「親分、
とガラッ八の八五郎、薄寒い縁にしゃがんで、柄にもなく、お月様の出などを眺めている銭形の平次に声を掛けました。
平次はこの時三十になったばかり、江戸中に響いた捕物の名人ですが、女の一人客が訪ねて来るのは、少し
「なんて顔をするんだ。――どなただか、名前を訊いたか」
「それが言わねえ」
「何?」
「親分にお目にかかって申上げますって、――滅法美い女だぜ、親分」
「女が
平次は少し中っ腹だったでしょう。名前も言わない美い女と聞くと、妙に
「悪者に追っかけられたとか言って、
「馬鹿ッ、何だって
平次はガラッ八を掻き退けるように、入口へ飛出して見ました。格子戸の中、
「お前さんか、あっしに逢いたいというのは?」
「あ、親分さん、私は悪者に
「ここへ来さえすれば、心配することはない。後ろを締めて入んなさるがいい」
ただならぬ様子を見て、平次は女を導き入れました。奥の一間――といっても狭い家、
「親分さん、聞いている者はありませんか」
「大丈夫、こう見えても、御用聞の家は、いろいろ細工がしてある。小さい声で話す分には、決して外へ
平次は砕けた調子でそう言って、ひどく
「では申上げますが、実は親分さん、私は
「えッ」
石井三右衛門といえば、諸大名方に出入りする御金御用達、何万両という大身代を擁して、町人ながら
「主人の用事で、身にも命にも代え難い大事の品を預かり、仔細あって
お町は、こう言いながら、抱えて来た風呂敷包を解きました。中から出て来たのは、少し古くなった
「フーム」
銭形の平次も、妙な圧迫感に
「ちょうど通り掛ったのは、お宅の前でございます。捕物の名人と言われながら、滅多に人を縛らないという義に勇む親分にお願いして、この急場を
お町は改めて、
「で、どうしようと言うのだえ、お町さんとやら」
「この様子では、とてもこの手筐を妻恋坂までは持って参れません。そうかと言って、このまま引返すと、一晩経たないうちに、盗まれることは判り切っております。御迷惑でも親分さん、ほんのしばらく、これを預かっておいて下さいませんでしょうか」
「それは困るな、お町さん、そんな大事なものを預かって万一のことがあっては――」
平次も驚きました。命がけで持って来たらしいこの手筐を、そんなに軽々しく預かっていいものかどうか、全く見当も付かなかったのです。
「親分のところへ預かっておいて危ないものなら、どこへ置いても安心なところはございません。どうぞ、お願いでございます」
折入っての頼み、平次もこの上は
「それは預からないものでもないが、少しわけを話して貰おうか。中に何が入ってるか見当も付かず、後でどんなことになるかもわからないようなことでは、どんなに
「それでは、何もかも申上げましょう。親分さん、聞いて下さい、こういうわけでございます」
石井三右衛門というのは取って六十八、
銀町の店には、養い娘のお
大番頭は
三右衛門の力と頼むのは、十三の年から足かけ十二年奉公したお町ただ一人だけ、これは赤の他人ですが、それだけに、財産に目をくれるでもなく、昔の人達にはよくあった本当の主人思いで、半身不随で寝たきりの三右衛門を、自分の親のように世話をしていたのです。
身代は少なく積っても十万両。支配人任せで寝ている三右衛門は、力になる身寄りがないだけに、その始末が苦になってなりません。自分の生きているうちは、どうやらこうやらやって行くが、明日も知れぬ病身になってみると、せっかく築き上げた大身代を、甥や養女や、赤の他人に、
そうかといって、今大急ぎで養子を迎えることもならず、
しかし、一旦久離切った倅の三之助を、死際にこっちから呼び戻すというのも、
