「八、久しく顔を見せなかったな」
銭形の平次は縁側一パイの三文盆栽を片付けて、子分の八五郎のために座を作ってやりながら、煙草盆を引寄せて、甲斐性のない粉煙草をせせるのでした。
「ヘエ、相済みません。ツイ忙しかったんで――」
「金儲けか、女出入りか」
「からかっちゃいけません」
「まさかあの
「何です、その案山子に魔がさしたてエのは」
「白っばくれちゃいけない、踊だよ。水本
「へッ」
「変な声だな、すっかり言い当てられたろう。――悪い事は言わないから、あれだけは
「それですよ、親分」
「何がそれなんだ。眼の色を変えて
「その水本賀奈女師匠が、思案に余って銭形の親分さんにお願いして、ちょっと
ガラッ八の八五郎は、急に居住いを直して、突き詰めた顔になるのです。
「御免
平次は
「でも、水本賀奈女師匠が人に
「変なこともあるだろうよ。近頃は
平次はまるっきり相手になりません。
「親分」
「もうたくさんだ、帰ってくれ。――水本賀奈女にそう言うがいい、踊の師匠の看板を外して、
ガラッ八はスゴスゴと帰って行きました。まさに一言もない姿です。
しかし、事件はこれを切っかけに、大変な発展をしてしまいました。それから三日目の夕方――。
「さア、大変ッ、親分」
息せき切って飛込んだガラッ八。
「今日の大変は荒っぽいようだな、何が始まったんだ、八」
平次は相変らず驚く様子もなく植木の芽から眼を
「師匠が絞め殺されたんですぜ、親分」
ガラッ八は少し喰い付きそうです。
「水本賀奈女がかい?」
「だから言わないこっちゃない、あのとき親分が行って下されば――」
「怒るな八、殺されたのは気の毒だが、岡っ引が十手を突っ張らかして、評判のよくない踊の師匠のところへ行けるか行けないか、考えてみろ。一体どうしたんだ」
「可哀想ですよ、親分。――昼湯から帰って来て、大肌脱ぎになって化粧しているところをやられたんだ」
「誰も居なかったのか」
「内弟子のお秋は
ガラッ八の話は手真似が入ります。
「ともかく行ってみよう」
平次は立ち上がりました。
「野郎ッ、来やがれッ」
「何をッ、お
「その手を離せ、畜生ッ」
「誰が離すものかッ」
「あッ、何という事をするんだ」
さすがにひるんだ銭形平次。
「親分、この野郎だ、師匠を殺したのは」
「何をッ、人殺しはこの野郎に間違いはねエ、あっしがこの眼で見たんだから」
二人はまた歯を
「半次に助七じゃないか、こいつは一体どうした事なんだ」
ガラッ八の八五郎は、二人の間へ割ってはいって、どうやらこうやら引離し、二頭の
「ね、八五郎親分。この半次の野郎が、師匠に振り飛ばされて、うんと
と助七、
「何をッ、師匠を死ぬほど怨んでいたのはうぬじゃないか」
とやり返す半次。八五郎はようやくそれを
そのこんがらかった二人の言葉を整理して聴くと、半次は――ツイ
それから騒ぎになって、折柄通りがかりの八五郎が飛込み、銭形平次に報告されましたが、半次と助七は、日頃の
「よしよし、二人で相談してやったんでなきゃ、二人とも
平次は
半次は床屋の
「ところで、二人が表と裏から入って行くとき、誰にも逢わなかったのか」
平次は改めて問いました。
「逢やしませんよ。――だからこの野郎が殺したに
半次がまくし立てると、
「逢ったのは、このひょっとこ野郎だけですよ、親分」
助七も負けてはいません。
「もういい、二人が喧嘩をしているうちに、本当の下手人はどんな細工をするか解らない――歩きながら聴くとしよう」
平次は半次と助七を引っ立てるように、薄暗くなりかけた街へ飛出し、向柳原へ急ぎながらつづけました。
「――二人は別として、水本賀奈女をうんと怨んでいた者が他にあったはずだ、心当りはないのか」
「そりゃ、たくさんありますよ」
「例えば?」
「師匠と一年でも半歳でも一緒に暮した、伊勢屋新兵衛などは、良い
助七はそんな事を言いながら、ニヤリニヤリと笑うのです。
