を勤めますよ」
「ハッハッハッ、そいつはよかった」
「天神様の女坂の上から小手を
「解らねエよ、
「二階の障子にブラ下げたのは、
「
「ちょいと行ってみて下さいよ。何か恐ろしい事の
「よしよし、お前がそんなに心配するなら、少々気が変でも、綺麗な
「でしょう、親分」
「狂人なら同じことをくり返すはずだ」
平次は湯島への道を
女坂の上に立つと、今日はまた滅法美しい秋晴れで、江戸の街は深川の端までも見えそうです。お詣りやら行楽やら忙しい人達はツイ眼の下二三十間先の二階縁側に仕掛けた、不思議な判じ物を読もうともしません。
もっとも、その隣の家の二階には渋柿を、その向うの家の二階には土用干ほど女物を干している中ですから、
「ね、親分。あれですよ」
八五郎の指さすまでもなく、平次は不思議な二階の辺りを
「一番上、右の方にブラ下げたのは
「苧、紐、髢ですか親分」
「それじゃ、文句にも地口にもならない」
「麻糸、細紐、毛――と」
「駄目駄目」
二人は玉垣に寄ったまま、しばらく無駄を言っておりました。
「親分」
「なんだ、八」
「妙に
「待ちなよ八、それじゃ、あんまり智恵がなさすぎる、――上の糸は苧や
「親分」
「こいつは、おたすきけと読めるぜ、たすきの下の方が毛で隠れているから、おたすけだ」
「えッ」
「こんな手数のかかる謎々が、
「親分」
八五郎はもう尻を
「御免よ」
平次はいきなり格子を開けると、
「ハ、ハイ、どなた様で?」
お早は少しまごまごしております。
「平次だよ。六助はいるのか」
「ヘエ、あの、どんな御用でしょう」
御法の裏を
「二階をちょいと見せて貰おうか」
平次は立ち
「あれッ銭形の親分」
上の方を向いて大きな声を出すのは、力及ばずと見て、二階に合図を送るつもりでしょう。
「えい、静かにせい」
平次はトントントンと一気に二階へ、唐紙をパッと開けると、中は思いきや空っぽ――
「おや?」
「親分、
裏口へ廻しておいたガラッ八が下から大きな声を出すのです。
「そいつを逃がすな」
裏口へ飛んで行ってみると、ガラッ八は中老人の六助を
「もう一人はどうした」
「ヘエ――」
「娘の方はどうしたよ、八」
「知りませんよ。屋根から
「馬鹿だなア、そんな爺はどうでもよかったんだ。行灯と草履と
「ヘエ――」
「ヘエじゃないよ」
平次が腹を立てたところで、それは八五郎の手落ちでも何でもなかったのです。
「親分、
八五郎の言うのが
「やい、先刻まで二階にいた娘はどこへやった。いずれ絞めるか沈めるか、売り飛ばすかしたんだろう。真っ直ぐに申上げなきゃ、しょっ引いて石を抱かせるぞ」
そんな時、ガラッ八の八五郎はなかなか結構な選手でした。平次は黙って成行きを眺めていさえすればよかったのです。
「言いますよ、私どもは悪いことをした覚えはございません。逃げ出したのは、あわてたせいで身に覚えのあるためじゃございません」
六助とお早は観念してみんな
それによると、今朝まで二階にいた娘は名をお組というだけ、あとは何にも判りません。年は十八――どうかしたら九くらい、
娘の身許は一向解りませんが、一と月ばかり前――先月の十三日の晩六助と
「その通りでございます。これがお礼に貰った八両で、嘘も
女房のお早までが口を添えて、
「それじゃもう一つ訊くが、源次は今どこに居るんだ」
平次は調子を変えました。
「それがわかりません」
「隠しちゃためにならないよ。お組を預かった
「この間まで元町の本野
六助もお早も本当に知っていない様子です。
「ところで、お組という娘が、親許のことでも話したことがあるのかい」
平次は違った方へ話題を持って行きました。
「いえ、何にも、――聴きも、話しもしません」
狂人扱いにして、娘一人を二階に押し込め、物を言わせずに一と月
「ひどいことをしやがる」
平次もさすがに胸の悪くなる心持です。念のためもう一度二階に上がって、娘の住んだ後を見ましたが、手拭一と筋残ってはいません。
「お組はここへ来るとき、何か荷物らしいものを持って来たのかえ」
「いえ、本当に身一つで、手拭から
「お小遣は?」
「
