「八、今のはなんだい」
「ヘエ――」
銭形の平次は、後ろから
「人様が見て笑っているぜ、でっかい
「ヘエ――相済みません」
八五郎はヒョイと頭を下げました。
「お辞儀しなくたっていいやな、――腹が減ったら、減ったというがいい。八幡様の前でよっぽど昼飯にしようかと思ったが、朝飯が遅かったから、ツイ油断をしたんだ。家までは
「ヘエ――」
「ヘエ――じゃないよ。
「へッ」
八五郎は
「どうにもこうにも保ちそうもなかったら、その辺で詰め込んで帰るとしようよ。魚の
平次はそんなことを言いながら、その辺のちょいとした家で、一杯やらかそうと考えているのでした。
「犬は大丈夫だが、橋詰の
「
二人は橋を渡って、御船手屋敷の方へ少し歩いた時。
「あッ、危ねエ、気を付けやがれ、間抜け
飛んで来て、ドカンと突き当りそうにして、平次にかわされて、クルリと一と廻りした男、八五郎の前に踏止まって遠慮のないのを張り上げたのです。
「何をッ、そっちから突っかかって来たじゃないか」
「八、放っておけ、空き腹に喧嘩は毒だ」
平次は二人の間に割って入りました。
「あッ、銭形の親分」
「なんだ。
「相済みません。少しあわてたもんで、ツイ向う見ずにポンポンとやる癖が出ちゃって、へッ、へッ」
「恐ろしい勢いだったぜ。火事はどこだい。煙も見えないようだが」
「からかっちゃいけません、ね親分。ここでお目にかかったのは、ちょうどいい
「何が始まったんだ。喧嘩じゃあるまいね。夫婦喧嘩の仲裁なんざ、御免
「殺しですよ、親分」
「ヘエ、松の内から、気の短い奴があるじゃないか」
「殺されたのは、新堀の廻船問屋、三文字屋の大旦那久兵衛さんだ。たくらみ抜いた殺しで、恐ろしく気の長い奴の仕業ですぜ、親分」
「なるほど、そいつは
「だからちょいと覗いて下さい。そう言っちゃ済まねえが、富島町の島吉親分じゃ、こね返しているばかりで、いつまで経っても
「八幡様が迷惑なさるから、そんな馬鹿なことは言わないことにしてくれ。外ならぬ島吉
平次は思いの外気軽に引受けました。滅多に人の縄張に足を踏込んで、仲間の岡っ引に恥をかかせるようなことをしない平次ですが、富島町の島吉は先代から
「道が違やしないかえ、鳶頭」
八五郎は
「三文字屋のお店は南新堀だが、大旦那は
「その隠居家に
と八五郎。
「とんでもない、三文字屋の大旦那と来た日にゃ、江戸一番の堅造だ。もっともとって六十三とか言ったが、――隠居家は下女のお作一人、雌猫も置かねえ」
「その下女が――」
「三十過ぎの出戻りで、稼いで溜めて、在所へ帰るより外に望みのねえ女だ」
そんな話をするうちに、三人は隠居所の前、なんとなく穏やかならぬ人立ちの中に立っておりました。
三文字屋の隠居所というのは、霊岸島町の裏におき忘れたように建てた、たった三間の家で、知らない者では、これが廻船問屋で万両分限の隠居所とは、気のつきようもないほど粗末なものでした。
「ああ、銭形の親分さん」
三間に
「島吉兄哥は?」
平次はその中から、若い島吉を物色しました。
「奥にいますよ」
案内役に立ったのは、三文字屋の縁つづきで、手代をしている幾松でした。二十四五の小意気な男で
平次は黙って次の間に入って行きました。
「おや、銭形の親分」
島吉は顔を挙げました。主人久兵衛の無残な死骸を前にして、番頭の市助と何やら話し込んでいたのです。
「永代で鳶頭に逢って聴いたが――、たいへんだね。目星は?」
「判らない。――怪しい奴が多過ぎる」
島吉は首を振りました。
ともかく久兵衛の死骸を見せて貰うと、薄い寝巻を着たまま、
「死骸は縁側にあったが、部屋の中には床が敷いてあった。――隠居家で、ここには一両と
島吉は半日の探索で調べ上げたことを話しました。
「刃物は?」
「脇差だろうと思うけれど、
「紛失物は一つもなかったんだね」
