銭形平次捕物控

二階の娘

野村胡堂





「親分、変なことがあるんだが――」
 ガラッ八の八五郎が、少し鼻の穴をふくらませて入って来ました。
「よくそんなに変なことに出っくわすんだね、俺なんか当り前のことで飽々あきあきしているよ。借りた金は返さなきゃならないし、時分どきになれば腹は減るし、遊んでばかりいると、女房は良い顔をしないし」
 銭形の平次はそう言いながら、せっせと冬仕度のつくろい物をしている恋女房のお静の方をチラリと見るのです。
 まア――随分、といった顔をお静はあげましたが、また例の八五郎を遊ぶつもりの冗談と判ると、素知らぬ顔をして、縫物の針を動かしました。名残りのあぶが障子に鳴って、赤蜻蛉あかとんぼの影が射しそうな縁側に、平次は無精らしく引っくり返って、板敷の冷えをなつかしんでいるある日の午後のことです。
「だが、こいつは変っていますよ親分」
「前触れはそれくらいにして、なんだいその変っているのは」
 八五郎の物々しい調子に釣られて、平次もツイ起き直りました。
「今朝、湯島の天神様にお詣りをして、女坂の上から、ぼんやり下谷したやの方を眺めていると、ツイ二三十間先――家の数にして五六軒目の二階の縁側に出してある行灯あんどんが、辰刻いつつ半(九時)過ぎだというのに明々と灯が入っているじゃありませんか」
「消し忘れたんだろう」
 ガラッ八の報告も、平次にちゅうを入れさせると、なんの奇怪味もありません。
「ところが親分、念のために、ツイ今しがたもういちど行ってみると、行灯の灯がまだ点いているのはどうでしょう」
「フーム」
「朝消し忘れた行灯が、油もさずに申刻ななつ(四時)近くまで点いている道理はありません。変じゃありませんか、親分」
「なるほどそう言えばその通りだが、――近頃なんか、そんな禁呪まじない流行はやるのかも知れないよ。帰りにそれとはなしに、どんな人間が住んでいる家か訊いてみるがいい。如才もあるまいが、その家へ飛込んで訊いちゃちこわしだよ」
「やってみましょうか」
 その話はそれっきり忘れて、ガラッ八が帰ったのは日が暮れそうになってから。
 あくる日。
「親分、どうもますます変ですよ」
 八五郎のキナ臭い顔が飛込んだのはまだ朝のうちでした。
「昼行灯はなんの禁呪まじないと解ったんだ」
 平次も少しばかり真面目になります。
「解らないから不思議なんで」
「それじゃなんにもならないじゃないか」
「ところが今朝は昼行灯が引込んで、赤い鼻緒の草履がブラ下がっているんで」
「さあ解らねえ」
「きのう行灯の出ていた二階に間違いはありませんよ。鴨居かもいから赤い扱帯しごきで、女草履が片っ方ブラ下がっているのは不思議じゃありませんか」
「何かの禁呪にそんなのはなかったかい」
 平次の顔も少しキナ臭くなりました。
「禁呪なら草履を頭へ載っけるんですよ」
「いよいよもって解らねエ。――その家にどんな人間が住んでいるんだ」
「取揚げ婆アのお早の家ですよ」
「あの間引をするとかいう、評判のよくない?」
「亭主の六助は中条流の女医者の薬箱持をしたことがあるそうで、殺生なことを渡世にする鬼夫婦の家だから話になるじゃありませんか」
「フーム」
「近所で訊くと、二階にはめいとか従妹いとことかいう、少し気の変な娘がいるそうですよ」
「なんだ病気か、――馬鹿にしちゃいけねえ」
 平次は煙草きせるをポンと叩いて、天井を突き抜けるような大欠伸おおあくびをしました。岡っ引根性を無駄に刺戟されてとんだ緊張が馬鹿馬鹿しかった様子です。
「でも、一と月ばかり前までお屋敷奉公をしていたそうで、そりゃ綺麗な娘だという評判ですぜ、親分」
「綺麗な娘と聴くと、無性に乗り出すからイヤになるよ。面が綺麗だって、気の変なのはしてくれ、付き合いにくくて困るぜ」
「気が変にしても、天神様の境内へ見えるように、いろんな物を持ち出すのは変じゃありませんか」
「そんなに気がめるなら、もう少し見張ってやるがいい。行灯と草履じゃ判じ物にもならねエ」
 平次も何かしら疑念が残らないでもない様子です。