我慢が出来なくなって、呼寄せたのはお町。
「俺が目を
こう言い含めたのは、ツイ三日前、その翌る日は三右衛門、二度目の
こうなると、家の中にはもう、前々から
お町はこう言いながら、もう一度手筐を平次の方へ押しやりました。
「そんなわけで、今晩という今晩、甥の世之次郎様が、旦那様の枕許の用箪笥へ手を掛けなすったので、たまり兼ねて持ち出しました。旦那様は二度目の中風でございますから、お
平次もしばらくは言葉もありません。
大抵のことには驚かないように訓練を積んでいますが、夢にも見たことのない五万両三万両という大金の証文を、こんな浅まな家に預かることを考えると、さすがに穏やかな気持ではいられなかったのです。
「驚いたな、お町さん、
「それが、親分さんの信用でございます。あまり遅くなると店の方が面倒になりますから、これでお
「まア、どうも仕様があるまいが、お前さんはどうするつもりなんだい」
「私はこの桐の空筐だけ持って、妻恋坂へ参ります」
「危ないじゃないか、引っ返しなすったらどうだい」
「いえ、若旦那の三之助様に親御のお心持も伝え、それに、中味は親分さんに預けてあることも申さなければなりません」
「なるほど」
「それから、私の後から
恐ろしいきかん気、平次もさすがに、この男まさりの女の顔を眺めやるばかりでした。
「そいつは危ない。いくら宵のうちでも、間違いがあったらどうするんだ。ゴロゴロしている野郎があるから、そこまで送らせよう」
「いえ、親分、そんなことをしたら、
「そう言ったって」
「こんなに見えても、私は思いの外力がございます。小男の世之次郎さんなどには負けることじゃございません。ホ、ホ、ホ」
「そいつは豪儀だが――」
平次が心配するのも構わず、赤い手筐を置いたまま、お町はいそいそと街の月の中へ飛出してしまいました。
「ガラッ八」
「ヘエ」
「聞いたか」
「聞きましたよ。驚いた女があるものですね」
「手筐を預かってみると、俺が飛出すわけにもいくまい。
「大丈夫ですよ、親分。このお月様だ、相手の女が、五六町離れて行ったって匂いでも解りまさア」
「いやな野郎だな」
「へッ、へッ」
ガラッ八は草履を突っかけると、それでもそそくさとお町の後を追いました。明神様の方へ――。
「親分、た、大変」
「何が大変なんだ、騒々しい」
飛んで来たガラッ八。格子戸へ一ぺん鉢合せをしてハネ返されて、それからまた開けて、バアと顔を出しました。
「落着いていちゃいけねえ、すぐ来て下さい」
「どうしたんだよ」
朱塗の手筐は、早くも仕舞い込んだ平次、十手を懐へネジ込むと、裾をつまんで、サッと外へ出ます。まことに慣れた手順で、一分一厘の隙もありません。
「あの女が殺されたんだ」
「何?」
「明神様の裏の闇へ入ると、妙な物音がしたっきり、一向出る様子はねえ。駆け付けてみると、
「箱は?」
「
「曲者は?」
「まるで見当が付かねえ。二三十
「手前が間抜けなんだよ、急いで行けッ」
「息が切れてかなわねえ」
「死体はそのままにしておいたのか」
駆けながらも平次は、出来るだけガラッ八の口から要領を引出して、事情の
「通りかかった町内の人に頼んで来たよ」
「町内の人とは、どうして判った」
「
「…………」
現場へ行ってみると、もう五六人の人が立って、騒いでおります。木立と建物の蔭で、月の光もここまでは届きませんが、近所から持出したものと見えて、
「御町内の方、掛り合いでお気の毒だが、しばらく動かずにいて下さい」
平次はそう言いながら、提灯を借りて、お町の死体を見入りました。後ろから喉笛を切った時、下手人の顔を見るつもりで少し顔を