と平次。
「何にもなくなったものはございませんよ」
番頭の市助が引取りました。五十前後の
「主人を
平次は至って常識的なことから踏出しました。
「結構な御主人で、人様から怨まれるような筋はございません」
「町内の岩田屋の福次が、
島吉は
「主人が死んでトクになる人は?」
「…………」
番頭は口を
「養子の小三郎だろう。近ごろ大旦那と折合がよくなかったそうだから」
これも島吉が引取りました。
「呼んで貰おうか番頭さん、ここで話を聴きたいが――」
殺された久兵衛の前で、養子の小三郎はどんなことを言うか平次は試したかったのです。
「私が小三郎ですが、親分さん」
唐紙の蔭から、そっと顔を出したのは、幾松と同年輩か、どうかしたら一つ二つ若かろうと思う男でした。色の浅黒い
「お前さんは、何か大旦那としっくり行かないことがあったそうだね」
「そんなことはありません」
「ゆうべは一と晩店の方にいたんだね」
「いえ」
「どこへ行ったんだ」
「…………」
小三郎は唇を
「ゆうべ店にいなかったのは小三郎だけか」
平次は番頭の方をふり返りました。
「ヘエ――」
市助はただおろおろするばかりで、ろくな返事もできません。
「親分、幾松も店にいなかったそうですよ」
ガラッ八はその間も、いろいろな人の
「ここへ呼んでくれ」
「ヘエ――」
「それから、外に三文字屋の者が来ているなら皆んなここへ呼ぶんだ。――主人の死骸の前では、器用に嘘も
ガラッ八は平次の言葉を半分聴いて飛び出すと、ものの煙草二三服ほどのうちに、幾松の外に若い娘を一人つれて来ました。
「お前さんは?」
「お嬢さんのお美乃さんですよ」
番頭の市助が代って答えました。
「そうか、――お気の毒な事だね。一人残されちゃさぞ困るだろう」
「…………」
お美乃は黙って涙を拭きました。そんなに綺麗というほどではありませんが、素直に清らかに育っているらしく、見よげな娘です。
「ところで、お前に訊いたら一番よく解るだろう。父親が
「いえ」
お美乃は言下に応えましたが、その後でひとわたり一座の者の顔を、そっと見渡しました。
「跡取りは決っているだろうね、番頭さん」
「へえー、この正月の末には、祝言をするはずで、その仕度も大方できております」
「小三郎とお美乃とだね」
「ヘエ――」
「それは気の毒だね」
若い二人を見比べて、平次もツイ
昼を少し廻った陽が縁側から入って、六畳の部屋がカッと明るいのも、妙に物淋しさを誘います。
「縁側の雨戸は開いていたんだね、番頭さん」
「ヘエー、内から
「
「ところでもう一度訊くが、小三郎は昨夜どこへ行ったんだ」
「…………」
改めて平次は訊ねましたが、小三郎は
「宵から朝までいなかったのか」
「いえ――夜中過ぎには帰ったようでございます」
番頭の市助は取りなし顔に言いました。
「どうしても昨夜行った先を言いたくないのか」
「…………」
ようやく挙げた小三郎の顔には、悲しい苦悩が
「主殺しの疑いを受けることになるが、構わないだろうな」
「親分さん」
と小三郎。
「言ってしまっちゃどうだ」
「言っても本当にしないでしょうし、できることなら言いたくありません」
小三郎はそう言って、ガックリ首を垂れるのでした。
「それじゃ幾松に聞くが、お前も家をあけたそうじゃないか」
平次の眼は小三郎から幾松に転じました。少し
「ヘエ――」
苦い微笑が唇に浮んだと思うと、サッと拭き取ったように消えました。
「どこかの稽古所へでも潜り込んでいたんだろう。言いにくいことがあっても、隠さない方が身のためだぜ」
「親分さん、私は大旦那なんかを殺しゃしませんが――」
「それはそうだろうよ」
「どうしても昨夜の行先を言わなきゃなりませんか」
「言う方が無事だろうよ」
平次はひどく冷静です。
「弱ったなア」
