銭形平次捕物控

百物語

野村胡堂





 公儀御用の御筆師ふでし室町むろまち三丁目の「小法師甲斐こぼうしかい」は、日本橋一丁目の福用ふくもち常盤橋ときわばし速水はやみと相並んで繁昌しましたが、わけても小法師甲斐は室町の五分の一を持っているという家主で、世間体だけはともかくも、大層な勢いでした。
 江戸中に筆屋の数は何百軒あったかわかりませんが、鉛筆も万年筆も無い世の中ですから、これが相当以上にやって行けたわけです。そのうち公儀御用というのが七軒、墨屋が三軒、格式のやかましかった時代で、大抵出羽でわとか但馬たじまとか豊後ぶんごとか、国名くになを許されて、暖簾のれん名にしております。
 先代の小法師甲斐は昨年の春亡くなり、番頭弟子の祐吉ゆうきちが、家付きの娘お小夜さよと一緒になって家を継ぎました。祐吉は筆をこしらえることは下手ですが、何となく才覚のある男で、先輩の番頭理三郎りさぶろう左太松さたまつを抜き、朋輩にも、親類方にも異存がなくて、二十五の若さで主家の跡取りに直りました。
 もっとも、先代小法師甲斐には、甲子太郎きねたろうという、今年二十八のせがれがあり、四年前から放埒ほうらつこうじて、勘当同様になっておりますが、先代の実子には相違なかったので、妹のお小夜に婿入りした祐吉は、暖簾名の「小法師甲斐」を継ぐことだけは遠慮しておりました。
 そんな事は、いずれ話の進行につれて判ることです。それより、いきなり事件のクライマックスなる「百物語」のことから、この物語を始めましょう。

「ね、旦那、先代の大旦那が亡くなられてから、もう一年以上経っているでしょう、いつまでも湿々じめじめしていたって、追善供養の足しになるわけじゃありません。このお盆には一つ、素人芝居でもやって、町内中を陽気にして、うんと人気を引立てようじゃありませんか、はばかりながら二枚目と立役には事を欠きませんよ、ヘエ」
 町内の油虫、野幇間のだいこのような事をしている赤頭巾の与作よさくが、こんな調子に煽動したのは、六月の末でした。
「今から素人芝居の仕度じゃ、盆の間に合わないよ、もっと気のきいた、キャッキャッと来るような遊びはないものかね」
 祐吉も満更まんざらそんな事の嫌いな柄でもありません。
「キャッキャッと来るのなら、百物語なんかどんなもので」
「何だい、その百物語――てえのは」
「近頃大変な流行はやりですぜ。行灯あんどんを二三十持出して灯心を百本入れ、煌々こうこうと明るくした部屋で、怪談を始めるんで。話が一つ済むと灯心を一本引く、十本二十本と灯心を引いて、九十九本引いた後が大変で」
「なるほどね」
「百本目の灯心を引いて真っ暗にすると、何か怖いことがあるという趣向なんで」
「百も怪談をやっていると、夜が明けるよ、天道てんとう様のカンカン照るところへ、何が出られるんだ」
 祐吉はすっかりお茶らかしております。
「そこをその、十にするんで」
「フーム」
「百物語という触れ込みで、行灯の代りに燭台しょくだいを十だけ出して置いて、百目蝋燭ろうそくを一本ずつ消して行く、九つ目が大変で」
「百物語の代りに十物語でも、お化けが出てくれるかい」
「日当次第のお化けなんで、あかりなんか幾つだって構やしません」
「なるほどね」
「さんざん怪談を聞かされた挙句、たった一つ残った灯を消されると、女子供の騒ぎというものはありませんよ」
「そうだろうな」
「キャッキャッとかじり付きますよ」
「なるほどそいつは面白そうだ、早速やってみるとしようか」
 祐吉がその気になれば、鶴の一声でした。
 筆屋の「小法師甲斐」、――格式のある家の店から居間を打ち抜いて、三日目には百物語の催しが始められました。
 家中の者十六人、それに町内の者が二十人ばかり、女が多くなるように集めたのは、与作の大味噌でした。
 話は与作が真打しんうちで、町内のもっともらしいのが五六人、番頭の左太松と、倅の甲子太郎と、出入りのとびの頭寅松とらまつと、小僧が二人――吉之助きちのすけ宮次みやじが、大切おおぎりの道具方に廻りました。存分に脅かして、町内の娘達をキャッキャッと言わせようという計画です。


 百物語は、面白可笑おかしく進行しました。町内の話上手が、次から次と、急ごしらえの高座に上がって話し、話し終ると、小僧が十基の燭台にけた蝋燭を、一つずつ消しますが、始めのうちは、その計画の物々しさと、話の馬鹿馬鹿しさに、二た部屋に溢れる聴き手も、ただもうゲラゲラと笑うだけです。
 席の真ん中には、主人の祐吉が、女房のお小夜とそれに番頭の理三郎と野幇間の与作を引付け、大して面白そうもなく聞いております。怪談は三つ、五つ、七つと進みました。あと燭台の灯が二つという時は、さすがに不気味さが加わって、もうゲラゲラ笑う者もありません。
 二つの灯のうち一つが消されると、残るのは、高座の右の灯が一つだけ、聴衆はさすがに固唾かたずを呑みました。
「えー、手前の話は青葉ヶ池の怪談、三つ巴の生首が飛んだという恐ろしい因縁話、――これは師匠から厳重に申渡された封じ話だ。この話をすると、何かキッと不思議なことがある」
「…………」
 聴衆は完全に牽付ひきつけられました。与作の話は、まことに荒唐無稽のものですが、子供達や女どもにとっては、話の真実性などは問題でなく、たった一つ残った燭台の消えるのと、その後にどんな事が起るかの、好奇心と心配で一パイだったのです。
