銭形平次捕物控

忍術指南

野村胡堂





「八、身体が暇かい」
 銭形平次は、フラリと来たガラッ八の八五郎をつかまえました。
「有難いことに、あっしが乗出すような気の利いた事件ことは一つもねえ」
「大きな事を言やがれ」
 二人は相変らずの調子で話を始めました。
「いったい何をやらかしゃいいんで、親分」
左内坂さないざかに忍術指南の看板を出した浪人者があるというじゃないか」
「聴きましたよ、成瀬九十郎なるせくじゅうろうとかいって」
「その道場へ、これから入門しようというのだ」
「ヘエー、親分がね、ヘエー、忍術の稽古けいこに」
 ガラッ八は滅法キナ臭い顔をして見せます。
「忍術も武芸のうちだというから、教えて悪いことではあるまいが、泰平の世の中に『忍術指南』の看板を出すのは何となく穏やかじゃねエ。それに忍術というものは、甲賀組こうがぐみとか伊賀組いがぐみとかが公儀から預かって、町人や百姓には稽古をさせるものじゃねえと思っているが、――左内坂のは甲賀流でも伊賀流でもなくて、霞流かすみりゅうとかいうんだってね」
「ヘエー」
「御奉行所でもひどく心配なすって、万一謀反むほんの企てでもあっては一大事だから、中へ入ってさぐるようにという申付けだ」
「ヘエ――」
「これから市ヶ谷左内坂まで行って、成瀬九十郎の門人になろうというのだよ、お前も付き合ってみちゃどうだ」
「そいつを稽古しておいたら、晦日みそかに借金取りが来たときなんか、恐ろしく調法だろうね、親分」
「馬鹿な事を言やがれ」
 無駄を言いながら二人は市ヶ谷左内坂に向いました。
 ある秋の日の夕景、山の手の街は、もう赤蜻蛉あかとんぼがスイスイと頭の上を飛ぶ時分のことです。
 成瀬九十郎の道場は――いや、道場と名のつくようなものではありませんが、表に出した真新しい看板の「霞流忍術指南」の六文字だけが目立つ程度の、至って貧弱なしもたやでした。
「御免」
 声のでっかいガラッ八が、精一杯の威儀を作っておとなうと、町内中の新漬しんづけの味に響くようなダミ声で、ドーレと来るべきはずの段取りを、どう間違えたか、
「ハイ」
 優しい声がして、格子と中の障子を、たしなみ深く開けたのは、十八九の淋しい娘です。
 神田の次平、五郎八と名乗って、忍術執心しゅうしんのことを申入れると、
「しばらくお待ちを」
 娘は一たん奥へ引込みましたが、やがて改めて二人を案内します。
「神田の次平、五郎八というのか。本来ならば町人に忍術は無用のものだが、まだ一人も弟子がつかないから、大負けに負けて門弟にしてやる。さア、ズーッとこっちへ通るがよい」
 おそろしく口の達者な四十男が、畳をいで、床板だけ敷き直した十畳敷ほどの道場に二人を通しました。
 娘の淋しく美しいに似ず、これはまたなんという馬鹿馬鹿しい忍術の先生でしょう。背は低い方、肉付も極度に節約して骨と皮ばかり、顔はしわだらけのくせに、眼と口だけが人並以上で、わけても爛々らんらんたる眼には、人を茶にしたような、虚無的な光さえ宿っているのです。
「有難うござります、なにぶん宜しくお願い申します」
 平次は用意の束脩そくしゅうを二人分、お盆を借りて差出し、その日は四方八方よもやまの話だけで帰りました。戸口を出るともう、
「親分、変な野郎じゃありませんか」
 ガラッ八の八五郎には、に落ちない事だらけです。
「何が変なんだ」
「天下を一と呑みにするような大きな事ばかり言やがる癖に、人間を見ると、沢庵たくあんになり損ねた干大根ほしだいこんみたいな野郎で――」
「だが、一と癖ありそうだな。俺は馬鹿にして行ったが、逢ってみて考え直したよ」
「ヘエ――、そんなもんですかね、――もっともあの娘は満更まんざらじゃねえが」
「娘の鑑定めききだけは、大した腕前だな、八」
「それほどでもねえ」
 稽古日は三の日と、八の日。教えることは他愛もありませんが、この成瀬九十郎という人物から、平次は不思議な力と情熱を感じておりました。
 三度目の稽古日、忍術に関するいろいろの口伝くでんや理論を聞いて、小さい課程の幾つかを済ませた後、別室に退いて、娘に茶を入れさせながらの話です。
「少し話して行くがよい。次平は生れながらの忍術使いだ、二三年みっちりやると、うまくなるぞ」
 成瀬九十郎はそんな事を言って、大満悦です。
あっしは、先生?」
 ガラッ八はそばから鼻を出しました。
「五郎八は駄目だ」
「ヘエ――?」
「生れながらの鈍根どんこんだな、お前は」
「ヘエー」
 まるっきり型無しです。
「ところで先生」
 平次は静かに切出しました。
「何じゃな、次平」
「近ごろ御府内を騒がしている山脇玄内やまわきげんないとかいう泥棒、あれはやはり忍術の心得があるのでしょうな」
「心得どころではない、忍術名誉の達人だな。南北両奉行の役人が、歯ぎしりしたところで、山脇玄内を縛ることなどは思いもよらない」
「それほど心得のある者が、押込夜盗の真似をするとは憎いじゃございませんか」
「いや、これにも仔細しさいのあることだろう。例えば、山脇玄内は義賊といったともがらかも知れぬではないか」
 成瀬九十郎はケロリとしてこんな事を言うのです。
「その義賊というのを、あっしは大嫌いなんで。貧の盗みは百文っても世間は許しゃしません、義賊と名が付くと、百両盗って十両か二十両だけ貧乏人にやり、あとは自分の贅沢ぜいたくつかっても、世間じゃ見上げたもののように言いはやします。あっしはそれが気に入らないんで」
「たいそうな意気込みだな、次平」
 成瀬九十郎はいても争わず、ただニヤリニヤリと笑っているだけです。


