「親分、お願いだ。ちょいとお
八五郎のガラッ八は額際に
「何を拝んでいるんだ、お御輿は明神様のお祭りが来なきゃ上がらねえよ」
銭形の平次はおどろく色もありません。裏長屋の狭い庭越しに、梅から桜へ移り行く春の風物を眺めて、ただこうぼんやりと日を暮している、この頃の平次だったのです。
「三河町の殺しの現場へ行ってみましたがね、何しろ若い女が四人も五人もいて、銘々勝手なことを言うから、いつまでせせっていたって、眼鼻は明きませんよ」
ガラッ八は
「八は男っ振りが良すぎるからだよ。岡っ引は
「そうでもありませんがね。何しろ右から左から、胸倉まで
「いい加減にしないかよ、馬鹿だなア」
「ヘエ――」
「
「ヘエ――」
「せっかくお前の手柄にさせようと思ってやったのに、仕様のない奴じゃないか」
平次は小言を言いながらも、手早く身支度をして、ガラッ八と一緒に外へ出ました。
まだ三十前といっても、平次とあまり年の違わない八五郎に、一と
平次は
「三河町の
「無駄を言うな、奈良屋三郎兵衛の放埒がどうしたというのだ」
「放埒は
「フーム、変った殺しだな」
「ところが、変っているのはその先なんで、囲いの中で殺されていたのは、倅の幾太郎と思いきや」
「思いきやと来たね、お前いつからそんな学者になったんだ」
「へッ、学者はあっしの地ですよ」
「無筆は
「からかっちゃいけません。とにかく、けさ囲いの中で、人間が殺されているのを見付けたのは下女のお仲、二十五六のこいつは良い年増ですよ」
「無駄が多いね、早く筋を通しな」
「下女のきりょうも筋のうちですよ。ともかく、大騒動になって、血だらけな死骸を引起してみるとそれが、倅の幾太郎と思いきや――てんで」
「また思いきやか。お前の学はよく解ったよ、先を申上げな」
「手代分で店の方をやっている
「フーム」
「驚くでしょう、こいつは。あっしのところへ知らせて来たのは、まだ夜が明けたばかりの時だ。親分へ
「合の手が多過ぎるよ、叔母さんなんか引っ込めて話を運びな」
平次も少しジレ込みました。ガラッ八の話術で展開する筋は、なかなか面白そうです。
「若い女が多勢いて、銘々自分だけ良い子になろうと弁じ立てるから、手の付けようがねえ。親分の前だが、女は苦手だね」
「何をつまらねエ、向うでもそう言っているよ、岡っ引は苦手だ――とね」
「へッ、違えねえ」
「ところで、倅の
平次は少し真面目になりました。
「
「囲いの戸は開いていたのか」
「大一番の
「鍵は?」
「旦那の三郎兵衛が持っていたはずだが、それは表向きで、
「その鍵はあるだろうな」
「ないから不思議で」
「なるほどそいつは面白そうだ」
「だから親分を誘い出しに来たんですよ」
「恩に着せる気なら俺は帰るぜ」
「あっ、あやまった。親分、せっかくここまで来たんだから、まずチョイト覗いてやって下さい。若い女が五六人いて銘々良い子になる気だから、そりゃ賑やかな殺しですよ」
「賑やかな殺し――てえ奴があるかい」
そんな事を言いながら、平次は八五郎の導くままに、奈良屋三郎兵衛の豪勢な店先に立っておりました。
奈良屋三郎兵衛は五十五六、江戸の大町人で、
「銭形の親分か、御苦労様」
「とんだことでしたね。――ところで、殺された
平次はさっそく事務的な調子になります。
「さア、そいつはこの私にも解らない」
「若旦那の幾太郎さんは、どこへ行きなすったんでしょう」
「気の毒だが、そいつも私には解らない。そんな事は奉公人達が思いの外知っているものだが――親分の前でそんな指図がましい事を言うのも変だね」
こんどは三郎兵衛の頬に、本当の微笑が浮びました。大町人らしい柔かい風格です。
「それじゃ囲いの中を見せて貰いましょうか」
平次はガラッ八に眼で合図して、番頭の佐助に案内されて奥の方に通りました。番頭の佐助は六十を四つ五つ越したらしい、
「ここでございますよ、親分」
佐助が指したのは、店から奥へ通う廊下の中ほどから、少しばかり右へ入った土蔵の
さすがに
「なんだって若旦那をそんなところへ入れることになったんだ」
平次はそれが