六助夫婦の説明で、お組がここへ来たのは自分の意志ではないこともよく解ります。
「親分、書いたものがありますよ」
ガラッ八は鼻紙に
「どれどれ」
もとお屋敷に奉公していた源次という男がお勝手口へ来て、三河島の母親がツイそこまで来て内証 でちょっと逢いたいと言っているからとおびき出し、弓町から湯島までつれて来て、この家へ押込んでしまった。なんのためにこのような目に逢わされるのか少しも判らないが、二人で見張っているから逃げ出す工夫はない。この手紙を拾った方は、どうぞ――
そこまで書いて鼻紙は尽きております。多分こんな手紙を書いたものの、親許へ届ける工夫がなくて、そのまま
平次と八五郎は何か追っ立てられるような心持でした。お組とやらいう娘一人の命ではなく、その奥にもっともっと複雑な犯罪が潜んで今ブスブス
元町の本野伊織屋敷へ行ってみましたが、中間の源次は不都合のことがあって、二た月ほど前に暇を出したというだけ、奉公人にも家族にも何の変りもありません。
源次の宿元を確かめると、やはり今どこにいるか解らないというだけ、たぶん諸方の部屋を廻って勝負事に浮身を
「親分、大変なことになりましたぜ」
八五郎がぼんやりやって来たのはそれから二日目でした。
「どうした八、いつもの大変と大変が違うじゃないか」
「だって、源次が殺されましたよ」
「なんだと」
「
「
「綺麗に抜かれましたよ」
「それじゃ辻斬じゃない」
その頃はまだ、斬った上に懐中物まで抜くようなサモしい辻斬はなかったのです。
「
ガラッ八はまだ
「待て待て、斬って懐中物を抜いたのは、金ではなく証拠になる品物を奪ったのかも知れない。こいつは面白くなったぞ、八。お前は御苦労だが、下っ引を二三人駆り集めて、源次の身許と今までの奉公先をみんな洗ってくれ。とりわけ、綺麗な小間使か腰元が家出をしたところがあったら、そいつを念入りに調べるんだ。お弓町のあたりが一番臭いぞ、解ったか、八」
「合点ッ、半日経たないうちに、お組の奉公先のお
「頼むよ八」
「それから先は親分の働きだ、今のうちに一と休みしていなさるがいい」
「親分、判った」
八五郎が帰って来たのは、その日も暮れてからでした。
「どこだ八」
平次もツイ、落着かない心持で待ち構えていたのです。
「お弓町の旗本、千三百五十石取の庄司右京様屋敷。源次はそこに三年も奉公して、この春暇を取りましたよ」
「その屋敷で女中がいなくなったのか」
「聴いて下さいよ親分、――そのお屋敷の御当主庄司右京様は二年前から軽い中気でお役御免になり
「…………」
「
「そのお組がお早のところに押込められたのも先月の十三日の晩だ」
「だから変じゃありませんか」
「水下駄を
「若様の林太郎様は、同族石崎平馬の二番目娘、――これはお組へ輪をかけたほどの綺麗な天人娘お礼殿と祝言することになっていた。だから腰元風情と夜逃げをするはずはない――とこいつは庄司の屋敷中のヒソヒソ話だ」
「フーム」
話はだいぶこんがらかりました。
「林太郎様は
「…………」
「腰元のお組も綺麗な娘だが、育ちの良いせいか堅い一方で、おまけに林太郎様は、名代の堅造と来ているから、二人は冗談口一つきいたこともない。手に手を取って夜逃げなどは
「フーム」
「親御の庄司右京様は、中風で身動きも
「その通り運んでいるのか、八」
「あっしのせいじゃありませんよ親分、そんな怖い眼をしたって」
「一緒に逃げたはずのお組は、取揚げ婆アのお早の家の二階に一と月も押し込められ、可哀想にあんな手紙を書いたり一生懸命の合図を工夫して
「そこですよ、親分」
「源次が殺されるまでは、どうかしたら
「…………」
「お組は源次の細工や思い付きで隠したのでないことは、渡り中間の勝負好きな源次が、お早夫婦へ仕送りから礼金までキチンと払ったことでも判っている。林太郎様がお組を隠させたのなら一と月も逢わずにいるはずはないし、これはやはり黒頭巾を
平次はここまで推理を
「親分」
ガラッ八は獲物の匂いを嗅いだ猟犬のようにいきり立ちました。
「お屋敷に、御奉公していた源次という男が昨夜
平次はこんな口実で庄司右京の用人、堀周吉に逢ってみたのでした。
