銭形平次捕物控

六軒長屋

野村胡堂





 本郷菊坂の六軒長屋――袋路地のいちばん奥の左側に住んでいる、烏婆からすばばアのお六が、その日の朝、無惨な死骸になって発見されたのです。
 見付けたのは、人もあろうに、隣に住んでいる大工の金五郎の娘お美乃みの。親孝行で綺麗で、掃溜はきだめに鶴の降りたような清純な感じのするのが、幾日かとどこおった日済ひなしの金――といっても、さしに差した鳥目ちょうもくを二本、たもとで隠してそっと裏口から覗くと、開けっ放したままの見通しの次の間に、人相のよくない烏婆アが、手拭でくくり殺されて、すさまじくも引っくり返っていたのです。
「あッ、大変、――誰か、来て下さい」
 お美乃は思わず悲鳴をあげました。しっかり者といっても、とってたった十八の娘が、不意に鼻の先へ眼をいた白髪しらがっ首を突き付けられたのですから、驚いたのも無理はありません。
「なんだえ、お美乃さんじゃないか」
 真っ先に応えてくれたのは、一間半ばかりの路地をへだてて筋向うに住んでいる、鋳掛屋いかけやの岩吉でした。五十二三の世をも人をもあきらめたような独り者で、これから鋳掛道具を引っ担いで出かけようというところへ、この悲鳴を聴かされたのです。
「鋳掛屋の小父さん、た、大変ですよ」
「どこだい、お美乃さん」
 お六婆アの家の表は、まだ厳重に締っているので、岩吉はお美乃の声がどこから聴えて来たか、ちょっと迷った様子です。
「お六小母さんが――」
「婆さんがどうしたというんだ」
 岩吉は枳殻垣からたちがきと建物の間を狭く抜けて、お六婆アの家の裏口へ廻って仰天しました。
「小父さん、どうしましょう」
「どうもこうもあるものか、長屋中へ触れてくれ。それから、医者にそう言うんだ」
 岩吉はそう言いながら、裏口の柱につかまって、ガタガタふるえております。中へ入って死骸の始末をすることも、死骸のそばを通り抜けて、表戸を開けてやることなども、この中老人は出来そうもありません。
 そのうちに、壁隣にいるお美乃の父親――大工の金五郎も飛んで来ました。二日酔いらしい景気の悪い顔ですが、これはさすがに威勢の良い男で、
「早く介抱してやるがいい。絞められたくらいで往生するような婆アじゃあるめエ」
 いきなり死骸を抱き起こしましたが、石っころのように冷たくなって、もはや命の余燼よじんも残っていそうもありません。
「こいつはいけねエ」
 金五郎は死骸を置いて表戸を開けると、そこには、岩吉の隣に住んでいる日傭取ひようとりの与八と女房のお石が、叱られた駄々っ児のような、おびえきった顔を並べて立っているのでした。
 最後に金五郎の隣――与八夫婦の向うに住んでいる按摩あんま佐の市の母親も出て来ました。眼の見えない佐の市を除けば、これで長屋総出になったわけですが、脅えた顔を揃えて、わけの解らぬことをささやき合うだけで、何の足しにもなりません。
「何が始まったんだ。大変な騒ぎじゃないか」
 木戸の外から声を掛けて、若い男が入って来ました。六軒長屋のすぐ外――表通りに住む雪之助という二十七八の男で、本石町の丸木屋の次男坊に生れながら、商売は嫌いの風流事が好きで、こんなところに別宅を建てて貰い、耳の遠い年寄りを一人使って、粋事と雑俳ざっぱいとにその日を暮す、雪江ゆきえという筆名ひつめい相応ふさわしい結構な若旦那でした。
「若旦那、大変なことになりましたよ」
 与八は歯の根も合わぬ姿でした。
「またお前のところの夫婦喧嘩かい」
 事もなげに笑う雪之助。
「そんな事じゃありませんよ。お六婆さんが殺されて死んでいるんで」
「ヘエ、あの婆さんでも殺されると死ぬのかい」
 雪之助はまだ巫山戯ふざけ気分です。
「見て下さいよ。すごい人相ですぜ、若旦那。三途河さんずのかわの婆アだって、あの顔が行くと驚きますぜ」
 大工の金五郎はこんな時にも江戸っ子らしい剽軽ひょうきんさを失いませんでした。
「あれ、父さん、そんな事を」
 お美乃はそう言う父親の口へふたでもしたい様子です。
「なるほど、そいつは凄かろう。――ところで、届けるところへ届けたのかい」
「面喰らっているから、何にもやりませんよ」
 と金五郎。
「それでは後がうるさい。何をいても町役人と、真砂町まさごちょうの親分に知らせなきゃなるまい。お前一と走り頼むぜ」
