「八、居るか」
障子を細目に開けて見ると、江戸中の桜の
「あ、親分。お早う」
声を掛けたのは、まさに親分の銭形平次、寝乱れた八五郎の姿を見上げて、面白そうに、ニヤリニヤリと笑っております。
「お早うじゃないぜ、八。もう、
「そのせりふは叔母さんから聞き馴れていますよ。――何か御用で? 親分」
八五郎はあわてて
「大変だぜ、八五郎親分。こいつは出来合いの大変と大変が違うよ。
平次はそう言いながらも、一向大変らしい様子もなく、店先へ顔を出した八五郎の叔母と、
「あっしのお株を取っちゃいけません。――どうしたんです、親分」
八五郎は帯を結びながら、お勝手へ飛んで行って、チョイチョイと顔を
「観音様へ朝詣りをするつもりで、フラリと出掛けると、途中で大変なことを聴き込んだのさ。お前に飛込まれるばかりが能じゃあるまいと思ったから、今日は俺の方から、『大変』をけしかけに来たんだ。驚いたか、八」
「驚きゃしませんよ。まだ、親分は何にも言ってないじゃありませんか」
「なるほど、まだ言わなかったのか。――外じゃない。
「ヘエ――。あの評判の良い
「どうだ、一緒に行ってみないか」
「行きますよ。ちょいと待って下さい親分」
「これから飯を食うのか」
「腹が減っちゃ戦が出来ない」
「待ってやるから、
「黙っていて下さいよ、親分。小言をいわれながら食ったんじゃ身にならねえ」
「六杯と重ねてもか」
そんな事を言いながらも、八五郎は飯を済ませて、身仕度もそこそこに飛出しました。
広徳寺前までは一と走り、相模屋の前は、町内の野次馬で一パイです。
「えッ、
「どうした、お神楽の。
平次は穏やかに訊きました。
「挙がったようなものですよ。帳場の金が百両無くなって、下男の
「逃げた先の見当は付いたかい」
余計なことを、ガラッ八は口を挟みました。
「解っているじゃないか。吉原の
「へッ」
八五郎は
殺された相模屋総兵衛は、その時もう六十歳。早く女房に死に別れて、跡を継ぐべき子供もなかったので、二人の
口やかましくて、手堅い性分で、なまけ者や
平次はともかく、番頭の市五郎に逢って、いろいろのことを
主人総兵衛の死骸は、
傷は
無くなったものは、現金で百両、それは番頭の市五郎もよく知っております。昨夜帳尻をしめて現金百十二両主人に渡し、主人はそれを空財布に入れてふところに入れたのを見ていたのですが、死骸の側にほうり出した財布には、小粒で十二両残っているだけ、小判で百両の金は、どこにも見当らなかったのです。
「主人を怨む者はなかったのか」
平次は、こんな平凡なことを訊ねました。
「慈悲深い、よく出来た御主人でございました。怨む者があるはずもございません」
「昨夜から見えないという下男は?」
「権八といって、二十九になる男でございます。
「その権八の荷物はどうした」
「それも三輪の親分さんがお調べになりましたが、――着換え一枚だけ持ち出したようで」
そういわれると、この
「権八の在所へは?」
「三輪の親分さんが追っ手を出しました」
それではもう、平次にしなければならぬ仕事は一つもありません。
念のため、二人の姪に会ってみました。一人はお杉といって二十五、これは総兵衛の妹の娘で、
「縁側の雨戸が一枚開いているんでびっくりしましたよ。もしやと思って覗いてみると伯父さんが――」
お杉はゴクリと
平次は総兵衛の死骸を一応見せて貰い、わけても、傷口をよく調べた上、雨戸の開けてあったという辺の敷居を念入りに見たり、戸締りの
「戸締りは誰がするんだ」
「私がしますよ。昨夜も
「その心張りはどうなっていた」
「縁側に落ちていましたよ。戸は一枚開けっ放したままで」
「主人は眼ざとい方か」