 与作の話は巧妙を極めました。時々は仕方まで入って、さていよいよ話が済むと、たった一つ残った、最後の灯も消されてしまいます。
「あッ」
 誰やら悲鳴をあげた者があります。
 部屋の中は真っ暗、誰がどこに居るかさえ判りません。男達はこの後で出るはずの御馳走酒が楽しみで我慢をし、女達は、逃出そうにも出口をふさがれて、どうすることも出来ないままに、不気味さを我慢して、成行きを眺めております。
 恐怖が発火点に達した頃、――
「あッ――怖いッ」
 誰やらが悲鳴をあげました。どこからともなく、薄灯うすあかりがポーッと射した高座の下のあたり、鼠色ねずいろの着物を裾長すそながに着た、変な者がヒョロヒョロと立っているではありませんか。
 ゆらりと頭をあげると、一杯に振り冠った乱髪の間から、鉛色の顔が少し見えます。
「わーッ」
 部屋の中からまた悲鳴があがりました。続く大混乱、三十人あまりの人間が、出口を探して三方に渦を巻き、互に肩を突き、足を押え、袖を引き、無我夢中の大騒動です。
 その騒ぎの中にお化けは、フラフラと歩き出しました。胸のあたりに手を泳がせたおきまりのポーズで、高座の前から客席の中へ、何の遠慮もなく乗出して来るのです。
「あれ、もうおしよ、冗談じゃない」
 年増女らしいのが、娘達の騒ぎを見兼ねて声を掛けました。そのきかん気らしい声も、かなり転倒しております。
 その声を合図のように、幽霊を照していた微光がハタと消えました。うるしのような闇の中に、鰌桶どじょうおけのような混乱は際限もなく続く中に、舞台監督は、何やら次の計画に段取りを進めている様子です。
 ほんの煙草二三服の後、先刻さっきの微光はよみがえりました。たぶん二階の階子段はしごだんの上のあたりから、泥棒龕灯どろぼうがんどうに風呂敷を被せてこっちを照しているのでしょう。
 それはともかく、二度目の微光に、思わず宙を仰いだ三十六人の眼は、あまりの恐怖に凍り付いてしまいました。
「きゃーッ」
 という悲鳴、二三人目を廻したのもある様子です。
 店と仏間と居間とそれを連絡する土間とを打ち抜いたところに、三十六人ぎっしり詰められておりますが、道具方が工夫を凝らして、誰やらが絶えず仏壇のかねを鳴らし、名香の匂いが、部屋中に瀰漫びまんするように仕組まれてありました。
 そればかりではありません。不意に射してきた微光の中に、思わず挙げた眼の前、ちょうど二階の手前、そこばかりは天井が二間半ほどの高さになっているところへ、鼠色の怪物が、黒髪を振乱し、身体を苦悩にゆがめて、蜘蛛くもの巣に掛った巨大な昆虫のように、宙にもがき苦んでいるのです。
 それは実に言いようもない不気味なものでした。高さはちょうど一間ばかり、天井と床との中間で、人間の手の及ばないあたりに、幽霊が虫のようにうごめいているのです。誰が考え出したか知りませんが、百物語の余興として計画したものなら、あれほど素晴らしい工夫アイデアはありません。
 下の人間どもの混乱は言語に絶しました。女も子供も、大の男までが、芋を洗うような騒ぎです。どうかしたら、この人の幾人かは、計画的に騒いで、騒ぎを大きくしているのかも知れません。
 幽霊の身体は、空中にキリキリと廻りました。幽霊が宙に身体をねじ曲げると、綱のひねりが戻って、またキリキリと反対の方に廻りました。
「あッ、首、首を吊っている。早くおろせッ」
 気違いじみた声を張り上げたのは、若主人の祐吉でした。が、天井にいる宙乗りの仕掛けの方の係りは、それさえも一つの威脅おどかしと思ったのか、幽霊の身体をあべこべに、二寸、三寸、五寸、一尺と上の方へ引上げます。幽霊は蜘蛛の糸に釣られた虫のように、クルクルクルと右へ左へ廻りました。
「早くおろせ、――左太松どんは、首を吊っているじゃないかッ」
 祐吉は呶鳴どなりつけました。が、精一杯の声が、あまりの事に転倒したものか、のどにこびり付いて、半分も意味が通じません。
「灯をつけろ、――左太松が死ぬ、――早く、早く」
 祐吉は立上がって必死と呶鳴りました。やがてその意味が通じたものか、宙に吊られた幽霊の身体は、少し乱暴に、ドタリと降ろされました。
 同時にお勝手から手燭を持った小僧が入って来て、幾つかの燭台に灯をけました。
「…………」
 が、誰も物を言う気力はありません。敷居の上に投出された幽霊の身体は、この時もう死んだ魚のように、長々と伸びているのです。


「親分、幽霊が殺されたって話をお聞きですかえ」
 ガラッ八の八五郎が、キナ臭い鼻を持って来たのは、そのあくる日の朝でした。
「幽霊が殺された? ヘエ――、そいつは変っているネ。人間が殺されると、執念深い奴は幽霊になるそうだから、幽霊が殺されたら、人間にでもなるか」
 銭形の平次は不景気な朝顔の鉢を縁側に並べて、それでも感心に咲いてくれた花を眺めているのでした。
「その通りですよ、親分」
 八五郎は少しばかりきおい込みました。
「サア解らねえ、幽霊の一じくを殺して飲んだといったような手数のかかる洒落しゃれじゃあるまいな」
 平次はまだ本気になりません。