幾松は小三郎ほど絶望的ではありませんが、困惑しきっていることは違いありません。
「
「…………」
「隠したって隠しおおせるものじゃない。言う
「…………」
幾松も黙りこくってしまいました。こうなっては、手の付けようがありません。
平次はいい加減に
「お前はお作というのだね」
「ヘエー」
「国はどこだ」
「
「ゆうべ何か変ったことがなかったか」
「ありましたよ、――いつもお店から来なさると、そのまま黙ってお床に入る大旦那様が昨夜はわざわざ私を呼び止めて、『お作、人の心というものは解らないものだな。俺はこの年になって、飼犬に手を噛まれるとは思わなかったよ』とおっしゃって、淋しそうに笑っておいでになりました」
「飼犬に手?」
平次は考え込みました。飼犬という言葉の意味は、誰を指すのか判りませんが、少なくとも三文字屋を怨んでいるという、岩田屋福次でないことだけは明らかです。
下女のお作は、醜い顔と、正直な心とを持っているように平次は鑑定しました。この鑑定に間違いがなければ、下手人は小三郎か幾松か、市助か――いやいやまだ外に三文字屋の店にいる人間があるかもしれません。
平次は八五郎に小三郎と幾松の見張りを言いつけ、島吉と一緒に三文字屋に行ってみました。
ここにはお磯という親類の娘の外に小僧二人と下女が二人いるだけ。お磯の外の者は、何を訊いても大した役に立ちそうもありません。
「主人といちばん仲の悪いのは誰だえ」
「小三郎さんですよ」
お磯の答えは簡単で予想外でした。
「それはどういうわけだ」
「小三郎さんは、どこかの船頭の子だそうで、十三の時親知らずの約束で貰い、それから十年のあいだ丹精して育てた上、お美乃さんと一緒にして、この大身代の跡取りにすることになっているのに、あの通りのわからない人で、大旦那を怒らせてばかりいるんです」
「フーム」
「幾松は?」
「幾松さんは三文字屋の遠い
「幾松の方が好い男じゃないか」
「え、好すぎるんで、浮気が大変です」
「なるほどそんなこともあるだろうな」
「近ごろ主人と小三郎と言い争いでもしたことがなかったのか」
「
「幾松は?」
「あの人は人に
「お前は?」
「…………」
お磯は黙ってしまいました。二十五六にもなるでしょうか、痘痕でもなく、どこか美しくさえある女ですが、なんとなく冴えない顔で、目鼻立ちの端正なのが、かえってこの女の魅力を傷つけているといった感じのお磯です。
「お前は昨夜どこにも出なかったのか」
「え」
お磯は言下に応えましたが、この女の底意地の悪い物言いや、顔の冷たい感じなどがひどく平次を
「小三郎と幾松と、番頭と、――奉公人の部屋を見せて貰おうか」
「…………」
お磯は黙って立ちました。それに
「ここに小三郎さんと幾松さんが休みますよ」
暗い四畳半の入口にお磯は立ちました。中へ入ると、窓は厳重な格子で、店かお勝手へ出なければ、夜中に外へなどは出られません。
「荷物は」
「その押入にあるでしょう。上は小三郎さんで、下は幾松さんが使っているようです」
平次と島吉はまず幾松の
「おや、変なものを持っているぜ」
島吉が底から捜し出したのは、
「どれどれ」
平次はそれを受取って、鞘を払い、窓際へ行って外の明りに
「銭形の、――こいつは人間を斬った
島吉はささやきます。脇差の刃は油を引いたように薄く曇っているのでした。
「生々しい脂だ。一応洗って拭き込んだ様子だが――」
兇器がこんなにも
「この脇差は誰のだ」
島吉は脇差を鞘に納めると、部屋の外に持って出ました。
「小三郎さんのですよ」
「何?」
「小三郎さんの自慢の脇差ですよ。何とかいう船頭が、遠州
お磯の言葉は相変らず毒を含みます。
「それが幾松の行李に入っていたのはどういうわけだ」
「まア」
「おいおい小僧さん、この脇差は誰のか知ってるかい」
「若旦那のですよ」
二人の小僧は声を揃えました。