「それはもう、お年ですから、少しの音でも眼を覚しました」
「もっとも、ここで少しくらい音を立てても、皆んなの休む方へは聴えないな」
「ずいぶん離れていますから」
お杉は顔にも、様子にも似ず、よく気の廻る女でした。こう話していると、次第にこの女のよさや賢さが解ってくるような気がします。
平次は狭い庭へ降りてみました。そこから裏口まではほんの二間ばかり、
もう一人の姪のお道というのは、総兵衛の弟の娘で十九、これは美しくもあり、若くもあり、その上
「私は何にも知りません。――どうしたらいいでしょう」
何か訊かれれば、そういっておろおろするお道――そのすぐでも泣き出しそうな美しい顔を見ていると、平次も手の下しようがありません。ただ、伯父の世話は一切お杉が引受けてするので、自分は何にも知らなかったということ。夜はお杉と同じ部屋に寝るが、二人ともよく眠るので、地震や近所の火事さえ知らずにいて、
「逃げた権八はどうだ」
平次は問いを転じました。
「正直者で、よく働きました。でも、本当の田舎者で――」
お道の頬は少し
手代の徳松というのは二十五六、これは店中で一俵の米を扱い切れないただ一人の弱い男で、色の白い背の高い美男でした。
「主人は商売柄六十を越しても、一俵の米が軽いという人でしたが、私は御覧の通りの病身で、帳面の方ばかりやっております」
そういって淋しく笑うと、女のような表情になるのを、徳松は、自分でもひどく恥入っている様子です。
「ゆうべ何か変ったことがなかったのか」
「表二階へ小僧の庄吉と一緒に早寝をしてしまいました。何にも存じません」
「下男の権八はどんな男だ。知ってるだけのことを訊きたいが――」
「正直
「フーム、主人とよく気風が似ているんだな」
「ヘエ、時々それで変なことがございました。これはまア、申上げない方がいいでしょうが」
徳松は自分の言い過ぎに気が付いたらしく、あわてて口を
「変な事? それを聴かしてくれ」
「ヘエー」
「隠しちゃいけない。いずれは知れることだ。主人と権八の間に何があったんだ」
「では申上げます。――私はただ小耳に挟んだだけで、
「番頭さんからは後で訊くよ」
「――こうでございます。権八がここへ奉公してから十年になるんだそうで、その間に稼ぎ溜めた給金――年に四両の決めと、いろいろの貰いや何かを、手も付けずに主人に預けたのが、五十両とかになったそうで――」
「フムフム」
「在所へ帰って
「フーム」
「今年も出代りの三月三日が過ぎたが、暇もくれそうもないといって、権八は昨日も
徳松の話は思わぬ方まで発展して、下男権八の動機を説明してくれます。
つづいて平次は小僧の庄吉に会いましたが、これは十四五の
昼過ぎまで、何の発展もありません。
平次はともかく家中の者の持物を調べる事にしました。まず番頭の市五郎から始めて、徳松、庄吉と調べて行くと、
「親分――こんなものがありましたぜ」
ガラッ八の八五郎は紙包を持って来ました。
「何だいそれは?」
「小判ですよ、親分。小判で五十両」
「何?」
受取って見ると、まさに小判で五十両、紙包は少し破れましたが、
「こいつが仏様の前にありましたよ」
「仏様の前?」
「線香の側、――
「荷物の調べが始まるんで、あわてて仏様の前へ持って行ったんだろう。誰があの部屋へ入ったか訊いてくれ。荷物の調べが始まってからちょっとの間だ」
「ヘエ――」
ガラッ八は飛んで行きましたが、これは
荷物の調べはつづけられました。お杉の荷物――
「あ、それは、それは」
三白眼が不気味に見開いて、口はただパクパクと動くだけ。
「え、女、神妙にせい」
どこから飛出したか、お神楽の清吉、お杉の後ろに廻って、その背を十手でピシリと叩きます。