「じれったいネ、そんな気楽な話じゃありませんよ。室町三丁目の筆屋、小法師甲斐の家で百物語をやっていると、大詰に幽霊が出た。その幽霊が殺されて足を出したという話で――」
「なるほど少し筋になりそうだな。足を出したんなら、幽霊が殺されて人間になったにはちげえねえ。一体その幽霊は誰だったんだ」
「番頭の左太松という二十七の若い男、――そいつが百物語が済んで、灯がみんな消えるのを合図に、芝居の幽霊の装束で出て来て、あっと言わせる趣向だったんで――」
「フーム」
「出て来てあっと言わせたまでは筋書通りだった。が、いざ宙乗りとなった時、腰へ結ぶはずの綱がくびに巻き付いて、宙乗りが首吊りになったそうで」
「少し変だな、八」
「自分で頸をくくる気でもなきゃ、そんな馬鹿な事をするわけはありません」
「頸を縊るのに、そんな手数な装束をして、皆んなの前で恥をさらすわけはねえ」
「だから変じゃありませんか、ね、親分」
「もう少し順序を立て、詳しく話してみるがいい。そいつはとんだ面白いことかも知れないぜ」
 平次の職業意識はようやく発火点に達しました。注意が朝顔から離れると、ガラッ八の方にグイと身体をねじ向けます。
「詳しくも手短にも、それっきりで、――常盤橋の猪之吉いのきち親分が行って、夜っぴて幽霊殺しを捜している様子ですよ」
「猪之吉兄哥あにいなら、強引に行くだろう、誰を縛ったんだ」
「第一番に縛られたのは先代小法師甲斐の倅甲子太郎、親父の甲斐が生きているうちは、勘当同様で出入りの出来なかった男だ――こいつが幽霊の宙乗りを手伝う役だったそうで、二階から射す灯の消えてしまった時、天井からスルスルと下がって来る綱を、幽霊の腰のかんに引っ掛けて結ぶはずだったが、どう間違えたか、幽霊になった左太松の首へ引掛けて結んでしまった、――恐ろしくそそっかしい野郎で。合図と一緒に、二階に居るとびの頭の寅松と、吉之助、宮次の小僧が二人、はりへ通した綱の端っこを、滅茶滅茶に引っ張った」
「…………」
「左太松の幽霊野郎は、首に綱をつけたまま宙に吊上げられて、声も立てずに死んでしまったそうですよ。若主人の祐吉が気が付いて、下へ降ろさせた時はもう息もなかった。もっともすぐ手が廻って、水でも呑ませるとか、手足を動かすとか、心得のある者が手当をしたら、息を吹返したかも知れないが、三十六人という多勢の人間が居る癖に、そこまで気のつくのは一人もなかった。髪を振り乱して――こいつはもっともかつらだそうだが――泡を吹いて敷居際に引っくり返った幽霊を見ると、しばらくは手をつける者もなかったそうで」
「誰が一体先に介抱したんだ」
「それも若主人の祐吉ですよ。女子供は逃出してしまったし、他の者は面喰らって何にも出来なかったそうです」
「それっきりかい」
 と平次。
「もう少し突っ込んで聞出そうと思ったが、猪之吉親分がイヤな顔をするから、いい加減にして引揚げて来ましたよ」
「そいつは惜しかったね。滅多に人の縄張に手を出す俺じゃねえが、幽霊殺しは面白いな」
 平次はひどく好奇心をあおられた様子ですが、きっかけがないと、進んで乗出すわけにも行きません。


 事件はそれっきり、平次の手から遠く離れてしまいそうでした。が、親分の好奇心の燃え立つのを見ると、ガラッ八の八五郎は室町の「小法師」へ行って、その良い鼻を働かせ、とうとう番頭の理三郎をおびき出してしまいました。
「番頭さん、そんなに屈託しているより、銭形の親分にでも相談してみちゃどうだい。自慢じゃねえが、親分は江戸開府以来といわれる捕物の名人だ。本当に罪のないものなら、きっと助けて下さるにちげえねえ」
「そうでしょうか、銭形の親分さんは、若旦那の甲子太郎様を助けて下さるでしょうか」
「まア行ってみるがいい」
「常盤橋の親分さんに悪いようなことはないでしょうか」
「そんな事を言った日にゃ、甲子太郎の口書爪印くちがきつめいんを取られて、話が面倒になるぜ」
「それじゃ、銭形の親分さんにお引合せ下さい」
 四十男の理三郎は、用心深い代りに、いざとなると性急せっかちでした。八五郎を案内に、神田の平次の家へ来たのは、事件があってから三日目の昼過ぎ。
「親分、小法師の番頭さんに逢ってやって下さい。若旦那の甲子太郎を助ける気で、夢中ですから」
 八五郎はいっぱし手柄のつもりで、あごでております。
「馬鹿野郎、つまらねえことをしやがる、猪之吉兄哥はいい心持じゃあるめえ」
 そんな事を言いながら、この事件の魅力はかなり強く平次を誘惑します。
「そう言わずに親分さん、若旦那を助けてやって下さい。先代の大旦那が亡くなる時、この私を枕元に呼んで、――甲子太郎の馬鹿が直るように、何とか意見をしてくれ、決して憎くて勘当をしたわけじゃない。心掛けさえ世間並になれば、この小法師甲斐の跡目を継がせてやるものを――そうおっしゃって涙を流しました。世上の思惑、親類の義理、勘当したと言っても、大旦那は心から甲子太郎さんを可愛がっていたのでございます」
「…………」
 番頭の理三郎が、平次の前にキチンと手を突いて、こう口説くどいて行くのを、平次は途方に暮れた形で見詰めております。
「若旦那の甲子太郎様は、御大家ごたいけの坊っちゃんらしい、我儘わがままな方で、ずいぶん道楽もしましたが、人などを殺すような、そんな悪い方じゃございません。万一無実の罪で処刑おしおきを受けるようなことになっては、先代大旦那様からくれぐれも頼まれたこの私が済みません。親分さん、お願い――どうぞ、若旦那を助けてやって下さい」