――中を開けたら、曲者もさぞ驚いたろう――平次はツイそんな気持になりましたが、そのまま提灯を上げて、死体を取囲んだ五六人の顔を順々に照らして行きました。
「八」
「ヘエ」
「この中に、お前が最初に、死骸の番を頼んだ人がいるか」
「親分、いませんよ」
「本当か」
「本当ですとも、小作りで、――暗くて解らなかったが猫背の男でしたよ、どうも不思議だ」
「何が不思議なものか、それが下手人だったのよ」
「えッ」
「馬鹿だな、相変らず、――お前は
「ヘエ――」
「外に隠れる場所はねえ。急場の思い付きだ、たぶん一度隠れたその塀の間から、
「そうですよ、親分。まるで見ていたようだ」
「町内の人のような顔をして逃げたんだ。恐ろしく落着いた野郎だ。年恰好、人相、着物などを見なかったか」
「それが親分、下手人と解れば見ておいたんだが――」
「仕様のねえ野郎だな」
「でも、猫背とわかっているんだから、これはわけもなく見付かるぜ」
「フーム」
「ね、親分、石井一家のうちから猫背を探しゃアわけはねえ、行って当ってみましょうか」
ガラッ八はすっかり得意になりました。本当に飛出しそうにするのを、
「いよいよ馬鹿だなア、女から
「その辺の
「空っぽだって、箱に仕掛けがあるかも解らないだろう、人まで
「すると」
「お前が駆け付けるまでに、背中へ
「えッ」
「とんだ猫背さ。行って聞いてみるがいい、銀町にはそんな者は一人もないに相違ないから。――町内の人はみんなスラリとしているぜ」
「ヘエ――」
平次の明察、
「銭形の親分だぜ」
「そうだろう、そうでもなくちゃ――」
と言った
「皆さん、どうか、お引取り下さい。とんだ御迷惑でした。それから町役人にそう言って、ここへ来るように
平次はもう野次馬を追っ払います。
「さア、こんな所に立っていると掛り合いになるぞ、帰れ帰れ」
ガラッ八は急に強くなります。
しばらく、
「親分、
「フム、あまり
かなり使い込んだ剃刀、
「親分、何を考えていなさるんだ」
「
「…………」
「箱を背中へ入れて、お前をかついだ様子じゃ、下手人はよほど胆のすわっている男らしいが――」
平次はいつまでも剃刀を
石井三右衛門の
その
「銭形の親分、あの女が殺されては、さしむき主人の世話を焼く者がありません。幸い、少しずつ正気付いて来るようですが、お町はどうした、なんて聞かれたら、返事のしようがないだろうと、心配していますよ」
支配人らしい行届いた心配です。
「番頭さん、この下手人はどうも家の中の者らしい。御主人があの様子だから、多分、相続争いに絡んだことじゃありませんか」
「ヘエ、――そんなことが」
禄兵衛も否定はしませんが、ひどく
「で、お町さんが殺されて、さしむきお困りなら、どうでしょう、
「と言うと?――」
「そう言っちゃ済まないが、番頭さんはお店が忙しくて奥へは目が届かないだろうし、私も毎日来ているわけにもいきません。幸い、本所の御用聞で、
平次の頼みは
「それは構いませんとも、早速連れて来て下さい。家の中に親分方の息のかかった方が居なさると、私達もどんなに心丈夫だかわかりません。なにぶんこの節は、嫌なことばかりありますんでね――いや、これは私の口から申上げることではない」
禄兵衛はフッと口を
「ところで番頭さん、この剃刀は、この家の品じゃありませんか」
平次は懐中から、キリキリと手拭に巻いた剃刀を取出し、禄兵衛の手へ渡してやりました。柄も刃もよく拭き込んであるので、もう血の
「ヘエ、――これは、見覚えがありますネ。誰のだっけ、何しろ大勢のことですから、忘れてしまいますが、柄にこんな器用な細工をする者は、たんとは居りません。ちょいと待って下さい」
禄兵衛はそう言いながら、通りすがりの下女を呼び入れて、剃刀を鑑定させました。