「親分、ちょいと来て下さい。いよいよ変なことになったんだが、あっしじゃ見当が付きません」
 三日目の朝、八五郎が飛込んで来ると、いきなり平次を引立てそうにするのです。
「とうとう来やがったか、今日あたりはお前の大変が飛込みそうな陽気だと思ったよ。いよいよその娘が笹っ葉かなんかかついで、二階縁側の花道へせり出したのかい」
 平次は少しばかり面白そうでした。
「それならここへ来る前に、飛び込んで相方を勤めますよ」
「ハッハッハッ、そいつはよかった」
「天神様の女坂の上から小手をかざして遥かに眺めると、今朝は何があったと思います? 親分」
「解らねエよ、八卦はっけの方はまだ修業中だ」
「二階の障子にブラ下げたのは、麻糸あさいとと、細いひもと、かもじの三品だ」
だいだいと笠と柿を売物にして、『親代々かさっかき』と呼んだというのは小噺こばなしにあるが、それとは少し違うようだな、八」
「ちょいと行ってみて下さいよ。何か恐ろしい事の前兆しらせのような気がしてならないんだが――」
「よしよし、お前がそんなに心配するなら、少々気が変でも、綺麗な新造しんぞのために何か役に立ってやろう、――もっとも、三日とも続けて同じ物を出しゃ狂人の仕業だが、三日とも違った物を出しているのは少しおかしい」
「でしょう、親分」
「狂人なら同じことをくり返すはずだ」
 平次は湯島への道を辿たどりながら、ようやく本気になったらしい調子で、こう八五郎に話して聴かせるのでした。
 女坂の上に立つと、今日はまた滅法美しい秋晴れで、江戸の街は深川の端までも見えそうです。お詣りやら行楽やら忙しい人達はツイ眼の下二三十間先の二階縁側に仕掛けた、不思議な判じ物を読もうともしません。
 もっとも、その隣の家の二階には渋柿を、その向うの家の二階には土用干ほど女物を干している中ですから、かもじや細紐を障子の外へ掛けたところで、前々からの関係を知らない人達には、何のことやら解らなかったのも無理のないことでした。
「ね、親分。あれですよ」
 八五郎の指さすまでもなく、平次は不思議な二階の辺りをじっと見詰めておりました。
「一番上、右の方にブラ下げたのはだよ。その次は紐だが輪にしてはじっこを結んであるじゃないか。その下は髢だ。これを続けて読んで御覧」
「苧、紐、髢ですか親分」
「それじゃ、文句にも地口にもならない」
「麻糸、細紐、毛――と」
「駄目駄目」
 二人は玉垣に寄ったまま、しばらく無駄を言っておりました。
「親分」
「なんだ、八」
「妙に仔細わけがありそうで気を揉ませるじゃありませんか。いきなりあの家へ当ってみましょうか、十手を見せて締め上げれば、わけはありませんよ」
「待ちなよ八、それじゃ、あんまり智恵がなさすぎる、――上の糸は苧やだいだいと読ませるに決っている。その次は紐に相違ないが、輪にして端っこを結んであるからたすきさ。襷の下を隠してかもじをブラ下げたのは、待ってくれ八」
「親分」
「こいつは、おたすきけと読めるぜ、たすきの下の方が毛で隠れているから、おたすけだ」
「えッ」
「こんな手数のかかる謎々が、虚仮こけや狂人の智恵でこしらえられるものか。来いッ八」
「親分」
 八五郎はもう尻を端折はしょって、二三十里カッ飛ばすほどの勢いです。が、お早の家は、女坂を降りるともうじきでした。
「御免よ」
 平次はいきなり格子を開けると、
「ハ、ハイ、どなた様で?」
 お早は少しまごまごしております。
「平次だよ。六助はいるのか」
「ヘエ、あの、どんな御用でしょう」
 御法の裏をくぐるお早は、高名な御用聞の顔を見ると、なんとはなしにギョッとした様子です。
「二階をちょいと見せて貰おうか」
 平次は立ちふさがるお早を払い退けるように突き上がりました。
「あれッ銭形の親分」
 上の方を向いて大きな声を出すのは、力及ばずと見て、二階に合図を送るつもりでしょう。
「えい、静かにせい」
 平次はトントントンと一気に二階へ、唐紙をパッと開けると、中は思いきや空っぽ――
「おや?」
「親分、かもは締めましたぜ」
 裏口へ廻しておいたガラッ八が下から大きな声を出すのです。
「そいつを逃がすな」
 裏口へ飛んで行ってみると、ガラッ八は中老人の六助をひざの下に敷いて正に「捕った」の大見得をきっているのです。