「ああ左様か、それは御苦労なことで」
堀周吉は思ったより丁寧に迎えて、面倒臭がりもせずに挨拶をします。年の頃四十五六、骨と皮ばかりの
「ところで、殺されてみると折助でも中間でも
「構わないとも、なんなりと訊くがいい」
平次の恐れ入った様を気の毒そうに、堀周吉は恐ろしく手軽です。
「源次はお屋敷に奉公中、何か悪いことをしませんでしたでしょうか」
「あまり良い人間ではないが三年間まず無事に勤めた方だろうよ。もっとも少しばかり給料の前借りは踏み倒して出たが、外に悪いというほどのことはなかったようだ」
何か予想外なことを平次は聴かされるような心持です。
「誰か源次を
「一向気が付かないな。もっとも勝負事が三度の飯より好きだったから、諸方の部屋で不義理もし、怨みも買ったかも知れぬが――」
堀周吉の話はこんな程度で、一向取止めもありません。
「それから、――これはお伺いしていいか悪いか判りませんが、お屋敷の若様、林太郎様は、ただ今どちらにいらっしゃるでしょう」
平次の
「それは知らない――知っているなら苦労はしないよ。まア、そんなことは訊いてくれるな」
打ち
平次は他にもいろいろのことを訊いてみましたが、堀周吉は老巧な用人らしく口を
帰り際に奉公人に逢って、それとはなしに
平次はその足で元町の石崎平馬の屋敷へやって行きました。これは庄司右京の一族といっても、禄高はたった百二十石、お礼の美しさと、林太郎の執心がなかったら、この祝言はモノになりそうもなかったでしょう。
平次は辞を尽して一生懸命頼みましたが、主人石崎平馬は所用と言って、逢ってもくれません。奉公人たちにそっと訊くと、庄司家の若様林太郎が
家と家との縁組以外、この人達は何にも考えていなかったのでしょう。林太郎が執心した美しいお礼も、結局は千三百五十石に嫁入りする気持しかなかったのかと思うと、平次も何かうら淋しい心持になります。
「親分、どうでした」
門の外に、八五郎は立てつづけに
「
「お組は? 親分」
「それほど娘の方が気になるなら、お前は三河島のお組の親許へ行ってくれ。俺は養子の助十郎と、庄司一家の者の出入りをもう少し突き止めてみる」
「それじゃ親分」
「晩に逢おう」
銭形平次はこうして、とんでもない武家のお家騒動の渦中に飛込んでしまったのです。
源次が谷中で殺された晩の助十郎、平馬、周吉などの動きを調べるつもりでしたが、これは平次の
あっちこっち無駄足をして、がっかりして帰ろうとすると、
「親分、――銭形の親分さん」
後ろからそっと呼止める者があります。妻恋坂の淋しい道には、
「お前さんは?」
「庄司様の庭男でございます。友吉と申しますんで」
六十近い大きな老爺ですが、頑丈そうな腰を二つに折って、ひどく物に
「友吉と言いなさるのかい、用事は?」
平次は期待に息を呑みます。
「私がこんなことを申上げると、後の
「話してくれ、みんな御主人のためになることだから」
平次は友吉を
「若様がお組と夜逃げをしたなんて、あれは大嘘でございます。お組は源次の野郎が誘い出しましたが、若様は、お気の毒なことに――」
「林太郎様はどうした」
「その晩一合召上がってお休みになると、それきり
「どうして、そう呑込んだのだ」
「その晩、裏門へ
友吉の言うことは、なかなか
「よしよし、それでよく解った。真夜中に江戸の町を平気で飛ばせるのは医者の駕籠くらいのものだ、――それだけ聴けば見当はつく。ところで
「弓町の屋敷へ戻りますが――」
「気を付けるがいいぜ」
「ヘエ――、では親分、若様をお願い申します」
友吉は平次に別れて淋しい道を
「えーッ」
横合から飛出しざま、真っ二つになれと斬りかけた者がありますが、その太刀先はわずかに外れました。
襲撃の寸前、間髪を容れず、
流れる
曲者は一散に逃げ
「爺さん、危なかったな、――庄司の屋敷へ帰るのは諦めて、当分俺の家へ来ているがいい」
平次は大地へヘタヘタ
三河島のお組の親許を訪ねて帰った八五郎から聴くと、お組はそこへも帰らず、正直そうな両親は娘が行方不明と聞いて、庄司家へ行って
「この上は医者の北村道作の方を手繰るの外はあるまいよ」
平次は休む