「よくあることですが、許嫁のお
佐助は言っていいか悪いか解らないらしく、恐ろしくおどおどした調子でこう言うのでした。
「そんな事で、座敷牢は少し乱暴じゃないかね」
「ヘエ、でも、店の大事な品を持出したり、小言を言う親旦那に喰ってかかったりしますので、懲らしめのために、こんなところに入って頂くことになりました。親類方御相談の上でなすったことで私風情ではどうにもなりません」
佐助は臆病らしく
「そのお艶というのはどこにいるんだ」
「それがよく解りません」
「八、すぐ行ってみてくれ。幾太郎はその女のところに居るに違いあるまい」
平次はガラッ八の方を振り返って無造作にこう言うのです。
「ヘエ――」
「変な顔をするなよ。――お艶の家が判らないって言うんだろう。馬鹿だなア、――
「なア――る」
「間違いがあっちゃならねえ。飛んで行くんだぜ」
「合点ッ――だがね、一つだけ言っておきてえことがあるんだが」
「なんだい、早く申上げてしまいな」
「今朝この囲いの中で、女物の
「どこにあるんだ」
「これですよ、あっしが拾ったんで」
八五郎は懐紙に包んだ
「何だ、早くそう言やいいのに。こんなものを温めておく奴があるもんか」
「それからもう一つ」
「文句の多い野郎だな」
「あっしが親分を迎いに行っている間に、お
「そんな事はどうだっていいじゃないか」
「ヘエ――」
ガラッ八が飛び出すと、平次は囲いの中へ入って行きました。
六畳の半分をひたす血の海の中に俯向きになっている梅吉の死骸を引起してみると、二十七八の小肥りの男で、脇差で横から首筋を縫われ、そのまま前へのめったらしく、急所の
「見付けたのは?」
「下女のお仲と申す者で」
「呼んで貰おうか」
「お仲、――そこに居るなら出て来るがいい。呼ばれてから、あわてて引っ込むやつがあるものか」
「ヘエ――」
佐助に叱られて、恐る恐る出て来たのは、二十四五の、ちょっと良い年増でした。
「けさ死骸を見付けた時の様子を、詳しく話してみるがいい」
平次は穏やかな調子で引出しにかかりました。
「雨戸を開けて、ヒョイと覗くと、――中は一パイの血で、梅吉どんが殺されているんです」
「さいしょから梅吉と判ったのか」
「いえ、初めは若旦那だと思いました。大きな声を出すと、皆んな飛んで来て、鍵が見えないのでコジ開けて入って、死骸を引起して初めて梅吉どんと判りました」
お仲の話はなかなか
「この櫛は誰のだか知ってるかい」
「…………」
お仲は一文字に口を結んでしまいました。
「言いたくないと見えるね。まさかお前のじゃあるまいな」
「とんでもない、親分さん」
お仲はあわてて打ち消しました。
奉公人たちの説明で夜中人に知られずに、この囲いの前へ来られるのは、主人の三郎兵衛と、女房のお
あとは五六人の若い奉公人だけ。それは厳重に仕切られた
「親分、何でも訊いて下さい。私の知っていることは、みんな言ってしまいますよ、――兄さんの事ですって? 兄さんが囲いなんかに入れられた事でしょう。え、判りますわ。少しばかり物を持出したり、お父さんにちょっと
といった調子。こんなのに引っ掛っていると、要領を得ないうちに、請合い日が暮れてしまいます。きりょうも満更でないのが、なんだって馬鹿馬鹿しく
次に逢ったのは、三郎兵衛の後添いのお篠、これが奈良屋の内儀かしらと最初は平次も驚いたほどです。三郎兵衛は五十七八とすれば、どうしても二十五六も
「御苦労様でございます」
お篠は
「
平次の問いは少し無作法で唐突でした。
「え」
お篠は心持鼻白みます。
「それじゃ、ヤットウの方の心得もあるんでしょうね」
「いえ、――ほんの少し
お篠は本当に消えも入りたい姿でした。青々とした眉の跡、頬の美しい曲線、襟元の涼しさ、――平次もこんな女は、舞台でしか見たことのないような心持がするのでした。
「この
平次の掌の上には、半分紙につつんだ
「私のですが――」
何という穏やかな調子でしょう。
「この櫛が、死骸の側にあったのですよ、御新造」
「まア」
「囲いの中へ入らなかったんでしょうな」