 山脇玄内の跳梁ちょうりょうはそれからまた一段と目ざましくなりました。襲われるのは大抵高家大名、でなければ大町人で、盗られる金も百両、二百両とまとまった口ばかり。それを貧乏人にバラくのが山脇玄内の道楽らしく、玄内の活躍が激しくなればなるほど、心なき江戸っ子は喝采を送るのです。
 中には、不義の富を積んでいる者を襲って、有り金を奪い取り、それを正統の持主にかえして溜飲りゅういんを下げたりすることもありました。が、どんな弁解があるにしても、山脇玄内が泥棒を働いていることには何の変りもありません。
 それから二三日経ったある晩、山脇玄内の増長は羽目を外して、市ヶ谷の尾州家びしゅうけ上屋敷に忍び込み、その金蔵に潜り込んで、千両箱を二つまで盗み出したのです。
 六十一万石の大大名、御三家随一の名家でも、これは捨て置くわけに行きません。当面の責任者御蔵番奥宮鏡太郎おくみやきょうたろうは、用人玉垣三郎兵衛たまがきさぶろうべえに伴われて神田の平次を訪ねて来ました。
「昨夜酉刻むつ(六時)から戌刻いつつ(八時)までの間、御門の締る前後、詳しく言えば御蔵の戸前に錠をおろす前後の、ほんのちょっとしたすきにやられた。――盗られた金は二千両だが、これが出て来なければ、役向き不取締で、この奥宮鏡太郎腹でも切らずばなるまい。拙者が腹を切れば、下役二人も生きてはいまい、その女房子供も路頭に迷うことであろう。いわば人間の命幾つにも及ぶ事件、何とかなるまいかの、平次殿」
 奥宮鏡太郎、畳の上に手を突き、分別盛りのひたいを埋めての懇願です。
「お大名方御屋敷に起ったことは、町方の者ではどうにもなりませんが、自由にお屋敷の中へ入れて下されば、なんとか工夫をしてみましょう」
 平次もツイ相手の真剣さに引入れられます。
「それは易いことじゃ、お屋敷へ自由に出入りのことは拙者が引受けよう」
 そう言ってくれるのは、用人玉垣三郎兵衛、これでどうやらこうやら段取りだけは出来ました。
「それではお供いたします」
 市ヶ谷の尾州邸へ出かけて行った平次は、奥宮鏡太郎の案内で、内外くまなく見廻りましたが、捕物の名人とうたわれた銭形平次の慧眼けいがんでも、何の証拠もつかむことは出来なかったのです。
 塀も高く見張りも厳重で、容易のことでは外から忍べそうもありませんが、屋敷の中には、まさか二千両の大金を持出すような不心得者があるはずはなく、それに金蔵の扉も土台も無事で、引っ掻きほどの傷もついていないところなど、近頃御府内を騒がしている、山脇玄内の手口でなければなりません。
「しばらく考えさせて下さい」
 さすがの平次も、そうでも言って引下がる外はなかったのです。
 相手が山脇玄内だとすると、これは容易ならぬ事になります。物を考えるともなく、平次の足癖は、そこからあまり遠くない、左内坂の成瀬九十郎のところを訪ねました。
「これは、次平ではないか、今日は稽古日ではないようだが」
 成瀬九十郎は少し腑に落ち兼ねた顔です。
「この辺を通ったついでと申しちゃ失礼ですが、ちょっとお邪魔をいたしました」
「邪魔どころか、退屈で困っている。ゆるゆると話して行くがいい、――ところで大層顔色がよくないようだが、何か心配事でもあるのかな」
「心配事なんかございません、――尾張様のお屋敷へ泥棒が入ったそうで、世の中には恐ろしい奴があるものだと、感心をしていたところでございます」
「別に感心するほどの事ではないではないか」
 成瀬九十郎は自若じじゃくとしておりますが、充分に好奇心を動かしている様子です。
「あれほどのお屋敷には厳重な見張り見廻りもあります。表裏の門は門鑑もんかんがなければ、ちょっとも通すことではありません」
「待て待て次平、――お前は成瀬九十郎の弟子になって、忍術の手ほどきぐらいは習ったはずだ。見張りがあろうと、門番があろうと、そこを通るのは何でもないくらいのことは知っているだろう」
「それは理窟で、――尾張様のお屋敷へ入るのは、そんな呑気のんきなものじゃございません」
「忍術は知らぬ他国の敵の陣中へも忍び込む術を教えるのだ。泰平の御代みよの大名屋敷へ入るなどは物の数でもない」
「でも」
「お前は見張りがあると言ったが、見張りはあったところで、見張り同士ではとがめもしないだろう。門鑑というものがあると言ったが、それは士分以下の者や、出入りの商人には入要でも、殿様が自分で通るのには門鑑は要るまい。他の大名方のお使者や、家中お歴々とても同じことだ」