「ヘエ――」
 日ごろ若旦那の雪之助に物を言い付けられている与八は、こんな時一番先に駆け出すように慣らされていたのです。


「こんなわけだ、――疑えば長屋中皆んな怪しい。怪しくないのは、ゆうべ小石川の叔母のところに泊ったお美乃と、眼の見えない按摩の佐の市だけさ。どこをどう突ついて、どう手繰たぐったものか、まるっきり見当が付かない。気の毒だが兄哥あにきの智恵を貸してくれないか、恩に着るつもりだが――」
 真砂町の喜三郎は、あくる日の朝早く神田の平次を訪ねて、こう打ち明けて頼むのでした。
 平次と同年配で、日ごろ平次の腕や人柄に推服している喜三郎は、十手捕縄のよしみを超えて、平次に親しみを持っていたのです。
 大根畠の小町娘が、白痴の定吉に殺された事件(「人形の誘惑」参照)が、危うく迷宮入りになりかけたとき、平次の助けで厄介な謎を解いたことのある喜三郎。もういちど平次の力を借りて、このお六殺しの不思議な事件を解決しようというのでしょう。
「それくらいのことなら、真砂町の兄哥の前だが、蓋も底もあるまい。俺なんか顔を出す幕じゃないように思うが――」
 喜三郎の素直な気性を知っている平次は、一応頼まれたくらいのことでは、容易に御輿みこしをあげて他人の縄張に足を踏み入れようともしません。
「ところが、三輪みのわの万七親分がやって来て、いきなり大工の金五郎を縛って行ったんだ」
「フーム」
 またも憎まれ者の万七が、平次と仲の好い喜三郎への嫌がらせに、いち早くも下手人げしゅにんをさらって行ったのでしょう。
「それも、大工の金五郎が本当の下手人なら文句はない。俺は指をくわえて引っ込んでもいようが、どんな証拠があったにしても、あの男が人などを殺すはずはない。喧嘩して相手に傷でも付けたというなら解っているが、六十を越した烏婆アを殺し、臍繰へそくりを盗んで口をぬぐっていようなんて、そんなことの出来る金五郎でないことは、この俺が一番よく知っているんだ。第一親孝行で評判のお美乃が可哀想で見ちゃいられねエ」
 若い喜三郎が、平次の力を借りようとするのは、そんな関係もあったでしょう。
「三輪の兄哥あにきが乗り出して、金五郎を縛って行ったのは、いずれ動きのとれない証拠があってのことだろう」
 と平次。
「万七親分に言わせると証拠がありすぎるんだ。――娘の留守に一杯呑んで寝たという金五郎が、すこしは酔っていたにしても、壁隣で人間が絞め殺されるのを知らずにいるはずはない。それに金五郎は二年前女房に死なれた時、お六婆アから一両の金を借り、それを返せないばかりに、利に利がつもってひどい目に逢っている。ゆうべ娘のお美乃を小石川の叔母のところへやったのも日済しの払いが溜って、お六に目の玉の飛び出るように催促を受け、思案に余っての工面だ。娘の留守に自棄酒やけざけあおった金五郎が、夜中にフラフラとお六を殺したくならないものでもあるまい――と、こう万七親分は言うんだ」
「なるほどね」
 平次は一応感心するのです。
「それから、もう一つ悪いことに、お六婆アの家の裏口から入るには、金五郎の家の裏口を通るか路地の奥へ突き当って、お六婆アの家と寺の枳殻垣からたちがきの狭い間を通ってグルリと廻らなきゃならないが、枳殻垣の下は雪解けで、人間の足跡というのは、けさお美乃に呼ばれて、鋳掛屋いかけやの岩吉があわてて通ったのがあるだけ、あとは野良犬の通った跡もないんだ」
「表は?」
「お六婆アはうんと溜めているから、戸締りだけは馬鹿に丁寧だ。表の戸はけさ死骸を見付けた時、お勝手口から入った金五郎が、内から輪鍵を外して開けたに違いないと、自分でも言ってるんだから世話アない」
「ところで、金はられなかったのかな」
 平次はいちばん重要なことに触れました。
「お六婆アの家に一文もないところを見ると、下手人は婆アを殺して金を盗ったんだろう。お六婆アが肌身離さず持っている名代の大財布もないし、手文庫には証文だけ。火鉢の引出しの小銭まで無くなっている。恐ろしく行届いた奴だ」
「お六婆アは本当に金を持っていたんだろうか」
「三十年後家を通して、烏婆アとか何とか言われながら、溜めたんだから、三十両や五十両じゃあるまいと思うが、天井裏も床下も、糠味噌ぬかみそかめの中まで見たがないよ」