「お嬢さんのだアよ、番頭さん。家中で一番よく切れる剃刀じゃねえか」
「お嬢さんと言うと?――」
「亡くなったお
「その娘さんに逢わせて頂きましょうか」
平次は間もなく、養い娘のお縫の部屋に案内されました。
十九と聞きましたが、境遇のせいか、年よりはふけて、二十二三と言っても通るでしょう。少し陰気な感じですが、素晴らしい美人で、何となく
「お嬢さん、御免下さい」
「…………」
お縫はなんと挨拶していいか、見当も付かない様子で黙礼しました。
「この剃刀はお嬢さんのでしょうね」
「え」
「お町が殺された場所にあったんですが」
「えッ」
見る見るお縫の顔は真っ蒼になりました。唇からサッと血の気が
「しばらくお預かりしますよ、お嬢さん」
「…………」
「今晩、御飯が済んでから、どこかへ出かけませんか」
と改めて平次。
「え、どこへも」
「奉公人達は、しばらくの間、お嬢さんを見掛けなかったと言いますが、どこに居なすったんです」
「ここに居りました」
「ここに?」
「え、私はどうかすると、半日ぐらい、誰にも逢わずにここに居ることがあります」
もうこれ以上は訊くこともなかったでしょう。
「お邪魔でした。お嬢さん、お
番頭の禄兵衛を顧みて、今度は店の方へ。
「ね、親分、あのお嬢さんは、人などを殺せるような人間じゃありません。剃刀はお嬢さんのでも、これは私が請合いますよ、誰かお嬢さんの剃刀を持出した奴があるのでしょう」
「さア」
平次はそれには肯定も否定も与えませんでした。
間もなく、番頭の部屋を借りて、呼び出して貰ったのは、主人の甥の世之次郎。
「ヘエ、今晩は、御苦労様で」
店で働いているだけに、
小作りで、年の頃二十五六、少し
「世之次郎さんと言いましたね」
「ヘエ」
「御主人に万一のことがあると、総領が勘当されていなさるそうだから、お前さんが跡取りというわけかネ」
平次は妙に立ち入ったことをツケツケ言います。
「とんでもない、親分。そうでなくてさえ、世間の口がうるさくてかないません。そんなことはどうぞおっしゃらないように願います」
「まア、いいやな、お前さんは運が
「今晩ですか?」
「お町が殺された刻限に、お前さんはどこに居なすったか訊きたいんだ」
平次の舌は、恐ろしく
「ヘエ、――お町は
「銭湯?
と平次。
「ありますよ。雇人が入るんで、毎晩立ちますが、私は
「なるほど」
「私が内風呂へ入らないのは、家中の者が皆んな知っております」
「それにしても、宵から銭湯は、遠慮がなさすぎはしませんか」
「ヘエ」
主人の甥というにしても、店の者としては少し
「
「一刻(二時間)とも入りはしません」
「そんな長湯ですか、お前さんは?」
「へッ、少し稽古事をしているもんで」
「なるほど」
小唄の師匠へ行って、一刻も変な声を出して
これは銭湯と、町内の稽古所を調べさえすれば判ると思ったのでしょう。平次はそれっきりにして、あとは店中の奉公人、一人一人に逢ってみました。が、さて、何の手掛りもありません。
平次と一時張合って、近頃はすっかり折れてしまった本所の御用聞、石原の利助の娘、お品――まだ二十二で、平次の女房のお静とは仲好しの美しいお品――は
表向きは殺されたお町の代り、病人の世話をするという名義ですが、実は、お縫や世之次郎をはじめ、雇人全部を見張るため、お品の骨折りも一通りではありません。
主人三右衛門は、幸い翌る日あたりから、少しずつ意識を
三之助は無法者で、飲む買う打つの三道楽の外に、親の金を持出して、やくざな仲間にやるのを楽しみにしたくらいの人間ですから、――親旦那の思召しはさることながら、この家に入れたら、どんなことをするかもわからないと、禄兵衛は言うのです。それに、相続争いが、深刻になっているから、お縫や世之次郎と血で血を洗うような