「そう言えばそうですが、易々やすやすと御金蔵へ入るのは、係り役人の外には出来ないはずじゃございませんか」
 平次も釣られるともなく言いつのりました。
「その係り役人ならば、誰疑うものもなく、自由に金蔵へ出入りが出来るだろう」
「…………」
「すべて、物事に無理をしないのが忍術の極意だ。山脇玄内とかいう奴、何のたくみもなく、ぬくぬくと千両箱を二つまで盗み出したことであろう。相手は六十一万石の大大名だ、面白いではないか、次平」
 成瀬九十郎はこんな事を言って、カラカラと笑うのです。
「少しも面白くはございません。相手ば六十一万石の大名でも、その日暮しの貧乏人でも、物を盗んでいという理窟はございません」
「大層やかましい事を言うな、――だがな次平、その二千両をその日のものにも困っている、気の毒な貧乏人にわけてやるとしたら、山脇玄内の罪も半分は軽くなるというものではないか」
「そいつを、あっしは大嫌いで。高利貸をして信心事に金をつかうのも、泥棒を働いて施しをするのも、卑怯ひきょうな心持に変りはありません。そいつはみんな、悪事を働いて極楽へ行きたいといった、虫のいい人間のすることですよ」
「だが、山脇玄内はそんな気じゃあるまい。人の出来ないような事をして、溜飲を下げているのだろう。綱渡りをしてヤンヤと言われるように、――山脇玄内にしてみれば、泥棒もまた一つの芸事ではないかな」
「泥棒が、芸事? とんでもない事ですよ、先生」
 平次はもっての外に気色ばみます。
「それが悪いのかな、次平」
「尾州の蔵番奥宮鏡太郎とその配下の二人の役人が腹を切りかけていますよ」
「…………」
「二千両の金が戻らなきゃ三人の命を助けようはありません。三人の武家が腹を切ればその親も子も配偶つれあいも、路頭に迷うことは判り切っております。これが増長慢心した泥棒風情ふぜいの芸事のせいで済むでしょうか」
「…………」
「貧の盗みや出来心の盗みならともかく、これじゃ山脇玄内、盗った二千両に十倍の利子をつけて施しをしても、勘弁出来ないじゃありませんか」
「なるほどな、――お前の言うのももっともだ。その二千両が還りさえすりゃ、三人の者は腹を切らなくて済むだろう」
 成瀬九十郎は妙な事を言い出しました。
「それはもう、二千両の金さえ無事に還れば、役人方が腹を切るまでもありません」
「それならワケはないじゃないか」
「ヘエ――」
 平次は少しつままれそうでした。
「よく聴くがよい、次平」
「…………」
「俺は居ながらにしてその二千両を捜し出してやろう――山脇玄内といえども鬼神ではあるまい、物の隙間や、節穴から入れるわけはないのだ、――多分、酉刻むつ前後の門の閉まる前、出入りの一番混雑する時をねらって、家中の身分ある者と見せかけ、表門から威張り返って入ったことだろう」
「…………」
「金蔵の入口は、たそがれ時、係り役人の後ろに物の影のようについて入ったに違いない。役人の後ろにヒタと付いて、向うの方、蔵の中から物音を聞かせるのだ。役人はその物音に心ひかれて、あたふたと入ったに違いない」
「…………」
「山脇玄内はたぶん一と晩金蔵の中に泊って、幾万両とも知れぬ小判と一夜を明かした事だろう。あくる朝、係り役人が入って来て、千両箱二つ紛失したのに仰天している時、山脇玄内は誰はばからず金蔵を立出で、大手を振って表門から出たのだ」
「千両箱は?」
 平次は釣られるようにひざをすすめました。
「山脇玄内でも、二つの千両箱を両脇に抱えて、朝の表門をノコノコと出られる道理はない」
「…………」
 あまりの明察に、平次はあっけに取られて、この貧弱な忍術使いを見やるばかりです。
「後日折を見て取出すつもりで、屋敷の中に隠してあるよ。少し八卦はっけを置いてみようか、――さよう、――まず御金蔵のすぐそばだ、土に縁があって、石に縁があって、水に縁があるかな。――お前は大急ぎで取って返し、三人の小役人を安心させるがいい、腹を切ると痛いぞとな」
「先生」
 平次はさすがに仰天しましたが、いま尾張屋敷から出て来たことまで言い当てられたのです。しかし最早ぐずぐずしている時ではありません。挨拶もそこそこ、一気に屋敷へ取って返しました。
 今にも降り出しそうな村雨むらさめ模様の空合いです。