「六軒長屋の家捜しは?」
「手ぬかりなくやったが、金を持っているのは、按摩の佐の市だけ、それも五両か八両だ。あとはお美乃が叔母さんから借りて来た小銭の外には、百とまとまったものを持ってる家もないんだ。恐ろしく不景気な長屋だぜ」
「なるほど、面白そうだな。――大した役にも立つまいが、とにかく行ってみよう。八、仕度をするんだよ」
 平次はいよいよ御輿みこしをあげました。


 菊坂の六軒長屋は、わけの解らぬ不安にとざされたまま、町役人の監視の下に、お六のとむらいの仕度を急いでおりました。
 平次はおそろしく用心ぶかい態度で、まず入口の木戸の前に立って、長屋全体と近所との関係を見渡します。
「右手はがけ――こいつは鵯越ひよどりごえだ。越して越せないことはあるまいが、やぶがひどいから犬が潜っても大きな音がする。まず夜中に忍び込む工夫はないな」
 平次は眼を転じて左を見ました。
「こっちは旗本屋敷だよ、銭形の。忍び返しが厳重に打ってあるから、あの塀は越せまい」
 喜三郎は左手を指します。
「すると出入り口は木戸一つだ」
 三尺の木戸、古くなった隙間すきまだらけですが、それでもつくろいが丁寧ですから、外からは開ける工夫がありません。
「こいつは誰が締めるんだ」
「木戸のそばに住んでいる佐の市の母親の役目になっているが、あの晩おそく帰った鋳掛屋の岩吉が締めたそうだ。亥刻よつ半(十一時)近かったというよ」
「朝開けたのは」
 と平次。
「佐の市のお袋が卯刻むつ(六時)前に開けた。輪鍵はちゃんと内側へ掛っていたそうだよ。辰刻いつつ(八時)時分にお美乃が帰って来て、お六の死骸を見付けたのは辰刻半(九時)頃だろう」
 喜三郎はくわしく説明しました。
「すると、お六を殺したのは、長屋の者に違いないということになるね」
「木戸は内から締っていたし、ほかに入るところはないから――」
「突き当りの枳殻垣からたちがきは潜るか越すか出来ないものかな」
「潜るような穴はない。垣の上へ蒲団ふとんでも掛けたら、越せないこともあるまいが、向う側はお寺の境内で、雪解けがひどいから、この五六日人間の入った様子はない」
「あの晩は凍らなかったか」
 と平次。
「二三日凍るような天気はなかったはずだ」
 そう言われると、いよいよ下手人は六軒長屋の住人でなければならなくなります。
「親分、木戸を締めたまま、内から乗越せないでしょうか」
 ガラッ八の八五郎は口を出した。
「やってみるがいい。請合うけあい乗りつぶすから。柱が腐っているし、木戸もボロボロだ。よほど身軽な奴でも、この上に乗ると、大きな音を立てるよ。木戸のすぐ下に寝ている眼の不自由な者や年寄りがそれを知らずにいるはずはない」
 平次の言う通りでした。按摩あんま佐の市の家はすぐ木戸の側で、夜中に木戸を乗り越す者があれば、たった一と間しかない寝部屋の窓から枕に響かないはずはなかったのです。
「ともかく、入ってみようか」
 喜三郎に誘われて、平次はまず木戸を入って左側の按摩佐の市の家を覗きました。
「親分さん方、御苦労様で――」
 按摩の佐の市はまだ二十四五の若い男ですが、眼が見えないだけに、早くも客の話し声を察して、丁寧に挨拶しました。
「佐の市さんだね。何か気の付いたことはないかえ」
 平次は水を向けます。
「何にもございませんが――」
昨夜ゆうべあたり、何か聴いたはずだと思うが、お前は勘が良いようだから」
「そんなでもございません。眼は見えなくても、若い者はやはりとこへ入るとすぐ寝付いてしまいます。それでも、親分さんがそうおっしゃると、夜中に眼を覚したとき、路地の中を犬や猫でないものが歩くような気がしました」
「裏口の方でなく、路地の中だね」
「ヘエー、路地の中に違いございませんが、それっきり私が眠ったのか、物音が止んだのか、覚えはございません」
「木戸を乗越した音は?」
「それならすぐ解りますが、そんな音は一向聴きません」
「木戸を開けた音がしなかったかえ」
「だいぶ前から金具がびていて、てに歯の浮くような音を立てましたが、二三日こっち不思議にそんな音が聞えなくなりました」
 佐の市の答えはハキハキして、思いの外の収穫がありそうです。