向柳原の水本
家は入口の三畳の外に、賀奈女が殺されていた居間の六畳、あとは踊舞台をおいた八畳と、
「おや、銭形の親分」
ほぐれる人の渦の中へ、平次は入って行きました。死体はまだそのまま、鏡台はハネ飛ばされて、座布団の上から
骨細ですが、よく
首に巻いたものは、赤い
「フーム」
銭形平次は死体の顔を一と眼、思わず
「本性が出たんだね、親分。――怖いものじゃありませんか」
八五郎は
「お前も講中の一人だったじゃないか――こうなりゃ仏様だ、悪く言っちゃ済むめえ」
平次は有合せの浴衣を顔へ掛けてやって、神妙に
「そう思って、
無駄を言いながらも、二人は念入りに家の中を調べ、死体の位置と、出入口の関係を見、集まった人達の
「なくなった物は一つもなし、――家の中には少し泥が落ちていた――もっともこれはわざとやったのかも知れない。――縄もどこにでもある、三つ繰りの
銭形平次は残された事情の上に、見事な仮想を組み立てながら、犯罪の現場を再現して行くのです。
「親分、下手人の見当は?」
「待て待て、――路地の外は天下の往来だ、人通りはたくさんある。夕方路地を入った人間をいちいち覚えている人はあるまいから
「ヘエ」
間もなく八五郎に引立てられて来たのは、十六七の踊の弟子というよりは、
「お前か、お秋というのは?」
「ハ、ハイ」
「先刻あの騒ぎのあった時、どこに居たんだ」
「あの、豆腐を買いに出ました」
「その豆腐はどこにある」
「お勝手に置いてあります」
「よしよし持って来なくたっていい。――ところで、路地を入ったとき誰にも逢わなかったのか」
「え」
「家に入ったとき、一番先に眼についたのは何だ」
「半さんと助さんか、
「泣かなくったっていい」
シクシクと手放しで泣き出すのを、平次は少し持て余し気味です。
「あの――」
「なんだ」
「殺したのは誰でしょう」
「そいつはわからないが、――お前には良い師匠だったのか」
「…………」
お秋は黙り込んでしまいます。
「下手人を挙げるためには、いろいろ訊きたいことがある、正直に言ってくれるか」
「え」
「第一番に、師匠――賀奈女をうんと怨んでいたのは誰だ」
「伊勢屋さんですよ。往来で私の顔を見ると、師匠はまだ生きているか、――なんて言うんですもの」
「他には」
「さア」
「ここへ一番よく来たのは誰だ」
「半次さんと助七さんですよ。どんな日も一度ずつは来ました。多い時は二度も三度も――」
「たいそう精が出るんだな」
平次はガラッ八を振り返ります。これもどうかしたら日参した口かもわかりません。
「へッ」
八五郎はその視線を避けるように首を縮めます。この小娘が何を言い出すか、危なくて危なくてたまらない様子でした。
近所の衆から一と通り訊きましたが、何の手掛りもなく、路地を入った者も出たものも、半次、助七、お秋のほかには見たものもありません。
それに、死人に対する遠慮があったにしても、水本
「これだけ評判が悪いと、死に花ですね。――皆んなをこんなに喜ばせるんだから」
ガラッ八はまたとんでもない事を言います。
「馬鹿野郎、何という口をきくんだ」
「ヘエ」
ガラッ八の無遠慮な口をたしなめながら、その晩は引揚げる外はありません。
「八、ここは路地の奥でどこからも見えまいと思ったら、横田若狭様邸内の火の見
縁側に立った平次は、左手に近々と建っている、火の見櫓を見上げるのでした。
「賀奈女もそれを気にしていましたよ。でも、あの調子だから、火の見櫓から見下ろされるのを承知で大肌脱ぎか何かで化粧していたんでしょう」
とガラッ八。
「横田様の火の番をお前知ってるか」
「喜三郎というのが居ますよ。伊勢屋の死んだ女房の
「行って会ってみようよ」
平次はそこからすぐ、横田若狭の邸内――板塀とすれすれに建てた火の見の下にやって行きました。賀奈女の部屋から二十間とは離れていません。
八五郎に声を掛けさせると、気さくに、