「二千両の行方ゆくえが判りました」
 奥宮鏡太郎のお長屋へ通されると、銭形平次はいきなりこんな事を言うのです。
「何、二千両の行方? どこだ」
「お屋敷から持出された様子はございません。もういちど御金蔵のあたりをお調べ下さい」
「さようか」
 奥宮鏡太郎、これも謹慎中の下役二人をつれて、あたふたと金蔵に駆け付けました。バラバラと一と村雨が来ましたが、もうそんな事などは考えてもいません。
「どこだ、平次」
「土に縁があって、石に縁があって、水に縁のあるところでございます」
「それだけでは解るまい」
「いえ、これで確かに判るはずでございます」
 平次は不安がる役人を促して、金蔵の四方をグルリと廻りました。土に縁があり、石に縁があるというと、土台石の下などは最も恰好かっこうですが、それでは水に縁がありません。
 金蔵の南の方に用水井戸がありますが、井桁いげたが栗材で、これは石に縁がなく、雨樋あまどいは水に縁があっても、あかですからかねに縁を生じます。
「どこだ、平次」
 せき立てられて、平次はしばらく途方に暮れましたが、雨脚は次第に繁くなって、平次も三人の役人もぐっしょり濡れてしまいました。
「あッ、これだッ」
 銅の雨樋から落ちた水が、御影みかげで畳んだ見事な暗渠あんきょの中にチョロチョロと落ちて行くのを見て、平次は思わず歓声を挙げたのです。濡れるのも構わず、泥の中に膝を突いて、暗渠に手を入れると、指先に触れたのは、固い箱が二つ、引出してみると、紛れもないそれは千両箱です。
「…………」
 物をも言わずに飛付いた奥宮鏡太郎、千両箱を抱えるようにしたまま、用人の玉垣三郎兵衛を呼んで、四人立会いのうえ蓋を払いました。
「あッ」
 中はさんたる小判、何の紛れもありません。
「有難い、平次殿。心ばかりの御礼もしたい、まず拙者長屋へ――」
 二つの千両箱を金蔵に納めると、奥宮鏡太郎は平次を誘います。
「とんでもない奥宮様、あれはあっしの働きじゃございません。あっしに教えてくれた人があるのです、――ほかにも急ぎの用事があります。御免下さい」
 平次は相手の引止めそうな様子を見ると、返事も聴かずにサッと引揚げました。
 行く先は左内坂の成瀬九十郎の道場。
 成瀬九十郎に逢って、どんな態度に出たものか、平次も全く思案が定まりません。思い切って縛ったものだろうか、相手の出ようを見たものだろうか、兇賊山脇玄内というのは、成瀬九十郎の変名に相違ないとにらみましたが、さすがの平次も、この忍術の師匠を縛るだけの証拠は一つも手に入らなかったのです。
「御免」
 思い切って飛込むと、中は空っぽ。突き当りの障子一パイに、書きも書いたり、淋漓りんりとした大文字が数行。