「有難う、たいそう役に立ったよ。ところで、この長屋中にお六をうらむ者もあったろうな」
「よく思う者はありません。烏金からすがねを貸してひどい取立てをした上、口やかましくて、けちで、大変な人でしたよ」
 佐の市もだいぶ悩ませられたらしく、歯にきぬせません。
「ずいぶん評判が悪いな」
「本郷中の憎まれ者でしたよ。死んだ者の悪口を言うわけではございませんが」
 盲人らしい一国いっこくさで、佐の市はなおも言い募りそうにするのを、
「お前まア、そんな遠慮のない事を言っていいのかえ」
 母親のおよのは路地から声を掛けながら入って来ました。
「構いませんよ。誰も盲目の私が殺したとは思いませんよ」
 佐の市はどんなにお六にひどい目に逢わされていたか、こうでも言わなければ、腹の虫が納まらない様子でした。
「よほどお六とは仲が悪かったと見えるな」
 平次も苦笑いをする外はありません。
「親分さん方、いつでもせがれはこうですよ。お聴き流しを願います。――なアに、仲が良いも悪いもありゃしません。あのお六さんという人は、ときどき高い利息のつく金でも借りてもうけさしてやらないと、機嫌の悪い人だったんです」
 およのは弁解らしく言うのでした。倅の佐の市が働き者で、お六の烏金などを借りるどころの沙汰ではなかったのです。
「ところで木戸を開けたり閉めたりするのは、お前さんの役目だそうだね」
 平次はおよのに問いかけました。六十を越した一とつかみほどの老婆ですが、なかなかしっかりものらしく言うことはハキハキしております。
「ヘエー、役目というわけでもありませんが、木戸の側にいるのは私とお向うの与八さん夫婦ですが、与八さんは暢気者のんきものですから、ツイ私が締めることになります。それにうっかり締め忘れたりすると、お六さんがやかましかったんです」
 お六が木戸を警戒したのも、およのが木戸を締める仕事を引受けているのも、持てる者の弱さだったでしょう。
「その晩のことを詳しく話してくれ」
鋳掛屋いかけやの岩吉さんが、本所の友達の祝事で遅くなるから、木戸は締めずにおいてくれと言いますから、そのままにして寝てしまいました。もっとも眠ったわけじゃありません。金五郎親方が酒を買って来たのも、岩吉さんが帰って来て木戸を締めたのもよく知っております」
「他に誰も入って来た様子はなかったろうな」
「宵のうちのことはわかりません、お勝手で仕事をしてますから。――戌刻いつつ半(九時)から先は、金五郎親方と岩吉さんの外には誰も入って来なかったようです」
 およのの言葉には疑問を挟むべき余地もありません。
あくる朝は」
 と平次。
「私が木戸を開けました」
「よく締っていたんだね」
「ヘエ、さんもおりていましたし、輪鍵も掛っていました」
「輪鍵には釘を差さないのか」
「差したり、差さなかったりですよ」
「その時は?」
「釘は差してなかったようです。そういえば二三日前から釘が見えなくなって、輪鍵を掛けただけですよ」
 およのは妙な事に思い当った様子です。が、平次がどうしてこんな細かいことまで聴くのか、見当もつかなかったのです。
「お六の家へ行ってみようか、銭形の兄哥」
 喜三郎は少し面倒臭そうでした。
「いや、少し待ってくれ」
 平次は木戸へ引返すと、もういちど念入りに調べ始めました。桟の具合、板の割目、それから木戸を吊った蝶番ちょうつがいの具合など。
「おや?」
 平次は木戸の滑らかさが、蝶番に油をしてあるためだとわかると、鼻を持って行って、クンクンといだりしました。
「親分、何か匂うんですか」
 とガラッ八。
「お前の良い鼻で、こいつを嗅いでみてくれ。ただのともし油じゃあるめえ」
「良い匂いですね、親分」
「その匂いを覚えておくんだ。――あッ、人が来る、鼻を引込めろ、八」


「与八、ちょいと待った」
「ヘエ、これは真砂町の親分さん」
 日傭取ひようとりの与八は、急に立止まって、ヒョイとお辞儀をしました。喜三郎に声を掛けられなかったらそのまま知らん顔をして行く心算つもりだったでしょう。
「どこへ行くんだ」
「ちょいと、その」
「ちょいとその、どこだ」
「ヘエー」
「ヘエじゃないよ、うさんな野郎だ。来いッ」
 喜三郎にピタリと腕首をつかまれると、与八は一ぺんに悲鳴を挙げてしまいました。