「もう一人はどうした」
「ヘエ――」
「娘の方はどうしたよ、八」
「知りませんよ。屋根から雨樋あまどいを伝わって降りて来たのは、この野郎だけで」
「馬鹿だなア、そんな爺はどうでもよかったんだ。行灯と草履とかもじを出した娘に用事があるのだ」
「ヘエ――」
「ヘエじゃないよ」
 平次が腹を立てたところで、それは八五郎の手落ちでも何でもなかったのです。
「親分、先刻さっき合図をしていたんだから、どこかにいるに違いありません。この野郎を締めてみましょう」
 八五郎の言うのがもっともでした。日頃そんなことをあまり好きでない平次も、十手と捕縄と、おどし文句でらちを明ける外はなかったのです。
「やい、先刻まで二階にいた娘はどこへやった。いずれ絞めるか沈めるか、売り飛ばすかしたんだろう。真っ直ぐに申上げなきゃ、しょっ引いて石を抱かせるぞ」
 そんな時、ガラッ八の八五郎はなかなか結構な選手でした。平次は黙って成行きを眺めていさえすればよかったのです。
「言いますよ、私どもは悪いことをした覚えはございません。逃げ出したのは、あわてたせいで身に覚えのあるためじゃございません」
 六助とお早は観念してみんな喋舌しゃべってしまいました。
 それによると、今朝まで二階にいた娘は名をお組というだけ、あとは何にも判りません。年は十八――どうかしたら九くらい、身扮みなりや言葉の様子では武家奉公をしていたらしく、滅法美しいところを見ると、いずれ御法度の不義でも働いて、人知れずここへ預けられたのでしょう。
 懐胎みもちの様子はなかったが、取逆上とりのぼせて少し気が変になったらしく、昼でも行灯を点けておいたり、草履を縁側へブラ下げたり、無暗むやみに逃出そうとしたり、ずいぶん閉口した――と大したこしらごとらしくもなく言うのです。
 娘の身許は一向解りませんが、一と月ばかり前――先月の十三日の晩六助と懇意こんいにしていた渡り中間ちゅうげんの源次という悪党がかった男が「わけを訊かずに、黙って預かってくれ。長くて二た月短くば半月、食扶持くいぶちは月に三両、逃がさずにおいてくれたら後でお礼に五両出す」という約束で娘を預けて、それっきり姿を見せなかったが、けさ不意にやって来て、「娘は外へ合図をしている様子だから、この上預けておくわけには行かねエ、今すぐれて帰る」と言い出し、月極めの三両とお礼の五両を綺麗に払った上、駕籠かごに乗せて、どこかへつれて行ってしまった――と言うのです。
「その通りでございます。これがお礼に貰った八両で、嘘もいつわりもございません」
 女房のお早までが口を添えて、ふところから八両の小判を出して見せるのでした。
「それじゃもう一つ訊くが、源次は今どこに居るんだ」
 平次は調子を変えました。
「それがわかりません」
「隠しちゃためにならないよ。お組を預かったとがは知らなかった分にしてやるもあるが、それも、お前の出ようひとつだ」
「この間まで元町の本野伊織いおり様御屋敷に勤めておりましたが、今はどこにいるか一向にわかりません」
 六助もお早も本当に知っていない様子です。
「ところで、お組という娘が、親許のことでも話したことがあるのかい」
 平次は違った方へ話題を持って行きました。
「いえ、何にも、――聴きも、話しもしません」
 狂人扱いにして、娘一人を二階に押し込め、物を言わせずに一と月にらみ通した六助夫婦の安悪党振りの小意地の悪さ――
「ひどいことをしやがる」
 平次もさすがに胸の悪くなる心持です。念のためもう一度二階に上がって、娘の住んだ後を見ましたが、手拭一と筋残ってはいません。
「お組はここへ来るとき、何か荷物らしいものを持って来たのかえ」
「いえ、本当に身一つで、手拭からくしまで貸しました」
「お小遣は?」
巾着きんちゃくも紙入も持っていなかったようです。お勝手口からすぐ来た様子で、素足に水下駄を突っかけて源次に追ったてられて来ましたが――」
 六助夫婦の説明で、お組がここへ来たのは自分の意志ではないこともよく解ります。
「親分、書いたものがありますよ」
 ガラッ八は鼻紙に消炭けしずみで書いたのを押入の隅から拾いました。
「どれどれ」
 しわを伸ばして見ると、覚束おぼつかない仮名文字で、

もとお屋敷に奉公していた源次という男がお勝手口へ来て、三河島の母親がツイそこまで来て内証ないしょでちょっと逢いたいと言っているからとおびき出し、弓町から湯島までつれて来て、この家へ押込んでしまった。なんのためにこのような目に逢わされるのか少しも判らないが、二人で見張っているから逃げ出す工夫はない。この手紙を拾った方は、どうぞ――