「お神楽の
平次はそれを押止めました。
「えッ、何が早いんだ。銭形の親分」
「血はみんな袷の
平次はお杉に訊きました。
「洗濯物と一緒に、
お杉は平次の助け船に、ようやく平静を取戻しました。
「だがネ、銭形の親分。この女は伯父を怨んでいたぜ。――伯父の総兵衛は、自分より年の若いお道を可愛がって、跡取りにしそうだったんだ。いま殺さなきゃ――」
「そんな、親分。私はそんな事を考えたこともありませんよ」
お杉はあわてて清吉を
「それより面白いことがあるんだ、八。荷物の調べが一と通り済んだら、その小僧に訊いてくれ。五十両という大金をどこから出した――と」
「え、五十両を仏様の前においたのは、この小僧ですか」
八五郎はえんぴを伸ばして、逃げ腰の庄吉を押えました。
「小判の包紙に、
「この野郎、――どこから、誰に頼まれて持って来た。言わなきゃお前が下手人だぞ、主殺しは
八五郎の
「ワーッ、勘忍しておくれよ。おいらじゃない。おいらは何にも知らないんだ」
「じゃ、誰に頼まれた」
「権八だよ」
「何?」
「権八がゆうべ遅く帰ってきて、店の臆病窓を締めようとしたおいらに、この金包を渡したんだ」
と庄吉は泣きながら、思いも寄らぬことを言い出すのでした。
「それからどうした」
と平次。
「これは旦那に返してくれ、百両持って行っちゃ済まないから、わざわざ
「なぜ昨夜のうちに返さなかった」
「旦那はもうお休みだったもの、返せやしないや。仕方がないから一と晩待っていると、今朝はあの騒ぎだ」
「なぜすぐ出さなかった」
「怖かったんだもの、うっかり金なんか出せはしないや」
庄吉は
この上は追っ手が古河から、権八をつれて来るのを待つほかはありません。相模屋の店中も、ようやく平静を取戻して、型通りの
しかし平次は、その間も黙って見ていたわけではありません。下男の権八が下手人にしても、千住から引返して、盗んだ百両の半分を返して行くというのは、何としても説明のしようのない態度です。事件は外面に表れた形相より、もっともっと深いものかもわからず、どうかしたら、権八は下手人でないかもわからないのです。
八五郎と力を
その日はともかく引揚げた平次は、八五郎と下っ引を二三人動員して、なお念のために、相模屋の家族と奉公人の身持ちを洗わせることにしました。
「番頭の市五郎は喰えない男らしい。通いだというから、暮し向きをよく調べてくれ。手代の徳松は男が良くて人付きがいいから、少しは遊ぶだろう。それも念入りに、金の
「ヘエ、そんな事ならわけはありませんよ」
ガラッ八は、気軽に飛んで行きました。
それから、まる一日。
「親分、――お助け――」
いきなり平次の家へ飛込んだ者があります。薄暗くなりかけた格子の中、
「お前は?」
晩飯までの待遠しさ、
せいぜい二十八九、まだ若くて眼鼻立ちも立派な男ですが、恐ろしく陽に
「権八です。――相模屋の権八ですが、私は縛られるかも知れません」
「…………」
「私が主殺しをするかしないか、銭形の親分さんなら、よく解って下さるでしょう」
「まア、話を聴こう、入れ」
「ヘエ――」
平次の表情はまだほぐれませんが、調子がいくらか柔らかになると、権八は安心した様子で、そそくさと
「ところで、お前はどうして古河から帰ったんだ」
座が定まると、平次は静かに問いました。
「私は大変な間違いをしました、親分」
「間違い?」
「相模屋へ奉公してから十年、若い時フトした間違いで
「…………」
権八がホロリとするのを、平次は黙って先を