「言いますよ、言ってしまいますよ。親分、勘弁して下さい。あっしのせいじゃありませんよ。三輪の親分が、誰にも言わずに、そっと持って来れば、褒美をやると言ったんで」
 三十七八――不精髯ぶしょうひげに顔半分を包んだような、洗いざらしの半纏はんてん一枚の与八は、何もかもベラベラとしゃべってしまいそうです。
「何を持って行くんだ。出してみろ」
「これですよ、親分。――金五郎親方の裏の、がけやぶの中から拾ったんで」
 与八は腹掛の丼から、古風なしまの財布を一つ出して見せました。
「それがどうしたんだ」
「お六の財布ですよ。こいつを首にかけて、婆アのくせに、ジャラジャラさせて歩いたことは、本郷中で知らない者はありゃしません」
「何?」
 事の重大さに、喜三郎も平次も緊張しました。取上げて見ると、中は空っぽですが、ひどく真っ黒な泥の付いたのを、無理にこすって取った様子がありありと見えます。
「金五郎親方の裏口の藪に引っ掛っていたんです。――きのう一日誰にも見付けられないのが不思議なくらいでしたよ」
 与八はすっかり観念しました。
「今ごろそんな細工をするようじゃ、油断がならない。――大急ぎで片付けよう」
 平次は喜三郎をうながします。
「財布は?」
 喜三郎は念を押しました。
「勝手にさせるがよかろう。金五郎が下手人だとしても、自分の家の裏口へ空財布を捨てるか捨てないか、万七兄哥にも判らないことはあるまい。そいつは与八の手柄にさしてやるがいい。藪に引っ掛っていた財布に、真っ黒な泥がどうして付いたか、それが判りさえすればいいよ」
 平次にそう言われると、こんな財布にこだわるのが馬鹿馬鹿しくなります。
 与八の家は空っぽ。左側の金五郎の家を覗くと、娘のお美乃が一人、壁の方を向いて、何をするでもなく坐っております。
「お美乃」
 喜三郎が声を掛けると、娘はわずかにこちらを振向いて目礼しました。
 貧し気な様子の中に、たった一人取り残された十八になるお美乃は哀れ深くも美しい姿です。
「銭形の親分が少し訊きたいことがあるそうだ。話してくれ」
「ハイ」
 お美乃は上がりかまちに手を突くように、泣きらした眼で平次と喜三郎を迎えるのでした。
「親分、可哀想じゃありませんか、なんとかしてやって下さいよ」
 八五郎は平次の耳許に囁きます。
「ところで、お六から借りた金のことだが、――いつ借りて、どんな催促をされて、いくら払って、残っているのはいくらだ」
 平次はそんな細かい事を訊きながら、上がり框に腰をおろしてしまいました。
「二年前、母さんが死んだとき、一両だけ借りました。三月目に一両二分にして返す約束で――」
「恐ろしく高い利息だな」
「でも払えないとなると、毎日毎日ここへ来て、いやな事ばかり言いました。父さんは一生懸命働いて利息だけは入れた心算つもりですが、それでも、二年目の今となっては、積り積って三両になったから、私を奉公に出すか、でなかったら、日済しにして返せと言われて、私は小石川の叔母さんのところへあの晩相談に行ったんです」
 ポロポロとこぼれる涙を、粗末なあわせの袖で拭いて、覚束おぼつかなくもお美乃はつづけるのです。
ふてえ婆アじゃありませんか、親分」
 後ろの方で、ガラッ八は一人で腹を立てています。
「その婆アは殺されているんだ。黙っていろ」
「ヘエ――」
「ところで、親方は酒が好きかえ」
 平次は変なことを訊きました。
「ハイ」
 それで苦労をしているらしいお美乃は、きまり悪そうに俯向うつむくのです。
「酔うと機嫌の悪くなる方かい」
「いえ、そんな事はありません――どっちかというとよく眠る方です」
 お美乃の敢然と振り仰ぐ顔。――浅黒い細面の品のよさは、身扮みなりも背景も超越して、なにか冒し難い美しさが輝くのでした。
「仕事の方は?」
「父さんはいつも仕事を自慢ばかりしています」
 腕に覚えのある良い職人が、酒と狷介けんかいわずらわされて、初老を過ぎて貧乏から脱けきれないみじめさは、平次にもよく解るような気がしました。
 六畳の間に据えた仏壇には、先祖の位牌と、死んだ女房の新しい戒名かいみょうが飾られてあるらしく、貧しいうちにも、何か折目の正しさが、人に迫るものがあるのです。
「親分さん方」