 理三郎は涙さえ流して、本当に平次を伏し拝むのです。
「なるほど、お前さんのそう言うのももっともだ。何とかしてやりたいが、確かな証拠があって、猪之吉兄哥が縛って行ったものを、いきなり飛出して助けるわけには行かねえ、――こうしようじゃないか、お前さんからもう少し詳しい話を聞いた上、八丁堀の旦那方のお言葉でも頂いて、それから乗出して行くとしようじゃないか」
「どんな事でも申します、親分さん」
「それじゃ第一番に、――今の主人あるじの祐吉さんを、誰が小法師の跡取りに直したんだ」
「親類方でございますが――」
「――が、どうしたんだ。奥歯に物の挟まったような事を言っていちゃ、気の毒だが若旦那は助からねえよ」
「大旦那様が亡くなると、番頭の左太松どんと祐吉どんの二人のうち、一人をお嬢様と娶合めあわせて、跡取りにするということになりましたが、その時左太松どんはおくにという女とねんごろになっていて、お嬢さんの婿には、祐吉どんとまりました」
「お嬢さんや左太松には不服はなかったのだね」
「お嬢さんも、左太松の方が好きだったかも解りませんが、お国と一緒に、外へ世帯を持っていちゃ、どうすることも出来ません。それに左太松もお嬢さんの婿には、朋輩の祐吉どんの方がいいと、自分の口から勧めたくらいでございます」
「それじゃ、どっちにもうらみはないわけだな」
「怨みどころか、今の若主人の祐吉様にとっては、殺された左太松は恩人のようなものでござります。あれほどの大身代を、左太松の一言で継いだようなものですから」
「若主人の祐吉さんと、家付きのお小夜さんとの間はどうだ」
「別に、悪くはありませんようで」
 理三郎の言葉には、何となく歯切れの悪さがあります。
「お国とかいうのが、今でも左太松と一緒にいるのかい」
「一緒にはおりますが――」
「はっきり物を言ってくれ、つまらない事を隠し立てすると、助かる者も助からないことになるよ」
 平次はもどかしそうにきめつけました。
「ヘエ、申します。みんな申上げてしまいます。実は、――お国という女が悪うございます」
「どうしたというのだ」
「左太松をあんなに夢中にさせて、小法師の跡取りになれるのまで棒に振らせながら、近頃は――」
「…………」
「申上げてしまいます。悪い女で――ヘエ、若旦那の甲子太郎様に、何かとうるさく付きまといますようで」
 理三郎は頸筋の冷汗ばかり拭いております。
「で?」
「あの晩も、――若旦那の甲子太郎様と、納戸で話をしていたと申します」
「フーム」
「若旦那が幽霊の宙乗りを手伝う役割のあったことを思い出して、あわてて部屋へ帰って来ると、幽霊はもう宙乗りをしていたんだと、――こう申します」
「すると、幽霊が宙乗りを始めてから甲子太郎はあの部屋へ入ったんだね」
「ヘエ――」
「若旦那が入って来たのを、誰も気の付いた者はなかったのかい」
 と平次。
「何しろ、幽霊が出るともう、あのキャッキャッという騒ぎです。若旦那の一人ぐらい、出ても入っても、気のつく者があるはずもございません」
「それでは、幽霊の頸へ綱を掛けたのが、甲子太郎でないという証拠は一つもない」
「親分さん」
「お前さんはどこに居たんだ」
「若主人の祐吉様御夫婦や与作さんと一緒に、部屋の真ん中に居りました」
「幽霊のすぐそばかい」
「いえ、少し離れておりましたが」
「話はまた戻るが、甲子太郎とお国が納戸で話しているのを、誰と誰が知っていたんだ」
「私はうすうす存じておりました。日の暮れる前に、店で耳打をしているのを聞きましたんで、ヘエ――」
 理三郎は少しきまり悪そうに小鬢こびんを掻きます。
ほかに聞いた者はないだろうな」
「小僧が二人ぐらい、小耳に挟んだかもわかりません」
「誰と誰だ」
「吉之助と宮次だったようで」
「それっきりか」
「ヘエ――」
「すると、若旦那の甲子太郎は、お国と左太松に怨みがあったわけだね」
 平次はほかの事を言っております。
「でも親分」
 理三郎はあわてて両手を振りました。平次の口調では、理三郎がねがったとはあべこべに、形勢は甲子太郎に悪くなるばかりです。


 その日のうちに、平次は八丁堀に飛んで行って、与力よりきの笹野新三郎に逢い、事件の外貌アウトラインをもう一度調べ直した上、常盤橋の猪之吉を訪ねて、一応渡りをつけました。
「いいとも、銭形の兄哥あにきが乗出しゃ、すぐ目鼻がつくよ」
 少し持て余し気味の猪之吉は、思いの外手軽に承知をしてくれます。甲子太郎を縛ったものの、本人は頑強に口をつぐむ上、証拠が一つもなくて、実は内々閉口していたのでした。
「それじゃ、室町へ行ってみるとしよう。兄哥も付き合ってくれ」
 平次は猪之吉を先に立てて室町の小法師甲斐に乗込みました。
「あ、親分さん」
 素知らぬ顔で迎えた理三郎に案内させて、まずひとわたり家の間取りを見せてもらいます。
 公儀御用の御筆屋で、店といってもそんなに品が置いてあるわけではなく、小僧が三人、番頭が一人、しょんぼり坐って、忌中らしく垂れめておりました。