本道の北村道作は、
「私は何にも知らない。あの晩急病人があるからと庄司家の使いで行ってみると、急病人というのは嘘で、
といったようなたよりない話です、どうかしたら、薄々事情を知っていても、うんと脅かされて物を言えなかったのかも知れません。
出入りの駕籠屋の若い者に逢って、その晩の行先を確かめ、庚申塚の近所で、植辰の寮を聴くと、すぐ解りました。が踏込んでみるとそこは空っぽ――。
夜中ながら、近所を叩き起して訊くと、なんでも一と月ほど前に、気の変な武家を出養生に連れ込んだが、若くて丈夫で暴れようがひどく、近所へ聴えも悪いので、間もなくどこかへ移してしまったということが判りました。
行先は橋場の船頭の文七という男の家――。
平次と八五郎が橋場へ着いたのは、もう夜が明けて翌る日になってからでした。
「今日一日の辛抱だよ、八。今日中に捜し出さなきゃ、明日は林太郎とお組の死骸が、心中した体でどこかに
平次は
「大丈夫ですよ、親分。自慢じゃねエが、喰う物さえ喰わしておきゃ、もう二た晩三晩寝なくたって驚きゃしませんよ」
熱い味噌汁を
橋場の文七のところへ行くと、文七は留守。一と月も前から寄り付かないそうで、女房は
何を訊いても噛み付きそうで、手掛りを引出すどころの沙汰ではなく、さんざんの
もっとも、近所で訊くと、大方の見当だけは付きました。がその話というのがまた大変です。
橋場の文七は、どこから持出したか、自分の船に大一番の
「早桶はひどいことをしやがる」
その中に庄司の惣領林太郎を入れて、人目を
「ところで、文七の船は帰っているのか」
「船はいつの間にか空っぽになって、川岸っぷちに
近所の衆の暗示に富んだ言葉を手繰って平次と八五郎は鳥越のお百の家というのに行ってみると、四十男の文七は、七日ぶっ通しに呑んで、
お百を呼出して訊くと、文七は余程金を持っているらしいという。いずれ早桶を船に積んで十七八日も漕ぎ廻ったお礼でしょう。この上は文七の口を開かせる外はありません。
水をブッ掛けて、どやし付けながら訊くと、
「――どこの侍だか知るものか。ともかく、二人で気の違った若い武家をつれて来て、ほんの二十日ばかり陸へ上げないようにしてくれというんで。お礼は一日一両さ。外に無事に済ませば褒美が五両だ。へッ、へッ、二十五両と稼いだのは悪くなかったぜ、――最初は
文七は平次と八五郎に責められて、
「駕籠はどこのだ」
「この辺にウロウロしている四つ手じゃねえ。山の手の辻駕籠だよ、どこの駕籠か判るものか」
それ以上は何を聴いても判りません。
神田の家へ引揚げたのはもう昼頃、庄司家の親類会議が開かれるまで、あと三刻せいぜいです。
「弱ったな八」
銭形平次も、さすがにこの時は悲鳴をあげました。
「親分、どうしたのでしょう」
「お組と林太郎様と一緒に、どこかに隠してあるに
「すると、親類会議が済んで庄司家の跡取りが助十郎と決まれば、すぐ二人を殺して心中と触れ込むわけですね」
「多分そんなことだろうと思う」
そこまでは考えられますが、さてそれ以上はどうにもなりません。
そのうちに次第に陽が傾いて、
「武家のお家騒動なんかに足を踏込んだのが間違いだったな、八」
平次はとうとう投げてしまいました。上野の暮
「そう言ったって親分」
「一本つけましょうか」
女房のお静は、平次の機嫌をほぐす妙薬を心得ているのでした。
「そうしてくれ、八と爺さんと三人で、今晩は少し過すことにしようよ」
平次は大きく伸びをして
「お気の毒なのは若様でございます」
あれからズーッと平次のところにいる友吉爺やは
「諦めることだ、――俺は町方の岡っ引だから、武家方のことは手のつけようがない。これが商人の家なら、踏込んで親類会議を延ばさせる手もあるが――」
「…………」
妙に沈んだ心持を、お互にどうすることも出来ません。
「隠した場所はやはり、屋敷の近くだな――」
平次は最初の
「まだそんなことを考えているんですか親分」
「考える気もないが、――忘れないよ」
「無理もないが、忘れることにしましょうよ、親分」
「だが、待ってくれ。ね爺さん、あの屋敷の中に、滅多に召使の者の入らない蔵か物置がなかったかい」