 後ろから声を掛けた者があります。


「丸木屋の雪之助さんだよ」
 喜三郎は平次に引合せました。それは二十七八の若旦那型の華奢きゃしゃな男で、色の白さも、眼の涼しさも、唇の紅さも、――そして言葉のさわやかさも、申分のない男でした。
「銭形の親分、お美乃さんが可哀想だ。一日も早く金五郎親方を助けてやって下さい。あの人は気性の激しい人には違いないが、曲ったことや間違ったことをする人じゃありませんよ。――こればかりは三輪の万七親分の鑑定めきき違いでしょう」
 静かですが、反抗を許さない調子で、シトシトと弁解して行く雪之助の言葉を、平次は一句ごとにうなずきながら聴きました。
「大きにそうだろう。私もそう思っているが、困ったことに親方のためにならない証拠ばかりだ」
「例えば?」
「お六の財布が、けさ此家ここの裏口の藪の中に落ちていたそうだ」
「まア」
 お美乃の方が蒼くなりました。
「そいつは証拠じゃありませんよ。金五郎親方が盗ったものなら、自分の家の裏口へ空財布を捨てるものですか」
 雪之助は躍起となって弁解しました。
「そうかも知れない、そうでないのかも知れない」
 平次は自分に言い聴かせるように、こう深々とした調子で言うのでした。金五郎の向う側は、鋳掛屋いかけやの岩吉の家でした。行ってみると、これはすっかりおびえてしまって、昨日から稼業も休み、何をするでもなく、ただワクワクと暮している様子です。
「岩吉というんだね」
「ヘエ――」
 ガラッ八にきめ付けられて、岩吉はガタガタふるえ出しました。岡っ引が三人、狭い門口かどぐちふさぐなんて想像もしたこともない恐ろしい図です。
「お前も、お六には借りがあるんだろう」
 平次は静かな調子ですが突っ込んだことを訊きました。
「ありましたが、払いましたよ。ヘエ」
「いつ、いくら借りたんだ」
「一両二分、三年前に借りましたが、今年になってからみんな返しました。――こ、この通り、証文を返して貰いましたよ」
 岩吉は大きな財布の中から、真新しくさえ見える自分の証文を出して見せるのでした。
「金はいつ返したんだ」
「二三日、いえ、一と月ほど前でした」
「利息が高いから、うんと金高がかさんだろう」
 と平次。
「ヘエ――」
「その金をどこから手に入れて返したんだ」
「友達が古い貸しを返してくれましたよ、ヘエ」
「どこの何という友達だ」
「ヘエ」
「言えまい」
「へ――」
「八、その野郎を縛ってしまえ」
 平次の命令は激しくて唐突とうとつでした。
「あッ、お許しを願います。――お願い、どうぞ、御勘弁を――」
 岩吉はい廻りました。生活難に疲れきって、見る影もなくしなびておりますが、どこかこの鋳掛屋には、悧巧りこうなところが残っております。
「さア、早く言ってしまえ。言わなきゃ、お六殺しの下手人にされるぞッ」
「と、とんでもない親分さん。私はあの家の手箱の中から、私の証文を一枚抜いて来ただけですよ」
 岩吉はとうとう白状してしまいました。
「なんとつまらない細工をするんだ」
 と平次。
「でも、利息を払っても、元金は減りません。一両二分借りて、この三年の間に三両以上も絞られました。――お六が死んだ今となっては、手箱から証文をそっと持って来ても、大した罪じゃあるまいと――」
「馬鹿ッ」
「ヘエー」
「余計な事をするから物事がこんがらかるじゃないか」
「ヘエー」
「その証文をもとの手箱へ返せ――と言うところだが、今度だけは許してやる。その代り何でも言うのだぞ」
「ヘエ、どんな、どんな事でも申します」
 岩吉は平次の前に米搗こめつきバッタのようなお辞儀をしました。
「お六といちばん仲の悪かったのは誰だ」
「佐の市でございます」
「その次は?」
「金五郎親方でしょうか」
「一番仲のよかったのは?」
「お六は仲の良い人間をこさえると、損が行くと思っていましたよ」
「その中でもいがみ合わないのがあるだろう」
「若旦那――雪之助さんくらいのものでしょうよ。男がよくて物柔かですから、お六婆さんだって、あんな解った人と話しているのは、満更まんざら悪い心持じゃなかったでしょう」
「お前は」
「良いような悪いような、へッ、へッ」
 一向要領を得ませんが、それでも平次は必要な程度のあごは取った様子です。