 そこまで書いて鼻紙は尽きております。多分こんな手紙を書いたものの、親許へ届ける工夫がなくて、そのままあきらめてしまったのでしょう。


 平次と八五郎は何か追っ立てられるような心持でした。お組とやらいう娘一人の命ではなく、その奥にもっともっと複雑な犯罪が潜んで今ブスブスくすぶっているような気がしてならなかったのです。
 元町の本野伊織屋敷へ行ってみましたが、中間の源次は不都合のことがあって、二た月ほど前に暇を出したというだけ、奉公人にも家族にも何の変りもありません。
 源次の宿元を確かめると、やはり今どこにいるか解らないというだけ、たぶん諸方の部屋を廻って勝負事に浮身をやつしているだろうというのが結論おちです。
「親分、大変なことになりましたぜ」
 八五郎がぼんやりやって来たのはそれから二日目でした。
「どうした八、いつもの大変と大変が違うじゃないか」
「だって、源次が殺されましたよ」
「なんだと」
谷中やなかで真っ二つ。腕の冴えたところを見ると、たぶん辻斬でしょうよ」
懐中物ふところは」
「綺麗に抜かれましたよ」
「それじゃ辻斬じゃない」
 その頃はまだ、斬った上に懐中物まで抜くようなサモしい辻斬はなかったのです。
追剥おいはぎにしちゃ腕が良すぎましたよ」
 ガラッ八はまだに落ちない様子です。
「待て待て、斬って懐中物を抜いたのは、金ではなく証拠になる品物を奪ったのかも知れない。こいつは面白くなったぞ、八。お前は御苦労だが、下っ引を二三人駆り集めて、源次の身許と今までの奉公先をみんな洗ってくれ。とりわけ、綺麗な小間使か腰元が家出をしたところがあったら、そいつを念入りに調べるんだ。お弓町のあたりが一番臭いぞ、解ったか、八」
「合点ッ、半日経たないうちに、お組の奉公先のおひつにのこった飯粒の数まで調べて来ますよ」
「頼むよ八」
「それから先は親分の働きだ、今のうちに一と休みしていなさるがいい」
 疾風しっぷうのごとく飛んで行く八五郎、その忠実な後ろ姿を見送ってどうして今まで手を抜いていたか、平次は自分ながら歯痒はがゆい心持でした。もっともお屋敷方の女中が一人、取揚げ婆アの家の二階から消えたところで、平次が手一杯に働く張合いもなかったのでしょう。
「親分、判った」
 八五郎が帰って来たのは、その日も暮れてからでした。
「どこだ八」
 平次もツイ、落着かない心持で待ち構えていたのです。
「お弓町の旗本、千三百五十石取の庄司右京様屋敷。源次はそこに三年も奉公して、この春暇を取りましたよ」
「その屋敷で女中がいなくなったのか」
「聴いて下さいよ親分、――そのお屋敷の御当主庄司右京様は二年前から軽い中気でお役御免になり引籠ひきこもり中大変なことが始まった」
「…………」
惣領そうりょうの林太郎様、二十三になる良い息子だが、ブラブラ病いでお引籠りと言うのは世間体の表向きで、その実、お腰元のお組という十九になる綺麗なのとちょうど一と月前の先月の十三日の晩に手に手を取って夜逃げをしてしまった」
「そのお組がお早のところに押込められたのも先月の十三日の晩だ」
「だから変じゃありませんか」
「水下駄をいて、握りっこぶしで道行きをする女があるものか――まアいい、それからどうした、中休みをせずに話してしまえ」
「若様の林太郎様は、同族石崎平馬の二番目娘、――これはお組へ輪をかけたほどの綺麗な天人娘お礼殿と祝言することになっていた。だから腰元風情と夜逃げをするはずはない――とこいつは庄司の屋敷中のヒソヒソ話だ」
「フーム」
 話はだいぶこんがらかりました。
「林太郎様は許嫁いいなずけのお礼にすっかり夢中で、祝言の日を楽しみにしていたと言いますぜ」
「…………」
「腰元のお組も綺麗な娘だが、育ちの良いせいか堅い一方で、おまけに林太郎様は、名代の堅造と来ているから、二人は冗談口一つきいたこともない。手に手を取って夜逃げなどはもっての外――とこれは御近所や屋敷の奉公人たちのうわさだ」
「フーム」
「親御の庄司右京様は、中風で身動きも覚束おぼつかないが、恐ろしく気が確かな上、弓町きっての一徹者いってつものだ。病気の父親を見捨てて奉公人と夜逃げをするようなせがれに用事はない、久離きゅうりって勘当の上、おいの助十郎を入れて跡取りにし、明日は親類中を呼んでその披露をした上、あくる日はすぐ公儀の御届を済ませ、石崎平馬が承知なら、娘のお礼をそのまま嫁にして、助十郎と娶合めあわせると言い出した」
「その通り運んでいるのか、八」
「あっしのせいじゃありませんよ親分、そんな怖い眼をしたって」
「一緒に逃げたはずのお組は、取揚げ婆アのお早の家の二階に一と月も押し込められ、可哀想にあんな手紙を書いたり一生懸命の合図を工夫してたすけを呼んでいたじゃないか。若様の林太郎だってどこでどんな目に逢ってるか判ったものか」
「そこですよ、親分」
「源次が殺されるまでは、どうかしたら真物ほんものの駆落かと思ったが、お前の話を聴いているうちに、俺にはどうも恐ろしい悪企わるだくみの匂いがして来たよ。悪事を知った源次を殺して口を一つ封じたのは仕事の山が見えたからだろう」
「…………」
「お組は源次の細工や思い付きで隠したのでないことは、渡り中間の勝負好きな源次が、お早夫婦へ仕送りから礼金までキチンと払ったことでも判っている。林太郎様がお組を隠させたのなら一と月も逢わずにいるはずはないし、これはやはり黒頭巾をかぶったのが筋を引いて、若様とお組を別々に隠させ、頑固がんこ一徹な父親をけしかけて自分たちに都合の好い跡目をこしらえ、万事片付いた上で、若様とお組を殺す心算つもりに違いあるまい。あんまり早まって殺すと、万一跡取りが出来ないために、庄司家が取潰とりつぶしになっちゃ元も子もなくなるから、跡取りが決って安心となるまでは、お組はとにかく若様を殺す気づかいはない――」
 平次はここまで推理を辿たどると、この後の方針が次第にはっきり立って来るのでした。
「親分」
 ガラッ八は獲物の匂いを嗅いだ猟犬のようにいきり立ちました。