盗んだ金を身に着けるなら、成瀬九十郎こんな貧乏はせぬ、盗賊を芸事と思う思わぬは其方そちの勝手だが、構えて師弟の道を踏み違えまいぞ、穴賢あなかしこ
山脇玄内こと 成瀬九十郎
門弟次平こと 銭形平次殿へ

「ウーム」
 平次は思わずうなりました。あまりにも鮮やかな背負い投げです。


 それから五六日は何事もなく過ぎました。
「親分、あの娘はちょいと踏めたね」
 ガラッ八は思い出したように変なことを言います。
「どこの娘だ」
「へッ、通じないような顔をすることはないでしょう、――左内坂のそれ」
「大泥棒の娘だよ、あれは」
「親が泥棒だって、娘は大丈夫で」
「馬鹿だなア」
「あの加奈かなとかいった娘に、もういちど逢いたいような気がしますよ。ちょいと淋しいが良い娘でしたね、夕顔の花のようで」
「夕顔の花と来たね」
「物のたとえですよ、親分」
「それほど執心なら、あの娘を捜してくれ。娘を捜し出せば、親の隠れ家も解るというものだろう」
「やってみましょうか」
「江戸は広いぜ、八」
 そんな馬鹿なことを言っている時でした。
「あの、お客様ですが」
 平次の女房のお静が、片襷かただすきを外したまま、覗き加減に声をかけました。
「どこの方だい」
「名前はおっしゃいません、若い、御武家風のお嬢さんで」
「丁寧に通すんだ」
 平次はガラッ八と顔を見合せました。間もなくお静に案内されて来たのは、成瀬九十郎の娘お加奈――ガラッ八が夕顔の花に譬えた淋しい娘です。
「アッ、お前さんか」
 素ッ頓狂な声を出したのはガラッ八でした。
「親分、お願いがあって参りました」
 お加奈は部屋の隅の方に、慎ましく手をつくのです。
「どうしてこの平次のところへ来る気になりました」
「父から教わりました」
「?」
「父は常々、江戸中で怖いのは、銭形平次たった一人と申しておりました」
「…………」
 平次は少しくすぐったく首を縮めました。
「その父を親分はうたぐっているに違いございませんが、父は正直一途の浪人者で、山脇玄内などという泥棒ではございません」
 お加奈はピタリと言い切って顔を挙げるのです。
「その証拠は、お嬢さん」
「第一に、山脇玄内が尾州様、御金蔵に泊って二千両ったという晩、父はどこへも出ずに左内坂の宅に居りました」
「証拠は?」
「私が一緒に居りました、これほど確かな証拠があるでしょうか」
 これほど確かな証拠である代り、これほど不確かな証拠もありません。
「お気の毒だがお嬢さん、それは証拠になりませんよ」
「私が嘘を申すとでも――」
「とんでもない、お嬢さんを嘘つきにしていいものですか、――あっしはそれを本当にしても、かみお役人には通用しません」
 親は子のために隠し、子は親のために隠す――といった唐土もろこしの聖人の言葉を、平次は小耳に挟んでいたのです。
「どうしたらいいでしょう、親分」
 お加奈は詮方せんかたもない姿でした。
「本当の山脇玄内を捜し出して突き出すことですよ、ほかに工夫はありません」
「…………」
 お加奈は悲しそうでした。が、それ以上何にも言うことがなかったらしく、平次が突っ込んだ問までらして、そこそこに帰ってしまいました。
 その後ろ姿を見送って、ソッと八五郎に眼くばせすると、ガラッ八は少しあわて気味に、お加奈の後を追って、夕暮近い街に飛出します。
 それから一刻いっときばかり。
「ひどい目に逢わされたぜ、親分」
 ガラッ八は忿々ふんぷんとして帰って来ました。
「娘へちょっかいを出して、往来へほうり出されたんじゃあるまいな」
「冗談じゃありませんよ、後をつける度ごとにやられた日にゃ、十手捕縄の手前も面目ねえ」
「それじゃどうしたんだ」
「あの娘は後ろも見ずに歩くから、安心してけて行くと、いきなり神楽坂かぐらざか裏のしもたやへ入るじゃありませんか。めたと思って、しばらく経ってから入ってみると――」
「空家だろう」
「その通りで、正に一言もねエ」
 ガラッ八は額をてのひらで叩くのです。
「その家に、貸家札が貼ってあったのか」
「とんでもない、貸家札なんかありゃ、あんな娘っ子の籠抜かごぬけを逃がしゃしません」
「近所で訊いたかい」
「訊きましたよ。すると、近頃まで貸家だったが、ふさがったかも知れません、でも挨拶もないしお蕎麦そばも来ないから、まだ引っ越して来たわけじゃないでしょう――という話で」
「それじゃ用意した細工だ、何だって突っ込んで訊いてみなかったんだ」
「ヘエ――」
「ヘエ――じゃないよ。籠抜けだって、ただの空家へいきなり飛込めるものじゃねえ。その家の差配に訊いて、どんな人間が借りたか、いつ引っ越して来るか、よく確かめて、突っ込むなり、張り込むなり、せめて三日も頑張ってみるがいい。手前てめえの好きな夕顔の娘が、きっともう一度姿を現わすにちげえねえ」
 平次の推理は整然としております。
「なるほどね、――だがね親分、夕顔の娘は、夕顔の花の間違いじゃありませんか」
「馬鹿野郎、夕顔で気に入らなきゃ、冬瓜とうがんなり糸瓜へちまなり、勝手なように融通しておきやがれ」
「それじゃ親分、下っ引を五六人駆り出して、山脇玄内を手捕りにしても構やしませんか」
「いいとも、安心して手柄にするがいい」
「今度は、きっとうまくやりますぜ、親分」
「念の入った御挨拶だ、――俺だって遊んじゃいないよ、八」
 二人はそんな事を言って別れました。この上もなく仲の良い親分子分が、手柄を張り合うようになったのは、本当に珍しいことです。


 その晩、山脇玄内は、神楽坂の質屋、天城屋六兵衛あまぎやろくべえの家を襲いました。った金は千両箱が一つ、万事うまく行って、イザ逃げ出そうという時、目ざとい主人六兵衛に騒ぎ出され、大勢の雇人が、金盥かなだらいを叩いて急を告げたので、こんな時のために用意された町内の若者が数十名、天城屋の内外を始め、神楽坂の上下、ありい出る隙間もなく固めてしまいました。
 泥棒は、どこへ行ったか、しばらくは影も形も現わしませんでしたが、包囲網を引締めて、最後に猫の子一匹隠れていないと判った時、ツイ先刻さっき、町内の若い者の一人のような顔をして、大手を振って出て行った者があることに気が付きました。
「あッ、あの野郎だ、――あれが泥棒だったんだ。天城屋の提灯ちょうちんを持って、自分の顔をわざわざ見せるようにして行ったぜ」
「妙にニヤニヤした野郎だが、誰だかちょっと思い出せない顔だと思ったよ」
 そんな事を言ったところで、もう追っつくわけはありません。
 泥棒の逃げたのはそれでわかりましたが、盗られた千両箱は、泥棒が素手で逃げたにも拘わらず、家の中にも、路地の外にも、どこにも見えなかったのです。
 夜中から朝にかけて、大掃除ほどの騒ぎでした。天井裏も床下も、押入納戸なんど、落しの中は言うまでもなく、井戸の中までも見ましたが、千両箱に似寄りのものもありません。
 その翌る日の夕刻、フラリとやって来たのは銭形平次でした。
「あ、銭形の親分」
 顔を知ってるのが声をかけると、千両箱を捜しあぐねた人達は、地獄で仏といった安堵あんどの顔になります。
「山脇玄内に千両箱をやられたそうだね」
「それですよ、親分、――持って出た様子はないのに、盗られた千両箱は、どこを捜しても見付からないのです」
 天城屋六兵衛はしおれ切っておりました。
「俺にも判らないかも知れないが、ちょっと見せて貰いましょうかな」
 平次は家の中を一と通り見廻して、それから外へ出ました、わけても水瓶みずがめと下水と井戸に気をつけたのは、少しばかり訳のあることだったのです。
 今日――未刻やつ半(三時)頃、平次のところへ、手紙を一本抛り込んだ者があったのでした、ひらいてみると、