「ところが、十年の約束の年限が過ぎ、金も五十両と溜りましたが、主人はどうしても私にお暇を下さらず、預けておいた金も下さいません。あとで考えると、昔が昔ですから、金の顔を見ると、また私の道楽が始まりはしないかと、それを心配して下すったのでしょう。でもそのとき私は、そんな事とは気が付きません。約束の年季を一年も過ぎ、古河の母からは矢の催促で、近ごろ年を取って、めっきり弱ったから、早く帰って顔を見せてくれと言われる度に、私は暇も金も下さらない主人を怨みました。とうとう我慢が出来なくなったのは、この出代り時の三月三日でございました」
「…………」
「主人はあの晩私を呼んで、お蔵前へ届ける百両の金を預け、明日夜が明けたらすぐ持って行ってくれ、私は遅いかも知れないから、今からやっておくとおっしゃるのです。私は承知をしてその百両の金を受取りましたが、それを見ていたのは姪御のお道さんだけ――」
「…………」
「私はフト、気が変りました。どうせ暇も金も下さらないのなら、この金を持って故郷の古河へ帰り、十年振りで母の顔も見、質に入れた田地も請け戻そうとそのまま飛出してしまいました。が、千住の大橋へ行って気が付いたのです、腹立ち
権八はたくましい
「――驚いたことに、それより三日前、江戸の相模屋の使いの者が、五十両の金を持って来て、私が昔質に置いた田地を、みんな請け戻して帰ったというじゃありませんか。私が並べた五十両の小判を見て、母も驚きましたが、それより、母の話を聞いた私の驚きは――」
「…………」
「みんな御主人の有難い思いやりでした。私に金を持たせると、
「途中で追っ手に逢わなかったのか」
「私は近道を拾って来ました。――広徳寺前まで来ると、店に入る前に、運よくお杉さんに逢ったのです。――私はお杉さんからみんな聴きました。旦那は本当にお気の毒で、あんなに良い方を殺すなんて、
若くて生一本な権八は、平次の前に手を合せて、恥も外聞もなく泣くのです。
「拝むのは
「いえ、それは」
「言い訳しなくてもいい。お前は
「ヘエ――」
「お前の智恵じゃあるまい、誰に教わった」
「そればかりは親分さん」
権八は尻ごみするのです。
「馬鹿ッ」
「ヘエ――」
平次がいきなり
「主人が殺されたんだぜ、おい。お前が泣いて有難がる御主人の総兵衛は、お前の不心得が切っかけになって人手に掛ったとしたら、お前にも主殺しの罪はないとはいえない」
「親分さん」
「さア言え、お前に金を持逃げする智恵をつけたのは誰だ。その人間が下手人だとは言わないが、それからたぐれば、下手人が知れるんだ。お主の敵を討つ気があるなら言えッ」
「私は約束しました。――こればかりは言わないと」
「馬鹿ッ、お前が言わなきゃ、俺が言ってやろう。その智恵をつけたのはお道だろう」
平次の言葉は
「そうまで御存じなら申していいでしょうか、親分さん――実はお道さんが、いつまでそうして奉公していても、伯父さんは
「よしよし、大方そんな事だろうと思ったよ。八、聴いたか」
「ヘエ――」
「市五郎は人相は悪いが手堅い男だ。徳松はなかなかの道楽者だと言ったな」
「その上、町人のくせに勝負事にも手を出して、主人にひどく叱られたそうですよ」
「それで解った。下手人は家の中の者、権八の家出を知ってやった仕事だ。お道は女だからまさかあんな手荒な事はできまい。――お杉の袷を胸へ当てて、返り血を
「親分、行きましょう」
平次と八五郎は広徳寺前へ飛びました。
手代徳松が、主人の
*
「相模屋の一件は片付いたが、あっしにはまだ解らない事がありますよ」
一と月も
「底も
「なるほど」
「いずれ相模屋の後はお杉が継ぐだろうよ。
「お道は?」
「可哀想だが心掛けが悪い。追放かな、島へやるほどの罪かも知れないよ。もっとも徳松が伯父を殺す気があるとは知らなかったらしい」
平次はまた平静な生活に浸って、静かに次の事件を待つのでした。