「お屋敷に、御奉公していた源次という男が昨夜谷中やなかで殺されました。別段お掛り合いがあるわけではございませんが、念のためお届け申します」
 平次はこんな口実で庄司右京の用人、堀周吉に逢ってみたのでした。
「ああ左様か、それは御苦労なことで」
 堀周吉は思ったより丁寧に迎えて、面倒臭がりもせずに挨拶をします。年の頃四十五六、骨と皮ばかりの華奢きゃしゃな男ですが、算数がけているのと、恐ろしく忠実なので、庄司家はお蔭で内福だといわれております。
「ところで、殺されてみると折助でも中間でも下手人げしゅにんを捜さないわけには参りません。町方の者がお邸方に御迷惑を掛けちゃ恐れ入りますが、一つ二つお話を願いたいことがございますが――」
「構わないとも、なんなりと訊くがいい」
 平次の恐れ入った様を気の毒そうに、堀周吉は恐ろしく手軽です。
「源次はお屋敷に奉公中、何か悪いことをしませんでしたでしょうか」
「あまり良い人間ではないが三年間まず無事に勤めた方だろうよ。もっとも少しばかり給料の前借りは踏み倒して出たが、外に悪いというほどのことはなかったようだ」
 何か予想外なことを平次は聴かされるような心持です。
「誰か源次をうらんでいる者はなかったでしょうか、朋輩ほうばいとか奉公人仲間とか――」
「一向気が付かないな。もっとも勝負事が三度の飯より好きだったから、諸方の部屋で不義理もし、怨みも買ったかも知れぬが――」
 堀周吉の話はこんな程度で、一向取止めもありません。
「それから、――これはお伺いしていいか悪いか判りませんが、お屋敷の若様、林太郎様は、ただ今どちらにいらっしゃるでしょう」
 平次の唐突とうとつな問いに、堀周吉はギョッとした様子ですが、
「それは知らない――知っているなら苦労はしないよ。まア、そんなことは訊いてくれるな」
 打ちしおれてこう言われると、押して訊く勢いもなくなります。
 平次は他にもいろいろのことを訊いてみましたが、堀周吉は老巧な用人らしく口をつぐんで、それ以上は何にも話してくれません。
 帰り際に奉公人に逢って、それとはなしにさぐりを入れると、いよいよ明日の親類方の寄合いで、甥の助十郎を家督に決め、林太郎の許嫁のお礼を改めて助十郎の嫁として内祝言をさせ、明後日は公儀の御届を済ませて、庄司右京は隠居、助十郎は改めて将軍家へ御目見おめみえという段取りになりそうです。
 平次はその足で元町の石崎平馬の屋敷へやって行きました。これは庄司右京の一族といっても、禄高はたった百二十石、お礼の美しさと、林太郎の執心がなかったら、この祝言はモノになりそうもなかったでしょう。
 平次は辞を尽して一生懸命頼みましたが、主人石崎平馬は所用と言って、逢ってもくれません。奉公人たちにそっと訊くと、庄司家の若様林太郎が行方ゆくえ知れずになった時は、主人平馬もお嬢さんのお礼も、さすがに驚いた様子でしたが、親類たちの口入れと、庄司右京の望みで、養子助十郎へそのままお礼を嫁にと懇望こんもうされると、一議に及ばず、渡りに舟で応じ、それっきり林太郎のことは忘れてしまって、行方を捜す様子もないことが判りました。
 家と家との縁組以外、この人達は何にも考えていなかったのでしょう。林太郎が執心した美しいお礼も、結局は千三百五十石に嫁入りする気持しかなかったのかと思うと、平次も何かうら淋しい心持になります。
「親分、どうでした」
 門の外に、八五郎は立てつづけに欠伸あくびばかりして待っていました。
あきれて物が言えないよ、この上は今日中に、――遅くとも明日の夕方までに林太郎様を捜し出すんだ」
「お組は? 親分」
「それほど娘の方が気になるなら、お前は三河島のお組の親許へ行ってくれ。俺は養子の助十郎と、庄司一家の者の出入りをもう少し突き止めてみる」
「それじゃ親分」
「晩に逢おう」
 銭形平次はこうして、とんでもない武家のお家騒動の渦中に飛込んでしまったのです。
 源次が谷中で殺された晩の助十郎、平馬、周吉などの動きを調べるつもりでしたが、これは平次の大縮尻おおしくじりでした。武家屋敷の奉公人は口が堅い上、実際庭口から裏門へそっと出入りするなどは、お勝手元の住人たちが知っているはずもなかったのです。
 あっちこっち無駄足をして、がっかりして帰ろうとすると、
「親分、――銭形の親分さん」
 後ろからそっと呼止める者があります。妻恋坂の淋しい道には、四方あたりに聴いている人もありません。
「お前さんは?」
「庄司様の庭男でございます。友吉と申しますんで」
 六十近い大きな老爺ですが、頑丈そうな腰を二つに折って、ひどく物におびえている様子です。
「友吉と言いなさるのかい、用事は?」
 平次は期待に息を呑みます。
「私がこんなことを申上げると、後のたたりがおそろしゅうございますが、あんまりなことで、見るに見兼ねました」
「話してくれ、みんな御主人のためになることだから」
 平次は友吉をうながしながら、妻恋稲荷いなりの前にしゃがみました。
「若様がお組と夜逃げをしたなんて、あれは大嘘でございます。お組は源次の野郎が誘い出しましたが、若様は、お気の毒なことに――」
「林太郎様はどうした」
「その晩一合召上がってお休みになると、それきりあくる朝はお姿がございません。多分お酒に毒でも入っていたことでございましょう。足腰の立たぬようにして、夜中に運び出されたに違いないと、私は一人で呑込んでおります」
「どうして、そう呑込んだのだ」
「その晩、裏門へ駕籠かごが一挺着きました。町内の本道(内科医)、北村道作様の駕籠でございます。駕籠は何か積んで行ったようでしたが、まもなく道作様は歩いて帰りました」
 友吉の言うことは、なかなか含蓄がんちくがあります。
「よしよし、それでよく解った。真夜中に江戸の町を平気で飛ばせるのは医者の駕籠くらいのものだ、――それだけ聴けば見当はつく。ところでとっさん、これからどこへ帰るんだ――」
「弓町の屋敷へ戻りますが――」
「気を付けるがいいぜ」
「ヘエ――、では親分、若様をお願い申します」
 友吉は平次に別れて淋しい道を辿たどりました。ほんの二三十間も行った頃、
「えーッ」
 横合から飛出しざま、真っ二つになれと斬りかけた者がありますが、その太刀先はわずかに外れました。
 襲撃の寸前、間髪を容れず、鐚銭びたせんが一枚飛んで来て、曲者のびんのあたりをしたたかに打ったのです。
 流れるやいばを取直す間もなく、第二第三の銭は流星のごとく飛んで拳へ、額へ、そして第四の銭は危なく眼の玉を打とうとしたのです。
 曲者は一散に逃げせました。
「爺さん、危なかったな、――庄司の屋敷へ帰るのは諦めて、当分俺の家へ来ているがいい」
 平次は大地へヘタヘタ崩折くずおれる友吉をたすけ起しました。