天城屋の千両は、水に縁があり、火に縁があり、空に縁がある
玄内

 こう書いてあるのです。
 平次はともかくも神楽坂まで飛んで来ました。別に自信があるわけではありませんが、この手紙の謎の文句から、何かしら金の隠し場所が判るような気がしたのです。
 水に縁のある場所は一と通り調べましたが、火に縁があるというと、銅壺どうこ鉄瓶てつびんの外はありません。その上、空に縁があるというと、全く想像を絶してしまいます。
「あ、解った」
 平次は不意に声をあげました。
「どこで? 親分」
「路地の足跡が深過ぎたし、ひさしの瓦が一枚壊れている、――梯子はしごを」
 平次の声に応じて、裏から梯子を持って来ました。それを踏んで大屋根の上に登った平次、天水桶てんすいおけを覗いて思わず歓声をあげたのです。
「あった」
 水に縁があって、火事のために用意して、常に大空を映す天水桶は、なるほど謎の言葉にピタリとするのでした。山脇玄内の手口を知っている平次は、思いも寄らぬ隠し場所を考えながら、少しの手がかりから、天水桶に眼をつけたのは手柄です。
「山脇玄内は大物はきっと二度に盗む。今晩を過したら、この千両も手に戻らないところだったかも知れない」
 平次がそう言うのは無理のないことでした。
「まずまず」
 とお祝いの用意をするのを、平次は振りもぎって帰って来ました。こんな事で人に褒められたくはなかったのです。――泥棒の山脇玄内から、謎の手紙を受取ったと言ったところで、誰がいったい本当にするものでしょう。
 その翌る日ガラッ八は、鼻高々と平次の家へやって来ました。
「親分、解りましたよ」
「何が?」
「何が――は情けないな。成瀬九十郎、又の名山脇玄内と、その娘お加奈の住んでいる家ですよ」
「どこだ」
「あの空家のツイ裏」
「そんな事だろうと思ったよ」
「相変らず貧乏臭く暮しているから、あれが大泥棒とは、誰だって気が付くめえ」
「それを気が付いたんだから、八五郎は大したものさ」
「からかっちゃいけません、――今晩手入れをして、一ぺんに縛ろうと思うがどんなものでしょう」
 八五郎はもう、山脇玄内を生簀いけすの魚のように考えている様子です。
「それもよかろうが、した方が賢いかも知れないぜ、八」
「なぜ、親分?」
 八五郎の手柄などをねたみそうもない平次が、この手入れにはっきり反対するのは不思議なことでした。
「だって、こう言って来てるぜ、――こいつはいつもの手紙と筆蹟は違っているが、言うことは抜き差しのならねえ話だ。〈今夜山脇玄内は海真寺かいしんじ本堂を襲い、本尊弘法大師自刻じこくの坐像を盗み出すはず。これは玄内は大師の帰依者きえしゃだが、海真寺の住職は戒律を保たず、堕落僭上だらくせんじょうの沙汰があるので、尊い本尊を預けておけないからだ〉と書いてある」
「ヘエ――、あれが大師の帰依者で?」
「とにかく、俺は海真寺へ行かなきゃなるまい。どうだ、一緒に行ってみる気はないか、八」
「そいつは無理ですよ、親分」
「何が無理なんだ」
「今夜という今夜、八方から網を絞って、山脇玄内を隠れ家から挙げることになっているじゃありませんか」
「じゃ、勝手にするがよかろう」
「ヘエ――」
「その代り、山脇玄内を縛ったら、牛込見附の番所へ来い」
「ヘエ――」