平次もツイ、この当惑した美女のために、助け舟を出してやる気になりました。
「入れるはずもございません。幾太郎さんは大変私をにくんでおりました」
「するとこの中へ入るのは?」
「お仲と、お栄だけでございます」
「この櫛はふだんどこにおいてあるんです」
「ツイ隣の
「持って歩くような事はないでしょうな」
「
大きな黄楊の梳き櫛を、大家の内儀が髪に
「この家の中に御新造さんを
「とんでもない」
お篠は
最後に平次が逢ったのは、若旦那幾太郎の許嫁で、遠縁に当るという、お桃でした。三郎兵衛には恩人筋の娘とかで、三四年前に
「お前の在所はどこだい」
「川越です」
「この家の住み心地はどうだ」
「皆んな親切な良い方ばかりですから」
「若旦那の幾太郎も親切か」
お桃の顔はサッと暗くなりました。
「若旦那を怨んでいる者は誰だ」
「…………」
「お前は、どう思う」
「…………」
お桃は何とも言いませんが、襟に埋めた頬は、したたか涙に洗われております。
「お前の外に、若旦那を怨んでいる者はないのか」
「ございません」
「御新造を怨んでいる者はあるだろう。あの通り若くて綺麗で、
お桃は黙って頭をふりました。
「お仲は御新造にひどく叱られた事があるだろう」
「え」
「何か
「いえ」
お桃はまた口を
「親分」
ガラッ八は少し息をきって
「何だ、幾太郎はやはり女のところに居るんだろう」
「居ましたよ。そこを、お神楽の清吉の野郎が、バッサリ縛って行ったんだから、腹が立つじゃありませんか」
「お前の手落ちだよ。腰を
「だって親分」
「まアいいやな、――縛るには縛るわけがあったんだろう」
平次は調子を変えて、腹が立ってたまらないといったガラッ八の不平のハケ口を
「あの野郎はあっしの鼻を明かせるつもりですよ。何もわざわざ
「岡っ引に縄張なんかあるもんか。縛るのは向うの働きだ。――が、こいつは働きすぎたかも知れないよ。腹ばかり立てずに、清吉が縛ったワケを言いな」
「幾太郎はこの囲いの鍵を持っていたんですよ。――梅吉を引入れて刺し殺し、錠をおろして逃げ出したと読んだ清吉は、
「ま、待ってくれ。――わざわざ錠前をおろしたのは、死骸が逃げ出すとでも思ったのかい」
平次の問いはさすがに皮肉でした。
「そんな事は解るものですか」
「で、お艶とかに逢ったのかい」
「逢いましたよ。
「八五郎ときた日にゃ、
「へッ、冗談でしょう。全く良い女ですぜ、親分。半歳ばかり前に、幾太郎が根引いて、囲ったまままだ
「で、ゆうべ幾太郎は
「宵のうちに来て、
「フーム」
「その上、お艶に駆落をすすめたそうですよ」
「お艶は幾太郎を庇いながらそんな事をペラペラ
「ヘエ――」
「薄情な女だな。それに比べると、物を言わないお桃の方がよっぽど
「…………」
「打ち殺してもやりたいほど幾太郎に未練があるんだ」
「すると?」
ガラッ八はゴクリと
「あわてるな、お桃が下手人だとは言わないぜ」
「親分」
「俺の見当じゃ、囲いの中の玉が入れ変っているとも知らずに、幾太郎を殺すつもりで、梅吉を殺したに違えねえと思うんだ」
「じゃ、やはり、幾太郎が下手人じゃないと言うんでしょう」
「幾太郎が下手人だった日にゃ、自分が自分を殺した下手人だって事になるよ」
「本当ですか、親分」
「幾太郎は梅吉に身代りを頼んで、夜中
「ヘエ――」
「暁方帰って来て、梅吉と代ろうとして、気が付くと、錠がおりている。柱から鍵を外してあけて入って、梅吉の殺されていることに気が付いたんだろう。あんまり
平次の空想は飛躍します。
「幾太郎が梅吉を殺す気なら、なにも囲いの中なんかで殺さなくたっていいわけだ。自由に囲いから出られるんだからな。――それに鍵を持っているのは、面喰らった証拠にはなるが、梅吉を殺した証拠にはならねえ」
「有難え、それで
「待てよ。囲いの戸へ鍵をおろしたのは、幾太郎じゃないかも知れないな。
平次は深々と考え込みました。恐ろしく簡単に見えていて、この殺しはなかなか奥がありそうです。
「八、こっちにもいろいろ面白いことがあったんだ。第一にこの