 三河島のお組の親許を訪ねて帰った八五郎から聴くと、お組はそこへも帰らず、正直そうな両親は娘が行方不明と聞いて、庄司家へ行って剣突けんつくを喰わされ、どうしようもない不安な日を送っているのでした。
「この上は医者の北村道作の方を手繰るの外はあるまいよ」
 平次は休むひまもなく八五郎と一緒に弓町まで出かけました。
 本道の北村道作は、界隈かいわいに古く住んだ医者で、悪事に加担しそうもありませんが、とにかく充分に用心をして、十手に物を言わせて真っ向からおどかすと、
「私は何にも知らない。あの晩急病人があるからと庄司家の使いで行ってみると、急病人というのは嘘で、一刻いっとき(二時間)ばかり用人とを打たせられて、いざ帰ろうと思うと駕籠がない。仕方がないから歩いて帰ったが、後で若い者から聴くと、なんでも病人らしい者を私の駕籠に積んで、無理に巣鴨すがも庚申塚こうしんづかまで運んだということだ。行先は若い者が知っているだろう、私は何にも知らない」
 といったようなたよりない話です、どうかしたら、薄々事情を知っていても、うんと脅かされて物を言えなかったのかも知れません。
 出入りの駕籠屋の若い者に逢って、その晩の行先を確かめ、庚申塚の近所で、植辰の寮を聴くと、すぐ解りました。が踏込んでみるとそこは空っぽ――。
 夜中ながら、近所を叩き起して訊くと、なんでも一と月ほど前に、気の変な武家を出養生に連れ込んだが、若くて丈夫で暴れようがひどく、近所へ聴えも悪いので、間もなくどこかへ移してしまったということが判りました。
 駒込こまごめまで引返して植辰の本家を叩き起して訊くと、近所の言う通り、庄司家から頼まれて気の触れた若い武家を巣鴨の寮に預かったが、若い丈夫な男が二人付いていても持て余して、とうとう橋場へ運んで行ったというのです。
 行先は橋場の船頭の文七という男の家――。
 平次と八五郎が橋場へ着いたのは、もう夜が明けて翌る日になってからでした。
「今日一日の辛抱だよ、八。今日中に捜し出さなきゃ、明日は林太郎とお組の死骸が、心中した体でどこかにほうり出されるに決っている」
 平次は馬道うまみちで朝帰りの客のために開いている飯屋に飛込み、そそくさと腹をこしらえながら、八五郎を励ましました。
「大丈夫ですよ、親分。自慢じゃねエが、喰う物さえ喰わしておきゃ、もう二た晩三晩寝なくたって驚きゃしませんよ」
 熱い味噌汁をすすりながら、八五郎は肩をそびやかします。この男の取柄とりえは、全くこの忠実と、疲れを知らぬ我武者羅がむしゃらだったかも知れません。
 橋場の文七のところへ行くと、文七は留守。一と月も前から寄り付かないそうで、女房は大嫉妬おおやきもちで半病人になっている有様です。
 何を訊いても噛み付きそうで、手掛りを引出すどころの沙汰ではなく、さんざんのていで引揚げてしまいました。
 もっとも、近所で訊くと、大方の見当だけは付きました。がその話というのがまた大変です。
 橋場の文七は、どこから持出したか、自分の船に大一番の早桶はやおけを積み、諸人を嫌がらせながら、川筋を上へ下へとたった一人でぎ廻っておりましたが、それもどうしたのか、七日ばかり前からふっつりと姿を見せなくなったというのです。
「早桶はひどいことをしやがる」
 その中に庄司の惣領林太郎を入れて、人目を誤魔化ごまかして日の経つのを待ったことは、疑うべくもありません。二十三歳の強健で正気な男を、命に別条のないように一と月も監禁しておくということは江戸の街中では容易のことではありませんが、早桶に押込んで船の中に据え、関東の川筋を漕ぎ廻っている分には随分人眼を誤魔化せないこともなかったでしょう。
「ところで、文七の船は帰っているのか」
「船はいつの間にか空っぽになって、川岸っぷちにつないでありますよ。だからおかみさんが納まらないんで、――幸い鳥越とりごえのお百の家を知らないからいいが、あの穴が解った日には出刃庖丁騒ぎだ」
 近所の衆の暗示に富んだ言葉を手繰って平次と八五郎は鳥越のお百の家というのに行ってみると、四十男の文七は、七日ぶっ通しに呑んで、しょうも他愛もなく酔いつぶれているのです。
 お百を呼出して訊くと、文七は余程金を持っているらしいという。いずれ早桶を船に積んで十七八日も漕ぎ廻ったお礼でしょう。この上は文七の口を開かせる外はありません。
 水をブッ掛けて、どやし付けながら訊くと、
「――どこの侍だか知るものか。ともかく、二人で気の違った若い武家をつれて来て、ほんの二十日ばかり陸へ上げないようにしてくれというんで。お礼は一日一両さ。外に無事に済ませば褒美が五両だ。へッ、へッ、二十五両と稼いだのは悪くなかったぜ、――最初は葛籠つづらへ入れて船の中に飼っておいたが、知合いの船が五月蠅うるさくてかなわねエ。それから大一番の早桶を買って来て入れたのは大した智恵だろう。船番所の眼さえけて通れば、気味を悪がって、傍へ寄る船もねえのさ、――早桶の中身をどこへやったというのか。一日一両になるから、もう十日も稼ぐつもりだったが、七日ばかり前に二人の侍が来て、だいぶイキが悪くなったから、れて帰っても大丈夫だろうってやがって、駕籠へ放り込んでどこともなく行ってしまったよ」
 文七は平次と八五郎に責められて、ようやくこれだけのことを言いました。
「駕籠はどこのだ」
「この辺にウロウロしている四つ手じゃねえ。山の手の辻駕籠だよ、どこの駕籠か判るものか」
 それ以上は何を聴いても判りません。