 平次が海真寺へ行ったのは、もう酉刻むつ過ぎでした。
 門前の花屋を覗いて、寺内を一と廻り、庫裡くりから本堂へ入って行くと、
「あ、銭形の親分さん、御苦労様で」
 檀家総代、世話人、寺男の一隊が、住職から小僧を交えて、グルリと本尊の大師像を取囲み、ずながら次第に深くなる夜を迎えているのでした。山脇玄内警告の一条は陽のあるうちに平次から寺へ通じておいたのです。
 本尊は等身大の坐像、黒々と時代の付いたのに、金襴きんらん袈裟けさを掛け、座布団の上に据えて、大厨子おおずしの中に納め、その前面は諸人の無遠慮な視線を避けるために、にしき几帳きちょうで隠してあったのです。
「ちょっと拝まして貰いましょうか」
 ズカズカと本尊の前へ行く平次。
「あ、それはなりません。当寺の本尊は秘仏になって、年に一度しか開帳しないことになっております」
 住職はあわてて止めました。
「そんな事を言ったって、盗まれた日にゃ何にもなりませんよ」
「だが――」
 住職の渋るのも構わず、平次は、
「遠くからちょいと拝むだけですよ、――あっしはここに居るから、小僧さん、その几帳をほんの少し開けて見せて下さい」
「…………」
 小坊主は住職の顔を眺めながら、って反対の様子のないのを見定めて、厨子の几帳を半分ほど開きました。
「もうたくさん、――なるほど結構な大師様らしい。泥棒調伏ちょうぶくのために、うんと線香をあげて下さい、――線香よりは、抹香まっこうの方がいいかも知れない」
 平次はそんな事を言い捨てて、庫裡の方へ行きましたが、やがて一と掴みの赤唐辛子を貰って来て、それをよく揉んで、盛んに燃えている香炉の中へパッと拡りました。
「あッ、これはたまらぬ」
 驚いたのはその座にいる十幾人の人達でした。抹香と唐辛子にくすべられて、き込みながら逃げ出すと、それよりも驚いたのは、本尊の弘法大師様坐像でした。――いや弘法大師の坐像になりすましていた泥棒と言った方がいいでしょう。続けざまに咳き込みながら、
「なんという事をするのだ」
 厨子から飛出すと、戒壇かいだん木魚もくぎょを踏んで、パッと外へ――。
「待て待て、山脇玄内」
 続く銭形平次、ツ、ツツと前へ駆け抜けて、パッと両手を開いたなりに突っ立ちます。
「邪魔だッ」
「御用だぞッ」
「何をッ」
 二人はパッと合って、もう一度左右に飛退きました。大師像に化けた曲者くせものの手には匕首あいくちが、平次の手には十手がひらめきます。
 二度、三度、十手と匕首が鳴りました。平次にぬかりはなかったにしても、この曲者は思いの外の腕前です。
あかりだ」
 平次は十手を左に持ち替えながら呶鳴どなりました。相手は稀代きたいの忍術使いです。平次も一と通りの稽古をしたお蔭で、その術の発展だけは、巧みに妨げましたが、なにぶん薄暗い寺の庭で、いつ、どこへ姿を隠されるか解りません。
 灯の来る前、曲者はもう一度平次に飛付きました。からくも左手の十手を働かせて、その襲撃を退けた平次、右手が高々と挙がると、得意の投げ銭が、闇をって飛びます。
 一つ、二つは避けましたが、三つ目に頬を打たれ、四つ目に唇を打たれ、五つ目に右手の指を打たれて、思わず匕首を取落したところへ、
「御用だッ」
 平次の体当り見事にきまって、曲者は石畳の上にどうと倒れました。
「それッ」
 と折重なった野次馬、一瞬ののち銭形平次は、兇賊山脇玄内を、雁字がんじがらめにして、ほこりを払っておりました。ちょうどその時、庭一パイに持出された灯で見ると、山脇玄内の顔は、小柄でしわだらけで、眼と口が大きくて、干大根のようで、――成瀬九十郎そっくりです。
 が、曲者は口をつぐんで物を言わず、平次もまたそれを聴こうともしません。
「本尊様はどこだ」
「どこへ持出した」
 住職と檀家総代は、今さらながら空っぽのお厨子に気がつきました。
「御本尊は寺内にあるに違いありません。それはこの曲者の手口です」
「寺内? どこでしょう、親分」
「おいおい判るでしょう」
「どうしてお厨子の中なんかへ曲者は入っていたのでしょう、親分」
 いろいろの質問は八方から飛びます。
「薄明るいうちに御本尊を持出して、寺内に隠し、しばらく人目を誤魔化ごまかすために、自分で本尊になりすましたのでしょう」
「どこに持出したのでしょう」
「捜して下さい」
 それから半刻ばかり、寺の内外をのこるくまなく捜しましたが解りません。曲者はそれを冷やかに見て、一句も言わず、折があらば逃げ出そうとしている様子、平次は少しも目が離せなかったのです。
「とにかく、寺内にあるに違いない。気長に捜したら出て来るだろう」
 平次はあきらめて寺を立出でました。縄付を追って、門前まで来ると、花屋には灯が点いて、店番の老爺おやじが、褞袍どてらを着て頬冠ほおかむりをしたまま、つくねんと坐っているのですが、その恰好が一刻いっときばかり前に、平次がやって来たときと寸毫すんごうの変りもありません。生きた人間が、そんなに長い間、寸毫も形を崩さずに、生温かい秋の夜を、褞袍を着ていられるものでしょうか。
「あの老爺だ」
 平次が指さすと、二三人の人が飛付くと一緒でした。頬冠りを取り、褞袍をぐと、中から現われたのは、のみの香も尊く、慈眼じがんを垂れた大師の尊像ではありませんか。
「老爺をどこへやった」
 続く不安はそれでした。
「物置の中で本当に眠っているよ」
 曲者は始めて口を開きました。
「それから、もう一つ、その御本尊の胎内を見て下さい」
 平次はたったそれだけの事を言って、曲者を追っ立てて牛込見附へ急ぎました。曲者が等身大の木像に執着するのは、何か理由があるのではないかと思ったのです。
 果して、木像の中から金無垢きんむくの大変な仏像が現われました。大師入唐にっとうのとき、請来しょうらいしたのではあるまいかという――これは後の話――。