「ほい、何か用事かい」
そう言って裏木戸から顔を出したのは、五十七八の
「お前は喜三郎というんだね、あっしは、平次だが――」
「ヘエ、よく存じております。銭形の親分で」
「さっそくだが、きのう隣の踊の師匠のところに騒ぎがあったんだが――」
「そうですってね、実はあっしも少し引っ掛りがあって、あの師匠を怨んでいましたが、天罰と言っちゃ済まないが、――恐ろしいことですね」
「引っ掛りというと」」
「なアに、大したことじゃありません。伊勢屋の死んだ女房が、私の娘で、ヘエ――」
「そうか」
平次も相手の正直さに、かえって話の腰を折られた形です。
「ところで、御用とおっしゃるのは?」
喜三郎は
「火の見からはよく見えるだろうと思うが、昨日何か変ったことがなかったのか」
「いろいろ見えましたよ。私はこんな稼業をしているくらいですから、年にしちゃ眼の良いのが自慢で、師匠が毎日昼湯へ入って来て、大肌脱ぎで化粧する図には当てられつづけておりますが――」
「昨日は」
「相変らず鏡の中の自分の
「その顔を見なかったのか」
平次は少しじれ込みます。
「色の黒い、背の高い頑丈な男で」
「身なりは?」
「茶がかった
「それっきりか」
「その男が見えなくなると、半次さんと助七さんが裏表から入って、いきなり
喜三郎の笑いは
「色が黒くて、背が高くて、頑丈で、茶がかった万筋の古袷を着ているのは誰だえ」
平次は家へ入って来ると、近所の衆に訊きました。
「そいつは伊勢屋さんじゃありませんか。――師匠と一緒に暮した伊勢屋新兵衛そっくりですよ」
「その伊勢屋は今どうしているだろう」
「家は近所ですが、二三日見えませんよ」
口はたいてい揃います。
さっそく八五郎を出してやって、心当りを
この伊勢屋新兵衛というのは、かつては向柳原の大きな雑穀問屋で、三四代つづいた
その後まもなくお今は死にました。事情が事情だったので自殺だという噂も立ちましたが、事実はひどい
その日も何の発展もなく暮れて、平次が引揚げの仕度をしている時、
「親分、伊勢屋新兵衛が来て、入口で
近所の衆が苦々しく取次いでくれます。
「構わないから、ここへ通そう」
「大丈夫ですか、少し酔ってるようですから、仏様の前で何を言い出すか、わかりませんよ」
「言わせるのも
ガラッ八は心得て行くと、まもなく三十二三の色の黒い頑丈な男を連れて来ました。――高い背、よれよれの茶万筋の袷――。
「あ、銭形の親分」
伊勢屋新兵衛の顔には、一瞬
念仏一つ
「見ろ言わないこっちゃない――」
新兵衛の唇からは、
「――俺があれほど言ったじゃないか。――私がいなきゃ生きていられないという男が、町内だけでも十人はあるとお前は言ったが、――見るがいい、お前が死ねば、一人も顔を出しゃしない、皆んなこの先
伊勢屋新兵衛は吐き出すように言い終って、線香をもう一と掴み
「伊勢屋、お前は泣いてるじゃないか、やはり悲しいのか」
平次はそれを迎えて言います。
「悲しい? 冗談でしょう、馬鹿馬鹿しくって、
「そうかなア」
「私はね、親分。この女のために、町内一番の身上をいけなくして、こんなざまになりました。みんな私の不心得から出たことで、身上なんざ、どうなったって構やしません、私一人が恥さえ忍べば、また稼いで溜める工夫もあります。ただね、親分、――」
「…………」
伊勢屋新兵衛はガックリ頭を下げると、またも黒く痩せた頬を、涙がハラハラと洗うのです。
「私の道楽を苦に病んで、死んでしまった女房が可哀想でなりません」
「…………」
「親分、私は、金や身上なんざどうなったって構やしません。女房さえ達者で生きていてくれたら、死んだ気になってまた稼ぎ溜め、元の伊勢屋の半分でも三分の一でも
「…………」
「女の中にも賀奈女のような、自分の容貌と才智と愛嬌に
「…………」
「賀奈女のために死んだ男や女は二人や三人じゃねえ。内弟子のお秋さんの