 お六の家には、町役人と雪之助と与八の女房が詰めて、とむらいの仕度をしておりました。平次はここに腰をえて調べるのかと思うと、勝手口の表戸の締りだけ見て、至って簡単にきりあげ、最後に路地の突き当りの枳殻垣からたちがき越しに、寺の境内の様子を眺めました。
「ひどい雪解けだね。二三日垣の側へ人間が歩いて来た様子はない――おや、この境内の土は真っ黒じゃないか」
 独り言のように言って、平次はスタスタと菊坂の通りへ出るのです。
「親分、帰るんですか」
 八五郎はあわてて追い付きました。
「そうだよ、もうあの長屋には調べることはない」
「下手人は?」
「解った心算つもりだ。――お前気の毒だが今日一日身体を貸してくれ」
「ヘエ、何をやらかしゃいいんで」
「耳を借せ」
「ヘエー」
 何やら言い付けて、八五郎を飛ばしてやると、平次は改めて喜三郎のけげんな顔を迎えました。
「真砂町の兄哥、今日陽の暮れる前に、ここへ皆んな集めてくれまいか」
「皆んなというと?」
「三輪の万七兄哥も、縛られた金五郎も一緒だ」
「それはわけはないが」
「その前に、番所へ行って金五郎に逢って、お六の表の戸の締りのことを聴いて貰いたい。――桟がおりていたか、輪鍵だけだったか、輪鍵に釘が差し込んであったか」
「そんな事ならわけはない、兄哥は?」
「俺は雪之助さんの家へ寄って、良いお茶を一杯貰って飲んで、真っ直ぐに帰るよ。それじゃ頼むぜ」
「合点」
 三人は三方に別れました。それは、ポカポカ暖かい日の昼少し前のことでした。
 その日の夕刻、酉刻むつ少し前、六軒長屋の路地の中に、関係者が全部集まりました。ふくれ返った三輪の万七、しおれきっている大工の金五郎、大はしゃぎのガラッ八、それにつままれたような喜三郎、岩吉、与八夫婦、佐の市とその母親、美しいお美乃、そして長屋の外に住む雪之助が物好きにこの一団に飛び込んで、進行係のような役目を勤めていたのです。
「下手人は金五郎じゃないと言うのかい」
 万七は小意地の悪い調子で平次に突っかかりました。路地の中にも夕映えが残って、妙に神秘的な気持のする刻限です。
「三輪の兄哥、気の毒だが下手人は金五郎じゃないよ。金五郎なら、翌る日わざわざ空財布を自分の家の裏口へ捨てておくはずはない。――それに、金五郎が本当にお六を殺したなら、表戸ぐらいは開けておくだろうよ。裏口だけ開けておくと、自分が下手人だという証拠を残しておくようなものだ」
「…………」
 万七は黙ってしまいました。
「下手人は岩吉でもない。――岩吉は臆病すぎるし、お六を殺した覚えがあるなら、手文庫から自分の入れた証文だけを抜いて行くはずはない」
 平次はつづけました。
「与八は?」
 と喜三郎。
「これも正直者だ。働くのが面白い男だ。人の金に目などを付ける男じゃない」
「佐の市は盲目だ。――あとは女ばかり」
 こんどは喜三郎が言うのです。
「その通りだ」
 と平次。
「すると下手人は誰だ?」
 万七は少し威猛高いたけだかになりました。
「外から入って来たのさ。――長屋の衆じゃない、長屋の衆はみな貧乏だが働き者だ」
「そんな馬鹿な事が、――お六の家の表の戸は内から締っているんだぜ。――その上木戸も輪鍵が掛っていたはずだ」
 万七は抗議しました。
「下手人は宵のうちから前の空屋に忍んでいて、時分を見計らってお六の家へ入ったんだろう。たぶん金五郎が酒を買いに出たとき、――岩吉が帰る少し前だ。お六は知っている顔だから用心もしなかった。それを見込んで、不意に後ろから絞め殺した上、有金をって、わざと勝手口を開けて、表からそっと出た」
「表は締っていたぜ」
 万七は我慢のならぬ声を出しました。
ひも一本で、外から締められるのさ。皆んな中へ入って見るがいい、俺は外から輪鍵をかけるから」
 平次はお六の家の戸の輪鍵の輪に、水でらした長い紐の端っこをからむと、その一端を戸の隙間から潜らして表へ出し、自分は一尺ほど開けたところから外へ出て、戸を締めた上、静かに紐を引きました。紐は平次の手にたぐられると、その末端を濡らして絡んだ輪鍵が、うけの金具の上にカタリとはまりました。と見ると、絡んだ紐は独りでスルスルと輪がほぐれて、平次の手に納まるのです。
「あッ」
 と驚き騒ぐ人々。