 次は八畳の居間、六畳の仏間、その端っこまで土間が喰い込んで、店二階の梯子はしごは、その土間からすぐ登れるようになっております。土間の上から居間半分ほどへかけては二階がなく、天井までは二間半以上もあるでしょう。一本の巌乗がんじょうはりが、その中ほどを貫通しているのを見ると、幽霊を宙乗りさせる趣向が、誰にでも浮びそうです。この梁へ綱をかけて、二階の手摺てすりから引上げると、幽霊の一人ぐらいは、わけもなく宙乗りさせられるでしょう。
 平次はまず若主人の祐吉に逢いました。
「親分、御苦労様で」
 二十五というにしては、立派な貫禄です。色白の柔和な顔立ち、ちょっと微笑すると、若い娘のような可愛らしい顔になりますが、性根はなかなかしっかりものらしく、言葉の角々かどかどもはっきりして、大家の主人らしさに申分もありません。
「とんだことでしたな」
「左太松どんが可哀想でなりません。私より二つ年上で、本来ならば――」
 言いかけて祐吉は口をつぐみました。小僧が二人――吉之助と宮次が縁側を通ったのです。
「本来ならば、左太松がこのの跡を継ぐはずだったと言うのでしょう」
「いや」
 祐吉はちょっと絶句しました。うっかり言い過ぎたことに気が付いたのでしょう。
 いろいろ訊ねてみましたが、無口なのと、ひどく用心しているらしいので、主人の祐吉からは何にも引出せません。
 続いて逢ったのは家付きの娘で祐吉の女房お小夜、これはすっかりおびえて、何を訊いてもオロオロするばかりです。そのうえ恐怖と心配に屈託して、眼の下を黒くしている有様。美しいという評判の女房振りも、一向冴えないのは物足りないことでした。
「親分さん、左太松を殺したのは、兄じゃございません。何とか助けてやって下さい、――兄はそんな悪いことの出来る人ではないのです」
「でも動かぬ証拠がありますよ」
 平次は我ながら気のきかない事を言ったと思いました。お小夜を激発するつもりにしても、これはまたあんまりな言葉です。
「証拠はいくらあっても、――この下手人ばかりは兄じゃございません」
 妙に断乎だんことした調子です。
「それじゃ、本当の下手人を御新造ごしんぞさんは知っていなさるんですね」
「いえ、とんでもない」
 お小夜はひどく驚きました。
「御新造さん、左太松を怨んでいる者があるはずですが、――そいつは誰ですか」
 平次はこう言いながら、お小夜の顔に去来する感情の動きをジッと見ております。
「私は、何にも――」
 お小夜は見透かされるのが怖かった様子で、かたくなに首を振ります。
「左太松は可哀想じゃありませんか。遊び事と言っても、幽霊になったまま殺されちゃ」
「…………」
 お小夜が、死んだ左太松の方を好きだった――と番頭の理三郎は明らさまには言わなかったにしても、理三郎の口裏と、お小夜の絶望的な顔色から、平次が見抜いてしまったのに何の不思議もありません。
「これは兄さんの甲子太郎さんを助けるのに、大切なことですよ、よく分別をめて返事をして下さい」
「…………」
 何やら襲いかかる圧迫感に、お小夜は肩をすくめました。
「死んだ左太松が、お国と一緒になる前、御新造さんと約束をしたことがありゃしませんか」
「と、とんでもない」
 お小夜の怯え抜いた顔を見ると、これ以上は平次も追及が出来なくなります。
 ようやく解放されて、いそいそと奥へ行くお小夜の後ろ姿を見送って、
「あの女はまだいろいろの事を知っているぜ、――あんなにしおらしくちゃ、無理にも口を割るはない」
 平次は淋しそうでした。
「親分、やはり甲子太郎でしょうか」
 とガラッ八。
「いや、まだ解らないよ、俺はお国を当ってみよう」
「あっしは? 親分」
「左太松の身持をよく調べてくれ」
「ヘエ――」
 どこをどう手繰たぐったものか、ガラッ八は少し覚束おぼつかない様子です。
「口の軽そうな奉公人を当ってみるがいい、それから、近所の衆がとんだことを知っているものだ」
 平次はそう言い捨てて出て行きました。


 左太松とお国は、室町三丁目の裏、小法師の店からあまり遠くないところに、形ばかりの世帯を張っておりました。
「まア、銭形の親分さん」
 平次の入って来るのを見ると、居崩れたひざを直して、あわてて浴衣ゆかたの襟をかき合せます。さすがに仏壇からは、線香の匂い――。お国は二十二三の商売人上がりらしい女ですが、白粉おしろいっ気のない、少ししおれたところなど、お小夜の品の良いのに比べると、恐ろしくあだっぽく見えます。
「気の毒なことだったな、お国」
 平次は上がりかまちに腰をおろしました。
「察して下さいよ親分さん、あの人に死なれてしまって、私はどうしようもないじゃありませんか」
「小法師で何とか手当をしてくれるだろうよ、あまりクヨクヨしたものじゃあるまい」
「とんでもない。あの若主人が、死んだ番頭の配偶つれあいに、百も出すものですか。あんな因業な人間はありゃしません」
「そんなことはあるまいよ」
「何とか身の振り方の付くようにと、近所の方が言って下さるから、私の口からそう言うのも変だけれど、思召しだけでも聞いておこうと思うと、けんもほろろの挨拶じゃありませんか」
「…………」
 平次も何か予想外なものを感じました。
「左太松にはさんざんな目に逢っているから、香奠こうでんの外には百も出せない――あべこべに、千両近い金を返して貰いたいくらいのものだ、とこう言うんです」