「それがどうかしましたかえ」
「この櫛はお内儀のお篠さんのだが、どんな間抜けな下手人だって、
「…………」
「それをわざわざ捨てて来るのは、大間抜けでなきゃ、恐ろしい智恵者だ」
「…………」
ガラッ八は黙って眼を見張りました。親分平次の推理の発展を、こう見詰めているのは、ガラッ八にとっては、たまらない嬉しさだったのです。
「だから、お内儀のお篠が、自分とあまり年の違わない
「…………」
「昨夜は良い月だったな、八」
「結構な十五夜でしたよ。あっしはそとで『
「つまらねえ物の稽古をしたものだね。あいつは色気がなさすぎるよ。――ところで下女のお仲をちょいと呼んでくれ。ここなら人に聴かれるような事はあるまいから、内緒に一と
「あの女は思いの外
ガラッ八は飛んで行くと、少し反抗的なお仲の
「お仲、手数をかけるじゃないか。馬鹿な細工をみんな言ってしまっちゃどうだ」
「…………」
高飛車に出る平次を、白い眼で見て、ちょっと良い年増のお仲はツンとするのでした。
「みんな解っているよ。今朝、隣の納戸の鏡台から、お内儀の櫛を持出して、囲いの中へ
「…………」
「おどろくなお仲、梅吉を殺したのもお前だ。さいしょ幾太郎と間違えたんだろう」
「違う、違いますよ。人殺しなんか、この私がするものか」
お仲は
「主殺しは
「親分、私じゃない、私は何にも知らない。た、助けて下さい」
お仲は自分の位置の恐ろしさを
「八、縛ってしまいな」
「ヘエ、――本当に縛って構いませんか。やい女、神妙にせいッ」
「あッ助けて、私じゃない。私は何にも知らない――」
お仲は必死と争い続けます。
「じゃみんな言うか」
「言う、言いますよ。あの女が若旦那を殺したに違いないと思ったから、口惜しくて口惜しくて、櫛を投り込んでやった――それだけですよ、親分」
「あの女――というのは御新造のことだろう。お前にはお
「でも継子くらいは殺し兼ねませんよ。お屋敷
「
お仲はさめざめと泣きだしました。
「ところで、八」
「ヘエ――」
「幾太郎が暁方帰って来たと言ったね」
「え、お艶に言わせると、夜が明けてからだったそうですよ」
「お前がここへ来たのは?」
「
「血は
「
「殺したのは宵だな。――幾太郎が本当に暁方来たのなら、下手人じゃない。自分が宵に梅吉を殺して出かけたなら、暁方にもういちど帰って、面喰らって鍵を持って行くはずはない」
「それは大丈夫で、あの薄情なお艶がペラペラ
「薄情な女がいちばん結構な証人になるわけだな」
「お蔭でお神楽の清吉は馬鹿を見ますよ」
ガラッ八は妙なところへ
「つまらねえところで溜飲を下げたって、お
「まるっきり見当がつきませんよ、親分」
「幾太郎でもなく内儀のお篠でないとすると、あとはお仲と三郎兵衛と、佐助とお栄とお桃だけじゃないか」
「私じゃありませんよ、親分」
お仲は顔を挙げました。
「よしよしよっぽど命が惜しいと見えるな。その心持で、人様なんかを無実の罪に落しちゃならねえ。櫛が俺の手へ入ったからいいようなものの、でもなきゃ」
平次は苦笑いしました。これがお神楽の清吉の手にでも入っていたら、今頃お篠はどうなっていたか判りません。
「親分、こんどは何をやらかしゃいいんで――?」
「夜になるのを待つんだ。――幾太郎が縛られたことは、まだ黙っているがいい。
平次はまだ高い陽を仰いで、こう言うのでした。
「親分、お茶が入りました」
検屍が済んで、妙に長い日を持て余したように、平次と八五郎がウロウロしていると、転婆娘のお栄が奥の方から燃え上がるような派手な声を掛けるのでした。
「有難う。――八、一服やろうか」
平次は八五郎を顧みて、気楽な親類の家へ来ているように、奥の一と間に入って行きました。
「親分、何にもないが、まず一服やって下さい」
主人の三郎兵衛は、娘のお栄と、倅の許嫁のお桃にお茶を入れさせたり、結構な菓子を出させたり、ひどく打ち解けた様子で迎えてくれます。
「有難うございます。それじゃ遠慮なくいただきますよ」
平次は渋い茶を呑んで、菓子をつまみながら、相手の出ようを待っておりました。