平次の叡智は、活溌に動き始めたのです。
「ありますよ。小さい宝物蔵で、奉公人は足も踏み入れませんが、この間から御用人の堀様とそのお
「それだよ」
平次は立ち上がりました。
「親分、何がそれなんで?」
八五郎は手酌で二三杯つづけざまに
「でも、あの宝物蔵へ若様を隠したら、食物をどうして運んだのでしょう」
と友吉。
「それで俺も迷ったんだ、死にも生きもしないようにしておく分には、そんなに沢山の食物が要るはずはない、――もう迷うことはないよ。お静、食物を少し用意してくれ、軽いものがいい。七日もろくに食わずにいる人間に精のつく物がほしいんだ。さア、八、一緒に行くか」
「行かなくてどうするもんで親分」
八五郎は中腰になって、徳利からラッパ呑みをやっております。
「私も参りましょう、何かのお役に立つかも判りません」
爺やの友吉までが
その晩庄司家の奥座敷に集まったのは、主人の庄司右京を始め、用人堀周吉、甥の助十郎、石崎平馬、その娘のお礼を始め近い親類からずっと七八人。
主人の庄司右京はなにぶん軽い中風とは言っても口も不自由なので、用人の堀周吉が代って弁じます。
「若様――林太郎様には、一と月ほど前に召使の組と
堀周吉は一座を見渡して、こう達弁につづけました。
「ついては、御親類様方御一統の思召しを
堀周吉は言い納めて一座を見渡します。誰も異論を称える者もなく、――わずかに病人の主人、庄司右京の眼に、激しい
「それでは、公儀御届のため、皆様の御判を頂戴いたします」
堀周吉が何やら書面を上座の方から廻し始めました。
「待った」
不意に弱々しいが
「その御判、お待ち下され。庄司林太郎、それに参って申し開き
「…………」
あッと顔見合せる一座の中へ、
「や、どこから、どうして」
驚く堀周吉、さすがに喰ってかかりもなりません。林太郎はそれを尻目に、
「父上様、御心配を相かけ申し訳もございません。林太郎は召使などと逐電はいたしません。それなる堀周吉の
父右京の前にピタリと坐って、静かに一座を
「お、お」
右京は口もきけませんが、嬉し涙が老の眼を溢れて、膝を
「何が証拠、――とんでもないことだ」
飛付きそうにする堀周吉は、縁側にひれ伏した銭形平次に
「証拠は山ほどある。植辰、文七、友吉、六助夫婦、皆んなお上の手に押えてあるぞ」
「お前は何者だ」
堀周吉は血眼になって
「平次、父上も御承知だ。その悪者を縛ってくれ」
林太郎は指を挙げて指しました。
*
平次が堀周吉その他の悪者を縛り上げるあいだに周吉に
嵐の後の
「――そこで、もう一つ御願いがございます。お礼殿と許嫁の約束は私から申すまでもなく、最早破談になったことと思います。お礼殿は助十郎殿が御引取り下さるよう――私は召使の組を改めて妻として迎えたいと存じます。組とは別々に誘拐され、何の関わりもないことはただ今まで申上げた通りでございますが、私が行方知れずになって三十日も経たないうちに、助十郎殿と祝言をする気になったお礼殿とは、心構えが違っているように存じます。御親類方のどなたかに、組の親元をお願いしたいと存じます」
肉体的に弱り抜いていても、気丈者らしい林太郎のハキハキした言葉を聴いて、頑固一徹とふれ込んだ父親右京が合点合点をして喜んでいるではありませんか。
振り返ると、石崎平馬も、その娘のお礼もいつの間にやら逃げ出して、縁側には爺やの友吉が付添って、お組は大したやつれもなく、
「平次、それもこれも、その方のお蔭だ。この恩は忘れないぞ」
林太郎はいざり寄って平次の手を取りました。
「いえ、この手柄はあっしじゃございませんよ。お組さんの合図とそれを最初に見付けて、あっしを引っ張り出したあの八五郎の野郎の手柄で――」
平次に指されて、八五郎は首筋のあたりを掻きながら、
「親分、変な捕物だね」
帰る
「捕物じゃないよ。こいつはとんだ
「でも、あの娘はよかったぜ、親分」
「お組のことか、――唐櫃から出した時は、手を合せて泣いていたぜ」
「
「命がけの合図だったのさ。笑っちゃ気の毒だ」
そういう平次もカラカラとわけもなく笑いたい衝動を感じておりました。