「千両?」
「あの若主人の祐吉の野郎が言うんです、――もっともうちの人が、ときどき若主人に無心を言っていたのは、私も知らないじゃありません。でも、家の人に言わせると、あの身代を継がせて、旦那づらをさせてやったのは、みんなこの俺のお蔭じゃないか、お嬢さんのお小夜さんだって、俺がその気になりゃ、祐吉なんかと一緒になるものか――って」
「それは左太松の言い分か」
 平次はお国の言葉の重大さに驚いたのです。
「え、うちの人を殺したんだって、誰の仕業か解るものですか、――若旦那の甲子太郎さんが縛られて行ったけれど、若旦那はあの時納戸で私と話していたんです。そんな細工の出来るわけはありゃしません」
 どこまで発展するかも解らないお国の呪いを聞き捨てて、平次は出入りの鳶頭かしらの家へ行ってみました。これは寅松という五十男。
「おや、銭形の親分さん、御苦労様で、――あの幽霊殺しの一件でございましょう、――とんだ人騒がせで」
 そう言った滑らかな調子で、何でも話してくれますが、「その晩頼まれて、二人の小僧と一緒に、二階に陣取り、幽霊が出るのをきっかけに、梁の上をくぐらした丈夫な綱を下へおろし、二階から幽霊だけを照していた龕灯がんどう仕掛けのあかりを暗くして、幽霊の腰に綱をつけるのを待ち、下からの合図と一緒に、一生懸命引上げた」という外には何にもありません。
「お店のことをそう言っちゃ何ですが、百物語なんて、本当に馬鹿なことをやったものですよ。素人芝居とか、涼み船を出して踊るとか、もう少し智恵のある遊びもあったでしょうが――」
 寅松の言うことはたったこれだけ、平次は張合のない心持でもう一度小法師へ引揚げました。


「親分、いろいろのことが判りましたよ」
 いそいそと迎えてくれたのは八五郎でした。
「どんな事が判ったんだ」
「左太松は、若主人の祐吉を強請ゆすっていたことが判ったんで」
「フーム、そいつはありそうな事だな」
 二人はグルリと裏へ廻って、ガラッ八の口は平次の耳にささやくのです。
「何でも、祐吉が跡を取ってから、三百や五百の金は左太松へやったはずだって」
「誰がそんな事を言うんだ」
「奉公人同士はそんな事ならすぐ嗅ぎつけますよ」
「フーム」
「それから、お国と甲子太郎が、納戸で逢引の約束をしていたのを、小僧が聞いたかも知れないと、番頭が言っていたでしょう」
「ウム、それがどうした」
「小僧のうちには、若主人の間者かんじゃをつとめているのがありますぜ」
「誰だ、そいつは?」
「それが解らないんで」
 八五郎の探索もここまで来てハタと行詰りました。
 それから一人一人当ってみましたが、何の得るところもありません。ただ、梁を通して降りて来た綱を、下で待ち受けた下手人が、咄嗟とっさの間にわなを拵え、それを幽霊になった左太松の首にはめ込んで、二階へ合図をしたということが解っただけです。罠はなかなか巧妙に出来ておりますから、それを闇の中で咄嗟の間に拵えるのは、容易ならぬ手際を要するわけです。
 平次は綱を見せて貰いましたが、罠はもう解いてしまって、その時の様子を見た人達の話で想像するだけです。もう一つ、綱の下がって来た場所は、若主人とお小夜と理三郎と与作とが一団になっていたところからは、少し遠すぎて、よしや混雑の中を巧みに泳ぎ抜けたとしても、罠を作って合図をして元の座に帰るのは、なかなかの困難があるわけです。
「親分、もう縛りましょうか」
 とガラッ八。
「誰を?」
「決ってるじゃありませんか、下手人は若主人の祐吉――」
「どうして、そんな事を考えたんだ」
「女房のお小夜はまだ左太松に未練があるし、祐吉は去年から五百両も左太松に強請ゆすられているとしたら、祐吉は猫の子のようなおとなしい男でも、フラフラとやりたくなりますよ」
「俺もそれを考えないじゃないが、祐吉の居た場所と、幽霊の居た場所は遠すぎる。中には二十人もの人が渦を巻いていたんだぜ。その中を分けて行って、罠を拵えて幽霊を吊らせて、元の場所へ帰れるかな、――それも煙草一服の間だ――」
 平次はそう言いながらも、念のために町内の野幇間のだいこ与作のところへ行って、その晩のことを詳しく話させてみました。
「旦那は私どものところを動きませんよ。幽霊を見て騒いだのは、女子供や近所の衆で、私どもは種を知っているから、笑いながら眺めていました。ヘエ、一人でも動けば知れたわけで――」
 これでは、祐吉を疑いようはありません。
 平次はガラッ八を一人残して、いったん小法師を立出でました。が、念のため常盤橋の猪之吉を訪ねて、番屋にほうり込んである、若旦那の甲子太郎に逢ってみる気になりました。
「あの晩、お国と一緒に、納戸へ入ったことは、誰が知っているんだ」
 平次の問は率直で簡単でした。
「誰も知りゃしません。知らせたくもなかったんです」
 甲子太郎は、道楽者のくせに、純情家らしい男でした。もう二十七八にもなるでしょうが、大家の坊っちゃんらしく、若々しいところがあって、妹のお小夜に似た品のよさと、勘当息子らしい捨鉢すてばちなところが、妙な不調和と魅力になっているのです。
「納戸へ入ったのはいつだえ」
「馬鹿な怪談の真っ最中でした。蝋燭は二本ぐらいいていたでしょう」
「納戸を出たのは?」