 牛込見附の番所に来ると、ガラッ八は得々として迎えました。
「親分、首尾よく挙げましたよ」
「何? 誰を挙げたんだ」
「山脇玄内親娘おやこですよ」
「馬鹿野郎」
「あッ、あれは、親分」
 平次の後から下っ引が追い立てて来た曲者を見ると、さすがにガラッ八の顔色が変りました。
「山脇玄内はこの男だよ」
「すると、あれは?」
「成瀬九十郎さ」
「…………」
 ガラッ八の眼が飛出さないのが本当に不思議なくらいでした。
 番所の中にはガラッ八と五六人の下っ引に縛られた成瀬九十郎が、娘のお加奈と一緒に、割り切れない顔で運命を待っておりました。
「お、平次」
「いや、次平ですよ、――五郎八がとんだ粗相をしたそうで、まア、勘弁して下さい」
 平次はそう言いながら、お加奈と九十郎の縄を解いてやります。
 その時、平次の後ろから引立てられて来た曲者が、灯の中へ顔を出しました。
「お、兄上、とうとう」
 成瀬九十郎の口から出た言葉は、何もかも説明してしまったのです。
「九十郎、俺を訴人したのは、お前だな」
 山脇玄内の顔色がサッと変ると、激しい言葉がれました。
「いや違う、私ではない」
 成瀬九十郎の、これが精一杯の弁解です。
 その間に、ホロホロと涙をこぼしているのは、娘の加奈だけでした。その深刻な悲嘆の理由わけは、たぶん父も伯父も知らなかったでしょうが、平次だけは判然はっきり知っておりました。山脇玄内という兇賊を自分の伯父と知るよしもないお加奈は、父に来た手紙を見て、――今夜海真寺を襲い、本尊を盗み出す――企てのあることをさとって、父を恐ろしい疑いから救うために、平次に密告の手紙を出したのです。
 山脇玄内と成瀬九十郎は、それっきり引離されました。淋しく家路をたどる親娘の後ろから、平次は追いすがり加減に、
「成瀬先生、また参りますよ。忍術の稽古に」
 こう声を掛けると、
「いや、もう忍術指南はしじゃ」
 成瀬九十郎は振り返りもせずに応えて、月のない神楽坂を登って行くのです。

     *

「親分、あっしには少しも解らねえ、あれは一体どうしたことなんで?」
 縄付を引渡した帰り、ガラッ八は平次に絵解きをせがみました。
「俺も解らなかったよ、――だが、成瀬九十郎という人間の人柄と、娘の人柄にどうも悪人らしくないところがあると思ったんだ。最初は成瀬という人を、山脇玄内と思い込んだのはお前と同じことさ」
「ヘエ――」
「岡っ引は証拠を揃えることも大事だが、人間を見ることも大事だよ。――あの成瀬という人は、兄の山脇玄内のやり口をよく知っていたんだ。同じ霞流忍術の達人で、兄弟だもの、それは無理のないことさ。尾州の二千両、天城屋の千両、みな兄に罪を犯させたくないから、俺に教えて捜し出させたんだ」
「ヘエ――、それほど賢い人間が、何だって忍術指南の看板などを出して、上役人の目に止まるような事をしたんでしょう」
 ガラッ八の疑問はなかなか突っ込みます。
「それが解らないばかりに苦労したよ、――笹野の旦那のお言葉添えで、甲賀町の忍術者のところへ行って聴くと、霞流の忍術というのは大変珍しいもので、天下にこの流儀を伝える者は山脇大膳だいぜんという人の門人二三人しかないということが解ったんだ」
「…………」
「成瀬という人が、霞流忍術指南という看板を出したのは、江戸中のうわさにして、仲間の者を呼ぶためだと見当をつけたが、後で考えると、これは兄の山脇玄内を呼ぶための苦しい計略だったんだ、――兄の山脇玄内が、泥棒になって江戸中を荒らしている。それは捨て置けないから、何とかして兄を呼び寄せて意見をし、本心に還らせるつもりのところへ、俺とお前が入門したんだ」
「ヘエ――」
「向うは平次に八五郎と知って入門させた。それからはお前の知ってのとおりさ、――たぶん、左内坂を引払う頃、願いがかなって兄に巡り逢ったことだろうが、玄内は弟の意見など聴き入れなかった」
「なるほどね」
「娘のお加奈が――今晩は海真寺の本尊を盗むつもり、放埒ほうらつな住職をこらしめるためだ――とか何とか書いた玄内の手紙を見て、それがまことの伯父とも知らずに俺に教えたのだろう」
「お加奈は泣いていましたぜ、可哀想に」
「俺はただ泣かせただけだが、お前は縛ったじゃないか。いずれにしても夕顔の花とは縁がないよ、諦めるがいい」
「へッ、有難い仕合せさ」
 ガラッ八はペロリと舌を出しました。調子は道化どうけておりますが、顔に漂う一抹いちまつの哀愁は覆うべくもありません。





底本:「銭形平次捕物控(十)金色の処女」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第九巻」中央公論社
   1939(昭和14)年8月5日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2017年10月10日作成
2019年11月23日修正
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