「何? お秋の許嫁がどうした」
平次は聞きとがめました」
「そんな噂もありますよ。町内の衆だって、賀奈女の容貌と愛嬌と踊には感心しながら、腹の中じゃ化け狐だと思っている。――死んだって泣く者なんか一人もねえ、ザマア見やがれ」
「…………」
「私は賀奈女の死んだのさえこの眼で見れば、もう思いおくことはない。死んだ気になって働いて、もういちど伊勢屋の身上を立て直し、あの世の女房に見せてやりますよ。――女房はそればかり言いつづけて死にました。私はこうなっても誰も怨みはしない。お前さんさえ元のお前さんになってくれれば、ただ私たちの代になって伊勢屋を
「…………」
「私は坊主になった気で働きますよ、――賀奈女にもいよいよこれで縁切りだ。心の隅に残った未練も、さっぱりとなくなってしまいました。それじゃ親分」
帰って行く伊勢屋新兵衛、ガラッ八がいくら眼顔で知らせても、平次は縛ろうとも呼び戻そうともしません。
「お秋は? 親分」
「あの女じゃない、許嫁がどうしたか知らないが、――あの女ではあるまいよ」
「師匠を殺しておいて、豆腐を買いに出たんじゃありませんか、その後へ半次と助七が来たとしたら」
八五郎もなかなかうまいところを考えます。
「あの女には、荒縄で賀奈女は殺せない。賀奈女の方が力も才智もある。――それに、師匠を殺して、豆腐を買って来る
「そんなものですかね」
「それより、庭へ喜三郎が来ているじゃないか、――外へ出て話を聴こう――。八、お前も一緒に来るがいい」
平次は
ポクポクと影を引く老人の後に
「親分さん、よく気が付きましたね」
「それは稼業だもの」
迎えるように立ち止まって淋しく笑う喜三郎、平次はその影の前の捨石に腰をおろしました。
「私はけさとんだことを申上げてしまいました。――賀奈女を殺した者を見たなんて、あれはみんな嘘でございますよ」
「…………」
「私はあのとき火の見
喜三郎老人の話はとんでもないものでしたが、それを聴く平次は、別に驚く様子もありません。
「そうだろう、お前の言うことはあんまり
「私は伊勢屋が憎かったのでございます。あんな良い娘を
「お前は伊勢屋を賀奈女殺しの罪に
平次の調子は低いが身に
「面目次第もございません。親分さん、私は
「あ、待った」
言う間もありませんでした。
「八、飛込め」
「駄目だ、あっしは御存じの徳利で」
「仕様のない奴だ、泳ぎくらいは稽古しておけ」
クルクルと裸になった銭形平次は、場所を見定めて同じ春の水へパッと飛込んだのです。
*
それから十日二十日と日が経ちますが、踊の師匠水本賀奈女を殺した下手人はとうとう挙がらず、平次は神田っ子と八丁堀の役人からさんざん小言を言われながら、尻をあげようともしません。
「親分、賀奈女殺しはどうしたんです?」
「解ってるじゃないか」
八五郎の鼻のキナ臭いのを、平次は面白そうに見ているのでした。
「ちっとも解りませんよ。下手人は誰でしょう」
「西国巡礼に行ったよ。――お前も
「えっ、あの火の番の喜三郎?」
「野暮な声を出すなよ。聴いてるのは幸いお静だけだが――」
「本当ですか、親分。どうして縛らなかったんで」
「一度水へ飛込んで亡者になったじゃないか」
「ヘエ――」
「誰にも言うな。――もっとも西国三十三ヶ所の霊場を廻って、どこで死ぬか判らないから、二度と江戸には帰らないと言っていたが」
「
「何を感心するんだ。あの親爺は娘の
「ヘエ――」
八五郎は
「現場を見極めた証人(目撃者)だと思ったから、俺も最初は少しも疑わなかった。が、伊勢屋が憎くて言った
「…………」
「あとは知っての通りさ。――意見を言うわけじゃないが、容貌と愛嬌と才智だけで何でもやり遂げようと思う女には気をつけろよ。ハッハッハッ、まアそういったようなわけさ。恐ろしく突き詰めた顔をするじゃないか、八」
平次はそう言ってカラカラと笑うのです。