「幽霊が宙乗りをしている時です、――あんまり騒ぎがひどいんで、ツイ出てみたんです」
「その間納戸から一度も出なかったんだね」
手洗ちょうずに一度出ましたよ」
「どっちが」
「私も、お国も。私が先でお国は後でした」
「騒ぎが始まってからか」
「いえ、その前で――いや、ちょうど騒ぎが始まった時かしら」
 これだけでは、何の手掛りになりそうもありません。
「お前さんは、お国と一緒になるつもりだったのかい」
「とんでもない、――仲人なこうどはなくても、あれは左太松の女房のようなもので」
「その左太松の女房と逢引をしちゃ、悪かろう」
「ヘエ――、でも、近頃左太松の仕打ちがひどいから、別れ話を持出している、その相談をしたいから、ちょっと顔をかしてくれというんで」
「で、相談に乗ったのか」
 平次に問詰められて、甲子太郎はポリポリ小鬢こびんを掻きながら、弁解めかしくこんな事を言うのです。
「私は幽霊の仕掛けの宙乗りに一と役持っているからイヤだと言うのに、お国は、あんな馬鹿な事は馬鹿に任せておきましょう――って、私を納戸から離さなかったんです」


 甲子太郎の縄を解いてやるように、平次は猪之吉を説き伏せて、室町の小法師に帰って来たのは、その晩の亥刻よつ(十時)少し前でした。
「親分、困ったことになりましたよ」
「どうした、八」
 八五郎の様子は只事ただごとではありません。
「小僧の宮次が見えなくなったんです」
「えッ」
 十四五の小柄な可愛らしい小僧は、平次も幾度か物を訊いた記憶があります。
「旦那と一緒に外へ出たんだが、帰ったのは旦那だけで、宮次はツイそこで見えなくなったと言うんで――」
「フーム」
 平次は八五郎の説明を聞き流して、主人の祐吉に逢いました。
「銭形の親分、困ったことになりました」
 祐吉もさすがにうろたえた様子です。
「ね、御主人、隠さずに言って下さい。あの宮次という小僧に、格別目をかけてやっていたでしょう」
「と言うと――?」
「この大家の跡を取って、まだ一年にもならない旦那が、店に一人の腹心が欲しかったのも無理はありません」
「親分、そう言われると面目ないが、ときどき小遣をやって、いろんな事を聞いていましたよ」
 ――と祐吉。
「例えば、甲子太郎とお国の逢引の相談といったような事を――」
「…………」
 祐吉は黙りこくってしまいました。恐れ入った姿です。それを聞くとガラッ八は平次の袖を引いて、変な目配せをします。甲子太郎とお国の逢引を知っている者は、下手人に違いないと思い込んでいるのでしょう。
「すると、あの宮次という小僧は、銭さえ貰えば、どんな事でもする人間だったのですね」
「そんな事もないでしょう、私の言うのは、主人の言い付けだから」
「仲間や朋輩のことを告げ口するのは、忠義とは別のものですよ。一度にどれくらいずつ小遣をやったんです」
「子供の事だから、――十二文やったり、百文やったり、一朱握らせたり」
「そいつは結構なしつけじゃありませんね」
「でも」
 平次はもうこれ以上の追及を断念しました。小僧に金までやって、告げ口を奨励するような主人に、あまり大きな仕事は出来そうもないと見たのでしょう。
「その宮次とどこへ行ったんです」
「ちょっと永代えいたいまで――」
 と祐吉。
「川へ突き落したんじゃありませんか、親分」
 ガラッ八は平次の耳にささやきます。が、その声は、五六間先まで聞えそうです。
「とんでもない、そんな事をするものですか。宮次はツイそこまで私と一緒に歩いて来ましたよ。門口かどぐちを入って、振り返ると、姿が見えなかったので、びっくりしたようなわけで――」
 祐吉のくどくどと説明するのを、平次はもう聞いてはいませんでした。
「八、大変なことになるかも知れない。来い」
 呆気あっけにとられる祐吉を後に飛出す平次。八五郎がその後へ続いたことは言うまでもありません。
「どこへ親分」
「シッ」
 そっと潜り込んだのは、室町の裏路地、今日一度訪ねたお国の家の前です。
「御免よ」
「…………」
「ちょいと起きて貰おうか」
「…………」
「開けないと、押し破っても入るが」
 平次はそう言いながら、入口の戸をガタガタさせます。
「あ、どなた?――もう休んだんですが、――明日にして下さいません?」
 お国の寝ぼけたような声です。
「平次だよ、手間は取らせない、開けてくんな」
「まア、銭形の親分さん」
 何やらガタピシやって、ようやく戸を開けると、あかりを後ろに背負しょっておりますが、燃え立つようななまめくお国の姿が、入口一パイに立ちはだかります。
「来いッ」
 その豊満な腕を取って平次はグイと引くと、
「あれーッ」
 闇をつんざ嬌声きょうせいと共に、女は敷居際に崩折くずおれます。
「御用だぞッ」
「親分さん、とんでもない、私は何にも悪い事はしない」
「八、女を頼むぞ」
 平次は何やら心せく様子で、お国の身体を、後ろに続くガラッ八に任せて、ツイと家の中へ入りました。
「合点ッ」
 女の身体に飛付く八五郎、両手を拡げてガバと行くのを、女は巧みにかわして、脇の下からツイと背後うしろに抜けました。
「馬鹿だねエ」
 目つぶしの嬌笑。タジタジと来る八五郎の手を逃れて、女は一朶いらだほのおのように、夜の街へ飛出します。
 平次はしかしそれに構ってはいられませんでした。飛込んで狭い家の中を一と目。