平次も、しばらくその意見に任せて、成行きを見ました。が、お町を殺した下手人はどうしても判らず、桐の空箱の行方もそれっきりわかりません。
三日目に、番頭の禄兵衛は、店で紙入を紛失しました。縫いつぶしの見事なものでしたが、中には幾らも入っていないから、騒ぐまでもあるまいと、自分の胸に畳んでおくつもりらしい様子でしたが、そんなことは知れ易いもので、半日経たないうちに、店中で知らないものはない有様でした。
五日目に、お品は家へ帰りました。平次へ一通り報告した上、父親の利助が、とかく身体が
全く三右衛門はこの二三日ことのほか快く、時々は廻らぬ舌で物さえ言うようになったので、この様子で三廻りもすれば、元の身体にはならなくとも、時々帳尻ぐらいは見られるようになるだろうというほどになりました。
その晩、主人の部屋に泊ったのは、相模女のお
眼の覚めたのは翌る朝、窓を開けて、朝の光と空気を入れて見ると、主人の三右衛門、
「ワッ、た、助けてくんろッ」
お村は
恐ろしい不安を
「誰もここへ入るんじゃないぞ。お前は銭形の親分を呼んで来い。お前は医者だッ」
支配人の禄兵衛が、たった一人でてんてこ舞をしていると間もなく、銭形の平次、子分のガラッ八をつれて飛んで来ました。
続いて、お品、町内の医者、町役人、家の中はただもうごった返します。
「銭形の親分、申し訳がありません。たった一晩の油断で」
お品は面目なげに言うと、
「なアに、
「えッ」
「お品さんは証拠固めのとき役に立つんだ。安心していなさるがいい」
平次はお品を慰めておいて、変事のあった部屋へ行きました。
「あッ、親分待っていました」
入口に頑張っていたのは、支配人の禄兵衛。
「番頭さん、大変なことになりましたね」
「どうしていいか、私には見当も付きませんが、とにかく、ここへは、親分が見えるまで、誰も入れないつもりで頑張っていましたよ」
「それは有難い、早速見せて貰いましょうか」
平次は部屋の中へ入って行きました。中風に当った半病人ですが、
拾い上げて見ると、中には小粒が少々と、鼻紙だけ。
「この紙入は誰のでしょう」
平次がそれを持って部屋から出ると、
「あッ」
一目、番頭の禄兵衛が飛上がりました。雇人達は顔を見合せるばかり、口を利く者もありません。
「番頭さんが二三日前に
とお品。
「え、そ、そうですよ。どうして
禄兵衛は歯の根も合いません。
「番頭さん、中を改めて下さい。中味に変りはありませんか」
と平次。
「…………」
禄兵衛は黙って紙入を取上げましたが、一通り中を
「紙一枚、小粒一つ無くなってはいません」
まじまじと頸を捻っております。
「番頭さん、心配には及びません。これはお前さんを罪に落そうとする
平次は部屋に入ると、主人の死体の頸に巻付いた赤い紐を解いて持って来ました。
「この紐で殺したようには見せかけているが、それも細工で、こんな細い紐で、人間一人殺せるわけはありません。――この通り」
平次は両手へ紐を絡んで引くと、
「あッ」
驚き騒ぐ人々を尻目に、平次はもう一度主人の死体のところへ帰って行きました。
「御覧の通り、頸には、絞め殺した時の紐の跡が付いているが、それで見ると、刀の下げ緒か前掛の紐か、――とにかく、恐ろしく丈夫な一風編み方の変った
「…………」
皆んなはもう一度顔を見合せました。
「番頭さん、済みませんが、この部屋の隣は納戸になっているようだが、戸の隙間から変なものが見えますよ、拾って来て下さい」
番頭の禄兵衛は黙って隣の納戸へ入りましたが、不気味そうに手へブラ下げて来たのは、