「こいつは変だぞ。島吉
平次と島吉は、押入の上の段の行李を出して念入りに調べましたが、そこには何にも変ったものがありません。
「親分、とうとう口を割りましたよ」
わめき込んで来たのは八五郎でした。
「なんだ、下手人が白状でもしたというのか」
と平次。
「そんな大したことじゃねえが、――幾松はとうとう昨夜行った先を言いましたぜ」
「なんだ、そんなことであわてて飛んで来たのか、見張っていろと言ったのに」
「大丈夫、下っ引に見張りを頼んで来たから、変な素振りを見せると、すぐ縛ってしまいます」
「で、幾松は昨夜どこへ行ったんだ」
「それが大変なんで、――お美乃さんなんかの前じゃ言えなかったわけでさ」
「どこだ」
「一番たちの悪い場所、――一番
「江戸中にそんな恥っかきな場所があるのかい」
「今にも
ガラッ八は
「まアいいやな、怒るな。――ところで相手の名ぐらいは聞いて来たんだろう」
「おえのという女だそうで、名前からして粋じゃありませんよ」
「黒い
「心得ていますよ」
ガラッ八はもういちど飛んで行きました。
「これで大方眼鼻が付いたろう。俺はさいしょ幾松が臭いと思ったが、高瀬舟や安宅長屋に潜っていちゃ人殺しはできない。万一そんなことが知れちゃ、お
「
「なんの、こんな事くらい」
平次はそれっきりこの事件との関係を断ったのです。恩人の子の島吉に手柄を立てさせて、蔭で知らぬ顔をして見ているのが、平次にとっては、たまらない楽しみだったのでしょう。
外へ出るともう夕刻、平次は昼飯を食い損ねたことに気が付きました。急に腹の減ったことに気が付くと、八五郎の強健な胃の
それから二た月経ってしまいました。三文字屋殺しは養子の小三郎と決って、下手人を挙げた手柄はことごとく若い島吉に帰し、平次は組屋敷あたりの噂で、小三郎のお
「親分、大変なことがありましたよ」
ガラッ八の八五郎がいつもの調子とは違って、ひどく沈んだ顔を持って来ました。
それは三月三日――江戸は桃も桜も咲き揃って、すっかり春になりきった晩のことです。
「何が大変なんだ。ドブ板を蹴返さないと、大変らしい心持にならないぜ」
「ね、親分。あの三文字屋の娘――お美乃とかいうのが、南の御奉行所へ駆け込み訴えをやりましたぜ」
「何?」
平次も何か
「気の毒なことに、門前で喰い止められて、泣く泣く帰ったそうですが、いずれ
「親殺しのお主殺しだ。あの小三郎だけは助けようはないよ。駆け込み訴えもモノによりけりだ」
平次はそう言いきって、心の底から淋しさを感じておりました。島吉に縛られたにしても、小三郎を
「でも、思い詰めて死ぬようなことはないでしょうね。可愛らしい娘だったが」
八五郎までが妙に
「お前さん」
「なんだい」
「お前さん、ちょいと」
女房のお静が、敷居際から妙に声を
「なんだい、そんなとこに突っ立って――借金取りでも来たのかい」
「お嬢さんが、お勝手で、泣いていらっしゃるんですよ」
そう言うお静も、すっかり泣き
「お嬢さんが――?」
平次はお勝手を覗くと、薄暗い
「お美乃さんじゃないか」
平次は不思議な空気の圧迫を感じながら板の間に
「親分さん、――小三郎さんを助けてやって下さい。お願い――」
半分は
「そいつは無理だ。今しがた俺が言ったことを、ここで聴いていたんだろうが、親殺しや主殺しは、御奉行様でも助けようはない。そればかりは諦めた方がいいぜ」
「違います、親分さん。小三郎さんは、決して、父さんを殺しはしません、――
「お美乃さんがそう思うのは無理もないが、小三郎が縛られるには、縛られるだけのわけがあったんだ。――証拠は山ほどある上に、あの日島吉兄哥が隠居所へ引返して行くと小三郎は一と足違いで逃げ出したというじゃないか。幸い
平次は
「親分さん、どんな証拠があっても、小三郎さんは、本当の親を殺すはずはありません」
「何?