 神田の家へ引揚げたのはもう昼頃、庄司家の親類会議が開かれるまで、あと三刻せいぜいです。
「弱ったな八」
 銭形平次も、さすがにこの時は悲鳴をあげました。
「親分、どうしたのでしょう」
「お組と林太郎様と一緒に、どこかに隠してあるにちげえねえ――が」
「すると、親類会議が済んで庄司家の跡取りが助十郎と決まれば、すぐ二人を殺して心中と触れ込むわけですね」
「多分そんなことだろうと思う」
 そこまでは考えられますが、さてそれ以上はどうにもなりません。
 そのうちに次第に陽が傾いて、未刻やつ(二時)になり申刻ななつ(四時)になります。平次は先刻から煙草ばかり立て続けにくゆらして、煙の中から眼を光らせておりますが、なんとしても結構な智恵は浮びそうもなかったのです。
「武家のお家騒動なんかに足を踏込んだのが間違いだったな、八」
 平次はとうとう投げてしまいました。上野の暮酉刻むつ(六時)が鳴ります。
「そう言ったって親分」
 むに已まれぬ平次の正義感と、お組――謎々の合図を工夫する娘の魅力に引かされた八五郎の好奇心が、ここまで深入りさせてしまったのでした。
「一本つけましょうか」
 女房のお静は、平次の機嫌をほぐす妙薬を心得ているのでした。
「そうしてくれ、八と爺さんと三人で、今晩は少し過すことにしようよ」
 平次は大きく伸びをして雀色すずめいろに暮れて行く秋の街を見やりました。
「お気の毒なのは若様でございます」
 あれからズーッと平次のところにいる友吉爺やは洟水はなみずと涙とを一緒になで上げます。
「諦めることだ、――俺は町方の岡っ引だから、武家方のことは手のつけようがない。これが商人の家なら、踏込んで親類会議を延ばさせる手もあるが――」
「…………」
 妙に沈んだ心持を、お互にどうすることも出来ません。
「隠した場所はやはり、屋敷の近くだな――」
 平次は最初の猪口ちょこめて、腕をこまぬきました。
「まだそんなことを考えているんですか親分」
「考える気もないが、――忘れないよ」
「無理もないが、忘れることにしましょうよ、親分」
「だが、待ってくれ。ね爺さん、あの屋敷の中に、滅多に召使の者の入らない蔵か物置がなかったかい」
 平次の叡智は、活溌に動き始めたのです。
「ありますよ。小さい宝物蔵で、奉公人は足も踏み入れませんが、この間から御用人の堀様とそのお配偶つれあいのお滝さんがちょくちょく入るようで――」
「それだよ」
 平次は立ち上がりました。
「親分、何がそれなんで?」
 八五郎は手酌で二三杯つづけざまにあおっております。
「でも、あの宝物蔵へ若様を隠したら、食物をどうして運んだのでしょう」
 と友吉。
「それで俺も迷ったんだ、死にも生きもしないようにしておく分には、そんなに沢山の食物が要るはずはない、――もう迷うことはないよ。お静、食物を少し用意してくれ、軽いものがいい。七日もろくに食わずにいる人間に精のつく物がほしいんだ。さア、八、一緒に行くか」
「行かなくてどうするもんで親分」
 八五郎は中腰になって、徳利からラッパ呑みをやっております。
「私も参りましょう、何かのお役に立つかも判りません」
 爺やの友吉までが武者顫むしゃぶるいをして起ち上がりました。