「親分、倅が見付かったそうじゃありませんか」
「え、その上、お神楽の清吉が縛ったそうで。あの男はなかなか
平次の調子は妙に人を
「その事について、親分に聴いて貰いたいことがあるんだが――」
「…………」
「実は倅が梅吉に身代りを頼んで囲いを抜け出すのは
「誰がそんな事に気が付いていました」
平次は静かに問い返しました。
「これですよ。黙っているから、何にも知らずにいると思うと、女はやはり気が廻るんだね――」
半分は独り言のように
「お桃さんが知っていたんですね」
「ゆうべも倅が梅吉と相談しているのを、これが、風呂場で聴いたそうですよ。――だから梅吉を殺したのは、倅じゃないということになりゃしませんか。倅がわざわざ身代りに頼んだ人間を、自分が入っているはずの囲いの中で殺すはずはない――」
三郎兵衛はそれが言いたかったのです。多分、幾太郎が縛られたと聴いて、おどろいて身代りの秘密を打明けたお桃の言葉を聴くと、矢も
平次は黙って顔をあげました。まだ言い足りない、聴き足りないもののあるような気がしたのでした。
「親類一統に相談した上とは言いながら、座敷牢の中へ入れられて、逃げ出せば出られるのに、黙って二た月も我慢していた倅の心持も、少しは考えてやる気になりましたよ。倅は道楽者で、始末の悪い人間には違いないが、その倅の
三郎兵衛の述懐は、次第に父親らしい愚痴になります。
「で、その糸を引いてるのは誰で?」
「殺された梅吉ですよ。倅をけしかけて私の手文庫から、
「それはどうして解ったのです」
「みんなお桃が探ったり聴いたりして、胸一つに畳んでいたのを、倅が縛られたと聴いてみんな私に話しましたよ。番頭の佐助もその辺のことを薄々は知っていたようで――」
「お桃さんがね」
平次は妙に裏切られたような心持でした。大して聡明そうにも見えない、平凡そのものの娘が、捕物の名人銭形平次の先を潜って、裏の裏まで物を
だがしかし、このお桃の聡明さの判ったことが、どんな恐ろしい結果になるか、三郎兵衛も、当人のお桃も気が付かなかったでしょう。平次は緊張した心持で、暮れかかる外を見やりました。
それからほんの半刻(一時間)、平次も八五郎も、不思議な
店の小僧たち――よく
坊っちゃん育ちで人の好い幾太郎は、完全に梅吉の
十六夜の月は少し遅く、
「親分」
「八」
「こんな事では、人相まで判りますね」
「その上ゆうべは十五夜で宵のうちは昼のように明るい月夜だった」
「それでも親分」
フェミニストの八五郎は、お桃を助けることの方が、下手人を縛るより重要な仕事になっているのでした。
「これくらいの明りなら、家の者が梅吉と幾太郎を間違えるはずはない――梅吉と知って殺したのだ」
「親分、そんな意地の悪いことを言っちゃいけませんよ」
「意地が悪いわけじゃない。幾太郎もお仲も、内儀も、三郎兵衛も、お栄も下手人でないと決ると、こいつは厄介なことになるぜ、八」
平次の声には妙に厳しいところがあります。
「脇差はいったい誰のだい」
平次は今頃そんな事を聴くほど、得物を問題にはしていなかったのです。
「納戸の
「脇差を刺した時、少しは返り血が飛んだろうと思うが、奉公人の着物を見たかい」
「見ましたよ。血の付いたものなんかありゃしません」
「お桃は力がありそうだね」
「田舎で育っているから力もあるでしょうよ」
二人は囲いの中から出て、まだこんな事を言い合っております。幾つかの証拠は、真っ直ぐお桃の方を指しておりますが、あの純情らしい娘――
「もういちど考えてみようよ、八」
「何を考えるんで」
「まず第一に三郎兵衛は倅を殺すはずはないな。――内儀のお篠さんはどうだ」
「年寄りの側に居るんですもの、そっと人殺しに起き出すことなんか出来るものですか」
とガラッ八。
「えらいッ、八。そこまで気が付けば大したものだ」
「
「ところで、お栄は?」
「あの転婆娘は、眼で殺す方で、へッ、へッ」
「お前も殺されかけたろう。――その次はお仲だ。あの女は少しタチが悪いぞ」
「タチは悪くたって人なんか殺せやしません。御新造が憎くて、櫛を