「え、小三郎さんは、父さんの――三文字屋久兵衛の血をわけた本当の子だったんです。私こそ
お美乃の言葉は、平次にとっても驚きです。
「それはどういうわけだ、
平次はとうとうお勝手の板の間に坐り込んでしまいました。
その後ろに八五郎、その横にはお静が、ただわけもなく
「小三郎さんは父さん(久兵衛)の本当の子ですが、母親は深川の芸者で、親類の手前や、
「本人は?」
平次は一番大事な問いを忘れませんでした。
「小三郎さんは何もかも知っていますが、あの通り正直一徹の人ですから、誰にも言いません」
「すると小三郎とお美乃さんは
「いえ、小三郎さんは三文字屋の血を引いた人ですが、私は三文字屋の二度目の嫁の連れ子で、父さんの本当の娘ではございません」
「なるほど、それで久兵衛さんが、小三郎を養子にして、お前と添わせて三文字屋の跡を継がせる気になったのも判る。だが、それだけじゃ、小三郎が無実の証拠にはならない。あの晩――正月五日の晩、小三郎はどこにいたんだ。それが判って、生き証人でもなきゃ、今となっては小三郎が無実と知っても助ける工夫はない」
「小三郎さんは、あの晩、養いの親の浪五郎に逢っていたんです」
「何?」
「浪五郎は若い時から船頭で、幾度も難破したのを、水天宮様を信心して助かったと言って、月の五日の
「なぜ、お白洲でそれを言わなかったんだ。それを言いさえすれば、助かる見込みがあったのに」
平次はお美乃の話から、不思議な事件の展開を見たのでした。
「それができなかったのです。――浪五郎は仲間の者の
「…………」
「ですから、月に一度そっと江戸へ来て、水天宮様へお詣りして、小三郎さんに逢って行くのを、何よりの楽しみにしているんです。小三郎さんはあの通りの人ですから、自分が
「フーム」
あまりの怪奇な話に、平次もただ
「悪者はそれを知って、五日の晩を
お美乃はたしなみも恥かしさも忘れて、精いっぱいに口説くのでした。
「ね、お前さん」
お静まで泣き声を挟みました。
「お前は黙っていろ。――ところでお美乃さん、もう聴いているだろうが、
「それはもう親分さん」
「若い娘がそれだけ信用するなら、大抵間違いはあるまい。
「…………」
「ところで、お美乃さん」
「ハ、ハイ」
「お前さんは、小三郎をどんなことをしても救いたいと言うのだね」
平次の声には、激しい意図が潜んでおりました。
「え、どんなことをしても、どんなことがあっても」
「命を捨てても」
「命を捨てても」
「万人の前に恥をさらしても」
「え、万人の前に恥をさらしても」
お美乃は平次の言葉を
「明後日、処刑の日はちょうど五日だ。浪五郎が赤羽橋の水天宮様へ、お詣りに来る日だろうな」
「雨が降っても、槍が降っても、正午の刻にはきっと来るはずです」
「鈴ヶ森の処刑も正午の刻、赤羽橋のお詣りも正午の刻」
平次は深々と腕を
その晩平次と八五郎は
が、なんという不運でしょう。おえのは十日ばかり前に大酒を呑んで頓死し、
その死んだ日か、前に来た客のことを訊きましたが、下等な船比丘尼の客などは誰も気に留めず、そこにも探索の
「この上は五日の昼頃、浪五郎という船頭を捕まえる外に
平次はそんな頼み少ないことを言うのです。
その翌々日、とうとう三月五日という日が来てしまいました。
親殺しの主殺し、五逆五悪の大罪人小三郎は、裸馬に乗せられて、幾十人の
その日は
「退け、退け、退けッ」
バラバラと駆けて来る役人小者。
「お願い、お願いの者でございます」
「なんだなんだ」
「小三郎の
駕籠の中から転げるように出たのは、
「ワ――ッ」
竹矢来を囲む数千の群集は、ドッと
「ならぬならぬ、ここを何と心得る」
役人二三人、押っ取り刀で美乃を取巻くと、役目大事と
「
「馬鹿なことを申せ」
「これは助命の願いではございません。どんな
一生懸命さが言わせる処女の雄弁に言い
「ならぬならぬ」
「お願いでございます。処刑になる罪人には、今わの際に、たった一つだけは望みを叶えさせると承りました」