「あッ、世之次郎さんのだ」
誰かがとうとう口を滑らせました。
「八」
平次が一つ目くばせすると、ガラッ八は飛鳥のごとく、世之次郎の
「野郎ッ、騒ぐな」
手頸に絡むのは、蛇のような捕縄。
「あッ、俺は、俺は何にも知らない」
世之次郎は、あまりのことに、驚くことも忘れたように、口を開いて
「紙入や赤い紐の細工は器用だが、さすがに叔父を殺した自分の前掛を持って行くほど胆が太くなかったんだな、罰当りな奴だ」
妙な破目になった禄兵衛は、主人筋の世之次郎へ、
それから十日目、石井一家の騒ぎに関係した者は全部八丁堀の
本当の調べは、町奉行でやることにはなっておりますが、
幕末の奉行などは自分で罪人を調べた者はほとんどなく、与力も調べの出来るのは余程の
この日、笹野新三郎の前に呼出されたのは、石井の支配人禄兵衛、三右衛門の甥世之次郎、これは伝馬町の仮牢から
「平次、お前の望み通り、ここへ皆んな集めたが、いったい何を訊こうというのだ」
笹野新三郎、何か期待するような調子で、微笑を浮べながら一同を見廻しました。
「ヘエ、この石井三右衛門一家の騒動は、ひどく
「何?」
新三郎も少し予想外の様子です。
「あのとき世之次郎は、銭湯へ行ったような顔をして、町内の小唄の師匠のところへ行って、黄色い声を張り上げていたことは、大勢の証人があってたしかでございます」
「フーム」
「それに、死骸の
「…………」
「お縫でないことは、わざわざ自分の剃刀を捨てて来たのでも解ります。第一お縫は、お町と仲が悪かったそうで、
「なるほど」
「それから、主人の三右衛門を殺したのも、世之次郎ではございません」
「えッ」
平次の話の途方もなさに、新三郎始め、庭先に
「三日も前から、番頭の紙入を盗んで、それを証拠にしたというのは、少し細工が過ぎます。紙入を盗めば騒がれるに決っておりますから、そんなものは証拠になりません」
「…………」
「それほど細工の上手な世之次郎なら、何もわざわざ自分の前掛で、叔父を絞め殺すようなことをするまでもないはずです。紐や縄はどこにでもあります。――その真田紐を、覗けば見えるような隣の部屋へ
「なるほど、理窟だな」
新三郎もすっかり引入れられました。
「私がお品さんをあの家へ入れておいたのは、下手人がお品さんに見せようと思って、どんな細工をするか、それが知りたかったのです」
「それだけ解っているなら、どうして無実の世之次郎を縛って、
笹野新三郎は、改めて平次に訊ねました。
「それは旦那、下手人に油断させて、尻尾を出させたかったからでございます。そうでもしなければ、私の腹の中で見当を付けているだけで一つも証拠というものがありません。世之次郎には気の毒ですが、叔父の敵討のために苦労したと思って、あきらめて貰うより外に仕方がありません」
「その証拠は何だ、下手人は誰だ」
「もう申上げるまでもないようです。あの顔を御覧下さい」
ハッと思うと、平次に指された支配人の禄兵衛は、立ち上がって庭口へ逃げようとしているのでした。
「逃げるのか、野郎ッ」
飛付いたガラッ八、力だけは二人前もあります。あッという間に禄兵衛を叩き伏せ、
「あの野郎です。店から現金で一万両も持出して、
平次の説明は疑いを挟む余地もありません。
「そうか、太い奴があるものだな。すぐ口書を取って、奉行所へ引いて行け。皆の者、御苦労であった。別して世之次郎は気の毒だ。三之助が跡目相続済んだ上は、よく世話をしてやるがいい」
笹野新三郎はこう言って立上がりました。平次には別に褒め言葉もありませんが、平次にとって、その優しい眼が、雄弁に手柄を讃美しているので充分だったでしょう。