「木戸を外から締めたのもこれと同じことだ。佐の市が夜中に聴いた物音は、曲者くせものが木戸から逃げ出す音だったんだ。見るがいい」
 平次は木戸のところまで人々を誘うと、同じ方法で外から輪鍵を掛けて見せました。
「輪鍵が掛って、釘の差していなかったのは、外から細工をした証拠だ。お六の家の表戸も、釘が差していなかった。これは金五郎がよく知っている。うんと溜め込んで、用心ぶかくなりきっているお六が、そんな戸締りをするはずはない」
「…………」
 皆んなしばらく黙ってしまいます。
「木戸の輪鍵の釘が近頃見えないのもそのためだ。下手人は二三日前にその釘を隠してしまったのだ」
「その下手人は誰だ」
 三輪の万七も、さすがにかぶとを脱ぎました。
「仕事の嫌いな奴だ。――金が欲しくてたまらない奴だ。――金五郎や岩吉は、貧乏こそしているが仕事は自慢だ。人を殺して金を盗ることなどは、夢にも考えたことがあるまい。ところが、世の中には、ノラリ、クラリと遊んで暮して、贅沢ぜいたくしたいばかりに、金を欲しがっている人間がある」
「誰だ、そいつは、銭形の」
 喜三郎は四方あたりめ廻しました。
「木戸の蝶番ちょうつがいに油をして、てに音の出ないようにした奴だ。――その油は、日本橋の通三丁目で売っている、伊達者だてしゃの使う伽羅油きゃらゆだ。八、ここにいる人間の頭を嗅いで見ろ」
「あッ」
 あわてて逃げ出した一人は、早くも八五郎と喜三郎に引戻されました。
「御用ッ」
 叩き伏せて、キリキリと縛ると、それはなんと、一番無害らしく見えた、丸木屋の次男で、粋事と雑俳ざっぱいに浮身をやつしている、若旦那の雪之助ではありませんか。
 盗んだ金は三百両余り、寺の灯籠とうろうの中から平次が見付けました。その晩、お六の金をさらった雪之助は自分の家へ持込むのが不用心と思ったので一とまず枳殻垣からたちがき越しに、財布を隣の寺の境内に投げ込み、翌る日の朝行って始末をし、金は灯籠に、財布は金五郎の家の裏に捨てたのです。

     *

「驚いたね、親分。雪之助がなんだってあんな気になったんでしょう」
 ガラッ八がこんな事を訊いたのは、ズッと後のことでした。
「ブラブラ遊んでいるから、無暗むやみに金が欲しかったのさ。贅沢をするより外に能のない人間ほど恐ろしいものはないよ。――お前に雪之助の身持と、日本橋の店でも愛想を尽かしていることを訊き出させたのは、そのためさ」
「万七親分が乗出したのは」
「あれは雪之助の細工だ。三輪の兄哥はそう言わないが、あんまり早く手が廻りすぎて変だと思ったよ。それから金五郎の裏口へ財布を捨てたりして、金五郎を無実の罪に追い込み、あとで頼りないお美乃をどうかしようという企みだったのさ。――俺が金五郎の家の裏に財布が捨ててあったと言うと、雪之助は空財布と言い直したろう。――あれは語るに落ちたのだよ」
「悪い野郎ですね」
「申分のない悪党だよ。――ところで、真砂町の喜三郎兄哥の祝言までに、お前もはかまと羽織くらいはこさえておいちゃどうだ」
「そこまでは届きませんよ、親分」
折角せっかくお美乃が嫁入りするんだぜ、そのなりで高砂やアでもあるめエ。――これで間に合わなきゃ、またなんとかするぜ」
 平次はそう言いながら、珍しくふくらんだ財布を八五郎の膝小僧の上にそっと載せてやるのでした。





底本:「銭形平次捕物控(十二)狐の嫁入」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年6月20日第1刷発行
底本の親本:「錢形平次捕物全集第二十三卷 刑場の花嫁」同光社
   1954(昭和29)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1941(昭和16)年4月号
※「(「人形の誘惑」参照)」は、底本では「(「人形の誘惑」第一巻参照)」となっています。「第一巻」は底本のシリーズによるため削除しました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2020年10月28日作成
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