「たいそう肩を持つようだが、大丈夫かい、八」
「
「えらいッ、いよいよ
「親分、冗談じゃありませんよ」
「それで臭いのが総仕舞か、――あとはお桃一人だ。気の毒だが、当ってみなきゃなるまいな。あの取り立ての桃のような、うぶな娘を見ると、俺は十手をチラ付かせるのが浅ましくなるが、どうだい八」
「御免
「役目は役目だ。一応引っ立ててみなきゃなるまいな」
二人は立上がりました。奥の一と間には、三郎兵衛と四人の女が一団になって、平次の来るのを待っているはずです。今となってはそこへ踏込んで、お桃を縛るほかに、
昼のうち
「待ちなよ」
「へ――」
「お桃を縛る前に、もう一人調べるのがあったはずだが」
平次は唐紙へかけたガラッ八の手を止めました。フト探索に盲点のあったことに気が付いたのです。
「もう一人?」
「ウン」
「誰で――」
「忘れているんだよ。あんまり人殺しと縁のないような人間だから。それ、まだ番頭の佐助というものがあるだろう」
「いけませんよ、親分。ありゃ
「でも人間には相違あるまい」
「人間の干物ですよ、六十三だそうで。――あっしも、もう三十何年経つと、あんなになるかと思うとこの世が情けなくなりますよ」
「いや、あの番頭なら、梅吉の悪事を知っているし、若旦那の幾太郎を手塩にかけて育てている。――それに、お桃が聴いたという、ゆうべの身代りの相談だって、どこかで聴いていたかも知れない」
「でも」
「間違いはないよ、八。お桃は一応下手人のようだが、幾太郎の事をあんなに思い詰めて、一生懸命幾太郎を
平次の推理はしだいに不思議な方へ発展して行きます。
「佐助だって同じことでしょう。若旦那に疑いのかかる場所で殺すはずはないじゃありませんか」
ガラッ八の反弁も
「待て、佐助が店から出て、裏の方に行くじゃないか」
「あッ、逃げ出すんじゃありませんか、縛ってしまいましょう」
飛出そうとするガラッ八、平次はその
「待て、あんな恰好で逃げ出す人間があるものか、トボトボと地獄へでも行く人の姿じゃないか。あッ
「親分」
「後の始末をした上で、死ぬ気だったんだ」
「引きとめましょうか、親分」
佐助の姿は真にトボトボと裏口の闇の中に消えて行くのです。
「――いや、放っておいちゃ悪い。あれを獄門台に載せるのは慈悲じゃねえ、八」
「ヘエ――」
八五郎は飛んで行きました。
平次は自分の胸の前に
「番頭さん」
「番頭さん」
二人ばかり小僧が
「番頭さんは裏へ出て行ったよ」
平次は闇の中を指します。
「
「ヘエ――」
何か駆り立てられるような心持で裏へ出ると、月の光の中に、真っ黒に立ったのは、大きな物置です。八五郎はそれに気が付かずに、お
黙りこくって、その開いた戸の中へ提灯を入れた平次。
「あッ、やはり」
何もかも手遅れでした。平次の探索が身近く来て、不意にお桃の方へ外れると知るや、忠義な番頭の佐助はそこで首を
帳場
近頃になって梅吉の悪事を知り、店の支配人としての責任を取るため、わざと囲いの中にいる梅吉を殺した。幾太郎を弄 んでいた悪事を知らせるためだった。
と書いてあります。算盤の事しか知らない佐助は、お艶のところにいるはずの幾太郎に疑いがかかるとは気が付かず、もとよりお桃など引合いに出るとは思いも寄りません。
たぶん何もかも済んで、潔く自首して出るつもりのが、機会をうしなってこんな事になったのでしょう。
「
そう言いながら銭形平次は、忠義な老番頭の死骸の前に両掌を合せました。
*
それから幾日か経ちました。
「親分、幾太郎はようやく目が覚めて、お艶と手をきって、お桃と一緒になったそうですよ」
早耳の八五郎が、嬉しいニュースを持って来てくれました。
「それで目出たし目出たしさ」
「危ないところでしたね、親分」
「お桃を縛った日にゃ、十手捕縄返上しても追付かなかったよ」
「のべつに
ガラッ八は妙なところで、平次をけしかけます。
「それでいいのさ、岡っ引が気が強かった日にゃ、どんな罪を作るか解らない。――出来ることなら俺は、佐助も助けたかったよ」
平次はつくづくそう言うのでした。