 その晩庄司家の奥座敷に集まったのは、主人の庄司右京を始め、用人堀周吉、甥の助十郎、石崎平馬、その娘のお礼を始め近い親類からずっと七八人。燭台しょくだいを人数ほど並べて、秋の夜の薄冷えを火桶にしのぎながら、相談は次第にまとまりかけておりました。
 主人の庄司右京はなにぶん軽い中風とは言っても口も不自由なので、用人の堀周吉が代って弁じます。
「若様――林太郎様には、一と月ほど前に召使の組と逐電ちくでんいたし、今以いまもって所在が判らず、御主人様ことのほか御立腹でございます。私ども家来一統、いろいろとおなだめ申上げましたが、なんとしても御聴き入れがなく、このこと万一公儀御耳に入らば、庄司の家の瑕瑾かきんとも相成ること、一日も早く林太郎様を勘当し、甥御おいご様の助十郎様を御家督に直し、御主人様には御隠居の上、ゆるゆると御養生遊ばしたいとっての御望みでございます」
 堀周吉は一座を見渡して、こう達弁につづけました。
「ついては、御親類様方御一統の思召しをうけたまわり、御異存がなければ明日にも公儀に届出の上、改めて世間へも披露いたしたいと存じます。それから、林太郎様御許嫁おいいなずけ石崎平馬様御息女お礼様は、せっかく当家に御縁のあったことでもあり、そのまま当家にお迎え申上げ、御跡取り助十郎様と祝言いたさせたいと存じます。皆様御異存がございませんか、――御言葉がなければ御同意下されたことといたし、右様に取極めて、別席にて一献いっこん差上げたいと存じます」
 堀周吉は言い納めて一座を見渡します。誰も異論を称える者もなく、――わずかに病人の主人、庄司右京の眼に、激しい忿怒ふんぬらしいものが走りましたが、やがてそれも悲しい諦めとなって、人々の笑いさざめく声に紛れてしまいます。
「それでは、公儀御届のため、皆様の御判を頂戴いたします」
 堀周吉が何やら書面を上座の方から廻し始めました。
「待った」
 不意に弱々しいがりんとした声、――一座はしんとなりました。
「その御判、お待ち下され。庄司林太郎、それに参って申し開きつかまつる」
「…………」
 あッと顔見合せる一座の中へ、月代さかやきひげも伸び放題ながら清らかな紋服に着換えた林太郎は、細々とした自分の影を踏んで、――冥途めいどを行く亡者もうじゃのように静かに進み出たのです。
「や、どこから、どうして」
 驚く堀周吉、さすがに喰ってかかりもなりません。林太郎はそれを尻目に、
「父上様、御心配を相かけ申し訳もございません。林太郎は召使などと逐電はいたしません。それなる堀周吉の奸計かんけいに陥り、ただ今まで獣類に等しき扱いを受けました」
 父右京の前にピタリと坐って、静かに一座を睥睨へいげいするのでした。
「お、お」
 右京は口もきけませんが、嬉し涙が老の眼を溢れて、膝をらすばかり。
「何が証拠、――とんでもないことだ」
 飛付きそうにする堀周吉は、縁側にひれ伏した銭形平次にとどめを刺されました。
「証拠は山ほどある。植辰、文七、友吉、六助夫婦、皆んなお上の手に押えてあるぞ」
「お前は何者だ」
 堀周吉は血眼になって叱咤しったするのを、
「平次、父上も御承知だ。その悪者を縛ってくれ」
 林太郎は指を挙げて指しました。

     *

 平次が堀周吉その他の悪者を縛り上げるあいだに周吉に荷担かたんした親類たちはコソコソと逃げ出しました。
 嵐の後のなぎを見測らって、林太郎と平次から、改めて父庄司右京と、残る親類たちにことの経緯いきさつを説明して聴かせます。
「――そこで、もう一つ御願いがございます。お礼殿と許嫁の約束は私から申すまでもなく、最早破談になったことと思います。お礼殿は助十郎殿が御引取り下さるよう――私は召使の組を改めて妻として迎えたいと存じます。組とは別々に誘拐され、何の関わりもないことはただ今まで申上げた通りでございますが、私が行方知れずになって三十日も経たないうちに、助十郎殿と祝言をする気になったお礼殿とは、心構えが違っているように存じます。御親類方のどなたかに、組の親元をお願いしたいと存じます」
 肉体的に弱り抜いていても、気丈者らしい林太郎のハキハキした言葉を聴いて、頑固一徹とふれ込んだ父親右京が合点合点をして喜んでいるではありませんか。
 振り返ると、石崎平馬も、その娘のお礼もいつの間にやら逃げ出して、縁側には爺やの友吉が付添って、お組は大したやつれもなく、初々ういういしくもかしこまっているのでした。林太郎と同じ宝物蔵のこれは階下の唐櫃からびつの中に入れられていたのを救い出して身をきよめさせ、身扮みなりを改めてここへ呼出したのです。
「平次、それもこれも、その方のお蔭だ。この恩は忘れないぞ」
 林太郎はいざり寄って平次の手を取りました。
「いえ、この手柄はあっしじゃございませんよ。お組さんの合図とそれを最初に見付けて、あっしを引っ張り出したあの八五郎の野郎の手柄で――」
 平次に指されて、八五郎は首筋のあたりを掻きながら、無暗むやみに恐れ入っております。
「親分、変な捕物だね」
 帰る途々みちみち八五郎は考え込んでばかりいる平次に話しかけました。
「捕物じゃないよ。こいつはとんだ千代萩せんだいはぎさ、――だが、お家騒動はすることがネチネチして嫌だね」
「でも、あの娘はよかったぜ、親分」
「お組のことか、――唐櫃から出した時は、手を合せて泣いていたぜ」
たすきかもじをブラ下げて、『おたすけ』は嬉しかったな」
「命がけの合図だったのさ。笑っちゃ気の毒だ」
 そういう平次もカラカラとわけもなく笑いたい衝動を感じておりました。





底本:「銭形平次捕物控(十二)狐の嫁入」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年6月20日第1刷発行
底本の親本:「錢形平次捕物全集第二十四卷 吹矢の紅」同光社
   1954(昭和29)年4月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1940(昭和15)年11月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2020年8月28日作成
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