「えッ邪魔だッ、退かぬと力ずくで退かせるぞッ」
二三本の六尺棒が前後からお美乃の白無垢を押えました。
「たってならぬとおっしゃれば、ここで自害をいたします。せめて夫の先に死んで、死出三途の案内をいたしましょう」
お美乃は帯の間から用意の懐剣を取出すと、キラリと抜いて、我とわが胸に
そのうちに時刻は経ちました。裸馬に乗せられて、
一方は銭形平次と八五郎、赤羽橋有馬屋敷の角、お
浪五郎がお詣りした頃は、月の五日でも参詣の者はほんの数えるくらい、その中に船頭風の男が交っていさえすれば、平次と八五郎の眼を
それから二た刻近いあいだ、平次と八五郎がどれほど気を揉んだことでしょう。
「八、あれだッ」
平次が濠端をやって来る、
「お前さんは、船頭の浪五郎というんだね」
「えッ」
八五郎に胸倉を
「いかにも、船頭の浪五郎はこの俺だ。さア、お縄を頂戴しよう。――身に覚えのないことだが、もう命が惜しいほどの年じゃない」
後ろに手を廻して観念の眼さえつぶるのです。
「違う違うお前を縛るんじゃない。三文字屋の小三郎が、親殺しの罪で、今日、今、
「えッ」
「一月五日の晩、お前と一緒に船の中で一と晩過したという
「そいつは知らなかった。俺は海の上にばかりいる人間だ。サア、どこへでもつれて行ってくれ。一月五日には永代の下で、一と晩この俺と小三郎は話していた」
用意した三梃の駕籠、三人はまず
「それッ」
新たに人足を代えて、三梃の駕籠は鈴ヶ森へ――。
平次と八五郎が、赦免状と生き証人をつれて鈴ヶ森に乗込んだ時は、
お美乃の努力にも限度があります。六尺棒で押し隔てられて、竹矢来の外につまみ出されると、改めて囚人小三郎を馬からおろし、役人がもういちど罪状を読み聴かせた上、目隠しをして
「お願い、お願い」
竹矢来の外から必死と叫ぶお美乃の声も
「お美乃さん、私は嬉しい」
磔刑柱の上から、目隠しをされたまま、小三郎はわずかに声を張り上げます。
「小三郎さん」
「この小三郎が下手人でないことは、お美乃さんだけはよく知っている。――あの人に逢ったら、そう言って下さい」
「小三郎さん、お願いだから、言って下さい。みんな言って下さい」
しかしそれは無駄な努力でした。時刻が迫ると、役人は役目の落度になります。
「それッ」
合図をすると、二本の
「小三郎さん」
ドッと
「待った。――その処刑待った」
「御赦免状だぞッ」
平次と八五郎と浪五郎は、大波のように揺れる群集の中へ、真一文字に飛び込んで来たのでした。
*
幾松はその日のうちに主殺しの下手人として、島吉に縛られました。安宅のおえのの家から三十両の金が、幾松の財布に入ったまま現われたのと、おえのに毒酒を持って行ったのが、見知り人があって幾松と知れ、主人久兵衛殺しまで幾松の仕業とわかったのです。
「五日の晩、わざと遠方の安宅長屋へ行って、人に知れると恥になるような証拠を
平次はガラッ八にせがまれて、絵解きをしてやりました。事件が落着して四五日のことです。
「なるほどね」
「小三郎の脇差で久兵衛を殺し、一と通り洗って自分の
「なんだって幾松は主人を殺す気になったんでしょう」
「幾松にしてみれば、赤の他人の小三郎が三文字屋を継ぐことになったのが
そう言われると、幾松が下手人らしくなります。
「もう一つ解らないことがあるんだが――」
「なんだい」
「お磯はなんだって小三郎をひどく言ったんでしょう」
「お美乃に取られたような気がして
「小三郎はとんだ果報者だね」
「あんな肌合の男が
「ヘエ――」
「大層感心するじゃないか、――お前なんかも一本調子だから娘たちには人気のある方さ。用心するがいいぜ」
「冗談でしょう。ところで、お美乃を花嫁姿で鈴ヶ森へやったのは親分の指図でしょう」
「とんでもない。岡っ引がそんなことをしていいか悪いか考えてみろ」
平次の言葉には
「でも、島吉兄哥は親分のお蔭で大手柄でしたよ。喜んでいましたぜ」
「とんでもない、もうすこしで取返しのつかない
平次はそんな気になっているのでした。