「居ない、――遅かったか」
 思わず立ちすくみましたが、次の瞬間、恐ろしいスピードで、お勝手から押入から、便所まで見ました。
「居ない、――そんなはずはないが」
 もう一度くり返して家捜しするところへ、
「親分、骨を折らせやがったぜ」
 女を滅茶滅茶に縛って、八五郎は帰って来ました。
「八、ここへ女をつれて来い。小僧は死んでいるぞ」
「えッ」
 八五郎も襲われるような心持で、縛った女と一緒に入って来ました。行灯あんどんの最初の灯が女の顔に射すと、平次の眼は早くもその瞳が、部屋の一方に注ぐのを見て取ったのです。
「ここだ、畳の隙間すきまほこりのあるのに気が付かなかったとは、何という事だ」
 平次はやにわに部屋の隅の畳を一枚起すと、床板を三枚ばかり引っぱがしました。
「あッ」
 中から引出したのは、蒲団ふとんに包んでキリキリと縛った小僧の身体。
 解く手も遅しと、引出して見ると、幸いまだ息だけは通っております。
「八、水だ、水だ」
「おッ」
 縛った女を突き飛ばしておいて、お勝手から持って来た水を、虫の息の小僧の口に注ぎ入れるのでした。
「やい女ッ、――この小僧を殺したって、亭主殺しの罪は隠し切れないぞ」
 平次もツイ、この女のあまりの太々ふてぶてしさに、日頃にもない叱咤しったを浴びせます。

     *

 お国はその晩のうちに送られて、甲子太郎は許されました。
 いろいろの事が判りました。
 中でも諸人を驚かしたのは、もう一年も前のこと、祐吉は金ずくでお国に頼み込み、左太松を誘って世帯を持たせ、自分はお小夜の歓心を買って小法師の跡をいだ上、いろいろ小細工をして、先代と甲子太郎までも遠ざけていたことです。
 親類相談の上、少しばかりの分配わけまえをやって祐吉を分家させ、改めて実子の甲子太郎が入って小法師甲斐の後を襲ぎました。
 それはずっと後のこと。
「親分、判らない事ばかりだ。お国はどうしてあんな事をやらかしたんでしょう」
 ガラッ八は絵解きをせがみます。
「何でもないよ、――左太松がお小夜に未練があるのを知って、お国はあんな気になったのさ。嫉妬やきもちだけじゃない、甲子太郎を取込んで、あわよくば小法師の家を乗取るつもりだったのさ」
「ヘエ――」
「祐吉に罪をせるように仕組んだのはそのためさ。ところが、甲子太郎が一番先に縛られて、こいつは思いの外だったかも知れないが、どうせ納戸に二人で居たんだから、許されるに決っていると高をくくっていたのだろう。太い女だよ」
「左太松を殺した細工は」
「二階に居る小僧の宮次に、面白いことをするからとか何とか言って、綱の先へ罠を拵えて下げさしたんだ。それから合図をめて、幽霊が出て少し経つと、小用に行く様子をして、そっと納戸から部屋に戻り、真っ暗な中の騒ぎを掻きわけて、綱の罠を左太松の頸にはめ、激しく合図の綱を引いたのだろう。二階では幽霊の腰に綱を縛ったこととばかり思い込んで、一生懸命引き上げた。当人の左太松は幽霊の身振りに夢中になって、何の気もつかないうちに、宙に吊られたのさ」
「…………」
「お国はそれだけの細工をすると、素知らぬ顔で納戸に帰り、一と言二た言甲子太郎と話した上、あんまり騒ぎがひどいからとか何とかいう口実で、あの部屋に戻ったんだろう。その時がちょうど、幽霊が宙に吊られている最中だ。自分が手に掛けた左太松が、幽霊姿で宙にもがくのを、あの女は平気で見ていたのだよ。恐ろしい人間があったものだ」
「…………」
 ガラッ八もさすがに目を白黒にしました。
「お国はその晩のうちに、小僧の宮次をうんと脅かして口止めをしておいたが、万一ベラベラしゃべられると大変だから、主人祐吉の供で出たのを途中から誘い、危うく殺すところへ間に合ったのだよ」
「…………」
「始め祐吉ばかり疑ったのと、女の手であの細工が出来ないと思い込んだのがこっちの手落だったよ。二階の小僧を使ったとは思いもよらない」
「なるほどね」
「とにかく、イヤな捕物だったよ。人間らしい奴は一人もいねえ、理三郎は別だが――」
 平次は悲しそうでした。悪人ばかりの中で仕事をして、誰の足しにもならないのが腹立たしかったのです。
「でも甲子太郎に家を継がせてやったじゃありませんか」
 とガラッ八、少しばかり慰め顔です。
「甲子太郎も坊っちゃん育ちすぎるよ。お国のような女に引っかかるようじゃ、あの家を持って行くのもむつかしかろう」
「でもお小夜は可哀想ですね」
「そうだ、あの女は可哀想だ、悪い亭主を持った女の気の毒さを一人で背負しょっているような女だ」
 平次はつくづくそんな事を言うのでした。





底本:「銭形平次捕物控(十)金色の処女」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第八巻」中央公論社
   1939(昭和14)年6月28日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2017年9月24日作成
2019年11月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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